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流転その一

   
 盛岡少年刑務所の赤い煉瓦造りの塀を左手に見ながら前九年町の街並みを通り過ぎるようにして国鉄の踏切を渡ると、やがてT字路に突きあたる。岩手山は建物の陰に隠れてしまった。そこを右手東へと向かって折れると、道路の北側は中学校の校舎でその校舎の向う隣には森永乳業の工場があった。その工場の広場には乳牛の形の看板が二つ三つ立っているのが見えた。道路を挟んで工場の向かいから道路が南へと向かって延びていて、その手前にパンなどを売る小さな店があった。
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 その店に入って牛乳を買って飲んでいると、斜め向いの中学校の生徒らしい制服姿の女の子3人が賑やかに入ってきて、「おばさん、これ」「私はこれね」とキャーキャー騒ぎながら注文した品の代金を渡すと、あっという間に笑い転げながら校門に向かって走り去って行ってしまった。
 急に襲ってきた饗宴の後の虚しさのような静けさに包まれながら、校門へと走り去る女子学生の後姿をぼんやりと見つめていた。が、その制服の襟元にハッと視線が釘付けになった。仙台での私は転校生だったが、彼女も転校生で、前に通っていた中学校の制服を着ていた。女子生徒の後姿に見る襟元がその制服に似ていたのだ。
 うかつにも、彼女がどこか北国からの転校生だということは漠然と覚えていたのだが、どの県からかはっきりとした記憶がなかった。それまでは盛岡からとの意識は全くなかったのだが、私の視線を釘付けにした走り去る後姿を見ていると「まさか」という思いが頭を掠め、「もしも、彼女がこの目の前の中学からの転校生であったならば」そんな思いもよらぬ考えが頭の中をめまぐるしく駆け巡り始めていた。
 今歩いてきた町並みのどこかに以前彼女が住んでいたのかもしれない。しかも今は春休みなのだ。前に住んでいたこの地に遊びに来ていてもおかしくはない。この盛岡の地にしかもほど近くに彼女がいるかもしれない。
 めくるめく再会への思いに、その淡い期待はさらなる期待を呼び、藁をもすがるその願いはやがて確信へと変って行く。もはや目の前の中学校は以前彼女が通っていた学校であるに違いないと一人勝手にそう思い込むにいたっていた。
 自然に心は南に向かっていた。それは仙台の方向であり、人のたくさん集まる盛岡の繁華街の方向でもあった。居ても立ってもいられないその焦燥感に、彼女と出会うことだけを願ってこの盛岡の街を歩き回ること以外考えることができなくなっていた。
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 店を出て、店の横から南へと折れる角を曲がると、道はゆるやかな長い下り坂になっていて、遥か先まで見渡せた。先ず国鉄の踏切が見えた。その向こうに「氏家整形外科」という看板と建物があった。道の両側の畑の中に数件の家がぽつんぽつんと建っていた。人影はなく、車も走っていなかった。早春の陽射しに明るく照らされた道を雲の陰が覆っては流れ、また明るく照らし出されては流れていく。見知らぬ街の中、陽射しを映し返す道や畑や家の明るさがこんなにも寂しいものなのかと、それはまるで無意識の奥底に隠れた不安が心に落とす影(かげ)のようだった。

 

   
 前方にこんもりとした森があった。近づくと、南北に走る国道沿いの東側を南に向かって細長い鬱蒼とした森が続いている。このあたり一帯は高台となっており、森の中に入るとこの南北に細長い森の東側は断崖で、眼下20メートルほど下を北上川が流れていた。対岸は岩手大学のキャンパスを始めとした緑豊かな街並みが、北上の川岸の深い緑に調和するように、眼前に拡がっていた。
 しばらく森の中をたむろしていたが、みると、森の中ほどには小さな社(やしろ)が祀られていて、国道沿いには「安倍館(あべだて)遺跡」という標識がある。説明板によると、「この安倍館は古代平安時代の前九年の役で源・清原連合軍との最終決戦を安倍氏最後の拠点である厨川(くりやがわ)柵で戦い、激戦の末滅亡した安倍氏四代目安倍貞任(さだとう)の居城跡」とのことで、「厨川(くりやがわ)柵跡(さくし)と伝えられている」とあった。
 厨川は現在の雫石川(しずくいしがわ)の古い呼び名だ。史書によれば、厨川が西から北上川に流れ込む地点の北側に、北上川を北上して攻めてくる国府軍から安倍氏最後の拠点を防塞するための城柵(じようさく)として、この厨川柵は作られたとのことだ。この史跡一帯は安倍館町と表示されていて、私の今住む町は前九年町(ぜんくねんちょう)という。さっき歩きながら左手に見た学校の名は厨川中学で、この厨川柵の厨川と同じ名前だった。まさに歴史が息づく街並みだ。
 いつしか私の意識は時代を逆行し、厨川柵跡と伝えられているこの史跡の眼下を流れる北上川を眺めながら、この柵を巡って起こされた古代の戦いに思いを馳せていた。

 

