目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第一章 言語について

 

 認識が少なくとも言葉によって如何にして広がり確認出来るのかを調べる前に、言語のことを論じなければなりません。抽象的な独創や空想や情熱や制度を述べて時を過ごすのには、言語は王です。短縮された説明において重要なのは、音楽の深みから代数の頂点まで及ぶ美しい領域を、その延長の中で広げることです。しかし先ずは言語の働きが如何にしてそれらの罠の中で、精神を手に入れているのかに驚嘆して下さい。言語を創り出すためには自らを理解しなければならず、それ故に話すことを学ぶ前に、話すことを認識しなければならないと作家たちは言っています。この子供っぽい話は、話すことなく先ず思考することを学んでいなかった人々によって哲学と見做されている、弁証法的な詭弁の典型です。

 叩くとか、与えるとか、取るとか、逃げるための動きと私が理解する人間の行動は、私たちにはこの世で最も興味あるものですし、子供に関係するこの世で唯一の事柄です。何故なら、子供の時代にはどんな幸も不幸もそこからやって来るからです。これらの行為は最初のしるしです。そして、これらのしるしを理解することは、先ずこれらの行為の効果を体験すること以外にはありません。人間はしるしによって接近する事物を見抜くことを学びますので、或る人が行おうとしていることを僅かな動きから大変に早く見抜くことを覚えても驚く必要はありません。人間のしるしという際限の無い領域を述べることだけが重要です。その目的のためには行為の素描とか初めの部分を先ず見分けます。それは次の様なことを十分に準備します。その様なこととは拳を突きつけたり、手を差し出したり、腕を組んだし、肩をそびやかしたりする様に、殆ど全ての動作の始まりでもあります。そこから自然に態度を見せる行為の準備に移ります。跪いたり俯せている人は戦わないでしょうし、背中を向ける人は恐れていないでしょうし、体を縮める人は飛び上がるでしょうし、以下同様のことが予感されます。結局のところ、これらの行為の準備に係る付随的な結果も又、注意しなければなりません。それらは人間の身体という工場から生じて、誰もが最も簡単な生理学に従って認識する様なものです。つまり顔を赤くしたり青くしたり、涙を流したり、震えたり、鼻や頬を動かしたり、ついには叫び声を上げたりします。叫びは筋肉の収縮というものにとっては自然の結果です。そして、この極端なしるしには非常に注意しなければなりません。それは他のしるしに取って代わり、回り道をして代数まで生む様に運命づけられているとここで述べなくてはなりません。しかし予め指摘されなければならないことは、抑制された行為そのものでしかない思考は、大変に明瞭なしるしも又与えています。それらのしるしは行為の停止であり、両目の働きや計画された運動で示される注意であり、ついにはそれらの運動による両手の運動であり、予め私たちは見た事物を触ったり量ったりします。あるいは単に視覚と聴覚を優遇します。これらのことは全てが良く知られています。これらのことを思い出し、私たちが動物たちのしるし、取分け人間のしるしと同様に家畜のしるしを解釈する術を知るのを言うことで十分です。馬に乗っている人は、馬の歩き振りや耳の動きで行おうとしていることを見抜きます。ここから考察しなければならないのは、言語が社会の子であることです。その上、最初に人間は孤独ですが、次ぎに大人と同盟するということは滑稽な作り話に過ぎません。数々の優れた言葉に続いて私はここでアガシ(1)の力強い言葉をどうしても引用したいと思います。「ヒースは常に荒野にあった如く、人間は常に社会にあった」。人間は生まれる前から社会の中で生きています。従って言語は人間と同時に生まれました。そして、私たちが社会の中に人間の力を感じるのは常に言語によってです。 人々が逃げ出す時には人も逃げますが、正確に言うならそれは強制されずに、そこで話したり理解したりすることです。それ故に教育でしかないのですが、模倣が如何にしてそこから社会そのものの表現になるしるしを、自然に単純化して統一するのかを理解しましょう。色々な儀式も常に儀式に関するしるしから成っていますし、身振りや舞踊はそこから生まれ、常に礼拝に結び付いています。そこからは又、行為や叫びによって慣例的な言語も生まれます。

