閉じる


brown suger #0

 

 

 

 

 

 

 

 

brown suger

 

 

 

 

 

 

 

 

#0

笑い声に振り返る。Duy ユイのその声を聞き、見ろよ、と、17歳のDuy は言っている。その笑い声が。

 

言葉もないままに。

見る

眼差し。

Thanh タン

かすかに黒目を震わせて。

微笑を返しながら

少しだけ神経質な、それ。

Duy

真横に夕暮れ時の濃い光を浴びた、その。… Duy

自分を見返す、その

大柄な、丸太のような腕の。

眼差し

彼の。

その眼差しが。Thanh タンはまだ12歳だった。彼が明らかな少年じみた顔立ちを曝していることなど誰もが知っていた。だからこそ、Thanh は使えた。Duy たち、ベトナム、中部の観光都市、ダナン市、この町を徘徊する窃盗団の彼らにとって。誰もが家の外からThanh が呼びかけたとき、人々は無防備に顔をのぞかせた。

どうしたの?

特に女たちは。何か、庇護してやらなければ、それはあなたが犯した犯罪に他ならないことを、あなたは知っていますか?と、そう静かに訴えるようなThanhの無言の気配と眼差しに、誰も抵抗などなしえなかった。

悲しく微笑んだ次の瞬間に、Thanhが彼女たちを羽交い絞めして、容赦のない殴打の中に、なにも理解できないまま生まれてきたことそれ自体を後悔する無数の瞬間の群れを刻み付けられるにもかかわらず。

 

こいつ、壊れちゃったね。

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言っているに違いない、Duyの眼差しに、不意にThanhは声を立てて笑った。目の前には、70歳近くの女が、しわだらけの顔を曝す。その眼差しに焦点は欠落した。腕と足だけが痙攣していた。御影石風のタイルの床の上に失禁しながら。

穢いとは思わない

そこは彼女たちの家だった。

それは明示していた。そこに

40代らしい肥満した女。

壊れた存在がいるという、ただ

Thanhより少し年上に過ぎない中学校の制服の少女。

その事実だけを

うつぶせの死体を曝した彼女たちの。

あからさまに

手は出さなかった。

隠しようもなく

その《女性》には。なにも。

いま

それは、いま、求められてはおらず、いつ、男たちが帰って来るわからなかった。性欲などの出る幕ではない。それはむしろ禁欲的な行為に過ぎない。俊敏で、抜け目があってはならない、その。

町で何度か見かけたことのある陽に灼けた男は、日本製の車で出て行ったばかりだった。《Hyundai》のエンブレム。十分ほど前に。高校生になる男の子をつれて。

めがねを掛けた

この家でやろうといったのは

細身の

Duyだった。男の車が家の前から走り出した、その瞬間に、

いたいけないHot Boy

バイクを止めて、後ろに乗せたThanhを振り向き、

どう?

 

微笑む、企んだ、いたずらな眼差し。

いいよ。「オッケー」

やろうぜ

好きだった。

血に染めてやろう

オッケー、Thanhは言った。声に出して。

退屈な彼らの日常、

その、Duyの邪気のない眼差しが。Thanhは。

それそのものを

仕事は簡単だった。

最初に出てきた少女は、一瞬に、Thanhに見惚れさえしていたし、生々しいだけのその眼差し。うしろから彼女を、いつくしむように抱きしめたときの戸惑いを表情に浮かべたまま、へし折られた首をぶら下げて、腕の中に脱力した。

僕たちは壊した。まるで

筋肉に微妙な力を残したままで、声さえ立てずに。

月の上を歩くように

その瞬間に、

しなやかに

かすかな、失禁をしたに違いない温度があった。

 

Duy は奥に入っていって、あの40代の女の首を折って、入り口のほうの物音に振り返った Thanh は、小指を立てた。

静かに。

 

聴け

それが老婆だった。近所から

聴いて

帰ってきたのか、市場から帰ってきたのか。入り口を入ったすぐの

耳を澄まして

リビング・ルームで、首の折れた孫を見つけて、

存在の息吹を

彼女はただ、茫然としていた。

 

何が起こったのか、それさえもわからないのか、単純に、元から頭の中の反応が鈍いのか。Duy が歩み寄っても、彼女は彼を見詰めるだけで何もしない。

え?

 

誰?、と

何か、言おうとした。

唇が。その、しわだらけの、周囲にしみを点在させた、それ。

死のう。

彼女の、その。

Thanh はそう想う。

見詰める。なに?

一人で、Thanh は。

なにを、今?

こんな無様な姿を曝す前に

言いたいの?

と。

言葉が発される前に蹴り上げられた Thnah の右足が、布を投げ捨てるように、彼女の身体をくの字にまげて、床に倒れたとき、直撃した頭部が鈍い音を立てた。

 

嗜虐、と。

たんなる嗜虐性を自分の行為に感じた Thanh は、無意味な、しかし執拗な悔恨を、一瞬だけ感じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

Ánh Đà Nẵng  ダナンの光、と、アン勝手にĐạtダットダー名付けたそのナンマフィアに拾われたのは、Trangチャンと日本人の家を家出してから、二日目のことだった。

家出の初日は自由を3時間だけ謳歌し、その後は、発見後の拘束と折檻に怯えた。

クアン・ナム市の近くまで徒歩で逃げてきたとき、その時には日付さえもう変わっていたが、今後の生活への不安が顔をもたげた。

孤独すぎる僕は

可能性として、いかなる生存様式が可能なのか?

その無尽蔵の孤独にさえ

とりあえず Thanh は、その大通沿いの家の前に止められていたバイクのエンジンを

気付かなかった

入れてみることにした。

自分では

家の中からは、話し声さえ聴こえない。テレビの音だけが、

マリアが、気付かせてくれるまでは

そして、その音楽番組が垂れ流した古い音楽。空間の下方に澱むような旋律。路面を、街頭の群れが淡く、澱んだオレンジ色に照らし出す。やり方くらいなら、Trang の家のはす向かいのバイク屋に教わった事があった。違法なエンジンの点火の仕方なら。

 

疾走したバイクに乗って、Thanh が初めて自分で運転してみたバイクは、あまりにも無骨だった。スピードも、ハンドルも、その反応の恐ろしいほどの鈍さと、時に訪れる極端な敏感さの中で、Thanh のバイクは、人通りのうせた道路に無様な疾走をさらす。ふらついたジグザグの。

数台のバイクがときにすれ違うが、誰もが大袈裟に彼をよけて通った。

 

もっともひ弱な、故に、もっとも容赦のない無法者。

Thanh はそのとき、なにも破壊などしないままに

それが、バイクの上の Thanh だった。

すべてを破壊している自分の暴力性に、

かすかな恐怖さえ感じて

 

何十キロ出していたのかはわからない。何台ものバイクが追い抜いて行ったから、チキン程度のスピードに過ぎなかったに違いない。

入った小道のカーブで、曲がり損ねた Thanh のバイクが、そのカフェの前に止めてあったバイクの群れに突っ込んで仕舞ったとき、飛び出してきた Cảnh カン も、Đạt も、その激怒を曝して Thanh を羽交い絞めにする。

砂利粒の

一台だけ、Đạt のバイクは倒されて、その下敷きに、Thanh の左足と彼のバイクは、なっていた。

味を、咬む

Canh が後から押さえつけた Thanh の頭は、その体重と、舌の上の砂利の味とを知覚する。

引きずり出されながら殴られて、生まれてはじめて

痛みさえ感じる余地も無く、Thanh が感じたのは、世界のすべてを破壊してしまいたくなるほどの、かすかな羞恥心だった。

殴られたかのように、その痛みを

誰の目にも、Thanh がまともな人間であるはずも無かった。

骨が感じた。

そして、それは、彼らにとって、この少年が自分たちの仲間であることを意味した。

 

Trang と My にさえ、こんな仕打ちはされなかった、と、起き上がらせられた Thanh は路面に唾を吐き、口の中の砂利を棄てる。

奥歯に、砂利の触感があった

ややあって、カフェでおごおってやりながら、事情を聴いても、なにも話し出そうとはしない Thanh に、しかし、そんなものかも知れない、と Duy は想った。

言うべきことなど何もなく、かつ、話しつくすには言葉のほうが絶対的に不足しているときには、結局は、言葉など知りもしないように、沈黙するしかなかった。

それなりに金くらいは持っていそうな子どもだった。こぎれいな身なりがそれを明示した。しかし、彼は、何も持っていなかった。つまり、何も持っていないのだった。Duy 自身と同じように、奪うしかない。だったら、奪うしかなく、Duy は受け入れてやればよかった。

 

警察が自分たちのことを、実弾入りの機関銃を持って、探し回っていることなど知っている。目撃情報も、少なからずあったかもしれない。

そうに違いない。僕たちの

だれかは、自分たちが、それらの家に入って行くのを、どこかで

仕事はでたらめだった。単にその行為が

目にしたことくらい、

しなやかであるだけであって

一度や二度くらいあってしかるべきなのだから。

にもかかわらず、まだ誰も拘束されないということは、いずれにしても、まだ、自分たちは拘束されはしないということだ。

ダナンの町で花火があったときも、街に点在した警官の群れさえ、Duy にも Thanh にも、見向きもしなかった。車道にまで、夥しい人々があふれた。観光の韓国人たちが、先進国の香水を匂わせた。

どうするだろう?と、Thanh は想った。つまらなそうな警官たちを

美しい?

いま、後から頭を引っぱたいて、

空に浮かんだ、この

そして、シン・チャオ、と、こんにちは微笑みながら言ってやったら。

単なる火薬の爆発が?空を穢した、

彼らに、すがるような子どもの眼差しを浮かべて。

惨めな、見苦しい

彼らはどうするだろう?