   
 現在の岩手・秋田両県以北の地は大和朝廷の権力が及ばない蝦夷(えみし)という律令体制外の領域だった。801年征夷大将軍坂上田村麻呂による大遠征後、蝦夷は大和朝廷に帰順し、主として陸奥と出羽の両国に編入されていった。以降、蝦夷の居留する地域にも平和が訪れ、陸奥の蝦夷は安倍氏を棟梁として、出羽の蝦夷は清原氏を棟梁として統一の道を歩み始める。
 蝦夷のうち大和朝廷の支配に属するようになったものを俘囚と呼ぶ。安倍氏は陸奥蝦夷の俘囚の長として大和朝廷の体制外で北上川流域を支配していたが、大和朝廷の「夷を持って夷を征する」という中国流の陸奥の運営策により、その支配体制のまま奥六郡(おくろくぐん)の正式の郡司として大和朝廷の体制に組み込まれた。
 特に三代目の頼時(よりとき)は、多賀城(たがじょう)と胆沢城(いさわじょう)にそれぞれ大和朝廷の国府・鎮守府があるにもかかわらず、本拠の平泉以外にも北上川の要害の地に独自の城柵を作って一族の者を配した。この厨川柵もそのうちの一つで、本拠地衣川とともに安倍氏の二大拠点だった。
 安倍氏の本拠地平泉衣川は奥六群の入り口で、古来より歌枕で有名なかの衣が関(ころもがせき)は蝦夷地(えぞち)への関門だった。この衣川で安倍氏が奥六郡の事実上の支配者となった初代忠頼の時代から二代忠良(ただよし)を経て、前九年の役で滅んだ三代頼時・四代貞任親子の代までの約二百年の間、政治・文化の面で、後の奥州藤原氏平泉文化の先駆的役割を果たしている。
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 奧六群を直接支配していた安倍氏の勢力は強大で、特に三代頼時の代では国府への税や役務を怠り、さながら独立国の様相を呈してきていた。その勢力がいよいよ衣川の南側まで及ぶに至り、1051年遂に国府は安倍氏討伐の軍を上げた。前九年の役の勃発である。この動乱に前後して陸奥守に任ぜられた源氏の棟梁頼義(よりよし)が、この戦乱を鎮圧して東北の武士団を支配しようとする意図を胸に秘めながら陸奥に下向してきた。当初は強大な安倍軍の前に為す術もなく大敗を喫するが、出羽蝦夷の俘囚の長・清原氏の援護を得て、1062年9月、安倍氏を厨川柵に滅ぼした。
 東北での源氏覇権を目論んだ頼義は、長子義家が出羽の守に、自身は階位が上がって伊予の守に任ぜられたものの、武家の棟梁が任ぜられるべき鎮守府将軍の座を清原氏に占められ、志半ば失意の中で陸奥を去った。一方の清原氏は、本拠地の出羽に加えて安倍氏の旧領奥六郡をも支配するに至り、奥羽の新たな覇者となった。
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 時は流れて20年、源氏の頼義は没し、八幡太郎と尊称された伝説的武将義家が源氏の棟梁の地位について陸奥の守に任ぜられた。やがて、1086年、鎮守府将軍清原真衡(まさひら)の内訌(ないこう)に乗じ、源義家は父頼義が意図して果たせなかった源氏の奥州での覇権を目論んで、世に言う後三年の役が起こされることとなる。後三年の役の結果は、奥羽の新しい覇者、藤原清衡(きよひら)の誕生であった。
 清衡は前九年の役で滅んだ安倍頼時の孫だった。前九年の役で頼時の娘である清衡の母が敵方の勝者清原武則(たけのり)の子武貞(たけさだ)に再嫁したため、本来祖父安倍頼時や父藤原経清(つねきよ)とともに死すべき運命にあった当時七歳の清衡は生き長らえた。以降清原清衡として育ち、一族でも有力な武将に成長していく。
 この役で清原氏は実質的に滅び、源義家は、朝廷よりこの役が私戦と判断され、役後一ヶ月で陸奥の守を解任されて陸奥を去った。戦役の結果、安倍・清原両氏を継いで奥羽に跨る奥州の覇権を握った清衡は父方の藤原性を名乗り、以降、清衡から基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)にいたる奥州藤原氏平泉文化を開花させる礎(いしずえ)となる。
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 六四五年の大化の改新で律令体制として確立された古代の王朝が一二世紀の動乱を通じて崩壊していく変革の時代の胎動として、この辺境の北の地より戦乱の狼煙が上がったのである。藤原氏の奥州での覇権はまさにこの胎動が生んだものだった。この辺境からの新時代の予兆のごとき響きが動乱として平安王朝の中枢にまで波及することによって古代平安貴族体制は瓦解した。保元・平治の乱から源平の戦いを経て、新時代の覇者として武士が新しい体制をうち立てるにいたる。
 辺境の胎動が平安王朝の中心京都にまで及んで起こされた最初の動乱が保元の乱だった。崇徳(すとく)上皇と鳥羽上皇の確執が原因となって1156年に勃発したこの乱では、かの八幡太郎源義家の嫡孫為義(めよし)が崇徳上皇側に付き、平清盛とともに為義の子・義朝が鳥羽上皇側に付いて相争った。乱後は平清盛とともに源義朝は時代の新星として歴史の表舞台に踊り出る。が、両雄並び立たず、1159年清盛と義朝は平治の乱に戦い、乱後は清盛の太政大臣に象徴される平家の時代を迎える。奢る平家の喩え通り、平治の乱によって処刑された義朝の遺児、頼朝・義経兄弟によって平家は1185年壇ノ浦に滅びる。新時代の覇者、源頼朝の誕生である。
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 この時代の流れが生んだ新しい覇者は、この新時代の胎動が生んだ辺境の覇権をも飲み込んでいく。奥州の王者・藤原秀衡は頼朝の弟で戦術の天才と謳われた義経を擁して鎌倉と対抗しようとするが、志半ば病に倒れた。秀衡が亡き後三代の栄華を誇った奥州藤原氏も、幕府政権をうち立てた頼朝によって1189年に滅ぼされるにいたる。
 前九年の役を強く意識した頼朝は、平泉制圧の後も威勢をかってそのまま北上し、父祖戦勝の地である厨川柵まで足を伸ばしたという。前九年の役からの宿願であった奥州での源氏覇権を果たすことによって全国を統一した頼朝は、頼義・義家父子以来の因縁浅からぬこの地に遂に天下人(てんかびと)として立ったのである。厨川柵の眼下を流れるこの北上川を眺めながらその胸の内を去来するものはいかなる思いであったろうか。
 しかし、その源氏の嫡流頼朝の血筋も、まるで歴史に復讐されるかのように、以後三代で絶えることとなる。
 奥六群を支配した安倍氏の光芒も、奥州藤原氏の栄華の夢も、時代の胎動が生み、時代の流れに流され、今はただ時代を貫く歴史の流れのように、その営為の傍らで北上の流れが静かな佇まいを見せているだけであった。 

 


流転その二

   


   三代の栄耀一睡のうちにして、大門の後は一里こなたにあり。秀衡が後は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

