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歴史に翻弄された日台航路~日本アジア航空

 歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

 

             2018.03.31岡野 翔太

 

日本と台湾を行き来する方は、普段、どの航空会社を利用するだろうか。今は、日本航空(JAL)、全日空(ANA)、中華航空(チャイナエアライン)、エバー航空、キャセイパシフィックにジェットスターなど、フルキャリアから格安航空会社(LCC)まで、10社以上の航空会社が日台間の航路を結んでいる。また、成田国際空港(以下、成田)や大阪の関空国際空港のみならず小松や静岡など地方空港からも台湾行きの便が開設され、気軽に日台間を行き来できるようになった。しかし、それはここ数年の話である。

 

日台間で多くの飛行機が飛び交うことは当たり前に思えるかもしれないが、実は1015年ほど前まで、日台間の航空路は「特異」な状態にあった。日本のナショナルフラッグキャリアである日本航空は台湾への便を設定しておらず、また台湾のチャイナエアラインやエバー航空は成田空港を使用することができなかった。

 

1990年生まれの日台ハーフである筆者は、子どもの頃家族で台湾に帰るのが大好きだった。そのとき、よく乗っていたのが「日本アジア航空」である。ただ、「アジア」の二文字の意味はよく分かっていなかった。10年以上前から日台間を行き来している人ならば、きっと「日本アジア航空」(JAA/日本亞細亞航空)という航空会社の存在を記憶していることであろう。この「日本アジア航空」こそ、日台間航空路における「特異」な状態の象徴であった。日本アジア航空は、1974年に日中間の定期航空路を開設した日本航空が台湾路線を飛ばせなくなった代わりに設立された。

 

国内」航路から「国際」航路へ

 

1895年に日本が台湾を領有すると、その翌年には船による日台定期航路が開設された。大阪商船や日本郵船の大型船が神戸と基隆を結び、神戸は台湾人が日本に渡る際にまず踏み入れる玄関口であった。日本で著名な台湾人小説家陳舜臣の一家も神戸の地に上陸して根を下ろし、「真珠王」として知られる台南出身の鄭旺(田崎真珠の田崎俊作を育てたことでも知られる)も戦中から戦後にかけて神戸の地で活躍した。27年に台湾共産党を立ち上げた謝雪紅は、19年から3年ほど神戸にいたという。

 

戦前の一時期、大日本航空などが日台間で航空路を築いていたようだが、費用面や定員は船には遠く及ばなかった。いずれにせよ、日台航路は今日の在日台湾人を生み出すポンプとなっていた。44年に入ると、日本の戦局は次第に悪化し、日台航路の船が米軍によって撃沈されるという事態が相次ぐ。日本の敗戦が決定した458月時点において、日台間の航路は事実上の消滅状態となっており、航路の「中断」は4512月に在日台湾人の帰国希望者の送還が始まるまで続いた。

 

また第二次世界大戦の終了から5年の間に、大陸では中華人民共和国が成立し、それまで大陸を統治していた中華民国は台湾に逃れた。朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発し、南北分断が固定化されるなど、東アジアの情勢も急激に変化した。日本は連合国軍総司令部(GHQ)統治下にあって主権の回復はしておらず、また航空禁止令が敷かれていたため日本で自前の航空会社を持つことや航空機の製造などが認められなかった。

 

航空機の台頭とにぎわう日台空路

 

船から飛行機へと取って代わられたことも、戦後日台航路の大きな特徴である。1950年代に入ると、ボーイング707旅客機(57年初飛行)、ダクラスDC858年初飛行)そしてコンベア88059年初飛行)など4発ジェット旅客機の開発が相次いだ。コンベア88060年にかけて、台湾の民航空運公司(CAT)や日本航空さらには香港のキャセイパシフィック航空などが導入し、日台航空路にも充当された。

 

CAT50年代に台湾内外の航空路線を提供した航空会社としても知られ、504月には台北と東京を結ぶ路線を開設した。その運航資金にはアメリカの中央情報局(CIA)からの援助があり、CATは朝鮮戦争時に国連軍の物資輸送を担うなど、民間航空会社以上の活躍をした。

 

67年に中華航空が台北大阪東京に初便を就航させた。以降、CATに代わる台湾のナショナルフラッグとして中華航空が活躍することとなった。一方、日本航空は51年に成立し、台湾路線は59730日に開設された。

 

大阪万博の開催された70年は、日本航空が大型のボーイング747型機を導入した年でもある。この時点で、日本航空と中華航空は日台間航空路において5割近くのシェアを有し、日本航空の国際線としてはホノルル線に次ぐ稼ぎ頭となっていた。そんな日台間航空路が活況を示していた頃、台湾(中華民国)を取り巻く国際環境は急変する。71年の中華民国の国連脱退、そして翌年の日本との断交である。

 

 

活況から「中断」、そして日本アジア航空の誕生へ

 

 

日本と中華民国の間で国交があり、日本の国営航空会社が台湾に就航していたことは、つまり中国への便を開設していないことを意味する。1972930日、日本航空の特別便に乗った田中角栄首相は北京首都空港に降り立ち、周恩来の出迎えを受けた。その周の傍らには、日本統治時代の台湾に生まれ神戸で育ち51年に中国へと渡った林麗韞がいた。周と田中が握手を交わした場面は、長らく故郷と隔絶された状態にあった在日中国人に感動をもたらしたことであろう。しかし、それは後に台湾の航空会社が日本の空から、そして日本の航空会社が台湾の空からも消える淵源(えんげん)でもあった。 

