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移民共生先進国・台湾に見る「お手伝いさん」のススメ

 

 移民共生先進国・台湾に見る「お手伝いさん」のススメ

 

                 栖来ひかり(台湾在住ライター) 

 

 「猫の手でも借りたい」という言葉がある。

 そして、実際に猫の手を借りた『きょうの猫村さん』ほしよりこ/マガジンハウス)という漫画がある。家事全般に長けたネコの「猫村ねこ」さんが、とある富裕で事情持ちな家庭に家政婦として派遣される話だ。この猫村さん、料理もお掃除もパーフェクトなのに、緊張して爪を研いだり毛を舐めたり猫舌だったりと何とも愛くるしい。猫だけに人間の事情にもちょっと疎いので、かえって雇い主にとって気の許せる存在だ。

 

 

 この作品を読んだら誰もが「ああ、猫村さんが家にきてくれたら」と夢想するに違いなく、老若男女を魅了して大ベストセラーとなった。

 

 働き手の減少と共に女性の社会進出が叫ばれるなか、仕事・家事・育児の一極集中による女性の負担は「ワンオペ」と揶揄され、少子化の進む日本の社会問題になりつつある。介護分野の人手不足も深刻で、世界中のどこの国よりも早く高齢化社会をむかえた日本はまさに「猫の手でも借りたい」ぐらい切迫した状況といっていい。


 今年になって日本政府は、外国人に対して新たな在留資格を新設することで、移民によって農業や介護現場に対応していく方針を固めた(出入国管理及び難民認定法に関する改正案)。これまでの「技能実習」という実質を伴わない制度に比べて日本の移民政策は大きく進歩したといえるが、またこれによって様々な問題も予想される。

台湾のリアルな「お手伝いさん事情」とは

  

 筆者が暮らしている台湾も、日本を上回るスピードで高齢化が進んでおり、家事や介護の分野でも早くから外国人労働者の 手を借りている。台湾政府によると、現在は25万人以上の外国人労働者が家事や介護に携わっているそうで、人口2350万人の台湾ではかなり高い割合だ。不法滞在や偽装結婚など裏のルートもあるので、実際の人数は更に多いだろう。当然ながらトラブルも少なくないが、概してメリットの方が大きいから、これだけ数が増えたといえる。こうした台湾でのお手伝いさん事情を、身近な例から紹介したい。

 

 台湾の介護社会において外国人労働者は欠かすことの出来ない存在。街中や交通機関、

公園などあちこちで見かけることが出来る(写真:筆者提供)

 

女性の社会進出が進んでいる東アジアの多くの都市で、外国人労働者のお手伝いさんが受け入れられているが、周囲をみる限りでは、住環境が劣悪といわれるシンガポールや香港に比べ、台湾は比較的マシな労働環境ではないかと思われる。実際、自宅介護などで公的な機関に雇い入れを申請する際に、お手伝いさん用の個室があるかどうかもチェックされ、契約の際にも休日や労働時間について話し合われる(そうではないブラックな雇い主も勿論いる)。

 

 筆者が直接に交流をもった外国人労働者の女性はこれまで15人ほどいるが、その中の多くがインドネシア人女性、続いてフィリピン人女性だった。

 

 近年台湾に働きに来ているのは、東南アジアからのムスリムの

人々が多い(写真:筆者提供)

 

  

筆者の以前の職場でお手伝いさん及び高齢者の介護をしていたフィリピン人女性は、大卒で教員免許も持っていると言っていた。フィリピンでは、こうした高学歴の女性でも海外に家事・介護労働で働きに出ている例が多い。英語と中国語を流暢に操り、頭がよくて働きぶりも真面目だったので、相場より高い給与をもらい、故郷が台風による水害で大変だった時も、雇い主である社長が見舞金や飛行機代を出すなど、かなり大事にされていた。

 

「貧しさゆえに仕方なく働かされている」は勝手な思い込み

 

外国人お手伝いさんを、家族同然に大切にする家庭は少なくない。働きぶりがよく能力のあるお手伝いさんは引く手あまたなので、出ていかれると困るという事情もある。相性の良いお手伝いさんにめぐり合うのは大変なことで、15人以上とっかえひっかえして、結局は雇う事自体を諦めてしまった台湾人マダムもいる。

 

 実際、筆者も事情があってお手伝いさんと暮らした事があるが、1人目は2週間でふらりと居なくなり、2人目・3人目も一か月ずつで辞めて、別の職場へ行ってしまった。筆者としては、思いやりをもって応対したつもりだけにショックだったが、当初自分が彼女たちに対して抱いていた「貧しさゆえに故郷の夫や子と引き離され、仕方なく働かされている」ようなイメージが、じつは他者への尊重をはき違えた勝手な思い込みに過ぎず、そうした同情や憐みは逆に失礼だと思い知らされた。

 

 我が家に来た2人目のインドネシア人女性は、国に夫と小さな子供がいたが、台湾にもインドネシア人の彼氏がいて、毎晩9時頃に仕事を終えた後はベランダで小一時間ほど電話で彼氏と喋るのを日課にしていた。また毎週末の休日には、インドネシアの人々が集まる郊外のダンスホールへ出かけていった。

 

  大抵、どの女性もお洒落に関心を持っていて、露天で流行の洋服を買うのを楽しんでいた。日々アイロンがけしたり、高齢者の車いすを押しながらハンズフリーの携帯電話で仲間と喋り、色んな情報交換をしながらより良い労働環境を手にしていく彼女たち。物心がついたら何となく結婚して早く子供を産むのが一般的な封建的な田舎で育った女性達にとって、台湾に来て働くことは、自由の獲得であり一つの自己実現の形でもあるのだろう。

