目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

閉じる


第二部

第二部

 

 

 

 

 

第二部 系統だった経験


第一章 さ迷う経験

 

 ご存知の様に、既に単純な知覚には或る一つの方法がありますが、暗々裡です。そのことによって、誰もが予め分かるしるしを解釈する手段が見出されます。その様なものには足音、錠の音、煙、匂いがあります。そして事物や距離を知らせる、輪郭や遠近は言うに及びません。これらの認識は真の探求によって獲得されます。それは偶然性を排除しながら何時も試行を繰り返すことに存するのですが、殆ど何時も逸れる気持ちも無く、変わらない関係の儘でいるよりももっと一層目立った一種のしるしによって、まさに屢々獲得されています。言葉の無い認識が言葉以前に殆ど全て獲得され、その認識は一生を通して自己を完成します。

 そこでは通常の仕事が多く生まれます。船乗りは大変に遠くの船を見分けますし、海水の色によって流れや浅瀬も見分けます。彼はさざ波を見て、突風の来るのが分かります。同様に空模様と季節を見て、雨や嵐を予測出来る様になります。農民も他の色々なしるしを見て予測が出来る様になります。しかし今日では実を言えば船乗りや農民には、決して理解しない観念の伝播と教えられた認識が混じり合っています。そして、それらの外来の助けは寧ろ探求の道を閉ざしています。農民たちが惑星や星々を見ても今では全く知らずにいて、少しも注意することもないと私は気付きました。彼らは暦の中に持っているのです。グロア島の漁師たちは水深を測って前進するための知識を持っていますが、それにはびっくりさせられます。ところがコンパスにしても、彼らは学んだ方法しか持っていません。例えば、港町のラ・ロシェルへ行くために取らなければならない角度を知っているのに、それに隣接するもう一つの角度が彼らの行く処の漁場へ直進する様に導くという観念を決して持たないのです。一枚の地図を利用するには観念から観念への長い回り道を辿らなければなりません。そのためには独りの人間だけの経験では十分でなく、事物を示して語る教育でも不十分です。そこには書かれたものと明示されている言葉が必要であり、それは幾何学の言葉です。

 職人の経験は、取分け加工して作られた対象や道具を知るのに有利な二つの状況に出会う場合には、より一層本当の科学の近くに導いている様に見えます。何故なら加工された対象は、例えば机は対象と同じ形やその使用によって自然と、十分に導かれて継続されている経験の契機になっているからです。そして、この対象は既にいわば一つの抽象になっています。しかし加工された道具も又、より一層抽象的であり、その形は既に幾何学的で力学的な関係を十分に表しています。車輪や滑車やクランクは、楔や斧や釘の様に、有史以前の何処かのアルキメデスが考えた梃子や円や平面を既に与えています。今でも道具は不変の状況を表していて、困難な原因を究明することにおいて既に精神の重荷を軽くして案内しています。この広大な問題を踏破したい人々は機械的な理性によって各道具の誕生と改良を、大鎌の刃の曲線までの文献が極めて少ない歴史を、明らかにするために良く考察しなければならないでしょう。

 全ての仕事が同じ方法で教えてくれないというのは重要なことです。そして、私はここで三つの要点を見分ける様に配慮します。一つ目は職人の仕事です。何故なら、それは何時も付随的な状況を除きながら試行と修正を行い、直ぐに本当の経験に基づいた法則と決定論者の観念へ到達するからです。二つ目は農業で、より一層模索的で慎重です。何故なら、それは雨や雪や雹や霜という主要な原因に働きかけることが出来ないからです。従って農業にとっての希望は、職人の希望とは別ものです。恐らく、より一層待つことや祈ることが加わって来ます。そこから、より一層宿命論的で詩的でもある宗教となって、大空の中に幾つものしるしを探します。三つ目のグループは、犬や馬や牛や象という動物を調教する人々の仕事です。それらの仕事に、指導者や弁護士や裁判官の仕事を私は加えますが、決して皮肉の意味はありません。というのも説得することと調教することは大変に似ているからです。取分け小さな子供たちの教師も、このグループの仕事と認めます。ここでの方法は盲目的に進んで、精神は自然の真理によって狼狽させられます。いずれにせよ、結果と原因は深く隠されていますが、それ故に或る方法が執拗さによって、例えば或る言葉を執拗に繰返すことで、屢々良いものになります。相違とか驚きとか気紛れとか不意の成功によっても、ここでは恐らく物神崇拝者の思想と魔術がまさに強くなりますし、模倣の力によってしるしや言葉も強くなります。

 自分自身の仕事において精神は、最初の真理と誤りを常に読まなければならなかったと言えます。農民は天体の運行や四季の変化に一番良く気付きます。そして職人はより一層正確な関係、取分け幾何学的で力学的な関係を見付けますが、多分非常に精神を制限します。そして結局のところ動物を調教する者は、判断力と意志からと言いたいのですが、お互いが全くの他人の関係で、一緒の農場を管理するまで成功することによって大胆になります。それは未開の猟師たちが追いかける動物の名を小さな声でも決して呼びたくない様なものです。そして私が把握するのは、一貫して大胆な魔術師たちの誤りが職人たちの明瞭で確実なやり方を生むよりも、精神の本当の力強さをより良く示すことです。何故なら、人々は深淵に橋を架けながらこの様に考えるからです。その様に考えるのは有益でさえあると私は言います。(完) 

 


第二章 観察について

 

 余りに根拠が無くて軽々しい観察の精神を論じることから逃れるために、兎に角も三つの主な仕事の大変自然な観念に従えば、観察するのにまさに三つの方法があります。一番古くて一般的と思うのは、魔術師の観察です。それは常に人間とか馴れた動物を言いなりにさせて従順にさせる様に導きます。誰もが、そして子供さえもが、少人数の仲間裡で魔術師に成りたがっていることに注意して下さい。この配慮は何時も欲望によって齎されます。意志によって調整されますが、常にこの配慮に熱意があります。それは祈りであり、命令です。医者、魔術師、指導者は自然にこの見方を持っていますし、自分が求めているものをついに生んで大きくします。人間の世界では、いや家畜の群の中でさえも、熱烈な祈りと確固たる希望によって絶えず奇跡が生まれます。そして、この物理学が最も古く、全員にとって最も重要であることを忘れないで下さい。例えロビンソン・クルーソーにとっては必要ないとしても、結局は誰にとっても一番大切なものです。というのも、子供が手に入れる手段は祈りしかないからです。そこから沢山の世の中の制度が、馬鹿正直にこの人間の世界によって味方と敵を作り出します。自己から全て引き出されるこの大胆な考察は、海が船を支える様に、あらゆる探究を支えます。デカルトは〈神〉の中に物理学を求めました。私が引用するのを好むこの〈理解力の王〉の肖像を思考する時間を持って下さい。あなたは力強い率直さをそこに見るでしょう。勿論、申し分の無いデカルトを引用するには、最高の準備が必要です。少なくともここでは、如何にして思想が祈りから生まれたのかを理解して下さい。

