閉じる


<<最初から読む

5 / 7ページ

月の船、星の林に 5

「裕幸くんでしょ、潤ちゃんも」彼女は身を屈めて、声を潜めながらかけられる言葉を聞きながらわたしは、彼女が誰の母親だったのか思い出しあぐねるばかりで、「弘明君の」裕幸が言った。弘明の家族も、事件のあと、引っ越していった数世帯のうちのひとつだった。どれだけの家族が引っ越して言ったかわからない。翔の家族含めて。被害者にも、加害者にも、わけ隔てない平等さで。とはいえ、事件の関係者であることを伏せて生活するためのものではあったはずの引越しが、その意図を実現させえた例はない。どこでも、誰もが、すぐに、彼らは彼らであることを指摘され続け、結局は事件現場から距離が離れたという以外ではない。元気だったの?変わりはない?交互にわたしと裕幸を見返し、もう、「死んでお詫びするしかないんですが、」と彼女は繰り返し言い続けていたものだった。ほんとに久しぶりね。翔の葬儀に顔を出そうとして、その家族に拒否されながら、「死んでお詫びするしかないんですが、」彼女は言った、喪服の人々の群れに、目を逸らされながら意識され続ける中に、「お詫びのお線香のひとつだけでも。そうじゃないと、わたしも死に切れないんで」彼女は泣きじゃくりながら言い、まるで被害者のように、とはいえ、確かに、彼女たちも生活を破綻させられた人々の一群のうちの一人には違いなかった。「常識で考えて、ここは引き取って。」翔の叔父が言って、彼女を連れ出そうとするが、彼女は同じ言葉のヴァリエーションをいくつも並べ立て、不意に、翔は二度埋葬されるのだ、とわたしは思った。弘明たちが、だれにも見つからないようにコンクリートづけにしたあの深夜の埋葬と、そして、これから為される焼却の上の、墓地への埋葬と。祐樹が言っていた。翔を埋葬して帰ってくる自転車の上で、坂道をこぎあがりながら、一哉は思い出したように、呪われちゃったよ、絶対、呪われちゃった、と口走り続けた。興奮状態が、彼の顔に赤斑を与え、一哉は甲高い声を立てて笑いながら、その性急な声を祐樹は聞く。もう終わりだって、絶対、俺ら殺される。そうに違いない、と祐樹は思った。生きられるわけがない。俺たちは、もう死んだ。「あいつらをぶっ殺してやりたい」父が言っていました、と薫は言った。「あいつらを」誰を?「殺すだけじゃまだ足りない」誰から、誰までを?って、思っちゃいましたけどね。薫は言った。あんなに、みんな、どっかで、加担してたのに。「あれから、ご無沙汰でした。本当に、長い間、」裕幸は言葉を切り、彼女の名前は木坂ハナエかカナエという名前だったことを思いだしたが、お忍びで翔の命日前日に彼女の墓に参っているのだと言った。年々、墓地の荒れ方はひどくなる。翔の家族が町を出て行ってから、誰も手を入れる人間がいないから、と、近所の板金屋が言っていたと言った。「たまに、俺が掃除してるんだよ。見かねてね。さすがに」ひどいもんでしょう?とカナエかハナエは言い、事実、翔の家族たちは墓参りさえもう何年もしていない。あれじゃ、あの子がかわいそうで、と、彼女は、生前の翔と彼女は一面識もなかったはずだった。今でも、と、今でも思い出すのよ。彼女は言った。どんなに苦しかったの?って、今でも思い出すの、とハナエかカナエは言った、あの子の痛みや、悲しさや、苦しさや、悔しさやが、今でも思い出されてならないの、だから、と彼女は言って「毎年、お墓に行くんだけれどもね、」それはもう、何もできないから、と彼女は言った。死んでお詫びするしかないんだけれども。祐樹が、その後、地元の小さなやくざ組織に入って、小さな組を構えはしたところまでは知っていた。とはいえ、末端の小さな組織に過ぎない。当時、ネットワークビジネスに似ていたそれは、自分以下の末端を作り続けることでしか維持できなかった。末端近くはいつも、発生と破綻を繰り返し続け、安定と言うものを知らず、末端近くからそれ以上に這い上がれることは、基本的にはない。祐樹は一番、気弱な奴だと認識されていた。寛人に、公園で、不意にみぞおちを殴られて、うずくまりながら息を継いでいたのを覚えている。寛人は声を立てて笑って、油断すんなよ、言い、いま、祐樹に、誰かが漏らした失笑の声さえ聞こえていないことはあきらかだった。その失笑が、祐樹に向けられたものではないことは気付いていた。無意味で、唐突な寛人の暴力に対するそれに過ぎなかった。寛人が今、何をやっているのかは知らない。事件のときが、十五歳で、おきまりの、裁判、精神鑑定、カウンセリング、保護観察、その先に、今彼がどこで、どのように暮らしているのかは、誰も。多くの人間が、けして悪い人間ではなかった、と言った彼の父が、あの事件以降発病した極度のうつ病が、金銭的な面でも何でも、彼らの生活を破綻させたことをは知っていた。図太すぎるんじゃないかと言われながら、もともと住んでいた家にあれから十年近く住みんだあとで、結局はどこかへ引っ越してしまった。多額の借財を抱えていたには違いない。自営の広告デザイナーだった。レタリング文字と、看板製作が専門の。ハナエ、或いはカナエの後姿に一瞥をくれ乍ら裕幸が言った、俺、あいつが死んだとき、なんか、すごい醒めてたんだよね。ハナエ、あるいはカナエは喫茶店の仕事に追われ、豊かな生活をしてはいないことはあきらかだった。雇われで、あの歳で、こんなパートをしているのだから。彼女をわたしは目で追いながら、お前、どうだった?翔が死んだとき、と、裕幸が言った。どうって?だから、泣いたとか、腹が立ったとか、裕幸は言い、一哉に裕幸が「お前、人の彼女に何やってんだよ」と詰め寄っていたのを、見たことがあった。

 

