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brown suger #6 /#7

 

 

 

 

#6

 

バイクで疾走する。

 

午前5時ちょうどに家を出た。

 

未だに始まらない一日は、すでに、明るみ始めた空にだけ、無理やりこじ開けられようとしていた。対向車線にはみ出す車もなければ、併走するバイクもなく、追い抜いていくべきバイクにも数台しか出会わない。

 

ハンドルを廻し、エンジンに自由を与え、自分の肉体を限界近くにまで風圧に曝す。

 

 

 

あそこにしよう、と言った Duy が指さしたハン川近くの広い家に、一瞬、Thanh は拒絶しそうなそぶりを見せた。

 

どうしたの?

 

その、言葉が形成される以前の気配を、Duy の眼差しが示し始めた瞬間に、Thanh は声を立てて笑い、うなづいた。

 

それは Trang の家だった。

 

 

 

半分だけ開かれたシャッターが、中に誰かがいることを示していた。Thanh は、いま、なかに誰がいるのか、知らなかった。新しい日本人でも連れ込んでいるかもしれない。若いベトナム人が出てくるかも知れず、あるいは、Hà たちがいるかもしれない。

 

それとも、誰かに売り飛ばされていたとしても不思議ではない。

 

誰もいない。それは、入った瞬間に気付いた。誰かいたなら、一切の物音さえなくても、何らかの気配が感じられるものだった。

 

安堵と失望が重なり合った、微妙な感覚が、喉の奥に広がった。

 

せめて金めのものを探しに、二階に上がる Duy を捨て置いて、ただっ広い仏間の仏壇に、線香を立ててやった。

 

 

 

何かが匂う。

 

この家が空き家ではない、それを明示する。なにか。

 

人の気配とは違う、その残像のような匂い。

 

 

 

午前の十一時。遅めに、市場にでも行ったのか。あるいは、早めの昼食にもでかけたのか。

 

あるいは、いつも Trang は朝食を口にしないくせに、十時を回るといつでも空腹を、この世界の不義理の最たるものでさえあるかのような表情で訴えたのだから、朝昼を兼ねた食事に、一人で出掛けて仕舞ったのか。

 

あの日本人の昼食は、いつでも遅かった。

 

 

 

隣の家の鶏が鳴いて、羽撃いた。

 

 

 

開け放たれたシャッターから漏れ入る日差しが、緑色の御影石風のタイル、その床面一面を照らして、さまざまなものの影とかすかな鏡像を反映していた。

 

 

 

水の匂いがするのは、開けっ放しのシャワールームから漂ってくるものに違いなかった。

 

 

 

読みもしないくせに購買されていた新聞が、そのままテーブルの上に放り出されて、それが、机のニスにおぼろげな鏡像を置く。

 

 

 

住み着いていた猫の気配さえない。

 

もっとも、すぐそばにいたとしても、猫は気配など立てない。

 

彼ら、あるいは彼女たちが気が向いて、鳴き声をくれるとき以外には。

 

 

 

扇風機を回してみた。

 

 

 

振り向くと、Trang がいた。

 

 

 

Trangは表情さえ変えずに、ただ、Thanh の目の前に立って、彼を見つめるのだが、手に持ったビニール袋に詰められた鮮魚が水をたらした。床の上に。

 

魚の匂いを、Thanh は思い出す。

 

 

 

なぜ? Thanh は訝った。こんなにも鮮明に、匂うのだろう?匂われもしない、その魚の匂いが。

 

 

 

Thanh が何か言おうとした瞬間に、そしてまるで盗賊に襲われでもしたかのように、声を立てかけた Trang を羽交い絞めした。

 

棄てられた魚が Thanh の足の甲に撥ね、濡らし、Trang の体温は明らかに発熱していた。

 

温度。

 

腕に噛み付いた Trang を放して仕舞ったときに、Trang が嘲笑った気配があった。

 

あたたかい。

 

階段を駆け上がり、それは間違いだ。想う。上には Duy がいるし、そして、それは逃げ場所を自分から取り上げて仕舞う行為に他ならない。

 

それは間違いだ。

 

 

 

気配を悟った Duy が階段の上で抱きかかえようとしたが、身をよじってすり抜けて、Duy の指の間にだけ数本の髪の毛を残す。

 