 

 

日曜日の台北駅には台北近郊から多くの外国人労働者の人々が集まり、思い思いの休日を楽しむ(写真:筆者提供) 

 

 

「一緒に良い社会を作っていく」という意識が大事 

 

 台湾にも、制度上の改善の余地はまだまだある。現在の問題は、現場で培われたノウハウが帰国や職場の移動によって引き継がれず、場当たり的になってしまっていることだ。また今後は中国など他所の給与水準が上がることで台湾離れが進み、新たな人手不足が起きる事も考えられる。そういう意味でこれから、多くの人材受け入れを予定している日本も、どうすれば彼女たちにとって日本が「魅力的な働き場所」となるかを考えることは不可欠だろう。

 

 今や自らの意志で色んな選択ができる彼女たちが、もっと高いレベルで自己実現できるような環境、例えば経験やノウハウの蓄積によって給与が上がったり、キャリアを積んで資格を取得することで家族も一緒に暮らせるような滞在ビザが発給されるなど、来日して働くモチベーションが上がるシステムを整えていく必要がある。そうすることで、仕事上起こりうるトラブルを未然に防ぐことも期待できるし、優れた人材が残っていくことで結果的に日本人社会にとってプラスに繋がっていくとおもう。こうしたことは、家事・介護に携わる人材に限らない。

 

 一世を風靡するような漫画のキャラクターとは、時代の要求の投影でもある。高度経済成長期に求められた原子力政策のなか「鉄腕アトム」が生まれ、平和憲法のもと武力が必要とされる矛盾の中で「ウルトラマン」「巨大ロボット」といった正義の味方が誕生した。現代において「猫村さん」が多くの日本人を魅了するのは、家事・介護労働を担う人材について、日本社会が待ったなしの切実さを抱えている反映だと思えてならない。

 

 かといって、日本人の気質を考えても、すぐさま外国人の「お手伝いさん」に馴染むのは難しいと思われる。幸いお隣の台湾には、そうした外国人労働者問題に関しての経験やノウハウ、社会研究の蓄積がある。そうした台湾の先例に学んで日本に合った制度設計を進めていくと共に、外国人労働者を「働かせる」のではなく、その力を借りて一緒により良い社会を作っていくのだという意識を、日本人はもっと理解していく必要があるように思う。

 

 

(筆者紹介)栖来ひかり(台湾在住ライター)
京都市立芸術大学美術学部卒。2006年より台湾在住。日本の各媒体に台湾事情を寄稿している。著書に『在台灣尋找Y字路/台湾、Y字路さがし』(2017年、玉山社)、『山口,西京都的古城之美』(2018年、幸福文化)がある。 個人ブログ:
『台北歳時記~taipei story

 

 (注)出所:「WEDGE Infinity」(2018年6月18日掲載)  

 

 

 

 


 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



知られざる日本史――皇太子「台湾行啓」をたどる 

 

知られざる日本史――皇太子「台湾行啓」をたどる 


               片倉 佳史(台湾在住作家)
                  
nippon.comコラム:2017122


 台湾が日本の統治下に置かれた半世紀。19234月、のちに昭和天皇となる皇太子裕仁(ひろひと)親王は摂政の立場で12日間、台湾に滞在した。交通が不便な東海岸や中部山岳地帯には足を伸ばさなかったものの、主要都市をほぼ訪れている。視察先は62カ所にものぼり、催された祝賀行事は232にも及んでいる。まさに、台湾総督府にとっては空前絶後の一大行事であった。

 この台湾行啓が実現したのは第8代台湾総督の田健治郎(でんけんじろう)の時代だった。当初は西欧外遊の帰途に台湾に寄ることが計画されたが、長旅で日程の調整も難しいということから帰国後、改めて議論された。

 そして、45日に出発することが一度は決まったものの、フランス留学中の北白川宮成久(なるひさ)王が41日に自動車事故に遭い、パリで死去するという事件が起こった。これを受けて皇太子の台湾行啓は延期となった。

 結局、412日に皇太子はお召し艦「金剛」で横須賀を出発し、16日に基隆に入港した。
台湾の主要都市を巡る
 一行が上陸したのは午後125分だった。基隆港駅前桟橋では台湾総督府鉄道部長の新元鹿之助が出迎えた。一行はそのまま駅に進み、この日のために仕立てられた特別列車に乗り込んだ。

 台北駅に到着したのは午後220分。海軍軍楽隊が君が代を演奏し、一行を出迎えた。駅前は清められ、特設の奉迎門が設けられた。沿道は奉迎の団体や一般市民で埋め尽くされ、この日だけで10万もの人が出迎えに上がったとされる。この頃の台北市の人口は17万人程度とされるので、この数字がいかに大きなものかが理解できる。

 台北での宿泊所となったのは台湾総督官邸だった。現在は 台北賓館の名で迎賓館として使用されている。ここは台湾政府から歴史遺産の指定を受けており、年に数回の一般公開日が設けられている。

台北賓館

注目したいのは、敷地内の庭園に亜熱帯性植物が選ばれ、植樹されていたことである。これはマラリアをはじめとする疫病がまん延していた時代、要人が地方都市に赴かなくても、台湾らしい南国風情を楽しめるようにという配慮だった。

 一行は2日間の台北市内視察の後、台中へと向かっている。列車には台湾総督の田健治郎が同行し、途中、桃園台地を通過の際、農業用水路とため池についての説明をしている。ちなみに、桃園台地は世界でも有数のため池密集地で、台湾行啓は桃園大[土川](農業用水路)の工事のさなかだったこともあり、解説にも力が入ったと推測される。なお、このため池群は現在も数多く見られ、台湾高速鉄路の車窓から眺められる他、台湾桃園国際空港に離着陸する際にも眼下に確認できる。

