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はじめに

 ついに暗いトンネルが途切れました。どうか読者のみなさんも、この解放感を心ゆくまで味わってください。

 

 もちろん、それがずっと続くわけではありませんが、今は先の展開を忘れて楽しみましょう。それに値するだけの重圧を、これまで味わってきたのですから。


1 夜明け

 


 この日、昨日までとは全く違った一日が始まりました。長い悪夢の夜も、朝陽によって結局は白んでゆく。そのようにして、輝かしい、この新しい日は始まったのです。


「見てみろ、地面に張りつきながら枯れていた雑草が、今日は風でめくれ上がって、葉先を上に向けている。それに......目の錯覚だろうか。根本のあたりなど、失いかけた命を取り戻したように、若々しい緑色になっているじゃないか」


 誰かがそう言うと、ずっと家に閉じこもっていた人々は、窓や戸口から覗いた外の様子が、たしかに昨日までとは違っていることを知り、訝りながらも、恐るおそる屋外へと足を伸ばしました。彼らの心中では、一様に、奇跡を信じたい気持ちと、期待を裏切られる不安とが交錯しましたが、意を決して表に出ると、とたんに人々から一切の疑念が除かれることになりました。


「間違いない、空からの圧力が消え失せたんだ!」


 あれほど必死になって避けた大気に体をさらしても、いまや何の痛みも与えられず、のしかかってくるような重みは、もはや僅かたりともありません。やつれた体に感じられるのは、ただただ清々しい、晴れた朝に香るそよ風だけだったのです。

 

 

 

 そして島人たちは、ラノ・ララク大火山の方角に、信じられない光景を目にします。


 太陽の光に満たされた巨大な神像の群がり、そびえる高山を台座にして置かれた彫刻のごときそれは、北の大陸からやってきた三百人のアトラスたちでした。


「あれが、巫女さまが言っていたアトラスなのか......」


 空の重圧下にあって、それでも村々を歩いていたチェリア。そのチェリアから話を聞かされていた島民は、この巨人たちが何者であるか、そして何故ここにいるのかを即座に理解することが出来ました。


 また、アトラスを招いたチェリアであれば、今という時に、彼らアトラスたちと一緒にいるであろうことも容易に想像がつきます。そのため、まるきり様相が変わってしまった景色を前にして、呆然と立ちつくす誰もが、


「何はさておき巫女の話を聞こうじゃないか。全てはそれからだ」


 そう考えました。朝の陽ざしに照らされた人々の足取りは、こうして、何者かに操られるかのように、一糸乱れず、そろってラノ・ララク大火山の方へと向かっていったのでした。

 

 

 

"ラノ・カウ""ラノ・アロイ"とともに、島の三角形の頂点となる、この"ラノ・ララク山の"は確かに火山なのですが、ここ五十年ほどの間、ただの一度も噴火したことがないという休火山でした。若者の中には、このラノ・ララク山が火山だということを知らない者がいるほどです。


 そうしたラノ・ララク山に立つチェリアでしたが、そこで目を凝らすと、島中に点在している村々から、人々が自分たちのいる方へと向かってくる姿が見てとれました。


 高いところにいれば見通しがよくなるのは当然ですが、今チェリアが立っているのは、山でもそう高くない、ほとんど麓に近い場所でした。普通だったら、一番近くにある村々ぐらいしか見えないはずの高さです。なのに彼女は、


(こんなに高いところから島を見るなんて初めて)


 などと、依然としてその場で感心していました。では、どうしてチェリアは、そうした理屈に合わない視野を獲得することが出来たのでしょう。


 種を明かすとこうです。すなわち、場所は山麓であっても、チェリアが立っているのは、巨人アトラスの大きな掌の上であったのです。

 


 ふと見上げると、はるかなる上空で、アトラスの深い眼差しが自分を見守っているのが分かります。

 

  チェリアは、笑顔でその眼差しに答えると、今度はラノ・ララク山頂に目を向けました。そこには、一目では数えきれないほどの巨人たちが立ち並び、めいめいが天の底を押し上げている姿がありました。透明な彼らの体が、太陽の光を乱反射させ、その輝きに目がくらみそうです。