Duy を押しのけて、Thanh は彼女の部屋の前で Trang を押し倒したが、床に打った肘の骨が、痛みに叫んだ。

 

声を立てていたのは自分自身だった。

 

うつぶせにされ、馬乗りになられた Trang が、後ろ手にねじ上げられた手をばたつかせるたびに、その筋の痛みに声を失う。

 

Trang は、途切れがちな、乱れた息を立てる肉体に過ぎない。その肉体が、むしろばらばらな断片のように、Thanh の体の中に暴れて、Thanh は、それが本当にあのTrang なのかどうかさえ、ときに疑う。

 

 

 

どうする?

 

近寄った Duy が、さっさと始末して仕舞うように、その気配で諭す。

 

 

 

どうする?

 

逡巡、ではない。それ以前の、単に透明な時間の猶予だけが、流れている気がした。

 

 

 

俺の姉貴なんだ、そう、振り向いて言った Thanh に、Duy は肩をすくめた。

 

Thanh は後ろ手につかんだままで、無理やり振り向かせて、その鼻を殴打した。Trang は静かになった。

 

煙草を咥えた Duy が火をつけて、Thanh に咥えさせてやった。Thanh は吸い込み、吐いた。

 

Duy が、壁によかりながら、自分のために、指先が挟んだ煙草を口に運んだ。

 

 

 

Trang は、息を詰めながら、目を閉じ、閉じられた目から涙を溢れさせていた。

 

 

 

立ち上がった Thanh は、両手のひらで押さえられた鼻を、もう一度足の甲で蹴って、好きにすればいいよ。言う。

 

数十秒の後に、Thanh が乗ったバイクが走り去っていく音を、Duy は窓の向う、背後に聞いた。

 

 

 

何か考えようとしながら、なにも考え付かずに、結局 Thanh はなにも考えない。ぐるっと回って、海岸線を走る。

 

誰もが、すれ違うたびに Thanh を見る。その、対向車線のバイクは。彼が、明らかに子どもに過ぎないから。

 

車の中のドライバーたちの表情はわからない。

 

すれ違いざまに、日差しがフロントガラスにきらめきを与えて、その反射光が、彼らの表情を曝されることからかたくなに守る。

 

 

 

煙草をすい終わったら、と、Duy は想った。

 

痛み。鼻の奥を、火照らせ、涙にぬらす

 

窓の外から灰を落として、やがて、投げ捨てる。

 

その

 

鶏の羽音が聞こえる。その鳴き声と。

 

 

 

 

 

痛み。

 

無理やり侵入された性器の粘膜の、その全面に痛みがあった。Duy は自分を殺しはしなかった、その理由を Trang は、なにかにこじつけようとしながらも、その、こじつけなければならない必然性など、最初からありはしなかった。わたしは助かった、と、そう Trang は想い。傷?性器の中が、血を流し、それがボロボロにさけ、千切れ、膿んだ肉の断片さえ曝しているに違いないと、

 

それは妄想に過ぎない

 

その現実を恐れるあまりに、そこにふれることさえ出来ずに、Trang 

 

単なる、ばかげた

 

股を開いたまま窓越しの陽光に差され、血さえ、流れてはいない。

 

壊れた

 

なにも。

 

妄想

 

壊されもせずに、傷さえほぼ

 

自分勝手な。わたしの

 

負わないままで、Trang の首に記憶がある。ずっと、その

 

自分勝手な、

 

行為の間中締め続けられた、その。気付いただろうか?

 

その

 

きざったらしい少年は、わたしの何度かのかるい失禁に。

 

首を絞められるたびに、そのある瞬間に、自動的に発生する失禁に、そのとき、一瞬だけ、Trang は命の存在を感じていた。

 

 

 

マリアが丸まって、猫のように、ひざの上に頭を乗せた。

 

Duy が笑いながら話した。もうすぐ。

 

彼の血管の中を流れ始めた覚醒剤が、本当に覚醒し始めるまで、もうすぐ。Duy は誰も抱かない。いい女だった、Duy は言った。もうすぐ。誰を抱くのか、それは、彼が、最高だったよ、言ったその言葉に Hnh が異議を唱える。彼が、決める。誰を?

