閉じる


シュニトケ、その色彩 1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

シュニトケ、その色彩

一帖

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼をどう呼べばよかっただろう?

本名は Lê Thị Nhgĩa、レ・ティ・ニア、漢字で書けば黎義、日本在住の中国人だった汪たちが戯れにつけた日本人名は義人、彼は私には義人と日本名で呼ばれることを好んだ。私が日本人だったから。日本に何年留学していただろう?もとは医療関係の留学生だった。医学の嗜みくらいはあるはずだった。専門的な知識があるかどうかは知らない。多くの、まともな留学資格もないベトナム人たちが日本へ留学していた。彼らが悪いのではない。日本の企業が大量に買い入れるからだ。安価な労働力として。

留学生にとっては最も安全な外国だった。差別の問題もあるが、中国や韓国ほど深刻ではない。より陰湿なだけだ。本質的には貧しい島国に過ぎない世界の忘れられた局地が、突然、いわゆる先進国になってしまったことから生じた、いじましい、べたついた、執拗な、下位カテゴリーに対する差別が、作法と礼儀の国日本には、あくまでも作法と礼儀として存在し、表向きをは作法と礼儀が上品に覆い尽くす。家畜たちを見下す眼差しる与えたそのもの静かな優しさ。インターネット上でだけ、その下品さをさらけ出して。

Lê Thị Nhgĩa の肌は白い。陸に上がった Lê Thị Nhgĩa は小柄な体躯を日の光の下に、真っ白くきらめかせて曝し、振り向きざまに、「泳ぎませんか?」私に言った。その見事な日本語発音が、唐突に私の耳に触れて、無意味に私を戸惑いさえさせる。自分で、思わず声を立てて一人、笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

海の波音が聞こえる。

上手だね、日本語。言って、笑いかけもしない、眼をそらしたままの私に Lê Thị Nhgĩaは、快活な笑い声を自分勝手に立てた。いえ、まだまだです、と、教科書どおりに言ったその発音には奇妙ななまりがある。方言のような。

それは不意打ちのように、私に違和感を与えた。お前は、誰?と。

今、彼の背後に彼の生まれ故郷のベトナム、ダナン市の海岸線が広がり、どこか惨めなくすんだ青さを曝した。その色彩が仮の色彩にすぎないことに私も彼も、誰もが気付いているに違いなかった。空の色彩を移したに過ぎないそれは、雨の白濁した空の下では同じような白濁のうちに波立つのだった。

まだ夏には早い2月の始めの海は青から緑に至る色彩のグラデーションをのたうたせて、波立ち、塩が腐ったような潮の匂いが空間に満ち、仮に Lê Thị Nhgĩa を Nhgĩa-義人と呼んでおくなら、彼はその短パン以外の肌を晒した身体を頭からつま先まで海水に濡らして、海からあがったままの水滴を、白い肌に垂らし乍ら息遣っている。短い髪が先端だけ濡れて光る。撥ねた水滴が一瞬だけ、空間をきらめかせた。私は瞬く。

まるで遠泳でもしてきたかのように、たかが十数メートルの水泳に息を上げる。傍らに立ってじゃれるようなすれすれに接近した彼の身体の息遣いを、そして、私は快くさえ感じていた。私が同性愛者であるという理由からだけではない。彼は健康だった。美しいとはいえないが愛すべき、翳りの無い快活な男だった。

泳ぎませんか、と、もう一度言った彼に首を振ると Nhgĩa-義人は日本人は泳ぎませんね、失望した表情を隠しもせずに、私は彼の笑ったままの顔を見やる。

彼の肌の白さは異常なほどだった。白人たちのそれに近いほどに、太陽光線に触れたことが無い植物のような白さを曝したが、アジア人の肌にその色彩が巣食ったとき、同じそれは病的な何かを感じさせた。

白さを穢した乳首の濃い色彩が、なにかの禁忌のように、そして、それは小さな汚点として固まっていた。海水の温度がそうさせたのか、なんなのか。

Nhgĩa-義人の肌の白さは、現地の人間たちには愛されてやまない色彩だった。Đẹp trai デップ・チャイ、美男子の色彩として彼らが否応なく愛さずにおかない色彩は、私にはいびつな色彩にしか見えない。Ma も、と私を彼らがつけたベトナム名で呼び乍ら、こんな風に白ければいいのに、と、例えば Uyên ウェン は私に言った。彼は私の会社の設計士の一人だったが、私と同じような褐色に肌を灼かれ、私に子飼いの犬の媚びた目で笑いかけ乍ら、もっと白ければ、もっと、ね?。ハンサムです、と言って、Maさんは、あなたもね。とても、言った私に ハンサムです。侮辱されたような表情を作って、「いいえ、違います。」それは彼の誕生日のパーティだった。「もう十分、私はハンサムです。」笑う。海辺の海鮮料理屋は笑い声と話し声に満たされていたが、その音声の群れの中に、私たちが上げた無意味な歓声も消えうせていくのに、誰も気付かなかった。

Nhgĩa-義人が鼻を指先で押さえて、鼻水を砂に、無造作に吹き飛ばす。水滴を撥ねながら、空間に光の線を描く。飛沫は、Nhgĩa-義人が気付かないうちに、私の左腕にも触れている。

Nhgĩa-義人はベトナムに帰ってきたばかりだった。テト、旧正月のためでもあり、日本にいられなくなったからでもあった。それは彼の心情的な問題にすぎなかった。彼にとって、最早日本に居場所が無いと言うにすぎず、日本と呼ばれる地表の上には、彼が棲息できる場所などいくらでもあった。年老いた、アジアの中で最も新しいネイションのあの国に、今、膨大な外国人たちが押し寄せて、そこを稼動させていることなど、どんなに馬鹿な日本人でも知っている。高速度のささやき声が繰り広げる世界一困難な言語に支配された地表の上の、日本人たちの隙間を夥しい《アジア人》たちが埋めつくす。

いつか、日本で生活すること自体が、ベトナムで、外国人の中で暮らすのと同じような、文化的な無数の差異に貫かれた、不均質な体験になるに違いない。

 

ダナン市の朝の海岸には、まだ、外国人は殆どいなかった。韓国人を主体にした、外国人旅行者たちが海にやってくるのは昼近くから夕方にかけてだった。その時間には水着姿の彼らによってここは支配された。現地の人間は水着など着ない。短パンとTシャツで、そのまま飛び込むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夏になればもっと多くの人間たちがこの海岸を満たした。今は誰にとっても肌寒いはずだった。二月二十日、旧暦の一月五日、まだ夏とは言えない。ほぼ常夏のこの都市であっても。肌寒いはずの空気の中に外国人たちは意固地なほどに肌を晒したがり、現地の人間たちは寒がった肌を厚着に守った。寒くないよ、と言ったのは日本から帰った直後の Nhgĩa-義人だった。寒いだろ? 全然。日本に比べれば。ダナン空港の待ち受けロビーで。全然、寒くありません。インド人の友人が言った。東アジアやヨーロッパから来た人たちにとっては、それでも暖かく感じるのだと。今、彼らの国は凍えるほど寒いのだから。私は笑って、二十五度を下がれば誰にとっても肌寒いんだよ、と否定したが、その私の否定を改めて否定しなおすように、バイクで海辺にまで辿り着いたとき、日本帰りの Nhgĩa-義人は「泳ぎませんか?」と言ったのだった。肌寒さに皮膚をうずかせる私に。「いいよ。寒いから」

「寒くないです。」

「寒いよ。君だって、そんな厚着だろう?」

「いや、これは」彼はジャンパーを脱いで、海岸沿いの道路に止めたバイクの上に放り投げた上で、「日に灼けないためです」そんな事は言われる前から知っていた。「寒くないの?」

「暑いです」ついさっきまで、テトの近くはさむくて大変です、と言っていたことなど最早記憶から抹消して仕舞った Nhgĩa-義人は、泳ぎましょう、私を誘って、Tシャツさえ脱いで、自分勝手に海の中に入って行った。

背後の海岸を肥えた白人の夫婦がランニングして走って行った。朝の太陽は海の側にあった。空がひたすら、色彩を消失した白から青の大半の支配を経て紫がかる寸前までの色彩を推移し、わずかな雲はそれでも空を渡った。かすれ乍ら。私は彼が海の向こうに泳いでいくのを危ないものを見るように、心をなぜか躍らせながら見るのだが、もちろん、Nhgĩa-義人はそんな視線に気付きさえしないのだった。疎らな人々が、海に入り、海岸を歩き、彼らの休日の時間を潰した。波間の群青の濃い緑がかった色彩は、海の色彩が空の色彩、その単なる他人の色彩の借り物に過ぎないとするならば、それもまた空の色彩の含有色だと言うのだろうか?見上げれば、そんな色彩などどこにも存在しないと言うのに、と、私は黄色がかった色素を空に探すが、探し出そうとする眼差しには、その表面の色彩の裏に確かに黄色い下塗りが透けて見えるような気がしないでもない。

いずれにしても、油彩画だったら、無数の下塗りがその向こうに施されなければ到達できない類の色彩が、今、あまりにも単純に視界を満たしていた。いつも思った。もっと、海らしい海はないものだろうか?

球体の地球の必然と、人間の小さな目玉の限界に拘束された、丸く、水平線に消滅する海などではなくて、どこまでも、視野の限界を超えて広がって、遠方視力の限界と共に消滅していく海を見いだすことはできないのだろうか?目の前のものは太平洋なのだから、こんな、ちっぽけな広がりなどではありえないのは当たり前だった。にも拘らず、私が捉えるのは小さな、すぐそこで水平線に消滅する小さな風景にすぎなかった。

海、それが所詮は小さな惑星の表面を満たしさえもしなかった水たまりに過ぎなくとも、もっと、大きな存在として眼の前に現れてしかるべきだった。母なる海と言うにはあまりに惨めで小さく、それは彼女が生んだ人間に合わせた小さな人間的スケールなのかも知れなかった。「どうですか?」いつの間にか背後に回ったNhgĩa-義人に話しかけられたのを、私は振り向きさえもせずに「なにが?」答えたが、Nhgĩa-義人の体臭はまだ海水の臭気をこびりつかせ、その甘く腐ったような潮の匂いと彼の体臭とは混濁した。「慣れましたか?」

「ベトナムに?」

「そうです。日本のほうがいいですね」

「そんな事無いよ」

「どう思いますか?」

「ベトナムを?」

「べトナム人はどうですか?」って、と Nhgĩa-義人は自分の質問に自分で笑い出し乍ら、駄目な質問です。言った。「なんで?」難しいです。答えるのが。いいベトナム人も、悪いベトナム人もいます。答えることができません。いつも、困ります。「君が?」日本で、いつも困りました。同じ質問をされます。私は声を立てて笑い乍ら、じゃ、何で、いま、あんな質問したの? Nhgĩa-義人は私を見詰めた。一瞬だけ深刻な表情を曝し、見詰めて、そして、しかし、何も言わない彼の沈黙の時間が、何?と、耐えられずに私は口にして仕舞いそうになり乍ら、私は見るのだった。Nhgĩa-義人の黒目が微かに震え、停滞し、何?、と、しかし、持ち堪えられずにふたたび、それは震えたが、え?。一瞬口籠って、「困る、を、する、を、」言いかけ、「困った、を、する?あげる。」私は息をつき、Nhgĩa-義人の、必死に言葉を捜す急速度の思考が今、彼の頭の中を発熱させているのを明示した、痴呆じみた眼差しを私は見つめ、困らせる?

