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台湾で神社が多数造営されたわけ

 台湾で神社が多数造営されたわけ

 

金子展也

 1895417日、日清講和条約が調印された。台湾および澎湖島の日本への割譲が決定したことにより、日本の地にしか祭られなかった神道の神々が新しく日本の領土となった台湾へ、ヒト・モノ・カネの移動に伴い、海を渡り、台湾の地に祭られた。

 

6年後の19011027日、台湾の総鎮守として台湾神社(44年に台湾神宮に改称)が鎮座した。そして、開拓の神々である大国魂命(おおくにたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)および少彦名命(すくなひこなのみこと)と北白川宮能久親王(きたしらかわ・よしひさしんのう)が祭神として祭られた。

 

皇族として海外での逝去が台湾での神社創建運動のきっかけに

 

1895531日、能久親王は日本の台湾領有に伴い、近衛師団を率いて澳底(おうてい)に上陸し、基隆から台南まで武装集団との抗争を繰り広げた。近衛師団を悩ませたのは、これまで体験したことがない、台湾特有の湿気をもった暑さと非衛生的な環境であった。能久親王も台湾南部の嘉義を越えた辺りでマラリアに感染し、高熱と下痢とに闘いながら、「平定の戦い」の最終地点である台南に到着するが、1028日に逝去してしまう。皇族として初めて日本以外で逝去したことで、国内では能久親王を祭る神社創建運動が高まる。その後、「別格官幣社を台湾に建設する建議案」が19009月に衆議院で可決し、同時に内務省告示81号が告示され、台湾神社は植民地で初めての官幣大社として創建されることに決まった。能久親王の薨去(こうきょ)した1028日を例祭日として、011027日に鎮座した。

 

台湾の地方都市にも広がる神社の造営

 

台湾神社が鎮座すると、主だった地域で一斉に神社の造営が始まった。台湾統治上の必要性は迅速な「日本化」の浸透であった。日本化とは天皇を中心とした天皇主権国家であり、その中に占める神道の神々を祭る神社は絶対的な権力の象徴でもあった。

 

台湾の行政地区の中心となった地方都市には県社規模の神社が造営され、台湾神社の祭神を祭り、それぞれ県社として列格されていった。県社への列格年代順で見ると、開山神社(1897年)、台中神社(1913年)、嘉義神社(17年)、新竹神社(20年)、花蓮港神社(21年)、台東神社(24年)、阿緱神社(26年)、宜蘭神社(27年)、高雄神社(32年)、基隆神社(36年)、そして、澎湖神社(38年)となる。

 

台湾が日本となった初期では、神社造営と各種国家記念事業である御大典(大正天皇即位の礼、15年)、皇太子行啓23年)および御大典(昭和天皇即位の礼、28年)は大いに関係があり、これらの記念事業をその神社造営の推進力とした。その後、319月に満州事変が発生。323月には満州国が樹立され、333月には国際連盟から脱退したことにより、日本を取巻く情勢が急変した。日本は国際情勢の緊迫化を伴う国家非常事態体制下にあった。この頃は台湾における神社の重要性が大きく変化する節目でもあった。国民に対して国威発揚、国民精神の高揚などが叫ばれ始め、国家神道に基づき、国民精神の育成が急務となり、神職会(神社本庁の前身)から神宮(伊勢神宮)大麻が主だった神社経由で本格的に頒布されていった。この過程で、地域の土地守護神として34年末、北港神社(台南州北港郡)が社格をもつ「神社」として造営され、台湾での神社造営ラッシュの先陣を切った。

 

 

 

神社規定の整備

19349月に台湾総督府文教局から「神社建設要項ニ関スル件」として、初めて「神社」に関する規定が提示された。神社には「神社」と規定される要件があった。

1)必要条件として、境内入口に鳥居があり、社殿(本殿、拝殿)まで参道が通じ、参道のそばには手水(ちょうず)舎、社務所などがある。

2)敷地45000坪(13.3平方メートル)以上、本殿 5坪程度、拝殿 20坪程度とされた。

3)「神社」であるためには、崇敬者または氏子は50人以上とし、その中の総代が神社に関する維持のための一切の事務を行う義務を有する。

 

