閉じる


前書き

キャラ文庫「俺サマ吸血鬼と同居中」で、最初は嫌味な脇役だった高田ですが、彼の生前の様子と恋人とのその後を書きました。

アルノルトと啓太のその後もちらっと出てきます。

お楽しみいただければ幸いです。

 


一章

『遅くなっちゃった……』

 草間啓太は夜の更けた道を早足で家へと急いでいた。

 啓太が恋人・アルノルトの館で暮らすようになって一年あまり。会社勤めの啓太のために、吸血鬼であるアルノルトは自分では味も香りもわからない人間の食事を用意して、今日も啓太の帰りを待ってくれているにちがいなかった。

 アルノルトの館は駅から歩いて十五分ほどの高級住宅街の中にある。二車線の幹線道路をはずれ、小さな林を通る脇道を抜けて行くと近道になる。

 その林を抜ける道の途中で、啓太は前を歩く人影に気づいた。黒っぽいスーツ姿の背の高い男性だった。

『同じ住宅街の人かな』

 前を行く人の足取りは遅い。急ぎたい啓太はその人を追い抜いていくつもりで、早足のまま進む。

 その人に追いついたのはちょうど林を抜けて、住宅街の中の広い街路に出たところだった。追い抜きざまちらりと横を見て、啓太は「あれっ」と声を上げた。

「高田さん?」

 うつむき加減で歩いていた男が顔を上げる。

「……おまえか」

 それはアルノルトの吸血鬼仲間の高田信孝だった。気まぐれな高田は時々ふらりとやってきては館で過ごし、数日、あるいは数週間でまた出て行く。

「……どうしたんですか……? 歩いてるの、珍しくないですか?」

 アルノルトも高田もコウモリに姿を変えて飛ぶことができる。こんな夜道をとぼとぼと歩いている姿など、今まで見たことがない。

「気分だよ、気分」

 投げやりに高田は答えた。

「俺だって、あえて人間っぽい気分を味わいたいこともあんだよ」

 啓太は目をしばたたいた。

 いつも人を小馬鹿にした薄笑いがトレードマークのような高田の顔に笑みがない。高田はひどく疲れているように見えた。

 改めて見てみると高田は黒いスーツ姿だった。ネクタイも黒い。

「……もしかして、高田さん、お通夜かなにかの帰りですか?」

 悪いかなと思いながらも尋ねてみたら、高田は口元にようやく笑みを浮かべた。

「なに、線香くさい?」

「いえ、そんな……」

「……通夜だよ。真昼間の葬式には出れねーから」

「……どなたが……亡くなられたんですか? いえ、答えたくないなら……」

 聞くのも悪いが、聞かないのも悪い気がした。

 高田は肩で大きく息をついた。

「殺人犯の葬式だよ」

「え!」

「……つっても……死体はねーし、事件にはならなかったんだけどな」

 啓太ははっとした。もしかしたら……。

「……俺をはねたヤツが死んだんだよ。……まだ五十ちょっとだったのにな」

 いつもの高田の声とはちがい、そう言った声は沈んで痛ましげだった。

 高田が恋人だった男にうとまれ、バイクに乗っているところに車をぶつけられて殺されそうになったのだとは聞いたことがある。瀕死の高田をアルノルトが救い、吸血鬼として甦らせたのだとも。

 なら、高田は昔の恋人の通夜に出て来たのか。

「……俺が殺しちゃったのかもしんないなー」

 高田の低いつぶやきに、啓太はぎくりとくる。

「……ど、どういう意味ですか……高田さん、まさか……」

「襲ってねーよ。やめてくんない? そういう疑いの目で人を見るの」

「……すみません」

 高田は深いため息をついた。やはり常の高田らしくない元気のなさだ。

「……おまえ、先に帰んな。アルノルトが待ってるだろ」

 ややあって、高田にそう言われた。「でも」と言いかけて、啓太は気づく。高田はひとりになりたいのだ。

「じゃあ……お先に」

 軽く会釈して、啓太はひとり先を急いだ。

 自分を殺そうとした人間。だが、高田はその死を喜んではいないように見えた。いや、むしろ――。

『悲しい、のかな』

 高田はもしかしたら、その人のことがずっと忘れられなかったのではないかと啓太は思った。

 

 

   *    *    *

 

 

 高田信孝が藤崎隆一と出会ったのは高校の部活だった。バレーボール部に所属していた高田が二年生になった時、新入部員として一年下に入ってきたのが隆一だった。

 当時、高田は長身と運動神経のよさで、三年生のアタッカーを抜いて部のエースとして活躍していた。三年生には「スポーツなんだから結局は実力でしょ」と敬意を払わず、一年生には「下級生なんだからえらそうにすんなよなー」と先輩風を吹かす、嫌なエースだったが。

 それでも高田が一目も二目も置かれていたのは、その攻撃力が図抜けていたからだ。それまで公式戦では県大会出場が悲願だった弱小部を県大会準優勝まで導いたのは高田のスパイク力があればこそで、それは顧問も部長も、誰もが認めていた。

 高田は部でのわがまま勝手を許されていたようなものだ。

 上級生には「生意気だ」と嫌われ、同級生の半分にも「自己中」「傲慢」と嫌われたが、下級生と同級生の残り半分には「強い」「カッコいい」と好意を持たれた。

 自分は嫌われるか憧れられるかどちらかだというのを、高田はもうその頃からしっかりと意識していた。

 自分でも嫌な性格なのはわかっていた。

 誰に嫌われても平気で、「文句があんなら俺より点を取ってみせてよ」とせせら笑ったし、憧れの目で見つめられれば、「俺の言うことを聞け。気に入ったら可愛がってやるよ」と傲慢に振る舞った。

 実力はある。顔もいい。スタイルもいい。

 高田には恐れるものはなにもなかった。

 そんな高田を「先輩、先輩」と慕ってきたのが隆一だ。

 入部当時、隆一は部の中で一番背が低かった。顔も童顔でヒゲも薄い。部の二年三年の中には「あいつ可愛い」と噂する者もいたが、高田は「男が可愛くてもしょうがないじゃん」と思っていた。

 それでも、練習中でも試合でも、高田がスパイクを決めるたびに誰より大きな声で声援を飛ばし、「先輩、タオルどうぞ!」「先輩、ポカリの予備、ありますよ!」とマネージャーよりもこまめに気を配ってくれる隆一が憎いはずもない。

「あー腹減ったよなー。藤崎、パン買ってきてよ」

 二十四時間いつでも開店しているのが売りのコンビニエントストアができたばかりの頃だった。近くのパン屋ではなく、わざわざ少し遠くのコンビニへと走らせたり、

「藤崎ぃ、俺のカバン運んどいて」

 とパシリに使ったりしても、隆一はうれしそうにニコニコしている。ばかりか、

「おう、ありがとな」

 と笑顔を見せれば、ぽっと頬を染めたりもする。――憎いはずがなかった。

 男に興味はなかったが、高田はわざと隆一に触れた。プレーを褒める時にわざと髪をくしゃりとやり、すれちがいざまに軽く肩に手を置いた。

 強くてカッコいい憧れの先輩に親しげな態度をとってもらって隆一が喜んでいるのが、高田にはなぜだか手に取るようにわかったからだ。天性のタラシの才能だろうか、隆一の目をのぞき込んでにやりと笑ってやれば隆一がドキドキするのを高田は知っていた。

 だから。

 高田はわざと隆一の見えるところで、当時の彼女といちゃいちゃした。隆一が来るように仕向けた体育館倉庫で彼女のセーラー服を脱がせ、ブラジャーを押し上げて白い乳房を揉んだことさえあった。

 そのあと戻った部室で、うつろな目をして顔色の悪い隆一を見た時の快感。

「あれーどした、藤崎? 顔色わりぃじゃん?」

 薄ら笑いで顔をのぞき込むと、隆一はうつむいて視線をそらした。――ぞくりとした。

 自分に向けられる好意を邪険に扱うのが高田は好きだった。

 若く力のある雄の傲慢さと残酷さを十代のうちから己の中に持っていた高田だった。

 

 

 飴と鞭の使い分けが高田は上手だった。

 隆一に彼女といちゃいちゃしているところをわざと見せて落ち込ませ、次の日には、

「おまえ、セッター志望なんだって? 居残り練、つきあってやろうか」

 と声をかけた。

「え! いいんですかっ!」

 部のエースからの申し出に隆一が目を丸くする。

「あ……でも、先輩、疲れちゃいませんか」

「なに言ってんだ。試合だったらフルセット出なきゃいけないんだから、おまえにつきあうぐらいの体力なかったら困るじゃん」

 わざと少し怒った顔で隆一の腹にこぶしを当てるマネをした。

「え……じゃあ、お願いしていいですか? うれしいです、先輩に練習見てもらえるなんて……」

 隆一の頬がピンク色に染まるのを見て高田は満足だった。

 そんなふうに――パシリに使っては優しくし、スキンシップを多くとっては彼女と仲のいいところを見せつけて落ち込ませ、練習では誰より厳しく叱り、居残り練習には自分からつきあううちに……徐々に隆一の瞳にはより濃く、深い色がはっきりと浮かぶようになった。

 先輩にかまってもらえてうれしいという気持ち、もしかしたら自分はちょっと特別なのかもしれないという期待、ただ単に出来の悪い後輩を心配してくれてるだけなのかもしれないという不安、先輩の彼女がうらやましくてねたましくて、でも男の自分では絶対にその立場にはなれないという絶望、先輩にもっと触れてほしい、近くにいたいという渇望――憧れから、もっと熱くて切実な恋心が育っていくのを、高田は隆一の視線から敏感に感じ取った。

 それは高田をいい気分にさせた。

 応えてやる気はないままに、高田は隆一をかまい続けた。

「……先輩は……」

 時々、隆一はなにか言いかけてはやめる。決まってふたりきりの時だ。

「ん?」

 高田はことさらに優しい笑みを浮かべて隆一を振り返る。

「いえ……なんでもないです」

 無理に笑顔を作る隆一が本当はなにを言いたいのか、わかっていて気づかぬふりをするのが、高田はおもしろかった。

 いくら想いを募らせても男同士だ。リスクのほうがはるかに高いのに、告白する勇気が隆一にあるとは思えなかった。相手が踏み込んでこれないだろうと見切っての挑発を高田は繰り返した。安全圏から引き寄せては突き放す。そのたび、揺れる隆一の瞳は高田の自尊心を満足させた。

 残酷な遊び。

 それでも、そのままふたりの距離が少しばかり特別に親しいというだけの部活の先輩と後輩のままだったら……隆一は高田への気持ちを一時の気の迷いと片付け、高田もちょっと可愛い後輩がいたなあ程度の記憶になっていたかもしれない。あいつには悪いことをしたと後悔することもあったかもしれない。

 が――不安定で、不器用で、なのに瞬間に沸騰する熱量だけは大人よりもある十代の後半というその年齢は、その危うい均衡をそのままにしてはおかなかった。

 コトが起きたのは、高三になった高田が夏の大会を最後に引退して、しばらくのことだった。

 

 

 高田は自信家だった。バレー部では三年間エースだったし、身長もあってスマートでハンサムで、成績だって特別にがんばらなくても中の上で、人生において自分が遠慮しなければならないことなどないと感じていた。