「こま、ら、せる?」言った。「そう」

私も、Nhgĩa-義人も声を立てて笑うのだった。「困らせたかったからです」眼の前の太った中年の女が、通り過ぎ乍ら私だけを振り向き見た。私の実家に来ませんか?と言ったのは Nhgĩa-義人の方だった。ダナン市のいまだ再開発の手が入っていない町外れに彼の実家はあった。日本人を見ることは初めてなので、喜びます。「日本に留学することが、反対でした」そう彼は言った。その意味はわかるようでわからない。

もちろん、わからないことはない。

 

言葉の通じない人間とやり取りすることの煩わしさに何度か断ったが、結局はNhgĩa-義人が私を押し切った。一人では実家に帰りづらかったのかもしれなかった。何年も、日本から帰ってこなかった。決して裕福ではない家族から、留学費の大半を捻出させ乍ら。旧正月の真ん中を避けて、そのお祝いの騒ぎが収まりかけた連休の終わりに、私たちは彼の実家を訪ねることにした。Nhgĩa-義人が海岸沿いのリゾート施設の隅を指差して、あれ、あれ、と言って笑った。何を言っているのかわからない私は、なに?なに?言い、彼が、いいから、ね?、あれ、あれ、繰り返すのを聞く。手を引かれて彼に連れられるままに、その真っ白い壁の裏の歩き、Nhgĩa-義人に言われるままホースを手にした。「洗って」と言った Nhgĩa-義人の海水に汚れた体を、私はその水で洗い流してやる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見咎めた一人の、老年に差し掛かった男に何か言われても、Nhgĩa-義人はただ笑って彼に言葉を返すだけだった。その六十歳ばかりの男は施設の管理人か何かに違いなかった。

Beach resort Da Nang というその施設には韓国語がいたるところにあふれていた。韓国企業が資本を出したのかも知れなければ、単純に韓国人観光客であふれかえっているからに過ぎないのかもしれなかった。明らかに管理人は Nhgĩa-義人を咎めているのだが、Nhgĩa-義人があまりにも陽気に彼に挨拶し続けるので、結局は私たちのすぐそばでしゃがんで煙草を吹かし始め、お前もどうだ?手振りで私に勧めた。首を振ると、Nhgĩa-義人は水を止めて、管理人に礼を言いながらその煙草を奪い、濡れた手で濡らさないよいうに煙草を二本抜き取って、煙草は彼の唇に二本とも咥えられた。管理人が笑い乍ら何か口走って、火をつけてやるのを、済ました顔で Nhgĩa-義人が受ける。管理人は陽気に何か独り語散るように口走り続け、途切れ途切れのその音声を聞く。私が背後にホースを投げたとき、自分の口から一本、Nhgĩa-義人は煙草を咥えさせた。「おいしい?」言って、Nhgĩa-義人は私の返答をは待たない。煙をくゆらし、管理人と話し込む。

話の内容はなんとなくわかるような気がした。Nhgĩa-義人は私が日本人だと言うこと言い、管理人は彼へのサービスも含めて大袈裟に驚いてみせ、ホンダ、アジノモト、と彼が知っている日本の何かを冗談めかして口走ったあと、立った笑い声が消えるまもなく彼に話し込まれた Nhgĩa-義人はやがて、Ma さん、振り向いて言った。「この人の孫が今、日本語を勉強しています」話やめない管理人に適当な相槌を打ち乍ら、時に話しかけ、私に通訳し、「今年、日本に行くそうです。」いつ?私は言ったが、話に切れ目の無い管理人の隙を伺うのは確かに困難だったに違いない。

「十二月」Nhgĩa-義人は、忘れた頃に言った。

管理人の独り語散るような話は尽きない。ふたたび隙間を縫って「日本のどこ?」私が聞かせた質問に Nhgĩa-義人は「千葉」という答えを聞き出す。目の前を蝶が舞った。小さい、白い蝶だった。朝の日差しが斜めにその羽撃きを微かさを照らしたが、私はその翼の周辺の空気がその羽撃きにかき混ぜられて、わずかな乱気流さえ生じているのを、皮膚も視界も何も捉えないままに、ただ、黙って、感じた。建物の白壁が朝日を反射しているに違いなかった。視界の横に白い反射が、感じられないまでもうかがわれ、その向こうの湾岸道路を通り過ぎる無数のバイクやタクシー、バスや自家用車の連なった騒音、しかし、人々の話し声は不思議なほど聞こえてこずに、私はその蝶の空間の低い高みに浮き上がった羽撃きを見る。羽の色彩を形成した燐粉は、かすかにでも飛散するのだろうか?

一切の色彩など感じさせない間に。

口に煙草を咥えたまま、管理人の話を聞いているはずの Nhgĩa-義人は私を無表情に見つめていて、どうしてだろう、と私は思った。彼の見つめる表情の意味が私にはわからなかった。なぜ?問いかけるまもなく、管理人は何かを口走り続け、独りで会話する。やがて Nhgĩa-義人は彼に笑いかけて、煙草を投げ捨てるが、管理人はすでに彼の煙草を吸い終わっていた。管理人が未だ話し終わらないうちに彼に握手の手を差し出し、別れを告げようとする私を、Nhgĩa-義人は声を立てて笑い、その声に私は瞬く。管理人に丁寧に別れを告げた Nhgĩa-義人が洗いざらしの水滴にまみれた体をそのままTシャツに包んで、Tシャツの生地が斑に濡れた模様を作る。

風景のすべてが朝の光の中に淡く白濁しかすんだ。ココナッツ、針葉樹林、それらの、街路の両脇を規則的に埋めた樹木の群れがのたうつような線を作って伸び上がって、風もほとんどない今、葉の群れをかすかに揺らしているに過ぎない。山の連なりが頂を雲にぶち当てて、砕けた雲は白濁させ乍らかすむ。白人たちがカフェを探して海岸沿いを歩いた。彼らは白くしかありえない肌を責め(さいな)むほどに日に晒し、肌にその太陽の色彩を着色しようとする。ある意味に於いて、日焼けは彼らにとって刺青のようなものなのか。

彼らの肌が赤らみ、それらはすでに茶色くなりかけていた。沿岸の遠くに漁船が群れを成し、砂浜に木肌を編んで作った小さな黒ずんだ船が放置され、日に差されるに任せる。バイクに乗って、さぁ、と、手振りで後ろに乗れと Nhgĩa-義人が指示をくれ、「いきましょう」もう?もう。もう、遅いよ。

 

遅刻気味です、と言った Nhgĩa-義人は、なにか口籠って、顔をしかめ、伝えようとした情報を結局日本語化できないままに、なにか言いあぐねた。「なに?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ん、

と、ややあって、そう言ったのが彼の精一杯だった。もどかしそうに唇を尖らせた。不意に声を立てて笑った。私は彼の無意味な笑顔を確認しただけで、そして、私は彼の後ろに乗った。

走り出したバイクが風景に速度を与え、視界に通り過ぎさせる。向こうの山のふもと近くに巨大な観音像が建って、海を見やっていた。有名な寺院だった。名前は知らない。いつだったか、Trang チャン に連れられて行った。知っていますか? Trang は境内で、奥の三つ並んだ仏像に三度ずつ手を合わせてひざまづいた後で、Buddha になると、額に三つ目の眼が開きます、と言った。その表情には、不意に恍惚とした恐怖と憧憬がない交ぜになっていて、私は思わず目を背けた。

明らかに宗教的な興奮を含んだ、その眼差しの発熱を忍ばせる表情は、少なくとも私にはあからさまに穢らしく、どうしても理解できないものだった。彼女は山を降りたあと、豊かに茂った髪の毛の中に顔をうずめながら音を立てて蒸した鶏肉を食い、その音が多くの外国人たちに不愉快なことには彼女は、未だ気付いていない。じゅるっ、

ずぅ、ず、

ぎいぃっ、く、

っちゅ、っちゅ、ちゅ、じゅ、

ん、じゅじゅ、

じゅっ、ん、

ん、ち。ちぃっ、

つ、

、ん。ちゅ。っちゅ、んちゅ。

ちゅぃっ、っちゅ。藤井加奈子がいつだったか、言った。あの、穢らしいこぶた、そう言って、見下した哀れみの眼差しをくれ乍ら、彼女に顎をしゃくった。

柿本建築研究所のビルの外で、バイクのうしろにまたがったまま私を待っているのが、ガラス越しに見えた。「あんたに捨てられたくないから、どこにでもついてくるの?」

「これから飯、食いに行くんだよ」

「あの乞食と?」

「カノジョとも言う」

「まさか」鼻で笑って、加奈子があからさまな侮蔑を、しかし、その表情がわざと作られたものにすぎないことが私にはわかった。「ここまで体臭匂ってきそう。」

 

彼女と窓ガラス越しに視線を合わせながら、私に舌を出して見せ、先端をひわいに震わせる。私は笑う。「どこもかしこも臭そうなんだけど。」ねぇ、

 

 

 

 

 

 

 

 


シュニトケ、その色彩 2

 

変な病気持ってる?あのこぶた。」

「人種差別?」

「そうとも言う。私以外の人間全部が差別対象なの」

「おれも?」

「まんこやろうでしょ?」不意に耳打ちしてささやき、穢いまんこやろう。Trang がこっちを見ている睨み付けるような視線を確認してから、気付かない振りをしたままに、私の頬に手のひらで触れる。限界まで接近した、そのすれすれの距離自体が、例えば抱きしめあった抱擁よりも寧ろ親密さを Trang の眼差しのうちに表現したはずだった。

 

加奈子の仕草の一つ一つが、韓国ドラマのような、演技じみたわかりやすさで、あなただけではない、と、Trang に告知した。唇を開いて、私を見詰めたままに、一瞬、指につかんだ鳥の骨をよそ見し乍らいじった後、一気に咥えて、すすり、しゃぶり、咬みきり、舐め、飲み込む音が、開きっぱなしの口の中から派手な潤んだ音をたてる。Trang が鶏の油に汚れた指を立てて、指の腹どうしこすり合わせ、そして、誰もがそうしていた。東京のレストランで同じ音がたったなら、悲惨な状況が現れるはずだった。

傍らの路面をいくつかのバイクが通り過ぎ、歩道に赤いプラスティックの椅子とテーブルを無造作に並べただけの路面店だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

周囲の至る所で、人々の口から彼らの食事の音響が盛大に立った。Trang は上目遣いに私を見詰め、彼女の完璧にメイクされた真っ赤な唇が卑猥にゆがんで、ふたたび、軟骨を咬むのを見た。私が声を立てて一人で笑うのを、Trang は咎める眼差しさえくれずに、ただ、無表情な顔つきの下で、彼女は戸惑っていた。

軟骨を噛み千切って、丁寧に舌先で唇から押し出し乍ら砕けた骨を床に吐き捨てた。何かに気を使った慎重な繊細さがあった。その心遣いの意味は私には理解できず、確かに、彼女がどこか薄穢く見えるのは確かだった。痩せぎすで、幼すぎるほどに幼さを残して、そのくせ眼差しに狡猾さがあった。たいして狡猾なわけではなかった。単に衝動的であるに過ぎない何をしでかすかわからない女。

