目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第三部

第三部

 

 

 

 

 

第三部 論証的認識について


第一章 言語について

 

 認識が少なくとも言葉によって如何にして広がり確認出来るのかを調べる前に、言語のことを論じなければなりません。抽象的な独創や空想や情熱や制度を述べて時を過ごすのには、言語は王です。短縮された説明において重要なのは、音楽の深みから代数の頂点まで及ぶ美しい領域を、その延長の中で広げることです。しかし先ずは言語の働きが如何にしてそれらの罠の中で、精神を手に入れているのかに驚嘆して下さい。言語を創り出すためには自らを理解しなければならず、それ故に話すことを学ぶ前に、話すことを認識しなければならないと作家たちは言っています。この子供っぽい話は、話すことなく先ず思考することを学んでいなかった人々によって哲学と見做されている、弁証法的な詭弁の典型です。

 叩くとか、与えるとか、取るとか、逃げるための動きと私が理解する人間の行動は、私たちにはこの世で最も興味あるものですし、子供に関係するこの世で唯一の事柄です。何故なら、子供の時代にはどんな幸も不幸もそこからやって来るからです。これらの行為は最初のしるしです。そして、これらのしるしを理解することは、先ずこれらの行為の効果を体験すること以外にはありません。人間はしるしによって接近する事物を見抜くことを学びますので、或る人が行おうとしていることを僅かな動きから大変に早く見抜くことを覚えても驚く必要はありません。人間のしるしという際限の無い領域を述べることだけが重要です。その目的のためには行為の素描とか初めの部分を先ず見分けます。それは次の様なことを十分に準備します。その様なこととは拳を突きつけたり、手を差し出したり、腕を組んだし、肩をそびやかしたりする様に、殆ど全ての動作の始まりでもあります。そこから自然に態度を見せる行為の準備に移ります。跪いたり俯せている人は戦わないでしょうし、背中を向ける人は恐れていないでしょうし、体を縮める人は飛び上がるでしょうし、以下同様のことが予感されます。結局のところ、これらの行為の準備に係る付随的な結果も又、注意しなければなりません。それらは人間の身体という工場から生じて、誰もが最も簡単な生理学に従って認識する様なものです。つまり顔を赤くしたり青くしたり、涙を流したり、震えたり、鼻や頬を動かしたり、ついには叫び声を上げたりします。叫びは筋肉の収縮というものにとっては自然の結果です。そして、この極端なしるしには非常に注意しなければなりません。それは他のしるしに取って代わり、回り道をして代数まで生む様に運命づけられているとここで述べなくてはなりません。しかし予め指摘されなければならないことは、抑制された行為そのものでしかない思考は、大変に明瞭なしるしも又与えています。それらのしるしは行為の停止であり、両目の働きや計画された運動で示される注意であり、ついにはそれらの運動による両手の運動であり、予め私たちは見た事物を触ったり量ったりします。あるいは単に視覚と聴覚を優遇します。これらのことは全てが良く知られています。これらのことを思い出し、私たちが動物たちのしるし、取分け人間のしるしと同様に家畜のしるしを解釈する術を知るのを言うことで十分です。馬に乗っている人は、馬の歩き振りや耳の動きで行おうとしていることを見抜きます。ここから考察しなければならないのは、言語が社会の子であることです。その上、最初に人間は孤独ですが、次ぎに大人と同盟するということは滑稽な作り話に過ぎません。数々の優れた言葉に続いて私はここでアガシ(1)の力強い言葉をどうしても引用したいと思います。「ヒースは常に荒野にあった如く、人間は常に社会にあった」。人間は生まれる前から社会の中で生きています。従って言語は人間と同時に生まれました。そして、私たちが社会の中に人間の力を感じるのは常に言語によってです。 人々が逃げ出す時には人も逃げますが、正確に言うならそれは強制されずに、そこで話したり理解したりすることです。それ故に教育でしかないのですが、模倣が如何にしてそこから社会そのものの表現になるしるしを、自然に単純化して統一するのかを理解しましょう。色々な儀式も常に儀式に関するしるしから成っていますし、身振りや舞踊はそこから生まれ、常に礼拝に結び付いています。そこからは又、行為や叫びによって慣例的な言語も生まれます。

 未だ理解すべきことは、何故人間の声が支配したのかが残っています。 というのも、声は言語の変化の秘密そのものであるからです。人間は自分の行為を話しました。何故でしょうか。それに関してダーウィンは一つの理由を言っています。叫びは夜であることも分からせてくれるとのことです。更に他にも色々な理由があります。叫びは注意を惹き起こしますが、身振りはもう注意を仮定しません。叫びは結局行為を伴いますが、身振りは中断します。行為と驚嘆だけの生活を考えてみましょう。私たちは、最初に身振りを伴いますが、次にはそれに代わるもののために、自然に明瞭なものになって抑揚を付けた叫びが生まれるのが分かります。その様にして慣例的となった声の言語が生まれます。しかし文字の様に、固定された身振りでしかないものは有用であり、人間は言葉を書くことを覚えます。つまり書かれた身振りと音声と発音による最も単純なデッサンによって表すことを覚えます。この文字は先ず音楽の様に歌わざるを得ませんでした。次には目で読むことを覚え、ご存知の様に音声が常に単純化されたり不鮮明であったりして、最早正確に対応しない時でさえも、書体や綴字法としての表象に結び付きます。その様にして文字によって言葉は目で数え上げる術を知り、手が一つに纏めたり置き換えたりする術を知る固定された対象になります。しかしながら、これらの性質は情熱の運動から逃れますが、それらのしるしの中から身振りや叫びが取って代わる不思議な力を見出すために、何時も大変に自然な努力が払われて来ました。しかし今は、この言語の不思議について触れない様にしましょう。これから述べることで重要なのは、明確な言語とか、少なくともそうでありたいと思うもので、単に言葉と共に思考することから成る遊戯に関することです。この認識が正当である限り、この認識は論証的と言えます。しかし、その氾濫は弁証法的であるかも知れません。(完)

 

(1)アガシ(一八〇七~七三)は、スイスの自然科学者である。

 


第二章 会話について

 

 誰でも知っていますが、暇な時の出会いにおける観念の交換はこの様に言えるとすれば、既知の決まり文句で行われます。精神は変奏曲の様にせいぜい言葉を楽しむだけで、思いがけないこと以外に喜びはありません。私はそこに昔の儀式の名残を見ますが、人々は色々なしるしを確認して十分に幸せでした。その様なものが社会の本当の楽しみです。精神が反抗しても、不毛の争いしか齎さないでしょう。活発な口論は敵を彼の領地へ追う必要性から、不意に襲ったり茫然自失させたりします。従って議論に勝つことが何らかの真理を何時か確立すると信じるのは、子供に違いありません。想像力は、明確に定まらない形には既に十分に力があります。一瞬びっくりする幾何学の詭弁にもそれは存在します。図形も無く単に言葉で議論する時、首尾良くより一層強くなった理性は、表現しない以上に不条理なことはありません。異議を唱えられない以上に理性的なものもありません。というのも、言葉は決して真実に結び付いたものではないからです。その反対に、言葉の起源が十分に理解させてくれる様に、常に言葉の意味を越えた向こうへ行くのが感動させる力であり、それが何であるのかを知らない動物にとっても証拠を示しているからです。