 チェリアは散乱する光に手をかざしながら、ふたたびラノ・ララク山に集いつつある人々の姿を見守りました。そして、アトラスの掌で膝をつき、


「たくさんの人が来ます。ここに集まるまでに、そうはかからないはずです」


 そう、アトラスの足元に立っているアサジに話しかけます。


 なにしろチェリアがいるのは、地表から遠く離れた上空なので、そうとう声を張り上げないとアサジにまで言葉が届きません。それでも、どうやらちゃんと聞こえたらしく、アサジが笑って頷くのが見えました。

 

 

 

 早朝、海岸でアトラスたちと向かい合ったとき、チェリアの目は、その三百名の先頭に立つ一人に釘付けとなりました。青い、本当に青い巨人。アサジが事前に教えておいてくれた、ただひとり人語を解するというアトラスです。


「こんな色の体があるなんて......」


 他のアトラスたちには固有の色がなく、しかも皆、ほぼ透明と言っていい体をしていました。その透明な体をとおして、先にある景色までもが見えます。このため晴天が透けて、その体が青く見えないこともありませんが、先頭の者は明らかに違うのです。

 

 

  彼の青は、完全に体の色らしく、その青も、空の青というよりは、きれいなサンゴ礁の海を思わせるものでした。それをあえて空の青だとするならば、よっぽど晴れて澄んでいる空の色です。すこしも濁りがないからです。あるいは、サファイアという宝石の青さ、それに似ていると言うべきでしょうか。


 そして、彼の深くて澄んだ眼差し、その瞳を目にしたとき、チェリアは、


(何も言う必要はない。何も言わずとも、この人は島を守ってくれる)


 と直観しました。はたして実際にもその通りで、青いアトラスはチェリアに向かってニコッと笑うと、前置きもなしに、


「僕らは、どこに行けばいいの?」


 と、子供のようなあどけなさで言ってきたのです。そしてさらに、


「出来れば、島で一番高いところに連れて行ってほしい。どうせ天の底を持ち上げるのなら、出来るかぎり上のほうまで押し上げたほうがいいものね。


 あと、その場所の近くに、あまり人家がないほうがいいな。僕らの大きい体が、みんなの邪魔になるといけないから」


 そう言い添えました。勝手を言って来てもらったというのに、このアトラスという巨人は、島人たちにかかる些細な迷惑までも心配してくれているのです。

 

 

 

「一番高いところ、ですか」


 チェリアが呟くようにして言いました。テピト・テアナで最も高いのは、タンガナの開催地でもあった、オロンゴ岬を山麓に擁するラノ・カウ山でしたが、ここは溶岩活動が激しく、ときおり火口から噴煙が吹きだすような危険地域でした。とても、この賓客たちを立たせられるような場所ではありません。


(そうなると浮かぶのが、次に高いラノ・ララク山。あそこなら静かだわ)


 と、チェリアはラノ・ララク山に、巨人たちを案内することに決めたのですが、そうして話がついたところで、青いアトラスがゆっくりと腰をかがめ、巫女と勇者の前に、その大きな手を差しだしました。


「僕の手に乗って。二人は道を教えてくれればいいよ」


 そう言われて、チェリアは右手に、アサジは左手に乗りました。

 

 

 

 青いアトラスが腰を伸ばすと、その掌上にあるチェリアには、地上がはるか遠くに見え、これまでに一度も見たことがない視界が彼女を夢心地にさせました。あらためてアトラスの尋常ならざる大きさに驚嘆しない訳にはまいりません。


「アサジさん、きっとあなたは経験ずみなのでしょうね、こうしてアトラスさんの手に乗るのは。あたしはもう、本当に驚くばかりで......」


「私も驚きましたよ。三か月近くかかってアトラスのところへ行って、事情を話し、こうして彼の手に乗せてもらいました。そして彼らが歩きだしたんですが、そうして島に帰ることになったら、たった三日でついてしまったんです。船も運んでもらいましたが、実に軽々とです。当たり前ですが、歩幅も力も違うのですね」


「じゃあ、三日前までは、アサジさんは北の大陸にいたんですか」


 チェリアがそう言って目を丸くすると、そのときアトラスの声が響きました。


「それじゃあ行くよ」


 青いアトラスが先頭を切ると一緒に、三百名の巨人たちが一斉に歩きだしました。

 