 未だ理解すべきことは、何故人間の声が支配したのかが残っています。 というのも、声は言語の変化の秘密そのものであるからです。人間は自分の行為を話しました。何故でしょうか。それに関してダーウィンは一つの理由を言っています。叫びは夜であることも分からせてくれるとのことです。更に他にも色々な理由があります。叫びは注意を惹き起こしますが、身振りはもう注意を仮定しません。叫びは結局行為を伴いますが、身振りは中断します。行為と驚嘆だけの生活を考えてみましょう。私たちは、最初に身振りを伴いますが、次にはそれに代わるもののために、自然に明瞭なものになって抑揚を付けた叫びが生まれるのが分かります。その様にして慣例的となった声の言語が生まれます。しかし文字の様に、固定された身振りでしかないものは有用であり、人間は言葉を書くことを覚えます。つまり書かれた身振りと音声と発音による最も単純なデッサンによって表すことを覚えます。この文字は先ず音楽の様に歌わざるを得ませんでした。次には目で読むことを覚え、ご存知の様に音声が常に単純化されたり不鮮明であったりして、最早正確に対応しない時でさえも、書体や綴字法としての表象に結び付きます。その様にして文字によって言葉は目で数え上げる術を知り、手が一つに纏めたり置き換えたりする術を知る固定された対象になります。しかしながら、これらの性質は情熱の運動から逃れますが、それらのしるしの中から身振りや叫びが取って代わる不思議な力を見出すために、何時も大変に自然な努力が払われて来ました。しかし今は、この言語の不思議について触れない様にしましょう。これから述べることで重要なのは、明確な言語とか、少なくともそうでありたいと思うもので、単に言葉と共に思考することから成る遊戯に関することです。この認識が正当である限り、この認識は論証的と言えます。しかし、その氾濫は弁証法的であるかも知れません。(完)

 

(1)アガシ(一八〇七~七三)は、スイスの自然科学者である。

 


第二章 会話について

 

 誰でも知っていますが、暇な時の出会いにおける観念の交換はこの様に言えるとすれば、既知の決まり文句で行われます。精神は変奏曲の様にせいぜい言葉を楽しむだけで、思いがけないこと以外に喜びはありません。私はそこに昔の儀式の名残を見ますが、人々は色々なしるしを確認して十分に幸せでした。その様なものが社会の本当の楽しみです。精神が反抗しても、不毛の争いしか齎さないでしょう。活発な口論は敵を彼の領地へ追う必要性から、不意に襲ったり茫然自失させたりします。従って議論に勝つことが何らかの真理を何時か確立すると信じるのは、子供に違いありません。想像力は、明確に定まらない形には既に十分に力があります。一瞬びっくりする幾何学の詭弁にもそれは存在します。図形も無く単に言葉で議論する時、首尾良くより一層強くなった理性は、表現しない以上に不条理なことはありません。異議を唱えられない以上に理性的なものもありません。というのも、言葉は決して真実に結び付いたものではないからです。その反対に、言葉の起源が十分に理解させてくれる様に、常に言葉の意味を越えた向こうへ行くのが感動させる力であり、それが何であるのかを知らない動物にとっても証拠を示しているからです。