 言葉はお喋りの人々や、逆上し易い人々や、ほら吹きの人々のための劇場に何時もお任せする訳には行きません。しかし議論は素っ気なくて、はっきりした質問によって辛うじて言葉のこの魔法を乱しにやって来ますが、更にそれらの質問は相手にとっても自分自身にとっても罠だらけです。この他に外見上は同意したり、自分以外を非難尽くしにして安心したりすることで、議論に疲労して全てが終わることもあります。ここではカトリックの奥深い叡智に感嘆出来ますが、それは重大な問題がその様な即興的なものを自由にさせるのを望むことではありませんでした。しかしギリシアの賢人たちやプラトン自身は、既に人を納得させる術や説得する術のための探究をしておりました。不朽の数々の対話にその対象を見ることが出来ますが、結局のところそれは恐らく混乱の中に精神を投げ入れる一語一語の議論と、取分け読み返すのに役立つもので大変に力強い光を生む美しい祈りの間で多分探究されるのを対照とするものです。しかし、プラトンを読むには議論を遙かに越えていなければなりません。いずれにしても多くの人々は凡人ではなくて、更に次の様に言って厳密な多くの議論を望んでいます。「二つのことは一つである」とか「私がここで言いたいのはあなた自身の矛盾である」。学派のボカルドやパラリプトンの説以上のものは何もありません。しかし、虚偽と相容れないものが必然的に真理であり、そのことは反駁しながら証明することであるとの魅力的な観念に倣うなら賢人の子供時代の議論は何て無駄なことでしょう。勿論、宇宙はそんなことを無視します。

 しかしながら私たちは角、同形の三角形とか相似形の三角形、円、楕円、放物線を決して無視しません。これらのものは弁証法や先ずは言葉によって限定されながら、そして別な風には存在し得ないで、人が語るものによって推敲されます。次には、その思索者は確固たる結論が出るまであらゆる可能な反論を自分自身で行って推敲します。これらの数学的な弁証法の力は何時も思想家たちを少し茫然とさせて困らせますが、自然の秘密よりも沢山の代数学によるもっと抽象的な言葉が恐らくそれ以上に近づく時であり、少なくとも天文学や力学や物理学に近づく時です。この書物はそれらの困難をすっかり明らかにすることを目的と見做しますが、それは純粋論理学が可能にするもの、修辞学と呼ばなければならないもの、数学がより多くのことを可能にする理由、それらが何であるのかを説明する術を知るためのものでもあります。「鳩は、真空ではもっと良く飛べると思うかも知れない」とカントは言います。数学者もこれと全く同じ様で、自分の両目と両手に照らして対象にもっと止まって最早十分に思考しません。最早、単に言葉だけで更にもっと先を思考することが出来ると信じているかも知れません。そこから交替で余りに評価されたり無視されたりして、これらの弁証法的な遊戯が生まれたのですが、それが神学とか心理学とか魔法とか言われるものです。幾つもの真理を含んでいますが、情熱の服を着ていて、説得力のあるそれらの効力は全てが屢々余りに良く出来た三段論法とか抗弁の余地の無い反論に帰せる様にするためです。多分、議論を最もしない哲学者の一人がアリストテレスです。恐らく自分の青春時代に大変に力を入れて学説的に議論する術を身につける思想を持っていたのが、プラトンの弟子であるアリストテレスです。そして、アリストテレスの驚異的な体系は全ての可能な議論も形式化されていて、幾ら鋭敏で緻密な諸世紀でも大したものを追加しませんでした。もしもアリストテレスを偏見無く読んだならば、最早論理学や言葉の学問と同時に理性の学問も見ないでしょうし、寧ろ全て言語だけが理解力を負っているものを扱う真の修辞学を見るでしょう。それを何と呼ぼうが、お望みの通りです。従って論理学に関して如何なる扱いをしても構わずに読者を連れ戻すなら、詳細と体系のために何らかの事例を今から調べなければならないのは、一般文法学の様なものです。それらの奥義を知るや否や、全てが正しくなります。(完)

 


第三章 論理学と修辞学について

 

 言語の命題が対象に適しているか否かを調べるのに応用される修辞学があります。この修辞学はどんな学問にも伴っています。例えば、正しい人は全て幸福である、という命題を調べるためには、言葉と対象を検討することが重要です。一般に論理学と呼んでいる純粋な修辞学は、少なくとも命題の相等性に関わっています。あるいはお望みであるなら言葉の多様性の元に、意味の一致に関わっています。更に言えることは、その純粋な修辞学が一つ又は複数の命題から、対象を考えることなく単に言葉によって新しい言い方を如何にして引き出せるのかを検討することです。従って、正しい人は全て幸福である、の命題から引き出せるのは、幾人かの幸福な人は正しい人である、になりますが、幸福な人は全て正しい人である、にはなりません。しかし、如何なる不正な人も幸福ではない、という否定から引き出せるのは、如何なる幸福な人も不正の人ではない、という命題です。

 ここで対象を考えようとしたり、幸福とか正義についての何らかの議論を始め様と試みたりしないためには、アリストテレスが既に行った様に、数々の項目を文字で表すのが好都合です。その様にして、幾つかのAはBである、から引き出すのは、幾つかのBはAである、です。それでも、幾つかのAはBではない、から引き出すのは全て何でもないでしょう。ここでお分かりになるのは、今日の記号論理学者たちが試みた様に、一種の代数学によってこれらの結論を述べることもあり得るということです。これらの単純な事例によってここで思い出される諸原則は、際限の無い研究を判断する役に立ち得るでしょうが、それらの研究に従事する苦労によって何時も、余りに評価のされ過ぎです。

 同じ言葉による反対の命題は、数々の単純な観察を行う機会を与えますが、言葉の全てや、幾らかや、一つ一つの意味を把握させてくれるのに非常に有益です。いわば一般文法の様なものです。もしも、全てのAはBである、が正しい命題であると定められたなら、反対の命題である、如何なるAもBではない、は誤りになります。しかし前者の命題が誤りであったなら、後者の命題は正しいかも知れませんし、誤りかも知れません。全てのAはBである、ことと、幾らかのAはBではない、ことは同一ではありません。というのも一つは正しいか誤りになることから、もう一つは誤りか正しいことを引き出さなければならないからです。