 

わざとらしい嫉妬を曝した Hnh なのか、マリアなのか。

 

お前、すこしも、似てないね?言った Duy の唇は、Trang の唇を奪っただろうか?その皮膚に?

 

Trang は、舐めるように、口付けさえしただろうか?

 

Thanh は声を立てて笑い、嫉妬のような、嫌悪感。マリアが無表情のまま、彼の頭を撫ぜた。

 

下から伸ばした、その左腕で。

 

 

 

Hnh が Thanh に、マリアのようなフェラチオをしてやった。

 

音。

 

唇と舌が口の中で立てるその音と、一滴ずつ水滴を滴らせるシャワーのその音、背後の、通り過ぎるバイクの音、それらが等価に空間に羅列され、Thanh は聴く。

 

マリアは Duy の上で派手な声を立てる。

 

いま、自分が殺されて仕舞うことに、喜びと恐れと苦痛を感じているかのような、あるいは。

 

Trang もこの声を立てたのだろうか?想う。

 

Duy に強姦されながら?

 

日本風に。

 

Duy だけが腰を使う。マリアは上に乗っているに過ぎない。髪の毛が乱れ打ち、身体が痙攣的な、不規則な揺らぎを曝す。

 

大柄な Duy の上に乗った、生身の小さな人形。色気も何もまだない身体。

 

褐色の肌が、影の中でいっそう黒く染まる。

 

射精したにもかかわらず、Thanh のそれは硬直を溶かない。あの男は言った。強くする、と。なにを?

 

Hnh が鼻から息を立て続けている

 

 

 

まどろみの中で、Trang は自分が Duy を強姦したと想ったに違いないと、Thanh は確信した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

#7

 

■■■■■…………、その音。

 

 

 

Duy が唇の先に立てた、口笛の音に振り返り、Thanh は微笑を返してやった。

 

 

 

知っているか?と想う。誰に、というわけでもなくて。

 

風に温度があることを。

 

どんな、風圧でさえも。

 

雨が降る前は

 

Duy はいつでも快活だった。

 

大気が湿る

 

健康を持て余したように、声を立てて笑い、そして。

 

 

 

Thanh は想い出す。バイクの上では、すべてのもが力として、その姿を曝す。

 

 

 

日差し、それが海を、その波立ちのかたちをさえきらめかせ、そられを隈取もせずに浮かび上がらせる。

 

 

 

衝突してしまえば、単なる電柱でさえ、無慈悲なまでの力としての、その存在自体を曝すに違いないのだった。

 

その力への畏怖が皮膚を刺すが、その予感された苦痛は、知覚される前にすでに、風圧が消し去って仕舞っている。

 

 

 

明滅する、その色彩。

 

海の。

 

 

 

Duy が何か言って笑った、その何かを、Thanh は聴き逃していた。

 

 

 

風が Duy の髪の毛を吹き上げて、後に乗っているマリアの髪の毛も、派手に乱れたに違いない。

 

自分の前髪と同じように。

 

 

 

目の前に真っ白い家があった。新しい家が、

 

温度

 

たいてい白いのはなぜなのだろう?古い家が、

 

日差しの、その

 

どれも優しいパステルカラーの色彩のペンキで、

 

温度

 

彩られているものだというのに。

 

Thanh は、

 

感じられたもの

 

目の前の家をあごでしゃくった。

 

Duy に、別に異存はない。

 

湿度

 

周囲に疎らに散乱した更地の前に

 

かすかな

 

バイクを止める。国家ぐるみの大規模な再開発が、

 

水の

 

この都市を覆いつくしていた。どこにも、かしこにも、

 

存在

 

少しバイクを走らせれば、更地が広がる。一区画そのものさえ更地に剥かれ、再び開発されるのを待つ。

 

 

 

後ろ手を引かれた。マリアだった。バイクを降りた Thanh が、その家へ行こうとした瞬間に。

 

Duy が振り向く。何も言わない。

 

Duy の、何をも伝えない、

 

なに?

