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シュニトケ、その色彩 3

《白血病みたい》みたい、って? やがてやつれた麻里子に病室であったとき、わたしは既に彼女が死にかけていたのを見る。好きだったよ、と、せめて言えばよかった。生体と死体が二重写しになっていたような気がして、わたしはわたしがついたすべての嘘を告白しなければならない気がしたが、兄の研二は彼女よりむしろやつれていた。なんで言った。Trang は Thanh を、「白血病ごときで?」完全に被害者として抱きしめ、「って、思う。たかが、」確かに朝日に斜めに差された「たかが、さ、」川べりの路上で彼は「血だよ?」血にまみれたかれは犠牲者以外の何者でもない。Thanh は彼があの瞬感触れ獲るすべてに死を与えた。破壊して仕舞った彼はどうやって生きていくのだろう?自分自身も破壊しようとしたのだろうか。Trang に保護されながら Thanh は相変わらず非難の怒声にまみれ、その眼差しと声の群れに Trang さえも無力だった。彼らはこの街から排斥されようとしているかに見え、トラックがふたたびクラクションをならした。運転席から出された色の濃いベトナム人の上半身がなにか空間を扇ぐようなジェスチャーを繰り返し、振り返った Trang がそれを見やった。Tai sao ? 彼女の腕が Thanh を抱くようにして彼の身体に回されたまま、anh muốn giết Thanh ạ ? 私に近づいた瞬間に、乾いた空気の中にどうして?ふかされた排気ガスの臭気の間に Trang の体臭がした。彼女の あなたは、非議の声。Thanh を殺したいの? 言った Trang の眼差しの明らかな怒りの色を、私は目を逸らし、Thanh には手当てが必要だった。Thanh の伏せられた眼に、そして Thanh は涙を溜めていたのだが、屈辱の涙だったのか。私はすべてを失っている Thanh がまだ涙できることに驚きさえした。お前に、屈辱など「だいじょうぶですか?」二日前に加奈子が言った。「なにが?」感じ獲る価値すらないのに。「中国人の手先なんかになって」

「手先?」だって、と、加奈子は半ば笑うように、そうでしょう?言って、次の瞬間、本当に笑った。拳に Thanh を殴った時の痛みがあった。私への非難が Trang の上目遣いの思いつめた眼差しにあって、私は彼女の肩を抱く。見つめる。いつの間にか彼女の唇の端が切れていた。かすかに血がにじみ、私の指先がそれに触れようとするのを彼女は拒否する。その息が荒れた。草食動物のような夫婦はまだ家に帰ってはいなかった。Thanh の家の前に止まっていた三台のバイクは警察のそれに違いなかった。かくまわれたThanh を家のバスルームに連れて行き、Trang は家に入った瞬間に泣き始めたのだが、その瞳。一瞬、潤いが過剰になって、どうしてこんなに潤っているか、不審を感じ始めようとした瞬間に、涙が一気に彼女の眼から零れ落ち、あふれ落ちる滂沱の涙。それは重力への敗北を感じされた。Trang が背後に I…, can…, believe… 言った音声を記憶しながら、たぶん、触れてもいない指先の、《信じられないわ》と。その涙の彼女は。温度を感じた気がした。Trang の木製の椅子にうなだれるようにすわったままの姿を、私は Thanh を浴室につれて行く。何に対してももはや無防備な Thanh は、私にされるがままに彼の汚れた顔を他人の手のひらが洗うに任せた。人を殺したことがある。十四歳のときだった。Thanh の顔を洗う手のひらに無様な老醜がある。手の甲に一つだけ染み付いた染みが皮膚を汚す。時間の中に崩壊していく。老いさらばえた自分の穢さに目を背けることもできず、昭和天皇が崩御した数日後に祖父の姿を探した。「汪は喜んでいますよ」加奈子は昨日言った。どこに行ったの?母が言った。おじいちゃん、どこなんだろ?朝起きたときからその姿を誰も見かけなかった祖父は、豊と言う名の男。大工の棟梁だった痩せた男を捜し「でも、柾也さん的には、」午前十一時前、「だいじょうぶなんですか?」加奈子。背の高い女。肩幅がいやに広く、骨格の太さを感じさせたが、十四歳のわたしは神社に行く。赤坂。家のすぐ近くだった。アスファルトの坂道を上がる。そこにいる気がした。坂道と傾斜が連続し、どこを地表の基準にすればいいのか最早わからない。鳥居を入り視線の向こう、境内のほうに斑な人だかりができていたのが眼に留まるが、樹木の匂い。それらは生い茂った。木漏れ日が差していて、立ち尽くした神主が、だめ。言った。わたしを見咎めた「行っちゃ、だめ」その声を(息を殺した)背後に(早口の)聞いて、「あぶないから」(その、)なにが?(声。)人だかりの真ん中に、ひざまづいた老人が体を痙攣させていた。祖父だった。人々の表情は固まったまま引き攣っていた記憶があるが、それは事後に作った自分勝手な記憶操作にすぎない。人々の顔をなど、見もしなかった。駆け寄って、祖父の正面に回りこみ、腹を切った祖父の表情を見つめていた。殉死という日本人の営みについては知っていた。目の前のものがそれであることには既に気付いていた。砂利が赤い血で黒く染まり、祖父は普段着のままだった。上半身裸になって、それが正しい流儀ではないことはすぐにわかった。「見てみたいね。」我流の殉死。「じゃない?」汪が言ったのはいつだったろう?「人々の新しいライフスタイル、ね?」まだ死に切れてはいない祖父の失心しかけた眼差しは、私を捉えさえせずに、ただ地面を見つめているに過ぎないが、腹を割こうとした小刀は半分くらいまで裂いて停滞し、激しい全身の痙攣が肢体ごと刃物をわななかせていた。開かれっぱなしの唇が、痙攣しながらよだれをたらす。両方の腕がくの字に曲がったままで、私は決断さえしなかった。あまりにも自然に、むしろ意識さえされずに、私は祖父の固く冷たい拳ごと小刀を握って、思い切り腹に突き刺した。彼の身体が仰向けに倒れ、天を仰いだ。ざらついた手触りがあった。馬乗りに乗った私が彼の腹に突き刺した刃の先端に、砂利に食い込んだ、その。私の手に、内臓が触れた。やわらかく、発熱する、その。雨は降ってはいなかった。白い空が頭の上にあった。私はそれを見ていなかった。「売国奴、ですね。」加奈子は笑って言った。加奈子が「穢い、薄汚れた、人間のくず。」ダナン市に取ったホテルは真っ白い壁面の、「日本国民の恥。」そして窓からハン河が見えた。龍が、火、吐くんですってね。いつ?「日曜日と、土曜日」目の前のドラゴン・ブリッジの余興。龍のかたちをかたどった片端の龍頭が火を吹く。私の手に祖父を殺した実感が触感として張り付いていたが、龍には見えないよね。大半の血を失っていたからだろうか? 仔豚ちゃんみたい。「あなたもね。」私は 加奈子は言った。言い、「なにが、ですか?」皮膚が感じた祖父の温度は、極端に冷たかった。「国を売った人間のくず、って言うこと。」