 会話でも又、これらの言い方が使われます。全く形式上の理性の働きによって、もう一つの命題を生じさせるよりも、命題そのものを点検する方が有益になるでしょう。経験から引出された命題は寧ろ、もしもAであるならBでもある、ということになるなら更に前者に等しい仮説と呼ばれる形式を表しています。それはまるで、もしも或る人が正しいとするなら彼は幸福である、と言われた様なものです。もう一つのこの言い方は、少し異なった分析が導き出されるでしょうし、次の様に推論されるでしょう。もしもAであるならBです。あるいは、Aであることはそれ故Bです。あるいは、もしもAであるならBですから、Bでないことはそれ故Aではありません。それなのにお分かりの様に、Aでない、又はBであることの命題が何も導いていないのです。もしもAでないならBでもない、を前者の命題に追加しなければならなかったに違いありません。数々の対象は何も与えません。言われていることを単に考えるだけです。言われていることはその様な言い方を含んでいるか否かを考えるだけです。

 この草稿をもう少し書いて終わりにするためには、最後の形式から昔からの三段論法へ移れます。もしもAであるならBです、と言わないでその代わりに、Aであるものは何でもBです、と言いましょう。もしもXはBである、という命題を追加したなら、XはAである、という結論も導かれるでしょう。AはBを排除する、ということから、もしもAであるならBではない、というもう一つの形式も同じ様なものです。XはAである、ということから、XはBではない、と結論付けるのも同じ様なものです。Xが全てであるとか、幾らかであるとか、一つであるのは、それがXと同じXであるからです。そこには三段論法の第一の形があります。羨望する人は誰もが惨めです。野心家は誰もが羨望する人です。野心家は誰もが惨めです。これと同じ仮定から出発して、もしもAである者は全てがBであるとして、XはBでないと定めます。又は、もしもAがBを排除したならXはAでないことが結論付けられるでしょう。それは三段論法の第二の形になります。例えば私が三段論法と呼ぶ、第三の形と三段論法とを良く区別するのを除いて、これらの二つの形を導く方法は最も自然の様に思います。前者では、もしも幾らかでも全てでも一つでもあるXが、同時にAとBであったなら、AとBは時々一致します。あるいは所謂幾らかのAはBになると結論付けることになります。全てであったり幾らかであったり、そうであったりなかったりする諸形式のために、それらを全て再発見するために有効に働きますが、注意しないことは決してありません。

 これらの変化の原理を発見するのは難しくありません。理解力は同一の思想を二つの様式の元であったり、あるいは別の言葉で見分けなければなりませんし、対象を見ること無く書かれた思想から、別の書かれた思想を引出すことは許されないことです。従って、同一性の原則は少なくとも明確な言葉に基づいて働きかけて、認識を広げたいと願う弁証家への警告として、論理学の研究において自らの原理そのものに見えます。以上は、些か不毛な研究の報いです。全く厳密に研究を行えば、その報いは知覚も無く理性の働きが進んで行き、どんな理性の働きも確かに幾つもの誤りを閉じ込めることを良く示しています。これらの全ての誤りは大変自然なものであり、対象への考察による言葉の意味をだんだんと豊かにすることから生じますが、そのことは言うことも無く、知ることさえもありません。(完)

 


第四章 注 釈

 

 ところで、この章では学校という茂みへ狩りをしに行くことにします。植物の様な言葉は二つの方法によって理解されます。あるいは、その言葉が適する沢山の生物のことを意味する様に、換言すれば一つの集合です。それ故に、延長として理解されます。あるいは定義に結び付いているかの様です。例えば、植物とは種子によって繁殖し、空気中の炭素を葉緑素によって固定させる生物です。その時は内包的なものに理解されます。不思議なことは、三段論法も一つの体系であり、あるいはもう一つの体系に倣って二つに読めることです。延長において、もしも羨望する人に見える人々は誰もが幸福な人々に入らないとすると、そしてもしも全ての虚栄心の強い人々は羨望する人々に入るとすると、虚栄心の強い人々は幸福な人々に入らないと結論付けなければなりません。これはまさに、一方の円がもう一方の他方の円の中に含まれるか、一方が他方の外にある円で表されます。羨望する人々の集合は虚栄心の強い人々の集合の全てを含み、幸福な人々の円の外にあるのです。内包的には全てが別ものになります。二等辺三角形の定義により、もしも二つの角が等しければ必然的な結果になります。もしも円の中心にあるどんな三角形も必然的に二等辺になるとすると、その様な三角形はどんなものでも必然的に二つの角が等しい結果になります。あるいは更に、もしも幸福が常に必然的に賢明の属性であるなら、そしてもしも賢明が人間の属性になり得るなら、その結果は幸福も又人間のものになり得ます。これらの関係を図にするためには円で描くことが出来ますが、或る性質を含めるか除くのかが、その時は定義になるのですから、全く別なやり方で難無く理解する様に集めて描くことが出来ます。幾らかや全てが、可能性や必然性の代わりになります。一方か他方かの読み方をしても、三段論法は同じ速度で進みます。通俗的なものと体系的なものとがはっきりと区別されるのと同じで、思考するにも二つの方法がある様に、一方は沢山の事例から証拠を引出しますし、他方は観念から引出します。それは更に論理学とか修辞学が、事物にも調査にも触れずに単に言い方に関係しているだけのしるしなのです。

 三段論法の第三の形は、それらの形を比較するなら、同一の道に導かれます。何故なら、前者の二つは結合された二つの仮説を発展させるために、理論的な証明の表現に適しているからです。第三の形は、常に事例によって証明するので、全く違って来ます。従って、その結論は決して普遍的でないと気付くことが出来ます。理解力とか延長の中でそれらの両方を読むことが出来るので、論理学は諸方法を含まず、精々何らかの反映を与えるだけであるのが分かります。かくして第三の形において主語又は事物は中間項であり、結論の中では消えて仕舞います。世俗の思想、取分け数々の事例の蓄積によって強い印象を与えられた思想が、個別の存在を把握する代わりに数々の公式に達します。その代わりに前者の二つにおける主語は、換言すれば事物が、結論の実際の主語になります。二つの等しい角を持つ或る三角形があります。そこには二つの角がありますが、他の色々な性質によって必然的にそこで先ず認められたことです。そして、一つの場所が問題であるとするなら、もう一度言われるでしょうが、用心することです。この場所では二等辺三角形である範囲内で、同様に二つの等しい角を持っていて、誤りもそこに関連して来ます。従って、真の科学は自然の事物を近似法で把握します。つまり多くの誤りを制限しますが、世俗の考えは沢山の経験で一種の確率に達します。蓄積によるこの証明は屢々帰納法と呼ばれています。体系的探究においては十分に考察しないで、理論が大変入念に枠内に納めるや否や、唯一の経験からでも証明します。その時に経験が何回も繰返されるならば、それは証明を強固にするよりも寧ろ知覚を最良にするためです。さて、殆ど錯綜した茂みの中にいて少なくとも標注だけを立てるには、これ以上は先へ這入らないことにしましょう。私が注意を与えるのは、少なくとも諸原因を疑わずに成功を考える盲目的な確率と、トランプ遊びや骰子二つとタンブラーの骰子遊びやルーレットの様な機械的に定められたルールでそれらの結果が負わされる確率とがあることです。少し何でもここで話をして仕舞い、謝ります。〈注釈〉に関しては不足だらけです。(完) 

