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目次

 

 宇宙を味わう

 

 

  1.知的合理の世界から味わう世界へ1

 

  2.知的合理の世界から味わう世界へ2

 

  3.透明なるものを味わう1

 

  4.透明なるものを味わう2

 

 

  ナーラーヤン内垣について

 


1.知的合理の世界から味わう世界へ1

 ー「味わう」という文字を黒板に書かれてー

 

 良い言葉ですね。味わうということは良い言葉です。ホロっとしますね。我々は知的な世界に入ると、喧嘩をしたり色々な事をします。また自分が堅い人間になります。そういう知的な人間になってはいけません。しかし人間はだんだん知的になって、人とぶつかるようになりますね。知的ではいけません。味わうという言葉は非常にいい言葉です。味がある言葉です。では、自分たちがこの世に生まれて、宇宙を味わっておるだろうかと、自分に問うた時、あんまり味わっていないかもしれませんね。

 

 死が近づいて来るし、いろんな事を学ぶ必要がある。自分を充実さす必要があるという事で、非常に忙しくなってきます。また若い時は、もっともっといろんな事を知りたいという気持ちや、もっと修養をつんで霊感を得てと、そういう事も思うでしょう。しかし、それは一つの焦りでしょうね。私も若い時分は焦ったのでしょう。一生懸命修養したり、いろんな事を考えましたが、インドのラーマクリシュナの教えに出会って、「味わう」という事を教わりました。味わうという事は大事なことですね。

 

 話は全然違うところへ行きます。1975年頃、私はインドの本当の田舎に居りました。電気も水道もトイレもない所です。そこはインドの賎民の部落で、我々はそこで奉仕活動をしていたのです。その時に私の住んでいた所は3エーカーの広さだったのですが、そこにサーバントの夫婦が居りました。そのサーバントの夫婦はよく働きます。そして、あちらの賎民階級の男の人は、暑いから昼寝をしますけれど、女の人は暑いのに働き通しに働きます。

 

 これは私の弟子の一人がそこで体験した話ですが、私がそこを去って、日本に帰った後の話です。その青年が私の後アジメールに居りました。その青年の話によりますと、そのサーバントの部屋のすぐ隣に牛糞を積んで入れてある建物があって、そこをフッと見たら、そこが光っているのです。そこは、今言ったように牛糞の置き場で、我々はそこに入るのは遠慮するような所です。インドの人は、牛糞を20センチぐらいの丸さで平かにして干して燃料にしたりします。それで牛糞を大事に置いてあるのです。その小屋が光っていたというのです。それを見て、その青年がびっくりしたというのです。

 

貧しい人達です。働き通しに働いて、食べる物も少ししか食べていない。服装も本当に貧しい服装をしている。その賎民と言われるサーバーントの奥さんが光っていたというのです。これはすばらしい話ですね。我々宗教家は立派になろうと思って、修養したり、神様を拝んだり、いろんな事をして立派になろう、光ろうとしているのですが、下を向いて働き通しに働いているサーバントの奥さん、その人が光っていたという素晴らしい話を聞かされて震え上がりました。

 

 我々は得てして知的な世界に入って行きます。しかし知的な世界に入って行くと、人は失敗します。賢くなってアホになります。アホになって味わう世界を忘れてしまいます。土と共に生きる元々の姿、元々の心を忘れてしまうのです。知的な世界に行くとアホになって、味わう事を忘れてしまう。喧嘩ばかりして、自分はこんなに偉くなった、自分はこんな事を知ったという事ばかりで終わってしまいます。味わうという事を忘れてしまう。

 

 さて、その賎民部落の体験ですが、私も素晴らしい体験をしているのです。そしてそれは、私の人生で最も貴重な体験だと言えるでしょう。それについてお話をしていきましょう。ある日私はそのサーバントの子供に連れて行かれて、サーバントの持っている麦畑、広い広い麦畑に行きました。そこにはマンゴーの木が一本立っていました。その木陰にサーバントの小さな子供と二人して腰をおろしました。金色にうねっている麦畑の中で一時間ほどいたでしょうか。見渡す限りの金色の穂が風に揺れています。人一人いない。そうしますと、どうしたことか私の右横にインドのクリシュナ神が近づいてくるのが感じられました。不思議ですね。人間の形をした神様と違うのですけれど、近づいて来るのが分かるのです。見なかったですけれど、見る必要もなかった。

 

 見ても見れないという事を知っています。形と違うのですから。そのクリシュナという神様が近づいて来るのが分かる。感じるだけで十分でした。素晴らしかったですね。やはりクリシュナ神というのは物語だけの神様と違って、本当にいるんだなぁと思いました。このホールに壁画がありますが、青いのがクリシュナ神です。そのクリシュナ神がどうしてそういう所に、私の近くに現れたのでしょうか。日本に帰って色々考えたのですが、やはり波動というものでしょうか。清らかな波動、黄金色のその波打つ波動、そういうものが神様が現れてこれる条件だったのでしょうね。