 下車駅となったのは新竹駅で、1913年に完成した駅舎(右写真)に降りたっている。この駅舎は直線を多用したドイツ風バロックと呼ばれるスタイルで、基隆、台中と並び、台湾の三大駅舎に挙げられていた。現在もその姿を保ち、東京駅丸の内駅舎と姉妹駅協定を結んでいる。

  

                 新竹駅 

新高山に対し、次高山を命名

 新竹を出た一行は台中に向かった。その途中、車中で台湾第二の高峰シルビヤ山の説明を受ける。標高は3886メートル。台湾第一の高峰である新高山(現称・玉山)を明治天皇が命名したことを受け、これを「次高(つぎたか)山」と名付けた。その後、台中に1泊した後に台南を目指している。途中、嘉義駅通過後には北回帰線標を車窓に眺めている。

 台南の宿泊所となったのは台南州知事官邸だった。皇太子宿泊所が現存するのは台北と台南だけで、史跡の指定を受けている。館内の見学も可能で、古写真やパネル展示がある。市民の関心は高く、台南市内の行啓地点を紹介したパンフレットが用意され、そのコースを巡る旅が人気を集めている。

 高雄市内を21日に視察し、翌22日は屏東にある台湾製糖株式会社の工場を訪ねている。ここでは特設休憩所で台湾特産の麻竹に新芽を発見。これは後に「瑞竹」と称揚されるようになった。工場はすでに操業を停止しているが、施設の一部が産業遺産として保存されている。
 また、この日は打狗(高雄)山と呼ばれていた丘に登頂し、高雄の町並みと港を眺めている。この視察を記念して後日、打狗山は「寿山」と改名された。ここは現在も高雄を代表する景観スポットとなっており、行楽客でにぎわっている。
 

高雄市内を視察する様子(高雄州行啓記念写真帖より)

 23日は高雄港から澎湖島の馬公へ渡った。海軍の要港部を視察後、船中泊で基隆へ向かい、台北に戻った。
 当時の交通事情を考えると、行程はかなり詰まった印象だが、遅れが生じることはほとんどなく、順調に最終日となる27日を迎えた。午前710分、皇太子を乗せた特別列車は台北駅を離れ、基隆へと向かった。

貴賓車は今も残されている

 台湾行啓では特別列車が仕立てられた。列車をけん引したのはE500型蒸気機関車と呼ばれたものである。日本では8620形と呼ばれる形式で、台湾には44両、在籍していた。列車は8両編成で(機関車を含まず)、山岳区間となる苗栗~后里間は最後部に補機を増結して勾配に挑んだ

 車両についても、貴賓車と称されるものが用意された。台湾総督府鉄道部には2両の貴賓車が在籍し、皇太子行啓に合わせて新造された「ホトク1」、そして、台湾総督専用の「コトク1」があった。

 両客車ともに日本本土から派遣された技師が設計し、用材には紅ヒノキと米国から輸入された松が用いられた。鋼鉄類についても欧米から輸入されたものだった

 車体は紫色に塗られ、側面に菊の紋章がはめ込まれていた。また、台湾南部での暑さを考慮し、当時としては非常に珍しい扇風機が設置されていた。

 皇太子用に新造されたホトク1型は19133月に完成した。車体長164メートルの木造客車で、客室の他、配膳室と従者の控室があり、トイレは洗面台が壁に埋め込まれたスタイルだった。また、車内には明治の画家・川端玉章の蒔絵(まきえ)が掲げられていた。

 台湾総督用のコトク1型は190410月に完成した。車体長は13988メートルで、客室の他、食堂、配膳室、洗面室、化粧室、予備室を備えていた。

 現在、この2両の貴賓車は台北郊外の七堵操車場に保存されている。専用の車庫が用意されており、その中に並べられている。一般公開されるのは特別イベントの際に限られるが、公開が決まると、決まって申し込みが殺到する。
 車齢100年という長さを考えてみると、この客車が原形を保っているのは奇跡に近いと言えよう。特に台湾総督用のコトク1型客車は110年以上の歴史を誇り、その価値は計り知れないものがある。台湾鉄路管理局はこの2両の客車を歴史遺産として扱い、永遠に守っていく予定だという。

 台湾では民主化の進行に伴い、冷静でかつ、客観的な評価の下、日本統治時代の半世紀を捉える動きが定着している。皇太子の台湾行啓もまた、台湾史の一部として認識されており、関心は高い。日本人が知らない日本の歴史。台湾で皇太子の足跡を訪ねてみてはいかがだろうか?