 言葉はお喋りの人々や、逆上し易い人々や、ほら吹きの人々のための劇場に何時もお任せする訳には行きません。しかし議論は素っ気なくて、はっきりした質問によって辛うじて言葉のこの魔法を乱しにやって来ますが、更にそれらの質問は相手にとっても自分自身にとっても罠だらけです。この他に外見上は同意したり、自分以外を非難尽くしにして安心したりすることで、議論に疲労して全てが終わることもあります。ここではカトリックの奥深い叡智に感嘆出来ますが、それは重大な問題がその様な即興的なものを自由にさせるのを望むことではありませんでした。しかしギリシアの賢人たちやプラトン自身は、既に人を納得させる術や説得する術のための探究をしておりました。不朽の数々の対話にその対象を見ることが出来ますが、結局のところそれは恐らく混乱の中に精神を投げ入れる一語一語の議論と、取分け読み返すのに役立つもので大変に力強い光を生む美しい祈りの間で多分探究されるのを対照とするものです。しかし、プラトンを読むには議論を遙かに越えていなければなりません。いずれにしても多くの人々は凡人ではなくて、更に次の様に言って厳密な多くの議論を望んでいます。「二つのことは一つである」とか「私がここで言いたいのはあなた自身の矛盾である」。学派のボカルドやパラリプトンの説以上のものは何もありません。しかし、虚偽と相容れないものが必然的に真理であり、そのことは反駁しながら証明することであるとの魅力的な観念に倣うなら賢人の子供時代の議論は何て無駄なことでしょう。勿論、宇宙はそんなことを無視します。

 しかしながら私たちは角、同形の三角形とか相似形の三角形、円、楕円、放物線を決して無視しません。これらのものは弁証法や先ずは言葉によって限定されながら、そして別な風には存在し得ないで、人が語るものによって推敲されます。次には、その思索者は確固たる結論が出るまであらゆる可能な反論を自分自身で行って推敲します。これらの数学的な弁証法の力は何時も思想家たちを少し茫然とさせて困らせますが、自然の秘密よりも沢山の代数学によるもっと抽象的な言葉が恐らくそれ以上に近づく時であり、少なくとも天文学や力学や物理学に近づく時です。この書物はそれらの困難をすっかり明らかにすることを目的と見做しますが、それは純粋論理学が可能にするもの、修辞学と呼ばなければならないもの、数学がより多くのことを可能にする理由、それらが何であるのかを説明する術を知るためのものでもあります。「鳩は、真空ではもっと良く飛べると思うかも知れない」とカントは言います。数学者もこれと全く同じ様で、自分の両目と両手に照らして対象にもっと止まって最早十分に思考しません。最早、単に言葉だけで更にもっと先を思考することが出来ると信じているかも知れません。そこから交替で余りに評価されたり無視されたりして、これらの弁証法的な遊戯が生まれたのですが、それが神学とか心理学とか魔法とか言われるものです。幾つもの真理を含んでいますが、情熱の服を着ていて、説得力のあるそれらの効力は全てが屢々余りに良く出来た三段論法とか抗弁の余地の無い反論に帰せる様にするためです。多分、議論を最もしない哲学者の一人がアリストテレスです。恐らく自分の青春時代に大変に力を入れて学説的に議論する術を身につける思想を持っていたのが、プラトンの弟子であるアリストテレスです。そして、アリストテレスの驚異的な体系は全ての可能な議論も形式化されていて、幾ら鋭敏で緻密な諸世紀でも大したものを追加しませんでした。もしもアリストテレスを偏見無く読んだならば、最早論理学や言葉の学問と同時に理性の学問も見ないでしょうし、寧ろ全て言語だけが理解力を負っているものを扱う真の修辞学を見るでしょう。それを何と呼ぼうが、お望みの通りです。従って論理学に関して如何なる扱いをしても構わずに読者を連れ戻すなら、詳細と体系のために何らかの事例を今から調べなければならないのは、一般文法学の様なものです。それらの奥義を知るや否や、全てが正しくなります。(完)

 


第三章 論理学と修辞学について

 

 言語の命題が対象に適しているか否かを調べるのに応用される修辞学があります。この修辞学はどんな学問にも伴っています。例えば、正しい人は全て幸福である、という命題を調べるためには、言葉と対象を検討することが重要です。一般に論理学と呼んでいる純粋な修辞学は、少なくとも命題の相等性に関わっています。あるいはお望みであるなら言葉の多様性の元に、意味の一致に関わっています。更に言えることは、その純粋な修辞学が一つ又は複数の命題から、対象を考えることなく単に言葉によって新しい言い方を如何にして引き出せるのかを検討することです。従って、正しい人は全て幸福である、の命題から引き出せるのは、幾人かの幸福な人は正しい人である、になりますが、幸福な人は全て正しい人である、にはなりません。しかし、如何なる不正な人も幸福ではない、という否定から引き出せるのは、如何なる幸福な人も不正の人ではない、という命題です。

