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月の船、星の林に 4

今、叫んでいるのか、むしろ、無言でさえいるのか、それすらもわたしは知らなかった。苦痛?そんなものはどこにもない。あの最初の一瞬のあと、苦痛そのものが、神経系の正常運用を遮断してしまった。目覚めたまま灼ききれた神経系は、最早、感じているはずの現実の苦痛の断片をすら伝えない。火が消されるのに時間はかからない。もみくちゃにされて殴打される杉山が、人の山の中に崩れ落ち、炎は一瞬でわたしの身体の40%近くを焼いた。なんだよ、こいつ、と、泣きそうな顔で、もはや無抵抗の杉山の上に乗っかった山城が言った「こいつ、狂ってんじゃん」はき捨てるように。狂気。杉山はなにがしたかったのだろう?馬乗りになられた杉山は茫然と無表情な白目を曝しながら。山城はまだ知らなかった。人間の単なる精神疾患など、狂気の名には値しない。人間の精神的な「発狂」など、単なるささやかな精神疾患にすぎない。例えその疾患の論理が、彼が銃を乱射して無数の人間を惨殺する結果をもたらしたとしても、彼が殺した身体を解剖して食ってしまったとしても、いわゆる親族に極度の精神的な動揺と負担を喚起したにしても、治療費と言う名目の莫大な金銭を消費さしめたとしても、だ。本当の狂気を知っているか?何と言うわけでもなく採取した《白血病》のBạch の血液の中で繰り広げられているはずの、深刻な狂気に、わたしは目を疑ったものだ。それは、文字通り、どうしようもないほどに純粋な発狂だった。彼女の極端に覚醒した、奇形化すらした白血球は、もはや自分以外の全てを外敵とみなして、常なる戦争状態にいた。覚醒しきったリンパ球と白血球の不断なる暴力状態。それらはすべてを殲滅しようとしていた。その固体以外のものが全て殺戮の対象であるとき、その状況がこの形姿の奇形化をもたらしたのか、奇形化がそれをもたらしたのか、わたしにはわからなかった。確かに、「白血病」といわれればそういえるのかもしれない。鈍磨剤で酔いつぶれさせられた白血球はほとんど活動も見られず、そしてそれは、彼女の免疫系の破綻を意味していた。わずかな細菌も、彼女にとっては、いま、致命的なはずだった。鈍磨剤を切ってしまえば、白血球の凄惨な殺戮が、最早比喩表現ではなく、彼女に想像もつかないほどの苦痛を与えながら、彼女の身体は破綻するしかない。いずれにしても、免疫系は完全に破綻している。

本来、彼女は無菌室の中以外では生きていられないのだった。

「気違いばかりよ」とわたしの焼けてひきつった顔の半分を見たとき、

多恵子は言ったが、それは一度台湾に渡る前に、実家に帰ったときだった。

入院していたわたしを見舞った上原は、わたしの焼け爛れた半分の顔を見て、まるでマッド・サイエンティストの見本ですね、と笑ったものだった。汪と会ってきたばかりの上原は、「まるで、アメリカ映画ですね。国家機密の軍用施設でゾンビの研究でもはじめたんですか?」声を立てて笑い、研究は、日本ではほとんど不可能だった。杉山の事件もその非倫理性に花を添えた。何も咲かさない花を。「汪は施術を希望しました。リスクは十分理解しています。あとは、あなたとわたしの腕次第です。」本当に?一瞬、信じられずにわたしは、そう、と、上原は、「そうまでして生きたいらしい」言った。地球人口の6分の1は中国人なのにね、と、「気違いばかりだ」みずからが吐いたその言葉を聞いた瞬間に、多恵子は何かを思い出しそうになって、一瞬、嘔吐しそうになるが、多恵子はかろうじて持ちこたえた。「けど、あいかわらず」薫は「イケメンのまんまで」言いながら、自分の言葉への戸惑いの中で声を耐えて笑い、確かに焼け爛れた半分の崩壊も、わたしの美しさを破壊しなかったことをは、わたしだって知っていた。それは彼らとの、十年ぶりに近い再会だった。「けど、痛かったでしょう?」と多恵子は、その瞬間に彼女の、焦点すら合わせられずに見開かれた目は、わたしへの凝視が既にそこにはなく、自分では見たこともない嘗て見たあの記憶に向かって見開かれながら、必死にそれから目を逸らそうとしているのを、わたしは知っていた。多恵子の娘の死んだ皮膚には無数のケロイドが散在していた。わたしも呼び出された、或いは、町中の少年のほとんどが尋問されもした、あの調査と裁判のときに、彼女がいったい、何回失神と嘔吐と痙攣と意味不明な絶叫を繰り返したかわからない。悲惨な、というよりも、最早、彼女が普通ではないことに、例えばわたしの母は目を背けながら、ああなっちゃおしまいよ。「人生、もう、終わり」そう呟いたが、それは同情だったとはいえない。薫と、二人だけで居酒屋に行ったのは、多恵子から逃れるためかもしれない。薫も、もう三十を超えていた。彼もまた彼女の介護をし続けたのだが、薫は彼女から目を逸らし続けなければならなかった。やがて、彼女の存在そのものが、あの事件をただ、想起させ続ける執拗な記憶の根拠にでしかあり獲なくなった限りにおいて。わたしと彼が、親しかったことなど一度もない。無口な少年だったが、あの事件の前からそうだった記憶はない。そうではなかった記憶もない。希薄な、薄らんだ記憶の中で、翔に文句を言われてはいじけていた姿くらいしか思い出せない。なんでよ?彼は翔に言った。「うるせぇよ」希薄な人間に過ぎなかった。「覚えてます?」薫の、甲高く浮いた地の声を耳の中に、「水沢さんって、神童扱いだったじゃないですか、子どもの頃」

結構、憧れてましたよ

わたしは、あの少年がいまや、敬語をさえわたしに使うような大人になったことに改めて気付き、

俺。何気に、ね

30近くなった、体格のいい、わたしよりもはるかに背の高いこの男の、汗ばんだ匂いを鼻にした。「神童って」わたしは

実際、なんか、めったにこんな人いないんだオーラが…

声を立てて笑い、「いや、本当に。母なんかも言ってましたもん。姉が水沢さんと並ぶと、見劣りして困るって。中身も外見も、ですけどね」

薫が笑ったので

薫の笑う声を聞き、薫は癒えた、のだろうか?何から?姉の死から?癒える、とは、何なのか?

わたしも笑うしかなかった。

東京都周辺の、嘗てニュータウンと呼ばれた、いまや、閑散とした、その町の雑然とした繁華街らしき場所の居酒屋は、

田舎だからやっぱ、出来る人って、目立ちますもん

疎らな現地の住人が寄り集まっているに過ぎない。都市と都市周辺は何度も再開発されては古びていき、

姉貴も、どうだったんだろ?

次なる再開発を待つしかない。「結婚したんですか?もう?まだ?」わたしは、まだ、全然、相手すらいないよ、

好きだったんじゃないかなって、ね?

薫の丸っこい鼻は、彼が何か思うたびに、かすかに嗅がれた匂いを思い出したように小さくひくつく。「そんな、なんか、いや、でも、そうかな」

普通に、潤さんと結婚しちゃうんだろうなって思ってたから

そんな癖ができたのは、いつからなのだろう、「実際、恐れ多くて、近付けないのかも知れない。水沢さんに。むかしの姉貴みたいに」

いや、俺たちは、ですよ

昔からそうだったのか、それとも、大人になってからの癖なのか、「いまなんて、ちょっと、もう、この世の人じゃない的なね、」

わかんないですよね、女って

重力にへばりつき、細胞組織の自己活動に支配されているに過ぎない、「いや、普通の女なんて、近付けないでしょう?」

結局、誰のこと、好きだったんだろ。姉貴

そしてその活動を支配することさえできない、「そんなことないよ」この精神と言うもの。声を立てて笑い、

普通に死んだ人間のように、なぜ

君はもう生きられない、とわたしはBạch に言った。「薫くんは?お前は、君は、どうなの?」

君は話すの?翔のことを、と

知ってるよ、Bạch は笑いもせずに、「俺?いや、実は、結婚してて、もう」やっぱ、無理だよね。みんな言うもん

一瞬言いかけて、わたしは微笑み、

「千葉のほうに。ちょうど昨日、ほら、命日で」窓越しの日差しに横から差されるままに、「誰の?」無理だよって、

壊れた眼差し。末期の

Bạch は言い、「ひどいな」彼は声を立てて笑った、「姉貴のですよ」確かに、あの事件があったのは、

何を?

夏だった。夏休みが始まる直前に監禁されて、夏休みの終わりごろに、彼女は死んだのだから。誰が

何を見たの?

直接殺したとは言えない。和明は言っていた。直樹が言っていた、頭、ポンってはたいたの、そしたらさ、

その

あいつ、あっ、って言った気がしたけど、翔はその瞬間崩れ落ちるように死んでいった。深刻な暴力の果てに、不意の、

眼差しで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かすかな手のひらの頭部への接触が。誰も、その瞬間、彼女が死んだことにさえ気付かなかったほどに、「大変だったろ?あれから」翔のことを、初めて思い出したように話している自分に気付いた。誰が?「いや、母がね。祖母も。父も、まあ、おれもですけど」わたしたちが。日本に行ってみたいな、と窓越しの淡い日差しを振り向きながら、Bạch は言った。まだ、雨は降っていない。「今の女房と会うまで、おれ、女、知らなかったもん」どうして?だって、日本ってさ、ベトナムと違って、ゲイとかホモとか、いっぱいいるんでしょ「どうしても、なんか、セックスって言うのが。無理だったんですね、」まさか。いないよ。そんなには。でも、サムライってホモでしょ?なんで?「おれには。トラウマなのかな。トラウマって言うんですか?こういうの。」日本語学校行ってるやつが言ってたの。その子の先生、留学したこともある。「そもそも、付き合うって言うのもね。好きになるっていうこととか、」四年も。四年間もだよ。生き辛い?ここだと。生き易くはない。なんとなく。けど「あのことあって。でも、あの子が口説いてきて、何回も。で、なんとなく。」どんなことが?何で、生き易くはないの?一応、女の子として「ほんとに、なんでこうなったのかわからないんですけど」認知してくれはするけど「けど、初めてあいつ、抱いたとき、変な話ですけど」とはいえ、君は海なんか渡れない。知ってる。死んじゃうよ。「すげぇ、何かが洗われた気がしたっていうか、なんか、」でもさ、「変な話、やっちゃった後、泣きましたよ、おれ」一回くらいは「大泣き」口の中だけで、「号泣、っす、ね。まじ。」声を立てて、薫は笑った。結果的にいま、潔癖症患者の世界観を確率論以前に全き現実にしてしまっているBạch の身体が、無数の人間たちの雑菌にまみれた空港の中を、無事に通過できるわけがない。ほぼ100パーセントの確率と言うことは、確率論の領域などではないということだ。潔癖症患者の論理すら超えた現実が、彼女に襲い掛かる。「名前は?」不意に、振り向いて言うわたしに、何を言われたのか戸惑った表情をして、女はわたしを伺い見たが、窓花の出て行ったあと、女と二人で残されたものの、女のわたしを意識しすぎた気配が、執拗に部屋の中をよどませ、窒息してしまいそうだ、とわたしは思った。誰の?女は言うが、すぐに、彼女は自分の名前を尋ねられたことを察する。未だに、女の名前さえ知らなかった。もう、五回以上は、顔を合わせたのに。彼女の部屋を、毎日訪ねる必要などなかった。「知恵」と女はいい、声を立てて笑うが、なぜ、女の部屋に、わたし自身入り浸るのか、わたしにはついにわからなかった。そういえば、わたし、と、その媚を作った声を、「あなたの」わたしまだ知らないです「お名前」窓花を殺してしまったのは、知恵の父親だった。

