目次
八十一章
序 文
はじめに
第一部
第一部
第一章 感覚による認識の予想について
第二章 諸感覚の錯覚について
第三章 運動の知覚について
第四章 感覚の教育
第五章 刺激について
第六章 空間について
第七章 感覚と理解力
第八章 対象について
第九章 想像力について
第十章 異なった感覚による想像力について
第十一章 連想について
第十二章 記憶について
第十三章 身体の中の痕跡について
第十四章 連続について
第十五章 感情の持続
第十六章 時間について
第十七章 主観と客観
第二部
第二部
第一章 さ迷う経験
第二章 観察について
第三章 観察者の理解力
第四章 類推と類似について
第五章 仮説と推測について
第六章 デカルト讃
第七章 事 実
第八章 原因について
第九章 目的について
第十章 自然の法則について
第十一章 原理について
第十二章 メカニズムについて
第三部
第三部
第一章 言語について
第二章 会話について
第三章 論理学と修辞学について
第四章 注 釈
第五章 幾何学について
第六章 力学について
第七章 算術と代数学について
第八章 虚しい弁証法について
第九章 幾らかの形而上学的理性の働きに関する調査
第十章 心理学について
奥付
八十一章

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第一部

第一部

 

 

 

 

第一部 感覚による認識について


第一章 感覚による認識の予想について

 

 誰もが持っている素朴な観念とは、私たちが何も変えられない対象として現れて、その痕跡を受取るしかない風景ということです。有りもしない対象によって延長された世界の中で見るのは少なくとも狂人たちです。彼らの想像力を演技によって事物に混ぜたいのは取分け言葉による芸術家たちですが、彼らは決して騙しません。もしも単に馬の足音を聞いたなら騎士が来るのを期待する様に、誰もが予想するものに関しては決して対象の形がありません。光の戯れによって目に見えない限り、私はその馬が見えません。そして、私がその馬を想像すると言う時でも、せいぜい確固としないで固定出来ない素描を描くだけです。以上は知覚による素朴な観念です。

 しかし、この事例そのものについても批判が既に働くことが可能です。もしも視界が霧で妨げられたなら、あるいは夜になったなら、そして馬に少しは似ているが何か下手な素描の様なものが現れたなら、その時は何でもないものでも実際に馬を見たと時々は断言することがないでしょうか。ここでは本物でも偽物でも一つの予測が、対象の外観を良く理解することはあり得ます。しかし、もしも感知したその事物がその時に変えられても変えられなくても、あるいは単に私たちに間違った言葉が投げられても、今は議論しない様にしましょう。というのももっと適確に次の様に簡単に言った方が良いからです。事物を知覚することは全てが予測です。

 良く検証してみましょう。あの遠い水平線を、私は遠いと見ません。私が遠いと断言するのは、その色彩や、私がそこに見ている幾つもの事物との相対的な大きさや、細部がぼんやりしていることや、水平線の一部を隠している別の様々な対象が干渉していることによるのです。ここで私が断言することを証明するのは、画家たちが遠くの山の知覚を、一枚のカンバスにそれらの外観を模倣して私に与える術を良く知っていることです。しかし私が見るのは、あそこにある水平線です。私が近くの樹木をあそこにはっきりと見るのと同じです。そうして私はそれらの全ての距離を知覚します。この距離の骨組みが無いとすると、風景とは何であるのか私は何も言えません。多分、それは私の両目にはぼんやりと混乱した一種の光に過ぎないでしょう。この話を続けましょう。私は陰影が非常に微妙な大型メダルのレリーフを見ているのではありません。子供が輪郭と色彩を解釈して事物を見るのを学ぶことは、誰にでも容易に見抜けます。更にもっと明白なことは、あそこの遠い処では私はこの鐘の音が聞こえませんし、以下同様です。

 一般に支持されていることは、私たちに教えるのはそれに触れることです。それは純粋で単純な確認によるものであって、如何なる解釈もありません。しかし、それは何ものでもありません。私が立方体の骰子に触れることはありません。いいえ、違います。私は辺と角と、固くてすべすべした面を次々に触り、全ての外観を唯一の対象に結びつけみて、この対象が立方体であると判断します。あなたは他の事例も当たって下さい。何故なら、この分析は非常に遠くまで及びますし、それらの最初の歩みを良く確保させることが重要であるからです。その上、余りに明白なのは立方体をしていて固いこの骰子は全面が白いのであり、それと同時に幾つもの黒い点が付けられていても、私には意味のある一定の行為として確信することが出来ません。私は骰子の全ての面を同時には見えません。そして目に見える面は同時に決して同じ色をしていませんし、同様に他にも同時に私にはそれらの面が等しく見えません。しかしながら私が見ているのは立方体です。等しい面をしていて、全面が等しく白いです。それなのに私はこの事物を立方体に見ますが、その証拠は触れているからです。私が一つの対象に異なる感覚を数々の知覚の結合によって認識することを、プラトンは『テアイテトス』の中で、如何なる感覚によるのかを尋ねていました。

 骰子の話に戻りましょう。私は一つの平面に六つの黒い点を認めました。そこには理解力の働きがあるのを認めることは困難を生じないでしょうし、少なくともその感覚が内容を示しています。これらの黒い点をざっと目を通しながら、そして一つ一つの順番と位置を記憶に留めながら、私はついにそれらの点が六であること、つまり二掛ける三が五足す一である観念を些か苦労して最初に形づくります。計算する行為と、次から次に手と目で外観から立方体を私に認識させるのを認めるもう一つの働きの間に、類似があることをあなたは気付くでしょうか。そこからは既に知覚が理解力の機能になっていて、私の風景に戻るには、最も理性的な精神が信じられない位に自分自身をそこに身を置いているのは明らかです。何故なら、この水平線の距離にも言葉が無いけれども、骰子と同様に考えられますし結論付けられるからです。そして私たちは既にそこでは、私が話した素朴な観念に対して防御態勢を取っているのです。

 もっと近くから見てみましょう。この水平線の距離は数ある事物の中の一つではありません。勿論、事物と私の関係は思考され、推断され、判断を下されたか、あるいは求めている様な関係です。私たちの認識の形式と内容の間で行わなければならないことは、重要な区別を見せることです。風景と全ての対象を支えるこの秩序と関係は、その区別を決定するものであり、そこから現実の堅固で本当の何ものかを生んでいます。これらの秩序と関係は、形あるものであり、思考された機能を明確にするでしょう。そして、狂人とか熱狂者が事物の中での彼ら自身の判断力の誤りを見て、それらを現在の堅固な事物と見做しているとしか見ないのは誰でしょうか。ここで見ることが出来る哲学的認識の手本は、抽象的な言葉によって、より一層高度に定義しています。その様にして最初の歩みが始まるや否や、私たちは如何なる目標へ行くのか大変良く気付きます。そして、どんな問題においてもこの観察は、哲学的探究とその美名を受取りたいと思っているあらゆる無駄な試論を区別するためにも適切なのです。(完)

 


第二章 諸感覚の錯覚について

 

 諸感覚の認識は、距離や大きさや対象の形について間違った場合があります。私たちの判断力は屢々経験に従って明白になりますし、私たちの認識を立て直します。私たちはその時、理解力に良く目覚めます。間違った様々な錯覚は判断力が暗黙の裡に示されているものである程に、それらの事物の外観自体が私たちには変化した様に見えます。例えば、もしも私たちが上手に絵の具を塗った或るパノラマの絵を見たなら、その距離や奥行きは実物のものとして把握していると思います。カンバスは私たちの視線の前では窪みます。従って私たちは感覚に関して何らかの欠陥によって錯覚を何時も説明したがりますし、目も耳も同様に行います。殆ど全ての認識において認めること、理解力の働き、そして結局は対象の形と私たちが取り違える判断力を別のものの中に見抜くことは、哲学的認識においては偉大な一歩を生みます。考察するのに豊富な材料を発見する人々のためには、ヘルムホルツの「生理学的光学」を参照して、幾らかの単純な事例をここで私は説明します。

 確かに私の手の上で重い物体を感じれば、まさにその重さが働いているのであり、私の意見は何も変えない様に見えます。しかし、ここに驚くべき錯覚があります。もしも、あなたが同じ重さの色々な物を誰かの手に持たせてその重さを量らせたなら、鉛の球や木製の立方体や大きな段ボール箱では容量が大変異なっていますので、一番大きな物が常に一番軽く感じます。例えば、ほぼ同じ大きさの青銅の管の様に、もしも性質が同じ物体であるなら、結果は更にもっと微妙に感じるでしょう。もしも、それらの物体を輪や鉤にしてつなぎ留めて歩いても、その錯覚は長く続きます。しかしその場合、もしも目隠しをしていたなら、錯覚は無くなります。そして、私が錯覚であると良く言うのは、それらの想像上の異なった重さは、熱さや冷たさを指に感じるのと同じ位に明瞭になるからです。しかしながら私が連想した状況に従えば、この重さを判断する誤りは理解力に張られた罠から生じているのは明白です。何故なら、一般的に一番大きな物体は一番重いからです。その様にして視覚に従って私たちは実際に一番大きなものが一番重いのを期待します。ところがその印象は、それに優るものは何も与えないので、私たちは最初の判断力に戻ります。そして、私たちは期待した重さよりも軽く感じて判断し、最終的には他のものよりも軽いと感じます。この例で良く分かる様に、ここでもやはり私たちは、関係と比較によって感知しますし、予想が対象の形を理解すると、今度も又間違えるのです。

 視覚の一番有名な錯覚も同様に容易く分析されます。私は、遠近法で街灯と人物がまさに同じ大きさで描かれた絵を特に指摘しますが、私たちは最早測るまでもなく、同じ大きさであるとは思えません。ここには対象を大きく見せる判断力が既にあります。しかし、もっと注意深く点検してみましょう。対象はそれ自体の大きさがどんな大きさにもならないのですから、決して変化しません。大きさは常に比較されます。従って二つの対象の大きさや全ての対象の大きさが、部分部分ではなくて全てが分割されずに、実際に形づくっています。数々の大きさが全体で判断されます。そこから分かることは、物質的な事物は外部的部分で常にお互いに分割されたり形づくられたりしているが、これらの事物に関する思考がその中で一つ一つに分割され得ると受け取られないことを混同してはならないことです。仮にも今は、この区別が難解で何時も思考した儘でいなければならないのが困難であっても、途中では我慢して下さい。或る意味では物質的と考えると、事物は部分的に分割されますが、一つの部分は他の部分ではありません。しかし、或る意味で思考と考えると、事物への知覚は分割されずに部分ではなくなります。言うまでもありませんが、この単一性が形式になります。私は決して先走って言っているのではありません。私たちはこれから直ぐに空間と呼ばれているこの形式を最初の素描として述べなければなりませんし、幾何学者たちが理解力によって沢山の事物を認識しますが、これからお分かりになる様に、感覚で認識しない訳ではないのです。