奥の細道-平泉編- 


 岩手県の北端に位置する岩手郡岩手町の御堂観音堂境内には北上の源泉がある。この源泉「弓弭(ゆはず)の泉」は、『前九年の役でこの地に遠征してきた源義家が弓の先端部分である弓弭で岩を突くとそこから清水が湧き出て暑さで苦しむ兵馬の渇きを癒した』という伝説から名付けられたという。その源を弓弭の泉に発し、遠く北上高地・奥羽山脈から発する猿ヶ石(るがい)川、和賀(わが)川、胆沢()川など幾多の支川を従えながら、歴史の流れのように県南端に位置する藤原氏史跡の傍らへと流れていく。遥か悠久の時を越えて流れる陸奥の母なる大河は、その流れが持つ歴史が重みを垂れて私の胸に迫まり、奥の細道の行程にこの柵の名が刻まれてでもいるかのように古(いにしえ)の俳聖の感慨を今に伝えてくる。
 眼下の北上は、狭い川幅に瀬も速く、奥羽一の大河の面影はいまだ無かった。その流れもこの先数キロメートルの地点で、東からは市内を流れる中津川が、西からはその昔厨川と呼ばれていた雫石川が合流し、ようやく大河の観を呈してくる。
 東北本線を仙台方面から北へと下っていくと、盛岡駅の手前ほど近く、この三河川の合流地点に架かる巨大な鉄橋に差し掛かる。そこを通る列車から外を望めば視界を遮るものが何もない雄大な景色が広がっている。目を落とせば北上が横たわる車窓に映る遠望の岩手山が、映像のコマ送りのようにゆっくりと流れながら、北の空一面にその影(すがた)を拡げていた。それはまるで旅人を出迎えるかのような光景で、仙台からの別れに沈む私の心を「ああ」と染めたのも、まだほんの数日前のことだった。
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 歌枕を巡って旅した歌聖西行法師は、二代基衡治世にあった全盛時の平泉を訪れ、「ききもせず たわしね山のさくら花 吉野の外にかかるべしとは」と詠んだ。その古の歌聖の跡を辿って旅した芭蕉は、ここ平泉で最初に高館義経(ぎけい)堂に登り、「まづ高舘に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高舘の下にて大河に落ち入る」と綴っている。
 中尊寺の表参道である月見坂を登っていくと、西行の歌に詠まれた「たわしね山」こと「束稲山(たばしねやま)の麓をうねるように流れる北上川とまさにそれに落ち入るように合する衣川を眺めることができる。いつだったろうか、その眺望の中で東北本線の特急がまるでおもちゃのようにのろのろと走り、その速度のなんと苛立たしく感じたことか。「偖(さて)も義臣すぐって此城にこもり、巧妙一時の叢となる」とここで幕を閉じた義経一行の悲劇を忍びながらその城跡から見たものも、このような束稲山が見下ろす雄大な眺めだったろうか。
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 もし奥の細道の行程がこの南部にまで延びていたならばと、北上川や岩手山を前に綴ったであろう文を読み、詠んだであろう句を味わうかのように、遙か俳聖を偲びながら眼下の北上川を眺めていた。

 

   


夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

奥の細道-平泉編-


 今眼前に萌え出る叢の中で雑草を打ち敷いた俄作(にわかづく)りの座を設(こしらえ)え、断崖の下を流れる北上川を望む。
 両岸には緑・黄緑・黄色と木々立ち並んで彩り綾をなし、その下を深い緑を湛えた北上が北から南へと東に大きく弧を描きながら盛岡の市街を抱きかかえるようにして流れている。対岸には岩手大学のキャンパスが様々な木立や建物を並べて街路樹の緑がここそこに見え隠れする街中に溶け込んでいた。それらはこの地を囲む山々の遠望と重なり合って、東北では仙台と並んで杜(もり)の都と謳われるに相応しい、緑豊かな街並みとなって眼前に拡がっていた。
 今の私の置かれた環境からほどなくしてこの盛岡の地からも離れなければならない。この地を離れ、そしていつの日にか再びこの地を訪れ、10年後だろうか二〇年後だろうか、その日も今日と同じようにこの叢に覆われた川岸の上に座って対岸の街並みを思い眺めることだろう。姿変わらぬこの北上の流れの前で、その流れに込めた今の私の想いと盛岡の街並みに織り重なった思い出と、そして、笠を座に詩聖杜甫の詩を口ずさみながら涙を落とした古の俳聖の感慨を偲ぶために。
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 人の営みの儚さに比べ、北上川は悠久のときを刻むかのように流れている。人はただそこに流れている風景を指してそれを北上川と呼び、その映像は様々な思い出と結びつき、北上川という言葉の上に幾重にも降り積もっていく。それは、いつまでも変わらぬ愛しい実像として想い描かれ、移ろい行く街並みの記憶と薄れ行く思い出をその内に刻みながら、人々の安らぎを空気のように水のように陰から支えているのだろう。そして人はその前で遠く過ぎ去った思い出の日々に帰る。
 しかし、その北上の流れでさえも、永遠の時の流れを前にしてはその恒久性も一瞬と化し、やがては消えゆく定めをその内に宿している。北上の波間にさえ垣間見える、時の流れを貫く大いなるも峻厳なる意志に、新しい出会いに新しい別離を予感し、私の心は慄(おのの)く。
 全ての移ろいが時の流れに顕現する大いなる者の意志ならば、人の世の安らぎには常に別離(わかれ)の悲しみがその内に胚胎していく。人は愛に安らいつつ終わりなきものを望めばこそ、いつか来る別離を前にしては深い安らぎはそのままの落差で深い悲しみへと変わり、安らぎの日々がなければ遭うこともなかったであろうそんな悲しみであればこそ、安らぎに満ちた日々への追憶(ついおく)の中でさらに深く人の心をえぐる。そして、盲目のように彷徨う日々の中で新たなる安らぎにその悲しみを癒し、いつの日にか別離の悲しみにさらなる安らぎを求めてまた彷徨う。
 別離の悲しみは、思い出という鉄鎖に連なる奴隷のように人の心を過去へと縛り、果てなく繰り返されていく。それは、安らぎを求めて彷徨い、届かぬ思いを届けようともがく、愛故の終わり無き別離と悲しみの輪廻。そしてそれはまた、無常の儚さ故に却って幾度も繰り返さざるを得ない人の世の定め(かなしみ)。
 人は愛に安らぎを求め、なのに時の流れを司る大いなる者よ。安らぎの裏に潜み、ぬぐってもぬぐってもまとわりついてくるこの悲しみは何故(なぜ)に。何故(なにゆえ)に。
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 心震わす恋の喜びや優しさに包まれた愛の安らぎがいつか別離の涙に変わっていくように、あなたが身近にいた何気ない日々は思い出として淡雪のように胸のうちを白く染めながら幾重にも降り積もり、いつの日にか別離の悲しみに流されて、乾いても消え残る涙の跡(おもいで)となって心の底に折り重なっていく。
 だから、忘れ得ぬ人よ、あなただからこそあなたを愛し、あなただからこそ愛する喜びに震え、あなただからこそ別離の悲しさに沈む。
 あなた故に愛し、あなた故に悲しみ、
 あなた故に喜び、あなた故に嘆く。
 そう、ただあなた故に愛しく、切なく、狂おしく……
 すべてはただ、あなた故に。あなた故に。 