 

 

 

 

 片倉佳史(かたくらよしふみ)

台湾在住作家。1969年神奈川県生まれ。早稲田大学教育学部在学中に初めて台湾を旅行する。大学卒業後は福武書店(現ベネッセ)に就職。1997年より本格的に台湾で生活。以来、台湾の文化や日本との関わりについての執筆や写真撮影を続けている。分野は、地理、歴史、言語、交通、温泉、トレンドなど多岐にわたるが、特に日本時代の遺構や鉄道への造詣が深い。主な著書に、古写真が語る台湾日本統治時代の50年 1895―1945』、『台湾に生きている「日本」』(祥伝社)、『台湾に残る日本鉄道遺産今も息づく日本統治時代の遺構』(交通新聞社)等。オフィシャルサイト:台湾特捜百貨店

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



         
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



映画の縁、人の縁~台湾を撮り続けて 

 

映画の縁、人の縁~台湾を撮り続けて 

                              酒井充子(映画監督) 
               【nippon.comコラム:2018318日】

良縁に恵まれた台湾での映画製作

 年明けに台湾・新北市の蕭錦文(しょう きんぶん)さんに会いに行った。蕭さんは、私が初めて監督した映画『台湾人生』(2009年)の登場人物の一人で、今年4月で92歳。台湾が日本統治下にあった時代に青少年期を過ごした5人に取材したが、今も健在なのは蕭さん一人となった。初めて会ったのは07年。映画完成のめども立たないまま台湾取材を続ける中、娘を心配する両親を誘った台湾旅行でのこと。総統府の見学コースを案内してくれたのが蕭さんだった。この偶然の出会いをきっかけに話を聞かせてもらうようになった。

 蕭さんは第二次世界大戦でインパール作戦に従軍した元日本兵で、戦後、27歳のときに一つ年下の弟を白色テロで亡くしている。私は日本人として知っておかねばならないことの多くを、台湾のおじいちゃん、おばあちゃんたちに教えてもらってきたが、蕭さんの人生には、戦前の日本がしてきたこと、戦後の日本がしてこなかったことが凝縮されている。

 今年1月、拙著『台湾人生』が文庫化された。蕭さんのところへ行ったのはその報告も兼ねてのことだった。映画公開から9年。単行本刊行から8年。東日本大震災の際、多額の義援金が寄せられたことを経て、以前よりずっと台湾が近くなった今だからこそ、読んでいただきたいとの思いがある。私自身はこれまでに台湾を舞台にしたドキュメンタリー映画を4本作ってきたが、さまざまな縁に恵まれてここまできた。その歩みを振り返りたい。

台湾映画と台湾のおじいさんとの出会いから始まった映画人生

 私の映画人生は、1本の台湾映画と一人の台湾人のおじいさんとの出会いから始まった。初めて台湾を訪れたのは1998年夏のことだった。きっかけは蔡明亮(ツァイ・ミン・リャン)監督の映画『愛情萬歳』。台北で暮らす男女3人の若者の孤独を描いた作品で、当時登場人物たちと同世代の20代後半だった私は大いに共感するとともに、スクリーンを通して伝わってきた街のざわめきをじかに感じてみたいと思った。

 当時、新聞記者として函館にいた。同年3月に台北との間にチャーター便が就航したばかりで、台湾からの観光客が劇的に増えていたこと、前年に函館の国際交流センターのホームステイプログラムで台湾からの留学生を受け入れていたことも、台湾を身近に感じる誘因になっていたかもしれない。そんなこんなで、どうしても映画の舞台である台北に行ってみたいと思ったのだ。

 ロケ地を訪ねるという無邪気な一人旅だった。『愛情萬歳』のラストシーンで主人公が号泣する公園のベンチに座ってみたり、初めての屋台ではしごしたり。そうだ、せっかくだから学生時代に見た『悲情城市』(侯孝賢(ホウ・シャオ・シェン)監督)の九[イ分]にも行こう。かつて金鉱で栄えた街をひとしきり歩き、台北に戻るバスを待っていたときに流ちょうな日本語で話し掛けられた。「日本からですか?」。70代ぐらいの小柄な男性だった。バス停にいるわたしが日本人だと分かり、近くの家からわざわざ出てきたという。公学校(小学校)時代にかわいがってくれた日本人の先生に今でも会いたいと話してくれたが、バスがやってきて話の途中で別れてしまった。

 最後までゆっくり話を聞かなかったことがずっと心残りで、2年後にそのおじいさんを探しに行ったが会うことはできなかった。戦後50年以上たってなお、恩師を思う人が台湾にいることを初めて知り、自分の無知を恥じるとともに、日本統治下で暮らした人々の思いを知りたい、伝えたいと思った。振り返るとあの出会いからもう20年になる。今では日本語を話す世代が高齢化し、街なかで話し掛けられるということはほとんどなくなった。

函館で出会った映画人の影響から、映画製作の世界に入る

 映画で台湾を伝えようと思うようになったのは、函館で出会った映画人たちの影響だった。現在の函館港イルミナシオン映画祭の前身となる映画祭が毎年行われており、取材を通して映画祭に集う監督やプロデューサーの話を聞くうち、映画が見るだけのものから作る対象へと変わっていった。映画に挑戦したいという気持ちが日増しに強くなった。

 2000年春、30歳で新聞社を辞めて映画の世界に入った。その年の夏、函館の映画祭主催のワークショップでドキュメンタリー映画の小林茂監督と出会ったのを機に、重症心身障害児(者)施設を追った『わたしの季節』(04年)に取材スタッフとして参加することになった。02年、この現場で撮影助手だった松根広隆氏と出会う。彼は日本映画学校の卒業制作作品でいきなり劇場デビューした大先輩なのだが、同い年の気安さもあり、「将来、台湾を撮るから、そのときはよろしく」と声を掛けた。その5年後、『台湾人生』の撮影で台湾を一緒に走り回っていた。以後、最新作『台湾萬歳』まで全ての作品で撮影してくれている。
 映画の宣伝や撮影現場の仕事が一つ終わる度に台湾へ飛んだ。週末や旧正月などの連休のときは電車の座席が全く取れない。駅の窓口で「無座」と書かれた切符を渡されてがっかり。初めのうちはスーツケースや床に敷いた新聞紙に座ったが、車窓を流れる濃い緑や青い空、白い雲たちが気分をなごませてくれた。そのうち、空いている席に滑り込むすべを身に付けた。そうやって台湾を何周しただろう。下車して駅前のお店に入っていく。「日本語を話せる人いませんか?」と日本語で尋ねると、本人は話せなくても、必ず家族や近所に日本語を話すお年寄りがいて、そういう人を引っ張ってきてくれた。