汚点にすぎないもの

なに?振り向いた Duy がそう言ったのは、Thanh が一瞬、

一瞬だけ

鼻で笑ったからだった。

Thanh は、小さく鼻で

街中の空間に、花火の轟音が、

笑った。

響いた。遠く。花火が炸裂するたびに、暗い空は一瞬光に染まり、海風のやんでしまった夜、消えうせない上空のどうしようもなく停滞した煙の群れを、何かの残酷な惨状のように浮かび上がらせた。

まるでそこに

向うで、戦争でも起こっているようにさえ見える、と、

星雲でもあるかのように

Thanh は想い、なんでもない、そうつぶやく。Duy に。独り語散るように、微笑み返し、何かあったの?しつこいほどに、途切れ途切れに聴く Duy に。

 

 

 

 

 

 

 


brown suger #1

 

 

 

#1

その少女に会ったのは、彼らと働き始めて、半年近くたった、

初めて

9月だった。

人間を見たような

18歳だと言った。一目見ただけで、

表情を曝した。その

一度も人間種の女を見たことがない存在以外、

少女は。

嘘だとわかる。子ども。

Thanh や、Duy たちを

自分と同じくらいに違いない、と、Thanh 

見たときに。その、少女は

想った。美しいといえば美しく、けばけばしいといえばけばけばしいその褐色の肌を曝した顔立ちを、Thanh はまばたきながら見、マリアはフィリピン人だった。

まるでその、化粧で書かれたような

もとをただせば、

その、眼の前に曝された

日本人のマフィアが、連れてきた少女だった。男の娘だった。パスポートには

日本語の名前が書いてあった。

 

日本人だ、とマリアは言った。わざと澄ました顔をして、私はあなたたちとは人種が違う、と、だから物欲しそうな目で見るのはやめたほうがいい、そう言ったマリアのことを、Duy は通訳されて、声を立てて笑った。

 

人種的には完全にフィリピン人だった。日本で生まれ、

穢い手で

日本で育った。日本語以外の言語は

触らないでください。潤んだ眼差しが

話せなかった。彼女は

震える

日本では体を売っていた。ある意味に於いて。そして

Thanh は、それを見る

ベトナムでは覚醒剤を育てようとしていた。それは父親が与えた仕事だった。あの、丸太のような、巨大な日本人男。

 

覚醒剤をベトナムに根付かせ、作成し、販売し、日本に輸出する。

強くなれる、と男は言った。その

密輸、とも言う。華奢な女だった。

日本から来たマフィア。色の白い

マリアの父親は

 

背の低いベトナム人の女よりも小柄なマリアを、Thanh は好きになれなかった。あるいは、自分と同じくらいの身長のマリアには、コンプレックスを素手で触って刺激する、直接的な不快感が、Thanh にとってはあった。

 

振り向きざまに Duy のほっぺたをひっぱたいたのは、Duy 

穢い手で

不用意に

触らないでください

尻を触ったからだ。ドラゴン・ブリッジ。ダナン市のど真ん中の、ハン川を流れる川に掛かった橋は、

龍?

毎週末火を噴くイベントを披露したが、その橋の下、

胴長の仔豚ちゃんじゃなくて?

無数に並んだ露店で Bánh tráng nướng バン・チャンを買っていたときに、わざとらしい嬌声を上げながら、Duyが尻をつかんだのだった。Duyは気に食わなかっただけだ。目の前に居た白い肌のイケメン đẹp tái が、デップ・チャイ。一瞬、目を細めながらマリアに流し目をくれたのが。

マリアは何も気付かなかった。むしろ、目の前で炭焼きにされる Bánh tráng をめずらしがっていたのだから。

 

俺の女だ。Duy は、そう言ったのだった。マリアの尻をつかんで、でぶの尻がたぷたぷしてる、と、囃し立てたときに。お前は俺が守ってやる。

だろ?

何をするかわからない、あの色白の、

たとえ、お前が単なる

たぶんお金持ちの息子で、

淫売だったとしても

ちゃんと学校に通っているには違いない、目の前のならず者から。

そのデップ・チャイには、この世界の最低限の美しさすら知らないに違いない、穴倉に住んでいる人間特有の、あからさまにひ弱な気配があった。

 

日陰の花のような。

振り向きざまにひっぱたいたマリアの平手よりも、むしも、その眼差しが Duy の心をへし折った。

マリアは無言で、泣きそうなほどの怒りを、その顔中に明示し、

泣かないで

かみしめた奥歯が下唇を震わせていた。

My love

 

ひとことも言わなくなった Duy を、当然の報いを受けた人間を見るようにThanhは、見上げられたドラゴン・ブリッジが火を噴く。

何度も。

 

繰り返し、何度も。

そのたびに、車両を禁止したその橋の上に、そしてその下に群がった、何千人もの観光客たちが歓声を上げた。見飽きたよ、と Thanh は想い、一瞬、スマホで動画を取るマリアに、視線を流す。

美しい、のだろうか。少なくとも、フィリピン人が見たら、美しいには違いない。その根拠を共有できなかったが、そんな感性が、あの、近くといえば近くの、海の向うの遠い国にあるに違いない事が、その顔立ちは感じさせる。明晰に。

見る。僕は

美しさ。

けばけばしいと言えば、まさにけばけばしく、綺麗、と言えば、まさに綺麗だった。

美しさ。君の

それは、何なのか?一体、美しさ、とは。

その

美の基準を共有しないにもかかわらず、なぜ、それが美しいことを理解する事ができるのだろう。

炎の匂いの中でさえ

たとえ、フィリピン人のように、体験することは出来なかったとしても。

 

退屈さが極まって、やがては Cnh のアパートメントに引きこもって、マリアの体の上に乗っかり始める Duy たちの声の群れに Thanh は耳を貸しながら、パソコンでマイケル・ジャクソンのパフォーマンスを見る。

その神話的ダンス。

マリアはいつでも、

口パクだったにしても

仲間たちには体を許した。彼らが求めさえすれば。画面の中で、一人の痩せぎすの男が、スポットライトをめいっぱい浴びながら、口元を隠し続け、そのか細い身体をくの字にへし曲げる。歓声が包む。彼らが聴いたこともない、歌うような声を上げてマリアは男たちを鼓舞した。彼らの腰がマリアを叩きつけて、彼女の小さな体を揺り動かすたびに。その男は生きている事が苦痛で仕方ないとばかりに、うつむき、目線さえあわそうとせずに、重力を脱したステップを刻む。日本風なんだよ、と Duy が言った。いつだったか、彼女のその、あの時の声は。あの娘の子どもは僕の子どもではありません。怒号のような歓声が男を包むが、そんなものがこの孤独な男に聴こえているはずがない。あいつ、日本人だから、と、フィリピン人そのものの、褐色のマリア。孤独な男は挙句の果てには地団太を踏み、天を見上げて、今ここに存在していることそれ自体を呪う。だれも避妊しないことに、最早疑問さえいだかなかった。あの日本から来た指のない男がためさせて以来、覚醒剤はスプーンの上で溶かされて、声。その、美しいその男の声が、それら、幾重にもかさなって、その、空間を支配する。いま、溶ける。この。身体の中で溶け続けるその液体が、背骨をさえ溶かして仕舞ったのを、Thanh は感じていた。苦痛にのた打ち回る男は、何度もひきつった叫び声を短く、吐いた。シャウト。僕の、

僕の子どもなんかじゃないんだ

誰の子?マリアの声を聴く。僕は、誰の子?あえぎ、歌うように、声。あ、あ、ついに、苦痛に耐えられなくなった男が、初めて彼を取り囲んだ観客の、一握りの少数を凝視して、無意味な長い長い叫び声を挙げる。あー、知ったことか。Thanh は今、ここに生きていた。あの、皆殺しにされた両親たちが、かならずしも彼の両親であった必然性などどこにもない。舞台は暗転する。

 

すべては終わり、何事もなかったかのように、孤独な男はくの字に身をよじったまま静止した。

 

マリアとの間に、共通言語はない。

マリアは英語さえまともに話せず、そして Thanh は英語など Samsung と Honda と Yamaha 以外、全く知らない。

昼ごはんを食べに連れて行ったとき、その Bánh Xeo の食べ方を教えるのには苦労しなかった。自分がやって見せればよかったから。

うすらべったい卵の焼きが細切れの海鮮と野菜を包んで、焼き上がり、Bánh Tráng にフレッシュの野菜ごと包んで、タレにつける。

マリアは殆どのベトナム料理が食べられなかった。

彼女にとっては、それらは、辛すぎるか、臭みが強すぎるか、香草が入りすぎているか、もはや人間にとって安全な食べ物だとはどうしても思えないことに、Thanh は、当たり前のように気付かない Thanh は、マリアの不機嫌に、気付かない振りをした。

タレをつけた Bánh xeo を、その唇が咬んだ瞬間に、マリアは、軽蔑と憎悪と、世界中の苦痛を一身に背負って仕舞った存在論的な苦痛の、それらが混合した表情を浮かべた。

声を立てて笑う Thanh をなじる言葉をマリアは探し、日本語しか見つけられない彼女は結局、タレに突っ込んで汚した指で、

いま、君は

Thanh の鼻先をなすった。

笑った

 

しかめっ面のままで

 

マリアを少し離れた交差点に留めたバイクの上に待たせたまま、忍び込む。

川が海に流れ込むそのどん詰まり。風に潮の匂いがした。巨大な橋が向うにアーチを作って、昼下がりの空はその背景として、無根拠に

一瞬だけ見上げて

青い巨体を

Thanh は目を

曝す。

光、それそのものとして。

逸らす。その

再開発のための、

光から

売却が飛び飛びに進行した更地だらけのその一角の、飛び飛びにしか存在しない家屋の一つに忍び込む。

 

なかに誰が居るのか、そんな確認などする必要もない。

正午を一時間ほど回った時間、家の中には年寄りか子どもが昼寝をしているに決まっていた。

 

開けっ放しの一階から入って、

聴く

奥を物色する。キッチン。誰もいない。一階の個室、

かすかな

一応ついているドアは開けっ放しにされて、

音の群れ

黒地にオレンジのプロペラの扇風機が回っている。

耳を澄ましさえせずに

女。眠っていた。年老いた、その。

無意味な唇のふるえと、大袈裟な胸の上下が、彼女が生きていることを教えた。

Duy はそこを

さようなら、ねぇ

Thanh にまかせて、上に上がる、

永遠に

御影石の階段。それは

少なくとも、この世界には

思い切り格好をつけて、手すりもないままに、空間の中央に螺旋を描いていた。

日差しが、窓越しに

Thanh は、豪奢な木製のベッドの下から、

斜めに差した

古びた携帯用金庫を見つけた。

鍵さえ掛けられず、そこには、数百万ドンの紙幣と、銀行のカード、ID カードが、無造作にぶち込まれている。

もはや息をしていない老婆は、向うのほうに首の骨格それ自体を向けて、その、身体は無慈悲なまでの沈黙を曝す。

振り向き見た Thanh には、首から上と、首から下で、

その頭部がかつて

明らかに空間がずれてしまっているように感じられ、

記憶していたもの

想わず、

最早存在しない

声を立てて笑いそうになる。

その

 

たぶん、この家自体には、それほど大きな金銭など眠ってはいない。

そんな事は、Thanh の経験が教える。明晰に。

嗅いだ

銀行屋の事務的で、厳重な匂いがする。

残存する

階段を上って、その二階の、

生活の匂い

誰もいないいくつかの部屋をのぞき見たあとで、

彼らの

その女の口を塞いで強姦している Duy を見つけた瞬間に、Thanh は我を忘れた。

Duy は、Thanh を一瞬振り向き見ても、そして、すぐに、その行為に没頭する。ふたたび。口を押さえた手を外したところで、女は声一つ立てないに違いなかった。明らかに、失心と覚醒のあわいを、女の意識は激しくさまよっていることは察せられた。

それは隠しようもなく明示されていた。

瞳孔をゆるく開閉させ続ける、その眼差しそのものが。

匂う

年増の女だった。二十歳くらい。あきらかに、

彼らの

地上の人間の女特有の、生物的な匂いを持っていた。

たしかに、

生活の匂い

Duy にとっては、お似合いだったかも知れない。すこしだけ年上だったとしても。

Duy と同じように柔らかく膨らんだ、そのたるんだ腹部と、女に固有の、申し訳程度に贅肉をつけた乳房らしきものが、馬乗りになった Duy の全身の動きに合わせてそれでも懸命に、揺れていた。

子どものような

それでもマリアよりは、

体。まだ

よほど女らしい身体、には違いない。

子どものような

子どものマリアよりは。

 

Thanh に シャツの襟首を後から引っつかまれて、床に投げ出されたときに、勃起したままのペニスを曝しながら、Duy は Thanh を見上げるしかなかった。

 

何をしてるんだ?