  が、奇妙なことに、彼らの行進は、ほとんど足音というものを立てません。

 

  巨人たちの足は、まるで地面を滑っていくかのようであり、その証拠に、この早朝、アトラスたちの足音のために目が覚めたという島人は、テピト・テアナに誰一人としていなかったのです。

 

 


2 掌上の垂訓

 一行がラノ・ララク山に向かっていく途中、青いアトラスの掌上にあるチェリアが、その手の持ち主に尋ねました。


「あの、ほかの方々は、皆さん、ほとんど透明な体をなさってますよね。なのに、どうしてあなただけには、固有の色がついてるんでしょうか」


 青いアトラスは、歩調を緩めることなく、ごく何気ない口調で答えました。


「みんな生まれたての頃には、僕みたいに色がついていたはずだよ。みんな同じように、晴れた日の空色がね。だけど、アトラスの一族はね、ずっと天の底を支えているうちに、いつの間にか、体の色を失ってしまうんだ。そして、もっと時間がたつと、色どころか、この体そのものが見えなくなってしまう」


「なくなってしまうの?」


 とっさにこう返してくる、どうやら自分たちの体を心配してくれているチェリアに、アトラスは、たおやかな笑顔を見せて言いました。


「なくなりはしないよ。確かにそこにいるんだけど、ただね、触れることも見ることも出来なくなってしまうんだよ。つまり、僕らの体が空そのものになる」


「空に、ですか」


「うん、いまの僕らには、感情も、また個人的な意識もちゃんとある。でも、アトラスの本質は、何も語らずに広がっている、この大空と同じものなんだ。だから、いつかは本来の姿に戻っていく。空に溶けていくんだ」


「そんな、あなたが空に溶けてしまうだなんて、そんなの信じられません」


 アトラスは笑顔のままでいますが、チェリアは、それを見ると、かえって悔しいような気持がしてきました。


「だって、ただ消えていくことだけが運命なら、その誕生はあまりに悲しいではありませんか。たとえあなたが空なのだとしても、今は、こうして私と話し合えるほど、明確な意識を持ってらっしゃるのでしょう。その意識は、自分が消えてしまうことを悲しまないというのですか」

 

 

 

 チェリアの、自分に対する愛着と悲しみを秘めた言葉に、アトラスは軽く彼女をなだめるような笑みを浮かべながら答えました。


「自分が消えてしまう悲しみだなんて......僕が、その瞬間、消えていく瞬間に感じるのは悲しみなんかじゃないよ。僕らが感じるのは、そう、我を忘れるほどの喜びなんだ。


 たしかに僕らは、自分を顧みなくなるごとに、言葉を忘れ、動けることを忘れ、最後には自分が存在していることも忘れてしまう。そして完全に自分のことを忘れてしまった時、僕らは空に溶けいり、空と一体になるんだよ。喜びに包まれながらね」

 


「喜びに包まれながら......?」


「そうだよ、チェリア。つまりこういうことなんだ。


 人はね、相手を深く想えば想うほど、そのとき自分という存在を忘れていることに気づく。その人は、自分を忘れることで、純粋な想い、純粋な愛となっているんだ。


 そこに愛だけがあって自分がいない、そんな場面に人は出会う。そのとき人は、愛のなかに溶け入ってしまっているからだ。うん、だから"いない"んだよ。


 そして人を愛するということは、限りない喜び、豊かで温かな喜び。そんな愛という気持ちと一体となった人は、きっとそのとき幸福そのものになっているんだ」


 アトラスは平然とこう言いますが、聞いているチェリアの顔に朗らかさはありません。


「そういうことを、実感したことがあるとは言いづらいですけど......ええ、言葉としては分かります。愛に溶けて自分がなくなることは、幸せだと言っているんですね。決して分からない訳ではありません。


 けれども、あなたは自分が"空に"溶けていくのだとおっしゃいました。空は、愛と同じではありませんでしょう」


「そんなことはないよ。空だって愛だよ。なぜなら、この世界そのものが、天界から“生き物”に贈られた愛そのものだから。そう、空も、海も、風もね。


 だから、この世界のなかで自分を忘れていられるのなら、それだって愛そのものという事じゃないかな。


 そしてチェリア、世界が愛なら、愛とはやはり喜びそのものだよ。だからこそ、オンパロスが、空を、つまり世界の一部を吸い込むとき、僕たちはそれが苦しいし、悲しいんだ。失って悲しいのは、それが喜びであったことの証拠だもの」