彼女自身が、自分を狡猾な何かとして考えているらしいのは気付いていた。彼女が私以外の人間に投げかける、安易な侮蔑のある眼差しがそれを、すぐに感じさせた。私を見るときの、羊のような眼差しとの極端な落差に戸惑いさえ感じた。上目遣いに、息をひそめて、上品で、エレガントで、美しく振舞い続けなければならない痛みをと喜びをすべて引き受けなければならない美しい女で在って仕舞ったことに恍惚とした、そんな、自虐性と腹立たしい自己愛がないまぜになった、その。

いずれにしても、私に選ばれてある恍惚と不安とを彼女は感じているには違いない。少なくとも私の目の前では。醜い、老いさらばえた私に。腐りかけの体臭を撒き散らしているかも知れない私に。夢のように美しい男。すれ違うたびに、女たちが目を伏せて、何かから何かを守ろうとする男。あるいは、押し付けがましい、開ききった瞳孔で見詰めずにはいられない男。

 

覆いかぶさった豊かすぎる頭髪が(くく)られれば、みだらなほどの後れ毛を首筋に散乱させ、Trang の好みなのだろう、そして、現地でよく見かける真っ赤な口紅が、褐色の肌を隠そうとした白地のファンデーションの色彩との歪つな対比を作る。眼を逸らしたくなるのは、あまりにも豊かな胸の膨らみだった。虚弱児じみた身体のか細さの中で、そこだけが必死になって彼女の身体の上に豊饒たる女性性を維持しようとしているように見えた。垂れ下がり、胸元を揺らし、それは幼い顔をも含めた彼女のすべてを裏切って、まるで Trang の首から下は出来の悪いポルノか、日本のアニメーションの中の、穢れを知らない美少女たちのような、薄穢い淫猥さを発散した。

 

Trang にとって、彼女はつつましいエレガントな女であるには違いない。私のただ一人の事実上の正妻でもあった。無意味に垂れ下がった出鱈目で悪趣味なピアスも、趣味の悪い金のネックレスも、腰から前につんのめるような歩き方も何もかも、彼女にとっては彼女の美しさの構成要素であるはずだった。猫のように大きい目のくりくりした黒目の、誰でもそうであるところの無機質な無表情さが、Trang の顔の真ん中で、彼女が微笑むときでさえも、涙する時でさえも、そのはかない表情の繊細さのすべてを台無しにし、Trang の美しいともいえなくもない貌は、結局は悲惨な茶番に堕す。

眼差しが重なり合う。

Trang と私の。

そして向こうの席でおかゆをすすり上げる五十台の女と、その横の男、彼らの眼差しも絡まりあって、空間に、話し声の音声さえ絡まる。

通り過ぎるバイクの排気ガスの匂いがした。

Trang が前のめりになって私の唇に指を触れる。

彼女が声を立てて笑いそうになっているのは知っている。

髪の毛が匂う。

眼差しを反射光が白濁させた。

彼女が取ったのは、私の唇に付着した崩れた米の粒だった。私は右手でテーブルの上のおかゆの茶碗を撫ぜた。Trang は崩れそうな微笑みを唇にわななかせて、指の米粒を唇に持っていって、そして、自分の舌に奪った。私は彼女を見ていた。

  

頭を撫ぜてやると、舌を尖らせて、Trang は何かを私に矜持した。「あなたも、仏教徒なの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「なに?」Nhgĩa-義人が、振り向きもせずに答える。疾走するバイクの上、騒音と風にまぎれて、音声はほぼ聞こえない。バイクは疾走する。海辺の風景は急激に流れる。すれ違いに通り過ぎるバイクの音が、真近な風の音の外で立つ。Buddhist、と私は ぶっでぃすと、言いなおして、Nhgĩa-義人は二回繰り返させた後に、「でも、日本人も、でしょう?」

「日本人は、」じぇもにふぉんいんもいぇしょ 知ってる?「そうじゃないよ。」三番目の眼が開くの。あんな、仏陀になったら。生々しい宗教性など、知ってた?サリンでもばら撒かれない限り、日本ではめったに体験できない。

バイクを止めた雑然としたカフェで、Nhgĩa-義人が自分の足元にまで差し込んで、テーブルの角に敗北し、青い影に堕した日差しのきらめきを見やり乍ら「テトをすぎると、急に暑くなります。」息を吐く。

 

九時を回ったに過ぎないにも拘らず、日差しの温度は急激に上昇し始めていた。昨日までとは別の国にいるようだった。白濁した、雨がちな曇り空の下で、震えるような寒い大気が風もないままに停滞し、朝方の雨は昼過ぎまで降り続ける。どうしようもなく悲しい世界の白濁。「もう、暑くて、大変」振り向いて笑った Nhgĩa-義人に、「汪を殺したとき、なんて思った?」言った。彼は聞き取れないか、日本語を理解できない振りをした。或いは、半分くらいは本当に理解できなかったのかも知れなかった。迷惑そうにたじろいだ彼の表情にはどこか素直さがあった。「どうでしたか?中国人を殺したとき。何を、感じましたか?」

 

どうだったの?」

「悲しかったですよ」

「あなたが?」

「汪さんは裏切りましたから」Nhgĩa-義人は かなしかたじぇっよ 本当にそう思っているに おさんわ 違いない。眼差しが、うらぎりまったから 何か、高貴な悲しみに耐えていた。

 

「それに、ね、Nhgĩa-義人の声。眼差しの向こうの日向(ひなた)で子どもたちの集団がじゃれあう。んー……、直射された太陽光が彼らの肌を灼く。幼い彼らの「でも、」じぇも、肌の表面積は瞬く間に光を反射する。「それに、彼は中国人ですから」

 

「あなたもベトナム人でしょう?」何も言わずに首を振る Nhgĩa-義人が言葉を捜す。十二月中旬の東京で雪が降ったときに、加奈子が私に見せたのは《日本に帰れますか?》という由紀乃の LINE メッセージだった。ダナンの、彼女のホテルの部屋で。《帰れない。どうしたの?》もう一度、と、「日本に帰りますよ」Nhgĩa-義人は振り向きもしないままに言った。「仲間を集めて、」

ゆち、ゆし、ゆう、

《パパが大変です》「帰って、」

有志?

《どうしたの?》

そうじぇっ、ゆすぃじぇっ

「日本を作り直します」《みんな困ってます》加奈子に背を向けたままメールを開いたとき、汪の赤坂事務所からのメールを見つける。

 

加奈子の泊まっているホテルの壁は白く、背後からの窓越しの陽光が斜めの影を作る。午前の十時だったから、東京は正午だった。《社長が刺殺されました。義人君が犯人です。身柄は事務所で拘束しています。詳細、追って連絡します。口外しないこと、お願いします。》午前9時45分。藤原瑞希。私は笑った。「汪さんの言ってることと変わらないよ。」

「私は汪さんじゃありません。」Nhgĩa-義人も、憤慨して見せるが、すでに声を立てて笑っていた。彼はいつも屈託の無い笑い方をする。そのくせ本当に面白がっているようには見えない。「私は中国人じゃないから」

「ベトナム人でしょう?」

「日本人ですよ」言って、コーヒーの入ったロックグラスの氷をスプーンでかき混ぜた。私が微笑んでいるのを彼は見詰めている。「日本人はもう日本人じゃありませんから、私たちが日本人になります」私と加奈子は額をくっつけるようにして、何と言うわけでもなくスマホの画面を見ていたが、唐突に鳴った無料通話を取った加奈子の指先は敏捷だった。母親からだった。実際には、彼女がどうしようもない焦燥感に駆られているのは見て取れた。いきなり顔を上げた加奈子の顎が、首もとの空気を揺らした。彼女は笑いそうだった。「いつ?」Nhgĩa-義人が声を立てて笑うのを聞いていた。「いつか。」《了解です。》瑞希に返したのはメール本文はそれだけだった。あのベトナム人が殺しちゃったらしいよ。「誰を?」パパを。加奈子がその母親としゃべりながら、身をよじって耳打ちした。「どうやって?」

 

「さぁNhgĩa-義人は言い、加奈子は手を空中に静止させて、待って、とその身振りは言った。「占領してしまうのがいいと思います。日本人をみんな選別します。駄目な日本人は追放します。殺すや。支配するや。もう一度教育するや。残念です。日本人、もう、日本人は、死にましたから。殺します。」私たちは話し合う。声を潜めさえせずに。眼差しの向こうにけられたサッカーボールが転がるのを見やる。原田扶美香には、事務所で身柄を拘束された Nhgĩa-義人は譫妄状態に見えた。あるいは、悪魔か、怨霊か。何かでも取り憑いたのか。いずれにしても普通ではない。それは単に、Nhgĩa-義人が彼の母国語で呟き続けていたからだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

十二月二十日の東京には雪が降った。交通が麻痺していた中を昼ごろになって汪の事務所に遅れて出勤したとき、瑞希は事務所で煙草をすっていた。遅刻した扶美香に、瑞希は何も言わなかった。彼女が煙草を吸うのを扶美香は初めて知った。やばいよ、と、興味もなさそうに言う瑞希に、扶美香は目線さえあわさなかった。眼を逸らしたまま、「社長室、見て」瑞希のその声を聞いた。扶美香は瑞希の、いつもどおり品のない口元と、下唇の下右端のほくろを見る。それはすすり上げるような声だった。普通でない気配はすでに彼女には察知されていて、窓後に雪の日の冷たい白霞んだ光の色彩があった。

あけられた社長室のドアの向こうに、Nhgĩa-義人はガムテープでぐるぐる巻きにされて床の上に寝かされていた。汪はデスクに座ったまま、腹部から血を流して明らかに死んでいた。首が無かった。頭が不在の首は、無理やりちぎり盗られたように、そのぐじゃぐじゃした傷口を曝した。あるいは、食いちぎられたかのように。頭を探そうとした瞬間に、汪の背後の床の上に、その首を見た。汪の首が唇をへの字にまげて、眼を開けたまま置かれていた。首を切り落とすのが、あそこまで皮膚も骨も筋肉も破壊しなければ不可能なほどに、困難が伴うことに、扶美香は気付いた。

 

血まみれの部屋が湿気を持つことを、扶美香は初めて知った。蒸れて仕方ないの、と瑞希は言った。何かほかの事、考えようとしたけど、全然、考えらんない。蒸れて仕方ないから。そう言った瑞希を振り向き見て、「どうするんですか?」

 

どうするつもりなですか?これ、

「なにを?」これを、と、扶美香は言いかけて、より正しい代名詞を探した。父親と母親に謝り続けました、と、Nhgĩa-義人は言った。犯罪者になっちゃったことを?「では、ありません」

「なに?」

「穢いです。」Nhgĩa-義人が手に取ったグラスが振られて、コーヒーは揺らぎ、氷が音をたてる。「とても穢い。血は。」血はなかなか死なないですね、とNhgĩa-義人は言った。体が死んでるのに、なかなか死なない。大津寄皇紀とは連絡がつかなかった。扶美香が何度も鳴らした LINE は応答もなくその呼び出し音だけを鳴らした。あの、頭のおかしな女。《どこにいるの?》瑞希はすでに壊れているのだ、と《連絡してください。》瑞希は思った。無意味にパソコンを開いて、無意味に閉じる。それをなんども繰り返し、使い物にならない。既読の付かない彼女が打ち込んだフォント文字を見やり、桜桃会に《だれか、大津寄さんと連絡を取ってください》打ち込んだ後、その日本語が彼らに理解できるか自分の中で確認する。《今すぐ連絡とってください》既読が疎らにつき始め、大津寄はどこへ行ったのか、美しい女だった。桜子という本名を偽って、男装し、彼は誰よりもあせっていた。ほぼ外人ばかりで組織された桜桃会の中の、三人だけ居る日本人の中では一番まともだった。彼、あるいは彼女は日本人である以上、誰よりも日本人でなければならなかった。

 

その後、その他の桜桃会の人間とは連絡がついたが、皇紀とだけは連絡がつかなかった。彼はどこかへ逃げて仕舞った。「ねぇ、」言って、私の頬を手のひらに抱く加奈子を見た。「信じられる?」なにを?