学校で、まだ翔が監禁されていたときに、そして、その打ち明けられるような小声に、むしろ祐樹が「寛人さんだから」と言った「連れ込んだの。だから、あの人に言ってよ」舌打ちする裕幸は、ややあって、お前ら、本当にやばいよ。わかってる?「わかってるよ」おれ、と裕幸は言った、なんか、「悲しかった」わたしの声を、「すっげぇ、泣いたの、覚えてるよ」そっか。おれは、と、裕幸は、知ってる。祐樹が不意にうつむいて、あのとき、そう言ったのを記憶している。実際、なんか、おれの人生終わっちゃった気がするもん、マジ。と言う祐樹を、泣いたの?お前、と裕幸は言った。「泣いたよ。普通に」わたしは答えるが、それは半分以上嘘だった。むしろ、わたしがあの事件が起きたことを実感したのは、数年後に出版された、事件のルポルタージュ本を読んだときだったのだから。その、自主規制のかけられた、かなり水で薄めて書いてある本を読んだときに、わたしは、彼女の全身の苦痛を思い出した。何度か、祐樹の部屋で目の前に見た彼女が与えることのなかった苦痛の記憶が、唐突に、わたしの中に思い出されて、わたしは涙を流すことすらできなかった。よみがえる痛みと、苦痛と、恐怖の記憶が、ただ、わたしにできることは、それらに耐えることでしかなかった。なぜ?「俺、泣けなかったんだよ」と裕幸は言った。なぜ?口ごもり、ややあって、なんか、むしろさ、自分が恥じかかされた気がした。「なんで?」わかんない。あいつ、彼女だったじゃん、俺の。だから、なの?わかんないけど、すっげぇ、恥じかかされた気がして。「だれに?」わかんない、裕幸は言い、なにに?それをされたのかわからないかのように、窓花は指を自分のそこにあて、流れ出てくるわたしの精液を指にもてあそびさえするが、鼻に匂いを嗅いでみせ、ばっちい、声を立てて笑った。女は壁にも垂れて座り、ベッドの上の行為から目を離さないまま、未だに目を離さずに、薄く開いた口からひそめられた息を吸い、吐き、この女が最早正気だとは思えなかった。毎朝、朝になれば、窓花に食事を作って、さんざんキスをせがんだあとに、会社に行き、部屋の外では彼女の以前からの日常が継続しているにはしても、部屋の中のこの新しい日常と、どういう接続がされているのか、どうつじつまが合わされているのか、わたしには理解できなかった。「潤ちゃん、ねぇ、」窓花は、指先を眺めながら言い、傍らでわたしは「子どもほしい?」その乳房のかすかなふくらみに「できちゃったら、どうする?でも」戯れに舌を這わせてみるが、窓花は「超違和感あるよ、俺」声を立てて笑いさえして、わたしの「おれが生んじゃうの?子ども」頭を撫ぜる。「だって、俺、けど、できちゃうんだよね」結局のところ、為されているのは「普通に。でも、欲しい?できたら、」年齢をさえ別にすれば「うれしいのかな。できたら」当然の営みに過ぎない。「それ、普通に」普通の男女の。そんなことはわたしだって知っている。「潤ちゃん知ってる?」彼が女を抱くときの「男の体ってさ、だから何?って感じなんだけど」どうしようもない身体的な「やっぱ、いいよ。知ってた?」ぎこちなさがここにないことが「普通にいいんだけど。これってさ」むしろ、ぎこちなさを与える。「女に目覚めたってヤツなの?俺が?」当たり前の営みの中で「笑っちゃうよ。俺?」どうしようもなく「やめて。勘弁してって感じ」窓花は声を立てて笑った。眠くて仕方ない女は、半ば目を開いたまま、眠りかけては目を開く。その緩慢な繰り返しが止まない。身を寄せて、わたしに口付けようとしたとき、予想外の拒否にあって、Bạch はすねたような顔をして、「どうしたの?」問いかけるその声をわたしが聞いているのを、彼女は知っている。「わたしのこと、嫌いになったりした?」窓の向こうに、雨の濡れた風景が、ただ、白く広がり、その降雨の、あらゆるものをうって止まない音が、耳の中に反響しさえしているのには、わたしだって気付いていた。あの、おそろしく旧式な設備と最新設備がごっちゃになったできそこないの研究室には、もう二日間も通ってはいなかった。Nam も、だれもが、あわてているかも知れないし、そうではないのかも知れない。少なくとも、電話すらかかってこない。そうしたものだ、と思っているのかもしれない。なんといっても、彼はマッド・サイエンティストなのだから。Bạch は、出会って以来、一度も両親の元に返ったことはなく、もう二日もたった。両親は探しているに違いない。とはいえ、彼女の電話が、鳴りもしないのも事実だった。どうして?彼女は言い、雨が降っていた。ねぇ、どうして、雨の日の日差しを反射させた彼女のキス、だめなの?横顔を見、息がかかるほどの近さの中で、「君を死なせるわけにはいかないよ」わたしが言うのを聞く。意味ないよ。だって、どっちみち、もうすぐ死んじゃうんだもん。わたしは瞬き、思い出す。《しずか》はカンボジアの、ベトナムとの国境近くの町で、褐色の肌のよく灼けた少女になっていた。005番、そして、双子の006番。そこに一時停車する国境を渡る長距離バスのための休憩所で、ベトナム料理を出している店を、彼女の両親と営み、十歳になった彼女は、母や父とは似ても似つかないほどに美しい。声をかけるわけでもなく、ただ、彼女を目で追う視線に気付いて、彼女は一瞬訝るが、それ以外のかかわりはなく、それ以上に関わらなければならない必然性もない。この店が、彼女の母に、汪によって支払われたカンボジアの貨幣価値においては多額の金銭で始められたに違いないことも、わたしは知っていた。二人は撤退の産物に過ぎない。まともな人体を生成する必要性があった。彼らは修正された単なるクローンに過ぎず、忠実な複製ではないという意味で、クローンですらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人体の複製そのものが、受精という正確なクローニングの破綻から発生するのであって、そもそも複写とはいえないことから言えば、要するに単なる人体に過ぎない。人体の諸限界に基づいて構築された、それ固有の存在。ただ、美しすぎ、諸能力が高すぎるだけだ。もう一度、唇を寄せようとする彼女を、もう一度、拒絶し、駄目だよ。「だから」と彼女は、なんで?「ねぇ、なんで、駄目なの?」俺の唇の上で、当然生命を維持しているはずのさまざまな雑菌の群れのひとつが、君の命を奪ってしまうことだってある「それがどうしたの?」君を、俺は、殺したくない「なんで?」不意に、わたしは言葉に詰まるが、ややあって、「守ってやりたい」と言ったとき、わたしは窓越しの日差しに瞬きながら、確かに、そうだ、と思った。何が?守るとは、何を?誰が?守るとは、どうして。何から?頬に触れようとしたわたしの手が、思いあぐねて、その至近距離にとどまるのを彼女は一瞬訝った後、とはいえ、その手のひらに頬を埋めようともしない。見つめる彼女の視線に見つめられるままに、弟の姿を探した。《しずか》には弟がいるはずだったが、一年前のそのとき、彼の姿は見当たらなかった。彼らの健康状態については、彼らの行きつけの病院からの検診データで、詳細まで知ってはいた。何も問題はない。その医者が、データの改ざんでもしていない限りは。「わたしなんか守って、どうするの?」彼女の息遣いがかかり、彼らは彼らの固有の生を生きていた。「わたしの、何を、守るの?」その無防備な至近距離の中で「どうせ死んじゃう命をいまさら守って、どうするの?」どれだけのヴィルスが彼女の身体に運び込まれているのか「わたしが、今、死んでもいいからキスしってっていったら?」それら固有の生命組織が。わたしだって知っている、彼女は「それだけが最期の望みだって言ったら?」生きられない。「わたしのそんな思いより、わたしが生きてることのほうが重要だなんて、あり得るの?」答えられない。俺には、とわたしは、「俺にはわからない」言った。「自分勝手じゃない?って、」彼女は、耳元に、思わない?「思わない?」言った「本当に愛してたの」知恵が言った。彼の父親は動揺したまま自分で警察に行き、娘には会わせる顔がない、と言った。けれど、わたしが、と彼は、間違ったことはしていないと、それだけは、間違いだとは思えない、と山城は言い、帰ってきたわたしを、むしろ、透明な、毅然とした顔つきで、彼女がかつて何も恐れたことなどはなかったということを明示しようとするかのように、知恵はわたしを見つめながら、窓花ちゃんは?「死んだ」と、殺された、わたしは、「自分で」言った、死んだようなものだ、と、窓花が、あれほど、助けてくれと懇願しさえしたのに?それがわたしだとさえ認識できない意識の中で、誰かさえわかり得なかった誰かに向かってさえ。表情の一切変わらないままに、彼女は今、微笑んだ、とわたしは思ったが、一瞬の遅れのあとに、不意に知恵は身をまげて泣き崩れ、わたしはその声を聞く、喉がこすれ、しゃくりあげるようなその音声に、誰がいったい殺したのか?それがわたしではない必然性などどこにもない。君が?とわたしは、「殺しちゃった」知恵は言った。わたしが、窓日ちゃんを殺しちゃったの?なぜ?「大丈夫だよ」と、慰めの言葉もかけられないままに、知恵は言い、あなたが「もう、」いるから「あなたしか」と、彼女は「いない」と言った。わたしを、嗚咽に中に見上げ、見つめ、彼女は窓花を愛していた。彼が奪われてしまった悲しみが、知恵の心を引き裂いて、わたしは悲しい。窓花はもう、いない。わたしはそれを知っていた。「ホトケが、見えるんだよ」窓花は言った「俺。ホトケって呼んでんだけど」彼は言い、窓の向こうに雨が降り続けていて、あけない梅雨の雨の中に、「人間だけじゃない、細胞とが、そういうの、全部」朝早い日差しが差し込んでいたが、「光の玉が包んでるの」女は未だに眠っているままだった。「オーラって言うの?あれ」まだ寝てるよ、と窓花は「木も、幹も、葉っぱも、なにも、かにも」言い、一日、「生命単位全部に。」何時間ねりゃいいの?笑いさえするが、「命って、集合体なんだなって、」窓花をわたしは見下ろしながら、「よくわかる。」立ったままで「生まれる前に」何が君を殺したのか?「見たのと一緒、その」あるいは誰に?それが「光の玉を見るたびに」かつて、何かに「目を開けるたびに」殺されなかった「思い出す。ほら、」何かなど存在しない。「全部がすっごいたっくさんの光の玉の」誰もが、何かに「固まりなってて、乱反射してる」殺され、「魂、って言うの?何のために?」何かが、「そんなのなくても、生きてられるはずなのに」誰かに殺される。「何でホトケなんかがあるの?って思う」と、窓花は「いっつも。目を開けてるのが」声を立てて笑い、「いやになるくらい、まぶしくて」わたしは彼の頭を撫ぜてやりながら「何もできないって言うか、何の意味も」と、窓花は「ないくせに」ラオスで獲得した、最初の被験者が生む子どもが解釈困難な奇形を持って、その母体の中で発育しているのは、最初からわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実験とは言えない。それは、マウスと言う公認された屠殺自由な生命体によってなされるべきものだ。「非コード化DNAが、発現の支配者だとするなら、話は早い。」

