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ながれ-一会-

ながれ - 一会 - 小出広義:著

若者にとって未来が宝物であるように

人生の半ばを過ぎた人にとって

思い出はかけがえのない宝なのだろう
忘れ得ぬ思い出を

岩手山の残雪を光源とした走馬灯の影絵のように映し出す

追憶という名の物語


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後影

その1 後影

 心震わす恋の喜びや優しさに包まれた愛の安らぎがいつか別離の涙に変わっていくように、あなたが身近にいた何気ない日々は思い出として淡雪のように胸のうちを白く染めながら幾重にも降り積もり、いつの日か別離の悲しみに流されて、乾いても消え残る涙の跡(おもいで)となって心の底に折り重なっていく。
   そんな青春の日の忘れ得ぬ思い出を、岩手山の残雪の影(すがた)に重ねた後影を通して追想する


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追憶(おもいで)

 
 眩しさに、ふと見上げた。
 なだらかなくの字を描く角を曲がり、北へ真っ直ぐ伸びる道路に出ると道幅が広く、急に目の前が明るく開けたのだった。
 北の空に、その姿を拡げて聳える岩手山が迫っていた。頂きに残る雪は、早春の陽の光を受け、白く燃えるように輝いていた。
 目映さにハッと息をのんだ。まるで白銀の輝きが氷の針となったかのように、それまで気にも止めていなかった外気の冷たさがヒヤッと肌に刺してきた。
 思わず耳たぶに触れていた。寒さで痺れた耳たぶの感覚を揉むようにして和らげながらも、コート越しにしっとりと伝わる陽の温もりを背中に感じていた。
 ここは岩手県盛岡市、三月とは言え街路樹は冬枯れの姿そのままで遥か山の雪なお深く、吐息に温もる手暦(てごよみ)で未だ浅い春を指折りかぞえる、そんな季節に取り残された北国の街だった。しかし、春の陽射しを映し返す岩手山の残雪の輝きは、見渡す限りのものを白銀に染めながら、澄み渡りピンと張りつめた冷気の中をどこまでも響き渡っていった。

 

  
 岩手県一帯は、江戸期に南部藩の所領であったことから、南部(なんぶ)地方あるいは単に南部と呼ばれている。南部の人々は岩手山の美しさを富士にたとえた。東の山裾は富士を思わせるような稜線がなだらかに伸び、西の山裾は水平に近く描かれて他の山々の尾根に連なっている。左右均等ではない、そのような崩れた姿が却って何か印象深く、古(いにしえ)より南部片富士(かたふじ)と呼ばれてきた。
 抜けるような青空を背景に雪面と山陰とが織り成す白と青二色のコントラストが、頂から襞を垂らして纏う純白の衣を鮮やかに浮かびあがらせていた。それは実体のない光そのもので、距離感が掴めず、見つめれば見つめるほど目の前に迫ってきた。
 

   
 北国の北の空にその影(かげ)を映す遙か憧憬に向かって歩き始めていた。次の角を左に折れるとすぐに私の家なのだが、帰る気になれなかった。人恋しさに求めるものとてなく一人街を彷徨っていた私は、そこに向かって歩く以外に寂しさを紛らす術を知らなかった。
        ―・・―・・―・・―・・―
 中学の卒業と同時に父の転勤で仙台から盛岡に来たのだった。仙台を離れ、まだほんの数日であるのにもかかわらず、もう遠い日のように思われる二年間の思い出の中で、あの面影(おもかげ)は更に遠かった。それは、追えば追うほど私から離れ、思い出そうとすればするほど頼りなさが募る朧の影(かげ)だった。
 『真面目でしょ。自主的にやってるのよ』
 『ここがあなたのおうちね。私のうちはここ』
 『ううん、そうじゃないの』
 『さようなら』
 記憶の底に沈んでいた言葉が浮かんで来ては切れ切れとなって糸を引き、私の頭の中で空しく響いていた。
 ふと彼女の後姿が脳裏に浮かんだ。長い髪がゆらぎ、微かに香わせる風が頬をなぜる。
 と、その瞬間時が止まった。その刹那に、消え残る灰に眠る火が俄かに燃え上がるように、追憶(おもいで)に眠る印象が妖しい情念と化し、確かな存在となって息づいた。頬を染める冷たい風の中に立ち竦んで見上げれば、遥か憧憬の輝きは、私を包み込む白銀の素肌をきらめかせ、すぐ目の前に指で触れ得ると見紛う艶かしさで迫っていた。
 薄れ行く追憶の中にふと咲いたように蘇る面影は、幻と知りながらも一瞬にして惹きつけられていく私の心には幻故にかえって悲しいほどリアルな影(かげ)だった。しかし、触れ得たと思った刹那(とき)にはもう朧の後影(うしろかげ)となって追憶の中に霞んでいく。それは、目の前に迫る白銀の輝きのように、手を伸ばしてみても決して叶わぬ遠い影(かげ)だった。
        ―・・―・・―・・―・・―
 追憶を辿り、一人彷徨っていると北の空に岩手山が聳えていた。その残雪の影(すがた)に憧憬の影(かげ)を追い、いつしか二つの影は幻に重なって面影(おもかげ)に立つのだった。
 「ああ、岩手山」
 大きな懐に抱かれながら追憶の中に次第に霞んでいく後影(うしろかげ)を追うように、その白銀の輝きを歩くことすら忘れて見つめ続けていた。

