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第6章 終末の徴

 前回の、

 

 (2)聖マラキの予言

 

 に引き続き、

 

 (3)恐怖の裁き

 (4)地の不思議、時の不思議

 

 をお送りします。


(3)恐怖の裁き

最後の審判が下される

 

 聖マラキの予言によれば、現在のローマ教皇である、フランシスコの代で、ローマ・カトリック教会は終幕を迎えることになる。


 そして、終わりのときには、恐ろしい審判が下されるという。私は本書の第3、4章において、これをすでに執り行っている。そして、その結論は、まさに「キリスト教会の存続を否定する」というものである。


 かかる審判とは、それが厳正な基準を持っていればこそ「最終的なもの」となりうる。つまり「最後の審判」たりうる。正しさの基準が、曖昧で過渡的なものであったならば、それは審議の通過点にしかなり得ない。


 それだけに、それが真に「最後の審判」であるならば、それは相当に「恐ろしいもの」となるに違いない。なぜなら、そのとき現れる"裁き"に、一切の揺るぐところがないからだ。

 

 


ただ一つの基準

 

 たとえば、ここに自分自身を甘やかしている人物がいるとしよう。名前は、そう、ペテロでよい。そして、このペテロが子供を持っていて、その子が何かしら悪さをしたとする。


 当然、親であるペテロは怒る。しかも顔を真っ赤にして、大声でもって、厳しく我が子を怒ったとしよう。


 ところが、こういう時に子供というものは、本当に存外なぐらい、その怒られたことに堪えないものである。子供はむしろ、まるで侮蔑するような目つきで、ペテロのことを眺めるかもしれない。


 どうして、そのようなことが起こるのか。


 それは当然と言えば当然である。自分自身には甘く、他人には厳しいペテロは、要するにダブルスタンダード(二重基準)の立場に自分を置いている。そして、ダブルスタンダードとは、まさに「正しさの揺らぎ」なのだ。


 揺らいでいる正しさで人を裁いても、そこに説得力は生じない。そして、説得力がない裁き手として怒っている人の姿というものは、むしろ滑稽なものである。子供ですら、内心では、その姿を侮蔑せずにはいられなくなるほどにも。


 一般的に言って、「同じ悪いことをしても、自分であれば許す。他人の場合は許さない」というのが、もっとも多く、巷間に見られるダブルスタンダードであろう。


 それに対して「正しさの基準」が一つ、つまり単一基準であれば、その正しさに揺らぎは生じない。よって、そこには説得力と威厳が備わることになる。つまり、自分自身にも厳しい親であったならば、彼がただ泰然と叱っただけでも、子供は大きく震えあがるのである。

 

 


揺らいでいる正しさ

 

 ローマ・カトリック教会に下される、審判の恐ろしさは、おそらく、そういう種類の恐怖感なのではないだろうか。


 たとえば、ローマ・カトリックだって、信徒に罪状を言い渡すことがあるだろう。


 しかし、そうして罪を言い渡すほうの司教や教皇だって、一皮剥いてしまえば、自分たちの保身のため、信徒たちからずっと「↑」のベクトルを奪ってきたのである。


「信徒たちよ、神に向かう能力など、お前たちにありはしない。お前たちは、教会からの恩恵によって、その存在を許容されるのみなのだ。原罪をもったお前たちが、神に向かっていくなど、おこがましい」


 そのように言って。信徒が悟りによって、第二のキリストとならないように。


 つまり、自分自身の欺瞞に対しては覆いを被せているのに、信徒に対しては、手心を加えることもなく、峻厳に罪を言い渡していた訳だ。


 そんなダブルスタンダードの上に乗った「正しさ」では、そこに説得力も、威厳も、ましてや本当の恐ろしさも、伴うはずがない。その程度の「揺らいだ正しさ」ならば、もしかしたら賄賂一つで、あるいは、甘言一つで骨抜きに出来るかもしれない。

 

 


正しさの十全性

 

 だが、正しさに単一基準が備わっていたならば、その審判は、実に恐ろしいものになる。そこでは、もはや、言い逃れも、甘えも、賄賂も、泣き落としも、通じはしないからだ。つまり逃げ場というものがない。


 内心で後ろめたさを感じている者にとって、逃げ場のない「正しさ」ぐらい恐ろしいものがあるだろうか。


 この点、私が示した、二つのベクトル――「↑」と「↓」――の補完性は、それが実際に補完されて充足した時には、著しく宗教の全体性を満たすことになる。そして、その十全かつ一貫した「宗教的基準」によって、現代のキリスト教会を眺めると、その教えは、あまりにも「↓」に偏向しているのが分かる。


 いな、それは偏向というよりは偏執であり、もっと言えば歪曲ですらあろう。そのように偏って歪んでいる教義を、教会は「世界最大」とも言われる数の信徒たちに強要しているのだ。それは明らかな罪ではないだろうか。

 

 ヘーゲルは「↑」を奪われた人間の姿を、次のように表現する、

 

「人間は生来悪であるというのは周知の教義であり、この生来の悪は原罪と呼ばれている」と。

 

   ヘーゲル『小論理学』松村一人訳より

 


 また、あるアメリカ人は、「↑」を奪われた者の苦悩を、次のように表現して言っている、


「われわれは原罪の重荷に喘いできたのです」と。


   河合隼雄著、河合敏雄編『ユング心理学と仏教』より

 

 


罪状宣告

 