 


シルエット

   
 厨川柵跡を離れ、緩やかに下る北上川沿いの道を南へと向かった。穏やかな坂を下りきると五つ角の交差点に差し掛かる。ここを東へ折れると館坂橋を渡って岩手大学へと続き、斜め北西の先ほど歩いた道を戻ると岩手山を北方に望む前九年町へと続いていた。そのまま南へ真っ直ぐ川沿いを歩いていくと、やがて遠く北上川に架かる橋が見えてくる。夕顔瀬(ゆうがおせ)橋と呼ばれていて、この印象的な名は前九年の役の故事に由来するという。
 前九年の役の最終決戦・厨川の戦いは、1062年9月16日午前6時、陸奥の守、源頼義を総大将とする源・清原連合軍の総攻撃で開戦した。翌17日、厨川柵に隣接する嫗戸柵(うばとのさく)が落ち、戦いも愈々最終局面に至った。源・清原連合軍に追いつめられた安倍貞任は、最後の防塞拠点である厨川柵が敵の大群に囲まれるのを見てある策を立てる。目や鼻を描いた夕顔瓜(ゆうがおうり)を顔に見立てた藁人形を作って甲冑を着せ、それを川原に並べて敵を欺く最終手段に打って出たのである。柵が火攻めに遇い、館が焼け落ちる頃にはこの人形は北上川に流され、辺り一帯の瀬を埋め尽した。この故事からこの辺りを夕顔瀬と呼ぶようになったという。夕顔瀬橋を中ほどまで渡って今来た北の方角を仰ぐと、遠く北上川の西の川岸に古城(こじょう)のようにそそり立つ厨川柵趾の森を望むことが出来る。

 

   
 夕顔瀬橋を渡ると道はL字型に折れていて、角を南へと向かうと市内を南北に縦断する中央大通りが市の中心街へと続いている。この大通りもL字角を曲がった当初は人通りも少なかったが、しばらく歩いているうちに盛岡の中心街に近付いてきたのか、人や車の往来が眼に見えて多くなってきた。やがて近代的なビルが立ち並ぶ、市の中心である官庁街・丸の内へと入った。午後の四時を過ぎて夕方の黄昏が次第に迫ってきてはいたが、賑やかな様相を呈してきた町並みは、ビルの壁面に夕陽がオレンジに照らし返されて、いつしか一日の終焉間際の華(はな)やぎをみせ始めていた。
 その官庁街の中にレトロ調なひときわ目立つ建物がある。建物は盛岡地方裁判所の庁舎だった。その構内の広場に数人が逞しく枝を伸ばす巨大な木立を囲んでいた。

 

 
 巨木は人の身長ほどの高さの巨石の上に立つかに見えていたが、そばによって見ると、巨石を南北に幅30㎝ほどの狭い割れ目が入り、そこから直径1mを優に超える二股の幹が伸び出ていた。その巨石を割って育ったものだと一目で分かる、まさに奇跡的な生命力に裏打ちされた気の遠くなるような自然の営みの結晶なのだろう。巨石の上にそびえ立つ老木の姿は、それを見る者の胸にそんな感慨を深く刻み込むような威風堂々とした逞しさだった。
 この木立の前にある案内板には「桜はシロヒガシ桜で樹齢350年前後と推定される」とあった。説明によれば、幹の生育によって石の割れ目は北側南側共に毎年1㎜ほど拡がっているらしい。桁外れの生命力を見せるその姿は、毎年長い冬を耐えて過ごす、北国の人たちの粘り強さの象徴なのだろう。石割桜こそ日本一の名桜と、盛岡の人がお国自慢をするときに必ずその名が筆頭に上がるといわれているが、一目でなるほどと思う。

 