 

   
 突如、前方からけたたましく迫るオートバイの音でハッと我に帰り、傍らを駆け抜けて行く姿を目で追いながら振り返った。あっという間に走り去り、視界から消えていった。遠く走る音がしばらく聞こえていたが、やがてそれも消えていった。
 急に静けさがシーンと音を立てて迫ってきた。気が付けば、住み始めて日が浅い未だ見慣れぬ街にひとり佇んでいた。
 踵を返し、また北へと向かった。しばらく虚ろに歩いていたが、眉間が疼く眩しさにふと見上げた。背景の鮮やかな青さが私の両眼を貫いた。岩手山は遙か遠った。天空は澄み渡り、ただどこまでも青く果てなく拡がっていた。

 


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流転その1

   
 盛岡少年刑務所の赤い煉瓦造りの塀を左手に見ながら前九年町の街並みを通り過ぎるようにして国鉄の踏切を渡ると、やがてT字路に突きあたる。岩手山は建物の陰に隠れてしまった。そこを右手東へと向かって折れると、道路の北側は中学校の校舎でその校舎の向う隣には森永乳業の工場があった。その工場の広場には乳牛の形の看板が二つ三つ立っているのが見えた。道路を挟んで工場の向かいから道路が南へと向かって延びていて、その手前にパンなどを売る小さな店があった。
        ―・・―・・―・・―・・―
 その店に入って牛乳を買って飲んでいると、斜め向いの中学校の生徒らしい制服姿の女の子3人が賑やかに入ってきて、「おばさん、これ」「私はこれね」とキャーキャー騒ぎながら注文した品の代金を渡すと、あっという間に笑い転げながら校門に向かって走り去って行ってしまった。
 急に襲ってきた饗宴の後の虚しさのような静けさに包まれながら、校門へと走り去る女子学生の後姿をぼんやりと見つめていた。が、その制服の襟元にハッと視線が釘付けになった。仙台での私は転校生だったが、彼女も転校生で、前に通っていた中学校の制服を着ていた。女子生徒の後姿に見る襟元がその制服に似ていたのだ。
 うかつにも、彼女がどこか北国からの転校生だということは漠然と覚えていたのだが、どの県からかはっきりとした記憶がなかった。それまでは盛岡からとの意識は全くなかったのだが、私の視線を釘付けにした走り去る後姿を見ていると「まさか」という思いが頭を掠め、「もしも、彼女がこの目の前の中学からの転校生であったならば」そんな思いもよらぬ考えが頭の中をめまぐるしく駆け巡り始めていた。
 今歩いてきた町並みのどこかに以前彼女が住んでいたのかもしれない。しかも今は春休みなのだ。前に住んでいたこの地に遊びに来ていてもおかしくはない。この盛岡の地にしかもほど近くに彼女がいるかもしれない。
 めくるめく再会への思いに、その淡い期待はさらなる期待を呼び、藁をもすがるその願いはやがて確信へと変って行く。もはや目の前の中学校は以前彼女が通っていた学校であるに違いないと一人勝手にそう思い込むにいたっていた。
 自然に心は南に向かっていた。それは仙台の方向であり、人のたくさん集まる盛岡の繁華街の方向でもあった。居ても立ってもいられないその焦燥感に、彼女と出会うことだけを願ってこの盛岡の街を歩き回ること以外考えることができなくなっていた。
         ―・・―・・―・・―・・―
 店を出て、店の横から南へと折れる角を曲がると、道はゆるやかな長い下り坂になっていて、遥か先まで見渡せた。先ず国鉄の踏切が見えた。その向こうに「氏家整形外科」という看板と建物があった。道の両側の畑の中に数件の家がぽつんぽつんと建っていた。人影はなく、車も走っていなかった。早春の陽射しに明るく照らされた道を雲の陰が覆っては流れ、また明るく照らし出されては流れていく。見知らぬ街の中、陽射しを映し返す道や畑や家の明るさがこんなにも寂しいものなのかと、それはまるで無意識の奥底に隠れた不安が心に落とす影(かげ)のようだった。

