目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第九章 想像力について

 

 間違った知覚として想像力を定義すると、恐らく最も重要なことについて強調されます。というのも想像力は内面の遊戯であり、想像力そのものを伴った思考のものであり、自由な機能で現実の対象が無いものと見做したいと思われているからです。その様にして想像力から、私たちの身体の状態と運動までの関係を知るための最も大切なものを見落としているに違いありません。私たちが明瞭なデータによって多くのことを見抜くための危険を冒す時、想像するための力は先ず知覚の中で考察されなければなりません。そして、知覚はその時に、私たちの全ての経験との関係及び絶えず全ての予測を吟味することが想像力と違っているのは大変に明白です。しかし、どんなに厳密な知覚でも、想像力が常に循環しています。想像力は絶えず現れては消えて行きますが、それは素早い点検、観察による些細な変化によるものであり、結局のところは堅実な判断力によるものです。悪魔も祓うこの堅実な判断力の価値は、取分け情熱の働きの中に現れます。例えば、恐怖が私たちの隙を窺っている夜の時です。いや寧ろ、白昼においても神々は木から木へ走り回っています。そのことは十分に理解されます。私たちは、真の知覚がひらひら飛び交う誤りに対する継続した戦いであると判断したり、非常に弱い標識についても大変に機敏です。お分かりの様に、私たちの夢想はその源泉をそんなにも遠くへ探しに行く必要はありません。

 しかし、私たちの感覚器官がそのものによって独創の方法を提供することも屢々起こります。それらの器官を通して良く理解しましょう。私たちの身体は、外部の原因によって沢山の方法で絶えず変えられます。しかし私たちの器官の状態と生命そのものの運動が弱い印象を与えていても、その外のものの静かさの中では大変に強い印象を与えていることには良く気付かなければなりません。かくして、熱のある血液は耳の中でぶんぶん鳴っていますし、口は苦く感じて、震えとちくちくする感じは肌を走ります。私たちが短い瞬間に、諸対象を想像するためには最早その様なことがあってはなりません。でも、それは文字通りに、夢を見ると言っていることなのです。結局のところ屢々私たちは運動によってイマージュを探します。あるいは寧ろ、工夫して作ります。もしも身振りとか、もっと正確には鉛筆が両目で追って形を描くだけでしかないならば、あるいは更に両目の活発な動きが実際の知覚を曇らせたり神々を走り回らせたりするだけでないならば、ここでの視覚は消す役割を演じるだけです。聴覚は言葉によって、もっと良く直接的に変えられます。言葉は、例え小さな声で話しても、私たちが知覚する実際の対象です。取分け、触覚が意味しているものは触覚そのものに、私たちの運動の一つ一つによる印象を手に入れます。私は自分を鎖で繋ぐことも、喉を絞めることも、自分自身を叩くことも出来ます。そして、これらの強烈な印象は恐らく狂人たちの精神錯乱の証しでも何でもありません。ここで見るのは、想像力から情熱への結び付きです。逃げる人は全ての事物を誤って見ますし、彼の背後を過ぎ行くものはもっと誤って予感し、無秩序な行動によって心臓や肺の活動は倍加し、走ることでそれらの反響を呼び覚まします。不規則な運動はどんなものでも知覚された世界を乱します。従って、私たちは痙攣的な運動に身を委ねるや否や、悪魔や誤りの証しの発明者と同じ様に、絶えずこの世の保守主義者であり建築家です。その上、世界は大変に豊かで、常に私たちの錯乱した対象の何らかの影を提供します。そして、想像力によるどんな仕事においても、何時も外部世界、身体の状態、運動という三種類の原因があります。しかしながら、三種類の想像力を区別するのは悪いことではありません。第一には、規則的想像力があり、それは大胆すぎることが無ければ間違えませんし、何時も一つの方法に従っていて、経験に制御されます。その様なものには足跡や僅かな埃についての警官の考えがあります。猟師が自分の犬を殺す様な間違いがあります。第二には、事物から目を逸らしたり両目を閉じたりして、生命の運動やそこから齎される弱い印象に特に注意深くなるもので、幻想と呼べるかも知れません。その幻想は判で押した様に事物には決して混ざり合いません。目覚めはそれ故に突然に起こりますし、しかも安全です。その代わりに第一の規則的想像力においての目覚めは刻一刻と起こります。最後の第三には、情熱的想像力があり、取分け痙攣的な運動や怒号によって定義されるものです。