「中国人なんかに国を売って?」加奈子の鼻にかかった笑い声を聞き、祖父は死んでいた。遅れて到着した救急隊員にできることは何もなく、どうして?思った。かれらは私を拘束したのか?なぜ警官たちは、「どうして?」加奈子は言う。私を直視して、「ちがうかも」

「なんで?」

「国を憂いてる、」ん、言いよどんで、革命家、とか?私は振り向いて加奈子の笑い声を眼差しに追いかけ乍ら、目の前の死んだ祖父の失われた無機的な眼差しを見つめ、いつの間にか祖父は一人で生と死の境界線を越えていた。加奈子の唇はあたたかい。あんなに死に切れなかったのに、すでに、祖父の死体は、簡単なことだ、とつぶやいたようにさえ 死など。見たのは、た易いことだ。たしかに、こんなにも。それは錯覚に過ぎない。唇がその温度を伴って私の胸元の皮膚に触れるのを、「穢い。」彼女は言う。「穢らしい男。」祖父にもはや言葉はなく「くそやろう、ね?」言葉が発される余地もない。「くそまみれの」身もだえした。「うすぎたない」彼らに拘束され乍ら、「まんこやろう」私は人々の声を聞く。「まざーふぁっかー」私をののしっているようにさえ聞こえ、「さいていおとこ。」本当にののしっていたのかも知れない。彼らは。「おかまやろう」耳元に言って、やがて開いた自らの太ももの付け根にわたしを誘ってみせ乍ら、加奈子の手のひらは私の頭を撫ぜた。感じているのは短く刈られた、私の髪の毛の触感に違いない。Trang 好みの。加奈子がベッドに晒したその身体に、斜めに光が当たった。窓越しの。指先が自分のそれを開いて見せて、見えます?加奈子が言った。どう?ん。ね、見えてる?

何を?

 

 

 

 

 

 

 

わたしの。どう?

臭いよ。わざと吸い込んだ息が匂った音をたてて、加奈子がそれを聞くのを、くさくて、穢らしくて、へど、でそう。

吐いていい?

ひど。音声を立てないまま加奈子が笑った。私の舌が彼女のそれに触れ、時に、その指先をさえなめる。三十代の女だった。もう駄目ですよ。言った。年取っちゃって。もうだめ。自分が、なんか、穢いの。

綺麗だったことなんかあるの?

ひどい。

生まれたときらか、穢かったんじゃない?

さいあく。喫茶店のなかで、媚を含んで私をなじり乍ら、左手にハン河が見えた。二十度を切った十二月の寒い時期に、韓国人たちは シャツ一枚で肌を晒し、意固地になっているように見えた。ここは南の観光地であって、常夏でなければならない。ここが彼らの国だったら、けっしてこんな気温の中で肌など晒さないはずなのに。そして、女たちは皆同じ顔をして、背ばかり高い男たちは地味で冴えない。加奈子は汪の子飼いの日本人女の娘だった。本業のブロックチェーンを使ったウェブサイトの広報の名目でベトナムを訪れ、私から首相官邸の設計図を入手した。私が独立前に監修した修繕時のそれ。彼女たちは首相を暗殺することができる。この人なら、だいじょうぶだなって、思った。加奈子は言った。なんで? だって。加奈子がささやくのを、匂い、する。聞く。売国奴の匂い。

 

腐りきった男の匂い。彼女が笑った。魂が死んだ 発情してるだけじゃない? 豚の匂い。自分が。

まさか。

そうでしょ。

あなたのほう。それは。「うそ。」私の声を、発情してるのは、耳元で聞き、あなたのほう

言いなよ。してくださいって。「海、いこうよ。」あなたのおちんちんをくださいって。言え。言えよ。「海?」言いな。あなたのおちんちんがほしくてたまらないんです。「なんで?」家から遠く離れた警察署で、ぶたみたいにひざまづいて「理由、必要?」けつつきだして、彼らは私を寧ろやさしくいたわった。「いつ?」あんなにも怒声を上げながら引き離したのに。祖父の死体から。暴力的に私を羽交虐めにして、「そお、だね。」なぎ倒すように地面にこすりつけさえし乍ら。だいじょうぶだよ。なにも、心配ないからね、と、あの時、祖父の腹に刃物を突き刺しながら私は泣いていたのかも知れなかった。それは悲痛な風景だったのかもしれない記憶があって、それは、かすかに、「海、いこうよ」泣いた実感などないままに、「いつ?」私はごめんなさい、とだけ言っていた。「昨日。」わたしが笑った音声を鳥居慶介は振り向いて、そして声を立てて笑った。「それ、不可能だから」聞く。

「じゃ、あした」笑い声を。同性愛。あまりにも自然な感情。二十代後半の頃、三年ほど私の恋人だった慶介の、90年代の黒人シンガーたちのような細かく編み上げられた頭髪を撫ぜてやると、慶介はいつも首を傾けて、髪の毛の色彩。赤、黄色、緑。疎らに染められた、黒い地に浮かぶ髪の毛のいくつかの色彩。前方に、しかし何も見てはいない視線を投げ捨てた数秒の後、私を横目に捉えて、すき?

