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月の船、星の林に 2

彼女は窓日ではない。わたしは知っていた。彼女はこの褐色の肌の美しい少女Bạch に他ならず、それ以外であり獲たことなど一度もなかった。わたしは、いままで、

火をつけてやろうか?

わたしを知らなかった彼女は今、既に、わたしを、いままで、自分がいかに孤独だったのか、彼女は、わたしは今、

青空に

知っていた。Bạch は翔でさえもなく、

ガソリンぶちまいて

彼女は彼女に他ならない。そんなことは、わたしだって、彼女自身だって、

いま

泣き叫ぶ、けだものじみた号泣に、あの女のマンションに窓花が住み始めたのは知っていた。

わたしが、まだ日本に住んでいられたころだ。

上原茂史と出会う直前の、わたしがまだ有望な若手研究者として一応の評価を得るとができていた頃、評価と並列された複数の懐疑的な眼差しの中に、ひそかに監視され、絡娶られながら、女のほうが、窓花を離さなかったのだった。彼女だって、すでに知っていた。すでに、窓花に陵辱されたときに、彼の肉体までもが彼女を精神的に、という以上の陵辱したような気さえした。彼が屈辱、それをもってはいないことに。的な感じ。自分を強姦しておきながら、ついに強姦することのできない、自分と等質的な肉体に、とはいえ、それ、彼女は気付いていた。夢のようにうつくしい、彼女は、流線型の窓花なしでは生きてさえいけないのに違いない。なめらかにもはや。匂うようなその女は知っていた。女の窓日は肉体。美しい。彼の。残酷な夢のように。或いは、現実そのものの?夢のように。脳組織の活動野の中に唐突に見出されたそれ。見上げられた空の灰色の分厚い雲が、それでいて空の青を否定し尽くすことさえできず、破綻したところどころの切れ間から空の青さが、純白の薄い雲の断片に膜をはられながら現れていて、とはいえ、青空が雲を引き裂いたというわけではない。雲の、たんなる自己崩壊が見せたに過ぎないそれは、地上を照らしきることもかなわないまま、今、視界のうちに広がった世界は暗く、ほのかに明るい。雨がこれから降るのか、そうではないのかさえわからない。地平線の向こうにまで、大陸の南部の広大な平地が広がり、Bạch が何を記憶していて、何を記憶していないのかわたしにはわからない。問いかけることさえできない。単なる共通言語の問題ではない。わたしだって、わたしが何を記憶し、何を記憶していないのかど、知りはしないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

窓花の死から、十四年以上も時間が流れていた。わたしは思い出す。想起された、わたしの、わたしに記憶されていた記憶が想起されたときに、

わたしは記憶していた。

わたしは、生体医療の研究を始める前、学生だった頃、脳組織が結局のところ、膨大な濫費をしているに過ぎないことをあらためて発見したときに、

それは失望とはいえなかった。

理論的には既に知っていたから。

再確認されたそれは悲しみでもなく、わたしに、ただ、なにか、暴力的な恐ろしさだけを植え付けた。

暴力的な

暴力的かつ所詮刹那的な薬物処理によったに過ぎなかったとはいえ、数パーセントしか活動していない脳組織の、

荒々しい

残りの全てを覚醒させたわたしたちは、当たり前なのだが、何も起こらないのを見る。いくつもの《ピン》の刺された

掻き毟るような

マウスの頭脳脳中の光景を、見ることができたなら。その、あまりにもつぶらで表情を持たない黒目の内側を?少なくとも

思い迷われる隙さえない

マウスに関しては、残された膨大な脳の未活動領野は、膨大なブランクに過ぎない。身体に隠喩など存在しない。可能性さえも。身体は実現された現在をしか

破壊しつくされた

持ちえず、いかなる潜在性も有しはしない。わずかの領野の活動の熱量が、単に、自分の何十倍もの空き容量を必要としているに過ぎない。覚醒させてしまえば、

無慈悲なまでの

単なるブランクに過ぎないそれは何をも生み出しえることなえなく、無意味な、膨大な熱量をだけ生産し、文字通り、自分自身を焼き尽くしてしまう。マウスの、

窓花の

破綻した脳が見せた、狂ったきりきり舞いは悲惨だった。くるくるまわって逃げ惑う。何から?内側からのすさまじい発熱と

うつくしい

苦痛が、そんな苦痛などありはしないにも拘わらず、みずから神経を焼き、自分自身に焼き尽くされた脳が、おそらくは、

かすかに荒れた

空恐ろしいほどに破綻した自分の風景の中におぼれていた。脳死するまでのわずかな覚醒の数分間の中で、マウスが見たものは、

唇に

何だったのか。純粋な断末魔の、純粋な痛み以外にはなかったのか、そんなものですらなかったのか?どこにも行き場のない、

指先が

行き獲る限りのどこにでも行ける、自由に住処を変えた家出少年の窓花は、いつも常に、誰かを誘惑し、誰かに誘惑されさえし、誰かの家に

触れた。

住み着いた。膨大な数の独り暮らしの人間を抱え込んだ東京とその周辺にいる限り、彼が自分の住処を見つけるのに苦労はしない。窓花はその美しさを行使して、誰かを魅了させてしまえばよかった。彼に逆らえるものなどいなかった。

本気で、

あの女の名前はまだ知らなかった。窓日は、最期まで、

少しだけ、本気で

ついに知らないままだったかも知れない。女の借りていた千駄ヶ谷のマンションは古かったが、部屋の中だけ新しく作り直されていて、その落差が

微笑んでやれば

いびつですらあったものの、このあたりによくある種類の住居には違いない。どこよりも先に開発が始まった場所だったから、

あるいは、軽蔑的な眼差しを、くれてやれば

いま、どこよりも古びた建築物が群れをなしていた。女は視線の先にその少年を常に捉えようとしながら、

悲しげな、寄る辺のない眼差しを、あえて、そらしてやれば

盗み見る視線の先にはわたしがいる。わたしを、悟られないように、誰に?そして、あきらかに悟られることを求めた、

見えますか?

誰に?その視線の中に捉え、

わたしを

潤みを持った目つきは

あなたは

瞳孔をいっぱいに開いて、

見えますか?

「潤ちゃんに発情してる」と言って、窓花はわたしに耳打ちした。この、知性そのものを感じさせない、美しいだけの、人間の、みじめで醜悪な部分を集大成したような出来損ないとすら言ってもいい少年から、まともな言葉など発されることなどあり得るのだろうか?わたしには、この少年が、ねぇ、好き?何を求めているのか、ついに何が?わからなかった。最もも、誰よりも「ちょう、蝶。ちょう、ちょ」未来の希望がないのは好き?この少年のほうだった。むしろ、そう言って、翔が私を振り向き見たとき枯渇するだけ嗅いだ。枯渇していた。彼女の未来や将来など髪の毛の匂い。あったためしはない。扇情的でさえある、媚薬のような。浪費された過去が見た。集積していくだけだ。どう?肌の、かすかな荒れを。と、ざらつき。ね、ざらっ、と。どう?発情した?好きだよ。「潤ちゃんは?」綺麗じゃん。窓花は「普通に、さ。綺麗で儚くて、」声を立てて笑い、儚くて、綺麗で?わざと甲高く立てられたその声が、「嫌いなんだよね、わたし」女が聞こえなかった振りをする。わたしという目の前の美しい存在にえ?いまさら気付かされた彼女は、「嫌いなの。」自分がわたしを求め続けていたことをわたし。」知る。カーテン越しに、朝の「ちょうちょって。なんか、日差しが差す。窓の向こうは「見るのも、駄目」たぶん、言って、晴れている。声を立てて彼女が笑う不意に、翔を、彼女はわたしは息を吐いて、見て、耐えられないように「何で?」一度髪の毛を掻き毟って見せて、どうして、わたしをついには嫌いなの?見つめないまま、こな。窓花が触れるあらゆるものから、彼をん?愛することと引き換えに、ほらさこなあるじゃんはね、に、ねそのものたちが持っていたはずの何?可能性としての未来を奪い、ほら、破壊してしまいながら、さ。もっとも未来そのものを粉、あるじゃん。枯渇させているのは羽根に、この少年のほうに過ぎない。今、ね?女は奴隷のようだ。このときあれ、駄目なの。窓花に、現実的に未来がないことは、なんか、彼自身、何でかしらないけど、最期まで知らないままだったにも拘らず。何のためになんか、生まれたのだろう? わたし、ね。窓日は言ったものだった、最期の時に、駄目なんだよね。「助けて」確かに気持ち悪い。そう言ったはずだった。陥没し、笑えるよね?破綻しかけた脳作用はなんでって。最早まともな言語活動をさえ彼に許さず、女子っぽくないよね。彼の言う言葉らしきものは声帯が鳴らした音響に過ぎなかったが、飛んでるの、見ただけでそのこわれた音響は確かに、なんか、嘗ての彼があまりにも気持ち悪くて。知性的な存在であったことを明示した。みずからが近寄りたくない。知的活動の破綻した空気に残骸となることによって。飛び散ってる助けて、と彼は見えない「死にたくない」そう言ったのを、わたしは粉に知っている。あるいは翔は、穢されそう。九月に、なんか、いや。日本へ帰ったとき、翔の母親は許せない。わたしの母親と同様に(そしてわたし自身と同様に)もはや老いていたが、無意味に未だに癒されない許せない。「発作」に苦しみ続けるまま、その苦痛だけが老いることさえなく、30年近い時間の経過の中でさえいまだ若々しく、彼女を支配し続けていた。軽度の、ほんの軽度の痴呆の痕跡さえにおわせる老いさらばえた彼女の精神と呼ばれる何かを、その「発作」は殺し尽くすことなく寄生し、食い尽くすことなくむさぼり続けているように見え、助けて、と彼女は、とはいえ、彼女に巣食った苦痛は彼女と別のものなどではない。それはあくまで、彼女そのものに過ぎない。わたしには彼女が生き続け得ていることさえもが不審だった。助けて、と「死にたくない」と彼女は、十四歳の翔が六人の少年たち、それぞれ親しさの度合いに差はあったにしても、わたしは、わたしの友人たちだった彼らに強姦のうえ、わたしは、監禁され、息絶えるまで続いた凄惨なリンチの結果、見つめる。こと切れていったあの夏の事件にかかわった、わたしは、結局のところ百人近くの少年少女たちのうちの一人だったが、耳を澄ます。わたしはまるで自分が一切無関係な人間だったように、翔はわたしは、わたしの幼馴染だった。何十人の《友人たち》が、触れる。彼女の監禁を知っていただろう?何十人の《友人たち》が、その部屋を訪ねさえしただろう?

