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目次

<目次>

 

 (1)  物の怪参上

 

 (2)  一匹の黄色のチョウチョウ

 

 (3)  〆はカッパ巻き


(1) 物の怪参上

 

 いにしえの作品、とりわけ平安の時代の作品には、それが文章であっても、あるいは絵画であっても、そこには人間の目には見えない「もの」が示されています。

 

 その時代の人々の、それは「想いの産物」であると断ずるのも良いのですが、実際、その時代の人々のすぐそばに、その「もの」なるものがいたのだと考えてもいいと思っているのです。

 

 「もの」という言葉の本来の意味は、「人の心」であると聞いたことがあります。

 もの哀しい、もの寂しい、もの忌みなどという言葉を思って、「もの」を「人の心」に置き換えて見るとよくわかります。

 

 その観点から見れば、『物の怪』とは、「人の心の怪しさ、災いや、時には祟りを引き起こす邪な心のありよう」と見て取ることができるのです。

 

 光源氏と逢瀬した夕顔は、深夜、とある女性の生霊に襲われます。

 襲ったと言っても、その生霊が夕顔に手を下したとかいうのではないのです。夕顔の前に現れて恨み言を言うだけなのです。

 その恨み言を聞いた夕顔は、気も動転、人事不省に陥り息を引き取るのです。

 

 光源氏のお子を宿し、無事出産した後亡くなる葵の上もまたこの生霊に惑わされます。

 出産を間近にした頃合い、光はひどい悪阻に悩む葵の上に取り付くその生霊を目にしてしまったのです。

 

 そして、その生霊こそ、光のかつて愛した女性であったのです。

 

 生霊とは、死霊よりもたちが悪い魔物です。なにせ、現に生きている方が怨霊となって出て来るわけですから、その心の闇の深さが思い知られます。

 

 光の愛したその女性の名を六条御息所と言います。

 美貌に満ちているだけではありません。気品、知性にも満ち溢れた女性です。それため、光にとっては、少々窮屈さを感じた女性であったのです。

 そして、幾分、年上でもありました。

 

 源氏の減退する想いとは裏腹に、六条御息所の光に対する想いは高揚していきます。

 

 玉のようなおのこである光を自分一人のものにしたい、しかし、その想いは、彼女の高貴な心、そして、自分はおのこより年上のおなごであるとする引け目、さらには、気品あるおのれの心が傷つくことを恐れるあまり、六条御息所は素直に自分の気持ちを表現し得ません。

 その「心」のありようが、彼女を生霊にさせて、光の愛する女性の命を奪っていったのです。

 

 なんとも恐ろしい女の執念ではあります。

 

 先だって、とある村の家々からサンダルがなくなるという事件が夕方のニュースで大き取り上げられました。

 設置されたビデオカメラが狐がサンダルを加えて持って行く様子を捉えて、この件は落着をしました。

 でも、なんで、狐がサンダルを自分の巣穴に持っていったのかについては確たる説明はされていません。狐は死肉を漁る動物です。あまりの餌不足で人間の履いていたサンダルが死肉の香りがあったのだという見解もありましたが、今ひとつ納得ができません。

 だって、村人たちは生きているのですから、そこから死肉の匂いを醸し出すことは不可能だからです。

 

 きっと、狐は何かを私たちに知らせているに違いないのです。

 狐は人を化かすと言います。でも、それは人に気づきなさい、早く気づきなさいと何か得体の知れないことが起こることを予知して伝えてくれているのです。

 それが昔の人の狐が人を化かすというモチーフだったのです。

 

 でも、現代に生きる私たちには、もはや、それを察知する心がありません。

 

 その日の夕刊紙面に、私は三つの同じような記事を読むことになりました。

 

  一歳児を衰弱死させた両親が起訴されたという記事。

  わずかに三ヶ月のになった次男に暴行を加え殺人未遂で逮捕されたという記事。

  五歳の少女を放置し、遺棄致死の容疑で両親を逮捕したという記事。

 