 


第五章 幾何学について

 

 幾何学は、経験という諸対象の間の距離と大きさの関係の確立を目指す諸形式の明細目録です。その法則は最も単純な形から出発して、だんだんとそれらの形を複雑にする処にあります。この成功には次の様な、同等とか相似の三角形で解決出来ない幾何学的に問題になるものは少しもありません。定められた形として最も単純の或る三角形とは、最も単純な線が直線である様なものです。そして、三角形とは三本の直線で囲まれた軸上に全てが描かれたものであり、曲線は決してありません。これらの三角形は先ず点と線であり、これと同時に距離と方向です。そして次には二つの運動の区別があります。その運動は、一本の直線に沿う長さのものと、固定された一点の周りを回転する直線のものです。そこから角度と円が生まれますが、それらは一つしか生みません。そこから出発して探究の二つの秩序が発展します。一つは、平面の図形であり、表面の線に関係したものであり、最後には体積に関係したものになります。もう一つは、サインやタンジェントの様にきちんんと選択された直線の角度とそれらに関係したものです。最後の征服は曲線のものになります。数々の円錐体がそれらの主要なものになります。

 認識の目的が認識自体にあるというのは、大変に古い偏見です。そして教育は多分必然的な結果として、図形以外には何も探究しない学問の一つの外観を幾何学に与えています。それ故に私たちが確かな印象を得て、他の印象から離れるために行わなければならない運動を予想するのを目指して、認識は事物そのもの以外に他の対象を持っていないことを繰返し言わなければなりません。従って幾何学は方向と測量と体積計算を目的と見做しております。その応用は科学全体の領域を覆っています。そして、コントが気付かせてくれた様に、私たちがそこで用いる主要な策略は、線を測るのを最小にして、あり得るかも知れない最も可能な角度を測ることで、それが大きな予測を築きます。いずれにしても数々の事物を、現実の形に近付ける直線と曲線の網の中に捉えることが重要です。読者は既に十分にお分かりになったことと思いますが、現実の形とは更にこの網そのものによる形以外には無いのです。

 これらの指摘によって、今では定理の古典的問題に作為的困難も無く取組むことが可能です。もしも曖昧でない命題の形で何らかの新データが与えられなければ、論理学そのものの幾何学的な理性の働きは、遠くへ行くことがないのが分かります。それは常に何らかの新しい図形であり、そして言語の中で古いものと明確なものとの結合によって取得されます。幾何学が対象無しでは済まないことを既に十分に分からせてくれます。ところが著作者たちは、定理とか要求を既に認めていて、それらが無ければそれ以上前へ進められないのです。知覚に関する十分な研究は、これらの定理が更に定義でもあることを示すのを可能にしています。紙上に描かれた想像上の対象を、真実として存在する精神の形式からどちらが真の幾何学として扱うのか、少なくとも良く識別しなければなりません。従って直線とは、一点から他の点へ絶えず向かう運動によって最も良く定義されます。その様に直線とは方向そのものです。しかし著作者たちは、最短距離も直線の本質であると求め、定理として提起したがっています。しかしながら方向とは何であるのかを考えてみましょう。それは先ず、私たちと近寄れないで離れている事物との間の直接的関係です。これは予測した言い方です。粗雑な図形によらないで、想像力によって決して騙されない儘でいるなら、二点間には一つの方向しかないということが定義そのものから生じます。というのも、二つの方向を区別するには、少なくとも二つの方向の中間を考えなければなりませんから、それは少なくともその関係が二点の間にあるので定義に反することになるでしょう。二つの同一の点を通過する二本の直線とは、観念上は一本になるしかありません。従って描かれた観念も決して混同しないことだけが重要です。直線とは一点から別の点までの最短の道であるとつけ加えて言う時も、恐らく間違った言い方をしているのです。何故なら、この世には人が望むのと同じ位に数々の道があるからです。しかし、一点から別の点までには、他の点を何も考えなければ一本の直線しかない様に、一つの距離しかありません。二点の間のその直線は、二点の間の距離そのものであり、最早その距離は常に同一方向に従う一点の運動以上には短くなり得ません。あるいは又、もっと短い距離が直線上で、もっと近い一点を決定するのかも知れません。これらの様々な距離は、同一の直線上でしか決して比較されません。従ってもしも、もう一つ別の距離がもっと短くなっていたなら、それは数々の点の中の一点を別の点とは結び付けないことを意味しますし、それ以外の意味は持てない筈です。

 しかし、直線のこの特性は直線それ自体の様に、経験が無ければ考えられる筈が無いことも同様に十分注意しましょう。もしもそこに対象、つまり感じ易い多様性が少しも無いならば、直線とは最早何ものでもありません。従って幾何学者は、少なくとも暗黙の約束という数々のしるしによって、色々な点を区別しながら、十分な多様性を与えられていて、嘘つきになることは最も少ないのです。その点そのものは、少なくとも距離によってもう一つ別の異なった事物です。大きさも形も注意しない条件ならば、大きな斑点も小さな斑点もまさに同じです。もしも注意したなら、各々の斑点が幾つもの対象になって一つではなくなります。かくして幾何学者は意志によって言葉に曖昧ではない意味を力説して、諸外観と戦います。

 唯一の直線が距離を限定する様に、唯一の平行線は回転を限定します。もしも数々の直線がこの世で探究すべき事物であったなら、与えられた一点による直線には一つの平行線しかないかどうか自問するかも知れません。しかし直線とは設けられて保持されているものです。一点の周りを一本の直線を回転させて下さい。もう一本の直線と共に、どんな角度も作るのが可能ですし、ゼロ角度も含みます。それでは何故ゼロ角度が、例えば半角度の角度を作らない様に、直角の位置を限定しないと認められるのでしょうか。半角度という角度は、二本の直線を限定していることを何に対しても言われるでしょう。そうです、粗雑な想像力にとっては二本ですが、如何なる曖昧さも無い多量な回転を描きたくなると、申し分なくそれを行う型に嵌まった一つの方向でそれらの角度を測るならば、二つになりません。それでは何故その時に、ゼロ角度に幾つもの角度があると認めるのでしょうか。角度がゼロになる時、あなたは最早右や左を通過するものを知らないと私は理解します。だが、あなたの旅は遠くへ来過ぎています。勿論、旅が重要ではありません。あなたが言ったことに従う以外に何も済ませません。図面と観念を混同しないで下さい。その上、幾つもの平行線があると言っても少しも構わないのです。そして、人々は非ユークリッド幾何学において、少しも矛盾を見出すことなくそれを試みて来ました。そして、私もそれを正しいと思っています。人々が矛盾としていること以外に、その話には矛盾がありません。諸事物は何も言いませんし、反対もしません。更にその上、この幾何学は把握するべき対象を発見する限りは、それで良いのです。そうでなければ、遊戯でしかありません。(完) 

