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檳榔(ビンロウ)おじさんが語る「日台友好」の心

 台南で3千人の日本人をもてなした檳榔(ビンロウ)おじさんが語る「日台友好」の心

 

マルヤン [2017.10.07]

 

檳榔文化に興味津々の日本人

 檳榔店は私の父が立ち上げ、私が引き継いだ。開業から今日まで52年。台湾でもB級文化として扱われている檳榔だが、かつて中央研究院歴史研究所が3か月にわたる「檳榔文化特別展」を開催し、長い歴史を持つ文化として紹介したことがあった。

 

 

 そもそも不真面目な業者が羊頭狗肉(ようとうくにく)で檳榔を売りさばいたため、真面目な業者も汚名を着せられ長くマイナスのレッテルを貼られていた。2年前に出会った作家の一青妙さん(写真左、右は本人)は、そんな台湾の檳榔文化や経営に興味があったのかもしれない。著書『私の台南』で台南独特の人情味あふれた店舗を記録し、日本人に紹介したのだった。 

しかし、それが私のその後の人生を変えてしまうとは、彼女は万に一つも想像しなかったのではないだろうか。

 

ある時、普段通り仕事をしていると、片手に『私の台南』を持った若者が近づいてきて、店内で仕事をしていた私をじろじろ見つめながら、「マルヤンさん、こんばんは!」と話しかけてきたのだ。その瞬間から、私と日本人観光客の交流が始まった。

 しかし、「ありがとう」「さよなら」しか日本語を知らない私は、日本人の横で薄ら笑いをするほかなかった。妹がたどたどしい日本語と漢字の筆談、それに少しの英語で交流し、たまに訳してもらって少しずつお互いの距離を縮めていった。私の店にとって初めての外国人客はこうして迎えたのだった。

 

大丈夫は「だいじょうぶ」にあらず

 

時がたつにつれ、日本人観光客もどんどん台南にやってきて、一組また一組と私の店を訪れた。気が付けば3000人を超えて

 

いた。私と家族の役割はこうだ。彼らの貴重な時間の節約のため、スポットを一つでも多く回り、一つでも多くのご当地グルメを堪能できるよう案内することだった。そして、いつしか「ありがとう」「さよなら」しか言えなかった日本語が、15個も言えるようになった。遠来の客をもてなすために「実戦」で鍛え上げたものだが、たまに意図がうまく伝わらず笑い話になったり、緊張し過ぎて背中が汗でびっしょりになったりすることもあった。

 

例えばある時、飲み物を「おごる」と伝えようとしたところ、発音が悪くて「おこる」と聞こえたようで、彼らを困惑させたようだった。私も訳が分からなかったが、後で日本語の達人に教えてもらい、ようやく事態を理解した。しかし、時すでに遅し。一行はすでに帰国してしまった。

 

 ところで、日本人は礼儀正しさで有名な民族だ。特に感謝を表すのには、いくつもの言い方がある。長い文ほど丁寧な言い方で、中には11音の長さに達するものあって、日本語初心者の私にとっては、ただただ驚きしかなかった。例えば食事の時、日本人は箸を持った途端、「いただきます」と言って食べ始めた。初めて耳にする言葉に私は意味が分からず、思わず箸を止めた。何のことはない。日本人のテーブルマナーだった。

  

また、日本人の友人が多くなれば多くなるほど、いろいろなことも起こった。ある日、台南武廟(びょう)に一行を連れて行った際、参拝方法などを簡単な日本語とジェスチャーで解説した。右から入って左から出るべきところを、日本の友人らは逆から出入りしたのだった。そうではないと身ぶり手ぶりで説明したが、彼が入り口の「大丈夫」と書かれた扁額を指して「だいじょうぶ」と読み上げるので、いやいやそれは中国語で「男の中の男」を意味するんだと解説するはめになり、思わず泣きたくなったものだ。

  

もちろん、感動的な話もある。台南で大地震が起こった際、市内の維冠ビルが倒壊し、世界中にそれが伝わった。私のフェイスブックにも多くの友人が安否の確認メッセージを寄せた。私は一つ一つに自分は大丈夫であること、台南の大部分では無事であることを伝え続けた。すると2日後、店にずっしりと重い小包が届いた。封を開けると、中にはたくさんの電池が入っていた。被災地に届けてほしいと、日本から送ってきたのだ。感動、感動、また感動である。また、日本の駅前広場では、寒さに負けず台南への募金活動が行われていたことも知った。映像で何人ものおじさん、おばさんが募金している姿を見て、冬にも関わらず、何だかポカポカしてきたものだ。

  

日本人の友人が増えたことで、年明けにはいろいろな形の年賀状が届くようになった。通常の一枚紙のはがきから立体的になるカードまで、全部がくじ付きではないけれど、何気ない日常に温かさと刺激をくれた。生まれてこのかた、こんな気持ちになったことはなかった。みなさん、本当にありがとう。文章にするとあっけないけど、一つ一つ心に残っている。

  

台湾と日本の文化の違い

 忙しく訪問客を迎えていると、全然知らなかった日本という国について、少しだけ知識も付いてくる。何百人もの友人と何千人ものフェイスブック友達とつながっている檳榔店だ。俗に「秀才は門を出でずして、ことごとく天下のことを知る」と言うが、私は国を出ずして日本の出来事を知ることができるようになった。これも全て日本の友人のおかげだ。こんなみすぼらしい檳榔店の、日本語を15フレーズしか話せないおじさんを訪ねて来てくれたからだ。感謝、感謝である。

 

実のところ、私は日本人が台湾に旅行に来ることに内心、疑問を感じていた。多くの日本人の友人は中国語ができない。英語も簡単な会話しかできない。私なら知らない国に一人旅なんて、怖くてしない。

 