 その年、バレー部は県大会のベスト8の成績で、昨年の県大会準優勝には及ばないものの、悪くない成績だった。むしろ、それまでは県大会に出場すらかなわなかった弱小校が三年連続で県大会に出場し、一年目こそ三回戦負けだったが、二年目に準優勝、三年目にベスト8の成績を納めることができたのは上出来でさえある。それは自分の活躍があればこそで、それは評価されてしかるべきだと高田は思っていた。実際、校長も教頭も顧問も手放しで高田を褒めたし、部活の成績が全校生徒の前で発表される朝礼の時には高田は部長と並んで壇上に立ち、校長から「バレー部の素晴らしい成績はエースである高田信孝君の活躍によるところがまことに大きい」と紹介されもしたのだ。

 夏休みが終わり九月に入ると、大学の推薦話が出るようになる。高田は当然スポーツ推薦がもらえるものと思っていた。だから引退後も受験勉強に本腰を入れる気になれずふらふらと遊んで過ごしていたのに、担任から十月も近くなってから、スポーツ推薦は無理だと話があった。

 担任の話によれば、高田が希望するような有名校への推薦には最低でも県大会優勝の実績が必要で、スポーツ推薦という枠を外して単に学校から推薦を出すことはできるが、それには成績が足りないという。ランクを落として推薦を受けるか、それともこれから半年しっかり勉強して入試にかけるか、考えておくようにと言って担任は話を締めくくった。

「なんだ、それ」

 まさに高田の気分はその一言だった。なんだ、それ。

 つまらないことは続くもので、つきあっていた彼女からは別れたいと切り出された。

「あたしもそろそろ本気でやんないと、受験やばいし。いつまでもこんなことしてらんないから」

「は? こんなことってなんだよ……」

「ノブはバレーがあるから、大学、心配ないけど、あたしはなにもないから。保母さんの資格取れる短大に行きたいんだよね」

 バレーでは進学できないと告げられたばかりだったが、高田はそれを素直に口にできなかった。別れたくないとも言えない。そんなみっともないことはしたくない。

「あーそう。わかったわ」

 最後にもう一回だけヤリたかったが、それを口にしたら馬鹿にされるのもわかっていた。

「くそっ」

 受験勉強なんかしなくてもそこそこの大学に行けると思っていた。ガツガツしなくてもエッチをさせてくれる彼女もいた。それが両方ともなくなった。

「くそっ、くそっ」

 どれほど地面を蹴りつけても鬱憤は晴れない。

 高田は久しぶりに部活に出てみることにした。練習をつけてやるという名目で後輩を思うさまいたぶれば、少しは気も晴れるだろう。

「おら、反応遅いぞ! なにやってんだ、カス! 死ぬ気で拾えよ!」

 レシーブ練習では暴言を吐き散らし、次々とボールを打った。低い位置へ強くボールを出せば後輩たちはおもしろいように地べたを這う。

「おまえら、三年いなくなってたるんでんじゃねーぞ!」

 どれほどひどい言葉を投げつけようと、「はい!」「すんません!」「ありがとうございます!」しか返ってこない。反抗のできない立場の後輩を思う存分いたぶって、高田は憂さを晴らした。

 それでもモヤモヤと躯の奥底になにかがたまるのは、女がいなくなったという事実のせいだ。

『ちぇ。最後にもう一回、やらせてくれてもいいのによ』

 まだ残る憂さをどうやって晴らそうとイライラした。そこに、

「先輩、今日はありがとうございました」

 声をかけてきたのが隆一だった。隆一は今年、キャプテンに選ばれている。

「……やっぱ先輩が来てくれると、みんなしゃきっとするっていうか……」

 上気する目元。照れを含んだ声音と表情に、「そういえばこいつ、俺のことが好きだったんだっけ」と思い出す。

 高田は改めて隆一を見た。背は一八〇を楽に越える高田から見れば低いが、入部時よりは伸びているのだろう、一七〇はありそうだった。肩幅も広くなったし、全体にしっかりした。顔も、まだ中学生っぽかった一年前を思うと頬が引き締まって大人びてきている。それでも、色白で柔らかな雰囲気のせいだろうか、隆一は男くさくは見えなかった。甘く整ったハンサム顔は女の子にもてるだろうと思える。

『こいつも女とセックスすんのか』

 その想像は高田の気分を悪くさせた。――邪魔してやりたい。

「最近の練習、実際のとこどーなん? ま、俺ら引退したんだし関係ねーけど」

「んー……やっぱり高田先輩みたいなストライカーがいないと……俺がもっとうまく、みんなのやる気を引き出せればいいのかもしんないすけど」

「そんなの、練習のやりようじゃん?」

 相談に乗るフリで、部室にふたりだけで残るように仕向けた。

「お先に失礼しまーす」

 最後のひとりがドアを閉めて出て行ってから、高田はわざと着替える途中の手を止めて、上半身裸になってみた。

「その……得点力が……だから、あの、一年生も……」

 とたんにしどろもどろになり視線をさまよわせる隆一に、高田は意地の悪い笑みを浮かべた。

「――……去年だけどさあ」

 舌なめずりするような気分で、おもむろに爆弾を落とす。

「おまえ、見てなかった? 俺が彼女と体育館の倉庫でヤッてるとこ」

「……え……」

「見てたろ。扉少し開いてたもんな。あ、誰か来たなーと思ったもん。あれ、おまえじゃね?」

 明らかにうろたえる少年を、さらに追い詰める。

「おまえ、いっつもイヤそうだったもんなあ、俺が彼女連れてくると。……の、割には、あん時はいつまでものぞいてたよな。なに、興奮した?」

「そん……そんな……」

 顔を真っ赤にして泣きそうな後輩の前に、高田はしなやかな裸体をさらして立った。

「藤崎隆一くんはぁ、なにに興奮したのかなあ? 先輩の彼女のおっぱい? 女の子の喘ぎ声? それともぉ、もしかして、女の子のおっぱい揉んでたおっきい手とか? 俺の声とか? そっちに興奮してたりして?」

「…………」

 目を潤ませ、もう半泣きになっている後輩はじりじりとロッカーへと後ずさる。高田は長い腕を伸ばすと自分の躯とロッカーの間に隆一の躯を囲い込んだ。

 耳に顔を寄せ、今度は低くささやく。

「……なあ、答えろよ。どっちがうらやましかったんだ? おっぱい揉んでる俺? それとも俺に可愛がられてる彼女?」

 隆一はぐっと歯を食い縛り目を閉じた。

「……ご、ごめんなさい、ごめんなさい!」

「なにあやまってんのぉ?」

「俺……俺……」

 隆一の反応に、高田は自分の見込みが正しかったのを知る。男の躯にも男との行為にもなんの魅力も感じなかったが、顔を真っ赤にして今にも震えだしそうな隆一の姿には背中がぞくぞくした。獲物をいたぶる喜びに、高田はさらに隆一へとかがみ込んだ。

「もしかして隆一君はぁ、男が好きなヘンタイさんですかぁ? 先輩である俺のこと、いやらしい目で見ちゃってますかぁ?」

「あ……」

 顔を上げた隆一の瞳に浮かぶ絶望の色。高田はにんまりと笑いかけた。

「ご、ごめんなさいごめんなさい! 俺、俺、あの……」

 赤かった顔が今はもう青ざめかけている。

「は、初めから……あきらめてるから……あ……そんな、なにも……」

「へえ?」

 あきらめている、なにも期待などしていなかった、そう切れ切れに弁解する後輩に高田は舌なめずりした。

「じゃあ、なに? 俺にさわられたいとか思ったことはないんだ? ……こんなふうにさあ」

 長い指で隆一のまだ丸みの残る頬を撫でる。手を耳たぶまですべらせて、軽くつまんだ。

「ア……」

 それだけでびくりと肩をすくめる反応が初々しい。

「俺に、こんなふうにさわられたいって思ったことはないんだ?」

 いったん青ざめかけた顔に、また血の色が上がってくる。

「せん、ぱい……」

「なあ……」

 顎をすくうようにして顔を仰向けさせ、唇をぎりぎりまで近づけた。

「俺にキスされたいなあとか、思ったことない?」

「…………」

「ない?」

 問い詰めると、蚊の鳴くような声が「はい」と答えた。

「『はい』じゃわかんないなあ。俺とキスしたいの、したくないの、どっちなの」

 蚊が鳴くよりさらに小さなささやきが、「したい、です」と答える。

 そこまで言わせておいて、しかし、あと数センチで触れる唇には触れてやらず、高田は、

「じゃあさあ」

 と質問を変えた。

「夜とか、俺のこと考えてオナッたりした?」

「……え」

「見せてみろよ。自分でヤッてるとこ」

「……そん……そんな……」

「人をオカズにしてたんだろ? だったら見せるぐらい、いいんじゃね?」

「…………」

 隆一は硬く躯を強張らせて動かない。気は長いほうではない。高田はロッカーの扉をガンと蹴りつけた。

「やれよ!」

「……ッ……」

 顎が胸につくほどうつむき、隆一は自分のハーフパンツに手をかけた。ショートランを繰り返したあとのようにその肩が乱れた息に上下する。

「っ……」

 思い切ったように、隆一はがっと自分のハーフパンツをずり下ろした。一瞬で剥き出しになった局部は、隆一本人同様、うなだれている。

 そこへ、隆一はおずおずと手を伸びした。

「……ふ……ッ……ッ」

 隆一の茂みは淡かった。淡い茂みの中からにょっきり伸びたものを、隆一は自分の手で握り、こする。他人の自慰行為など、目にするのは初めてだ。高田は息を荒げる隆一の性器が、隆一自身の手の中でピンク色した先端をのぞかせるのを不思議な興奮を覚えながら見つめた。

 同じ男のものだ。興奮などするわけがないと思っていたが――。

 肩を震わせて、逆らえない命令に自分で自分を慰める隆一。乱れた呼吸、真っ赤になった首筋、その手の中でくちくちと湿った音を立てだすピンク色のペニス――見ていると、腰にじわじわと熱が溜まり、腹の底から獰猛で熱いものが湧いて躯中に満ちてきてしまう。

「……やべえな……」

 高田はつぶやいた。

「おまえ、可愛いわ。手伝ってやる」

「え……!」

 驚いて顔を上げた隆一の唇に荒々しく唇を重ねる。自身をつかんでいた隆一の手を外させて、自分の手で隆一の雄を握った。

「え、あッ……」

 目を丸くしているのを細めた目の間から見ながら、高田は隆一の唇を吸い上げた。手も動かす。男の性器をさわるのはもちろん初めてだったが、嫌悪感などまるでなかった。与えられた刺激に素直に反応して硬度を増す肉棒が、いっそ可愛くさえあった。

