目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第五章 刺激について

 

 或る距離があったり、それらの距離を想定する場所の全ての関係から形と大きさが知覚されるものは、レリーフの様に、何時も単に可能な運動による効果があります。その点について長く考えることは重要です。何故なら全ての事物の形式である幾何学の空間があって、しかも事物に似ていない奇妙な性質が生じているのはそこであるからです。例えば、私がレリーフとして知覚するものは現実の凸凹ではなく、その瞬間そのものに触れて知るのであると言いたいのです。私が認識しているのはしるしです。もしも、それらのしるしを事前に持っていたなら、両手で知覚するものを予測させてくれます。このことは距離がどんなものでも真実ですし、予測に過ぎません。その点に戻ります。私は恐らく熟考そのものからあなたの精神に現れる、思索に今は従いたいと思いますが、全てが予測ではないということです。その様なものとしてこれらのしるしは、現在も十分に与えられています。正確に言えば、それは出来事です。そして、もしも私がそれを近くから見詰めたなら、それらは私の両目と両耳と両手の出来事になります。私は耳でぶんぶんいう耳鳴りを誤って解釈するかも知れませんが、兎に角、私が知覚しているのは事実です。それが血管の中を循環する血液のせいでしかないとしても、兎に角、私が知覚しているのは事実です。私は凸凹を誤って見ますが、その光と影を良く知覚しています。そして、その影が私の目の疲労によって起こるものでしかないとしても、もしも私が余りに長く本を読んでいたとしても、激しい光とか暗い夜に変化したりぼんやりしたりする形の儘誤った色を感知するのが本当の様に、その影を感知するのも同様に本当です。偏見から私が指先の重さを間違って解釈することはあり得ますが、それらを感知していることも又あり得ます。更に、もしも私に熱があるために葡萄酒が苦いと思っても、いずれにしても私がこの苦さを感知しているのは本当です。現在は私が推理するものについての何らかのデータが常になければなりませんし、そのものに倣って私は見抜きますし、先に始めます。そうして目に見える現実の運動は、色や光に何らかの変化がなければ、決して感知されないでしょう。私は、身体についての物理的行動によって感じるものに倣って事物を感知します。そして、この最初のデータが無ければ、何も感知しませんし、それが刺激と呼ばれているものです。しかし、それを仮定して、まだこれから重要な二つの点に注意しなければなりません。先ず第一点は、ここで生理学者たちの道を踏み外してはならないことであり、感覚器官又は脳の中で、事物によって生じた肉体的運動を、刺激によって理解したいと思ってはならないことです。その様に話すのも、それは合成された知覚で、大部分が想像力である知覚を述べることであるからです。その知覚によって生理学者は人間の肉体の構造や外部の行動への反撃を想像します。余りに大雑把ですが、大変に一般的なこの誤解を良く考えて下さい。私は所有している知覚を考察しなければなりません。そして、教えられたり推断させられたりしたものを排除して、単に示されていることを決定するために探究しなければなりません。そこから私が二番目に注意しなければならない点に達します。それは如何なる予測も無く、刺激が何であるのかを知ることは、そんなにも容易ではないのです。何故なら、私が良く考えることは、視覚にとってのその情報は並置された色彩の数々の斑点に存在することであるからです。しかし、そこでは既に単純化された知覚の中で私が、凸凹が無くても私の両目には距離感があって一枚の絵に、全ての色彩を齎していることしか見ないのは誰でしょうか。色彩の単純な刺激は確かにもっと単純な何ものかであり、私の肉体のどんな部分でも感受されることはないに違いありません。というのも、その様に感受することとは、既に知覚することであるからです。私は形と大きさと位置を認識するのを欲するからです。従って、純粋な刺激を把握するには、いわば思考すること無く考えなければなりません。夢想とか、半睡とか、最初の目覚めとかの、或る種の名状し難い何らかの状態からは、盲人に視覚が示された時の最初の印象同様に、私たちにも十分に近いものになることが出来ます。しかし、彼はまさしく何を言って良いか分かりません。そして私たちが子供の時の最初の印象を保って置かない以上に、思い出を保って置けません。これらの指摘は、あらゆるものの中で最も明瞭な出来事や、最も良く限定されたものの様に、粗雑な思考体系を排除するためのものです。この体系に倣って私たちの刺激は続いていて、見分けられ、繋がっていて、呼び起こされます。一つの出来事とは、その最初の衝撃や、対象と人間との最初の出会いとは別のものであると私たちは言わねばなりません。内容と形式を区別しなければならないでしょうし、その様にして最も単純な知覚も既にそれを教えてくれているのです。