 


第六章 力学について

 

 力学に関して何か言わなければなりません。それは一般的に幾何学から経験へ応用することの最初のものと考えられています。その中で忘れられるのは、幾何学と代数学でさえも算数と同じ様に、そして全ての科学と同じ様に自然に関する学問であることです。しかし力学については、もっと明白でもあります。それ故に単純なものから出発して、再建の方法をここで示さなければなりません。私は、良く知られて有名ですが、大変に顕著な事例を考えたいと思います。私は石を垂直に空中へ投げます。石は同一の線に従って再降下します。起きたことを正確に描写しても問題はありません。それから純粋な力学に従って次の様にしてみます。私の事例が簡潔になってつけ加えるものが無いために、空気抵抗を単に無視してみます。私はまず最初に、秒速二〇メートルの速度で上方への運動を石に伝えました。この石は単に力が加えられることが否定される慣性によって、常にこの速度で何処までも真っ直ぐ進むでしょう。よろしい。ところが全ての物体は落下します。石のこの運動も、地球の近くにあるどんな自由な物体とも同様に、落下するのを決して妨げません。石は落下します。それが意味するのは、石が最初の一秒で約五メートル加速した運動を垂直に進めることです。従って二〇メートル上昇したのと同時に五メートル落下しました。つまり空中には一五メートルの処にあります。二秒後には何時も進んでいるのが二〇メートルの速度ですから三五メートルの処にあるのでしょうが、二秒目の間には同時に約一五メートル落下しました。単に合計すると空中には二〇メートルの処にあります。この分析を続けて行って下さい。石は落下して、最後には地面にぶつかることがお分かりになるでしょう。それが運動の終わりになります。私は運動の構成原理を明らかにするために、他の色々な事例にも絶対的に行うべきものとして大変に単純なこの事例を厳格で逆説的に分析しましたが、はっきりお分かりになる様に、この原理は経験が暗示するものではなく反対に、経験とか対象の状態にある外観を見ないことです。そして、もしも空気抵抗が無視されたなら、同じことを繰返し言うのをお許し頂ければ、加速された力としてその運動の反対方向に向けて導き入れる助けになることが良くお分かりになると思います。砲弾の運動も同じ様に分析しますし、惑星の運動も同様です。

 ここでもう一度、運動の構成に関する良い事例を思い出したいと思います。それはデカルトによるものであり、その後は専門の批評家たちに委ねられ、科学と考察が別々の二つの事柄であると理解させてくれるものです。ところでデカルトは玉突きの玉を弾性のあるものと仮定して、固い平面にぶつかる運動を分析しました。私は諸定義をその儘に置き忘れるとして、先ず初めに最も単純な場合を調べます。玉は普通に平面上に落下します。玉は同じ軌道をはね返ります。というのも定義によって、自然の周りでは全てが同等であるからです。しかし次は大胆な分析です。私は斜めに玉を投げます。私がこの運動を考えるには、一つは面に垂直に、もう一つは平行に、二つの運動を玉が同時に行っている結果として考えたいと思います。前者は通常なら玉が垂直にはね返ります。後者は障害も無く進み続けます。単純な構成によって分かるのは、入射角と反射角が等しいことです。大胆なこの分析を前にした脆弱な精神の人々の恐怖を、これ以上はっきりと明らかにしているものは何もありません。彼らは面が何であるのか、面に斜めにぶつかることは何ものでもなく、面は垂直の方に定めているとしか理解しませんでした。従ってこの分析は、玉突きの遊びが与える想像上の証明を排している観念を保持することしか行いませんでした。以上から分かるのは、判断力には厳格さがあり、それ無くしては精神が全ての対象を自ら秩序立てる高度な分析へ向かう真の道は決して無いことです。

 労働の観念も又、単純な観念の一つです。その観念は正確さを現した観察者のタレスが如何なる人であったのかを正確に知ることもなく、現代力学を照らしていました。バケツ一杯の水が一メートル高くしたこと、これは一つの労働です。バケツ二杯の水が一メートル高くしたなら、二倍の重さを制しなければなりません。しかし私がバケツ一杯の水で二メートル高くするなら、そこにも又、二倍の労働があります。そこから労働のこの単位に従って、バケツ一杯の水が一メートル高くするという観念は、バケツ十杯で十五メートル高くする労働では長さに対する重さとか力を、増すことで得られることになります。そして、もしも全てのバケツの水が何の邪魔物も無く落下するなら、それらの地面への衝撃はその労働自体を測定することになり、その時は激しい力を引起こします。しかし、ここにはもっと驚くべき応用が沢山あります。一般的には固体が運動を与えられると、全体部分が同一の速度で進みます。それは平行移動でしかありません。しかし、物体の一点を固定すると回転するでしょうし、その中で全ての部分が同時に同一の道を進まないのは明白です。その様なものが梃子であり、車輪です。巻揚機の中に備え付けられている複数の滑車も、他の部分よりも速く運動します。それから水圧機も同じです。機械と呼ばれるこれらの装置は、それを動かすために費やされる労働とは別の労働になり得ませんし、あらゆる場合にFL=F’L’と書かれます。そこから次に起こるのは、それらの労働の間で色々な力が逆に走り回る道の様にもなることです。従って私は、歯車を付けた起重機とか水圧機が如何にして運動を伝えるのかを、少なくとも見詰めること無く一度にその力を把握します。しかし、滑車や歯車が梃子になるとか圧力になるための各々の場合においての分析は、殆ど機械的な活動よりも精神をより一層良く明るく照らしていることを私は認めます。そして、この事例は理性を働かすための驚くべき機械である代数学へ私たちを導きます。(完)

 


第七章 算術と代数学について

 

 ここで定め様とする目的にとって、これらの二つの学問を区別する必要はありませんし、その広がりと深さを述べる必要もありません。事物の学問として単に再び考察しなければならないだけです。良く知覚された対象の中で、自然の素晴らしさと同様に計算者自身にとっても、屢々驚くべきものである解答となる変換の組合わせの源泉を常に探究しなければならないだけです。実際にここでは共通した一般の知覚においては不可能な経験である、数字についての経験しか問題にしません。