こんにちは。

 わたしは思い出す。まだ、わたしたちが八歳くらいだった頃、翔は言った、わたし、潤くん、ねぇ、と、「結婚するかも。ね。わたし」彼女は言った。いつ?

お元気ですか?

どうして?

もうすぐ、雨が

だれと?

降りますよ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

矢継ぎ早にわたしの口から吐き出される質問に、ややあって、「潤ちゃんと」彼女は答え、まじめな顔をしたまま、翔は思いあぐねる。なんで?わたしは

いつも、想った。

言い、わたしは、確かにそうなるのかも知れないと思った。翔という、まるで男の子のような名前を持った、おさなく、あどけないながら美しい少女は、その多彩な、豊か過ぎる表情の向こうに、とはいえ、

なぜ、あんなにも

あの頃わたしたちは全てを知っていた。まるでワンちゃんみたいね、

わたしたちは

と母は、「翔ちゃんは」言った、声を立てて笑いながら、表情がくるくる変わって、

青くなければならなかったのか

世界の全て、それがどれほど美しく、どれほど凄惨で、どれほど気高く、どれほど愚劣なのか、わたしたちは全てを知っていて、

青空は

あのころ、すべてを

わたしたちがこの世界の全てを知り尽くしてしまっていたことさえも知っていた。確実に、

もはや、美しいとさえ言えないほどの

この認識されつくした世界の中で、確かに、わたしたちは結ばれるのかも知れないと思っていた、わたしは、

この世界が

その

深刻な真実を打ち明ける彼女のそのあどけない表情を見つめながら、翔の死体は無残だった。近所の資材置き場に放置された、

どれほど美しく

コンクリートの塊りの名から発見されたそれは、半ば腐敗し、

無慈悲なまでの

髪の毛らしきものは残存さえしていなかった。あの事件の恐怖が、

どれほど凄惨で

それをもたらしたことが予想された。そんなことはわたしだって知っていた。まだ生きているときにすら、

青さの

どれほど気高く

最期のころ、彼女は最早、翔であるとは見極めがたく変形していたのだから。

どれほど愚劣なのか

その外見、そして、精神疾患などとはあきらかに違う、

強度で

狂気。

わたしたちは全てを知っていて

単なる疾患と狂気との圧倒的な差異を暴き立てている気さえする翔の気違った眼差し、

その知りすぎた

苦痛と恐怖と、

悲しみと、痛みを

恐怖と苦痛と、苦痛と恐怖とが交錯する音響を

大人たちには秘密にしながら

その頭の中に鳴り響かせながら、

僕たちは、涙さえ

遺体鑑定などできるはずもなかった。その腐敗しかけた、

渇ききっていた。もはや

彼女の母の「発作」の直接的な引き金はその遺体鑑定には違いない。周囲の人間は彼女にそれをやめさせようとしたものの、彼女自身がそれを望んで退かなかったらしいと、わたしの母は言った。翔太と言う名の翔の父は「発作」さえ起こすことができなかった。多恵子と言う名のその妻が、

現実を直視しようとした。

失心、嘔吐、痙攣、あまりに悲惨な「発作」を起こして止まない傍らで、

翔太は言った。

彼は介護者であらなければならず、彼自身が「発作」を起こし獲る余地を見事に

わたしの父に

破壊し尽くした。翔の弟はもはや、誰とも話さない。その、薫と言う名の、そのとき彼は

現実を

十二歳だったはずだ。わたしたちより二歳下だったから。彼は、

あくまでも

何かを恥じていた。何を恥じているのか、わたしにはついに

消し難い

わからなかった。絶望的なまでに、それは彼自身にもわかっていなかったはずだった。彼は

耐え難い痛みと共に

鮮明な恥辱に、そしてそれは彼から人の目を見て話す自由を

その

奪った。町に犠牲者が生き延びる余地はなかった。どこにいても

現実を。

付きまとうわたしたちからの同情の眼差しが、彼らの居場所と、彼らが癒えて行く余地をさえ

直視しようと。

奪っていた。生殺しの犬が、殺され果てないまま延命させられ続けているような、しかし同情の眼差し以外に彼らに向け得る何かなどどこにも、

見なければよかった。

何も、なかった。彼らは、わたしは知っていた。わたしたちは、知っていた。翔への事件への関与が一切ない少年少女など、

見ようと、する。

この町にほぼいないに等しかった。今日のいじめの対象あるいは明日のそれの対象になり得る

見なければ。

「マイノリティ」の特に特出した少数以外には。そもそもの半数近くが

何も。

その「マイノリティ」に該当していたにしても。わたしたちは何らかの加担を多かれ少なかれ認識せざるを得ず、

見なければ

彼女を、彼らを、ときにわたしたち自身をさえ同情の眼差しのうちに捕らえざるを得ず、あと十年と少しで、

何も

ノストラダムスの予言は本当になるかもしれないが、

起こらなければ

そうはならないことなど、誰でも知っていた。半年も経たないうちに、

生まれて来さえ

彼らは引っ越して行ったが、隣接する県を隔てすぐ近くのその町に、彼が

しなければ

生きているのは誰もが知っていたし、

見なければ。

その町の人間だって、彼らがあの事件の、あの彼らであることは知っていた。

sao anh nghỉ gì vậy ?

Bạchが耳元で言ったその音声を、

なんで?

わたしは振り向いて

考えてるの?

彼の頭を撫ぜてやり、彼女のその

そんなこと。

わたしには理解されることのないベトナム語の音声を

Tai sao anh buồn , luôn luôn ,

覗き込んで、

なぜ?

わたしを眼差しに伺うBạchは、

悲しいの?

何が?

Sự buốn của anh là gì ?

悲しいの?

翔の葬儀は盛大だった。当時のマスコミがそれを強制したようなものだ。広くはない家の広くはないリビングに、考え付きうる片っ端の町の人間が

ねぇ、何が?

入れ替わりに集まって、もはや、収拾の付けようさえもない。多恵子は、眼球に部厚い透明な膜を貼り付けさせられたような、じっとこちらを見ている、何を

起こったの?

見ているのか推測を許さないあの目つきで、学生服で訪れたわたしに、多恵子は言った。潤ちゃん、どうして助けてくれなかったの?

何が?

わたし、「潤ちゃん、何に」翔が何かしたの?「悲しんだらいいの?」なんでこんなことしちゃったの?「この子は」と、

君の瞳に

「何もしていないから。」夫の翔太にたしなめられ「何もできやしないし、そんなことは言うな」彼女が一瞬泣き崩れかけたとき、

ときに、微笑みながら

ややあって、再び《それ》を思い出した多恵子は身をまげて、嘔吐する。焼かれた髪の毛、口の中から内臓を殴打され、吐き出さなければ

不安定に

へし折れた前歯、気がすまないといった、身体が何十回目かの強姦、身体そのものに巣食った見上げられた窓越しの陽光、何かを背中の皮膚が感じたカーペットの質感、吐き出そうとするかのような。

震えたりした

わたしは目を逸らし、多恵子の周りに浅い人だかりができていたが、声をかける女たちの喚声さえ嘔吐され続けているあの音声を

君の

消すことができない。喉を握って絞るような。多恵子はそれらの多様な「発作」を何度も繰り返した。唐突に、ときに

瞳に

裁判の最中にさえ。被告人弁論時のその、娘に加えられた暴力の描写に、娘の身体が感じたに違いない苦痛の群れの、そのうちの何かひとつでも彼女が想起するたびに。彼女が目にもしはせず、彼女が感じたこともなく、彼女が何も体験したなかったそれらの鮮明な記憶が、彼女は彼女が嘗て知らなかった経験を思い出し続けるのだった。他人の、既にどしようもなく失われた記憶を。翔は窓花ではない。

繰り返されつづけた嘔吐と失神。

わたしはそれを知っていた。窓花はあくまでも窓花だった。わたしは、

多恵子にとって食物は嘔吐されるためにあり、

窓花は正に彼に他ならない。

多恵子の意識は失神されるためだけに覚醒していたかのように、そして、

窓花は翔以外ではなかった。確実に。このあからさまな、どうしようもない現実が、窓花が窓越しに指さす。

ねぇ、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしはその指さすほうを見る。

見て。

赤らんだ夕焼けが空のてっぺんのまだ残存した青さを消し去ることなく染め上げて、その色彩の重なりを背に、女はベッドの上で、行為が終わった姿勢のままだった。股を広げて、両手を投げ出し、

ほら、見て。

女の身体は逆光の中の影に過ぎないが、「つぎ、生まれ変わったら、何になりたい?」窓花が言った。お前は?

何?

お前は何に?「桜の木がいい」なんで?

なんで?

わたしの口先の、笑んだ吐息を、なんでってさ

何を?