 

 

Thanh の眼差しは無言のままに、Duy を責め、Duy の眼差しは同じ無言で Thanh に詰めかかった。

 

 

 

 

 

 

 

女は息遣っていた。

たぶん、意識はそのまま失心して仕舞おうかと、その誘惑を半ば受け入れて仕舞いながら、それではいけないのだ、と、意識のどこかが覚醒を要請する。

その、まだるっこしい葛藤が、にもかかわらず、瞳孔にあからさまに、明示されていた。

 

Duy の反撃を恐れているかのように、Duy から目線を外すことなく、女の体の上に乗っかった Thanh を見たとき、Duy は声を立てて笑った。

 

お前もかよ。

なんだよ。やりたかっただけじゃねぇか。

 

 

Duy が口笛を小さく鳴らした。

 

好きにしろよ。

でも、お前、知ってるの?マリア以外の、女の抱き方。

 

Thanh の手のひらが、優しい愛撫を、女の首筋に与えた。

女の体が一瞬、痙攣したのには、Duy も気付く。

その、視界の端で。

日本流儀のフェラチオだけで

難しいんだぜ。

まだ、マリアのそれさえ

女を抱くって。あんなに、

体験したこと

簡単じゃないんだぜ。

ないくせに

女の体に無理やり侵入させたときに先端に感じた、こすれるような細かな痛みの群れを Duy は想いだす。

Thanh は女の首をひねって殺した。

 

それはマナーのない行為だった。仕事は容赦なく、速やかに片付けられなければならなかったし、

しなやかに

やりたいなら、やることだけを

掠め取るように

やるべきだった。それに、

一瞬で

マリアが外で待っていた。

彼女に失礼だった。

そんな事は Duy も知っていた。ドアを開けた瞬間に、その女の、ほとんど裸の体が目に入った。誰かがいるとは思わなかった。着替えの途中で、唐突に思い立った無駄毛の処理をその女が始めたに違いないことには、あとで、女の体の中に入って何秒か後に気付いた。必要だったのだろうか?

今日、それが。

女が何か言う前に、女を殴った。

女の手ごととつかんで、その指が挟んだかみそりを、彼女の右眼の先に見せ付けた瞬間に、女は叫びそうになった。殴りつけられたレバーのあたりが、鈍く、激しく、鋭く、執拗な痛みを巣骸骨の中に響かせて、女の呼吸を困難にさせる。

 

女は、吐きそうだった。

学校で、彼女が習ったかもしれないマナーに違反するのだろうか?女はそれをこらえ続けていた。こみ上げる嘔吐を。

あるいは、怖かったから?

手のひらに口をふさがれて、

舌にあの

裂けた唇の内側が

味を感じさせることが

血を流し始めている中に。

そんなマナーがあるのか、Duy は訝った。

 

女は下着しか身に着けていなかったから、自分がズボンを脱ぐほうに、むしろ手間取る。女の体の下で着られることのなかった外出用のカクテルドレスと、ピンク色の部屋着がもみくちゃになる。

 

日焼けを極端に恐れた部屋の部厚いカーテンは閉じきられて、ただ、隅からあざやかな漏れ日をだけ、薄暗い空間に曝す。

 

Thanh の眼差しは外された。

女を見た。絶命する瞬間に、女の四肢は痙攣した。

一瞬だけ、鋭く。

死んだ?

それを、いまさらのように

もう

思い出し、

お前

もう一度確認した。救いようがない気がした。

女も、Thanh も、自分自身も。何もかもが惨めで、穢らしく、その、匂いさえたてない透明な腐臭を感じた。

 

女の体には匂いがあった。

髪の毛の匂い。汗ばんだ、皮膚の匂い。Thanh はマリアを想いだした。彼女の不安を。いま、彼女は街路樹の申し訳程度の日差しの中で、いかにも外人じみたキャミソールから、覗かせた褐色の肌を日差しに曝し、自分たちを待っているはずだった。

いつもより時間が掛かっている自分たちを。

あるいは、怯え?

その不安を想うと、胸が潰れた。

不意に感じられた、彼女の、その

焦燥感さえ、

なにかの唐突な終わりに怯えた、彼女の

Thanh の喉の奥を熱くする。

 

Duy は、自分を見つめていた Thanh の目線が外されて、所載なげに女の顔、その開かれたままの眼差しを見やるのを、仕方がない、と想う。

どうしようもなく、なにも

Thanh は、まだ、この世界に生きることそれ自体に慣れては居ないのだから。

なすすべもなく

まだほんの子どもで、彼は何も知らない。

Duy は、Thanh 

この町の海辺の朝焼けのぞっとするほどの美しさも、

微笑んでやった

女の体内が最初に持つ触感の痛々しさも、木漏れ日の下の風と、時速140キロのバイクの上の風圧の違いも。

雨期のサイゴンに咲いた花の

海の海水の潮の味の懐かしさと惨めさ。

その美しさ。浴びるほど飲んだ

夕暮れ時の潮風のべたつく臭気の、許し難い生々しさ。

朝の苦痛。惨めな、穢れ果てたような

ふいに見いだされた蝶の羽ばたきの、心もとない悲しさ。

悲痛な感覚そんな、それら

殺される寸前の、毛をむしられたニワトリのまなざしが持つ、目に映るものすべてへの畏怖。

それらの、すべて

悲しみ。

引き裂かれるような

喜び。

痛みをさえ伴った

美しさ。

それらの留保無き

醜さ。

存在

それら、それらさまざまなものの、

さまざまなそれらの、

さまざまなすべて。

 

立ち上がった Duy が Thanh の頭を、乱暴に撫ぜてやったのを、どうして、Thanh

どうして何も言わないの?

拒否などしない。

Duy はそう想った。沈黙する

マリアを、

Thanh の眼差しに

安心させてやらなければならない。

 

うな垂れた Thanh と、彼を励ますように肩を抱いた Duy が、目線の先の白い豪奢な家から出てきたのを見たとき、マリアは微笑みながら手を振った。

 

WiFi もなければ何もないいま、スマホのゲームだけが、彼女の時間を潰させた。その、翳りのない、日陰に埋もれた表情が目に触れたとき、しかし、Thanh は何も想う事ができなかった。

 

頭の中でマリア、とだけ

つぶやいて。

 

マリアの顔を、ふたたび見る勇気もなかった。Thanh は、

マリア、と

見詰めてしまえば、何も言わずに抱きしめて、

Mà...Lỳ...À

唇を、

...Maria

自分の唇で塞いでしまいそうだった。

 

やめちゃったから、と。マリアには理解できない早口のベトナム語で、途中でやめちゃったから、と、いますぐお前とやりたいんだよ、そう笑いかける Duy に、Nói gì ?  もちろん、そう ノイ… マリアは ジー… わざと困った顔を派手に曝しながら言うのだが、

なに言ってるの?

ノイ、ジー。そう、Thanh 

それは確かに、彼女が毎日百回近く繰返す、

口の中につぶやいた

彼女のお得意のベトナム語だった。

マリアを真似て

 

Cảnh は出掛けている。

中国人のために、サイゴンに出張している。タン・ソ・ニャット国際空港に。人身売買。山間部の貧困家庭の、あまった少女を中国人に売りつける。

もっとも実になる稼ぎに違いない。

あからさまに貧しげな少女たち。たぶん、いかにも先進国めいた、明らかな東南アジア人のマリアの、極度の人種差別を感じさせれ眼差しさえ、むしろ、連れてこられる彼女たちにとっては、未来の希望なのかも知れなかった。

マリアを、いくつもの怖気づいた無言の眼差しが、舐めるように捉えた。

Cảnh の部屋、熱気のこもるロフトの上で、裸に向かれたマリアが馬乗りになって、Duy に奉仕する。

いつの間にか、調子の外れた歌声にしか聴こえなかった彼女の、その時の声が、美しいもののように、Thanh には聴こえた。

まだ、彼女を抱いたことはない。

来なさいよ、と、マリアは何度か誘った。ときに。皆が終わった後で。哀れみと気遣いのあふれた眼差しで。

まるで

断りきれない優しさが、

お姉さんかなにかのような

彼女の上に馬乗りにさせ、その瞬間に、いつか自分も、彼女を殺して仕舞う気がして、かすかな恐怖を感じた。

囃し立てる周囲の声が、彼の恐怖を鼓舞し、その気をなくさせる。

マリアを傷つけることだけはしたくない。

 

Thanh は体を離す。マリアの、不安げで、真実を伺わなければ気がすまない無言の眼差しが、皮膚に痛い。

どうしたの?ほら

Thanh はうつむき、無言を曝すしかない。

ふれてごらん

暑いロフトの上で、汗だくになっているに違いなかった。

あなたの

マリアが、女らしくもない

求めたものが

痩せぎすの、

ここにある

貧しい身体を曝し、派手な声を立て、体の匂いにむせ返っているに違いない。

 

美しい、と想う。その身体の形態を、ではなくて、その身体が、今、そこに生きてあり、生きていること、それ自体が。

 

Thanh は自分が勃起しているのを知っているし、

欲しい?

性欲が、

何が?

無残なほどに喉の奥を

何が

満たしているのも

欲しいの?

知っている。

その

憧れ?