 

 

 

 

 

 

 

 


シュニトケ、その色彩 3

 

「なにを、」部屋の中を見回し、その「信じて欲しいの?」ホテルの理路整然と整理された部屋の美しさを、私はいまさら乍らに確認した。一ヶ月近く住んでいるのに、まるで生活臭が無かった。あくまでも、他人の部屋のような。「わたし、孤児に為っちゃった」三十過ぎの。ね?、と言って声を立てて笑う彼女の、不意に浮かべた涙を拭ってやった指先が、その液体の温度に穢れる。Trang と加奈子が Nhgĩa-義人の実家で待っていた。彼女たちは先にタクシーで向かった。二人だけにさせておくことは、あまり好いアイデアではなかった。加奈子が何を言い出すか分からなかったし、何をしだしても不思議ではなかった。待ち合わせ時間は夜の十時だった。Nhgĩa-義人は電車を乗り継いで事務所に向かった。もう、最初から殺す気でした、と、正気づいた Nhgĩa-義人は瑞希に言った。「青龍刀で、汪さんを」唐突に取り乱した扶美香がわめき散らし乍ら手当たりしだい物を壊し始め「殺すつもりです」瑞希は彼女を殴打し、ついでに「事務所に来ます」蹴り上げた Nhgĩa-義人が「汪さんが居ました。」荒く息をついた後で、すみません、「殺しました」と言ったのだった。「汪さんを、」私は殺しました、と言う Nhgĩa-義人の声を聞き、「どうやって?」瑞希は、一人で?「青龍刀で?」Nhgĩa-義人がうなづく。「腹を刺します」扶美香はソファーに身をうずめてしゃくりあげ乍ら「刀を構えましたら」やがて瑞希に、初めて見ました。「汪さんが見ました」首、ない、人間、見たの、「汪さんが暴れようとしましたが」わたし、初めて。Nhgĩa-義人に、「言いました。」逃げない?瑞希は「終わり。」確認したが「あなたは、ぜんぶ」いやな体臭がする「終わりです。」と瑞希は思った。「腹に刺さって、暴れました。私は」それは彼女好みの体臭ではなかった。「汪さんの首を斬りました」何でこんなことになったんですか?

 

Nhgĩa-義人に水を飲ませてやった時、扶美香は言ったが、「殺しました。」逃げません。「もう、」長い沈黙と、「死んでいました。」不振に震える黒目の逡巡の後で、「死んでいましたから、」言った Nhgĩa-義人を信頼してやる。ガムテープを解いた瞬間に、「首を斬りました」彼女を突き飛ばして逃げようとした Nhgĩa-義人はすぐに思いなおして、しゃくりあげ続ける扶美香を見詰めたが、すでに立ち止まった彼は自分が座るべき場所を探した。

 

はじめてみたよ。しゃくりあげる上目遣いの扶美香が、首ないの、初めて。言うのを、Nhgĩa-義人は黙って見詰めている。警察に連絡していいのかどうか、瑞希には判断がつきかねた。汪の日本滞在が合法のものなのか、それとも長い長い不法滞在を続けているだけなのか、自信が無かった。LINE で入れた加奈子へのメールも、柾也への E-mail も、どちらも返信がなく、LINE には既読さえつかなかった。桜桃会のなかなかつかない既読は、彼らにとって、今が忙しい時間であることを思い出させた。学校に通っているか、バイトに出ているか。え?、と、「うそ?」

 

違わない?」言った瑞希を Nhgĩa-義人は振り向き見た。三十歳に近くなるまで、瑞希が一人の男しか作らなかったのはなぜか、自分でも分からなかった。「あんた、殺してなくない?」汪のショーパブで踊っている瑞希は人並み以上には美しく眼を引き、「うそじゃない?完璧に、さ、」ダンサーズ・スクールで教える。「だれ?ねぇ、犯人」子どもたちのクラスも「だれ?」大人たちのクラスも。皇紀だろ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 瑞希は口の中だけで言い、扶美香が、思い出したように、おなか減った、言って、Nhgĩa-義人は笑いかけられるままに笑い返す。ライオン方式、と、汪は言った。わかる?「ライオンって、メスをたくさん飼ってます。」信じられない風景を「オスは何もしません」扶美香は何度も「ね?メス、忙しいでしょう?」しゃくりあげ乍ら「狩りします。子ども生みます。」視界の中に確認して「育てます。世話します。いろいろ、」前兆など無かった。「ね?私はライオン方式。」どうして?「私はかわいがるだけ。」呟く。その「子ども生ませるだけ。」声を聞いて、瑞希は「仕事ぜんぶ、女の人します。いいの。」どうして?「それがいいの。」沈黙したまま「遺伝子ね。」Nhgĩa-義人を見る。「いい遺伝子。」どうして?「いいもの持っているのは、いい男だけ。」やっちゃったの?「ね?」Nhgĩa-義人は見詰めた。「駄目なのは、死んでしまえばいいの。」自分を眼差しに「何も残さないで。」捉えて「私も、あなたも、」言う「ね。」彼女を見詰め、「いいから、女の人たくさん、飼います。」知りません。「生ませます。」分かりません。「それ以外、何もしない。」皇紀でしょ?「正しいよ。」瑞希の言葉を「これが、正しいよ。」首を振るだけの Nhgĩa-義人は「これが、」否定したのか「私の」肯定したのか「ライオン方式。」分からなかった「あなたも。」瑞希には。「ね?」言って、汪は私に笑いかけた。

汪に自分の子供は一人もいなかった。女たちばかりの事務所の女たちが、いずれにしても何らかの形で汪の手の付いた女たちであることは知っていた。加奈子自身がそうだった。汪が死んだ後、実権を握ったのは扶美香だった。フィリピンとの交易は加速した。覚せい剤の密輸。もう一つは女たち。「要するに、人身売買よ」加奈子は言った。介護の名目でつれてきた女たちを婚姻させ、「穢い子豚ちゃんを買い叩いてあてがってやるの。日本の能無し豚に」法外なとはいえない程度の手数料を取った。「だってさ、フィリピン人なんてさ」日本が滅びたら、「土人じゃん。いわば。」どこ行こっか?「買われてなんぼ」加奈子が言った。汪の死を知らされた数時間後に、私たちは海岸を散歩し乍ら、「どこって?」さっさと滅びてくんないかなって。「汪みたいに?」声を耐えて、しかし笑いを我慢しきれずに、やがて声を立てて笑う加奈子が私にすがりつくようにもたれて、「でも、後悔はしていません。」Nhgĩa-義人は言った。私が、なんで?

 

尋ねた声に答えずに、「もう遅すぎます。」言って、「行きましょう」Nhgĩa-義人が私を急き立てた。Trang さんたちが待っています。Trang の家の売却はなかなか進まなかった。なぜあの草食動物のような両親が自殺しなければならなかったのか理解できなかったが、川沿いのリゾート開発区域のど真ん中の土地がその価格高騰のために、家族に係争をもたらし続けてるのは誰にも理解できた。Trang と、その叔父たちの所有権に帰するはずだった。四人居るその叔父たちのうちの一人が、四人とも同意の上で所有権を放棄していたにも拘らず、法的には残りの三人はまだ所有していた。そのあたりの言い争いが続いているようだった。Trang の後ろ盾は私の会社の Danh ャン だった。あんなに大量の人間が一気に死んで仕舞った土地など、さっさと売って仕舞えばよかった。Duy ユイ と Hà ハー の死に方は派手だった。彼らの家の敷地の目の前の広大な廟の庭で夜中に、ガソリンをかぶって自分に火をつけた。最もた易く後腐れの無い死に方だと思ったのかもしれなかった。

その夜中、女の声が立った。あきらかに、普通ではなかった。喉の潰れた鶏が引き裂かれながら立てたような、長い声。

髪の毛の束に腐った油を撒いて焼いて焦がしたような匂いがした。ガレージのシャッターを開けると、目の前の廟の庭を円をかいて走りながら燃えているがいた。豊かに生い茂った樹木の太い幹の陰に、Duy はひざまづいて地面に何度も頭を殴りつけていた。Duy も燃えていた。痛みに耐えかねた彼らの身体は、もはや、迅速な死をだけ望み、駆られ、あせっていた。失心さえして仕舞えばいいのに、と私は思い、なに?と。

 

「なに?」Trang の声を聴く。

 

ん?壁の向こうの異変に気付いた私は言って、ベッドに身を起こした私には取り合わず、怯えるばかりだった Trang が予感していたに違いないのはこの光景そのものだったのだろうか?

Trang は毛布の中に丸まって、こちらを見向きもせずに、起こそうとする私を、手を振って拒絶した。眼をすら開こうとはせず、どうしようもない匂いがする。人間の身体が、こんなにも穢らしい物だったのかと、自分の肉体が存在する現実を後悔させずにおかない異臭が鼻をつき、はやく死んで仕舞えばと彼らの死を望む。起き出して集まり、周囲に群がった人々が遠巻きに身を隠した。誰も近づこうとはしなかった。寧ろでたらめに駆け回る Hà の接近から、遠い距離あるにもかかわらず怯えて逃げ、彼らの表情はわなないていた。咎めあうような声が、燃え上がっている二人の人体に聞こえないようにささやかれ、無数に立ち上がって空間を満たし、なかなか燃え尽きず、失心もできない Hà が自分自身を包んだ炎から逃げ惑う。彼女の、不意に、一直線に加速した走行はコンクリートの壁にぶつかって倒れ伏し、人々は逃げ惑う。地面の上に四肢はばたつく。ややあって、力尽きた Hà が死んだのか、それとも本当に単に力尽きただけなのか、確認する勇気は私にも誰にも無かった。呼ばれて駆けつけた警察さえ遠巻きにその惨状を見詰めた。た易く燃やせる衣服や皮膚を焼ききっただけで火はすぐに消えた。ぶちまけられたガソリンで焼き尽くせるほど人体を支配した水分は甘くなかった。彼らは死んでさえ居なかった。病院に担ぎ込まれ、Hà は五日間、Duy は四日間生きていた。彼らの肉体を濡らしたガソリンが、何も焼き尽くさないうちに、自分勝手に燃え尽きた瞬間、警官と眼があったような気がした私は、人ごみの背後を掻き分けて、加奈子のホテルに避難した。Trang を見捨てたようなものであることに後から気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 だいじょうぶ? LINE にメッセージを入れた後、Trang の家に WiFi がないことを思い出した。電話をかけることは危険だった。死んだのは彼女の両親だった。警察が来ないわけが無かった。シャッターは私が開けっ放しにしたままだった。「どうしたの」加奈子が言った。「子豚ちゃんと乳繰り合ってるんじゃなかったの?」私は Trang を思った。「死んだよ」どう思うのだろう、警官たちは「誰?」彼女の部屋の開け放たれたシャッターから侵入し、「子豚ちゃんの両親だよ」叩き起こされた Trang は「なんで?」言い澱んだ私は、彼らの燃え上がる光景を思い出すことさえ嫌だった。捨て置かれた孤独の中で、「売っちゃえば?」的中した予感におののくのだろうか? Trang は、「誰を?」一人で。「孤児なんじゃない?子豚」いつも、私がいつか自分を棄てることを確信していた。「もう、ないでしょ。」Trang は、いま、確実に「居場所なんか。」見詰めなければならなかった。「身より無いんだったら、中国人にでも」Duy と 、「売っちゃえば?」彼らの黒焦げの「お前みたいに?」その惨状を「そ。そ、そ、そ。」彼らを追悼する余地さえなく「どっかの頭おかしいチャンちゃんに売りさばきなよ」おののき、「やる、する、ねる、しか能の無い、」震える。「さ。」一人で「繁殖するしか」あそこで「能の無い猿たちに」冴えてるね。私は加奈子に言った。今日も薄穢い毒舌が。「嫌味?」