「みんなに、意味もなく大事にされるし、」窓花は寄り添ったままわたしの唇を

指先でなぞって見せるが、てか、「無骨で、図太くって、寿命も長くて、」わたしはそれを唇に軽く加えてやり、

目を閉じて

mưa sẽ rơi. そして、Bạch が窓越しに指さす。その先の窓越しに、未だに空を隠しきれないままの雲が大量の雨期の雨をたたきつけ、

逆光の太陽が

その騒音が部屋の中を包みながら、「いつ、ベトナムに来たの?」Bạch が不意に言った。後ろからわたしを抱きしめながら、

閉じられたまぶたに

わたしはそのよどみのかけらもない日本語に、話せるの?日本語、

ねぇ、

どうして?「思い出したの」それが、

描いた絵

わたしの問いへの直接的な答えであることを理解するまでかかったほんのわずかの時間に、彼女は

ねぇ、君は

光の

わたしの腕の中に身をすべるこませるが、わたしの腕は慎重にかけられた彼女の体重を抱きとめて、その体の温度が「潤ちゃんと話したかったから。ベトナム語、駄目なんでしょ?わたし、英語駄目だし」わたしは、

どうして愛せないの?

その瞳孔をやわらかく広げた視線に捉えられていた。なんか、「ずっと考えてたら、何を考えてたわけじゃないけど、思い出した。」わたしは、今、わたしの視線が、瞳孔を広げた中に、

誰も

彼女を捕らえて放していないのを知っている。唐突な、窓花の、或いは翔のそれとは似ても似つかない、Bạch の鼻にかかった男声の日本語に、わたしは思い出す。上原との合流が研究に飛躍的な進歩を与えた。窓花が死んで

僕以外の

数年たっていた。上原がもたらした潤沢な資金は、わたしの、(半ばみずから追放されたかのように、と多くの人間たちに揶揄されたらしい、その)日本からの出国をも可能にしたのだった。

誰をも

汪と言う、その中国人を中心とするカルテルがいくらでも投入してくる資金をわたしたちは使いたいだけ使い、上原が言った、その頃には、既に焼け爛れていたわたしの半身を指して、「汪が言っています、なぜ、あなたは自分の治療を何もしないんだって。」常に微笑を絶やそうとしない彼らしく、

なぜ、君は

「現代の奇跡の人である、あなたたちが、と。」当然のように微笑み続けながら、そしてわたしは笑うしかない。確かに、

傷付いたのだろう?

汪には疑問である違いなかった。死にかけの四十五歳の汪自身を一度殺してから生き返らせ、いまや彼に永遠の生存をさえ可能にするかも知れない研究を進行させるわたしたちが、なぜ、

僕が、傷付けたから?

たかが自分の皮膚の薬品焼けのケロイドすら放置しているのか?わたしと上原が重度の筋弛緩症で、余命に過ぎない生をかろうじて生きていた彼に施術したのは、

なぜ、君は

頭部の移植手術だった。救命でもあれば、たんなる人体実験でもあった。彼自身の細胞を根拠にして、彼の娘の卵子に体外受精させ、

壊れたのだろう?

育成した幼児の身体への。もちろん、移植先の身体は6歳児にまで生育されていたのだから、殺人行為といわれれば明らかにそうに違いない。マウスにおいての成功率さえ必ずしも高くはなかった。それが

僕が

危険なばくち以外のものではありえないことはあきらかだった。施術の技術的問題においても、移植手術に付きまとうその後のリスクにおいても。

壊したから?

頭と体の滑稽なほどの年齢差も、言うまでもなく。いずれにしても結局のところ、成功してしまえば、どうでもいいことだ。失敗しても、それは汪自身が強固に望んだことに過ぎず、そして死ぬのは上原でもわたしでもない。知ったことではない。十二年後に、彼の身体が破綻をきたしたには違いなくとも。急速に壊死を起こしていく筋肉系組織と、死なない神経との間に生じた、身体細胞を分断するような苦痛とともに、汪が死んで行ったには違いなくとも。わたしは記憶していて、思い出す。わたしは、翔が中学にあがったばかりの頃、

春。

それは、わたしが中学に上がったばかりの頃だった。その日、

川の、水の匂い

わたしの家の電話を鳴らしたのは翔だった。ねぇ、潤、「どうかしたの?」取り次いだ母が言った。

「匂い、変わんない」わたしの髪の毛に鼻先を突っ込んで、

すこしだけ、腐ったような

耳もとに言うBạch の「あの頃のまんまなんだね」どの頃の?

「なんか、変だったけど。翔ちゃん、お酒飲んでる?」母の言うとおり、翔の声はどこかで焦点を欠いていて、「潤ちゃん?おはよう。」電話の向こうの、荒いそ雑なその音声に、今、夜だろ?わたしは笑いかけて、それは、もう、十時を少し回った頃だった。あのあと、

そして、君は、どうなんだろう?「何が?」Bạch に、

答えるすべを不意に失い、わたしは沈黙するが、

君も変わらないね、とは言えない。

君は変わってしまった、とも言えない。

君は別の人間なのだから。

けれど、わたしは知っている。君が、例えば、

知ってる。もう、十時だね」と言った翔だということを?「もう、遅すぎるかも。」翔は言い、何が?時間が?まだ早いだろ?何も答えない電話の向こうの沈黙に、どうした?

あのあと、教師たちは言ったものだった、

新しい慣れない環境への適応に、苦労しているのかも知れません。

もう少し、

「遅すぎたかも」とBạch は言った。

待ってあげてください。

彼女のために。

「会うのが、ちょっと遅すぎたかな、今回は」

どうして?

「ずっと、探してたし、ずっと待ってたけど」

今、それに気付いたくせに。わたしは悪びれもせずに鼻で笑ったが、

もう少し、様子を見てあげるべきでしょうと、

教師たちは言ったものだった。

彼らは、翔の母親に。

「手首、切っちゃった。」翔の声を、

マジで?

わたしの耳は「マジ。」受け止めるのに時間はかからない。なぜか、理由などないが、彼女なら、そうしてもおかしくはない、と思った。

「もう、もちそうもない」何が?

問いかけるわたしを、その頬を不意に手のひらに抱き、見つめ、Bạch

「もう、崩壊しちゃうよ。時間の問題かな。」と翔は言った。

わたしの頬に感じている手のひらの温度の存在が、

わたしの体。もう、

彼女の神経系の中にも溶解して行く。わたしの頬の温度が。

褐色のBạch、死にかけの。

わたしの心、もう、

そしてわたしの背後に向かって「どうしたの?どこ行くの?」母は言ったのだった。「翔ちゃんのとこ、行ってくるよ。」どうして?

あなたのもの

「なんか、変だから。」やばそうだ、とわたしは思い、事実、そして、翔ならやりかねない、と思った。あの、屈託のない翔なら。

あなただけの

美しく、頭もよければ、運動もできて、要するに、誰もが彼女を、成功と、幸せの約束されたような少女だと思い、事実、影というものの一切ない、あの翔なら。

事実、そして、翔ならやりかねない、と思った。

なぜ?彼女はなぜ手首など切ったのか?わたしが翔の家に着いたときには、もう救急車が先に着いていて、それは翔の両親が通報したのだった。「ねぇ、どうしたのよ。なんかあったの?」わたしに母が、次の日、

事実、影というものの一切ない、あの翔なら。

多恵子は言った、リビングでテレビを見ていたら、翔が入ってきたの、手首から、と多恵子は、血をだらだらと流して、床も服もびちゃびちゃにながら、と、「ねぇ、どうしたのよ。なんかあったの?」と、多恵子は、

事実、そして、翔ならやりかねない、と思った。

聞いたけど、何も答えないで、ボーっとして、電話を掛け始めたから、

わたしは今、電話してる、と翔は思った

受話器を握って、電話番号をプッシュしながら、

手首に痛みがあるのは、誰のせいでもないの、と彼女は思った

切り裂かれた手首の、誰のせいでもないの。

悪いのはわたし、と、

翔のせいだ。あの電話がいきなり切れたのは。受話器は一度手首が痙攣したときに話され、取り落とされた。わたしは納得し、まだ救急車で運ばれていなかった翔は包帯をぐるぐる巻きにされた手首を小さく振って、その、薬物にでも影響されているかのような茫然とした笑顔は、かすかな恍惚の、しかし傍らの泣き惑う多恵子を、勇気づけたりしさえする翔を、

大丈夫。

いつかは

大丈夫だから。

こんなことが起こると思っていたことを、

そう、きっと

わたしは既に思い出していた。どうして?あの

幸せになれるよ

美しく、美しいことをだれにも知られ、自分自身さえそれをよく知っている、幸せな少女が。救急車で搬送されていく翔を見送りながら、

であるが故に?

取り残されたように、わたしと薫は取り残された格好で、あとに残ったのは、わたしと、彼と、彼の祖母だけだった。まだ若く、色気さえ消えたわけではないその祖母が、「考えられない」とつぶやくように言うのを、わたしは聞いた。「ねぇ、どうしたの?何かあったの?」わたしに、母がそう言ったのは、動揺しきったあの祖母を慰めて、落ち着かせたあとに帰って来た家の、

ね。何が?

もう12時を過ぎていた。恐ろしいほどに動揺していた翔の祖母は、手に負える状態ではなかったし、薫の面倒をさえ見れそうもない。そして薫は何かにおびえていた。現実にそこの床の上にある血と血の匂いになのか、暗示されあと、回避されはした、とはいえ、暗示され続けているままの死、わたしたちがそう呼ぶ、それの唐突な出現に対してなのか。近所の大人たちは駆けつけ、遅れて母も駆けつけたが、泣きじゃくって止まない翔の祖母は、輸血の心配をさえしていた。あの子が助かるんなら、わたしの血なんか全部あげてもいいんだから。だから、病院に連れてって。あの子が必要かも知れないでしょう?

それほどの出血ではなかった。

わたしの血だって、悪い血なんかじゃないんだから、

ほんとに、きっと、そうなんだから。

それほどにも、「ねぇ、どうしたの?何かあったの?」わたしは、「ねぇ、」降りしきる雨に向かって、聞いてみろ。同じ言葉を。絶望的なまでに美しい、あらゆるものからその鮮やかな色彩を奪い去ってしまうあの強烈な色彩の中に、その白濁した色彩に、その音響に向かって、悲しみとともに、遅すぎる、と、すべてはもう、そう彼女は、「たぶん、もうすぐ死んじゃうの。」どうして?

