目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第七章 感覚と理解力

 

 しかしながら少しは先に始めなければなりません。余りに容易に非常に広まったこれらの知覚の探究は、本当の困難に直ぐに赴かなければ遊びでしかありません。それなのに私はそこに固執したいのです。カントが『批判』の中で空間を、理解力の構築としてではなく、感覚の一つの形式として考えたがっていることは誰もが知っています。私は、先立って行う分析によって、科学の諸関係を言葉の本来の意味の代わりにするために、この透明な感覚を備えた一つの空間の枠に入れたイマージュを全て排除する様に導かせるのは寧ろ明白です。カントが申し分なく空間を処理する時には、空間が一つの形式でしかないことを決して忘れません。でも、それは初心者にとって大切なことです。ところで、空間は感受性の一つの形式であるとカントがつけ加えて言う時、次のことを強調しているのです。空間を所有することは、科学が組み立てる理解可能な諸関係にすっかり立ち戻らせることは出来ませんが、それらは明白な認識の形式であるということです。その点については、事物に関して合理的に扱っているアムラン(1)を読んで下さい。

 問題が曖昧になって来るのは、三つの座標が常に一点に固定されている三次元の空間が私たちの経験としての出来事になる、と数学者たちが言って気に入っているからです。しかし必然性の真実にとっては奇妙なことです。この問題は保留にさせて置きます。私が今まで述べて来た空間は、まさしく精神の活動における形式と呼ぶものと異なっていると決して理解しません。数学者たちが代数に騙されるとか、三次元が距離や方向の観念そのものよりも経験上のデータとのあらゆる混合によって純粋でなくなることもあり得ます。しかし、詳細なことに今は這入らないでいましょう。読者を目覚めさせることが重要です。悩ませることではなく、弱さよりも寧ろ隠れている強さを表すことが重要です。

 私は、あるが儘の人間の認識を書き出すことに取分け集中しながら、私たちに遠近の事物を見させてくれる幾何学的形式の予測と、所謂科学の諸形式との間に既に現れている大変顕著な類似を強調します。これらは注意に過ぎません。私は目的を忘れません。そして、体系の中で完成する学説には達しない様にします。議論が人々の間で終わりになる前に、世論や品行の治安は有効に行使することが出来ます。

 刺激に関する学問というものが決して無いことは、重要なあらゆる哲学者たちが、取分けプラトンやデカルトが強く示していました。刺激というこの良く知られている用語の意味を正確に理解するための準備が、私たちには成されている様に見えます。その強さを測るには、長さにしか関係していないのは明白です。例えば、同じ強さの二つの音は、同じ距離の処にある膜に同じ振動を生じる二つの音です。二つの温度は、きちんと同じ量で用意された水銀の膨張で比較されます。カロリーは、氷が水に溶けて変化した重さによって測定されますし、重さそのものは天秤棒が均衡して変化しなくなることで量られます。その様にして科学は、今まで述べて来た幾何学的要素も、感知し得るデータに代えて理解されます。そして、強さを知ることが出来るものはどんなものでも、要するに長さを測ることになります。しかし、そこには科学的な事実しかありませんし、直接的に分析して明らかにしなければなりません。