 野心的な思想と対照的に、私は労働者の思想を直ちに書きます。それは自分が作るものしか観察しません。現代の物理学を支配している確かな方法は、或る意味で祈りを押し潰します。何故なら、ここで疑問に身を置かせるのは最早事物だけです。そして、事物は何に答えるのでしょうか。作家たちが良く見た様に、少なくとも否定することです。少なくとも反駁することです。機械、梃子、滑車、車輪、斜面は力学が未だ深く謎に隠されていた時にも、全てが広く知れ渡っていました。プラトンが全ての手作業を奴隷のものと呼びたがっていたことは、恐らくこのためでもあります。無線電信の歴史を見れば良く分かる様に、実践が勝利することで諸観念が直ぐに道具の仲間扱いにされるのは大変に明白です。ところで、科学実験がそれ故に方法論の女王になることを余りに簡単に認めるこの考えには抗って戦わなければなりません。実験に基づく探究においては、単に行為や道具の役割しか成していなければなりません。勿論、手と道具は同じく停止しますし、精神が些細な自然を良く調べなければならないのです。

 この様にして純粋で簡潔な観察の観念に導かれましたが、それは先ず空模様についてだけを訓練する様になりました。何故なら人間はそれを何も支えられないからです。そこで人間は事物の観念そのものを、無言の考察と疑問によって形づくるのを学びました。意志が無い訳ではなく、執拗さも無い訳ではなく、正しい情操の感情も無い訳ではありません。事物はそれ以上のことは何も出来ませんでした。事物の真理が行為の全てでしたし、命令によるものです。天球や極地や子午線を発案した者は、この世界を何も変えません。しかし、そこからは秩序と法則を既に現せています。或る意味で彼は召使いであり、又或る意味では調教師です。以上は、不動のタレス(1)の二重の運動です。(完)

 

(1)タレス(前六二五頃~前五四七頃)は、古代ギリシアの数学・物理・天文・地理・哲学者であり、七賢人のうち最も有名で古い。

 


第三章 観察者の理解力

 

 観念も無く観察する者は観察しても無駄である、と誰もが知っていますし言っています。しかし一般的には事物から余りに遠くへ、指導する観念を探しに行きます。あるいは機械的な規範として事物の傍らでより良く探しに行きます。知覚の分析が、事物そのものを観念によって限定するための準備を私たちは既に行いましたが、偉大な作家たちが大変良く言っていた様に、その観念は事物の骨組みであり、骨格であり、形式だったのです。そのことは数々の事例によって、より一層明白になるでしょう。ヘルムホルツ(1)は見事な『音響学論』の冒頭で、海の波や船の航跡、取分け波が交差し合う橋で、長い時間観察しに行くことを勧めています。ところが無邪気な観察者には、波が波紋の輪を広げて水の上を走っている様に見えます。でも、それは既に外見通りに見る知覚を前提にしていて、間違いであることに気付いて下さい。何故なら注意深く考えるならば、ポンプや花器の水に固体を勢い良く沈めると生じる結果を誰もが知っているからです。水は遠ざかりませんし、その周辺を持ち上げます。そして山の様になっても止まることが出来ずに再び降下して、そこに物体が落ちるのと同様の結果を再度生みます。つまり固体の周りの部分の水を持ち上げます。或る時は水面の上に、或る時は下になって、重力の方向に水が均衡をとる様に次々と行われます。理解力をもって、この新しい知覚に達しなければなりません。それは外見をより一層良く整理することです。これに倣って波の交差も知覚することです。二つの運動が調和し合うと、或る地点では時々水が動かない儘になります。しかし、この静止は二つの運動が共にすることでなければなりません。私が言うのは、目にとっては波の二つの体系があることです。それ無くして真実の対象をあなたはどんなものでも決して知覚しません。目覚めて最初に見たものとか、怠惰な夢の様に朧気な外見を知覚するだけです。その上、この秩序は維持されているに違いありません。少しでも甘えると直ぐに、子供や未開人の物理学の様に全てが混乱します。私はそれを或る日、アヌシーの湖(1)で気が付きました。石で出来た波止場で私は反射する美しい波を観察しました。しかし、理解力の秩序は保持されて、用心深くなっていなければ真実が知覚されることはありませんでした。私が波を走らせて置いた儘でいたなら、直ぐに波の考察は最早奇跡になるしかありませんでした。法則は対象と同時に消えていました。

 もう一つの事例は、内在的な観念のことをもっと良く把握させてくれるでしょうが、それらの観念のみによって事物の明瞭な表象が可能になります。天体の外見は、宇宙形態論で認められる秩序のものとは大分違っております。しかし知覚される事物が、良く行われる描写的な言葉の様に、もしも観念が単に論述だけであると考えたならば、大変な誤りです。日々の星々の運行、東方にある月の変化、太陽よりも遅い変化、或る時は太陽の前にあったり、或る時は後にあったりする金星の出現、軌道を逆行する他の星々の運行、それのどんなものでも屢々雲に隠れて、常に太陽の光からは目に見えない部分があります。目に見えない形式の体系がなければ、記憶にとって明瞭なものは何もありません。これらの形式の関係によって、どんなものでも秩序立っていて測定されます。私は、全然存在しないが少なくとも思考されて仮定されたこの天球のことや、地球の軸のことや、両極のことや、子午線のことや、赤道のことを語りたいのです。それらは建築物の丸天井や柱や半円形のものの様でもあります。それに応えるのは職人の手による、もう一つの幾何学です。振り子で測ることのない日時計の棒と文字盤と子午環と分割された円であり、腕時計であり、その外の色々な機械です。それらのものは、どんな産業もあらゆる科学も数々の観察から、如何にして最も簡潔なものに向かう幾何学と共に一点に集まるのかを明らかに見せてくれます。その時は人々が月の運動を単に示すために、どれ程の莫大な労力を止むこと無く行わなければならなかったかが良く分かります。そして、それは又事物の実質的なものである内在的な幾何学によって、私たちが月をその距離で知るのであり、太陽と惑星とそれらの運動を知るのです。例えば、惑星の運動を再発見して結局のところ保持している外見を知覚するためには、外見の姿が変わって行かなければなりませんでしたが、それは幻想的なものではないからです。それは重力まで及びますし、それを良く理解するには外部の構築を大空の事物にすることではありません。事物の骨組みそのものにすることです。あるいは寧ろ、これらの事物が事物であることを生む形式であって、空虚な夢ではないのです。その形式は一般的言語が大変に正しく言う様に、外見の中に事物を再発見するのを可能にして、最後にはそこに自らを取り戻して再発見します。

 さて、身近な最も簡単な例を見てみましょう。落下する石です。もしも私が見る術を知らないと、それは両目に対する一つの影であったり、あるいは私の身体の震えでしかありません。しかし対象として見る落下は、全く別ものです。というのも、その時は私がその運動と軌道と状況を自ら描かなければなりませんし、そこでは私が慣性と速度と加速を思考する形式がなければ出来ないからです。ゆっくりとした落下にしろ、測定された落下にしろ、科学実験はそれを助けます。しかし職人のやり方は、決して形式を生み出しません。反対に、それは形式を仮定するのであり、あるいは盲目的な模索に過ぎません。身体の落下は、ガリレオが現れるまで最良の精神にとって悪しき夢の様なものでした。形を成さない経験は、取分けそれらが増大すると単独の事物よりも、より一層騙すものであることが十分に物語っていました。それらの経験が理解力に贋金で支払うことは、統計が間違っているのです。慣性と速度と加速と力と数々の分割出来ないものであって、目に見えずに思考され仮定されるこれらの関係が生まれることは、思考された距離が地平線や鐘楼や並木道を知覚するために不可欠であるのと同様に、落下の知覚にとっても不可欠なのです。そのことは常に事物への考察によるのです。又は少なくとも知覚と、その知覚を想像するための不断の努力によります。この世界は決して法則以前に与えられておりません。朝と夕に現れる二つの幻想的な星は、少なくとも他でもなくケプラーの法則に基づいて唯一の金星に結び付いて一つになる様に、法則が発見されるに応じて世界になり、対象になるのです。従って、観念によってこの世界は対象として存在しております。そして結局のところ、太陽とあらゆる天体によって、そしてあらゆる光学によって、樹木の影は樹木の影である様に、外見は外見になります。もしも無学の人々が考えてもいないことをより上手く言わなかったなら、これらの関係はもっと良く目に見える様になるでしょう。(完)