だいじょうぶ

答えを返さない。うつむいて、沈黙したままのBạch の唇に、わたしは唇を微かに重ね、鼻からの呼吸の、

君が微笑めば

感じられないほどの空気のゆれに、Bạch は既に、全てに満ち足りてしまったように微笑み続けていて、その一瞬の表情をわたしは、ついに

世界はきらめく

忘れることができなかった。

手首をぐるぐる巻きに去れた翔の、わたしに手を振るなぜか満ち足りた笑顔を。

こんにちは

「白血病。日本に行ったら直るかな」そう言うBạchの男声のアルトは、見かけの身体的な違和感とともに、確かに

美しい世界

心地よく響いて止まない。直る人もいるし、直らなかった人もいる。「死ななかった人もいるし、」彼女は言葉を継ぎ、「死んだ人もいる」と言った。病気なんていうのは全て、

わたしは、

そういうものだ。


月の船、星の林に 3

彼女の耳に唇で触れる。そっと、

治療は?「病院なんか」Bạch の丁寧にそられて「アスピリン大量にくれて終わりだよ。ベトナムの医者なんか」そこに本来ひげが生える事実さえ消去し去ったつるつるの顎を、

くすぐったがって

わたしの指先に撫ぜられるにまかせ、窓花の、あの女との行為は拷問のようだった。身体が拷問を受けているわけではないものの、この、

肩をすくめて

知性や、感性の繊細さのかけらすら感じさせない、頭の中を老化させきったような、無様に老いさらばえた少年は、それしか喜びを知らないように、

身をよじって

うつぶせの、尻だけ持ち上げた女のそこに、指をいれ、つっこみ、いつも、これにみよがしに残酷な笑みで、ときにわたしに色目を使いながら、

声を立てた

女の部屋はこざっぱりとした部屋だった。きれいに、すべてのものが整理され、彼の腕が動くたびに、女は虐待された動物が慟哭するような

乱れた息

くぐもった深い音声を喉の深いところに鳴らし続けた。女は、そしてその極端に白い豊満すぎる身体は時として、

わたしは見惚れた

彼女の神経系が感じ続けているのは、性行為の快感であるよりもむしろ理不尽な苦痛以外の何ものでもなかったはずだった。わたしは

一瞬だけ

それを知っていたが、彼女は監禁されているわけではなかった。彼女は少年に拘束されていた。彼女は暴力を加えられているわけではなかった。彼女は

Bạchの笑顔に

傷つき果てていた。こんなにも、と、わたしは、よくも行為が醜悪になりうるものだと、あきれ果て、求めること。女の行為は終わらない。求められることを、会社から帰ってきて、求めること。朝まで、欲すること。彼女は窓花に欲されることを、求め続けた。その欲すること。行為、渇望する。抱擁、渇望に愛撫、渇望し、添い寝、焦がれた。会話、焦がれられることに。窓花が君の何かしゃべるとき、眼差しを彼女は占領すること。耳元で金属的な大音響が鳴り響いたかのように、不意に身をのけぞらせるようにして、

何ですか?

その過剰すぎる反応に窓花は声を立てて笑う。とまらない、微かな、唇の、指先の、身体の、

何を言いましたか?

あらゆる部位の震えが、女の追い詰められた現状を明示する。逃げ出すことも、追い出すことも可能だが、

何ですか?

彼女には不可能だ。窓花は、なにも特殊な行為をしているわけではない。単に、男性性器を欠いた行為を繰り返すだけに過ぎない。ありふれた、

何を見ましたか?

震えの止まらない彼女の身体の上に、彼女の目線は瞳孔を開ききって、潤み、絡娶らずにはおかない執拗さでわたしを、

何ですか?

窓花を見つめ続け、捨てちゃえよ、と、あるとき、わたしは言った。「いますぐ」窓花に、不意に振り向いて、

何を感じていますか?

壁にもたれたままのわたしのそこにのばした手を、ひざまづいたまま這わせたその女は、「捨てちゃえよ」と、

ほら、

わたしは窓花に言い、行為を終えたばかりの、とはいえ、射精するわけでもされるわけでもない窓花にとって、それは

花が震える

単に飽きられた行為が中断されたに過ぎなかった。「何を?」むさぼるように、手のひらで、布越しにわたしのそれを

風さえ感じられないのに

まさぐり続ける女を指し、「きちゃないだろ。もう、捨てちゃえよ」と、陽一という2歳上の少年が言ったのを、

花が

わたしは知っていた。それは隆文が教えてくれたのだった。翔が監禁された先の、必ずしも不良少年とはいえなかった祐樹の家の彼の部屋の中を、隆文は何度も訪れてはいたが、何をするわけでもない。ふけられる雑談と、客が来るたびに、彼らの前でエスカレートする彼らの暴力的な性交と、直接的なリンチと、「陽一さんとかち合っちゃってさ。祐樹んとこで。言ってんの、あの人、捨てちゃえよって。翔のこと」不意に声を立てて笑って、

同い年の隆文が、小学校の頃、翔のことが好きだったのを、わたしは知っていた。

「ひでぇよな。普通に。あの人も悪いからさ。」

バレンタインってさ、誰かに渡すの?翔、と隆文はわたしに言った。

小学校の、

「でも、」彼女にとって、確実にかけているのは、今、彼女が手のひらにもてあそんでいるそれに他ならなかったが、窓花がそれを持たない以上、今、この瞬間に、それは彼女に永遠に欠けていた。

少なくともいまは

「翔もないよな。もう終わっちゃってるよ。あの子」陽一は不意に、「なんか、もう、穢いもん」唐突に彼に取り付いた悔恨に襲われたように、

泣かなくていいから

うつむいて、髪をかきあげ、わたしは、わたしが、どこかで嗜虐的な高揚に包まれているのを、知っていた。陽一をも含めて、かすかに唇をよじってみせ、

少なくともいまは

どうでもいいだろ?声を立てて笑ったが、それは友人に対してわたしが強がってとって見せたポーズだったのか?それとも、

何も考えなくていいから

わたしの良心の実態がその程度に過ぎない、浅い、枯渇寸前のものだったのか?「欲しがってんじゃん」窓花を振り向き見て、わたしの言った瞬間に、わたしの立てた笑い声が消えないうちに窓花のすねが女の顔を蹴り上げ、わたしは息を衝く。女の手のひらには、彼女が勃起させたわたしのそれの触感さえまだ残っていたに違いない。窓花は最早笑わない。表情をなくしたまま、そして女は、彼にけられ、殴られるにまかせる。窓花のふるう暴力は、彼の身体が少女のそれに過ぎないことを露呈させる。怒りに駆られ、侮辱を感じていることを隠せもしない窓花は、まるで、猫が捕獲した鼠に加える、やわらかく、たわむれ、もてあそんでいるようにしか見えない、渾身の、逆上した暴力を、とはいえ、猫の暴力が結局は鼠を惨殺してしまうことも事実だった。

知ってる?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なに?

知ってる?翔は言った、十二歳の彼女は「わたし、お父さんに殺されたことあるの」うそ、と瑞樹と言う名の、小柄なその少女は言い、

なに、見てるの?

わたしの気持ち。そう言って、翔は

窓花の低く鼻の中だけで切らせられる息を、振り向けば明け方の、窓の外に混在した光の束なりに照らされた部屋の中に、

僕は想う

なに?…問い返したわたしを

白い沈黙が相変わらずたたずんだままだった。まだ小学生の頃の、朝の教室で、「過去世のどっかで。」なんで?

焦点の合わない

もてあそぶように、そして、悲しくて

占いの雑誌を瑞樹のまるっこい指先がなぞり、利発で、いい子の翔が言うことに嘘はないというわたしたちに共有された価値観の中で、

全裸の、臭気を放ち始めた

ただ、悲しくて仕方ない眼差しを曝して

その水をやっているところを見たことがない。この二日の間に。その白い小さな花は大量の水を嫌うのに違いない。

壊れかけの眼差しを見下ろし

教えない…言った。その

過去なのか「いつか知らないけど」未来なのか、と、翔は「お父さんが殴って、」わからないけど、言いよどんで、

なにを、

「秘密だから」十二歳の?…あるいは

「殺しちゃったの」わたしを。と、翔が、思いつめたように言いよどむのをわたしは見たが、瑞樹は息を詰めた。信じらんないね、

見てるの?

