目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

閉じる


<<最初から読む

44 / 46ページ

第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査

 

 或る神学者から理解したというヒューム(1)に、私は諸原因についての見事な理性の働きを発見しました。それは全てのものには原因があることを証明するのが重要であるというものです。そして次は、如何にして神学者が推論するかです。或る物は存在するが、決して原因が無いと仮定しましょう。それは従って無から生じます。そして無とは何ものでもないことであり、何も生めないことです。しかし、決して原因を持たない事物がその時に無から生じると仮定することは、まさしくどんなものでも他の事物から生じるに至ることを仮定する、とヒュームは言います。でも、それがまさしく問題なのです。無邪気な聴衆であるなら、何も生めない無に関する議論によって、その注意力はその仮定から逸脱させられる、と私はつけ加えて言います。この言い方は他の言い方よりも良いと私には思われません。というのも、私は無から如何なる種類の観念を持ちませんし、何も考えないからです。無から私はどうして何かを言えるのでしょうか。ところが言葉は何でも言えます。もしもきちんと建てたいなら、偉大な破壊者が人々にとって最も有益であるのを確信するためにヒュームを読むことが出来ます。想像力がどんな風にでも全てのイマージュを結び付けることが出来る重要な考察をそこに私は発見しましたが、それは機械が思想から宇宙のイマージュまでの鎖を生み出す英国風の小さな諸体系を遠ざけます。あなたは恐らくこれまでの原因についてや、支えるのが大変困難な哲学者の仲介者の位置について良く把握するのでしょうが、カントの読者になるには始めは大変に骨が折れるものです。というのも、物理学者たちのメカニズムはそれでも何らかの方法で設立されなくてはならないからです。従って前述した神学者は推論が下手ですけれども、結論を下すのは上手です。経験における事物のあらゆる状態は、法則に従ったその前の状態が変化したものです。しかし、この関連が無いなら、連続した経験も決してありませんが、それでもどんな経験からも外れていると、何ものでもなくなります。純粋な論理学とか修辞学は、この関連を確立するために何も出来ません。

 第一原因に関する有名な議論を乗り越えたいと思うなら、これらの考察はじっくり考えるためにも無駄ではありません。厳密な論理をとことん押し進めたいなら、大いに堂々としてその中での態度を強く表明しなければならなかったのです。ここにあるのは議論です。事物の状態は、もしも別の状態がそれに先行していなかったなら、存在することは出来なかったでしょう。そして、もしも更に別の状態がその状態に先行することが出来なかったとしても、存在することが出来なかったでしょう。その様になって際限が無くなります。よろしい。しかし、事物の或る状態が存在する以上、それらの全ての存在条件は与えられるか与えられたのですが、この全ての、ということに注意してください。事物の存在自体によって勘定が行われて完了し、けりが付きます。それ故に、それらの条件が無限であることは肯定することと否定することを同時に言うことであり、それは未完であることを意味します。一つの原因の前にもう一つ別の原因があるという観念は、その様にして終わりが無く、従って十分でなくなります。現代の無限とか、実現された無限とは矛盾を孕んでいることを言っているのですが、人々は同じ様に説明が付くことなのです。それ故に一つの原因とは、原因の無い原因そのもの、つまり最初の原因であり一連の条件を終わりにするものでなければなりません。というのも結局のところ、現在の状態が存在していて、それらは待っていてくれません。それと共に十分な原因に達します。そこから出発して唯一の神聖なものとしての、原因の無い原因を認めるにしろ、自由になって原因にならない原因のために、そして道徳が望む様に恐らく多様な原因のために単純にその場所を用意するにしろ、数々の結論が相関的に繋がります。しかし、それらの結果には触れないで置きましょう。その議論を見てみましょう。