 

   
 前方にこんもりとした森があった。近づくと、南北に走る国道沿いの東側を南に向かって細長い鬱蒼とした森が続いている。このあたり一帯は高台となっており、森の中に入るとこの南北に細長い森の東側は断崖で、眼下20メートルほど下を北上川が流れていた。対岸は岩手大学のキャンパスを始めとした緑豊かな街並みが、北上の川岸の深い緑に調和するように、眼前に拡がっていた。
 しばらく森の中をたむろしていたが、みると、森の中ほどには小さな社(やしろ)が祀られていて、国道沿いには「安倍館(あべだて)遺跡」という標識がある。説明板によると、「この安倍館は古代平安時代の前九年の役で源・清原連合軍との最終決戦を安倍氏最後の拠点である厨川(くりやがわ)柵で戦い、激戦の末滅亡した安倍氏四代目安倍貞任(さだとう)の居城跡」とのことで、「厨川(くりやがわ)柵跡(さくし)と伝えられている」とあった。
 厨川は現在の雫石川(しずくいしがわ)の古い呼び名だ。史書によれば、厨川が西から北上川に流れ込む地点の北側に、北上川を北上して攻めてくる国府軍から安倍氏最後の拠点を防塞するための城柵(じようさく)として、この厨川柵は作られたとのことだ。この史跡一帯は安倍館町と表示されていて、私の今住む町は前九年町(ぜんくねんちょう)という。さっき歩きながら左手に見た学校の名は厨川中学で、この厨川柵の厨川と同じ名前だった。まさに歴史が息づく街並みだ。
 いつしか私の意識は時代を逆行し、厨川柵跡と伝えられているこの史跡の眼下を流れる北上川を眺めながら、この柵を巡って起こされた古代の戦いに思いを馳せていた。

 