 

朝から雨の降り止まない日に、研究所を出た後、知恵の部屋を訪ねると、窓日はいない。部屋にかすかに荒れた気配だけが漂い、「窓日は?いないの?」連れてかれたの、と彼女は言った。その記憶を手繰り寄せるような声を知恵はまるで、わたしを見つめるその視線がわたしを見ていないことなど、わたしは既に気付いていた。誰に?彼女は言った、父親が上京したのだと、それは、知恵の叔父の息子の結婚式に出るためだったが、彼は、一人娘の部屋に泊まることを望んだ、ホテルなんて取るなって言うの。お前の部屋でいいよって。狭いよって言ったんだけど、知恵だって知っていたはずだった、今、その部屋の中がどんな状態なのかくらいは。品川駅まで迎えに来た娘に連れられて入った部屋の中には、性別不詳のあきらかな未成年が、何をするわけでもなく、バルコニーの花に水をやっていた。誰?って言うから、と知恵はいい、紹介してなかったねって言ったの。知恵は一瞬思いあぐねて、ややあって、わたしの彼氏って。一瞬、声を立てて笑う彼女をわたしは見やり、でも、ひどいの。俺、こんな奴の彼氏なんかじゃないって言うから、彼。どうなるかなんて、知ってたろう?わたしの声に、あきらかな動揺をみせ、わたしを見てなどいない黒目だけを震わせるが、そのわたしへの凝視が解けないままに、そのとき気付いたの。お前何ものだって、お父さん、殴りかかるみたいな、やめてよって言ったけど、無理なんだもん。窓花ちゃん、なんにもしてくれないし。ずっと、見てるだけなの。お父さんのこと。やばいって気付いてたけど、もう遅いでしょ?「おとん?」って言った、窓花ちゃん。「おとん?なんで?」それだけ。「おとんがなんで?」無理じゃん。なんか、窓花ちゃん、病気見たいじゃん。てか、無理。わたし、そして、彼女が嘘も、言い訳も言っていないことには気付いていた。わたしは、指先を伸ばして、彼女の額に触れようとした。額そのものにではなくて、その内部、時に精神と呼ばれる膨大な有機体データの空間の中に。確率論が支配する、その、もしも触れられるなら、引きずり出して、握りつぶしてやりたかったのかもしれない。とはいえ、彼女は加害者とは言えない。むしろ、被害者ですらない。彼女だって、自分が被害者などではないことを知っている。彼女は窓花を愛していたから。彼にそれを望んだのは、常に、自分自身だった。もしも、血まみれにして、手のひらの中に、それを、唇を一度震わせて、彼女は、わたしの、額にやわらかく触れた指先に、目を閉じて、初めて、言った。「潤さんが、わたしにさわったの、始めて」思いがついに遂げられたように、不意に、開かれた視線が明確にわたしを捉えていて、助けて、わたしは瞬くが、「助けて」彼女は言った。お願い。ついに何かを告白したかのように、「お願い」誰を?彼女の両目から、何から?涙が零れ落ちると、知恵がわたしを見つめた姿勢のまま、泣きじゃくり始めたのを、わたしは見る。警察に行く、と言って、暴れる窓花を羽交い絞めにしながら出て行ったのだと、言っていた。彼だって、すぐに気付いたに違いない、彼が腕に掴んだその身体が、あきらかに少女のそれであることに。彼は単純な違和感に意識を混濁させながら、彼にできることは誰かに通報すること以外にはない。この時に、誰かとは警察以外に思いつかれえはしない。そんなことは知っている。わたしだって知っている。六本木の、交差点周囲の大通りから入った、旧《旧防衛庁跡地》の裏手は、閑静な住宅街になっていて、その周辺だけ、表通りとは完全に差異する静けさと、夜の、薄暗さが支配する。通りにそって、一番近くの麻布署のほうへ歩こうとすると、教会の手間の歩道に、一人の男が突っ立って、携帯電話をいじっている。ここが六本木の真ん中に他ならないことを忘れてしまったかのように薄暗く、しずかな、閑静すぎる周囲の中で、近づくと、わたしに近づかれたことに気付いた男は、痙攣的に顔を上げ、わたしを見るが、「山城雄一と申します」男は言った。おびえきった、喉の奥からの声で、「お名前は?」彼の目は今、何も見てはいない。お願いだから、わたしは思う、触れさせてくれ、「あの、すみません、」その額の中のものに、お願いだから、いや、と、わたしは「失礼ですが、」思う、わたし自身のそれに、「お名前だけでも」お願いだから、「わたしは、」触れさせてくれ。「山城と申します」わたしは彼の前を通り過ぎ、目を逸らして、そして周囲を一度見回すが、人の気配のない中に、なにかに惹かれるように教会の中に入っていく。廃墟のように、厳かな空間。ただ、向こうに遠く通り過ぎる車の群れの音響が低く響いているだけの、わたしは並んだ樹木の下に窓花を見つけた気がした。近づいて、周囲を見ると、鉢植えの花の向こうに、隠れるように窓花は倒れていて、不規則な呼吸を立てていた。あきらかに死にかけの人の気配に、なぜ、気付かないでいることができなかったのか訝られるほどの執拗な窓花の気配を、自分を覗き込むわたしに最早窓花は気付かない。あからさまに陥没し、変形した頭部の形態が、その内部の致命的な損傷を物語る。わたしは彼に手を触れようとする。窓花は、そこに誰かがいるのを認知している。体のどこからか発生していた出血が、彼の衣服と腕とを染め、それがわたしなのだと気付きもしない。荒い、かすかな呼吸音が耳を衝き、助けて、と彼は言った。「死にたくない。助けて」と彼は言い、最早言葉を発声できないものの、かすかに動かされる唇と、喉の凹凸が、なおも、彼が唇の向こうでそれに類似の言葉を発し続けているのに気付かざるを得ない。身体機能の連結性は崩壊し、機能不全と、接触不良が、もはや、窓花に生存の可能性はない。死。「俺たちが光の玉だったの知ってる?」窓日は言った、あの時、「地球の上に浮かんで、下を見てるの」そして「知ってる?」彼の頭を抱きしめるが、その一瞬の動きさえもが、今、彼の崩壊した身体に極端な影響を与え、「死ぬことなんて、どうってことない。だって、」一度停止した呼吸が、しかし「あそこに帰るだけ。使命も、タイミングも、決めるのは」不意に思い出したように再開されるが、「全部自分。過去も、光だった記憶も全部忘れちゃうんだけど、」むしろ、今、首を絞めて「今、今だよって思った瞬間に堕ちていく。すごく」一気に全てを崩壊さしめてやったほうが「細かくてあったかい細胞の群れの中に入っていったのに気付いた瞬間に、」わたしは思い続けながら、思い惑い、「記憶は全部飛んでいく。さよなら、って思った。そのとき」絞めようとした手のひらに力がこめられた瞬間に、「そっから先の記憶は、もう、ないんだ」窓花は息絶えていた。生と死のあきらかな断絶。死にかけの身体と、死んだ身体との間にある、絶対的な差異を、窓花の身体はあからさまに明示し、あらゆる細胞はもはや連結されてなどいない。それは、今、完全にばらばらで、見事なまでに停滞している。死、そんなものは、確かに、存在などしてはいない。それを死という存在する言葉で言い表してしまうことそのものが、実は、巨大な錯誤なのだとわたしは、窓花の身体には時間さえもが消失されていた。薫だって、翔の居場所など、うすうす気付いていたはずだった。町の少年たちみんなの中で、もっとも騒がしいうわさだったのだから。めったにないスキャンダル。寛人という、十六歳の、高校を中退したあと結局は何もやっていない少年が、首謀者といえば首謀者だった。あるいは、その事件に至るまでの彼の経歴が、彼を首謀者として周囲に認知させたのかも知れなかった。思い出したように弘明が言った、町で翔を見かけたときに、やっちゃいますか、あの子。結構かわいいんだよね。声を立てて笑い、過度に戯れじみたナンパかなにかのようにかけられる声が、とはいえ、五人の悪びた少年たちに囲まれた少女には、強制的に響いたのかも知れない。何の抵抗もしなかったの。あいつ。死んだ翔をおもいだしながら、祐樹は言った。祐樹の部屋に連れ込まれたあとも、戯れに繰り返される下卑たくどき文句と指先だけの身体接触の果てに、あれが、と弘明は言った、やがて、彼が四十近くになって、やっとフィリピン人の妻をもらった、仲間内のパーティが終わった後で、「あれが、」あいつが人間だった最期だよな、と言い、彼は「忘れられないんだ」と言った、あの、くどかれ続ける間の、彼女の、見開いて交互に声のするほうを見る目つきを。まるで、目で音声を聞き取ろうとしているかのような、そしてそれらの接触がやがて強姦に発展していくのだが、そのきっかけらしいものさえ最早忘れられ、結局のところ、そうならざるを獲なかった気が、祐樹にはした。強姦に加担しながら、十四歳の彼は、不意に、あの事件のこと、まだ、こいつには言ってないから、と弘明は言った。あきらかに人種を異ならせた、堀が深いようで平坦な、大雑把な筆で小さく描かれたかのような華美な顔立ちの、東南アジアの島国の女は、東アジアの島国で、自分よりはるかに年上の夫の友人と言う女たちに囲まれて、雑談につき合わされ、彼女はあからさまに美しかった。弘明はかすかに笑って、さすがに言えないぜ、あれは。いわゆる、遠い目つきをしたあと、「後悔とか」でもさ、もう、おれもさ、と、「罪の意識とか」わたしはその声を聞く。幸せになってもいいんじゃないの?って、「拭えないよね」なんか、悪いんだけど。「いまだに」そんな感じ。「けど」わかってくれる?こういうの、和正がわかるよ、「幸せになりたい」よくわかる、と相槌を打ち、「俺だって」だから、内緒にしといてね、と言う弘明に、でも、全部知っても、たぶん、あの奥さんなら、お前、理解してくれるんじゃない?裕也は言った。「そんな気、するけど」嘗て、柔道で作った太い筋肉をいまや贅肉の固まりにしてしまっていた裕也は、その、固いままの胸元の贅肉が彼の動くたびに震えるのを、わたしは見る。「あなたが、殺したんですか?」わたしは言った。その声を、山城は聞き、うなずきもしないままに、「暴れてきたんです」と言うが、あの女の名前が、山城知恵だということに、わたしは「なんで、もう生まれてんのって」今、気付いたことを知った。わたしの「おとん、おとんって、叫んでばっかりで」シャツは、かすかに血に染まっていたが、たいしたことはない。山城は、擦り傷だらけだった。「制止しようとしたら、暴れて、もう、もみくちゃで、そこの電柱に頭ぶつけちゃったんです」あなたが殺したんですか?「血がいっぱい。もう手が付けられないと思って、もう一度、電柱にぶつけたんです。あの子の、頭掴んで。」なぜ、あなたはこんなことをしたんですか?「もう、ぐちゃぐちゃで、助からないですよ。しまったって、思って、もう一回、ぶつけたんです。」わたしを「あの子の、頭掴んで」見てはいない山城の視線から目を逸らし、「どんっ、ぐしゃって」わたしは警察を呼びに行く以外に「だってもう助からないから」する事はなかったが、「この子のお父さんはご存命ですか?」山城が振り向き見ていった。さあ、「生きてるんでしょう。」窓花がそう言ったのなら、どうしたらいいでしょう?お父さんに、なんて言えば?彼は、「堕ちていくときの光の束を覚えてるよ」と翔は言った。放課後の教室の中で、「光の束が、雨みたいに降ってる。」流行のオカルト的な話題の中で、そういえば、と、覚えてるの、「下から上に降ってる雨。まるで。」わたし、と、翔は、生まれる前のこと、「思わず手を伸ばそうとするけど、」と言った。誰にも言わなかったけど、子どものときからさ、「それが触れられないことに気付いたとき、」覚えてて、それが変だなんて、気付いたのは、「手さえないことに気付いた」10歳くらいのとき。夕方の日差しが、声を潜めて会話する少女たちの疎らな群れを差し、「え?ねぇ。ほんと?」

