目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第三章 論理学と修辞学について

 

 言語の命題が対象に適しているか否かを調べるのに応用される修辞学があります。この修辞学はどんな学問にも伴っています。例えば、正しい人は全て幸福である、という命題を調べるためには、言葉と対象を検討することが重要です。一般に論理学と呼んでいる純粋な修辞学は、少なくとも命題の相等性に関わっています。あるいはお望みであるなら言葉の多様性の元に、意味の一致に関わっています。更に言えることは、その純粋な修辞学が一つ又は複数の命題から、対象を考えることなく単に言葉によって新しい言い方を如何にして引き出せるのかを検討することです。従って、正しい人は全て幸福である、の命題から引き出せるのは、幾人かの幸福な人は正しい人である、になりますが、幸福な人は全て正しい人である、にはなりません。しかし、如何なる不正な人も幸福ではない、という否定から引き出せるのは、如何なる幸福な人も不正の人ではない、という命題です。

 ここで対象を考えようとしたり、幸福とか正義についての何らかの議論を始め様と試みたりしないためには、アリストテレスが既に行った様に、数々の項目を文字で表すのが好都合です。その様にして、幾つかのAはBである、から引き出すのは、幾つかのBはAである、です。それでも、幾つかのAはBではない、から引き出すのは全て何でもないでしょう。ここでお分かりになるのは、今日の記号論理学者たちが試みた様に、一種の代数学によってこれらの結論を述べることもあり得るということです。これらの単純な事例によってここで思い出される諸原則は、際限の無い研究を判断する役に立ち得るでしょうが、それらの研究に従事する苦労によって何時も、余りに評価のされ過ぎです。

 同じ言葉による反対の命題は、数々の単純な観察を行う機会を与えますが、言葉の全てや、幾らかや、一つ一つの意味を把握させてくれるのに非常に有益です。いわば一般文法の様なものです。もしも、全てのAはBである、が正しい命題であると定められたなら、反対の命題である、如何なるAもBではない、は誤りになります。しかし前者の命題が誤りであったなら、後者の命題は正しいかも知れませんし、誤りかも知れません。全てのAはBである、ことと、幾らかのAはBではない、ことは同一ではありません。というのも一つは正しいか誤りになることから、もう一つは誤りか正しいことを引き出さなければならないからです。

 会話でも又、これらの言い方が使われます。全く形式上の理性の働きによって、もう一つの命題を生じさせるよりも、命題そのものを点検する方が有益になるでしょう。経験から引出された命題は寧ろ、もしもAであるならBでもある、ということになるなら更に前者に等しい仮説と呼ばれる形式を表しています。それはまるで、もしも或る人が正しいとするなら彼は幸福である、と言われた様なものです。もう一つのこの言い方は、少し異なった分析が導き出されるでしょうし、次の様に推論されるでしょう。もしもAであるならBです。あるいは、Aであることはそれ故Bです。あるいは、もしもAであるならBですから、Bでないことはそれ故Aではありません。それなのにお分かりの様に、Aでない、又はBであることの命題が何も導いていないのです。もしもAでないならBでもない、を前者の命題に追加しなければならなかったに違いありません。数々の対象は何も与えません。言われていることを単に考えるだけです。言われていることはその様な言い方を含んでいるか否かを考えるだけです。

 この草稿をもう少し書いて終わりにするためには、最後の形式から昔からの三段論法へ移れます。もしもAであるならBです、と言わないでその代わりに、Aであるものは何でもBです、と言いましょう。もしもXはBである、という命題を追加したなら、XはAである、という結論も導かれるでしょう。AはBを排除する、ということから、もしもAであるならBではない、というもう一つの形式も同じ様なものです。XはAである、ということから、XはBではない、と結論付けるのも同じ様なものです。Xが全てであるとか、幾らかであるとか、一つであるのは、それがXと同じXであるからです。そこには三段論法の第一の形があります。羨望する人は誰もが惨めです。野心家は誰もが羨望する人です。野心家は誰もが惨めです。これと同じ仮定から出発して、もしもAである者は全てがBであるとして、XはBでないと定めます。又は、もしもAがBを排除したならXはAでないことが結論付けられるでしょう。それは三段論法の第二の形になります。例えば私が三段論法と呼ぶ、第三の形と三段論法とを良く区別するのを除いて、これらの二つの形を導く方法は最も自然の様に思います。前者では、もしも幾らかでも全てでも一つでもあるXが、同時にAとBであったなら、AとBは時々一致します。あるいは所謂幾らかのAはBになると結論付けることになります。全てであったり幾らかであったり、そうであったりなかったりする諸形式のために、それらを全て再発見するために有効に働きますが、注意しないことは決してありません。