   
 現在の岩手・秋田両県以北の地は大和朝廷の権力が及ばない蝦夷(えみし)という律令体制外の領域だった。801年征夷大将軍坂上田村麻呂による大遠征後、蝦夷は大和朝廷に帰順し、主として陸奥と出羽の両国に編入されていった。以降、蝦夷の居留する地域にも平和が訪れ、陸奥の蝦夷は安倍氏を棟梁として、出羽の蝦夷は清原氏を棟梁として統一の道を歩み始める。
 蝦夷のうち大和朝廷の支配に属するようになったものを俘囚と呼ぶ。安倍氏は陸奥蝦夷の俘囚の長として大和朝廷の体制外で北上川流域を支配していたが、大和朝廷の「夷を持って夷を征する」という中国流の陸奥の運営策により、その支配体制のまま奥六郡(おくろくぐん)の正式の郡司として大和朝廷の体制に組み込まれた。
 特に三代目の頼時(よりとき)は、多賀城(たがじょう)と胆沢城(いさわじょう)にそれぞれ大和朝廷の国府・鎮守府があるにもかかわらず、本拠の平泉以外にも北上川の要害の地に独自の城柵を作って一族の者を配した。この厨川柵もそのうちの一つで、本拠地衣川とともに安倍氏の二大拠点だった。
 安倍氏の本拠地平泉衣川は奥六群の入り口で、古来より歌枕で有名なかの衣が関(ころもがせき)は蝦夷地(えぞち)への関門だった。この衣川で安倍氏が奥六郡の事実上の支配者となった初代忠頼の時代から二代忠良(ただよし)を経て、前九年の役で滅んだ三代頼時・四代貞任親子の代までの約二百年の間、政治・文化の面で、後の奥州藤原氏平泉文化の先駆的役割を果たしている。
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 奧六群を直接支配していた安倍氏の勢力は強大で、特に三代頼時の代では国府への税や役務を怠り、さながら独立国の様相を呈してきていた。その勢力がいよいよ衣川の南側まで及ぶに至り、1051年遂に国府は安倍氏討伐の軍を上げた。前九年の役の勃発である。この動乱に前後して陸奥守に任ぜられた源氏の棟梁頼義(よりよし)が、この戦乱を鎮圧して東北の武士団を支配しようとする意図を胸に秘めながら陸奥に下向してきた。当初は強大な安倍軍の前に為す術もなく大敗を喫するが、出羽蝦夷の俘囚の長・清原氏の援護を得て、1062年9月、安倍氏を厨川柵に滅ぼした。
 東北での源氏覇権を目論んだ頼義は、長子義家が出羽の守に、自身は階位が上がって伊予の守に任ぜられたものの、武家の棟梁が任ぜられるべき鎮守府将軍の座を清原氏に占められ、志半ば失意の中で陸奥を去った。一方の清原氏は、本拠地の出羽に加えて安倍氏の旧領奥六郡をも支配するに至り、奥羽の新たな覇者となった。
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 時は流れて20年、源氏の頼義は没し、八幡太郎と尊称された伝説的武将義家が源氏の棟梁の地位について陸奥の守に任ぜられた。やがて、1086年、鎮守府将軍清原真衡(まさひら)の内訌(ないこう)に乗じ、源義家は父頼義が意図して果たせなかった源氏の奥州での覇権を目論んで、世に言う後三年の役が起こされることとなる。後三年の役の結果は、奥羽の新しい覇者、藤原清衡(きよひら)の誕生であった。
 清衡は前九年の役で滅んだ安倍頼時の孫だった。前九年の役で頼時の娘である清衡の母が敵方の勝者清原武則(たけのり)の子武貞(たけさだ)に再嫁したため、本来祖父安倍頼時や父藤原経清(つねきよ)とともに死すべき運命にあった当時七歳の清衡は生き長らえた。以降清原清衡として育ち、一族でも有力な武将に成長していく。
 この役で清原氏は実質的に滅び、源義家は、朝廷よりこの役が私戦と判断され、役後一ヶ月で陸奥の守を解任されて陸奥を去った。戦役の結果、安倍・清原両氏を継いで奥羽に跨る奥州の覇権を握った清衡は父方の藤原性を名乗り、以降、清衡から基衡(もとひら)、秀衡(ひでひら)にいたる奥州藤原氏平泉文化を開花させる礎(いしずえ)となる。
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 六四五年の大化の改新で律令体制として確立された古代の王朝が一二世紀の動乱を通じて崩壊していく変革の時代の胎動として、この辺境の北の地より戦乱の狼煙が上がったのである。藤原氏の奥州での覇権はまさにこの胎動が生んだものだった。この辺境からの新時代の予兆のごとき響きが動乱として平安王朝の中枢にまで波及することによって古代平安貴族体制は瓦解した。保元・平治の乱から源平の戦いを経て、新時代の覇者として武士が新しい体制をうち立てるにいたる。
 辺境の胎動が平安王朝の中心京都にまで及んで起こされた最初の動乱が保元の乱だった。崇徳(すとく)上皇と鳥羽上皇の確執が原因となって1156年に勃発したこの乱では、かの八幡太郎源義家の嫡孫為義(めよし)が崇徳上皇側に付き、平清盛とともに為義の子・義朝が鳥羽上皇側に付いて相争った。乱後は平清盛とともに源義朝は時代の新星として歴史の表舞台に踊り出る。が、両雄並び立たず、1159年清盛と義朝は平治の乱に戦い、乱後は清盛の太政大臣に象徴される平家の時代を迎える。奢る平家の喩え通り、平治の乱によって処刑された義朝の遺児、頼朝・義経兄弟によって平家は1185年壇ノ浦に滅びる。新時代の覇者、源頼朝の誕生である。
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 この時代の流れが生んだ新しい覇者は、この新時代の胎動が生んだ辺境の覇権をも飲み込んでいく。奥州の王者・藤原秀衡は頼朝の弟で戦術の天才と謳われた義経を擁して鎌倉と対抗しようとするが、志半ば病に倒れた。秀衡が亡き後三代の栄華を誇った奥州藤原氏も、幕府政権をうち立てた頼朝によって1189年に滅ぼされるにいたる。
 前九年の役を強く意識した頼朝は、平泉制圧の後も威勢をかってそのまま北上し、父祖戦勝の地である厨川柵まで足を伸ばしたという。前九年の役からの宿願であった奥州での源氏覇権を果たすことによって全国を統一した頼朝は、頼義・義家父子以来の因縁浅からぬこの地に遂に天下人(てんかびと)として立ったのである。厨川柵の眼下を流れるこの北上川を眺めながらその胸の内を去来するものはいかなる思いであったろうか。
 しかし、その源氏の嫡流頼朝の血筋も、まるで歴史に復讐されるかのように、以後三代で絶えることとなる。
 奥六群を支配した安倍氏の光芒も、奥州藤原氏の栄華の夢も、時代の胎動が生み、時代の流れに流され、今はただ時代を貫く歴史の流れのように、その営為の傍らで北上の流れが静かな佇まいを見せているだけであった。 