 

 

なんか、似合わないな「そういう、嫌味言うの。」

「人権主義者の正当な批判だよ」私は声を立てて笑い、彼女には私が必要なはずだった。Trang には。彼女はののしったかも知れない。自分を棄てて行方をくらました私を。皇紀の住処は知っていた。皇紀が囲われている女が借りている麻布台のマンションだった。タクシーを止めて、麻布通りに面した古い建物の前に止める。住んでいるのは二階だった。呼び出すと、女はすぐに出た。彼らの単なる日常の延長に過ぎない間延びした気配の意外さに瑞希はたじろぐが、その山下奈美と言う名の女の向こうに、窓際のソファに座って刀の手入をしている皇紀を見つけた瞬間に、土足で室内に駆け込む瑞希を奈美に止める手立ては無い。

皇紀にのしかかった瑞希を羽交い絞めして奈美は、無抵抗にただ瑞希を見詰める皇紀を訝る。「殺したでしょ。」瑞希は言った。「汪を?」皇紀は彼女を傷つけないように刀を遠ざけ乍ら、「殺したよ。」素直に認めた皇紀の単純な素直さは瑞希を落ち着かせるしかなかった。土地が、一気に谷底に傾斜していくその先端にあるために、二階にも拘らず、その部屋からは窓の向うに十階建て程度の眺望が獲られた。「青龍刀で?」

 

そう、と、「青龍刀で」皇紀は言った。「中華風。」汪が義人と待ち合わせてたの知らなかったから、かぶっちゃった。言って笑い、「首、撥ねたときに、いきなりノックされて。誰?って。義人ですって。ドア開けたら面食らってたよ」奈美もその事件のことは知っていた。「どうしましたか?って。」この人、嘘だけは言わないから。全部、「俺、殺っちゃったよって」言うから、そう言う彼女に、「でも、おかげで」なんで、あなた、留めなかったの?このひと、ひと、「首、落とし損ねて。」殺したんですよ?言う瑞希に、「食い込んじゃったの。刀。大変だったよ、」一度決めたら退かないから。「2人で、」でも、「食い込んだの、抜いて」言って、笑い、「まだ死んでなかったから」留めないって言うことは、ね?分かります?「急いで、抜いて、ね?」皇紀の手に触れた。添い遂げますから。「あとは、」どこまでも。わたし、このひと、「義人にやらせた。」死刑に為っても。一緒に「ね?」小柄な奈美が立ち上がって、お茶を入れる。「教育したね」独り語散るように瑞希は言い、「あなたの好みでしょう?」皇紀は彼女に答えた。「撫子ってやつね。」瑞希は独りで笑った。奈美は皇紀が風俗で拾った女だった。死ぬほど「最初ね、」嫌いなタイプ、と「ヘルスで。」言って笑った瑞希には「酔っ払った人たちと」眼もくれないままに「来たの。桜桃会の人なの?」どうするの?「で、この人、」これから。そう言った瑞希に「来たんだけど。もう、ね。」笑って、「びっくりする。」これから考えるよ。

落ち着いたら。これから。ゆっくり。ゆっくりと、ね?「あれ?って。ね。」言い終わらない内に瑞希は「あ、れぇ?って」皇紀をひっぱたいたが「思ったけど、ね?女の人でしょ。」振り返った奈美は「違うけど。」何も言わず、「女なんかじゃないけど、基本、」何の抵抗もしないままに「ね?で、」耐えられずに皇紀が笑って仕舞うのを瑞希は「あいつ、一緒に」見た。なんで?

それは言葉にならずに なんで?頭の中だけで、「シャワー浴びても、へんなことしないし。」もう終わったんだよ。汪さんは。「名前だけ聞いて、ね?」皇紀は言った。もう。「ずっと添い寝してくれるの。」

すごいって」未来の話をしようよ。「この人、」終わったことじゃなくて「すごい人だって。この人、」終わりかけの今でもなくて「やばいって、で」と言って、口籠るのが酔っ払った奈美の口癖だったが、で、「今があります。」奈美がそう続けるのを、何度も私たちは聞いた。Trang は事件から数日間まともではなかった。二日後になって、Trang の家に帰った私が見たのは、出て行ったときそのままに Trang がベッド上で丸まって眠っている姿だった。正午を回り、シャッターは開けられたままだった。あれからのことの経緯も聞き出せないままに、彼女は眼を開けたまま、じっと丸まり、私が彼女の頭を撫ぜるに任せた。時に病院に行くために身支度をし、私のために何か買ってきて、私に食べさせて、私は彼女が壊れかけている気がした。どうにかしてやらなければ、本当に、少し触れただけの単純なしぐさが彼女を完璧に崩壊させて仕舞うかも知れない予兆があった。私は時にそれに恐怖し、時に彼女がその両親に火を放って殺して仕舞ったのかもしれないあり獲ない妄想に怯え、一緒に行こうか。

 

病院に、一緒に。そう言った私に Trang は首を振って、穢い、…Dirty…DơBẩnNhơ、順番に きたない… 言って、だってぃ… 私から よぉ… 眼を ばぁん… そらす。にょー… 無理やりにでも一緒に行ってやるべきだったのかもしれなかった。私には自信がなかった。

何に対する、いかなる種類の自信であるのかは私にはわからなかった。汪が殺された日、加奈子は瑞希との通話が終わった後に、不意に、涙ぐんだ後で、忍び笑いし乍ら聞き取った次第を私に語ったが、ふと、ね?

 

私に何か確認するように、「ね?」彼女は言った。「私のこと、どう思う?」どうって?問い返す言葉を、「ね、思ってる?私が、例えば、」彼女が聞いてさえいないのは「悲しくないとか、ね?ほんとに」知っていた。「悲しんでないっとかって思ってる?」

「思ってないよ」

「どう思ってる?」

「悲しんでる」

 

嘘」立ち上がって、部屋の向こうまで行って、壁によかって振り向くが、「信じられない。」

「なにを」すべて、と、「なにが?」加奈子は言った「あんたのすべて。というか、全部」笑い出しそうになった私は、「泣きそう」見詰めたその「泣き崩れちゃいそう」視線の先に捕らえた「ねぇ、泣いていい?」加奈子はわざと涙をこぼして見せ乍ら「パパが死んだって。駄目」それが彼女の演技であることには「耐えらんない。狂っちゃう」気付いていた。彼女は「悲しんでない。もう、」すすり上げながら、そして「頭の中、砕けて、」鼻水をすすり「壊れちゃっただけ」Trang は確かに、最早完全に孤児だった。相続の問題で、残された親族から吊るし上げをくらい乍ら、結局彼女だけ取り残された現状の中で、Trang は何とか自分だけで生きていかなければならなかった。それは彼女にとってあまりにも過酷な体験だという気がした。私のホテルの部屋に住み込み乍ら、汪の死は一切の法手続きを経なかった。彼は不法滞在を続けていたにすぎず、国籍や戸籍もどこにあるのか、由紀乃さえ知らなかった。