 知覚と刺激を識別するためにはもっと一層困難で、殆ど探究していない道がもう一本あります。それ故に質と量を考察しなければなりませんし、それらの性格によって明らかにしなければなりません。それは最も困難な思索の中へ直ちに身を投じることであり、読者に最も苦しいものを与える『純粋理性批判』の中の一つの部分です。ここでもう一度大きさとは何か、質とは何かを正確に述べてみましょう。例えば私が線を引いたり、数を数えたりする時の様に大きさが増大する時、質の部分は別のものの儘付け加わっています。例えば光がだんだんと強くなる時の様に、質が増大する時、明るさに付け加わるものは如何なる区別も無く、それに合体します。その光は変えられて、私がもっと強いと呼ぶ光は実際には別の光です。もっと濃い青は実際には別の青であり、もっと強い圧力は別の圧力です、等々と良く言えるでしょう。しかしながら私に増大する光が抗い難く齎されるのは、最も弱い印象から目が眩む閃光までの単なる光の強さです。この大きさは従って単に昔から増大したり徐々に減少したりすることが出来ますし、それを強さと言えるのははっきりしています。しかし、これは純粋な質ではない様に思えます。私たちはここで並置されたこららの強さを私たちの視線で整理するために、はっきり言うのにその大きさを利用している様に思えます。純粋な刺激には決して増大も減少も無く、正確に言えば大きさがありません。しかしながら、少なくとも変化や新しさはあります。説明出来ない不可解なものです。しかし結局のところ多くの人々が試みた様に、生来の直接与えられた印象を描写し様と努める表現に凝りながら、それに近づくことが許されます。以上のことは全てが幾何学以前のものです。しかし、これらの微妙な探究をここでは明らかにして、言語は不完全にしかそれらを表現しないと予測するだけで十分です。記憶に関する特別な研究は、最初の経験とか最初の印象を研究しても無駄であることを、恐らくもっと正確に説明するでしょう。これらの企てには、まさに最も多く解釈している最も大胆な知覚が含まれている様に見えます。(完)

 


第六章 空間について

 

 恐らく読者は、善良な哲学者たちによって大変幸せに使用されている、表象というこの美しい言葉を完全な意味で把握し始めています。事物は私たちに決して述べませんが、私たちは事物を述べます。又は、もっと正確に言うと、事物を表します。私たちの知覚においては、知覚を理解したいと思うのは極めて簡単です。何時も、思い出、復元、経験を要約します。語られた判断力のもので既に科学のものと、直観のものとを区別することは少なくとも有益です。直観力のある人は、少なくとも外観としての直接的な認識の様に論証的なものに反対しますし、研究や反復や理性の働きによって形づくられる認識に反対します。ところが知覚は、何時も言葉と接近と推測によって完全になりますし、注釈をを付けられます。例えば、木々が並んだ一本の線は道を示していると私は思いますし、あるいは三角形の影は鐘楼の尖端を示していると思います。更に又、唸る様な音は自動車の音に違いないと思います。これらの認識は、ありふれた言葉の意味から言うと、直感的なものであると思えるかも知れません。しかし、この章においては最も厳格な意味で、まさしく直感的認識と思われるものを問題にしています。つまり、それらの認識を解釈することであり、事物の様に触れる表象の何らかの性格からも極めて鮮明なものでもあります。