なにが?

おれのこと。

すきだよ。

知ってる。ばらいろのまんこやろう。裸の尻を突き上げて、犬のようにひざまづいた私の舌が自分の陰毛の先端にやさしく触れた瞬間に、「くそですね」加奈子が言った。「くさった、おかまやろう」なんで?「でぶのくそやろう」なんでおれだけのものになりたいの?なんで、「はげ」おれにひざまづいて、「くさいぶたやろう」おちんちんくださいって、「いんぽの」よだれたらしながらいってるの?「まざーふぁっかぁ。」四つんばいになって、慶介のそれが私の体内に侵入するとき、ねぇ、なんで?私はいつも長く息を吐き、おれだけのげぼくになりさがりたいの?そうでなければならない完璧な正しさ。体内に慶介のそれを感じ取る時、やられるだけがとりえで、腸のひだがその皮膚の触感を感じる時、しりをふるのだけがいきがいの、蝶々が飛ぶ。きたないぶたになりさがりたくて、頭の中の、しかたないの?繊細な部分を。おまえのまんこくさってるよ。私の指が自分の膣にゆっくりと侵入するのを加奈子は身を丸めて確認し、唇を小さな「う」の形にして、彼女は媚にまみれた眼差しを私にくれ、彼女が感じていた。私の指さきの、その粘膜をなぜた触感を。不可触の奴隷か何かになりがったような眼差しで、Thanh の頭を撫ぜてやっても、もはや反応さえ示さなかった。床に目線を投げたまま、Trang に濡れた顔をふかれるに負かせ、彼はすでに崩壊していた。なじるように荒い Trang の手のひらの動きは Thanh が窒息することを求めてでもいるかのように彼の顔を無地の白いタオルごとこそぎ、わたしは眼を逸らして、Trang は 君は、私に Thanh を、見向きも 壊したいの? しなかった。泣きはらした Trang の白目の充血は温度を放っていたのだろうか? 何も言い獲ないままに私は近所のカフェに行ったが、涙に固有の 家を出た瞬間の冷たい大気が その温度を 皮膚に触れる。亜熱帯のあたたかな冬に、向こうまで広がる街路樹が曇り空の下におだやかな光に染まる。私は知っていた。周辺の樹木が硬直した幹の下で吸い上げた水分を繊維の中に満たし、葉の群れは息遣いながら光を噛み砕く。アスファルトの下の地表はのた打ち回った根に食い尽くされて、彼らは完全に、彼らが触れ獲た空間のすべてを制圧していた。素手に触れた場所のすべてを隷属させなければ気がすまない沈黙した巨体が空間に曝されている。彼らの数百年の時間軸に合わせたゆっくりとした知覚され獲ない侵攻。休まることのない成長を遂げ続けながら驚くべき多様性を彼らの形態がさらす。仮に動物だったら、彼らの形態のでたらめな多様性は、奇形に奇形を重ねた、もはや原型を確認することができない奇形種の集合に他ならない。空間にうねり、ひんまがり、根が打ちあがって、結合し、分化し、引き裂かれた枝から複数の枝が伸び、葉を生産し、その荒らあらしく、凄馬(すさま)じい形態の爆発が当たり前のように容認されていた。彼らと共に生きて在ることは、同じ空間の中でけっして同一空間を共有し獲ない事実の明示されることを意味した。触れ合う瞬間そのものの中で、それらは違う時空での出来事なのだ。交錯し乍らも、共有され獲ない、...Chào chị. 路面に 異なる時間。プラスティックの赤い椅子を 無関係な時間 並べただけの Chào カフェに 重ならない接触。行って、Một ly cà phê, 人々は椅子を引いて座ったわたしを見たが、Khanh カンと、Hạnh ハンと、Ánh アンと、chào em. ちゃおえん 五十代の Khanh  の笑いかけた こんにちは。声を聞くが、あとは名まえを知らない。交わされる挨拶の群れが、日本人が来たよ、と彼らの一人は店の女に言ったに違いなく、知ってるわよ、と Làm gì ?  彼女が答えたのはわかった。なにしてるの? 私に振られた手を、元気か?見て笑う。Khỏe không ?  陽気な Hạnh  の声、そして舌がない Ánh  が、うう、と言ったのは、久しぶりだね、と Lầu rồi không gặp言ったのだった。Today, off ? うう、không làm việc. 長いこと会わなかったね。うう、と、…sẽ mưa. 指先が空をさされていた。Khanh の痩せた褐色の指先。うう、と言って、六十代の Ánh は 雨が降るんだよ、と言った。なぜ彼の舌がないのか、理由は知らない。私は笑っていた。彼らにとって私はベトナム文化に理解を示す、特別な日本人だった。日本人は愛想のない韓国人よりはマシで、何をやっても彼らが気に食わない中国人よりもはるかにマシな、まだしも御しやすい Sir 扱いを求める馬鹿者たちの一種だったが、概して、神経質すぎた。まるで自分たちは人種が違うと言いたげな白人気取りの単なる黄色く野蛮な東アジアの三種の猿たち。なんで?と、私なの?由美子が言うのを、なんで、ねぇ。すきなの?言って仕舞えばよかったのに、と、「なんで?」私は思う。お前が穢いからだよ。自己憐憫に固まった、傷だらけの手首を持った女。死ねばいいのに、と私は何度も思いながら、由美子は私の体にしがみついて舌を出し、いつか、上目遣いに、眼を閉じたままの私の体をなめてみる。