ベトナムにあったりして、と加奈子は言って笑った。源さんと、よく来てたから、と独り語散るままに言葉を飛散させ、眼差しは澱む。彼女は父親を失ったのかもしれなかった。彼女が彼を父親だと認めて仕舞えば、彼女は父親を失うことができた。そうしなければ、それはそれに過ぎなかった。彼女がその猶予をもてあそんでいるようにしか思えなかった。彼女をどうあつかってやればいいのか、それさえ留保が付けられて、明け方、土砂降りの雨が降っていたその日、私は一日中加奈子のそばに居てやったが、無駄に時間をすごしんているだけだといういたたまれなさが止まなかった私の会社のベトナム人従業員たちが LINE にメッセージを残し、それに対応し、たまに送られてくるメールを開き、加奈子は鉢植えの花に水をやった。夕方の日が翳りかけたころ、窓越しの川沿いの向こうのビルの群れの果てに夕日が落ちていくが、「ねぇ、」加奈子が言い、「革命、どうなるのかな?」知ってた?唐辛子の「義人くんたちのやつ、あれ」花って、知ってた?「なくなっちゃうの?」加奈子に見せられた鉢植えに、さかさまになった無数の唐辛子が、その上向きの尻の先に小さな花を一つずつ咲かせていて、美しいというほどのもでもなかったが、私は声を立てて笑う。「中止じゃない?」確かに考えてみれば、「いやだ。」それは「何で?」当たり前の「絶対いやだ。だって、ね?」風景にすぎないのだし、「いやだよだって、そんなん」種を持つ唐辛子が「見たいじゃん。だって、」花を咲かさないわけがないのだが「やらせようよ、あいつらに。皇紀とか」しばらく笑い続ける私に、「見たい。」なに?「日本、滅びるとこ」ね?何、「何やってんの、あのオカマ」おかしいの?おかしい?ね、そんなに「滅ぼしちゃおうよ、日本。」言って加奈子が私に、だいじょうぶ?「まじ使えないよね、あいつら」言う。頭、「ホモだからね。多国籍ホモ。」変になっちゃった?ベトナムに帰ってきた Nhgĩa-義人は私と加奈子に空港で出迎えられ乍ら、悪びれもせずに握手を求め、それを交し合った後、事件を思い出したように加奈子に頭を下げた。Nhgĩa-義人、あるいは皇紀が汪を殺してから二週間経っていた。王の本社を扶美香が仕切り始めたのは誰もが知っていた。誰も、何も異存はなかった。誰にも、もはや Nhgĩa-義人は必要なかった。誰も、Nhgĩa-義人の帰国を留めなかった。瑞希とは連絡が取れないままだった。加奈子は汪を父親として認めるのか、認めないのか、まだ留保しっぱなしだったので、Nhgĩa-義人の肩をたたきながら、単純に再会を喜ぶだけだった。Nhgĩa-義人が彼女に怯えていることには気付いていた。彼にとっては何をしでかすか予測のできない危ない外国人という以外の何者でもなかった。無意味ににこにこし乍ら「皇紀は?」独りで待ちうけロビーに出てきた Nhgĩa-義人に私は尋ねたが、もうすぐ来ると思います、言って、彼は周囲を見回す以外に手立てもない。新しい SIM カードも入れておらず、WiFi につないでもいない皇紀とは連絡をつけようもなかった。三十分経っても出てこなかったとき、私たちは皇紀を見捨てた。危ない目に会っているはずもなかった。私たちは何かを、皇紀が企んでいるに違いない、怯えに近い予感に苛まれた。「大人になったね」と笑いかけた私の言葉を Nhgĩa-義人は解さなかった。「大きくなった」彼は思いあぐねるように私の「立派になった」いくつかの言葉に聞き耳を立てるが「かっこいい、ね?」やがて声を立てて笑ったが、「すみません、日本語下手になりました」言った Nhgĩa-義人は真っ白い肌を曝し、脱色された短髪と、その筋肉を研ぎ澄ました体躯を無理やり包んだいかにもな東アジアのリゾートファッションが、中国人の観光客か何かのように見た。彼の吹きかけている香水の名前を私は知らなかった。彼は自分をどう思っているのか知りたかった。ある意味に於いて、Nhgĩa-義人もまた汪を殺したのかもしれなかった。汪を刺殺することによって、彼の刀に本物の肉を斬らせ、血をすわせた Nhgĩa-義人は、ひょっとしたら初めて本物の男になった実感に倦んでいる気がした。例えば幼い思春期における女を知っている男とまだ知らない少年との間のどうしようもない距離が、私と彼との間に存在している気さえした。「柾也さんは元気でしたか?」Nhgĩa-義人の言葉にうなずいて、「あなたは?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「おかげさまです」笑い乍ら言った。加奈子はことの始末を聞こうともしなかった。刑事処理できない汪の死体は多摩川河川敷に埋めたと言った。三日後に瑞希が与えた情報だった。朝早くに起きて、と Nhgĩa-義人は言い、皆で穴を作ります。「桜桃会の?」みんなで。そして、大変でした。言った。日野市に桜桃会の道場があった。古いビルを一棟借りこんで、名義は加奈子のネイルサロンの法人名義だった。名目は研修所、河川敷での埋葬は彼らのいつもの手だった。数人の、彼らいわく「事故死」した桜桃会の会員たちの、皇紀たちによって制裁の名の下に刺殺された死体も、必ずその河川敷のどこかに埋められた。ャンさん、と呼ばれていた中国人学生を埋葬したとき、それは三年前の十月だったが、朝の五時におきて、彼らはャンを六人がかりで埋葬した。道場ビルの最上階の、もとビルオーナー居住階に泊まっていた私が無数の衣擦れの気配で眼を覚まし、まだ明けたばかりの朝の光の色彩をカーテンの隙間から確認し、リビングに行くと、時計は七時を回ったばかりだった。会員たちが交代でシャワーを浴びていて、入浴のすんだ会員は同じタオルで交代で濡れた髪をふき乍ら、私に笑いかけ、彼らは朝の挨拶をした。快活な朝だった。さがせます、さわすあせます、さがすあせますます、そして、ミャンマー人のカー・ティンが「騒がせる」と、言っていることに、数回目に気付いた。お騒がせしました、と、彼は私に、例えば皇紀から教わった礼儀作法をこなして見せたのだった。皇紀はもう、帰った、と言った。皇紀は近くのマンションに住んでいた。白いそのペンキの色彩がコンクリートの表面全部に塗装された低層の集合住宅だった。Nhgĩa-義人をベトナムに送ってきてから、皇紀は二日間姿を現そうとしなかった。「いるよ」加奈子の電話に、「だれ?」

「皇紀」さっき、私のマンションに普通に来た。久しぶりって、さ、ね?

 

ね?」声を潜めた加奈子の声を不審に思った。「そうなの。」皇紀に他意があるとは「まじ。」思えなかった。もしそうなら、すでに私は、あるいは加奈子は彼に殺されているに違いなかった。「今、どこ?」

「目の前。突っ立って、私のこと見てる」じゃなくって、と、私は言って、「お前、お前たち、今、どこなの?」なぜか不貞腐れていた Trang に見送られ乍らホテルを出て、まだ早い七時前の路面を歩く。周囲のカフェは客を蓄えて、暇つぶしの雑談の声が疎らに立つ。露店の Bánh Mì バン ミー の店が客をさばく。バイクに乗ったまま、客がそれを受け取る。川沿いに並んだビルの一つが、加奈子が泊まっているビルだった。見知ったフロントの青年は、スマホをいじったまま、最早私に挨拶さえしなかった。顔を少し起こした後、そのままソファーに寝転んで、ペットボトルの水を口をつけずに飲んだ。言葉はかけなかった。ロビーのテーブルの上に活けてある花は、あれは、なんという名前っただろう?

房のように、小さな白い花を、そのてっぺんから垂れ落とさせて。

嗅ぎ取れもしない、離れたそこの、植物に汚された水の匂いを嗅いだ。

五階に上がって、開けたドアの向こうに、窓際に座っていた皇紀は私を認めると立ち上がって、目礼をくれ、かすかに微笑んだが、やがて、「久しぶり、だね」言った私に何か言葉をくれるわけでもない。いつもの男装といえばそうなのかもしれなかった。長い髪は無造作に束ねられ、サムライ・スタイル。シャツとスウェットを どう?いつだったか、着ているのだが、皇紀はそう言った。それに女装と男装の区別はなかった。ただ、その布地の下の身体を、さらしがぐるぐる巻きにされているには違いなかった。華奢で小柄な少年のように見える。握手を差し出そうとした私に、「ベトナム風ですか?」手を取りさえせずに微笑んで言った皇紀は、そして、私は笑いかけるしかなかった。

 

自分でホテル、探して泊まっちゃったって。「おかげで、キャンセルよ。私が予約しといたほうは。」加奈子が伏目がちに言っていた。「近く?」私の背後で。

「すぐそこです」そう、と、私は逆光の中の皇紀を見るが、男装しているつもりも関わらず、明らかに皇紀は女だった。研ぎ澄ませるだけ研ぎ澄ましたような、鋭い、そして単なる美しい女。なんで?「がっかりしました」なにが?

 

「蘭陵王、知ってますか」それは雅楽の演目だったし、皇紀が龍笛を吹くことは知っていた。「林邑楽といって、もともとこのあたりの音楽だったはずなんですが、」うーん。ね、「その息吹さえないですね」歩いたの?と言った私に、ええ、皇紀はうなづくのだが、「やっぱり、あれは雅楽だから。日本にしかないものだし、」独り語散るように、「日本人にしか分かりませんね」皇紀は立ち上がって私の手を握る。パイプオルガンの音響から音の威圧感も尊厳も、オルガンという楽器らしい特質を全て取り除いて、音の鳴った空間性だけを削り残したような笙と篳篥の和音が、音響の背景と全面の水際を形成する。

音色は、耳の中に、鮮明な光の光沢を描き出す。

それら途切れ途切れの、複数のまま重なり合った音の反響する奥行きの中に、重なった竜笛の引き裂くようなような音が、極端に遅滞させられた旋律線を描く。

もとが抽象的で歌うふしをどこまでも拒絶した固さのある旋律線なので、極端に遅く吹奏されるそれは、時間そのものの経過を宙吊りにして停滞させたようにさえ感じる。

完全な静止。

音楽は聞こえているし、流れ去っていくのだが、それらが進行していたことは、後になってしか気付かない。大陸の小国に蘭陵王と呼ばれた王がいた。彼は、女性のように美しい。戦争に明け暮れ乍らも、彼が軍を指揮すると、兵の士気は一向に上がらない。王の姿は兵士たちに、残してきた女のことをばかり思い出させ、憧れされ、焦がさせて仕舞うからだ。そのために王は醜い化け物の仮面をかぶって戦場に赴く。いくつもの戦場を駆け抜け、恐れられたが、誰もその仮面の素顔をは見なかった。Trang の両親の葬儀には参加しなかった。Trang もそれを求めては居なかった。ひょっとしたら、Trang の周囲の人間たちは、日本人のせいだと思っているかもしれなかった。

少なくとも、中国人だったら、袋叩きに会っていたかも知れない。彼らが嫌悪する、あの。いずれにしても、外国から来た男が、結局は全てを破壊してしまった。Trang たちの土地問題の係争も、Danh は寧ろ彼らの貪欲さに無理やりこじつけて仕舞うが、私には彼らに心情的な正論がある気がしていた。独りの、彼らに挨拶もない日本人が少女を手篭めにし、全ての日常を破壊した後で、残った土地をも窃盗しようとしていた。ある意味において、それは否定できない事実だった。私と出会わなくとも Trang は Mỹ たちを殺して仕舞ったかもしれないが、彼女が彼らを殺したのは私と出会った後だった。その両親さえも、彼女が殺して仕舞ったのかもしれなかった。私は執拗にそれを疑った。ガソリンに火をつけたのは彼女ではなかったとしても、そこまで追い詰めることならできたはずだった。私に遅れて部屋に入ってきた Nhgĩa-義人は皇紀に挨拶し、「これから、どうするの?」言った私に皇紀は「仲間を集めますよ」答えた。「ベトナムで」

「桜桃会は?」解散させました、「発展的解消です。社長がなくなったからではありません。私たちは社長によって育てられましたが、彼が桜桃会であるわけではありません」

「みんな、どうするの?」

「国に帰ってもよし、日本に残ってもよし。仲間を集め、教育しろ、と」何のために、と言いかけた私より先に、「何で?」それを言ったのは加奈子だった。「革命のためですよ」

「なにそれ」まだ言ってんの?でも、と、お前の望みだろ?私は思い、ねぇ、鼻で笑おうとする加奈子は、あんた、まだ、そんな、皇紀をは見ない。寧ろ私を「頭、あんた」見た、「ねぇ、おかしくない?」それだけだったが、いや、と、「例え、」言いかけた皇紀に「おかしくない?」加奈子は「汪が言ってた世迷い言でしょ?ぜんぶ。あんたが汪を殺したんでしょ?その革命も桜桃会も、みんなあんたが殺したんじゃない?てか、殺そうとしたんじゃない?」死ななかったから、彼女の舌をはじくようなその「殺せなかったから、」音声を、「そんな事言ってんじゃないの?」誰もが聞いた。「こじつけ、で。」自分がまいた種を、…ね。無言で、皇紀はソファに座ったまま、窓際にもたれた加奈子を見上げていた。「あんたたちも汪が作った出来損ないでしょ?汪と一緒に死んだんじゃない?」違うの?