 取材を始めたころ、あるお宅にお邪魔したら、いきなり「ごはん食べましたか?」と聞かれ、反射的に「いえ、まだです」と答えてしまった。結果、おいしい手作りの水ギョーザをごちそうになることに。赤面。台湾初心者の皆さま、「ごはん食べましたか?」は台湾語で「ジャパーボエ」通常「お元気ですか?」というあいさつの意味で使われます。ただのあいさつなので、くれぐれも「まだです」などとやぼな返事はなさらぬようお気を付けください。

私がやめたら彼らの声が届かなくなる

 本格的に台湾取材を始めて6年目の2007年春、文化庁の助成金を得ることが決まり、資金のめどが立ったわけだが、それまではただひたすら台湾へ通い、人に会って話を聞くという作業を一人で続けた。途中何度も諦めかけた。それでも最後まで続けられたのは、ひとえに取材を受けてくれた人たちへの責任感だった。日本人の自分が日本語で尋ね、日本語で答えてもらう。その条件の中だからこそ、出てきた言葉があったはずだ。私がやめてしまえば、彼らの声は誰にも届かなくなってしまう。ただその一点だった。

 映画、特にドキュメンタリーでは、撮影、編集などほとんど全てを一人でこなしてしまう監督がいるが、私にそんな才能はない。優秀なスタッフの力をいかに作品に結集させるかが私の役目だ。撮影した素材を編集し、最後に音の仕上げをする。音楽も最後の段階で付ける。ギタリストの廣木光一氏とは、氏が『わたしの季節』の音楽チームに参加していた縁で知り合った。『台湾人生』の音楽をお願いするとき私が伝えたのは、「ギター1本で、台湾への愛を込めて」ということだけだった。見事に応えてくれたことは、映画が証明している。

 ところで、函館の新聞記者時代にホームステイで受け入れた留学生の黄碧君(ファン・ビ・ジュン)氏とは2010年、『台湾人生』の上映会に彼女が駆け付けてくれて13年ぶりに再会を果たし、今も交流を続けている。彼女は翻訳家として「舟を編む」(三浦しをん著)を手掛けるなど活躍中で、日本人の夫と東京で暮らしている。

 冒頭の蕭さんに戻ろう。2年前に自宅で転倒して腰の骨を折り、つえなしでは生活できなくなった。外出するときは車椅子を押しながらゆっくり歩く。近くのレストランに案内してくれる道すがら、「そろそろかえる準備をしなくちゃ」と言う。台湾のこの世代は日本語で話すとき、あの世へ行くことを「かえる」と表現する。「まだまだお元気ですよ」と返しながらも、蕭さんの年齢を考える。あとどれだけのものを彼から学ぶことができるだろうか。

 映画には人を動かす力がある。人との出会いもまたしかり。私の場合はそれが台湾とつながった。皆さんはこれまでどんな映画と、人と出会ってきましたか。そしてこれから、どんな出会いをするのでしょうか。

 

 

 

 

 

 

 

酒井 充子(さかい・あつこ)
山口県周南市生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。メーカー勤務、新聞記者を経て2009年、台湾の日本語世代に取材した初監督作品『台湾人生』公開。ほかに『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(13)、『台湾アイデンティティー』(13)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(14)、『台湾萬歳』(17)、著書に「台湾人生」(光文社)がある。「いつ日本に帰化したんですか?」とよく聞かれる。故郷と台湾の懸け橋となるべく奮闘中。

 

 

 

 

 

 


「本物の李登輝の言葉」を届けたい

 

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔   2018/6/14

 

「本物の李登輝の言葉」を届けたい

 

               早川友久 (李登輝 元台湾総統 秘書) 

 

「台湾民主化の父」とも呼ばれ、長らく総統をつとめた李登輝にどういったイメージを持たれているだろうか? 私は、学生時代、ふとしたきっかけで初めて台湾に興味を持った。当時は、早稲田大学の学生。その後、金美齢の秘書を経て、台湾大学に留学。そして2012年から、李登輝元総統の秘書として働き始めた。これも偶然の出来事なのか、はたまた運命なのか。着任してから、かれこれ7年が経過しようとしている。私が李登輝と日々、業務で、プライベートでお付き合いしている語り合いの言葉の中から、李登輝が今、伝えたい言葉の真意を私なりに汲み取って、みなさんにお届けしたい

 李登輝元総統に「日本人秘書」が必要なワケ

  秘書の仕事、といっても一言で説明するのは難しい。メールや手紙の返事、スケジュール管理から来客の応対、原稿の草稿づくりから御礼状書き、外交官とのお付き合いまで。訪日すれば身の回りのお世話をすることもある。それこそ「李登輝元総統の対日窓口」としての役割を求められる。 

 総統は日本からの来客が帰るとよく私に「今日のお話はあんなのでよかったかな」と聞く。常に「李登輝はいま日本人に何を伝えるべきか」を考えているのだ。これは決して人気取りとか、耳ざわりの良いことを言うことではない。台湾にとって日本がなくてはならない存在だからこそ、「日本よ、しっかりしろ」という一念だけで、総統は「日本人に伝えておかなければならないことはなにか」を考えている。

 