 多数が整理されていないなら、直ぐに精神を悩ませます。そして、整理とはどんなものでも幾何学的なものです。兵士一人一人にパンを一個ずつ配ることも既に数えることであり、機械的なものです。人々と彼らの前のパンの数を整理しながら調べることは、既に相等の関係を考えることです。しかし、最も単純な職業も観察者にとっては、最も都合が良い対象である集合を課しています。園芸は一つの法則に従った距離と列に合わせますし、そこでは理解力が、二つの要因から生まれるものの諸法則を読み取ることが出来ます。他の色々な箱を詰めて整理された数々の箱や砲弾の山は、もっと遠くへ導きます。子供の数え玉や積み木遊びを無視してはなりません。理解力は、事物を良く知覚する限り、ここで純然たる数の関数を発見します。例えば、立体の一辺を二倍にすると当初の立体を八倍にすることになるのが分かれば、それは一列に並べた立方体の数量や積み重ねた立方体そのものの形の相等性を見分けることでもあります。大変に小さな始まりから大変に広い学問に出掛けることを恐れる人々は、対象への知覚の中での理解力の仕事を十分に把握しませんでした。子供の羊飼いによって知覚された大空においては、最早混乱はありません。この立方体においては、二掛ける二に対して未だ三足す一にならなかった子供によって、知覚された立方体でもあるからです。

 これらの余りに単純な見方に対しての代数学者たちの強力な反発と、対象への如何なる表象も無いこれらの最初の命題を証明するための努力は、自然と生じます。数字や文字や記号がペンによって分配され、並べられ、置き換えられる対象でもあることを忘れるから、それ以外に彼らの仕事が成功することはないのです。そして代数学のどんな力もまさしく、これらの象徴を取扱うことによって事物そのものへの考察に代わることからやって来ます。その象徴の最終的配置は一般言語に翻訳され、その上、より一層自然な方法によって骨が折れて屢々不可能でもある解決をついに与えます。代数学によって扱われる算術に関する学校での問題は、機械的な計算の観念を余りに与えるでしょう。この観念は理解力の働きを紙上の象徴の配置を見分けることに帰しますが、決して大胆には変えないことに帰します。例えば、或る言葉を一つの要素からもう一つの要素へ移動させても、その記号を変えることをしないのです。

 私はここで、これらの大変に単純な関係を再発見するために読者をご案内しますが、それらの関係は所謂ニュートンの二項定理として良く知られている公式の展開においては沢山の組合せがあって並外れています。そこでは取分け、並列された象徴のa、bに関連して象徴のcのために三つの場所がありますが、少なくとも三つの場所があることが分かる単純な諸集合によって常に結合が如何にして計算されているのかが分かります。しかし、取分けa+bの和の自乗項を幾つか形あるものにすると、代数学者によって準備された経験の中で、その様なものとして対象の機能を推測させてくれる指数の連続した法則や、係数の対称が現れて来るのが分かります。行列式は、これらの計算を吟味するのに適した素朴な形への復帰の顕著な事例を、恐らくはもっと与えるに違いありません。しかし、これらの関係は代数学の至る所にありますし、注意されるや否や大変に驚かされます。幾何学の曲線が再び試みられない結果を屢々提供するまで、物質的な諸関係を表すことが出来るので、代数学も従って幾何学や全ての事物を表せます。しかし、単純であればある程、読み易くなりますけれども、同一種類の関係によってそれらは不自然に集合されますし、ペンによって整理された色々な対象の関係で、それらの中では従って驚きも雷雨も響き渡っています。(完)                       

 


第八章 虚しい弁証法について

 

 数学は何時も大きな希望を人間の精神に抱かせました。理性の働きによって経験に先行することが出来たり、所謂計り知れない大きさに這入る様に、それらの関係を大変正確な数字で発見することさえも出来るのは明白でしたので、思考する力が諸感覚が知覚するものよりも遙か遠くへ広がって行くことも又明白でした。それに加えて真の哲学は、常に何らかの理由があって大変に強く、諸感覚に対して用心させるに至りましたし、或る別の判断への決断を呼び寄せるに至りました。同様に既にお分かりになった様に、常に抽象的なメカニズムに還元する物質は、まさに自ら判断することも自分自身を理解することも出来ませんでした。結局のところ、正義や自由や友情という誰もが経験の中では決して出会うことのない道徳的秩序に関する研究は、それでも何時も結果に注意している諺の知恵よりももっと尊くて堅固な何ものかを含んでいる様に見えます。そこには抽象的な理性の働きを、決して予め軽蔑しないための理由が一つならずあります。しかし、論理的外観にはそれ以上の何ものかがありますし、そのために過度に愛される結果になります。

 情熱の研究に未だ入らなくても、素朴な経験が純化された経験とは似ても似つかないことを理解することは出来ます。非常に驚くべき思い出を残し、更に作られた話で完全なものにする夢の数々は、肉体から離れた旅や復活や幽霊のことを表します。それらは情熱が大変良く吟味する前兆を別にしても、欲望と祈りが単純な道具や機械よりも力を持っていた無秩序な世界の観念を人々に与えていたに違いありませんし、実際に与えていたのです。そして、説得や単純な断言でさえも気分や気紛れに対しては大きく動かされたので、同様に運命についての予言も動かされたので、言葉の一致と不一致も常に揺れ動くことを知っていました。音の響きさえも大変見事な響きを残して、更に私たちの期待に応えてくれたり疑念を拭ってくれる様に見えます。詩の律動や歌も、取分け大勢の人々の時は、言葉の普通の意味が望んでいない様な多くの深い意味を私たちに目覚めさせてくれます。そこからやって来るのは、大変見事に数々の証拠を与えてくれる詩と雄弁です。しかし言葉の戯れや、或る意味では期待している思いがけない意外な返事も、結局のところ精神とか表現法と呼ばれているものであり、最も緻密な議論においても又多く持っていますが、人は敢えて口に出して言うことさえもありません。その時、これらの論理の閃き、垣間見られた諸形式、模倣と対称、全ての宗教の最初の装飾、あらゆる神学の最初の草稿のことを何と言うのでしょうか。プラトンの本の中の詭弁家たちが大変上手に私たちに観念を与えている、より一層緻密なこの音楽に意味を貪る様に求めるためには、ここで判断力と情熱の全てが結び付きます。そして更に厳格な文体は、その驚きによってもっと感動させる何ものかを保存しています。そうです、形式が剥き出しで裸になればなる程、言葉の関係は感動するものになります。