外観しかわからなかったが、足らしきものは3本あり、

「それらは結局のところ限界設定しているに過ぎない」

むしろ猫の尻尾のようなやわらかい骨格であることが予測され、

「設定されない限界は固体を形成しない」

足とはいえなかった。

「外延が常にその終点によってもたらされるように」

手は健全だが、頭部に不審なかげりがあった。

「膨大な非コード化DNAが限界設定するための」

実物を見なければ、

「障壁コードであるとすれば」

何も言えない

「それらこそが」

不審なかげりが。

「固体を固体たらしめている」

予測された結果ではないことから言えば

「それらは限界という」

それはまったき失敗だったが、

「固体の可能性そのものを」

失敗とは何なのか?

「結果的に支配している」

哺乳類の生成が、精子と卵子の結合、

「存在Aが存在するには」

或いは異なるDNA同士の衝突によって

「存在Aとして」

起こった事件であるとすれば、

「限界を持たなければならない」

その事件の結果は文字通り結果的なものであって、

「限界こそが存在の」

成功失敗の価値観の埒外に過ぎない。

「可能性を与える」

台風が樹木をなぎ倒そうがなぎ倒すまいが、

「それらは固有性を与えざるを得ず」

台風が台風であることに違いはない。

「単なる論理的な限界に過ぎない」

その固体が生存しえたかしなかったのか、

「逆に言えば」

どれほどの期間生存しえたのかは、

「あなたが例えば永遠の生を」

個体の生の結果であって、

「手に入れることもできる」

発生そのものの問題ではない。

「わかりますか?」わたしが言ったとき、上原の通訳を介して、汪はやせ衰えた虚弱児のような身体の上に、笑顔をほころばせ、Goodとだけ言ったものだった。失敗だ、と上原が言った。わたしは言った。もう少し、見てみよう。なぜなら「これは生きている」わたしたちは「見てみよう」この固体の結果を「もう少し」見てしかるべき「もたらされる結果を」必然がある。そう言ってしまうと、と上原が、「俺たちが今やってる」言った、「実験そのものが」まさにそうですが、「無意味なものになりませんか?」可能性の限界を持って「単純に」生まれてくるのは「いくら優秀に」事実ですよね?「DNAを書き換えて」この子の生存期間が「与えたにしても」どれだけか出生できるのかすら「問題のあるDNAと」わかりませんが「本質的な」この奇形自体が「差異がないと」その可能性を限界として「言ってしまえば」はらみこんでいる。わかってる、とわたしは「何が?」言い、ただ、と、「もう少し見てみましょうか」上原が独り語散るように言うのを、聞く。結果として、帝王切開によらなければ生み出されなかったその生体は、取り出されるとほぼ同時に生を停止した。その生体は母体内で既に脳死状態だったことが発見され、わたしたちは発育を早期に中止しなければならなかったことを、改めて、知った。サル=ヒトの脳はあまりに保守的過ぎるのだ。それらは変動性、可変性を受け入れることができない。正しかったのは、むしろ、上原のほうだった。ラオス人の研究者たちにも、落胆は広がり、確かに目の前の固体の形姿は、落胆させざるを得ないどころか、そのそもそもの倫理観にさえ訴えかけずにはおかなかった。生みだされたそのいびつな形姿が。大半の研究者が、その倫理問題を理由に、チームから離れていったことも、彼らそれぞれの表情を見れば、納得はいった。じゃあ、と、わたしは言った、卵子が精子を選別するのに、倫理性はあるのか?膨大な《それ以外》を排除した卵子の倫理性は?ときにその選択が奇形を生むというのに?或いはこの男を選びこの女を選んだ男の倫理性は?倫理的であるとはどういうことだ?「それとこれとは違う」上原が言った。「少なくとも、彼らは違う」

「わたしたちを見棄てた彼らは彼ら自身の固有の倫理によって、正当にわたしたちを見棄てたんですよ」上原が笑いながら言い、じゃあ、なぜ、君は俺と一緒に研究してるの?わたしは笑い、声を立ててさえ笑いながら、本当に、「こんなとこまで、」それが疑問だよ「一緒に来て。」わたしよりもはるかに若い、この、九州出身の、極端なほどに色白な男は、その端整すぎる顔立ちに似合いもしない薄いあごひげを指の甲で撫ぜたあとに、

「知りたいんです」

彼の眼鏡越しの眼差しは、

「人類と言うか、その」

常にある悲しげなほどの優しさを湛え、

「ヒトの、結局、その限界と言うか」

わたしは彼が

「限界としての」

同性愛者だと言うことは

「可能性の限界」

知っていた。見れば分かる。

「つまり」

紳士的な、

「ヒトとは何か、」

他人との距離感をとるのに長けた、

「その現実を、」

美しい青年。

ね、と彼は言った。ソクラテスにでも聞いたほうがいいよ。全身に繊細な気配をただよわせて。わたしが言うのを、彼は笑うが、「友人に言われましたよ。プロメテウスの火、と言うのを知ってるかって」笑い、「俺、言いましたよ。それは違うよねって」彼は言った「プロメテウスの火って、限界の突破でしょ?俺たちのは、むしろ、限界への直面に過ぎない。つまり、」わたしたちは限界をなど一度も突破しようとはしなかった。わたしは彼を見つめ、「退屈な研究です。本質的には。」上原は確かに「そこに惹かれるんです」美しい「むしろ」扇情的なまでには。なぜ、「聞いていい?」君は、「こんな研究を続ける」君の美しさを「理由は、」直視しないのか?「何?」と言ったわたしに、窓の向こうの雨が降っていて、色彩の一切が奪われてしまった気さえする。「どっちの質問に答えて欲しいですか?」雨はいつでも色彩を奪う。それが触れるあらゆるものから。あからさまに男声に過ぎない、男声特有の美しさを、耐えられないほどに抱えながら、上原は声を立てて笑い、端整ではあるものの、結局のところ手を伸ばしても触れることなどできないに違いない一種の無表情さを持った彼の視覚的な美しさが、むしろ、美しさの実在そのものを否定しさえしている。とはいえ、彼に多くの女たちの、煽情された、扇情的な眼差しが、時に押し付けがましく、時に押し付けがましいほどに息をひそめ秘められて投げかけられ続けるのは事実だった。驚くほど小柄の、この東洋人は確かに美しい。「多くの研究者が離れていきましたね。今回の失敗で。ラオスにさえいられなくなるかも知れませんね。一般的に言って、異端的な研究ですから。」そうだろうね、とわたしは言い、「あなたの一番古い記憶は何ですか?」不意に言う彼に、「答えられないよ。唐突過ぎて。」笑うが、「むかし、子どもの頃、」と彼は言い、