 親に愛されることなく、わずかな期間、この世での生を生きたかわいそうなお子たちを思うと、狂おしい気分になり、気が滅入るのです。

 この子たちは、きっと、どこか素晴らしいところで、ほかの誰よりも幸せに、満面の笑みを浮かべて暮らしていると、だから私はそう思うようにしているのです。

 そして、この親たち、きっと、そのわずか二十数年、三十数年の人生の中で、何かがあったに違いないのです。

 人間であれば、自分の子にあれほどまでに残酷な仕打ちなどできないはずです。

 それをするのですから、彼らは人間ではないのです。

 鬼であり、妖怪であり、化け物であるのです。

 憎んでも、憎んでも足りない物の怪なのです。

 きっと、いにしえの日本人であれば、この親たちの本性を見抜いていたはずだと思います。

 

 光源氏のことを再び思い起こします。

 のちに光は准太上天皇となり、六条院という豪壮な住まいを作り、四人の愛する女性をそこに住まわせます。

 春の町には紫の上、夏の町には花散里、秋の町には秋好中宮、冬の町には明石の方といった具合にです。

 そして、秋の町の場所こそ、あの六条御息所の住まいであった場所であり、その御息所の一人娘が秋好中宮なのです。

 母六条御息所はすでに亡くなりましたが、その執念く想いは健在で、今度は死霊として、紫の上に取り付き、光に恨み言述べるのです。

 それでも、光はその六条の住まいを大切にし、一人娘を大切に養育するのです。

 

 子を虐待した彼らに、そうした心優しい方が現れ出ることを望むばかりです。

 


(2) 一匹の黄色のチョウチョウ

 

 早朝からのひと仕事を終えて、ソファーに深々と腰をおろし、それまで向かっていたデスクの向こうにある大きな窓を何気に見ていました。

 

   昔は、今朝行ったような仕事を一日かけて、あれやこれやの合間にしていたのです。それが今は、早朝の静けさの中で誰からの妨げもなく一気にやれていることに満足感を持って、私はいつもこうしてソファーに腰を下ろすのです。

 昨日の雨で一面の窓は綺麗に汚れを落とし、いつになく日差しは明るく感じられます。

 

 その時、私の目には、一匹の黄色のチョウチョウが、窓の下枠のあたりに見え隠れしていたのです。

 おや、一匹の黄色のチョウチョウだと、私ひとりごちたのでした。

 なぜなら、昨日の夕方、コーヒーに入れるクリームがなくなり、コンビニに買い物に行った帰り、キャベツ畑のあたり一面に、モンシロチョウが群舞していたのを見ていたからです。

 あまりの数の多さに驚き、同時に、数式では説明できないのではないかという不規則なチョウチョウの飛揚状態を、私はしばし眺めていたのです。

 

 チョウチョウに限らず、虫というのはとてつもない生を営みます。

 卵から孵って、多くの虫がまさに「虫」となって土の中で、あるいは、水の中で、生存競争を強いられるのです。

 

 時がくれば、己の体に異常を見出します。

 

 人間が、腹が痛いとか、頭がちょっとなどというやわい身体の異常などではないのです。

 それまでの自分とはまったく異なる姿形になっていくのです。

 

 虫たちは、果たして、心までも形を変えるのだろうかと、私思ったりもするのです。

 だって、姿が変わり、食べるものの、ものの見方もすっかりと変わるわけですから、それまでとまったく同じというわけには行かないだろうと思うのです。

 

 芋虫のように、葉や枝を這い回ったり、水中で、枯れた木の葉に身を隠し、獲物を捉えていたり、そんな目線を持つ生き物の心のあり方と、空を飛んで上からものを見ることになるのですから、その世界観も、虫としての存在感も変化するはずだと思うからです。

 

 もし、人間が脱皮して、八十年の人生を二通り、ないしは、三通りに生きることができたらと思う時があります。

 

 幼児、歩けもしなければ、自分のことは何一つできない時です。

 ですから、成長した親から世話を焼かれ、身体も精神も、人間としてあるべき形になれるよう育てられるのです。

 