 困難なこの説明をもっと良く準備するために、私は立体鏡を例にして考察する様に読者をご案内します。それは、この器具の理論と操作が読者に再び慣れる様になってから後になるでしょう。今は既に立体鏡のレリーフが目に飛び込んで来る様です。しかしながら一つのレリーフに似たものは何もありません。問題なのは私たち一人ひとりの両目にとって、数々の同一の事物の外観にも相違があると結論付けられることです。レリーフを作る私たちにとってのこれらの距離は、与えられたデータとしての距離と同じでなく、寧ろ思考された距離であり、有名は次のアナクサゴラス(1)の言葉によって、一つ一つの事物をその場所へ投げ返していることは余りに明白です。「全ては統一されていた。しかし、理解力がやって来て全てを整理したのである」。

 読者は既にお気付きでしょうが、諸感覚による認識には何らかの科学があります。どんな科学も事物の中で、より正確な知覚に存するともっと後で理解しなければならないでしょう。私たちのどんな努力も今後は諸感覚の中に理解力を発見することであり、それは内容と形式常に識別しながら、しかしそれらが別々にならない様にして、理解力の中にも諸感覚を発見するのは大変な努力が必要になるでしょう。その点について常に些か近い処にある論争話を無視する様にするのも、大変に困難な仕事です。そして余り訓練をして来なかった人々にとっては、全ての喧嘩が危険である様に論争話も危険なのです。(完)

 

(1)アナクサゴラス(前五〇〇~前四二八)は、古代ギリシアの哲学者で、宇宙万物の種子秩序が理性によって生じると説いた。

 


第三章 運動の知覚について

 

 事物の運動に関する錯覚は、容易に分析出来ますし、非常に良く知られています。例えば、事物が反対の方向へ走って行く様に見えるためには、観察者が運動すれば十分です。同様に、事物が等しくない運動をすれば、その結果は或る事物が他の事物よりも速く走っている様に見えます。そうして月が昇って来るのを見ても、乗客と同じ感覚になって走っている様に見えるでしょう。同じ種類の効果を生んでいるのですが、もしも乗客が近づいて来る対象に背中に向ければ、背中の地平線が彼の方へ近づいて来る様に感じるでしょう。その点については観察してから説明して下さい。あなたには大して難しいことはないでしょう。それに反して、これらの事例を解釈すること、良く知っていることを一度でも解釈することは大変に困難であり、それは哲学者に必要な精神の果敢な力にとっての試練に役立てることが出来ます。如何なる方向から哲学の初心者が熟考を導くことが出来るのかは、次のとおりです。彼が先ず考察するのは、現実のものになっている運動と、樹木とか月に付与される想像上の運動には如何なる相違も無いことです。如何なる相違も、人々が持っている知覚で理解して下さい。次に注意することは、それらの想像上の運動が少なくとも関係によって知覚されることです。それは作品への理解力をここで更に見せてくれています。そして外観を説明するために一つの運動を思考しながら、それは言葉になっていないけれども、既に厳密に話をするための科学の方法になります。そして、比較される点、次から次に動く位置、一定しない距離のもの全てが現れて、恐らく運動になっているもの全てに固定されて集められていることが取分け理解されることでしょう。従って動くものそれ自体を生む様に何時も場所を変えながら、単にその次に来るものに私たちの運動の感覚が存することは、それどころではありません。緻密なゼノンは良く言いましたが、動くものは絶えず何処にいるのかに正確であるので、決して運動の中には無いのです。それと同じ他の困難は全く分割出来ないものであり、私にはそれを感知したりその全体を思考したりする運動は連続的なものでしかありませんけれども、全ての運動の位置は同時に把握されるものです。従って私たちが知覚として把握するのは、決して運動の出来事ではなくて、実際には動きの無いその観念であり、その観念による運動なのです。認識全体の領域で余りに早く脱線してもお許し頂けるでしょう。これらの分析は決して分割されるものではありません。同様に、私たちがそれらの単一性に目を通して行かせながらも、やはり全てを考慮に入れていることにもう一度注意して下さい。その様にして私たちは行かせる儘にしながらも、その運動を知覚するのです。そうなのです。しかし、前もって用意されて良く保存された道は、数々の定められた地点に引かれた線に沿っていて、一言で言えば不動なのです。その点を少しでも前に考えたなら、運動に関する形式をどんなものでも考えながら好きなだけ与えられる錯覚以上に、検討するのに有益なものは最早何もありません。従ってコルクの栓抜きを回転させただけで、軸に従って移動して行く様に見えます。こう言っても良いのですが、回転していない様です。あるいは又、風車や風速計の軸を別の方向へ向けたいと決めたなら、それらが回転している感覚を外観の中でも変えることが出来ます。その様に定まった点を選択すると、別の運動を生みます。相対的な運動の概念は従って言葉が無くても認識となって現れます。

 運動の知覚としてここで言われたことは全てが触覚にも適用されますし、取分け視覚の手助けがあるにしろ無いにしろ、接触とか緊張によって私たちが自らの運動を持っているとの認識に適用されます。感覚の観念の始めが、色や音が外から与えられる様に、運動にも与えられているというのは内容の無い観念であると容易に考えられます。私が感じた運動に行き着くのは何時も思考された運動によります。そして、運動の一部分も運動から出たものであり、運動全体の中にあります。筋肉の感覚について良く知られている議論は、哲学的な認識とは無縁であることが多分あなたは直ぐに判断を下す様になるでしょう。それは実際に望んだ様に殆ど行うことが出来る言語が、奇妙な対象として叙述されて点検された後で、空虚な弁証法的な理論はもっと遅く理解されるしかありません。(完)

 


第四章 感覚の教育

 

 生まれつきの白内障から全治した盲人たちの〈観察〉は、最も偉大な哲学者たちが何時も見抜いて知っていても、それと同時に哲学者たちの注意を引き起こしていました。それは見ることを学ぶことです。つまり光と影と色彩によって与えられる外観を解釈することにあります。いずれにせよ、確かにこの種の医学上の観察も知るのは良いことです。しかし、私たちの視覚そのものを分析することや、そこで見破ったものを提示されるのを考察することは、もっと哲学的方法に適しています。森の地平線は、視線にとっては遠いものに見せないが、青味がかっているのは空気の層が干渉しているのは大変に明白です。少なくとも私たちは、それが意味しているものを全て知っています。同様に、遠近法を解釈することも知っています。それは柱や窓や並木通りの木々の様に、同じ大きさの対象物が私たちから別々に距離の位置の処にある時、遠くにあればある程小さく見える知識を特に与えてくれます。そちらの方へ注意を向ければ、そのことに気付くのは大変に容易です。しかし、時々は無邪気な理解力が真実を知っているとばかりに、描写したいと思う外観に反対します。例えば余り観察しなかった人が、向こう側の木々の緑は少なくともこちら側の木々よりも遠くにあるのに、同じ緑色をしていると大変良く主張します。もう一人の人は、絵を描こうとしている時に、雨傘の方が大きいのに、何よりも人物の外観を小さく描きたくないのです。私たちの両目は一つ一つの事物を二つのイマージュ(像)で示しているのを、認めたがらない人を私は知っています。しかしながら遠い対象のイマージュが直ぐにでも二つになるためには、一本の鉛筆の様に非常に接近した一つの対象を両目で見詰めれば十分です。しかし無邪気な理解力は、大変に強い理屈を次の様に言って、これらの外観を否定します。「そんなものはないのだから、私は見ることが出来ないのだ」。画家たちは反対に、自分たちの仕事によって事物の真偽に最早注意しませんし、少なくともその様なものとして外観を再現しようと努力することに導かれて行きます。

 運動している事物は哲学者にもっと良いことを教えてくれます。ここでは外観がより一層強くなり、事物の真実は単に見るまでもなく肯定されます。例えば、速く走る乗物に乗って地平線の方へ伸びる一本の道を軸にした車輪の様に、木々や柱が走って全ての風景が回転して行く様に、それでも存在しなくなるのが分かるのを見る妨げになり得る最大限の速さに、逆上する旅行者はおりません。最も偉大な天文学者も、地球が南北を軸にして実際に動いているのを良く知っていますけれども、大空の中を星々が移動して行く様に見ています。それ故にこれらのことを思考するや否や、観察と理性の働きによって外観に倣って事物の真実を構成し直すことを学ばなければなりません。そうしてここでは、目の先生になるのは手であるのは大変に明白です。耳も又教えなければなりませんし、私たちは音に倣って、音を出す対象のものの方向と距離を測ることを少しずつ学びました。つまりそれは、私たちが見て触るために行わなければならなかった動きであり、更にもっと明白なことです。猟師や砲兵は分類化された観察と、体系化された経験でこの教えを続けて行きます。このことに倣って些か勘違いもありますが、子供は見るものを掴み、聞くものを見詰める訓練をする勉強から判断することが出来る様になります。

 最も難しいのは恐らく触れる感覚が、それも教育の一環ですが、それだけで学ばなければならなかったことに気付くことです。盲目になった人が、それ以前には気付きもしなかった触覚の多くの印象を意味づけるために学んでいることは周知のことです。例えば彼が友人の手を握れば、私たちが普通に顔色を読むことよりも、沢山のことを見抜いているでしょう。そこから出発して遡ってみると、柔らかいものや固いもの、つるつるしたものやざらざらしたものについての子供の経験に一つの観念を生むことが出来ますし、数々の事物の味や匂いや色に関しても全てに結論を下すことが出来ます。これらの認識には、私たち自身の肉体の認識に注意して考えなければならないのも明白です。それは直接的なものになり得ないとしても、色々な関係を含んでいる場所とか距離という概念そのものから生じるものです。それ故に、どんな直接的な印象の中に与えられることは出来ません。従って私たちに全て与えられている様に見える肉体の認識と事物の認識においても、実際には全てが学ばれているのです。詳細なことや秩序に関しては、それらを見抜くために有効に訓練することが出来ますが、本当らしいこと以外を望むことに意地を張らないことです。さもなければ緻密で際限の無い議論に陥ることでしょうし、それは真の哲学にとっては無縁のものなのです。(完)

 


第五章 刺激について

 