「空も愛、愛は喜び......そこに溶けていくことは幸せ......」


「うん」

 

 

 

「じゃあ、空になったあなたは、いつでも喜んで私たちを見ているの?」


 アトラスが頷くと、それまで眉間に皺をよせていたチェリアも、


「ごめんなさい、何も知らずに失礼なことばかり言ってしまって。無くなるのではないんですものね。悲しむことなんてないんですよね」


 そう言いつつ、口もとにやっと笑みらしいものを戻しました。


「私......正直に言うと、自分たちが今、こうして平和を満喫しているのを、とても申し訳なく思ってたんです。

 

 自分たちが引き起こした災難だというのに、そこから逃れるために、関係のないあなた方に来ていただいたこと、それを、とても心苦しく感じていました。あなた方の来着を望むのと同じぐらい、また後ろめたくもあったのです。


 でも違うのですよね。私たちが幸せでいられるのは、あなた方にとっても、決して不快なことではないのですよね。あなた方が、愛を注ぐことに喜びを感じるのなら」


 アトラスは無言で、ただチェリアの顔を見つめるばかりでした。


 巨人の瞳は、エメラルドのような緑色です。まったく濁りがないせいか、彼が思っていること全てが、この瞳に映し出されているかのようにさえ感じられます。そして、その瞳が、いまは「君の言うとおりだよ」と語っているようで、そのためにチェリアは、心の底から安心して、彼の大きな手に、我が身を委ねることが出来たのでした。


 青いアトラスは、そのままラノ・ララク山への道を確実に進んでいきましたが、しばらくすると、またもや右の掌からチェリアの声が聞こえてきました。


「どうしてあなたの体にだけ、色がついているのか、まだ教えてもらってません」


 え? と、アトラスも、肝心なことを忘れていた自分に可笑しみを感じたらしく、チェリアとともに、声を出して笑ってしまいました。


「ん、僕は下界に、つまりこの世界に降りてきてから、それほど月日が経っていないんだよ。だから、まだ空に溶けきるまでには時間がかかるんだ」


 アトラスがそう答えた、ちょうどその時、一行は、自分たちがすでにラノ・ララク山を目前にしていたことに気づくのでした。

 

 

 

 

 

 こうした経緯があって、とうとう一行はラノ・ララク山に到着した訳ですが、到着したとたん、その山頂を中心にして、巨人たちが整然と布陣。青いアトラスを除いて、皆すぐさま天の底に向かって手を伸ばしました。

 


 その青いアトラスは、一人だけ山のふもとに立ち、アサジのことは地面に降ろしたものの、チェリアのほうは掌に乗せたままで、村が密集している内陸部のほうへと、その顔を向けていました。


 そうしてからアトラスは、地面へ降ろしたアサジが、彼の足元でちゃんと立っているかを見守っていました。やはりアサジが負っている怪我のことが心配なのでしょう。

 

 

 

 そうこうしている間にも、島民たちは続々とラノ・ララク山の周りに群がってきます。


 いつしか集まってきた人々は数百を数えるまでになり、チェリアにとっても、そろそろ話をし始めてもよい頃合いと思われました。そう思ってアサジに視線を送ると、この意図を看取した勇者が、体いっぱいの大声で叫びます。


「これより巫女がお話をされる。みな、しかとその言葉を拝聴せよ。一言たりとも聞き逃してはならない」


 鋼のように鋭いアサジの声に、集まった誰もが緊張し、その切迫した視線が一斉にチェリアの方へと注がれました。すなわち、はるか高みにあるアトラスの手の上にです。もっとも、人々に声を届かせるため、その巨大な手は、大体腹部のあたりまでは降ろされていましたが。

 


 一陣の風が吹きわたり、人々の目には、チェリアの髪がフワッと風に揺れなびくのが見えました。着衣からのぞく白い肌がまぶしく、見上げていると、まるでチェリアが巨人たちを従えている女神のようにも感じられます。


 その女神の口から、いよいよ持ち前の澄んだ声が紡ぎだされました。

 