私は外国に行ったことがない。そのため、何で観光客はそんなにも勇気があるのか、理解できなかった。彼らに対してただただ、サムズアップ、「すごい!」である、ところが、臭豆腐や魚のもつ炒めなど、香ばしくておいしい料理がなぜか食べられない。刺し身が食べられるのに、なぜかもつや豚レバーや鶏はつが食べられない。想像しただけでよだれが滴る豚足を食べられないのはなぜか。これらの多くの疑問は、今も分からないままだ。

 

歴史観光の新たなステージへ

 

日本人観光客が好きな台南の観光スポットをまとめると、名勝遺跡と台南グルメの他に、縁結びの月下老人の廟にも多くの若い男女が必ず訪れる。女性が恥ずかしそうに尋ねて来たことがあった。私も彼女らの願いがかなったらと心から願う。また、烏山頭ダム飛虎将軍廟訪れることも多い。台湾と日本の過去の歴史が原因だろうか。血縁も地縁も関係ないのに、訪問客はいつも「八田與一」先生の銅像にお花や果物をささげる。自身はたばこを吸わないのに、日本からたばこを持ってきて「杉浦茂峰」将軍にささげることもある。これらは地元の台南人には理解できない行為だが、神様のご加護があらんことを願っている。 

 

 

これまで、日本から台湾を訪れる旅行客は今日ほど多くなかった。台湾すら知らない状況の中、東日本大震災に対する台湾からの支援で多くの日本の友人らが「台湾」を再認識した。もっと台湾のことを知ろうと、興味を持ち始め、多くの方が観光で訪れるようになった。これは一種の国民外交ではないだろうか。台湾人である私も、この盛り上がりに貢献できればと思っている。『私の台南』を読んで、乱雑な私の店舗にやってきて、私とおしゃべりをしてくれる人々と、私なりの方法で台湾と日本との友好に力添えしたいと思う。

 

  

おかげさまで私の日常も楽しいものになった。本を読んだ方は、私を外見だけで判断して店に来ることをやめたりしない。この変なおじさん(実はおじさんというほど年をとっていない)と一緒に写真を撮って、あいさつをして、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取って、互いにフェイスブックでも友達になる。驚きと喜びの連続で、本当に毎日が刺激的で楽しい。まるで私の心を試しているようだ。

 

 

台湾を愛してやまない日本の友人たちにとって、台湾グルメが彼らを引き付けるのか、それとも台南人の人情味なのか——考えてみたものの、やっぱり答えは出ない。それならどんな方法でも試してみよう、誤解があっても面の皮の厚さで乗り切って笑い話にしてしまえばいい。「お客さまは神様」の精神で、毎日遠方からやって来る友人たちを迎えたい。リピーターであろうが初めてであろうが、とことん心を込めたもてなしをしようと思う。檳榔店にやって来た全ての人々に、檳榔だけにとどまらない何かを感じてもらいたい。

 

  

 

 

マルヤン YANG Maru1965年台湾台南市生まれ。1999年に父が起こした檳榔店を引き継ぎ2代目店長になる。台湾で唯一本も売る檳榔店で、日本人観光客がもっとも訪れる檳榔店でもある。今までに3000人以上の日本人観光客を受け入れ、同時にアマチュアのご当地文化ガイドも兼任している。

 

(注) 出所:nippon com コラム(2017/10/07掲載 )


台湾の日本ドラマ世代 

 台湾の日本ドラマ世代            

                              2018.02.24 米果CHEN Sumi

 

日本の番組が台湾に上陸してはや半世紀以上、さまざまな番組が日本ドラマ世代を作った。

 

日本ドラマで癒やされた人生

 私がまだ幼かったころ、父と母から自分たちが20歳ごろの話をいつも聞かされていた。勤めていた台南市街地の紡績工場で、給料が出ると「宮古座」か「世界館」に行って映画を見たそうだ。そのころの台南市街地には劇場が多く、映画以外では台湾の伝統歌芝居である歌仔戲(かざいぎ)の上演もあった。父によると、台湾で戦後に初めて公開された映画は「青い山脈」で、その次は「流星」だった。「宮本武蔵」には、台湾全島がことさら熱狂した。このヒット作にある硫酸を浴びせるシーンをまねする事件が発生したので、上映禁止になったこともあった。

 

終戦に伴い、台湾は「昭和」を離れて「(中華)民国」の世になった。初代総統の蔣介石は日本人に対して「徳をもって怨に報いる」という「徳政」を強調した。かつては敵対国であったが、戦後も日本との関係は良かった。私の父母は終戦時、まだ小学生だった。青春時代を迎えた2人は恋をして、一緒に日本映画を楽しんだ。台湾で初めて誕生したテレビ局には日本のフジテレビの資本が入っていたのだろうか、フジテレビの新技術と特殊撮影を紹介する番組があった。家族全員がテレビにかじり付き、「へええ~」と驚嘆の声を上げたことを覚えている。1972年になり、台湾と日本は正式の外交関係を断絶してしまった。それ以来、大人たちは「田中角栄」の名が出るだけで、とても憤慨するようになった。

 

街頭の貸しビデオ店における日本ドラマ時代

 

国交断絶後は、日本を恨む「愛国作品」が台湾映画界の主流になった。この時期には日本絡みの文化の多くが禁止された。日本映画の上映もできなくなった。ところが、日本の歌はかえって盛んにカバーされるようになった。政府の禁令の結果として皮肉にも、著作権概念に政府の管理が及ばない穴が開いてしまったわけだ。1970年代初頭からの十数年間は、著作を無視して日本のテレビドラマやバラエティー番組に中国語字幕を付けたビデオが、貸しビデオ店の1番の人気作品になった。私の家では毎週のように貸しビデオ店に足を運び、最新の「8時だョ!全員集合」、さらに「日曜劇場」や「火曜劇場」の刑事ドラマのビデオを懸命に探して借りてきた。今でも警察のコートを着た男性がこちらを振り返る冒頭のシーンや、テーマ音楽の旋律までをも覚えている。 