 或る距離があったり、それらの距離を想定する場所の全ての関係から形と大きさが知覚されるものは、レリーフの様に、何時も単に可能な運動による効果があります。その点について長く考えることは重要です。何故なら全ての事物の形式である幾何学の空間があって、しかも事物に似ていない奇妙な性質が生じているのはそこであるからです。例えば、私がレリーフとして知覚するものは現実の凸凹ではなく、その瞬間そのものに触れて知るのであると言いたいのです。私が認識しているのはしるしです。もしも、それらのしるしを事前に持っていたなら、両手で知覚するものを予測させてくれます。このことは距離がどんなものでも真実ですし、予測に過ぎません。その点に戻ります。私は恐らく熟考そのものからあなたの精神に現れる、思索に今は従いたいと思いますが、全てが予測ではないということです。その様なものとしてこれらのしるしは、現在も十分に与えられています。正確に言えば、それは出来事です。そして、もしも私がそれを近くから見詰めたなら、それらは私の両目と両耳と両手の出来事になります。私は耳でぶんぶんいう耳鳴りを誤って解釈するかも知れませんが、兎に角、私が知覚しているのは事実です。それが血管の中を循環する血液のせいでしかないとしても、兎に角、私が知覚しているのは事実です。私は凸凹を誤って見ますが、その光と影を良く知覚しています。そして、その影が私の目の疲労によって起こるものでしかないとしても、もしも私が余りに長く本を読んでいたとしても、激しい光とか暗い夜に変化したりぼんやりしたりする形の儘誤った色を感知するのが本当の様に、その影を感知するのも同様に本当です。偏見から私が指先の重さを間違って解釈することはあり得ますが、それらを感知していることも又あり得ます。更に、もしも私に熱があるために葡萄酒が苦いと思っても、いずれにしても私がこの苦さを感知しているのは本当です。現在は私が推理するものについての何らかのデータが常になければなりませんし、そのものに倣って私は見抜きますし、先に始めます。そうして目に見える現実の運動は、色や光に何らかの変化がなければ、決して感知されないでしょう。私は、身体についての物理的行動によって感じるものに倣って事物を感知します。そして、この最初のデータが無ければ、何も感知しませんし、それが刺激と呼ばれているものです。しかし、それを仮定して、まだこれから重要な二つの点に注意しなければなりません。先ず第一点は、ここで生理学者たちの道を踏み外してはならないことであり、感覚器官又は脳の中で、事物によって生じた肉体的運動を、刺激によって理解したいと思ってはならないことです。その様に話すのも、それは合成された知覚で、大部分が想像力である知覚を述べることであるからです。その知覚によって生理学者は人間の肉体の構造や外部の行動への反撃を想像します。余りに大雑把ですが、大変に一般的なこの誤解を良く考えて下さい。私は所有している知覚を考察しなければなりません。そして、教えられたり推断させられたりしたものを排除して、単に示されていることを決定するために探究しなければなりません。そこから私が二番目に注意しなければならない点に達します。それは如何なる予測も無く、刺激が何であるのかを知ることは、そんなにも容易ではないのです。何故なら、私が良く考えることは、視覚にとってのその情報は並置された色彩の数々の斑点に存在することであるからです。しかし、そこでは既に単純化された知覚の中で私が、凸凹が無くても私の両目には距離感があって一枚の絵に、全ての色彩を齎していることしか見ないのは誰でしょうか。色彩の単純な刺激は確かにもっと単純な何ものかであり、私の肉体のどんな部分でも感受されることはないに違いありません。というのも、その様に感受することとは、既に知覚することであるからです。私は形と大きさと位置を認識するのを欲するからです。従って、純粋な刺激を把握するには、いわば思考すること無く考えなければなりません。夢想とか、半睡とか、最初の目覚めとかの、或る種の名状し難い何らかの状態からは、盲人に視覚が示された時の最初の印象同様に、私たちにも十分に近いものになることが出来ます。しかし、彼はまさしく何を言って良いか分かりません。そして私たちが子供の時の最初の印象を保って置かない以上に、思い出を保って置けません。これらの指摘は、あらゆるものの中で最も明瞭な出来事や、最も良く限定されたものの様に、粗雑な思考体系を排除するためのものです。この体系に倣って私たちの刺激は続いていて、見分けられ、繋がっていて、呼び起こされます。一つの出来事とは、その最初の衝撃や、対象と人間との最初の出会いとは別のものであると私たちは言わねばなりません。内容と形式を区別しなければならないでしょうし、その様にして最も単純な知覚も既にそれを教えてくれているのです。

 知覚と刺激を識別するためにはもっと一層困難で、殆ど探究していない道がもう一本あります。それ故に質と量を考察しなければなりませんし、それらの性格によって明らかにしなければなりません。それは最も困難な思索の中へ直ちに身を投じることであり、読者に最も苦しいものを与える『純粋理性批判』の中の一つの部分です。ここでもう一度大きさとは何か、質とは何かを正確に述べてみましょう。例えば私が線を引いたり、数を数えたりする時の様に大きさが増大する時、質の部分は別のものの儘付け加わっています。例えば光がだんだんと強くなる時の様に、質が増大する時、明るさに付け加わるものは如何なる区別も無く、それに合体します。その光は変えられて、私がもっと強いと呼ぶ光は実際には別の光です。もっと濃い青は実際には別の青であり、もっと強い圧力は別の圧力です、等々と良く言えるでしょう。しかしながら私に増大する光が抗い難く齎されるのは、最も弱い印象から目が眩む閃光までの単なる光の強さです。この大きさは従って単に昔から増大したり徐々に減少したりすることが出来ますし、それを強さと言えるのははっきりしています。しかし、これは純粋な質ではない様に思えます。私たちはここで並置されたこららの強さを私たちの視線で整理するために、はっきり言うのにその大きさを利用している様に思えます。純粋な刺激には決して増大も減少も無く、正確に言えば大きさがありません。しかしながら、少なくとも変化や新しさはあります。説明出来ない不可解なものです。しかし結局のところ多くの人々が試みた様に、生来の直接与えられた印象を描写し様と努める表現に凝りながら、それに近づくことが許されます。以上のことは全てが幾何学以前のものです。しかし、これらの微妙な探究をここでは明らかにして、言語は不完全にしかそれらを表現しないと予測するだけで十分です。記憶に関する特別な研究は、最初の経験とか最初の印象を研究しても無駄であることを、恐らくもっと正確に説明するでしょう。これらの企てには、まさに最も多く解釈している最も大胆な知覚が含まれている様に見えます。(完)

 


第六章 空間について

 

 恐らく読者は、善良な哲学者たちによって大変幸せに使用されている、表象というこの美しい言葉を完全な意味で把握し始めています。事物は私たちに決して述べませんが、私たちは事物を述べます。又は、もっと正確に言うと、事物を表します。私たちの知覚においては、知覚を理解したいと思うのは極めて簡単です。何時も、思い出、復元、経験を要約します。語られた判断力のもので既に科学のものと、直観のものとを区別することは少なくとも有益です。直観力のある人は、少なくとも外観としての直接的な認識の様に論証的なものに反対しますし、研究や反復や理性の働きによって形づくられる認識に反対します。ところが知覚は、何時も言葉と接近と推測によって完全になりますし、注釈をを付けられます。例えば、木々が並んだ一本の線は道を示していると私は思いますし、あるいは三角形の影は鐘楼の尖端を示していると思います。更に又、唸る様な音は自動車の音に違いないと思います。これらの認識は、ありふれた言葉の意味から言うと、直感的なものであると思えるかも知れません。しかし、この章においては最も厳格な意味で、まさしく直感的認識と思われるものを問題にしています。つまり、それらの認識を解釈することであり、事物の様に触れる表象の何らかの性格からも極めて鮮明なものでもあります。

 私は極めて遠い水平線を見ています。私の両目が教えてくれるものに倣って厳格に言えば、他のものと同様にその色彩を良く表していますし、こう言って良ければ距離はありません。しかし、それでも距離があるのなら、事物として私に触れます。それは事物の真実そのものです。私が青味がかったこの色彩から引き出すことが出来るものです。この距離が大変良く私に見えて来て、残りのものも全て見せてくれます。それは一つの事物ではないのですけれども、大きさや形や色彩に一つの意味を与えています。しかし十分に注意して下さい。この距離は少しも水平線に所有されていたものではありません。そうです、事物から他のものへの関係であり、事物から私への関係です。もしも私がその所有されたものを知りたいなら、その距離に目を通しながら取り除きます。或る意味で私は常に表象によっていますけれども、その時は経験を十分に積むことになるでしょう。勿論、その様にして私は今距離を見ていますし、その様にして今感じていますし、その様にして今思考しています。私は距離を知り、可能なあらゆる経験を積みます。距離とは私のものであり、事物のものではありません。私は距離を設けて、線を引き、決定します。本物であろうと偽物であろうと、距離は常に距離であり、分割出来ない関係にあって、実際に歩き回ったものではありません。それらの部分はお互いにつけ加えられます。しかし全てが設けられているので、次々に分割されたり歩き回ったりしますし、或る意味で前もって分割することも歩き回ることも与えています。

 方向も又、同じ性格をもっと明らかにしています。何故なら、方向は私の肉体の回転に関係して事物を整理するからです。しかし、それでも事物ではありません。方向が決定されます。それは形式であって、受け取られたものではありません。空間についての全ての逆説がここに集められます。そして全ての困難が屢々余りに早く通過しますが、まるで作者が捏造したかの如くです。距離と方向は幾何学にとっての二つの武器です。さらに如何なる事物の助けも借りず、黒に対する白、点、線、角という恣意的に考えられた事物について大変に良く知っていても驚くことはないでしょう。でも、余り先走りしない様にしましょう。

 幾つもの距離から私は、深さと呼ばれている距離を選択しました。何故なら、その空間には性格が無くて、設けられているものであるからです。それは経験を決定しますし、より一層容易にそこに現れるからです。今は、あなたの目の前に広がっているか、目に見えない盲目の距離ですが、やるべき努力を決定する様な他の色々な距離を考えて下さい。これらの距離にも又距離があること、つまり分割出来ない関係があって、深さと同種のものであるとあなたは認めるでしょう。そして、きらきら輝く色彩も又表面の色彩として理解しない様にして下さい。あなたが一つの平面上に広げたいと思っている景色は景色自身で平面に描き、豊かであるとか貧しい色彩によって私は見ていて面白いものや悲しいものを理解しているとあなたは信じるでしょうか。この幻想からあなたを逸らせるには、この平面からあなたを離す深さによってしか意味を持たないことを、私は単にあなたに気付いて貰うだけです。そして、斜めに見える数々の表面に関しては、池の表面や山の斜面の曲線の様に、あなたは思考の中で立て直します。その様にして各々の事物に一つの意味と平面を与えますし、厳密な形式の中で外観を理解する時には更により一層明白になります。容量に関しても常に見抜かれて、設けられて、思考されています。というのも分割されたり、他の表面から、そしてその背後にある他の容量から発見されたり見抜かれたりすることがなければ、決してそこに這入って来ないからです。

 恐らく、あなたに最善を教える立方体の骰子にここで戻りましょう。立方体がどういうものであるのか、定義上は同じ辺、同じ角、同じ面であることを誰もが知ることが出来ます。しかし、誰もその様な立方体を見ていません。誰もその様なものに触っていません。立方体の骰子の形をありありと思い描くには、一つ一つの経験では見たり触ったりさせてくれないこの形を、経験の中で維持して肯定することなのです。もっと正確に言うと、既に科学が明らかにしている他からの位置と方向と距離によって、それらの全ての外観と知覚とそれに付随した影までを説明することなのです。ところで、この立方体の様々な外観を描いてみて下さい。そして、あなたが同一の形を認める時には感嘆して下さい。もっと良いことをして下さい。鉄のカーテンレールで作られている様に、全ての辺が目に見える様に立方体を描いて下さい。それから或る時は一方の側面と上方から見て、又或る時は他方の側面と下方から見たとして、二つの面に基づいて立方体を考える訓練をして下さい。形も方向も命令される様に理解する外観をあなたは見るでしょう。その外観は多分、真実の道の中で常に考察への道を教えるものであり、適切な哲学上の経験はそれ以上ありません。要約して言うなら、私たちは空間の中で事物を知覚しますが、諸方向という対象は空間によってしか命じられたり、区分されたり、知覚されたりしないのですけれども、その空間は諸方向の一つの対象ではないと言えるでしょう。空間は連続していると言えるでしょう。つまり分割出来ないものです。空間は大きさや形の父ですけれども、空間そのものには大きさも形もありませんし、結局のところ小石の様に存在するものは何も無いと言えるでしょう。そこから次の様に、空間は有限か無限かという問題が生じて来ますが、如何なる意味も無いのは明らかでしょう。しかし、その点に関しては一度ならず戻って来ることになるでしょう。その困難な課程において、あなたの力を調べてみて下さい。あなたは哲学するとはどんなことであるのかを、今では少しは知っているのです。もしもこの種の探究が喜びを与えないとするなら、神々が現れる前兆の様なものです。本書を読むこともありません。(完)