 

 

 

 

 

 

 

 

眠ったふりをしたままで、夏の大気の温度の中で、さらに覆いかぶさった由美子の体温が汗ばませたが、乳首をなめる由美子の舌を、そして、彼女の歯は私の乳首に軽く当てられた。汪の事務所で加奈子と初めて会った時、「知ってますか?」汪は言い、彼女は眼をあわせようともしなかったが、二人だけで「日本は、可能性を持っている。日本人は」一週間後に麻布台のカフェで打ち合わせしたとき、ねぇ「自覚してないけど。すごく可能性が」汪は、知ってますか?言った。男になど興味など「ある国。政府なんかなくても、」一切ないとでも言いたげな醒めた眼差しを、加奈子はくれて「たぶん、」女も「機能してしまうのね。」オナニーするって「わかる?日本と言う国家を失っても、」知ってました?

え?と言った私に「日本人は日本人だよ。」微笑むわけでもなくて「かれらは守られてる。日本語にね。あの、」加奈子は、しかも、ね。結構「極端に難しい、基本的に日本人にしか話せない」はげしいの。なに、それ?「言語にね。日本人は何があっても日本人。」昨日、私、オナニーしてました。「日本国なんか」ずうっと。なんで、「なくなってもいいし、」オナニーなんかしたの?「天皇だって本当は必要ない。ましてや」柾也さん、思って。もう、「京都なんか全焼しちゃってもかまわないんだよ。彼らは」たまんなくて。笑って、「死ぬまで日本人。外国人は日本人には絶対になれない。」意味、わかりますよね?加奈子が言った。馬鹿かインポじゃなければ。「無政府状態にしちゃいたい。」それとも、馬鹿かインポですか?

汪の女の六十代に近い日本人女が「日本を。どうなると思う?」お茶を出したが「おもしろいよ。無政府状態になっても、」汪の赤坂の事務所は「何とかなるよ。」狭い。背後の「日本なら。ぼく、新しい世界のための」日本刀を背にして「実験、したいの。」上機嫌の汪が、その「政府組織の政治による統治っていうのが、」由紀乃と言う名の日本人女の尻を「だいたい十九世紀から、」撫ぜて、その「で、二十世紀をピークにして、」扇情的な手つきに「いまもほそぼそ続いてるよね?」女は嬌声をあげた。もう、「死にかけだけどね。」人様の前で、ほんとに、「どう思う?独裁者でも」もう、ね。化粧さえのらない「民主主義者でも宗教でもカリスマでも何でも」老いさらばえた樹木のような「政治によって統治し、ね?されるわけだけど、」皮膚いっぱいに媚を含んで「政治じゃないものによる統治もう、」彼女の顔が笑みにゆがむ。「統治されているとはもはや言えない統治っていうのに、」加奈子は彼女の娘だった。死んだ前夫との間に「興味あるの。アナーキーな統治。」ね?「韓国なんかじゃ駄目。」生まれた一人娘。「中国、もっと駄目。日本よ。日本だけ。ね?人類が、」夫の存命中から汪とは「ね。」公然の仲だった。「まだ見たことの風景を、」らしかった。「見ようよ。」と、汪が言った瞬間に、加奈子は声を立てて笑った。グラスを取って、振った。音を立てて氷が崩れ、振られるたびにコーヒーと水とが溶け合ううねるような流れがグラスの中に、黒以外の色彩さえ持たないくせにとぐろを巻いて、Khanh の笑い声を背後に聞いた。美しい Mỹ。弟に強姦された上で殺されて仕舞った、彼女はいつも Trang と寄り添いあうようにして、ふしだらなまでに戯れあって、後ろから忍び寄った Trang に胸をわしづかみにされた瞬間に大袈裟な声をたてて、二つの似通った身体がもみあいになるのを、私は見た。Mỹ の白い肌は、まるで色素異常をきたしている気がしたほどに白かったが、褐色の Trang の肌は滑らかだった。なぜ、法律上は外国人が未婚の状態の女性を連れ込んだだけで国外追放になるような国で、年端もいかない Trang のような子どもたらしこんでしまったのか、私は理解に苦しんだ。Trang の体は魅力的には違いなかった。かならずしも、私は興味を持てなかった。いかにも穢らしい淫売の体に過ぎない。例え、私以外に誰も知らないにしても。老いさらばえたホモの女。多くの男たちの欲望の眼差しに捉えられたに違いない身体の、残酷な末路かも知れなかった。いつ、と、Trang は言った。日本に帰りますか?日本に連れて行ってくれとは言わなかった。母国以外で生きていく自身などなく、それをひっくり返してしまうほどの魅力は日本にはない。帰らないよ、ずっと、Trang が声を立てて笑う。そばにいるよ。うそです。言う。私の嘘を絶対に信じようとしない Trang にとっては、いつか私たちの関係が悲劇的な終わり方をするのは証明済みの事実で、そして彼女はそれを望まず、ときに、それがすでに起きてしまったかのように泣きじゃくって、私をなじりさえしながらも、何の対処もしなかった。道路の向こうで Sĩ シー が私に手を振った。火に灼け焦げた真っ黒な男だった。彼の笑顔の向こうにペンキの褪せた家屋が連続し、私が施工した首相官邸修繕工事の設計図を加奈子は王に送信したあと、クリスマスらしいですよ。言った。予定では、Nhgĩa ニア たちが24日に爆破するみたい。成功すると思います?

 

 

 

 

 

 

 

 


シュニトケ、その色彩 4

祈ってるよ。私が言うのを、なにを?