「んん……ん……ッ」

 ゆるんだ唇の間に舌を捻じ込む。ここは男も女も変わらない気のする、柔らかくてなめらかな口腔を舐めまわした。

「んふ……ンッ」

 熱っぽいキスに、おそらくは初めてだろう他人の手による愛撫に、隆一が昂ぶっていく。その興奮と快感の高まりを感じ取って、高田の躯も熱くなる。

「……いいよ、いけよ」

「あ、せんぱ……先輩……」

 肩にすがってくる隆一が可愛い。

「あ、あ、あ、……だめ、で、出ちゃう……ア!」

 白濁を吹き上げる瞬間に、高田の手の中のペニスがドクドクと震えた。自分の手でいかせたという満足感に、高田は吐息を漏らした。

「先輩……」

 潤んだ瞳で見上げられる。

「……気持ちよかったか?」

 隆一は素直にこくりとうなずく。その素直さを褒めてやるような気持ちで、高田はもう一度隆一の唇に口づけた。

 手を伸ばしてベンチの上にあったティッシュボックスを取り、ティッシュで手をぬぐう。

「あ……ごめんなさい、俺……」

 いまさら、先輩の手の中に吐精してしまった事実にはっとしたのか、隆一があやまってくる。

「いや、いいけどさ……」

 また両腕で隆一を囲い込んで、高田はそっと自分の唇を舐めた。

「おまえだけ気持ちいいってのは不公平だよな」

 とまどって見上げてくる瞳にニッと笑う。

「な……俺のもしてくんない? 口で」

「…………」

「イヤならいんだけど。女なんていくらでもナンパできるし」

 案の定、だった。傷ついた色を一瞬瞳に走らせて、隆一はロッカーと高田の間の空間でしゃがみ込んだ。

 その手が高田のハーフパンツにかかった。

 

 

「……ふッ……う、ん……ん……」

――こんなに興奮するものだとは思わなかった。

 嫌がる彼女にフェラチオしてもらったことはあるが、ほんの数秒、唇のあいだに挟むか挟まないかで、すぐにやめられてしまった。

 なのに隆一は、部活を終わったばかりでシャワーも浴びていない高田の雄根を口いっぱいに入れて、つたないながら舌を使ってくる。不慣れでぎこちない口淫だったが、自分のモノを咥えて懸命に愛撫しようとする同性の姿には、それこそ禁断の仄暗い歓びがあった。

「藤崎……いいよ……めちゃ気持ちいい……」

 上から満足気にささやくと、隆一はさらに深く高田を呑み、唇と舌を使おうとする。

『これ、女よりいいかも……』

 気持ちのよさに目を閉じかけて、高田は隆一がもぞもぞと落ち着かなげに腰を揺らしだしたのに気づいた。

『……なんだ?』

 隆一の頭が邪魔で見えにくいが、隆一の手が片方、己の股間へと伸びているように見える。

 気づいた瞬間、かっと全身に熱感が走った。股間にも一気に血が集まり、痛いほどに張る。

「……ん!」

 口の中で体積を増したものに、隆一の眉間にしわが寄った。――それにさえ……。

「なあ……」

 自分の声が興奮で震えているのを聞きながら、高田は隆一の頭に声を落とした。彼女相手にこんな、頭の芯がくらくらくるほどの昂ぶりを覚えたことはついぞないのに。

「……おまえ、俺のしゃぶって気持ちいいの……?」

 隆一がはっとしたように固まる。

「勃ってきてんだろ、また」

 隆一の頭を押しやる。ぷるんと、高田のペニスがその赤い唇から飛び出る。

 案の定、丸見えになった隆一の股間のものは、また力を得て上に向いていた。

「ご、ごめんなさい……ごめん……」

 隆一はあわてて自分の股間を手で覆おうとする。

「いいよ、あやまんなくて……気持ちよかったんだろ? 好きなんだろ、俺のコレ……」

 うつむく隆一の脇に手を入れて立たせた。とまどったように瞳を揺らす隆一に後ろを向かせてロッカーに手を突かせる。

「そんな好きならさ……やるよ、これ。おまえん中に……」

「え、え、え、先輩、なにを……あ!」

 細い腰をつかんで引き寄せ、猛り立った剛直を尻の双丘の間に押し付けた。

「ほら……咥えさせてやるよ……」

「えっ、む、無理、そんな……アッ!」

 当然ながら男に抱かれた経験などない隆一のソコは固く締まっている。いくら高田のモノが唾液でたっぷり潤っていても、挿入は容易ではなかった。

「おまえ……もっと脚ひらけよ……腰出して……」

「先輩、無理、無理です! い、いたッ! い、痛いッ!」

 痛いと訴えるのを無視して、強引に、力任せに、高田は自らを隆一の体内へと押し込んだ。

「痛い痛い! んぐああッ! ああッ! 裂け、裂ける、やめ、も、やめ……ッ、あああ!」

 制止の声も無視した。

 隆一の秘孔を貫く自身が、食いちぎられそうなほどきつく締め付けられていっそ痛いほどなのは感じながら、そんな狭い肉の隘路を穿たれている隆一の苦痛がどれほどのものか、思いやるだけの優しさも余裕も高田にはなかった。

――いや。隆一の訴えている苦痛が本物だと感じられるからこそ、よけいに興奮しているのかもしれなかった。

「……すげえ……すげえよ、おまえ……すげえ」

 女の柔らかな躯や肌とはまったくちがう。自分と同じ、攻撃的で硬い躯を征服し、本来、男の快楽に使われるべきではない器官を犯していることに、高田は頭の中が真っ赤になるような興奮をおぼえる。

 こんな昂ぶりは今まで知らなかった。

 同性を屈服させて自由にする、圧倒的な快感。

「おまえ、すげえ」

 うわごとのように繰り返しながら、高田は隆一を犯し続けた。

 

 

 高田がようやくその手を放すと、隆一は崩れるようにロッカーの前に座り込んだ。その剥き出しの尻の下に、ぽたぽた垂れた赤い血が溜まる。

 このまま黙って帰ろうかと、最初に思った。

 男に襲われたなどと隆一は誰にも訴えないだろう。もう部活も引退しているし、学年もちがうし、顔を合わせる機会はほとんどない。このまま知らんぷりしても大丈夫なはずだった。

 だが、うずくまり、肩を震わせている隆一を、なぜだか高田はそのままにしておくことができなかった。

 あとから、本当にあとから思えば、そのまま放置しておいたほうが、隆一のためだったかもしれないが。

 高田はかたわらに落ちていたティッシュボックスから数枚のティッシュを引き出すと、隆一の出血している部分に押し当てた。かがんでいる上体をそっと引き起こし、脚のあいだに隆一を座らせて、自分の躯に隆一をもたれかからせる。

「ごめんな……痛かったな」

「せんぱ……」

 隆一の甘く整った顔が、涙で汚れている。その目尻を指でぬぐってやりながら、高田は「ごめんな」と繰り返した。

「おまえ、可愛いから……俺、夢中になっちまって……」

 褒める言葉に隆一が黙ってうつむく。その表情がいくぶんやわらいだのを見て、高田は続けた。

「おまえ、痛がってんのわかってたのに……なんか、俺、止まんなくてさ。……俺さ、おまえのこと、ずっとただの後輩だと思ってたけど、もしかしたらちがうんかな。ただの後輩に……こんなこと、したくなんねーよな……」

「先輩……」

 赤くなった目が丸くなっている。首を伸ばして、高田は後ろから隆一の唇にキスした。

「おまえ、可愛いよ」

 高田と隆一の関係はその日から始まった。

 初めてのセックスがそうだったように、隆一は高田が強く出ると嫌と言えない、言わない。好きな相手に求められるのがうれしくて、できればそれに応えたいと思っているのが、その表情や態度から滲み出る。

 高田は隆一の自分への好意をいいことに、受験のストレスと鬱憤を彼にぶつけた。

 彼女相手なら踏まなければならない面倒くさい手順が、隆一相手には必要ない。夜、公園に呼び出して、「会いたかった」とか「おまえがどうしてるか気になって」とか適当な言葉を口にすれば、隆一は顔を赤らめながらかんたんに高田の言うことを聞いてくれる。公園の公衆便所に誘い、「男同士なのに、どうしておまえ、こんな可愛いのかな。やりたくてしょうがないの、俺がおかしいのかな」などとささやけば……隆一は落書きだらけの壁に手をついて、下半身を高田の好きにさせてくれた。

 一方的で勝手な関係。

 初めてベッドの上でセックスしたのは、高田が大学生になってからだった。初めてが汗くさい部室で立ったまま、その後も公衆便所での犬のようなセックスばかりだったが、隆一は一度も文句を言わなかった。

 公衆便所でのセックスが嫌になったのは高田のほうだ。受験のストレスがなくなってみると、汚い壁に手をついて尻を差し出している隆一の後ろで腰を振る自分が、どうしようもなく低俗で下品に感じられるようになったのだ。

 大学生になってバイトを始め、自由になる金もできた。隆一への思いやりなどではなく、自分の快楽のために、高田はラブホテルを使うようになった。

 それを隆一は高田が自分を大事にしてくれるようになったと解釈したようだった。

「男同士なのに……先輩、いいんですか? もし誰かに見られたら……」

 ラブホテルに男同士で出入りするところを知り合いにでも見られたら言い訳ができない。そう心配する隆一に、高田は笑ってみせた。

「別にいいじゃん。わりぃことしてるわけじゃないんだしさあ」

 それは高田の本心からの言葉だった。

 隆一は高田がそう言うと、ベッドにうつぶせた顔を上気させ、目を潤ませた。自分との関係を高田が恥じずにいてくれていると思ったらしい。

 その隆一の感激は半分妥当なもので、半分は的外れだった。高田は「誰に見られてもいい」ほど隆一を大切に思っているわけではなく、自分がセックスしたい相手とセックスしたい時にそういう場所を使うのを誰にも遠慮したくないだけだった。

「――先輩」

 そうやってラブホテルを使うようになって何度目か。隆一は甘いマスクに真剣な表情を浮かべて、隣の枕に頭を乗せている高田を見つめた。

「俺……先輩のことが好きです」

 その態度から当たり前のように思っていたが、考えてみるとはっきりそう告げられたのは初めてだ。

『うわ、めんどくさい』

 まずそう思った。

 そうやって改めて口にしてくるということは、今の「やりたい時に会ってやる」という関係に、隆一がなにか「約束事」を持ち込みたいのだろうと感じたのだ。恋人だとか、つきあっているだとか、はっきり言葉にしたことは一度もないし、したくもなかった。

「あの……」

 隆一は口ごもり、恥ずかしげに唇を噛む。

「……なんだよ」

 警戒だけは怠らず、表面はあくまで優しく高田は尋ねた。

「先輩は……あの……俺のこと、どう思ってますか」

『きたきたきた』

 内心のため息をつきたいような気持ちは押し隠し、高田は上体を起こすと隆一の上に覆いかぶさった。

「本気で聞いてんの、それ。男同士でさ、こんなことしてんのに、わかんないかな」

「先輩……」

「俺、ゲイじゃねーし。男相手に勃つとか、おまえ以外にありえねんだけど」

 それは本当だった。隆一以外の男を見て抱きたいと思ったことは一度もない。ただ、女は別だ。あと腐れなくやらせてくれる相手がいれば、そのチャンスは逃さずにきた。

「なに、不安?」

 逆手にとって、自分からそう聞いてみる。隆一の瞳が揺れた。

 やがて、「ううん」とその首が振れる。

「……おまえ、可愛いよ」

 隆一が本当に望んでいるのは「好きだ」という言葉だとわかっていても、どうしてもそれは口にしたくなかった。自分の絶対の優位を手放したくない。代わりの言葉を思い切り優しくささやいて、唇を寄せる。