 

 

「こうしてアトラスさんたちの前に集まっている以上、皆さんの中には、軒先に訪れた私の話を聞いた方が大勢いらっしゃると思います。そんなあなた方は、これまでの惨事、苦しみの原因がどこにあったのか、今さら教えられるまでもなく、理解しておられることでしょう。


 しかし、このラノ・ララク山には、私の訴えにたいして、全く聞く耳を持たなかった者たち、あるいは、私が何かを訴えていた事自体を知らなかった者たちもいるようです。


 迷わずこの場所に集まってきた人たちの後ろを、なかば不審がりながら追随してきた者たち、それがどういう素性の者たちであるかを口にすることは、今はいたしません。が、ただ、あなた方が、これまでの惨事の原因について何も知らないということは......悲しいことですが、きっと間違いのないことなのでしょうね。


 ......ここには、そうした二種類の人たちがいらっしゃる訳ですが、逆に、私が話すべきことは一つしかありません。それは何も知らずにいた人にとっては驚嘆すべきことですが、以前に聞いたという人にとっては、同じことの繰り返しになるかもしれません。


 けれども、以前に聞いたという人も、再度耳にする私の話を、いま一度じっくりと味わってほしいと思います。言葉は、たとえ同じ内容であっても、それを聞く状況によって、人に訴える強さを格段に変えるものだからです。


 であるならば、この巨人たちを前にしているあなた方は、以前とは比べ物にならないほど、私の話を深く理解することが出来るでしょう。私はそう信じてやみません」

 

 

 

 こう前置きすると、チェリアは幾分か厳しい顔で、あたりを見回してから本題に入りました。


 その話は、太古、天と地しかなかった世界に、空の種がまかれ、それによって今のような空が出来あがったこと。その空の種が、デルフィー中毒者たちの悪念によって膨張、ラノ・アロイ山の高さほどにも巨大化してしまった現状までの説明に始まり、急場をしのぐため、勇者がアトラスたちを連れてきたという報せによって一区切りしました。


「たしかに、こんなにも幸福を感じさせる朝はありません。


 ですが、みなさん勘違いはしないでください。アトラスさんたちが支えているこの空が、昨日までと違うものになったなどとは決して考えないでください。


 たしかにアトラスさんたちの力によって、島には素晴らしい平和がもたらされました。これまでの苦しみが嘘のように思われる平和がです。


 ですが、もし彼らが島を去ったとしたら、残された私たちはどうなるでしょう。


 その結果は明らかです。何も出来ないまま、私たちは、天の底がただちに地上に落ちてくるのを見ることになるのです。みんな死んでしまうのです。それが現実です。我々を取りまく危険には、いまも何ら変わるところはないのです」


 聴衆たちは青ざめ、不安がざわめきを煽ります。しかし、そのざわめきも、巫女の峻険な声によって、それ以上に盛り上がるのを絶たれました。


「では、私たちはどうすればいいのでしょう。今、何をすればいいのでしょう。基盤のない、砂上の楼閣のような平穏さを与えられただけの今。本物の平和を手にするための猶予を与えられただけの今。そんな今、私たちは、何をすればいいのでしょう。


 答えは一つです。私たち島民の汚れた心が、このように陰惨な事件を引き起こしたならば、まずはそれを正していくしかありません。


 そうです。すべての島人たちを同胞であると信じて、他人の心を自分の心だと思って、共にその心を正していくしかありません。天の底とオンパロスをもとに戻すには、この島を、以前の姿に還すしかないのです。もとの美しい姿に還すしかないのです。


 ここに集まってくださった皆さん、どうか以前の、明朗で純真な心を取り戻してください。あるいは取り戻させてください。


 私の願いはそれだけです。私たちの目標はそれだけです。そして、島民全員が"生き残る"ための手立てはそれだけなのです」

 

 

 

 

 


3 新しい日を迎えて

 島民たちは、みな巫女の言葉に圧倒されていました。一言一言に真実があり、有無を言わせぬ説得力が迫ってくるからです。とても十四歳の少女の言葉とは信じられず、あらためて知る巫女の血の偉大さが、彼らの胸を熱くさせました。


