目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第六章 デカルト讃

 

 デカルトを理解するのに何時も私たちに欠けているのは知性です。理解するにしろ、反対するにしろ、簡単なのは外観が屢々明瞭であることです。殆どのことが至る所で不可解なのです。どんな人も彼自身のことを多分良く理解しませんでした。勿論、恐らく余りに孤独でした。更に、彼が話す時も孤独でした。彼の言葉は決して吹聴しません。習慣に従った言葉です。デカルトは言葉を創りませんでしたし、宗教も又作り変えませんでしたし、情熱も性質も作り変えませんでした。その全てが一体となっていて、その中で明らかになっていて、大変自然な彼の言葉は私たちにそれを齎します。反対に、言葉の意味を変えることから無縁な彼は、一人の人間の義務の如く、一つ一つの言葉のあらゆる意味を同時に理解します。『瞑想録』の〈神〉とは女性たちの神です。彼はロレート(1)という場所へ行く様にして『情念論』を書いています。そして、あの有名な夜の閃きは奇跡であり、彼の思想です。デカルトはここにいますし、至る所にいます。全体であり分割出来ません。あれ程にも自己に近い処で哲学した人は誰もおりませんでした。感情は何も失うことなく思想になっています。その人物はそこですっかり自己を取戻し、読者は自らを見失います。この暗い視線はそれ以上約束しません。礼儀正しいのですけれども、勇気づけてはくれません。そこからは革命を否認している、余りに軽蔑的な保守主義者の精神を理解しなければなりません。何故なら、自分の若さを何も捨てませんでしたし、全てを変えましたが、組織の中ではなかったからです。少なくとも精神の裡には革命は無く、新しい道もありませんでした。

 きっぱりと思想と延長とを区別するために粘り強く思考したので、最早如何なる困難も次に来る混乱も恐れませんでした。全てが自分の場所に送り返されました。事物の中に引っ張られる儘にならないで、全ての魂が精神の中にあります。その代わりに全ての運動が延長した事物に投げ返され、全ての情熱も肉体に投げ返されます。それは恐るべき事物ですが、便利に良く出来上がったものです。全くの処、全ては上手く行きますし、読者が余り考えることではありません。その代わりに動物機械では決して全て通用しません。常識が容易に別の事物に満足することになるのと同じ理由から、動物機械はそこで抵抗します。何故なら、動物機械は常に疑わしい些細な理由に止まりますが、作者のデカルトが同じ事物をもう一度ここでもっと力強く繰返して言うことを理解しないからです。すなわち、一つ一つの事物においては、部分部分と運動以外には何も無く、どんなものでも延長されていて、欲望とか衝動とか力になるでしょうが、如何なる神秘の魂も思想の胚芽もありません。どんな運動も単に機械的なものであり、どんな物質も単に幾何学的なものなのです。それ故に、犬が主人を見分ける運動には決して気を留めてはならないのです。その上、人間の情熱である怒りや欲望や嫌悪は、自ら身に付けた儘でいる愚か者とはいえ、もっと正確に言うと思想と理性の働きを模倣します。というのも、その中には判断力も認識も証拠も無く、単に動作と騒音だけがあるからです。従って犬が自ら描いた三角形を前にして夢を見たと言うのは全くの過失になるのが唯一の証拠ですので、決して動物が思考する言ってはならないのです。そして何人の人々にとって、この用心も又良いものにならないのでしょうか。ところがデカルトの肖像が理解されるのを、余り期待されることもなく待って、もう直ぐ三世紀になります。(完)

 

(1)ロレートは、イタリア中部のアドリア海に臨んだ町で、聖母マリア信仰の巡礼地である。

 


第七章 事 実

 

 私たちの認識は事実に基づいて調整されて、そこで限定されると何処でも言われています。しかし十分に理解されておりません。経験とは、まさに例外なく私たちの全ての認識の形式です。しかし、どんな観念よりも前に経験が出発することはありません。或る観念と他の観念の間で決定することもありません。事実とは、学問によって構成されて諸観念によって決定され、そして或る意味では全ての観念によって決定された対象そのものです。事実を把握するには、まさに学問的でなければなりません。