 そして、青年期です。

 育てられた親の恩などすっかりと忘れ、自分一人で大きくなってきたように錯覚をするのが人間の良くないところです。

 虫のように、外から見てそれとわかるような姿形の変化はありませんが、それでも、髪を伸ばし、おしゃれな衣服に身を包み、生意気なことを言い出します。

 まさに、姿形は、外見の小細工で変わり、それと何より内面は確かに変容をして行くのです。

 

 そして、老人期が訪れます。

 

 ここが虫とは違うところです。虫は、子孫を残すために姿形をまったく別物に変えて、空を舞い、命の尽きるまで活動に当たりますが、人間は、それを青年期にすでに行ってしまいます。

 ですから、虫が役目を終えてこの世を去るのと違って、人間はまだ、この世に生の残像をおいて、命の尽きるまで生を営まなくてはならないのです。

 

 髪は抜け落ち、腰は曲がり、歩くのも億劫になります。

 皮膚はたるみ、シワが刻まれ、食も細くなります。

 命のはつらつさが次第に失せて行くのです。

 

 それはもはや止めようもない速さで老人たちに押し寄せてくるのです。

 

 ソファに腰掛け、窓を見ている私の視界に、あの一匹の黄色のチョウチョウがまた入ってきました。

 今度はさらに高く飛揚して行きます。

 

 あんな羽ばたきで、どうして、飛揚できるのだろうかと思いつつ、もし、人間があのような飛び方をマスターし、いや、何かを装着して飛べるようなことができたら、きっと楽しいに違いないなどと夢想するのです。

 

 左右対称に動く羽ではありません。

 左右、独立して動き、離着陸に、たいした技術も大きな力も必要がないのです。

 老人たちは、青年期を生き抜き、今、自由を得て、美しい計算式では示すことのできない羽を手に入れて、新たな視界の中で謳歌をするのです。

 

 人間は、親の力を借りて脱皮し、そして、老人期には技術の力を借りて、計算式では成り立たない飛揚を手に入れてその姿を変貌させるのです。

 

 あの黄色の一匹のチョウチョウがついに、窓の上辺の枠に到達し、姿を消しました。

 私、ソファから立ち上がり、窓辺により、開けられない窓の上の方に目をやりました。

 しかし、あの一匹の黄色のチョウチョウを私は見出すことはできなかったのです。

 

 そして、計算式では到底表現できない飛揚をしている私自身を、私はそこに見たのです。

 

 


(3) 〆はカッパ巻き

 

 大将、〆にカッパを巻いておくれ。

 

 行きつけの寿司屋のカウンターの、いつも座る一番奥の端っこの席から私は声をかけました。

 〆はワサビをこってりと塗ったカッパ巻きと決めているんです。

 それでも、大将、うっかりと並みのカッパを巻きにしないかと不安になり、大将、ツーンと泣けるくらいのカッパを頼むよ、と冗談めかして言葉を継ぐのです。

 はい、承知してますよ、たっぷりと泣いておかえりくださいませ。

 そんなやりとりをしていると、時に、周りにいる客たちは、この二人何を言っているのかと怪訝そうな顔をします。

 

 私は朝ご飯に唐辛子をたっぷりと使います。 

 と言ったって、赤いあの唐辛子をサラダにして食べるわけではないのです。卵焼きがあれば、そこに薬研堀の大辛をたっぷりとかけ、スープがあればそこにも、時には、バターを塗ったトーストにもそれをかけるくらいなのです。

 薬研堀には、印ろう型の容器があります。ひょうたんの飾りが付いています。

 海外に出かける時、そっとそれを荷物に忍ばせて、オックスフォードのしがないレストランで、あの油っぽい料理にこっそりとかけるのです。すると、あら不思議、味もそっけもないイギリスを代表するあの揚げ物が薫り漂う美味しい魚のフライになるのです。

 

 先だって、散歩の途中、ネギ畑で作業をしている青年に声をかけました。

 一人で、機械を使ってネギの収穫をしている青年です。

 収穫と出荷の作業を畑の上でやれる機械なんです。

 この機械、畝に沿って、ゆっくりと移動しながら、土から掘り起こしたネギを綺麗にして、それを青年が立って作業しているテーブルまでコンベアで運んでくるのです。青年は、それを規格にあった本数にまとめて袋に詰めて行くのです。

 