 私は極めて遠い水平線を見ています。私の両目が教えてくれるものに倣って厳格に言えば、他のものと同様にその色彩を良く表していますし、こう言って良ければ距離はありません。しかし、それでも距離があるのなら、事物として私に触れます。それは事物の真実そのものです。私が青味がかったこの色彩から引き出すことが出来るものです。この距離が大変良く私に見えて来て、残りのものも全て見せてくれます。それは一つの事物ではないのですけれども、大きさや形や色彩に一つの意味を与えています。しかし十分に注意して下さい。この距離は少しも水平線に所有されていたものではありません。そうです、事物から他のものへの関係であり、事物から私への関係です。もしも私がその所有されたものを知りたいなら、その距離に目を通しながら取り除きます。或る意味で私は常に表象によっていますけれども、その時は経験を十分に積むことになるでしょう。勿論、その様にして私は今距離を見ていますし、その様にして今感じていますし、その様にして今思考しています。私は距離を知り、可能なあらゆる経験を積みます。距離とは私のものであり、事物のものではありません。私は距離を設けて、線を引き、決定します。本物であろうと偽物であろうと、距離は常に距離であり、分割出来ない関係にあって、実際に歩き回ったものではありません。それらの部分はお互いにつけ加えられます。しかし全てが設けられているので、次々に分割されたり歩き回ったりしますし、或る意味で前もって分割することも歩き回ることも与えています。

 方向も又、同じ性格をもっと明らかにしています。何故なら、方向は私の肉体の回転に関係して事物を整理するからです。しかし、それでも事物ではありません。方向が決定されます。それは形式であって、受け取られたものではありません。空間についての全ての逆説がここに集められます。そして全ての困難が屢々余りに早く通過しますが、まるで作者が捏造したかの如くです。距離と方向は幾何学にとっての二つの武器です。さらに如何なる事物の助けも借りず、黒に対する白、点、線、角という恣意的に考えられた事物について大変に良く知っていても驚くことはないでしょう。でも、余り先走りしない様にしましょう。

 幾つもの距離から私は、深さと呼ばれている距離を選択しました。何故なら、その空間には性格が無くて、設けられているものであるからです。それは経験を決定しますし、より一層容易にそこに現れるからです。今は、あなたの目の前に広がっているか、目に見えない盲目の距離ですが、やるべき努力を決定する様な他の色々な距離を考えて下さい。これらの距離にも又距離があること、つまり分割出来ない関係があって、深さと同種のものであるとあなたは認めるでしょう。そして、きらきら輝く色彩も又表面の色彩として理解しない様にして下さい。あなたが一つの平面上に広げたいと思っている景色は景色自身で平面に描き、豊かであるとか貧しい色彩によって私は見ていて面白いものや悲しいものを理解しているとあなたは信じるでしょうか。この幻想からあなたを逸らせるには、この平面からあなたを離す深さによってしか意味を持たないことを、私は単にあなたに気付いて貰うだけです。そして、斜めに見える数々の表面に関しては、池の表面や山の斜面の曲線の様に、あなたは思考の中で立て直します。その様にして各々の事物に一つの意味と平面を与えますし、厳密な形式の中で外観を理解する時には更により一層明白になります。容量に関しても常に見抜かれて、設けられて、思考されています。というのも分割されたり、他の表面から、そしてその背後にある他の容量から発見されたり見抜かれたりすることがなければ、決してそこに這入って来ないからです。

 恐らく、あなたに最善を教える立方体の骰子にここで戻りましょう。立方体がどういうものであるのか、定義上は同じ辺、同じ角、同じ面であることを誰もが知ることが出来ます。しかし、誰もその様な立方体を見ていません。誰もその様なものに触っていません。立方体の骰子の形をありありと思い描くには、一つ一つの経験では見たり触ったりさせてくれないこの形を、経験の中で維持して肯定することなのです。もっと正確に言うと、既に科学が明らかにしている他からの位置と方向と距離によって、それらの全ての外観と知覚とそれに付随した影までを説明することなのです。ところで、この立方体の様々な外観を描いてみて下さい。そして、あなたが同一の形を認める時には感嘆して下さい。もっと良いことをして下さい。鉄のカーテンレールで作られている様に、全ての辺が目に見える様に立方体を描いて下さい。それから或る時は一方の側面と上方から見て、又或る時は他方の側面と下方から見たとして、二つの面に基づいて立方体を考える訓練をして下さい。形も方向も命令される様に理解する外観をあなたは見るでしょう。その外観は多分、真実の道の中で常に考察への道を教えるものであり、適切な哲学上の経験はそれ以上ありません。要約して言うなら、私たちは空間の中で事物を知覚しますが、諸方向という対象は空間によってしか命じられたり、区分されたり、知覚されたりしないのですけれども、その空間は諸方向の一つの対象ではないと言えるでしょう。空間は連続していると言えるでしょう。つまり分割出来ないものです。空間は大きさや形の父ですけれども、空間そのものには大きさも形もありませんし、結局のところ小石の様に存在するものは何も無いと言えるでしょう。そこから次の様に、空間は有限か無限かという問題が生じて来ますが、如何なる意味も無いのは明らかでしょう。しかし、その点に関しては一度ならず戻って来ることになるでしょう。その困難な課程において、あなたの力を調べてみて下さい。あなたは哲学するとはどんなことであるのかを、今では少しは知っているのです。もしもこの種の探究が喜びを与えないとするなら、神々が現れる前兆の様なものです。本書を読むこともありません。(完)