 地球が回っているのは一つの事実です。この事実を把握するには、推敲された数々の関係に従って同種類の条件を同様に含んでいる、他の多くの事実を収集してつけ加えなければなりません。先ずは、星々が東から西へ回っていることです。そして全ての天体も同様に、一つの不動の軸の周りを回っているかの如くです。それなのに幾つかの惑星は、見れば分かる様に、それら自体も回転しています。それなのに月や太陽や惑星が現れて来るのが遅いのは、地球が惑星の一つであると仮定すれば説明が付きます。それなのに赤道から極地へ行くと重力が大きくなります。それは力学的観念と物理学的観念を仮定していて、振り子による測定を仮定します。

 しかし、星々が周回していることを最も簡単な事実で確認しましょう。それは未だ繰返される観察と記憶と再現と測定によって確認するしかありません。星々が非常に遠く、或る星々は比較的近いというもう一つの事実に関しては、良く調べてみるなら、それを支える仮設によっていることも十分に注意すべきことです。というのも、最も近い星々は地球の軌道に沿って移動する観察者のためにしか視差の影響を与えないからです。私たちの土台である地球は余りに小さいです。ところが或る星々よりも近い星々があることも事実です。月は太陽よりも私たちにずっと近く、しかもずっと小さいことも事実です。数々の事実の体系は、どんなものでも幾何学的です。重力の加速度が、パリでは毎秒九・八メートルであるのも既に事実です。しかし、それを確認する人にとっては理解すべきことが多くあります。先ずは観念であり、その次にそれらの観念による道具類です。斜面とアトウッド(1)の機械がそれを十分に証明しています。まさに記録する円筒のものです。同時にストップウォッチと回転する幾何学的配列のものです。比熱の測定でも、やはり認識を含みます。それは付随的な認識ではなく、仮説とか仮定された観念がなければ、経験にもならないのです。

 最良のものを認識する学問において、誰もが次々にその様な事例を幾つも発見することが出来ます。器具の様に把握して測定するのに役立つあらゆる推敲された観念を、最も単純な経験の中で発見することは大変な驚きです。単純な事実は歴史にまで及んでいて、ルイ十四世が死んだ年の様に、一連の歴史や批判や天文学の認識も又含んでいるのが分かります。それを強調するのは理由があります。骰子の立方体の形状も又一つの事実であり、立方体による観念で決定されるのが明白である時、両目や両手で把握出来ないからです。このことに関しては、私が以前に言ったことを読者が思い出して貰えれば十分です。(完)

 

(1)ジョルジュ・アトウッド(一七四六~一八〇七)は、物理学者で落下の機械を発明した。

 


第八章 原因について

 

 この問題は荷が重く、曖昧な言葉でもあります。歴史とか刑事訴訟の様に或る時は人物、又或る時は事物の原因によって理解されます。そして、もしも人物であったなら、その人物が何事かを始めた原因で責任があり、そのことを後で答えるのでしょうが、それでここでは最初の原因が大変に重要であり、自由意志という名の下に扱われます。もしも事物であったなら、あるいは事物の状態でそれに従って他の事物を決定したならば、反対にこの事物とかこの事物の状態が、それ以前の状態によって今度は決定されるのが良く分かります。例えば、一筋の火薬に各粒子が燃えると次々に燃え上がって行く原因になる様に、如何なる原因も結果となり、如何なる結果も又原因になります。それが所謂第二原因になります。お分かりの様に、それらの二種類の原因が主語と目的語の様に、あるいはそう言っても良いのですが、精神と事物の様に区別します。

 ところで、物神崇拝は何時も想像力に基づいて思考しながら、人物と事物の中間で動き回っています。物神崇拝は、事物の中で行動したり権力とか所有権を示したりする魂とか、精神が如何なるものかを私が知らないのを、原因によって何時も理解したがっています。そのことは思ってもみなかった事例で最も感知出来るでしょう。ここに非常に思い石があります。もしも私がこの儘放せば、落下するでしょう。石が落下することは原因になりますし、私の手を圧したり押したりしているのであり、それが所謂石の重さになります。その重さは石の中にあります。それでいながら違います。金の中にも同様に価値がありません。他の物神にも無く、アロエの中にも苦みはありません。石が重いのは、石と地球の二つの質量の間にある距離に依存した力が働いているからです。従って地球もまさに石と同様に私の手に圧力を加えています。この重力の力は最早、石の中ではなくて、石と地球の両者に共通したものであるのが分かります。私たちに言わせれば、それは思考された関係であり、一つの形式です。しかし、ここで石の中に何らかの努力を捏造させて、私たちの努力と戦い、少なくとも私たちの努力よりも不安定でないものを見出す想像力しか見ないのは誰でしょうか。この偶像崇拝は大変に力を持っています。想像力はそこで決して離れません。それに騙されないこと、そして苛立っている手で決して判断しないこと、それが全てです。