 規則的想像力にも存在しますが、別の意味では三種類の性質を持っているのは、もっと後で述べることになる詩的想像力です。少なくともここでは詩人が如何にして霊感を探すのかを考えて下さい。或る時は事物を知覚しながらであっても、幾何学ではありません。或る時は半睡状態であり、又或る時は身振りを盛んにしたりわめいたりします。建築や絵画の様なものは身体の中に、主題そのもののどんな材料も受け取ります。勿論、芸術は情熱と取分け儀式にも依存しています。従って、そのことに関して今は詳しく述べる時ではありません。(完)

 


第十章 異なった感覚による想像力について

 

 想像することとは、或る対象を何時も思考することです。そして、あらゆる感覚に基づいて可能な働きを再び現すことです。視覚でしかない様な想像力は最早、想像力の全てではありません。それは位置も形も無い色彩があるだけの印象です。それらの印象を人間の身体現象にするのを目指すにつれて、次第に想像力から癒えて行きます。或る場所で幽霊を見ることが無ければ、何で幽霊を想像するのか、又何でどんな動きによって幽霊に触れるのかを思い描くのでしょうか。その点について十分に熟考したことも無い昔の哲学者たちは、単に視覚上の想像力とか、他には単に触覚上の想像力を述べるだけです。この種の人々は、そこに対応するのみで、十分に深く研究することはありませんでした。どんな視覚上のイマージュも、常に凸凹と距離を含んでいますので、筋肉に関する或る解釈そのものを、そのことによって含んでいるのを認めるのは簡単ではありません。従って曖昧であったり、余りに自惚れた解答を予測しなければなりませんでした。要するにイマージュというものは決して無く、想像上の対象でしかないのです。この事例は、考察がここではそれらの探究を先導し、常に明らかにしなければならないことを良く示しています。

 保留がなされると、私たちは各感覚によって如何に想像するのか検討することが許されます。味覚や嗅覚にとっては、実際の対象が肉体の反応を生まないで、取分け吐き気の動きの様な無意識なものである想像力の理由を提供することが少しも無いとすると、恐らく言うべきことは少しもありません。同様に、他の色々な感覚による想像力も屢々、味や匂いを決定します。その上、味が美味しい料理を見た目でも、予想によって不味く見えることもあり得ることは誰でも知っています。病気でより一層洗練されたり、あるいは研ぎ澄まされたりした感受性が、一般に大変微かな匂いや味に敏感になることも時々起こります。その様にして想像力も真実になりますが、私たちが知らない間になります。その上、いわば真実でない想像力というものも決してありません。というのも世界が沢山の方法で私たちに絶えず働きかけているからで、私たちは何らかの現実的な対象が契機とならない様な、大変に法外な夢想を恐らく所有しているからです。それ故に何らかのものを何時も知覚されるのでしょうが、下手でもあると想像して下さい。

 これと同じ性格は何時も十分に考えられていないのですけれども、視覚上の想像力に対してもやはり敏感です。雲とか、密生した葉とか、古い天井や壁紙のぼんやりとした入り組んだ何本もの線は、人間や怪物たちの頭部を想像させるのに大変適しています。薄明かりの時や影の悪戯も、非常に明るい光と同じ様に同じ効果を生むことを誰もが知っています。煙と炎も夢想家たちには有利です。