 

中国側は日本に対して日中航空協定締結の条件として、中台の航空機が日本の空港に並ばないこと、中華航空機が旗(中華民国国旗)を外すこと、日台間の航空協定の完全消滅の明確化などいくつかの「提案」を行っていたからである。また、日台間の航空路線の維持については条件付きで認める表明をした。

 

中国の提案を受け、日本の外務省ならびに運輸省(現在の国土交通省)は、台湾には日本航空が就航しない中華航空の大阪(伊丹)便の他空港移転中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。成田空港開港前は両航空機の時間帯調整を行う中華航空という社名と旗の性格に関する日本政府の認識は改めて明らかにする、などの案を自民党総務会に提出し、了承された。 

 

こうして74420日に北京で日中航空協定が締結された。同時に大平正芳外相は「日本政府は、台湾機にある標識をいわゆる国旗を示すものと認めていない。中華航空が国家を代表する航空会社であるとは認めていない」との談話を発表した。そのため、台湾の沈昌煥外交部長は直ちに日台間航空路の停止を発表し、翌日の便を最後に日本航空と中華航空は日台路線から撤退した。台湾との往来が必要な在日台湾人にとっては、戦後直後に次ぐ居住国と故国を結ぶ航路中断の記憶といえよう。

 

日台間の移動には、日本を寄港地とする大韓航空など第三国の航空会社による直行便、あるいは香港を経由するしか方法がなくなり、深刻な供給不足に陥った。ところが757月に宮沢喜一外相が「(台湾と国交を有する)それらの国々が青天白日旗を国旗として認識している事実をわが国は否定しない」といった答弁を行ったことで、日台の航空会社による航路の再開に向けて事態が動き出した。そして、758月に日本航空の子会社として「日本アジア航空」が設立され、同年915日に東京台北線、翌年726日に大阪台北線が開設された。一方の中華航空は75101日に台北-東京線および東京経由米国行きの便を再開させるも、大阪線は再開されなかった。

 

日本アジア航空が築いたもの

 

それでも、「日本航空」が台湾路線を飛ばさなかったという事態は「異常」なことであろう。中国に就航する欧州の航空会社の中には、日本アジア航空に倣い、台湾路線用に機体の塗装の変更、あるいは別会社運航の形で対応するケースが見られた。今でも、アムステルダム-台北線には「KLMアジア(荷蘭亞洲航空)」の機体が充当されることがあるが、これも日本アジア航空と同様のケースである。 

 

大げさに思われるかもしれないが、日本の社会科の教科書にある「世界の国」リストを見ても「台湾」の名が記されていないことや、台湾路線用に日本「アジア」航空が作られ、飛んでいたことは、日台ハーフの筆者にとってやり場のない疎外感を抱かせた。ただ、日本アジア航空は中国への政治的配慮によって生み出された会社ではあったが、台湾路線を主に運行するということもあって、国交の切れた日台をつなぐ架け橋として果たしてきた貢献は極めて大きいといえる。

 

今でこそ台湾は若い女性に人気の旅行先であるが、半世紀近く前、日本人は台湾を「男性天国」というまなざしで見ていたと聞く。そのため、かつての台湾は日本人に人気の「観光地」ではなかった。そのような中19762月、日本アジア航空は台湾出身の歌手ジュディ・オングを起用し、「台湾ビューティフル-ツアー」と銘打った女性のみの台湾ツアーを企画した。これは女性需要の掘り起こしのスタートと位置付けられよう。以降も同社は台湾の観光をPRするCMを放映し、89年には「女性にやさしい台湾」とのキャッチフレーズが用いられた。98年からは俳優の金城武がバイクで台湾の街中を走り台湾のお茶とショウロンポウを頰張るCMが放送されていた。一連のCMによって、台湾へのイメージが向上したといっても過言ではない。 

 

そして月日とともに日台航路にも変化が訪れる。2002年には中華航空およびエバー航空の成田空港使用は許可され、06年には中華航空が32年ぶりに大阪路線を復活させた。また、05年には中台間で直行チャーター便が運航された。こうなると、「日本アジア航空」の存在価値が揺らいでくる。08331日、日本アジア航空は日本航空に吸収され、翌日より日本航空が台湾路線を「復活」させた。

 

日本アジア航空が幕を閉じて今年で10年。この10年の間に日台間の航空路は大きく変貌した。1010月、それまで国内線専用空用として運用されてきた台北松山空港(1979年以前は国際線の発着空港)と東京国際空港を結ぶ定期便の就航や、1510月には関西空港と台南を結ぶ定期便が就航したことは、日台間の航空路の盛況ぶりを物語っている。

 

たしかに、日本アジア航空は「特異」な存在であった。そうした中において、日台間の往来が今日に至るまで不自由なく保たれてきたことは、日本アジア航空があったからこその成果ともいえる。

 

 

 

岡野翔太 (おかの しょうた) 

 

大阪大学人間科学研究科博士課程。台湾名は葉翔太。1990年兵庫県神戸市生まれ。父は1980年代に来日した台湾人、母は日本人。小学校、中学校は日本の華僑学校に進む。専攻は華僑華人学、台湾現代史、中国近現代史。著書に『交差する台湾認識-見え隠れする「国家」と「人びと」』(勉誠出版、2016年)