 知覚とは、厳密に言うと私たちの運動とそれらの結果の予測です。そうして恐らくその目的は、常に何らかの刺激を受け入れたり排除したりすることにあります。まるで私が果実を摘みたいとか、小石がぶつからない様に避けたいと思うが如くです。良く知覚することとは、私がこれらの目的に達するために行わなければならない運動はどの様なものかを、前もって認識することです。良く知覚する者は、行うべきことを前もって知っています。猟師は、鳴き声を聞いて犬たちと再会する術を知っていれば良く知覚しますし、飛び立つヨーロッパ山うずらを発砲する術を知っていれば良く知覚します。子供が両手で月を掴みたい時には誤って知覚していますし、以下同様です。それ故に知覚には真実とか、疑惑とか、誤りがあるのかがその評価になります。遠近法やレリーフにおいては、特に視覚に大変敏感です。ところが聴覚や嗅覚にも敏感で、恐らく盲人が両手で触れる時には訓練された触覚も同じく敏感です。刺激そのものに関しては、疑惑も無く、誤りもありませんが、首尾一貫した真実によることもありません。刺激はそれを人が感じると、何時も現実のものになります。従って幽霊の知覚は間違いです。それは私たちの両目が感受しているものではなくて、消えやすい光とか着色された染みであり、幽霊と思うのはまさに予測なのです。幽霊を見ることは視覚の印象によって推測することであり、手を伸ばすと何かの生き物に触れるだろうと思うからです。あるいはもっと適切に言うと、それは私が窓の前で今見ているものを推測することであり、もしも私が或る動きをすれば、戸棚の前でも又それを見るでしょう。しかし私が現実に感じているものに対しては何の疑いも無く、私はそれを感じているのです。そのことに関しては決して間違いは無いので、そのことに関しての学問も決してありません。私が感じ取ることに関しての研究は、どんなものでも常にそのことが意味するものや、如何に私の動きと共に変化するのかを知ることにあります。そこからお分かりの様に、対象のものとは本質的に位置と形を持っている何らかの事物です。あるいはもっと正確に言うと、対象のものの中にある真実とは、その形と位置と所有するもの全てを決定している空間上の諸関係全体です。今は次のことを熟考して下さい。天文学者は、その様な諸関係によって十分に計測された知覚の後で、地球が太陽の周りを回っていることやその外の類似のことを言い、そしてこれらの運動によって起こること、例えば日食やそれが見える場所を予言するまでの、その様な諸関係を決定すること以外に他のことは行わないことです。今はこれらのことを指摘するだけで十分です。(完)

 

(1)アムラン(一八五六~一九〇七)は、哲学者でヘーゲル哲学をフランスに導入した。

 


第八章 対象について

 

 デモクリトス(1)が、太陽と月は本当に私たちが見ている様にあって、あるが儘に見える大きさと、私たちがそれらを見て信じている距離を主張したがっていた時、彼は自分の学説が無理矢理強制するものが何であるのかを良く知っていました。彼が船に乗って旅立つや否や、冒険から逃れることは誰にも確信することが出来ませんでした。太陽が私たちから非常に遠くにあることは、月よりも遠くにある証拠を良く知らない人々にとっても今日では一般に認められています。それ故に太陽と月の大きさが、食の時に見られる様に、殆ど同じ大きさに見えますけれども、太陽が月よりも非常に大きいことも一般に認められています。従って見ただけでは太陽と呼ぶ対象が真の太陽で、眩い球形ののものであるとは主張出来ません。同様に真の太陽は、うっかり見詰めると目が痛くなるとも言われます。従って誰も見ることも想像することも出来ないこの真の太陽を如何にして定めることが出来るのか、探究しなければなりません。同様に、私は立方体を知っていますが、立方体もその儘見ることが出来ません。私は立方体のしるしを見ます。真の太陽のしるしを見るのも同じです。真の太陽のしるしのうちで、その大きさ、見かけの運動と本当の運動、一本の棒が回る影も、黒くした眼鏡を通して見た天体の円盤に劣らず重要です。それで真の太陽も他のものによるのと同様に、これらのしるしの一つよって良く決定されますし、時々はより一層良く決定されます。ここでお分かりの様に、一つの対象は他の数々の対象との関係、実際は他の全ての対象との関係によって決定されます。単独と考えられた対象は決して真実ではありません。あるいは換言すると、決して対象ではありません。それは対象が不可分の諸関係の体系に存在するのであり、あるいは更に対象は思考されたもので感知されたものではないと言えます。もしもあなたが、最も単純なものの中にある立方体の例について再び考えるならば、デモクリトスが拒絶しようと虚しく試みていた逆説を良く理解するでしょう。