眼差しの奥で

手を触れたい、と想う。まったく、傷つけることなく。なんの触感さえ与えずに、そうやって彼女に触れることさえできたなら、Thanh は、迷うことなく彼女に襲い掛かるに違いなかった。

むしゃぶりつくように

Duy をいま、殺して仕舞っても、何の

しゃぶりつくように

後悔もしないに違いない。

想いを咬んだ

ただ、マリアが欲しかった。Thanh は、彼女の上半身を、

Thanh は、解消不能で、不可解な、自分のその

見詰めた。

想いを

そこに、無防備なまでに捨て置かれている、美しさの実態そのものを。

マリア

Duy とのそれに夢中になったマリアはいま、目線を Thanh に投げることさえしない。

 

Thanh の血管を、流れ始めた覚醒剤は、静かに彼の血液を鼓動させる。

 

夢を見た。悲しみが、背骨を砕いてしまうくらいに、それはリアルな夢だった。

音楽を聴いた

信じられない、

何も、

と想った。

Thanh が何人も手をかけてきた老婆たちと同じ、無残なまでの老醜をさらして、マリアは今、

聴こえなかったけれど

目の前にたたずんでいた。死んでしまいたいという記憶が、

音楽が

幾重にも連鎖して、

聴こえ、僕は

Thanh の視界の中を、しかし、

聴いた

遠く、駆けずり回っていた。

それは、いわば

それら

記憶された感情に過ぎなかった。

いかなる現実としての

果てまでも

てざわりをも失ってしまったそれは、もはや、

なにかの

哀れむしかないものだった。

美しい、と

尽きた、その

想った。

果てまでも

このまま永遠に、自分たちは腐り堕ちていくに違いないことが

響く

確信された。むしろ、

鳴り

求められたのは、

鳴って

それでこそあった。

鳴り響いた

マリアの背景は

その

海だった。現実のそれとは違って、

音楽は

視界の制約を解き放たれたそれは、

聴こえ続けた

遠い向こうまで、無慈悲なまでの果てもなさをただ、

僕は

広げ、

抱きしめた

淡い桃色の波を波立てるのだった。

その

老いさらばえたマリアの顔からは、もはや

音楽のその

表情さえうかがえなかった。

表情にさえ触れられず、

実在そのものを

彼女の感情をさえ予想できないにも拘らず、Thanh はただ、

抱いた

彼女に感謝をささげた。

僕は

泣き伏してしまいたかった。

いま

そのことに気付いたとき、もう、自分が、夢を見始める前からずっと、静かに涙を流し続けていたことに気付いた。

 

 

 

 

 

 

 


brown suger #2 /#3

 

 

 

#2

腕を洗う。

あの日本人は、消毒液を浸したガーゼで、拭いてやっていた。

いま、そんなものはなく

マリアの、あの、褐色の腕、へし折れそうな腕を。

あったためしもない

腕を水道水が滴り落ちる。

そのまま顔を洗って、

その

髪まで濡らした。

Cảnh のアパートメントの前、道路との境界に突き出したそれが、アパートメントの設備なのか、公共設備なのか、誰にも判断がつかなかった。

アスファルトを水流は勝手に濡らし、黒く染め、日差しが照る。

部屋に入って、タオルで拭く。

マリアはロフトの上で寝ている。Cảnh が1階のタイル張りの床の上に寝ているのは、単純に、暑いからだ。

熱をこもらせた、6畳程度の室内の大気が、すぐに Thanh を汗ばませた。

やがて、Thanh は、床に胡坐をかいて、壁にもたれ、注射器を、腕に差す。

覚醒剤は、まだ血管の中に溶けこんではいない。

Thanh はその時が来るのを待つ。

音響が本当にリアルに、その音の実像を曝し始め、逆に視界は白濁していく、その時を。

やがて、音響はざわめき立つ。

それらの音がそれらそのものとして、

聴こえるよ

制御されない空間の、野放図な

君の

拡がりを感じた。

世界は、

今、それそのものだった。

それらが、

息吹

白濁した明確な輪郭の中に、見詰め得ない形姿を

存在

曝した。

君の

美しい?

そうじゃない。

 

Thanh は目を閉じることなく

 

悲しい?

そうじゃない。

 

想起した。昨日降った

 

僕は聴く。

鼓動の音を。

 

雨の中にマリアは振り向いて

 

いとおしい?

そうじゃない。

 

何も言わなかった

 

せつない?

そうじゃない。

 

なぜ?

 

ほら、マリア、と、Thanh が、触れてごらん。そう言ったのに、いま、雨さえもが、マリアが気付かないのは、静止する。

空中に。

それが、頭の中だけでつぶやかれた音声だったからに他ならない。

見て。

 

愛しのマリア、と。Marie my  love そう言うに違いない英語の単語を Ma… 羅列する。Lỳ… 正確な Mai… 発音さえ、là…bục 誰にも教わらないままに。マ、その リー 瞬間 マイ 振り向いたマリアを、ラ、ブッ… どうして?君は。

 

なんで、僕の声が聞こえたの?想った。なにも言ってさえいないのに。こまかな雨が降っていた。それでも、

わかる?あれは

十分、冷たかった。風は

北斗七星

なかった。夜の十時。Cnh たちはパーティだった。雨に中を、マリアが先導して、遅いご飯を食べに行く。夜の更けるのが早いダナンでは、夜の時間はすでに死にかけている。雨の中のマリアは見つめたまま、表情さえ変えずに、Thanh は彼女が何か言い始めるのを待った。

何を言っても、理解などできはしない。

瞳が、夜の空間の

そんなことなど、マリアだって

その中ででも

知っているはずだった。

輝きを持つことを

ややあって、マリアは微笑み、

知った

再び歩き始めたマリアのあとを、Thanh は追った。

 

食べろ、と言って促した Búブン を、マリアは殆ど口にしない。どんぶりの上に、半分以上 Búの麵が沈殿し、箸の先でいじられたにすぎない細切れの牛肉と、もやしがそれを覆い隠していた。

なんで?

Tai sao ?

言った Thanh に、

なぜ?

ベトナム語などわかりもしないマリアが、めんどくさそうな顔をして、話しかけないで。白い シャツの上から腹を撫ぜたのは、そう、言っているに違いなかった。なに?

どういう意味だったのだろう?腹痛を言ったのか、満腹を言ったのか。

 

どこも見ては居ない眼差しがふるえ、Thanh は眼を逸らす。

 

歯をうずかせるような悲しみがある。それらが波紋を広げて、なにも拡散しはせずに、寧ろ、小さく縮まって、執拗な存在感だけを放ち続けるのはなぜなのだろう?

 

家に帰る頃になって、雨は激しくなる。雨の中を走る。マリアが、そしてゆがんだアスファルトが、無数に作った水溜りを派手に撥ねて、声を立てて、マリアは笑った。雨は、もはや土砂降りに過ぎない。肌を撥ね、髪と衣服を重くする。Thanh は息をかすかに切らせ、荒れたマリアの息遣いを聴く。

その体に近づくと、雨のなかでも火照った皮膚の体温がある。マリアの、その。

ほら、明確な証明。君が

乱れた髪の毛が水を撥ねた。

生きてあることの

笑いに顔をくしゃくしゃにして。

ここに

乱れた、それらの音声。足音。飛び散る水溜り。耳を澄ます。Thanh は、自分も笑っていることには気付いている。むしろ、マリアより大袈裟に。

 

部屋の中で、Thanh の服を脱がしたのはマリアだった。母親がするように、早口な音声で切れ目なくはやしたてながら、素肌を曝そうとも、Thanh は恥ずかしいとも思わなかった。濡れて張り付いた シャツが透かせた、マリアの肌の色彩と、乳首の存在感を、むしろ恥じた。

濡た衣服のままマリアはバスルームに連れて行く。ドアもなにもない、一応の仕切りがあるだけの、トイレと共同の空間に過ぎない。最初の日、マリアは泣きそうな顔でこの空間を拒否したものだった。

蛇口をひねって、水を出す。

温水は出ない。ぬるい水が頭からマリアと Thanh を濡らし、マリアはふたたび、声を立てて笑った。

水に濡れぼそりながら服を脱ぎ、放り投げ、そして Thanh の体を洗い始めたマリアに、Thanh は任せた。すべてを。

好きにして

マリアがロッテ・マートで買い込んできたゴーツ・ソープが

何もかも

派手な泡を立てた。匂いが立つ。それでもかすかに、Thanh 

想うがままに

彼女の髪の毛の匂いを

すべてを

かぎ当てた。

 

Thanh はマリアを抱きはしなかった。マリアも、Thanh を抱かなかった。求められない限り、自分からはしない女だった。半乾きの、たぶん Duy が使った後のタオルで Thanh のからだを拭いてやりながら、Thanh が勃起させたそれを、ふいに、右手のひらで、やさしく包んで、上目使いの微笑をくれたにしても。

 

褐色の肌。

そのてざわりは知っている。

自分と同じ物質が作った、同じような細胞が、それを同じように形成しているに過ぎないことが、どうしても信じられない。その、滑らかな質感。肌の上の、きらめくような流れ去るような、その触感。

マリアの肌が人間の肌であるというならば、自分の肌は薄汚れた豚の皮にすぎない。

 

その、肌。

褐色の色彩をあざらかに曝した、その。体臭。匂い、気配。体温。指先の。腹部の。首筋の。髪の毛の質感。それらのすべて。

 

壊れそうで壊れないそれらの、留保無き実在感が、まどろみながらも Thanh の脳裏、あるいは、からだ全体を離れようとはしなかった。

いつもよりも、早く寝て仕舞った。マリアを、遅く帰ってきた Cnh たちが、その酔いつぶれたささやき声で起こしたのには、Thanh も気付いていた。眠っているといえば、眠っていた。起きているといえばおきていた。

 Thanh は、いつものように、横たわった彼のすぐ背後で、Cnh たちがマリアを抱くのをまどろみの中で何度か確認し、そのたびに、彼は想起せざるを得ない。

マリア、たとえばその皮膚のてざわりが残しているような、それらの記憶の総体として、頭のなかに千路に乱れて再生させれる、その、いくつもの存在の無数の断片を。

 

彼女を愛していること、そんな事は、とっくの昔に気付いていた。手の施しようがないほどに、と、僕は、愛している。Thanh は消えそうな意識の片隅に、はっきりとつぶやく。

 

朝。誰よりも早く寝た Thanh は、誰よりも早く起きる。一瞬、十分ほどは、マットの上に横たわったままで短パンだけで寝た自分の、裸の上半身の皮膚が付着させた寝汗の触感を、忌んでみる。寝返りさえ打たないままに、そして、口の中にたまった古臭い息を吐き出しながら身を起こす。雑魚寝の Duy と、Cnh と、Âu を踏みつけたりしないように、やがてロフトを降りた Thanh は、ようやく背伸びをした。穏かな光が、壁の上方から差し込んで、それはやわらかい。

霞むような、光の実在。それを見る。

なにも、考えられることはない。

なにも

なにも。

なにも、

 

まだ

シャワーで汗を流しながら、Thanh はふと、マリアがどこにも居なかったことに気づいた。

 

部屋を出てマリアを探す。

午前6時半。

町はすでに十分目覚めている。それはいつものことだ。

カフェは客をいっぱいにはらみこんで、

はらみこんで

彼らが同じようにつまらなそうな顔を曝すのを、

いっぱいに

Thanh は確認する。

はらみこんで

アオヤイを着た学生が、電動バイクを転がす、無音でエンジンを回転させるそれに、Thanh は二、三度轢かれそうになったことがある。

いつものことだ。

BánhMì 売りの露店が、バイクに乗った通りすがりの男のために、パンを切り裂く。

いつものことだ。

角を曲がれば、別の街路樹にでくわす。

マリアは居ない。

その先のかどで、Nước  Mia ヌック・ミア を売る露店に、若い女たちが群がっていた。

いつものことだ。

別のカフェに、新聞が配られ、氷屋が自転車を媚び始める。

マリアは居ない。

探す。

眼差しの先に、マリアを。

 

歩き回る。

街中に、雨上がりの朝の、渇いた湿気があった。

濡れた樹木が、風にわなないた瞬間に水滴を散らす。

Thanh は濡れる。

 

川沿いを歩く。

大通り、右側を無数のバイクが通り過ぎ、その音響は、聴かなくても耳に侵入する。

ハン川の臭気がある。

嗅ぐ

上流が、乾いているに違いなかった。

大気

いつも、見事なまでに泥色の濁流を曝すハン川は、

大気の匂いを僕は

つつましく、緑色に近い水を、

嗅いで

しずかなさざ波と共に流していた。

 

もう、空が川の向うの方だけを自分の色に染め、視線の先で、真っ青なハン川は揺らめいていた。

 

その水面を、止め処もなく、

きらめく

光の反射が、

見ただろうか?