《ドラえもん》と呼ばれた001番の

失敗のあとに出産された《のび太》はさらに

悲惨だった。

「でもさぁ」たぶん、そのとき、わたしには時間がなかった。「翔ちゃん言うんだからさ」

死児として生まれた《ドラえもん》と違って、

それは生き続けたのだから。

「ほんとだよね」部活動の始まる時間だったし、あるいは、やめてしまったあとだったかも知れない。「わたしも思い出したりするんかな?」いつ?笑って、

ある意味において、「損傷」を受けたDNAが構築したのか、

子宮内での造型過程のなかで深刻は事故が起きたのか、《のび太》は、

自分にはかかわりのない会話を耳に聞きながら教室を出ようとすると、「潤くん」呼びかけた翔の思いつめた表情を見る。

その身体に深刻な奇形を持って、にも拘らず

生存していた。成長さえしながら、

振り向きざまに、何?「潤君には言ったよね、これ」わたしに「子どもの頃」

《のび太》の、手足の分化しきらない固まった

有機体に過ぎないその身体は、とはいえ、

内部機構を正常に機能させさえしていた。

そんな記憶はない。首を振るわたしを見留めた時の、翔の悲しげな顔が忘れられないのはなぜか。わたしは思い出す。「とはいえ」上原は言った。実験は、前進したといって言い。どこが?わたしは窓花の死に顔を見ながら、思い出す。なぜ忘れられないままなのか、その理由など、わかりはしないことを。頭部の一部を凹ませた窓花の死体に、時間の推移は完全に停止させられている。わたし、と彼女は、「家に帰らなくなっちゃってもいい?」とBạch は言った。不意に、思い出したように吐かれたその言葉に、わたしは遅れて耳を澄まし、「ずっと、ここにいていい?」ホテルの部屋の窓の向こうに、サイゴンの、降りしきる雨期の雨の、白んだ暗い光線だけがある。「好きにしなよ」わたしは言うが、「どうせ死んじゃうんだから」彼女は、今、四肢を動かすことまえもが苦痛であるかのように、ゆっくりと、身をもたげて、その、薄く筋肉の張った少年の身体を雨の中の光線にさらし、「最期は好きな人のそばに、ずっと、いたかったりする」知ってる?彼女は言った。僕のヒミツ。知ってるか?わたしは言った、俺が知ってるなら、それはヒミツじゃない。それがヒミツなら、俺が知るわけがない。声を立てて笑い、その声は、彼女の喉の中だけで響くが、「ぼく、双子だったの。本当は」

君は今、

「お兄さんは死んで生まれたらしい」

わたしを見つめている

「僕は、」

君は、そしてわたしに、

「奇形児だった」

見つめられている。

「おなかの皮膚がつながってなくて、内蔵が外に出ちゃってたらしい」

何度も、君が

「生まれたら、すぐ、手術だよ。すぐに」

死んでいくのを、わたしは

「他の、おっきい病院に連れ込まれて」

見てきたのだった、君は

「すっごく膨らんでパンパンの内臓、」

知っているか?

「押し込んだんだって。体中に、いろんな、」

君の経験してきた

「チューブが差し込まれたって」

さまざまな

「お父さんが言ってたけど、」

苦痛を?

「で、ぼくは手の指が六本あった」

もはやここにはいない

「手術が終わって、僕を見に来たとき」

君は、かつて

「医者に言われて、もうそのことは知ってたらしいけど、」

言った、微笑みながら、

「家族って、みんな、指ばっか見てたって」

好きだと言った。

「家族会議あって、次の日に」

桜の花が

「お父さんが言ったらしい。」

好きだと。

夢、見たことある

なぜ?

「今すぐ、チューブ、全部はずしてくれって」

桜の花、咲いてるの

図太いから。膨大な、

「死んじゃうから駄目だって、言うから。医者が、」

花を散らしながら

「医者に、それでいいんだって」

桜の木のてっぺんで

気の遠くなるほどの樹齢の

「お兄さんと同じ墓に入れてやりたいんだって」

僕、一人ぼっちなのね

あの図太い生命力が

「不思議な気がする。今でも」

誰もいないわけ、で

好きだ。散る花々など

「お兄さんの墓に行くと、」

孤独、孤独なんか

物の数ではない。それは

「そこって、僕が入ってたかも知れなかったんだから」

感じはしないんだけど、

滅びはしなかった。

「今も、そこで」

むかつくの。なんか

滅び得ない不滅の

「医者はさ、お母さんと対面させるまでできないって」

無性に、どうしても

その時に

「がっかりしたらしいよ、お父さん、で、」

耐えられない、なんか、むしろ、やるせない、さ

花々さえをも濫費しながら

「お母さんは全部知ってた」

腹立たしさ?痛いの

君は

「何日か経って、僕を」

なんか、痛み、痛みを

知っているか?

「見に来たとき、お母さんは」

感じてた。一人で

君が

「僕を抱いて、」

すっげーきれえーな、ね?

忘れてしまった君は

「泣いた。僕は、生き残ることになった」

桜。

何度も死を迎え、

「ほら、手のひらにあるでしょ、痕跡が」

むかつくから、

君は、一度も

「傷痕。子どものころの、」

ね?

滅びはしなかった。

「整形手術の」

蹴飛ばしてたの。ずっと

わたしも

「ごめんって、お父さんが言ってた」

がんがんがんっ

同じだというのなら

「ごめんって。僕も今、」

わさわさわさっ

気の遠くなる、不滅の

「時々思う、」

ばさばさばさっ

永遠の中に

「ごめんって」

がざがざっ、がさがさっ、がざがざっ

失神するしかない

「あんな思いして育ててくれて、」

俺、僕、ね、

覚醒し続けながら、

「でも、ぼく、」

気付いたの

目を見開いて

「女の子で」微笑とともに、

いま、俺のせいで、地上の皆は

桜の花に埋もれちゃって、

みんなみんな、窒息しちゃって

人類滅びちゃったの。

彼女は言った。

やべっ

わたしは、次の瞬間、

泣いた。俺。一人で泣いた。

言葉を納めた彼女に口付けるだろう。その口付けが、

君に

彼女の命さえ奪うことになるかもしれないことなど、

命のキスを

知りながら。無数の、

君に

生き生きとした雑菌の、

口付けを

膨大な生命とともに、

君に

命のキスを。雨の中に、

 