72年の日華断交から88年の台湾での戒厳令解除まで、当局は日本のドラマや流行曲の流入を禁じていた。ところが台湾のエンターテインメント界ではかえって、重度のコピー現象が発生した。バラエティー番組中のコントはこぞって「8時だョ!全員集合」のハイライト場面をコピーした。歌謡界でも「松田聖子」や「中森明菜」をコピーした歌手や曲が登場した。夜市(夜の屋台街)では海賊版のテープを買うことができた。日本のオリコンランキングに登場した有名曲は、ほとんど全てそろっていた。

 

90年代になると、20歳から30歳にかけての人が貸しビデオ店を通して日本ドラマに触れるようになった。彼らは当時、人気の頂点にあった「浅野温子」「浅野ゆう子」「加勢大周」「柳葉敏郎」「石田純一」「吉田栄作」を知ることになった。台湾では連続ドラマが全30話もあるのに対して、日本のドラマは10話から13話とテンポが速い。これも、日本ドラマファンの作品への思い入れを強めることにつながった。「東京ラブストーリー」や「101回目のプロポーズ」は台湾のテレビ局が正規に日本ドラマを放送する前に、貸しビデオ店で大人気作品になっていた。ただし、貸しビデオのテープの品質は悪かった。何度もコピーを重ねた結果、ビデオの冒頭や最後が部分的に消去されているものも、よくあった。古い「水戸黄門」や「忠臣蔵」などの殺陣シーンが見られなくなっていることもよくあった。

 

私の母は生涯かけての「おしん」ファン

 とてつもない旋風を巻き起こしたと言えば、日本で1983年に放送された「おしん」だ。超高視聴率の情報は、台湾にも早く伝わっていた。私の母のように戦時中に生まれた世代にとって、このドラマのエピソードの多くは、まさに自らの物語として語ることができる。台湾側は94年になり、やっと正式に放送権を獲得した。第1回の放送では、毎週金曜日に90分から120分の時間枠で何話分かがまとめて放送された。1カ月ほどして、毎週5日間放送されるようになった。それも、午後8時台のゴールデンタイムだ。「おしん」は台湾で電波を通じて放送された初めての日本ドラマだった。オープニング曲はジュディ・オングが歌う「永遠相信(永遠に信じる)」で、エンディング曲は欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー)が歌う「感恩的心(感謝の心)」だった。この作品は主音声と副音声で日本語か中国語かを選べた。「おしん」はその後二十数年間が経過した現在まで、台湾のケーブルテレビと電波放送で、絶え間なく放送されている。台湾語に吹き替えたバージョンまである。再放送の度に、私の母は、「おしん」の一生をもう一度たどったものだ。年配者を対象とする「おしんのふるさと」を訪ねるツアーは、これまでずっと人気の旅行商品だ。80歳を過ぎた母は、ことあるごとに「おしんの小さいころはこうだった」「おしんの家にも、同じような物があった」と言う。「おしん」に自分の母親の姿を重ねているのだろう。

 

とにかく「リカとカンチ」になって誕生日を祝いたい

 

ビデオテープがVCDDVDに変わり、台北市にある商業施設の光華商場ではいつでも日本ドラマの全集が買えるようになった。しかしその後、テレビ局がライセンスを獲得した日本ドラマがどんどん増えて、海賊版のディスクをこそこそと買う必要もなくなった。レジェンドである「東京ラブストーリー」と「101回目のプロポーズ」は世代のシンボルとなった。だれもが誕生日になれば、ろうそくに火をともしながら、ろうそくの本数ごとに、その歳に出会った人のことを話した。全てが「東京ラブストーリー」に登場する「赤名リカ」が「永尾完治」の誕生日を祝うシーンのまねだった。街でだれかと別かれる時には、「123」と数えてそれぞれが後ろ向きになる(日本語オリジナル版では「せーの」という掛け声)。「101回目のプロポーズ」のシーンのように車の前に出て、大声で「僕は死にません」と叫ぶ者もいた……。こういった児戯のようなことをしていた。中年以降になってもドラマ談義に花が咲く。「もし、リカとカンチが結婚していても、今はもう離婚しているだろうねえ!」といった具合だ。

 

世代にとってトップクラスの意義を持つもう一つの作品は「あすなろ白書」だろう。テーマ曲の「TRUE LOVE」は20年を経た今もなお、小田和正の「ラブ・ストーリーは突然に」、CHAGE & ASKAの「SAY YES」とともに日本ドラマの3神曲とされている。この種の澄んだ高みに上る味わいを思い出せば、それは青春が葬られている海の深みに潜ることになる。現実に戻るのが嫌になってしまうような秘密の薬だ。

  

 

木村拓哉は日本ドラマの時代の刻印

  

木村拓哉の日本ドラマは、台湾の日本ドラマファンにとっては、心の歳月の物差しだ。1993年の「あすなろ白書」の黒縁の眼鏡をかけた取手治、96年の「ロングバケーション」のピアニスト、97年の「ラブジェネレーション」では長髪を後ろで結んだ広告会社のスタッフ、98年に中山美穂と共演した謎に包まれた「眠れる森」、99年の「ビューティフルライフ~ふたりでいた日々~」では結末で人々を泣かせた美容師、続いて2001年の「HERO」での久利生公平、07年の「華麗なる一族」の悲劇の主人公である万俵鉄平、そして08年の「CHANGE」の朝倉啓太は、台湾のドラマファンにとって期待する政治家像になった。だが、私にとって忘れがたい作品は木村拓哉と明石家さんまが共演した「空から降る一億の星」だ。しばしば人々の記憶から抜け落ちてしまう作品で、もう15年も経ったので細かい部分の記憶は薄れてしまったが、今も明石家さんまの打って変わった演技を思い出す。 

 

木村拓哉が主演した日本ドラマは再放送を重ねてきた。それはまるで、日本ドラマファンの一人一人にとって、過ぎ去った歳月に刻まれた記憶を取り出すための錠前のようでもある。「カンチ」の誕生ケーキを思い出せば、あの年、長い休暇を過ごして、その後は恋をしたのだったと思い出す。そして、久利生公平はテレビショッピングで何を買ったのか、総理大臣になった木村拓哉が官房長官役の阿部寛にどんな名せりふを言ったのかなども覚えている。 