 この日、巫女チェリアの魂からの訴えが、人々の心を変えつつあったのです。


 チェリアも言っていたとおり、このラノ・ララク山には、失踪していたデルフィー中毒者たちも姿を見せていましたが、そうした者たちまでが、


「キンナラは、巫女の呪いによって空が重くなったと言っていた。だが島の巫女が、こんな人が俺たちを呪ったりするものか」


 と、わずかな矛盾もなく、これまでの事情を説明するチェリアに接することで、自分たちがしてきた事に疑念を抱くだけの冷静さを取り戻しました。


 長期にわたって苦しみ続けながら、今日という日に最上の喜びを味わえた人々は、その背後にあった摂理を解き明かしてくれる巫女の言葉を、心から噛みしめずにはいられなかったのです。


 中には泣いている人もいます。嬉しさの涙であり、悔いの涙でもありました。

 

 

 

 アトラスの掌から降りたチェリアは、集まった人々の顔を改めて見渡しました。そこには、深い悔悟の色を浮かべつつも、自分の過ちを受け入れることによって、次第に清澄になっていくという表情の変化が見られます。


「私が悪かったのです。まるで問題の部外者のような態度をとり、人にばかり責任を押し付けていたのですから。私は、何もしないという悪行によって、自分が天の底を地上に近づけていたことを自覚せずにいたのです」


 これは女性が、涙ながらにチェリアに言ってきたことですが、つぎに挙げるのは、なんと、あるデルフィー中毒者の言葉です。


「私はキンナラという老婆のもとで暮らしてきた者です。薬も飲みましたし、狂いもしましたが、時々まともな意識が戻ることがあるのです。


 ちょうど今がそういう時期にあたっておりまして、それだから、ここに来ることも出来たんです。もちろん、ここに来られないほど狂ってしまった者たちも大勢いるわけで、そいつらは、今も薬を飲みつづけているのでしょうが......


 それにしても、巫女さまの話を聞いて、自分がしてきたことが空恐ろしくなりました。そして、どれほど私が愚かしくとも、自分の快楽のために、同胞である島民たちの命を奪うような真似をし続けるのは御免だと思いました。

 

 これからもとの家に戻り、そこで妻たちの言葉に耳を傾けることから、自分の立て直しを図りたいと思います」


 他にもたくさんの人たちがチェリアに話しかけ、あるいは彼女のまえで自らの罪を告白しました。多くの人たちにとってこの日は、自分たちが新しく生まれ変わるための、始発の時となったのでしょう。


(本当によかった。これならテピト・テアナを復興できるかもしれない)


 チェリアは、そう思って目をつむりました。


 そして、自分の言葉によって、彼らが真っ当な生き方に目覚めてくれたのかと思うと、僅かなりとも巫女としての義務を果たせたような気がして、その分だけ、ほんのりとした幸せが身を包むのを感じるのでした。

 

 

 

 しかし、そろそろ民の足も帰宅の途につき始めたらしく、ラノ・ララク山から、ゆっくりとではありますが、次第に人影が減っていきました。チェリアの話が終わった時点では、誰一人として動こうとしなかった聴衆たちでしたが、それでも正午を回らないまでに、ほとんどの人たちがこの地を去っていきました。


「ねえ、あれ、もっと見てたいんだよ」


「あれとか言わないの。もう、しつこいんだから。家に帰っても見られるでしょう。何て言っても、あんなに大きいんだから。私たちを助けに来てくれた方々を、そんなにジロジロと見てたら失礼だと思わないの? ほら、皆いなくなっちゃったんだから、私たちも帰らなきゃ」


 と、そんな他愛のない親子の会話が、一番最後に聞こえた島民の声でした。

 

 


 こうして人々がいなくなったのを確かめると、チェリアも、とりあえず一度砦に戻ろうと思い、アサジを帰路に伴うつもりで彼に近づいていきました。


 いかにも軽やかな足どりでアサジに近づいていったのですが、このときチェリアは何かしら生臭いものを感じました。


(これ、もしかして......)