 しかし同様にお分かりの様に、私たちが或る思想を、食事を待つ犬とか罵声を発する酩酊者とか怒っている狂人にもあるのを望むことも、同じ情熱の動きによるものです。それ故に出来る限りデカルトの力強い思想に戻らなければなりません。そして、距離と力とその他の関係から事物が再び現れるこの精神は、他のものと結び付いたり、他のものとの間で認識するので、それらの関係の一つに決して隠される筈がなく、私たち自身の肉体の中にも決して隠されるはずがないと言わなければなりません。その点を良く理解していれば、事物や囚人たちに内部の魂を仮定することも望まないでしょう。というのも、どんな魂にも多少なりとも明瞭に生き生きとした世界を把握するのですが、常に全く分割出来ないからです。私が星々に持てた認識は、私が子供の時の知覚に一部が付け加わったのではなくて、単にそれを明らかにしているのです。その認識は、こう言って良ければ、そこには何も付け加えずにその中で大きくなったのです。それ故に、どんな自覚や思想も一つの世界であり、その中に全ての事物があり、如何なる事物の中にもあり得ないと言わなければなりません。従って、重さのある石に意志を持った心があるとは考えられず、私は飛び上がるために身を縮める動物にも意志があると考えるべきではありません。何故なら、もしも動物が思考するなら、全世界にいることになり、その中で思考していることになるからです。ライプニッツは、彼のモナド(単子)によって上手く言いましたが、モナドが部分部分であるとか構成要素であるとかいう、この観念からは全く離れませんでした。デカルトは、そんな考えを少しも気にしないで、もっと先を見ていました。その様にして対象の中に原因を扱おうとすると、あるいはもっと適切に言うなら対象としての原因を扱おうとすると、対象そのものに対象を投げ返しましょう。そして、そこに延長だけを見ましょう。生きている肉体の中まで絶対的な外部の関係を理解して下さい。これが真の知識の鍵になります。そして、私たちがこれから見ると思う真の自由の鍵になります。

 その次に、男性的で有名な物理学の源泉であるこの力強い観念に支えられ、私たちは少なくとも法則の原因を見分けなければなりませんが、今は未だ十分に行われていません。というのも例えば、雲はそれ自体によって雨の原因にならないからです。もう一度冷却されて水滴が大きくなり、再び蒸発する前に地面に達しなければならないからです。上手な言い方ではありませんが、全ての原因が一つに纏まった時に、雨になるのです。従って水が沸騰するためには、圧力と温度と小さな水泡の表面張力の条件が全て揃った時に沸騰するのです。しかし沸騰しない限りは原因があり、数々の原因が一つになっても十分でなくなるのであると私は言いたいのです。従って、その様な事例においては一つ一つ連続した関係が見落とされているのです。そして最終的な状況については、私たちが屢々影響していることもあり得ます。何故なら、溶液も又十分に原因になるのは明白であるからです。同じ様に厳密な意味で、一瞬の天体の加速度は次の一瞬の運動の原因になると言ってはなりません。というのも、それらの原因はここでは絶えず他の数々の天体の位置にも影響して、引き付けられる運動は全てに機能があるからです。この事例からもお分かりの様に、原因から結果への関係は宇宙の一つの状況から次の状況とか、閉じられた関係がある限り、閉じられた一つの体系の状況から次の状況しか理解されることはあり得ません。諸原因の一つの現実的な鎖は、それ故に統制された生成の原則によってしか思想になり得ません。数字の順序におけるのと同様に、一つの方向を持つものを理解して下さい。それらは次のものを形づくるか生み出す最初のものですが、逆にはなりません。ところがその様な法則は、物理学者たちに遅れて現れるだけであり、その法則に従って閉じられた体系と反発力と爆発力と、多少なりとも活動的な化学的物体のものになります。温度の上昇と共に力学的均衡状態の方へ自らが変わります。その様にして建設された壁、火薬の詰まった大砲、引き絞られた弓、石炭の貯蔵、石油貯蔵タンク、火薬庫、生きた肉体、それらが厳密な意味で原因になります。しかし、この原因という言葉は何時も些か便利な使われ方をしていて、明瞭に説明されると事実という無意識的な条件にまでも及んでいます。その意味では、例えば天体の運動の原因は引力の法則であると言うのと同じです。そこからは神秘の原因に戻されないので、不都合はありません。(完)