 

(1)ヘルムホルツ(一八二一~一八九四)は、ドイツの物理学・生理学者である。

(2)アヌシーの湖は、フランス東部のオート=サヴォア県の山中にある湖で、レマン湖の南方にある。

 


第四章 類推と類似について

 

 青銅製の馬は本物の馬に似ていますし、青銅製の人間も類推されます。この例においては、類推という言葉には古い意味が含まれていることが分かります。その言葉が示しているのは、感じるためにしろ行動するためにしろ、同じ様な身体を持っている性質の共通性ではなく、まさに理解力だけで語る関係の類似性です。それ故に最も完全な類推は、最も隠されているものでもあります。自己誘導と一般群衆との間には如何なる類似が無いとしても、類推はあります。坂道と螺旋の間に殆ど類似が無くとも、類推はあります。螺旋と風車の間、歯車と梃子の間、電流と水道管の間にも類推はあります。しかし、ここでは理解力の代わりに想像力を用いることを心配して、何らかの類似を捏造しない様に用心します。落下と重力の間にも同じく類推があります。酸化と燃焼と呼吸の間にも類推があります。発熱反応と重量の落下の間、化学的に不動の物体と地球に対する重量の間にも類推があります。磁石と電気磁性試験器の間、ヘルツ波と光の間にも類推があります。円錐曲線と二次方程式の間、接線と微分係数の間、放物線と一連の正方形の升目の間にも類推があります。これらの纏まりの無い事例を列挙するのは、類推の広がりとその問題の難しさを分かって戴きたいためです。同様に、際限の無い発展が無くては提示するのが不可能な、類推の体系という観念から逃れるためでもあります。

 これらの事例を考察して先ず理解出来ることは、類推には時々如何なる類似もありません。時々は精神を惑わせたり、一つの証拠のために比較を行う本来の大雑把な類似によって複雑にさせます。同様に、確かな類推はファラデー(1)の仕事が良い例になっていますが、謂わば良く準備された経験によって確認されます。その他には力強い観察者によって把握されますが、ニュートンが月は地球に落ちると言いたかった時の様に、新しい幾つもの事実を示している単純な何らかの形式によって、その時は常に再建されます。結局のところ、その他には紙上の点と線の様な適当な対象によって、純粋な状態に殆ど組み立てることもあります。簡単な考察によってさえも、類推の源泉と規範は最も高度な数学にあります。そこでの類似はその時には消去されて、様々な対象の相違の中での関係の同一性以外のものを、最早存続させない儘であることさえ確信し得るのです。幾何学者の図形と代数学者の記号を対象と呼ぶのを、私はここで認めることを知らせなくてはなりません。そして幾何学が類似によって、間違った証明を想像力に与えているというのも本当です。図形の厳格さによって申し分なく観察者の両目が訓練するのは、恐らく最も高度な数学においてだけです。その次は物理学者ですが、最初は数学者です。マクスウェル(2)は大きな球状の塊で小さな球状の間の誘電束密度を表した時に、これらの罠を知りました。この力学の規範は余りに粗雑でしたので、誰も騙されませんでした。想像力が自分の道を合流させないで、理解力と共に確かな方法で歩む様に、恐らく想像力を楽しむための技術があるのですが、まさに隠されているのです。

 

(1)ファラデー(一七九一~一八六七)は、英国の物理学者。

(2)マクスウェル(一八三一~七九)は、英国の物理学者。障壁に開けた穴から運動エネルギーの大きい気体分子を一方向にのみ通し、マクスウェルは磁束の慣用単位でもなっている。

 


第五章 仮説と推測について

 

 諸法則に従う理解力の形式である仮説と、多少なりとも調整された想像力の働きである推測とを最早混同しない様に、読者の精神は恐らく今は十分に準備されています。裁判官がこの被告は犯人であるとか、窓から逃げたとか、足跡は彼のものであると仮定する時、裁判官は推測しているに過ぎません。しかし、殺人を犯した挙動とナイフの位置が機械的に結び付くと、二人の足跡による動きを復元しながら、一種の仮説を立てます。というのも、運動は常に精神のものであり、常に再建するからです。それは変化の形式になりますし、際立った変化は運動の中身になります。しかし真実の仮説は、この種の探求においては稀有なものです。犠牲者を眠らせたのはクロロフォルムであると医者が仮定する時、医者は推測しているのです。しかし、分子が交わり合ってクロロフォルムが神経に作用している考えが生まれると、その時は本当の仮説になります。このことでお分かりの様に、推測は存在を設定し、仮説は本質を設定します。そして、学問は余りに多くの仮説に溢れたものでしかないことがお分かりになると思います。存在は決して設定されずに、単に確認されるだけに違いないときっぱりと言いましょう。この点を少しじっくり思考する者は、最近の優れた書物までも両者が混同されていることを発見するでしょう。

 仮説が真実か誤りかを問うことは、その円が存在するかどうかを問うことです。存在するものが円形によって把握するのは車輪です。あるいは楕円形によって把握するのは天体です。そして先ず、球形とか赤道とか子午線とかの諸形式によって定められます。この考えをあなたが受入れたくない間は、マクスウェルの軸とベクトル、その線と管が、同じ種類の助けを齎さないかどうか、その距離がもっと簡単に遠近法や視差の効果をすっかり説明する様になるのかどうかを自問して下さい。

 何度も無視された力は、更に良い例を示します。勿論、力はその体系につけ加えなければなりませんし、体系の外では少しも意味がありません。何故なら直線は小石から出発しないで一点から出発しますし、畑を区切らないで平面を区切るからです。遅くなったり速くなったり屈折したりしない運動は、少しもありません。厳密に言うと、その様なものは少しもありません。変化の無い運動とは、単に惰性で作られているとするなら、一つの観念に過ぎません。それは結び付きの無い運動であり、それ故に何処にもありません。しかし理解力だけがそれを要素として仮定します。それは力学上の直線です。ここから、この世には既に何も把握されない速度が定められます。しかし待って下さい。速度は、速度の速度、即ち加速度を定めることを可能にします。そこから定められるのは、不変と定めている物体に対して等しいとか等しくないとか、測定可能な物体が定められます。以上は落下や重力が見せてくれる様に、関係がある沢山の運動を把握するのに必要なものです。しかし何時も源泉は同じですが、これらの形式とか恐らく他の形式がなければ、一列に並ぶことも円を描くことも無い数々の天体の外見を、羊飼いが見定める術を知らない実際の運動の中で最も単純なものも最早把握する術を知らなくなるでしょう。