「…………」

 隆一の口が何か言いたそうに開きかけ、そして何かを飲んで閉じる。

 その唇に高田は自分の唇を重ねた。


二章

 

 高田に一年遅れて隆一は大学に進学すると、地元であったにも関わらず独り暮らしを始めた。

 その時初めて高田は、隆一の母親が後妻であり、隆一の弟妹たちと隆一は母親がちがうのを知った。

「おまえ、苦労してんだな」

 何気なくそう言うと、隆一は笑顔を作りながら涙を浮かべた。

 だからといって、高田は隆一に優しくしてやらなければならないとも、優しくしてやりたいとも思わなかった。すぐに高田は隆一の部屋に入り浸るようになったが、それは隆一の寂しさを埋めてやりたいなどという殊勝な思いからではなく、メシとフロとエッチが一番手軽にそこにそろっているからに過ぎなかった。

 大学に入ってからバンド活動にのめり込むようになった高田はバイトで稼いだ金はそちらに注ぎ込むようになっていた。実家暮らしで親に帰りが遅いと文句を言われたり、あれこれと生活のチェックを受けるのはうるさいし、かといって、自活できるだけの余裕はないところに、隆一が独り住まいを始めたのだ。親に干渉されず、好き勝手できる隆一のアパートは高田には魅力的だった。

 落ち着いて考えてみれば、まだ下に弟妹のいる隆一が実家からもらっている仕送りなど、たかが知れていると想像がついただろう。隆一ひとり分の仕送りの中で、二倍になる食費や増える光熱費をやりくりするのだ。隆一に金銭的な負担をかけているとすぐにわかることなのに、高田は嫌なことは考えなかった。

 高二で初めてエッチをしてから、一年以上たつ。

 隆一の躯は男に抱かれる快感に目覚めていた。高田が小さな乳首をいじってやれば目を潤ませ、前を愛撫してやれば、切なげに腰を揺らす。

「どうした? 後ろ、いじってほしいの?」

 わざと意地悪く確認すると、真っ赤になってうなずく。

 週に一度は必ず呼び出して相手をさせていたから、初めての時には高田に犯されて出血していた場所も男の侵入にすっかり慣れ、もう血を流すこともない。硬く大きく漲った雄で躯の中心をずぶずぶと貫けば、喉をそらしてよがり、高田の抜き差しに合わせて腰を振って、高田が触れてもいないペニスからひとりで快楽を吹くことさえあった。

『可愛がってやってんだからいいじゃん』

 食費も出さない、家事も手伝わない。自分の趣味のバンドには熱心になり、時には連絡もせず二日も三日も帰らない。ようやくポケベルがビジネスマンのあいだで使われだした程度の頃だ。高田がその気になって誰かに伝言を頼むか、隆一の部屋に電話をかけなければ、隆一から高田の安否を確認する方法はなかった。

 ところが高田は、そんな身勝手が許されることを申し訳なく思うどころか、『感謝しろよ』ぐらいの気持ちでいたのだ。

 隆一から食費を出せの、光熱費を負担しろのと言われたことも一度もなかった。ただ、

「もし……先輩もお金を出してくれたら……広い部屋に移れるんだけど」

 と、遠慮がちに提案されたことはあった。

 高田は疲れているとベッドをひとりで使う。自分があとからもぐりこんでおいて、「暑いからおまえ、下で寝ろよ」と隆一を蹴りだし、隆一は床の上で毛布にくるまらせておく。

「もう一部屋あれば……ベッドも別々に置けるし……」

「はあ? んな金、どこにあんだよ」

「…………」

「スタジオ借りんの、いちいち金がかかんだよ。知ってるだろ、俺が金ないの。今度、デモテープも作りたいってみんな言ってるしさあ」

「そ、だね……うん、部屋は別々にあったほうが……先輩もゆっくりできるかなと思っただけだから。先輩がいいなら……」

「俺はいいよ」

 そう言って高田は隆一の肩を抱き寄せた。唇を吸う。

「おまえとだったら、全然疲れないし。なんつーか、自然体でいられんだよ。……おまえが俺とひとつ部屋じゃ気詰まりだって言うなら……」

「そんな! そんなことない!」

 すぐ首を横に振った隆一の目が真剣だった。

「俺、俺……先輩といられるなら……俺……」

 恋愛は惚れたほうが負けだという。かんたんに自分が不利になるカードを高田にさらす隆一に、高田は濃厚な口づけをしてやる。

 高田が大学に入ってバレーボールをやめてしまったのを隆一はとても残念がったが、高田がベースを務めるバンドのライブには喜んで来てくれていた。バレーをしている高田を見つめていた瞳と、ステージに立つ高田に向ける瞳は同じだ。強い憧れと賛美。「こいつは俺に惚れている」と、高田には絶対の自信があった。

「……シャワー浴びてきな。……今夜はバイト、ないんだろ?」

 低くささやいて、横目で瞳の奥をのぞき込むと、隆一はそれだけで頬を赤らめる。

「……うん」

 喉声でうなずいて立ち上がる、その腰つきがもう、男に抱かれる期待に柔らかい。

 自分に惚れている男を、同性同士だというのに可愛がり、十分に抱いてやっている。部屋で世話になるぐらいその見返りとして十分だろうとさえ、高田は思っていた。

――自分が悪いことをしているという自覚は、高田には微塵もなかった。

 隆一がインフルエンザにかかってしまったことがあった。高田が出かけようとすると、隆一は「なんか寒気がするんだ。今日は早く帰ってこられない?」と聞いてきたが、「練習のあとバイトだから」と、すげなく返した。実際にはその日、バンドの仲間に紹介された女の子と三度目のデートの約束があったのだ。今まで二回のデートで手を握っても腰に手を回しても嫌がらていない。今日あたり、夕飯をおごればホテルに誘えると高田は踏んでいた。

 期待通り、駅前の洋食屋で食事をすませたあとにホテル街へと足を向けても彼女は嫌がらなかった。直前になって拒否されることもなく、すんなりホテルの入り口をくぐる。ベッドまでもスムーズだったが、口での奉仕を求めるとあからさまに顔をしかめて嫌がり、そのくせ、自分は大股ひろげて「来て」とねだった。

 隆一なら求めれば必ず口で愛撫してくれる。関係をもってもう数年になるが、行為のたび恥ずかしそうに目元を赤くして目を伏せる。それが逆にそそるから、高田はわざと腰を高くかかげさせ、尻の奥まで丸見えになるポーズをとらせたり、自分で膝を持ち、脚を開くように命じたりする。求めているのに恥ずかしい、その羞恥に「やめようよ……恥ずかしいよ」と消え入りそうな声を上げるのが可愛くて、愉しい。

 案の定、女のソコはゆるく、わざとらしい嬌声も興ざめなばかりだった。

『二度はねーな』

 男はハンターだという。躯を重ねるまでは熱いが、やることをやってしまうと幻滅ばかりだ。

『こんなつまんねーってわかってたら、早く帰ってやったのに』

 そう思いながら夜中近くに高田が帰宅すると、隆一は真っ赤な顔でふうふう言いながら布団にくるまっていた。

「おい……大丈夫か?」

『……あ……おかえり……』

 声はない。口だけが動く。

「……声、出ねーの?」

 熱で瞳を潤ませて、隆一はうなずいた。

『喉が』

 喉に手をやる。高田は眉をひそめた。

「この部屋、乾いてっからな」

『ごめん……水、もらえる?』

 ささやき声で言われ、枕元になにもないのにようやく気づく。

「水か。つーかおまえ、濡れたタオルぐらい用意しとけよ。氷枕なんかあったっけか」

 女と遊んでいて帰宅が遅くなった。罪悪感もあって、高田はスポーツドリンクをコップに入れてストローを差し、隆一の口元に持っていって飲ませ、水道水で濡らしたタオルを隆一の汗の浮く額に乗せてやった。

「ほかにはなんか欲しいものあるか」

 聞くと、隆一は口元に小さく笑みを浮かべた。

『大丈夫。ありがとう』

 それだけ口を動かすと、隆一はすぐに目を閉じた。笑みも消える。それだけで、高田はひどく自分が隆一に尽くしてやったような気がした。黙ってベッドも使わせる。俺ってけっこう優しくね?

 自分が床に寝るのは初めてだと思いながら、高田は床で丸くなった。

 朝、隆一の顔は昨夜よりは赤味が引いているように見えた。すっかりぬるくなったタオルを洗濯機に放り込む。

「あー」

 高田はぐるぐると首を回し、伸びをした。

「やっぱ床はかてーな。あんま寝た気がしねーわ」

『ごめんね』

 隆一の口が動く。

「まあ早く元気になれよ。つか、味噌汁作ってくれる? 今日二限から講義なんだわ」

 え、と隆一の目が少しだけ丸くなった。

「パンだと昼まで持たねーもんな。ああ、米はいいよ。冷凍のあんだろ。な、味噌汁だけ頼むわ」

 よろよろと隆一が起き出す。

 自分は味噌汁とご飯の朝ごはんが食べたい。そして自分は料理ができない。だから料理のできる隆一に頼む。それのどこが悪いのか、高田にはまるでわからなかった。

「ゆっくり休めよ。今日は早く帰ってこられるからさ」

 ガス台にすがりつくようにしてひとり分の味噌汁を作り、青い顔で倒れ込むようにしてベッドに戻った隆一に、高田は微笑みかけた。

――自分が悪いことをしているなどと、高田は微塵も思っていなかった。

 

 

 それでも――いい思い出をふたりで作ったこともあった。

 ほとんど半同棲のようになった最初の冬は、高田と隆一が住む街でも雪が積もった。地面をうっすら覆うだけではなく、足を踏み入れるとずぼりと足首まで埋まってしまうほどの積雪は珍しい。

「公園行ってみようぜ、公園」

 いつも朝はだらだらと、隆一が洗濯や掃除をすませるまでベッドから出ない高田だったが、その日は浮かれる気分のままに、隆一を誘って飛び出した。

「うっひょー!」

 アパートの近くにある小さな公園には隅のほうに犬の散歩の跡があるぐらいで、真っ白でふかふかの雪が積もっていた。

「なんかさあ、こういう、まだ誰も触れてませんって感じのとこガシガシ踏むの、めちゃ気持ちいいよなー」

 そう言って公園の真ん中をわざと踏み荒らすようにして横切る高田を、隆一は苦笑して見ている。

「先輩が言うとなんかやらしい」

「ああ?」

 なにかきわどい一言を返してやろうと振り向いて、高田は言葉を飲んだ。

 文字通り、まだ誰も触れていなかった隆一の処女地を強引に犯して出血までさせてしまったのを思い出す。白一色に雪をかぶった街を背景にもこもこのダウンを着込み、ニット帽をかぶって笑っている隆一は、高田が自分勝手に踏み荒らし泥まみれにさせたはずなのに、凛と透明感があって綺麗だった。