十一歳の?たしか

口走ったあとで、花々はむしろ枯渇寸前の状態で、女は鼻血を流しながら、切れた口の中の血を吐く。

時々、胃液を

秋に。その

むせ返る。鼻だけで無理やり息をして、失神する寸前の、鼻の奥を豚のように鳴らして不意に立ち上がり「好き!」と女は

吐きながら

気温の記憶があった

窓花に言った。叫ぶように。「窓花ちゃんが、好き!」低い、ささやくような声量しか、今、

乱れた髪の毛が

かすかな、大気の湿気と

自分の喉が出せないことに自分の声に気付かされながら。窓花は女の言い終わらないうちに彼女を殴りつけたが、彼の腕に、

誰にも洗われないままに

女の命を奪ってしまえるほどの強さはない。空を切ったのと同じ強度で、そして女は崩れ落ちて、いつものように、

漆黒の、油っぽい

間歇的な嗚咽を漏らす。悲しみのきわまったそれなのか、欲情に似た高揚のきわまったそれなのか。「だから、」と、

光沢を放った

捨てちゃえよ、わたしは、「お願いだから、捨ててくれない?」呟き、「たかがチンコじゃんかよ」吐き捨てるように言った窓花の目が、

翔がまだ生きていることは知っている

切実に、わたしの同意を求めているのをは知っていた。窓花はわたしを愛していた。どうしようもなく。わたしにすがりつくように、

誰もが

Bạchはわたしの顔を腕に抱き、わたしの顔は、自らの、張り詰め始めた幼い筋肉がしずかに張った、荒く息づいているその胸に押し付けられるが、「見て」彼女は言った。窓の向こうを指差しもせずに、Chim …chim bồ câu vượt qua trên trời, その音声に耳を澄ます閉ざした目のままに、その暗闇の中に、「日本語で、ねぇ、bồ câuって、なんだっけ?ねぇ、何、あの鳥、bồ câu、が、今、ねぇ、飛んでいく、ねぇ、どこに?」彼はわたしを愛していた。彼自身、彼がわたしを愛することに戸惑い続けているのに違いなかった。なぜ、窓花は、わたしをなど愛してしまわなければならないのか、わたしは知っていた、とはいえ、愛するということは、わたしは既に知っていた、つねにそうだった。わたしを愛した多くの女たちが、或いはゲイたちさえもが、わたしに言ったものだった、何で、わたしの、あたしの、うちの、ぼくの、おれのこと、なんで好きなの?」と、窓花は言った。多くの、ときにわたしから愛されてなどいないにも拘らず、わたしから例え一瞬であっても愛されてみたいと思うがために彼女たちは、いつものように、わたしは言った、じゃあ、なんで、俺のこと愛してんの?お前は。口の先で、微かに、笑いの吐息を吐いて。窓花は、

そんなこと言ったって

そしてすべての彼女たちあるいは彼らは答えられずに、すべてをごまかしてしまおうと企んだ眼差しの中に

てか、質問の答えになってなくない?

「潤がめっちゃかっこいいからじゃん」はるかはそう言ったが、嘘だろ?

そんなこと、聞いてないし

わたしは言い、わたしに声を立てて笑われながら、「自分で、自分がいま、うそ言ったの知ってるでしょ、お前」上半身をかすかに紅潮させたはるかが「潤って、なんでいっつもわたしだけいじめんの?信じらんないんだけど」言うのを聞く。薄い顔立ちにメイクで無理やり陰影を彫った彼女は、幸福な笑顔に顔を崩しきって、わたしを愛することそのものが、わたしを愛することの不可能性を彼に暴き立てた。身体的には、まさに、通常のノーマルな性行為がされているそのときに、窓花は明かされ続けなければならない。それが、女の感じるノーマルな感覚に他ならないことに。そして、彼にとってそれはノーマルな事象ではない。それは、他人の性に過ぎない。わたしのそれを迎え入れて、窓花が愛した彼のそれを包み込むときに、窓花は自分の身体が自分自身を裏切って止まないことに気付く。いつも、この、男たちのいじましい妄想によって、あるいは女たちの羨望によって夢見られたように美しく、鮮やかな褐色の、滑らかな少女の身体が。ときに、窓花さえ、鏡の前の身体に焦がれさえしたかもしれない。多くの女たちが、わたしのそれを受け入れ、わたしは愛されながら、確かに、ときに、愛しさえしたのだった。多くの、彼女たち、彼らを、ときに、中学に入って、ややあって夏を過ぎたあたりに、翔が裕幸と付き合い始めたのを知ったときは、裏切られたような気がしたものだった。翔を、

「わたしさ、…幸せになれない気がする」なんで?

愛していたとは言えない。愛していなかったともいえない。なぜ、

翔を振り向き見て、私は言った。

彼女がわたしを愛さなかったのか、わたしにはわからなかった。わたしはときに、

「だってさ。」…なに?

翔に尋ねてみたくなった。授業中に、不意に、彼女の後姿が目にはいったときの一瞬に。なぜ、

「わがままな子じゃん。…わたし」

わたしを愛さずにいられるのか?「なんで、」多くの女が愛さずにいられないというのに?わたしは、

どう言って欲しい?

前の席の翔に聞いた。「手首切ったの?一年ん時。」休憩時間だったが、

何を言ってほしい?

読んでいた本を伏せながら振り向いて、「なんなん?そのデリカシー的なもののなさ」声を立てて笑い

眼差しで探りを入れる自分の愚劣さのようなものが

「さすがに、やばいね」不意に康正もつられて笑ったが、「なんか、悲しかったんじゃん?

悲しかった

わかんないけど、

無意味に、そして

あるじゃん、

鮮明に

そういうの。」ああ、と口の中でいい、聞こえるはずのない相槌に、ね。翔は答えて相槌を打つが、「まあ、特に後悔もないんだけどね。ちょっとね、ないよね。ああいうのは、ないよ、ないない。たぶん」わたしには、まあ、彼女の特に言うことの後悔も全てがないんだけどね。わかっていた。ちょっとね。彼女は、ないよね。わたしがああいうのは、知っていることをないよ、繰り返してないない。言っていたにたぶん過ぎなかった。まあ、とめどもない特に悲しみが、後悔も悲しみとしてないんだけどね。純粋なまま、ちょっとね。彼女にないよね。カミソリをああいうのは。とらせた。ないよ。死ぬつもりだったのか、ないない。そうではなかったのか、たぶんそれなりの深さを持った傷がとめどなく流れ出した自らの血の中で、痛みを感じたのはその先端が触れた最初の一瞬の、あの接触の一瞬に過ぎなかった。むき出しの腹部にトルエンを撒いて、圭吾が煙草を押し付けると、それは音も立てずに透明な火をたてて、翔の肌が焼かれる、生くさい臭気をわたしは感じた。祐樹の部屋の中で、監禁され、失神したままだった翔が、その苦痛に再び目を覚ましたとき、またすぐにしずかになって、歯を食いしばって、翔は沈黙していたままだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何日目だったろうか?ここに連れ込まれて。彼女の見開かれた目が、天井のほうを、膜を張られたような不確かな視線のまま凝視し、わたしは、ベッドに腰掛けて、全裸に剥かれた床の上の翔の、思ったより豊かだった体の曲線に、彼女が女だったことをいまさらのように思い知らされる。翔は、わたしが誰なのか、気付いているのか、いないのか、自分でも気付かなかったに違いない。顔はところどころ腫れていて、曝され皮膚に無数の焼かれた痕跡がある。ガソリンだったらもっとよく燃えんじゃん?という弘明を一哉が、あぶねぇよ「おれまで燃えちゃうじゃん」茶化して笑った。翔の髪の毛が薄くなっていて、痙攣的な、どこか機械的な表情の推移が、翔の頭脳が、最早、正常とはいえなくなっているのを明示する。誰もがそれを知っていた。翔自身さえも。剥ぎ取られた数枚の彼女のつめが、ティッシュペーパーにつつまれて、隅のテーブルの上に保管されていたが、「帰してやったほうが、いいんじゃないの。結構、やばいぜ。」弘明が言うのを、思わずわたしは声を立てて笑い。「いや、無理でしょ。」わたしは言った。「いまさら、無理だって」笑う。事実、そうだった。もはや、既に、何ものも無傷ではないのだった。翔の体の上で、皮膚を焦がした透明な火は消えて行き、一哉がわざと下卑た笑い声を立てながら乳首の上から垂らしたトルエンは、その脇まで垂れていくが、「いまさら帰せないでしょ。ここまできたら」祐樹は同意するように言って、その悟りすまされた声の終わらないうちに、一哉のライターでつけた火が、また、しずかに燃え上がり、透明な小さな炎の周辺だけ、皮膚は汗ばんでいる。匂う。翔は無言で、詰められた息遣いを鼻だけに吐き、その火で弘明は煙草に火をつけようとしたが、翔はそれに、はっと、気付く。弘明は翔の皮膚の、乳児に乳をぶちまけたような体臭を嗅ぐ。焼かれる皮膚の鮮やか過ぎる痛みが彼女の頭の中に反響ていて、苦痛が全ての知覚を塗りつぶしたときに、その立った火の透明さに、蝶ちょのような、。と思ったが、自分の内側だけで立てられた悲鳴の連鎖が、それが蝶とはどこも似ていないことなど知っていた。「でも、最初にさ、やっちゃったときからさ、もう帰せなかったわけじゃん。結局はさ。どうせ、」チクんだから。不意に、口から煙草を放して言う弘明は、かんがえてみりゃあさ、耳元に、「でも、かんがえてみりゃあさあ、かわいそうな子だよな」と(ひと)語散(ごち)る祐樹の声を聞き、絡みつくような、舌の愛撫のあとで窓花はわたしを下にしたまま、彼は、わたしのそれを自分の体内に導きながら、自分のそれが彼の体内に挿入されていくのを感じようとする。あきらかに、矛盾した感覚は、事実、窓花はわたしを愛しているのであって、他の女を愛しているわけではない。窓花が欲しがっているのは、単なる男性性器ではなかったことなど、わたしにもわかっていた。窓花は彼の矛盾を、どうにかして解消しなければならなかった。まるで男が女にするように腰を使うが、窓花が下にしたあきらかに男性の筋肉質な、骨格の張ったそれは目の前に、彼を茫然とさせるほどに匂いたちさえして、ここに、と窓花が言った。あの女さえ、物欲しげにそうの行為を見つめ続けるものの、「おとんがいる。」みずからの下腹部をなでて、窓花は言い、女が飢えているのは、たんなんる男性性器ではない。「妊娠してるの。ぼく。たぶん。」女は窓花とわたしを見つめ続け、愛する男の、少女の身体への、それは何なのか?「知ってた?」窓花は深刻ぶって言い、まるで何かを告白しようとしているかのように、女は、愛しながら、見とれさえしながら、「みんな、つながってるんだなって。」ストレートに過ぎないこの女が求めているのは、「結局、みんなで、一つなんかなって、」本来、こんなものでは「おもったりして」なかったはずだった。既に彼女自身が所有している種のそれは、憧れられるのはあまりにも近い近さで、窓花の体に、目覚め続けていた。妬いちゃった?「潤ちゃんの前に会ったやつの子どもだと思うけど」例えそれが、彼女をして見惚らせざるを得ないほどに美しかったとしても。「俺たちは、美しくないといけない」窓花は言うが、女はさっきからずっと寝た振りをしていて、例え呼んだとして眼を覚ましたそぶりなどしないに違いなく、わたしはまだその女の名前を知らない。部屋の表札に苗字さえかかれてはいなかった。「美しくなければ、」402号室と言う以外に、