つまり、この要件に当てはまるのが、台湾総督府文教局社会課が発行した『台湾に於ける神社及宗教』(433月発行)であり、また、田村晴胤(たむら・はるたね)による『神の国日本』(452月発行)に掲載されている68社の神社であった。これらは、祈年祭・新嘗祭に天皇や国から奉幣(神饌=しんせん=以外で神に奉献すること)や幣帛(へいはく)料(金銭での奉献)を受ける官幣社(2社)や国弊社(3社)を筆頭に、県社(8社)、郷社(17社)、無格社(36社)、そして、台湾護国神社と建功神社を含んだ。なお、終戦間近に3社が無格社から郷社へ列格され、最終的に郷社は20社、無格社は33社となった

 

 

                        往時の台湾神社(提供:水町史郎)


神社造営にブレーキをかけた戦争


19367月に総督府より「民風作興運動」が宣言され、敬神崇祖思想の普及、皇祖尊崇、そして、台湾人に対しては国語(日本語)普及および常用が求められた。その1年後の377月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争へと発展する。そして、同年9月には第一次近衛内閣による「国民精神総動員運動」が提唱された。このような状況下、海軍軍人の小林躋造(こばやし・せいぞう)が第17代総督に就任すると、これまでの「民風作興運動」をさらに発展させた「皇民化運動」が提唱され、改めて、地方の行政単位である街や庄にまで神社を造営しようとする「一街庄一社」政策が叫び出された。この方策として神社参拝、大麻奉斎、そして、台湾人の家庭では正庁改善(祖先位牌や道教などの神々を祭る祭壇に代わり、大麻を祭った日本式神棚への改善)や寺廟整理(寺廟の取り壊しや統合)が展開されていった。


盧溝橋事件に端を発した日中戦争に続き、4112月に日本は太平洋戦争に突入する。この頃になると既に地方財政の疲弊が現れ始め、神社敷地の買収費を含めた神社造営費はますます巨額となった。さらに神職の確保にも支障を来したため、新たな神社造営に急ブレーキがかかった。34年に北港神社が造営されて以来、終戦までの10年間に、わずか32社の神社が造営されたにすぎない。「一街庄一社」政策は掛け声に終わり、現実的な「一郡一社」程度で終わった。


一方で、新竹神社、台中神社や嘉義神社の県社から国弊小社への列格、また、数多くの無格社を郷社へ列格(3710月~454月までの間に21社)することにより、神社の尊厳さを高めた。さらに、神社とは別に、その神社の管理に属した摂末社(せつまつしゃ)の造営や遥拝所(ようはいしょ)により、国家神道の浸透を図った。


                [2018.06.16]NIPPON.COMより転載


 


 金子展也(かねこ のぶや)

  1950年北海道生まれ。小樽商科大学商学部卒業。卒業後日立ハイテクノロシーズで勤務。2001年より2006年まで、台湾に駐在する。現在、神奈川大学非文字史料研究センター研究協力者として海外神社の調査、研究及び一般財団法人台湾協会評議員。著書に『台湾旧神社故地の旅案内―台湾を護った神々』(神社新報社、2015年)『台湾に渡った日本の神々』(潮書書房光人新社、2018年)


 


 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


台湾の“素顔”に迫る

 台湾の“素顔”に迫る

 

「日本が最も好き」が56%、圧倒的親日・台湾の“素顔”に迫る…海外26カ国の記者はどう見たか

              出典 産経WEST 2017.5.9

大勢の若者でにぎわう台中市内の夜市

   親日家が多く、欧米では「フォルモサ(麗しき島)」の愛称で親しまれてきた台湾。その魅力を世界に発信しようと、台湾の外交部(外務省に相当)が4月6~11日に海外メディア向けに実施した「プレスツアー」に参加した。行ってみると、日本からの参加者は記者ともう1人の2人だけで、ほかの参加者は北米や南米、北欧、アフリカなど26カ国の記者たち。独特の文化と親切な人々、日本統治時代の面影を残す街並みに、海外の記者たちは何を感じたのか。彼らが語る“台湾像”から、日台の関係や、「国のかたち」について考えた。(浜川太一)