「……俺さ」

 ざくざくと雪を踏んで高田は隆一の前に戻る。

「あん時のおまえもすんげえ可愛かったと思うけど……今のおまえもめちゃ可愛いと思う」

「先輩……」

「……俺、男はおまえしか抱かないし、おまえも俺以外に抱かれたりすんなよ」

 ぱっと隆一の顔が赤く染まった。

「な、なに言っちゃってんの先輩……やだなもう! こんな爽やかな朝に……」

 照れてニット帽を引っ張って顔を隠そうとする隆一の肩を、強引に抱き寄せる。

「忘れんなよ。おまえの男は俺だけだかんな」

 隆一は額を高田の肩に押し付けて、「うん」とうなずいた。

 それからふたりで、子供のようにはしゃぎながら雪だるまを作った。雪玉も大人の頭ぐらいまではかんたんだが、それよりも大きくなると重く、形も悪くなる。汗までかいて、腰まであるような大きな雪だるまを作り、「ひとりではかわいそうかも」と、横に膝丈ぐらいの小さな雪だるまを作った。

 公園の入り口にふたつ並べて置いてみると、門番のようにも、結婚式を終えて出て来た新郎新婦のようにも見えた。

「…………」

「…………」

 言葉はなかった。ただ、凍えて真っ赤になった指を絡め合わせた。

 旅行に行ったこともあった。一度だけだったが。

 バンドの活動が軌道に乗り、定期的にライブのできる店も見つかった頃だ。――いや。隆一と一緒に暮らしながらも、遊べる女友達が途切れない高田に、隆一が傷ついたような顔を見せるようになった頃だったか。

 バンド活動が増えるにつれて、知人とファンのあいだのような女の子が高田のまわりにも増えた。ライブを見に来てくれた隆一の前で、しなだれかかる女の子を突き飛ばすこともできずに、「ノブぅ、今夜は泊まっていけるぅ?」などとあからさまな誘いを受けたことさえある。

「いいよ。大事なファンなんでしょ」

 隆一はわかったような言葉を口にしても、「本当はイヤだ」と暗い顔が言っている。そんな隆一のご機嫌をとるために計画したような旅行だった。

 一泊で近場の景勝地で、宿代は持つから交通費は折半にしてくれという情けない条件での旅行だったが、高田が誘うと隆一は久しぶりに心からうれしそうな顔になった。

 ふたりで地図を眺めて計画を立て、予定の電車に乗り遅れそうになって駅を走り、電車の中では緑がどんどん増えていく景色を眺めながら子供時代の思い出をしゃべり合う。宿はこじんまりしたものだったが部屋の窓からの景色はよく、露天風呂につかって夜空を仰ぐと、ふたりだけの別世界に来たような気がした。

「信孝と……来れてよかった」

 高田の周囲に見え隠れする女の子たちへの対抗心か、隆一なりの独占欲の表明だったか。半同棲して三年目を迎える頃から、隆一は高田の名を呼び捨てするようになっていた。

「星……すごくたくさん見えるね」

「ああ」

「すごいね」

 寝る時は仲居さんが離して引いてくれた布団をくっつけて、ふたりで布団の中で手をつないでしゃべった。

「また……来れるかな。旅行」

「来れるさ」

 未来は約束したくない。自分を縛るようなことは言いたくない。男はおまえだけだと言ったことはあるが、女は抱かないなどとは一言も言ってない。正直、隆一だから勃つのであって、それ以外の男にそそられたことは一度もない。「おまえ以外の男は抱かない」と言えたのは、それが高田にとって、なんのリスクもないセリフだったからだ。

 だが、その時の高田は、隆一に向けてなにか甘いことを言ってやりたくなった。

「連れてきてやるよ、また。絶対」

「信孝……」

 隆一の目が潤んだのが、枕元に置かれた小さなライトに照らし出されて見える。

「……こっち来いよ」

 掛け布団を持ち上げて誘う。

 浴衣姿の隆一は肩を丸めるようにして、高田の布団へと入ってきた――。

 

 

 ひどいだけの男ではなかったはずだ。

 隆一だっていい思いをしていたはずだ。

 そんな想いがあったから、初めて隆一から別れ話を切り出された時、高田はとまどいよりも怒りを覚えた。

 高田が社会人になり、隆一が大学四年生になった年の春、

「別れたい」

 と、隆一は真顔で言った。

「……は? はあ? 意味わかんないんだけど」

 首をひねる高田に、隆一は真顔のままだ。

「別れたいんだ。もうここには来ないで」

 隆一が本気だと知って、高田は自分の目が据わっていくのを感じた。

「わっけわかんね。なんでだよ。なんで……」

 ピンと来た。

「女か! 女ができたのか」

「……信孝はずっと……女の人がいたよね。ううん、決まった人じゃなくても……。よくシャツに口紅や肌色の化粧とかがついてたよ。あと香水の匂いとか……満員電車とかつまんない言い訳はいらない。朝一番の電車がそんなに混んでるわけないもの」

 確かに、女と遊んでの朝帰りはよくある。

「だからそれは……ライブのあとの打ち上げとかさあ……」

 いつもの言い訳を口にした。

「……もう、嘘言わないで。……つきあって六年になるんだよ? 嘘か嘘じゃないか……わかるから」

 静かで落ち着いた表情に、隆一が昨日今日、別れを思いついたのではないと知れる。

「は……なんで、なんでだよ」

 みっともないと思いながら、高田は同じセリフを繰り返した。突然過ぎて理解できない。

「俺……確かにおまえにいろいろ迷惑かけてきたけど……俺もようやく勤め人になったんだしさあ、おまえが言ってたように金出してもうちょっと広いとこ、移るつもりだったんだ。もちろん、おまえと一緒にさ。……悪かったと思ってんだよ。俺がおまえんとこに転がり込むみたいな形でさ、おまえにはずっと迷惑かけてさ。けど、ようやく俺も給料がもらえる身分になったんだ。今までは金がなかったからおまえに甘えてたけど……」

 高田の言葉に、隆一は首を横に振った。

「……ごめん。もう……なにを聞いても、信孝のこと、信じられない」

「隆一、聞いてくれ……」

「出ていってほしい」

 取りつく島もない物言い。

 高田はバン!とテーブルを叩いた。

「んだよ! それ! 信じられねえ? は! 上等だね! 俺だって俺の言葉を聞こうとしてくれないヤツなんかと暮らせねえよ」

 言い捨てて立ち上がる。

「お望み通り出て行ってやらあ」

 音高くドアを閉め、高田は部屋を飛び出した。

 イライラした。飼い犬に手を噛まれたような気がした。まさか隆一のほうから別れを切り出してくるとは思ってもいなかった。

「……んだよ。えらっそうに……」

 毒づいて三日ほど過ごした。

 ようやく寂しさが胸にきざしたのは四日目だ。

 隆一のおだやかな笑みが懐かしくなり、その声が聞きたくなった。それは高田自身にも意外なほどの恋しさだった。

『俺……』

 そこにいるのが当然だった。自分は遊び歩いて何日も帰らなくても、隆一はいつもその部屋で自分を待ってくれていると思っていた。

 隆一の愛情をアテにして、わがままだった――。

『だけど……いつも帰ってただろ。女と遊んでも……いっつもおまえが一番だっただろ』

 そうだ。

 別れを告げられてから大切さに気がつくなんて、本当にマヌケだけれど。

『隆一が一番だった』

 この六年、たくさんの女と遊んだが、誰一人、本気になれなかった。当たり前だ。自分の心の中にはいつも隆一がいたんだから。

 いつも隆一の部屋に戻っていたのは、そこに寝る場所があったからじゃない、隆一がご飯を用意してくれるからでもない、隆一がやりたい時にやらせてくれるからでもない――隆一が好きだったからだ。

『そうか……俺、隆一のことが好きなのか』

 マヌケにもほどがあると思った。六年もこいつは俺のことが好きだからといい気分でいたけれど、ただ便利なだけの相手がいくら優しくしてくれても、自分の性質なら飽きたりうっとうしくなっていたりするはずだった。隆一がよかったのは……隆一が甘えさせてくれるからじゃない、隆一が好きだったから……。

『なんだ……そうか、そうか……』

 気がつけば、あとはヨリを戻すだけだ。高田はすぐに隆一の部屋へと向かった。

 夕方で、隆一は不在だったが、三時間ほど待っているとスーパーの袋を手にアパートの階段を上がってきた。

 色白のはずの顔が、暗くくすんで見える。

「隆一」

 驚かせないようにそっと声をかけた。

「……先輩」

 暗い顔の中で目が丸くなった。

 

 

 三時間待っていたこと、どうしてももう一度話がしたいことを伝えると、隆一は黙って部屋の鍵を開けた。

 部屋に入り、向かい合って座る間も惜しくて、

「俺、やっぱりおまえのことが好きだ」

 立ったまま、単刀直入に高田は切り出した。

 甘えるだけ甘えて身勝手を繰り返し、別れ話を切り出されて初めて好意を自覚したなどと、考えてみれば失礼な話だ。そこはうまく粉飾して、「一番おまえのことが大事なのに、つい居心地よくて甘えていた」とか、「帰るのはおまえのところだって決まってるから、逆に安心して遊んでいた」とか、聞こえのいいように言い換え、そして最後に「おまえが好きだ。好きなのに苦しめるようなことばかりして、本当に悪かった」と頭を下げた。

 蛍光灯の白い光の下で、どれほど沈黙が続いたか。

 ここは我慢比べだ。言いたいことは言った。今、「なんでわかんねえんだよ」と怒鳴るわけにはいかない。高田は高田にしては驚異的な忍耐力でその沈黙を耐えた。

「……好きだって、初めて言ってくれた……」

 低い声でささやくように言われた言葉に、ようやく高田は顔を上げた。隆一の瞳が潤んでいる。

「気がついてた? 先輩……信孝、今まで一度も……好きだって言ってくれたこと、なかったんだよ」

「……て、照れるから……そういうの」

「可愛い……って、何度も言ってくれたけど……好きだって言ってくれたことはなかったから……やっぱり先輩は女の人のほうが好きなのかなって……」

「……どんな男や女より、俺はおまえが好きだ。おまえが……一番なんだ」

 隆一の目からぽろりと涙がこぼれる。

「やだな……うれしい。……信孝、ひどい人だってわかってるのに……やだな、うれしい」

 今だ、と頭の中で声がした。

 高田は一歩踏み出すと、隆一を抱き寄せた。

「ごめん。今まで……本当にごめん。これからは……おまえだけ、大事にするから」

「信孝……信孝……」

 泣き出した隆一を抱き締め、高田はほっとしていた。もうこれで大丈夫。

 が――身についた遊び癖や、基本的に自己中心的な性格がそうかんたんに変わるはずもない。

 高田の就職を機に今度は二部屋あるアパートに移り、しばらくは高田もおとなしくしていたが。一年後に隆一も就職し、炊事掃除洗濯が今までのように隆一だけでは回りにくくなると、じわじわと不満が出て来た。「俺だって家のこと手伝ってんだ、少しくらい息抜きしてもいいだろ」とまた勝手な理屈をつけて、隆一の仕事が忙しく帰りも遅いのをいいことに、高田はまた女遊びを始めてしまった。

 ただ、今度は隆一の愛情にあぐらをかいて、「どうせ女の影がちらついても、おまえ、俺から離れられないだろう?」などという横着はしなかった。隆一を傷つけたくないという想いもあった。高田は行きずりの女性とその場限りの快楽を愉しむことはあっても、それを隆一にはひた隠しに隠すようにした。