 ここで対象を考えようとしたり、幸福とか正義についての何らかの議論を始め様と試みたりしないためには、アリストテレスが既に行った様に、数々の項目を文字で表すのが好都合です。その様にして、幾つかのAはBである、から引き出すのは、幾つかのBはAである、です。それでも、幾つかのAはBではない、から引き出すのは全て何でもないでしょう。ここでお分かりになるのは、今日の記号論理学者たちが試みた様に、一種の代数学によってこれらの結論を述べることもあり得るということです。これらの単純な事例によってここで思い出される諸原則は、際限の無い研究を判断する役に立ち得るでしょうが、それらの研究に従事する苦労によって何時も、余りに評価のされ過ぎです。

 同じ言葉による反対の命題は、数々の単純な観察を行う機会を与えますが、言葉の全てや、幾らかや、一つ一つの意味を把握させてくれるのに非常に有益です。いわば一般文法の様なものです。もしも、全てのAはBである、が正しい命題であると定められたなら、反対の命題である、如何なるAもBではない、は誤りになります。しかし前者の命題が誤りであったなら、後者の命題は正しいかも知れませんし、誤りかも知れません。全てのAはBである、ことと、幾らかのAはBではない、ことは同一ではありません。というのも一つは正しいか誤りになることから、もう一つは誤りか正しいことを引き出さなければならないからです。

 会話でも又、これらの言い方が使われます。全く形式上の理性の働きによって、もう一つの命題を生じさせるよりも、命題そのものを点検する方が有益になるでしょう。経験から引出された命題は寧ろ、もしもAであるならBでもある、ということになるなら更に前者に等しい仮説と呼ばれる形式を表しています。それはまるで、もしも或る人が正しいとするなら彼は幸福である、と言われた様なものです。もう一つのこの言い方は、少し異なった分析が導き出されるでしょうし、次の様に推論されるでしょう。もしもAであるならBです。あるいは、Aであることはそれ故Bです。あるいは、もしもAであるならBですから、Bでないことはそれ故Aではありません。それなのにお分かりの様に、Aでない、又はBであることの命題が何も導いていないのです。もしもAでないならBでもない、を前者の命題に追加しなければならなかったに違いありません。数々の対象は何も与えません。言われていることを単に考えるだけです。言われていることはその様な言い方を含んでいるか否かを考えるだけです。

 この草稿をもう少し書いて終わりにするためには、最後の形式から昔からの三段論法へ移れます。もしもAであるならBです、と言わないでその代わりに、Aであるものは何でもBです、と言いましょう。もしもXはBである、という命題を追加したなら、XはAである、という結論も導かれるでしょう。AはBを排除する、ということから、もしもAであるならBではない、というもう一つの形式も同じ様なものです。XはAである、ということから、XはBではない、と結論付けるのも同じ様なものです。Xが全てであるとか、幾らかであるとか、一つであるのは、それがXと同じXであるからです。そこには三段論法の第一の形があります。羨望する人は誰もが惨めです。野心家は誰もが羨望する人です。野心家は誰もが惨めです。これと同じ仮定から出発して、もしもAである者は全てがBであるとして、XはBでないと定めます。又は、もしもAがBを排除したならXはAでないことが結論付けられるでしょう。それは三段論法の第二の形になります。例えば私が三段論法と呼ぶ、第三の形と三段論法とを良く区別するのを除いて、これらの二つの形を導く方法は最も自然の様に思います。前者では、もしも幾らかでも全てでも一つでもあるXが、同時にAとBであったなら、AとBは時々一致します。あるいは所謂幾らかのAはBになると結論付けることになります。全てであったり幾らかであったり、そうであったりなかったりする諸形式のために、それらを全て再発見するために有効に働きますが、注意しないことは決してありません。