 これらの変化の原理を発見するのは難しくありません。理解力は同一の思想を二つの様式の元であったり、あるいは別の言葉で見分けなければなりませんし、対象を見ること無く書かれた思想から、別の書かれた思想を引出すことは許されないことです。従って、同一性の原則は少なくとも明確な言葉に基づいて働きかけて、認識を広げたいと願う弁証家への警告として、論理学の研究において自らの原理そのものに見えます。以上は、些か不毛な研究の報いです。全く厳密に研究を行えば、その報いは知覚も無く理性の働きが進んで行き、どんな理性の働きも確かに幾つもの誤りを閉じ込めることを良く示しています。これらの全ての誤りは大変自然なものであり、対象への考察による言葉の意味をだんだんと豊かにすることから生じますが、そのことは言うことも無く、知ることさえもありません。(完)

 


第四章 注 釈

 

 ところで、この章では学校という茂みへ狩りをしに行くことにします。植物の様な言葉は二つの方法によって理解されます。あるいは、その言葉が適する沢山の生物のことを意味する様に、換言すれば一つの集合です。それ故に、延長として理解されます。あるいは定義に結び付いているかの様です。例えば、植物とは種子によって繁殖し、空気中の炭素を葉緑素によって固定させる生物です。その時は内包的なものに理解されます。不思議なことは、三段論法も一つの体系であり、あるいはもう一つの体系に倣って二つに読めることです。延長において、もしも羨望する人に見える人々は誰もが幸福な人々に入らないとすると、そしてもしも全ての虚栄心の強い人々は羨望する人々に入るとすると、虚栄心の強い人々は幸福な人々に入らないと結論付けなければなりません。これはまさに、一方の円がもう一方の他方の円の中に含まれるか、一方が他方の外にある円で表されます。羨望する人々の集合は虚栄心の強い人々の集合の全てを含み、幸福な人々の円の外にあるのです。内包的には全てが別ものになります。二等辺三角形の定義により、もしも二つの角が等しければ必然的な結果になります。もしも円の中心にあるどんな三角形も必然的に二等辺になるとすると、その様な三角形はどんなものでも必然的に二つの角が等しい結果になります。あるいは更に、もしも幸福が常に必然的に賢明の属性であるなら、そしてもしも賢明が人間の属性になり得るなら、その結果は幸福も又人間のものになり得ます。これらの関係を図にするためには円で描くことが出来ますが、或る性質を含めるか除くのかが、その時は定義になるのですから、全く別なやり方で難無く理解する様に集めて描くことが出来ます。幾らかや全てが、可能性や必然性の代わりになります。一方か他方かの読み方をしても、三段論法は同じ速度で進みます。通俗的なものと体系的なものとがはっきりと区別されるのと同じで、思考するにも二つの方法がある様に、一方は沢山の事例から証拠を引出しますし、他方は観念から引出します。それは更に論理学とか修辞学が、事物にも調査にも触れずに単に言い方に関係しているだけのしるしなのです。

 三段論法の第三の形は、それらの形を比較するなら、同一の道に導かれます。何故なら、前者の二つは結合された二つの仮説を発展させるために、理論的な証明の表現に適しているからです。第三の形は、常に事例によって証明するので、全く違って来ます。従って、その結論は決して普遍的でないと気付くことが出来ます。理解力とか延長の中でそれらの両方を読むことが出来るので、論理学は諸方法を含まず、精々何らかの反映を与えるだけであるのが分かります。かくして第三の形において主語又は事物は中間項であり、結論の中では消えて仕舞います。世俗の思想、取分け数々の事例の蓄積によって強い印象を与えられた思想が、個別の存在を把握する代わりに数々の公式に達します。その代わりに前者の二つにおける主語は、換言すれば事物が、結論の実際の主語になります。二つの等しい角を持つ或る三角形があります。そこには二つの角がありますが、他の色々な性質によって必然的にそこで先ず認められたことです。そして、一つの場所が問題であるとするなら、もう一度言われるでしょうが、用心することです。この場所では二等辺三角形である範囲内で、同様に二つの等しい角を持っていて、誤りもそこに関連して来ます。従って、真の科学は自然の事物を近似法で把握します。つまり多くの誤りを制限しますが、世俗の考えは沢山の経験で一種の確率に達します。蓄積によるこの証明は屢々帰納法と呼ばれています。体系的探究においては十分に考察しないで、理論が大変入念に枠内に納めるや否や、唯一の経験からでも証明します。その時に経験が何回も繰返されるならば、それは証明を強固にするよりも寧ろ知覚を最良にするためです。さて、殆ど錯綜した茂みの中にいて少なくとも標注だけを立てるには、これ以上は先へ這入らないことにしましょう。私が注意を与えるのは、少なくとも諸原因を疑わずに成功を考える盲目的な確率と、トランプ遊びや骰子二つとタンブラーの骰子遊びやルーレットの様な機械的に定められたルールでそれらの結果が負わされる確率とがあることです。少し何でもここで話をして仕舞い、謝ります。〈注釈〉に関しては不足だらけです。(完) 