彼らの成功を?「見つめていい?」加奈子は言った。ハン河の川沿いのカフェに、疎らな白人たちと大量の韓国人たちが席を占め、見事に同じ顔をした韓国人の女たちが寒そうに、それでもタンクトップから手入れされた白い肌を晒し続けた。奇妙な風景だった。「見つめてるでしょ。おまえ、すでに。もう。」

「やだって言っても、ずっと見てる。」Sĩ の手に首を握られ後ろ手に羽根を縛られた鶏が、ばたつきもせずに、観念しきっていた。「きれいな唇。」加奈子の声を、そして Sĩ は言っているのだった。来いよ、「ずっと、ちゅって、してたい」つぶしちゃうから、一緒に食べようぜ。Sĩ が笑い乍ら言っている。Ăn cơm chưa見てますか?ホテルの部屋の窓越しの日差しに、裸に向かれた尻を曝して、私の顔の上に加奈子の太ももが上下する。うぶ毛を光らせ、接近した皮膚のすれすれの距離の温度を感じた。「見てる?」

「何を」

「私の」両手で押しひらくように指を当て、開いて見せて、指先がその形態をなぞり、「くさいよ」

「そんなことない」

「かび、はえてるよ。」もっと言って。言った、私の下腹部に押し付けられた加奈子の顔が、内臓を圧迫しながら、しゃべるたびにその振動を伝えた。私の体内に。皮膚が、唇、かたちを潰した鼻、そして頬の触感を、「腐ってるんじゃない?」もっと。開かれた割れ目が濡れていて、その直射された日光に煌き、「げろの匂い、するね。」彼女の指先が一本だけ、その内部を撫ぜた。「発情してんの?」入れたい?「死んでもいや」Lê Thị Nhgĩa レ・ティ・ニア という名のベトナム人が、汪の相棒だった。「穢すぎて、虫たかってる」もっと、そして Nhgĩa が主催した桜桃会という右翼団体が売国奴懲罰の名のもとに、いま、首相官邸を爆破しようとしていた。私の手のひらが私の性器を撫ぜて、「自分でしたほうがまし」

「なんで?」

「お前の、穢すぎるから」彼女の息遣いを聞く。小さな痩せた Nhgĩa はなまりの強いでたらめな日本語で、「やだ。しないで」日本精神を復古させます、「ぜったい、やだ」言った。私の手のひらが にほんせしの 性器を ふこさしまっ、愛撫するのを加奈子は鼻の先に見つめ「くさすぎ。くさすぎて」Nhgĩa が真顔で言った。日本の、こころを。留学して3年目の「吐きそう」Nhgĩa の角刈りの頭は「すきだろ?咥えたいんでしょ。たまらない?」私の好みでも合った。灼けた肌に、独特の渇いた体臭が合った。やだ、加奈子が言って、「お願い、オナニーやめて」

「やだもん。お前なんかとするの」

「やだ」

「おまえのまんこ腐ってるじゃん」歪んでいたに違いない加奈子の顔は見えなかった。絶望にか、…もっと、と、嫌悪にか、半数の日本人と、して。恍惚?半数の、あるいは、歓喜にか。外国人留学生が組織した桜桃会は王の資金援助の下、そして「気違いだから」いつだったか加奈子は笑いながら言った。「外人の癖に、八紘一宇なんて言ってる。」カタナ、手入れして、ね?

でそう。わたしが言って、やだ。加奈子の一本の指先が自分の性器をなぜ続け、「くさってる」だしていい?「やっぱ、くさすぎ」やばいくらいいい、いい?白濁した液体が空中の一番低いところに射精されていくのを加奈子は見つめて、息を吐き、「日本を再生します」Nhgĩa が言い、私は目を閉じていたが、さいてい、言った加奈子の音声の息が私の性器に触れ、彼女は匂いをかいだ。私の皮膚の上にたまった精液の、くそやろう。そして「最低の豚。」かすかに彼女は、うんこ以下の、尻を振りつづけて、ますかき猿。なじるような、加奈子の指先はまだその愛撫をやめない。汪が集めた散花塾の生徒たちの中で、それは単に、容貌の最も優れたものを集めただけの集団にすぎなかったが、武器を与えられた桜桃会は立派に武装集団になっていた。変わりましたね、かれら。と私が汪に言った時、「銃と刀が勝手に軍隊教育してくれる、ね。」笑いながら汪は言って、彼の左眼は義眼だった。「猿に与えたとしても、猿なりの軍隊になるんじゃない?」もう四十年も日本に住んでいる、と言い、もう日本人なの。由紀乃が戯れるように言ったが、大柄で丸顔の王はくしゃくしゃにうなずき、それが嘘であることには誰もが気付いている。彼が日本と言う国や、日本と言う文化など愛したことないどあるはずがない。彼は常に、彼の目に触れるものだけを見た。由紀乃を愛したことと、日本国籍のすべての女を愛することとにはブラックホールの向こうとこっちくらいの隔たりがあって、由紀乃にまるで愛玩動物のような寵愛を施してやりながら、かれが、彼女を愛した経験があるとは思えなかった。あるいは、家畜を庇護するときの人間の心情を愛と言うなら、汪は愛の人そのものだったに違いない。彼にとって、家畜は愛され、慈しまれなければならなかった。日に灼けて短髪を金色に着色した Nhgĩa は、汪さんは、言った。日本人だと思いました。おっさんわにほんじんともーまった 王さんはすごい人です。