われわれはこうして、木村拓哉と共に歳を取っていくのだ。

 

 

大河ドラマと朝の連続テレビ小説の違いが分かった

  

日本ドラマを見始めてから数年は、NHKの大河ドラマと朝の連続テレビ小説の違いがどうもよく分からなかった。「『おしん』のような長編ドラマは『大河』のはずだろう!」と思っていた。後になり、そのような区別ではないと分かった。

 

何年も前のことだが、まだ初級の日本語能力だけに頼り、NHKの国際放送を直接受信した。大河ドラマの古い日本語はとても分かりにくかった。朝ドラに出てくる地方独特の言い回しもそうだ。数年前に福岡を旅行した時に大宰府でハンカチを売る高齢の女性に、大河ドラマと朝ドラには困っていると話した。女性は笑いながら、とても微妙な言い回しで「私だって分かりにくいんですよ」と言ってくれた。たぶん、私を慰めてくれたのだろう!

 

 

台湾で中国語字幕付きで放送されてきた大河ドラマのうち、視聴率が好調だった作品を挙げるとすれば、「篤姫」だろう。戦国時代ファン、幕末ファンにとって、大河ドラマを見るのはとても魅力的な啓発であり復習だ。しかし、ドラマについていくのには少々疲れる。人間関係や相関図がやや複雑だからだ。でも何回か見れば、心が引き込まれてしまう。1年分を見終えれば、次の年の日本旅行の計画はほぼ決まったも同然だ。

 

歴史を押し出す大河ドラマと比べ、人を励まし日常生活を描く朝ドラは、視聴率の面でやや勝っている。おおむね2010年の「ゲゲゲの女房」から、台湾のケーブルチャンネルがNHKの放送直後に朝ドラを放送するようになった。1話は15分で、台湾では1時間分をまとめて放送している。「あまちゃん」は台湾に「接接接(じぇじぇじぇ)」という流行語をもたらした。「マッサン」が放送されると、台湾の日本ドラマファンはウイスキーのことを勉強し始めた。私は「ごちそうさん」を見て大阪が好きになり、「カーネーション」のおかげで大阪府岸和田市にある岸和田商店街を歩いてみたくなった。

  

日本ドラマは魂の友

  

韓国ドラマ、中国ドラマ、米国ドラマによる包囲戦に直面しても、台湾における日本ドラマは視聴率の面で難攻不落のぶ厚い鉄板と言えるだろう。いったん病みつきになれば、抜け出すのはとても難しい。日本ドラマを見ていると、日本で暮らしているという素晴らしき錯覚に陥ることもあるほどだ。私は今も、1日に2時間、日本ドラマを見ている。ぜいたくな没入であり癒やしの時間でもある。テレビであれ、課金されるインターネットの有料動画を選ぶのであれ、日本ドラマについては、ほとんどが合法的に鑑賞できる時代になった。日本ドラマは既に、単純な娯楽目的の選択肢ではない。情緒と感情を投入する魂の友、つまりSoulmateだ。ドラマ中の名せりふは人生の座右の銘であり、ストーリーは人生への励ましだ。私のような日本ドラマファンは、随分かたくななこだわりに仕上がってしまったのかもしれないが。

 

 

 

 

 

 

米果CHEN Sumi

コラムニスト。台湾台南出身。かつて日本で過ごした経験があり、現在は多くの雑誌 で連載を持つ人気コラムニストとして活躍中。日本の小説やドラマ、映画の大ファン でもある。

 

 (注)出所:nippon comコラム(2018/02/24掲載)

 

 

 

 

 


歴史に翻弄された日台航路~日本アジア航空

 歴史に翻弄(ほんろう)された日台航路——「日本アジア航空」の記憶

 

             2018.03.31岡野 翔太

 

日本と台湾を行き来する方は、普段、どの航空会社を利用するだろうか。今は、日本航空(JAL)、全日空(ANA)、中華航空(チャイナエアライン)、エバー航空、キャセイパシフィックにジェットスターなど、フルキャリアから格安航空会社(LCC)まで、10社以上の航空会社が日台間の航路を結んでいる。また、成田国際空港(以下、成田)や大阪の関空国際空港のみならず小松や静岡など地方空港からも台湾行きの便が開設され、気軽に日台間を行き来できるようになった。しかし、それはここ数年の話である。

 

日台間で多くの飛行機が飛び交うことは当たり前に思えるかもしれないが、実は1015年ほど前まで、日台間の航空路は「特異」な状態にあった。日本のナショナルフラッグキャリアである日本航空は台湾への便を設定しておらず、また台湾のチャイナエアラインやエバー航空は成田空港を使用することができなかった。

 

1990年生まれの日台ハーフである筆者は、子どもの頃家族で台湾に帰るのが大好きだった。そのとき、よく乗っていたのが「日本アジア航空」である。ただ、「アジア」の二文字の意味はよく分かっていなかった。10年以上前から日台間を行き来している人ならば、きっと「日本アジア航空」(JAA/日本亞細亞航空)という航空会社の存在を記憶していることであろう。この「日本アジア航空」こそ、日台間航空路における「特異」な状態の象徴であった。日本アジア航空は、1974年に日中間の定期航空路を開設した日本航空が台湾路線を飛ばせなくなった代わりに設立された。

 

国内」航路から「国際」航路へ

 

1895年に日本が台湾を領有すると、その翌年には船による日台定期航路が開設された。大阪商船や日本郵船の大型船が神戸と基隆を結び、神戸は台湾人が日本に渡る際にまず踏み入れる玄関口であった。日本で著名な台湾人小説家陳舜臣の一家も神戸の地に上陸して根を下ろし、「真珠王」として知られる台南出身の鄭旺(田崎真珠の田崎俊作を育てたことでも知られる)も戦中から戦後にかけて神戸の地で活躍した。27年に台湾共産党を立ち上げた謝雪紅は、19年から3年ほど神戸にいたという。

