閉じる


<<最初から読む

6 / 7ページ

brown suger #8 /#9

 

 

 

#8

波の音を聴いた。

それを聴きたいわけではなかった。

 

夕焼けは、すでに消滅した。

 

ざ、ざ、と。

さ、さ、それら、

 

ざ、ざ、さ、ざ、さ、その。

 

音。

波の。

 

日は暮れた。

Thanh が耳を澄ましているのは知っている。

マリアは、かたわら、砂浜に胡坐をかいて座った Thanh が、無意味に微笑んで、自分を見つめていることを、そしてひざを抱えたまま、気付かない振りをした。

 

沿岸警備員もすでに立ち去って、放置された砂浜を、疎らな、本当に疎らな人たちが自分勝手に空間を占有し、それらは単なる影に過ぎなかった。

遠い。その、眼差しに映ったに過ぎない、その。

 

なにも、マリアが言わないから、Thanh は沈黙するしかなく、Thanh の眼差しをマリアが占有する。

暴力的なまでに、マリアは Thanh の眼差しのすべてを占領して仕舞って、聴こえる気がした。

至近距離の、その心臓の音さえも。

 

暮れた日が、背後、海岸沿いのビル群の向うに、完全に姿を消してから数分の後。

やまない潮風が、ときに乱暴にマリアの髪の毛をかき乱してみせる。

 

……

ざざ

 

それら、単なる音響に過ぎないもの。

 

………

ざざ

……

………

……

……

………

……ざざ

ざざ

……ざ見つめられた

……

……さざ

まなざしが

……

ときに、

ざざ……

ざまばたくたびに

………

……

……

……

かすかなぶれを

ざさえもって、

 

Thanh の眼差しが、マリアを見つめた。

どうしたの?

鼻の先で小さく

なに、見てるの?

一度笑って仕舞いそうになった

微笑みながら、

マリアの気配を

真剣になって

Thanh は見逃さなかった。

 

それは単なる、冗談か、遊びに過ぎなかった。

不意に Than を振り向き見て、すれすれの至近距離に、歯を見せて笑ったマリアにさえ、Thanh はもはや戸惑いさえしない。

ねぇ。

笑う。マリアが。

そして、掛かった。

その息が。

鼻に。

 

立ち上がりもせずに、シャツを両手でめくって、一気に脱ぎ捨てるマリアを見る。

背後に、バイクと車の、無数の疾走が、音響になって、Thanh の耳に触れる。

 

我慢できなくなったマリアが、声を立てて笑った。

 

夜の空間に点在した光が、おぼろげにマリアの肌を染めた色彩と、その輪郭とを浮かび上がらせて、単なる影と、映像の鮮明さの境界線をふらつく。

短パンを、下着ごと脱ぎ捨てたマリアが、

ねぇ、

言った。

泳ごう、

 

ね?

Thanh を置き去りにしたまま、海に走り出したマリアを見る。

波の周囲を一度迂回して、振り向いて、

おいで。

手を振ったマリアの足元を波が濡らしたに違いない。

左足を上げ、腰を振った。

 

声を立てて。

聴こえない。

その声は。

 

影。

 

海のこっちの、小さな影に過ぎなくなったマリアを、取り戻さなければならなかった。

同じように、服を脱ぎ捨てた Thanh が、波打ち際に走る。

マリアを抱きしめ、抱きかかえるようにして海に入っていく。

 

匂う。

膨大な潮の匂い。

生ぬるい、海水の温度が、足元を濡らす。

 

腕に、マリアの体温が。

それは、あまりに明確すぎた。

 

羽撃く。

鳥たちが。

遠くの空を、そして。

 

ふれ合う肌が、ただ、ふれた肌を感じる。

 

羽撃く。

羽撃きの音は聞こえない。

肌は、濡れていった。しぶきに。

 

マリアが暴れてみせる。

自分を抱きかかえた腕を抱きしめたまま。

 

声を立て。

 

至近距離の、その。

耳元の

しがみつくように。

 

流れた

 

歓声を、風が流す。

 

声が

 

腰まで海につかった Thanh の、胸に抱きかかえたマリアから、海水は彼女の体重を奪い去った。

 

声を立てて、Thanh が笑う。

聴く

マリアはその、鼻にかかって乱れた

その、笑った

音声を

声を

聴いた。

 

波が鳴った。

 

耳元で。

波が鳴る。

 

水がざわめく。

 

波に揺られ、マリアに水しぶきを派手に掛けられながら、やんちゃな声を立てて、そして Thanh は探った。

 

海水に奪われた彼女の重さと、あたたかさと、肌触りのリアルを、すべて一気に取り戻すそのすべを。

 

 

 

 

 

 

 

 

#9

Cnh たちの小汚い部屋にたむろしている麻里亜を見たとき、秀樹は、そしてマリアはニコリともせずに、壁にもたれて座ったまま、上目遣いに秀樹を見つめた。嗅いだ。秀樹は、淫売の遺伝子の匂いを。

母親、あのジュリーと名乗った女と同じ、その。

 

久しぶりにベトナムに来た秀樹を出迎えた Cnh の頭を、その日本人の平手が襲った。なにも言わないままに。

空港の人々の注意を一瞬だけ浴びて、Cnh たちが着服していることくらい、秀樹は感づいていた。通訳のベトナム人が、目をしばたたかせ、一瞬で逸らした。

 