発熱したBạch のためにアスピリンを買ってやりに行く。何度も、土砂降りの雨をかいくぐって、ホテルのすぐ裏手のメディカルストアに行き、びしょぬれのわたしを店員は見咎めるが、定期的に起こす発熱の発作は、Bạch の体力を奪い続け、最早、なぜ身体が発熱しているのか、その理由の特定さえ困難だった。彼女の発狂した身体の日常的な必然に過ぎないそれは、わたしが、アスピリンと言う言葉を3度繰り返して、やっと言葉を解した店員は引き出しから錠剤を取り出す。その、50代らしい日焼けした男は、小さなビニール袋に入れたそれをわたしに手渡すときに、触れられた指先と指先に、日灼けした顔を恥らうように赤らめてうつむき、わたしはまた、雨に濡れなければならない。「殺したほうが言い」わたしは言ったが、上原は請けがわなかった。研究員総員の意見も安楽死に決まっていた。失敗はつきものでしょう?上原は言い、ラオス人たちの白衣は、今、自分の身体への保護服であるかのようにすら見えた。彼らだって戸惑っていた。子宮を提供した母体にすら見せられはしないのだから。学ぶべきだと思う、失敗から。上原は言った。体中にチューブを差し込まれた、顔にあるべき機能は全てそろえながら、造型として顔らしい顔さえもない《のび太》は、上原の独断で5ヶ月も延命された。「なぜ、あなたは」失敗?「これが失敗だというんですか?」も?しか?独断?だれの?わたしは、彼から、学ぶべきところは多い。彼は言った。そう思います。とても、多い。とても、美しい風景ではあった。意図的に損傷を与えられた非コード化DNAは、みずからの限界をみずから設定することができずに、発現の可能性そのままに、身体は自由に、強烈に発現していた。強靭な再生能力、複製能力、修復能力、そして、不確定で理不尽な諸可能性の発現。細胞の群れがそれぞれに限界付けられた自己の発現の可能性に従うのではなく、それぞれが自己の可能性を模索した結果、それは野放図に自由な形態をとり、最早、確定した身体とは言い得ない。それが生存しているのはかろうじて成立している現在としてであったに過ぎない。いつ破綻するかわからない。いつまでも、破綻しないかも知れない。美しいと、投げやりな言葉を投げるしかない。それは、とても、そして何かの理由で破綻した腎臓が、結局のところ全ての臓器の機能を破綻させていった。彼をも、母は抱くだろうか?体内から取り上げられたときに、彼女だって一瞬だけ、目にしたはずだった。見たくもない、と言った、とラオス人が言った。二度と。もう、忘れてしまいたいほどだ。そう、まあ「そんなものかな」上原が言い、わたしは笑いながら、「ひどいね。生んどいて」上原が声を立てて笑った。汪は?なんか言ってる?「見たがってますね、彼は」と上原が、興味深深いんですよ。彼にとっては。「毎年、お墓参りしてるのよ」と弘明の母は言った。彼女が弘明の母親であることはすぐにわかった。県を隔てた隣の町の、駅前の喫茶店に入ったとき、それは、実家近くの町で雑貨のセレクトショップをやっている裕幸と、高校を出てから10年ぶり近くにあったときだったが、弘明が呼び止めた若くは見えるがあきらかに年老いている女性店員の振り向いた顔が、わたしの意識を一瞬だけ止めたあとに、さまざまな記憶が、何も思い出されないままにあふれ出す。固まりになって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


月の船、星の林に 5

「裕幸くんでしょ、潤ちゃんも」彼女は身を屈めて、声を潜めながらかけられる言葉を聞きながらわたしは、彼女が誰の母親だったのか思い出しあぐねるばかりで、「弘明君の」裕幸が言った。弘明の家族も、事件のあと、引っ越していった数世帯のうちのひとつだった。どれだけの家族が引っ越して言ったかわからない。翔の家族含めて。被害者にも、加害者にも、わけ隔てない平等さで。とはいえ、事件の関係者であることを伏せて生活するためのものではあったはずの引越しが、その意図を実現させえた例はない。どこでも、誰もが、すぐに、彼らは彼らであることを指摘され続け、結局は事件現場から距離が離れたという以外ではない。元気だったの?変わりはない?交互にわたしと裕幸を見返し、もう、「死んでお詫びするしかないんですが、」と彼女は繰り返し言い続けていたものだった。ほんとに久しぶりね。翔の葬儀に顔を出そうとして、その家族に拒否されながら、「死んでお詫びするしかないんですが、」彼女は言った、喪服の人々の群れに、目を逸らされながら意識され続ける中に、「お詫びのお線香のひとつだけでも。そうじゃないと、わたしも死に切れないんで」彼女は泣きじゃくりながら言い、まるで被害者のように、とはいえ、確かに、彼女たちも生活を破綻させられた人々の一群のうちの一人には違いなかった。「常識で考えて、ここは引き取って。」翔の叔父が言って、彼女を連れ出そうとするが、彼女は同じ言葉のヴァリエーションをいくつも並べ立て、不意に、翔は二度埋葬されるのだ、とわたしは思った。弘明たちが、だれにも見つからないようにコンクリートづけにしたあの深夜の埋葬と、そして、これから為される焼却の上の、墓地への埋葬と。祐樹が言っていた。翔を埋葬して帰ってくる自転車の上で、坂道をこぎあがりながら、一哉は思い出したように、呪われちゃったよ、絶対、呪われちゃった、と口走り続けた。興奮状態が、彼の顔に赤斑を与え、一哉は甲高い声を立てて笑いながら、その性急な声を祐樹は聞く。もう終わりだって、絶対、俺ら殺される。そうに違いない、と祐樹は思った。生きられるわけがない。俺たちは、もう死んだ。「あいつらをぶっ殺してやりたい」父が言っていました、と薫は言った。「あいつらを」誰を?「殺すだけじゃまだ足りない」誰から、誰までを?って、思っちゃいましたけどね。薫は言った。あんなに、みんな、どっかで、加担してたのに。「あれから、ご無沙汰でした。本当に、長い間、」裕幸は言葉を切り、彼女の名前は木坂ハナエかカナエという名前だったことを思いだしたが、お忍びで翔の命日前日に彼女の墓に参っているのだと言った。年々、墓地の荒れ方はひどくなる。翔の家族が町を出て行ってから、誰も手を入れる人間がいないから、と、近所の板金屋が言っていたと言った。「たまに、俺が掃除してるんだよ。見かねてね。さすがに」ひどいもんでしょう?とカナエかハナエは言い、事実、翔の家族たちは墓参りさえもう何年もしていない。あれじゃ、あの子がかわいそうで、と、彼女は、生前の翔と彼女は一面識もなかったはずだった。今でも、と、今でも思い出すのよ。彼女は言った。どんなに苦しかったの?って、今でも思い出すの、とハナエかカナエは言った、あの子の痛みや、悲しさや、苦しさや、悔しさやが、今でも思い出されてならないの、だから、と彼女は言って「毎年、お墓に行くんだけれどもね、」それはもう、何もできないから、と彼女は言った。死んでお詫びするしかないんだけれども。祐樹が、その後、地元の小さなやくざ組織に入って、小さな組を構えはしたところまでは知っていた。とはいえ、末端の小さな組織に過ぎない。当時、ネットワークビジネスに似ていたそれは、自分以下の末端を作り続けることでしか維持できなかった。末端近くはいつも、発生と破綻を繰り返し続け、安定と言うものを知らず、末端近くからそれ以上に這い上がれることは、基本的にはない。祐樹は一番、気弱な奴だと認識されていた。寛人に、公園で、不意にみぞおちを殴られて、うずくまりながら息を継いでいたのを覚えている。寛人は声を立てて笑って、油断すんなよ、言い、いま、祐樹に、誰かが漏らした失笑の声さえ聞こえていないことはあきらかだった。その失笑が、祐樹に向けられたものではないことは気付いていた。無意味で、唐突な寛人の暴力に対するそれに過ぎなかった。寛人が今、何をやっているのかは知らない。事件のときが、十五歳で、おきまりの、裁判、精神鑑定、カウンセリング、保護観察、その先に、今彼がどこで、どのように暮らしているのかは、誰も。多くの人間が、けして悪い人間ではなかった、と言った彼の父が、あの事件以降発病した極度のうつ病が、金銭的な面でも何でも、彼らの生活を破綻させたことをは知っていた。図太すぎるんじゃないかと言われながら、もともと住んでいた家にあれから十年近く住みんだあとで、結局はどこかへ引っ越してしまった。多額の借財を抱えていたには違いない。自営の広告デザイナーだった。レタリング文字と、看板製作が専門の。ハナエ、或いはカナエの後姿に一瞥をくれ乍ら裕幸が言った、俺、あいつが死んだとき、なんか、すごい醒めてたんだよね。ハナエ、あるいはカナエは喫茶店の仕事に追われ、豊かな生活をしてはいないことはあきらかだった。雇われで、あの歳で、こんなパートをしているのだから。彼女をわたしは目で追いながら、お前、どうだった?翔が死んだとき、と、裕幸が言った。どうって?だから、泣いたとか、腹が立ったとか、裕幸は言い、一哉に裕幸が「お前、人の彼女に何やってんだよ」と詰め寄っていたのを、見たことがあった。

 