散乱し、きらめき、水の音。

君も

その臭気。

濡れた路面は乾きかけ、街路樹の土はまだ濡れている。

 

マリアはドラゴン・ブリッジの下にいた。

すぐにわかった。水際に突っ立って、その下を眺めるわけでもなく、向う、見えるわけもない海のほうを眺めているその少女が、マリアだと言うことは。

 

どうしたの?

Lam gi ?

Thanh が後からかけた声に、

なにを、

茫然とした表情のままマリアは振り向いて、

何をしてたの?

泣きそうな、と、Thanh は、泣きそうな顔だ、むしろ、微笑んで見せた。どうしたの? マリアに。

不意に、マリアは Thanh に口付けた。奪うように、唇を押し付け、唇を吸い、舌を差しこむ。

 

舌と舌が触れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

#3

いずれにしても、マリアと Thanh が愛し合うようになったことは、誰もが知っていた。

それに対して、何を言うわけもなかった。むしろ、祝福と、囃し立てる声が掛けられ、Duy がマリアに、おなかのふくらみを両手で書いて、ベイビィと言ったとき、マリアは笑い乍ら思い切りひっぱたいた。

それはブーゲンビリア

Thanh が Canh たちに拾われてから覚えたのは、人の上手な殺し方と、覚醒剤と、バイクだった。

隣の庭に咲いていたのは

ダナンの海岸通りからホイアンへ、皆が昼寝を始めたとき、Thanh は一人で、誰かのバイクにまたがった。

エンジンをいれ、

それは花

疾走する。グリップを思い切り回し、エンジンを蘇生させる。

名前は知らない。たぶん綺麗な

いつも40キロから60キロの間でしか回されていないそれは、

花のような名前

きっちり15秒後には、自分の本当の姿を思い出し、一分後には完全に自分自身を取り戻す。

その、蘇生の瞬間が、Thanh は好きだった。街中の大通り、バイクと車の群れを掻き散らすように、隙間をくぐって疾走する。モーターが発熱し始めたことにはとっくに気付いている。

エンジンの音響は、速度の中で、至近距離に鳴り響いたはずなのに、むしろ後ろのほうにしか聞こえない。

もっと

もっと、早く。

もっと

すれ違いざまのバイク、

早く、いま

あるいは、交差点でもたついた、鼻の先を掠められて激怒したバイクが

誰よりも

クラクションを鳴らしてみせる。

何ものよりも

それらはすでに、背後に捨て置かれた背景に過ぎない。

風景は、

速度

眼差しの片隅で流れ去る。そうには違いない。そんなものに興味はない。

疾走には速度がある

目の前にはゆるぎない前方が、近づいても近づいても遠く、向うに存在し続けながら、

それは花

Thanh を駆る。

無数のバイクを、

名前は知らない

なぎ倒すように追い抜いていく。車、トラック、それら、でかいだけの図体を曝した鉄のでくの坊の出る幕ではない。海風を含んだ風圧が時に左右から Thanh をなぎ倒そうとするが、スピードそのものがそれを許さない。

そこには留保無き闘争があった。風圧との。暴力的な、力そのものとの。疾走すること、それは風になることなどではない。風圧と化した、巨大な空気そのものとぶつかり、それを突き破り、征服しようとすることなのだ。

けっしてひれ伏してはくれない、目に見えない執拗な力そのものを。

 

毎晩、誰かが、マリアの上で腰を振る。Thanh は手を出そうともしない。触れたことしかない。唇にしか。

あるいは

お前も来いよ、と Duy がロフトから手を振る。

彼女の唇は

いいよ、と、Thanh は手を振る。マリアは Duy の下で、いつものように、あの、

そして肌にしか

歌うような声を立ててた。

なめらかで、すべるような

 

人身売買のために仕入れられた少女が二人、Cảnh の部屋でマリアにからだを洗ってもらった。

マリアの、あの外国製のゴーツ・ソープで。

戯れたマリアが歓声を時に立てるが、少女はまだ口を開かない。もう少し、彼女たちが心を開くまでには時間が掛かる。それは Cảnh たちの仕事に過ぎない。

知ったことではなかった。たとえ彼女たちが

Cảnh たちの、単に趣味過ぎない仕事。

生まれてきたことそのものを

たいしてかわいくもない、いまだに泥つきのような彼女たちを

後悔したとしても

口説き落として、裸に向き、優しい愛撫でからだも心も開いてやる。中国人はヴァージンしか愛さないから、それ以上のことはしない。そこから先はマリアが満たしてやった。

Duy のやさしい、繊細な愛撫が、まずしい少女の、そのくせに日に焼けてはいない肌を服の上から撫ぜていく。

だいじょうぶだ、と、Duy がいう。

何も問題ないし、何も心配などないのだと。

Không saoKhông sao、その、Duy のフェなまりが強いベトナム語には、中部の山の中に生まれたその少女には聴き取りにくかった。耳元のささやきを、顔をしかめながらなんども少女は

なに?

確認し、その都度、Duy 

どうかしましたか?

繰返す。マリアが Thanh の耳元に

何か?

何か

何かおっしゃいましたか?

ささやいた。Thanh には、彼女が何を伝えようとしたのか、わからなかった。撫ぜるような、空気のふるえ、それだけが耳の中できらめきを持つ。マリアのソプラノは、許し難いほどに優しい響きを持っていた。

Thanh はまばたき、

ねぇ

微笑むマリアを至近距離に、

なに?

見詰めた。

すべてを納得していた少女が、Duy にからだを許すのに時間は掛からない。ロフトの上で、彼女が不意に後から抱きしめた Duy に身を預けた瞬間に、ながいながい、Duy の愛撫が始まる。

自分の性器が勃起していることを、Thanh は気付いている。なにかのはけ口さえ求めて。

それはマリアの仕事なのだろうか?あるいは、あの、少女たちのような女たちに済まして仕舞うべきものなのだろうか?ひそめた呼吸がマリアの匂いを嗅ぐ。髪の毛と、体臭のいりまじったその、それらさえもが、ときに自分を発情させることには気付いている。

Thanh はマリアを求めている。その事実と、

君は羽撃く

彼女を愛している心の事実が、微意妙な

花にたかった

すれ違いと食い違いを持っているような

蝶のように

気がする。そのあられもない実感が、Thanh をうずかせた。

時に、吐き気をさえ感じさせるほどに、喉の奥で。

 

マリアは13歳だった。

日本の千葉で生まれた。海岸沿いの町だった。

その町が、いつでも海の匂いがすることを、マリアは東京に行った時、初めて気付いた。

東京の、無色透明な空気によって。

母親はフィリピン人だった。我那覇秀樹という名の50絡みのやくざが連れてきた女たちの一人だった。

千葉の場末のパブの中の誰もが、秀樹の手の付いた女であることは認識していた。フィリピンにいるときには、すでに妊娠していたに違いなかった。男の名前は、秀樹が何度問いただしても明かさなかった。顔中青タンだらけにしながら。

彼女が公然のものとして、複数の客に抱かれているのも事実だったが、日本に来て、まだ、二ヶ月もたっていなかったのに、妊娠は四ヶ月を迎えていた。

実際問題として、秀樹はすでに男性として用をたさなくなっていた。何が悪かったのかはわらない。まともな人生では、確かになかった。いずれにしても、秀樹はすべて、自分が打っている覚醒剤のせいにしていた。

強くなるぞ、秀樹は言った。Đạt 

ジュリーもすでに

これを打つと

フィリピンで覚えていたし、

強くなる

彼らにかけている部分は、覚醒剤の強烈な快感が、すべてみたして、欠落を消し去った。

あるいは過剰なもの、たとえば秀樹の暴力さえも。

父親は、友達のおじいちゃんより老けて見えた。

秀樹は荒れ放題の肌を曝した。水気を

中学校にさえ行きたくなかった。小学校の卒業式に流した涙は、

失って、かさついた

感傷的な雰囲気に感染した、

その

つられ涙などではなかった。

留保無き息苦しさからのとりあえずの、完全なる解放と、やがてすぐに訪れる、別種の抑圧が口をあけて待っていることへの、喜びと絶望がない交ぜになって、ついには決壊させた涙だった。

反抗的と言うわけでもなく、意図的に無反応で、ほぼ沈黙で一日を過ごす、かならずしも頭が悪いわけでもない手の焼ける少女がながした、唐突な滂沱の涙に、教師たちはもらい泣きせざるを得なかった。

中学校のとき、その六月には、マリアはすでに男を知っていた。目立つ少女だった。

きたないから

褐色の肌。明らかに

きょうしつで

南国のアジア人の、濃い、はっきりした、

いき、しないでください

モデルか何かのような顔立ち。

しねば?

化粧していない顔が、凹凸のない日本人顔の少女たちとの対比で、濃いメイクを施された淫売の

すでにむいみだから

つくられた顔にみせた。

しんでください

強姦と言えば強姦だった。一つ上の少年たちが、休みの日に家に呼び出して、その部屋の中にいた一人の団子づらの少年と、一人の肉まんづらの少年と、

彼らの名前をついに覚えられなかったのは、マリアの

一人の、残念ながらにきび面のイケメンくんが、

無関心のせいだったろうか?

マリアにのしかかった。

団子の家族は、小さな庭で、小学校の友人たちを集めた、妹の誕生日パーティのバーベキューに忙しかった。

最初に、イケメン君が口火を切った、わざと卑猥な冗談を耳にする前から、彼らが何を求めているのかは知っていた。

多くの、学校に人間たち、彼女が一切口を利かなかった彼ら、彼女たちが、すでに彼女を淫売扱いしていることくらい、知っていた。

机の中の引き裂かれたノートも、女性性器をかたどったらしい太陽のマークの落書きも、それらはいじめだったかも知れない。マリアはその事実に気付かなかった。

床に座り込んで、スナック菓子を食べながら、団子が彼女の背後に回って、マリアを抱きしめるような格好を見せたとき、

もっと

はやくすればいいのに、と

もっと、はやく

想った。

あっという間に

それらはながいながい儀式のようなものだった。

声を立てる暇さえなく

チキンたち。

掠め取るように

誰のためでもない、無意味な儀式を重ねなければ、その行為さえできないチキンたち。頭の後ろ、耳の近くで噛み砕かれたポテトチップスの音がする。しゃり、じゃり、じゃっ、じゃ、そしてその香辛料のきつい、揚げられた塩の匂いが。

 

フィリピンも、潮、吹いたりするの?至近距離のイケメンが、口臭を撒き散らしながら口元をゆがめながら行った時、思わずマリアは声を立てて笑った。セーラー服の上から、団子の手が、未だに何のふくらみもないマリアの胸を、それでも、たわわに実った厚ぼったい乳房をもみしだいてみせているかのように、動いた。

その行為は子どものころから知っていた。覚醒剤を打った父と母の、その。

あれからなんどか妊娠し、そのたびに堕胎した母の、その股を開かせて、父が指先に少しだけつけた覚醒剤を刷り込み始めたとき、母親はながいながい息をついた。

溶ける。光が

まだ、指先の触感しか感じてなどいなかったくせに。

パブロフの犬のように。

眼差しの中で

からだの上に乗った少年たちを、

溶ける

ときに目を細めて見ながら、なんという不均衡な行為なのだろう、と

瞬きのうちにさえも

想った。まるで下になった存在は、

溶ける

もとめているにもいないにも関わらず、常に

形態さえもが

強姦しているように見える。あるいは、そう感じられもする。

まだしも、犬の交尾のほうに、生き物としての神聖さと尊厳があった。

フィリピン人って、エッチのとき、目、閉じないのな。学校の自販機の横で、そんな無駄話を友達にしている団子を、マリアは見たことがあった。

何人かの、少年たちが、彼女になけなしの金をつかませて彼女を抱き、事実は色をつけて、

しんでください

それは学校の誰もが知っているに違いなかった。

ふぃりぴん、すぐに

学校側は知っているのかどうかわからない。気付かないわけもない気がする。いずれにしても、

しんでください

問題児の方は、自分のほうに違いない、と

くさいから

マリアは思った。

しんでください

どうでもいいけど、と、汚いからしんでください。そう書かれた手紙を、マリアは英語の教科書の中に発見した。

居場所がなくなることはない。最初からそこに

気付いた?