 


第五章 幾何学について

 

 幾何学は、経験という諸対象の間の距離と大きさの関係の確立を目指す諸形式の明細目録です。その法則は最も単純な形から出発して、だんだんとそれらの形を複雑にする処にあります。この成功には次の様な、同等とか相似の三角形で解決出来ない幾何学的に問題になるものは少しもありません。定められた形として最も単純の或る三角形とは、最も単純な線が直線である様なものです。そして、三角形とは三本の直線で囲まれた軸上に全てが描かれたものであり、曲線は決してありません。これらの三角形は先ず点と線であり、これと同時に距離と方向です。そして次には二つの運動の区別があります。その運動は、一本の直線に沿う長さのものと、固定された一点の周りを回転する直線のものです。そこから角度と円が生まれますが、それらは一つしか生みません。そこから出発して探究の二つの秩序が発展します。一つは、平面の図形であり、表面の線に関係したものであり、最後には体積に関係したものになります。もう一つは、サインやタンジェントの様にきちんんと選択された直線の角度とそれらに関係したものです。最後の征服は曲線のものになります。数々の円錐体がそれらの主要なものになります。

 認識の目的が認識自体にあるというのは、大変に古い偏見です。そして教育は多分必然的な結果として、図形以外には何も探究しない学問の一つの外観を幾何学に与えています。それ故に私たちが確かな印象を得て、他の印象から離れるために行わなければならない運動を予想するのを目指して、認識は事物そのもの以外に他の対象を持っていないことを繰返し言わなければなりません。従って幾何学は方向と測量と体積計算を目的と見做しております。その応用は科学全体の領域を覆っています。そして、コントが気付かせてくれた様に、私たちがそこで用いる主要な策略は、線を測るのを最小にして、あり得るかも知れない最も可能な角度を測ることで、それが大きな予測を築きます。いずれにしても数々の事物を、現実の形に近付ける直線と曲線の網の中に捉えることが重要です。読者は既に十分にお分かりになったことと思いますが、現実の形とは更にこの網そのものによる形以外には無いのです。

 これらの指摘によって、今では定理の古典的問題に作為的困難も無く取組むことが可能です。もしも曖昧でない命題の形で何らかの新データが与えられなければ、論理学そのものの幾何学的な理性の働きは、遠くへ行くことがないのが分かります。それは常に何らかの新しい図形であり、そして言語の中で古いものと明確なものとの結合によって取得されます。幾何学が対象無しでは済まないことを既に十分に分からせてくれます。ところが著作者たちは、定理とか要求を既に認めていて、それらが無ければそれ以上前へ進められないのです。知覚に関する十分な研究は、これらの定理が更に定義でもあることを示すのを可能にしています。紙上に描かれた想像上の対象を、真実として存在する精神の形式からどちらが真の幾何学として扱うのか、少なくとも良く識別しなければなりません。従って直線とは、一点から他の点へ絶えず向かう運動によって最も良く定義されます。その様に直線とは方向そのものです。しかし著作者たちは、最短距離も直線の本質であると求め、定理として提起したがっています。しかしながら方向とは何であるのかを考えてみましょう。それは先ず、私たちと近寄れないで離れている事物との間の直接的関係です。これは予測した言い方です。粗雑な図形によらないで、想像力によって決して騙されない儘でいるなら、二点間には一つの方向しかないということが定義そのものから生じます。というのも、二つの方向を区別するには、少なくとも二つの方向の中間を考えなければなりませんから、それは少なくともその関係が二点の間にあるので定義に反することになるでしょう。二つの同一の点を通過する二本の直線とは、観念上は一本になるしかありません。従って描かれた観念も決して混同しないことだけが重要です。直線とは一点から別の点までの最短の道であるとつけ加えて言う時も、恐らく間違った言い方をしているのです。何故なら、この世には人が望むのと同じ位に数々の道があるからです。しかし、一点から別の点までには、他の点を何も考えなければ一本の直線しかない様に、一つの距離しかありません。二点の間のその直線は、二点の間の距離そのものであり、最早その距離は常に同一方向に従う一点の運動以上には短くなり得ません。あるいは又、もっと短い距離が直線上で、もっと近い一点を決定するのかも知れません。これらの様々な距離は、同一の直線上でしか決して比較されません。従ってもしも、もう一つ別の距離がもっと短くなっていたなら、それは数々の点の中の一点を別の点とは結び付けないことを意味しますし、それ以外の意味は持てない筈です。