 隆一から二度目の別れ話が出たのはその頃だった。

「信孝……家のことは全部俺がやって当たり前だと思ってるでしょ。俺だって疲れるんだよ、しんどいんだよ。早く帰ってきたなら、どうして朝の片付けぐらいしておいてくれないの。なんでご飯も炊かずに俺が帰ってくるの待ってるんだよ。……もうやっていけない」

「なんだよ。おまえ、そんなことぐらいで別れ話とか。笑える」

「……そうだろうね。信孝にとってはそんなことぐらいなんだろうね……」

 肩を落とした隆一の顔に浮かぶ疲労に、高田は気づかなかった。いや、気づきたくなかった。

 何度か、そんな別れ話が浮かんでは消え……最後の別れ話は、高田が二十五、隆一が二十四の時だった。

 

 

「ごめん。明日、俺、ここを出てくから」

 土曜の夜だった。

 それまでの別れ話とはちがう、堅い決意をにじませて、隆一は宣言した。

「出てく……?」

 高田は聞き返して笑みを浮かべた。

「おいおい。どうしたんだよ。なにを突然……」

「突然じゃないよ。もう何度も……別れたいって話はしたじゃないか」

「ああ、したな。でも結局、ふたりでやっていこうって話になったじゃないか。なあ……」

 伸ばした手は振り払われた。

「結婚しようと思ってるんだ」

 振り払われた手が止まる。思いがけない一言だった。

「え……おまえ、女抱けるの?」

 驚きのあまり、反射的に疑問を口にしてしまっていた。

 隆一は笑おうとしたのか、怒ろうとしたのか、口元をひくつかせたあと、

「……ひどいこと言うね……」

 震える声でそう言った。

「誰だよ、相手。おまえ、だまされてんじゃねーの?」

「……取引先の、担当の人だよ。……俺より年上だけど……美人で可愛い人だよ……」

「年上っていくつ」

「みっつ」

 は、と高田は馬鹿にしたような笑い声を立てた。

「クリスマスもとっくに終わってんじゃねーか。なあ、おまえやっぱだまされてるよ。そんな売れ残り」

 女性が二十四歳でクリスマスイブ、二十五歳でクリスマス、ケーキになぞらえて二十六を過ぎたら売れ残りと揶揄されていた時代のことだ。

「彼女は、売れ残りなんかじゃない。おとうさんが病気で、おかあさんと看病が大変で……」

「父親が死んで、新しい大黒柱が欲しいところにおまえが目をつけられたんじゃないの」

「…………」

 隆一がすごい目でにらんできた。そんな目は今まで一度も見たことがない。

「……は……なに、その目。俺が言ったことがそんな許せないんだ?」

「彼女のことを悪く言うな。いくら……いくら先輩でも……許さない」

「悪く言いたいわけじゃねーよ。ただ、普通に考えたらおかしいだろ」

「……おかしいって言うなら……俺たちのほうがよっぽどおかしいだろ。こんな……男同士で住んで……ふたりとも男で仕事があるのに……俺ばっかり女みたいに家のことさせられて……」

「だから俺もできるだけ手伝うようにしてるじゃん……」

「手伝うっていう、その言い方がもう、俺に押し付けてる証拠だよ!」

 隆一が声を荒げる。高田はわざとらしくため息をついて見せた。

「やめようぜ。この話になると揉めるしかないから」

「……そうだね。もう揉めたくないよね。俺、明日出てくから」

「なに勝手なこと言ってんだよ。自分、女ができたから結婚します、こっちはもう終わりって、おまえ、勝手すぎだ。俺は認めねえよ、そんなの」

「……どうして信孝に認めてもらわなきゃならないの」

 隆一はぎゅっとこぶしを握る。その目が高田をにらむ。今まで何度も揉めたが、隆一がここまで強気な態度を取るのは初めてだ。

「俺に女できたの、そんなに腹が立つ? 自分はいろんな女の人と遊びまわってるくせに……」

「……は? なにそれ。いつ俺が……」

「ばれてないと思ってるの。……俺とはこの部屋でしかエッチしないのに、どうして信孝のカバンの中にゴムが入ってんの。なんでそれが減ってるの。財布の中にラブホの割引券とか……どうして入ってんの」

「な……おまえ! 人のカバンあさったのか!」

「……信孝の下着に、女の人の長い髪がついてたことがあったんだ。それからだよ。信孝のカバン、チェックするようになったのは。……ホントはそんなこと、したくなかったけど……」

 浮気の証拠を隆一につかまれているとは思ってもいなかった。――これはまずい。

 どう反撃すればいいのか、糸口が見つからない。

「俺……もう先輩に振り回されたくないんだ。彼女と幸せになって……こんなヤキモチでぴりぴりしたり、本当に自分が大事にされてるかどうかわかんないのに、必死で自分をごまかして笑ってるの……もうイヤなんだ」

「隆一……聞いてくれ。俺はおまえのことだけ……」

「ごめん。もう聞きたくない」

 硬い表情の隆一に、高田が言えることはもう、なにもなかった。

 それでも、いくら別れるの、出て行くのと言ったところで、いつものように少し甘い言葉をささやいて、好きだ、おまえしかいないと口説けば隆一が折れてくれるだろうと思っていた。

 が、高田の思惑は裏切られ、次の日、本当に隆一は出て行った。身の回りの物だけを持ち、「あとは勝手に処分して」といい置いて。

「マジかよ……」

 ふたりで買ったものも、隆一はほとんど置いていった。なのに、とたんに広々として見える部屋に突っ立ち、高田は頭を掻きむしった。

 


三章

 

 それからは泥沼だった。

 いくら部屋を出て行っても隆一が勤めている会社は知っている。会社を出て来たところをつかまえて「話を聞けよ」と迫り、拒否されれば「俺たちの関係を会社にばらすぞ」と脅した。

「俺は別に結婚したい相手もいないからな。今の会社だっていつ辞めたっていいんだ」

 開き直ったそんな言葉を吐く高田に隆一は怒った表情を見せたが、つかんだ手は振り払われなかった。

 隆一が出て行った部屋に強引に連れ戻し、八年も深い関係にあった男に隆一が本気で攻撃できないのをいいことに、嫌がる躯を無理矢理に抱いた。さらに、その時に隠し撮りした写真を彼女に送りつけられたくなければ、週に一度は帰って来いと脅迫した。

 隆一は怒り、嫌悪の表情を見せ、それでも高田がゆずらないと見ると、

「こんなことしたって、俺たちもうダメだよ。どうしてわかってくれないんだ」

 と高田を説得しようとした。

「わかんないのはおまえだよ。おまえ、ホモだろ? ケツの穴にチンコ突っ込まれてアンアン言ってるくせに、なんで女と一緒になってやってけると思うんだよ。それともあれか。彼女、おまえのケツにバイブ突っ込む趣味でもあんのか」

 もう一度そばに戻ってきてほしいのに、おとしめるようなことしか言えない。脅しては抱き、隆一と彼女の性癖をあしざまに言って嘲笑った。

「おまえには俺しかいないんだよ。わかったか」

「信孝こそわかるべきだ。……俺たちはもう、ダメなんだ」

 そんな泥沼をどれほど続けたか。

 別れようという恋人に追いすがり、脅迫という卑怯な手を使って引き止めようとするのがどれほど醜悪かわかっていながら、高田は隆一をあきらめることができなかった。

 隆一を呼び出すのは職場にかける電話だった。

「来いよ」

 短く言うと、隆一は息を詰める。

「もう、やめたほうがいいと思います。こんなことは……」

 ひそめた声が言う。

「いいから来いよ」

「……申し訳ありませんが、ご要望にはお答えできません……」

「いいのか。今からおまえの職場におまえのケツのアップ、ファックスしてやってもいいんだぞ」

「…………」

「来いよ。時間は何時でもいい。来なかったら……とっておきのヤツ、ファックスするからな」

 終わっている。ふたりの仲も、高田自身も――。

 それはうっすらわかっていながら、もう、高田には引き際をどうすればいいのか、それがわからなくなっていた。

 それでも……それでも。

 そんななんの未来もないことを数ヶ月も続けたあと――やっと高田は、隆一の手を放してやらなければならない、こんな状態を続けてはいけないと心の底で思うようになった。

 ふたりで作ったいい思い出だってある。脅迫して抱く、こんな関係はせっかくの思い出すら真っ黒なものに変えてしまう。隆一を自由にしてやらなければ……彼が望む人のもとへ、彼を送り出してやらなければ……。

 それを考えるとどうしようもなくイライラしたし、心に穴が開くような気がした。このイライラをおさめて隆一の手を放してやるにはどうすればいいか……考えて高田は、大学時代に少し乗っていたバイクをまた始めてみようと思いついた。

 昔のツテに連絡すると、昔バンドのまわりに群がっていた女性のひとりが今はバイク屋で働いていると教えられた。安く中古のバイクがあるなら買いたいと、高田はその女性に連絡をとった。数年ぶりに会った彼女は再会を喜んでくれたが、

「高田君ももう二十五でしょ。いつまでもふらふら遊んでないで、落ち着きなさいよ」

 と説教されたのには苦笑いがもれた。聞けば彼女は婚約中だという。昔はバンド仲間の誰かとつきあっていたはずで、みんなそれぞれに過去を清算して歩みだしているんだと、高田は改めて思い知らされたのだった。

 何度か彼女と会って、希望のバイクを買うことができた。

 高田は毎晩、ひとりでバイクを走らせるようになった。風を切る音、脚のあいだのエンジンの振動、コーナリングのスリル、バイクを走らせているあいだは、かんたんに隆一を自由にさせてやれるような気がする。が、バイクを降り、ヘルメットを脱いだとたん、隆一のいない人生を送るのが寂しくなる。それでも、こうしてバイクを走らせていれば……と。

 その日も、今度こそ吹っ切ろうと自分自身に言い聞かせながら、高田はバイクにまたがった。山間部のアップダウンが激しい道を求めて郊外へと走らせる。

 ついてきている車があるのに気づいたのは、もうほかに通行車両がほとんど見当たらなくなった山沿いの道を走っている時だった。

『さっきからずっと……』

 バイクのミラーに、同じ距離を保ってついてくる車のヘッドライトが映っている。

『なんだ?』

 別に高田は暴走を愉しみたいのではないから、バイクの速度は制限速度からせいぜい十から二十キロオーバーだ。車ならかんたんに抜いていけるはずの速度なのに、まるで高田のバイクを見張るようについてくる車が不思議だったし不快だった。

『さっさと抜いてけよ』

 わざわざ路肩に寄ってスピードを落としても、車は追い抜いていこうとはしない。

『なんなんだよ』

 高田はバイクのスピードを上げた。

 周囲が木立ばかりになった時だった。それまで静かについてきていた車が速度を上げ、急接近してきた。ミラーの中のヘッドライトがどんどん大きく、眩しくなる。

 危ないじゃないかと思ったとたんだった。後ろから突き上げるような衝撃があった。

「うわっ!」

 後ろの車が抜けるようにと、道の端のほうを走っていたのが悪かった。後ろにぶつけられたショックで踊ってしまったハンドルをさばききれず、高田のバイクは傍らの木立に正面からぶつかった。

 腕から肩へと強い衝撃が走り、同時に躯が浮く感覚があった。

 バイクから空中へと投げ出されながら、その瞬間、高田の目は自分にぶつかった車の運転席に座る男を捉えていた。

『隆一!』

 青い顔でハンドルにしがみつき、自分がしたことに驚いているように、隆一は目を丸くしてこちらを見ていた。

 目が合った――ような気もしたが、直後、首から背に巨大なハンマーで殴られたかのような痛みが走った。

 背中から木に叩きつけられ、地面へと落ちる。切り株で腹を打った衝撃で、口から血の塊が飛び出た。

 車はエンジン音を響かせて走り去っていく。

「……がッ……ぐッ……」

 助けを呼びたいのに、隆一を呼び戻したいのに、声が出ない。立ち上がろうと落ち葉で湿った地面を掻いたが、まるで力が入らない。

『おまえ、そんなに俺が憎かったか』

『俺を殺したかったのか』

『俺がそんなに邪魔だったのか』

 隆一に聞きたい。確かめたい。なのに、声の代わりに出て来たのは、またも血の塊だった。

 周囲は真っ暗闇のまま。隆一が戻ってくる気配はない。

 なんとかしたいのに。躯が痛くて痛くて、動けない。

「……だ、れ……」

『誰か誰か。助けてくれ』

『このまま……死ぬのか。いやだ! いやだ、死にたくない!』

「あ、が……」

 手足が冷えてくる。手が細かく震えて、もう土を掻く力さえ出ない。

 急激に迫ってくる死の気配に、高田はすくんだ。――このまま死にたくない、死にたくない!