 

ただ投げ捨てられた眼差しが、マリアを捕らえていた。Thanh は、

 

綺麗だよ。いま

 

マリアの眼差しに

 

空は

 

耳を澄ました。

 

 

 

マリアが、いかにも尻が重そうにバイクを降りて、二人を先導し始めるのを、Duy は声を立てて笑った。Thanh たちの目の前で、大袈裟に尻を振って見せながら、歩き、振り向き、舌を出しておどける。

 

 

 

妊婦の死体が、うつ伏せで床の上に転がる。背中が腹部の形態にあわせて、滑らかに歪曲していた。ガレージを兼ねた、居間を入ったすぐだった。

 

マリアはそれを見つめ、Duy にまわされた煙草をすった。左腕の血管にある、かすかな痛みが離れない。目の前の、時間を失ったそれは、もはや痛みなど感じはしない。

 

 

 

階段の下には、上から投げ落とされた4歳くらいの子どもの死体が、首と左腕を変な方向に向けて、死んでいる。

 

その時、声を立てるな、と、振り向いた Thanh の眼差しが命じた記憶がある。なぜ?と、想うまでもなく、自分が悲鳴をあげそうな顔を曝していたからに違いない。

 

子どもを叩き落したのは Thanh だった。奥から抱きかかえてきて。その子の唇が、何か言おうとして開きかけた瞬間に、微笑と共に、その子どもは墜落した。

 

 

 

とても、多くの血を見てきた気がした。何人もの。

 

マリアは思いなおす。

 

 

 

晴れた日には

 

Thanh は一度だけ、目を細めて、その俊敏なだけの無表情は、何をも語らなかった。

 

 

 

水をやる

 

ママの、あの墜落していく後姿以外には、見はしなかった。

 

 

 

花壇の花に

 

あの日、午前九時に目を覚まして、ベッドの中でまどろむ。スマホで、ゲームをした。

 

 

 

水をやる

 

奥で、物音がしていた。二階の。男の。何歳だかわからない。若くはないはずだった。

 

 

 

晴れた日には

 

ママが歌った。《Nothing Comperes 2 U》お気に入りの、古い、その、それしか歌える歌などなかっただけかもしれない。

 

 

 

空の下で

 

Duy がてこずってるに違いなかった。息遣いと物音がやんだとき、煙草を咥えながら出てきた Duy が、唇の血を拭い、そして、ときに鼻をさすっていたのだから。

 

 

 

水をやる

 

マリアは部屋を出て、30代で老いさらばえたママの、穢くしみを作った肌を見る。

 

 

 

鉢植えの花にも

 

手すりに身を投げて、Duy が一階に唾を吐く。

 

血がにじんでいるに違いない。あるいは、血、そのもの。

 

 

 

晴れた日には

 

覚醒剤が、彼女の背骨を溶かして、ママの身体は揺らぐ。左右に。

 

まるで、空間には彼女を妨げるものなど何もないのだと、それを誰かに誇示しようとするように。

 

 

 

空を見やる

 

見つめる自分の眼差しが、あてどない不安のようなさざ波に、震えていることは知っている。マリアは瞬き、Duy は目線さえくれなかった。

 

 

 

横目でそっと

 

自由に。

 

しなやかに。

 

でたらめに。

 

Thanh のように。

 

 

 

空を見やる

 

Duy が、もう一度、奥に入っていく。

 

 

 

晴れた日には

 

マリアがしてやった、一度だけのフェラチオのときに、下から動かしたあの暴れる腰のように。

 

でたらめに。

 

 

 

水をやる

 

もう、終ったに違いなかった。誰も、

 

 

 

干からびた土が

 

ママと目線が合う。眼差しはかみ合わない。

 

 

 

濡れぼそっても

 

誰もが?とにかく、生きてはいない。もう。

 

 

 

晴れた日には

 

マリアを通り過ぎて、何かを見た、その微笑を、ただ、見詰めるしかなかった。

 

 

 

誰もが

 

誰も。

 

 

 

義務のように、微笑みかけた瞬間に、振り返ったママがベランダに向かう。開け放たれたサッシュが、まだ生暖かい9月1日の風を吹き入れて、テーブルの上のボックス・ティッシュがさらしたティッシュを、さらさらと揺らす。

 

誰かの血が、一滴分だけ、穢したそれ。

 

盛大に尻を振ってみせる。

 