学校で、まだ翔が監禁されていたときに、そして、その打ち明けられるような小声に、むしろ祐樹が「寛人さんだから」と言った「連れ込んだの。だから、あの人に言ってよ」舌打ちする裕幸は、ややあって、お前ら、本当にやばいよ。わかってる?「わかってるよ」おれ、と裕幸は言った、なんか、「悲しかった」わたしの声を、「すっげぇ、泣いたの、覚えてるよ」そっか。おれは、と、裕幸は、知ってる。祐樹が不意にうつむいて、あのとき、そう言ったのを記憶している。実際、なんか、おれの人生終わっちゃった気がするもん、マジ。と言う祐樹を、泣いたの?お前、と裕幸は言った。「泣いたよ。普通に」わたしは答えるが、それは半分以上嘘だった。むしろ、わたしがあの事件が起きたことを実感したのは、数年後に出版された、事件のルポルタージュ本を読んだときだったのだから。その、自主規制のかけられた、かなり水で薄めて書いてある本を読んだときに、わたしは、彼女の全身の苦痛を思い出した。何度か、祐樹の部屋で目の前に見た彼女が与えることのなかった苦痛の記憶が、唐突に、わたしの中に思い出されて、わたしは涙を流すことすらできなかった。よみがえる痛みと、苦痛と、恐怖の記憶が、ただ、わたしにできることは、それらに耐えることでしかなかった。なぜ?「俺、泣けなかったんだよ」と裕幸は言った。なぜ?口ごもり、ややあって、なんか、むしろさ、自分が恥じかかされた気がした。「なんで?」わかんない。あいつ、彼女だったじゃん、俺の。だから、なの?わかんないけど、すっげぇ、恥じかかされた気がして。「だれに?」わかんない、裕幸は言い、なにに?それをされたのかわからないかのように、窓花は指を自分のそこにあて、流れ出てくるわたしの精液を指にもてあそびさえするが、鼻に匂いを嗅いでみせ、ばっちい、声を立てて笑った。女は壁にも垂れて座り、ベッドの上の行為から目を離さないまま、未だに目を離さずに、薄く開いた口からひそめられた息を吸い、吐き、この女が最早正気だとは思えなかった。毎朝、朝になれば、窓花に食事を作って、さんざんキスをせがんだあとに、会社に行き、部屋の外では彼女の以前からの日常が継続しているにはしても、部屋の中のこの新しい日常と、どういう接続がされているのか、どうつじつまが合わされているのか、わたしには理解できなかった。「潤ちゃん、ねぇ、」窓花は、指先を眺めながら言い、傍らでわたしは「子どもほしい?」その乳房のかすかなふくらみに「できちゃったら、どうする?でも」戯れに舌を這わせてみるが、窓花は「超違和感あるよ、俺」声を立てて笑いさえして、わたしの「おれが生んじゃうの?子ども」頭を撫ぜる。「だって、俺、けど、できちゃうんだよね」結局のところ、為されているのは「普通に。でも、欲しい?できたら、」年齢をさえ別にすれば「うれしいのかな。できたら」当然の営みに過ぎない。「それ、普通に」普通の男女の。そんなことはわたしだって知っている。「潤ちゃん知ってる?」彼が女を抱くときの「男の体ってさ、だから何?って感じなんだけど」どうしようもない身体的な「やっぱ、いいよ。知ってた?」ぎこちなさがここにないことが「普通にいいんだけど。これってさ」むしろ、ぎこちなさを与える。「女に目覚めたってヤツなの?俺が?」当たり前の営みの中で「笑っちゃうよ。俺?」どうしようもなく「やめて。勘弁してって感じ」窓花は声を立てて笑った。眠くて仕方ない女は、半ば目を開いたまま、眠りかけては目を開く。その緩慢な繰り返しが止まない。身を寄せて、わたしに口付けようとしたとき、予想外の拒否にあって、Bạch はすねたような顔をして、「どうしたの?」問いかけるその声をわたしが聞いているのを、彼女は知っている。「わたしのこと、嫌いになったりした?」窓の向こうに、雨の濡れた風景が、ただ、白く広がり、その降雨の、あらゆるものをうって止まない音が、耳の中に反響しさえしているのには、わたしだって気付いていた。あの、おそろしく旧式な設備と最新設備がごっちゃになったできそこないの研究室には、もう二日間も通ってはいなかった。Nam も、だれもが、あわてているかも知れないし、そうではないのかも知れない。少なくとも、電話すらかかってこない。そうしたものだ、と思っているのかもしれない。なんといっても、彼はマッド・サイエンティストなのだから。Bạch は、出会って以来、一度も両親の元に返ったことはなく、もう二日もたった。両親は探しているに違いない。とはいえ、彼女の電話が、鳴りもしないのも事実だった。どうして?彼女は言い、雨が降っていた。ねぇ、どうして、雨の日の日差しを反射させた彼女のキス、だめなの?横顔を見、息がかかるほどの近さの中で、「君を死なせるわけにはいかないよ」わたしが言うのを聞く。意味ないよ。だって、どっちみち、もうすぐ死んじゃうんだもん。わたしは瞬き、思い出す。《しずか》はカンボジアの、ベトナムとの国境近くの町で、褐色の肌のよく灼けた少女になっていた。005番、そして、双子の006番。そこに一時停車する国境を渡る長距離バスのための休憩所で、ベトナム料理を出している店を、彼女の両親と営み、十歳になった彼女は、母や父とは似ても似つかないほどに美しい。声をかけるわけでもなく、ただ、彼女を目で追う視線に気付いて、彼女は一瞬訝るが、それ以外のかかわりはなく、それ以上に関わらなければならない必然性もない。この店が、彼女の母に、汪によって支払われたカンボジアの貨幣価値においては多額の金銭で始められたに違いないことも、わたしは知っていた。二人は撤退の産物に過ぎない。まともな人体を生成する必要性があった。彼らは修正された単なるクローンに過ぎず、忠実な複製ではないという意味で、クローンですらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人体の複製そのものが、受精という正確なクローニングの破綻から発生するのであって、そもそも複写とはいえないことから言えば、要するに単なる人体に過ぎない。人体の諸限界に基づいて構築された、それ固有の存在。ただ、美しすぎ、諸能力が高すぎるだけだ。もう一度、唇を寄せようとする彼女を、もう一度、拒絶し、駄目だよ。「だから」と彼女は、なんで?「ねぇ、なんで、駄目なの?」俺の唇の上で、当然生命を維持しているはずのさまざまな雑菌の群れのひとつが、君の命を奪ってしまうことだってある「それがどうしたの?」君を、俺は、殺したくない「なんで?」不意に、わたしは言葉に詰まるが、ややあって、「守ってやりたい」と言ったとき、わたしは窓越しの日差しに瞬きながら、確かに、そうだ、と思った。何が?守るとは、何を?誰が?守るとは、どうして。何から?頬に触れようとしたわたしの手が、思いあぐねて、その至近距離にとどまるのを彼女は一瞬訝った後、とはいえ、その手のひらに頬を埋めようともしない。見つめる彼女の視線に見つめられるままに、弟の姿を探した。《しずか》には弟がいるはずだったが、一年前のそのとき、彼の姿は見当たらなかった。彼らの健康状態については、彼らの行きつけの病院からの検診データで、詳細まで知ってはいた。何も問題はない。その医者が、データの改ざんでもしていない限りは。「わたしなんか守って、どうするの?」彼女の息遣いがかかり、彼らは彼らの固有の生を生きていた。「わたしの、何を、守るの?」その無防備な至近距離の中で「どうせ死んじゃう命をいまさら守って、どうするの?」どれだけのヴィルスが彼女の身体に運び込まれているのか「わたしが、今、死んでもいいからキスしってっていったら?」それら固有の生命組織が。わたしだって知っている、彼女は「それだけが最期の望みだって言ったら?」生きられない。「わたしのそんな思いより、わたしが生きてることのほうが重要だなんて、あり得るの?」答えられない。俺には、とわたしは、「俺にはわからない」言った。「自分勝手じゃない?って、」彼女は、耳元に、思わない?「思わない?」言った「本当に愛してたの」知恵が言った。彼の父親は動揺したまま自分で警察に行き、娘には会わせる顔がない、と言った。けれど、わたしが、と彼は、間違ったことはしていないと、それだけは、間違いだとは思えない、と山城は言い、帰ってきたわたしを、むしろ、透明な、毅然とした顔つきで、彼女がかつて何も恐れたことなどはなかったということを明示しようとするかのように、知恵はわたしを見つめながら、窓花ちゃんは?「死んだ」と、殺された、わたしは、「自分で」言った、死んだようなものだ、と、窓花が、あれほど、助けてくれと懇願しさえしたのに?それがわたしだとさえ認識できない意識の中で、誰かさえわかり得なかった誰かに向かってさえ。表情の一切変わらないままに、彼女は今、微笑んだ、とわたしは思ったが、一瞬の遅れのあとに、不意に知恵は身をまげて泣き崩れ、わたしはその声を聞く、喉がこすれ、しゃくりあげるようなその音声に、誰がいったい殺したのか?それがわたしではない必然性などどこにもない。君が?とわたしは、「殺しちゃった」知恵は言った。わたしが、窓日ちゃんを殺しちゃったの?なぜ?「大丈夫だよ」と、慰めの言葉もかけられないままに、知恵は言い、あなたが「もう、」いるから「あなたしか」と、彼女は「いない」と言った。わたしを、嗚咽に中に見上げ、見つめ、彼女は窓花を愛していた。彼が奪われてしまった悲しみが、知恵の心を引き裂いて、わたしは悲しい。窓花はもう、いない。わたしはそれを知っていた。「ホトケが、見えるんだよ」窓花は言った「俺。ホトケって呼んでんだけど」彼は言い、窓の向こうに雨が降り続けていて、あけない梅雨の雨の中に、「人間だけじゃない、細胞とが、そういうの、全部」朝早い日差しが差し込んでいたが、「光の玉が包んでるの」女は未だに眠っているままだった。「オーラって言うの?あれ」まだ寝てるよ、と窓花は「木も、幹も、葉っぱも、なにも、かにも」言い、一日、「生命単位全部に。」何時間ねりゃいいの?笑いさえするが、「命って、集合体なんだなって、」窓花をわたしは見下ろしながら、「よくわかる。」立ったままで「生まれる前に」何が君を殺したのか?「見たのと一緒、その」あるいは誰に?それが「光の玉を見るたびに」かつて、何かに「目を開けるたびに」殺されなかった「思い出す。ほら、」何かなど存在しない。「全部がすっごいたっくさんの光の玉の」誰もが、何かに「固まりなってて、乱反射してる」殺され、「魂、って言うの?何のために?」何かが、「そんなのなくても、生きてられるはずなのに」誰かに殺される。「何でホトケなんかがあるの?って思う」と、窓花は「いっつも。目を開けてるのが」声を立てて笑い、「いやになるくらい、まぶしくて」わたしは彼の頭を撫ぜてやりながら「何もできないって言うか、何の意味も」と、窓花は「ないくせに」ラオスで獲得した、最初の被験者が生む子どもが解釈困難な奇形を持って、その母体の中で発育しているのは、最初からわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実験とは言えない。それは、マウスと言う公認された屠殺自由な生命体によってなされるべきものだ。「非コード化DNAが、発現の支配者だとするなら、話は早い。」

外観しかわからなかったが、足らしきものは3本あり、

「それらは結局のところ限界設定しているに過ぎない」

むしろ猫の尻尾のようなやわらかい骨格であることが予測され、

「設定されない限界は固体を形成しない」

足とはいえなかった。

「外延が常にその終点によってもたらされるように」

手は健全だが、頭部に不審なかげりがあった。

「膨大な非コード化DNAが限界設定するための」

実物を見なければ、

「障壁コードであるとすれば」

何も言えない

「それらこそが」

不審なかげりが。

「固体を固体たらしめている」

予測された結果ではないことから言えば

「それらは限界という」

それはまったき失敗だったが、

「固体の可能性そのものを」

失敗とは何なのか?