 正直に言って、世界は見るが如く書かれなければなりません。だが、簡単ではありません。何故なら、感じるが儘に見ないからです。そして同様に、見るが如くに世界が存在していないことを誰もが良く知っているからです。人物を一周して場所を変えてみて下さい。この人物のイマージュは何時もぼんやりとくすんでいるでしょうが、地面ははっきりとしていて、より一層明るい色をしているでしょう。しかし、彼はそれとは別のものであり、それらのしるしや別のもののしるしで決定するのが重要であることをあなたは良く知っています。そして、判断されるのは触覚であると言いたい人々は何も手に入れません。それというのも、この人は私の手の印象であるとは言わないでしょうし、次々に別の印象のものでもないからです。反対に彼が私の手による簡単な動きでは、そんなにも変わらないことを私たちは知っています。要するに私たちは、これらの沢山の姿から同一の人であると分かる処まで体系的に外観を十分に集めなければなりません。私が月明かりの時に踊る時、踊るのは月ではないと判断するのも方法は全く同じです。子供の羊飼いもこのことを知っていますし、既に科学によって知っています。

 古代の天文学者たちは、明けの明星と宵の明星は二つの異なる天体と考えていました。私たちの地球よりも太陽に近い天体である金星は、他の天体の様に大空を一周しないものになっているのです。従って諸関係を誤って程々に認識している彼らは、今日の私たちが行っている様に、二つの体系の外観を一緒に結びつけるまでに至っていませんでした。天文学上の様々な体系を比べることは有益です。何らかの方法によって、色々な幾つもの外観に基づいた唯一の対象が見出されるのは、同一の対象として相応しい一つの運動とその観察者の発見であることはそこで理解されます。しかし、動き出すのが私の列車か相手の列車かを知るに至るのは、他の色々な方法によるのではありません。そうして私は思考することになります。燕が毎年巣を作るのを知っている地下の納屋近くの窓に、一羽の影を見ただけで、私は「ほら、燕が帰って来た」と言います。その燕が前年の燕と同じでないかも知れませんから、その推測は非常に拡大されていますし、部分的には多分間違っています。しかしながら、そこで精一杯理解されるのは、理解力がその体系を構築して真の対象を如何に限定するかです。

 従って二つ目で、何故一つの対象しか見ないのかを尋ねることは、余りに些細なことを尋ねるものです。二つの手では何故一つの立方体しか触れないのか、何故見て、聞いて、嗅いて、味わう対象にも触れると人は言うのか、その理由も尋ねなくてはなりません。何故なら、外観だけに止まっていたなら、それと同じだけの大変に異なったものになるからです。これらの注意によって思考するという奇妙な力が、少しずつ自ら明確にしている様に見えます。それは大部分の人々が他人たちとか自分自身に起因する多くの出来事を、少なくとも話の中で認めたいと思っているものです。既に人が気付いていることは、誰もが最初は独りであると思い、狂人も生涯を過ごす外観に倣って共通した一つの世界を精神が思考していることです。(完)

 

(1)デモクリトス(前四六〇から前三七〇)は、古代ギリシアの哲学者で原子は絶えず運動し、空虚の場所が前提とされ、それは全ての感覚で捉えられるとした。プラトンは彼の哲学に激しく反対した。

 


第九章 想像力について

 