汪さんは日本人ですから。真剣を抜いて手入れし、桜桃会の人間たちは官邸爆破の後、切腹することを承認済みだった。次の総理大臣が決まっても、殺す。次も殺す。ずっと、殺すよ。汪は言った。政府が崩壊するまで。「日本のため。」十分、人は「未来のため。」いるから。「日本を先進国にするため。」中国人、ね、十六億人、いる。一人一殺で「新しい世界を日本から作る。」日本人全部、「もう、国家なんて領土を確保してるだけの」十六回粛清できますね?「不動産屋と変わらない。」ベトナム人だって、「人を殺すと犯罪ね。」カンボジア人だって、「でも、戦争は人間の営為。」ほかにもいっぱいいるよ。みんな、「もう、戦争なんてできないでしょ?」日本大すきだね。日本は「戦争こそが最高の外交だった二十世紀の戦争を」いい国だからね。すばらしい「戦争と言うんだったら、」みんな、大好きだよ。だから、「いまのは反政府ゲリラじゃない?」みんなで、作り直す。「くだらないよ。戦争できない国家なんて、」新しい日本、みんなで「やくざ雇った」作って、「不動産屋と一緒。」やり直す。天皇は「もういらない。」そのまま。かっこいいから。「いまだと、外交の破綻が戦争だね。」知ってる?万世一系、いいでしょう?「政治の破綻が戦争。国家の唯一の存在証明は」かっこいいね。「戦争すること。矛盾だね。」桜と刀と天皇は残します。「要するに、もう、」かっこいいから。「国家なんて存在しない。」本当の象徴天皇制をはじめる。僕たちの「無政府状態にして、新しい」民族の象徴、ね?「世界を日本から作る。ぼくは日本人を育てる。あたらしい本当の日本人を育てる」

「本気ですか?」

「本気だよ」笑った汪に、私は「本気で信じてないでしょ?」言い、こじつけですよね。「桜と刀と天皇はよく似合います。すきです。」汪が言った。桜桃会道場で、Nhgĩa が部下たちに切腹の流儀を指南した。彼ら、寄せ集めのさまざまな人種の人々に一様の高揚感があって、まるで集団ポルノだ、と私は思った。日本人会員たちはあせっていた。彼らより、より純粋に日本人で在らなければならなくなった彼らは、何より自刃に飢えていた。簡単な集団操作だった。彼らはお互いに正に切磋琢磨しあって、彼らが容認した日本精神を体現しようとしていた。「もう一回して」体の上で加奈子が言い、「柾也さんも、一緒に」と Nhgĩa が、自慰の指をとめないまま、加奈子は、「ぜひ、」もういっかい、「死にませんか?」言った。やってよ。「日本人でしょう?」…てか、何人とやったの?穢いおかまのおちんちんで、「あなたも。」なんにんのメス豚ちゃんたちとしたの?「私たちと、」えっちなこと。死にませんか?飢えて、豊満な尻を揺らす。何人目?

三人目。

たった?

 

そ。

なんで?

穢いおかまだからだよ、と、由美子に触れたとき、私は動物的ではない純粋な精神に触れた気がした。それは肉体の欲動に命じられた家畜のような感情ではなかった。やっていることは、同じことに過ぎない。しかし、確実にそれは何も生み出さず、破壊しかしない、精神と呼ばれざるを獲ない冷たい限界点の美しさに触れた、と思った。由美子を愛したことも、求めたこともないその事実のなかで、彼女の穢らしい動物の身体に触れる。あせっていた。刺激を与え続けなければ、それが萎えてしまうことなど、明白だった。やがて、哺乳類の根源そのものが私の性的な根拠をくわえ込み、それは錯誤に過ぎない。精神と肉体。その概念的対立など。それを、由美子は知っていただろうか?「ほしいの」精神とは肉体を破壊しようとした瞬間に現れる一瞬の背理にすぎない。「なにが?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「柾也のこころ。こころだけ。」由美子が言い、彼女の愛撫する手が私の皮膚をまさぐる。「ほんとに、」自分の唇に指を咬んで、舐め「ほしいのは、」唾液に濡れた指の腹が私の「ね?」乳首になでつけられて「こころだけなの。」息遣いながら勃起していく「柾也の、」乳首を、そして、やがて「全部。」軽く咬む。痛くないように。やさしく、そっと。わざと痛がって見せた私の頬を手のひらに抱いて、ごめん。ね?ごめん。彼女の唇が私の唇を塞ぐが、私は唾液が混じることを拒否した。美しい Trang。人種的な美感覚の差異を潜り抜ければ、だれにも彼女が美しいと言うカテゴリーの中に在ることが認識される。学生であることを明示する純白のアオヤイを着た少女たちの集団が川べりの用地の背後のカフェの前にバイクを止める。群れ、はためく白い絹が戯れながらうごめいて、振り向いた私を見つめる視線に気付いた時、少女たちの純白の中から彼女を見つけ出す。名前などまだ知らない。埋没された純白の中から差異し、私は Đỗ Thị Trang の存在を認めた。その少女の眼差しは息をひそめて身を隠し、むしろ埋没してしまおうとしながら、自分だけを引き剥がしていた。Lê Văn Hai レ・ヴァン・ティ・ハイ という名のベトナム人が日系観光開発会社の男に英語で話しかけ、日本語の通訳のベトナム女に仕事はなかった。明らかに東アジア風の服装をした、濃くはっきりしたベトナム風メイクのその女が、わたしに笑いかけて何か言い、え?

ね?

 

だね。私を捉えて話さない Trang の眼差しは警戒を解かない猫の眼差しに似ていて、目に表情などはない。筋肉は執拗に表情を形成しようとしたが、その中央に在って、目だけは一切の表情の表現を拒否し、ただ、光を咬み砕き続ける。その内部で。誰もがそうだ。それが人間種の限界に他ならないなら、そして、日枝信吾は首を振ってわたしに眼差しをくれたが、彼らはもうほとんどの主要な土地を獲得していた。そこはベトナム国家の領土だったが、そこは彼らの所有物だった。国家はいつか、彼らから簒奪するかも知れない。仮に、自衛隊が海を渡ってハノイを占拠し、ホーチミンの霊廟に火を放ったなら。ベトナム解放軍は日枝たちから土地を簒奪するに違いない。日枝たちを血祭りに上げて。ここはベトナムの領土に他ならない、と。日枝と別れたあと、私は川沿いのホテルに帰ろうとするが、一人だけ Trang が私をつけていたのは知っていた。ね?