 

  (注)出所:nippon comコラム(2018/03/31掲載)


台湾の若者で「注音符号」が愛されているわけ

台湾の若者で「注音符号」が愛されているわけ

 

              文=nippon.com編集部 高橋郁文 

                                                      [2018.06.02]

  20代の若者に根強い愛着

 今、台湾の若者の間で「注音符号」への愛着がかつてないほど高まっているという。 

201838日、民進党の台南市長予備選の世論調査で、注音符号廃止を訴えた葉宜津立法委員(代議士)が支持率で最低となり、自身のフェイスブック注音符号で書かれたコメントで荒らされたことが現地ニュースで話題になった。 

注音符号とは、清朝末期から漢字の発音を記す方法として検討開発していたものを、中華民国が1918年に「国音字母」として公布し、最終的に名称が注音符号となったものだ。その基本構造は、漢字の一部、あるいは全部を使った37文字からなる。 

中華民国が台湾に移った以降、現在でも台湾人の初等教育の場や外国人の中国語学習の場で、日本の「仮名」と同じような状況下で学ばれている。日本人学習者の間では、俗に「ボポモフォ」と呼ばれている。 

一方、中華人民共和国が成立し、標準語を再整備した「普通話」の中国では、発音記号にローマ字表記による「ピンイン」が用いられ、注音符号は使われなくなった。現在、一般の中国人で注音符号の読み書きができる人はほとんどなく、辞書の発音の記述で目にするくらいだ。 

台湾における中国語の「国語」と中国における中国語の「普通話」の目に見える最大の違いは、台湾の繁体字と中国の簡体字という漢字の字体と共に、発音記号で注音符号を用いるかどうかにあるとも言える。 

しかし、注音符号はあくまでも発音記号であり、日本語の「仮名」のように、文献やメディアなどの書物で漢字と混ぜて書かれることはほとんどない。台湾の街中の看板で目にする確率は、おそらく日本語の「の」の字よりも少ないのではないだろうか。ちなみにこの「の」は同じように使用される助詞の「的」が置き換えられたもので、台湾人の間で最も知られた日本語の文字、「仮名」である。 

ところが、2000年以降、台湾本土化の流れが加速する中で、特にポスト民主化世代の20代の若者の間で、注音符号は単に発音記号としての枠組みを超えた存在になっているようだ。 

独特のニュアンスが魅力に 

台湾本位の考えが進む中で、言ってみれば中国由来であり、キーボード入力では「仮名入力」のようにローマ字入力以外にもう一つ入力法を覚える必要がある注音符号をいちいち学習するのは面倒だと考える台湾人は、特に戒厳令下に生まれ育った現在の中年層に見られる。彼らにとって注音符号はあくまでも発音記号でしかなく、時に上述の葉立法委員のように注音符号の廃止を訴えたりする。民主化以降の台湾で、注音符号は中国由来の過去の産物の一つとして使用停止や廃止が何度か検討されたが、そのたびにいつも台湾社会で物議を醸してきた。 

一方、ポスト戒厳令世代の状況はどうだろうか。台湾の20代の若者になぜ注音符号に愛着を感じるのか聞いたところ、「単に小さい頃から使っているからではない、日本語のも注音符号のかわいい柔らかいニュアンスがあって思わず使ってみたくなるのだ。しかし、皆が日本語の仮名を全部知っているとは限らない。でも注音符号なら誰もが知っている。だから使いやすい」と語っていた。 

アイデンティティーのアイコンとして定着 

注音符号への愛着は、当初の表現方法の一つから、アイデンティティーという要素が注入され、いつの頃か若者の間で中国とは違う台湾の象徴の一つと捉えられるようになった。 

言葉や文字は自分たちと他民族や他国家とを区別する最も分かりやすいものだが、現在の台湾人が台湾ナショナリズムを主張する際、そこには台湾の国語と中国の普通話の違いはどこにあるのかという問題に直面する。台湾には従来使用されてきた閩南語などをベースにした台湾語があるが、北京語ベースの国語が普及した現在、台湾語を読み書きまで自在に操れる人は、戒厳令下では公の使用を禁止したこともあって、台湾北部の都市部を中心に一時減少してしまった。現在、学校で台湾語教育が進められているが、台湾語がただちに唯一の国語になるのは難しい。 

一方、国語と普通話の目に見える違いについては、漢字の字体で旧字体(繁体字)を使用していること、そして注音符号を使用していることがある。そのため、台湾人が注音符号という身近なところにアイデンティティーを見出すのは理解できる。生まれながらにして台湾は中国とは別であると認識している「天然独」と呼ばれる若者世代にとって、注音符号がもはや発音記号という本来の意味を超えて、アイデンティティーのアイコンになっていることには留意しておきたい。 

台湾社会の多様性を表す試金石に 

しかし、注音符号がこれから漢字に取って代わって国字として台湾社会の中で地位を築くのかと言えば、それは難しいと言わざるを得ない。 

まず、注音符号は漢字の一部、あるいは全部で音を表記するのに特化した文字のため、一字でさまざまな意味を含む漢字と違い、そこに含まれる情報量は圧倒的に少ない。そのため文章は長尺化し、それまで漢字の短尺化に慣れ親しんだ人々にとって、読み書きの点でかなりの負担になる。また、例えば文章の全てを「仮名」で表記するように、全てを注音符号で表記すれば、漢字に慣れ親しんだ社会ではとにかく読みにくいと感じ、情報伝達の面で混乱が生じることは容易に想像できる。 