 九州と同じ面積に2300万人

  大阪から空路で約3時間。首都にあたる台北の郊外にある台湾桃園国際空港に降り立つと、まだ肌寒かった日本とは打って変わり、湿気を含んだ熱気が迫ってきた。

  台湾の面積は、九州とほぼ同じ約3万6千平方キロメートル。そこに漢民族(95%以上)や16の先住民族(2%)から成る2351万人が暮らしている。

  今回、6日間の日程で台北・台中を巡るプレスツアーに参加したのは、各国の新聞・通信・雑誌社で働く記者や、フリーランスのライターら計28人。外交部職員4人の先導で名所や各種博物館、行政機関を視察し、外交政策のレクチャーを受けた。「アジア訪問自体が初めて」という参加者も多かったが、各国の記者は台湾のどこに引かれたのだろうか。

 「グルメや雑貨、全てがそろう『夜市』は最高だね。ファストフードばかりでショッピングモールが主流の米国とは大違いだよ」

  米国テキサス州のライフスタイル誌「イエローマガジン」の記者マット・シムスさん(54)は、台湾各地で毎晩開かれる「夜市」をベストスポットに挙げた。

  台湾の食文化と人々の熱気を肌で感じられる夜市は、台湾観光の目玉として人気が高い。マットさん以外にも、夜市や台湾の食に「一番引かれた」と話す記者が多かった。

 中欧スロバキアから参加した「Dennik N」紙の女性記者ジャナ・ネーメットさん(29)が「台湾人の物作りの丁寧さと、勤勉さを感じる」として挙げたのは、「張連昌サクソフォン博物館」(台中市)。西洋のイメージが強いサックスだが、実は生産数は台湾が世界一。世界シェアは6割を超えるといい、きらびやかなサックスが一堂に並ぶ同館では、その魅力を余すことなく味わえた。

  インドネシアの女性紀行ライター、トリニティさん(44)が最も印象的だったというのは「清潔な公衆トイレ」。「台湾人はとても清潔好きね。街中もきれいで、日本とよく似ているわ」と話した。

 

「台湾は日本の過去を否定しない」

  台湾人が最も好きな国は日本-。昨年、日本の対台湾窓口機関・交流協会(今年1月に日本台湾交流協会に改称)が発表した世論調査では、日本を「最も好きな国」と答えた台湾人の割合は、過去最高の56%に上り、2位以下の中国(6%)▽米国(5%)▽シンガポール(2%)に大差をつけた。

 台湾は1895~1945年の50年間、日本統治時代を経験した。この間に日本が整備した教育制度や各種インフラが、台湾の近代化を後押ししたとして評価する台湾人は多い。 

 ツアー4日目に訪れた「台中刑務所演武場」は、日本時代の1937年に完成。当時の刑務所職員が体を鍛えるために建てられた施設で、台中市は2004年に歴史建築物として指定登録。その後も修復を重ね、今も地元の子供や学生たちに、剣道や柔道の練習で使われている。

  南米チリの最大紙「エル・メルクリオ」の女性記者モントセラト・サンチェスさん(26)は、「台湾人は日本の過去を否定していない。彼らは日本時代の記憶を消し去るのではなく、むしろ救い出そうとしているようだ」と話す。 

 実際に近年でも、日本時代の家屋を改装した喫茶店やレストランが相次いで開店しているといい、外交部職員は「若者の間でも日本の人気は高い。親日の若者を指す『哈日族(ハーリーズー)』という言葉がありますよ」と教えてくれた。

 「台湾を国と認めないのは間違っている」  

 中国と主権をめぐる係争を抱え、国際社会の大半では正式な国家として認められていない台湾。今回のツアー参加者の中には、台湾を正式な国家として承認している国の記者もいた。