 


第七章 感覚と理解力

 

 しかしながら少しは先に始めなければなりません。余りに容易に非常に広まったこれらの知覚の探究は、本当の困難に直ぐに赴かなければ遊びでしかありません。それなのに私はそこに固執したいのです。カントが『批判』の中で空間を、理解力の構築としてではなく、感覚の一つの形式として考えたがっていることは誰もが知っています。私は、先立って行う分析によって、科学の諸関係を言葉の本来の意味の代わりにするために、この透明な感覚を備えた一つの空間の枠に入れたイマージュを全て排除する様に導かせるのは寧ろ明白です。カントが申し分なく空間を処理する時には、空間が一つの形式でしかないことを決して忘れません。でも、それは初心者にとって大切なことです。ところで、空間は感受性の一つの形式であるとカントがつけ加えて言う時、次のことを強調しているのです。空間を所有することは、科学が組み立てる理解可能な諸関係にすっかり立ち戻らせることは出来ませんが、それらは明白な認識の形式であるということです。その点については、事物に関して合理的に扱っているアムラン(1)を読んで下さい。

 問題が曖昧になって来るのは、三つの座標が常に一点に固定されている三次元の空間が私たちの経験としての出来事になる、と数学者たちが言って気に入っているからです。しかし必然性の真実にとっては奇妙なことです。この問題は保留にさせて置きます。私が今まで述べて来た空間は、まさしく精神の活動における形式と呼ぶものと異なっていると決して理解しません。数学者たちが代数に騙されるとか、三次元が距離や方向の観念そのものよりも経験上のデータとのあらゆる混合によって純粋でなくなることもあり得ます。しかし、詳細なことに今は這入らないでいましょう。読者を目覚めさせることが重要です。悩ませることではなく、弱さよりも寧ろ隠れている強さを表すことが重要です。

 私は、あるが儘の人間の認識を書き出すことに取分け集中しながら、私たちに遠近の事物を見させてくれる幾何学的形式の予測と、所謂科学の諸形式との間に既に現れている大変顕著な類似を強調します。これらは注意に過ぎません。私は目的を忘れません。そして、体系の中で完成する学説には達しない様にします。議論が人々の間で終わりになる前に、世論や品行の治安は有効に行使することが出来ます。

 刺激に関する学問というものが決して無いことは、重要なあらゆる哲学者たちが、取分けプラトンやデカルトが強く示していました。刺激というこの良く知られている用語の意味を正確に理解するための準備が、私たちには成されている様に見えます。その強さを測るには、長さにしか関係していないのは明白です。例えば、同じ強さの二つの音は、同じ距離の処にある膜に同じ振動を生じる二つの音です。二つの温度は、きちんと同じ量で用意された水銀の膨張で比較されます。カロリーは、氷が水に溶けて変化した重さによって測定されますし、重さそのものは天秤棒が均衡して変化しなくなることで量られます。その様にして科学は、今まで述べて来た幾何学的要素も、感知し得るデータに代えて理解されます。そして、強さを知ることが出来るものはどんなものでも、要するに長さを測ることになります。しかし、そこには科学的な事実しかありませんし、直接的に分析して明らかにしなければなりません。

 知覚とは、厳密に言うと私たちの運動とそれらの結果の予測です。そうして恐らくその目的は、常に何らかの刺激を受け入れたり排除したりすることにあります。まるで私が果実を摘みたいとか、小石がぶつからない様に避けたいと思うが如くです。良く知覚することとは、私がこれらの目的に達するために行わなければならない運動はどの様なものかを、前もって認識することです。良く知覚する者は、行うべきことを前もって知っています。猟師は、鳴き声を聞いて犬たちと再会する術を知っていれば良く知覚しますし、飛び立つヨーロッパ山うずらを発砲する術を知っていれば良く知覚します。子供が両手で月を掴みたい時には誤って知覚していますし、以下同様です。それ故に知覚には真実とか、疑惑とか、誤りがあるのかがその評価になります。遠近法やレリーフにおいては、特に視覚に大変敏感です。ところが聴覚や嗅覚にも敏感で、恐らく盲人が両手で触れる時には訓練された触覚も同じく敏感です。刺激そのものに関しては、疑惑も無く、誤りもありませんが、首尾一貫した真実によることもありません。刺激はそれを人が感じると、何時も現実のものになります。従って幽霊の知覚は間違いです。それは私たちの両目が感受しているものではなくて、消えやすい光とか着色された染みであり、幽霊と思うのはまさに予測なのです。幽霊を見ることは視覚の印象によって推測することであり、手を伸ばすと何かの生き物に触れるだろうと思うからです。あるいはもっと適切に言うと、それは私が窓の前で今見ているものを推測することであり、もしも私が或る動きをすれば、戸棚の前でも又それを見るでしょう。しかし私が現実に感じているものに対しては何の疑いも無く、私はそれを感じているのです。そのことに関しては決して間違いは無いので、そのことに関しての学問も決してありません。私が感じ取ることに関しての研究は、どんなものでも常にそのことが意味するものや、如何に私の動きと共に変化するのかを知ることにあります。そこからお分かりの様に、対象のものとは本質的に位置と形を持っている何らかの事物です。あるいはもっと正確に言うと、対象のものの中にある真実とは、その形と位置と所有するもの全てを決定している空間上の諸関係全体です。今は次のことを熟考して下さい。天文学者は、その様な諸関係によって十分に計測された知覚の後で、地球が太陽の周りを回っていることやその外の類似のことを言い、そしてこれらの運動によって起こること、例えば日食やそれが見える場所を予言するまでの、その様な諸関係を決定すること以外に他のことは行わないことです。今はこれらのことを指摘するだけで十分です。(完)

 

(1)アムラン(一八五六~一九〇七)は、哲学者でヘーゲル哲学をフランスに導入した。

 


第八章 対象について

 

 デモクリトス(1)が、太陽と月は本当に私たちが見ている様にあって、あるが儘に見える大きさと、私たちがそれらを見て信じている距離を主張したがっていた時、彼は自分の学説が無理矢理強制するものが何であるのかを良く知っていました。彼が船に乗って旅立つや否や、冒険から逃れることは誰にも確信することが出来ませんでした。太陽が私たちから非常に遠くにあることは、月よりも遠くにある証拠を良く知らない人々にとっても今日では一般に認められています。それ故に太陽と月の大きさが、食の時に見られる様に、殆ど同じ大きさに見えますけれども、太陽が月よりも非常に大きいことも一般に認められています。従って見ただけでは太陽と呼ぶ対象が真の太陽で、眩い球形ののものであるとは主張出来ません。同様に真の太陽は、うっかり見詰めると目が痛くなるとも言われます。従って誰も見ることも想像することも出来ないこの真の太陽を如何にして定めることが出来るのか、探究しなければなりません。同様に、私は立方体を知っていますが、立方体もその儘見ることが出来ません。私は立方体のしるしを見ます。真の太陽のしるしを見るのも同じです。真の太陽のしるしのうちで、その大きさ、見かけの運動と本当の運動、一本の棒が回る影も、黒くした眼鏡を通して見た天体の円盤に劣らず重要です。それで真の太陽も他のものによるのと同様に、これらのしるしの一つよって良く決定されますし、時々はより一層良く決定されます。ここでお分かりの様に、一つの対象は他の数々の対象との関係、実際は他の全ての対象との関係によって決定されます。単独と考えられた対象は決して真実ではありません。あるいは換言すると、決して対象ではありません。それは対象が不可分の諸関係の体系に存在するのであり、あるいは更に対象は思考されたもので感知されたものではないと言えます。もしもあなたが、最も単純なものの中にある立方体の例について再び考えるならば、デモクリトスが拒絶しようと虚しく試みていた逆説を良く理解するでしょう。

 正直に言って、世界は見るが如く書かれなければなりません。だが、簡単ではありません。何故なら、感じるが儘に見ないからです。そして同様に、見るが如くに世界が存在していないことを誰もが良く知っているからです。人物を一周して場所を変えてみて下さい。この人物のイマージュは何時もぼんやりとくすんでいるでしょうが、地面ははっきりとしていて、より一層明るい色をしているでしょう。しかし、彼はそれとは別のものであり、それらのしるしや別のもののしるしで決定するのが重要であることをあなたは良く知っています。そして、判断されるのは触覚であると言いたい人々は何も手に入れません。それというのも、この人は私の手の印象であるとは言わないでしょうし、次々に別の印象のものでもないからです。反対に彼が私の手による簡単な動きでは、そんなにも変わらないことを私たちは知っています。要するに私たちは、これらの沢山の姿から同一の人であると分かる処まで体系的に外観を十分に集めなければなりません。私が月明かりの時に踊る時、踊るのは月ではないと判断するのも方法は全く同じです。子供の羊飼いもこのことを知っていますし、既に科学によって知っています。

 古代の天文学者たちは、明けの明星と宵の明星は二つの異なる天体と考えていました。私たちの地球よりも太陽に近い天体である金星は、他の天体の様に大空を一周しないものになっているのです。従って諸関係を誤って程々に認識している彼らは、今日の私たちが行っている様に、二つの体系の外観を一緒に結びつけるまでに至っていませんでした。天文学上の様々な体系を比べることは有益です。何らかの方法によって、色々な幾つもの外観に基づいた唯一の対象が見出されるのは、同一の対象として相応しい一つの運動とその観察者の発見であることはそこで理解されます。しかし、動き出すのが私の列車か相手の列車かを知るに至るのは、他の色々な方法によるのではありません。そうして私は思考することになります。燕が毎年巣を作るのを知っている地下の納屋近くの窓に、一羽の影を見ただけで、私は「ほら、燕が帰って来た」と言います。その燕が前年の燕と同じでないかも知れませんから、その推測は非常に拡大されていますし、部分的には多分間違っています。しかしながら、そこで精一杯理解されるのは、理解力がその体系を構築して真の対象を如何に限定するかです。

 従って二つ目で、何故一つの対象しか見ないのかを尋ねることは、余りに些細なことを尋ねるものです。二つの手では何故一つの立方体しか触れないのか、何故見て、聞いて、嗅いて、味わう対象にも触れると人は言うのか、その理由も尋ねなくてはなりません。何故なら、外観だけに止まっていたなら、それと同じだけの大変に異なったものになるからです。これらの注意によって思考するという奇妙な力が、少しずつ自ら明確にしている様に見えます。それは大部分の人々が他人たちとか自分自身に起因する多くの出来事を、少なくとも話の中で認めたいと思っているものです。既に人が気付いていることは、誰もが最初は独りであると思い、狂人も生涯を過ごす外観に倣って共通した一つの世界を精神が思考していることです。(完)

 

(1)デモクリトス(前四六〇から前三七〇)は、古代ギリシアの哲学者で原子は絶えず運動し、空虚の場所が前提とされ、それは全ての感覚で捉えられるとした。プラトンは彼の哲学に激しく反対した。

 