 その時だった。ざくり、足音がして、傍らに人が立つ気配があった。

「……う……あ……」

「死にたくないというのはおまえか」

 低いがよく通る声がして、強い力の手で抱き起こされた。

 陶磁器のように白く、そして美しく整った顔が、闇の中に浮かびあがって見えた。

「たす……たす……」

 助けて助けてと繰り返す高田に、その人は憂いのこもった眼差しで首をかしげた。

「今のままのおまえを生かしてやることは、俺にはできない。俺が与えてやれるのは闇の命だ。――それでもいいか。魔物としての命でも、おまえは欲しいか」

「なん……い、い……たす、て……」

 なんでもいい。助けて。

 高田の言葉にその人は高田の首元に顔を伏せた。

 急激に闇が押し寄せる。なにもわからない。だが、青い顔の隆一の顔だけが高田の意識の中には残っていた。

 

 

 そうして――アルノルトに助けられて高田信孝は吸血鬼として生きることになった。

 陽の光にも、美味にも酒にも、未練はなかった。アルノルトに眉をひそめられながら、高田は人間に対しては絶対的な強者となれる魔力と、老いることもなければ傷つくこともない己の躯に満足して、遊び浮かれて過ごした。

 高田はこれはと見込んだ犠牲者に、甘い言葉で近づき、まずは普通にセックスに持ち込んで楽しみながら血をいただき、さらに気に入った犠牲者はアルノルトの館に連れ込み、怪異の限りを尽くして怯えさせ、逃げ惑わせた揚げ句に死ぬ寸前まで血を吸い、記憶を消して放置するという残酷な方法を好んでとった。

 当然、何度もアルノルトには叱られる。そのたび、高田は答えた。

「いいんだって。どうせ俺なんか、誰からも嫌われてんだからさあ。嫌われもんは嫌われもんらしくしてたらいいんだって」

 高田がどうして瀕死の重傷を負うことになったのか知っているアルノルトは、高田がそう言うと口をつぐむ。

 アルノルト自身、老いない死なない闇の命を、ともに生きたいと願う相手にいつも拒否されて、孤独を友にしている。

「ふられた相手にいつまでも復縁など求めるから殺されるんだ」

 と口ではきついことを言うが、その実、優しい心を痛めてくれているのを高田は知っていた。それこそ「出て行け!」と高田を何度も追い出しては、何度も受け入れてくれるのがその証だった。

 そんなふうに、吸血鬼となり、その力を残酷に使って愉しみながら……高田はずっと隆一の生活を見ていた。

『俺を殺してひとりだけ幸せになるつもりか』

 と、なにか嫌がらせをしてやるつもりで夜な夜な様子をうかがうようになったのが最初だ。

 しかし……隆一はその事故以後、人が変わったようになってしまった。死体が見つからなかったことがかえって隆一を苦しめることになったのか、隆一はいつもびくびくと怯えるようになった。高田の影に、そして、いつ訪れるかしれない警察に。

 結局、隆一はつきあっていたという女性と結婚もしなかった。

「俺は……俺は、君と結婚する資格なんてないから……」

 そう告げるときも、レストランの窓の外をパトカーがサイレンを鳴らして走り抜けるだけで、隆一は肩をすくめて、顔をうつむけ、自分が逮捕されるのではないかと怯えていた。

 何度か高田は、「よくも俺を殺したな」と口を耳まで裂けさせ、牙を剥いた姿で隆一の寝室に現れてやろうかと考えた。隆一に「ごめんなさい」と言わせてやりたい、怖がらせて、自分のしたことの報いを受けさせてやりたい。

 同じぐらいの回数、高田は、「大丈夫だ。俺は生きている。おまえはなにも悪いことはしていない」と、人間の姿で隆一を訪ねてやろうかと考えた。「あそこまでおまえを追い詰めて悪かった。許してくれ」と詫びたいと。

 が、高田はそのどちらもしなかった。

 自分も悪かったのだという思いも、だからといってなにも殺そうとしなくてもいいじゃないかという思いも、どちらも高田の本当の気持ちだったからだ。

 やり方は確かに悪かった。でも、本気で好きだったのだ。

 バイクから跳ね飛ばされながら見た、隆一の青い顔。ハンドルにしがみついていた姿。誰が自分のバイクに車をぶつけたのか、知った時の絶望は、吸血鬼になっても消えない。

 高田は、隆一がひとりで働き、ひとりで食事をし、ひとりで眠るのをずっと見ていた。年より早く、髪に白いものが混ざるようになり、人目を避けるように常に背中を丸めるせいで猫背になり、張りのあった頬がたるみ、疲れた色がより老けてみえる隆一を高田は三十年間、ずっと見ていた。やがて、その食卓には常に薬の袋が置かれるようになり、食事の量はどんどん減り、細い躯がさらに細くなるのを、高田は見ていた。

 それでも、「おまえはなにも悪いことはしていないんだ」と言ってやれない自分の情けなさを噛み締めながら。

 

 

 ついに隆一は入院した。

 その夜のことだ。高田は久しぶりにアルノルトの館に帰ってみることにした。病気になった隆一が衰弱しついには入院した姿に、もう先は長くないと悟って、ひとりでいたくなかったせいだ。

 アルノルトには最近、草間啓太という可愛い恋人ができた。ふたりがくっつくのに少なからず手を貸した形の高田は、アルノルトに恩を売り、啓太に偉そうな顔ができる権利を得たと思っている。

 ふたりを冷やかしてからかえば、多少は気も晴れるだろう。そう思って館を訪れた高田は不思議なものを見た。いや、ありえないものと言ってもいいだろう。

「……なにやってんの、アルノルト」

 館には立派な調理施設がついている。今までは宝の持ち腐れだったそのキッチンに、アルノルトはなんとエプロンをつけて立っていた。その手にはおたま、その前には湯気の立つ鍋がある。

「いや……料理をな」

 ことさらにむずかしい顔を作るアルノルトに、高田は「はあ」と馬鹿にしたような声を上げた。

「どっかの魔女に惚れ薬の作り方でも習ったわけ? それとも毒薬?」

 近づいて鍋の中をのぞき込むと、肉のかたまりとにんじん、じゃがいもがトマトソースで煮込まれている。

「うわー美味しそうな毒薬だねー」

 さらに皮肉を重ねると、アルノルトは眉を寄せた。

「さわるなよ。ケイタの夕食だ」

「は?」

 高田はわざとらしく耳を突き出した。

「なんか変な言葉が聞こえたんですけどぉ。ケイタの? 夕食? は? どこの世界にエサに食事を作ってやる吸血鬼がいるんだよ」

「ケイタのことをエサ呼ばわりするな!」

 声とともに拳が飛んでくる。それは素早くよけて、高田は肩をすくめた。

「まじかーひくわーないわー。料理とかってあんたは一口も食べられないし、味だってわかんないでしょ」

「だからレシピ通りに作っているではないか」

 アルノルトは胸を張る。

「疲れて帰ってくるのに、そのあとに食事の支度をさせたらかわいそうだろう。コンビニとやらの弁当も、どうも続くと逆に体調が悪くなるようだしな。調べてみると、やはり便利に買えるものはリスクがあるんだ。……どうせ俺はケイタが帰ってくるまで手があいているからな。まあ、なんだ、暇つぶしだ」

 手があいているの、暇つぶしだの言っても、それが啓太を思っての行動への照れ隠しなのはすぐにわかる。

「……いいもん食わせてうまい血にしようとか、思ってるわけじゃないんだろ」

「当たり前だ」

「当たり前ねえ。……まあせいぜいがんばって」

 茶化すように言い置いて、高田はキッチンを出た。きっともう間もなく啓太が帰って来る。そしてアルノルトが作った料理に目を丸くし、感謝の言葉を伝えるだろう。そしてアルノルトが少し怒ったような顔で「いいから早く食べなさい」と言うのだ。

 さすがに今日は、愛し合うふたりのそんな場面につきあうだけの気力はない。

『疲れて帰ってくるのに、そのあとに食事の支度をさせたらかわいそうだろう』

 アルノルトの言葉が耳に甦る。

 同じように大学生だったり、同じように勤め人だったのに。食事を作るのは隆一の仕事と決めつけていた。炊事だけじゃない、掃除も洗濯も。……熱があるのに、自分の朝食を作らせたこともあった。『疲れて帰ってくるのに』『かわいそうだ』、そんなふうに思ったことが一度でもあっただろうか。

――そんなふうに思えていたら、あの何回もの別れ話はなかっただろうか。今も隆一は自分の傍らにいてくれただろうか。

 取り戻せない時間を思いながら、高田は館の階段を上へと登った。三階まで上がると、そこは階の半分が広いバルコニーになっている。月の光が濡れたように青く、手すりを光らせていた。

 啓太の記憶を消して身を引こうとしたアルノルト。

 記憶もないのにアルノルトを探し求め、自分の命をかけた啓太。

 今はまだ啓太は人間だが、いずれ、アルノルトと同じ時間を生きるために仲間になるという。人間としての命を捨てて。

 愛し、愛されるふたりが寄り添う姿を見たくて、啓太に力を貸した。

 自分は愛してやることも、愛されることもできなかったから――。

『……いや、本当に……?』

 本当にもう、取り返しはつかないのだろうか。

 高田は空を見上げた。丸い月が浮かんでいる。高田が人間だった時も、吸血鬼となった今も変わらず。変わるもの、変わらないもの。自分は、変われないものだろうか。

 コウモリに姿を変え、高田は空高く舞い上がった。

 

 