  週刊紙「ザ・リポーター」の記者、アレクシス・ミランさん(27)の母国ベリーズは、「カリブの宝石」と呼ばれる中南米の国。1981年に英国から独立し、89年から台湾と外交関係を樹立している。

 現在、台湾を正式な国家として承認しているのは、ベリーズを含む21カ国。「台湾は中国の一部」とする中国の主張(「一つの中国」の原則)から、日本など主要国は、台湾と外交関係を結んでいない。

  アレクシスさんは、台湾をめぐる複雑な政治環境について「隣国グアテマラと国境問題を抱える母国と、状況がとても似ている」と指摘。「経済・技術支援を通じてベリーズの独立を助けてくれた台湾は、ベリーズにとって偉大な友人。次は、ベリーズが台湾の独立と主権のために支える番だ」と力を込めた。

  同様に、台湾を国家として承認しているカリブの島国セントクリストファー・ネビスの国家情報サービス局長、レスロイ・ウィリアムズさん(46)は、「台湾を国と認めないのは間違っている。われわれは国際社会に対し、台湾をメンバーの一員に迎えるよう、請願し続ける」と話した。

 中国大陸との関係、8割が「現状維持」支持

  国とは何か-。ツアーの参加中、各国の記者に話を聞きながら、何度も頭をよぎったのがこんな問いだ。 

 台湾は、国際法の国家成立条件である「領土」「国民」「主権」をすべて満たしていながら、第4の要件に挙げられる「国際承認」を一部しか受けていない。台湾自身が主体的に解決することのできない難題だ。 

 台湾の通信社「中央通信社」は4月21日、与党・民進党系のシンクタンクが実施した最新の世論調査結果を報じた。これによると、「台湾を主権独立国家と考えるか」という質問に、74・5%の台湾人が「そう思う」と回答した一方、中国大陸との関係については、「現状維持を支持する」が79・9%に上ったという。

 数字が示す人々の矛盾した心境から、台湾が置かれている特殊な政治状況が、改めて浮かび上がる。

 インドの日刊英字紙「ザ・ヒンドゥー」の女性記者、キールタナ・ラジさん(31)は、「世界中で領土争いが横行し、不公平な状況が生じている中で、台湾は、その存在感を維持するため、政治的、経済的に努力し続けてきたのだと思う」と話した。 

 韓国紙「釜山日報」の女性記者で、友好関係を結ぶ「西日本新聞」(福岡市)で勤務した経験がある金銀英さん(51)は、「国は国、人は人。国同士の外交は大事だけど、人に関しては、今は国民じゃなくて、世界市民という視点が大事」と話した。 

「矛盾のなかで生きている」

  1994年に刊行された司馬遼太郎の著書『台湾紀行』(朝日新聞出版)は、日本人の台湾観の形成に、大きな影響を与えたといわれている。 

 司馬はその中で、複雑な政治環境に置かれている台湾を、「矛盾が幾重にもかさなっている島」と表現していた。 

 「よく考えてみれば、この宇宙も地上もわれわれ生命も、すべて矛盾のなかで生きている。ものは変化する。矛盾が統合し、またあたらしい矛盾を持って統合へ動いてゆく」

 ツアー中、各国の記者が口をそろえたのは、「優しくて、謙虚で、笑顔が絶えない」台湾の人々の姿だった。「国とは何か」と文字で表現する方法を追究するまでもなく、そこには多彩な文化に囲まれて、矛盾とともに美しく暮らしている、台湾の人々の姿があった。

 

 

 

 


日本人新郎が体験した台湾のびっくり結婚顛末記

 日本人新郎が体験した台湾のびっくり結婚顛末記

 

           大洞敦史

 nippon comコラム( 2018.04.28掲載)

 

1984年東京生まれ。明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015年そば店「洞蕎麦」を開業(台南市永華路一段251号)。著書『台湾環島 南風のスケッチ』(書肆侃侃房)。

 

 

台湾の結婚式「喜宴」は喜びを分かち合う宴会

 