 

戦前の一時期、大日本航空などが日台間で航空路を築いていたようだが、費用面や定員は船には遠く及ばなかった。いずれにせよ、日台航路は今日の在日台湾人を生み出すポンプとなっていた。44年に入ると、日本の戦局は次第に悪化し、日台航路の船が米軍によって撃沈されるという事態が相次ぐ。日本の敗戦が決定した458月時点において、日台間の航路は事実上の消滅状態となっており、航路の「中断」は4512月に在日台湾人の帰国希望者の送還が始まるまで続いた。

 

また第二次世界大戦の終了から5年の間に、大陸では中華人民共和国が成立し、それまで大陸を統治していた中華民国は台湾に逃れた。朝鮮半島では朝鮮戦争が勃発し、南北分断が固定化されるなど、東アジアの情勢も急激に変化した。日本は連合国軍総司令部(GHQ)統治下にあって主権の回復はしておらず、また航空禁止令が敷かれていたため日本で自前の航空会社を持つことや航空機の製造などが認められなかった。

 

航空機の台頭とにぎわう日台空路

 

船から飛行機へと取って代わられたことも、戦後日台航路の大きな特徴である。1950年代に入ると、ボーイング707旅客機(57年初飛行)、ダクラスDC858年初飛行)そしてコンベア88059年初飛行)など4発ジェット旅客機の開発が相次いだ。コンベア88060年にかけて、台湾の民航空運公司(CAT)や日本航空さらには香港のキャセイパシフィック航空などが導入し、日台航空路にも充当された。

 

CAT50年代に台湾内外の航空路線を提供した航空会社としても知られ、504月には台北と東京を結ぶ路線を開設した。その運航資金にはアメリカの中央情報局(CIA)からの援助があり、CATは朝鮮戦争時に国連軍の物資輸送を担うなど、民間航空会社以上の活躍をした。

 

67年に中華航空が台北大阪東京に初便を就航させた。以降、CATに代わる台湾のナショナルフラッグとして中華航空が活躍することとなった。一方、日本航空は51年に成立し、台湾路線は59730日に開設された。

 

大阪万博の開催された70年は、日本航空が大型のボーイング747型機を導入した年でもある。この時点で、日本航空と中華航空は日台間航空路において5割近くのシェアを有し、日本航空の国際線としてはホノルル線に次ぐ稼ぎ頭となっていた。そんな日台間航空路が活況を示していた頃、台湾(中華民国)を取り巻く国際環境は急変する。71年の中華民国の国連脱退、そして翌年の日本との断交である。

 

 

活況から「中断」、そして日本アジア航空の誕生へ

 

 

日本と中華民国の間で国交があり、日本の国営航空会社が台湾に就航していたことは、つまり中国への便を開設していないことを意味する。1972930日、日本航空の特別便に乗った田中角栄首相は北京首都空港に降り立ち、周恩来の出迎えを受けた。その周の傍らには、日本統治時代の台湾に生まれ神戸で育ち51年に中国へと渡った林麗韞がいた。周と田中が握手を交わした場面は、長らく故郷と隔絶された状態にあった在日中国人に感動をもたらしたことであろう。しかし、それは後に台湾の航空会社が日本の空から、そして日本の航空会社が台湾の空からも消える淵源(えんげん)でもあった。 

 

中国側は日本に対して日中航空協定締結の条件として、中台の航空機が日本の空港に並ばないこと、中華航空機が旗(中華民国国旗)を外すこと、日台間の航空協定の完全消滅の明確化などいくつかの「提案」を行っていたからである。また、日台間の航空路線の維持については条件付きで認める表明をした。

 

中国の提案を受け、日本の外務省ならびに運輸省(現在の国土交通省)は、台湾には日本航空が就航しない中華航空の大阪(伊丹)便の他空港移転中国民航は成田空港を使用し、中華航空は羽田空港を使用する。成田空港開港前は両航空機の時間帯調整を行う中華航空という社名と旗の性格に関する日本政府の認識は改めて明らかにする、などの案を自民党総務会に提出し、了承された。 

 

こうして74420日に北京で日中航空協定が締結された。同時に大平正芳外相は「日本政府は、台湾機にある標識をいわゆる国旗を示すものと認めていない。中華航空が国家を代表する航空会社であるとは認めていない」との談話を発表した。そのため、台湾の沈昌煥外交部長は直ちに日台間航空路の停止を発表し、翌日の便を最後に日本航空と中華航空は日台路線から撤退した。台湾との往来が必要な在日台湾人にとっては、戦後直後に次ぐ居住国と故国を結ぶ航路中断の記憶といえよう。

 

日台間の移動には、日本を寄港地とする大韓航空など第三国の航空会社による直行便、あるいは香港を経由するしか方法がなくなり、深刻な供給不足に陥った。ところが757月に宮沢喜一外相が「(台湾と国交を有する)それらの国々が青天白日旗を国旗として認識している事実をわが国は否定しない」といった答弁を行ったことで、日台の航空会社による航路の再開に向けて事態が動き出した。そして、758月に日本航空の子会社として「日本アジア航空」が設立され、同年915日に東京台北線、翌年726日に大阪台北線が開設された。一方の中華航空は75101日に台北-東京線および東京経由米国行きの便を再開させるも、大阪線は再開されなかった。

 

日本アジア航空が築いたもの

 

それでも、「日本航空」が台湾路線を飛ばさなかったという事態は「異常」なことであろう。中国に就航する欧州の航空会社の中には、日本アジア航空に倣い、台湾路線用に機体の塗装の変更、あるいは別会社運航の形で対応するケースが見られた。今でも、アムステルダム-台北線には「KLMアジア(荷蘭亞洲航空)」の機体が充当されることがあるが、これも日本アジア航空と同様のケースである。 