「隆一」

 三十年ぶりに呼びかける。青白いまぶたがひくひくと震え、やがてその目が開いた。

「隆一」

 枕元の明かりをつけてある。隆一はまぶしそうにまばたきを繰り返した。

「……だれ」

 寝起きの声はかすれていたが、三十年前と変わらぬ響きを持っていた。

「俺だ」

 隆一の目の焦点が合う。同時に、「ひッ」とその喉が鳴った。

「ゆ、許して! ごめんなさい、ごめんなさい! 成仏してくださいっ!」

 逃げようとしてベッドから落ちそうになる上体を、高田は肩に手をかけて引き戻した。

「隆一。落ち着いてくれ。俺は幽霊じゃない。よく見ろ」

「え……」

 隆一がこわごわと視線を上げてくる。なるべく穏やかそうに見える表情をと心がけている高田の顔に目が行くと、その瞳が丸くなった。

「せん、ぱい……生きて……? え、でも、先輩、年とってない……全然変わらない……」

「隆一。よく聞いてほしい。……俺はな、吸血鬼になったんだ。あの事故のあと、ひとりの吸血鬼が現れて……俺を仲間にしてくれたんだ」

「……吸血鬼……」

「そうだ。……ほら。手が冷たいだろう? 心臓も……ほら、動いていない。だけど生きてる。俺は吸血鬼として生きているんだ。……おまえは、人間としての俺を殺したかもしれないが、俺はこうして生きてる」

 隆一が抱えてきただろう罪悪感を軽くしてやる言葉を、謝罪を、高田は懸命に紡ぐ。

「いまさらだが……俺が、俺が、悪かった。おまえがあそこまで思い詰めたのは、俺のせいだ。もっと早く、俺がおまえを自由にしてやっていれば……あんな卑怯な脅迫なんかしなければ……おまえは、あんなマネをせずにすんだ」

「先輩……」

 茫然と高田の言葉を聞いていた隆一の瞳が見る間に潤む。

「……ちがう、ちがうんだ……」

 首を振る。

「なにがちがう。だから俺はこうして生きてるし、あの時は俺が悪くて……」

「ちがう……」

 うつむいた隆一が声を絞り出した。

「先輩を殺してやりたいと思ったのは……先輩が女の人と会ってたから……」

「……は?」

「先輩に脅されて……腹が立って……でも、でも、もし本当に先輩が俺ひとりを見てくれるなら……俺ひとりだけのものに本当になってくれるなら……それもいいかなんて……なのに、俺がそう思ったとたん、先輩はまた……女の人と会って楽しそうに……」

「…………」

 高田は急いで三十年前の記憶をさらう。少なくとも隆一に部屋を出て行かれてからは、女遊びはしていなかった。とてもそんな気分にはなれなかったからだ。

「……昔、バンドのメンバーのひとりとつきあってた人だった……先輩は平気で友達の昔の彼女にも手を出すんだ……そう思ったら、もう、頭の中が真っ赤になって……」

 隆一の言葉がヒントになった。

「……おまえ、それ……バイク、頼んでたんだよ。彼女、バイク屋に勤めてたから」

「……え」

 隆一の涙に濡れた顔が上がる。

「俺、バイク買っただろ。そのバイク売ってくれたのが彼女だっただけだ」

「……じゃあ……」

「……とことん信用ないのは、もうそりゃ、俺のせいだけど。けど、おまえが女と結婚するって言い出してからは……本当に自分が欲しいのは誰なのか、好きなのは誰なのか、ようやくわかってからは……遊んでなかった」

 新しい涙が隆一の目に盛り上がった。

「ごめん……ごめんなさい、先輩……本当にごめんなさい……ずっと、ずっとあやまりたかった……」

「……俺もだ。俺も、ずっとあやまらなきゃいけないと……」

 本当は、あやまらなきゃいけないという気持ちと自分を殺そうとした隆一を許せない気持ちの葛藤だったが。

「隆一」

 高田は隆一の筋ばった手を握った。

「……俺と、来てくれないか」

「……え?」

「俺と、来てほしい。俺の……吸血鬼の仲間になって」

「…………」

「頼む。やり直したいんだ、おまえと」

「……やめてよ。俺、もう……こんなじいさんになって……」

「俺だって中身は五十だ」

 隆一の口元に笑みが浮かんだ。

「俺は見た目も五十だよ。……病気のせいで六十に見られることも多いしね」

「見た目なんか関係ない。俺は……おまえに今度こそ優しくしたい。おまえとやり直したいんだ」

「……ありがとう」

 静かな笑み。隆一は自分の手をそっと高田の手から引き抜いた。

「でも……俺はもう、つまらない嫉妬なんかしたくないんだ」

「だからもう、俺にはおまえだけだって……」

「そんなにカッコいいのに?」

 隆一の笑みに悲しい色が混ざる。

「……昔も、信孝はすごくカッコよかったけど……自分がこんな、しわくちゃになってから、昔と全然変わらない信孝のそばになんて……いられないよ」

「隆一……」

「……俺はね、ずーっとずーっと、信孝のことを考えて生きてきたんだ。今日、こうして会えて話せて……それこそ思い残すことはない。もう……終わりたいんだ」

 もっと早くに会えばよかった。つまらない傷なんか大事にせずに。さっさとあやまりにくればよかった――後悔が高田の胸を刺す。

「ありがとう。会えて、よかった」

 隆一の微笑みは、とても綺麗だった。

 

 

 それから一ヵ月後、隆一はこの世から旅立ったのだった。

 


終章

 

   *    *    *

 

 

 もう一度だけ、会って話したい。その思いから訪れた病院で、高田は隆一の死を知った。

 異母弟妹が遺体を引き取り葬儀を出すというから、せめて最期の別れをしたくて、次の日は喪服を身にまとい、通夜に参列した。

 棺の中の隆一は眠っているように見えた。確かに年はとったけれど、そうして目を閉じている顔は、一緒に暮らしていた頃の寝顔と変わらない安らかさとおだやかさだった。

 重い足を引きずるようにして葬儀場を出た。

 もし、自分が意地を張らずにもっと早くに会いに行っていたら……殺人を犯したと怯えていた隆一にもっと早く、おまえは大丈夫だと伝えてやっていたら……隆一は病気になどならなかったのではないか。吸血鬼の仲間にはならなくても、もっと長生きできたのではないか。

『俺が殺したようなものだ……』

 後悔が、鼓動のない胸に溢れる。

 アルノルトの館に向かっていると気づいたのは、啓太に会ってからだ。声をかけられるまで、自分が空を飛ぶこともせず、とぼとぼと歩いているのにも気づいていなかった。

 啓太を先に行かせ、高田は夜空を見上げた。

 会えるのに会いに行かないのと、もう永遠に会えないのは全然ちがう。

 悲しみに押しつぶされそうだった。

「隆一、隆一、隆一……」

 つぶやくと、目から涙があふれてきた。吸血鬼になってから、泣くのは初めてだ。指ですくってみると指は真っ赤に濡れた。

 そのまま、血の涙を流しながら高田は歩いた。館に着き、リビングのドアを押し開けると、先に帰っていた啓太が悲鳴を上げた。

「あ、高田さんもおかえりな……わあああっ、ど、どうしたんですかっ!」

 ソファに座っていたアルノルトも腰を浮かせる。

「アルノルト……」

 目から溢れる赤い血で、白い顔を染めながら、高田はアルノルトの元へとよろめくように足を運んだ。

「アルノルト……」

 その足元にひざまずいて、脚を抱いた。

「隆一が……隆一が……死んじゃった……アルノルト……死んじゃったよ……」

「それで泣いているのか……おまえが泣くのを初めて見るぞ」

「初めてだよ、なんだよ、これ。……涙が血とかさあ……教えとけよ……驚くだろ……」

「おまえに教える必要があるとは思わなかったんでな」

 冷たい言葉。だが、口調にはそれほどの冷たさはない。肩に手が置かれた。

「……悲しいのか」

 うん、うん、と高田はうなずいた。

「俺が、俺が馬鹿だった……もっと早く……もっと早く……なんで俺は……」

「そんなに好きだったのか」

「……好きだった……愛してた……」

 「愛」と口にしたとたん、なにかが腑に落ちた。そうだ。愛していた。愛していたのに、大事にしなかった。愛していたのに、邪険にした。

「俺は、馬鹿だ……!」

 自分の愚かさが全身を刺す。声を上げて高田は泣いた。

 

 

 ひとしきり泣いて、アルノルトのズボンをさんざん血で汚してから、高田は顔を上げた。

「……アルノルト、頼みがある」

「クリーニング代を請求しないでくれというなら聞けない」

 冗談につきあう気はなかった。高田はまっすぐにアルノルト見つめる。

「――俺を、殺してくれ」

「高田さんっ?」

 背後で息を殺して成り行きを見守っていたらしい啓太が驚きの声を上げて飛んでくる。

「俺を殺してくれ。おまえならできるだろう」

「なに……なにを言ってんですか! アルノルト……」

 あわてる啓太とは裏腹に、アルノルトは落ち着いていた。かがみこんでくる。

「なぜ死にたい? おまえは吸血鬼として生きるのが楽しいんじゃなかったのか」

「……もう、いらない。隆一のいない世界になんて……用はない」

「高田さん!」

「ケイタ……おまえにならわかるだろう? アルノルトがもしこの世から消えたら……おまえだってもう生きていたくないと思うだろ?」

 長いため息が上から落ちた。

「おまえの好き勝手やった揚げ句の気持ちと、ケイタの気持ちを一緒にするな」

「……冷たいなあ、アルノルト。……いいよ、おまえがやってくれないなら……明日の朝、テラスで日の光を浴びるから」

 ようやく立ち上がると、高田は涙を拭いた。

「止めるなよ、ケイタ」

 もう一度、アルノルトがため息をついた。

「本気なのか」

「ああ。……まあ、自分でもたいがい馬鹿だと思うけどさ……なくしてみて初めてわかるってやつだよ。……隆一に二度と会えないなら……生きてる意味はない」

「……本当におまえは……自分勝手でどうしようもないヤツだ。俺はおまえが嫌いだ。……だが、おまえには借りがある」

 アルノルトがぱちりと指を鳴らした。

「愛していると言うのなら、今度こそ大事にしてみせろ」

 リビングの窓にかかるカーテンが揺れた。啓太が飛んでいって引きあける。

 ひとりの男が立っていた。

 はにかむように、肩をすくめ、どこか申し訳なさそうに。

「……隆一……」

 信じられないものを見る思いで高田はつぶやいた。

「一ヶ月、通い詰めて口説いた。最後の最後におまえが平気な顔をしていたら、このまま会わせずにおくつもりだったが……おまえは嫌なヤツだが、死なれては寂しいからな」

 アルノルトの言葉に、吸血鬼となったばかりの男が一歩進み出る。

「信孝……」

 確か五十をいくつか超えているはず。だが、高田の名を呼んで笑ったその顔に浮かぶ恥じらいの色はやはりどこか初々しい。

「隆一!」

 高田は我を忘れて駆け寄った。思い切り抱き締める。

「信孝……信孝……」

 腕が背に回る。――三十年ぶりの抱擁だった。

「隆一、愛している愛している! 今度こそ……今度こそ大事にするから……!」

 誓う高田の腕の中で、隆一が小さく、しっかりうなずいた。

 

 

 

end



読者登録

楠田雅紀さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について