「結果的に支配している」

哺乳類の生成が、精子と卵子の結合、

「存在Aが存在するには」

或いは異なるDNA同士の衝突によって

「存在Aとして」

起こった事件であるとすれば、

「限界を持たなければならない」

その事件の結果は文字通り結果的なものであって、

「限界こそが存在の」

成功失敗の価値観の埒外に過ぎない。

「可能性を与える」

台風が樹木をなぎ倒そうがなぎ倒すまいが、

「それらは固有性を与えざるを得ず」

台風が台風であることに違いはない。

「単なる論理的な限界に過ぎない」

その固体が生存しえたかしなかったのか、

「逆に言えば」

どれほどの期間生存しえたのかは、

「あなたが例えば永遠の生を」

個体の生の結果であって、

「手に入れることもできる」

発生そのものの問題ではない。

「わかりますか?」わたしが言ったとき、上原の通訳を介して、汪はやせ衰えた虚弱児のような身体の上に、笑顔をほころばせ、Goodとだけ言ったものだった。失敗だ、と上原が言った。わたしは言った。もう少し、見てみよう。なぜなら「これは生きている」わたしたちは「見てみよう」この固体の結果を「もう少し」見てしかるべき「もたらされる結果を」必然がある。そう言ってしまうと、と上原が、「俺たちが今やってる」言った、「実験そのものが」まさにそうですが、「無意味なものになりませんか?」可能性の限界を持って「単純に」生まれてくるのは「いくら優秀に」事実ですよね?「DNAを書き換えて」この子の生存期間が「与えたにしても」どれだけか出生できるのかすら「問題のあるDNAと」わかりませんが「本質的な」この奇形自体が「差異がないと」その可能性を限界として「言ってしまえば」はらみこんでいる。わかってる、とわたしは「何が?」言い、ただ、と、「もう少し見てみましょうか」上原が独り語散るように言うのを、聞く。結果として、帝王切開によらなければ生み出されなかったその生体は、取り出されるとほぼ同時に生を停止した。その生体は母体内で既に脳死状態だったことが発見され、わたしたちは発育を早期に中止しなければならなかったことを、改めて、知った。サル=ヒトの脳はあまりに保守的過ぎるのだ。それらは変動性、可変性を受け入れることができない。正しかったのは、むしろ、上原のほうだった。ラオス人の研究者たちにも、落胆は広がり、確かに目の前の固体の形姿は、落胆させざるを得ないどころか、そのそもそもの倫理観にさえ訴えかけずにはおかなかった。生みだされたそのいびつな形姿が。大半の研究者が、その倫理問題を理由に、チームから離れていったことも、彼らそれぞれの表情を見れば、納得はいった。じゃあ、と、わたしは言った、卵子が精子を選別するのに、倫理性はあるのか?膨大な《それ以外》を排除した卵子の倫理性は?ときにその選択が奇形を生むというのに?或いはこの男を選びこの女を選んだ男の倫理性は?倫理的であるとはどういうことだ?「それとこれとは違う」上原が言った。「少なくとも、彼らは違う」

「わたしたちを見棄てた彼らは彼ら自身の固有の倫理によって、正当にわたしたちを見棄てたんですよ」上原が笑いながら言い、じゃあ、なぜ、君は俺と一緒に研究してるの?わたしは笑い、声を立ててさえ笑いながら、本当に、「こんなとこまで、」それが疑問だよ「一緒に来て。」わたしよりもはるかに若い、この、九州出身の、極端なほどに色白な男は、その端整すぎる顔立ちに似合いもしない薄いあごひげを指の甲で撫ぜたあとに、

「知りたいんです」

彼の眼鏡越しの眼差しは、

「人類と言うか、その」

常にある悲しげなほどの優しさを湛え、

「ヒトの、結局、その限界と言うか」

わたしは彼が

「限界としての」

同性愛者だと言うことは

「可能性の限界」

知っていた。見れば分かる。

「つまり」

紳士的な、

「ヒトとは何か、」

他人との距離感をとるのに長けた、

「その現実を、」

美しい青年。

ね、と彼は言った。ソクラテスにでも聞いたほうがいいよ。全身に繊細な気配をただよわせて。わたしが言うのを、彼は笑うが、「友人に言われましたよ。プロメテウスの火、と言うのを知ってるかって」笑い、「俺、言いましたよ。それは違うよねって」彼は言った「プロメテウスの火って、限界の突破でしょ?俺たちのは、むしろ、限界への直面に過ぎない。つまり、」わたしたちは限界をなど一度も突破しようとはしなかった。わたしは彼を見つめ、「退屈な研究です。本質的には。」上原は確かに「そこに惹かれるんです」美しい「むしろ」扇情的なまでには。なぜ、「聞いていい?」君は、「こんな研究を続ける」君の美しさを「理由は、」直視しないのか?「何?」と言ったわたしに、窓の向こうの雨が降っていて、色彩の一切が奪われてしまった気さえする。「どっちの質問に答えて欲しいですか?」雨はいつでも色彩を奪う。それが触れるあらゆるものから。あからさまに男声に過ぎない、男声特有の美しさを、耐えられないほどに抱えながら、上原は声を立てて笑い、端整ではあるものの、結局のところ手を伸ばしても触れることなどできないに違いない一種の無表情さを持った彼の視覚的な美しさが、むしろ、美しさの実在そのものを否定しさえしている。とはいえ、彼に多くの女たちの、煽情された、扇情的な眼差しが、時に押し付けがましく、時に押し付けがましいほどに息をひそめ秘められて投げかけられ続けるのは事実だった。驚くほど小柄の、この東洋人は確かに美しい。「多くの研究者が離れていきましたね。今回の失敗で。ラオスにさえいられなくなるかも知れませんね。一般的に言って、異端的な研究ですから。」そうだろうね、とわたしは言い、「あなたの一番古い記憶は何ですか?」不意に言う彼に、「答えられないよ。唐突過ぎて。」笑うが、「むかし、子どもの頃、」と彼は言い、

「記憶力がないわけじゃない。けど」とわたしは、

「家族で近くの山に登ったんですが、」その、彼の

「思い出せないよ。一番遠い記憶?」

「小さい山で、すぐに上りきってしまう程度の、」

いつの?なぜ?」

「山道のはしに、バスのおもちゃが捨ててあったんです」

「遠すぎるから思い出せないんじゃない。たぶん、」

「古くて、ぼろのろで、日差しに、」

「近すぎて、そう

「灼やかれて、」

「あまりにも近く」

「色あせて、」

「すぐそこで想起され、」

「小さくて」

「だから」

「それに、」

「いつでも、」

「木漏れ日の光が、」

「俺に、」

「静かにあたって」

「記憶されていたものは」

「おそらくは夏の」

「その、最早、絶対的な」

「その日差しが」

「距離の喪失ではなくて」

「直接、あたって」

「むしろ、」

「きらめくことさえなく」

「無距離なまでの」

「そこにあるそれは」

「近さの絶対性に過ぎない」

「もはや」

「それらは」

「何も語りかけない。…けど、」

「その近さゆえに」

「なぜかそれが」

「なにかを語ることを」

「さまざまな記憶を喚起し、」

「あくまでも、」

「にもかかわらず、」

「不可能にしながら、」

「思い出せない」

「そして」

「なにも。…なにも」

「それが今、」

「なにも思い出せず、」

「想起されたものに過ぎないことさえ」

「そして、」

「いつの間にか」

「何も思い出さしめえない」

「忘却させたまま」

「にもかかわらず、」

「語られえないままに、」

「わたしは」

「痕跡どころか」

「逃げるように立ち去った」

「そのあからさまな存在だけを」

「他者の生の」

「明示させて」

「うち捨てられた痕跡から」

「それらは」

「あるいは、」

「目をくらませる」

「…消滅してしまった、」

「なにも見えない」

「…記憶から?」

「視力の喪失に」

「何から?」

「等しい」

「わかりますか?」

「光の強度の」

「なにから、」

「中に、」

「わたしは、」

「それはもはや残像として」

「逃げたんでしょうか?」

「放置されたかのように」

「わたしは」

「にもかかわらず」

「それが」

「あくまでも」

「わからない」

「見つめ続けながら」と、彼は耳を澄ましたように、わたしの声を聞き、声を立てて笑いさえするが、「わたしにとって、問題なのは、倫理なんです。」上原が言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「倫理の問題ほど困難なものは無い。例えば、わたしは、言ってしまえばわたしたちのしていることは人体実験に他なりませんが、そこに倫理問題など感じない。あの固体、要するに《ドラえもん》ですが、《ドラえもん》がああしたグロテスクな形で、死児として取り出されたにしても、ね。あの形姿に倫理観を問われている気がするなどと言うのは、倫理そのものの欠如に過ぎない。倫理が崩壊したとするなら、《ドラえもん》が生き残れなかったということだ。そこにおいてのみ、確かにわたしたちの倫理問題はある。とはいえ、」