 

大げさに思われるかもしれないが、日本の社会科の教科書にある「世界の国」リストを見ても「台湾」の名が記されていないことや、台湾路線用に日本「アジア」航空が作られ、飛んでいたことは、日台ハーフの筆者にとってやり場のない疎外感を抱かせた。ただ、日本アジア航空は中国への政治的配慮によって生み出された会社ではあったが、台湾路線を主に運行するということもあって、国交の切れた日台をつなぐ架け橋として果たしてきた貢献は極めて大きいといえる。

 

今でこそ台湾は若い女性に人気の旅行先であるが、半世紀近く前、日本人は台湾を「男性天国」というまなざしで見ていたと聞く。そのため、かつての台湾は日本人に人気の「観光地」ではなかった。そのような中19762月、日本アジア航空は台湾出身の歌手ジュディ・オングを起用し、「台湾ビューティフル-ツアー」と銘打った女性のみの台湾ツアーを企画した。これは女性需要の掘り起こしのスタートと位置付けられよう。以降も同社は台湾の観光をPRするCMを放映し、89年には「女性にやさしい台湾」とのキャッチフレーズが用いられた。98年からは俳優の金城武がバイクで台湾の街中を走り台湾のお茶とショウロンポウを頰張るCMが放送されていた。一連のCMによって、台湾へのイメージが向上したといっても過言ではない。 

 

そして月日とともに日台航路にも変化が訪れる。2002年には中華航空およびエバー航空の成田空港使用は許可され、06年には中華航空が32年ぶりに大阪路線を復活させた。また、05年には中台間で直行チャーター便が運航された。こうなると、「日本アジア航空」の存在価値が揺らいでくる。08331日、日本アジア航空は日本航空に吸収され、翌日より日本航空が台湾路線を「復活」させた。

 

日本アジア航空が幕を閉じて今年で10年。この10年の間に日台間の航空路は大きく変貌した。1010月、それまで国内線専用空用として運用されてきた台北松山空港(1979年以前は国際線の発着空港)と東京国際空港を結ぶ定期便の就航や、1510月には関西空港と台南を結ぶ定期便が就航したことは、日台間の航空路の盛況ぶりを物語っている。

 

たしかに、日本アジア航空は「特異」な存在であった。そうした中において、日台間の往来が今日に至るまで不自由なく保たれてきたことは、日本アジア航空があったからこその成果ともいえる。

 

 

 

岡野翔太 (おかの しょうた) 

 

大阪大学人間科学研究科博士課程。台湾名は葉翔太。1990年兵庫県神戸市生まれ。父は1980年代に来日した台湾人、母は日本人。小学校、中学校は日本の華僑学校に進む。専攻は華僑華人学、台湾現代史、中国近現代史。著書に『交差する台湾認識-見え隠れする「国家」と「人びと」』(勉誠出版、2016年)

 

  (注)出所:nippon comコラム(2018/03/31掲載)


台湾の若者で「注音符号」が愛されているわけ

台湾の若者で「注音符号」が愛されているわけ

 

              文=nippon.com編集部 高橋郁文 

                                                      [2018.06.02]

  20代の若者に根強い愛着

 今、台湾の若者の間で「注音符号」への愛着がかつてないほど高まっているという。 

201838日、民進党の台南市長予備選の世論調査で、注音符号廃止を訴えた葉宜津立法委員(代議士)が支持率で最低となり、自身のフェイスブック注音符号で書かれたコメントで荒らされたことが現地ニュースで話題になった。 

注音符号とは、清朝末期から漢字の発音を記す方法として検討開発していたものを、中華民国が1918年に「国音字母」として公布し、最終的に名称が注音符号となったものだ。その基本構造は、漢字の一部、あるいは全部を使った37文字からなる。 

中華民国が台湾に移った以降、現在でも台湾人の初等教育の場や外国人の中国語学習の場で、日本の「仮名」と同じような状況下で学ばれている。日本人学習者の間では、俗に「ボポモフォ」と呼ばれている。 

一方、中華人民共和国が成立し、標準語を再整備した「普通話」の中国では、発音記号にローマ字表記による「ピンイン」が用いられ、注音符号は使われなくなった。現在、一般の中国人で注音符号の読み書きができる人はほとんどなく、辞書の発音の記述で目にするくらいだ。 

台湾における中国語の「国語」と中国における中国語の「普通話」の目に見える最大の違いは、台湾の繁体字と中国の簡体字という漢字の字体と共に、発音記号で注音符号を用いるかどうかにあるとも言える。 

しかし、注音符号はあくまでも発音記号であり、日本語の「仮名」のように、文献やメディアなどの書物で漢字と混ぜて書かれることはほとんどない。台湾の街中の看板で目にする確率は、おそらく日本語の「の」の字よりも少ないのではないだろうか。ちなみにこの「の」は同じように使用される助詞の「的」が置き換えられたもので、台湾人の間で最も知られた日本語の文字、「仮名」である。 

ところが、2000年以降、台湾本土化の流れが加速する中で、特にポスト民主化世代の20代の若者の間で、注音符号は単に発音記号としての枠組みを超えた存在になっているようだ。 

独特のニュアンスが魅力に 

台湾本位の考えが進む中で、言ってみれば中国由来であり、キーボード入力では「仮名入力」のようにローマ字入力以外にもう一つ入力法を覚える必要がある注音符号をいちいち学習するのは面倒だと考える台湾人は、特に戒厳令下に生まれ育った現在の中年層に見られる。彼らにとって注音符号はあくまでも発音記号でしかなく、時に上述の葉立法委員のように注音符号の廃止を訴えたりする。民主化以降の台湾で、注音符号は中国由来の過去の産物の一つとして使用停止や廃止が何度か検討されたが、そのたびにいつも台湾社会で物議を醸してきた。 

