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台湾のあいさつ

 台湾のあいさつ

 

台湾には原住民、ホーロー人(戦前から住んでいる台湾人)、客家(ハッカ)人と終戦後にやって来た中国人と大まかに言って四種類のグループがあり、それぞれ違う言葉で話しています。戦前日本統治時代は日本語が国語でしたが、戦後は中国人が話す北京語が「国語」になりました。

 

 

それで、国語での挨拶は、朝は「早安(ザォアン)」単に「ザオ」だけでも通じます。昼近くからは「こんにちは(ニーハォ)」と挨拶しています。台湾語では台湾人と客家人の挨拶は似ていて、「早いですね(ガウツァー)、または「ご飯食べた?(チャパーブェ)」が挨拶です。これは昔の中国はいつも内乱、内戦、災害などによって生活苦が続き、朝食も食べられなかった時代が続いたことがあり、その生活苦の中からにじみ出たことば---これが挨拶の形になったとか。実に重みを持った一言ですね。でも飽食の現在。それよりも「元気?」の「リーホーボ?」に変わって来ているようです。

 

過日図書館で盧千恵さんの著書『フォルモサ便り』を見つけ読んでいるとその中に下記のように原住民の挨拶が紹介されていました。

 

30年間日本に滞在したあと、国へ戻って来た私たちは、ちょうどその年国連の原住民年だったこともあって、当時、台湾唯一の原住民大学、玉山神学院へ教えに行きました。アミ族のルギーはいつも美しい声で「ガイアイホ(お元気ですか)」と挨拶してくれました。道で出会ったブヌン族の学生から「ミフミサ(まだ生きてるのー?まだ空気吸っているー?)」とにっこり笑いながら声をかけられ、びっくりしました。急いで「生きているー」と返事をし、何ていい挨拶だろうと思いました。ブヌン族は玉山の中腹、1500メートルの深山に住んでいるので、この様な挨拶言葉が出来上がったのでしょう。勇猛なルカイ族は「今日の酒量はどうだ?」と問い、「うん! うんと飲めるよー」が「今日は健康だ」と相手を安心させる返事だと、神学院で隣に住んでいた林道生教授が話してくれました。(p109

  

かって子供の頃田舎(山形)では出会った人から「何処へ行くの?」と聞かれ「うん、ちょっとそこまで」と答えていました。聞いた本人は「マジで何処に行くのか」と尋ねたわけでなく挨拶かわりだったのです。だから答える方も「曖昧な返事」でよかったわけです。考えてみると台湾での上記の挨拶も同じように人とのコミニケーションの潤滑油のようなもので、あいさつとは自分の心を開いて相手に近づく第一歩ともいえるでしょう。
 台湾でこのほかにどんな挨拶の言葉がかわされているのか俄然興味が湧いてきました。ご存知の方はどうか教えてください。

 

 


緑川に架かる橋

 

緑川に架かる橋

 

  

風なごむ 南の島  空青く 気澄める所

 

緑川流れ豊かに  我らが市 ここぞ台中

 

 

これは日本時代の台中市の市歌で、緑川のことが歌われています。台中で生まれ育った日本人は少年少女時代のことを思い出しながら小学校の同窓会でこの市歌を歌っていたそうです。

 

台中の近くを流れる「緑川」が春節前に再生されました。この川にかかる橋の一つに「中山緑橋」と呼ばれている橋があります。この橋は日本時代は新盛橋と言われ、橋には装飾が施され、スズランの花が描かれていてこの橋の前の通りは台中一の繁華街と呼ばれていた鈴蘭通り。大正元年(1912)当時の佐久間総督が台中神社鎮座祭りに臨席した折に新盛川の柳の生い茂る緑の景色を大いに称賛され、この川を緑川と名づけのだそうです。それ以来緑川は戦前の市歌に登場したわけです。それから一世紀余り立った一昨年、橋のそばに新盛橋(Shinsei-bashi)ホテルが出来るとは思いもよりませんでした。

 

 

今年219日にFBに上記のような文章を投稿した半月後、いつも見ている「台湾フォーカス」に下記の様な記事が載ったのです。

 

 

(台中 2中央社)中部・台中市の目抜き通り「台湾大道」の下部に隠れていた築103年の「桜橋」が復元された。道路下には歩道が設けられ、当時から残る土台部分を間近で見ることもできる。 

日本統治時代の1915(大正4)年に建設された桜橋は、かつて京都の鴨川になぞらえて「小京都」と呼ばれた緑川に架かる橋。長い間、台湾大道の拡張工事に伴って撤去されたと思われていた。

2015
年から緑川の景観整備を進めてきた台中市政府。関連工事中に桜橋の橋桁や橋脚が残されていることが判明したことを受け、土台の保存と欄干の復元を決めた。周辺の景観整備は先月完了、新しさの中にも懐かしさを漂わせるスポットとして生まれ変わった。

緑川には桜橋のほか、1908(明治41)年に架けられた中山緑橋(旧名:新盛橋)も残り、川辺の遊歩道を散策しながら歴史の息吹を感じることができる。また、48日までの毎晩、イルミネーションも楽しめる。

1908年(明治41)台湾縦貫鉄道が完成した時に台中公園で記念式典がありましたが、台中駅とを結ぶ役割をしたのが、緑川に架かる橋で最も古い橋が新盛橋で、もう100余年になります。戦前と戦後を結び、また20世紀と21世紀を結び台湾と日本とも結ぶ架け橋なのです。