存在している自分を、

風の中で

求めてなどいなかったから。

花が揺れた気配

ベトナムにつれてきたのは秀樹だった。不登校になる前に、マリアを学校側が不登校にした。自宅静養が必要だ、と言う名目で。担当の教員が、毎週月曜日のきっかり二時に二人で、マリアに会いに来た。

死んだように寝ている母親以外、誰もいないマンションの一室に。起こさなくてもいい、と教員は優しさを見せびらかすように言った。誰も彼も、マリアがやくざの娘だということくらいは知っていて、そして、いつならお父さんに会える?聞いた教員に、マリアは午前中か夕方だったらいる、と答えたはずだった。

秀樹の、中国人向けの商売。少女人身売買。その手伝いのようなもの。

ときに、垢抜けない少女たちをもてあそぶ以外に、とくに、何の仕事もなかった。

 

 

 

 

 

 


brown suger #4 /#5

 

 

 

#4

その女あるいは少女を連れてきたのは、Cnh だった。Cnh は色白の美青年だったから、女に不自由などしないはずだったが、その女は体を売っている女だった。

女を買った Cnh に、ついてきたのだった。マリアと並べれば、明らかにマリアは子どもに過ぎなかった。その、Hạnh ハン という名の16歳の少女は、明らかに成熟していた。

Cnh の部屋につれてきたその時に、

夜が明けますよ

戯れるように暑がって、シャツの腹をめくって

夕暮れるように

真っ白い腹部を曝し、綺麗に濃い化粧で書かれた顔を、

朝焼けて

大袈裟にしかめて見せた。Duy が口笛を立ててはやしたて、

夜が壊れていきますよ

ときに、

すでにもう、その色彩さえも

卑猥な言葉であるかのようにかわるがわる少年たちが口にするXin đẹp, đẹp、その言葉が、

壊されて

綺麗、という意味だということは、マリアでも知っている。

誘いに応じるように女は服を脱ぎ捨てて、シャワールームに入って行った。Hạnh が一枚脱ぐたびに、これみよがしなほどの、生物の匂いがたった。

Cnh がわざと卑猥な顔を曝し、Duy が自分も服を脱ぎ始め、派手に立つ水音を聞きながら、あの匂いをさえ、と。水は洗い流す事ができるのだろうか?、そう、Thanh は想った。

 

ロフトで、Duy がまず尻を振る。

 

 

 

 

 

It's been seven hours and fifteen days
Since you took your love away

 

 

 

 

7時間と15日

あなたが愛を捨て去ってから

 



Thanh は暇で仕方がないはずのマリアのために、パソコンから音楽をかけてやる。ママの、

 

 

 

I go out every night and sleep all day
Since you took your love away

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎晩でかけて、昼間眠ったわ

あなたが去って仕舞ってから

 

 

 

 

ママの好きだった歌だ、と、そう言ったに違いない。その時、Ma…Ma…Ma…なんども無数のMaが、二つセットでつぶやかれたから。

 

ママ、まま、

ママ

 

 

 

Since you've been gone I can do whatever I want
I can see whomever I choose

 

まま、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたが出て行ってから、好き放題やってるわ

好きなやつと遊んで

 

 

マリアがゲームを始め、ときに、わざと派手に立てる Duy の声に、不意に声を立てて笑う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

I can eat my dinner in a fancy restaurant
But nothing
I said nothing can take away these blues


 

 

 

 

 

ファンシーなレストランでおしゃれなディナー、けど

どうして?心はブルーなまま

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Canh はビールを開けて、Dan にまわしてやった。

Thanh は、想う。美しい、

 

 

 

 

 

 

 

 


Cause nothing compares
Nothing compares to you

 

 

だって、

 

 

 

 

 

 

あなたの代わりは、どこにもいない

 


美しい曲だ、と、けれども、そして覚醒剤は、スプーンの上で、もう完全に液体になっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

悲しすぎないかな?


It's been so lonely without you here
Like a bird without a song

 

 

あなたがここにいないことが寂しくて仕方ないの

歌を忘れた鳥のように

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すこし、いや、とても。感じて、自分でも腰をでたらめに動かす Hạnh は、同時に感じた振りをしながら、ヒキガエルのように喉を鳴らし続けた。

 

 

 

 

 

 

 


Nothing can stop these lonely tears from falling
Tell me, baby, where did I go wrong

 

なにものも孤独な涙をとめることができずに、ねぇ

わたしはどこで間違ってしまったの?

 

 

 

 

 

 

 

日差しにまだたく。注射器が吸い込む透明な液体を、マリアは Thanh に覆いかぶさるようにして見詰めた。

 

 

I could put my arms around every boy I see
But they'd only remind me of you

 

誰をも抱きしめる事ができるわたしの腕が、ただ

あなたをだけ想いだす

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

針の先を、斜めの日差しだ細かく照らして、Duy はまだ射精しない。Duy のからだを溶かした覚醒剤が、いま、

 

I went to the doctor and guess what he told me
Guess what he told me

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

医者に行ったわ、ねぇ、なんて言ったと想う?

あいつ、なんて言ったと?

 

彼にほぼ無限の男の力を与え、自分の理性ごと、Hạnh をぶち壊す。もみしだかれる乳房が、乳首を立てた。

 

He said, "Girl, you better try to have fun no matter what you do."
But he's a fool

 

 

 

 

 

 

 

 

「なんでもいいから、エンジョイして!」

ただの馬鹿でしょ?

 


Nothing compares…
Nothing compares to you

 

マリアに打ってやるとき、マリアはいつものように、肌を突き刺して行く針から眼をそらして、鼻から息を吐く。目を、


All the flowers that you planted, mama in the back yard
All died when you went away

 

ママが裏庭に植えた木も、みんな枯れてしまったわ

あなたが出て行った日に

 

ゆっくりと、閉じ始めながら。いつも、と、想う。Thanhは。心配しないで。君が、


I know that living with you, baby, was sometimes hard
But I'm willing to give it another try

 

  

 

あなたと生きていくのって、時にはハード、でも

もう一度、トライしてみたい

 

針の先に怯える君が自分で打てないときには、いつも僕が打ってあげるから。


Nothing compares…
Nothing compares to you

 

あなたに替われるものなど、どこにもいない

どこにも

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Nothing compares…

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


Nothing compares to you

 

 

 

 

 

 

 



蝶。

 

ちょう。

 

蝶、

蝶。

 

ちょう、ちょ。

 

蝶ちょ。

 

 

 

 

 

ちょう、蝶。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

蝶蝶

蝶蝶蝶

蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶■■蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶□□蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶■■蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶蝶

 

 

なにも、見えているわけではない。視界は、形態を、そして色彩をも確実に捉えながら。

蝶など見えてもいないが、マリアの脳裏にひらめいたその音響が、無数の蝶の群れの重なり合わない羽撃きをみせた気がした。

 

だれも、眠りはしなかった。覚醒剤が、眠りなど、まだ、許さない。時間は持て余された。Duy がへたくそなダンスを踊ろうとして、壁にぶつかった。

 

一人だけ打っていなかった Thanh は、時に声を立てながら、彼らを笑い、打ちたくなかったのではない。

打ってやったマリアが、すぐに倒れ掛かって、Thanh のひざの上を占領し、次の注射を準備する自由を奪ったからだった。

 

Thanh は、自分にからだを預けて、甘えるように胸に顔をうずめたマリアの頭を撫ぜ続けた。

まだ、マリアの体臭は変わらない、あの日本人の男のような、あるいは、Cnh のようなにおいはしない。

その覚醒剤塗れの身体は。

 

Hạnh が上にのっかったままの Đân を押しのけて、鼻水を拭いた。

 

自分の胸の上、乳房が盛り上がりかけたところの、目立つほくろの近くを穢したそれ。

 

Hạnh は笑っていた。Thanh を見て。まだ誰も知らない、子どもの、美しい純白のThanh

 

少女を胸に抱え、大事そうに。妹を守る勇敢なお兄さんのように。世界中が、

 

Thanh の手が震える。一瞬、マリアの頭を支え続けるそれが。

 

敵に回っても、僕は君を守るよ。ねぇ、そうでしょう?

 

そう言ってるんでしょう?

 

Thanh は知っている。素っ裸の女が、精液を体内からたらしさえしながら、ロフトのはしごをよろめきながら下り、Hạnh は想う。

 

それは、わたしでしょう?

 

あなたが腕に抱いているのは

 

Thanh にゆっくりと、尻を振りながら歩み寄るたびに、そして床を、

 

ねぇ

 

垂れた誰かの精液が汚した。

 

わたし。

あなたが、腕に抱いてる、わたし。

 

Hạnh は Thanh に口付けながらマリアの頭を撫ぜる。

 

蝶。

 

ちょう、蝶。

 

マリアが Hạnh の指を舐めた。壁にずらして、優しく Thanh の身体をマリアごと倒せば、Hạnh はすぐに、

 

聴き取られた蝶の、

その。

 

ずらした短パンの中から、Thanh の勃起しかけたそれを探し出す。それが、目を覚ますのは容易だった。

 

音?

無数のその

羽の、

 

 

蝶の。

 

羽音

 

Thanh の唇が Hạnh の唇に塞がれて、垂れ流されるだけ垂れ流される無防備な Hạnh の唾液が唇を、

 

音さえたてずに

 

触れ合う舌を、口の中を濡らす。

匂う。

感じた。

Hạnh の唾液の匂い。頭を撫ぜた。胸に抱いたままのマリアの頭を、

わたしでしょう?