 

 これも一つの味わいだと思います。宗教的にワーワー大声を上げて拝む。ご利益が欲しいとか、神通力が欲しいとか思って拝む。そういうような事と違って、何も求めず、ただそこに坐ってある…。その零の状態、零の波動ー―その静けさと黄金の麦穂のゆらぎ。そこにある味わいの世界にどっぷり入り込んでいた。その味わいの中から神が姿を現してくれたのだと思います。知識でなく味わう人に幸(さち)が、天上の幸が向こうからやって来るのでしょうねぇ。そういうような事で静かな中に自分の身を置くという事が大事だと思います。

 

 もう一つサーバントの話と引っかけますと、ああなりたいとか、こうなりたいとかいう名誉心を持たない方がいいと思いますね。我々は生きている間は、いろんなものを追いかけて焦るのですけれども、仕事は仕事として、一生懸命やる必要がありますけれども、心の中にはいつも無欲でその仕事に打ち込むという透明な姿勢が必要です。仕事がいくら辛くとも、それに打ち込むという透明さ、そこに神が現れてきます。神は無欲で、零で、静かで、清らかなバイブレーションをただよわす人の所に現れるのでしょうね。


2.知的合理の世界から味わう世界へ2

 リグ・ベーダというインドの古い詩集の中に、こういう文章があります。「牛が居る。羊が居る。その広い広い囲いのない広さ。」という文章があります。我々は知的に生きておりますと、自分を囲いの中に入れるのですね。知という囲いの中に自分を入れたらもう終わりです、リグ・ベーダという詩の中に、広い広さが必要だと書いています。広さというのは、どういう事かというと囲いがないという事です。麦の畑も広い囲いのない広さだったのです。自分たちにとっては広さというのが必要です。広さというと宇宙でしょうね。自分たちは、宇宙を味わうという事を忘れているのです。いろんな事の味は知っているのだけれども、宇宙を味わうというその広さの味わいはあまり知っていないように思います。それは、自分の地位とか名誉とかそういう事を思っているから、そういうものの中に捕まってしまって、宇宙を味わうという機会を失うのでしょう。そういう機会を失うと人は失敗に終わります。そして死んで行きます。

 

 そのリグ・ヴェーダにまたこういう文章があります。「光が斜めに走った。そこから宇宙が創造された。」すばらしい言葉です。光が斜めに走ったのですね。――がっちりした所からは宇宙が生まれないのです。斜めというとどういう事かというと堅さが崩れていますね。がっちりしたものはもう動かない。そしてそれで終わってしまいます。しかし、尾ッポとかヒレとかいうものを持っているお魚は動きますね。お城というのはがっちりしていますから、それで終わってしまいます。しかし、翼とか尾ッポとかいう柔らかいものを持っていると泳いでいけます。これで、宇宙を泳ぐわけですね。だから斜めというのは、非常に我々にとっては大切なのです。宇宙を味わおうと思ったら、心が斜めでないといけないのです。日本人の昔流の人はお城みたいに歩きます。兵隊とか武人のなごりかも知れません。堅いですね。そんな歩き方しとったらいかんですね。柔らかく柔らかく歩かないとね。こんな一本の線ですよ。斜めに伸びたただの一本の線、この一本の線が大切なのです。面白いですね。ただのこんな一本の線が、自分たちを生かし、かつ方向を示しているのです。不思議ですね。

 

 私が「宇宙は幾何学である。」とこう言っています。結局、宇宙というのは融通のきく構図で出来上がっている。自分たちもそういう神話的な構図で出来上がっているという事を忘れないで下さい。どんな構図で出来上がっているかというと、ただのこんな斜めというはすかいの線が一本あるだけで、自分たちが出来上がっているのですね。これだけで宇宙を味わえるのです。斜めの傾きの系があるから、人も宇宙も動き生きておれるのです。味わいも斜めの線から出てきます。竹は積雪にも折れないでしょう。そんな竹の中からこそ、かぐや姫が現れて来るのです。かぐや姫は鉄管の中から現れて来ません。だから堅い人間でなく、味のある人間にならねばなりません。それには味わう人間である事です。即ち神話という芸術的な味わいを持つことです。

 

 私がある時、この広い広い空間というものを考えました。その広い空間を自分の目の前に置いたのです。空間というものはどういうものかというと、空間の中に自分たちは入っていけますね。空間というのは、空っぽなのです。空っぽというとおかしいですが、堅いお城のようなものとは違うのです。空間というのは柔らかいものであり、かつ開かれたものでもあります。その空間の中に何でも入っていけるのです。そういいう空間を目の前に考えたのです。そうした時に、私は自分の家の表をほうきを持って掃いていたのですが、その開かれてある空間を思った時に、不意にほうきを持った手が上にあがり踊れてしまったのです。その空間の中へサーッと入っていったのです。踊ろうと思っていなかった。何もそんなことを考えていなかったのに、開かれた空間を目の前に置いただけで、サーッとほうきを持ったまま踊ってしまった。