むしろ、青空を誘惑する。

 

ほら、男になって見なさい。見せてみなさい。あなたの男を。そんなところに、青く、たたずみ、輝いてばかりいないで。

 

ママに不意に、笑いかけようとした瞬間に、身を乗り出したママがベランダから堕ちて行った。背中から。

 

マリアのほうを振り向き見て、あいかわらずかさならない眼差しを曝した瞬間に。音もなく。

 

それが、必然であるかのように、綺麗に、何事もなく。

 

 

 

咥え煙草の Thanh が、

 

わたしは好きだった、その

 

一度降りてきて、マリアに

 

Thanh の子どもじみた唇が曝す

 

煙草をくわえさせて、火をつけてやる。

 

咥え煙草が

 

一瞬だけ、頭を撫でてくれながら。

 

Thanh と、Duy が、奥を物色していた。

 

マリアはただ、木製の豪奢な椅子に座り込んで、煙草をすった。

 

背後に、人の気配があることには気付いていた。むしろ、車が止まって、門の白い鉄扉を引き開けて、なにか独り語を言いながら家に入ってきたことを、マリアの背中ははっきりと意識していたのだから。

 

息を飲む気配があった。

 

そして、時間の完全な静止と。

 

何をしよう?、あるいは、どうしよう?、と。

 

そんな逡巡など、何もなかった。背後に男が立っている、その現実だけを、マリアは明晰に意識していた。

 

 

 

何かが、壊れた。そのてざわりがあった。

 

ひとことさえも聴きなれないベトナム語の音声をわめき散らしながら目の前の妊婦に駆けよろうとして、そして、やっと、幼児の死体を、その眼差しは認識し得たに違いない。

 

男の足取りは明らかに乱れ、迷い、停滞し、結局のところ、どこへもたどり着かないまま、振り向いた男は、マリアを見つめた。

 

 

 

殺意。

 

明確な殺意が、そこにあった。

 

 

 

違う。想う。

 

マリアは眼を背けた。その

 

破壊欲。たんなる、手当たり次第の

 

男の眼差しから。明らかな

 

破壊欲。

 

穢らしい発熱を、マリアはそれに感じた。

 

その発情。

 

 

 

男は、髪を綺麗に刈った、30前後の男だった。めずらしく、スーツを、ジャケットまで着ていた。

 

左眉に沿って、傷痕がある。眉毛を這わせたその、遠い、遠い昔の?

 

バイク事故の?

 

わからない。

 

 

 

こぶしがマリアの頬を殴打し、一瞬、意識が飛んだ。

 

白。と、

 

白い

 

想う。まばたく。

 

その

 

光。

 

きらめき

 

くの字に、自分のからだが曲がって、その場にくず折れそうになったのを知っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

男のつかんだ腕がマリアの首を締め上げ、宙吊りになった、もはや完全に脱力しているマリアの首をへし折ろうとした瞬間に、Thanh が後から男に体当たりをくれた。

 

Thanh は男の敵ではなかった。Duy はなにか、武器になるべき物を探した。ナイフはバイクのシートの下にしまったままだった。馬乗りになった男の殴打するこぶしが、

 

光が

 

Thanh の意識を遠ませるどころか、むしろ、

 

わたしを

 

その苦痛を

 

包んだ

 

鮮明にした。

 

鮮明に

 

男は Thanh を床ごとでたらめに殴りながら階上の Duy から目を離さない。

 

Duy の眼差しが、ただ、男のその凝視に気を取られて、5秒たった。

 

 

 

男が喉の奥で叫んだ声を、マリアは聞いた。

 

喉の奥だけで鳴った

 

男の背中、首の近くに、

 

その

 

包丁を突き刺したときに。白熱した

 

空気音

 

何かが、

 

聴いた

 

頭の中に停滞していた。でたらめに

 

マリアは。それら、騒音

 

駆け込んだキッチンの中から、抜き取った一本の

 

無数に

 

それを、引き抜いては

 

頭の中に

 

差す。男の体が、

 

木魂す

 

斧をたたきつけられたかのように、そのか細い

 

騒音

 

刃物によって、

 

その群れ

 

波打たせられる。

 

もはや無際限な

 