あなたは?皇紀が言った。あなたも、死んでることになりますよ?私に殺されたことになって仕舞います。微笑んで、「まず、天皇を殺す。」あなたも社長の娘でしょう?そして、「社長はそう考えてはいなかった。」あなたは「外国人だからでしょう。」寧ろ調教されたようなものでしょう、あの「残念だが、」中国人に?言って、「陛下ご一家には死んでもらう。」皇紀が笑った時、加奈子は「皇孫の未来のためです。」あんたほどじゃない。加奈子は「甘んじて受け入れられるでしょう。皇居に」舌打ちした。眼を向けようともせず、ただ「火を放つ。いかなる意味でも」わたしだけを見ていた。Nhgĩa-義人は「象徴など要らない。」おそらくは何を「自衛隊を再教育する。」皇紀が言っているのか「簡単ですよ。」理解できていないに違いなかった。皇紀が「インターネット上で、」私に目配せしたとき、なんで、と「言論などいくらでも操作できる。彼らに」なんで、俺のほう、「我々の倫理の側に付かせる。」見るの?私の言ったその「直接軍事行動、要するにクーデターによって」独り語散るような声を、加奈子は「日本政府を支配する。」不意に振り向いて「まずは全国民の戸籍を」他人だから。言った、あんたは「解消する。」他人だから。だから聞いて「新たに登録制とする。」欲しいんじゃない。赤の他人は「海外逃亡したければ好きにすればいい。同時に」守ってくれるかもしれないから。何も「国土=領土の全体を放棄する。」分かってないから、ね?「尖閣諸島?」姫、と、加奈子が「竹島?」言い終わらない内に「そんなものの国籍などどうでもよい。」皇紀は加奈子に言った、あなたは、「出雲大社のど真ん中の無限に」何をしたいんですか?「小さい経度と緯度の交錯点に」何が欲しいんですか?その「設定する。あらゆる行政は」加奈子が皇紀の声にかぶせて「ファンド化する。日本銀行さえも、」わざと立てた笑い声を、Nhgĩa-義人が「ね。」それに耳を澄ます。「紙幣を廃止し、」知っている、と、私は Nhgĩa-義人の表情に「電子化する。」思った。少なくとも、「政府そのものを崩壊させる。」皇紀の言うことを、彼はすべて「ファンドに登録した構成員の自由な議論の中で」理解した。そうに違いない「決定されればいい。」退屈さを彼は押し隠しているとしか「軍隊もね。ファンド化し、」思えなかった。「傭兵化してしまえばいい。」彼ら自身が議論のうえに果たした行為、「構成員たち自らが」皇紀は何も支配などしていないに違いない。「構成するいわば文字通り小さい株式会社=政府が運営すればいい。分かりますか?ネイションもガバメントも破綻させるわけですが、どう思いますか?日本で世界に先駆ける。多くの政府が破綻していくはずですよ。雪崩を打ったように、ね?」美しいですね。と、皇紀が、え?私の声に振り返る。あの、山。「ライダンハン問題と言うのを知っていますか?」向こうに見えますね、あれ。目を細めて、「いわゆるベトナム戦争、第二次インドシナ戦争ですね。当時、」皇紀は窓の向こう「大量の韓国兵たちがベトナムに」加奈子の体の脇に「来た。そして婦女を強姦し、」大陸としては「虐殺し、」必ずしも「大量の混血児を」大きくはない山の連なりが「現地に残した。」ね?

 

 

 

 

 

 

 

 


シュニトケ、その色彩 4

 

皇紀が Nhgĩa-義人の肩をたたいたが、彼は何を言われたのか分からない振りをしている。彼が、振りをしたことを皇紀は微笑んだ眼差しごしに確認している。視界に、空全面を覆いかけた部厚い雲の白さがあって、それが山の連なりの頂にぶち当たって斑の白の奔流は雪崩れを起こしていた。それは静止していて、寧ろ山が帯びたむごたらしい積雪の残骸のようにさえ見た。あるいは、ありえない大津波が襲い掛かった瞬間に、それらの全てが凍結し凝固し、飲み込もうとする破壊の振りかぶった瞬間ごと永遠に停止させられてしまったようにさえ。「なぜ、ベトナムに来たと思いますか?」加奈子はしゃべり続ける皇紀の唇を見ていた。「友人が居ます。」ねぇ、「韓国人の。かれも桜桃会の会員ではないが、」もういいよ。あんなたが、「我々に魅了されています。外国人は」気違いだってことだけ、みんな「魅了されますよ。」わかったから。「だれでも。」よっく、ね?「理解できませんから。」よおぉく、「自己の尊厳にかけて腹を切るなんてね。」わかるから。「彼らのことを非=工作員と呼んでいますが」なにも工作しているわけでもない。皇紀が笑う。実際、彼らが思っていることを、誰もがそうしているように、ネットにアップしているだけ、ですから。「でしょ?」皇紀の笑顔の先に「彼らが今、」見詰められた窓の外の「インターネットで何をしているか知っていますか?」雲の群れが白く「韓国で慰安婦問題にかこつけた反日運動を煽動し、」白濁した。「ベトナムでライダンハン問題にかこつけた反韓運動を煽動しようとしている。どの国にもあるでしょう。そういう、穢い過去がね。民族性に訴える、穢された過去がね。彼らは今、沖縄でも反米運動をやっている。基地問題に関してね。今のところこれだけ。あとは人員と言語能力の問題でただ、まだ、これから増えますよ。」支配したいんですか?私は言った。「あなたが。あなたたちが?」

新しい、あなたが作りだす新しい日本国を?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「まさか。政治家じゃない。支配力を求めるものは、みんな、家畜ですよ。誰かに飼われている家畜だから、支配したがるんです」あんたも、と、言った加奈子と目が合った。「家畜じゃない」

「汪の?」私は、言って、そして、同時のああ、と、その「社長ですか?」皇紀の声を聞く。皇紀は言った。「死んだんでしょう?」あんなたが、ね?加奈子が「殺したのは誰よ?」皇紀に、寧ろ笑いかけて、でも、ね。なんで、「あんたたちそんなに暇なの?」言ったが、「お金があるからです。」皇紀は悪びれずに「社長もそうでしょう?お金持ちか、食いっぱぐれないちっぽけでありきたりのやつらの惨めな狂気が、世界の知性の限界なんじゃないですか?」皇紀は声を立てて笑った。「いずれにしても、社長はなくなったので、殺したのが私でも義人でもだれでもいいんですが、もう、彼を、」息を付いた皇紀が私に微笑む。「彼の思い出を穢すことだけはやめたい。」利用することも、ね?

 

最早語らない口を無理やりこじ開けて見せるのも、なにも、かにもそう独り語散って、言葉を濁し、皇紀は肩をすくめて見せた。あいつも、と、まだ日本に居るときから、加奈子は皇紀をなじったものだった。「汪の女の癖に、自分だけは関係ない、みたいな顔してるの。」汪は、桜桃会はもともと汪が皇紀の本名、その桜子という女性名から取ったものだと言ったが、「いけない」汪は言った。

桜桃会のお茶会に参加した皇紀が女性として和装で現れた瞬間に、いけない、と。皇紀は、桜子は、まさに美しかった。顔をしかめて、そして舌打さえした加奈子に、「妬いてんの?」

「まさか」

「うそ」だって、と言う加奈子の声を聞く。「パパはさ、なんでもいいんだよ。甘えさせてくれればね。はべらせてくれればね。あいつって、」と、「女にほれたことなんかないよ」くれた目配せの「愛したことなんか、ない」意味を私は「誰も。」探り、「愛?って?」おまえは?

 

「お前は、どうなの?」言った私を「誰か、愛したことなんかあるの?」

「ない」振り向きもしない。「たぶん。あるけどね、」と、あるよ。

 

「ある。めっちゃ、ある。」いっぱい。加奈子は言った。麻里子のそばにいるとき、気が遠くなりそうな気がした。私は明らかに彼女を愛していたが、愛されることを承認してしまえば、膨大な時間だけが残されていた。

どれだけの時間を、私は浪費してしまうのだろう?愛している、という、自分自身信じても居ない薄っぺらい言葉で、そう言うしかない現実を生き抜くために、私たちはどれだけの時間を濫費し、無駄なスキンシップに時間を浪費し、時に性交、あの、単に動物的に過ぎない行為によって確認し、そして、その無意味な言葉をその、無意味さの故に、その、封印してしまったら、それは、私たちが二人でいる、その、意味もまた、決定的に喪失された。

逃げようがない袋小路が私たちを待っていた。

もう、経験したくはなかった。

 

慶介が、例えば発狂して、今私を殺してくれたなら、と、時に思った。そうすれば、もっと楽なのに、と、そして、聡明な慶介がそんなふしだらな行いには無縁であることなど知っていた。人間として、その、精神的存在として、明確にふしだらな、その。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そのふしだらさには寧ろ私のほうが近かった。私の手が血に染まるかも知れない実感が、時に私を恐怖させた。終わらせられるのは受け入れ獲る。しかし、終わらせることは受け入れられない。「嫌いに為った?」三年前、桜桃会の人間たちに強姦された次の日に、彼女の部屋に見舞った私に加奈子は言った。「ね?」

「誰を?」

「私を」むしろ、微笑んで、「なんか、穢されちゃって、もう、駄目って。もう、愛せないって。要するに、

痛々しく、包帯を腕と、首と、左目に眼帯を。

 

「嫌いに為ったかって?」そ、と、そそ。そ。そう。

唇の下に貼られた絆創膏が血の汚点をにじませた。そう、

「それ。」

加奈子は言って笑ったが、別に、と、呟く私に、知ってる。独り語散た。「でも、好きでもないよね?」

「お前は?」

「知ってるでしょ。」別に、と、加奈子は、「好きってわけじゃない」

 

「好きな人っていたの?」え?「今まで。」恥じらうような眼差しに「だれ?」私を捉え、「なに?」どんな?、て、ん。

「誰?」と言った私に、んー……、秘密。彼女は言った。見つめた。黒目が瞳孔を開いたまま、そして凝視しているのは知っていた。その向こうに彼女の視野が開け、その中に私は絡娶られ鮮明な像を描いているには違いないが、瞬きもせずに、その一切は気配さえ立たない。匂いさえしない、そのむこう側の現実が、すでに私には永遠に奪われて仕舞ったことを確認させられながらも、まばたく、その、例えば Trang の眼差しのどこかに、もう、そこに彼女がすでに居ないのではないかと、時に私は彼女の喪失を疑う。触れられないその頭部の中で、彼女がすでに破綻していたとしたら?さまざまな死に一気に触れた彼女がすでに、どうしようもない距離の向こうに隔たっていたのだとしたら Danh に冗談で言った、愛に言葉は必要ないから、と言う戯言が、逆巻いた暴力になって、私を攻め立てる。言葉の問題が包み隠して、彼女がもう人間の残骸として、そこに息遣っているだけであることに、気付かないでいるだけなのだとしたら? Danh も否定するとおりに、彼女はまだ壊れては居なかった。そんな事は知っていた。ただ、どうしようもなく不安なのだった。守ってやると言ったところで、守るとは一体、何を言うのだろう?触れることさえできないものを、守ることなどできるわけがなく、そして、にもかかわらず壊してしまうことはた易い。その理不尽さに、私は動揺する。「だいじょうぶ?」言えば、Trang は、耳の中に言葉を確認した後で、だいじょうぶ、と言った。だいじょうぷじぇっ 何が大丈夫で、なにが心配されているのか、私自身にも理解されていないそれらが彼女に理解できるはずもなかったが、Trang は私を明確に理解していた。

私の頬に両手でふれ、微笑をくれる。

まるで女にしか見えない皇紀に言った。「いつまでいるの?」加奈子は窓の向こうを見ていた。「ベトナムに、ですか?」

「いつまで」

「すぐ、帰りますよ。用は終わったので。非=工作員、ですね、彼ら、《近代アジア史研究会》っていうんですけどね。話は終わったし、日本にも、まだ、残党たちが、ね。たくさん待っていますから。」皇紀は東南アジア風の褐色の肌をしている。何かの混血なのかと疑うほどに、あざやかに陽に灼けているが、華奢に見える体躯は手足が長く、顔立ちは彫刻の造型を砥いで鋭利にしたほどに、無駄がなくシャープだった。色気さえ感じないときがある。或いは、皇紀自体がそれを自らに禁じていただけなのかも知れなかった。うしろでひっつめられた長く、量の多い髪の毛は、サムライのような、と言えばそうに違いなく、単なるポニーテールと言えばそれに他ならない。血色はよく、抽象的にすぎるかも知れないが、誰が見てもその美しさを否定できない。汪がお茶会を開いたときの皇紀は、私たちをぞっとさせた。彼は、あるいは、女装である限りにおいて、彼女は、美しかった。