 第一に注意することは、原因の無い原因そのものに達したけれど、全てのものには原因があるという原理から、この原理を否定するに至ったことです。ここには何らかの言葉の罠がある証拠になります。第二には、もしも変化の表象に原因との関係を取得したなら、続く事物の状態が直ぐに先行する状態から生じることに気付きます。従ってそれは人が望んでいるもう一つの近接するものです。換言するなら惑星の体系に見る様に、変化の中には継続があり、そこでは極めて明瞭にこれらの物体の状態はどんなものでも引付けられて、限りなく近接するもう一つの状態に依存していて、それがもう一つ別のものに近接したものになります。ここでは言葉が私たちを騙す様なものであるのを見て下さい。私は一つの状態と、もう一つの状態を言っているのですが、両者の間に私が望む限り相違を見出すことになるでしょう。私が全ての原因を語っても、それ故に沢山の原因を理解していません。そして最早数え切れなくなると、現在の無限という論理的不可能も消え失せます。最も小さな間隙にも、私が望む限りの多くの原因が這入り込みます。しかし、私が原因のその数を数えるなら、それは数える私の外にはありません。自然を把握しようとしても、私の計算において罠に陥るのは私自身です。第三には、数の形成が最早考えられなくなると、無限という言葉の中には殆ど恐ろしく曖昧なものがある様になります。何故なら、未完成で不完全なものと同様に、完成して完全なものも指し示しているからです。従って無限の生成は、無限が全てに充足するから事物を説明するのに十分であると私は良く言えるでしょう。しかし言葉は何ものも充足しません。

 無限が最早過去に形成されずに、現在では事物を支えていることに関してライプニッツはもっと感動的な形而上学的な議論を残しました。合成されたものは合成されたものが無いなら存在することはない、と彼は言っています。もしも、これらの合成されたものが合成されたもの自体であるなら、他の合成されたものへ投げ返されます。かくして終わりがありません。しかし、もしも合成されたものが存在するなら、それが合成されたものも今直ぐにでも存在します。それ故にそれらは単一ですが、絶対的に単一なのです。それらは精神です。これ以上に論理の働きが見事なものでも何も生みませんでした。しかしながら、如何にして単一の合成されたものが、他の働きでしかないものである大きさと一緒に与えられることが出来るのかを尋ねることはありません。私が単に気付くのは、もし論理的に言いたいなら、事物はまさに実際には合成されたものでも単一のものでもあり得ないことです。というのも、このジレンマは私たちのものでもあるからです。そして、言語が自然と同じに豊かであることは証明されませんし、本当らしくもないからです。知覚の無い理性の働きに関して読者に疑念を抱かせるには、全く以上で十分です。この用心は、望むものを大変上手く証明する情熱に備えるものなのです。(完)

 

(1)ヒューム(一七一一~一七七六)は、英国の哲学者・歴史家で経験論に基づいた。

 


第十章 心理学について

 

 ここでは明確でない学問を論じなければなりません。何故なら、あらゆる部分が弁証法的であるからです。魂や死後の生命を論じる一方の人は、まさにはっきりと形而上学的です。もう一方の人は、経験に基づいて私たちの思想や感情に関して論じて、おまけに信じられない程の沢山の言葉に支配されています。

 〈私〉という言葉はあらゆる思想の主体であり、現れたり隠れたりします。私が現在とか過去とか未来とかについて描こうとしたり作ろうとしたりして試みることは何でも、私が常に形づくったり所有したりする自己の思想であり、それと同時に私が感受している感情です。〈私〉というこの些細な言葉は、私の全ての思想の中で不変です。私は変わり、歳を取り、諦めたり、考えを変えたりします。でも、これらの諸命題の主体は常に同一の自己です。命題とはその様なものです。私が最早自己でなく、他者であれば命題そのものが自壊します。同様に命題もいい加減になります。すると私は二人になります。というのも私が不変であるのは全く異論の余地が無いからです。大変に自然なこの論理によるなら、私が存在しないという命題は不可能になります。そこで私は言葉の力によっても不滅になります。以上は魂が不滅であることを証明する議論の背景です。それは変わらない〈私〉が常に同一であることを、生涯に亘って私たちに再発見させてくれる所謂経験の原文です。従って〈私〉というこの些細な言葉は、大変上手に私の肉体と行為を示します。そして両者を他の人々やその他のものから大変きれいに分離しますし、自分自身に反対したくなったり、自分自身から分離したくなったり、自分の葬儀に参列したくなったりすると、弁証法の源泉になります。