 

「雨が降ってる」わたしは窓花の胸を撫ぜてやりながら、その、少女の美しい胸部の曲線に朝の、雨の日の窓越しの陽光が、肌は褐色に浮かび上がる。わたしは言った「一日中雨だろうな、たぶん、今日は、」そして、わたしを、子どもを抱くように腕枕をして抱いた窓花は、わたしをなど見てはいないが、窓花は言った「猫が俊敏なように、」

「やがて」わたしの「もうすぐ、土砂降りになる。」声を聞く。

「狼の牙が鋭いように、」窓日がわたしの額に「音を立てて、」わたしのその声を聞き乍ら口付けると、彼は、

「猿の木の枝を這う腕が長く繊細なように、」言った。

「土砂降りになった雨が、その」

「手先は極端な繊細さに極端な英知を宿らせて、」

「自分で立てた音響の中に、」

「言葉は研ぎ澄まされるだけ研ぎ澄まされて、」

「雨の色を知ってるか?」

「美しさは、目をもくらませるほどに、」

「無色のそれは塗りつぶす、自分の色に、」

「その美しさは、」

「美しくさえなく、全ての」

「だからって、何が?」

「その、」

「美しさが、なにを?」

「色彩の鮮やかさを破壊し尽くしながら」

「何ができたんだろう?世界から、守られるために。」

「色彩は、」

「生き残るために、今、生きてあるために、」

「すべての色彩のそのすべては、」

「美しくなければならない。」

「それらは既に」

「今、この時に、」

「失われていた」

「俺は知ってる」

「雨の中に、」

「できなかったこと以外に、」

「覆い尽くされた音響の中で、」

「できなかったことなど何もなかった」

「その音響の残響の終わらない中で、」

「既に、」

「俺たちは、」

口付けるのだった。「既に。」上から、「不思議だったんだ」わたしに口付けられたその唇が、

「ねぇ、どうして?」

「蝶は雨の中を」

「君は、僕のこと」

「飛ぶことができないの?」

「好きなの?」笑いながら

「ならば」

「どうして」

「雨の中で」

「ほかの」

「無数の」

「だれでもなく」

「蝶は」

「ぼくを」

「何をするの?」

「君は」

「どこにいて」

「だれを」

「息をひそめて」

「愛したの?」

「何を見て」

「今、」

「何を感じるのか?」

「君の」

「その」

「唇は」

「あざやかな」

「無言のうちに」

「翼の存在の」

「何も

「意味を奪った」

「何も見てさえいない」

「雨の」

「ふりをして」降りしきるかのような「中で」むさぼるように押し付けられる窓花の唇を、彼は少年だった。欲情に身を任せた少年に他ならず、いま、とはいえ、彼が愛している彼が男性に他ならないことに気付きながら、いつから自分が同性愛者になったのか、窓花は訝らずにいられない。見苦しいだけのホモたち。その同類項。彼が生理的に嫌悪する類の人種。閉じられた目はやがて開かれて、床の上で仰向けのまま、女が目を覚ましているのに気付く。「おとんが初めての相手だった。知ってた?」あからさまな、女の目が宿らせている嫉妬が、執拗に彼女は目でわたしと窓花の身体を追った。なぜ、窓花は、十二歳くらいかな、わたしにしないの?ささやく「おとんが」結局なぜ、耐えられなくなって、わたしじゃないの?耳元に「俺を強姦したの」やっちゃったの。なぜ、女は、そして放置すんの?ねぇ、その嫉妬はわたしのこと、ね。何にむけられるのか?その男が、わたしに、彼自身にとっても不可解な感情を抱いているのは知っていた。なんで?「俺が綺麗すぎるからじゃん?」研究所の中で、わたしより十歳以上年上の彼は、坊主頭に近いほど刈り上げられた頭の中で、「やりたくなるじゃん。誰だって」わたしを見つめずにいられないのをは、「俺、美貌じゃん?じゃね?」わたしも、彼自身も知っていた。「我慢できなくって。だって、十二の頃、」嘗て、杉山と言う、その彼が同性愛者だったことなど一度もない。「もっと綺麗だったもん。俺」今ですら。そして、杉山はあきらかに、隠しようもなく、

「僕、好きなんですよ、結局」…杉山は言った

わたしに恋焦がれていた。「一回やっちゃったら、もう、駄目だよね」わたしよりはるかに鈍重な頭脳で。「好き、好き、好き、で」

「こういう研究がね、実際」

わたしへの嫉妬にさえまみれながら。「死ぬほど嫌だった」窓日が死んでから、「おとんのこと」まだ、

「結構ばくちでしょ?研究者って」

一年もたってはいなかった。「ぶっ殺してやりたかった」わたしがまだ日本にいた、或いは、いられた頃の、春の深い時期に、

「怖い部分、ある。堅実じゃない」

「あいつ、抱いたのは女の体だぜ。俺の」上原は中国に行ったきり、「なめてんの?あいつ。」半年以上、

「単純に、生涯かけた研究が、まったく」

帰ってこないままだった。「おれは女じゃない。ホモじゃないし、」確かに、ストレスの多い職場だったことは間違いない。

「でたらめだったって否定される可能性のほうが、」

「わかる?」わたしたちのヒトDNA書き換えの研究はお決まりの倫理問題を、あきらかに、

「はるかに、高い」

多く抱えてはいた。「3回目、あいつが俺をやった後、」かならずしも、それが倫理的に正しい研究だという確信を誰も獲られないままに、

流し目をくれて

「出ちゃったの。家。」多くの懐疑にまみれながら続けられる研究は、とはいえ、「許せないから。」

一瞬、言い澱んで

形骸化した倫理が命を救ったこともなければ、奪われてしかるべき命を救ったことなどもなかったのだ。

その後で、不意に鼻から笑い声を

そう言うことだってできたはずだ。その日、不意に後ろから近づいてきた杉山は、「水沢さん、ちょっと、いいですか?」

立てて見せた

無菌室から出てきたばかりのわたしが、何ですか?

「好きなんですよ。」

振り向きざまにわたしの半身にぶちまけられた可燃性のその溶液は、

「…結局」

杉山にライターにつけられた火に燃え上がり、わたしの皮膚を白衣ごと焼き尽くそうとする。騒ぎ立ってやまない分子を停滞させ、

「それ以外に、」

触れることを可能にするその溶液が引火性のものだということくらいは知っていたが、改めて現実に目にするその圧倒的な引火性は、

「自分を正当化するすべなんかないって、」

火そのものを鼓舞する司祭か何かの様に、強烈な熱さが苦痛そのものとなって、わたしの全身を支配しきっていたのは知っていた。

「そう思ってます。」


月の船、星の林に 4

今、叫んでいるのか、むしろ、無言でさえいるのか、それすらもわたしは知らなかった。苦痛?そんなものはどこにもない。あの最初の一瞬のあと、苦痛そのものが、神経系の正常運用を遮断してしまった。目覚めたまま灼ききれた神経系は、最早、感じているはずの現実の苦痛の断片をすら伝えない。火が消されるのに時間はかからない。もみくちゃにされて殴打される杉山が、人の山の中に崩れ落ち、炎は一瞬でわたしの身体の40%近くを焼いた。なんだよ、こいつ、と、泣きそうな顔で、もはや無抵抗の杉山の上に乗っかった山城が言った「こいつ、狂ってんじゃん」はき捨てるように。狂気。杉山はなにがしたかったのだろう?馬乗りになられた杉山は茫然と無表情な白目を曝しながら。山城はまだ知らなかった。人間の単なる精神疾患など、狂気の名には値しない。人間の精神的な「発狂」など、単なるささやかな精神疾患にすぎない。例えその疾患の論理が、彼が銃を乱射して無数の人間を惨殺する結果をもたらしたとしても、彼が殺した身体を解剖して食ってしまったとしても、いわゆる親族に極度の精神的な動揺と負担を喚起したにしても、治療費と言う名目の莫大な金銭を消費さしめたとしても、だ。本当の狂気を知っているか?何と言うわけでもなく採取した《白血病》のBạch の血液の中で繰り広げられているはずの、深刻な狂気に、わたしは目を疑ったものだ。それは、文字通り、どうしようもないほどに純粋な発狂だった。彼女の極端に覚醒した、奇形化すらした白血球は、もはや自分以外の全てを外敵とみなして、常なる戦争状態にいた。覚醒しきったリンパ球と白血球の不断なる暴力状態。それらはすべてを殲滅しようとしていた。その固体以外のものが全て殺戮の対象であるとき、その状況がこの形姿の奇形化をもたらしたのか、奇形化がそれをもたらしたのか、わたしにはわからなかった。確かに、「白血病」といわれればそういえるのかもしれない。鈍磨剤で酔いつぶれさせられた白血球はほとんど活動も見られず、そしてそれは、彼女の免疫系の破綻を意味していた。わずかな細菌も、彼女にとっては、いま、致命的なはずだった。鈍磨剤を切ってしまえば、白血球の凄惨な殺戮が、最早比喩表現ではなく、彼女に想像もつかないほどの苦痛を与えながら、彼女の身体は破綻するしかない。いずれにしても、免疫系は完全に破綻している。