第九章 想像力について

 

 間違った知覚として想像力を定義すると、恐らく最も重要なことについて強調されます。というのも想像力は内面の遊戯であり、想像力そのものを伴った思考のものであり、自由な機能で現実の対象が無いものと見做したいと思われているからです。その様にして想像力から、私たちの身体の状態と運動までの関係を知るための最も大切なものを見落としているに違いありません。私たちが明瞭なデータによって多くのことを見抜くための危険を冒す時、想像するための力は先ず知覚の中で考察されなければなりません。そして、知覚はその時に、私たちの全ての経験との関係及び絶えず全ての予測を吟味することが想像力と違っているのは大変に明白です。しかし、どんなに厳密な知覚でも、想像力が常に循環しています。想像力は絶えず現れては消えて行きますが、それは素早い点検、観察による些細な変化によるものであり、結局のところは堅実な判断力によるものです。悪魔も祓うこの堅実な判断力の価値は、取分け情熱の働きの中に現れます。例えば、恐怖が私たちの隙を窺っている夜の時です。いや寧ろ、白昼においても神々は木から木へ走り回っています。そのことは十分に理解されます。私たちは、真の知覚がひらひら飛び交う誤りに対する継続した戦いであると判断したり、非常に弱い標識についても大変に機敏です。お分かりの様に、私たちの夢想はその源泉をそんなにも遠くへ探しに行く必要はありません。

 しかし、私たちの感覚器官がそのものによって独創の方法を提供することも屢々起こります。それらの器官を通して良く理解しましょう。私たちの身体は、外部の原因によって沢山の方法で絶えず変えられます。しかし私たちの器官の状態と生命そのものの運動が弱い印象を与えていても、その外のものの静かさの中では大変に強い印象を与えていることには良く気付かなければなりません。かくして、熱のある血液は耳の中でぶんぶん鳴っていますし、口は苦く感じて、震えとちくちくする感じは肌を走ります。私たちが短い瞬間に、諸対象を想像するためには最早その様なことがあってはなりません。でも、それは文字通りに、夢を見ると言っていることなのです。結局のところ屢々私たちは運動によってイマージュを探します。あるいは寧ろ、工夫して作ります。もしも身振りとか、もっと正確には鉛筆が両目で追って形を描くだけでしかないならば、あるいは更に両目の活発な動きが実際の知覚を曇らせたり神々を走り回らせたりするだけでないならば、ここでの視覚は消す役割を演じるだけです。聴覚は言葉によって、もっと良く直接的に変えられます。言葉は、例え小さな声で話しても、私たちが知覚する実際の対象です。取分け、触覚が意味しているものは触覚そのものに、私たちの運動の一つ一つによる印象を手に入れます。私は自分を鎖で繋ぐことも、喉を絞めることも、自分自身を叩くことも出来ます。そして、これらの強烈な印象は恐らく狂人たちの精神錯乱の証しでも何でもありません。ここで見るのは、想像力から情熱への結び付きです。逃げる人は全ての事物を誤って見ますし、彼の背後を過ぎ行くものはもっと誤って予感し、無秩序な行動によって心臓や肺の活動は倍加し、走ることでそれらの反響を呼び覚まします。不規則な運動はどんなものでも知覚された世界を乱します。従って、私たちは痙攣的な運動に身を委ねるや否や、悪魔や誤りの証しの発明者と同じ様に、絶えずこの世の保守主義者であり建築家です。その上、世界は大変に豊かで、常に私たちの錯乱した対象の何らかの影を提供します。そして、想像力によるどんな仕事においても、何時も外部世界、身体の状態、運動という三種類の原因があります。しかしながら、三種類の想像力を区別するのは悪いことではありません。第一には、規則的想像力があり、それは大胆すぎることが無ければ間違えませんし、何時も一つの方法に従っていて、経験に制御されます。その様なものには足跡や僅かな埃についての警官の考えがあります。猟師が自分の犬を殺す様な間違いがあります。第二には、事物から目を逸らしたり両目を閉じたりして、生命の運動やそこから齎される弱い印象に特に注意深くなるもので、幻想と呼べるかも知れません。その幻想は判で押した様に事物には決して混ざり合いません。目覚めはそれ故に突然に起こりますし、しかも安全です。その代わりに第一の規則的想像力においての目覚めは刻一刻と起こります。最後の第三には、情熱的想像力があり、取分け痙攣的な運動や怒号によって定義されるものです。

 規則的想像力にも存在しますが、別の意味では三種類の性質を持っているのは、もっと後で述べることになる詩的想像力です。少なくともここでは詩人が如何にして霊感を探すのかを考えて下さい。或る時は事物を知覚しながらであっても、幾何学ではありません。或る時は半睡状態であり、又或る時は身振りを盛んにしたりわめいたりします。建築や絵画の様なものは身体の中に、主題そのもののどんな材料も受け取ります。勿論、芸術は情熱と取分け儀式にも依存しています。従って、そのことに関して今は詳しく述べる時ではありません。(完)

 


第十章 異なった感覚による想像力について

 

 想像することとは、或る対象を何時も思考することです。そして、あらゆる感覚に基づいて可能な働きを再び現すことです。視覚でしかない様な想像力は最早、想像力の全てではありません。それは位置も形も無い色彩があるだけの印象です。それらの印象を人間の身体現象にするのを目指すにつれて、次第に想像力から癒えて行きます。或る場所で幽霊を見ることが無ければ、何で幽霊を想像するのか、又何でどんな動きによって幽霊に触れるのかを思い描くのでしょうか。その点について十分に熟考したことも無い昔の哲学者たちは、単に視覚上の想像力とか、他には単に触覚上の想像力を述べるだけです。この種の人々は、そこに対応するのみで、十分に深く研究することはありませんでした。どんな視覚上のイマージュも、常に凸凹と距離を含んでいますので、筋肉に関する或る解釈そのものを、そのことによって含んでいるのを認めるのは簡単ではありません。従って曖昧であったり、余りに自惚れた解答を予測しなければなりませんでした。要するにイマージュというものは決して無く、想像上の対象でしかないのです。この事例は、考察がここではそれらの探究を先導し、常に明らかにしなければならないことを良く示しています。

 保留がなされると、私たちは各感覚によって如何に想像するのか検討することが許されます。味覚や嗅覚にとっては、実際の対象が肉体の反応を生まないで、取分け吐き気の動きの様な無意識なものである想像力の理由を提供することが少しも無いとすると、恐らく言うべきことは少しもありません。同様に、他の色々な感覚による想像力も屢々、味や匂いを決定します。その上、味が美味しい料理を見た目でも、予想によって不味く見えることもあり得ることは誰でも知っています。病気でより一層洗練されたり、あるいは研ぎ澄まされたりした感受性が、一般に大変微かな匂いや味に敏感になることも時々起こります。その様にして想像力も真実になりますが、私たちが知らない間になります。その上、いわば真実でない想像力というものも決してありません。というのも世界が沢山の方法で私たちに絶えず働きかけているからで、私たちは何らかの現実的な対象が契機とならない様な、大変に法外な夢想を恐らく所有しているからです。それ故に何らかのものを何時も知覚されるのでしょうが、下手でもあると想像して下さい。

 これと同じ性格は何時も十分に考えられていないのですけれども、視覚上の想像力に対してもやはり敏感です。雲とか、密生した葉とか、古い天井や壁紙のぼんやりとした入り組んだ何本もの線は、人間や怪物たちの頭部を想像させるのに大変適しています。薄明かりの時や影の悪戯も、非常に明るい光と同じ様に同じ効果を生むことを誰もが知っています。煙と炎も夢想家たちには有利です。

 今は私たち自身の目が、取分け閉じられている時に、夢想に与えるものを述べなければなりません。勢い良く両目を閉じると、非常に明瞭な対象のイマージュを誰もが観察出来ます。それは継続された振動でしかなく、あるいは補色での陰画のイマージュでしかありませんし、疲労のせいでもあります。恐らく、私たちの網膜は決して完全に休息しないものなのです。誰もがご存知の様に、圧力や電気的な刺激を加えると微光が見えます。そして大の読書好きは、色が付いて変化する総の様なものを見ますが、恐らくそれらは夢想の最初の切っ掛けです。私は眠る前に何度も見ましたし、これらの形は動いて人間や家のイマージュに変化しますが、事物として見分けるには注意しなければなりませんし、目を覚ました批判が必要です。熱狂者たちは自分自身の内面にある事物のイマージュを見ていると言うことが大好きですが、そこで理解していることを説明したがりません。私が考える処、どんな視覚のイマージュもイマージュの性格上、私の外部にあります。イマージュ自体にとっても外部のものでもあります。私が夢の中で散歩をしている森は、私の身体の中にありません。しかし、森の中にあるのは私の身体です。魂の目で、あなたは何をするのでしょうか、ということになるのでしょう。勿論、魂の目とは私の目です。

 私が事物の運動を想像する時、明らかに最も重要なことは、結局のところ私自身の運動の結果を考察しなければなりません。私は頭を動かすのがどんなに小さくても、全ての事物を動かすことになります。誰もが確信出来る様に、私の運動は数々のイマージュを混乱させるものそのものですし、両目を瞬きすれば完全にイマージュを蘇らせることを、つけ加えて言いましょう。しかし、ここで最も重要な行為とは両手の動作です。それは眼前に事物が無くても描いて、何よりも自然と素描や原型となって実際の対象の中に私たちの夢を固定させます。私はここで、さ迷う鉛筆のことしか考えません。それは、その鉛筆の出会いによって私たち自身が感動するものです。その様にして私たちは、この章の主要な観念に導かれます。それは信じられる限りにおいて、私たちはでっち上げないということです。私が言っていることは一度ならずも実際に起きました。私が鮮やかな赤色を想像した瞬間と同じ時に、目の前のノートの縁が赤く見えたのです。

 同じことは恐らくもっと良く知っていることと思いますが、聴覚の想像力についても言えることです。先ず第一に、風や滝や車や群衆の雑音は全てが言葉になったり音楽になったりします。列車の進行は一つのリズムを聞かせます。呼吸や血液の鼓動も又耳に作用して、ぶんぶんいう音や、ひゅうひゅういう音や、かちんという音を生んでいると言わなければなりません。取分け、私たちが話したり歌ったり踊ったりするのは聴覚上のイマージュを固定して、他のイマージュを呼び起こすからです。音楽上の霊感の研究はここでは触れないことにしましょう。少なくとも夢においては、私たちが聞いていると思っている声は多分、屢々私たち自身の声であり、叫び声も私たち自身の叫び声であり、歌声も私たち自身の歌声であるとして置きましょう。それと共に私たちは息や筋肉や血液によってもリズムを取ります。そこにはあらゆる出来事の交響楽があります。

 触覚に関しても論じることがあります。でも、これは難しいものではありません。何故なら第一に、事物は絶えず寒さと暑さ、呼吸、圧力、摩擦で私たちに作用しているからです。第二に、触覚は生命活動によって疲労や摩擦や熱や傷害によって屢々変えられるからです。私たちは胸が締め付けられたり、捻れていたり、錐で突かれたり、鋸で挽かれた様に感じる気になります。あるいは又、胸を縛られたり、喉を手で乱暴に絞められたり、重い物で押し潰されたりすることを想像します。結局のところ軽快であったり活発であったりする運動が、まさに実際の印象を与えています。殴り合う夢を見ている人は、拳骨を振るっているかも知れません。腕を組んだり、壁にぶつかったり、断固として立ち向かったり、体をねじったりするかも知れません。その様なことが最も悲劇的な夢の源泉になります。そして、ここで情熱に触れることになります。それは材料が豊富ですから、全てを一度に言うことは出来ません。(完)