なぜて。

 

Hạnh の体内が、初めての Thanh の先端に痛みを与えた。こすれるような、こまかな、無数の、際限のない痛み。

はがゆい快感のようなものを感じないでもなく、いつか、それが快感に違いないことに気付く。

マリアの髪の毛が匂う。馬乗りの Hạnh に押しつぶされそうになりながら、頭を撫ぜるたびに、あられもない Hạnh の乳房が Thanh の手を愛撫し、マリアは感じた。

その、やわらかく、温度を持った、その、大きな、たっぷりの、それ。

乳房。

Thanh がいま、Hạnh としていることは知っている。

Hạnh が息遣っている、そしてその、どこかの女が立てる、喉の奥の、ヒキガエルのような押しつぶした、

 

蝶。

 

乳房。

 

ママの。

 

想いだした。

マリアは、自分のからだごと振動させるその行為の動きをからだに感じながら、ついには壊れて、廃人になって、ベランダから転落死してしまったその。

 

ママ。

 

乳房。

 

愛してた?

 

顔をうずめたもの。

 

たぶん、ね。

 

かつて、そう、いつか感じたに違いない、その。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#5

Cảnh は Hạnh に外人向けの売春を斡旋し、それは趣味のようなものだったに過ぎない。あるいは、Thanh たちの盗難活動も。収益の数字の上では、中国人たちがベトナムの少女たちの購買に払う金銭から、秀樹に分け与えられる報酬とは、比べ物にさえならない。

Cảnh がサイゴンに、少女たちの数人を連れて《出張》するたびに、Hạnh は目も当てられないほどのわがまま娘に変貌する。それを、Duy も、Thanh も、マリアも、笑い乍ら許容してやるしかすべはない。

 

海を見に行った。

マリアだけを誘ったら、子どもだけでは危ないと、Hạnh はゆずろうとしなかった。無数の韓国人や、中国人がビーチにたむろし、彼らが何をしでかすかわかったものではない。

何度、自分が、外国人にひどいまねをされそうになったかわからない。

いつか、マリアが Cảnh にフェラチオをしてやった時、Hạnh は目を剥いた。退廃した外国人の流儀など、わたしには理解できそうもない。

そのくせ、性病を恐れた客のそれを何本も口にしてやりながら。

Cảnh が外人向けに用意しているコンドームの箱の中から、一つ取り出して、マリアは口で膨らませてみようとした。だから、と、Hạnh は言った。

子どもだけで、あんなところに行ってはいけない。

 

マリアを間に挟んだ、三人乗りのバイクが車道を走る。わざと遠回りして、マリアにドライブを楽しませてやった。ほとんど、バイクに乗ったことのない、日本から来た褐色の少女を。

 

海辺で、Hạnh Tシャツの下に着込んでいた水着を曝す。朝の日差しが柔らかくその皮膚に接する。

日差しが触れるたびに、日差しを罵ることも忘れない。真っ黒くしてしまう。わたしを。この少女のように、ブラウンに。

 

覚醒剤塗れのあなたのブラウン・シュガー・ベイビィ

 

淡い逆光の中で、一人ではしゃぐ Hạnh の声が、波の音と、散乱する人々の影の立てる声の連鎖の中で、際立ってはいつの間にか消え去っていく。

僕はそして逆光の中に

マリアは海に入ろうともせずに、遊んで来いと、Thanh に指示した。

微笑む君を

家族連れの間にさまよいこんだ Hạnh が大袈裟に迷惑そうな顔を作って、Thanh を見た。匂う。

見た

夥しいほどの、潮の鈍い臭気に、大気のすべが染められていた。

 

Cảnh のうちに帰った後で、Hạnh のからだを洗い流してやるのは Thanh の仕事だった。水流の中に曝された Hạnh の身体と、戯れにじゃれ付いてくる彼女の身体が、Thanh のそれを勃起させ、性欲を感じていることには知っている。

あの子は? Hạnh が言った。ちゃんと知ってるの?あなたのこれを?

ねぇ、子どもはいつ

首を振った Thanh に Hạnh は唇を尖らせて、

大人になるの?

なぜ?

 

自分しか知らないくせに、なぜ、マリアと Thanh とが愛し合っていると言えるのか、それが、Hạnh には理解できなかった。子どもだから、と、まだ愛し合うすべさえ知らないに違いない。Hạnh は、哀れまなければならない気がした。あるいは、嘲笑って仕舞うか、その境界線を感情がふらついて、結局は無表情な微笑みをくれる。

Hạnh の指先が Thanh の先端をはじいてみせ、声を立てて笑い、マリアは Bánh mì を買いに行った。

 

どう想う? Hạnh が Thanh のからだを自分のからだで洗い流しながら、あるいは、自分勝手な愛撫を施しながら、どう?

なにが?

 

シャワーの水が撥ねて、口の中に入る。

渇いてもいない喉が、潤わされてしまう。いいと想わない?

 

なにが?

 

わたしと一緒に、客をとればいい、と Hạnは言った。外国人は、外国では、みんな変態だ。

お尻の穴に

恥ずかしげもなく、何でも欲しがる。

突っ込んでみる?

少女だったら、ものめずらしがって、たくさんの男たちが、

犬みたいにひざまづかせて

たくさんの金を払うに違いない。

 

首を振る Thanh は、駄目だ、と。

頭の中につぶやき、マリアはしないよ。言った。

どうして?

ねぇ

するわけがない。

犬みたいに

なぜ。

舐めてみたい?

理由はなかった。するかもしれない。しないかもしれない。けれども、するはずがない。

一瞬、Thanh を見詰めた後で、Hạnは Thanh を後ろ向きにさせると、大量にあわ立てた手で肛門を洗ってやった。

人間はみんな

くさいっ、

豚だから

言い、

穢く壊れた

わざとしかめられた顔を誰もみていないまま曝し、

豚だから

笑い、

犬みたいに

水流に

ひざまづいてごらん

派手な音を立てさせながら。

 

夜になっても帰ってこないマリアを案じた。Hạnもいなかった。一緒にいたならば、やっていることは決まっていた。単に、二人でどこかで時間を潰しているだけかも知れない。

そうとは思えない。

ろくに会話もしないふたりが、ふたりで時間など潰せるわけもないことを想い、不意に、Duy と自分のカフェでの一時間が、所詮はスマホの画面を見ているだけで消費されることををも思い出す。

 

床の上に寝転がる。Duy も、Cảnh に付き添ってサイゴンに行った。今回の女の中の一人は、Duy のお気に入りだった。飛行機を待つハイランド・カフェの数十分の中で、Duy は山ほどの別れの言葉と、愛の言葉をくれてやるに違いなかった。

眼差しの先に、真っ白い壁があって、保護色らしい、灰褐色に近く擬色させたトカゲがつがいで

穢らしいその色は

這った。

生命の色

微妙な接近と、乖離を繰返す。彼らの皮膚感覚が知る、そうでなければならない距離を維持するたびに、寄り添いかけては俊敏に離れる。

見る。

壁を這う。至近距離で耳を澄ませば、冷たい、温度のない皮膚がかすかな音を立てているに違いないのを、Thanh は知っている。遠く、伸ばした手さえとどかない隔たりの中に、それは一切聴こえない。

かすかに青みを帯びた透明な照明が照らし出す空間の中に、Thanh は自分呼吸の音を聞いた気がした。

天井の扇風機がかすかな音を立てて回りながら風を送り、トカゲのどちらかが小さく喉を鳴らす。

 

深夜に帰ってきたマリアの、Hạnが施してやったに違いないメイクを、一瞬見惚れながら同時に、唾棄すべきその醜悪さを嫌悪する。

Thanh の微細な表情に気付かないまま、マリアははにかんだ微笑を、上目遣いにThanh に送った。Hạnの、見なさいよ、この美人さんを、と、その声を、振り向きさえせずに、Thanh は Hạnに殴りかかる。

 

大袈裟な乱闘が、目の前に不意に始められるのをマリアは、なすすべもなく見詰めるしかなかった。

肉付きのいいHạnの四肢が驚くほど強靭に Thanh に襲い掛かって、Thanh のこぶしが空を切り、Hạnの腕がでたらめに Thanh の頭をぶつ。

壁に投げつけられた Hạnが、息を切らして、大袈裟な涙に頬から唇までべとつかせながら、Thanh は罵られるにまかせる。なにも言い返す気にはならない。

 

Hạnの収まらない怒りが、収拾がつきかけてはもう一度乱闘に火をつけた。もはや、飽きたように、Thanh は手出しをしなかった。振り払い、背を向けて、その Thanh を無理やり振り向かせて Hạnは殴りかかる。

 

いつか、切れていた Thanh の唇が、血をにじませているのを見た瞬間に、いつか感じた、口の中ににじむ血の、鉄身を帯びた味覚を思い出す。マリアは目を伏せた。

 

Tai sao、と どうして? Thanh が言ったのは、マリアでもわかる。Hạnがシャワーを浴びる、派手な音が聴こえた。

まだ怒っているに違いなかった。暴力に曝された、その身体を暴力的に洗い流し、熱を帯びた汗は洗い流される。発熱を皮膚の上に残したままで。ねぇ

 

Em à…

 

どうして?と。

世界中の、苦痛のすべてを一身に背負ったように。いまここに、存在する場所などなく、そして、行き獲る場所すらもないのだと、そんな Thanh の、時分を直視した眼差しから、マリアは眼をそらすことさえ出来ず、

君を見つめて

そのつもりもない。

いたいだけ

見ればいい。

君を抱きしめて

あなたが、いま、見たいもの。そのすべてを。

いたいだけ

見たいだけ。

 

微笑みかけようとした瞬間に、マリアの両目を涙が溢れ、悲しみの断片さえないままに、しゃくりあげながらマリアは泣いた。Thanh を、その眼差しは捉えて話さず、涙の向うで、その姿も表情も、単なる白濁したノイズに過ぎない。

 

朝の気配に目を覚ます。

となりで Hạnはもうおきていた。仰向けの Hạnが顔先に掲げたスマホが、ゲームの陽気な音を立てた。

尿意があるような、ないような、その微妙な感覚の中に、Thanh のそれは勃起していた。Hạnが顔を向けて、丁寧に作った微笑を投げたとき、Thanh は Hạnに覆いかぶさった。マリアはまだ目を開かない。

眠っている気配はない。

まともな準備もなく、つけていた下着だけ脱がされれば、Thanh のそれを受け入れられる。こじ開けるように侵入するそれに、粘膜は鈍い、細かな痛みを感じ続ける。覚醒剤を打っていないときの Thanh は、すぐに射精して仕舞う。そのはずのそれが、微妙な尿意に邪魔されて、なかなか射精に至らない。そのままに、短くはない時間が消費され、マリアは身をよじって、Thanh の頭を撫ぜてやる。眼差しを重ねる勇気は、Thanh にはなかった。

いいですか?