 或る人の肖像画は本人に似ています。もしもあなたが肖像画を殴れば、似ていますからその人を傷付けることになります。王の剣は、剣の中の女王でもあります。ゲーテがメフィストフェレスに次の様に言わせたのも偶然ではありません。「葡萄酒は葡萄の実から生まれ、葡萄の実は葡萄の樹から生まれる。よって、樹は葡萄酒を産み出すことが出来る」。これは、あらゆる呪文の主題です。習慣への信仰は寧ろ動物たちのものです。人間のものは話された証明です。未開人たちの奇妙な迷信は、全てが大変良く研究されていますが、慌ただしく帰納されたものに似ていると言うよりも寧ろ抽象的で演繹的な神学に似ています。どんな魔法も弁証法の一つです。それ故にどんな弁証法も又、魔法であるとしても驚いてはいけません。私は永遠の苦悩に関しての古い論拠を昨日読みましたが、それは神が永遠であるなら罪も又永遠で、従って苦悩も永遠でなければならないというものです。この表現は一つならず多くの議論を終わりにしましたが、言葉の遊びに過ぎません。この考えに従って行って言えるとするなら、神の体刑は私たちの罪を救済するためでなければならなかったと思われます。これらは無邪気な方程式です。例えその考えに価値があるとしても、そこにあるのは馬鹿げた証明です。しかし、それらの証明は面白いのです。被害者と同じ苦痛を罪人に科す反座の刑は、一人ならずの理性に基づいて設けられましたが、先ずは罪(crime)と苦悩(peine)が類似して一致することで納得したからです。そして、音声的にも反復される様であったからです。理性的に考えることも屢々韻文を書くのと同じです。

 以上のことに基づいて形而上学とか神学の表題の元に最も豊かで感動的で何よりも曖昧な言葉を現す様にさせて、まさに最良へと導く理性の働きと言える力を熟考することです。このことに対しては、純粋な論理学の正確な研究と、数学者の諸証明についての注意深い考察が最良の用心になります。何故なら、少し微妙な議論の弱点を発見するには、先ずは性急ではいけません。寧ろ全ての議論に反対して、理性的な偏見でも養いましょう。しかし、それでもそれらの原理を吟味するのを目指して、幾らかでも調べるのは無駄ではありません。(完)

 


第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査

 

 或る神学者から理解したというヒューム(1)に、私は諸原因についての見事な理性の働きを発見しました。それは全てのものには原因があることを証明するのが重要であるというものです。そして次は、如何にして神学者が推論するかです。或る物は存在するが、決して原因が無いと仮定しましょう。それは従って無から生じます。そして無とは何ものでもないことであり、何も生めないことです。しかし、決して原因を持たない事物がその時に無から生じると仮定することは、まさしくどんなものでも他の事物から生じるに至ることを仮定する、とヒュームは言います。でも、それがまさしく問題なのです。無邪気な聴衆であるなら、何も生めない無に関する議論によって、その注意力はその仮定から逸脱させられる、と私はつけ加えて言います。この言い方は他の言い方よりも良いと私には思われません。というのも、私は無から如何なる種類の観念を持ちませんし、何も考えないからです。無から私はどうして何かを言えるのでしょうか。ところが言葉は何でも言えます。もしもきちんと建てたいなら、偉大な破壊者が人々にとって最も有益であるのを確信するためにヒュームを読むことが出来ます。想像力がどんな風にでも全てのイマージュを結び付けることが出来る重要な考察をそこに私は発見しましたが、それは機械が思想から宇宙のイマージュまでの鎖を生み出す英国風の小さな諸体系を遠ざけます。あなたは恐らくこれまでの原因についてや、支えるのが大変困難な哲学者の仲介者の位置について良く把握するのでしょうが、カントの読者になるには始めは大変に骨が折れるものです。というのも、物理学者たちのメカニズムはそれでも何らかの方法で設立されなくてはならないからです。従って前述した神学者は推論が下手ですけれども、結論を下すのは上手です。経験における事物のあらゆる状態は、法則に従ったその前の状態が変化したものです。しかし、この関連が無いなら、連続した経験も決してありませんが、それでもどんな経験からも外れていると、何ものでもなくなります。純粋な論理学とか修辞学は、この関連を確立するために何も出来ません。

 第一原因に関する有名な議論を乗り越えたいと思うなら、これらの考察はじっくり考えるためにも無駄ではありません。厳密な論理をとことん押し進めたいなら、大いに堂々としてその中での態度を強く表明しなければならなかったのです。ここにあるのは議論です。事物の状態は、もしも別の状態がそれに先行していなかったなら、存在することは出来なかったでしょう。そして、もしも更に別の状態がその状態に先行することが出来なかったとしても、存在することが出来なかったでしょう。その様になって際限が無くなります。よろしい。しかし、事物の或る状態が存在する以上、それらの全ての存在条件は与えられるか与えられたのですが、この全ての、ということに注意してください。事物の存在自体によって勘定が行われて完了し、けりが付きます。それ故に、それらの条件が無限であることは肯定することと否定することを同時に言うことであり、それは未完であることを意味します。一つの原因の前にもう一つ別の原因があるという観念は、その様にして終わりが無く、従って十分でなくなります。現代の無限とか、実現された無限とは矛盾を孕んでいることを言っているのですが、人々は同じ様に説明が付くことなのです。それ故に一つの原因とは、原因の無い原因そのもの、つまり最初の原因であり一連の条件を終わりにするものでなければなりません。というのも結局のところ、現在の状態が存在していて、それらは待っていてくれません。それと共に十分な原因に達します。そこから出発して唯一の神聖なものとしての、原因の無い原因を認めるにしろ、自由になって原因にならない原因のために、そして道徳が望む様に恐らく多様な原因のために単純にその場所を用意するにしろ、数々の結論が相関的に繋がります。しかし、それらの結果には触れないで置きましょう。その議論を見てみましょう。

 第一に注意することは、原因の無い原因そのものに達したけれど、全てのものには原因があるという原理から、この原理を否定するに至ったことです。ここには何らかの言葉の罠がある証拠になります。第二には、もしも変化の表象に原因との関係を取得したなら、続く事物の状態が直ぐに先行する状態から生じることに気付きます。従ってそれは人が望んでいるもう一つの近接するものです。換言するなら惑星の体系に見る様に、変化の中には継続があり、そこでは極めて明瞭にこれらの物体の状態はどんなものでも引付けられて、限りなく近接するもう一つの状態に依存していて、それがもう一つ別のものに近接したものになります。ここでは言葉が私たちを騙す様なものであるのを見て下さい。私は一つの状態と、もう一つの状態を言っているのですが、両者の間に私が望む限り相違を見出すことになるでしょう。私が全ての原因を語っても、それ故に沢山の原因を理解していません。そして最早数え切れなくなると、現在の無限という論理的不可能も消え失せます。最も小さな間隙にも、私が望む限りの多くの原因が這入り込みます。しかし、私が原因のその数を数えるなら、それは数える私の外にはありません。自然を把握しようとしても、私の計算において罠に陥るのは私自身です。第三には、数の形成が最早考えられなくなると、無限という言葉の中には殆ど恐ろしく曖昧なものがある様になります。何故なら、未完成で不完全なものと同様に、完成して完全なものも指し示しているからです。従って無限の生成は、無限が全てに充足するから事物を説明するのに十分であると私は良く言えるでしょう。しかし言葉は何ものも充足しません。