 間違った知覚として想像力を定義すると、恐らく最も重要なことについて強調されます。というのも想像力は内面の遊戯であり、想像力そのものを伴った思考のものであり、自由な機能で現実の対象が無いものと見做したいと思われているからです。その様にして想像力から、私たちの身体の状態と運動までの関係を知るための最も大切なものを見落としているに違いありません。私たちが明瞭なデータによって多くのことを見抜くための危険を冒す時、想像するための力は先ず知覚の中で考察されなければなりません。そして、知覚はその時に、私たちの全ての経験との関係及び絶えず全ての予測を吟味することが想像力と違っているのは大変に明白です。しかし、どんなに厳密な知覚でも、想像力が常に循環しています。想像力は絶えず現れては消えて行きますが、それは素早い点検、観察による些細な変化によるものであり、結局のところは堅実な判断力によるものです。悪魔も祓うこの堅実な判断力の価値は、取分け情熱の働きの中に現れます。例えば、恐怖が私たちの隙を窺っている夜の時です。いや寧ろ、白昼においても神々は木から木へ走り回っています。そのことは十分に理解されます。私たちは、真の知覚がひらひら飛び交う誤りに対する継続した戦いであると判断したり、非常に弱い標識についても大変に機敏です。お分かりの様に、私たちの夢想はその源泉をそんなにも遠くへ探しに行く必要はありません。

 しかし、私たちの感覚器官がそのものによって独創の方法を提供することも屢々起こります。それらの器官を通して良く理解しましょう。私たちの身体は、外部の原因によって沢山の方法で絶えず変えられます。しかし私たちの器官の状態と生命そのものの運動が弱い印象を与えていても、その外のものの静かさの中では大変に強い印象を与えていることには良く気付かなければなりません。かくして、熱のある血液は耳の中でぶんぶん鳴っていますし、口は苦く感じて、震えとちくちくする感じは肌を走ります。私たちが短い瞬間に、諸対象を想像するためには最早その様なことがあってはなりません。でも、それは文字通りに、夢を見ると言っていることなのです。結局のところ屢々私たちは運動によってイマージュを探します。あるいは寧ろ、工夫して作ります。もしも身振りとか、もっと正確には鉛筆が両目で追って形を描くだけでしかないならば、あるいは更に両目の活発な動きが実際の知覚を曇らせたり神々を走り回らせたりするだけでないならば、ここでの視覚は消す役割を演じるだけです。聴覚は言葉によって、もっと良く直接的に変えられます。言葉は、例え小さな声で話しても、私たちが知覚する実際の対象です。取分け、触覚が意味しているものは触覚そのものに、私たちの運動の一つ一つによる印象を手に入れます。私は自分を鎖で繋ぐことも、喉を絞めることも、自分自身を叩くことも出来ます。そして、これらの強烈な印象は恐らく狂人たちの精神錯乱の証しでも何でもありません。ここで見るのは、想像力から情熱への結び付きです。逃げる人は全ての事物を誤って見ますし、彼の背後を過ぎ行くものはもっと誤って予感し、無秩序な行動によって心臓や肺の活動は倍加し、走ることでそれらの反響を呼び覚まします。不規則な運動はどんなものでも知覚された世界を乱します。従って、私たちは痙攣的な運動に身を委ねるや否や、悪魔や誤りの証しの発明者と同じ様に、絶えずこの世の保守主義者であり建築家です。その上、世界は大変に豊かで、常に私たちの錯乱した対象の何らかの影を提供します。そして、想像力によるどんな仕事においても、何時も外部世界、身体の状態、運動という三種類の原因があります。しかしながら、三種類の想像力を区別するのは悪いことではありません。第一には、規則的想像力があり、それは大胆すぎることが無ければ間違えませんし、何時も一つの方法に従っていて、経験に制御されます。その様なものには足跡や僅かな埃についての警官の考えがあります。猟師が自分の犬を殺す様な間違いがあります。第二には、事物から目を逸らしたり両目を閉じたりして、生命の運動やそこから齎される弱い印象に特に注意深くなるもので、幻想と呼べるかも知れません。その幻想は判で押した様に事物には決して混ざり合いません。目覚めはそれ故に突然に起こりますし、しかも安全です。その代わりに第一の規則的想像力においての目覚めは刻一刻と起こります。最後の第三には、情熱的想像力があり、取分け痙攣的な運動や怒号によって定義されるものです。