 さて今度は、常に二つの動くものの間にあって、事物ではなくて関係であり、少しも腕の努力が無く、衝動も内部の緊張も如何なる事物の中に少しも無い、この力を考えて下さい。何故なら、作られた作品においても余りに一般的でもあるこれらのイマージュは、石の重さが落下する状態として、石の中にあって感情とか思考と言った方が良い様に言われていた時の如く、物神崇拝や神秘の性質を持ったものでしかないからです。これらは未開の思想です。

 原子も又美しい仮説です。それが正しく表しているのは、真の科学に倣った体系において内部が無いものは、何ものでもなく、集められたものも何も無く、全ては外部との関係であるということです。従って大きさは原子と一緒に見ると何ものでもありません。原子が単純に内部の物体であると仮定された観念からは、考察すべきものは何もありません。原子が存在するなら、その次にあなたは自問して下さい。そして、原子の見世物屋の処にまさに通って下さい。あなたは同時に子午線と赤道も見るのを要求するでしょう。(完)                        

 


第六章 デカルト讃

 

 デカルトを理解するのに何時も私たちに欠けているのは知性です。理解するにしろ、反対するにしろ、簡単なのは外観が屢々明瞭であることです。殆どのことが至る所で不可解なのです。どんな人も彼自身のことを多分良く理解しませんでした。勿論、恐らく余りに孤独でした。更に、彼が話す時も孤独でした。彼の言葉は決して吹聴しません。習慣に従った言葉です。デカルトは言葉を創りませんでしたし、宗教も又作り変えませんでしたし、情熱も性質も作り変えませんでした。その全てが一体となっていて、その中で明らかになっていて、大変自然な彼の言葉は私たちにそれを齎します。反対に、言葉の意味を変えることから無縁な彼は、一人の人間の義務の如く、一つ一つの言葉のあらゆる意味を同時に理解します。『瞑想録』の〈神〉とは女性たちの神です。彼はロレート(1)という場所へ行く様にして『情念論』を書いています。そして、あの有名な夜の閃きは奇跡であり、彼の思想です。デカルトはここにいますし、至る所にいます。全体であり分割出来ません。あれ程にも自己に近い処で哲学した人は誰もおりませんでした。感情は何も失うことなく思想になっています。その人物はそこですっかり自己を取戻し、読者は自らを見失います。この暗い視線はそれ以上約束しません。礼儀正しいのですけれども、勇気づけてはくれません。そこからは革命を否認している、余りに軽蔑的な保守主義者の精神を理解しなければなりません。何故なら、自分の若さを何も捨てませんでしたし、全てを変えましたが、組織の中ではなかったからです。少なくとも精神の裡には革命は無く、新しい道もありませんでした。

 きっぱりと思想と延長とを区別するために粘り強く思考したので、最早如何なる困難も次に来る混乱も恐れませんでした。全てが自分の場所に送り返されました。事物の中に引っ張られる儘にならないで、全ての魂が精神の中にあります。その代わりに全ての運動が延長した事物に投げ返され、全ての情熱も肉体に投げ返されます。それは恐るべき事物ですが、便利に良く出来上がったものです。全くの処、全ては上手く行きますし、読者が余り考えることではありません。その代わりに動物機械では決して全て通用しません。常識が容易に別の事物に満足することになるのと同じ理由から、動物機械はそこで抵抗します。何故なら、動物機械は常に疑わしい些細な理由に止まりますが、作者のデカルトが同じ事物をもう一度ここでもっと力強く繰返して言うことを理解しないからです。すなわち、一つ一つの事物においては、部分部分と運動以外には何も無く、どんなものでも延長されていて、欲望とか衝動とか力になるでしょうが、如何なる神秘の魂も思想の胚芽もありません。どんな運動も単に機械的なものであり、どんな物質も単に幾何学的なものなのです。それ故に、犬が主人を見分ける運動には決して気を留めてはならないのです。その上、人間の情熱である怒りや欲望や嫌悪は、自ら身に付けた儘でいる愚か者とはいえ、もっと正確に言うと思想と理性の働きを模倣します。というのも、その中には判断力も認識も証拠も無く、単に動作と騒音だけがあるからです。従って犬が自ら描いた三角形を前にして夢を見たと言うのは全くの過失になるのが唯一の証拠ですので、決して動物が思考する言ってはならないのです。そして何人の人々にとって、この用心も又良いものにならないのでしょうか。ところがデカルトの肖像が理解されるのを、余り期待されることもなく待って、もう直ぐ三世紀になります。(完)

 

(1)ロレートは、イタリア中部のアドリア海に臨んだ町で、聖母マリア信仰の巡礼地である。

 


第七章 事 実

 

 私たちの認識は事実に基づいて調整されて、そこで限定されると何処でも言われています。しかし十分に理解されておりません。経験とは、まさに例外なく私たちの全ての認識の形式です。しかし、どんな観念よりも前に経験が出発することはありません。或る観念と他の観念の間で決定することもありません。事実とは、学問によって構成されて諸観念によって決定され、そして或る意味では全ての観念によって決定された対象そのものです。事実を把握するには、まさに学問的でなければなりません。

 地球が回っているのは一つの事実です。この事実を把握するには、推敲された数々の関係に従って同種類の条件を同様に含んでいる、他の多くの事実を収集してつけ加えなければなりません。先ずは、星々が東から西へ回っていることです。そして全ての天体も同様に、一つの不動の軸の周りを回っているかの如くです。それなのに幾つかの惑星は、見れば分かる様に、それら自体も回転しています。それなのに月や太陽や惑星が現れて来るのが遅いのは、地球が惑星の一つであると仮定すれば説明が付きます。それなのに赤道から極地へ行くと重力が大きくなります。それは力学的観念と物理学的観念を仮定していて、振り子による測定を仮定します。

 しかし、星々が周回していることを最も簡単な事実で確認しましょう。それは未だ繰返される観察と記憶と再現と測定によって確認するしかありません。星々が非常に遠く、或る星々は比較的近いというもう一つの事実に関しては、良く調べてみるなら、それを支える仮設によっていることも十分に注意すべきことです。というのも、最も近い星々は地球の軌道に沿って移動する観察者のためにしか視差の影響を与えないからです。私たちの土台である地球は余りに小さいです。ところが或る星々よりも近い星々があることも事実です。月は太陽よりも私たちにずっと近く、しかもずっと小さいことも事実です。数々の事実の体系は、どんなものでも幾何学的です。重力の加速度が、パリでは毎秒九・八メートルであるのも既に事実です。しかし、それを確認する人にとっては理解すべきことが多くあります。先ずは観念であり、その次にそれらの観念による道具類です。斜面とアトウッド(1)の機械がそれを十分に証明しています。まさに記録する円筒のものです。同時にストップウォッチと回転する幾何学的配列のものです。比熱の測定でも、やはり認識を含みます。それは付随的な認識ではなく、仮説とか仮定された観念がなければ、経験にもならないのです。

 最良のものを認識する学問において、誰もが次々にその様な事例を幾つも発見することが出来ます。器具の様に把握して測定するのに役立つあらゆる推敲された観念を、最も単純な経験の中で発見することは大変な驚きです。単純な事実は歴史にまで及んでいて、ルイ十四世が死んだ年の様に、一連の歴史や批判や天文学の認識も又含んでいるのが分かります。それを強調するのは理由があります。骰子の立方体の形状も又一つの事実であり、立方体による観念で決定されるのが明白である時、両目や両手で把握出来ないからです。このことに関しては、私が以前に言ったことを読者が思い出して貰えれば十分です。(完)