台湾の結婚式は「喜宴」という。名の通り喜びを分かち合う宴会であり、町内の寄り合いとか、同窓会とか、素人のど自慢大会といった側面も持っている。招待客が多ければ多いほどいいとされ、400人や500人はざらで時には1000人以上が参加する。新郎新婦とその家族がグラスを手に各テーブルへあいさつに回る「敬酒」を除いて、決まったプログラムは無く、時には初めに乾杯の音頭が取られただけで、その後2時間ほど延々と出席者たちのカラオケ大会が続く、という例もあった。出席者たちは大音響の中、円卓の向こう側の人にも聞こえるよう、お互いに怒鳴るような勢いで話をする。元来おしゃべり好きな台湾人だが、この日は久しぶりに親類や友人に会えてうれしいものだから、どんなに声がしゃがれても、汗をにじませながら大声で話し続ける。そして最後に出てくるフルーツで喉を潤したら、余った料理をビニール袋に包んでばらばらに帰って行く。礼服の着用が必須で祝儀に最低3万円は包まなければならない日本の結婚式と比べると、台湾の結婚式は皆が自由な格好で、大きな負担もなく参加でき、プログラムも自由である点、おおらかで気取らず、にぎやかさを好む台湾の人々の人間性がよく表れているといえる。

    

 台湾における僕の結婚を巡るエピソードを「準備編」と「式典編」の2回に分けて皆さんにご紹介したい。

準備編

「提親」(新婦家族へのあいさつ)で「聘金」(結納金)が決まる

プロポーズが成就したら、そこから結婚式に至るまでの間には「提親」「看日子」「訂婚」「拍婚紗」「發喜帖・喜餅」という五つの大きなステップがある。ここで紹介するのは妻の両親から教えてもらった台湾南部の代表的な流儀であり、地域やエスニシティ(客家や台湾先住民など)や宗教の別により異なる流儀が存在する。

「提親」は新郎の家族が新婦の家庭へあいさつに伺うことだ。以後の段取りや金銭的な面もこの時決められるので、肝心要の部分である。話し合いの中で最も緊張が走るのが、新郎側から新婦の両親に渡される「聘金」と呼ばれる結納金の額を決める時だ。「大聘」と「小聘」に分かれており、小聘は「尿布錢」(おむつ代)とも呼ばれ、両親の養育の恩に感謝する気持ちが込められている。金額は新婦の両親の裁量に委ねられるが、相場は大聘が36万元(1元3.7円)、小聘が12万元程度。結納金が100万円程度で、場合によっては半分ほどが結納返しとして戻ってくる日本と、物価差も含めて比較すると、かなりの負担といえる。もし新婦の家族が新郎を気に入っていれば、大聘を辞退することもあるが、逆に不満がある場合は、法外な価格を提示することで破談を狙ったりもする。何百万元もの聘金を要求され、それでも結婚した夫婦が、分割払いで何年間も払い続けるというケースも時としてある。

 

 

占い師に日取りを決めてもらう「看日子」

「看日子」とは算命仙仔と呼ばれる占い師に、結婚式を挙げるのにふさわしい日取りを選んでもらうことだ。算命仙仔は新郎新婦の名前と生年月日および誕生時刻を元にそれを算出する。挙式は201643日と決められた。おまけに役所に婚姻届を出す時刻まで指定されていたのだ。

 時期の良しあしについていえば、日本では欧米に倣ってジューンブライドといって6月に結婚するカップルが多いが、台湾では「有錢沒錢,娶個老婆好過年」(お金があってもなくても、妻を娶(めと)ればいい年が越せる)という俗語があり、旧正月が近くなると結婚式が増える。逆にあの世から霊が戻ってくるとされる旧暦7月に結婚する人はまずいない。ただしキリスト教徒は例外である。

訂婚」は日本でいう結納である。新郎とその家族が仲人を伴って新婦の家を訪れ、聘金の受け渡しや指輪の交換などを行う。一連の作法が非常に細かい部分まで定められているのだが、僕の場合は国際結婚ということで訂婚自体を省略させてもらった。

  