マリアは息遣う。男の肉体がわななく。

 

 

 

やがて、ようやく目を開いた Thanh の眼差しが、にもかかわらずためらいがちだったのは、目を開いたときに見えるかもしれない、血走った眼差しの、いわば発狂したマリアなど見たくないからだった。自分のからだの上で、男はマリアに刺し殺されていく。マリアのこぶしごと振り下ろすナイフが、男の体を揺らし、それが背中、床に接した骨に痛みを与えた。

 

Thanh は、三人分の体重を感じていた。

 

 

 

目を開いたときに、Thanh はむしろ、微笑んだ。冷静な、いつもとは変わらない澄んだまなざしのマリアが、男の背中を静かに見つめ、男の完全な死を確認していたから。

 

両手に持ったナイフは彼女の胸元に固定され、その手は、かすかにさえ震えてもいなかった。

 

オッケー、と、Thanh は、何も言わずに唇を動かした。

 

もういいよ。

 

悲しい

 

確かに、Thanh の眼差しの先に、

 

僕は悲しい

 

吹き上げた血に、

 

見える?

 

顔まで汚した血だらけの

 

僕の悲しみ

 

マリアがいた。

 

いいよ

 

オッケー、いいんだよ。

 

オッケーだから

 

それで、

 

いいよ

 

いいんだよ。もう。

 

オッケー

 

ね?

 

わかる?

 

オッケーだから。

 

 

 

唇の、その無言の動きが、マリアを正気づかせたのかも知れなかった。正気づいたマリアの眼差しの先の、やつれて見える血まみれの Thanh に、自分のしでかしたかも知れないすべての事実を把握した。

 

Thanh を、男ごと刺し殺して仕舞ったかも知れなかった。

 

細く、鼻にかかった、聴こえないほどの叫び声をたてながら、男の体を押しのけ、Thanh の体中をまさぐった。

 

一切の血に塗れていないそれ。

 

血だらけの顔と、

 

そして

 

鮮やかな対比を作った、シャツを着乱れさせた、

 

わたしはいま

 

それ。

 

無表情のままで

 

ナイフを右手に握り締めたまま、

 

焦燥した

 

自分を抱きしめるマリアの頭を、Thanh は撫ぜた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


brown suger #8 /#9

 

 

 

#8

波の音を聴いた。

それを聴きたいわけではなかった。

 

夕焼けは、すでに消滅した。

 

ざ、ざ、と。

さ、さ、それら、

 

ざ、ざ、さ、ざ、さ、その。

 

音。

波の。

 

日は暮れた。

Thanh が耳を澄ましているのは知っている。

マリアは、かたわら、砂浜に胡坐をかいて座った Thanh が、無意味に微笑んで、自分を見つめていることを、そしてひざを抱えたまま、気付かない振りをした。

 

沿岸警備員もすでに立ち去って、放置された砂浜を、疎らな、本当に疎らな人たちが自分勝手に空間を占有し、それらは単なる影に過ぎなかった。

遠い。その、眼差しに映ったに過ぎない、その。

 

なにも、マリアが言わないから、Thanh は沈黙するしかなく、Thanh の眼差しをマリアが占有する。

暴力的なまでに、マリアは Thanh の眼差しのすべてを占領して仕舞って、聴こえる気がした。

至近距離の、その心臓の音さえも。

 

暮れた日が、背後、海岸沿いのビル群の向うに、完全に姿を消してから数分の後。

やまない潮風が、ときに乱暴にマリアの髪の毛をかき乱してみせる。

 

……

ざざ

 

それら、単なる音響に過ぎないもの。

 

………

ざざ

……

………

……

……

………

……ざざ

ざざ

……ざ見つめられた

……

……さざ

まなざしが

……

ときに、

ざざ……

ざまばたくたびに

………

……

……

……

かすかなぶれを

ざさえもって、

 

Thanh の眼差しが、マリアを見つめた。

どうしたの?

鼻の先で小さく

なに、見てるの?