 人間のこの永遠性という観念は、全ての変化と不幸を超えた同一性のものと同じに、実を言うと道徳秩序の判断であり、恐らく最も見事なものです。同一性の純粋な形は、私たちの思考が思想になることであると私はつけ加えて言います。というのも、自己を認識しなければ何も認識出来ないし、自らを継続させなければ、知覚された運動でしかない時は何も継続させることが出来ないからです。しかし、あらゆる思想の主体であるこの〈私〉は、常に一つである理解力の別名でしかなく、常に唯一の経験の中に全ての外観を読んでいることをこの考察は理解させてくれます。そこでこの探究は中断します。何故なら、私が分離された二つの世界を知覚すると仮定すれば、私が二人であることを仮定することであり、それでは不条理で全てが終焉するからです。少なくとも言葉に注意しない人々は、手応えがなくて唯一であり永続性があって変わることがない事物と、結局のところ所謂物質と、実際に面と向かっていると自ら信じます。そこには次の様な公式があります。私は私自身のことしか思い出さないと言うが、それらには単純な同一性があります。私は思い出す、と言えば十分であるからです。ここでは言葉が余りに良く役立ちますので、熟考によって成功を過信します。でも、対象が欠いています。そして思想は最早支えになりません。熟考の条件の一つは、対象を支えて自分の作品に思想を見出さなければならないことです。しかし、この条件は良く隠されています。最初の運動は自分の裡に引き籠もることにあります。そこでは言葉しか発見されません。それ故に私には自分の認識についての章はありません。この本の全体がそれに役立っているのですが、それは揺れる水面に自らを見る様に、間接的な道であったり、顔を近付けたり、閃光の様に瞬間的であったりします。私たちが一番興味ある問題は、一番単純なものではありません。残念ですが仕方ありません。〈私〉が決して変わらないにも拘わらず、自分であり続けることは些細な仕事ではありません。

 ここで特に注意することは、所謂実験心理学と生理学的心理学が全て脆弱な骨組みに結び付いていたことです。恐らく実験心理学以上に間違った知識もありません。「自己とは意識状態の集まりでしかない」というヒュームの公式は、破壊するのに大変強力でしたが、再建する時には単純過ぎた精神の限界を見せています。何故なら、意識状態が事物の様に動き回るのか、とは言われないからです。誤って言われているこの経験主義は、細部に至るまで弁証法的です。ヒュームは、所謂石もナイフも果実も、感覚や想像力や記憶であると言います。そして、これを全て上手に縫い上げた精神をあなたに組立てます。しかし、上手だろうと下手だろうと縫い上げた精神というものは決して存在しません。奥深くて世に知られていない人物だったラニョーは、神が存在しないことを証明するのに心を砕きました。というのも存在することとは経験という織物の中で、他の事物と共に捕らえられることである、とラニョーは言っていたからです。私の中や周り全体を思考することに関して、世界が広がろうとするのと同じく遠くまで何を言うのでしょうか。それは把握することであって、決して把握されることではありません。いずれにしても巧妙なメカニズムは蟻の様に上手に移動させることが出来ますが、思考することはありません。況して、この機械の色々な部分が知覚や記憶や感情であるとは言えません。知覚というものは、世界と同じ次元を持っていて至る所で、感情になり記憶になり予測になります。その思想は最早自己の外にも内にもありません。というのも自己の外も又、思考されるからですし、自己の外も内も常に一緒に思考されるものであるからです。

 この次にあなたは、私たちの中の長いリボンの様な自己の本質を組立て直す言葉の働きを、情け容赦無く判断するでしょう。そして更にあなたは、記憶のための一つの整理棚と、想像力のためのもう一つの整理棚と、幻想のための一つの整理棚等々を探しに行き、そしてそれに倣って曖昧な経験を解釈する精神の生理学をもっと厳格に判断するでしょう。少しも複雑ではない諸学問の事例によって、どんな困難でも事実で構成していることは余りに明らかです。思考する脳には、その様にして思考する魂と、そのイマージュに倣った範が与えられます。そして、この見事な仕事は、もしも交霊術者たちがより巧妙であったなら、私たちを旅する魂に還元します。しかし、この幾何学を無くした唯物論には触れないで置きましょう。(完)

 


八十一章


アラン

精神と情熱とに関する八十一章(上)

http://p.booklog.jp/book/122918

翻 訳:高村 昌憲
翻訳者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/masanorit/profile


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/122918



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト



この本の内容は以上です。


読者登録

高村昌憲さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について