 十歩ほど先にいるアサジは、一応は直立しているものの、その立っている姿に生気が感じらせません。伸びた髪からかすかに覗く顔は、ほとんど蒼白に近いもののようにも見えます。


 そして、生臭いと思ったものが、彼から漂う血の匂いだと分かると、驚いたチェリアは、短い距離を、それでも必死に駆けてアサジに近づいていきました。


 しかし、アサジは踏みしめられるチェリアの足音に合わせるように、崩れ落ちるようにして体を地面に近づけていきました。

 

 

 

「アッ、アサジさん! アサジさん!」


 チェリアがアサジを支えると、その脇腹に巻かれていた白い包帯が、いまは鮮血でびっしょりと染められているのが分かります。アサジは、顔を冬の満月のように白くさせながら、それでも無理に微笑んで言いました。

 


「そんな大声を上げるほどの怪我ではないんですよ。痛みはしましたが、もう治りかけていたのです。ただ、さきほど調子にのって大声を張り上げてしまって......塞がりかけた傷口が一気に開いてしまったようです。


 せっかくの喜ばしい日ですからね、私としても何とか最後まで、持ちこたえようと思っていたのですけれども、これじゃあ情けないですよね。守るべき巫女に、そのような顔をさせてしまうとは......」


 そう気丈に言いましたが、その先を続けることはできません。


 巫女の柔らかな膝に、それまで何とか保っていた緊張を吸い取られるようにして、勇者アサジの意識は失われていきました。


「アサジさん、あなた、何てことを......でも良かった。血脈に衰えはない」


 チェリアは、集まっていた砦の人間にアサジを担がせ、ただちに医者のもとへ連れていくことを命じました。

 

 

 

 

 島には以前の平穏さが戻りつつありました。


 空の圧力さえ無くなってしまえば、あたり一面は、まさに春の盛りのころ。いたる場所から新緑の草むらが萌え出してくる様子は、まるで充溢した土の力が、これまで自分を押さえつけていた苦悩の壁を、一気に突き破るかのようで感動的でした。


 これまでの事がありますから、島人たちには、なおのこと周囲が美しく感じられもしましょう。村のあちこちから家屋修繕にともなう物音が響き、またその合間には、朗らかな笑い声が絶えることなく響きわたりました。


 人々の暮らしぶりも、元通りの堅実さを取り戻しており、荒れてしまった畑には、整地にいそしむ男たちの姿が。いい匂いを立てる厨房には、かいがいしい働きを見せる女たちの姿が見られました。この新生の春、テピト・テアナには、芳しい島の美しさを謳歌する、限りない喜びの歌が溢れていたと言えるでしょう。

 

 

 何でもないながら澄んだ輝きにみちた光景、男たちが耕し、女たちが家を守る光景は、軽やかな足どりで村を巡っているチェリアにも、胸温まる一時を与えていました。


「あの日から間もないのに、島の様子は驚くほど変わってる。だって、今も別世界を歩いてるような気持ちなんだもの。


 久しぶりにラノ・アロイ山のほうに行くけど、この分だったら、オンパロスだって、申し訳なさそうに身を縮めているに違いない。そうなっていて当然だわ。だって、この島の美しさが、オンパロスを実際に見るまえに、目にすべき結論をちゃんと出しているんだもの」


 人々の悪念によって膨張する不気味な種とはいえ、島の様子がこうも健全なものになってしまえば、オンパロスがもつ伸縮性は、もはや問題解決の進行をはかる目盛りも同然。小さくなればなるほど、それだけ島の復興が確実に近づいていることになる。チェリアには、そのように思われました。


「でも......ここから見ると、オンパロスに変化は感じられない......いえ、小さくなっているとしても、それが僅かなものだったら、ここからでは、まだ遠くて見えないものね。もっと近づいたら何か分かるかもしれない」


 村のひとつを通り過ぎながら、チェリアがひとり言いました。


 そうして、やがてラノ・アロイ山の麓から、真横に聳えるオンパロスを眺めることになったのですが、それほど間近で見たのにも関わらず、それでもオンパロスに変わったところは見受けられません。


「小さくなってない......けど、ええ、予想とは違ってしまったけど、あれから、まだそう日が経ってないんだもの。結果が出るまでには、やはり時間がかかるんだわ。あんなに幸せそうな村々の様子だもの、少しもすれば、きっといい結果が見られるはずだわ」


 しかし、そう言うチェリアの唇には、否もうとしても、どうしても表れてしまう無念さが宿っていました。

 

 

 


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