 


第十一章 連想について

 

 私たちの一連の思考は、一般に私たちに起こる対象に基づいて調整されます。しかし、前に見た様に、これらの対象は多くの試行や素描や仮定の後でしか見分けられません。あそこにいる人物を私は最初、郵便配達人と思いました。その車は肉屋のものでした。風に舞う木の葉は小鳥でした。その様に私たちの各知覚は素早く探求を終えて、偽りの間違った知覚の足場となり、それらに言葉は決して止まること無く一種の正確さも与えます。それ故に、各対象に関して私は、それに似ている他の多くのもののことを自然に思考します。その意味で、それらの形は私の印象を十分に説明するものになります。類似による結合と、作者たちが見做すこれらの大部分のものを、思い起こすための源泉を探さなければならないのもそこなのです。私たちの諸観念がまさに閉鎖された部屋に隠遁して、恰も金勘定をしているが如くに、私たちの精神を結びつけると信じている誤りもそこにあります。実際に思考することとは、常に知覚することです。そして夢を見ることでさえも又、下手であるが知覚することです。もしも安易で屢々全くの弁証法的な瞑想から立ち直りたいと思うなら、この様な問題についての、作家たちの指導的な観念を堅くして曲げないことが大切です。

 感覚が疲労すると黄色に対する紫色の様に、事物の補足的なイマージュを知覚することも起きます。この種の事例は大変に稀有です。しかし、私たちの全ての感覚にとっては常に僅かに活発な印象も相当の行為には、謂わば無感覚にして仕舞いますし、それ故に他のものに気付くことも考えるのは自然です。その様にして所謂対照的な連想の多くが多分理解できます。或る旅行者が私に語ったのですが、アルジェリアの砂漠に疲れて目を閉じると、ノルウェーの月夜の風景を考えたとのことです。

 私たちの思考において言葉とは、知覚とは別であるもの全てを自動的な流れで調整するものとして、結局のところ考えなければなりません。尤も私たちは言葉も知覚するのですから、そのことも又知覚に変わりありません。ところで、屢々或る言葉を他のものの代わりに言いますが、この失敗には二つの主な原因があります。あるいは発音するのが容易であるから言おうとした言葉に似た言葉を、つい口を滑らせて言って仕舞いますが、これは類似による一種の連想です。あるいは又、何らかの屈折や緊張から疲労した言葉の器官が自ら休息する事態に陥ります。そこからは私たちの思考も、より一層奇妙にも切断されて仕舞います。

 しかし、はっきり言いますが、私たちの思考の連鎖が屢々私たちのものでなくなり、そして離れた如何なる道によっても連想させ得るものも無く、最初の思考から極めて遠くにいることがあります。それは忘却です。そして殆ど何時もそれは私たちの一連の観念が大変に気まぐれに見せるものでもあります。空間の中にしろ、時間の中にしろ、所謂密接な関係による連想に関しては、完全な記憶に関する研究によってしか理解しない素早い記憶力による出来事です。私が大聖堂を考えるには、傍らにある花屋のことを考えないと考えられません。よろしい、しかし私が古い家や、町や、そこへ行く道を考えるのも同じ方法です。そして、これらの全ての地形学上の検討には、信じられない程の多くの思考を含みなす。しかし、特に連続という秩序は明らかに科学によって発見されますが、これはこれからはっきりするでしょう。確かに記憶には自動的なものがありますが、主張する程のことではありません。常に行動においても自動的なものがありますし、言葉においてもあります。これらの指摘は、観念やイマージュが銀幕上に一つの言葉がもう一つの言葉の後に現れるものとして理解される思想の構築に対して、身を構えて警戒する読者になることを目的と見做します。その思想のメカニズムは大変に子供染みていて、記憶に関する研究も証明するのを終わりにして仕舞います。

 これらの有名な連想の法則は、何も説明していないことをつけ加えて言いましょう。一個のオレンジは私に地球のことを考えさせますが、類似からは何も説明されません。何故なら、一個のオレンジは林檎とかボールとか別のオレンジに更にもっと似ているからです。そして、この事例から大変に明白なことは、所謂連想とはオレンジの皮から地球上の山々の山頂までの凸凹が現れる天文学の学習に関する素早い記憶に過ぎないことです。従ってそれは類似です。つまり本当の思想になって、ここに想像力を齎します。(完)

 


第十二章 記憶について

 

 知覚することとは、常に想像して思い描くことです。それ故に大変に単純なものでもある私たちの知覚においても、常に暗々裡と呼べる記憶があります。全ての経験が、各経験の中に集められます。木々に沿って伸びる一本の並木道を両目で知覚することは、その並木道や他の並木道を走り回ったり、木々に触れたり、その影や遠近の動きを理解することなどを思い出すことです。そして、例えば影は太陽が影響する如く、太陽の知覚は何時も間接的に多数の経験をそれ自身に含んでいるので、私たちの全ての経験は各経験に集められると私は言うのです。しかし、この指摘そのものは、ここでは暗々裡の記憶が重要であって、本来は話すための思い出ではないことが良く分かります。この並木道を申し分なく知覚するには、私がその様な散歩をしたことを考える必要は無く、まして過去のその様な時間に散歩をしようとしたことを考える必要もありません。私たちの目の前で嘗て過去を広げることなく、現在と近い将来を明らかにすることだけしか行わない記憶を、活動的な記憶と人は呼ぶことが出来るでしょう。反対に何年も長く放浪して蘇り、そして影の王国で私たちを散歩させるために、現在の好機を捉える記憶を、夢想家の記憶と人は呼ぶことが出来るでしょう。この夢想家は全く私たちを少しも放って置きません。しかし、如何なる記憶も無く、暗々裡の記憶さえも無い新しい人間は、距離を測ることも出来ず、事物の周りを数えて一周することも出来ず、結局のところ見抜くことも見ることも出来ず、私たちがやる様に聞くことも触ることも出来ないのは事実です。記憶は従ってばらばらに分けられた機能ではなく、分離出来ないものです。

 過去と未来の概念が何時か全く欠如することもあり得ません。何故なら、どんな事物も構わずに知覚の中に沢山の記憶があるのなら、この事物が他の事物の中心で思考されるか、あるいはこう言っても良いが、あらゆる方向へ伸びている無数の道の十字路となっているのも本当であるからです。この十字路は既に事物の欠如した一つの思考や、多少なりともその次の思考を仮定しています。そして、そのことは既に或る確かな方法の時間を決定しますが、それは保持すると同時に拒絶し、同一の事物であったり無かったり、あるいはもっと正確に言うと、同一の事物が欠如しているが、或る条件の時間で存在する奇妙な関係によるものです。例えば私の背後には町がありますが、三〇分の内にそこに存在することが出来ます。

 しかしながら、これでは未だ言っていることが不十分です。それは可能な時間に過ぎません。実際の時間はどんなに僅かな知覚でも現れます。というのも私が事物とか場所を知覚する時、例えば私の目をそちらへ向けながらも、そこへ到達するために辿った道を思い描いて推測するからです。その様にして私の過去の存在は、少なくとも最新の所在が常に一瞬に保存されます。そのことが無いと私が存在するのは何処か全く分からないでいるに違いありませんし、旅行から帰って目が覚めた人に似ています。私にとってはその事物以前には、他の事物が色々とあったのです。何時も空間は時間と結び付いていて、単に近かったり遠かったりしても抽象的なものの中だけでなく、私の実際の経験の中で結び付いています。位置、通路、運動、時間は実際に切り離せないものです。理解するに難しいことはありません。何処にいるのか知ることは、何処から来たのかを知ることです。それは数々の色々な道の中で、それらの事物の本来の道を見分けることです。未来は或る意味で私たちには常に現在になる、と言うまでになるに違いありません。何故なら、この町から地平線まで私を引き離すのは、可能な未来でないとしても、それは距離が明示するものであるからです。従って空間の大きさは、時間との関係によってその大きさが存在するに過ぎません。それは実際と同時に可能な時間です。その可能性は位置に化けて現在も思考されていると私は言いたいのです。その上、その前後の言葉も又、空間を限定するのは明白です。作家たちは余りにも屢々私たちの思考の秩序である時間と、事物の秩序でもある空間の秩序を分離している、としか私は強調しないからです。勿論、私たちが十分に指摘して来た様に、思考と事物は一体のものです。あるいはもっと乱暴な言い方をするなら、外部のものでしかない外部は、最早誰にとっても外部ではないに違いないのです。そこには内部の関係もなければなりませんし、それによって近いものでも遠いものでも分離出来ない世界しか生まれません。更に、これらの事物はカントの『純粋理性批判』で述べられていますし、私が判断し得る限り勘違いはありません。しかし、全てを極めて念入りに読まなければなりません。私はそのことを哲学者の初心者に言いたいと思います。(完)

 


第十三章 身体の中の痕跡について

 

 私は大変遠くにあるアミアンの大聖堂のことを考えます。再び見ている様です。私は、自分自身の裡だけを探して再建します。もしも私が知覚した事物の何らかの痕跡も持っていなかったなら、記憶のこの再建が不可能であることは明白です。そして私は、何時も見分けられるこの生きた身体を私と共に至る所へ持ち運んでいて、更に突然に変わることに耐えられないので、蝋に指輪の痕跡を付けて残す様に私の知覚から一種の痕跡を保存して、私の肉体の或る部分にあると推測するのは自然なことです。この隠喩は古代の作家たちには十分でした。プラトンという人は身体の状態と、感覚とか思考の運動とを良く見分けるのを学んでいましたので、確かにこの隠喩に騙され易い人ではありませんでした。それ以来、身体の構造に関するより正確な認識によって、この隠喩が真実の顔をしたがりました。それでもそれは、哲学者が注意しなければならない点の一つです。第一に、今まで述べたことを良く把握したなら、彼は素朴な快楽主義者の些細なイマージュに似て、数々の感覚から入って脳の柔らかくて形の美しい部分に刻まれるものは、何も受け入れたくないでしょう。その上で成すべき真の考察は、神経に沿って行って脳の中で起きることを間違って認識することではありません。物質環境や事実そのものの様に分割出来ないで全てのものの様に思考されて、それらの関係と距離とお互いの外の部分と共に、その他の知覚の中央にある感覚です。そして、それらのイマージュの裡で脳は世界の一部でしかなく、全てを含むことは出来ません。換言すると、脳の中には脳の各部分があるに過ぎません。これらの各部分の形と運動を自ら記すことが出来るだけです。その上、これらの形と運動は完全に思想家から無視されていて、その時の思想家は自分の印象と記憶によって世界を思考するのです。私にとって思考は単独であることが私の思想です。その外のものは事物です。要するに幾らでも脳が大きくなると、何時も脳しか考えられなくなるでしょうし、世界の他の数々のことは少しも考えないでしょう。この種の注意から精神は結局のところ作品に現れます。そして作品に混入されて、古代の神々の様に組織者となり、世界の創造主になって現れます。