友人のための「拍婚紗」 

「拍婚紗」はウェディングフォトの撮影だ。結婚式場の入り口には、製本された巨大な写真集がほぼ必ず置いてある。地元の観光名所、あるいはヨーロッパ風のお城とか雪国とか森や海辺などファンタジックな風景をバックに、ウェイディングドレスやチャイナドレス、スーツに身を包んだ新郎新婦がうっとりと2人の世界に浸っているもので、顔にもかなり修正が施されているから、新郎新婦を直接知っている人なら楽しんで見られる。赤の他人の物だったらちっとも興味をひかれないだろうけれど。このお伽噺(とぎばなし)風写真集は1970年代にはもう広まっていたらしい。そういえば台湾にはかつて若い女性層をターゲットにした、まるで自分がアイドルになったかのような写真を撮るサービスが流行していたし、「変身写真」は今もって日本人観光客に大人気だ。コスプレ熱も日本に劣らず高いのである。憧れの俳優や仮想世界のキャラクターのようになりたい、そんな自分を見てみたい、という願望は誰でも多かれ少なかれ持っているものかもしれないが、それに応えるビジネスがこのように確立しているのは台湾人の商魂の表れでもあるだろう。

   

 

まさか自分があの写真集を作る日が来ようとは思いもしなかった。まずは義父母に連れられて婚紗館と呼ばれる店へ行き、衣装を選ぶ。撮影場所は屋外かスタジオかの2択で、僕らはスタジオを選んだ。周囲の目を気にしなくていいし、移動が要らないので早く終わらせられるだろうと思ったから。ところが思惑に反し、僕らは当日朝8時から2時間かけてメークと髪型のセットとドレスアップをし、それから実に夜7時まで、トタン造りの倉庫の中に広がるメルヘンチックな世界の中で、陽気なカメラマンの「もっと自然な笑顔で!」とか「見つめ合って!」といった要求に従うがまま、宮廷風サロンや銀世界や壁一面のバラやカフェをバックに、蜜のように甘ったるい写真を撮られ続けたのだった。

 

放心状態でスタジオから店に戻ると、ほほ笑みを浮かべた女性マネジャーが待っていて、写真集の大きさと枚数の交渉に入る。「これは一生の記念になるものですよ。将来夫婦げんかをした時などに写真集を開けば、新婚の頃を思い出して気持ちが穏やかになるものです」などとこんこんと意義を説かれながら。交渉は義父母に任せ、僕らはただ「顔の修正は入れないで」と拝むようにして頼んだ。

 

 「喜帖」を送って「喜餅」を手渡す

 

「發喜帖・喜餅」は結婚式に招待する人々に「喜帖」と呼ばれる招待状を送る際、特に新婦側の親戚・友人に限って「喜餅」と呼ばれる中華風ケーキを合わせて送る習慣を指す。数量は提親の際に新婦側が決め、費用は新郎側が負担する。相手が遠方に住んでいる場合を除き、原則的に直接相手の下を訪れて手渡ししなければならない。ある日の夜、僕と妻が喜餅を持ってバイクで友人の家に向かっている途中、無免許運転のバイクに横から追突され、救急車で病院に搬送される羽目になってしまった。運よく大事には至らなかったが。

またこれも一つの習慣で、新婦の両親が新郎に新品のスーツ一式を贈ることになっている。僕は既にスーツを持っていたので遠慮したのだが、義父母がぜひにということで、オーダーメードで作っていただき、その上ネクタイ、ネクタイピン、ベルト、革靴までひとそろい贈ってくださった。 

 

慣例上は新郎側が負担すべき費用も時と場合による

他にも式場やプログラムを決めたり「新娘秘書」と呼ばれる美容師を雇ったり、嫁入り道具を買ったりとやるべきことは無数にあり、何事にも費用がかかる。僕はその頃、そば店「洞蕎麦」を開業するために貯金の大半を投じてしまっていたのだが、大変ありがたいことに、慣例上は僕が負担するべき費用のほぼ全てを、妻の両親が支出してくださった。