 今は私たち自身の目が、取分け閉じられている時に、夢想に与えるものを述べなければなりません。勢い良く両目を閉じると、非常に明瞭な対象のイマージュを誰もが観察出来ます。それは継続された振動でしかなく、あるいは補色での陰画のイマージュでしかありませんし、疲労のせいでもあります。恐らく、私たちの網膜は決して完全に休息しないものなのです。誰もがご存知の様に、圧力や電気的な刺激を加えると微光が見えます。そして大の読書好きは、色が付いて変化する総の様なものを見ますが、恐らくそれらは夢想の最初の切っ掛けです。私は眠る前に何度も見ましたし、これらの形は動いて人間や家のイマージュに変化しますが、事物として見分けるには注意しなければなりませんし、目を覚ました批判が必要です。熱狂者たちは自分自身の内面にある事物のイマージュを見ていると言うことが大好きですが、そこで理解していることを説明したがりません。私が考える処、どんな視覚のイマージュもイマージュの性格上、私の外部にあります。イマージュ自体にとっても外部のものでもあります。私が夢の中で散歩をしている森は、私の身体の中にありません。しかし、森の中にあるのは私の身体です。魂の目で、あなたは何をするのでしょうか、ということになるのでしょう。勿論、魂の目とは私の目です。

 私が事物の運動を想像する時、明らかに最も重要なことは、結局のところ私自身の運動の結果を考察しなければなりません。私は頭を動かすのがどんなに小さくても、全ての事物を動かすことになります。誰もが確信出来る様に、私の運動は数々のイマージュを混乱させるものそのものですし、両目を瞬きすれば完全にイマージュを蘇らせることを、つけ加えて言いましょう。しかし、ここで最も重要な行為とは両手の動作です。それは眼前に事物が無くても描いて、何よりも自然と素描や原型となって実際の対象の中に私たちの夢を固定させます。私はここで、さ迷う鉛筆のことしか考えません。それは、その鉛筆の出会いによって私たち自身が感動するものです。その様にして私たちは、この章の主要な観念に導かれます。それは信じられる限りにおいて、私たちはでっち上げないということです。私が言っていることは一度ならずも実際に起きました。私が鮮やかな赤色を想像した瞬間と同じ時に、目の前のノートの縁が赤く見えたのです。

 同じことは恐らくもっと良く知っていることと思いますが、聴覚の想像力についても言えることです。先ず第一に、風や滝や車や群衆の雑音は全てが言葉になったり音楽になったりします。列車の進行は一つのリズムを聞かせます。呼吸や血液の鼓動も又耳に作用して、ぶんぶんいう音や、ひゅうひゅういう音や、かちんという音を生んでいると言わなければなりません。取分け、私たちが話したり歌ったり踊ったりするのは聴覚上のイマージュを固定して、他のイマージュを呼び起こすからです。音楽上の霊感の研究はここでは触れないことにしましょう。少なくとも夢においては、私たちが聞いていると思っている声は多分、屢々私たち自身の声であり、叫び声も私たち自身の叫び声であり、歌声も私たち自身の歌声であるとして置きましょう。それと共に私たちは息や筋肉や血液によってもリズムを取ります。そこにはあらゆる出来事の交響楽があります。

 触覚に関しても論じることがあります。でも、これは難しいものではありません。何故なら第一に、事物は絶えず寒さと暑さ、呼吸、圧力、摩擦で私たちに作用しているからです。第二に、触覚は生命活動によって疲労や摩擦や熱や傷害によって屢々変えられるからです。私たちは胸が締め付けられたり、捻れていたり、錐で突かれたり、鋸で挽かれた様に感じる気になります。あるいは又、胸を縛られたり、喉を手で乱暴に絞められたり、重い物で押し潰されたりすることを想像します。結局のところ軽快であったり活発であったりする運動が、まさに実際の印象を与えています。殴り合う夢を見ている人は、拳骨を振るっているかも知れません。腕を組んだり、壁にぶつかったり、断固として立ち向かったり、体をねじったりするかも知れません。その様なことが最も悲劇的な夢の源泉になります。そして、ここで情熱に触れることになります。それは材料が豊富ですから、全てを一度に言うことは出来ません。(完)

 


第十一章 連想について

 