 

(1)ジョルジュ・アトウッド(一七四六~一八〇七)は、物理学者で落下の機械を発明した。

 


第八章 原因について

 

 この問題は荷が重く、曖昧な言葉でもあります。歴史とか刑事訴訟の様に或る時は人物、又或る時は事物の原因によって理解されます。そして、もしも人物であったなら、その人物が何事かを始めた原因で責任があり、そのことを後で答えるのでしょうが、それでここでは最初の原因が大変に重要であり、自由意志という名の下に扱われます。もしも事物であったなら、あるいは事物の状態でそれに従って他の事物を決定したならば、反対にこの事物とかこの事物の状態が、それ以前の状態によって今度は決定されるのが良く分かります。例えば、一筋の火薬に各粒子が燃えると次々に燃え上がって行く原因になる様に、如何なる原因も結果となり、如何なる結果も又原因になります。それが所謂第二原因になります。お分かりの様に、それらの二種類の原因が主語と目的語の様に、あるいはそう言っても良いのですが、精神と事物の様に区別します。

 ところで、物神崇拝は何時も想像力に基づいて思考しながら、人物と事物の中間で動き回っています。物神崇拝は、事物の中で行動したり権力とか所有権を示したりする魂とか、精神が如何なるものかを私が知らないのを、原因によって何時も理解したがっています。そのことは思ってもみなかった事例で最も感知出来るでしょう。ここに非常に思い石があります。もしも私がこの儘放せば、落下するでしょう。石が落下することは原因になりますし、私の手を圧したり押したりしているのであり、それが所謂石の重さになります。その重さは石の中にあります。それでいながら違います。金の中にも同様に価値がありません。他の物神にも無く、アロエの中にも苦みはありません。石が重いのは、石と地球の二つの質量の間にある距離に依存した力が働いているからです。従って地球もまさに石と同様に私の手に圧力を加えています。この重力の力は最早、石の中ではなくて、石と地球の両者に共通したものであるのが分かります。私たちに言わせれば、それは思考された関係であり、一つの形式です。しかし、ここで石の中に何らかの努力を捏造させて、私たちの努力と戦い、少なくとも私たちの努力よりも不安定でないものを見出す想像力しか見ないのは誰でしょうか。この偶像崇拝は大変に力を持っています。想像力はそこで決して離れません。それに騙されないこと、そして苛立っている手で決して判断しないこと、それが全てです。

 しかし同様にお分かりの様に、私たちが或る思想を、食事を待つ犬とか罵声を発する酩酊者とか怒っている狂人にもあるのを望むことも、同じ情熱の動きによるものです。それ故に出来る限りデカルトの力強い思想に戻らなければなりません。そして、距離と力とその他の関係から事物が再び現れるこの精神は、他のものと結び付いたり、他のものとの間で認識するので、それらの関係の一つに決して隠される筈がなく、私たち自身の肉体の中にも決して隠されるはずがないと言わなければなりません。その点を良く理解していれば、事物や囚人たちに内部の魂を仮定することも望まないでしょう。というのも、どんな魂にも多少なりとも明瞭に生き生きとした世界を把握するのですが、常に全く分割出来ないからです。私が星々に持てた認識は、私が子供の時の知覚に一部が付け加わったのではなくて、単にそれを明らかにしているのです。その認識は、こう言って良ければ、そこには何も付け加えずにその中で大きくなったのです。それ故に、どんな自覚や思想も一つの世界であり、その中に全ての事物があり、如何なる事物の中にもあり得ないと言わなければなりません。従って、重さのある石に意志を持った心があるとは考えられず、私は飛び上がるために身を縮める動物にも意志があると考えるべきではありません。何故なら、もしも動物が思考するなら、全世界にいることになり、その中で思考していることになるからです。ライプニッツは、彼のモナド(単子)によって上手く言いましたが、モナドが部分部分であるとか構成要素であるとかいう、この観念からは全く離れませんでした。デカルトは、そんな考えを少しも気にしないで、もっと先を見ていました。その様にして対象の中に原因を扱おうとすると、あるいはもっと適切に言うなら対象としての原因を扱おうとすると、対象そのものに対象を投げ返しましょう。そして、そこに延長だけを見ましょう。生きている肉体の中まで絶対的な外部の関係を理解して下さい。これが真の知識の鍵になります。そして、私たちがこれから見ると思う真の自由の鍵になります。

 その次に、男性的で有名な物理学の源泉であるこの力強い観念に支えられ、私たちは少なくとも法則の原因を見分けなければなりませんが、今は未だ十分に行われていません。というのも例えば、雲はそれ自体によって雨の原因にならないからです。もう一度冷却されて水滴が大きくなり、再び蒸発する前に地面に達しなければならないからです。上手な言い方ではありませんが、全ての原因が一つに纏まった時に、雨になるのです。従って水が沸騰するためには、圧力と温度と小さな水泡の表面張力の条件が全て揃った時に沸騰するのです。しかし沸騰しない限りは原因があり、数々の原因が一つになっても十分でなくなるのであると私は言いたいのです。従って、その様な事例においては一つ一つ連続した関係が見落とされているのです。そして最終的な状況については、私たちが屢々影響していることもあり得ます。何故なら、溶液も又十分に原因になるのは明白であるからです。同じ様に厳密な意味で、一瞬の天体の加速度は次の一瞬の運動の原因になると言ってはなりません。というのも、それらの原因はここでは絶えず他の数々の天体の位置にも影響して、引き付けられる運動は全てに機能があるからです。この事例からもお分かりの様に、原因から結果への関係は宇宙の一つの状況から次の状況とか、閉じられた関係がある限り、閉じられた一つの体系の状況から次の状況しか理解されることはあり得ません。諸原因の一つの現実的な鎖は、それ故に統制された生成の原則によってしか思想になり得ません。数字の順序におけるのと同様に、一つの方向を持つものを理解して下さい。それらは次のものを形づくるか生み出す最初のものですが、逆にはなりません。ところがその様な法則は、物理学者たちに遅れて現れるだけであり、その法則に従って閉じられた体系と反発力と爆発力と、多少なりとも活動的な化学的物体のものになります。温度の上昇と共に力学的均衡状態の方へ自らが変わります。その様にして建設された壁、火薬の詰まった大砲、引き絞られた弓、石炭の貯蔵、石油貯蔵タンク、火薬庫、生きた肉体、それらが厳密な意味で原因になります。しかし、この原因という言葉は何時も些か便利な使われ方をしていて、明瞭に説明されると事実という無意識的な条件にまでも及んでいます。その意味では、例えば天体の運動の原因は引力の法則であると言うのと同じです。そこからは神秘の原因に戻されないので、不都合はありません。(完)

 


第九章 目的について

 