 
 しばらく石割桜を見ていると、同じように見学する数人の人の中に、ひとり無言で石割桜を見つめている上品な初老の婦人の姿がふと目に留まった。見るものを惹きつけて止まぬ樹齢350年を超えんとするその特異な姿は、200年300年の長きに渡り、人々の思い出の中に、満開に咲き乱れては舞い散り、若葉をつけては枯れ散りながら、刻み込まれていったのだろう。数百年の幾年月をこの北国の人々の思い出と伴(とも)にあり続けたはずなのだ。婦人の心に映る石割桜の姿を私も共(とも)に見つめようと、その婦人の後ろから石割桜を見つめていた。
 石割桜は花崗岩を割って太い二股の幹がその巨石の上に乗るようにして立ち上がり、さらにそこから複雑に枝分かれするその枝張りはまさに見事というしかなく、さらに四方に複雑に折れ曲がった枝は年輪の重みが枝先にかかるように垂れ下がろうとしていた。その樹齢の皴を深く刻んだ枝は柵のように囲った杭に結(ゆわ)えられて下支えされ、その枝先を休めるように伸ばしていた。
 その手入れの行き届いた姿には歴代の庭師の方々と市民の細やかな気遣いが感じられる。昭和7年、盛岡地方裁判所が火災に遭った際、造園会社「豊香園(ほうこうえん)」2代目当主藤村治太郎翁が、身につけていた半纏を水で浸し、濡れた石で足を滑らせて口に裂傷を負いかつ前歯を数本折りながらも石割桜を守ったというエピソードは盛岡ではあまりにも有名だ。幸い全焼は免れた。が、この火災によって石割桜も北側の一部が焼けて瑞々しい葉は黒く焼け焦げ、枝は少しの力で折れてしまうほどの傷を負った。その無残な姿を前に「必ず元の元気な姿に戻そう」と、それからは毎日石割桜の手入れに取り掛かった。たくさんの肥料を与えて、枯れ枝を払い、火災による幹の裂け目に粘土を詰め、冬の寒さから桜の枝を藁で覆って防ぐなど、治太郎翁の献身的な手入れにより、翌春には再び花を咲かせた。そんな話が今も語り継がれているように、老庭師の石割桜を思う心と市民の心は重なり、そのようにして大切に守り育てられてきたのだろう。
 「石割桜は岩手の宝、天然記念物なのだから、手入れをするのに絶対お金を頂戴してはならない」治太郎翁のこの言葉を豊香園の社是に、今も二代目の想いをそのまま引き継いでいる。だからだろうか、桜の季節だけではなく、枝が雪の重みで折れないように縄を張り巡らして手厚く保護する雪囲いの風景を盛岡では好んで話題にするという。盛岡の人々は、雪囲いの姿に冬の訪れを知り、雪囲いの外れた姿に春の訪れを想う。そんな代々の庭師による無償の雪囲いの作業風景は、季節の移り変わりを映す風物詩として、治太郎翁の想いに連なるこの北国の人々の石割桜への想いに深く溶け込んでいる。
 大切に手入れされた植物は、そうでない植物に比べ、長くその命を保つ。そのように植物は接する人の心を敏感に感じ取るというが、行き届いた手入れに現れるこの北国の人々の気持ちに応えんと毎年枝先につけるその花びらは透き通るような可憐で小粒なものだという。老齢の樹体に深い傷を負わせた火災の記憶は命の儚さと限りある命の愛おしさをこの北国の人々の胸に深く刻み込んだことだろう。そんな市民にとって、深い皺を刻み樹齢を重ねた枝先につける可憐な花びらは、限りある儚い命が灯す蜉蝣(ふゆう)の一期のごとき輝きの象徴なのだろう。この北国の人々にとって、永生の願いが込められた思いの裏にある命の儚さを深く意識すればこそ、今年限りと一会に舞い散る可憐な花びらは限りなく愛おしく、その美しさは深く胸に染み入るものなのだろう。
 この北国の人々の帰らぬ日々の思い出は、樹齢350年を超えんとするこの石割桜に刻み込まれ、その儚き一会の姿は幾千幾萬の人々の思い出の中に生き続けている。
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 婦人の胸に去来するのはそのような可憐な花びらをつけた満開の姿だろうか。来月4月には満開になるであろうその見事さを、思わず心に思い浮かべずにはいられなかった。
 初老のその婦人の後ろ姿は、眼前の姿変わらぬ石割桜に刻み込まれた思い出を追っているのだろうか。まるで空想の世界の旅人のようでもあった、しかしそれはまた、残雪の岩手山に薄れ行く面影を追った、先ほどまでの私の後姿でもあった。
 やがて、同じような年代の数人の婦人方に「さあ」と促されるようにして立ち去っていったが、初老の婦人がこの場からいなくなっても、その姿はまだ石割桜の前に消え残るものがあった。しばらくその前に立ち、石割桜を見つめるその後姿の残影越しに石割桜を見つめていた。そして、その婦人の消え残る後姿を見つめながら、昨夜のことを思い返していた。

 

 
 今年に入り、春を前にしてこの盛岡へと父の転勤が決まった。当初は高校入学の件があって私一人仙台に残ることになっていた。しかし、私の知らない間にぎりぎりになって高校は盛岡への転校という方向に変わっていた。仙台で入学が決まっていた高校へは入学式の一日だけ出席し、その日に退学して転校の手続きを取るということになり、父と入学式の出席でその日だけ仙台へ行くための打ち合わせをしていたのだった。
 そのときに、何故自分には何の相談もなしに急に盛岡へ転校する事に決めてしまったのかと、疑問をぶつけたのだった。それに対して「ごめんね。お母さんお前と離れて暮らすのがどうしても寂しくて、お父さんに無理にお願いして盛岡の高校に転校させるように頼んだの」という返答だった。
 父は国家公務員で、私が生まれてからでも、一・二年ごとに転勤を繰り返し、表面的には無邪気なほど明るかった母も、齢(よわい)50を過ぎて家族との絆だけが頼りであったろうことは私なりに分かり始めていたことだった。だからその母の言葉は痛いほど分かった。分かればこそ、かえってどこにもぶつけようのない込み上げてくる感情は抑えがたく、家で飼っていた秋田犬のチコを散歩に連れ出し、思いを吐き出すようにして家を飛び出していた。
 一時間程だったろうか、感情が何とか落ち着いてきたところで、家へ向かい、家の前へと続く道路に戻った。角を折れ、盛岡少年刑務所の正門前から家の方を見ると、この道路の端に見える国道沿いの商店の灯りに映し出されたひとつの人影が浮かんでいた。それは飛び出すようにして出て行った私の後姿を追う母の淡い後影(シルエット)だった。三月とはいえ、北国の夜はまだ震えるほど寒い。その寒空の下をこうして1時間近くも私の帰りを待っていたのだろう。
 尻尾を振りながら「クーン」と母を呼ぶチコの声に気が付いてこちらを振り向いてそばに近付いてきた。横から飛びついて前足を交互に上げ下げして母の腰や足を引っ掻くようにして感情を全身で表すチコの姿を尻目に、「どうしたの。急に何も言わないで飛び出していってしまうから、お母さん心配したんだよ」「うん」とだけ答えて家に向かう私の後ろから、母はなおもすがるように色々な言葉をかけてきた。それは幼い頃の私に細かく世話を焼くような素振りだった。私は「うん、うん」とだけ頷きながら星空を仰いでいた。
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 小学校に入学仕立ての幼い頃を思い出していた。
 近所の同じ官舎に住む女の子といつも一緒に学校に通っていたのだが、何事ものろまな私はいつもその子に家まで迎えに来てもらっては玄関先に待たせていた。グズグズしている私のお尻を叩きながら「ほら、早くしなさい。あーちゃんが待っているでしょ」と世話を焼きながら玄関口まで私を追い立てるのが母の毎朝の日課となっていた。母に世話を焼かれる私の姿を見ながら、「ひろちゃん、まだお母さんに服着せて貰ってるの?」と、少しおしゃまな彼女は玄関口にちょこっと座ってこちらを向きながらクスッと笑っていた。
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 後ろからすがるように話しかけてくる母のその素振りは、何故か、幼かった頃の私に細々と世話を焼く、そんな若き日の姿を髣髴(ほうふつ)させるものだった。
 心配して家の門の前で私が帰るのをきっと待っているだろうと予想しながらチコを散歩させていた。そしてまったく予想通りだった。ぶつけようのない込み上げる思いに母を困らせてやりたいと思ってのことでもあった。それなのに何故だろう、涙がこぼれないように、母にそのことを気付かれないように、星を見上げるようにして歩いている自分が訝しかった。