髪の毛の匂い。

あなたに永遠をあげても。永遠の

マリアの匂いだと想っていたそれが、Hạnのそれと

幸福と

重なり合って、もはや、

永遠の

同じ匂いだとしか想えない。目を閉じた Hạnが、からだの下で、

安らぎを

ヒキガエルのような息を、喉にならし続けた。

悲しみに、へしおれてしまうに違いない、と、Thanh は想った。いま、マリアと見詰め合ってしまえば。

髪の毛を撫ぜるマリアの手のひらに、彼女の匂いがある。

 

 

 

 

 

 


brown suger #6 /#7

 

 

 

 

#6

 

バイクで疾走する。

 

午前5時ちょうどに家を出た。

 

未だに始まらない一日は、すでに、明るみ始めた空にだけ、無理やりこじ開けられようとしていた。対向車線にはみ出す車もなければ、併走するバイクもなく、追い抜いていくべきバイクにも数台しか出会わない。

 

ハンドルを廻し、エンジンに自由を与え、自分の肉体を限界近くにまで風圧に曝す。

 

 

 

あそこにしよう、と言った Duy が指さしたハン川近くの広い家に、一瞬、Thanh は拒絶しそうなそぶりを見せた。

 

どうしたの?

 

その、言葉が形成される以前の気配を、Duy の眼差しが示し始めた瞬間に、Thanh は声を立てて笑い、うなづいた。

 

それは Trang の家だった。

 

 

 

半分だけ開かれたシャッターが、中に誰かがいることを示していた。Thanh は、いま、なかに誰がいるのか、知らなかった。新しい日本人でも連れ込んでいるかもしれない。若いベトナム人が出てくるかも知れず、あるいは、Hà たちがいるかもしれない。

 

それとも、誰かに売り飛ばされていたとしても不思議ではない。

 

誰もいない。それは、入った瞬間に気付いた。誰かいたなら、一切の物音さえなくても、何らかの気配が感じられるものだった。

 

安堵と失望が重なり合った、微妙な感覚が、喉の奥に広がった。

 

せめて金めのものを探しに、二階に上がる Duy を捨て置いて、ただっ広い仏間の仏壇に、線香を立ててやった。

 

 

 

何かが匂う。

 

この家が空き家ではない、それを明示する。なにか。

 

人の気配とは違う、その残像のような匂い。

 

 

 

午前の十一時。遅めに、市場にでも行ったのか。あるいは、早めの昼食にもでかけたのか。

 

あるいは、いつも Trang は朝食を口にしないくせに、十時を回るといつでも空腹を、この世界の不義理の最たるものでさえあるかのような表情で訴えたのだから、朝昼を兼ねた食事に、一人で出掛けて仕舞ったのか。

 

あの日本人の昼食は、いつでも遅かった。

 

 

 

隣の家の鶏が鳴いて、羽撃いた。

 

 

 

開け放たれたシャッターから漏れ入る日差しが、緑色の御影石風のタイル、その床面一面を照らして、さまざまなものの影とかすかな鏡像を反映していた。

 

 

 

水の匂いがするのは、開けっ放しのシャワールームから漂ってくるものに違いなかった。

 

 

 

読みもしないくせに購買されていた新聞が、そのままテーブルの上に放り出されて、それが、机のニスにおぼろげな鏡像を置く。

 

 

 

住み着いていた猫の気配さえない。

 

もっとも、すぐそばにいたとしても、猫は気配など立てない。

 

彼ら、あるいは彼女たちが気が向いて、鳴き声をくれるとき以外には。

 

 

 

扇風機を回してみた。

 

 

 

振り向くと、Trang がいた。

 

 

 

Trangは表情さえ変えずに、ただ、Thanh の目の前に立って、彼を見つめるのだが、手に持ったビニール袋に詰められた鮮魚が水をたらした。床の上に。

 

魚の匂いを、Thanh は思い出す。

 

 

 

なぜ? Thanh は訝った。こんなにも鮮明に、匂うのだろう?匂われもしない、その魚の匂いが。

 

 

 

Thanh が何か言おうとした瞬間に、そしてまるで盗賊に襲われでもしたかのように、声を立てかけた Trang を羽交い絞めした。

 

棄てられた魚が Thanh の足の甲に撥ね、濡らし、Trang の体温は明らかに発熱していた。

 

温度。

 

腕に噛み付いた Trang を放して仕舞ったときに、Trang が嘲笑った気配があった。

 

あたたかい。

 

階段を駆け上がり、それは間違いだ。想う。上には Duy がいるし、そして、それは逃げ場所を自分から取り上げて仕舞う行為に他ならない。

 

それは間違いだ。

 

 

 

気配を悟った Duy が階段の上で抱きかかえようとしたが、身をよじってすり抜けて、Duy の指の間にだけ数本の髪の毛を残す。

 

Duy を押しのけて、Thanh は彼女の部屋の前で Trang を押し倒したが、床に打った肘の骨が、痛みに叫んだ。

 

声を立てていたのは自分自身だった。

 

うつぶせにされ、馬乗りになられた Trang が、後ろ手にねじ上げられた手をばたつかせるたびに、その筋の痛みに声を失う。

 

Trang は、途切れがちな、乱れた息を立てる肉体に過ぎない。その肉体が、むしろばらばらな断片のように、Thanh の体の中に暴れて、Thanh は、それが本当にあのTrang なのかどうかさえ、ときに疑う。

 

 

 

どうする?

 

近寄った Duy が、さっさと始末して仕舞うように、その気配で諭す。

 

 

 

どうする?

 

逡巡、ではない。それ以前の、単に透明な時間の猶予だけが、流れている気がした。

 

 

 

俺の姉貴なんだ、そう、振り向いて言った Thanh に、Duy は肩をすくめた。

 

Thanh は後ろ手につかんだままで、無理やり振り向かせて、その鼻を殴打した。Trang は静かになった。

 

煙草を咥えた Duy が火をつけて、Thanh に咥えさせてやった。Thanh は吸い込み、吐いた。

 

Duy が、壁によかりながら、自分のために、指先が挟んだ煙草を口に運んだ。

 

 

 

Trang は、息を詰めながら、目を閉じ、閉じられた目から涙を溢れさせていた。

 

 

 

立ち上がった Thanh は、両手のひらで押さえられた鼻を、もう一度足の甲で蹴って、好きにすればいいよ。言う。

 

数十秒の後に、Thanh が乗ったバイクが走り去っていく音を、Duy は窓の向う、背後に聞いた。

 

 

 

何か考えようとしながら、なにも考え付かずに、結局 Thanh はなにも考えない。ぐるっと回って、海岸線を走る。

 

誰もが、すれ違うたびに Thanh を見る。その、対向車線のバイクは。彼が、明らかに子どもに過ぎないから。

 

車の中のドライバーたちの表情はわからない。

 

すれ違いざまに、日差しがフロントガラスにきらめきを与えて、その反射光が、彼らの表情を曝されることからかたくなに守る。

 

 

 

煙草をすい終わったら、と、Duy は想った。

 

痛み。鼻の奥を、火照らせ、涙にぬらす

 

窓の外から灰を落として、やがて、投げ捨てる。

 

その

 

鶏の羽音が聞こえる。その鳴き声と。

 

 

 

 

 

痛み。

 

無理やり侵入された性器の粘膜の、その全面に痛みがあった。Duy は自分を殺しはしなかった、その理由を Trang は、なにかにこじつけようとしながらも、その、こじつけなければならない必然性など、最初からありはしなかった。わたしは助かった、と、そう Trang は想い。傷?性器の中が、血を流し、それがボロボロにさけ、千切れ、膿んだ肉の断片さえ曝しているに違いないと、

 

それは妄想に過ぎない

 

その現実を恐れるあまりに、そこにふれることさえ出来ずに、Trang 

 

単なる、ばかげた

 

股を開いたまま窓越しの陽光に差され、血さえ、流れてはいない。

 

壊れた

 

なにも。

 

妄想

 

壊されもせずに、傷さえほぼ

 

自分勝手な。わたしの

 

負わないままで、Trang の首に記憶がある。ずっと、その

 

自分勝手な、

 

行為の間中締め続けられた、その。気付いただろうか?

 

その

 

きざったらしい少年は、わたしの何度かのかるい失禁に。

 

首を絞められるたびに、そのある瞬間に、自動的に発生する失禁に、そのとき、一瞬だけ、Trang は命の存在を感じていた。

 

 

 

マリアが丸まって、猫のように、ひざの上に頭を乗せた。

 

Duy が笑いながら話した。もうすぐ。

 

彼の血管の中を流れ始めた覚醒剤が、本当に覚醒し始めるまで、もうすぐ。Duy は誰も抱かない。いい女だった、Duy は言った。もうすぐ。誰を抱くのか、それは、彼が、最高だったよ、言ったその言葉に Hnh が異議を唱える。彼が、決める。誰を?

 

わざとらしい嫉妬を曝した Hnh なのか、マリアなのか。

 

お前、すこしも、似てないね?言った Duy の唇は、Trang の唇を奪っただろうか?その皮膚に?

 

Trang は、舐めるように、口付けさえしただろうか?

 

Thanh は声を立てて笑い、嫉妬のような、嫌悪感。マリアが無表情のまま、彼の頭を撫ぜた。

 

下から伸ばした、その左腕で。

 

 

 

Hnh が Thanh に、マリアのようなフェラチオをしてやった。

 

音。

 

唇と舌が口の中で立てるその音と、一滴ずつ水滴を滴らせるシャワーのその音、背後の、通り過ぎるバイクの音、それらが等価に空間に羅列され、Thanh は聴く。

 

マリアは Duy の上で派手な声を立てる。

 

いま、自分が殺されて仕舞うことに、喜びと恐れと苦痛を感じているかのような、あるいは。

 

Trang もこの声を立てたのだろうか?想う。

 

Duy に強姦されながら?

 

日本風に。

 

Duy だけが腰を使う。マリアは上に乗っているに過ぎない。髪の毛が乱れ打ち、身体が痙攣的な、不規則な揺らぎを曝す。

 

大柄な Duy の上に乗った、生身の小さな人形。色気も何もまだない身体。

 

褐色の肌が、影の中でいっそう黒く染まる。

 

射精したにもかかわらず、Thanh のそれは硬直を溶かない。あの男は言った。強くする、と。なにを?

 

Hnh が鼻から息を立て続けている

 

 

 

まどろみの中で、Trang は自分が Duy を強姦したと想ったに違いないと、Thanh は確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#7

 

■■■■■…………、その音。

 

 

 

Duy が唇の先に立てた、口笛の音に振り返り、Thanh は微笑を返してやった。

 

 

 

知っているか?と想う。誰に、というわけでもなくて。

 

風に温度があることを。

 

どんな、風圧でさえも。

 

雨が降る前は

 

Duy はいつでも快活だった。

 

大気が湿る

 

健康を持て余したように、声を立てて笑い、そして。

 

 

 

Thanh は想い出す。バイクの上では、すべてのもが力として、その姿を曝す。

 

 

 

日差し、それが海を、その波立ちのかたちをさえきらめかせ、そられを隈取もせずに浮かび上がらせる。

 

 

 

衝突してしまえば、単なる電柱でさえ、無慈悲なまでの力としての、その存在自体を曝すに違いないのだった。

 

その力への畏怖が皮膚を刺すが、その予感された苦痛は、知覚される前にすでに、風圧が消し去って仕舞っている。

 

 

 

明滅する、その色彩。