 規則的想像力にも存在しますが、別の意味では三種類の性質を持っているのは、もっと後で述べることになる詩的想像力です。少なくともここでは詩人が如何にして霊感を探すのかを考えて下さい。或る時は事物を知覚しながらであっても、幾何学ではありません。或る時は半睡状態であり、又或る時は身振りを盛んにしたりわめいたりします。建築や絵画の様なものは身体の中に、主題そのもののどんな材料も受け取ります。勿論、芸術は情熱と取分け儀式にも依存しています。従って、そのことに関して今は詳しく述べる時ではありません。(完)

 


第十章 異なった感覚による想像力について

 

 想像することとは、或る対象を何時も思考することです。そして、あらゆる感覚に基づいて可能な働きを再び現すことです。視覚でしかない様な想像力は最早、想像力の全てではありません。それは位置も形も無い色彩があるだけの印象です。それらの印象を人間の身体現象にするのを目指すにつれて、次第に想像力から癒えて行きます。或る場所で幽霊を見ることが無ければ、何で幽霊を想像するのか、又何でどんな動きによって幽霊に触れるのかを思い描くのでしょうか。その点について十分に熟考したことも無い昔の哲学者たちは、単に視覚上の想像力とか、他には単に触覚上の想像力を述べるだけです。この種の人々は、そこに対応するのみで、十分に深く研究することはありませんでした。どんな視覚上のイマージュも、常に凸凹と距離を含んでいますので、筋肉に関する或る解釈そのものを、そのことによって含んでいるのを認めるのは簡単ではありません。従って曖昧であったり、余りに自惚れた解答を予測しなければなりませんでした。要するにイマージュというものは決して無く、想像上の対象でしかないのです。この事例は、考察がここではそれらの探究を先導し、常に明らかにしなければならないことを良く示しています。

 保留がなされると、私たちは各感覚によって如何に想像するのか検討することが許されます。味覚や嗅覚にとっては、実際の対象が肉体の反応を生まないで、取分け吐き気の動きの様な無意識なものである想像力の理由を提供することが少しも無いとすると、恐らく言うべきことは少しもありません。同様に、他の色々な感覚による想像力も屢々、味や匂いを決定します。その上、味が美味しい料理を見た目でも、予想によって不味く見えることもあり得ることは誰でも知っています。病気でより一層洗練されたり、あるいは研ぎ澄まされたりした感受性が、一般に大変微かな匂いや味に敏感になることも時々起こります。その様にして想像力も真実になりますが、私たちが知らない間になります。その上、いわば真実でない想像力というものも決してありません。というのも世界が沢山の方法で私たちに絶えず働きかけているからで、私たちは何らかの現実的な対象が契機とならない様な、大変に法外な夢想を恐らく所有しているからです。それ故に何らかのものを何時も知覚されるのでしょうが、下手でもあると想像して下さい。

 これと同じ性格は何時も十分に考えられていないのですけれども、視覚上の想像力に対してもやはり敏感です。雲とか、密生した葉とか、古い天井や壁紙のぼんやりとした入り組んだ何本もの線は、人間や怪物たちの頭部を想像させるのに大変適しています。薄明かりの時や影の悪戯も、非常に明るい光と同じ様に同じ効果を生むことを誰もが知っています。煙と炎も夢想家たちには有利です。

 今は私たち自身の目が、取分け閉じられている時に、夢想に与えるものを述べなければなりません。勢い良く両目を閉じると、非常に明瞭な対象のイマージュを誰もが観察出来ます。それは継続された振動でしかなく、あるいは補色での陰画のイマージュでしかありませんし、疲労のせいでもあります。恐らく、私たちの網膜は決して完全に休息しないものなのです。誰もがご存知の様に、圧力や電気的な刺激を加えると微光が見えます。そして大の読書好きは、色が付いて変化する総の様なものを見ますが、恐らくそれらは夢想の最初の切っ掛けです。私は眠る前に何度も見ましたし、これらの形は動いて人間や家のイマージュに変化しますが、事物として見分けるには注意しなければなりませんし、目を覚ました批判が必要です。熱狂者たちは自分自身の内面にある事物のイマージュを見ていると言うことが大好きですが、そこで理解していることを説明したがりません。私が考える処、どんな視覚のイマージュもイマージュの性格上、私の外部にあります。イマージュ自体にとっても外部のものでもあります。私が夢の中で散歩をしている森は、私の身体の中にありません。しかし、森の中にあるのは私の身体です。魂の目で、あなたは何をするのでしょうか、ということになるのでしょう。勿論、魂の目とは私の目です。

