目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第十二章 メカニズムについて

 

 メカニズムは全ての変化が運動であるという世界観です。例えば気体の圧力は、それらの分子の活発な運動によって説明されます。光は波動です。固体とは引き付けられた原子の組織体です。この宇宙的メカニズムという仮説の中に原子と力と慣性も含んでいなければならないのは、それらの全てがお互いに関連しているからです。理解力がここでは全ての私たちの表象に本来の法則を課していることは確かです。その様に理解しなければなりません。さもないと全てを理解していないことになります。

 しかし、如何なる証明もそれ自体では自立せず、常に何らかの攻撃があり、それらの証明が鉄条網の様に単に防御から離れないなら、衰えて仕舞うのが哲学の大きな秘密です。精神は諸証明の背後にいると強くなりませんが、少なくともその中で常に諸証明を前進させるものです。そして、この宇宙的メカニズムの事例は、まさにそのことを理解して貰うのに適切です。というのも、私たちの表象が少なくとも物質的有用性のためであって暴くものが何も無く、両目と両手で上手く知覚されないかも知れず、恐らく他の道で見抜いたり予知したりしなければならないことを仮定したがる懐疑家や神秘家の攻撃にあなたは何と答えられるのか、ここに哲学がまさしく倫理学であって空虚な好奇心のものでないことを理解させてくれる理由があるからです。

 ルクレティウス(1)は、デモクリトスやエピクロスが最も有名である原子論と言われている多くの人々の探究を果敢に押し進めましたが、情熱や奇跡や予言者や神々に対して断固として意志を緊張させていたこれらの奥深い体系の精神を、生き生きとした光の中に照らして明らかにしました。しかし、囚人は脱走して死にました。驚くべきことですが、酩酊者であったとか、憤慨していたとか、あるいは恐らく何時も根強い熱情を隠すしかない理由のためとか、弟子の裡では共通してある想像力と理解力の取替えによって説明がつくものです。ルクレティウスは事物の建築家と偶像の破壊者をすっかり忘れて、深淵を越えて先ずは単純な運動を目指す精神がついにそれらを試みて複雑にしますが、まるで正確な明細目録を作るために最後には全ての富を把握して戻す網の様です。彼はその中で、メカニズムが自由への方法と道具であると同時にまさしく自由の証明であることを忘れていました。何故なら、自然はこの驚異的な体系を支えていますが、決して与えてくれないからです。

 運動による変化の表象は、まさしく偏見です。そうです。回転する玉突きの球という最

も単純な場合でさえも、数々の外観に運動という仮説を強制するものは何もありません。そして、鋭敏なゼノンが気付いた様に、その球は同一の場所には同一の時にしかないので、運動を見せているのは常に球ではありません。映写機では走る馬は決して同一ではなく、スクリーンに映るイマージュは全てが異なっているのは本当である様に、球は消えると直ぐにその横でもう一つの球が生まれると仮定するのを妨げるものは何もありません。運動とは、単に好きな様に見て選択されているのです。勿論、容易なことではありません。というのも、夢を見るのは最も容易なことで、救世主であり悪魔を祓う人ですが、あらゆる魔術に反対する精神の武器の様なものでもあるからです。メカニズムを吟味する自然によって、精神は不変です。そうです。しかし精神はメカニズムを設けて、維持し、作り出し、余りに複雑にした状況で吟味します。怠惰な物理学者はその証明を見失います。彼は神も精神も忘れて、子供の恐怖と偽りの神々と何処にでもある精神に再び陥ります。寧ろ、物質の中に精神を隠して、あらゆる手段で自分の目的に進む頑なな意志で必然性を歪めます。それの本当の名は宿命と言います。ここに私たちの敵を捕らえます。真の物理学者は反対に、自然の力を持ったあらゆる自由の外観を取り除きます。そしてメカニズムに面と向かい、それと同時に自分の精神を解放します。

 確かに、それは情熱が飛び込んで来るので困難であり、辛いものでさえもあります。一つ一つに形がある数々の木の葉に精神を拒否するのは情熱の戦いです。それらの木の葉の相違が種子の中にある訳ではなく、それらの形と配置の要素が空気と光の中で、炭素で出来た鍾乳石に与える様なものです。こちらではキヅタの形となり、あちらではプラタナスの形を与えますが、濃縮された溶液の中で樹木に似ている結晶を与えることを、まさしく知識になる前に望むのは困難です。その反対に、横になって眠ること、そして種子の中に隠されて目に見えない建築を想像することは簡単です。それは自らの好きな計画を少しずつ実現させることです。これらは霊媒や霊術者の奇跡に溺れて、何も分からないと言ったりテーブルに計り知れない力や隠れた精神を捏造する夢想家たちと変わりありません。しかし、それらの精神の中で打ち勝った精神でなければなりません。ルクレティウスはそこに自らの精神を見失いましたが、デカルトは見失いませんでした。そこを注意することです。(完)