「記憶力がないわけじゃない。けど」とわたしは、

「家族で近くの山に登ったんですが、」その、彼の

「思い出せないよ。一番遠い記憶?」

「小さい山で、すぐに上りきってしまう程度の、」

いつの?なぜ?」

「山道のはしに、バスのおもちゃが捨ててあったんです」

「遠すぎるから思い出せないんじゃない。たぶん、」

「古くて、ぼろのろで、日差しに、」

「近すぎて、そう

「灼やかれて、」

「あまりにも近く」

「色あせて、」

「すぐそこで想起され、」

「小さくて」

「だから」

「それに、」

「いつでも、」

「木漏れ日の光が、」

「俺に、」

「静かにあたって」

「記憶されていたものは」

「おそらくは夏の」

「その、最早、絶対的な」

「その日差しが」

「距離の喪失ではなくて」

「直接、あたって」

「むしろ、」

「きらめくことさえなく」

「無距離なまでの」

「そこにあるそれは」

「近さの絶対性に過ぎない」

「もはや」

「それらは」

「何も語りかけない。…けど、」

「その近さゆえに」

「なぜかそれが」

「なにかを語ることを」

「さまざまな記憶を喚起し、」

「あくまでも、」

「にもかかわらず、」

「不可能にしながら、」

「思い出せない」

「そして」

「なにも。…なにも」

「それが今、」

「なにも思い出せず、」

「想起されたものに過ぎないことさえ」

「そして、」

「いつの間にか」

「何も思い出さしめえない」

「忘却させたまま」

「にもかかわらず、」

「語られえないままに、」

「わたしは」

「痕跡どころか」

「逃げるように立ち去った」

「そのあからさまな存在だけを」

「他者の生の」

「明示させて」

「うち捨てられた痕跡から」

「それらは」

「あるいは、」

「目をくらませる」

「…消滅してしまった、」

「なにも見えない」

「…記憶から?」

「視力の喪失に」

「何から?」

「等しい」

「わかりますか?」

「光の強度の」

「なにから、」

「中に、」

「わたしは、」

「それはもはや残像として」

「逃げたんでしょうか?」

「放置されたかのように」

「わたしは」

「にもかかわらず」

「それが」

「あくまでも」

「わからない」

「見つめ続けながら」と、彼は耳を澄ましたように、わたしの声を聞き、声を立てて笑いさえするが、「わたしにとって、問題なのは、倫理なんです。」上原が言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「倫理の問題ほど困難なものは無い。例えば、わたしは、言ってしまえばわたしたちのしていることは人体実験に他なりませんが、そこに倫理問題など感じない。あの固体、要するに《ドラえもん》ですが、《ドラえもん》がああしたグロテスクな形で、死児として取り出されたにしても、ね。あの形姿に倫理観を問われている気がするなどと言うのは、倫理そのものの欠如に過ぎない。倫理が崩壊したとするなら、《ドラえもん》が生き残れなかったということだ。そこにおいてのみ、確かにわたしたちの倫理問題はある。とはいえ、」