次に、「の」を表現方法の一つとして長らく用いてきた台湾人の表現感覚から考えた際、一つの文字(漢字)による表現方法よりも多少、ローマ字や「仮名」が入った混ぜ書きの方がカッコ良く感じるようだ。しかし、これらはあくまでも表現方法の手段であって、他の文字に完全に乗り換えるということではない。日本で、平仮名、片仮名、漢字、ローマ字などを一つの文章内で用いるように、台湾でも、漢字、ローマ字、「仮名」と共に、注音符号が正式に列に加わったと見るべきである。 

また、日本で漢字使用の全廃(あるいはローマ字への完全な乗り換え)が提唱はされても実際にはそうならなかったように、台湾でも漢字使用の全廃はないと考えられる。文字は情報伝達における機能がまず優先され、それを満足した上で、美しさを求めるステージに入る。漢字は注音符号に比べバラエティーに富んでおり、美しさでもかなうものではない。今後、注音符号がもっと広範に使用されることはあっても、文章の根幹を成す漢字がなくなることは考えられない。 

もう一つ、一般的に「台湾華語」と呼ばれる台湾発の外国人向け中国語教育で注音符号を堅持することは、ローマ字の「ピンイン」で発音を学ぶ中国発の中国語より負担が多いことを意味する。注音符号は、いくら100年の歴史があって発音を正しく表記できるとは言え、外国人学習者や台湾華語の国際化にとって、必ずしも有益とは言えない。 

では、注音符号重視の流れはどこまで広がるのだろうか。台湾アイデンティティーを重視する若者の間で注音符号が愛着を持って使用されている現在の状況から考えると、今後、この世代が台湾社会の中枢になる頃には、社会で注音符号を目にする機会はもっと増えるのかもしれない。また、台湾社会が新移民に代表される他民族や彼らの言葉をどんどん受け入れている中で、多様化の度合いはますます加速している。 

台湾の若者の注音符号への愛着とそこにある思いは、台湾アイデンティティーだけの問題にとどまらず、台湾社会の多様性を表したものとして、今後も注目していきたい。

 

 


台湾で神社が多数造営されたわけ

 台湾で神社が多数造営されたわけ

 

金子展也

 1895417日、日清講和条約が調印された。台湾および澎湖島の日本への割譲が決定したことにより、日本の地にしか祭られなかった神道の神々が新しく日本の領土となった台湾へ、ヒト・モノ・カネの移動に伴い、海を渡り、台湾の地に祭られた。

 

6年後の19011027日、台湾の総鎮守として台湾神社(44年に台湾神宮に改称)が鎮座した。そして、開拓の神々である大国魂命(おおくにたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)および少彦名命(すくなひこなのみこと)と北白川宮能久親王(きたしらかわ・よしひさしんのう)が祭神として祭られた。

 

皇族として海外での逝去が台湾での神社創建運動のきっかけに

 

1895531日、能久親王は日本の台湾領有に伴い、近衛師団を率いて澳底(おうてい)に上陸し、基隆から台南まで武装集団との抗争を繰り広げた。近衛師団を悩ませたのは、これまで体験したことがない、台湾特有の湿気をもった暑さと非衛生的な環境であった。能久親王も台湾南部の嘉義を越えた辺りでマラリアに感染し、高熱と下痢とに闘いながら、「平定の戦い」の最終地点である台南に到着するが、1028日に逝去してしまう。皇族として初めて日本以外で逝去したことで、国内では能久親王を祭る神社創建運動が高まる。その後、「別格官幣社を台湾に建設する建議案」が19009月に衆議院で可決し、同時に内務省告示81号が告示され、台湾神社は植民地で初めての官幣大社として創建されることに決まった。能久親王の薨去(こうきょ)した1028日を例祭日として、011027日に鎮座した。

 

台湾の地方都市にも広がる神社の造営

 

台湾神社が鎮座すると、主だった地域で一斉に神社の造営が始まった。台湾統治上の必要性は迅速な「日本化」の浸透であった。日本化とは天皇を中心とした天皇主権国家であり、その中に占める神道の神々を祭る神社は絶対的な権力の象徴でもあった。

 

台湾の行政地区の中心となった地方都市には県社規模の神社が造営され、台湾神社の祭神を祭り、それぞれ県社として列格されていった。県社への列格年代順で見ると、開山神社(1897年)、台中神社(1913年)、嘉義神社(17年)、新竹神社(20年)、花蓮港神社(21年)、台東神社(24年)、阿緱神社(26年)、宜蘭神社(27年)、高雄神社(32年)、基隆神社(36年)、そして、澎湖神社(38年)となる。

 

台湾が日本となった初期では、神社造営と各種国家記念事業である御大典(大正天皇即位の礼、15年)、皇太子行啓23年)および御大典(昭和天皇即位の礼、28年)は大いに関係があり、これらの記念事業をその神社造営の推進力とした。その後、319月に満州事変が発生。323月には満州国が樹立され、333月には国際連盟から脱退したことにより、日本を取巻く情勢が急変した。日本は国際情勢の緊迫化を伴う国家非常事態体制下にあった。この頃は台湾における神社の重要性が大きく変化する節目でもあった。国民に対して国威発揚、国民精神の高揚などが叫ばれ始め、国家神道に基づき、国民精神の育成が急務となり、神職会(神社本庁の前身)から神宮(伊勢神宮)大麻が主だった神社経由で本格的に頒布されていった。この過程で、地域の土地守護神として34年末、北港神社(台南州北港郡)が社格をもつ「神社」として造営され、台湾での神社造営ラッシュの先陣を切った。