 

(1)ルクレティウス(前九八頃~前五五)は、古代ローマの哲学者・詩人で、エピクロスの思想を継ぎ哲学詩『物の本性について』を書いた。

 


第三部

 

 

 

 

 

第三部 論証的認識について


第一章 言語について

 

 認識が少なくとも言葉によって如何にして広がり確認出来るのかを調べる前に、言語のことを論じなければなりません。抽象的な独創や空想や情熱や制度を述べて時を過ごすのには、言語は王です。短縮された説明において重要なのは、音楽の深みから代数の頂点まで及ぶ美しい領域を、その延長の中で広げることです。しかし先ずは言語の働きが如何にしてそれらの罠の中で、精神を手に入れているのかに驚嘆して下さい。言語を創り出すためには自らを理解しなければならず、それ故に話すことを学ぶ前に、話すことを認識しなければならないと作家たちは言っています。この子供っぽい話は、話すことなく先ず思考することを学んでいなかった人々によって哲学と見做されている、弁証法的な詭弁の典型です。

 叩くとか、与えるとか、取るとか、逃げるための動きと私が理解する人間の行動は、私たちにはこの世で最も興味あるものですし、子供に関係するこの世で唯一の事柄です。何故なら、子供の時代にはどんな幸も不幸もそこからやって来るからです。これらの行為は最初のしるしです。そして、これらのしるしを理解することは、先ずこれらの行為の効果を体験すること以外にはありません。人間はしるしによって接近する事物を見抜くことを学びますので、或る人が行おうとしていることを僅かな動きから大変に早く見抜くことを覚えても驚く必要はありません。人間のしるしという際限の無い領域を述べることだけが重要です。その目的のためには行為の素描とか初めの部分を先ず見分けます。それは次の様なことを十分に準備します。その様なこととは拳を突きつけたり、手を差し出したり、腕を組んだし、肩をそびやかしたりする様に、殆ど全ての動作の始まりでもあります。そこから自然に態度を見せる行為の準備に移ります。跪いたり俯せている人は戦わないでしょうし、背中を向ける人は恐れていないでしょうし、体を縮める人は飛び上がるでしょうし、以下同様のことが予感されます。結局のところ、これらの行為の準備に係る付随的な結果も又、注意しなければなりません。それらは人間の身体という工場から生じて、誰もが最も簡単な生理学に従って認識する様なものです。つまり顔を赤くしたり青くしたり、涙を流したり、震えたり、鼻や頬を動かしたり、ついには叫び声を上げたりします。叫びは筋肉の収縮というものにとっては自然の結果です。そして、この極端なしるしには非常に注意しなければなりません。それは他のしるしに取って代わり、回り道をして代数まで生む様に運命づけられているとここで述べなくてはなりません。しかし予め指摘されなければならないことは、抑制された行為そのものでしかない思考は、大変に明瞭なしるしも又与えています。それらのしるしは行為の停止であり、両目の働きや計画された運動で示される注意であり、ついにはそれらの運動による両手の運動であり、予め私たちは見た事物を触ったり量ったりします。あるいは単に視覚と聴覚を優遇します。これらのことは全てが良く知られています。これらのことを思い出し、私たちが動物たちのしるし、取分け人間のしるしと同様に家畜のしるしを解釈する術を知るのを言うことで十分です。馬に乗っている人は、馬の歩き振りや耳の動きで行おうとしていることを見抜きます。ここから考察しなければならないのは、言語が社会の子であることです。その上、最初に人間は孤独ですが、次ぎに大人と同盟するということは滑稽な作り話に過ぎません。数々の優れた言葉に続いて私はここでアガシ(1)の力強い言葉をどうしても引用したいと思います。「ヒースは常に荒野にあった如く、人間は常に社会にあった」。人間は生まれる前から社会の中で生きています。従って言語は人間と同時に生まれました。そして、私たちが社会の中に人間の力を感じるのは常に言語によってです。 人々が逃げ出す時には人も逃げますが、正確に言うならそれは強制されずに、そこで話したり理解したりすることです。それ故に教育でしかないのですが、模倣が如何にしてそこから社会そのものの表現になるしるしを、自然に単純化して統一するのかを理解しましょう。色々な儀式も常に儀式に関するしるしから成っていますし、身振りや舞踊はそこから生まれ、常に礼拝に結び付いています。そこからは又、行為や叫びによって慣例的な言語も生まれます。