 これらの諸原理は真の哲学者たちによって十分に知られています。しかし、彼らは記憶を論じながら、記憶を余りに忘れていることに私は気付きました。従って身体に保存され得るもの、如何なる種類の痕跡であるのか、如何なる効果を伴うのかを述べることにしましょう。生きている身体は先ずその形と取り巻かれているものに抵抗することで動くという特徴があります。その上、生きている身体は動くことを学びます。その点で恐らく二つのものを見分けなければなりません。一つは、訓練によって高揚した筋肉への栄養であり、屢々行われる運動をより一層容易になる様にそれと関係した筋肉の形を変えることです。これらは余り注意されていませんが、ここで真の痕跡になります。もう一つは、既に推測出来まるもので、目には見えませんが一連の印象で何よりもより精力的に強い筋肉になる様に、神経と中枢のもので結局は脳によって作られるより一層容易な道です。以上は生きている身体が行えることの全てであり、保存することが出来るものの全てです。それは職人たちや体操教師や音楽家の処で見られる無意識的な熟練の技ですし、お分かりの様に大したものでもあります。更にそれは意識的に注意力を働かせて信じられない位に、もっと良く柔軟になって変えることになりますが、それはこれから述べることになるでしょう。そして、こう言っても良いのですが、そこにはまさに記憶があります。思考ではなく、一般的には習慣と呼ばれているものです。そこでは本来記憶と呼ばれていたり、もっと正確でより一層良く整理された時には、思い出と呼ばれている実体の無い消えている対象に関しての認識を扱っているのですから、もっと詳しく述べる必要はありません。身体の中に残されたそれらの痕跡は、それらをやり直そうとする行為の痕跡以外のものにはなり得ないと単に言うことにしましょう。そして、言葉はこの種の一つの行為であり、習慣によって管理されてもいます。思い出を絶えず保持する真実の対象を耳にも提供していることに注意しましょう。しかし今は、時間と連続の感覚をきちんと述べることにある、本当の困難に取り組まなければなりません。(完)

                

 


第十四章 連続について

 

 連続の本当の秩序は、例え行為の中で変えられるとしても、理論的には常に判断力によって再び発見される場合が幾らでもあります。これらに関連した最も単純で非常にはっきりした事例は、整数です。そして、この種の認識は思い出を整理したりはっきりさせる助けにならないと言ってはなりません。何故なら、少しも学識が無い人々でも、思い出をはっきりさせるのに日付が役立つからです。

 私たちが所有する連続と認識も又、良く見分けなければなりません。大変にはっきりしている思い出さえも、機械的に秩序立って来る訳でないのは明白です。もしも私が三通の電報を次々に受け取って、内容的にも時間的関係もばらばらであったならば、それらの電報にどんな順番があるのか私には少しも分かりません。それ故に、その場合には数字の番号とか時間の表示を取り入れます。このことで分かるのは、連続の順番を定めるために一連の数字を使用することは一般的であって、余り事物を見分けないことです。私は限定された連続を、どんな連続に関しても、型とか模範とかに見做す様になるに違いありません。恐らくこの考えは、経験の理論に関係したものが検証された時に、明確なものを何か理解するでしょう。いずれにせよ、事実として人々は彼らの間や彼ら自身の内部で、カレンダーの一連の数字を所有していなかったとしても、思い出の秩序について際限無く議論することでしょう。

 事物の中の連続と、私たちのための連続も同様に区別しなければなりません。大砲の音は発砲時の閃光の後に続く訳ではありませんが、私が遠くにいたならば、閃光の後に続いて聞こえます。記憶を扱う者にとって、少なくとも事物における連続の秩序には原則は無いと言わなければなりません。事物の秩序は先ず私たちの知覚に一種の秩序を課します。私が従うための道を示す時、共存する事物の秩序と知覚で良く決定された連続を同時に私は述べます。「私は先ず小屋を発見します。続いて四つ角と境界標を発見し、次に窪んだ道を発見します」。実を言うと、或る場所から他の場所へ行くには、一本の道だけではありません。世界を走り回るには沢山の方法があります。もしもそれがはっきりと決められた計画に対してでなければ、共存する事物の間には前にも後にも何もありません。しかし、走り回ることや運動の感覚が与えられると、共存する事物の秩序と同時に、連続の秩序が定まる様になります。それから私が旅の思い出を整理した時、リヨンがパリとマルセイユの間にあることを知っているのは無駄ではありません。しかしながら、連続の秩序を確定することは、連続している線に沿って大変はっきりした数々の点をその上に付けて、単純化された運動として正確にさせるだけです。この秩序は数字の秩序に似ていますが、連続は二つの方向が可能であり、任意の一点から出発する処が違っています。しかし、一本の線に沿ったこの種の旅行を研究して下さい。数々の点の連続が、どんなものでも構わずに逆にすることは出来ないことが、あなたはお分かりになるでしょう。或る一点から他の一点に達する前には、常に或る一点に達していなければなりません。そして私の考えによれば、この種の抽象的な旅行は、あらゆる旅行の典型であり規範でもあります。人は記憶のこの研究において理解する何らかの側面から、常に熟考された思想を作品に知覚しますが、それらの形式や適切な記号化に利用します。そして、何故人がそれに驚くのか私には分かりません。

 もう一つの連続には世界の事件のものがあります。ここでは過去の期間が消えています。最早決して取り戻せません。エドワード七世(1)は一度しか王位に就きませんでしたし、死ぬのも一度だけです。私は或る試験を一度しか受けませんでした。大砲の一撃は鐘楼の残ったものを地面へ放り投げました。鐘楼の後は廃墟がやって来ます。私は崩壊前にあった時の鐘楼を決して二度と見ないでしょう。色々な事件を知って再構築するには、恐らく長い経験と、他人からの学習と、更に補足する観念が必要です。誰もが思い出すとなるとこの仕事を行いますし、間違っていても正しくても、可能と不可能を引き合いに出しながら自分自身と話し合うのは明らかです。ここでは更に単純化された痕跡がこれらの実験室での経験によって与えられますが、最初の状態での事物に置き戻しながら、何度でも再び始めることが出来るのです。因果関係の観念とはここでは連続の真実の様に、連続の中で示されるものであるということです。誰もが次の様に言う様になります。「それはカルノー議長の死ぬ前のことでした。何故なら私はその日に彼を見たからです」。あるいは「それは大学入試資格試験の前でした。何故なら当時はリセで勉強していたからです」。日付を確かめる術は、日付の曖昧な事件を定められていてはっきりと良く分かっている連続に結び付けることにあります。その連続とは最終的には天文学上の出来事としてのものです。この種の手助けが無いと私たちは生活の最も重要な出来事について迷うばかりで、良薬も無いだろうと私は思います。予想してみましょう。私たちが連続を経験の中で知覚するのは、連続という理論上の観念によるものです。つまり原因から結果への関係によるものです。あるいは私たちの思い出は、無意識に保存されていて、私たちのための事物の様に常に同一の秩序の中で数珠つなぎになって次々に戻って来ると主張しなければなりませんが、けっしてそんなことはありません。実際には私たちの思い出は気紛れです。それらの本当の秩序は、真実であろうと誤りであろうと観念によって絶えず思い出されるに違いなく、多少なりとも進歩的な科学に応えているのです。いずれにせよ科学には応えているのです。

 自動作用は発動する記憶であり、絶えず利用されている一連の補助的なものを私たちに良く提供していると理解して下さい。しかし、私たちが確信しているものの数は少ししかありません。その様なものには、数字の順序、一週間の日々、月々、アルファベットの文字、プリズムの色、音階、一連の調べ、歴史の主な出来事の順序があります。私たちがそれらの順序を定めて、間違えないと見做して再構成する苦しみには、私たちが知覚した秩序において過去の事件を巻き戻す、自然に生まれた儘の全く直感的な記憶に欠けていることを良く分からせてくれます。

 要するに、私たちにとっての連続は真の連続によって決定されます。真の連続は、原因の観念による連続の論理的観念でしかないと言えます。それらの重要な観念は、この章では明らかにすることは出来ません。でも、紹介して述べなければならなかったのです。(完)

 

(1)エドワード七世(一八四一~一九一〇)は、英国とアイルランドの王(一九〇一~一〇)で六〇歳に即位した。フランス好みで仏・英政治協定(一九〇四)を成立させたり、ドイツ包囲政策を採用したりした。

 


第十五章 感情の持続

 

 今まで述べて来たことが目指した明らかな結論とは、時間という本能的な認識が何時も規則正しい連続の何らかの観念と、教育上の何らかの救済を仮定していることです。しかし誰もが毎日体験しているこの認識以外に、私たちは自分自身の時間で、あるいはもっと正確に言うと私たちの持続とか老化の、より一層親密な経験を持っていないかどうか自問しなければなりません。この検討は純粋心理学とは何か、心理学者たちと主知主義者と呼ばれている者たちとの討議に関して何らかの観念を与えることが出来ます。

 私はそれ故に外部の対象を考慮に入れたくありませんし、少なくとも私が自分自身と共に沈思黙考して体験するものを知りたいと思います。そして、この夢想的な思考の中で私は又、きちんとして日付の書かれた思い出、つまり対象を形づくったものは何でも消したいと思います。私は感じているものを考えます。それが何処から来て何を意味しているのか知りたくないのです。短い時間でそこに達することを人は願うことが出来ます。その時は何でも混じっていて、対象には薔薇の匂いも無いし色彩もありません。私の裡には、私にとっては、私のためには、印象しかないのです。従って私は唯一の主体の前、又は所謂純粋に主観的なものの中にいるでしょう。少なくとも私はそれに近いものになります。そして私は最早、対象の変化や運動のことは考えません。まして天体や掛時計のことは考えませんが、それでも私には時間に対する直接的な感情を持っている様です。先ずは、もしも私の印象が変われば、最初の印象は全体が全て過去の性格をとって、そして直ぐに突然やって来た印象によって過去の中で、いわば拒絶されます。しかし、私が感じているものを考えれば、まさに如何なる変化も無く、この反省だけが他の全てのものを少しは明らかにします。そして他の全てのものと共に新しい現在の時間を形づくります。反省の無いもう一つの状況は直ぐに過去の中へ移行します。前方から後方へ移行する瞬間的時間のこの鎖は、直ぐに一種の闇夜に陥ります。

 もしも私がこの経験をしなかったなら、時間のことを私に話しても無駄であるとも言って仕舞いましょう。というのも、運動は決して時間のものではないからです。私の腕時計の針は場所を変えて運動していますが、時間を描いているのではありません。時間に固有の性格は、取返しがつかない変化です。過ぎた時間は最早現在であることは出来ません。それと同じ印象が戻って来ても、私はそれを既に感じた者です。どんな春も、既に他の色々な春を体験した人にも歓迎しにやって来ます。その意味ではどんな意識も、あらゆる生き物が年を取るのを見る様に、年を取るのは仕方ありません。その様にして本当の時間の運動は、それ故に私たちにイマージュしか与えません。そして、この時間は私の裡にしかありません。私が身体を想像すると、それらの部分が全て最初の状態に戻って来るのが分かります。そして何度でもその様に戻るのが分かります。従って何も過ぎ去ったりしません。しかし私にとっての証拠は、私が持っている二番目の印象が、最初の印象の代わりではなくて、つけ加えられているのです。私は蓄積するから年を取るのです。