上原は十二歳までロンドンで過ごした。

「わたしが個々に生きてあること自体が」

三十代になった今

「その本質において生存するための」

東京で暮らしながら

「生体実験の中の出来事だと言っていい。それはどうしようもない」

毎月の半分をラオスで過ごし、

「事実として、その生体の身体システム、」

重ねられる研究は遅々として

「有機体構造、それら全てが結局はその生体が」

その結果を出しはしないが、彼は

「生存しえるという保障さえかいたまま、」

「時間はかかりますよ。当然

「ひとつの前例なき実験として出生し、実験そのものとして」

母体の中で十ヶ月以上発育させねば

「生存するための戦いを強いられる。すさまじい戦いが、」

ならないんだから、」そう笑って、

「生存に向けられた実験として実験され、かつ、」

でしょ?」父親は外交官だった。その意味では

「生存すること自体は生存の不可能性との普段の戦いなのであって、」

エリートだといっていい。少なくとも

「すさまじいストレスとプレッシャーにさらされ続けている。我々は」

金に困ったことなどは無い。といはいえ

「正に実験体に過ぎない。モルモットの飼い主がいるならいいが、」

何のかげりも無いどころか

「いないことこそが、この実験に凄惨なまでの美しさをすら」

苦しみをすら、

「与えている。わたしにとっては、ね。」

悲しみをすら、

「わたしたちは実験されているが、」

感じたことなど無い、と

「実験しているものは、試験管の外を見ても」

多くの人間からそういわれる彼はただ、

「どこにもいない。むしろ、試験管の外すら存在しない。」

飽きている。そう見える。わたしには、それらの

「試験管の絶対的な中の中で、わたしたちは倫理を知る。」

羨望するわけでもない

「倫理的であろうとすることを。」

嫉妬するわけでもない

「何とかして、倫理的であろうと努力さえする。」

とはいえ、羨望と

「倫理は構築され、破綻し、破壊され、」

嫉妬と

「構築される。倫理は停滞しない。相対的な速度の問題ではなく、」

雑多な感情の

「それは生体全てを貫く、どうしようもない」

混濁した

「疾走に過ぎない。」

眼差しに。彼は

「問題は、それが疾走というべき速度を一度たりとも持ちえたことなどないということだ。それは常に、生態にとって絶対的に近く、触れられえはしない距離の向こうにまで遠かった。常に。わかりますか?わたしは、倫理的な人間です。何の比喩も含まずに。」自殺した上原の死体は、まるで惨殺死体のようだった。朝起きたわたしが何の気もなしに、カフェにでも行かないかと、彼の部屋をノックしたときに、返事もない彼の部屋のたたずまいに、不審を感じる必要も無かったはずだが、彼の部屋のスペアを借りに行ったフロントの青年は、寝起きの、いまだに眠い目をこすりながら、いぶかしげな一瞥と、親しみを同居させた眼差しの中で、彼の部屋に鍵を差し込んだときわたしの指先が感じたためらいは何故だったのだろう?外で、騒ぎが起こっていたのは知っていた。確かに、その騒ぎの音声が、わたしをさっき、目覚めさせたのだった。ドアを開けると、そこは死体不在の殺人現場のようだった。彼はいないが、部屋は乱れ、あらゆる場所に血が付着し、二人以上の人間がここで争ったようにさえ見える。わたしは、彼が誰かに殺されたのだと思った。テーブルの上のパソコンの上に、遺書らしきメモが置かれているのを見つけたときにさえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本語と、英語で丁寧に書かれたそれを、しかしわたしは、彼が殺されてしまったのだとあわて、見回わされた部屋は、血の付着したシーツが乱れて床に落ち、水道の水は出しっぱなしにされて音が立ち、外で、騒ぎが起こっていた。それは既に知っていたことだ。開かれた窓から風が吹き込み続けていたのも知っていたが、開かれた窓から風が吹き込んでいるのに気付いたわたしは、カーテンにさえ血が付着しているのを、床に転がっている凶器に違いない軍用風のナイフを避けてとおりながら、身を乗り出した窓の下の輪をかいた人だかりの中心に、飛び降りた彼の死体がうつぶせになったままだった。それなりの時間が経過しているに違いないにも拘らず、人だかりにだけ囲まれ、未だに誰にも手を付けられていないそれは、宿泊先のラオスの路上で、それだけが時間の存在を否定し、いかなる時間の経過も身に受けずに、無様にそこに停滞し、《ドラえもん》よりもむしろ鮮やかに、自分が死体であることを明示さえしているのを、けなげにさえ感じる。ホテルの部屋から飛び降りた上原の死体の周りにできた輪が、一切の静止をすることなくうごめき続けながら、輪を崩すことなく、警官すら彼に触れようともせずに、その周囲にいて、誰も彼に近づこうとしないのは何故なのか?《夢を見ました》と遺書には書いてあった、彼の死体は、《お母さんの夢です》自分で突き刺された喉への《とても幸せで、素敵でした》或いは手首への《この美しさとともに》傷から大量に出血しながらも《死にたいと思います》死に切れず、彼は部屋の中で、物静かに暴れたのだった。少しの音さえ立てないように気遣って?声さえ立てずに、その鼻からだけ、うめくのと同じ息遣いを漏らしながら、その苦痛は予想以上だったのか、予想以下だったのか?単純な解決法として彼が見出した窓を開け放つと、風は吹き込んだに違いない。雨は朝から降りしきっていたが、雨の中であらゆるものが色彩を喪失してしまったかのような、鮮やかで何をも語り掛けない色彩そのものとともに沈黙しているのを見たときに、それは始めから何をも語りかけなどしなかった。ミツバチを呼ぶ花の色彩以外には。それだけが、唐突に目覚めた言語だといってよい。或いは、無言の住居の群れ以外には。屋根の形、かすかな装飾の曲線、壁の形態、色彩、それらが、或いは路面そのもの、電柱の群れ、あらゆる、それらが、それらの言語のうちに目覚め続け、不意に、正に語りかける無数の言語の音響が目の前に広がったときに、全ての色彩を奪っていく雨の透明さの中にさえ、彼が飛び降りたとき雨は彼の体を濡らしめることができたのだろうか?色彩が目覚めていた。形態は覚醒していた。正に、言語そのものとして。彼の身体が雨と同じ速度で落ちて行ったのだとしたならば、雨は、濡らし獲たのだろうか?今、路面の上の彼の身体は雨にぬれ、水の流れが路面に彼の血を拡散して止まない。結局のところ、その血の路面への拡散の範囲が、人だかりの輪の内径の範囲に他ならなかった。いずれにせよ上原は死んだ。人々の声は聞こえなかった。死体はただ、持て余されていた。なぜ、彼は、とわたしは、なぜ、上原の死に不審など抱きえるのか?と思った。明確な遺書があるにも拘わらず。明晰で、明らかな死。当然のように、上原の自殺はラオスからわたしの居場所を奪ったが、それはすぐにわたしに新たな居場所を与える。山だらけの国から海沿いの国へ横滑りするようにわたしは移動する。ベトナム、ホーチミン市。旧名サイゴンへ。多くのベトナム人たちが、わたしを見て、目をしばたたかせるようなしぐさをしたものだった。あの陽気な Nam だって。空港を通り抜けるときにさえ。体の半身を焼かれた、美しい外国人に。理解の範疇を超えた人間に対して、人間は寛容になるか、徹底的に排除するかしかすべを持たない。被験者はカンボジアで探せばいい。自分の身辺で、人が死ぬのはもう十分だ、とわたしは思った。一度も、その、どの死者をも自分の手で埋葬したことなど無い。最期に会ったとき、裕幸は子どもが生まれるのだといった。二人目の子どもだ、と彼は言い、わたしは彼にグラスに、彼が好きな九州の焼酎を注いでやりながら、実家近くのその居酒屋は裕幸の甥っ子の同級生が経営している個人店だった。その男との面識は無い。裕幸にその男を紹介され、四十歳をはるかに超えたようにさえ見える、奇妙に老け込んだ小柄な男はわたしの人目を引く外見を、あらゆる気遣いのうちに、見るでもない一瞥をくれ続けたが、裕幸の最初の子どもは重度の知的障害を抱えてるらしかった。ショックじゃなかったとは言えない、と彼は言い、中学のころだった。翔はまだ生きていた。翔として。わたしは不意に、裕幸の頬に触れ、お前、興味あるだろ?と言った。最初の子がなかなか言葉を話さない理由が、おそらく予測される知的障害にあることはほぼ間違いないものの、まだ5歳にならないその子どもが、どれだけ深刻なのか、或いは、それほどでもないのか、結局のところ、未だ何の結果ももたらされていない以上、誰にも、何も言えはしない。何に?笑いながら裕幸は振り返り見て、男にだよ、と笑って見せるわたしを伺い見るが、面白くてたまらないように、笑い転げて、それがわざとなのか、本当におかしくてたまらないのか、裕幸本人にもわからない。妻の夕貴は口ではたいしたことではないはずだと言いながら、あらゆる暗い未来をさえ予想し尽くしていたのは、わたしも知っていた。過剰なほどに暗い未来が予想され尽くし、むしろ、現実に目にする現在そのものが、味気なく見えざるを獲ないほどに。とはいえ、と、「あの子を見捨てたりはしないよ」裕幸は、同じように笑い転げてみせるわたし自身、もはや何が面白いのかさえわからなかったが、彼を羽交い絞めにするように抱きしめると、裕幸は逃れ、彼を捕まえようとするのをかわしながら、次のわたしの接近を待つ。わたしの視界に、土手沿いの道の街路樹は茂らせた葉の中に埋まり、最初の子の事を悪く言うんじゃないけど、今度の子どもは、と裕幸のささやくような声は、わたしの「今度の子どもは普通に育って欲しい。だた、」耳に触れ、不安なんだけどね。今、「すっごく」おなかの中で「ただ、結局」どんな風に「生まれてみないと」発育してて、どんな風に「わからないけどね」生まれてくるのか「今度は、」まともな子であってくれたらいい、と彼は言い、あ、待って。でもね、と、「あの子の事を悪く言ってるんじゃない」裕幸は繰り返し言った。雨上がりの空が街路樹の葉越しに見上げられ、それは白から灰色までの、一切の停滞のない流動するグラデーションとして、生成し続け、その色彩と光をさらす。あれらの戯れが、結局は、わたしの唇を彼の唇に触れさせ、「実際、歳とって以降のことが、」はじめて彼の唇に触れたときのことをは、最早「心配だったんだよ。誰が俺の介護を」記憶してなどいない。忘れ得ないほどに、「してくれるんだろって。あの子じゃ、できないでしょ」鮮烈な印象を残したことだけがかろうじて「あの子には介護が」記憶されているに過ぎないそれは、「必要になってるはずでさ」わたしは裕幸の皮膚の匂いを思い出す。「どう思う?自分勝手だろ?」汗と、獣くささに香料をぶちまけたような「でも、次の子がまともだったら、」その匂いを。わたし自身の身体の匂いを確認したい欲求に「何とか、未来がつながる。大変だけど」悩まされながら、その匂いに裕幸の存在を確認した「子どもが、かわいそうだけど」気がしたわたしは、瞬きながら、そしていつかの夜に、裕幸の家に泊まったときに、交互にそれをお互いの身体に試してみながらも、まるで、未だ知りえなかった新しい知性に触れたかのような感覚と、体験されてしまった倦怠感に似た退屈さに早くも悩まされさえし、こんなものだったの?わたしは、裕幸を愛してさえいたことをこんなに、みじめで、知っていた。いつから?「あの子が生まれてから」わたしのことを?「いろんなこと、学んだよ」裕幸がこんなに、ちっぽけな、わたしを愛していることに気付いたわたしは、彼にこんなものだったの?問いかけることなく、

僕たちが求めたもの

裕幸を見つめ、彼の十代の裸の身体に、夜の光の差すのを見るが、

僕たちが

「喜びとか、悲しみとか、」

すっごくつらいんだよ、毎日、

勝ち取ったもの

「今まで気付かなかったこと、」

不安で、次の子のこと含めて、

僕たちが

「気付かせてくれるなって。」

けど、ありがとって思う。

憧れたもの

「本当に、もう、」

あの子の将来も何もかも不安で、

僕たちを

「毎日が新鮮でさ。不思議なくらい」

でも、結局、すごい、

苛むもの

「いいことより」

ありがとって思っちゃうの、

こんなものなの?

「つらいことのほうが多いけどね」

これって、何でなの?と、

こんなものだったの?