日枝たちと別れる前、加奈子は耳打ちした。「あの、こぶたちゃん、ずっと見てるでしょ?」気付いてる?白いアオヤイが彼女の「調教したげれば?」女性的な身体の流線型をあますところなく隈取り、「ぱーんって、おしり、ひっぱたいて」それが、女性の衣類として最も洗練されたものの一つであることには「家畜みたいに。」間違いがない。「少しだけ、まともなこぶたちゃんにしてやれば?」ホテルの前を通り過ぎ「まともな知能もないくせに。」角を曲がる。「女の振りしてるよ、ね?」不意に日本語が「馬鹿みたい。」聞こえた気がしたが、それはすれ違いざまに耳に触れた韓国語にすぎない。背後で、河は曇った白い空の下で真っ白に染まる。走り出そうとして、一瞬足を速めるが、振り返ると Trang は必死な顔をして私を見ていた。声を立てて笑い、背後に Trang の甲高い笑い声を聞いた。振り向いて彼女に近づく。左手の車道をバイクとタクシーが疎らに通り過ぎ、向こうの観光客用カフェで白人が誰かに手を振った。Trang は一歩後ずさって身を固めたが、なしくずしの、媚びきった笑みが彼女の顔を歪めた。アオヤイの白さが彼女の肌の褐色を、見苦しいほどのあざやかさで描き出し、飛び掛るように私をひっぱたいた Trang をそのまま抱きしめた。一瞬腕の中にもがいた後で、彼女の唇が押し当てられるにまかせ、塞がれた唇の奥で彼女が声を立てて笑っていることには気付いていた。カフェを出て、Thanh たちの家に入ったのは、もうバイクが止まっていなかったからだった。警察も、見物人たちも立ち去っていた。鍵も掛けられず、開け放たれ、未だに血の洗浄もされないままに、彼らの死体だけ取り払われたそこには、もはや、誰もいなかった。薄い緑色のペンキが塗られた眼にしみこむような色彩の壁面は、ところどころに雨のしみを作ってはげかかっている。高い天井の下で、まだ午前八時のやわらかい日差しが差し込むが、肌寒さが消えない。間違いなく今は冬なのだった。二階に上がってみようとした瞬間に、床をグレーの猫が疾走して立ち止まり、彼の適正距離の中で振り向かれた私に、彼は振り向きざまの挨拶をくれた。鳴き声の、間延びしたたった一つのシラブルが、猫が言語を持っていることを私にふたたび悟らせた。吼える、という行為とは明らかに差異する、呼びかける音声。言語は意思を表現するためにあるのではない。むしろ、意思の直接的な表現を破綻させるためにあるに違いなかった。直接性の破綻した隙間が切り開いた掃き溜めの中に生じた可能性が文化なら、いま、私と猫とは文化構築の可能性を破産させてしまったことになる。興味を失った彼はすでに、どこかへ立ち去って仕舞った。空間にあるものは、何一つとして私のものではない。いまや、誰のものでもなく、人の気配さえないままに、廃墟化しないままに既に廃墟で在るにすぎない。諦めるしかない。何に? Trang の家に帰ったとき、その家にも人の気配がなかったことに、もはや驚きさえしない。同じような廃墟の気配が連続する。人気のない外の道も、Trang の家の広い庭も。手入れされずに樹木とバナナが生い茂って、バナナは自らの朽ちた葉をその身体にへばりつかせたまま、ココナッツの大木は葉を揺らした。家族たちを探した。土足のまま、すべての部屋をのぞき、人々の不在を確認した時に、そして私はリビングとガレージを兼ねた空間の木製の椅子に座ったが、Trang は浴室から洗いざらしの髪のまま出てきて、Trang が笑いかけた私の茫然とした表情を、彼女はふたたび声を立てて笑った。ひざの上に座った Trang の体温を感じ、石鹸の匂いと体臭の混ざった匂いを嗅ぐ。濡れた髪の毛のそれと、それらが束なって、彼女の身体がまだかすかに濡れているのに気づいた。短パンと シャツごしに彼女の体温が覆いかぶさって、...ở đâu ?

みなさんは、đi ở đâu ?

どこですか? 彼女は微笑み、私を見つめたにすぎない。Trang の指先が私の髪の毛を撫ぜた。一本だけ立てられたそれが、形態を確認するように、額をなぞり、鼻を撫ぜて、唇で停滞する。押し付けるようにして歯は見せさせられて、彼女の唇が閉ざされた。見下ろす Trang の目線が口もとの何かを確認した時には、彼女の唇は私のそれに押し付けられて、舌は私の歯の裏をなぞった。Trang の濡れた後頭部を手のひらに抱き、押し付け、ねじられた身体の、複雑に絡もうとする両腕がわたしを拘束し、気付く。彼女に違いない、と、私は。

 

 

 

 

 

 

 

 