本来、彼女は無菌室の中以外では生きていられないのだった。

「気違いばかりよ」とわたしの焼けてひきつった顔の半分を見たとき、

多恵子は言ったが、それは一度台湾に渡る前に、実家に帰ったときだった。

入院していたわたしを見舞った上原は、わたしの焼け爛れた半分の顔を見て、まるでマッド・サイエンティストの見本ですね、と笑ったものだった。汪と会ってきたばかりの上原は、「まるで、アメリカ映画ですね。国家機密の軍用施設でゾンビの研究でもはじめたんですか?」声を立てて笑い、研究は、日本ではほとんど不可能だった。杉山の事件もその非倫理性に花を添えた。何も咲かさない花を。「汪は施術を希望しました。リスクは十分理解しています。あとは、あなたとわたしの腕次第です。」本当に?一瞬、信じられずにわたしは、そう、と、上原は、「そうまでして生きたいらしい」言った。地球人口の6分の1は中国人なのにね、と、「気違いばかりだ」みずからが吐いたその言葉を聞いた瞬間に、多恵子は何かを思い出しそうになって、一瞬、嘔吐しそうになるが、多恵子はかろうじて持ちこたえた。「けど、あいかわらず」薫は「イケメンのまんまで」言いながら、自分の言葉への戸惑いの中で声を耐えて笑い、確かに焼け爛れた半分の崩壊も、わたしの美しさを破壊しなかったことをは、わたしだって知っていた。それは彼らとの、十年ぶりに近い再会だった。「けど、痛かったでしょう?」と多恵子は、その瞬間に彼女の、焦点すら合わせられずに見開かれた目は、わたしへの凝視が既にそこにはなく、自分では見たこともない嘗て見たあの記憶に向かって見開かれながら、必死にそれから目を逸らそうとしているのを、わたしは知っていた。多恵子の娘の死んだ皮膚には無数のケロイドが散在していた。わたしも呼び出された、或いは、町中の少年のほとんどが尋問されもした、あの調査と裁判のときに、彼女がいったい、何回失神と嘔吐と痙攣と意味不明な絶叫を繰り返したかわからない。悲惨な、というよりも、最早、彼女が普通ではないことに、例えばわたしの母は目を背けながら、ああなっちゃおしまいよ。「人生、もう、終わり」そう呟いたが、それは同情だったとはいえない。薫と、二人だけで居酒屋に行ったのは、多恵子から逃れるためかもしれない。薫も、もう三十を超えていた。彼もまた彼女の介護をし続けたのだが、薫は彼女から目を逸らし続けなければならなかった。やがて、彼女の存在そのものが、あの事件をただ、想起させ続ける執拗な記憶の根拠にでしかあり獲なくなった限りにおいて。わたしと彼が、親しかったことなど一度もない。無口な少年だったが、あの事件の前からそうだった記憶はない。そうではなかった記憶もない。希薄な、薄らんだ記憶の中で、翔に文句を言われてはいじけていた姿くらいしか思い出せない。なんでよ?彼は翔に言った。「うるせぇよ」希薄な人間に過ぎなかった。「覚えてます?」薫の、甲高く浮いた地の声を耳の中に、「水沢さんって、神童扱いだったじゃないですか、子どもの頃」

結構、憧れてましたよ

わたしは、あの少年がいまや、敬語をさえわたしに使うような大人になったことに改めて気付き、

俺。何気に、ね

30近くなった、体格のいい、わたしよりもはるかに背の高いこの男の、汗ばんだ匂いを鼻にした。「神童って」わたしは

実際、なんか、めったにこんな人いないんだオーラが…

声を立てて笑い、「いや、本当に。母なんかも言ってましたもん。姉が水沢さんと並ぶと、見劣りして困るって。中身も外見も、ですけどね」

薫が笑ったので

薫の笑う声を聞き、薫は癒えた、のだろうか?何から?姉の死から?癒える、とは、何なのか?

わたしも笑うしかなかった。

東京都周辺の、嘗てニュータウンと呼ばれた、いまや、閑散とした、その町の雑然とした繁華街らしき場所の居酒屋は、

田舎だからやっぱ、出来る人って、目立ちますもん

疎らな現地の住人が寄り集まっているに過ぎない。都市と都市周辺は何度も再開発されては古びていき、

姉貴も、どうだったんだろ?

次なる再開発を待つしかない。「結婚したんですか?もう?まだ?」わたしは、まだ、全然、相手すらいないよ、

好きだったんじゃないかなって、ね?

薫の丸っこい鼻は、彼が何か思うたびに、かすかに嗅がれた匂いを思い出したように小さくひくつく。「そんな、なんか、いや、でも、そうかな」

普通に、潤さんと結婚しちゃうんだろうなって思ってたから

そんな癖ができたのは、いつからなのだろう、「実際、恐れ多くて、近付けないのかも知れない。水沢さんに。むかしの姉貴みたいに」

いや、俺たちは、ですよ

昔からそうだったのか、それとも、大人になってからの癖なのか、「いまなんて、ちょっと、もう、この世の人じゃない的なね、」

わかんないですよね、女って

重力にへばりつき、細胞組織の自己活動に支配されているに過ぎない、「いや、普通の女なんて、近付けないでしょう?」

結局、誰のこと、好きだったんだろ。姉貴

そしてその活動を支配することさえできない、「そんなことないよ」この精神と言うもの。声を立てて笑い、

普通に死んだ人間のように、なぜ

君はもう生きられない、とわたしはBạch に言った。「薫くんは?お前は、君は、どうなの?」

君は話すの?翔のことを、と

知ってるよ、Bạch は笑いもせずに、「俺?いや、実は、結婚してて、もう」やっぱ、無理だよね。みんな言うもん

一瞬言いかけて、わたしは微笑み、

「千葉のほうに。ちょうど昨日、ほら、命日で」窓越しの日差しに横から差されるままに、「誰の?」無理だよって、

壊れた眼差し。末期の

Bạch は言い、「ひどいな」彼は声を立てて笑った、「姉貴のですよ」確かに、あの事件があったのは、

何を?

夏だった。夏休みが始まる直前に監禁されて、夏休みの終わりごろに、彼女は死んだのだから。誰が

何を見たの?

直接殺したとは言えない。和明は言っていた。直樹が言っていた、頭、ポンってはたいたの、そしたらさ、

その

あいつ、あっ、って言った気がしたけど、翔はその瞬間崩れ落ちるように死んでいった。深刻な暴力の果てに、不意の、

眼差しで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

かすかな手のひらの頭部への接触が。誰も、その瞬間、彼女が死んだことにさえ気付かなかったほどに、「大変だったろ?あれから」翔のことを、初めて思い出したように話している自分に気付いた。誰が?「いや、母がね。祖母も。父も、まあ、おれもですけど」わたしたちが。日本に行ってみたいな、と窓越しの淡い日差しを振り向きながら、Bạch は言った。まだ、雨は降っていない。「今の女房と会うまで、おれ、女、知らなかったもん」どうして?だって、日本ってさ、ベトナムと違って、ゲイとかホモとか、いっぱいいるんでしょ「どうしても、なんか、セックスって言うのが。無理だったんですね、」まさか。いないよ。そんなには。でも、サムライってホモでしょ?なんで?「おれには。トラウマなのかな。トラウマって言うんですか?こういうの。」日本語学校行ってるやつが言ってたの。その子の先生、留学したこともある。「そもそも、付き合うって言うのもね。好きになるっていうこととか、」四年も。四年間もだよ。生き辛い?ここだと。生き易くはない。なんとなく。けど「あのことあって。でも、あの子が口説いてきて、何回も。で、なんとなく。」どんなことが?何で、生き易くはないの?一応、女の子として「ほんとに、なんでこうなったのかわからないんですけど」認知してくれはするけど「けど、初めてあいつ、抱いたとき、変な話ですけど」とはいえ、君は海なんか渡れない。知ってる。死んじゃうよ。「すげぇ、何かが洗われた気がしたっていうか、なんか、」でもさ、「変な話、やっちゃった後、泣きましたよ、おれ」一回くらいは「大泣き」口の中だけで、「号泣、っす、ね。まじ。」声を立てて、薫は笑った。結果的にいま、潔癖症患者の世界観を確率論以前に全き現実にしてしまっているBạch の身体が、無数の人間たちの雑菌にまみれた空港の中を、無事に通過できるわけがない。ほぼ100パーセントの確率と言うことは、確率論の領域などではないということだ。潔癖症患者の論理すら超えた現実が、彼女に襲い掛かる。「名前は?」不意に、振り向いて言うわたしに、何を言われたのか戸惑った表情をして、女はわたしを伺い見たが、窓花の出て行ったあと、女と二人で残されたものの、女のわたしを意識しすぎた気配が、執拗に部屋の中をよどませ、窒息してしまいそうだ、とわたしは思った。誰の?女は言うが、すぐに、彼女は自分の名前を尋ねられたことを察する。未だに、女の名前さえ知らなかった。もう、五回以上は、顔を合わせたのに。彼女の部屋を、毎日訪ねる必要などなかった。「知恵」と女はいい、声を立てて笑うが、なぜ、女の部屋に、わたし自身入り浸るのか、わたしにはついにわからなかった。そういえば、わたし、と、その媚を作った声を、「あなたの」わたしまだ知らないです「お名前」窓花を殺してしまったのは、知恵の父親だった。

 