 


第九章 目的について

 

 目的因は王への聖なる処女たちであり不妊婦である、というベーコンの言葉は良く知られています。しかし言葉を信用するや否や、如何にして抽象的で空虚な観念が対象との接触で意義と生命を取戻し、ついに何ものかを把握する助けになるのか、それはあらゆる観念の試金石であることを示すための良い例がそこにあります。確かに、風は菩提樹の種子を遠くに発見された土地へ運んで行ける様に、創造主が羽根を付けたと譬え言われても、何の説明にもなりません。鳥たちが飛べる様に翼を与えたのである、と言っても同じことです。しかし、これらの話を発展させ様と努めると、滑稽さは全く失せるでしょう。何故なら、それでも大樹の陰よりも何処か良い場所に種子を蒔くのに羽根が十分に役立つのは本当であるからです。更に翼の構造を理解したいと思うと、飛行のために作られていることを必然的に推定することを誰も否定出来ません。というのも、その時はこの自然の機械に弓形に反った羽根とか中空の骨とか筋肉の有用性を発見するからです。従って疑問とは、「何の目的のために」から、如何にしてにへ自然と移ります。つまり諸原因と条件を探求することに移ります。鳥の羽根は一方向に並んで弁を作っているから、飛ぶために作られていて、他に理由は無い、等々です。更に、クロード・ベルナール(1)が肝臓は何らかのものの役に立つに違いないと仮定したのは間違っていませんでしたが、それは彼が何かを、取分け如何にしてを探求していることが条件です。そこから分かることは、幾何学とそれらの形式に倣って再建された知覚を決して疎かにしなければ、神学的観念も少なくとも指導的観念として十分に正しいものになり得ます。神は飛ぶために翼を作ったのであると言って或る人が満足しているならば、彼に言葉以外に精神の中には何も無いのです。しかし、飛ぶためには翼が如何にして役立っているのかを認識するならば、彼は所謂諸原因によって事物を知ることになります。そして、神という創作者がそこに付け加わる観念も、事物のものである観念を変えるものは何も無いのです。ダーウィン自身は、暗い洞窟の中の蟹が盲目になる様に、他の蟹に対して有利さを与えることが出来る性質をその中で探求する時でなければならない最終目的を持ち続けます。何故なら不必要な目を持つことが、如何に有害であるのかを点検することは重要であるからです。そして、この様な対象に目的を原因に結び付けるのは、まさに有用性の観念です。というのも、仮定された有用性が目的であるからです。しかし説明された有用性は、お望みのとおり原因であり、法則であり、説明された対象そのものです。

 良く認識しない何らかの力学を研究する時は、このことが良く感じられます。何の役に立つのでしょうか、と各事物のことが自問されます。このことを発見するために、ゆっくりと出来るだけ単独にして原因が何であるのか、あるいはもっと適切に言うなら、体系の中で何に結び付いているのかを探求するために、このものを働かせます。その様にして目的という指導的観念から、原因とか条件を構成する観念へ容易に移行されます。そして、追い求める目的の観念が、もしも述べることを簡単に諦めないならば、常に増え続けて、理論的な神学と同じ様にまさに道具や力学を全て齎すと考えなければなりません。