一方、ポスト戒厳令世代の状況はどうだろうか。台湾の20代の若者になぜ注音符号に愛着を感じるのか聞いたところ、「単に小さい頃から使っているからではない、日本語のも注音符号のかわいい柔らかいニュアンスがあって思わず使ってみたくなるのだ。しかし、皆が日本語の仮名を全部知っているとは限らない。でも注音符号なら誰もが知っている。だから使いやすい」と語っていた。 

アイデンティティーのアイコンとして定着 

注音符号への愛着は、当初の表現方法の一つから、アイデンティティーという要素が注入され、いつの頃か若者の間で中国とは違う台湾の象徴の一つと捉えられるようになった。 

言葉や文字は自分たちと他民族や他国家とを区別する最も分かりやすいものだが、現在の台湾人が台湾ナショナリズムを主張する際、そこには台湾の国語と中国の普通話の違いはどこにあるのかという問題に直面する。台湾には従来使用されてきた閩南語などをベースにした台湾語があるが、北京語ベースの国語が普及した現在、台湾語を読み書きまで自在に操れる人は、戒厳令下では公の使用を禁止したこともあって、台湾北部の都市部を中心に一時減少してしまった。現在、学校で台湾語教育が進められているが、台湾語がただちに唯一の国語になるのは難しい。 

一方、国語と普通話の目に見える違いについては、漢字の字体で旧字体(繁体字)を使用していること、そして注音符号を使用していることがある。そのため、台湾人が注音符号という身近なところにアイデンティティーを見出すのは理解できる。生まれながらにして台湾は中国とは別であると認識している「天然独」と呼ばれる若者世代にとって、注音符号がもはや発音記号という本来の意味を超えて、アイデンティティーのアイコンになっていることには留意しておきたい。 

台湾社会の多様性を表す試金石に 

しかし、注音符号がこれから漢字に取って代わって国字として台湾社会の中で地位を築くのかと言えば、それは難しいと言わざるを得ない。 

まず、注音符号は漢字の一部、あるいは全部で音を表記するのに特化した文字のため、一字でさまざまな意味を含む漢字と違い、そこに含まれる情報量は圧倒的に少ない。そのため文章は長尺化し、それまで漢字の短尺化に慣れ親しんだ人々にとって、読み書きの点でかなりの負担になる。また、例えば文章の全てを「仮名」で表記するように、全てを注音符号で表記すれば、漢字に慣れ親しんだ社会ではとにかく読みにくいと感じ、情報伝達の面で混乱が生じることは容易に想像できる。 

次に、「の」を表現方法の一つとして長らく用いてきた台湾人の表現感覚から考えた際、一つの文字(漢字)による表現方法よりも多少、ローマ字や「仮名」が入った混ぜ書きの方がカッコ良く感じるようだ。しかし、これらはあくまでも表現方法の手段であって、他の文字に完全に乗り換えるということではない。日本で、平仮名、片仮名、漢字、ローマ字などを一つの文章内で用いるように、台湾でも、漢字、ローマ字、「仮名」と共に、注音符号が正式に列に加わったと見るべきである。 

また、日本で漢字使用の全廃(あるいはローマ字への完全な乗り換え)が提唱はされても実際にはそうならなかったように、台湾でも漢字使用の全廃はないと考えられる。文字は情報伝達における機能がまず優先され、それを満足した上で、美しさを求めるステージに入る。漢字は注音符号に比べバラエティーに富んでおり、美しさでもかなうものではない。今後、注音符号がもっと広範に使用されることはあっても、文章の根幹を成す漢字がなくなることは考えられない。 

もう一つ、一般的に「台湾華語」と呼ばれる台湾発の外国人向け中国語教育で注音符号を堅持することは、ローマ字の「ピンイン」で発音を学ぶ中国発の中国語より負担が多いことを意味する。注音符号は、いくら100年の歴史があって発音を正しく表記できるとは言え、外国人学習者や台湾華語の国際化にとって、必ずしも有益とは言えない。 

では、注音符号重視の流れはどこまで広がるのだろうか。台湾アイデンティティーを重視する若者の間で注音符号が愛着を持って使用されている現在の状況から考えると、今後、この世代が台湾社会の中枢になる頃には、社会で注音符号を目にする機会はもっと増えるのかもしれない。また、台湾社会が新移民に代表される他民族や彼らの言葉をどんどん受け入れている中で、多様化の度合いはますます加速している。 

台湾の若者の注音符号への愛着とそこにある思いは、台湾アイデンティティーだけの問題にとどまらず、台湾社会の多様性を表したものとして、今後も注目していきたい。

 

 


台湾で神社が多数造営されたわけ

 台湾で神社が多数造営されたわけ

 

金子展也

 1895417日、日清講和条約が調印された。台湾および澎湖島の日本への割譲が決定したことにより、日本の地にしか祭られなかった神道の神々が新しく日本の領土となった台湾へ、ヒト・モノ・カネの移動に伴い、海を渡り、台湾の地に祭られた。

 

6年後の19011027日、台湾の総鎮守として台湾神社(44年に台湾神宮に改称)が鎮座した。そして、開拓の神々である大国魂命(おおくにたまのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)および少彦名命(すくなひこなのみこと)と北白川宮能久親王(きたしらかわ・よしひさしんのう)が祭神として祭られた。

 

皇族として海外での逝去が台湾での神社創建運動のきっかけに

 

1895531日、能久親王は日本の台湾領有に伴い、近衛師団を率いて澳底(おうてい)に上陸し、基隆から台南まで武装集団との抗争を繰り広げた。近衛師団を悩ませたのは、これまで体験したことがない、台湾特有の湿気をもった暑さと非衛生的な環境であった。能久親王も台湾南部の嘉義を越えた辺りでマラリアに感染し、高熱と下痢とに闘いながら、「平定の戦い」の最終地点である台南に到着するが、1028日に逝去してしまう。皇族として初めて日本以外で逝去したことで、国内では能久親王を祭る神社創建運動が高まる。その後、「別格官幣社を台湾に建設する建議案」が19009月に衆議院で可決し、同時に内務省告示81号が告示され、台湾神社は植民地で初めての官幣大社として創建されることに決まった。能久親王の薨去(こうきょ)した1028日を例祭日として、011027日に鎮座した。