 


第七章 感覚と理解力

 

 しかしながら少しは先に始めなければなりません。余りに容易に非常に広まったこれらの知覚の探究は、本当の困難に直ぐに赴かなければ遊びでしかありません。それなのに私はそこに固執したいのです。カントが『批判』の中で空間を、理解力の構築としてではなく、感覚の一つの形式として考えたがっていることは誰もが知っています。私は、先立って行う分析によって、科学の諸関係を言葉の本来の意味の代わりにするために、この透明な感覚を備えた一つの空間の枠に入れたイマージュを全て排除する様に導かせるのは寧ろ明白です。カントが申し分なく空間を処理する時には、空間が一つの形式でしかないことを決して忘れません。でも、それは初心者にとって大切なことです。ところで、空間は感受性の一つの形式であるとカントがつけ加えて言う時、次のことを強調しているのです。空間を所有することは、科学が組み立てる理解可能な諸関係にすっかり立ち戻らせることは出来ませんが、それらは明白な認識の形式であるということです。その点については、事物に関して合理的に扱っているアムラン(1)を読んで下さい。

 問題が曖昧になって来るのは、三つの座標が常に一点に固定されている三次元の空間が私たちの経験としての出来事になる、と数学者たちが言って気に入っているからです。しかし必然性の真実にとっては奇妙なことです。この問題は保留にさせて置きます。私が今まで述べて来た空間は、まさしく精神の活動における形式と呼ぶものと異なっていると決して理解しません。数学者たちが代数に騙されるとか、三次元が距離や方向の観念そのものよりも経験上のデータとのあらゆる混合によって純粋でなくなることもあり得ます。しかし、詳細なことに今は這入らないでいましょう。読者を目覚めさせることが重要です。悩ませることではなく、弱さよりも寧ろ隠れている強さを表すことが重要です。

 私は、あるが儘の人間の認識を書き出すことに取分け集中しながら、私たちに遠近の事物を見させてくれる幾何学的形式の予測と、所謂科学の諸形式との間に既に現れている大変顕著な類似を強調します。これらは注意に過ぎません。私は目的を忘れません。そして、体系の中で完成する学説には達しない様にします。議論が人々の間で終わりになる前に、世論や品行の治安は有効に行使することが出来ます。

 刺激に関する学問というものが決して無いことは、重要なあらゆる哲学者たちが、取分けプラトンやデカルトが強く示していました。刺激というこの良く知られている用語の意味を正確に理解するための準備が、私たちには成されている様に見えます。その強さを測るには、長さにしか関係していないのは明白です。例えば、同じ強さの二つの音は、同じ距離の処にある膜に同じ振動を生じる二つの音です。二つの温度は、きちんと同じ量で用意された水銀の膨張で比較されます。カロリーは、氷が水に溶けて変化した重さによって測定されますし、重さそのものは天秤棒が均衡して変化しなくなることで量られます。その様にして科学は、今まで述べて来た幾何学的要素も、感知し得るデータに代えて理解されます。そして、強さを知ることが出来るものはどんなものでも、要するに長さを測ることになります。しかし、そこには科学的な事実しかありませんし、直接的に分析して明らかにしなければなりません。