 多くのことを精製させるこれらの指摘は、時間に関する思考の完全な描写に貢献します。描写の材料になります。そして時計の針によって秒が走り回る様に、時間が私たちの裡に並置するものではないことを読者に知らせるのは実際に正しいのです。しかし私が描きたかった純粋な感情による生活は眠りに向かうこと、つまり無意識に向かうことも又理解しなければなりません。私たちはそれを把握出来ません。空間と時間から引き出された隠喩、つまり対象によって、それらの形に基づいて描写することしか出来ません。従って対象は、その明瞭な部分と変化と共に、意識の統一性がなければ、決して私たちの前に広がって行かない様に見えます。何故なら、もう一つの事物は事物でしかなく、この私が全てであるからです。それに反して主体の統一性は、対象の知覚がなければ決して現れません。カントの最も一貫していて困難な思索が齎されたのもそこです。そして人が大変に心を打った言葉によって、自分自身のことしか思い出さないのも真実の様に私には見えます。しかし事物しか思い出さないのも真実の様に見えます。事物の真実は継続した内面の感情に唯一の方向を与えながら、運動のイマージュと全く同一の方法は、私が腕を伸ばす時に感じるものに唯一の方向を与えます。結局のところ私が意識する限り、私とは常に理解力のことです。そのことは少しは余りに便利ですが、大変に子供っぽい分割を取り除くことに向かうしかありません。それらに従って私たちは、例えば時々思考することなく感じることが出来ますし、時々感じることなく思考することが出来ます。分割すること、合体すること、それを同時に行うことは、哲学的探究の主要なる困難です。(完)

 


第十六章 時間について

 

 先ずこの表題を批判し、時間は決して一つでなく、数々の時間があると言うなら、何らかの哲学的精神が明らかにされると思われます。一人ひとりにとっての内面の時間と、対象の中にもその様なものとしての一人ひとりの時間しかないことを理解して下さい。これらの考察は、考えを始めるために、そして先ず時間が太陽とか時計とか星々の様に規則的な運動から成っているという酷い誤りから免れるためには悪いものではありません。だが、そこまでにして置くことだけしか出来ません。私は、この時間という言葉の元に思考するものを述べなければなりません。そして私たちは、全ての人々や全ての事物に共通した唯一の時間を思考します。例えば光よりも速いという観察者の或る運動に従って、変わり易い局部的時間を望む現代の物理学者たちの中でのより一層正確な逆説は、もっと正確に言うと、唯一の時間という概念に属するものになっています。何故なら、それは結局私たちには二つの行動に同一の時間を認める絶対的な方法は無いからです。しかし、もしも私たちが全てのものが同時性の中にあるとしか分からなかったとしても、そのことはまさに意味の無いものであるでしょう。

 腕時計の秒針が文字盤の上を進むのと同時に、一秒ごとに何らかの事物が至る所を通過するのですが、それは前でも後でもありません。私が同時性と呼ぶ二つの変化の関係を、経験の中で私は最悪の場合には決して発見することが出来ません。しかし私の中の一つの変化が、至る所で他の色々な変化や出来事を生まないのを同時に考えることしか私は出来ません。同様に、他のものの前にあることと後ろにあることが、私においては同時にあると考えることしか出来ません。私は、遠くの星雲が凝縮するとか稀薄になったりするのと同時に生きています。星雲にも私にも、共通している星雲にとっての一瞬間があります。もっと正確に言うと、あらゆる瞬間が我々の両者にとっても全ての事物にとっても共通しています。同時に唯一の時に、要するに時間の中で全ての事物は生成します。時間が一方のために中断するとか停止するとか、他方のために継続しているとか考え様とするのは不条理です。これはカントが、二つの異なる時間は必然的に連続するものであるとの、この種の公理で説明したものです。従って二つの空間も三つの空間も、唯一の空間の部分部分であって、共存した部分であるので連続したものです。 あらゆる方法でこの思想を点検して再発見して下さい。そして、この哲学的方法もここで把握して下さい。それは自分に代わる他のものを考察しない様に十分に注意して、私が一つの概念の中で思考するものを知るために考えることです。それはまさに、或る時間は他の時間よりも速くなったり遅くなったりして、他の時間よりも速く進むことも意味する全ての人々に起こることですが、彼らは運動のことを言っているに違いなく、時間のことではないのです。何故なら運動には速度があるからです。あるいは寧ろ色々な運動は速度で比較出来るのですが、同一の時間の中にあるからです。しかし、時間の速度とは良く考えてみると、決して許せるものではありません。何故なら二つの時間の色々な速度を比較するためには、もう一つの時間が必要になるからです。これらの二つの時間とは、数々の時計であることを言っていますが、真の時間は唯一の時間であり、そこで全ての運動が比較され得ることになるからです。

 或る意味で時間についての思考は、哲学者の本当の試金石であると言えます。何故なら、時間には決してイマージュが無く、感知出来る直観も無いからです。従って余りに重大な誤りですが、全く時間に尊敬が欠けていなければならないか、同時とか前とか後とかいう純粋な諸関係だけで把握しなければなりません。空間も同じ種類の軽蔑の機会与えていると言わなければなりません。というのも、空間のイマージュも又、同様に決して無いからです。本当の直線には部分も決してありませんし、自ら描くことも決してありません。空間には大きさも形もありません。空間によって大きさと形を持つのは事物です。そして、ポワンカレの有名は逆説がある所以です。「幾何学者は、チョークで幾何学を行う様に空間で幾何学を行う」。彼が言いたいのは感知できる空間です。大空には大きく広がった青空がある様に純化された空間があります。そして、この想像上の空間は、違いの無い運動でも時間で無いのと同様に、空間ではありません。この運動は、他の全ての運動と同様に、時間の中で行われます。この運動は、空間と時間の二つの変化の同時性を最も良く定めるために、単に便利なだけです。

 時間は決して否定しません。始めも終わりもありません。どんな時間も時間の連続です。時間は持続していて分割出来ません。運動によって時間を表す安易なイマージュから解放されることでしか、まさに明白にならない命題がそこにあります。例えば、時間が分割出来ない瞬間から生まれるかどうか自問することは、運動を時間の代わりにすることになります。それは既に運動のイマージュになっているのです。というのも運動は、偶然の出来事の連続と同様に理解力にとっては別のものであるからです。更にそれは恐らく、空疎な弁証法が永遠を捏造して喜ばれる時間を具体化したためです。ここでもう一度、観念と事物とを見分けなければなりませんが、両者を分離させることではありません。私たちはその様に思考しているのです。そして、私たちが普通の判断力で思考するものを正確に認識する重要さは些細なことではありません。まさしく時間が空間と同じ様に一般的な経験の一つの形式であると結論付けましょう。これらの真実は新しいものではありません。しかし、それらを正しく理解することは常に新しいことなのです。(完)

 


第十七章 主観と客観

 

 これらの言葉は些か不正確ですが、何となく習慣的に使われています。そして、主観と客観という二つの要素の認識を、少なくとも自我のものである形式も関係も無くこれらの印象を、そして結局は秩序立って表された真実の世界全体で対象を、別な言葉で如何に説明するのでしょうか。もしもその考察が結局のところ、ここで弁証法的誤りから身を守る必要が無いとするなら、それは言葉が原因であって、読者もご存知の様に、それは私たちの夢想や夢の骨格を作っていると私が理解すれば十分です。私が語りたいのは、一人ひとりの裡に時間を繰り広げることを思いながらも、自分だけの思い出や隠された思想の使者を用心すること無く論じている多くの哲学者たちの内面の生活です。しかし、お分かりになった様に、それは何らかのイマージュで飾られたり、あるいは寧ろ何らかの実際の事物で飾られて通りがかりに理解出来ても勘違いして、つまり間違って他のものに結び付けた話の展開に過ぎません。それらは常に不完全な知覚であると言って、私たちが言わねばならないことは全て言った夢のことを考えて下さい。何故なら、私の両瞼の上の太陽光線は、本当の世界に目覚める前に私に幻想的光景とか火事とか閃光を想像させる様にさせて、私は直ぐに言葉を書いて完全なものにして私の物語はその後で完成する様になるからです。夢を語りながら、もう一度夢を作り上げているのは明白です。いずれにせよ、その様にして内面の生活は発展して何時も対象を表した印象を作り出しますが、完全な知覚にまで行くことはありません。あるいはその時は目覚めることになります。目覚めることとは、両目と両手の動きで事物の真理を正確に探求することです。私たちの夢は、探求の欠如である知覚の欠如と、批判力による事物の本当の存在の欠如との間の通路でしかありません。それらの怠惰なエッセイが夢なのです。そして、情熱による正確な認識を目指してこのことを良く理解することが極めて重要です。

 又、この内面の生活が如何にして作られるのかも良く見て下さい。幽霊が本物と思っている限り、私は自己の外部にいると考えます。事物の秩序や本当の対象を出現させているのと同じ批判力による以外に、私の裡に入って来ません。事物の真理を推測する、測定された一般的な時間の考えによるのでないとしたら、私が眠ったり夢を見たりしたことを如何にして知るのでしょうか。すると私の思い出は実際の整理された対象になります。それは私がこの世で何時も考えているものであり、過去というよりも寧ろ離れて遠くにあるものです。私が見た町のことを思い出す時、私はその町が他の人々にも存在していると良く考えます。そして、もしも私がその町は破壊されているのを知ったなら、その廃墟が存在していることを考えますし、そこに一つ一つの石とか少なくとも一つ一つの石の粉塵を再び見ることも又考えます。何も失うことの無いこの観念は、ご存知の様に厳格な思想には大変に重要ですが、既に不勉強な人の思い出を支えるものにもなっているのです。時間の記憶が、場所の記憶に結び付けられることを幾ら言っても少な過ぎることはないでしょう。私たちの歴史とは、現実のこの世の旅です。そして私たちの変化は、外部の変化や対象の変化の中で思考されます。そこでは少なくとも位置を変えながら全てのものが失わずにおります。私とは、真の知覚による唯一の連続による自己です。そこでは思い出の原理があり、他のものも引っ掛かっています。最も洗練された人々が先ず事物とか、それらの破片を探しながら自己の昔の感情を求めるのは当然のことです。私はこの世を通して自己を思考するだけです。それは、自意識が外部の事物の存在を十分に証明していると言って、カントが大変曖昧な定理の中で述べていたことです。カントが説明したいのは、いわば主観的な外観による生活から実際の対象へ飛躍することは決してありませんが、反対にそれらの外観が現れるのは実際の対象によるしかないということです。例えば、実際の立方体を見るには透視図によって見るしかないのは極めて明白です。私がそれを見るための方法は、常に立方体があるものとして思考して推測するのであって、見ている儘ではありません。他の処と同様にここでも私は、哲学的考察を用いなければならない難しい点を示すのは止めることにします。対象の無い思想は、規律の無い思想で単にお喋りの様なものです。そして判断力の無い経験も又、事物を把握出来ない様なものとして、この二つの真理は科学の歴史が十分に証明していますが、一般には人に教えることがなくてびっくりさせる様になることを良く記憶に留めて置きましょう。(完)