日本円で二十枚くらい、つかませてやった通訳は、秀樹の奴隷のように彼に、外人向けの歓楽を与えてやった。サイゴン、南部の経済的な中心地、そのレタントン通りで。秀樹は飽きていたし、いますぐにでも帰りたかった。自分の勃起しないそれが、なぜ、外国の、下等な、ろくに声さえ立てて見せない女たちのからださえ求めるのか、秀樹には理解できなかった。目に付くものすべてが薄穢れ、発展途上の、穢らしい都市に過ぎない。

棲息する人間も含めて。

空気さえもが。

無数のバイクが、車道を支配する。

 

Cnh が捕まえた白地に緑のラインのタクシーが Cnh たちの巣穴に連れて行ったとき、明らかに覚醒剤を打った少年たちの、開いた瞳孔に嫌悪する。

眼差しが捉えた上目遣いのマリアに、自分の娘がまだここに存在して、ここに棲息していたことを思い出させた。

そんな事は、知りすぎるほど知っていた。

 

覚醒剤塗れの母親の転落死体のおかげで、いまだに秀樹は逃げ回らなければならなかった。

 

垢を塗りたくったように陽に灼けた Duy が、必死にめいっぱいの媚を売りながら、秀樹に差し出した煙草を指先だけで拒絶して、自分の煙草に火をつけた。

 

目の前の汚らしい少年が、屈辱に塗れたのを、一瞬で隠したのには気付いていた。

 

Thanh が息を殺しながら、まなざしの端に、あきらかに怯えたマリアの気配を捉えた。

 

どうなん?」秀樹が言った。

マリアは、言葉の代わりに、首をかしげる動作で何か言い、Thanh は見る。そのとき、髪の毛が肩から垂れ下がって、その、毛先がちいさく撥ねたのを。

空気の温度を不意に感じた。

 

ん、と、言って、秀樹が喉を鳴らす。

 

正午を回った時間帯。

天井近くの通風孔以外に、窓さえない薄暗い貧民窟のような住居に、肌痒さを感じて、秀樹の指は、煙草の灰を落とす。

 

停滞した時間。Thanh が打とうとしていた注射器は、Thanh の指先に挟まれたまま捨て置かれた。

 

薄穢れた女。

自分の血管を、ホテルで打った覚醒剤が、駆け巡り始めているのは知っている。

麻里亜。

その薄穢れた褐色の肌さえ、いよいよ黒く日に染まって、キャミソールと短パンをから曝された肌に、どれだけの性病と、皮膚病が巣食っているかも知れなかった。

 

怖気づいた Hnh が、ロフトの上で寝た振りをした。

 

この世界の、無残なまでの穢さのすべてを象徴させたかのような、少年たち。

上半身をさらし、短パンだけの Duy の腹がたるんでいる。

 

Thanh は瞬く。

 

不意に、マリアがあくびしてしまった瞬間、その襟首をつかんだ秀樹が、彼女を殴打した。Duy が息を詰めた。Thanh に目線を流す前に、Thanh は注射器を投げて立ち上がり、撥ねた。

床に。

注射器は。

そして、懐から取り出した拳銃がかすかに揺れながらマリアの顔の正面を捉え、秀樹の腕は胸倉をはなさない。声さえ立てずに、マリアは見つめた。眼差し。秀樹。もはやなにも語りかけないその。

顔。

発砲された銃弾がロフトの、Hnh のからだを掠めた。悲鳴がたった。秀樹の腕はThanh に噛み付かれていた。咬みきってやろうと想っていた。汗の味。皮膚の味。丸太のような腕。殴打するこぶしが額を打ち、一瞬、白い何かの羽撃きを見た。咬み裂かれた腕が血をにじませた。決意など必要なかった。引き金を引きかけた指を、マリアの、銃身をつかんだ両手がねじ上げて、明らかな骨折を感じた。悲鳴をあげる前に、マリアは奪った銃を発砲した。こめかみに押し付け、その男の頭蓋骨に直接。弾け飛んだのは、秀樹の頭部だった。

 

マリアが声を立てて泣く。

Duy も、Cnh も、みんなすぐさま逃げて行った。二発の立て続けの銃声が、警官を連れてこないわけがなかった。

腕の中に肩を痙攣させながら泣き叫ぶマリアがいた。体中汗ばませ、匂う。いとしい匂い。その豊かな髪の毛の。それはもはや、単なる残骸に過ぎない。

彼女の。

好きだった?

銃声の残響、あの頭にこびりついていた響きさえ

パパが

もはや、忘れられた。もう、泣かないで。

 

君を守ろう。Thanh はつぶやく。ただ、頭の中に、君を。君を傷つけるものすべてから。マリアは、Thanh が何を言っているのか、知っていた。

泣きじゃくりながら。教えてあげる。

Thanh の声がする。僕が、と、無言のままに、美しさ。君に。この、

 

それは

 

この世界の美しさ、そのすべてを。

 

明確な確信だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.06.12-14

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付

 

brown suger


http://p.booklog.jp/book/122761


著者 : Seno Le Ma
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/senolemasaki0923/profile
 
 
ホームページ
 
 

感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/122761



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト

 


この本の内容は以上です。


読者登録

Seno Le Maさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について