上原は十二歳までロンドンで過ごした。

「わたしが個々に生きてあること自体が」

三十代になった今

「その本質において生存するための」

東京で暮らしながら

「生体実験の中の出来事だと言っていい。それはどうしようもない」

毎月の半分をラオスで過ごし、

「事実として、その生体の身体システム、」

重ねられる研究は遅々として

「有機体構造、それら全てが結局はその生体が」

その結果を出しはしないが、彼は

「生存しえるという保障さえかいたまま、」

「時間はかかりますよ。当然

「ひとつの前例なき実験として出生し、実験そのものとして」

母体の中で十ヶ月以上発育させねば

「生存するための戦いを強いられる。すさまじい戦いが、」

ならないんだから、」そう笑って、

「生存に向けられた実験として実験され、かつ、」

でしょ?」父親は外交官だった。その意味では

「生存すること自体は生存の不可能性との普段の戦いなのであって、」

エリートだといっていい。少なくとも

「すさまじいストレスとプレッシャーにさらされ続けている。我々は」

金に困ったことなどは無い。といはいえ

「正に実験体に過ぎない。モルモットの飼い主がいるならいいが、」

何のかげりも無いどころか

「いないことこそが、この実験に凄惨なまでの美しさをすら」

苦しみをすら、

「与えている。わたしにとっては、ね。」

悲しみをすら、

「わたしたちは実験されているが、」

感じたことなど無い、と

「実験しているものは、試験管の外を見ても」

多くの人間からそういわれる彼はただ、

「どこにもいない。むしろ、試験管の外すら存在しない。」

飽きている。そう見える。わたしには、それらの

「試験管の絶対的な中の中で、わたしたちは倫理を知る。」

羨望するわけでもない

「倫理的であろうとすることを。」

嫉妬するわけでもない

「何とかして、倫理的であろうと努力さえする。」

とはいえ、羨望と

「倫理は構築され、破綻し、破壊され、」

嫉妬と

「構築される。倫理は停滞しない。相対的な速度の問題ではなく、」

雑多な感情の

「それは生体全てを貫く、どうしようもない」

混濁した

「疾走に過ぎない。」

眼差しに。彼は

「問題は、それが疾走というべき速度を一度たりとも持ちえたことなどないということだ。それは常に、生態にとって絶対的に近く、触れられえはしない距離の向こうにまで遠かった。常に。わかりますか?わたしは、倫理的な人間です。何の比喩も含まずに。」自殺した上原の死体は、まるで惨殺死体のようだった。朝起きたわたしが何の気もなしに、カフェにでも行かないかと、彼の部屋をノックしたときに、返事もない彼の部屋のたたずまいに、不審を感じる必要も無かったはずだが、彼の部屋のスペアを借りに行ったフロントの青年は、寝起きの、いまだに眠い目をこすりながら、いぶかしげな一瞥と、親しみを同居させた眼差しの中で、彼の部屋に鍵を差し込んだときわたしの指先が感じたためらいは何故だったのだろう?外で、騒ぎが起こっていたのは知っていた。確かに、その騒ぎの音声が、わたしをさっき、目覚めさせたのだった。ドアを開けると、そこは死体不在の殺人現場のようだった。彼はいないが、部屋は乱れ、あらゆる場所に血が付着し、二人以上の人間がここで争ったようにさえ見える。わたしは、彼が誰かに殺されたのだと思った。テーブルの上のパソコンの上に、遺書らしきメモが置かれているのを見つけたときにさえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本語と、英語で丁寧に書かれたそれを、しかしわたしは、彼が殺されてしまったのだとあわて、見回わされた部屋は、血の付着したシーツが乱れて床に落ち、水道の水は出しっぱなしにされて音が立ち、外で、騒ぎが起こっていた。それは既に知っていたことだ。開かれた窓から風が吹き込み続けていたのも知っていたが、開かれた窓から風が吹き込んでいるのに気付いたわたしは、カーテンにさえ血が付着しているのを、床に転がっている凶器に違いない軍用風のナイフを避けてとおりながら、身を乗り出した窓の下の輪をかいた人だかりの中心に、飛び降りた彼の死体がうつぶせになったままだった。それなりの時間が経過しているに違いないにも拘らず、人だかりにだけ囲まれ、未だに誰にも手を付けられていないそれは、宿泊先のラオスの路上で、それだけが時間の存在を否定し、いかなる時間の経過も身に受けずに、無様にそこに停滞し、《ドラえもん》よりもむしろ鮮やかに、自分が死体であることを明示さえしているのを、けなげにさえ感じる。ホテルの部屋から飛び降りた上原の死体の周りにできた輪が、一切の静止をすることなくうごめき続けながら、輪を崩すことなく、警官すら彼に触れようともせずに、その周囲にいて、誰も彼に近づこうとしないのは何故なのか?《夢を見ました》と遺書には書いてあった、彼の死体は、《お母さんの夢です》自分で突き刺された喉への《とても幸せで、素敵でした》或いは手首への《この美しさとともに》傷から大量に出血しながらも《死にたいと思います》死に切れず、彼は部屋の中で、物静かに暴れたのだった。少しの音さえ立てないように気遣って?声さえ立てずに、その鼻からだけ、うめくのと同じ息遣いを漏らしながら、その苦痛は予想以上だったのか、予想以下だったのか?単純な解決法として彼が見出した窓を開け放つと、風は吹き込んだに違いない。雨は朝から降りしきっていたが、雨の中であらゆるものが色彩を喪失してしまったかのような、鮮やかで何をも語り掛けない色彩そのものとともに沈黙しているのを見たときに、それは始めから何をも語りかけなどしなかった。ミツバチを呼ぶ花の色彩以外には。それだけが、唐突に目覚めた言語だといってよい。