 

 

 

神社規定の整備

19349月に台湾総督府文教局から「神社建設要項ニ関スル件」として、初めて「神社」に関する規定が提示された。神社には「神社」と規定される要件があった。

1)必要条件として、境内入口に鳥居があり、社殿(本殿、拝殿)まで参道が通じ、参道のそばには手水(ちょうず)舎、社務所などがある。

2)敷地45000坪(13.3平方メートル)以上、本殿 5坪程度、拝殿 20坪程度とされた。

3)「神社」であるためには、崇敬者または氏子は50人以上とし、その中の総代が神社に関する維持のための一切の事務を行う義務を有する。

 

つまり、この要件に当てはまるのが、台湾総督府文教局社会課が発行した『台湾に於ける神社及宗教』(433月発行)であり、また、田村晴胤(たむら・はるたね)による『神の国日本』(452月発行)に掲載されている68社の神社であった。これらは、祈年祭・新嘗祭に天皇や国から奉幣(神饌=しんせん=以外で神に奉献すること)や幣帛(へいはく)料(金銭での奉献)を受ける官幣社(2社)や国弊社(3社)を筆頭に、県社(8社)、郷社(17社)、無格社(36社)、そして、台湾護国神社と建功神社を含んだ。なお、終戦間近に3社が無格社から郷社へ列格され、最終的に郷社は20社、無格社は33社となった

 

 

                        往時の台湾神社(提供:水町史郎)


神社造営にブレーキをかけた戦争


19367月に総督府より「民風作興運動」が宣言され、敬神崇祖思想の普及、皇祖尊崇、そして、台湾人に対しては国語(日本語)普及および常用が求められた。その1年後の377月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争へと発展する。そして、同年9月には第一次近衛内閣による「国民精神総動員運動」が提唱された。このような状況下、海軍軍人の小林躋造(こばやし・せいぞう)が第17代総督に就任すると、これまでの「民風作興運動」をさらに発展させた「皇民化運動」が提唱され、改めて、地方の行政単位である街や庄にまで神社を造営しようとする「一街庄一社」政策が叫び出された。この方策として神社参拝、大麻奉斎、そして、台湾人の家庭では正庁改善(祖先位牌や道教などの神々を祭る祭壇に代わり、大麻を祭った日本式神棚への改善)や寺廟整理(寺廟の取り壊しや統合)が展開されていった。


盧溝橋事件に端を発した日中戦争に続き、4112月に日本は太平洋戦争に突入する。この頃になると既に地方財政の疲弊が現れ始め、神社敷地の買収費を含めた神社造営費はますます巨額となった。さらに神職の確保にも支障を来したため、新たな神社造営に急ブレーキがかかった。34年に北港神社が造営されて以来、終戦までの10年間に、わずか32社の神社が造営されたにすぎない。「一街庄一社」政策は掛け声に終わり、現実的な「一郡一社」程度で終わった。


一方で、新竹神社、台中神社や嘉義神社の県社から国弊小社への列格、また、数多くの無格社を郷社へ列格(3710月~454月までの間に21社)することにより、神社の尊厳さを高めた。さらに、神社とは別に、その神社の管理に属した摂末社(せつまつしゃ)の造営や遥拝所(ようはいしょ)により、国家神道の浸透を図った。


                [2018.06.16]NIPPON.COMより転載


 


 金子展也(かねこ のぶや)

  1950年北海道生まれ。小樽商科大学商学部卒業。卒業後日立ハイテクノロシーズで勤務。2001年より2006年まで、台湾に駐在する。現在、神奈川大学非文字史料研究センター研究協力者として海外神社の調査、研究及び一般財団法人台湾協会評議員。著書に『台湾旧神社故地の旅案内―台湾を護った神々』(神社新報社、2015年)『台湾に渡った日本の神々』(潮書書房光人新社、2018年)


 


 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


台湾の“素顔”に迫る

 台湾の“素顔”に迫る

 

「日本が最も好き」が56%、圧倒的親日・台湾の“素顔”に迫る…海外26カ国の記者はどう見たか

              出典 産経WEST 2017.5.9

大勢の若者でにぎわう台中市内の夜市

   親日家が多く、欧米では「フォルモサ(麗しき島)」の愛称で親しまれてきた台湾。その魅力を世界に発信しようと、台湾の外交部(外務省に相当)が4月6~11日に海外メディア向けに実施した「プレスツアー」に参加した。行ってみると、日本からの参加者は記者ともう1人の2人だけで、ほかの参加者は北米や南米、北欧、アフリカなど26カ国の記者たち。独特の文化と親切な人々、日本統治時代の面影を残す街並みに、海外の記者たちは何を感じたのか。彼らが語る“台湾像”から、日台の関係や、「国のかたち」について考えた。(浜川太一)