 未だ理解すべきことは、何故人間の声が支配したのかが残っています。 というのも、声は言語の変化の秘密そのものであるからです。人間は自分の行為を話しました。何故でしょうか。それに関してダーウィンは一つの理由を言っています。叫びは夜であることも分からせてくれるとのことです。更に他にも色々な理由があります。叫びは注意を惹き起こしますが、身振りはもう注意を仮定しません。叫びは結局行為を伴いますが、身振りは中断します。行為と驚嘆だけの生活を考えてみましょう。私たちは、最初に身振りを伴いますが、次にはそれに代わるもののために、自然に明瞭なものになって抑揚を付けた叫びが生まれるのが分かります。その様にして慣例的となった声の言語が生まれます。しかし文字の様に、固定された身振りでしかないものは有用であり、人間は言葉を書くことを覚えます。つまり書かれた身振りと音声と発音による最も単純なデッサンによって表すことを覚えます。この文字は先ず音楽の様に歌わざるを得ませんでした。次には目で読むことを覚え、ご存知の様に音声が常に単純化されたり不鮮明であったりして、最早正確に対応しない時でさえも、書体や綴字法としての表象に結び付きます。その様にして文字によって言葉は目で数え上げる術を知り、手が一つに纏めたり置き換えたりする術を知る固定された対象になります。しかしながら、これらの性質は情熱の運動から逃れますが、それらのしるしの中から身振りや叫びが取って代わる不思議な力を見出すために、何時も大変に自然な努力が払われて来ました。しかし今は、この言語の不思議について触れない様にしましょう。これから述べることで重要なのは、明確な言語とか、少なくともそうでありたいと思うもので、単に言葉と共に思考することから成る遊戯に関することです。この認識が正当である限り、この認識は論証的と言えます。しかし、その氾濫は弁証法的であるかも知れません。(完)

 

(1)アガシ(一八〇七~七三)は、スイスの自然科学者である。

 


第二章 会話について

 

 誰でも知っていますが、暇な時の出会いにおける観念の交換はこの様に言えるとすれば、既知の決まり文句で行われます。精神は変奏曲の様にせいぜい言葉を楽しむだけで、思いがけないこと以外に喜びはありません。私はそこに昔の儀式の名残を見ますが、人々は色々なしるしを確認して十分に幸せでした。その様なものが社会の本当の楽しみです。精神が反抗しても、不毛の争いしか齎さないでしょう。活発な口論は敵を彼の領地へ追う必要性から、不意に襲ったり茫然自失させたりします。従って議論に勝つことが何らかの真理を何時か確立すると信じるのは、子供に違いありません。想像力は、明確に定まらない形には既に十分に力があります。一瞬びっくりする幾何学の詭弁にもそれは存在します。図形も無く単に言葉で議論する時、首尾良くより一層強くなった理性は、表現しない以上に不条理なことはありません。異議を唱えられない以上に理性的なものもありません。というのも、言葉は決して真実に結び付いたものではないからです。その反対に、言葉の起源が十分に理解させてくれる様に、常に言葉の意味を越えた向こうへ行くのが感動させる力であり、それが何であるのかを知らない動物にとっても証拠を示しているからです。