 目的因は王への聖なる処女たちであり不妊婦である、というベーコンの言葉は良く知られています。しかし言葉を信用するや否や、如何にして抽象的で空虚な観念が対象との接触で意義と生命を取戻し、ついに何ものかを把握する助けになるのか、それはあらゆる観念の試金石であることを示すための良い例がそこにあります。確かに、風は菩提樹の種子を遠くに発見された土地へ運んで行ける様に、創造主が羽根を付けたと譬え言われても、何の説明にもなりません。鳥たちが飛べる様に翼を与えたのである、と言っても同じことです。しかし、これらの話を発展させ様と努めると、滑稽さは全く失せるでしょう。何故なら、それでも大樹の陰よりも何処か良い場所に種子を蒔くのに羽根が十分に役立つのは本当であるからです。更に翼の構造を理解したいと思うと、飛行のために作られていることを必然的に推定することを誰も否定出来ません。というのも、その時はこの自然の機械に弓形に反った羽根とか中空の骨とか筋肉の有用性を発見するからです。従って疑問とは、「何の目的のために」から、如何にしてにへ自然と移ります。つまり諸原因と条件を探求することに移ります。鳥の羽根は一方向に並んで弁を作っているから、飛ぶために作られていて、他に理由は無い、等々です。更に、クロード・ベルナール(1)が肝臓は何らかのものの役に立つに違いないと仮定したのは間違っていませんでしたが、それは彼が何かを、取分け如何にしてを探求していることが条件です。そこから分かることは、幾何学とそれらの形式に倣って再建された知覚を決して疎かにしなければ、神学的観念も少なくとも指導的観念として十分に正しいものになり得ます。神は飛ぶために翼を作ったのであると言って或る人が満足しているならば、彼に言葉以外に精神の中には何も無いのです。しかし、飛ぶためには翼が如何にして役立っているのかを認識するならば、彼は所謂諸原因によって事物を知ることになります。そして、神という創作者がそこに付け加わる観念も、事物のものである観念を変えるものは何も無いのです。ダーウィン自身は、暗い洞窟の中の蟹が盲目になる様に、他の蟹に対して有利さを与えることが出来る性質をその中で探求する時でなければならない最終目的を持ち続けます。何故なら不必要な目を持つことが、如何に有害であるのかを点検することは重要であるからです。そして、この様な対象に目的を原因に結び付けるのは、まさに有用性の観念です。というのも、仮定された有用性が目的であるからです。しかし説明された有用性は、お望みのとおり原因であり、法則であり、説明された対象そのものです。

 良く認識しない何らかの力学を研究する時は、このことが良く感じられます。何の役に立つのでしょうか、と各事物のことが自問されます。このことを発見するために、ゆっくりと出来るだけ単独にして原因が何であるのか、あるいはもっと適切に言うなら、体系の中で何に結び付いているのかを探求するために、このものを働かせます。その様にして目的という指導的観念から、原因とか条件を構成する観念へ容易に移行されます。そして、追い求める目的の観念が、もしも述べることを簡単に諦めないならば、常に増え続けて、理論的な神学と同じ様にまさに道具や力学を全て齎すと考えなければなりません。

 最終原因が自然現象の再構築において指導的なものとして既に成功している時は、もう少し曖昧なものになります。例えば、屈折した光は最短の道を通らなければならないとか、一般的に自然は最も簡単な方法で目的を達成しなければならないとか言われます。勿論、これらの虚構は労働を無視して根拠も無く話す人々にとっての作り話に過ぎません。探求そのものの労働においては、自然の目的を考えようが考えまいが、最も単純な仮説を試みるのは常に当然であり、それが十分であるならば常にそれに越したことはありません。そして、ここで私たちは推測の中で労働者の良識に従うのであり、何の疑いも無くプトレマイオス(2)を模倣した何か複雑なものよりも、コペルニクスの体系とか、二つの星よりも一つの金星を好む様になるのです。

 思考するための職業の根柢には、誘惑と外見の闘争があります。どんな哲学も最後にはそこで定義されます。夢の様にのしかかる驚嘆すべき宇宙から自由になって、ついにその幻想に打ち勝つことが重要です。確かに偽りの神々を何時も追い払うためには、正確に列挙することによって、この広大な自然をせいぜい単純なものに帰することにあります。厳格なデカルトの術が誤解されるのは、最も狂った情熱家や予言者や見神者たちが、無為な者たちを増やして力の冷静な列挙によって既に打ち破られていることを十分に分かっていないからです。逃亡も真面目な労働です。(完)

 

(1)クロード・ベルナール(一八一三~七八)は、生物学者で近代実験医学の祖であり、『実験医学序説』(一八六五)は思想界にも影響を与えた。

(2)プトレマイオス(一〇〇頃~一七〇頃)は、古代ギリシアの天文学・物理学者で天動説による「天文学大全」と投影図法による「地理学」で知られている。

 


第十章 自然の法則について

 

 自然の法則は二つの意味に理解されています。その意味で、先ずこの世界には或る単純さと、同一事物への帰還があります。例えば少なくとも六十の単体があって、千でも二つでもありません。固体も同じです。つまり大抵の場合は、同じ形を同じ場所であるのが物体です。もしも流体しかなかったなら、力学を定めているのは何でしょうか。そして常に新しい物体しかなかったならば、化学者も迷って仕舞うことでしょう。そのことは物体が常に持続して行くと言われない良い機会でもあります。ここでは弁証法によってまさしく神まで登ることが出来ます。そして容易で誰でも手が届く理性の働きによって言えるのは、万物の優れた主人が対象も無く、同様に試練も無い人間の知性を望まなかったことです。私が超越的と呼ぶこの種の哲学は、鳥が囀るのと同様に、人間にとって自然でもあります。しかし発展するための本当の力は、百回取り壊されて百回復元される試練の中には決して無く、寧ろ最初は外部の条件と生命そのものが自然に一致した観念の中で、ついには私たちがそれと大変緊密に合致した思想にあります。しかしその観念をもっと追い詰めると、その確認が私たちそのものであるのが分かります。要するに、それが思想の初めであり、継続した発条になるのです。それが希望であり、信念です。もっと正確に言うと、可能な限り思考するための意志です。何故なら、もしも些細なことや子供の頃の外見に気を留めていたなら、際限の無い多様性と奇跡ばかりになるからです。妄想は、途方も無く狂っている様に見えても思想の自然な流れでしかないと言えば言えるのですが、統制が無く、聴衆や幻影や前兆や鬼火を要求する全てのものを断固として無視することもありません。私たちが同意したなら、宇宙は流動体になるでしょう。しかし、判断力はこれらの事物の王です。判断力が保持され得る限りは神の子です。私がこの世を支えているのであり、この世は私と共に落下すると考えるのが私は好きです。選択によって、しっかりと支えましょう。その様なものが哲学の精神です。

 凡そ、その様なものが理性の王国になります。理解力の法律学とは余りに異なります。精神はそこで少しも自由を感じませんが、権力には好都合です。何故なら自然に成り得るとするなら非常に流動であるからです。永遠に渦巻が四季に変わる時、どうにかこうにか距離、方向、力、速度、質量、張力、圧力、数字、代数学、幾何学によって常に支配されることで、思考されなければならないでしょう。物理学は少なくとももっと困難なものになるでしょうが、思考されたものに変わりありません。これらの自然の法則とか形式は、私たちの道具であり器具です。そして、天体の運行が果てしなく複雑になる時、その様にして更に極端な正確さに進む時、私たちは直線と円と楕円では少しも把握しないに違いなく、力と質量と加速によるに違いありません。というのも、これらの要素は運動自体の要素でもあるからです。運動とは形式のものであり、目覚めの最初のイマージュで生まれる如何なるものでもありません。正確に言うと、法則の無い運動は最早如何なる運動でもないでしょう。運動を知覚することとは、今まで十分に述べた様に、同一の儘の動体と連続的に変化する距離の観念と共に諸変化を調整することです。単純な知覚においてさえも、運動とは結局のところ表象され限定され分割され得ないものです。運動そのものが変化の法則です。そして、この法則がより一層完全になって、その継続した道程をより一層明らかにします。つまり運動がより一層運動になるにつれて、実際の運動になります。何故なら、それらの関係は他のものと共に全てがより一層限定されるからです。この方法によって理解力はプトレマイオス(1)の体系から現代の体系へ移行したのです。数々の外見はだんだんと良く結び付き、少なくとも私たちの情熱から離れて、そこで何も変えることなく、占星術師たちの自然の中に秩序を設けました。