 しかし、直線のこの特性は直線それ自体の様に、経験が無ければ考えられる筈が無いことも同様に十分注意しましょう。もしもそこに対象、つまり感じ易い多様性が少しも無いならば、直線とは最早何ものでもありません。従って幾何学者は、少なくとも暗黙の約束という数々のしるしによって、色々な点を区別しながら、十分な多様性を与えられていて、嘘つきになることは最も少ないのです。その点そのものは、少なくとも距離によってもう一つ別の異なった事物です。大きさも形も注意しない条件ならば、大きな斑点も小さな斑点もまさに同じです。もしも注意したなら、各々の斑点が幾つもの対象になって一つではなくなります。かくして幾何学者は意志によって言葉に曖昧ではない意味を力説して、諸外観と戦います。

 唯一の直線が距離を限定する様に、唯一の平行線は回転を限定します。もしも数々の直線がこの世で探究すべき事物であったなら、与えられた一点による直線には一つの平行線しかないかどうか自問するかも知れません。しかし直線とは設けられて保持されているものです。一点の周りを一本の直線を回転させて下さい。もう一本の直線と共に、どんな角度も作るのが可能ですし、ゼロ角度も含みます。それでは何故ゼロ角度が、例えば半角度の角度を作らない様に、直角の位置を限定しないと認められるのでしょうか。半角度という角度は、二本の直線を限定していることを何に対しても言われるでしょう。そうです、粗雑な想像力にとっては二本ですが、如何なる曖昧さも無い多量な回転を描きたくなると、申し分なくそれを行う型に嵌まった一つの方向でそれらの角度を測るならば、二つになりません。それでは何故その時に、ゼロ角度に幾つもの角度があると認めるのでしょうか。角度がゼロになる時、あなたは最早右や左を通過するものを知らないと私は理解します。だが、あなたの旅は遠くへ来過ぎています。勿論、旅が重要ではありません。あなたが言ったことに従う以外に何も済ませません。図面と観念を混同しないで下さい。その上、幾つもの平行線があると言っても少しも構わないのです。そして、人々は非ユークリッド幾何学において、少しも矛盾を見出すことなくそれを試みて来ました。そして、私もそれを正しいと思っています。人々が矛盾としていること以外に、その話には矛盾がありません。諸事物は何も言いませんし、反対もしません。更にその上、この幾何学は把握するべき対象を発見する限りは、それで良いのです。そうでなければ、遊戯でしかありません。(完) 

 


第六章 力学について

 