 知覚とは、厳密に言うと私たちの運動とそれらの結果の予測です。そうして恐らくその目的は、常に何らかの刺激を受け入れたり排除したりすることにあります。まるで私が果実を摘みたいとか、小石がぶつからない様に避けたいと思うが如くです。良く知覚することとは、私がこれらの目的に達するために行わなければならない運動はどの様なものかを、前もって認識することです。良く知覚する者は、行うべきことを前もって知っています。猟師は、鳴き声を聞いて犬たちと再会する術を知っていれば良く知覚しますし、飛び立つヨーロッパ山うずらを発砲する術を知っていれば良く知覚します。子供が両手で月を掴みたい時には誤って知覚していますし、以下同様です。それ故に知覚には真実とか、疑惑とか、誤りがあるのかがその評価になります。遠近法やレリーフにおいては、特に視覚に大変敏感です。ところが聴覚や嗅覚にも敏感で、恐らく盲人が両手で触れる時には訓練された触覚も同じく敏感です。刺激そのものに関しては、疑惑も無く、誤りもありませんが、首尾一貫した真実によることもありません。刺激はそれを人が感じると、何時も現実のものになります。従って幽霊の知覚は間違いです。それは私たちの両目が感受しているものではなくて、消えやすい光とか着色された染みであり、幽霊と思うのはまさに予測なのです。幽霊を見ることは視覚の印象によって推測することであり、手を伸ばすと何かの生き物に触れるだろうと思うからです。あるいはもっと適切に言うと、それは私が窓の前で今見ているものを推測することであり、もしも私が或る動きをすれば、戸棚の前でも又それを見るでしょう。しかし私が現実に感じているものに対しては何の疑いも無く、私はそれを感じているのです。そのことに関しては決して間違いは無いので、そのことに関しての学問も決してありません。私が感じ取ることに関しての研究は、どんなものでも常にそのことが意味するものや、如何に私の動きと共に変化するのかを知ることにあります。そこからお分かりの様に、対象のものとは本質的に位置と形を持っている何らかの事物です。あるいはもっと正確に言うと、対象のものの中にある真実とは、その形と位置と所有するもの全てを決定している空間上の諸関係全体です。今は次のことを熟考して下さい。天文学者は、その様な諸関係によって十分に計測された知覚の後で、地球が太陽の周りを回っていることやその外の類似のことを言い、そしてこれらの運動によって起こること、例えば日食やそれが見える場所を予言するまでの、その様な諸関係を決定すること以外に他のことは行わないことです。今はこれらのことを指摘するだけで十分です。(完)

 

(1)アムラン(一八五六~一九〇七)は、哲学者でヘーゲル哲学をフランスに導入した。

 


第八章 対象について

 

 デモクリトス(1)が、太陽と月は本当に私たちが見ている様にあって、あるが儘に見える大きさと、私たちがそれらを見て信じている距離を主張したがっていた時、彼は自分の学説が無理矢理強制するものが何であるのかを良く知っていました。彼が船に乗って旅立つや否や、冒険から逃れることは誰にも確信することが出来ませんでした。太陽が私たちから非常に遠くにあることは、月よりも遠くにある証拠を良く知らない人々にとっても今日では一般に認められています。それ故に太陽と月の大きさが、食の時に見られる様に、殆ど同じ大きさに見えますけれども、太陽が月よりも非常に大きいことも一般に認められています。従って見ただけでは太陽と呼ぶ対象が真の太陽で、眩い球形ののものであるとは主張出来ません。同様に真の太陽は、うっかり見詰めると目が痛くなるとも言われます。従って誰も見ることも想像することも出来ないこの真の太陽を如何にして定めることが出来るのか、探究しなければなりません。同様に、私は立方体を知っていますが、立方体もその儘見ることが出来ません。私は立方体のしるしを見ます。真の太陽のしるしを見るのも同じです。真の太陽のしるしのうちで、その大きさ、見かけの運動と本当の運動、一本の棒が回る影も、黒くした眼鏡を通して見た天体の円盤に劣らず重要です。それで真の太陽も他のものによるのと同様に、これらのしるしの一つよって良く決定されますし、時々はより一層良く決定されます。ここでお分かりの様に、一つの対象は他の数々の対象との関係、実際は他の全ての対象との関係によって決定されます。単独と考えられた対象は決して真実ではありません。あるいは換言すると、決して対象ではありません。それは対象が不可分の諸関係の体系に存在するのであり、あるいは更に対象は思考されたもので感知されたものではないと言えます。もしもあなたが、最も単純なものの中にある立方体の例について再び考えるならば、デモクリトスが拒絶しようと虚しく試みていた逆説を良く理解するでしょう。