 事実、奥様(私はいつも総統夫人をこう呼ぶ)は事あるごとに私に向かって「早川さん、主人はね、台湾の総統までやったくせに、いつだって日本のことを心配してるのよ」と苦笑混じりに話すのである。日本からの来客が、李総統に何を話してもらいたいか、という時機的なセンスも考えてのうえで日本人秘書を必要としているのだろう。

 日々どんな仕事をしているのか

 名刺交換などをするとよく「いつもどんな仕事をしているんですか」と聞かれることがある。実際、細々とした事務処理をすることも多く、答えとしては「秘書業務です」としか言いようがないのであるが、それではあまりに抽象的だ。そこで、李総統の日本語秘書がどんな仕事をしているのか、ある一日をご紹介したい。

  私は毎朝、基本的には淡水の李登輝事務所に出勤するのだが、直行することは少ない。政治家の秘書と聞くと、朝が早いイメージがあるだろう。たとえ退任した総統であろうと変わらないと思うのだが、実際、朝はそれほど早くはない。これは李総統の生活スタイルとも関連している。総統夫妻は宵っ張りなのだ。夜は読書やテレビを見ることで過ごし、就寝は午前1時、2時というのはザラ。しぜん、起きるのはゆっくりめとなる。

 

 だからこそ、この朝の時間は、私にとって多方面の関係者とのコミュニケーション作りの時間に当てることが多い。人間関係を維持していくには一緒に飲みに行くのがベストだが、そうそう毎晩飲み歩いてもいられないので、この「朝まわり」は情報交換と人間関係のパイプの維持に有益なのだ。李登輝が知りたいこと、李登輝が発する言葉を理解するための情報収集ともいえよう。

  例えば、特に用向きがなくとも、日本の新聞社の台北支局や、国交がない台湾において大使館の役割を果たす「交流協会台北事務所」に出向く。コーヒーの一杯もごちそうになりながら、世間話に興ずる。あまり無駄話をすると、朝の忙しい時間に相手にも迷惑なので、短時間で切り上げるが、それによって時には情報を得ることもあるし、顔つなぎにもなる。今頃だと、今月下旬に予定されている沖縄訪問についての打ち合わせに台湾外交部や航空会社を訪問することも多い。

 

 午前10時ごろには事務所に出勤する。そこではメール、手紙、FAXの処理である。FAXは時代の流れか最近めっきり減ったが、親しくなればFacebookLINEで繋がり、それを通じて仕事上の連絡をしてくる人もいる。どの手段にせよ、毎日少なくない数の連絡が来るが、内容は様々である。

  今日のメールボックスを見ると、沖縄訪問についての事務連絡、インタビューや原稿の依頼、表敬訪問の日時調整、御礼のメール、原稿料の振込先口座の確認、来春の出版を目指す書籍の章立てに関する打ち合わせ、等だ。御礼状や書籍の贈呈は毎日のように届く。これらを、まずは総統に報告するもの、しなくともよいもの、つまり私が処理することで足りるものに分けるのも私の仕事だ。

  ちなみに総統に報告するものについては、記録を残すためにもすべて公文でのやり取りとなる。それぞれについて簡潔に公文を起こし報告する。例えば、「日本のなんとか新聞から、何月何日に最近の日台関係についてインタビューしたい、という依頼がありますが如何しますか」といった具合だ。それに対し、総統が「可」とサインすれば裁可が下りたことになり、総統の判断を仰いだ、という手続きを踏んだことになる。 

 私自身で処理できるものは返信し、御礼状や贈呈された書籍への返事を書き終わる頃には、総統の自宅から前日に報告した公文が戻ってくる。私が報告した内容について、総統がそれぞれ判断するわけだが、その内容についても相手方に連絡しなければならない。「総統は喜んでインタビューをお受けします。ついては、○月○日、何時から総統ご自宅にてお願いします。詳細は追ってご連絡します」といった具合である。こんなやり取りをしている間に、もはやお昼の時間である。

 

相手にとって台湾訪問がよいものになるよう心を尽くす

  この日は、午後3時から、日本からの総統への表敬訪問があったため、ランチもそこそこに総統の自宅へ向かう。前もって忘れてならないのは、当日の名簿と簡単な挨拶原稿だ。総統は来客前、必ず名簿をじっくりと見て、名前と肩書を頭に叩き込む。その際には「2004年末の訪日の際にお世話になった。前回お会いしたのは2年前。現在は社長をリタイヤされ相談役」などといった情報を付け加える。こうすることで、来客の周辺情報がインプットされ、メモを見ずとも「こないだお会いしたのは2年前じゃなかったかな」と総統の口からスラスラと出てくるようになる。それによって場が和んで話が弾むことにも繋がるのだ。

 訪問客に関するレクチャーは重要な仕事のひとつ(写真:筆者提供)

 それ以外にも、事前に来客の秘書とやり取りしたなかでヒアリングした「宿泊はどこか、台湾滞在は何日間か、その他の大まかな予定は」などといった内容を報告しておくことも多い。というのも、総統は常々「どこに泊まってるんだ?食事はうまいか」とか「果物は食べたか。今ちょうどマンゴーが出てきたから食べなさい。あとで届けさせるから」などと、ただ自分を訪問してくれたときだけでなく、相手が台湾に滞在する時間すべてに関心を抱き、台湾訪問が良いものになるよう気を配っているのだ。

 李総統が「稀代の人たらし」と言われる所以

  この日の表敬訪問は1時間半ほど、午後4時半には終わった。今日のお客様も大変喜んでお帰りになった。この表敬訪問が、ときにはかたちを変えて晩餐会にご招待いただくことになる場合もある。