 

 
 石割桜を見つめていた初老の婦人の後姿の残影に昨夜の街の灯りに浮かぶ淡い後影(シルエット)を重ねていた。その後影(シルエット)を通して石割桜を見つめながら、疑問に感じていた昨夜のこぼれそうになった涙の意味を見つめていたのだった。

 気が付けば、いつしか夕暮れがその色を落とし始めていた。次第に夕闇があたり一面に迫るまま、淡い後影(シルエット)が見つめている先に、何かを見つめるようにしてただ立ち竦んでいる後姿の影(かげ)がひとつぽつんと浮かんでいた。

 


涙の跡(おもいで)

 
 石割桜のある盛岡地方裁判所を離れ、裁判所前の中央大通りをさらに南へ向かって歩いていくと突き当たりになっている。正面は盛岡市役所で、市庁舎の向こう側を中津川が流れていた。
 遠く北上山系に発し、北東方面から市内を貫流するこの中津川は、この先500メートル程のところ、奥羽中央山脈に発する雫石川が北西方面から北上川に合流する地点に流れ込んでいる。市街地の真ん中を流れているにもかかわらず、川底が見えるほど澄んだ清流で、春には川辺に花が咲き乱れ、夏には鮎が泳ぎ、秋には北上から鮭が遡上して、冬には白鳥など様々な水鳥がその水面に飛来してくるという。人々は四季折々の表情を見せる川辺に憩い、その折々の変化に北国の美しい四季を知る。岩手を代表する川は北上川だが、仙台の広瀬川、京都の加茂川などと同様に、市民にとって盛岡で川といえばこの中津川だろう。
 ここを少し西へいくと中津川沿いの北に面して盛岡城址がある。盛岡城は北上川と中津川に囲まれ、市を縦貫する北上川を中津川と雫石川が東西から挟みこむようにして合流する地点の北東側の丘陵地帯に築かれた。盛岡の街はお城と城下町が築かれた当初から川とともにあり、緑豊かな杜の都であるとともに清き流れる水の都でもある。
 中津川には盛岡城築城とともに上の橋・中の橋・下の橋のいわゆる〝盛岡三橋〟が架けられ、その際に京都の三条大橋を模して欄干に青銅製の擬宝珠(ぎぼし)が取り付けられた。擬宝珠とは、橋の欄干や神社・仏閣の階段などに取り付けられる、ねぎの花の形を模した伝統的な建造物の装飾だ。本来は天皇が住まう京都の橋にしかこの装飾は許されていなかったのだが、一三三六年、当時の南部藩第12代藩主南部政行(まさゆき)の詠進した和歌が後村上天皇の御心に叶い、その恩賞の一部として賀茂川の橋を模したものを南部藩城下に架けることが許された。それに伴い、1500年代末から始まった築城とともに城下の橋にもこの擬宝珠が付けられるようになったという。
 現在も上の橋と下の橋に当時のものが18個も残り、往年の城下町の面影を今に伝えている。盛岡は戦災がなかったので紺屋町(こんやまち)の伝統的な建造物「ござ九」など古くて美しい町並みが残り、中津川を加茂川に、擬宝珠のある上の橋と下の橋を三条大橋に観立て、陸奥(みちのく)の小京都とも呼ばれている。
 中央大通りの突き当たりである正面の盛岡市役所を右に曲がり、細い道をしばらく行くと、盛岡城址のある岩手公園にぶつかる。


   不来方(こずかた)のお城の草に寝転びて
   空に吸われし
   一五の心


 これは石川啄木の歌で、岩手公園の二の丸にその歌碑がある。啄木が学んだ盛岡中学がこのすぐ近くにあり、授業中に教室を抜け出してはよくここに来て、一人文学の夢を追っていたという。不来方のお城とは盛岡城の別名で、本来はこの二つのお城は別の城なのだが、不来方城跡の上に盛岡城が築城されて場所も一緒のことから盛岡城の雅称(がしょう)としてそう呼ばれているらしい。
 岩手公園にぶつかって左手南に折れると中津川に架かる中の橋を渡り、右手北に折れて岩手公園沿いを行くと、先ほどまで歩いてきた中央大通りと平行して盛岡で最も人通りの多い大通り商店街へと続いていた。大通り商店街をしばらく行くと開運橋から北上川を渡って盛岡駅まで通じている。
 観光客が盛岡駅を降りてほど近くの開運橋の北面に立つと、豊かな清流を湛えた北上川両岸の濃い緑に溶け込んで、遠く北の空にその影(すがた)を広げて聳える岩手山を望むことができる。それは、杜と水の都・盛岡がまるで旅人を「お帰りなさい」と出迎えるかのような光景で、初めて訪れる人々の胸に郷愁にも似た深い旅愁を刻むことだろう。