 力学に関して何か言わなければなりません。それは一般的に幾何学から経験へ応用することの最初のものと考えられています。その中で忘れられるのは、幾何学と代数学でさえも算数と同じ様に、そして全ての科学と同じ様に自然に関する学問であることです。しかし力学については、もっと明白でもあります。それ故に単純なものから出発して、再建の方法をここで示さなければなりません。私は、良く知られて有名ですが、大変に顕著な事例を考えたいと思います。私は石を垂直に空中へ投げます。石は同一の線に従って再降下します。起きたことを正確に描写しても問題はありません。それから純粋な力学に従って次の様にしてみます。私の事例が簡潔になってつけ加えるものが無いために、空気抵抗を単に無視してみます。私はまず最初に、秒速二〇メートルの速度で上方への運動を石に伝えました。この石は単に力が加えられることが否定される慣性によって、常にこの速度で何処までも真っ直ぐ進むでしょう。よろしい。ところが全ての物体は落下します。石のこの運動も、地球の近くにあるどんな自由な物体とも同様に、落下するのを決して妨げません。石は落下します。それが意味するのは、石が最初の一秒で約五メートル加速した運動を垂直に進めることです。従って二〇メートル上昇したのと同時に五メートル落下しました。つまり空中には一五メートルの処にあります。二秒後には何時も進んでいるのが二〇メートルの速度ですから三五メートルの処にあるのでしょうが、二秒目の間には同時に約一五メートル落下しました。単に合計すると空中には二〇メートルの処にあります。この分析を続けて行って下さい。石は落下して、最後には地面にぶつかることがお分かりになるでしょう。それが運動の終わりになります。私は運動の構成原理を明らかにするために、他の色々な事例にも絶対的に行うべきものとして大変に単純なこの事例を厳格で逆説的に分析しましたが、はっきりお分かりになる様に、この原理は経験が暗示するものではなく反対に、経験とか対象の状態にある外観を見ないことです。そして、もしも空気抵抗が無視されたなら、同じことを繰返し言うのをお許し頂ければ、加速された力としてその運動の反対方向に向けて導き入れる助けになることが良くお分かりになると思います。砲弾の運動も同じ様に分析しますし、惑星の運動も同様です。

 ここでもう一度、運動の構成に関する良い事例を思い出したいと思います。それはデカルトによるものであり、その後は専門の批評家たちに委ねられ、科学と考察が別々の二つの事柄であると理解させてくれるものです。ところでデカルトは玉突きの玉を弾性のあるものと仮定して、固い平面にぶつかる運動を分析しました。私は諸定義をその儘に置き忘れるとして、先ず初めに最も単純な場合を調べます。玉は普通に平面上に落下します。玉は同じ軌道をはね返ります。というのも定義によって、自然の周りでは全てが同等であるからです。しかし次は大胆な分析です。私は斜めに玉を投げます。私がこの運動を考えるには、一つは面に垂直に、もう一つは平行に、二つの運動を玉が同時に行っている結果として考えたいと思います。前者は通常なら玉が垂直にはね返ります。後者は障害も無く進み続けます。単純な構成によって分かるのは、入射角と反射角が等しいことです。大胆なこの分析を前にした脆弱な精神の人々の恐怖を、これ以上はっきりと明らかにしているものは何もありません。彼らは面が何であるのか、面に斜めにぶつかることは何ものでもなく、面は垂直の方に定めているとしか理解しませんでした。従ってこの分析は、玉突きの遊びが与える想像上の証明を排している観念を保持することしか行いませんでした。以上から分かるのは、判断力には厳格さがあり、それ無くしては精神が全ての対象を自ら秩序立てる高度な分析へ向かう真の道は決して無いことです。

 労働の観念も又、単純な観念の一つです。その観念は正確さを現した観察者のタレスが如何なる人であったのかを正確に知ることもなく、現代力学を照らしていました。バケツ一杯の水が一メートル高くしたこと、これは一つの労働です。バケツ二杯の水が一メートル高くしたなら、二倍の重さを制しなければなりません。しかし私がバケツ一杯の水で二メートル高くするなら、そこにも又、二倍の労働があります。そこから労働のこの単位に従って、バケツ一杯の水が一メートル高くするという観念は、バケツ十杯で十五メートル高くする労働では長さに対する重さとか力を、増すことで得られることになります。そして、もしも全てのバケツの水が何の邪魔物も無く落下するなら、それらの地面への衝撃はその労働自体を測定することになり、その時は激しい力を引起こします。しかし、ここにはもっと驚くべき応用が沢山あります。一般的には固体が運動を与えられると、全体部分が同一の速度で進みます。それは平行移動でしかありません。しかし、物体の一点を固定すると回転するでしょうし、その中で全ての部分が同時に同一の道を進まないのは明白です。その様なものが梃子であり、車輪です。巻揚機の中に備え付けられている複数の滑車も、他の部分よりも速く運動します。それから水圧機も同じです。機械と呼ばれるこれらの装置は、それを動かすために費やされる労働とは別の労働になり得ませんし、あらゆる場合にFL=F’L’と書かれます。そこから次に起こるのは、それらの労働の間で色々な力が逆に走り回る道の様にもなることです。従って私は、歯車を付けた起重機とか水圧機が如何にして運動を伝えるのかを、少なくとも見詰めること無く一度にその力を把握します。しかし、滑車や歯車が梃子になるとか圧力になるための各々の場合においての分析は、殆ど機械的な活動よりも精神をより一層良く明るく照らしていることを私は認めます。そして、この事例は理性を働かすための驚くべき機械である代数学へ私たちを導きます。(完)