 私が事物の運動を想像する時、明らかに最も重要なことは、結局のところ私自身の運動の結果を考察しなければなりません。私は頭を動かすのがどんなに小さくても、全ての事物を動かすことになります。誰もが確信出来る様に、私の運動は数々のイマージュを混乱させるものそのものですし、両目を瞬きすれば完全にイマージュを蘇らせることを、つけ加えて言いましょう。しかし、ここで最も重要な行為とは両手の動作です。それは眼前に事物が無くても描いて、何よりも自然と素描や原型となって実際の対象の中に私たちの夢を固定させます。私はここで、さ迷う鉛筆のことしか考えません。それは、その鉛筆の出会いによって私たち自身が感動するものです。その様にして私たちは、この章の主要な観念に導かれます。それは信じられる限りにおいて、私たちはでっち上げないということです。私が言っていることは一度ならずも実際に起きました。私が鮮やかな赤色を想像した瞬間と同じ時に、目の前のノートの縁が赤く見えたのです。

 同じことは恐らくもっと良く知っていることと思いますが、聴覚の想像力についても言えることです。先ず第一に、風や滝や車や群衆の雑音は全てが言葉になったり音楽になったりします。列車の進行は一つのリズムを聞かせます。呼吸や血液の鼓動も又耳に作用して、ぶんぶんいう音や、ひゅうひゅういう音や、かちんという音を生んでいると言わなければなりません。取分け、私たちが話したり歌ったり踊ったりするのは聴覚上のイマージュを固定して、他のイマージュを呼び起こすからです。音楽上の霊感の研究はここでは触れないことにしましょう。少なくとも夢においては、私たちが聞いていると思っている声は多分、屢々私たち自身の声であり、叫び声も私たち自身の叫び声であり、歌声も私たち自身の歌声であるとして置きましょう。それと共に私たちは息や筋肉や血液によってもリズムを取ります。そこにはあらゆる出来事の交響楽があります。

 触覚に関しても論じることがあります。でも、これは難しいものではありません。何故なら第一に、事物は絶えず寒さと暑さ、呼吸、圧力、摩擦で私たちに作用しているからです。第二に、触覚は生命活動によって疲労や摩擦や熱や傷害によって屢々変えられるからです。私たちは胸が締め付けられたり、捻れていたり、錐で突かれたり、鋸で挽かれた様に感じる気になります。あるいは又、胸を縛られたり、喉を手で乱暴に絞められたり、重い物で押し潰されたりすることを想像します。結局のところ軽快であったり活発であったりする運動が、まさに実際の印象を与えています。殴り合う夢を見ている人は、拳骨を振るっているかも知れません。腕を組んだり、壁にぶつかったり、断固として立ち向かったり、体をねじったりするかも知れません。その様なことが最も悲劇的な夢の源泉になります。そして、ここで情熱に触れることになります。それは材料が豊富ですから、全てを一度に言うことは出来ません。(完)

 


第十一章 連想について

 