 これらの変化の原理を発見するのは難しくありません。理解力は同一の思想を二つの様式の元であったり、あるいは別の言葉で見分けなければなりませんし、対象を見ること無く書かれた思想から、別の書かれた思想を引出すことは許されないことです。従って、同一性の原則は少なくとも明確な言葉に基づいて働きかけて、認識を広げたいと願う弁証家への警告として、論理学の研究において自らの原理そのものに見えます。以上は、些か不毛な研究の報いです。全く厳密に研究を行えば、その報いは知覚も無く理性の働きが進んで行き、どんな理性の働きも確かに幾つもの誤りを閉じ込めることを良く示しています。これらの全ての誤りは大変自然なものであり、対象への考察による言葉の意味をだんだんと豊かにすることから生じますが、そのことは言うことも無く、知ることさえもありません。(完)

 


第四章 注 釈

 

 ところで、この章では学校という茂みへ狩りをしに行くことにします。植物の様な言葉は二つの方法によって理解されます。あるいは、その言葉が適する沢山の生物のことを意味する様に、換言すれば一つの集合です。それ故に、延長として理解されます。あるいは定義に結び付いているかの様です。例えば、植物とは種子によって繁殖し、空気中の炭素を葉緑素によって固定させる生物です。その時は内包的なものに理解されます。不思議なことは、三段論法も一つの体系であり、あるいはもう一つの体系に倣って二つに読めることです。延長において、もしも羨望する人に見える人々は誰もが幸福な人々に入らないとすると、そしてもしも全ての虚栄心の強い人々は羨望する人々に入るとすると、虚栄心の強い人々は幸福な人々に入らないと結論付けなければなりません。これはまさに、一方の円がもう一方の他方の円の中に含まれるか、一方が他方の外にある円で表されます。羨望する人々の集合は虚栄心の強い人々の集合の全てを含み、幸福な人々の円の外にあるのです。内包的には全てが別ものになります。二等辺三角形の定義により、もしも二つの角が等しければ必然的な結果になります。もしも円の中心にあるどんな三角形も必然的に二等辺になるとすると、その様な三角形はどんなものでも必然的に二つの角が等しい結果になります。あるいは更に、もしも幸福が常に必然的に賢明の属性であるなら、そしてもしも賢明が人間の属性になり得るなら、その結果は幸福も又人間のものになり得ます。これらの関係を図にするためには円で描くことが出来ますが、或る性質を含めるか除くのかが、その時は定義になるのですから、全く別なやり方で難無く理解する様に集めて描くことが出来ます。幾らかや全てが、可能性や必然性の代わりになります。一方か他方かの読み方をしても、三段論法は同じ速度で進みます。通俗的なものと体系的なものとがはっきりと区別されるのと同じで、思考するにも二つの方法がある様に、一方は沢山の事例から証拠を引出しますし、他方は観念から引出します。それは更に論理学とか修辞学が、事物にも調査にも触れずに単に言い方に関係しているだけのしるしなのです。