義父母は共に日本統治期に八田與一が築いた烏山頭ダムのほとりの農村地帯で生まれ育った。年中行事や冠婚葬祭を執り行うに当たっては伝統的な作法を重んじる人たちだ。一つには国際結婚であり、一つには僕と妻が儀式的なものに対してあまり積極的でなかったために、お二人にはかなり妥協をさせることになった。それにもかかわらず快く精神面・資金面の双方でバックアップしていただき、感謝の至りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


日本人新郎が体験した台湾のびっくり結婚顛末記2

日本人新郎が体験した台湾のびっくり結婚顛末記 2

                                   大洞敦史

式典編                  nippon comコラム2018.05.06掲載

 僕は、20164月、台湾南部の町・台南で、地元育ちの女性と結婚式を挙げた。占いで結婚式の日取りを決めたり、新婦方の親戚・友人に招待状と合わせて中華風ケーキを送ったりと、伝統的なやり方が根強く守られている現代台湾の結婚式だが、一方で結婚指輪を作るという西洋的な風習も欠かせないものになっている。それで僕らも宝飾品店で純金のペアリングを購入した。

 

時代とともに「伝統」も変化 

時代の流れにつれて「伝統」も形を変えてゆく。「拍婚紗」(巨大な結婚写真集の制作)のように数十年前から一般化した習慣もあれば、徐々に廃れていく習慣もある。 

これは台南で儀式用の紙人形「紙糊」を専門に制作している左藤紙藝薪傳の主人から聞いた話だが、昔は結婚式の前夜に新婦が男の子を抱いた観音菩薩の紙人形を枕に敷いて寝る風習があった。これには早く子宝が授かるようにとの祈りが込められている。しかし今ではこうしたことをしている人はほとんどいない。紙糊といえば葬式か道教の儀式に使うもの、というのが現代の一般的なイメージだが、昔は9割が誕生祝いや結婚祝いなどのめでたいことに使われていたそうだ。どうして廃れてしまったのか、と僕が尋ねると、「年寄りが若い者に教えてこなかったからさ」と主人は答えた。 

結婚式当日の朝、日本ではヤクザが身につけるような純金の厚みのあるネックレスを義母が持ってきて、首に掛けるように言われた。初めは断ったのだが、伝統の装飾品だから、の一点張りで掛けさせられた。これにはどうやら妻が夫をしっかりとつなぎ留めておくための首輪という意味があるらしい。その後僕が他の人の結婚式に参加したときも、新郎が皆これを身に着けているのに気がついた。

僕と妻の家族一同は赤いリボンを巻き付けた黒の高級車に乗り、爆竹の音と共に発進して、会場の海鮮料理レストランへ向かった。台湾の結婚式はホテルやレストランの他、公民館や「流水席」と呼ばれる公道上に臨時にしつらえられた宴会場など、さまざまな場所で開かれる。初めて参加した結婚式は小学校の講堂だった。「いつもの服装で来ていいから」という友人の言葉を完全には信じ切れず、暑い中長ズボンと革靴を履いていったところ、会場でTシャツ、半ズボンにサンダル履きの人をたくさん見かけて後悔した。女性も普段着でノーメークの人が多かった。それで僕も以後の結婚式には毎回普段の服装、すなわち沖縄のかりゆしウエアに半ズボン、サンダル姿で出席している。

ご祝儀はその場で開封

 妻の妹と弟が名簿への記帳係をしてくれた。出席者から「紅包」と呼ばれる赤いご祝儀袋をいただくなり、その人の目の前で開封して金額を名簿に書き入れていく。相場は僕が住んでいる台南のような地方都市の場合、新郎新婦の友人なら1人当たり1200元(13.7円)から2200元程度。日本とは逆で偶数が良しとされ、6が一番好まれる。ただし4は日本と同じく発音が「死」に通じ、8も「別」と同じ発音なので避けられる。また白は葬式を連想させる色なので、日本のご祝儀袋はほぼ使えない。