 正直に言って、世界は見るが如く書かれなければなりません。だが、簡単ではありません。何故なら、感じるが儘に見ないからです。そして同様に、見るが如くに世界が存在していないことを誰もが良く知っているからです。人物を一周して場所を変えてみて下さい。この人物のイマージュは何時もぼんやりとくすんでいるでしょうが、地面ははっきりとしていて、より一層明るい色をしているでしょう。しかし、彼はそれとは別のものであり、それらのしるしや別のもののしるしで決定するのが重要であることをあなたは良く知っています。そして、判断されるのは触覚であると言いたい人々は何も手に入れません。それというのも、この人は私の手の印象であるとは言わないでしょうし、次々に別の印象のものでもないからです。反対に彼が私の手による簡単な動きでは、そんなにも変わらないことを私たちは知っています。要するに私たちは、これらの沢山の姿から同一の人であると分かる処まで体系的に外観を十分に集めなければなりません。私が月明かりの時に踊る時、踊るのは月ではないと判断するのも方法は全く同じです。子供の羊飼いもこのことを知っていますし、既に科学によって知っています。

 古代の天文学者たちは、明けの明星と宵の明星は二つの異なる天体と考えていました。私たちの地球よりも太陽に近い天体である金星は、他の天体の様に大空を一周しないものになっているのです。従って諸関係を誤って程々に認識している彼らは、今日の私たちが行っている様に、二つの体系の外観を一緒に結びつけるまでに至っていませんでした。天文学上の様々な体系を比べることは有益です。何らかの方法によって、色々な幾つもの外観に基づいた唯一の対象が見出されるのは、同一の対象として相応しい一つの運動とその観察者の発見であることはそこで理解されます。しかし、動き出すのが私の列車か相手の列車かを知るに至るのは、他の色々な方法によるのではありません。そうして私は思考することになります。燕が毎年巣を作るのを知っている地下の納屋近くの窓に、一羽の影を見ただけで、私は「ほら、燕が帰って来た」と言います。その燕が前年の燕と同じでないかも知れませんから、その推測は非常に拡大されていますし、部分的には多分間違っています。しかしながら、そこで精一杯理解されるのは、理解力がその体系を構築して真の対象を如何に限定するかです。

 従って二つ目で、何故一つの対象しか見ないのかを尋ねることは、余りに些細なことを尋ねるものです。二つの手では何故一つの立方体しか触れないのか、何故見て、聞いて、嗅いて、味わう対象にも触れると人は言うのか、その理由も尋ねなくてはなりません。何故なら、外観だけに止まっていたなら、それと同じだけの大変に異なったものになるからです。これらの注意によって思考するという奇妙な力が、少しずつ自ら明確にしている様に見えます。それは大部分の人々が他人たちとか自分自身に起因する多くの出来事を、少なくとも話の中で認めたいと思っているものです。既に人が気付いていることは、誰もが最初は独りであると思い、狂人も生涯を過ごす外観に倣って共通した一つの世界を精神が思考していることです。(完)

 

(1)デモクリトス(前四六〇から前三七〇)は、古代ギリシアの哲学者で原子は絶えず運動し、空虚の場所が前提とされ、それは全ての感覚で捉えられるとした。プラトンは彼の哲学に激しく反対した。

 


第九章 想像力について

 

 間違った知覚として想像力を定義すると、恐らく最も重要なことについて強調されます。というのも想像力は内面の遊戯であり、想像力そのものを伴った思考のものであり、自由な機能で現実の対象が無いものと見做したいと思われているからです。その様にして想像力から、私たちの身体の状態と運動までの関係を知るための最も大切なものを見落としているに違いありません。私たちが明瞭なデータによって多くのことを見抜くための危険を冒す時、想像するための力は先ず知覚の中で考察されなければなりません。そして、知覚はその時に、私たちの全ての経験との関係及び絶えず全ての予測を吟味することが想像力と違っているのは大変に明白です。しかし、どんなに厳密な知覚でも、想像力が常に循環しています。想像力は絶えず現れては消えて行きますが、それは素早い点検、観察による些細な変化によるものであり、結局のところは堅実な判断力によるものです。悪魔も祓うこの堅実な判断力の価値は、取分け情熱の働きの中に現れます。例えば、恐怖が私たちの隙を窺っている夜の時です。いや寧ろ、白昼においても神々は木から木へ走り回っています。そのことは十分に理解されます。私たちは、真の知覚がひらひら飛び交う誤りに対する継続した戦いであると判断したり、非常に弱い標識についても大変に機敏です。お分かりの様に、私たちの夢想はその源泉をそんなにも遠くへ探しに行く必要はありません。