 三段論法の第三の形は、それらの形を比較するなら、同一の道に導かれます。何故なら、前者の二つは結合された二つの仮説を発展させるために、理論的な証明の表現に適しているからです。第三の形は、常に事例によって証明するので、全く違って来ます。従って、その結論は決して普遍的でないと気付くことが出来ます。理解力とか延長の中でそれらの両方を読むことが出来るので、論理学は諸方法を含まず、精々何らかの反映を与えるだけであるのが分かります。かくして第三の形において主語又は事物は中間項であり、結論の中では消えて仕舞います。世俗の思想、取分け数々の事例の蓄積によって強い印象を与えられた思想が、個別の存在を把握する代わりに数々の公式に達します。その代わりに前者の二つにおける主語は、換言すれば事物が、結論の実際の主語になります。二つの等しい角を持つ或る三角形があります。そこには二つの角がありますが、他の色々な性質によって必然的にそこで先ず認められたことです。そして、一つの場所が問題であるとするなら、もう一度言われるでしょうが、用心することです。この場所では二等辺三角形である範囲内で、同様に二つの等しい角を持っていて、誤りもそこに関連して来ます。従って、真の科学は自然の事物を近似法で把握します。つまり多くの誤りを制限しますが、世俗の考えは沢山の経験で一種の確率に達します。蓄積によるこの証明は屢々帰納法と呼ばれています。体系的探究においては十分に考察しないで、理論が大変入念に枠内に納めるや否や、唯一の経験からでも証明します。その時に経験が何回も繰返されるならば、それは証明を強固にするよりも寧ろ知覚を最良にするためです。さて、殆ど錯綜した茂みの中にいて少なくとも標注だけを立てるには、これ以上は先へ這入らないことにしましょう。私が注意を与えるのは、少なくとも諸原因を疑わずに成功を考える盲目的な確率と、トランプ遊びや骰子二つとタンブラーの骰子遊びやルーレットの様な機械的に定められたルールでそれらの結果が負わされる確率とがあることです。少し何でもここで話をして仕舞い、謝ります。〈注釈〉に関しては不足だらけです。(完) 

 


第五章 幾何学について

 

 幾何学は、経験という諸対象の間の距離と大きさの関係の確立を目指す諸形式の明細目録です。その法則は最も単純な形から出発して、だんだんとそれらの形を複雑にする処にあります。この成功には次の様な、同等とか相似の三角形で解決出来ない幾何学的に問題になるものは少しもありません。定められた形として最も単純の或る三角形とは、最も単純な線が直線である様なものです。そして、三角形とは三本の直線で囲まれた軸上に全てが描かれたものであり、曲線は決してありません。これらの三角形は先ず点と線であり、これと同時に距離と方向です。そして次には二つの運動の区別があります。その運動は、一本の直線に沿う長さのものと、固定された一点の周りを回転する直線のものです。そこから角度と円が生まれますが、それらは一つしか生みません。そこから出発して探究の二つの秩序が発展します。一つは、平面の図形であり、表面の線に関係したものであり、最後には体積に関係したものになります。もう一つは、サインやタンジェントの様にきちんんと選択された直線の角度とそれらに関係したものです。最後の征服は曲線のものになります。数々の円錐体がそれらの主要なものになります。

 認識の目的が認識自体にあるというのは、大変に古い偏見です。そして教育は多分必然的な結果として、図形以外には何も探究しない学問の一つの外観を幾何学に与えています。それ故に私たちが確かな印象を得て、他の印象から離れるために行わなければならない運動を予想するのを目指して、認識は事物そのもの以外に他の対象を持っていないことを繰返し言わなければなりません。従って幾何学は方向と測量と体積計算を目的と見做しております。その応用は科学全体の領域を覆っています。そして、コントが気付かせてくれた様に、私たちがそこで用いる主要な策略は、線を測るのを最小にして、あり得るかも知れない最も可能な角度を測ることで、それが大きな予測を築きます。いずれにしても数々の事物を、現実の形に近付ける直線と曲線の網の中に捉えることが重要です。読者は既に十分にお分かりになったことと思いますが、現実の形とは更にこの網そのものによる形以外には無いのです。