 九州と同じ面積に2300万人

  大阪から空路で約3時間。首都にあたる台北の郊外にある台湾桃園国際空港に降り立つと、まだ肌寒かった日本とは打って変わり、湿気を含んだ熱気が迫ってきた。

  台湾の面積は、九州とほぼ同じ約3万6千平方キロメートル。そこに漢民族(95%以上)や16の先住民族(2%)から成る2351万人が暮らしている。

  今回、6日間の日程で台北・台中を巡るプレスツアーに参加したのは、各国の新聞・通信・雑誌社で働く記者や、フリーランスのライターら計28人。外交部職員4人の先導で名所や各種博物館、行政機関を視察し、外交政策のレクチャーを受けた。「アジア訪問自体が初めて」という参加者も多かったが、各国の記者は台湾のどこに引かれたのだろうか。

 「グルメや雑貨、全てがそろう『夜市』は最高だね。ファストフードばかりでショッピングモールが主流の米国とは大違いだよ」

  米国テキサス州のライフスタイル誌「イエローマガジン」の記者マット・シムスさん(54)は、台湾各地で毎晩開かれる「夜市」をベストスポットに挙げた。

  台湾の食文化と人々の熱気を肌で感じられる夜市は、台湾観光の目玉として人気が高い。マットさん以外にも、夜市や台湾の食に「一番引かれた」と話す記者が多かった。

 中欧スロバキアから参加した「Dennik N」紙の女性記者ジャナ・ネーメットさん(29)が「台湾人の物作りの丁寧さと、勤勉さを感じる」として挙げたのは、「張連昌サクソフォン博物館」(台中市)。西洋のイメージが強いサックスだが、実は生産数は台湾が世界一。世界シェアは6割を超えるといい、きらびやかなサックスが一堂に並ぶ同館では、その魅力を余すことなく味わえた。

  インドネシアの女性紀行ライター、トリニティさん(44)が最も印象的だったというのは「清潔な公衆トイレ」。「台湾人はとても清潔好きね。街中もきれいで、日本とよく似ているわ」と話した。

 

「台湾は日本の過去を否定しない」

  台湾人が最も好きな国は日本-。昨年、日本の対台湾窓口機関・交流協会(今年1月に日本台湾交流協会に改称)が発表した世論調査では、日本を「最も好きな国」と答えた台湾人の割合は、過去最高の56%に上り、2位以下の中国(6%)▽米国(5%)▽シンガポール(2%)に大差をつけた。

 台湾は1895~1945年の50年間、日本統治時代を経験した。この間に日本が整備した教育制度や各種インフラが、台湾の近代化を後押ししたとして評価する台湾人は多い。 

 ツアー4日目に訪れた「台中刑務所演武場」は、日本時代の1937年に完成。当時の刑務所職員が体を鍛えるために建てられた施設で、台中市は2004年に歴史建築物として指定登録。その後も修復を重ね、今も地元の子供や学生たちに、剣道や柔道の練習で使われている。

  南米チリの最大紙「エル・メルクリオ」の女性記者モントセラト・サンチェスさん(26)は、「台湾人は日本の過去を否定していない。彼らは日本時代の記憶を消し去るのではなく、むしろ救い出そうとしているようだ」と話す。 

 実際に近年でも、日本時代の家屋を改装した喫茶店やレストランが相次いで開店しているといい、外交部職員は「若者の間でも日本の人気は高い。親日の若者を指す『哈日族(ハーリーズー)』という言葉がありますよ」と教えてくれた。

 「台湾を国と認めないのは間違っている」  

 中国と主権をめぐる係争を抱え、国際社会の大半では正式な国家として認められていない台湾。今回のツアー参加者の中には、台湾を正式な国家として承認している国の記者もいた。

  週刊紙「ザ・リポーター」の記者、アレクシス・ミランさん(27)の母国ベリーズは、「カリブの宝石」と呼ばれる中南米の国。1981年に英国から独立し、89年から台湾と外交関係を樹立している。

 現在、台湾を正式な国家として承認しているのは、ベリーズを含む21カ国。「台湾は中国の一部」とする中国の主張(「一つの中国」の原則)から、日本など主要国は、台湾と外交関係を結んでいない。

  アレクシスさんは、台湾をめぐる複雑な政治環境について「隣国グアテマラと国境問題を抱える母国と、状況がとても似ている」と指摘。「経済・技術支援を通じてベリーズの独立を助けてくれた台湾は、ベリーズにとって偉大な友人。次は、ベリーズが台湾の独立と主権のために支える番だ」と力を込めた。

  同様に、台湾を国家として承認しているカリブの島国セントクリストファー・ネビスの国家情報サービス局長、レスロイ・ウィリアムズさん(46)は、「台湾を国と認めないのは間違っている。われわれは国際社会に対し、台湾をメンバーの一員に迎えるよう、請願し続ける」と話した。

 中国大陸との関係、8割が「現状維持」支持

  国とは何か-。ツアーの参加中、各国の記者に話を聞きながら、何度も頭をよぎったのがこんな問いだ。 

 台湾は、国際法の国家成立条件である「領土」「国民」「主権」をすべて満たしていながら、第4の要件に挙げられる「国際承認」を一部しか受けていない。台湾自身が主体的に解決することのできない難題だ。 

 台湾の通信社「中央通信社」は4月21日、与党・民進党系のシンクタンクが実施した最新の世論調査結果を報じた。これによると、「台湾を主権独立国家と考えるか」という質問に、74・5%の台湾人が「そう思う」と回答した一方、中国大陸との関係については、「現状維持を支持する」が79・9%に上ったという。