 


阿里山にある台湾で一番高い所にあるもの

 

台湾で一番高い所にある郵便局
皆さん、どこにあると思いますか。
そうです。阿里山にある郵便局です。ここの郵便局は民国前四年前と言いますから、西暦1907年は明治40年にあたります。そしていま目の前にある建物は、まるで圓山ホテル風の豪華な造りで、とても郵便局には見えませんね。

 

 

 

阿里山には郵便局以外に学校やセブンイレブンも台湾で一番高い所にあるんです。
学校の名前は香林国民小学校と言い、標高が一番高い所にある阿里山唯一の小学校なのです

         

 

そしてセブンイレブンの入口前に標高2200メートルと書かれてありました。ここは観光地にあるためにおみやげ物が多く、絵はがきを買って向かい側にある郵便局から日本の家族や友達などに出したらきっと喜ばれますよ。

 

阿里山と言えば日の出が超人気。ホテルから朝早く出発するワゴン車に乗れば台湾最高峰の玉山が目の前に見えるスポットに案内してくれて日の出の写真がきれいにとれたら最高の思い出になりますよ。

 

 

 阿里山から見た玉山の日の出(2018年の年賀状に使用)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                        

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


我が家の憲法

 我が家の憲法

  

今日本では憲法9条をめぐって護憲派、改憲派に分かれていろいろと論争がにぎやかですが、今日のテーマは台湾のある家庭で今もなお守られている憲法の話です。

 

 

あれは埔里に住む医師の陳慶祥先生と絹枝夫人(当時お二人は89歳)を訪ねた時のことです。奥さんはぼくと同じ山形出身で、何でも先生が戦前東京で学生生活をしていた頃知り合い結婚し終戦後先生が台湾に帰ることになり一緒についてきたとのこと。ぼくは奥さんと同県人だとわかって親近感を覚えたのでした。陳先生家族は3世代同居、即ち陳先生夫婦は日本語と台湾語、息子さん夫婦は台湾語、中国語、お孫さんは中国語と世代によって話す言葉が違います。こういうことは、陳さん家族だけでなく台湾の三世代家庭では珍しいことではありません。先生宅をお邪魔したが午後2時過ぎで、夕方近くになっておいとましようと思っているとお孫さんの「ただいま!」という元気のよい声。すかさず絹枝さんが「お帰りなさい!」と言ったので、
「お孫さんは日本語わかるんですか?」と聞いたら、
先生は、
「我が家では挨拶はすべて日本語で言うことにしている。
いわば我が家の憲法みたいなものだよ。朝起きたら『お早う』、食事の時は『いただきます』、食べ終わったら『ごちそうさま』、出かけるときは『行ってきます』、何か他人からしてもらったら『ありがとう』という風にね。
第一、声を聞いたら子供が元気かどうかわかるし、何よりもあいさつは生活の基本であり、我々が日本語教育を受けたので日本式にやっているだけだ。」と言われたのです。
陳先生夫妻は惜しいことに3年前に相次いで他界されてしまいましたが、この話がいつまでも耳朶に残っていて、昨日は憲法記念日で、皆さんにふと陳先生の家の憲法を話したくなった次第です。

 

 

 


虎尾三宝

 虎尾三宝

台湾が好きだと言ってもほとんどの人は虎尾に行ったことがないと思います。なぜ虎尾?にと、言えばここに日本時代からの建物があると知ったからです。台中から南下し斗六駅で下車し台西バス乗ること約半時間、虎尾の繁華街に着きました。虎尾三宝と呼ばれている目指す建物は降りたバス停の目の前にありました。

 

 

1 雲林布袋戲館(旧虎尾群役所)
「雲林布袋戲館」は日本統治時代の西洋建築の建物で、日本統治時代の建物が多く残る台湾ですが、このような建築が残されているのは稀です。こちらの前身は大正11年に落成した「虎尾郡役所」であり、昭和6年にはイギリスビクトリア時代の赤レンガ建築で増設しています。布袋戯とは、わかりやすく言えば指人形劇のこと。布袋戯の故郷と言われている雲林県では、布袋戯の普及を願い設立したそうです。建物の中には代表的な劇団の歴史などや布袋戯の人形などが展示してありました

  雲林故事館(虎尾郡守官邸)
こちらは布袋戯館の並びにあり、日本時代は虎尾郡守官邸だったところです。終戦後は雲林地方裁判所の官舎として使用され、2005年の全面的な改修を経て翌年2006年に雲林故事館としてニューリアルオープンし、当時の文化や生活が展示再現、文化イベント館として利用されているのです。

雲林故事館  http://www.ylstoryhouse.org.tw/index.php -3 旧虎尾合同庁舎(誠品書店&スターバック)
旧虎尾合同庁舎は昭和14年(1939年)に落成し、虎尾郡役所直属の派出所と消防組聯合事務所として使われ、2階は公会堂として使われていました。4階建ての建物で中央の塔の頂部には見晴台があり、虎尾の町を見渡すことができたため、糖廠の煙突、大崙脚水塔とともに虎尾の三大高層建築と称されていました。虎尾合同庁舎の建物は5階建ての高さで、かつては虎尾一の高さでした。これは
、当時電話がまだ発達していなかった時代、消防組がここから町を一望することで火事が起きた際すぐに出動できるようにしていたためです。

           現在、建物の右側がスタバ、左側が書店になっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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