 私たちの一連の思考は、一般に私たちに起こる対象に基づいて調整されます。しかし、前に見た様に、これらの対象は多くの試行や素描や仮定の後でしか見分けられません。あそこにいる人物を私は最初、郵便配達人と思いました。その車は肉屋のものでした。風に舞う木の葉は小鳥でした。その様に私たちの各知覚は素早く探求を終えて、偽りの間違った知覚の足場となり、それらに言葉は決して止まること無く一種の正確さも与えます。それ故に、各対象に関して私は、それに似ている他の多くのもののことを自然に思考します。その意味で、それらの形は私の印象を十分に説明するものになります。類似による結合と、作者たちが見做すこれらの大部分のものを、思い起こすための源泉を探さなければならないのもそこなのです。私たちの諸観念がまさに閉鎖された部屋に隠遁して、恰も金勘定をしているが如くに、私たちの精神を結びつけると信じている誤りもそこにあります。実際に思考することとは、常に知覚することです。そして夢を見ることでさえも又、下手であるが知覚することです。もしも安易で屢々全くの弁証法的な瞑想から立ち直りたいと思うなら、この様な問題についての、作家たちの指導的な観念を堅くして曲げないことが大切です。

 感覚が疲労すると黄色に対する紫色の様に、事物の補足的なイマージュを知覚することも起きます。この種の事例は大変に稀有です。しかし、私たちの全ての感覚にとっては常に僅かに活発な印象も相当の行為には、謂わば無感覚にして仕舞いますし、それ故に他のものに気付くことも考えるのは自然です。その様にして所謂対照的な連想の多くが多分理解できます。或る旅行者が私に語ったのですが、アルジェリアの砂漠に疲れて目を閉じると、ノルウェーの月夜の風景を考えたとのことです。

 私たちの思考において言葉とは、知覚とは別であるもの全てを自動的な流れで調整するものとして、結局のところ考えなければなりません。尤も私たちは言葉も知覚するのですから、そのことも又知覚に変わりありません。ところで、屢々或る言葉を他のものの代わりに言いますが、この失敗には二つの主な原因があります。あるいは発音するのが容易であるから言おうとした言葉に似た言葉を、つい口を滑らせて言って仕舞いますが、これは類似による一種の連想です。あるいは又、何らかの屈折や緊張から疲労した言葉の器官が自ら休息する事態に陥ります。そこからは私たちの思考も、より一層奇妙にも切断されて仕舞います。

 しかし、はっきり言いますが、私たちの思考の連鎖が屢々私たちのものでなくなり、そして離れた如何なる道によっても連想させ得るものも無く、最初の思考から極めて遠くにいることがあります。それは忘却です。そして殆ど何時もそれは私たちの一連の観念が大変に気まぐれに見せるものでもあります。空間の中にしろ、時間の中にしろ、所謂密接な関係による連想に関しては、完全な記憶に関する研究によってしか理解しない素早い記憶力による出来事です。私が大聖堂を考えるには、傍らにある花屋のことを考えないと考えられません。よろしい、しかし私が古い家や、町や、そこへ行く道を考えるのも同じ方法です。そして、これらの全ての地形学上の検討には、信じられない程の多くの思考を含みなす。しかし、特に連続という秩序は明らかに科学によって発見されますが、これはこれからはっきりするでしょう。確かに記憶には自動的なものがありますが、主張する程のことではありません。常に行動においても自動的なものがありますし、言葉においてもあります。これらの指摘は、観念やイマージュが銀幕上に一つの言葉がもう一つの言葉の後に現れるものとして理解される思想の構築に対して、身を構えて警戒する読者になることを目的と見做します。その思想のメカニズムは大変に子供染みていて、記憶に関する研究も証明するのを終わりにして仕舞います。

 これらの有名な連想の法則は、何も説明していないことをつけ加えて言いましょう。一個のオレンジは私に地球のことを考えさせますが、類似からは何も説明されません。何故なら、一個のオレンジは林檎とかボールとか別のオレンジに更にもっと似ているからです。そして、この事例から大変に明白なことは、所謂連想とはオレンジの皮から地球上の山々の山頂までの凸凹が現れる天文学の学習に関する素早い記憶に過ぎないことです。従ってそれは類似です。つまり本当の思想になって、ここに想像力を齎します。(完)

 


第十二章 記憶について

 