 数字が示す人々の矛盾した心境から、台湾が置かれている特殊な政治状況が、改めて浮かび上がる。

 インドの日刊英字紙「ザ・ヒンドゥー」の女性記者、キールタナ・ラジさん(31)は、「世界中で領土争いが横行し、不公平な状況が生じている中で、台湾は、その存在感を維持するため、政治的、経済的に努力し続けてきたのだと思う」と話した。 

 韓国紙「釜山日報」の女性記者で、友好関係を結ぶ「西日本新聞」(福岡市)で勤務した経験がある金銀英さん(51)は、「国は国、人は人。国同士の外交は大事だけど、人に関しては、今は国民じゃなくて、世界市民という視点が大事」と話した。 

「矛盾のなかで生きている」

  1994年に刊行された司馬遼太郎の著書『台湾紀行』(朝日新聞出版)は、日本人の台湾観の形成に、大きな影響を与えたといわれている。 

 司馬はその中で、複雑な政治環境に置かれている台湾を、「矛盾が幾重にもかさなっている島」と表現していた。 

 「よく考えてみれば、この宇宙も地上もわれわれ生命も、すべて矛盾のなかで生きている。ものは変化する。矛盾が統合し、またあたらしい矛盾を持って統合へ動いてゆく」

 ツアー中、各国の記者が口をそろえたのは、「優しくて、謙虚で、笑顔が絶えない」台湾の人々の姿だった。「国とは何か」と文字で表現する方法を追究するまでもなく、そこには多彩な文化に囲まれて、矛盾とともに美しく暮らしている、台湾の人々の姿があった。

 

 

 

 


日本人新郎が体験した台湾のびっくり結婚顛末記

 日本人新郎が体験した台湾のびっくり結婚顛末記

 

           大洞敦史

 nippon comコラム( 2018.04.28掲載)

 

1984年東京生まれ。明治大学理工学研究科修士課程修了。2012年台湾台南市へ移住、2015年そば店「洞蕎麦」を開業(台南市永華路一段251号)。著書『台湾環島 南風のスケッチ』(書肆侃侃房)。

 

 

台湾の結婚式「喜宴」は喜びを分かち合う宴会

 

台湾の結婚式は「喜宴」という。名の通り喜びを分かち合う宴会であり、町内の寄り合いとか、同窓会とか、素人のど自慢大会といった側面も持っている。招待客が多ければ多いほどいいとされ、400人や500人はざらで時には1000人以上が参加する。新郎新婦とその家族がグラスを手に各テーブルへあいさつに回る「敬酒」を除いて、決まったプログラムは無く、時には初めに乾杯の音頭が取られただけで、その後2時間ほど延々と出席者たちのカラオケ大会が続く、という例もあった。出席者たちは大音響の中、円卓の向こう側の人にも聞こえるよう、お互いに怒鳴るような勢いで話をする。元来おしゃべり好きな台湾人だが、この日は久しぶりに親類や友人に会えてうれしいものだから、どんなに声がしゃがれても、汗をにじませながら大声で話し続ける。そして最後に出てくるフルーツで喉を潤したら、余った料理をビニール袋に包んでばらばらに帰って行く。礼服の着用が必須で祝儀に最低3万円は包まなければならない日本の結婚式と比べると、台湾の結婚式は皆が自由な格好で、大きな負担もなく参加でき、プログラムも自由である点、おおらかで気取らず、にぎやかさを好む台湾の人々の人間性がよく表れているといえる。

    

 台湾における僕の結婚を巡るエピソードを「準備編」と「式典編」の2回に分けて皆さんにご紹介したい。

準備編

「提親」(新婦家族へのあいさつ)で「聘金」(結納金)が決まる

プロポーズが成就したら、そこから結婚式に至るまでの間には「提親」「看日子」「訂婚」「拍婚紗」「發喜帖・喜餅」という五つの大きなステップがある。ここで紹介するのは妻の両親から教えてもらった台湾南部の代表的な流儀であり、地域やエスニシティ(客家や台湾先住民など)や宗教の別により異なる流儀が存在する。

「提親」は新郎の家族が新婦の家庭へあいさつに伺うことだ。以後の段取りや金銭的な面もこの時決められるので、肝心要の部分である。話し合いの中で最も緊張が走るのが、新郎側から新婦の両親に渡される「聘金」と呼ばれる結納金の額を決める時だ。「大聘」と「小聘」に分かれており、小聘は「尿布錢」(おむつ代)とも呼ばれ、両親の養育の恩に感謝する気持ちが込められている。金額は新婦の両親の裁量に委ねられるが、相場は大聘が36万元(1元3.7円)、小聘が12万元程度。結納金が100万円程度で、場合によっては半分ほどが結納返しとして戻ってくる日本と、物価差も含めて比較すると、かなりの負担といえる。もし新婦の家族が新郎を気に入っていれば、大聘を辞退することもあるが、逆に不満がある場合は、法外な価格を提示することで破談を狙ったりもする。何百万元もの聘金を要求され、それでも結婚した夫婦が、分割払いで何年間も払い続けるというケースも時としてある。

 

 

占い師に日取りを決めてもらう「看日子」

「看日子」とは算命仙仔と呼ばれる占い師に、結婚式を挙げるのにふさわしい日取りを選んでもらうことだ。算命仙仔は新郎新婦の名前と生年月日および誕生時刻を元にそれを算出する。挙式は201643日と決められた。おまけに役所に婚姻届を出す時刻まで指定されていたのだ。