 

 
 公園沿いの道端の石垣に座り、暮れなずむ町並みを行き交う人波に視線を傾けていた。太陽の薄明かりが残る夕暮れ、全てがすみれ色に染まり、人がまるで影絵のように慌ただしく動いていくのを目で追いながらも、静まり返ったような静寂さに身を包まれていた。その風景の一つとなって人影を見つめていた私の心には、その人影がまるで映画の映像のように映り、地の底へと沈み込むような静寂さに身を包まれながらも、街の灯りに映し出された淡いシルエットは華やいで見えた。
 一日中人恋しさに盛岡の街を歩き回った疲労感が甘い虚脱感となって全身を包み、不思議な安らぎへと誘っていた。彼女が盛岡からの転校生でもなく、あの制服も後ろ姿はよく似ていても明らかに異なるという事実を、目の前の人波の流れを見つめるように、今はただ素直に見つめているだけだった。感情の動きを止め、淡い人影の流れにこの身を投じるように、目の前を往来する人並みを流れるままに眺めていた。
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 時間が停止してしまったかのような静寂さを破る一つの後影があった。俄かに鼓動が高鳴り、「まさか、まさか」と心の中で叫びながらその後影を追っていた。後ろ姿が似ているというだけで、現実的にこのような場所で出会うはずがないということを嫌という程わかりながらも、甘い鼓動の高鳴りに胸が締め付けられていた。
 しばらく後影を追って歩いていくと、しかし、その女性は他人の横顔を見せて本屋へと入っていった。甘い期待が一挙に萎み、感情のない操り人形のように、女性の後をついて一緒に本屋へと入っていった。
 その女性の横に立ち、私も本を探すような顔を俄作(にわかづく)りして一冊の本を取って、ページをめくった。

 

 


  『(二人もの女性を死に追い込んだ〝生への罪〟を切り捨てることができず)※1 ぶざまな生きざましかできないぼくには、しあわせなんて、志向できない。だから、他人をしあわせにすることだって、考えられない。しかし、しあわせになってほしいと思う人は、存在する。』
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  『6ヶ月ほど前、いちこから電話があった。』
  『いちこは、僕の書いた文章を読んで、逢いたくなったらしい。しかも、それだけではなく「ずっと、そばにいたい」という。24歳で、ファッションデザイナーの女にしては、あまりにも子供じみている。
 「冗談じゃあないのです。私は、そう決めたのです」と、真剣な表情で、僕の目を見つめる。ぼくは少し気味が悪くなった。なぜなら、その不気味さは、(自殺した)※2 沢田明子のときに感じたそれと、よく似ていたからだ。』
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  『(もう逢わないでおこうと思ったが、たびたび勝手に訪ねてくる)※3 いちこは、ぼくの部屋にくると、ひとりで喋った。ぼくは、最初のうち、レコードを聴いたり、本を読んだりして、相手にしなかった。それでも、いちこは喋っていた。しかし、やがて、ぼくは、いちこという一個の生に、関心を持つようになった。いちこの感性を分かっていたから (自殺した沢田明子のように、いつでも女として命を捨ててしまえるという強い印象を抱かせる)※4 こわい女〟だと思っていたのだが、その感性の背景みたいなものを知るにつれて〝やさしすぎる女〟なのだなと思えるようになった。』
  『いちこの母親は、24年前、ちょうど現在のいちこと同じ年齢の時、桑名で、妻子ある男と恋をした。そして、裏切られ、捨てられた時、お腹の中のいちこは、4ヶ月になっていた。
  いちこの母親は、好きでつくった子供の命を、処理するのは罪だと言い、両親の反対を押し切って、裏山の廃墟になった木こり小屋に、一人籠もったという。』
  『6ヶ月後の、午前六時ごろ、朝陽のさしこめる小屋のなかで、母親は、たったひとりで、いちこを産みおろした。
 その日からは、たったふたりで、いちこが一歳になるまで、その小屋で暮らした。』
  『山を下りてからは、家政婦をしたりしながら、いちこを育て、再婚の話にも「いちこの父親は、ひとりだけでいいから」と、断りつづけた。』
  『いちこという名には、母親の願いが込められていた。〝わたしの命は、ひとつだけ。わたしの愛は、ひとつだけ。わたしの子供は、ひとりだけ〟
   いちこは愛の子だった。』
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  『僕は、いちこが、しあわせになって欲しいと思うようになった。しかし、僕とは、かかわりあいなく、そうなって欲しかったのだ』。
  『いちこがしあわせになって欲しいという気持ちと、(二人の女性を死に追い込んだ〝生への罪〟を未だに切り捨てていない)※5 僕はしあわせになりたくないという気持ちの間を、僕は、ゆれていた。苦しかった。だから、また、酒を飲んだ。』
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  『ぼくは、海が見たくなった。途方もなく広く、途方もなく暗い、内灘の海が見たくなった。
 金沢に発つ日の午後、ぼくは、いちこに電話した。ぼくは「海を見に行く。」と言った。いちこは「わたしが重荷になったのでしょう。」と、尋ねた。ぼくは、驚いた。いちこが、そこまで、ぼくの心を見抜いているとは想っていなかった。ぼくは「そうだ。」と、答えてしまった。「どうしたらいいの。わたし、わからない。」というような言葉を、まるで泣いているような声で言った。』
  『金沢駅には、夜の9時21分に着いた。』
  『改札口を出て、ぼくは、一瞬、立ち止まった。改札口の前には、地元の人間らしい五、六人の若者がじっと、柱にもたれたり、煙草を吸ったりして、人待ち顔で、立っていたのだった。おそらく、仲間や恋人が、その改札口から出てくるのを待っているのだろう。
 ぼくは、おかしな話だけれど、その光景にみとれてしまい、涙ぐんでしまった。』
  『(沢田明子は、遺書のなかで「待っています」と告げたが)※6 沢田明子や野々村悦子は、ひょっとしたら、そういう格好で、待っていてくれたのかもしれない。しかし、ぼくは、わかってやれなかった。幼かった。』
  『ぼくは、改札口の前で、だれかを待っている人たちの真似をして、ロビーの柱にもたれかかって見た。そして、しんせいに火をつけてみた。
 そうやって、ぼくは、まるで、ほんとうに、だれかを待っているような、ふりをした。そうしているうちに、ぼくは、ほんとうにだれかが、ぼくを捜して、その眼の前の改札口から出てくるのではないか、という錯覚にとらわれていた。
 そして、その、〝だれか〟とは、ぼくの頭の中で、いちこひとりしかいなかった。
 ぼくは、いちこに、行き先を告げなかった。告げなかったけれど、いちこには、わかっているのではないか、追いかけてくるのではないか、とぼくは思い込んでいた。 それは、たしかに、異常な感情だった。
 実際、もし、その改札口から、いちこが出てきても、ぼくは、決して驚かなかっただろうと想う。
 ぼくは、待ちつづけた。立ちつづけた。
 11時着の列車を待ち、11時3分着の〝しらさぎ〟を待ち、11時31分着の〝雷鳥〟を待ち。11時43分着の〝日本海〟を待ち、11時58分着の〝くずりゅう5号〟を待ち、12時47分着の最終臨時列車を待った。
 しかし、だれも、ぼくに、声をかけなかった。』