 これらの指摘によって、今では定理の古典的問題に作為的困難も無く取組むことが可能です。もしも曖昧でない命題の形で何らかの新データが与えられなければ、論理学そのものの幾何学的な理性の働きは、遠くへ行くことがないのが分かります。それは常に何らかの新しい図形であり、そして言語の中で古いものと明確なものとの結合によって取得されます。幾何学が対象無しでは済まないことを既に十分に分からせてくれます。ところが著作者たちは、定理とか要求を既に認めていて、それらが無ければそれ以上前へ進められないのです。知覚に関する十分な研究は、これらの定理が更に定義でもあることを示すのを可能にしています。紙上に描かれた想像上の対象を、真実として存在する精神の形式からどちらが真の幾何学として扱うのか、少なくとも良く識別しなければなりません。従って直線とは、一点から他の点へ絶えず向かう運動によって最も良く定義されます。その様に直線とは方向そのものです。しかし著作者たちは、最短距離も直線の本質であると求め、定理として提起したがっています。しかしながら方向とは何であるのかを考えてみましょう。それは先ず、私たちと近寄れないで離れている事物との間の直接的関係です。これは予測した言い方です。粗雑な図形によらないで、想像力によって決して騙されない儘でいるなら、二点間には一つの方向しかないということが定義そのものから生じます。というのも、二つの方向を区別するには、少なくとも二つの方向の中間を考えなければなりませんから、それは少なくともその関係が二点の間にあるので定義に反することになるでしょう。二つの同一の点を通過する二本の直線とは、観念上は一本になるしかありません。従って描かれた観念も決して混同しないことだけが重要です。直線とは一点から別の点までの最短の道であるとつけ加えて言う時も、恐らく間違った言い方をしているのです。何故なら、この世には人が望むのと同じ位に数々の道があるからです。しかし、一点から別の点までには、他の点を何も考えなければ一本の直線しかない様に、一つの距離しかありません。二点の間のその直線は、二点の間の距離そのものであり、最早その距離は常に同一方向に従う一点の運動以上には短くなり得ません。あるいは又、もっと短い距離が直線上で、もっと近い一点を決定するのかも知れません。これらの様々な距離は、同一の直線上でしか決して比較されません。従ってもしも、もう一つ別の距離がもっと短くなっていたなら、それは数々の点の中の一点を別の点とは結び付けないことを意味しますし、それ以外の意味は持てない筈です。

 しかし、直線のこの特性は直線それ自体の様に、経験が無ければ考えられる筈が無いことも同様に十分注意しましょう。もしもそこに対象、つまり感じ易い多様性が少しも無いならば、直線とは最早何ものでもありません。従って幾何学者は、少なくとも暗黙の約束という数々のしるしによって、色々な点を区別しながら、十分な多様性を与えられていて、嘘つきになることは最も少ないのです。その点そのものは、少なくとも距離によってもう一つ別の異なった事物です。大きさも形も注意しない条件ならば、大きな斑点も小さな斑点もまさに同じです。もしも注意したなら、各々の斑点が幾つもの対象になって一つではなくなります。かくして幾何学者は意志によって言葉に曖昧ではない意味を力説して、諸外観と戦います。

 唯一の直線が距離を限定する様に、唯一の平行線は回転を限定します。もしも数々の直線がこの世で探究すべき事物であったなら、与えられた一点による直線には一つの平行線しかないかどうか自問するかも知れません。しかし直線とは設けられて保持されているものです。一点の周りを一本の直線を回転させて下さい。もう一本の直線と共に、どんな角度も作るのが可能ですし、ゼロ角度も含みます。それでは何故ゼロ角度が、例えば半角度の角度を作らない様に、直角の位置を限定しないと認められるのでしょうか。半角度という角度は、二本の直線を限定していることを何に対しても言われるでしょう。そうです、粗雑な想像力にとっては二本ですが、如何なる曖昧さも無い多量な回転を描きたくなると、申し分なくそれを行う型に嵌まった一つの方向でそれらの角度を測るならば、二つになりません。それでは何故その時に、ゼロ角度に幾つもの角度があると認めるのでしょうか。角度がゼロになる時、あなたは最早右や左を通過するものを知らないと私は理解します。だが、あなたの旅は遠くへ来過ぎています。勿論、旅が重要ではありません。あなたが言ったことに従う以外に何も済ませません。図面と観念を混同しないで下さい。その上、幾つもの平行線があると言っても少しも構わないのです。そして、人々は非ユークリッド幾何学において、少しも矛盾を見出すことなくそれを試みて来ました。そして、私もそれを正しいと思っています。人々が矛盾としていること以外に、その話には矛盾がありません。諸事物は何も言いませんし、反対もしません。更にその上、この幾何学は把握するべき対象を発見する限りは、それで良いのです。そうでなければ、遊戯でしかありません。(完) 

 



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