 畑全部のネギを一挙に収穫するのではなく、必要な分、おそらくお得意先から注文が入った分を収穫をしているそんな具合なんです。

 ネギは土に入っていればいつまでも生き生きとしている作物ですから、きっとそうしているんだと思うのです。

 この時は、ふた畝のネギの収穫を終えていました。

 使った機械をトラックに載せ、収穫したネギを一箇所に集め、やがて取りに来るであろうトラックを待っている、だから、ちょっと話しかけてもいい頃合いであったのです。

 「白い肌、綺麗ですね、それに、いい匂いがします。」

 洗ってもいないネギの白い肌が本当に綺麗に見えたのです。ですから、そう言いますと、その青年、嬉しそうに微笑みます。

 「ネギの匂い、お好きですか。」

 あたり一面、土から出しただけなのに、切ったりもしていないのに、この香りに周辺が満たされているのです。

 「はい、大好物です。特に、あの先っぽのなんと言いますか、青いところ、ぬめぬめが入っているところ、あそこが好きなんです。」

 「なら、本当のネギ好きですね。」

 そんな言葉のやり取りをしたのです。

 

 ネギが好きと言うことは、玉ねぎも薬味に使う小ネギも、当然、好きということになります。

 ですから、卵を焼く時も、玉ねぎをスライスしていれたり、小ネギを料理にふりかけたり、ネギ類は私のキッチンには欠かせない野菜になっているんです。

 

 私が健康であるのは、きっと、このネギの摂取量にあるのではないかと思っているのです。

 ネギ類の香りの元である<アリシン>は、疲労を回復してくれると言います。それに、口内炎などを起こすビタミンBの欠如も補ってくれるのです。

 <アデノシン>という物質もネギ類には多く入っています。これは血液をサラサラにする成分です。

 ですから、旬の季節、マーケットにネギの仲間エシャレットが並び始めますと、私はそれを買って、味噌をつけてバリバリと音を楽しみながら食すのです。でも、これが、ラッキョウになるとダメなんです。

 元は同じものなのに、酢漬けされたラッキョウは、私には合わないのです。

 

 もちろん、それには理由があります。

 若き日、とある新聞社の広報宣伝室で働いている時でした。

 出勤は昼前の適切な時間、退勤時間も取り立てて決められていない、仕事の延長で神田新橋銀座あたりに繰り出せば、明け方までという環境の中で、私の上司の口からあのラッキョウの匂いがこれでもかと押し寄せてきていたからです。

 

 慶応出身の絵を描く尊敬すべき上司でした。

 化粧品会社にも内定をもらったけれど、親父があんな女みたいな会社はダメだと訳のわからないことを言って、新聞社に入ったという話から、絵描きとして大成したいがもはや手遅れであると与太をはき、挙句に、お前は若いのだから好きなことをせよとラッキョウを口に含んだまま、私の顔のそばで説教をしてくれたのです。

 

 それ以来、ネギの香りは芳しく、ラッキョウの酢漬けの匂いは嫌いになったのです。

 横浜のシュウマイに西洋ワサビをたっぷりとつけて、ちくわの穴にきゅうりと緑のワサビをこれまたたっぷりと塗りたくるのも、マヨネーズにワサビを溶かしてキャベツのみじん切りに混ぜ合わせたコールスローも、ポテトサラダにワサビを隠し味で入れるのもまた乙なものです。

 ツンと鼻に抜けるあの快感がたまりません。

 

 へい、お待ち。

 カウンターの前で最後に食べようと残しておいたウニの軍艦巻きを頬張って、〆のカッパ巻きに手をつけます。

 女将がこれでもかという真緑の、しかも、沸騰しているのではないかという熱い茶を持ってきます。

 う〜ん、来る。

 鼻からすべての悪いものが出て行く、そんな感じです。

 あまりの刺激に自然と涙が出てきます。お茶を飲もうにも、お茶は煮えたぎっていて触れることもできません。

 私は、人生に試練を与えられたように、我が顔面の中央部を襲う刺激にひたすら耐えるだけなのです。

 


奥付



〆はカッパ巻き


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著者 : nkgwhiro
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