 言葉はお喋りの人々や、逆上し易い人々や、ほら吹きの人々のための劇場に何時もお任せする訳には行きません。しかし議論は素っ気なくて、はっきりした質問によって辛うじて言葉のこの魔法を乱しにやって来ますが、更にそれらの質問は相手にとっても自分自身にとっても罠だらけです。この他に外見上は同意したり、自分以外を非難尽くしにして安心したりすることで、議論に疲労して全てが終わることもあります。ここではカトリックの奥深い叡智に感嘆出来ますが、それは重大な問題がその様な即興的なものを自由にさせるのを望むことではありませんでした。しかしギリシアの賢人たちやプラトン自身は、既に人を納得させる術や説得する術のための探究をしておりました。不朽の数々の対話にその対象を見ることが出来ますが、結局のところそれは恐らく混乱の中に精神を投げ入れる一語一語の議論と、取分け読み返すのに役立つもので大変に力強い光を生む美しい祈りの間で多分探究されるのを対照とするものです。しかし、プラトンを読むには議論を遙かに越えていなければなりません。いずれにしても多くの人々は凡人ではなくて、更に次の様に言って厳密な多くの議論を望んでいます。「二つのことは一つである」とか「私がここで言いたいのはあなた自身の矛盾である」。学派のボカルドやパラリプトンの説以上のものは何もありません。しかし、虚偽と相容れないものが必然的に真理であり、そのことは反駁しながら証明することであるとの魅力的な観念に倣うなら賢人の子供時代の議論は何て無駄なことでしょう。勿論、宇宙はそんなことを無視します。

 しかしながら私たちは角、同形の三角形とか相似形の三角形、円、楕円、放物線を決して無視しません。これらのものは弁証法や先ずは言葉によって限定されながら、そして別な風には存在し得ないで、人が語るものによって推敲されます。次には、その思索者は確固たる結論が出るまであらゆる可能な反論を自分自身で行って推敲します。これらの数学的な弁証法の力は何時も思想家たちを少し茫然とさせて困らせますが、自然の秘密よりも沢山の代数学によるもっと抽象的な言葉が恐らくそれ以上に近づく時であり、少なくとも天文学や力学や物理学に近づく時です。この書物はそれらの困難をすっかり明らかにすることを目的と見做しますが、それは純粋論理学が可能にするもの、修辞学と呼ばなければならないもの、数学がより多くのことを可能にする理由、それらが何であるのかを説明する術を知るためのものでもあります。「鳩は、真空ではもっと良く飛べると思うかも知れない」とカントは言います。数学者もこれと全く同じ様で、自分の両目と両手に照らして対象にもっと止まって最早十分に思考しません。最早、単に言葉だけで更にもっと先を思考することが出来ると信じているかも知れません。そこから交替で余りに評価されたり無視されたりして、これらの弁証法的な遊戯が生まれたのですが、それが神学とか心理学とか魔法とか言われるものです。幾つもの真理を含んでいますが、情熱の服を着ていて、説得力のあるそれらの効力は全てが屢々余りに良く出来た三段論法とか抗弁の余地の無い反論に帰せる様にするためです。多分、議論を最もしない哲学者の一人がアリストテレスです。恐らく自分の青春時代に大変に力を入れて学説的に議論する術を身につける思想を持っていたのが、プラトンの弟子であるアリストテレスです。そして、アリストテレスの驚異的な体系は全ての可能な議論も形式化されていて、幾ら鋭敏で緻密な諸世紀でも大したものを追加しませんでした。もしもアリストテレスを偏見無く読んだならば、最早論理学や言葉の学問と同時に理性の学問も見ないでしょうし、寧ろ全て言語だけが理解力を負っているものを扱う真の修辞学を見るでしょう。それを何と呼ぼうが、お望みの通りです。従って論理学に関して如何なる扱いをしても構わずに読者を連れ戻すなら、詳細と体系のために何らかの事例を今から調べなければならないのは、一般文法学の様なものです。それらの奥義を知るや否や、全てが正しくなります。(完)

 


第三章 論理学と修辞学について

 

 言語の命題が対象に適しているか否かを調べるのに応用される修辞学があります。この修辞学はどんな学問にも伴っています。例えば、正しい人は全て幸福である、という命題を調べるためには、言葉と対象を検討することが重要です。一般に論理学と呼んでいる純粋な修辞学は、少なくとも命題の相等性に関わっています。あるいはお望みであるなら言葉の多様性の元に、意味の一致に関わっています。更に言えることは、その純粋な修辞学が一つ又は複数の命題から、対象を考えることなく単に言葉によって新しい言い方を如何にして引き出せるのかを検討することです。従って、正しい人は全て幸福である、の命題から引き出せるのは、幾人かの幸福な人は正しい人である、になりますが、幸福な人は全て正しい人である、にはなりません。しかし、如何なる不正な人も幸福ではない、という否定から引き出せるのは、如何なる幸福な人も不正の人ではない、という命題です。