 


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流転その2

   


   三代の栄耀一睡のうちにして、大門の後は一里こなたにあり。秀衡が後は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。

奥の細道-平泉編- 


 岩手県の北端に位置する岩手郡岩手町の御堂観音堂境内には北上の源泉がある。この源泉「弓弭(ゆはず)の泉」は、『前九年の役でこの地に遠征してきた源義家が弓の先端部分である弓弭で岩を突くとそこから清水が湧き出て暑さで苦しむ兵馬の渇きを癒した』という伝説から名付けられたという。その源を弓弭の泉に発し、遠く北上高地・奥羽山脈から発する猿ヶ石(るがい)川、和賀(わが)川、胆沢()川など幾多の支川を従えながら、歴史の流れのように県南端に位置する藤原氏史跡の傍らへと流れていく。遥か悠久の時を越えて流れる陸奥の母なる大河は、その流れが持つ歴史が重みを垂れて私の胸に迫まり、奥の細道の行程にこの柵の名が刻まれてでもいるかのように古(いにしえ)の俳聖の感慨を今に伝えてくる。
 眼下の北上は、狭い川幅に瀬も速く、奥羽一の大河の面影はいまだ無かった。その流れもこの先数キロメートルの地点で、東からは市内を流れる中津川が、西からはその昔厨川と呼ばれていた雫石川が合流し、ようやく大河の観を呈してくる。
 東北本線を仙台方面から北へと下っていくと、盛岡駅の手前ほど近く、この三河川の合流地点に架かる巨大な鉄橋に差し掛かる。そこを通る列車から外を望めば視界を遮るものが何もない雄大な景色が広がっている。目を落とせば北上が横たわる車窓に映る遠望の岩手山が、映像のコマ送りのようにゆっくりと流れながら、北の空一面にその影(すがた)を拡げていた。それはまるで旅人を出迎えるかのような光景で、仙台からの別れに沈む私の心を「ああ」と染めたのも、まだほんの数日前のことだった。
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 歌枕を巡って旅した歌聖西行法師は、二代基衡治世にあった全盛時の平泉を訪れ、「ききもせず たわしね山のさくら花 吉野の外にかかるべしとは」と詠んだ。その古の歌聖の跡を辿って旅した芭蕉は、ここ平泉で最初に高館義経(ぎけい)堂に登り、「まづ高舘に登れば、北上川、南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城を巡りて、高舘の下にて大河に落ち入る」と綴っている。
 中尊寺の表参道である月見坂を登っていくと、西行の歌に詠まれた「たわしね山」こと「束稲山(たばしねやま)の麓をうねるように流れる北上川とまさにそれに落ち入るように合する衣川を眺めることができる。いつだったろうか、その眺望の中で東北本線の特急がまるでおもちゃのようにのろのろと走り、その速度のなんと苛立たしく感じたことか。「偖(さて)も義臣すぐって此城にこもり、巧妙一時の叢となる」とここで幕を閉じた義経一行の悲劇を忍びながらその城跡から見たものも、このような束稲山が見下ろす雄大な眺めだったろうか。
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 もし奥の細道の行程がこの南部にまで延びていたならばと、北上川や岩手山を前に綴ったであろう文を読み、詠んだであろう句を味わうかのように、遙か俳聖を偲びながら眼下の北上川を眺めていた。

 

   


夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡

奥の細道-平泉編-


 今眼前に萌え出る叢の中で雑草を打ち敷いた俄作(にわかづく)りの座を設(こしらえ)え、断崖の下を流れる北上川を望む。
 両岸には緑・黄緑・黄色と木々立ち並んで彩り綾をなし、その下を深い緑を湛えた北上が北から南へと東に大きく弧を描きながら盛岡の市街を抱きかかえるようにして流れている。対岸には岩手大学のキャンパスが様々な木立や建物を並べて街路樹の緑がここそこに見え隠れする街中に溶け込んでいた。それらはこの地を囲む山々の遠望と重なり合って、東北では仙台と並んで杜(もり)の都と謳われるに相応しい、緑豊かな街並みとなって眼前に拡がっていた。
 今の私の置かれた環境からほどなくしてこの盛岡の地からも離れなければならない。この地を離れ、そしていつの日にか再びこの地を訪れ、10年後だろうか二〇年後だろうか、その日も今日と同じようにこの叢に覆われた川岸の上に座って対岸の街並みを思い眺めることだろう。姿変わらぬこの北上の流れの前で、その流れに込めた今の私の想いと盛岡の街並みに織り重なった思い出と、そして、笠を座に詩聖杜甫の詩を口ずさみながら涙を落とした古の俳聖の感慨を偲ぶために。
        ―・・―・・―・・―・・―
 人の営みの儚さに比べ、北上川は悠久のときを刻むかのように流れている。人はただそこに流れている風景を指してそれを北上川と呼び、その映像は様々な思い出と結びつき、北上川という言葉の上に幾重にも降り積もっていく。それは、いつまでも変わらぬ愛しい実像として想い描かれ、移ろい行く街並みの記憶と薄れ行く思い出をその内に刻みながら、人々の安らぎを空気のように水のように陰から支えているのだろう。そして人はその前で遠く過ぎ去った思い出の日々に帰る。
 しかし、その北上の流れでさえも、永遠の時の流れを前にしてはその恒久性も一瞬と化し、やがては消えゆく定めをその内に宿している。北上の波間にさえ垣間見える、時の流れを貫く大いなるも峻厳なる意志に、新しい出会いに新しい別離を予感し、私の心は慄(おのの)く。
 全ての移ろいが時の流れに顕現する大いなる者の意志ならば、人の世の安らぎには常に別離(わかれ)の悲しみがその内に胚胎していく。人は愛に安らいつつ終わりなきものを望めばこそ、いつか来る別離を前にしては深い安らぎはそのままの落差で深い悲しみへと変わり、安らぎの日々がなければ遭うこともなかったであろうそんな悲しみであればこそ、安らぎに満ちた日々への追憶(ついおく)の中でさらに深く人の心をえぐる。そして、盲目のように彷徨う日々の中で新たなる安らぎにその悲しみを癒し、いつの日にか別離の悲しみにさらなる安らぎを求めてまた彷徨う。
 別離の悲しみは、思い出という鉄鎖に連なる奴隷のように人の心を過去へと縛り、果てなく繰り返されていく。それは、安らぎを求めて彷徨い、届かぬ思いを届けようともがく、愛故の終わり無き別離と悲しみの輪廻。そしてそれはまた、無常の儚さ故に却って幾度も繰り返さざるを得ない人の世の定め(かなしみ)。
 人は愛に安らぎを求め、なのに時の流れを司る大いなる者よ。安らぎの裏に潜み、ぬぐってもぬぐってもまとわりついてくるこの悲しみは何故(なぜ)に。何故(なにゆえ)に。
        ―・・―・・―・・―・・―
 心震わす恋の喜びや優しさに包まれた愛の安らぎがいつか別離の涙に変わっていくように、あなたが身近にいた何気ない日々は思い出として淡雪のように胸のうちを白く染めながら幾重にも降り積もり、いつの日にか別離の悲しみに流されて、乾いても消え残る涙の跡(おもいで)となって心の底に折り重なっていく。
 だから、忘れ得ぬ人よ、あなただからこそあなたを愛し、あなただからこそ愛する喜びに震え、あなただからこそ別離の悲しさに沈む。
 あなた故に愛し、あなた故に悲しみ、
 あなた故に喜び、あなた故に嘆く。
 そう、ただあなた故に愛しく、切なく、狂おしく……
 すべてはただ、あなた故に。あなた故に。 

 



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