 自然が幾何学者の服に大変良く似合っていることに驚嘆する者たちは、二つのことを認めません。一つ目は、彼らが数学的手段によるあらゆる方策とその柔軟さを認めずに、その手段がだんだんと複雑になることです。何時もそれらの輪郭をより良く描き、何時もそれらの関係をより良く把握し、それらの力をより良く向きを決めて判断し、そのことのために直線を歪めることがないのです。これは慣性とか不変の運動、そして他の堅固な仮説の様に、問題には原則を何時も持ち出す人々には良く把握されていなかったことです。曲線運動を記載するために三つの軸を曲げたいと思ったり、あるいは隕石のために赤道を曲げたいと思うなら、同様に愚かなことです。しかしプラトンが良く言っていた様に、曲線を判断して分かるのが直線です。無限のものを判断して分かるのも有限で完結したものです。そして昔からの数字全体が微分計算を齎します。これらの考察によって、どんな認識も経験になりますけれども、どんな法則も何らかの意味では先験的で経験に基づかないと良く理解したいのです。しかしここでも又、観念と事物を強く結び付けることを忘れないで下さい。二つ目の、無視して認めていないことは、数学的形式の枠外にある自然は実際には何ものかであって、存在しているとか存在していないと言うことが出来ると信じる処にあります。この誤りは、既に半分作られていて適当な距離に私たちを押しつける学問を自然と呼ぶ処から来ています。何故なら、星々の東から西への運動の知覚は、大変に理性的な一つの仮説であり、太陽と月の遅延や色々な天体の急な変化と一致しないからです。そして、お分かりになった様に、運動についての幻影さえも堅い判断力や自然が示さなかった仮定から起こります。私たちの数々の誤りは如何なる思想にもなります。でも、自然は私たちを騙しません。自然は何も言いませんし、何ものでもありません。しかし私たちは、少しも注意深い知覚ではない夢想によっても、より良く判断出来ます。それは未だ脈絡の無い自然を如何に表現するのかを少しは分からせてくれます。全ての外観は事物であり、私たちの全ての運動であり、あらゆる処の変化になるでしょう。私たちが人間である限り、それらは思い出であり、計画であり、恐怖でもあります。激しい怒りと涙の大洋です。法則などはありません。それ故に、私たちの仮定した法則がまさに事物の法則であると確信するかどうかを尋ねてはなりません。何故なら、原始時代の自然はその中に秩序があり、運動の背後にも他の運動があり、事物の背後にも他の事物があるのを望むことになるからです。そうではありません。それは寧ろ、創造前の混沌なのです。そして誰も目覚める時には勿論ですが、精神は一瞬ですが水面の上を漂うのです。そこから分かるのは、理解力が経験を支配すること、理性が経験に先行すること、そして少なくともそれらの条件に基づいて経験が理解力と理性の両方を共に明らかにしていることです。(完)

 

(1)プトレマイオス(一〇〇頃~一七〇頃)は、古代ギリシアの天文学・物理学者で天動説の「天文学大全」と投影図法による「地理学」で知られている。

 


第十一章 原理について

 

 諸原理の体系は常に議論になりがちです。というのも、同一の事柄を別の言葉で言えるからです。ここでは辛うじてそのことを前もって言うことにして、きちんとした推論に基づいた認識に入りたいと思います。そして諸原理は、原則とか格言の形式による簡潔な言葉でしかありません。例えば本当のことが確認された予言とか、曲芸師の奇跡とか、あるいはラジウムが発見された時の様に全てをひっくり返す様な何らかの物理的発見を前にして外観が混乱している時に、精神に原理そのものを思い出させるに適したものでもあります。更に、理解力の原理と理性の教えを区別しなければなりません。その両方を体系的に発表しているのはカントで、他には誰も行いませんでしたが、私はここでそれを説明するつもりも要約するつもりもありません。しかし最も重要なことは述べてみましょう。数学はそれ自体で理解力という原理の体系を形成します。つまり、それらの形式の明細目録に基づいて経験の中で何でも構わずに把握しなければなりませんが、そうでなければ全てを把握しても何にもなりません。それは次の種類の様な一般的原理によって示されます。時間と空間の関係によって他の全てのものと結び付いていない経験においては、決して対象も事実もありません。閉じられた体系には決して変化がありませんが、その体系は何らかの不変の量を残した儘にしないで、直ぐに流出を許します。この後者の原則については、変化の定義そのものでしかないことに注意して下さい。余りに変化無しで済ませる言葉は、変化するものを保管しないで、何らかの変化を私たちが思考することが出来ると信じさせます。それはまさに外観に起こるものです。実を言うと、そこには何も保管されていませんし、決して何も取戻しません。しかし、まさしくこの点について、あらゆる注意を払わなければなりません。その様な外観そのものを誰からも認識されないのです。私が、手品師の小球が消えたと言う時、私は二つの事柄を同時に説明しているのです。外観としてはその小球が最早無いことですが、実際には何処かにあることを認識することです。後者の確信が無ければ、前者の指摘は最早意味がありません。永遠に消える外観も必ずありますが、私はそれを誤りとか錯覚とか思い出と呼んで殆ど気にしません。従って手品師への大きな関心事は、小球がそれらの幻影の一つではない考えを私に与えて持ち続けていることです。そこから出発して、理解力の原理に含まれるこの種の証拠を良く把握して下さい。もしもそれが一方では外観に応じて、そして理解力によるどんな働きの前でも全てが現実になる自然と、他方では対象の無い理解力とそれの原理を探求する自然を私たちに与えられたならば、両方の一致は神学上の弁証法に頼むことしか出来なくなるでしょう。例えばそれは諸事物による〈被造物〉である人間が私たちを騙したいと望めなかったことを証明することです。もしもその下に何も無いとすると、大変に貧弱な証明です。しかし、その下に何があるのでしょうか。宇宙の現実は理解力の働きによって、対象が外観の継続した変化に基づいて存続するこの条件そのものによって自らを限定し定義します。立方体は沢山の局面から現れますが、それはまさに不変のものと思考されます。そして、それらの外観は従って方向と距離と運動に倣った外観でしかありません。外観は自らが定めた立方体を最早根絶することが出来ません。対象とは存続するものです。対象としての変化は、その変化に基づいて対象が存続するものです。私たちはここで混沌と秩序を選択する必要がありませんが、実在と虚無とを選択すべきです。秩序は私たちの裡で思い出と感情と計画のものでありますから、前にも言った様に、虚無は事物の秩序によってしか支えられません。「自己と全ての事物は存在するかしないか、選択しなければならない」と私の先生であったジュール・ラニョーは話しましたが、彼が私の記憶の中に残していた幾つかの決まり文句を偶然から理解する前に、私は自分自身のために辛うじて小さな道を描かねばならなかったので、私が彼の弟子であるとは敢えて言いません。