或いは、無言の住居の群れ以外には。屋根の形、かすかな装飾の曲線、壁の形態、色彩、それらが、或いは路面そのもの、電柱の群れ、あらゆる、それらが、それらの言語のうちに目覚め続け、不意に、正に語りかける無数の言語の音響が目の前に広がったときに、全ての色彩を奪っていく雨の透明さの中にさえ、彼が飛び降りたとき雨は彼の体を濡らしめることができたのだろうか?色彩が目覚めていた。形態は覚醒していた。正に、言語そのものとして。彼の身体が雨と同じ速度で落ちて行ったのだとしたならば、雨は、濡らし獲たのだろうか?今、路面の上の彼の身体は雨にぬれ、水の流れが路面に彼の血を拡散して止まない。結局のところ、その血の路面への拡散の範囲が、人だかりの輪の内径の範囲に他ならなかった。いずれにせよ上原は死んだ。人々の声は聞こえなかった。死体はただ、持て余されていた。なぜ、彼は、とわたしは、なぜ、上原の死に不審など抱きえるのか?と思った。明確な遺書があるにも拘わらず。明晰で、明らかな死。当然のように、上原の自殺はラオスからわたしの居場所を奪ったが、それはすぐにわたしに新たな居場所を与える。山だらけの国から海沿いの国へ横滑りするようにわたしは移動する。ベトナム、ホーチミン市。旧名サイゴンへ。多くのベトナム人たちが、わたしを見て、目をしばたたかせるようなしぐさをしたものだった。あの陽気な Nam だって。空港を通り抜けるときにさえ。体の半身を焼かれた、美しい外国人に。理解の範疇を超えた人間に対して、人間は寛容になるか、徹底的に排除するかしかすべを持たない。被験者はカンボジアで探せばいい。自分の身辺で、人が死ぬのはもう十分だ、とわたしは思った。一度も、その、どの死者をも自分の手で埋葬したことなど無い。最期に会ったとき、裕幸は子どもが生まれるのだといった。二人目の子どもだ、と彼は言い、わたしは彼にグラスに、彼が好きな九州の焼酎を注いでやりながら、実家近くのその居酒屋は裕幸の甥っ子の同級生が経営している個人店だった。その男との面識は無い。裕幸にその男を紹介され、四十歳をはるかに超えたようにさえ見える、奇妙に老け込んだ小柄な男はわたしの人目を引く外見を、あらゆる気遣いのうちに、見るでもない一瞥をくれ続けたが、裕幸の最初の子どもは重度の知的障害を抱えてるらしかった。ショックじゃなかったとは言えない、と彼は言い、中学のころだった。翔はまだ生きていた。翔として。わたしは不意に、裕幸の頬に触れ、お前、興味あるだろ?と言った。最初の子がなかなか言葉を話さない理由が、おそらく予測される知的障害にあることはほぼ間違いないものの、まだ5歳にならないその子どもが、どれだけ深刻なのか、或いは、それほどでもないのか、結局のところ、未だ何の結果ももたらされていない以上、誰にも、何も言えはしない。何に?笑いながら裕幸は振り返り見て、男にだよ、と笑って見せるわたしを伺い見るが、面白くてたまらないように、笑い転げて、それがわざとなのか、本当におかしくてたまらないのか、裕幸本人にもわからない。妻の夕貴は口ではたいしたことではないはずだと言いながら、あらゆる暗い未来をさえ予想し尽くしていたのは、わたしも知っていた。過剰なほどに暗い未来が予想され尽くし、むしろ、現実に目にする現在そのものが、味気なく見えざるを獲ないほどに。とはいえ、と、「あの子を見捨てたりはしないよ」裕幸は、同じように笑い転げてみせるわたし自身、もはや何が面白いのかさえわからなかったが、彼を羽交い絞めにするように抱きしめると、裕幸は逃れ、彼を捕まえようとするのをかわしながら、次のわたしの接近を待つ。わたしの視界に、土手沿いの道の街路樹は茂らせた葉の中に埋まり、最初の子の事を悪く言うんじゃないけど、今度の子どもは、と裕幸のささやくような声は、わたしの「今度の子どもは普通に育って欲しい。だた、」耳に触れ、不安なんだけどね。今、「すっごく」おなかの中で「ただ、結局」どんな風に「生まれてみないと」発育してて、どんな風に「わからないけどね」生まれてくるのか「今度は、」まともな子であってくれたらいい、と彼は言い、あ、待って。でもね、と、「あの子の事を悪く言ってるんじゃない」裕幸は繰り返し言った。雨上がりの空が街路樹の葉越しに見上げられ、それは白から灰色までの、一切の停滞のない流動するグラデーションとして、生成し続け、その色彩と光をさらす。あれらの戯れが、結局は、わたしの唇を彼の唇に触れさせ、「実際、歳とって以降のことが、」はじめて彼の唇に触れたときのことをは、最早「心配だったんだよ。誰が俺の介護を」記憶してなどいない。忘れ得ないほどに、「してくれるんだろって。あの子じゃ、できないでしょ」鮮烈な印象を残したことだけがかろうじて「あの子には介護が」記憶されているに過ぎないそれは、「必要になってるはずでさ」わたしは裕幸の皮膚の匂いを思い出す。「どう思う?自分勝手だろ?」汗と、獣くささに香料をぶちまけたような「でも、次の子がまともだったら、」その匂いを。わたし自身の身体の匂いを確認したい欲求に「何とか、未来がつながる。大変だけど」悩まされながら、その匂いに裕幸の存在を確認した「子どもが、かわいそうだけど」気がしたわたしは、瞬きながら、そしていつかの夜に、裕幸の家に泊まったときに、交互にそれをお互いの身体に試してみながらも、まるで、未だ知りえなかった新しい知性に触れたかのような感覚と、体験されてしまった倦怠感に似た退屈さに早くも悩まされさえし、こんなものだったの?わたしは、裕幸を愛してさえいたことをこんなに、みじめで、知っていた。いつから?「あの子が生まれてから」わたしのことを?「いろんなこと、学んだよ」裕幸がこんなに、ちっぽけな、わたしを愛していることに気付いたわたしは、彼にこんなものだったの?問いかけることなく、