 

台湾の地方都市にも広がる神社の造営

 

台湾神社が鎮座すると、主だった地域で一斉に神社の造営が始まった。台湾統治上の必要性は迅速な「日本化」の浸透であった。日本化とは天皇を中心とした天皇主権国家であり、その中に占める神道の神々を祭る神社は絶対的な権力の象徴でもあった。

 

台湾の行政地区の中心となった地方都市には県社規模の神社が造営され、台湾神社の祭神を祭り、それぞれ県社として列格されていった。県社への列格年代順で見ると、開山神社(1897年)、台中神社(1913年)、嘉義神社(17年)、新竹神社(20年)、花蓮港神社(21年)、台東神社(24年)、阿緱神社(26年)、宜蘭神社(27年)、高雄神社(32年)、基隆神社(36年)、そして、澎湖神社(38年)となる。

 

台湾が日本となった初期では、神社造営と各種国家記念事業である御大典(大正天皇即位の礼、15年)、皇太子行啓23年)および御大典(昭和天皇即位の礼、28年)は大いに関係があり、これらの記念事業をその神社造営の推進力とした。その後、319月に満州事変が発生。323月には満州国が樹立され、333月には国際連盟から脱退したことにより、日本を取巻く情勢が急変した。日本は国際情勢の緊迫化を伴う国家非常事態体制下にあった。この頃は台湾における神社の重要性が大きく変化する節目でもあった。国民に対して国威発揚、国民精神の高揚などが叫ばれ始め、国家神道に基づき、国民精神の育成が急務となり、神職会(神社本庁の前身)から神宮(伊勢神宮)大麻が主だった神社経由で本格的に頒布されていった。この過程で、地域の土地守護神として34年末、北港神社(台南州北港郡)が社格をもつ「神社」として造営され、台湾での神社造営ラッシュの先陣を切った。

 

 

 

神社規定の整備

19349月に台湾総督府文教局から「神社建設要項ニ関スル件」として、初めて「神社」に関する規定が提示された。神社には「神社」と規定される要件があった。

1)必要条件として、境内入口に鳥居があり、社殿(本殿、拝殿)まで参道が通じ、参道のそばには手水(ちょうず)舎、社務所などがある。

2)敷地45000坪(13.3平方メートル)以上、本殿 5坪程度、拝殿 20坪程度とされた。

3)「神社」であるためには、崇敬者または氏子は50人以上とし、その中の総代が神社に関する維持のための一切の事務を行う義務を有する。

 

つまり、この要件に当てはまるのが、台湾総督府文教局社会課が発行した『台湾に於ける神社及宗教』(433月発行)であり、また、田村晴胤(たむら・はるたね)による『神の国日本』(452月発行)に掲載されている68社の神社であった。これらは、祈年祭・新嘗祭に天皇や国から奉幣(神饌=しんせん=以外で神に奉献すること)や幣帛(へいはく)料(金銭での奉献)を受ける官幣社(2社)や国弊社(3社)を筆頭に、県社(8社)、郷社(17社)、無格社(36社)、そして、台湾護国神社と建功神社を含んだ。なお、終戦間近に3社が無格社から郷社へ列格され、最終的に郷社は20社、無格社は33社となった

 

 

                        往時の台湾神社(提供:水町史郎)


神社造営にブレーキをかけた戦争


19367月に総督府より「民風作興運動」が宣言され、敬神崇祖思想の普及、皇祖尊崇、そして、台湾人に対しては国語(日本語)普及および常用が求められた。その1年後の377月に盧溝橋事件が発生し、日中戦争へと発展する。そして、同年9月には第一次近衛内閣による「国民精神総動員運動」が提唱された。このような状況下、海軍軍人の小林躋造(こばやし・せいぞう)が第17代総督に就任すると、これまでの「民風作興運動」をさらに発展させた「皇民化運動」が提唱され、改めて、地方の行政単位である街や庄にまで神社を造営しようとする「一街庄一社」政策が叫び出された。この方策として神社参拝、大麻奉斎、そして、台湾人の家庭では正庁改善(祖先位牌や道教などの神々を祭る祭壇に代わり、大麻を祭った日本式神棚への改善)や寺廟整理(寺廟の取り壊しや統合)が展開されていった。


盧溝橋事件に端を発した日中戦争に続き、4112月に日本は太平洋戦争に突入する。この頃になると既に地方財政の疲弊が現れ始め、神社敷地の買収費を含めた神社造営費はますます巨額となった。さらに神職の確保にも支障を来したため、新たな神社造営に急ブレーキがかかった。34年に北港神社が造営されて以来、終戦までの10年間に、わずか32社の神社が造営されたにすぎない。「一街庄一社」政策は掛け声に終わり、現実的な「一郡一社」程度で終わった。


一方で、新竹神社、台中神社や嘉義神社の県社から国弊小社への列格、また、数多くの無格社を郷社へ列格(3710月~454月までの間に21社)することにより、神社の尊厳さを高めた。さらに、神社とは別に、その神社の管理に属した摂末社(せつまつしゃ)の造営や遥拝所(ようはいしょ)により、国家神道の浸透を図った。


                [2018.06.16]NIPPON.COMより転載


 


 金子展也(かねこ のぶや)

  1950年北海道生まれ。小樽商科大学商学部卒業。卒業後日立ハイテクノロシーズで勤務。2001年より2006年まで、台湾に駐在する。現在、神奈川大学非文字史料研究センター研究協力者として海外神社の調査、研究及び一般財団法人台湾協会評議員。著書に『台湾旧神社故地の旅案内―台湾を護った神々』(神社新報社、2015年)『台湾に渡った日本の神々』(潮書書房光人新社、2018年)


 


 


 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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