一度笑って仕舞いそうになった

微笑みながら、

マリアの気配を

真剣になって

Thanh は見逃さなかった。

 

それは単なる、冗談か、遊びに過ぎなかった。

不意に Than を振り向き見て、すれすれの至近距離に、歯を見せて笑ったマリアにさえ、Thanh はもはや戸惑いさえしない。

ねぇ。

笑う。マリアが。

そして、掛かった。

その息が。

鼻に。

 

立ち上がりもせずに、シャツを両手でめくって、一気に脱ぎ捨てるマリアを見る。

背後に、バイクと車の、無数の疾走が、音響になって、Thanh の耳に触れる。

 

我慢できなくなったマリアが、声を立てて笑った。

 

夜の空間に点在した光が、おぼろげにマリアの肌を染めた色彩と、その輪郭とを浮かび上がらせて、単なる影と、映像の鮮明さの境界線をふらつく。

短パンを、下着ごと脱ぎ捨てたマリアが、

ねぇ、

言った。

泳ごう、

 

ね?

Thanh を置き去りにしたまま、海に走り出したマリアを見る。

波の周囲を一度迂回して、振り向いて、

おいで。

手を振ったマリアの足元を波が濡らしたに違いない。

左足を上げ、腰を振った。

 

声を立てて。

聴こえない。

その声は。

 

影。

 

海のこっちの、小さな影に過ぎなくなったマリアを、取り戻さなければならなかった。

同じように、服を脱ぎ捨てた Thanh が、波打ち際に走る。

マリアを抱きしめ、抱きかかえるようにして海に入っていく。

 

匂う。

膨大な潮の匂い。

生ぬるい、海水の温度が、足元を濡らす。

 

腕に、マリアの体温が。

それは、あまりに明確すぎた。

 

羽撃く。

鳥たちが。

遠くの空を、そして。

 

ふれ合う肌が、ただ、ふれた肌を感じる。

 

羽撃く。

羽撃きの音は聞こえない。

肌は、濡れていった。しぶきに。

 

マリアが暴れてみせる。

自分を抱きかかえた腕を抱きしめたまま。

 

声を立て。

 

至近距離の、その。

耳元の

しがみつくように。

 

流れた

 

歓声を、風が流す。

 

声が

 

腰まで海につかった Thanh の、胸に抱きかかえたマリアから、海水は彼女の体重を奪い去った。

 

声を立てて、Thanh が笑う。

聴く

マリアはその、鼻にかかって乱れた

その、笑った

音声を

声を

聴いた。

 

波が鳴った。

 

耳元で。

波が鳴る。

 

水がざわめく。

 

波に揺られ、マリアに水しぶきを派手に掛けられながら、やんちゃな声を立てて、そして Thanh は探った。

 

海水に奪われた彼女の重さと、あたたかさと、肌触りのリアルを、すべて一気に取り戻すそのすべを。

 

 

 

 

 

 

 

 

#9

Cnh たちの小汚い部屋にたむろしている麻里亜を見たとき、秀樹は、そしてマリアはニコリともせずに、壁にもたれて座ったまま、上目遣いに秀樹を見つめた。嗅いだ。秀樹は、淫売の遺伝子の匂いを。

母親、あのジュリーと名乗った女と同じ、その。

 

久しぶりにベトナムに来た秀樹を出迎えた Cnh の頭を、その日本人の平手が襲った。なにも言わないままに。

空港の人々の注意を一瞬だけ浴びて、Cnh たちが着服していることくらい、秀樹は感づいていた。通訳のベトナム人が、目をしばたたかせ、一瞬で逸らした。

 

日本円で二十枚くらい、つかませてやった通訳は、秀樹の奴隷のように彼に、外人向けの歓楽を与えてやった。サイゴン、南部の経済的な中心地、そのレタントン通りで。秀樹は飽きていたし、いますぐにでも帰りたかった。自分の勃起しないそれが、なぜ、外国の、下等な、ろくに声さえ立てて見せない女たちのからださえ求めるのか、秀樹には理解できなかった。目に付くものすべてが薄穢れ、発展途上の、穢らしい都市に過ぎない。

棲息する人間も含めて。

空気さえもが。

無数のバイクが、車道を支配する。

 

Cnh が捕まえた白地に緑のラインのタクシーが Cnh たちの巣穴に連れて行ったとき、明らかに覚醒剤を打った少年たちの、開いた瞳孔に嫌悪する。

眼差しが捉えた上目遣いのマリアに、自分の娘がまだここに存在して、ここに棲息していたことを思い出させた。

そんな事は、知りすぎるほど知っていた。

 