    ー立風書房刊―岸田淳平著「犯罪的放浪」より
※ 文中の( )※1※6 の文は筆者(小出)による捕註です。


 

 
 文を読みながら、顔も知らぬいちこの後姿を思い浮かべていた。思い浮かべるといっても、その後姿は想像上に霞む淡い後影でしかなかった。そして、いちこの後影を見つめながら、遺書の中で「待っています」と告げた女性を逆に待っているような、改札口の前で幻のいちこを待ち続ける作者の後姿を見つめていた。
 あたかもいちこの目を通して見つめるかのように、金沢駅の改札口でひとり佇む徒労の後姿を見つめていると、幻の影を追って盛岡の街をひとり彷徨い歩いた己が徒労の姿が次第にその後姿の上に重なっていくのだった。そして、同時にいちこの後影の上に追憶(ついおく)の影が二重写しとなって、そのまま後影を求めて佇む男の後姿の上に二重三重に折り重なっていった。
 幾重にも重なったその影は、街の灯りに映る昨夜の母の後影にも似て、私の心に淡いシルエットとなって映し出され、いつしか溢れる涙に霞んで、重なりあい離れあい、浮かんでは消え消えては浮かぶ、それは、遥か遠く現実を離れて乱舞する儚き陽炎のようだった。
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 ただ涙が頬を伝って流れるに任せながら、私を包み込む大きな存在に対し何の躊躇(ためら)いもなく甘えていた。心細さに耐えていた迷子の幼子が母を見つけた途端に泣き出すように、それまで心の底に押さえてきた感情が涙となって押し止めようもなく溢れ出してくる。母の胸に抱かれてもなお泣きじゃくる幼子のように、溢れ出る涙とともに幼く甘い感傷に浸りながら次第に不思議な安らぎに包まれていった。
 全てはただ涙に溶け、止めどなく溢れ出る涙とともに悲しみや寂しさも含めて全ての思いが押し流されていき、空っぽながらも心の底から癒されるような甘い透明感で身も心も満たされていく、そんな思いだった。
 それは突然でもうどうすることもできないほどの滂沱(ぼうだ)の涙だったが、またこらえようと想う気が起こらない自然な涙の流れだった。隣に立つあの女性も驚いたのか振り向くようにこちらを見つめていたが、もはや涙を見られて恥ずかしいという思いも消え、気にもならなかった。止めどない大粒の涙とともに頑なに構えたように張りつめた体と心の力も次第に抜けていき、寂しさに暗く屈折した私の思いを押し流していくように、あとからあとから涙は溢れ、流れていった。
        ―・・―・・―・・―・・―
 大粒の涙は頬を伝わり、滴となってぽたぽたと本の上にいくつかの涙の跡を残した。あとから流れ続ける涙は、その跡に重なって落ち、ひとつひとつの涙の跡は次第に拡がっていった。
 一滴(ひとしずく)の涙が紙面にその跡を残した。そこに一粒また一粒と続けて滴(したた)り、「い」の字の近くにできた涙の跡は、「い」の字を滲ませ、「ち」の字から「こ」の字へと拡がって、いつしか「いちこ」全体を覆っていた。
 いちこの思いが私に伝わり、私の思いと溶け合い、涙となって流れ、また「いちこ」へと還っていく。
 人は涙と伴に思い出を重ね、私の涙に溶けたいちこの思いは紙面に跡を残して涙の跡(おもいで)を重ねていく。改札口でひとり佇む男を見つめる後影のように、街の灯に映し出されたシルエットのように、紙面の「いちこ」は、いちこの思いが溶けた私の涙に濡れ、ひとり静かに鈍色(にびいろ)に滲んでいた。

 

  昭和47年 15歳・早春
 ながれ「その一 後影」-了-
  


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 「ながれ-一会-」の内容

 若者にとって未来が宝物であるように、人生の半ばを過ぎた人にとって、思い出はかけがえのない宝なのだろう。
 忘れ得ぬ思い出を、岩手山の残雪を光源とした走馬灯の影絵のように映す、追憶という名の物語。

 

  その1 後影

青春の日の忘れ得ぬ思い出を、岩手山の残雪の影に重ねた後影越しに追想する。

  その2 刹那

17歳における大阪での再会の日。別れの時が次第に迫る限られた時の中で、一秒一秒の時間の刻みはそれだけでただ哀しいほど愛おしかった。写真がその一瞬一瞬を時の流れに刻み込んで永くその映像を留めるように、二人が紡ぐ刹那刹那の時の重なりは思い出というセピア色の写真として胸の奥深くに刻み込まれていく。

  その3 影絵

10年ぶりに盛岡を訪れ、走馬灯のように心に浮かんだ岩手山の残雪に映る10代の日の思い出。 

 

 


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