  午後5時近くには、ちょうど奥様も外出から戻られた。4月に生まれたひ孫に会いに行ってきたのだ。「やっぱりベビーがいると張り合いが出るわ」とひいおばあちゃんは喜びを隠せない。 

 ついさっきまで総統は「中国の『一帯一路』に日本と台湾はいかに対抗するべきか」などと獅子吼していたと思ったら、ひ孫の写真を出して来て「どうだ。かわいいだろう」などとやる。元総統にして日本と台湾を心から憂い、95歳にあっても常々「日台関係をどう前進させるべきか」を語る一方で、ひ孫自慢を臆面もなく見せる。誰だか忘れてしまったのだが、何かの評伝で李総統が「稀代の『人たらし』」と評されていた。この落差にとてつもなく人間味を感じるのは日頃、そばにいる私だけではないということだ。

  この日はそのあと、日本のメディアと会食することになっていた。もともとは2人での食事だったのだが、ちょうど日本から来ている大学教授も連れて来るという。であるなら、私の台湾大学での恩師も同じく国際法が専門なので声をかけ、二次会で合流することになった。いつの間にか二人の約束が、二次会では10人近くに増えていた。日本よりゆるやかな空気の流れる台湾ならではの光景だが、台湾で過ごして10数年、こうして人の輪が少しずつ広がっていく。

 「本物の李登輝の言葉」を届けたい

  私が李登輝に仕えることになったのも、ひとつのご縁だった。そのご縁がどんなものだったかは追々お伝えしていきたいが、幸福にも李登輝の生の言葉を毎日のように聞くことができるようになった。この幸運を自分だけで独り占めするのはあまりにももったいない。また、李登輝の言葉の真意が誤解されて伝わっていることもある。「本物の李登輝の言葉」を皆さんと分け合うことが、私のもうひとつの仕事だと思っている。 

 

 

早川友久(はやかわ ともひさ)

 李登輝元台湾総統秘書、1977年栃木県足利市生まれで現在台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に三度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年から李登輝より指名を受け李登輝事務所の秘書として働く。

(注) 出所:「WEDGE Infinity」(2018年6月14日掲載)  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


檳榔(ビンロウ)おじさんが語る「日台友好」の心

 台南で3千人の日本人をもてなした檳榔(ビンロウ)おじさんが語る「日台友好」の心

 

マルヤン [2017.10.07]

 

檳榔文化に興味津々の日本人

 檳榔店は私の父が立ち上げ、私が引き継いだ。開業から今日まで52年。台湾でもB級文化として扱われている檳榔だが、かつて中央研究院歴史研究所が3か月にわたる「檳榔文化特別展」を開催し、長い歴史を持つ文化として紹介したことがあった。

 

 

 そもそも不真面目な業者が羊頭狗肉(ようとうくにく)で檳榔を売りさばいたため、真面目な業者も汚名を着せられ長くマイナスのレッテルを貼られていた。2年前に出会った作家の一青妙さん(写真左、右は本人)は、そんな台湾の檳榔文化や経営に興味があったのかもしれない。著書『私の台南』で台南独特の人情味あふれた店舗を記録し、日本人に紹介したのだった。 

しかし、それが私のその後の人生を変えてしまうとは、彼女は万に一つも想像しなかったのではないだろうか。

 

ある時、普段通り仕事をしていると、片手に『私の台南』を持った若者が近づいてきて、店内で仕事をしていた私をじろじろ見つめながら、「マルヤンさん、こんばんは!」と話しかけてきたのだ。その瞬間から、私と日本人観光客の交流が始まった。

 しかし、「ありがとう」「さよなら」しか日本語を知らない私は、日本人の横で薄ら笑いをするほかなかった。妹がたどたどしい日本語と漢字の筆談、それに少しの英語で交流し、たまに訳してもらって少しずつお互いの距離を縮めていった。私の店にとって初めての外国人客はこうして迎えたのだった。

 

大丈夫は「だいじょうぶ」にあらず

 

時がたつにつれ、日本人観光客もどんどん台南にやってきて、一組また一組と私の店を訪れた。気が付けば3000人を超えて

 

いた。私と家族の役割はこうだ。彼らの貴重な時間の節約のため、スポットを一つでも多く回り、一つでも多くのご当地グルメを堪能できるよう案内することだった。そして、いつしか「ありがとう」「さよなら」しか言えなかった日本語が、15個も言えるようになった。遠来の客をもてなすために「実戦」で鍛え上げたものだが、たまに意図がうまく伝わらず笑い話になったり、緊張し過ぎて背中が汗でびっしょりになったりすることもあった。

 

例えばある時、飲み物を「おごる」と伝えようとしたところ、発音が悪くて「おこる」と聞こえたようで、彼らを困惑させたようだった。私も訳が分からなかったが、後で日本語の達人に教えてもらい、ようやく事態を理解した。しかし、時すでに遅し。一行はすでに帰国してしまった。

 

 ところで、日本人は礼儀正しさで有名な民族だ。特に感謝を表すのには、いくつもの言い方がある。長い文ほど丁寧な言い方で、中には11音の長さに達するものあって、日本語初心者の私にとっては、ただただ驚きしかなかった。例えば食事の時、日本人は箸を持った途端、「いただきます」と言って食べ始めた。初めて耳にする言葉に私は意味が分からず、思わず箸を止めた。何のことはない。日本人のテーブルマナーだった。

  