 無限が最早過去に形成されずに、現在では事物を支えていることに関してライプニッツはもっと感動的な形而上学的な議論を残しました。合成されたものは合成されたものが無いなら存在することはない、と彼は言っています。もしも、これらの合成されたものが合成されたもの自体であるなら、他の合成されたものへ投げ返されます。かくして終わりがありません。しかし、もしも合成されたものが存在するなら、それが合成されたものも今直ぐにでも存在します。それ故にそれらは単一ですが、絶対的に単一なのです。それらは精神です。これ以上に論理の働きが見事なものでも何も生みませんでした。しかしながら、如何にして単一の合成されたものが、他の働きでしかないものである大きさと一緒に与えられることが出来るのかを尋ねることはありません。私が単に気付くのは、もし論理的に言いたいなら、事物はまさに実際には合成されたものでも単一のものでもあり得ないことです。というのも、このジレンマは私たちのものでもあるからです。そして、言語が自然と同じに豊かであることは証明されませんし、本当らしくもないからです。知覚の無い理性の働きに関して読者に疑念を抱かせるには、全く以上で十分です。この用心は、望むものを大変上手く証明する情熱に備えるものなのです。(完)

 

(1)ヒューム(一七一一~一七七六)は、英国の哲学者・歴史家で経験論に基づいた。

 


第十章 心理学について

 

 ここでは明確でない学問を論じなければなりません。何故なら、あらゆる部分が弁証法的であるからです。魂や死後の生命を論じる一方の人は、まさにはっきりと形而上学的です。もう一方の人は、経験に基づいて私たちの思想や感情に関して論じて、おまけに信じられない程の沢山の言葉に支配されています。

 〈私〉という言葉はあらゆる思想の主体であり、現れたり隠れたりします。私が現在とか過去とか未来とかについて描こうとしたり作ろうとしたりして試みることは何でも、私が常に形づくったり所有したりする自己の思想であり、それと同時に私が感受している感情です。〈私〉というこの些細な言葉は、私の全ての思想の中で不変です。私は変わり、歳を取り、諦めたり、考えを変えたりします。でも、これらの諸命題の主体は常に同一の自己です。命題とはその様なものです。私が最早自己でなく、他者であれば命題そのものが自壊します。同様に命題もいい加減になります。すると私は二人になります。というのも私が不変であるのは全く異論の余地が無いからです。大変に自然なこの論理によるなら、私が存在しないという命題は不可能になります。そこで私は言葉の力によっても不滅になります。以上は魂が不滅であることを証明する議論の背景です。それは変わらない〈私〉が常に同一であることを、生涯に亘って私たちに再発見させてくれる所謂経験の原文です。従って〈私〉というこの些細な言葉は、大変上手に私の肉体と行為を示します。そして両者を他の人々やその他のものから大変きれいに分離しますし、自分自身に反対したくなったり、自分自身から分離したくなったり、自分の葬儀に参列したくなったりすると、弁証法の源泉になります。

 人間のこの永遠性という観念は、全ての変化と不幸を超えた同一性のものと同じに、実を言うと道徳秩序の判断であり、恐らく最も見事なものです。同一性の純粋な形は、私たちの思考が思想になることであると私はつけ加えて言います。というのも、自己を認識しなければ何も認識出来ないし、自らを継続させなければ、知覚された運動でしかない時は何も継続させることが出来ないからです。しかし、あらゆる思想の主体であるこの〈私〉は、常に一つである理解力の別名でしかなく、常に唯一の経験の中に全ての外観を読んでいることをこの考察は理解させてくれます。そこでこの探究は中断します。何故なら、私が分離された二つの世界を知覚すると仮定すれば、私が二人であることを仮定することであり、それでは不条理で全てが終焉するからです。少なくとも言葉に注意しない人々は、手応えがなくて唯一であり永続性があって変わることがない事物と、結局のところ所謂物質と、実際に面と向かっていると自ら信じます。そこには次の様な公式があります。私は私自身のことしか思い出さないと言うが、それらには単純な同一性があります。私は思い出す、と言えば十分であるからです。ここでは言葉が余りに良く役立ちますので、熟考によって成功を過信します。でも、対象が欠いています。そして思想は最早支えになりません。熟考の条件の一つは、対象を支えて自分の作品に思想を見出さなければならないことです。しかし、この条件は良く隠されています。最初の運動は自分の裡に引き籠もることにあります。そこでは言葉しか発見されません。それ故に私には自分の認識についての章はありません。この本の全体がそれに役立っているのですが、それは揺れる水面に自らを見る様に、間接的な道であったり、顔を近付けたり、閃光の様に瞬間的であったりします。私たちが一番興味ある問題は、一番単純なものではありません。残念ですが仕方ありません。〈私〉が決して変わらないにも拘わらず、自分であり続けることは些細な仕事ではありません。

 ここで特に注意することは、所謂実験心理学と生理学的心理学が全て脆弱な骨組みに結び付いていたことです。恐らく実験心理学以上に間違った知識もありません。「自己とは意識状態の集まりでしかない」というヒュームの公式は、破壊するのに大変強力でしたが、再建する時には単純過ぎた精神の限界を見せています。何故なら、意識状態が事物の様に動き回るのか、とは言われないからです。誤って言われているこの経験主義は、細部に至るまで弁証法的です。ヒュームは、所謂石もナイフも果実も、感覚や想像力や記憶であると言います。そして、これを全て上手に縫い上げた精神をあなたに組立てます。しかし、上手だろうと下手だろうと縫い上げた精神というものは決して存在しません。奥深くて世に知られていない人物だったラニョーは、神が存在しないことを証明するのに心を砕きました。というのも存在することとは経験という織物の中で、他の事物と共に捕らえられることである、とラニョーは言っていたからです。私の中や周り全体を思考することに関して、世界が広がろうとするのと同じく遠くまで何を言うのでしょうか。それは把握することであって、決して把握されることではありません。いずれにしても巧妙なメカニズムは蟻の様に上手に移動させることが出来ますが、思考することはありません。況して、この機械の色々な部分が知覚や記憶や感情であるとは言えません。知覚というものは、世界と同じ次元を持っていて至る所で、感情になり記憶になり予測になります。その思想は最早自己の外にも内にもありません。というのも自己の外も又、思考されるからですし、自己の外も内も常に一緒に思考されるものであるからです。

 この次にあなたは、私たちの中の長いリボンの様な自己の本質を組立て直す言葉の働きを、情け容赦無く判断するでしょう。そして更にあなたは、記憶のための一つの整理棚と、想像力のためのもう一つの整理棚と、幻想のための一つの整理棚等々を探しに行き、そしてそれに倣って曖昧な経験を解釈する精神の生理学をもっと厳格に判断するでしょう。少しも複雑ではない諸学問の事例によって、どんな困難でも事実で構成していることは余りに明らかです。思考する脳には、その様にして思考する魂と、そのイマージュに倣った範が与えられます。そして、この見事な仕事は、もしも交霊術者たちがより巧妙であったなら、私たちを旅する魂に還元します。しかし、この幾何学を無くした唯物論には触れないで置きましょう。(完)