 よって、これは鉄のように硬い罪状宣告である。


 再臨のキリストとして、私はローマ・カトリックを、上記の罪に定める。他にも罪状を数え上げることは出来るし、本書の第4章では、実際にそれをした。

 

 が、組織構造そのものの欠陥が生んだ罪としては、上記の罪状を上げるのが、最も適切であると言えるだろう。


 かくて私は、ここに宣告する。ローマ・カトリックを代表とするキリスト教は、これより先、これまでと同じスタイルでの運営が為されることを「罪」とする。七つの丘(ローマ・カトリック)は、もう崩壊しなければならない。


(4)地の不思議、時の不思議

異国の地からの声

 

 すべては、キリストの再臨を阻止することによって、キリスト教会の特権を守ろうとした事から始まった。そして、その≪「↑」の収奪と「↓」の徹底≫という封印作業は、すべてのキリスト教圏を覆いつくした。よって、事は成ったかのように思われた。


 しかし、エルサレムの人々によって「異邦人の地」と呼ばれたガリラヤから、イエス・キリストが現れたように、再臨のキリストは、キリスト教会の影響があまり及ばない、遠い東方の異国から現れた。


 東アジアの日本――そこは仏教国で、私が生まれた茨城は、あの親鸞上人の活動本拠地だった。それどころか、私の家は、浄土真宗の檀家なのである。


 そして親鸞は、極限的な「↓」によって、仏教の基本ベクトルである「↑」を補完した者だった。つまり親鸞によって、宗教的な「=」が現出したのである。ということは、私が生まれた場所には「完成した宗教」の一例があったのである。


 よって、私が生まれた場所は、「宗教を完成させる者」の生誕地としては、実に相応しい、もっと言えば「宿命的な場所」だった。

 

 


キリスト教の空白地帯

 

 そこまで言わなくとも、親鸞とパウロの類似性、浄土真宗とキリスト教の類似性は、つとに指摘される事である。そして、この「親鸞の浄土真宗」があるから、キリスト教は、日本ではあまり布教が進まなかった、とも言われる。


 つまり、類似品があったから、本物が受け入れられなかったという訳である。


 もちろん「類似品」などという言い方は、浄土真宗側にとっては面白くないだろう。しかし、実際の現象としては、まさにそういう事が起こったのであり、結局このことが、日本における「再臨のキリストの出現」を叶えることになった。


 つまり日本においては――浄土真宗がブロックしてくれたおかげで――キリスト教の布教が思うように進まなかった。もし布教が進んでいたならば、その時には、かの「↓」による一面化もまた、日本全土で徹底されていたに違いない。が、実際には、そういう事にはならずに済んだのである。日本は、キリスト教の空白地帯たりえた訳だ。


 これにより、当然「↑」が殲滅されることも免れた。つまり、悟りの縁が残されたのであり、キリスト教からすれば「異端的な、人間の神化」が行われる余地が残ったのである。


 そんな日本に生まれたからこそ、私はそこで「人間の神化」という梯子登りを行い、「人間=神」という登頂にも成功した。そしてさらに、そこから「神の人間化」という梯子降りにまで至ったのである。


 この「神の人間化」こそ、「人の子の降臨」であり、また「キリストの再臨」である。


 かくして、日本に「人の子」は現れ、「再臨のキリスト」として、教会の終末を宣告したのである。

 

 


星が作ったタイミング

 

 それにしても、どうして、このような事が起こったのだろう。


 どうして「聖マラキの予言」に記された「最後の教皇、フランシスコ」が在位している時に、私が福音を述べ、キリストの再臨を宣言したりするのだろう。率直に考えて、実に不思議なことである。


 私からすれば、それはひとえに、星が降ってきたタイミングに由来していると言える。


 かの超新星を身に受ける前の私は、あまりにも世俗的な生活に慣れきってしまっていた。そうして、そのぶん明らかに、宗教的なパワーが枯渇した状態に陥っていた。


 それを超新星の強烈な霊力が賦活させた。星のエネルギーが私の宗教性を復活させ、ついには、このような「福音書シリーズ」を書かしめたのである。


 超新星の受容から、福音書シリーズの上梓まで、どれぐらいの年月がかかっただろう。


 星が降ってきたのが、2013年の4月16日夜。そして今が2017年の5月(旧版の配信日である)だから、だいたい四年の月日が費やされている。


 この四年間、私はことを急くことはしなかったが、だからといって、怠けることもしなかったつもりだ。むろん、仕事をしながら、家庭を守りながらの執筆だから、それなりに時間はかかってしまったが。いずれにしても、この四年という月日は、客観的に見ても不可避のものだったと言えると思う。


 したがって、最もふさわしいタイミングで星は降り、再臨のキリストは、ヘイマルメネー的(星辰宿命的)に、最後の教皇に対峙したと言える。イエスは「世の終わりに星が降る」と言ったが、それは文字どおりの事だった訳だ。

 

 星は空から落ち、天体は揺り動かされる。そのとき、人の子が大いなる栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る(マルコ)。

 

 


既刊作品のご案内

 次回は、

 

 (5)ダニエルの予言

 

 エピローグ 貧病争からの救い

 

 をお送りします。

 

 

 既刊作品の紹介をします。

 

 アトラス⑤

 青いアトラス

 

 

 

 アトラスシリーズの第5巻です。

 3,4巻の暗さからようやく抜け出し、全体に明るい基調の巻となっています。どうかご覧になってみてください。

 

 

 


奥付



【2018-07-06】最後の審判


http://p.booklog.jp/book/122776


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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