 ここで対象を考えようとしたり、幸福とか正義についての何らかの議論を始め様と試みたりしないためには、アリストテレスが既に行った様に、数々の項目を文字で表すのが好都合です。その様にして、幾つかのAはBである、から引き出すのは、幾つかのBはAである、です。それでも、幾つかのAはBではない、から引き出すのは全て何でもないでしょう。ここでお分かりになるのは、今日の記号論理学者たちが試みた様に、一種の代数学によってこれらの結論を述べることもあり得るということです。これらの単純な事例によってここで思い出される諸原則は、際限の無い研究を判断する役に立ち得るでしょうが、それらの研究に従事する苦労によって何時も、余りに評価のされ過ぎです。

 同じ言葉による反対の命題は、数々の単純な観察を行う機会を与えますが、言葉の全てや、幾らかや、一つ一つの意味を把握させてくれるのに非常に有益です。いわば一般文法の様なものです。もしも、全てのAはBである、が正しい命題であると定められたなら、反対の命題である、如何なるAもBではない、は誤りになります。しかし前者の命題が誤りであったなら、後者の命題は正しいかも知れませんし、誤りかも知れません。全てのAはBである、ことと、幾らかのAはBではない、ことは同一ではありません。というのも一つは正しいか誤りになることから、もう一つは誤りか正しいことを引き出さなければならないからです。

 会話でも又、これらの言い方が使われます。全く形式上の理性の働きによって、もう一つの命題を生じさせるよりも、命題そのものを点検する方が有益になるでしょう。経験から引出された命題は寧ろ、もしもAであるならBでもある、ということになるなら更に前者に等しい仮説と呼ばれる形式を表しています。それはまるで、もしも或る人が正しいとするなら彼は幸福である、と言われた様なものです。もう一つのこの言い方は、少し異なった分析が導き出されるでしょうし、次の様に推論されるでしょう。もしもAであるならBです。あるいは、Aであることはそれ故Bです。あるいは、もしもAであるならBですから、Bでないことはそれ故Aではありません。それなのにお分かりの様に、Aでない、又はBであることの命題が何も導いていないのです。もしもAでないならBでもない、を前者の命題に追加しなければならなかったに違いありません。数々の対象は何も与えません。言われていることを単に考えるだけです。言われていることはその様な言い方を含んでいるか否かを考えるだけです。

 この草稿をもう少し書いて終わりにするためには、最後の形式から昔からの三段論法へ移れます。もしもAであるならBです、と言わないでその代わりに、Aであるものは何でもBです、と言いましょう。もしもXはBである、という命題を追加したなら、XはAである、という結論も導かれるでしょう。AはBを排除する、ということから、もしもAであるならBではない、というもう一つの形式も同じ様なものです。XはAである、ということから、XはBではない、と結論付けるのも同じ様なものです。Xが全てであるとか、幾らかであるとか、一つであるのは、それがXと同じXであるからです。そこには三段論法の第一の形があります。羨望する人は誰もが惨めです。野心家は誰もが羨望する人です。野心家は誰もが惨めです。これと同じ仮定から出発して、もしもAである者は全てがBであるとして、XはBでないと定めます。又は、もしもAがBを排除したならXはAでないことが結論付けられるでしょう。それは三段論法の第二の形になります。例えば私が三段論法と呼ぶ、第三の形と三段論法とを良く区別するのを除いて、これらの二つの形を導く方法は最も自然の様に思います。前者では、もしも幾らかでも全てでも一つでもあるXが、同時にAとBであったなら、AとBは時々一致します。あるいは所謂幾らかのAはBになると結論付けることになります。全てであったり幾らかであったり、そうであったりなかったりする諸形式のために、それらを全て再発見するために有効に働きますが、注意しないことは決してありません。

 これらの変化の原理を発見するのは難しくありません。理解力は同一の思想を二つの様式の元であったり、あるいは別の言葉で見分けなければなりませんし、対象を見ること無く書かれた思想から、別の書かれた思想を引出すことは許されないことです。従って、同一性の原則は少なくとも明確な言葉に基づいて働きかけて、認識を広げたいと願う弁証家への警告として、論理学の研究において自らの原理そのものに見えます。以上は、些か不毛な研究の報いです。全く厳密に研究を行えば、その報いは知覚も無く理性の働きが進んで行き、どんな理性の働きも確かに幾つもの誤りを閉じ込めることを良く示しています。これらの全ての誤りは大変自然なものであり、対象への考察による言葉の意味をだんだんと豊かにすることから生じますが、そのことは言うことも無く、知ることさえもありません。(完)

 



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