 時期の良しあしについていえば、日本では欧米に倣ってジューンブライドといって6月に結婚するカップルが多いが、台湾では「有錢沒錢,娶個老婆好過年」(お金があってもなくても、妻を娶(めと)ればいい年が越せる)という俗語があり、旧正月が近くなると結婚式が増える。逆にあの世から霊が戻ってくるとされる旧暦7月に結婚する人はまずいない。ただしキリスト教徒は例外である。

訂婚」は日本でいう結納である。新郎とその家族が仲人を伴って新婦の家を訪れ、聘金の受け渡しや指輪の交換などを行う。一連の作法が非常に細かい部分まで定められているのだが、僕の場合は国際結婚ということで訂婚自体を省略させてもらった。

  

友人のための「拍婚紗」 

「拍婚紗」はウェディングフォトの撮影だ。結婚式場の入り口には、製本された巨大な写真集がほぼ必ず置いてある。地元の観光名所、あるいはヨーロッパ風のお城とか雪国とか森や海辺などファンタジックな風景をバックに、ウェイディングドレスやチャイナドレス、スーツに身を包んだ新郎新婦がうっとりと2人の世界に浸っているもので、顔にもかなり修正が施されているから、新郎新婦を直接知っている人なら楽しんで見られる。赤の他人の物だったらちっとも興味をひかれないだろうけれど。このお伽噺(とぎばなし)風写真集は1970年代にはもう広まっていたらしい。そういえば台湾にはかつて若い女性層をターゲットにした、まるで自分がアイドルになったかのような写真を撮るサービスが流行していたし、「変身写真」は今もって日本人観光客に大人気だ。コスプレ熱も日本に劣らず高いのである。憧れの俳優や仮想世界のキャラクターのようになりたい、そんな自分を見てみたい、という願望は誰でも多かれ少なかれ持っているものかもしれないが、それに応えるビジネスがこのように確立しているのは台湾人の商魂の表れでもあるだろう。

   

 

まさか自分があの写真集を作る日が来ようとは思いもしなかった。まずは義父母に連れられて婚紗館と呼ばれる店へ行き、衣装を選ぶ。撮影場所は屋外かスタジオかの2択で、僕らはスタジオを選んだ。周囲の目を気にしなくていいし、移動が要らないので早く終わらせられるだろうと思ったから。ところが思惑に反し、僕らは当日朝8時から2時間かけてメークと髪型のセットとドレスアップをし、それから実に夜7時まで、トタン造りの倉庫の中に広がるメルヘンチックな世界の中で、陽気なカメラマンの「もっと自然な笑顔で!」とか「見つめ合って!」といった要求に従うがまま、宮廷風サロンや銀世界や壁一面のバラやカフェをバックに、蜜のように甘ったるい写真を撮られ続けたのだった。

 

放心状態でスタジオから店に戻ると、ほほ笑みを浮かべた女性マネジャーが待っていて、写真集の大きさと枚数の交渉に入る。「これは一生の記念になるものですよ。将来夫婦げんかをした時などに写真集を開けば、新婚の頃を思い出して気持ちが穏やかになるものです」などとこんこんと意義を説かれながら。交渉は義父母に任せ、僕らはただ「顔の修正は入れないで」と拝むようにして頼んだ。

 

 「喜帖」を送って「喜餅」を手渡す

 

「發喜帖・喜餅」は結婚式に招待する人々に「喜帖」と呼ばれる招待状を送る際、特に新婦側の親戚・友人に限って「喜餅」と呼ばれる中華風ケーキを合わせて送る習慣を指す。数量は提親の際に新婦側が決め、費用は新郎側が負担する。相手が遠方に住んでいる場合を除き、原則的に直接相手の下を訪れて手渡ししなければならない。ある日の夜、僕と妻が喜餅を持ってバイクで友人の家に向かっている途中、無免許運転のバイクに横から追突され、救急車で病院に搬送される羽目になってしまった。運よく大事には至らなかったが。

またこれも一つの習慣で、新婦の両親が新郎に新品のスーツ一式を贈ることになっている。僕は既にスーツを持っていたので遠慮したのだが、義父母がぜひにということで、オーダーメードで作っていただき、その上ネクタイ、ネクタイピン、ベルト、革靴までひとそろい贈ってくださった。 

 

慣例上は新郎側が負担すべき費用も時と場合による

他にも式場やプログラムを決めたり「新娘秘書」と呼ばれる美容師を雇ったり、嫁入り道具を買ったりとやるべきことは無数にあり、何事にも費用がかかる。僕はその頃、そば店「洞蕎麦」を開業するために貯金の大半を投じてしまっていたのだが、大変ありがたいことに、慣例上は僕が負担するべき費用のほぼ全てを、妻の両親が支出してくださった。

義父母は共に日本統治期に八田與一が築いた烏山頭ダムのほとりの農村地帯で生まれ育った。年中行事や冠婚葬祭を執り行うに当たっては伝統的な作法を重んじる人たちだ。一つには国際結婚であり、一つには僕と妻が儀式的なものに対してあまり積極的でなかったために、お二人にはかなり妥協をさせることになった。それにもかかわらず快く精神面・資金面の双方でバックアップしていただき、感謝の至りである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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