また、日本人の友人が多くなれば多くなるほど、いろいろなことも起こった。ある日、台南武廟(びょう)に一行を連れて行った際、参拝方法などを簡単な日本語とジェスチャーで解説した。右から入って左から出るべきところを、日本の友人らは逆から出入りしたのだった。そうではないと身ぶり手ぶりで説明したが、彼が入り口の「大丈夫」と書かれた扁額を指して「だいじょうぶ」と読み上げるので、いやいやそれは中国語で「男の中の男」を意味するんだと解説するはめになり、思わず泣きたくなったものだ。

  

もちろん、感動的な話もある。台南で大地震が起こった際、市内の維冠ビルが倒壊し、世界中にそれが伝わった。私のフェイスブックにも多くの友人が安否の確認メッセージを寄せた。私は一つ一つに自分は大丈夫であること、台南の大部分では無事であることを伝え続けた。すると2日後、店にずっしりと重い小包が届いた。封を開けると、中にはたくさんの電池が入っていた。被災地に届けてほしいと、日本から送ってきたのだ。感動、感動、また感動である。また、日本の駅前広場では、寒さに負けず台南への募金活動が行われていたことも知った。映像で何人ものおじさん、おばさんが募金している姿を見て、冬にも関わらず、何だかポカポカしてきたものだ。

  

日本人の友人が増えたことで、年明けにはいろいろな形の年賀状が届くようになった。通常の一枚紙のはがきから立体的になるカードまで、全部がくじ付きではないけれど、何気ない日常に温かさと刺激をくれた。生まれてこのかた、こんな気持ちになったことはなかった。みなさん、本当にありがとう。文章にするとあっけないけど、一つ一つ心に残っている。

  

台湾と日本の文化の違い

 忙しく訪問客を迎えていると、全然知らなかった日本という国について、少しだけ知識も付いてくる。何百人もの友人と何千人ものフェイスブック友達とつながっている檳榔店だ。俗に「秀才は門を出でずして、ことごとく天下のことを知る」と言うが、私は国を出ずして日本の出来事を知ることができるようになった。これも全て日本の友人のおかげだ。こんなみすぼらしい檳榔店の、日本語を15フレーズしか話せないおじさんを訪ねて来てくれたからだ。感謝、感謝である。

 

実のところ、私は日本人が台湾に旅行に来ることに内心、疑問を感じていた。多くの日本人の友人は中国語ができない。英語も簡単な会話しかできない。私なら知らない国に一人旅なんて、怖くてしない。

 

私は外国に行ったことがない。そのため、何で観光客はそんなにも勇気があるのか、理解できなかった。彼らに対してただただ、サムズアップ、「すごい!」である、ところが、臭豆腐や魚のもつ炒めなど、香ばしくておいしい料理がなぜか食べられない。刺し身が食べられるのに、なぜかもつや豚レバーや鶏はつが食べられない。想像しただけでよだれが滴る豚足を食べられないのはなぜか。これらの多くの疑問は、今も分からないままだ。

 

歴史観光の新たなステージへ

 

日本人観光客が好きな台南の観光スポットをまとめると、名勝遺跡と台南グルメの他に、縁結びの月下老人の廟にも多くの若い男女が必ず訪れる。女性が恥ずかしそうに尋ねて来たことがあった。私も彼女らの願いがかなったらと心から願う。また、烏山頭ダム飛虎将軍廟訪れることも多い。台湾と日本の過去の歴史が原因だろうか。血縁も地縁も関係ないのに、訪問客はいつも「八田與一」先生の銅像にお花や果物をささげる。自身はたばこを吸わないのに、日本からたばこを持ってきて「杉浦茂峰」将軍にささげることもある。これらは地元の台南人には理解できない行為だが、神様のご加護があらんことを願っている。 

 

 

これまで、日本から台湾を訪れる旅行客は今日ほど多くなかった。台湾すら知らない状況の中、東日本大震災に対する台湾からの支援で多くの日本の友人らが「台湾」を再認識した。もっと台湾のことを知ろうと、興味を持ち始め、多くの方が観光で訪れるようになった。これは一種の国民外交ではないだろうか。台湾人である私も、この盛り上がりに貢献できればと思っている。『私の台南』を読んで、乱雑な私の店舗にやってきて、私とおしゃべりをしてくれる人々と、私なりの方法で台湾と日本との友好に力添えしたいと思う。

 

  

おかげさまで私の日常も楽しいものになった。本を読んだ方は、私を外見だけで判断して店に来ることをやめたりしない。この変なおじさん(実はおじさんというほど年をとっていない)と一緒に写真を撮って、あいさつをして、身ぶり手ぶりでコミュニケーションを取って、互いにフェイスブックでも友達になる。驚きと喜びの連続で、本当に毎日が刺激的で楽しい。まるで私の心を試しているようだ。

 

 

台湾を愛してやまない日本の友人たちにとって、台湾グルメが彼らを引き付けるのか、それとも台南人の人情味なのか——考えてみたものの、やっぱり答えは出ない。それならどんな方法でも試してみよう、誤解があっても面の皮の厚さで乗り切って笑い話にしてしまえばいい。「お客さまは神様」の精神で、毎日遠方からやって来る友人たちを迎えたい。リピーターであろうが初めてであろうが、とことん心を込めたもてなしをしようと思う。檳榔店にやって来た全ての人々に、檳榔だけにとどまらない何かを感じてもらいたい。

 

  

 

 

マルヤン YANG Maru1965年台湾台南市生まれ。1999年に父が起こした檳榔店を引き継ぎ2代目店長になる。台湾で唯一本も売る檳榔店で、日本人観光客がもっとも訪れる檳榔店でもある。今までに3000人以上の日本人観光客を受け入れ、同時にアマチュアのご当地文化ガイドも兼任している。

 

(注) 出所:nippon com コラム(2017/10/07掲載 )



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