僕たちが求めたもの

裕幸を見つめ、彼の十代の裸の身体に、夜の光の差すのを見るが、

僕たちが

「喜びとか、悲しみとか、」

すっごくつらいんだよ、毎日、

勝ち取ったもの

「今まで気付かなかったこと、」

不安で、次の子のこと含めて、

僕たちが

「気付かせてくれるなって。」

けど、ありがとって思う。

憧れたもの

「本当に、もう、」

あの子の将来も何もかも不安で、

僕たちを

「毎日が新鮮でさ。不思議なくらい」

でも、結局、すごい、

苛むもの

「いいことより」

ありがとって思っちゃうの、

こんなものなの?

「つらいことのほうが多いけどね」

これって、何でなの?と、

こんなものだったの?

そして笑う裕幸をわたしは見つめ、そう、としか思いつく言葉はなく、のばした指先の先に、窓花の唇が触れる。「俺、」窓花は言った。「潤ちゃんのためなら、死ねちゃう気がする」声を立てて笑うわたしに、つられるように知恵は顔を上げ、窓花は一瞬の深刻な表情を笑みに崩して、しなだれかかるようにわたしに身を預けるが、雨が降り止まない。下腹部を撫ぜ、「ここにおとんがいる」故意に潜められた声で。とまらないBạch の咳が、彼女の体力を奪っていく。「過去世のおとんだよ。」彼女の身体の中で、何が荒れているのかさえ、わたしにはわからなかった。「いつのおとんの後なのか知らないけど、」Bạch の骨ごとへし折ってしまいそうな連続的な深い咳き込みが、広くはない空間を満たし、「ここにいる。」にも拘らず、そのまま見殺しにする以外に手立てはない。なんとか、その問題を、Bạchの身体が解消するまで。あるいは、解消し得ないまま、破綻するまで?つまりは死、翔や、窓花のように「ホトケが、見える?」問うわたしを、振り向き見て訝ったままBạch は、何?それ。

 

「光の束」

 

何?声を立てて笑い、

潤ちゃん、熱でもある?

その笑い声が咳き込まれた身体のくねる動きに飲み込まれながら

そう言って、彼女は

「それ、天使とか過去世とか、出て来る感じ?」再び、

わたしに体をすり寄せたが

発せられるBạch の笑い声のアルトを聞く。わたしは

肩にかけられたその吐息のような

知っている。窓花はホトケの光を、

呼吸がくすぐったくて、

うざったいほどだと言い、

思わず、わたしは

目を時にしばたたかせ、

声を立てて笑う。

そんなものがなくても、

幸せ?…唐突に尋ねたわたしの

いわゆる精神と呼ばれるものは

質問を

それ自身で

Bạchは一瞬聞き取れなかった。

いくらでも機能する。今、

ん?

ホトケの光は

なに?

わたしたちの周囲を

「お前、幸せ?」と

内側から

いま」

取り囲んでいるに違いなかった。

戸惑った、Bạch

雨が降り止まない。

あっけにとられた顔が不意に、わたしを笑わせたのだった。

激しい咳き込みのあとで、息をつき、

どうして?

彼女の長く吐かれた息のもった

意味などなかった。

ざらついたノイズが

おかしくてたまらなかった。

わたしの耳のなかに

なに?」がBạch言う。

残響をもって引いていったとき、

「なんだよ、ね、」

抱きしめて欲しいとBạch

潤ちゃん」

わたしに向かって

わたしは

手を伸ばしたが、

何も答えられないまま

首を振るわたしにすねたような表情をさらして

笑い転げるしかない。

見せる。

幸せ?

なんで?

いま

彼女を、わたしは、殺してしまうのを

幸せ?

望まない。なぜ?

君は、いま

君を守らなければ為らない。「キスして」彼女は

幸せ?

言い、すでに、わたしがそれを拒否することさえ知っている。彼女が、今正に死のうとするときに、わたしは最期に彼女を抱きしめ、キスしてやるのだろうか?

色彩

窓の向こうの雨が降りしきったまま、

色彩

色彩を奪ってしまったような白濁の中に、

僕が好きだったのは

全てのものを包み込むが、

雨の日の、ではなくて

遠くの白くにごった白の氾濫のこちらで、

晴れた日の、その

雨にうたれるすべてのものが、

色彩、その

決して崩壊されることのないそれ自身の色彩を、今も

色彩

さらし続ける。最初からそれらが何をも語りかけてなどいないことなど

染まったのだった

知っている。それらが

その色彩

たとえ

海は

沈黙しているように見えたとしても、

空の色彩に

それらの沈黙自体が既に、

空は

あり獲はしなかったものに過ぎない、その、

海の

色彩さえも。

色彩に

眼球の中以外に、その

色彩

色彩がその

色彩

色彩であり得たことなど

あふれかえった

一度もなかった。にも拘らず、

色彩

わたしの決して触れ得ないその

色彩

色彩の永遠に

その

遠い実在が、わたしは

色づいた

それらを眺め、息遣い、

色彩

彼女はまだかろうじて生きていた。原則としては、

燃え尽きる、その

既に破綻している彼女の

色彩

身体は、尚も。

色さえ失って、いま

「日本へ行く?」なんで? Bạch は言い、「行きたいんだろう?」わたしは言うが、「どっちでもいいよ」そう言ったろう?いつか、おれの生まれたところが見たいって「今?」いつ?行こう、じゃあ、ぼくが死んじゃうまえに、と彼女は言った。ビザに拘わる諸問題。それらの煩雑さは、ちょっとした違法行為が処理してしまうだろう。その手立てさえ探してしまえば。わたしは彼女を連れて、日本へ帰るだろう、何のために?「行こうよ、潤の生まれたところに」彼女は言い、目を閉じるが、再び彼女の目が開くことがなかったとしたら、わたしは泣くのだろうか?泣き叫びさえ?空間を雨の音が満たし天海丹(あまのうみに)