 最終原因が自然現象の再構築において指導的なものとして既に成功している時は、もう少し曖昧なものになります。例えば、屈折した光は最短の道を通らなければならないとか、一般的に自然は最も簡単な方法で目的を達成しなければならないとか言われます。勿論、これらの虚構は労働を無視して根拠も無く話す人々にとっての作り話に過ぎません。探求そのものの労働においては、自然の目的を考えようが考えまいが、最も単純な仮説を試みるのは常に当然であり、それが十分であるならば常にそれに越したことはありません。そして、ここで私たちは推測の中で労働者の良識に従うのであり、何の疑いも無くプトレマイオス(2)を模倣した何か複雑なものよりも、コペルニクスの体系とか、二つの星よりも一つの金星を好む様になるのです。

 思考するための職業の根柢には、誘惑と外見の闘争があります。どんな哲学も最後にはそこで定義されます。夢の様にのしかかる驚嘆すべき宇宙から自由になって、ついにその幻想に打ち勝つことが重要です。確かに偽りの神々を何時も追い払うためには、正確に列挙することによって、この広大な自然をせいぜい単純なものに帰することにあります。厳格なデカルトの術が誤解されるのは、最も狂った情熱家や予言者や見神者たちが、無為な者たちを増やして力の冷静な列挙によって既に打ち破られていることを十分に分かっていないからです。逃亡も真面目な労働です。(完)

 

(1)クロード・ベルナール(一八一三~七八)は、生物学者で近代実験医学の祖であり、『実験医学序説』(一八六五)は思想界にも影響を与えた。

(2)プトレマイオス(一〇〇頃~一七〇頃)は、古代ギリシアの天文学・物理学者で天動説による「天文学大全」と投影図法による「地理学」で知られている。

 


第十章 自然の法則について

 

 自然の法則は二つの意味に理解されています。その意味で、先ずこの世界には或る単純さと、同一事物への帰還があります。例えば少なくとも六十の単体があって、千でも二つでもありません。固体も同じです。つまり大抵の場合は、同じ形を同じ場所であるのが物体です。もしも流体しかなかったなら、力学を定めているのは何でしょうか。そして常に新しい物体しかなかったならば、化学者も迷って仕舞うことでしょう。そのことは物体が常に持続して行くと言われない良い機会でもあります。ここでは弁証法によってまさしく神まで登ることが出来ます。そして容易で誰でも手が届く理性の働きによって言えるのは、万物の優れた主人が対象も無く、同様に試練も無い人間の知性を望まなかったことです。私が超越的と呼ぶこの種の哲学は、鳥が囀るのと同様に、人間にとって自然でもあります。しかし発展するための本当の力は、百回取り壊されて百回復元される試練の中には決して無く、寧ろ最初は外部の条件と生命そのものが自然に一致した観念の中で、ついには私たちがそれと大変緊密に合致した思想にあります。しかしその観念をもっと追い詰めると、その確認が私たちそのものであるのが分かります。要するに、それが思想の初めであり、継続した発条になるのです。それが希望であり、信念です。もっと正確に言うと、可能な限り思考するための意志です。何故なら、もしも些細なことや子供の頃の外見に気を留めていたなら、際限の無い多様性と奇跡ばかりになるからです。妄想は、途方も無く狂っている様に見えても思想の自然な流れでしかないと言えば言えるのですが、統制が無く、聴衆や幻影や前兆や鬼火を要求する全てのものを断固として無視することもありません。私たちが同意したなら、宇宙は流動体になるでしょう。しかし、判断力はこれらの事物の王です。判断力が保持され得る限りは神の子です。私がこの世を支えているのであり、この世は私と共に落下すると考えるのが私は好きです。選択によって、しっかりと支えましょう。その様なものが哲学の精神です。