 しかし、私たちの感覚器官がそのものによって独創の方法を提供することも屢々起こります。それらの器官を通して良く理解しましょう。私たちの身体は、外部の原因によって沢山の方法で絶えず変えられます。しかし私たちの器官の状態と生命そのものの運動が弱い印象を与えていても、その外のものの静かさの中では大変に強い印象を与えていることには良く気付かなければなりません。かくして、熱のある血液は耳の中でぶんぶん鳴っていますし、口は苦く感じて、震えとちくちくする感じは肌を走ります。私たちが短い瞬間に、諸対象を想像するためには最早その様なことがあってはなりません。でも、それは文字通りに、夢を見ると言っていることなのです。結局のところ屢々私たちは運動によってイマージュを探します。あるいは寧ろ、工夫して作ります。もしも身振りとか、もっと正確には鉛筆が両目で追って形を描くだけでしかないならば、あるいは更に両目の活発な動きが実際の知覚を曇らせたり神々を走り回らせたりするだけでないならば、ここでの視覚は消す役割を演じるだけです。聴覚は言葉によって、もっと良く直接的に変えられます。言葉は、例え小さな声で話しても、私たちが知覚する実際の対象です。取分け、触覚が意味しているものは触覚そのものに、私たちの運動の一つ一つによる印象を手に入れます。私は自分を鎖で繋ぐことも、喉を絞めることも、自分自身を叩くことも出来ます。そして、これらの強烈な印象は恐らく狂人たちの精神錯乱の証しでも何でもありません。ここで見るのは、想像力から情熱への結び付きです。逃げる人は全ての事物を誤って見ますし、彼の背後を過ぎ行くものはもっと誤って予感し、無秩序な行動によって心臓や肺の活動は倍加し、走ることでそれらの反響を呼び覚まします。不規則な運動はどんなものでも知覚された世界を乱します。従って、私たちは痙攣的な運動に身を委ねるや否や、悪魔や誤りの証しの発明者と同じ様に、絶えずこの世の保守主義者であり建築家です。その上、世界は大変に豊かで、常に私たちの錯乱した対象の何らかの影を提供します。そして、想像力によるどんな仕事においても、何時も外部世界、身体の状態、運動という三種類の原因があります。しかしながら、三種類の想像力を区別するのは悪いことではありません。第一には、規則的想像力があり、それは大胆すぎることが無ければ間違えませんし、何時も一つの方法に従っていて、経験に制御されます。その様なものには足跡や僅かな埃についての警官の考えがあります。猟師が自分の犬を殺す様な間違いがあります。第二には、事物から目を逸らしたり両目を閉じたりして、生命の運動やそこから齎される弱い印象に特に注意深くなるもので、幻想と呼べるかも知れません。その幻想は判で押した様に事物には決して混ざり合いません。目覚めはそれ故に突然に起こりますし、しかも安全です。その代わりに第一の規則的想像力においての目覚めは刻一刻と起こります。最後の第三には、情熱的想像力があり、取分け痙攣的な運動や怒号によって定義されるものです。

 規則的想像力にも存在しますが、別の意味では三種類の性質を持っているのは、もっと後で述べることになる詩的想像力です。少なくともここでは詩人が如何にして霊感を探すのかを考えて下さい。或る時は事物を知覚しながらであっても、幾何学ではありません。或る時は半睡状態であり、又或る時は身振りを盛んにしたりわめいたりします。建築や絵画の様なものは身体の中に、主題そのもののどんな材料も受け取ります。勿論、芸術は情熱と取分け儀式にも依存しています。従って、そのことに関して今は詳しく述べる時ではありません。(完)

 



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