式には名士を招待し、料理はぜいたくに

一方で純白のウエディングドレスは台湾の女性にとっても憧れの的なので、一概に白が忌避されているわけでもないようだ。

結婚式場には大きなスクリーンが設置されていて、新郎新婦の写真や映像が繰り返し流れる。参加者はそれを追って見ていくことで、まるで映画を見ているように、2人の幼い頃からの成長の記録や、交際の過程が分かるようになっている。僕らもかなり時間をかけて写真を選んだ。僕が子供の頃に台湾を旅行した時の写真や、台湾での生活フォト、2人で阿里山や緑島に旅した時の写真など。いたずら心で、髪もひげも伸ばし放題にしていた16歳の時の写真を混ぜたら、けっこう受けていた。

台湾では結婚式に地元の名士を招待する慣習があり、この日は地元の政治家である郭國文、林燕祝氏、姜金堂氏、台日友好交流協会理事長の郭貞慧氏が壇上で祝辞を贈ってくださった。民進党の人も国民党の人もいるが、義父によれば顔見知りなので問題はないという。皆ご祝儀まで包んでくれたといって感心していた。

豪勢な料理を盛った大皿が次々に各円卓へ運ばれる。カラスミ、おこわ、鶏を丸ごと煮込んだ漢方スープ、煮込み魚、大きなゆでエビなどが定番だ。鶏は台湾の言葉で「ゲ」というが、これは結婚の「結」および「家」と同じ発音なので、切らずにお客に出される。魚は「餘」に通じ、「余るほどの富」を象徴する。赤はめでたい色の代表なので、エビや唐辛子も好まれる。義父は料理の内容を基準にこの会場を選んだそうで、後日多くの友人たちも口々に料理の豪華さを褒めたたえていた。 

 

                 「敬酒」と呼ばれる乾杯回り

残念ながら僕は「敬酒」で各テーブルを回っている間にかなり時間が過ぎてしまい、ほとんど口にできなかったが。ちなみに台湾の宴会でアルコール類を一人で飲んでいるとムードが盛り上がらない。誰かがグラスを掲げた時に、周囲の人々と祝福の言葉を掛け合いながら飲むべきものだ。 

 

式が忙しいのも、家族のつながりが強いから

式の進行は僕の友人たちに全面的に協力していただいた。茶人でありピアニストでもある黎瑞菊さんに司会を、普段台北101のレストランで演奏されている葉昶氏に伴奏を、プロのカメラマンである蔡宗昇氏と林太平氏に撮影を、それぞれお願いした。作家の一青妙さんからも祝辞をいただき、イラストレーターの佐々木千絵さんに代読してもらった。

 

 封茶を行う新郎新婦

出し物としては、台南の有名なティーショップ「奉茶」のオーナーであり詩人でもある葉東泰氏が僕らのために書いた詩を読んでくれ、また「囍」の字が書かれ、中に茶葉の入った青花磁器を贈ってくださった。ふたは赤いシールで封がされているのでこれを「封茶」という。一種のタイムカプセルのように、何十年もたってから開けて中の茶を楽しむものだそうだ。他にもプロのビリヤード選手として活躍されている北山亜紀子さんにカーペンターズの歌を歌ってもらい、ぼくも沖縄三線で「涙そうそう」と台湾民謡「望春風」を歌った。最後にヤマサキタツヤさん、青山京子さん、いいあいさん、佐々木千絵さんと、プロのイラストレーターが4人も日本から参加してくださっていたので、会場の皆にジャンケンをしてもらい、勝ち抜いた4人に彼らが似顔絵を描いてあげるという余興も行った。

僕らが経験した結婚式までに至る一連の過程は、ある程度、普通よりは簡単に省略した形ではあったが、それでも毎日目が回るほどの忙しさだった。もしも何から何までしきたり通りに進めようとしたら、気が遠くなるような時間と労力を要するに違いない。両家の家族が総出で取り組まなければできないことだ。古い伝統が今もなお生きているのは、家族同士のつながりが日本よりもずっと緊密な台湾だからこそなのだろう。

 


 

(注)本稿の写真は全て筆者の提供したものです。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付



小確幸~台湾あれこれ


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著者 : 喜早天海
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