 知覚することとは、常に想像して思い描くことです。それ故に大変に単純なものでもある私たちの知覚においても、常に暗々裡と呼べる記憶があります。全ての経験が、各経験の中に集められます。木々に沿って伸びる一本の並木道を両目で知覚することは、その並木道や他の並木道を走り回ったり、木々に触れたり、その影や遠近の動きを理解することなどを思い出すことです。そして、例えば影は太陽が影響する如く、太陽の知覚は何時も間接的に多数の経験をそれ自身に含んでいるので、私たちの全ての経験は各経験に集められると私は言うのです。しかし、この指摘そのものは、ここでは暗々裡の記憶が重要であって、本来は話すための思い出ではないことが良く分かります。この並木道を申し分なく知覚するには、私がその様な散歩をしたことを考える必要は無く、まして過去のその様な時間に散歩をしようとしたことを考える必要もありません。私たちの目の前で嘗て過去を広げることなく、現在と近い将来を明らかにすることだけしか行わない記憶を、活動的な記憶と人は呼ぶことが出来るでしょう。反対に何年も長く放浪して蘇り、そして影の王国で私たちを散歩させるために、現在の好機を捉える記憶を、夢想家の記憶と人は呼ぶことが出来るでしょう。この夢想家は全く私たちを少しも放って置きません。しかし、如何なる記憶も無く、暗々裡の記憶さえも無い新しい人間は、距離を測ることも出来ず、事物の周りを数えて一周することも出来ず、結局のところ見抜くことも見ることも出来ず、私たちがやる様に聞くことも触ることも出来ないのは事実です。記憶は従ってばらばらに分けられた機能ではなく、分離出来ないものです。

 過去と未来の概念が何時か全く欠如することもあり得ません。何故なら、どんな事物も構わずに知覚の中に沢山の記憶があるのなら、この事物が他の事物の中心で思考されるか、あるいはこう言っても良いが、あらゆる方向へ伸びている無数の道の十字路となっているのも本当であるからです。この十字路は既に事物の欠如した一つの思考や、多少なりともその次の思考を仮定しています。そして、そのことは既に或る確かな方法の時間を決定しますが、それは保持すると同時に拒絶し、同一の事物であったり無かったり、あるいはもっと正確に言うと、同一の事物が欠如しているが、或る条件の時間で存在する奇妙な関係によるものです。例えば私の背後には町がありますが、三〇分の内にそこに存在することが出来ます。

 しかしながら、これでは未だ言っていることが不十分です。それは可能な時間に過ぎません。実際の時間はどんなに僅かな知覚でも現れます。というのも私が事物とか場所を知覚する時、例えば私の目をそちらへ向けながらも、そこへ到達するために辿った道を思い描いて推測するからです。その様にして私の過去の存在は、少なくとも最新の所在が常に一瞬に保存されます。そのことが無いと私が存在するのは何処か全く分からないでいるに違いありませんし、旅行から帰って目が覚めた人に似ています。私にとってはその事物以前には、他の事物が色々とあったのです。何時も空間は時間と結び付いていて、単に近かったり遠かったりしても抽象的なものの中だけでなく、私の実際の経験の中で結び付いています。位置、通路、運動、時間は実際に切り離せないものです。理解するに難しいことはありません。何処にいるのか知ることは、何処から来たのかを知ることです。それは数々の色々な道の中で、それらの事物の本来の道を見分けることです。未来は或る意味で私たちには常に現在になる、と言うまでになるに違いありません。何故なら、この町から地平線まで私を引き離すのは、可能な未来でないとしても、それは距離が明示するものであるからです。従って空間の大きさは、時間との関係によってその大きさが存在するに過ぎません。それは実際と同時に可能な時間です。その可能性は位置に化けて現在も思考されていると私は言いたいのです。その上、その前後の言葉も又、空間を限定するのは明白です。作家たちは余りにも屢々私たちの思考の秩序である時間と、事物の秩序でもある空間の秩序を分離している、としか私は強調しないからです。勿論、私たちが十分に指摘して来た様に、思考と事物は一体のものです。あるいはもっと乱暴な言い方をするなら、外部のものでしかない外部は、最早誰にとっても外部ではないに違いないのです。そこには内部の関係もなければなりませんし、それによって近いものでも遠いものでも分離出来ない世界しか生まれません。更に、これらの事物はカントの『純粋理性批判』で述べられていますし、私が判断し得る限り勘違いはありません。しかし、全てを極めて念入りに読まなければなりません。私はそのことを哲学者の初心者に言いたいと思います。(完)

 


第十三章 身体の中の痕跡について

 