雲之波立(くものなみたち)

月船(つきのふね)

星之林丹(ほしのはやしに)

漕隠所見(こぎかくるみゆ)数日の休暇のあと、教室に入ってきた翔をクラスメートは歓迎した。多かれ少なかれ、彼女のうわさは知っていた。わたしが言ったわけではない。にも拘らず、わたしたちの誰もが彼女がリスト・カットをしたことは知っていた。彼女の両親に言われたに違いない瑞樹と言う名の小学校時代からの同級生が、翔に付き添って教室に入ってきたとき、わたしの視線が瑞樹のはにかんだような視線とかち合った瞬間に、瑞樹は切れ長の目をかすかに逸らし、一瞬、口元だけで声も立てずに笑った。その意味は、いまだにわからない。どうしたの?「行けるかな?」Bạch が言った。死んじゃう前に。わたし。元気だった?それらの女子からの声が彼女にかけられ、浩一が囃し立てるように、翔に絡んだ。何?妊娠でもしたの?本気ではない非難の声が上がり、まばらに、連なりあう声の群れに、わたしは瞬く。やがて、わたしは翔に言葉をかけるのだった、大丈夫?振り向いたBạch に、「大丈夫」もう一度言うわたしを、彼女は見る。一時間目の授業が終わったときに、わたしの前の前を彼女が通り過ぎようとした瞬間に、え?と、翔は「何?」振り向き、え?わたし?「大丈夫?」私は言った。窓越しに日差しは差し込み、向こうにグラウンドが見えていたはずだった、彼女を背景にして。低いビルの疎らな連なりさえも。どうしたの?翔が口元で呟くのをわたしは見るが、「何?どうしたの?」わたしは、不意に、涙が流れそうになる感情のかすかな波うちを感じてはいたが、それが何なのかは理解できない。Bạch が、不思議そうに、わたしを見上げていたのは知っていた。何?まじめな顔して。心配すんなよ、わたしは「心配すんな。」言われた、わたしの声を聞く。振り向いて、Bạch  は、彼女は、わたしを見つめ「お前のこと、守ってやるから」わたしが言うのを、翔は聞いたが、無表情なまま、何、それ。声を立てて笑い、小さく、「何で?」そうしたいから。わたしは言った。守ってやりたい。お前のこと。一瞬、何も言わずに、向こうで、疎らな声の群れがやまない。Bạch が微笑む。ただ、彼女は微笑んだ。音声、そして物音が。それらが耳の中に。鼓膜が震え続けているのは知っている。「そっか。いいよ」翔は言い、微笑んでみせ、わたしは知った、もはや、彼女のことを愛してさえいたことを、

確かに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.10.03.-22.

Seno-Lê Ma

 

天海丹… 万葉集巻七伝柿本人麻呂

 

 

 

 

 

 


後記

これは、いくつか説明が必要です。

 

まず、この作品は先の《ブーゲンビリアの花簪》で扱った、例の事件が直接出てきます。

事情は同じです。ですから、繰り返しません。

 

次に、最初から面食らう書き方で始まって、読んでくださる人にとっては、

この小説はどうなってるんだという感じだと想うのですが、

いまさら《前衛小説》《実験小説》を書きたいのではなくて、

単純に敏感な表現様式を求めたらこうなった、ということなのです。

 

たとえば、言うに言われない微妙な心のひだとか、ちょっとした、うまくいえないけど、ほんのちょっとした、何か、…

そんな、微妙で微細で繊細で震える感情の触れ合う寸前の気配のようなもの

 

それを追いかけようとしたら、こうなったんです、という、作者としては開き直るしかない理由があるので(笑)

開き直るしかありません(笑)

 

最初に書いたヴァージョンと、明らかに様式が違いすぎてきたので、別枠でアップしています。

 

実は、この連作の中で、一番先に書いたのが、これです。

次に《ブーゲンビリアの花簪》、最後に《花々を埋葬する》だった気がします。

 

この複雑なテクストの読み方ですが、何も考えずに、

細かいこと気にせずに自由に読んで行くと、

言葉相互がなんとなく触れ合いそうで触れ合わなかったり、

邪魔しあっていたり、意外に想ってもいない効果を挙げたりと、

いろいろな風景を見せてくれるはずです。

(僕のコントロールがうまく行っていれば、ですが…)

なにも、極端に細かな意味論上の操作をしているわけではありません。

一字でも意味を取り違えたらわからなくなる系の、めんどくさいヤツですね。

好きなように、読んでください。

 

最初に言ったように、はっきりと言いきることのできない、

心のひだの、さらに息遣いのようなもの、を、捉えようとしたのです。

 

もっとも、いきなりそれから始まるのか、と、あきれる方もいるかもしれない場面から始まりますが、

文字どおり、そんな、生々しくて露骨な場面の、さまざまな《息遣い》から、はじめたかったのです。

 

実際、誰だって、その時、本当に繊細な心の動きを、誰もがしているものだ、と想うのですが、

 

…どうでしょうか?

 

 

* *

 

ところで、最近書いているのは、基本的にこれらのような、

《前衛風》といえばそうなのかもしれない感じのものなのですが、

《ナーヴァスな音色》という、これの続編、のようなものを書いてしまって。

それで、書き直しちゃった、と言うのが、改稿の理由でもあります。

 

もうちょっと、膨らませたら、新しい形でアップしようと思います。

 

ヴォリュームは、原稿用紙で、180枚~二百数十枚くらいだと思います。

…たぶん。

 

2018.05.28. Seno-Le Ma


奥付


月の船、星の林に


http://p.booklog.jp/book/122274


著者 : Seno Le Ma
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/senolemasaki0923/profile
 
 
 
ホームページ



感想はこちらのコメントへ
http://p.booklog.jp/book/122274



電子書籍プラットフォーム : パブー(http://p.booklog.jp/)
運営会社:株式会社トゥ・ディファクト



この本の内容は以上です。


読者登録

Seno Le Maさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について