 その証明を明らかにするために私は、有名な因果性の原理に関して『純粋理性批判』の中で十分に推敲されたもう一つのことをつけ加えたいと思います。次の様な証明です。もしも自然が常に連続した現実を私たちに与えたとするなら、その連続は常に何らかの法則で、前のものが次に続くものを決定して別のものではないことを自問することが出来るでしょう。しかし事実として私の知覚においては全てが連続したものです。例えば私が散歩をしている時、一本の道の家々は私にとって次々に続いています。結局のところ私はその中で真の連続と、同時の事物ですが次々に既知になるものと区別しますので、それ故にまさしく因果性に関係している真の連続の真理がなければなりません。そして私が、炎と煙と廃墟が連続した或る現実の町を走り回る時に、この連続した外観を見分けるのもそこからです。要するに外観の連続がある限り、連続の真理は常にあります。別な言い方をするなら、連続に法則が無ければ、決して真の連続はありません。その様にして対象としての連続は因果性そのものです。以上は、理解力の原理を含むその種の証明です。

 理性の原理については、それらの原理はもっと抽象的な段階にあるもので、自然は少しもそれらを支えません。そして精神は健康のために調整される様に、好みによってそれらの原理に従っていると言わなければなりません。例えば、既知の処までの秩序に反して一回しか発生しない事件は、事物の急変というよりも寧ろ、想像力と情熱の働きの所為であることに違いありません。あるいは又、仮説を倹約して簡明にする様に努力しなければなりません。つまり最も簡潔な推論は、既知に倣って未知のものを判断しなければならいのと同じ様に試行すべき最初です。要するに情熱を、つまり感動的な意見を用心しなければならず、それは寧ろ一つも見失うことのない様に大いに気を配って外部の驚異の後を走ることを判断しなければなりません。これらの規則は、経験よりも寧ろ意志のものです。それらの規則があるためには、決して手に取ってはならないから実行されるのは余りに不十分です。正確に言えば、それらは判断力であり道徳的秩序のものです。情熱の罠と言語の容易さを十分に知らずにいる限りは、その価値を感じることも出来ません。要するに精神は耐えなければならず、屈してはなりません。興奮した人々には余り質問しないことです。計算高いやり手の人々にも全く質問しないことです。それは精神という主権者の沽券にかかわるものです。(完)

 


第十二章 メカニズムについて

 

 メカニズムは全ての変化が運動であるという世界観です。例えば気体の圧力は、それらの分子の活発な運動によって説明されます。光は波動です。固体とは引き付けられた原子の組織体です。この宇宙的メカニズムという仮説の中に原子と力と慣性も含んでいなければならないのは、それらの全てがお互いに関連しているからです。理解力がここでは全ての私たちの表象に本来の法則を課していることは確かです。その様に理解しなければなりません。さもないと全てを理解していないことになります。

 しかし、如何なる証明もそれ自体では自立せず、常に何らかの攻撃があり、それらの証明が鉄条網の様に単に防御から離れないなら、衰えて仕舞うのが哲学の大きな秘密です。精神は諸証明の背後にいると強くなりませんが、少なくともその中で常に諸証明を前進させるものです。そして、この宇宙的メカニズムの事例は、まさにそのことを理解して貰うのに適切です。というのも、私たちの表象が少なくとも物質的有用性のためであって暴くものが何も無く、両目と両手で上手く知覚されないかも知れず、恐らく他の道で見抜いたり予知したりしなければならないことを仮定したがる懐疑家や神秘家の攻撃にあなたは何と答えられるのか、ここに哲学がまさしく倫理学であって空虚な好奇心のものでないことを理解させてくれる理由があるからです。

 ルクレティウス(1)は、デモクリトスやエピクロスが最も有名である原子論と言われている多くの人々の探究を果敢に押し進めましたが、情熱や奇跡や予言者や神々に対して断固として意志を緊張させていたこれらの奥深い体系の精神を、生き生きとした光の中に照らして明らかにしました。しかし、囚人は脱走して死にました。驚くべきことですが、酩酊者であったとか、憤慨していたとか、あるいは恐らく何時も根強い熱情を隠すしかない理由のためとか、弟子の裡では共通してある想像力と理解力の取替えによって説明がつくものです。ルクレティウスは事物の建築家と偶像の破壊者をすっかり忘れて、深淵を越えて先ずは単純な運動を目指す精神がついにそれらを試みて複雑にしますが、まるで正確な明細目録を作るために最後には全ての富を把握して戻す網の様です。彼はその中で、メカニズムが自由への方法と道具であると同時にまさしく自由の証明であることを忘れていました。何故なら、自然はこの驚異的な体系を支えていますが、決して与えてくれないからです。

 運動による変化の表象は、まさしく偏見です。そうです。回転する玉突きの球という最

も単純な場合でさえも、数々の外観に運動という仮説を強制するものは何もありません。そして、鋭敏なゼノンが気付いた様に、その球は同一の場所には同一の時にしかないので、運動を見せているのは常に球ではありません。映写機では走る馬は決して同一ではなく、スクリーンに映るイマージュは全てが異なっているのは本当である様に、球は消えると直ぐにその横でもう一つの球が生まれると仮定するのを妨げるものは何もありません。運動とは、単に好きな様に見て選択されているのです。勿論、容易なことではありません。というのも、夢を見るのは最も容易なことで、救世主であり悪魔を祓う人ですが、あらゆる魔術に反対する精神の武器の様なものでもあるからです。メカニズムを吟味する自然によって、精神は不変です。そうです。しかし精神はメカニズムを設けて、維持し、作り出し、余りに複雑にした状況で吟味します。怠惰な物理学者はその証明を見失います。彼は神も精神も忘れて、子供の恐怖と偽りの神々と何処にでもある精神に再び陥ります。寧ろ、物質の中に精神を隠して、あらゆる手段で自分の目的に進む頑なな意志で必然性を歪めます。それの本当の名は宿命と言います。ここに私たちの敵を捕らえます。真の物理学者は反対に、自然の力を持ったあらゆる自由の外観を取り除きます。そしてメカニズムに面と向かい、それと同時に自分の精神を解放します。

 確かに、それは情熱が飛び込んで来るので困難であり、辛いものでさえもあります。一つ一つに形がある数々の木の葉に精神を拒否するのは情熱の戦いです。それらの木の葉の相違が種子の中にある訳ではなく、それらの形と配置の要素が空気と光の中で、炭素で出来た鍾乳石に与える様なものです。こちらではキヅタの形となり、あちらではプラタナスの形を与えますが、濃縮された溶液の中で樹木に似ている結晶を与えることを、まさしく知識になる前に望むのは困難です。その反対に、横になって眠ること、そして種子の中に隠されて目に見えない建築を想像することは簡単です。それは自らの好きな計画を少しずつ実現させることです。これらは霊媒や霊術者の奇跡に溺れて、何も分からないと言ったりテーブルに計り知れない力や隠れた精神を捏造する夢想家たちと変わりありません。しかし、それらの精神の中で打ち勝った精神でなければなりません。ルクレティウスはそこに自らの精神を見失いましたが、デカルトは見失いませんでした。そこを注意することです。(完)

 

(1)ルクレティウス(前九八頃~前五五)は、古代ローマの哲学者・詩人で、エピクロスの思想を継ぎ哲学詩『物の本性について』を書いた。