 

 この踊りも一つの斜めの系です。お城みたいにカンカチだったら、踊っているのと違います。人間は柔らかくなること、斜めになること、広さの中にいること、そうすると踊れてきます。心が知からそれて柔らかくなると踊れてきます。こういう開かれた斜めのただの一本の線、それが自分だと思ったらいいですね。不思議ですね。これは宇宙を表しているし、自分そのものを表しています。こんなただの一本の線が自分を表し、宇宙を表しているのです。「光が斜めに走った。そこから宇宙が創造された。」という太古の言葉、すごいですね。この斜めの系こそが詩であり、神話なのです。

 

 話はいっぺんに飛びましたけれど、開かれた系の世界、そこに芸術と科学が統合する歌と踊りの世界があります。即ち芸術も科学も知識の世界でなく、味わう世界、感じる世界です。物理学や幾何学や数学は知的世界かのように見えますが、その学問を突き抜けると味わう世界にぶつかります。学問が合理的な知識にとどまっていると、とんでもない人間と社会をつくってしまいます。神話学はあらゆる学問を統合したところにあります。社会と人間を立てなおす中心的な科学なのです。


3.透明なるものを味わう1

 いつもする話ですが、アメリカのアシュラムにいる光司君(ジム)という男の子が、3才か4才の時にこう言いました。「僕はワニの眼の中から生まれた。」これは面白い有名な言葉です。「僕はワニの眼の中から生まれた。」と言ってキャッキャッと笑うのです。我々は人間というものは親から生まれたという事はよく知っているのです。その子供も母親がおりますから、親から生まれたぐらいの事は知っています。ところがその子は突然、「僕はワニの眼の中から生まれた。」こんなすばらしい言葉を言いだしたのです。

 

 どうしてそういう事を言い始めたのかを私はよく考えてみました。光司君は水族館に行くのが好きで、よく水族館に連れて行ったのです。そうするとそこにワニがおります。ワニは水族館の水槽の中に入れられていますから平和に居ります。また居眠っているのも居ります。そのワニをずーっと見ておりますと、目を静かにつむっていたワニが眼を静かに開くことがあります。それをその3才か4才の光司君が見て居ったのですね。そして後日、「僕はワニの眼の中から生まれた。」と言ったのです。その静けさと平安さが開かれてくる。そこに自分の故郷を見つけたのです。すごいじゃないですか。ワニが静かに眠っていて目をつむっている。そして目を開く。その静かで透明なそこから僕は生まれたというのです。すごいですね。

 

 それから10年ほどたったある日、その光司君が言いました。私がいつも詩を書いているから、光司君が詩を書きたいと言うのです。そして書いたのが次のような詩です。「空一杯に星がある。それが皆ワニの眼に見える。それをじっと深く見ていると自分の魂が見える。」というのでした。この言葉もまたすごいです。よく味わって欲しいですね。空一杯に星が光って見える。それが皆ワニの眼に見える。それを深くのぞいておると自分の魂が見える。あの子が自分の魂を見たのです。自分の魂は神さんとか仏さんとかいう、そんなものではなかったのです。自分の魂はあの天に輝いている星。その星がワニの眼に見える。それを深く見て居ると自分の魂が見えてきた。すごいですね。静かで透明でしょう。フレッシュですね。そこに科学の行き着く所があるのです。

 

 魂の世界というのは詩の世界です。花が咲いているけれども、花を美しいと見ないで欲しい。花を美しいと見た時は、自分は感覚的な世界に入っていて、そこで停まってしまいます。感覚的な世界に停まったらダメです。もっと幾何学的にとらえる意識訓練をして下さい。星もそのきらめきが透明だったでしょう。黄金の麦穂が揺れておる。それも透明だったのです。透明な斜めの線の交差だったのですね。ワニの眼が静かに開く、その開かれた世界。そこに魂の故郷を見たのでしょう。透明という幾何学的な意識を自分の中から甦らせて欲しいのです。神という言葉をなかば忘れても良い、透明という言葉を覚えて欲しいですね。するとそこに本当の神が現れてきます。言葉での神でなしに本当の神、即ち透明という神が現れてきます。だから自分たちは神聖とか神様とかいう世界には入らずに、透明という世界に入っていきたいですね。透明を味わう。何という良い言葉でしょう。人間以前のもの、神以前のものを見すえて下さい。

 