覚醒剤塗れの母親の転落死体のおかげで、いまだに秀樹は逃げ回らなければならなかった。

 

垢を塗りたくったように陽に灼けた Duy が、必死にめいっぱいの媚を売りながら、秀樹に差し出した煙草を指先だけで拒絶して、自分の煙草に火をつけた。

 

目の前の汚らしい少年が、屈辱に塗れたのを、一瞬で隠したのには気付いていた。

 

Thanh が息を殺しながら、まなざしの端に、あきらかに怯えたマリアの気配を捉えた。

 

どうなん?」秀樹が言った。

マリアは、言葉の代わりに、首をかしげる動作で何か言い、Thanh は見る。そのとき、髪の毛が肩から垂れ下がって、その、毛先がちいさく撥ねたのを。

空気の温度を不意に感じた。

 

ん、と、言って、秀樹が喉を鳴らす。

 

正午を回った時間帯。

天井近くの通風孔以外に、窓さえない薄暗い貧民窟のような住居に、肌痒さを感じて、秀樹の指は、煙草の灰を落とす。

 

停滞した時間。Thanh が打とうとしていた注射器は、Thanh の指先に挟まれたまま捨て置かれた。

 

薄穢れた女。

自分の血管を、ホテルで打った覚醒剤が、駆け巡り始めているのは知っている。

麻里亜。

その薄穢れた褐色の肌さえ、いよいよ黒く日に染まって、キャミソールと短パンをから曝された肌に、どれだけの性病と、皮膚病が巣食っているかも知れなかった。

 

怖気づいた Hnh が、ロフトの上で寝た振りをした。

 

この世界の、無残なまでの穢さのすべてを象徴させたかのような、少年たち。

上半身をさらし、短パンだけの Duy の腹がたるんでいる。

 

Thanh は瞬く。

 

不意に、マリアがあくびしてしまった瞬間、その襟首をつかんだ秀樹が、彼女を殴打した。Duy が息を詰めた。Thanh に目線を流す前に、Thanh は注射器を投げて立ち上がり、撥ねた。

床に。

注射器は。

そして、懐から取り出した拳銃がかすかに揺れながらマリアの顔の正面を捉え、秀樹の腕は胸倉をはなさない。声さえ立てずに、マリアは見つめた。眼差し。秀樹。もはやなにも語りかけないその。

顔。

発砲された銃弾がロフトの、Hnh のからだを掠めた。悲鳴がたった。秀樹の腕はThanh に噛み付かれていた。咬みきってやろうと想っていた。汗の味。皮膚の味。丸太のような腕。殴打するこぶしが額を打ち、一瞬、白い何かの羽撃きを見た。咬み裂かれた腕が血をにじませた。決意など必要なかった。引き金を引きかけた指を、マリアの、銃身をつかんだ両手がねじ上げて、明らかな骨折を感じた。悲鳴をあげる前に、マリアは奪った銃を発砲した。こめかみに押し付け、その男の頭蓋骨に直接。弾け飛んだのは、秀樹の頭部だった。

 

マリアが声を立てて泣く。

Duy も、Cnh も、みんなすぐさま逃げて行った。二発の立て続けの銃声が、警官を連れてこないわけがなかった。

腕の中に肩を痙攣させながら泣き叫ぶマリアがいた。体中汗ばませ、匂う。いとしい匂い。その豊かな髪の毛の。それはもはや、単なる残骸に過ぎない。

彼女の。

好きだった?

銃声の残響、あの頭にこびりついていた響きさえ

パパが

もはや、忘れられた。もう、泣かないで。

 

君を守ろう。Thanh はつぶやく。ただ、頭の中に、君を。君を傷つけるものすべてから。マリアは、Thanh が何を言っているのか、知っていた。

泣きじゃくりながら。教えてあげる。

Thanh の声がする。僕が、と、無言のままに、美しさ。君に。この、

 

それは

 

この世界の美しさ、そのすべてを。

 

明確な確信だった

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.06.12-14

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付

 

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著者 : Seno Le Ma
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