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第6章 終末の徴

 前回の、

 

 (3)恐怖の裁き

 (4)地の不思議、時の不思議

 

 に引き続き、

 

 (5)ダニエルの予言

  エピローグ 貧病争からの救済

 

 をお送りします。

 本連載は、今回が最終回です。


(5)ダニエルの予言

ガブリエルの言葉

 

 そしてもう一つ、キリストの再臨時期を教える、重要な予言がある。いや、これはもう、時期というより、キリスト再臨の「日付け」を特定する予言だと言ったほうがいいかもしれない。


 それこそは、預言者ダニエルによる終末予言だ。それが記されている旧約聖書の『ダニエル書』は、聖書学者によって「旧約の終わりであり、新約の始まりである」とも言われる。そのような重要性を持っている預言書なのである。


 ときはバビロン捕囚の時代。つまりユダヤ人たちが、バビロニアという国に、捕虜として閉じ込められていた時代のことである。そこにダニエルという、際立って艶美な預言者が現れた。


 そのダニエルが、夕べの捧げものをしていると、天使ガブリエルが彼に近づき、次のように語ったという。

 

 この御言葉を悟り、この幻を理解せよ(中略)
 とこしえの正義が到来し、
 幻と予言は封じられ(=役割を終えるということか)
 最も聖なる者に油が注がれる。
 これを知り、目覚めよ。
 エルサレム復興と再建についての
 御言葉が出されてから
 油注がれた君(メシア、キリスト)の到来まで
 七週あり、また六十二週あって
 危機のうちに広場と堀は再建される。
 

 

 

イスラエル建国から69年後
 
 もちろん、一読しただけでは意味が分からないだろう。しかし幸いなことに、これを平易に説明した文章がインターネット上にあったので、その文章を次に掲げてみたい。執筆したのは、白神じゅりこ、という方である。
 
「......エルサレムを立て直せという命令が出てから、メシアなるひとりの君が来るまで、7週と62週あることを知り、かつ悟りなさい。その間に、しかも不安な時代に、エルサレムは広場と街路をもって、建て直されるでしょう......」


 1948年5月15日は、世界中に散らばっていたユダヤ人が中東にある大昔の祖国に帰ってきたイスラエル建国の日。


 メシアが来るまで7週と62週、つまり「69週」があるとなっている。ユダヤ密教では「神の一週間を一年」と象徴することがある。すると、週を年と換算すれば69年ということになる。


 つまり、エルサレムの回復(イスラエル建国)1948年5月15日+69年=2017年5月15日とは考えられないだろうか。
 
 かくして、2017年5月が訪れ、私が現れた。5月15日は、私が『再臨のキリストによる福音書「テロス第1」』を配信した日である。


 もちろん、福音書シリーズを執筆している間に、私はこの予言に出会っていた。だから、ダニエル予言を出来るだけ有効に活用するため、福音書シリーズの配信を、予言が提案する「締め切り日」に間に合わせようとした。それは紛れもない事実である。


 しかし、そのような人間側の恣意を計算に含めたとしても、ここには間違いなく、限りなく神秘的な「時の奇跡」があると思う。


 ここに再び、時代の更新が為されようとしている。旧約と新約の更新を示唆したダニエル――彼によって、また新約の時代に終わりが告げられ、それとはまた別の時代が幕を開けようとしているのだ。

 


貧病争からの救済

キリスト教が生んだ「貧病争」

 

 エピローグとして語ろう。


 第六福音書(最後の審判)を書き終えたとき、私の心に、ふと浮かんできた言葉があった。それが「貧病争」である。すなわち、貧しさ、病気、争い、のことだ。


 いわゆる「日本の新宗教」は、いずれも、この「貧病争」から人々を救うべく活動していたという。つまり、経済的豊かさ、身体的健康、政治的平和、を求めて、その宗教活動を行っていた訳である。