  いいですか。このただの斜めの線一本、そこに宇宙創造の原点がある事を。こんな線一本なのですが、透明と踊り出るという意味が入っていて、宇宙の神秘を見ることが出来ます。ものすごいですね。こんな線一本が自分のすべてなのです。詩と透明は同じような関係にあります。だから自分というものを詩や神話というもので仕立て上げていかないといけない。


4.透明なるものを味わう2

 今日は、自分の魂というのは詩と神話であるという事だけを頭にたたき込んでいって欲しい。18世紀末にドイツにクリスチャン・ゴッドロープ・ハイネという人がいました。彼は有名なゲッチンンゲン大学の図書館の館長でした。その人が神話の研究を盛んにやっていたのです。そしてその人が寝ころんでいつも本を読んでいたようですが、その人が野原で本を読んでいると、周りに100人ほど人が集まったそうです。その彼から何か聞こうというのと違うのです。その人が寝ころんで本を読んでいるだけで、透明なもの、詩というもの、神話というものを感じたというのです。我々もそういう人間になりたいですね。

 

 一本の斜めの線を持つこと、味わうこと、透明なるものを味わうことです。いつも言う話ですが、ウシャスの話がありますね。インドのリグ・ベーダという詩の中に、ウシャスという詩があります。ウシャスというのは女の神様の名前です。朝、夜が明ける時に、東の空が赤くなりますね。それを女の神様と詩人は歌ったわけです。そしてその暁光の女神ウシャスが太陽を引っ張って来るというのです。我々の知的な考えでは、太陽が上がって来るから東の空が赤くなるのですね。しかしそれは知的で詩的ではないのです。ところが詩の世界というのは、そういう合理的な世界を超えてしまっている。超えてしまって、暁光の女神ウシャスが太陽を引っ張って来るのだと、反対になってくるのです。それは非常に美しいです。ウシャス女神が太陽を引っ張って来る、ものすごく素晴らしい表現です。きれいな朝焼けのウシャスが太陽を引き出して来る。「ウシャスは、全身をあらわにして、太陽の光もて化粧せり。」透明ですね。本当に味わえますね。

 

 もう一つ、詩について話をします。リグ・ベーダの中にアグニという詩があります。アグニというのは、火の神の名前ですね。その翻訳の中に「アグニが故郷なる水の中に帰った。」という文章があって、私はびっくりしました。火というものは、水と反対のものでしょう。水は火を消すもの、とそう思い込んでいますね。知識の世界では、水というのは火を消すものなのです。ところが、その詩はこう歌っています。「アグニは故郷なる水の中に帰った。」すばらしいですね。詩人は、そんな表現が出来るのです。味わいのある言葉ですね。人間は詩人なのです。詩人は宇宙の真理を人間の現前に建設するものです。詩作とは一つの科学なのです。

 

 味わう世界というのは、合理的な知識の世界と違いますね。合理的な知識の世界は、味わいが薄いです。しかし詩の世界というのは、怖ろしいほど味わいがあります。こういう事をよく勉強して欲しいのです。水と火というものは、反対で離反で全然違うもののように思うのですが、「火は故郷なる水の中に帰った」すばらしいですね。そういう心の世界というのですか、そういう震え上がるような綺麗な世界というのがあるのです。こんな世界へ帰って行きたいですね。こんな世界へ自分たちは帰って行かないといけない。魂というものは、そういうすばらしい世界へ帰って行かないといけないのです。

 

 アメリカで私の所へ、高校の数学の先生とか科学の先生が来られるのですが、その数学の先生に「羽の生えているリンゴを考えよ、神話とはそういうものだ。」と言って教えたことがあります。「難しい事を考えずにいつもこれだけを考えていなさい。」と言いました。その人は、頭のものすごい良い数学の先生です。その人がこの事ばかりを考えていた。そうしたら私の言わんとする事がわかって来たようです。表面的な合理の世界を超えた、奥なる非合理の詩と神話の世界を理解し始めたのですね。

 

 あのアジメールのサーバントの奥さんを見て下さい。学校も行っていないし、働き通しに働いている。牛の糞を頭に乗せて運び、牛の糞をぺちゃんこにして燃料にする。そんな無学の人が光ったのです。ラーマクリシュナのお弟子さんのヴィヴェーカーナンダという賢い賢い人が言いました。「自分が今まで本で知った知識、この頭の中に入っている知識を全部海の中に投げ捨てたい。」と言いました。一旦入ったものは投げ捨てるのは難しい。しかし、そこを通り抜けて真実な世界に旅しましょう。スリー・ラーマクリシュナの一番大切な教えは、やはり、この「味わえ」と言うことでした。

 

 時代はまさに21世紀の明らかな時代の開幕を迎えようとしています。知的合理主義の雲は約一万年程、人類の上におおいかぶさっていましたが、その黒く分厚い雲の隙間を破って、光がこの地上を照らし始めました。社会と人間の秩序を維持せんがために。



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