 私たちの一連の思考は、一般に私たちに起こる対象に基づいて調整されます。しかし、前に見た様に、これらの対象は多くの試行や素描や仮定の後でしか見分けられません。あそこにいる人物を私は最初、郵便配達人と思いました。その車は肉屋のものでした。風に舞う木の葉は小鳥でした。その様に私たちの各知覚は素早く探求を終えて、偽りの間違った知覚の足場となり、それらに言葉は決して止まること無く一種の正確さも与えます。それ故に、各対象に関して私は、それに似ている他の多くのもののことを自然に思考します。その意味で、それらの形は私の印象を十分に説明するものになります。類似による結合と、作者たちが見做すこれらの大部分のものを、思い起こすための源泉を探さなければならないのもそこなのです。私たちの諸観念がまさに閉鎖された部屋に隠遁して、恰も金勘定をしているが如くに、私たちの精神を結びつけると信じている誤りもそこにあります。実際に思考することとは、常に知覚することです。そして夢を見ることでさえも又、下手であるが知覚することです。もしも安易で屢々全くの弁証法的な瞑想から立ち直りたいと思うなら、この様な問題についての、作家たちの指導的な観念を堅くして曲げないことが大切です。

 感覚が疲労すると黄色に対する紫色の様に、事物の補足的なイマージュを知覚することも起きます。この種の事例は大変に稀有です。しかし、私たちの全ての感覚にとっては常に僅かに活発な印象も相当の行為には、謂わば無感覚にして仕舞いますし、それ故に他のものに気付くことも考えるのは自然です。その様にして所謂対照的な連想の多くが多分理解できます。或る旅行者が私に語ったのですが、アルジェリアの砂漠に疲れて目を閉じると、ノルウェーの月夜の風景を考えたとのことです。

 私たちの思考において言葉とは、知覚とは別であるもの全てを自動的な流れで調整するものとして、結局のところ考えなければなりません。尤も私たちは言葉も知覚するのですから、そのことも又知覚に変わりありません。ところで、屢々或る言葉を他のものの代わりに言いますが、この失敗には二つの主な原因があります。あるいは発音するのが容易であるから言おうとした言葉に似た言葉を、つい口を滑らせて言って仕舞いますが、これは類似による一種の連想です。あるいは又、何らかの屈折や緊張から疲労した言葉の器官が自ら休息する事態に陥ります。そこからは私たちの思考も、より一層奇妙にも切断されて仕舞います。

 しかし、はっきり言いますが、私たちの思考の連鎖が屢々私たちのものでなくなり、そして離れた如何なる道によっても連想させ得るものも無く、最初の思考から極めて遠くにいることがあります。それは忘却です。そして殆ど何時もそれは私たちの一連の観念が大変に気まぐれに見せるものでもあります。空間の中にしろ、時間の中にしろ、所謂密接な関係による連想に関しては、完全な記憶に関する研究によってしか理解しない素早い記憶力による出来事です。私が大聖堂を考えるには、傍らにある花屋のことを考えないと考えられません。よろしい、しかし私が古い家や、町や、そこへ行く道を考えるのも同じ方法です。そして、これらの全ての地形学上の検討には、信じられない程の多くの思考を含みなす。しかし、特に連続という秩序は明らかに科学によって発見されますが、これはこれからはっきりするでしょう。確かに記憶には自動的なものがありますが、主張する程のことではありません。常に行動においても自動的なものがありますし、言葉においてもあります。これらの指摘は、観念やイマージュが銀幕上に一つの言葉がもう一つの言葉の後に現れるものとして理解される思想の構築に対して、身を構えて警戒する読者になることを目的と見做します。その思想のメカニズムは大変に子供染みていて、記憶に関する研究も証明するのを終わりにして仕舞います。

 これらの有名な連想の法則は、何も説明していないことをつけ加えて言いましょう。一個のオレンジは私に地球のことを考えさせますが、類似からは何も説明されません。何故なら、一個のオレンジは林檎とかボールとか別のオレンジに更にもっと似ているからです。そして、この事例から大変に明白なことは、所謂連想とはオレンジの皮から地球上の山々の山頂までの凸凹が現れる天文学の学習に関する素早い記憶に過ぎないことです。従ってそれは類似です。つまり本当の思想になって、ここに想像力を齎します。(完)

 



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