 


第七章 算術と代数学について

 

 ここで定め様とする目的にとって、これらの二つの学問を区別する必要はありませんし、その広がりと深さを述べる必要もありません。事物の学問として単に再び考察しなければならないだけです。良く知覚された対象の中で、自然の素晴らしさと同様に計算者自身にとっても、屢々驚くべきものである解答となる変換の組合わせの源泉を常に探究しなければならないだけです。実際にここでは共通した一般の知覚においては不可能な経験である、数字についての経験しか問題にしません。

 多数が整理されていないなら、直ぐに精神を悩ませます。そして、整理とはどんなものでも幾何学的なものです。兵士一人一人にパンを一個ずつ配ることも既に数えることであり、機械的なものです。人々と彼らの前のパンの数を整理しながら調べることは、既に相等の関係を考えることです。しかし、最も単純な職業も観察者にとっては、最も都合が良い対象である集合を課しています。園芸は一つの法則に従った距離と列に合わせますし、そこでは理解力が、二つの要因から生まれるものの諸法則を読み取ることが出来ます。他の色々な箱を詰めて整理された数々の箱や砲弾の山は、もっと遠くへ導きます。子供の数え玉や積み木遊びを無視してはなりません。理解力は、事物を良く知覚する限り、ここで純然たる数の関数を発見します。例えば、立体の一辺を二倍にすると当初の立体を八倍にすることになるのが分かれば、それは一列に並べた立方体の数量や積み重ねた立方体そのものの形の相等性を見分けることでもあります。大変に小さな始まりから大変に広い学問に出掛けることを恐れる人々は、対象への知覚の中での理解力の仕事を十分に把握しませんでした。子供の羊飼いによって知覚された大空においては、最早混乱はありません。この立方体においては、二掛ける二に対して未だ三足す一にならなかった子供によって、知覚された立方体でもあるからです。

 これらの余りに単純な見方に対しての代数学者たちの強力な反発と、対象への如何なる表象も無いこれらの最初の命題を証明するための努力は、自然と生じます。数字や文字や記号がペンによって分配され、並べられ、置き換えられる対象でもあることを忘れるから、それ以外に彼らの仕事が成功することはないのです。そして代数学のどんな力もまさしく、これらの象徴を取扱うことによって事物そのものへの考察に代わることからやって来ます。その象徴の最終的配置は一般言語に翻訳され、その上、より一層自然な方法によって骨が折れて屢々不可能でもある解決をついに与えます。代数学によって扱われる算術に関する学校での問題は、機械的な計算の観念を余りに与えるでしょう。この観念は理解力の働きを紙上の象徴の配置を見分けることに帰しますが、決して大胆には変えないことに帰します。例えば、或る言葉を一つの要素からもう一つの要素へ移動させても、その記号を変えることをしないのです。

 私はここで、これらの大変に単純な関係を再発見するために読者をご案内しますが、それらの関係は所謂ニュートンの二項定理として良く知られている公式の展開においては沢山の組合せがあって並外れています。そこでは取分け、並列された象徴のa、bに関連して象徴のcのために三つの場所がありますが、少なくとも三つの場所があることが分かる単純な諸集合によって常に結合が如何にして計算されているのかが分かります。しかし、取分けa+bの和の自乗項を幾つか形あるものにすると、代数学者によって準備された経験の中で、その様なものとして対象の機能を推測させてくれる指数の連続した法則や、係数の対称が現れて来るのが分かります。行列式は、これらの計算を吟味するのに適した素朴な形への復帰の顕著な事例を、恐らくはもっと与えるに違いありません。しかし、これらの関係は代数学の至る所にありますし、注意されるや否や大変に驚かされます。幾何学の曲線が再び試みられない結果を屢々提供するまで、物質的な諸関係を表すことが出来るので、代数学も従って幾何学や全ての事物を表せます。しかし、単純であればある程、読み易くなりますけれども、同一種類の関係によってそれらは不自然に集合されますし、ペンによって整理された色々な対象の関係で、それらの中では従って驚きも雷雨も響き渡っています。(完)                       

 



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