 凡そ、その様なものが理性の王国になります。理解力の法律学とは余りに異なります。精神はそこで少しも自由を感じませんが、権力には好都合です。何故なら自然に成り得るとするなら非常に流動であるからです。永遠に渦巻が四季に変わる時、どうにかこうにか距離、方向、力、速度、質量、張力、圧力、数字、代数学、幾何学によって常に支配されることで、思考されなければならないでしょう。物理学は少なくとももっと困難なものになるでしょうが、思考されたものに変わりありません。これらの自然の法則とか形式は、私たちの道具であり器具です。そして、天体の運行が果てしなく複雑になる時、その様にして更に極端な正確さに進む時、私たちは直線と円と楕円では少しも把握しないに違いなく、力と質量と加速によるに違いありません。というのも、これらの要素は運動自体の要素でもあるからです。運動とは形式のものであり、目覚めの最初のイマージュで生まれる如何なるものでもありません。正確に言うと、法則の無い運動は最早如何なる運動でもないでしょう。運動を知覚することとは、今まで十分に述べた様に、同一の儘の動体と連続的に変化する距離の観念と共に諸変化を調整することです。単純な知覚においてさえも、運動とは結局のところ表象され限定され分割され得ないものです。運動そのものが変化の法則です。そして、この法則がより一層完全になって、その継続した道程をより一層明らかにします。つまり運動がより一層運動になるにつれて、実際の運動になります。何故なら、それらの関係は他のものと共に全てがより一層限定されるからです。この方法によって理解力はプトレマイオス(1)の体系から現代の体系へ移行したのです。数々の外見はだんだんと良く結び付き、少なくとも私たちの情熱から離れて、そこで何も変えることなく、占星術師たちの自然の中に秩序を設けました。

 自然が幾何学者の服に大変良く似合っていることに驚嘆する者たちは、二つのことを認めません。一つ目は、彼らが数学的手段によるあらゆる方策とその柔軟さを認めずに、その手段がだんだんと複雑になることです。何時もそれらの輪郭をより良く描き、何時もそれらの関係をより良く把握し、それらの力をより良く向きを決めて判断し、そのことのために直線を歪めることがないのです。これは慣性とか不変の運動、そして他の堅固な仮説の様に、問題には原則を何時も持ち出す人々には良く把握されていなかったことです。曲線運動を記載するために三つの軸を曲げたいと思ったり、あるいは隕石のために赤道を曲げたいと思うなら、同様に愚かなことです。しかしプラトンが良く言っていた様に、曲線を判断して分かるのが直線です。無限のものを判断して分かるのも有限で完結したものです。そして昔からの数字全体が微分計算を齎します。これらの考察によって、どんな認識も経験になりますけれども、どんな法則も何らかの意味では先験的で経験に基づかないと良く理解したいのです。しかしここでも又、観念と事物を強く結び付けることを忘れないで下さい。二つ目の、無視して認めていないことは、数学的形式の枠外にある自然は実際には何ものかであって、存在しているとか存在していないと言うことが出来ると信じる処にあります。この誤りは、既に半分作られていて適当な距離に私たちを押しつける学問を自然と呼ぶ処から来ています。何故なら、星々の東から西への運動の知覚は、大変に理性的な一つの仮説であり、太陽と月の遅延や色々な天体の急な変化と一致しないからです。そして、お分かりになった様に、運動についての幻影さえも堅い判断力や自然が示さなかった仮定から起こります。私たちの数々の誤りは如何なる思想にもなります。でも、自然は私たちを騙しません。自然は何も言いませんし、何ものでもありません。しかし私たちは、少しも注意深い知覚ではない夢想によっても、より良く判断出来ます。それは未だ脈絡の無い自然を如何に表現するのかを少しは分からせてくれます。全ての外観は事物であり、私たちの全ての運動であり、あらゆる処の変化になるでしょう。私たちが人間である限り、それらは思い出であり、計画であり、恐怖でもあります。激しい怒りと涙の大洋です。法則などはありません。それ故に、私たちの仮定した法則がまさに事物の法則であると確信するかどうかを尋ねてはなりません。何故なら、原始時代の自然はその中に秩序があり、運動の背後にも他の運動があり、事物の背後にも他の事物があるのを望むことになるからです。そうではありません。それは寧ろ、創造前の混沌なのです。そして誰も目覚める時には勿論ですが、精神は一瞬ですが水面の上を漂うのです。そこから分かるのは、理解力が経験を支配すること、理性が経験に先行すること、そして少なくともそれらの条件に基づいて経験が理解力と理性の両方を共に明らかにしていることです。(完)

 

(1)プトレマイオス(一〇〇頃~一七〇頃)は、古代ギリシアの天文学・物理学者で天動説の「天文学大全」と投影図法による「地理学」で知られている。

 



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