気付く。Thanh に人が殺せるわけがない。草食動物のような、チキンの Thanh に。...Are, 閉ざされた唇の ...you, 隙間から彼女に ...killed 呼びかけるように ...them ? そして単純に何を言われたのかわからないままの彼女に、…kill,ね?...them ? わたしは至近距離の中で形態の正確さを破綻させた Trang の眼差しを直視し、彼女は笑っているに違いなかった。...Are, 舌が ...you, 執拗に私の ...sure ? 前歯の裏を あー、這う。ゆー、微笑みながら。しゅあ。夢を見た。たった一度だけ、その中で雨が降っていた。細かな雨が降り続いて、私たちは雨から逃げなければ為ら無かった。夢の中の触感さえない水滴の群れが暴力的にやがては海をさえ満たし、飲み込まれていく陸地を背後に確認しながらも、私たちは丘に逃げた。純白の空が広がり、足元の、海の汀は私たちに接近した。言葉を交わす余地も無い沈黙の中に私たちの息遣いを聞きつづけ、体温は集まって、やがて樹木に触れる。丘の上の樹木に登りながら、海に飲まれた人々はすでに息絶えていた。人の気配さえなく、孤独が私たちの実感にふれ、樹木に登る。雨が私たちの身体を洗う。同じ顔の Trang と Mỹ。彼女たちは本当に姉妹だったに違いない。瓜二つの彼女たちが触れた樹木の幹が彼女たちの身体にその触感を残し、すでに忘れ去られていたのだった。人々のことなどは。私が皮膚に感じた雨の触感が渇くことなく、そして、私はすでに忘却して仕舞った。流れ落ちるその触感が刻んだ雨の実在をなどは。迫った汀には水の臭気がある。Trang はあの草食動物のような子どものいない夫婦に育てられて、彼女は知っていたのだろうか?自分の出生を?樹木の上で息をつく。足元の水際は最早停滞し、漣を立てるだけだが、やんで仕舞った雨が、そして、やがて雲の間の晴れ間は爛れた純白の空を色彩を持って引き裂き、振り向いた Trang と Mỹ は見たかも知れない。世界を覆い尽くした水の漣、その自分たちの周囲に、樹木が散らした花々の花びら浮かんで、水はいま、向こうまで桜色にそまっていた。花々の汀が、足元で波を立てた。音はなかった。Mỹ は声を立てることなく Trang に強姦された。何もできはしない、何も壊せなかったやさしいだけの Trang の愛撫は Mỹ を強姦する。Trang は穢された自分を感じたのだろうか?それとも愛された自分を?階段を下りてきた Trang を人々の眼差しは確認した。美しい Trang。生まれたままの姿を曝す。白くないから、それは Trang だった。見せ付けるように、むきだしの(何を?)褐色の肌は(見せ付けられたのは、)人々に(何?)無意味に曝されたままで、二の腕に戯れに Mỹ が咬んだ歯型を残す。何を、母親が、見てるの? 何か ねぇ、言い出そうとした瞬間に、何を? Trang の刃物が彼女を傷つけてしまった。致命的に。振り向いた私は呆然としながら、散った花々の漣を見つめ、父親は悲鳴さえ上げない。指先が樹木を撫ぜた。何が起こったのか、彼は確認しようとして、のばされた指先に Trang が咬みついたとき、声が立てられる前に彼女の刃物が自分をも傷つけたのを彼は知っていた。体内から流れ出す血の匂いがしていた。痛みが彼の頭の中を白熱させたが、取り落とされた刃物を手にした兄を Trang が見つめる視線に、彼は Trang が泣いているに気付いた。痛みが彼女を泣かして仕舞った。痛いたしい彼女を守らなければならなかった彼が、にも拘らず、樹木は未だ生きていた。私はそれを知っていたし、指先が触れる樹木の幹はそれを明示してやまない。生きて在ることそれ自体が酷たらしく感じる。兄が自分の首を切って仕舞うのを Trangは、生きて在ること、生きて在ったこと、それらのすべて。見つめた眼差しは、彼が庭に出て、ふらつきながら、何かから逃げるように樹木に登って、うつむいた。背後から Mỹ に抱きしめられたとき、Trang は彼女を抱きしめようとしたが、背後からの抱擁があまりにも確かで、振り返ることさえできずに、Trang はただ、自分の身体に絡んだ腕を撫ぜて、Trang が望んだのではなかった。Mỹ が望んだことだった。床の上に取り落とされていたナイフを拾った Mỹ が何をするのか、Trang はもう気付いていたが、妨げるすべはなかった。涙に濡れた瞳が Mỹ の姿を捉えていて、そして、Trang はやがて、床の上に崩折(くずお)れるように倒れて死にかけた彼女の身体をベッドに運んでやる。壊れて、ただ、何かが、すべてが?壊れて、痙攣し続ける、その。運ぶには重過ぎる彼女の身体を抱きかかえて、その腕の中で彼女がすでに死んで仕舞ったのは知っていた。なぜ?唇は離れることなく私の唇をむさぼって、もはや閉じられたまぶたの暗闇の中でただ、私の唇の、そして体温さえもがまさぐられた。なぜ?Trang の鼻の息が私の肌にじかに触れる。彼女は Mỹ の体温をまだその皮膚に記憶さえさせていたに違いない。私には決して触れさせなかった Mỹ のその皮膚の体温を。破壊された身体の群れ、いつでも肉体は精神に敗北してしまう。た易く。Trangの唇が私の顎を舐めて、触れられた喉の頚動脈は彼女に私の鼓動を伝える。ときに爪を立てながらまさぐられた手のひらは私の胸の皮膚に暴れるままに、私が自分の性器を曝すと、ひざまづいたまま Trang は一度匂いを吸い込んだあとで、舌の先にその先端を触れた。唇を押しひらいて差し込まれた彼女のいくつもの指に、時に、私はえづきさえして、それらの理不尽な愛撫を舐め、Trang の開かれた唇は私の性器を完全に咥えこもうとして咳き込む。呼吸は阻害された。咥え込んだまま嗚咽し、咬みつきそうになりながら喉は痙攣する。涙眼で見上げて沫雪香(あわゆきか)

薄太礼迩零登(はだれにふると)

見左右二(みるまでに)

流倍散波(ながらへちるは)

( 何物之花其毛(なにのはなそも)

(巻八 春雑歌)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.02.04-02.08

Seno-Lê Ma(末尾引用は「万葉集」による) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


シュニトケ、その色彩 上


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著者 : Seno Le Ma
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