 私は大変遠くにあるアミアンの大聖堂のことを考えます。再び見ている様です。私は、自分自身の裡だけを探して再建します。もしも私が知覚した事物の何らかの痕跡も持っていなかったなら、記憶のこの再建が不可能であることは明白です。そして私は、何時も見分けられるこの生きた身体を私と共に至る所へ持ち運んでいて、更に突然に変わることに耐えられないので、蝋に指輪の痕跡を付けて残す様に私の知覚から一種の痕跡を保存して、私の肉体の或る部分にあると推測するのは自然なことです。この隠喩は古代の作家たちには十分でした。プラトンという人は身体の状態と、感覚とか思考の運動とを良く見分けるのを学んでいましたので、確かにこの隠喩に騙され易い人ではありませんでした。それ以来、身体の構造に関するより正確な認識によって、この隠喩が真実の顔をしたがりました。それでもそれは、哲学者が注意しなければならない点の一つです。第一に、今まで述べたことを良く把握したなら、彼は素朴な快楽主義者の些細なイマージュに似て、数々の感覚から入って脳の柔らかくて形の美しい部分に刻まれるものは、何も受け入れたくないでしょう。その上で成すべき真の考察は、神経に沿って行って脳の中で起きることを間違って認識することではありません。物質環境や事実そのものの様に分割出来ないで全てのものの様に思考されて、それらの関係と距離とお互いの外の部分と共に、その他の知覚の中央にある感覚です。そして、それらのイマージュの裡で脳は世界の一部でしかなく、全てを含むことは出来ません。換言すると、脳の中には脳の各部分があるに過ぎません。これらの各部分の形と運動を自ら記すことが出来るだけです。その上、これらの形と運動は完全に思想家から無視されていて、その時の思想家は自分の印象と記憶によって世界を思考するのです。私にとって思考は単独であることが私の思想です。その外のものは事物です。要するに幾らでも脳が大きくなると、何時も脳しか考えられなくなるでしょうし、世界の他の数々のことは少しも考えないでしょう。この種の注意から精神は結局のところ作品に現れます。そして作品に混入されて、古代の神々の様に組織者となり、世界の創造主になって現れます。

 これらの諸原理は真の哲学者たちによって十分に知られています。しかし、彼らは記憶を論じながら、記憶を余りに忘れていることに私は気付きました。従って身体に保存され得るもの、如何なる種類の痕跡であるのか、如何なる効果を伴うのかを述べることにしましょう。生きている身体は先ずその形と取り巻かれているものに抵抗することで動くという特徴があります。その上、生きている身体は動くことを学びます。その点で恐らく二つのものを見分けなければなりません。一つは、訓練によって高揚した筋肉への栄養であり、屢々行われる運動をより一層容易になる様にそれと関係した筋肉の形を変えることです。これらは余り注意されていませんが、ここで真の痕跡になります。もう一つは、既に推測出来まるもので、目には見えませんが一連の印象で何よりもより精力的に強い筋肉になる様に、神経と中枢のもので結局は脳によって作られるより一層容易な道です。以上は生きている身体が行えることの全てであり、保存することが出来るものの全てです。それは職人たちや体操教師や音楽家の処で見られる無意識的な熟練の技ですし、お分かりの様に大したものでもあります。更にそれは意識的に注意力を働かせて信じられない位に、もっと良く柔軟になって変えることになりますが、それはこれから述べることになるでしょう。そして、こう言っても良いのですが、そこにはまさに記憶があります。思考ではなく、一般的には習慣と呼ばれているものです。そこでは本来記憶と呼ばれていたり、もっと正確でより一層良く整理された時には、思い出と呼ばれている実体の無い消えている対象に関しての認識を扱っているのですから、もっと詳しく述べる必要はありません。身体の中に残されたそれらの痕跡は、それらをやり直そうとする行為の痕跡以外のものにはなり得ないと単に言うことにしましょう。そして、言葉はこの種の一つの行為であり、習慣によって管理されてもいます。思い出を絶えず保持する真実の対象を耳にも提供していることに注意しましょう。しかし今は、時間と連続の感覚をきちんと述べることにある、本当の困難に取り組まなければなりません。(完)

                

 



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