桃色の更紗のかかった生地に、筆先を触れた程度の描線の散乱だけで花々の散華を暗示したその着付けは、たしかに皇紀の顔立ちを引き立たせて、美しくはあっても個性的ではないその相貌は目立ちすぎることなく寧ろ着付けの陰に隠れさえし乍ら、結局のところは、美しい着物を着た美しい女性がいる、ただ、それだけを、気品を持ってあらわした。見事だと思い、見事だというしかなかった。着付けを着るのでも、着付けに着られるのでもない、存在のごく自然なたたずまいを、ただ、無言のままに装うのだった。傍らに、汪のしかめっ面を見た。汪の不興を買いながら、しかし、彼も、直接それを咎めることはできなかった。有栖川公園に作った即席の茶席の朱の上で、皇紀は美しさの成り立ちとその限界をも示していた。崩壊寸前に至ることはあっても、崩壊さしめない立ち居振る舞いの自由な見えない制限を、皇紀自身が楽しんでいたに違いなかった。

晴れている、というしかないほどに晴れていた。午前の力を増し続ける光が、皇紀たちを直射した。茶席など設けるのに適した気候でも、時間でもなかった。尾上と言うやくざの誕生日のために汪が企画したものだった。全てがでたらめで破調の流儀の中に、皇紀はただ淡々と為し獲る作法を、やや破調に傾き乍ら丁寧にこなすだけだったが、その中に、美、と呼ばれるものの実在は正確な形姿を表そうとしては所詮現実の中に、澱んで消えうせて行った。皇紀はその明滅を、肌そのもので感じていたに違いなかった。

周囲にざわめきが立ち、尾上たちが汪と十年来の親友のように笑う。源薫を殺した尾上を、汪は誰よりも寵愛していた。ことあるごとに呼び出される尾上は汪に媚びた。彼らの話し声と笑い声は、皇紀を前にしたときに、あくまで他人事にすぎなかった。目を閉じて記憶に残そうとして、残像すら残せないほどに、壊れたところのない端整な皇紀は、そして、私が彼女を強姦した時の記憶が、それでも皇紀が壊してしまい獲る人間の独りにすぎないことを思い出させた。

 

皇紀を壊すのはあまりにもた易かった。そして、今、目の前の皇紀には、触れることさえ困難に思えた。「どう思いますか?」眼もあわせずに皇紀が言った。お茶をたてていた。私が捉えた皇紀の姿の向こうに、夏の葉々をいっぱいに茂らせ、それに自ら埋没してしまったような樹木の連続があった。お互いに無関係のそれらは、ついに無関係にそのそれぞれの空間を支配し、のた打ち回って地をめくりあげさえしている太い根の盛り上がりは、樹肌のような変質を見せ、最早、樹木の群れはお互いに入り混じって、つながりかけてさえいた。それらにとっては当たり前のゆっくりとした、数時間を一秒だと認識したような時間の、その膨大な流れが、それらの正確な文節をさえなし崩しに崩壊させて、にも拘らず、それらは、覚醒した静謐の中にだけ、ただ、在った。「どう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

え?、と言った私に、「どう?」再び言った皇紀のその言葉は、明らかに女性の口走ったものに他ならない。

眼舞いさえ覚えながら、眼差しが捕らえている美しい女が皇紀に違いないことを、改めて認識する。麻里子に似ている、と思った。それに気付いたとき、寧ろ、そんな事は既に知っていた。死にかけた、体毛を失った麻里子を見た瞬間に、いま、殺して仕舞おうかと思った。あの、あまりにも抽象的な麻里子。

人間の形姿をただ抽象化した、死にかけの生々しい麻里子。

病気なのだろうか?癌、その麻里子の身体的現象に過ぎないもの。それは、本当に?毎日数千個生産され続けるのが当たり前のがん細胞の異常発生に過ぎないもの。病気と、呼び獲るのだろうか?正体のわからない、最早運命とでも言わなければ納得ができないその、暴力的な現実の中で、麻里子が殺されてしまうならば、寧ろ私が自分でその命を破壊して仕舞いたかった。紅を塗った、皇紀の唇は微笑みもせずに、私の言葉を待つ。お茶が差し出され、「そう、ですね」そう、と、私は綺麗ですね、と言った。沈黙があって、茶は眼差しの下のほうで細やかに連なり重なった気泡を潰している。茶を手にする瞬間を逃がして仕舞った、と思った。すべては、最早、手遅れだった。「死ぬでしょうか?」え?、と、その私の声を、私たちは聞いた。いつか、と、皇紀は言い、樹木さえもが枯れてしまいます。「そうですね」言って、その瞬間、私は茶を手にした。すでに、時を逃がしてしまった緑の液体を。

桜桃会はもともと生花の団体だったと加奈子が言っていた。汪のお抱えだった源薫というベトナム人は毎日花を活け、彼の周囲の側近たちの、いわば重なり合ったでたらめで適当な私語の群れがやがては桜桃会になって行った。薫が死んだ命日は十二月二十四日だった。汪が殺したの、と、加奈子は言った。なんで?「権力争い」尾上じゃないの?

殺させたのよ。でも、ね。

薫さんが汪をあんなふうにしたのよ、と加奈子は言う。薫が日本に来た八十年代末期の日本の、戦後形成された右翼は、薫には理解しやすかった。大日本帝国の敗北した焦土の上に、その、やがて残留日本兵と呼ばれる残党たちは、彼らの国粋主義集団かあるいはソシアリズム集団を形成し、同じ頃、やがてベトナムと呼ばれることになる、旧大日本帝国旧殖民地の当時国籍不明の更地には、やがてベトナム人と呼ばれ、あるいはもとからそうだったと自覚を促されていた集団によっていくつもの国粋主義集団とソシアリズム集団が生まれていた。

サイゴンから中国にわたった薫にとって彼の故国はあるソシアリズム集団に征服された国にほかならなかった。ベトナムの正統国家を標榜したその、ある政府は、彼らの国体を不当にも維持していた。独立戦争を経なかった日本はまだ、逆説的に誰にも支配されては居なかった。日本政府を名乗る政府が永田町を占拠していた。かつ、アメリカ軍は残留し、基地を造り、同盟の名の下に軍事的にはアメリカの傘下にあった。かつ、非合法ソシアリズム集団も、非合法右翼集団もそれぞれに彼らの歴史と倫理を構築した。薫にとっては日本は、まだ《ベトナム》になってはいないその猶予にある入り組んだ更地に他ならなかった。《ベトナム》は彼を追放し、彼は《ベトナム》を棄て、そして、日本はまだ誰をも追放できていなかった。ベトナム語と中国語は、そして中国語と韓国語は明らかな類縁性のある家族言語に他ならないないが、日本語は中国語をとりこみながら、どこまでも孤立した言語にほかならず、奇妙な、日本人にしか理解できない文化が栄えた。鎖国がそれを補強していたが、戦争の後、それらの固有文化はすでに失われていて、誰もが反動主義者としてあえて日本人になろうとする限りにおいて、その文化の固有性をかろうじて継承しているにすぎなかった。源薫にとって、多くの日本生まれの人間たち同様、それらの固有文化は理解し難く、難解で、誰のものでもない限りにおいて、誰のものにでもなり得るた易ささえ持ち、隔絶したその共有の困難さは、彼に、容易に執拗な美しさを感じさせた。象徴たる天皇は、象徴にほかならず政治的には無効に過ぎないが故に、その限りにおいて、《右翼》を実体化させた。天皇が政治的存在であるならば、政治はあくまでも彼の営為にほかならず、それは彼が組織した政府にすぎないが、彼に政治性が否定された以上、彼に象徴させれた国民は《右翼》として政治集団あるいは言論集団にならざるを獲ない。象徴天皇制において初めて《右翼》は可能になる。彼らは大日本帝国が壊滅してしまったその故国なき移民に他ならない限りにおいて、戦後の日本国にたいしてそもそもが外国人であって、その事情は源薫にとっても、なんら変わりはない。日本における移民に他ならない彼らは《右翼》として、彼らの革命を求め、準備をした。「人を殺したことがありますか?」汪が言った。茶を飲んだ後、樹木の下で休み、今、離れた向こうの視線の先で、皇紀は尾上たちに茶を振舞っていた。「いえ、」まだ、と言いかけて、何を言わせたいんですか?、と、それは口にされることなく喉の奥にだけ反覆される。ないの?うなずく私を見て、「戦争なら、いっぱい殺したよ。ベトナムでね。生き残ってるって言うことは、そう言うこと。勝っても負けてもね、生き残ってるって言うことは、殺したって言うこと。でも、個人で、ね。わたしは一人だけ殺した。聞かなかった?」

「誰に?」

「加奈子さんに、」と言って、汪は私の腰を抱き、彼女はなんでも知ってるから、ね。笑う。なんにでも、よせばいいのに、首だけ突っ込んで、ね?、で、何にもしないの。「でしょう?」笑う汪の切れ長の細い眼はいつも、その瞬間に潰れてしまうので、彼が本当に笑っているのかどうか、結局は誰にも分からない。「薫さんを殺したことがあります。十年位前。フィリピンで。覚醒剤の製造のね、拠点つくったり、フィリピン人連れてきたり、忙しかったからね。由紀乃さんの旦那さんも一緒よ。逃げちゃったよ。私が奪ったんじゃないよ。みんな誤解する。私は彼女、守ったよ。ね?震えたよ。迷ったよ。何回も、考え直したよ。でも、ね、自分が正しかったよ。セブ島の山の中。綺麗だったね。日本より綺麗だと思う。もっと、ごちゃごちゃしててね。」

「何があったんですか?」

「何かあってからするのは素人だよ。由紀乃さんたちを守るためだよ。彼女たちには普通の、幸せな女の人になってもらいたかったから。そうしたかったからよ。」夏の日差しにまばたく。有栖川公園の、所詮人工の自然樹木の濫立の中に、思い出したように、私に再び聞き出され始めた蝉の羽音の木魂しが茂った樹木のどこからか聞こえていて、確かに、これらの音響はすでに執拗に私に聞かれ続けていたのだった。私はしずかに息を吐いて、いまさらのように心を落ち着かせようとし乍ら、しずかですね、そう言って掻霧之(かききらし)

雨零夜乎(あめのふるよを)

杜鵑(ほととぎす)

鳴而去成(なきてゆくなり)

哀怜其鳥(あはれそのとり)

 

(巻九 詠杜鵑一首 反歌)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.02.20-28

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付

 

シュニトケ、その色彩 中 一帖


http://p.booklog.jp/book/122573


著者 : Seno Le Ma
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/senolemasaki0923/profile
 
 
ホームページ
https://senolema.amebaownd.com/


感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/122573



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト

 


この本の内容は以上です。


読者登録

Seno Le Maさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について