 そこからは、太平洋戦争後の日本人たちの、「貧しい、傷ついた、争いに倦んだ」姿が透けてみえてくる。
 たしかに、貧困に喘ぐ人、重い病気に苦しむ人、戦禍に疲れた人を見れば、それを助けてあげたくなるのは、人間の自然な感情だろう。ひとつの、愛の顕れとも言えるかもしれない。


 そうした救済の業を、日本の新宗教が、実際に果たせたかどうかについては問わない。


 確かに言えるのは、キリスト教の歴史は、逆に、そうした「貧病争」の景色に満ち満ちているということである。


 本文の執筆終了後に想起されたことなので、本文では、とくべつ強調して語ってはいない。が、確かにそこには、イエスが貧しさの原因となり、教会が病気と争いの原因となった、と書いてある。


 すなわち、イエスは「共産主義思想の淵源」になったし、教会は「不潔と感染症の世界」をつくり出し、また「異端者や女性への迫害」を行った。そのように書いてある。


 これらは、まさに「貧」と「病」と「争」であろう。

 

 


望まれる宗教像

 

 こうした悲しい景色が、救済宗教と呼ばれる、キリスト教を通じて生まれてきたのは、まことに皮肉な話である。


 たしかに「霊的な救い」が、宗教の目的であると割り切れば、現実世界における「貧病争」などは、全く問題ではなくなるのかもしれない。しかし私は、本当に愛に溢れる人ならば、そうはいっても、霊的にばかりではなく、現実の世界においても、何とか人々を救おうとすると思う。それこそが救世主や、その代理人(教会)たる者の、本来的なあり方だと思う。


 そうした姿勢や力量がないこともあって、私はキリスト教に引導を渡した。それが「最後の審判」だった。ある意味、さみしい話ではある。


 しかし、悲しみ続ける必要はあるまい。なぜならそれは、反転的思考を用いることによって、これから望まれる、新しい宗教像を想定するための手助けともなり得るからだ。


 これから望まれる、新しい宗教像――それは、霊的な救済を第一に考えるも、それに加えて「経済的な豊かさ」「心と体の健康」「多くの相違した意見を抱え込める包容力」を呈示できる宗教であろう。要するに、霊的であるのと同時に「貧病争」を克服できる宗教だ。


 それは、実に高いハードルである。高みにありすぎて、私自身も、このハードルを飛び越えられる自信は湧いてこない。


 しかし、そのような宗教が、実際に表れて悪い理由もない。というより、そのような宗教が出現しないのならば、キリスト教が終末を迎えても、そのことにあまり意味がないのである。


 私は「終末」を、ただ終わりのまま放置するために生まれてきたのではない。そうではなく、終わりを始まりに結びつけるためにこそ、この時代に生まれてきたのである。


 そして、オメガをアルファに接続するならば、まさしく前記のような宗教にこそ、結びつけるべきではないだろうか。クリスチャンたちも、きっとそれを望むことだろう。
 
 

 

 


おわりに

おかげさまで、ようやく『最後の審判』の連載が終わりました。


 私の気持ちとしては、このまま他の福音書の改訂にも進みたいところですが、残念ながらそれは、私を導く聖霊の意に沿うことではありません。


 聖霊は、私に新しい作品を書くことを求めました。そして実は、その作品の初稿は、すでに書きあがっているのです。この「おわりに」を書いている前日に、新作の「おわりに」を書きました。そういうタイミングです。


 あとは、小さなセクションごとに推敲をほどこしていけば、新連載として発表することも可能でしょう。次回からは、実際にこの作業を行っていきたいと思います。


 新作のタイトルは『再臨のキリストによる聖遺物』です。この作品は、私の活動に大きな変化をもたらし、読者にとっては驚愕の書となるでしょう。


 ところで昨日、会社で「陳去新来(ちんさりしんきたる)」という文字を観ました。これは「古くなったものは去って行き、新しいものがやって来る」ことを意味します。

 

 一つの連載が終わり、また新しい連載を始めるにあたって、非常に、それに相応しい言葉(吉語)を贈られた気持ちになりました。


奥付



【2018-07-13】最後の審判


http://p.booklog.jp/book/122925


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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この本の内容は以上です。


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