そして笑う裕幸をわたしは見つめ、そう、としか思いつく言葉はなく、のばした指先の先に、窓花の唇が触れる。「俺、」窓花は言った。「潤ちゃんのためなら、死ねちゃう気がする」声を立てて笑うわたしに、つられるように知恵は顔を上げ、窓花は一瞬の深刻な表情を笑みに崩して、しなだれかかるようにわたしに身を預けるが、雨が降り止まない。下腹部を撫ぜ、「ここにおとんがいる」故意に潜められた声で。とまらないBạch の咳が、彼女の体力を奪っていく。「過去世のおとんだよ。」彼女の身体の中で、何が荒れているのかさえ、わたしにはわからなかった。「いつのおとんの後なのか知らないけど、」Bạch の骨ごとへし折ってしまいそうな連続的な深い咳き込みが、広くはない空間を満たし、「ここにいる。」にも拘らず、そのまま見殺しにする以外に手立てはない。なんとか、その問題を、Bạchの身体が解消するまで。あるいは、解消し得ないまま、破綻するまで?つまりは死、翔や、窓花のように「ホトケが、見える?」問うわたしを、振り向き見て訝ったままBạch は、何?それ。

 

「光の束」

 

何?声を立てて笑い、

潤ちゃん、熱でもある?

その笑い声が咳き込まれた身体のくねる動きに飲み込まれながら

そう言って、彼女は

「それ、天使とか過去世とか、出て来る感じ?」再び、

わたしに体をすり寄せたが

発せられるBạch の笑い声のアルトを聞く。わたしは

肩にかけられたその吐息のような

知っている。窓花はホトケの光を、

呼吸がくすぐったくて、

うざったいほどだと言い、

思わず、わたしは

目を時にしばたたかせ、

声を立てて笑う。

そんなものがなくても、

幸せ?…唐突に尋ねたわたしの

いわゆる精神と呼ばれるものは

質問を

それ自身で

Bạchは一瞬聞き取れなかった。

いくらでも機能する。今、

ん?

ホトケの光は

なに?

わたしたちの周囲を

「お前、幸せ?」と

内側から

いま」

取り囲んでいるに違いなかった。

戸惑った、Bạch

雨が降り止まない。

あっけにとられた顔が不意に、わたしを笑わせたのだった。

激しい咳き込みのあとで、息をつき、

どうして?

彼女の長く吐かれた息のもった

意味などなかった。

ざらついたノイズが

おかしくてたまらなかった。

わたしの耳のなかに

なに?」がBạch言う。

残響をもって引いていったとき、

「なんだよ、ね、」

抱きしめて欲しいとBạch

潤ちゃん」

わたしに向かって

わたしは

手を伸ばしたが、

何も答えられないまま

首を振るわたしにすねたような表情をさらして

笑い転げるしかない。

見せる。

幸せ?

なんで?

いま

彼女を、わたしは、殺してしまうのを

幸せ?

望まない。なぜ?

君は、いま

君を守らなければ為らない。「キスして」彼女は

幸せ?

言い、すでに、わたしがそれを拒否することさえ知っている。彼女が、今正に死のうとするときに、わたしは最期に彼女を抱きしめ、キスしてやるのだろうか?

色彩

窓の向こうの雨が降りしきったまま、

色彩

色彩を奪ってしまったような白濁の中に、

僕が好きだったのは

全てのものを包み込むが、

雨の日の、ではなくて

遠くの白くにごった白の氾濫のこちらで、

晴れた日の、その

雨にうたれるすべてのものが、

色彩、その

決して崩壊されることのないそれ自身の色彩を、今も

色彩

さらし続ける。最初からそれらが何をも語りかけてなどいないことなど

染まったのだった

知っている。それらが

その色彩

たとえ

海は

沈黙しているように見えたとしても、

空の色彩に

それらの沈黙自体が既に、

空は

あり獲はしなかったものに過ぎない、その、

海の

色彩さえも。

色彩に

眼球の中以外に、その

色彩

色彩がその

色彩

色彩であり得たことなど

あふれかえった

一度もなかった。にも拘らず、

色彩

わたしの決して触れ得ないその

色彩

色彩の永遠に

その

遠い実在が、わたしは

色づいた

それらを眺め、息遣い、

色彩

彼女はまだかろうじて生きていた。原則としては、

燃え尽きる、その

既に破綻している彼女の

色彩

身体は、尚も。

色さえ失って、いま

「日本へ行く?」なんで? Bạch は言い、「行きたいんだろう?」わたしは言うが、「どっちでもいいよ」そう言ったろう?いつか、おれの生まれたところが見たいって「今?」いつ?行こう、じゃあ、ぼくが死んじゃうまえに、と彼女は言った。ビザに拘わる諸問題。それらの煩雑さは、ちょっとした違法行為が処理してしまうだろう。その手立てさえ探してしまえば。わたしは彼女を連れて、日本へ帰るだろう、何のために?「行こうよ、潤の生まれたところに」彼女は言い、目を閉じるが、再び彼女の目が開くことがなかったとしたら、わたしは泣くのだろうか?泣き叫びさえ?空間を雨の音が満たし天海丹(あまのうみに)

雲之波立(くものなみたち)

月船(つきのふね)

星之林丹(ほしのはやしに)

漕隠所見(こぎかくるみゆ)数日の休暇のあと、教室に入ってきた翔をクラスメートは歓迎した。多かれ少なかれ、彼女のうわさは知っていた。わたしが言ったわけではない。にも拘らず、わたしたちの誰もが彼女がリスト・カットをしたことは知っていた。彼女の両親に言われたに違いない瑞樹と言う名の小学校時代からの同級生が、翔に付き添って教室に入ってきたとき、わたしの視線が瑞樹のはにかんだような視線とかち合った瞬間に、瑞樹は切れ長の目をかすかに逸らし、一瞬、口元だけで声も立てずに笑った。その意味は、いまだにわからない。どうしたの?「行けるかな?」Bạch が言った。死んじゃう前に。わたし。元気だった?それらの女子からの声が彼女にかけられ、浩一が囃し立てるように、翔に絡んだ。何?妊娠でもしたの?本気ではない非難の声が上がり、まばらに、連なりあう声の群れに、わたしは瞬く。やがて、わたしは翔に言葉をかけるのだった、大丈夫?振り向いたBạch に、「大丈夫」もう一度言うわたしを、彼女は見る。一時間目の授業が終わったときに、わたしの前の前を彼女が通り過ぎようとした瞬間に、え?と、翔は「何?」振り向き、え?わたし?「大丈夫?」私は言った。窓越しに日差しは差し込み、向こうにグラウンドが見えていたはずだった、彼女を背景にして。低いビルの疎らな連なりさえも。どうしたの?翔が口元で呟くのをわたしは見るが、「何?どうしたの?」わたしは、不意に、涙が流れそうになる感情のかすかな波うちを感じてはいたが、それが何なのかは理解できない。Bạch が、不思議そうに、わたしを見上げていたのは知っていた。何?まじめな顔して。心配すんなよ、わたしは「心配すんな。」言われた、わたしの声を聞く。振り向いて、Bạch  は、彼女は、わたしを見つめ「お前のこと、守ってやるから」わたしが言うのを、翔は聞いたが、無表情なまま、何、それ。声を立てて笑い、小さく、「何で?」そうしたいから。わたしは言った。守ってやりたい。お前のこと。一瞬、何も言わずに、向こうで、疎らな声の群れがやまない。Bạch が微笑む。ただ、彼女は微笑んだ。音声、そして物音が。それらが耳の中に。鼓膜が震え続けているのは知っている。「そっか。いいよ」翔は言い、微笑んでみせ、わたしは知った、もはや、彼女のことを愛してさえいたことを、

確かに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.10.03.-22.

Seno-Lê Ma

 

天海丹… 万葉集巻七伝柿本人麻呂

 

 

 

 

 

 


後記

これは、いくつか説明が必要です。

 

まず、この作品は先の《ブーゲンビリアの花簪》で扱った、例の事件が直接出てきます。

事情は同じです。ですから、繰り返しません。

 

次に、最初から面食らう書き方で始まって、読んでくださる人にとっては、

この小説はどうなってるんだという感じだと想うのですが、

いまさら《前衛小説》《実験小説》を書きたいのではなくて、

単純に敏感な表現様式を求めたらこうなった、ということなのです。

 

たとえば、言うに言われない微妙な心のひだとか、ちょっとした、うまくいえないけど、ほんのちょっとした、何か、…

そんな、微妙で微細で繊細で震える感情の触れ合う寸前の気配のようなもの

 

それを追いかけようとしたら、こうなったんです、という、作者としては開き直るしかない理由があるので(笑)

開き直るしかありません(笑)

 

最初に書いたヴァージョンと、明らかに様式が違いすぎてきたので、別枠でアップしています。

 

実は、この連作の中で、一番先に書いたのが、これです。

次に《ブーゲンビリアの花簪》、最後に《花々を埋葬する》だった気がします。

 

この複雑なテクストの読み方ですが、何も考えずに、

細かいこと気にせずに自由に読んで行くと、

言葉相互がなんとなく触れ合いそうで触れ合わなかったり、

邪魔しあっていたり、意外に想ってもいない効果を挙げたりと、

いろいろな風景を見せてくれるはずです。

(僕のコントロールがうまく行っていれば、ですが…)

なにも、極端に細かな意味論上の操作をしているわけではありません。

一字でも意味を取り違えたらわからなくなる系の、めんどくさいヤツですね。

好きなように、読んでください。

 

最初に言ったように、はっきりと言いきることのできない、

心のひだの、さらに息遣いのようなもの、を、捉えようとしたのです。

 

もっとも、いきなりそれから始まるのか、と、あきれる方もいるかもしれない場面から始まりますが、

文字どおり、そんな、生々しくて露骨な場面の、さまざまな《息遣い》から、はじめたかったのです。

 

実際、誰だって、その時、本当に繊細な心の動きを、誰もがしているものだ、と想うのですが、

 

…どうでしょうか?

 

 

* *

 

ところで、最近書いているのは、基本的にこれらのような、

《前衛風》といえばそうなのかもしれない感じのものなのですが、

《ナーヴァスな音色》という、これの続編、のようなものを書いてしまって。

それで、書き直しちゃった、と言うのが、改稿の理由でもあります。

 

もうちょっと、膨らませたら、新しい形でアップしようと思います。

 

ヴォリュームは、原稿用紙で、180枚~二百数十枚くらいだと思います。

…たぶん。

 

2018.05.28. Seno-Le Ma


奥付


月の船、星の林に


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著者 : Seno Le Ma
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