朝から雨の降り止まない日に、研究所を出た後、知恵の部屋を訪ねると、窓日はいない。部屋にかすかに荒れた気配だけが漂い、「窓日は?いないの?」連れてかれたの、と彼女は言った。その記憶を手繰り寄せるような声を知恵はまるで、わたしを見つめるその視線がわたしを見ていないことなど、わたしは既に気付いていた。誰に?彼女は言った、父親が上京したのだと、それは、知恵の叔父の息子の結婚式に出るためだったが、彼は、一人娘の部屋に泊まることを望んだ、ホテルなんて取るなって言うの。お前の部屋でいいよって。狭いよって言ったんだけど、知恵だって知っていたはずだった、今、その部屋の中がどんな状態なのかくらいは。品川駅まで迎えに来た娘に連れられて入った部屋の中には、性別不詳のあきらかな未成年が、何をするわけでもなく、バルコニーの花に水をやっていた。誰?って言うから、と知恵はいい、紹介してなかったねって言ったの。知恵は一瞬思いあぐねて、ややあって、わたしの彼氏って。一瞬、声を立てて笑う彼女をわたしは見やり、でも、ひどいの。俺、こんな奴の彼氏なんかじゃないって言うから、彼。どうなるかなんて、知ってたろう?わたしの声に、あきらかな動揺をみせ、わたしを見てなどいない黒目だけを震わせるが、そのわたしへの凝視が解けないままに、そのとき気付いたの。お前何ものだって、お父さん、殴りかかるみたいな、やめてよって言ったけど、無理なんだもん。窓花ちゃん、なんにもしてくれないし。ずっと、見てるだけなの。お父さんのこと。やばいって気付いてたけど、もう遅いでしょ?「おとん?」って言った、窓花ちゃん。「おとん?なんで?」それだけ。「おとんがなんで?」無理じゃん。なんか、窓花ちゃん、病気見たいじゃん。てか、無理。わたし、そして、彼女が嘘も、言い訳も言っていないことには気付いていた。わたしは、指先を伸ばして、彼女の額に触れようとした。額そのものにではなくて、その内部、時に精神と呼ばれる膨大な有機体データの空間の中に。確率論が支配する、その、もしも触れられるなら、引きずり出して、握りつぶしてやりたかったのかもしれない。とはいえ、彼女は加害者とは言えない。むしろ、被害者ですらない。彼女だって、自分が被害者などではないことを知っている。彼女は窓花を愛していたから。彼にそれを望んだのは、常に、自分自身だった。もしも、血まみれにして、手のひらの中に、それを、唇を一度震わせて、彼女は、わたしの、額にやわらかく触れた指先に、目を閉じて、初めて、言った。「潤さんが、わたしにさわったの、始めて」思いがついに遂げられたように、不意に、開かれた視線が明確にわたしを捉えていて、助けて、わたしは瞬くが、「助けて」彼女は言った。お願い。ついに何かを告白したかのように、「お願い」誰を?彼女の両目から、何から?涙が零れ落ちると、知恵がわたしを見つめた姿勢のまま、泣きじゃくり始めたのを、わたしは見る。警察に行く、と言って、暴れる窓花を羽交い絞めにしながら出て行ったのだと、言っていた。彼だって、すぐに気付いたに違いない、彼が腕に掴んだその身体が、あきらかに少女のそれであることに。彼は単純な違和感に意識を混濁させながら、彼にできることは誰かに通報すること以外にはない。この時に、誰かとは警察以外に思いつかれえはしない。そんなことは知っている。わたしだって知っている。六本木の、交差点周囲の大通りから入った、旧《旧防衛庁跡地》の裏手は、閑静な住宅街になっていて、その周辺だけ、表通りとは完全に差異する静けさと、夜の、薄暗さが支配する。通りにそって、一番近くの麻布署のほうへ歩こうとすると、教会の手間の歩道に、一人の男が突っ立って、携帯電話をいじっている。ここが六本木の真ん中に他ならないことを忘れてしまったかのように薄暗く、しずかな、閑静すぎる周囲の中で、近づくと、わたしに近づかれたことに気付いた男は、痙攣的に顔を上げ、わたしを見るが、「山城雄一と申します」男は言った。おびえきった、喉の奥からの声で、「お名前は?」彼の目は今、何も見てはいない。お願いだから、わたしは思う、触れさせてくれ、「あの、すみません、」その額の中のものに、お願いだから、いや、と、わたしは「失礼ですが、」思う、わたし自身のそれに、「お名前だけでも」お願いだから、「わたしは、」触れさせてくれ。「山城と申します」わたしは彼の前を通り過ぎ、目を逸らして、そして周囲を一度見回すが、人の気配のない中に、なにかに惹かれるように教会の中に入っていく。廃墟のように、厳かな空間。ただ、向こうに遠く通り過ぎる車の群れの音響が低く響いているだけの、わたしは並んだ樹木の下に窓花を見つけた気がした。近づいて、周囲を見ると、鉢植えの花の向こうに、隠れるように窓花は倒れていて、不規則な呼吸を立てていた。あきらかに死にかけの人の気配に、なぜ、気付かないでいることができなかったのか訝られるほどの執拗な窓花の気配を、自分を覗き込むわたしに最早窓花は気付かない。あからさまに陥没し、変形した頭部の形態が、その内部の致命的な損傷を物語る。わたしは彼に手を触れようとする。窓花は、そこに誰かがいるのを認知している。体のどこからか発生していた出血が、彼の衣服と腕とを染め、それがわたしなのだと気付きもしない。荒い、かすかな呼吸音が耳を衝き、助けて、と彼は言った。「死にたくない。助けて」と彼は言い、最早言葉を発声できないものの、かすかに動かされる唇と、喉の凹凸が、なおも、彼が唇の向こうでそれに類似の言葉を発し続けているのに気付かざるを得ない。身体機能の連結性は崩壊し、機能不全と、接触不良が、もはや、窓花に生存の可能性はない。死。「俺たちが光の玉だったの知ってる?」窓日は言った、あの時、「地球の上に浮かんで、下を見てるの」そして「知ってる?」彼の頭を抱きしめるが、その一瞬の動きさえもが、今、彼の崩壊した身体に極端な影響を与え、「死ぬことなんて、どうってことない。だって、」一度停止した呼吸が、しかし「あそこに帰るだけ。使命も、タイミングも、決めるのは」不意に思い出したように再開されるが、「全部自分。過去も、光だった記憶も全部忘れちゃうんだけど、」むしろ、今、首を絞めて「今、今だよって思った瞬間に堕ちていく。すごく」一気に全てを崩壊さしめてやったほうが「細かくてあったかい細胞の群れの中に入っていったのに気付いた瞬間に、」わたしは思い続けながら、思い惑い、「記憶は全部飛んでいく。さよなら、って思った。そのとき」絞めようとした手のひらに力がこめられた瞬間に、「そっから先の記憶は、もう、ないんだ」窓花は息絶えていた。生と死のあきらかな断絶。死にかけの身体と、死んだ身体との間にある、絶対的な差異を、窓花の身体はあからさまに明示し、あらゆる細胞はもはや連結されてなどいない。それは、今、完全にばらばらで、見事なまでに停滞している。死、そんなものは、確かに、存在などしてはいない。それを死という存在する言葉で言い表してしまうことそのものが、実は、巨大な錯誤なのだとわたしは、窓花の身体には時間さえもが消失されていた。薫だって、翔の居場所など、うすうす気付いていたはずだった。町の少年たちみんなの中で、もっとも騒がしいうわさだったのだから。めったにないスキャンダル。寛人という、十六歳の、高校を中退したあと結局は何もやっていない少年が、首謀者といえば首謀者だった。あるいは、その事件に至るまでの彼の経歴が、彼を首謀者として周囲に認知させたのかも知れなかった。思い出したように弘明が言った、町で翔を見かけたときに、やっちゃいますか、あの子。結構かわいいんだよね。声を立てて笑い、過度に戯れじみたナンパかなにかのようにかけられる声が、とはいえ、五人の悪びた少年たちに囲まれた少女には、強制的に響いたのかも知れない。何の抵抗もしなかったの。あいつ。死んだ翔をおもいだしながら、祐樹は言った。祐樹の部屋に連れ込まれたあとも、戯れに繰り返される下卑たくどき文句と指先だけの身体接触の果てに、あれが、と弘明は言った、やがて、彼が四十近くになって、やっとフィリピン人の妻をもらった、仲間内のパーティが終わった後で、「あれが、」あいつが人間だった最期だよな、と言い、彼は「忘れられないんだ」と言った、あの、くどかれ続ける間の、彼女の、見開いて交互に声のするほうを見る目つきを。まるで、目で音声を聞き取ろうとしているかのような、そしてそれらの接触がやがて強姦に発展していくのだが、そのきっかけらしいものさえ最早忘れられ、結局のところ、そうならざるを獲なかった気が、祐樹にはした。強姦に加担しながら、十四歳の彼は、不意に、あの事件のこと、まだ、こいつには言ってないから、と弘明は言った。あきらかに人種を異ならせた、堀が深いようで平坦な、大雑把な筆で小さく描かれたかのような華美な顔立ちの、東南アジアの島国の女は、東アジアの島国で、自分よりはるかに年上の夫の友人と言う女たちに囲まれて、雑談につき合わされ、彼女はあからさまに美しかった。弘明はかすかに笑って、さすがに言えないぜ、あれは。いわゆる、遠い目つきをしたあと、「後悔とか」でもさ、もう、おれもさ、と、「罪の意識とか」わたしはその声を聞く。幸せになってもいいんじゃないの?って、「拭えないよね」なんか、悪いんだけど。「いまだに」そんな感じ。「けど」わかってくれる?こういうの、和正がわかるよ、「幸せになりたい」よくわかる、と相槌を打ち、「俺だって」だから、内緒にしといてね、と言う弘明に、でも、全部知っても、たぶん、あの奥さんなら、お前、理解してくれるんじゃない?裕也は言った。「そんな気、するけど」嘗て、柔道で作った太い筋肉をいまや贅肉の固まりにしてしまっていた裕也は、その、固いままの胸元の贅肉が彼の動くたびに震えるのを、わたしは見る。「あなたが、殺したんですか?」わたしは言った。その声を、山城は聞き、うなずきもしないままに、「暴れてきたんです」と言うが、あの女の名前が、山城知恵だということに、わたしは「なんで、もう生まれてんのって」今、気付いたことを知った。わたしの「おとん、おとんって、叫んでばっかりで」シャツは、かすかに血に染まっていたが、たいしたことはない。山城は、擦り傷だらけだった。「制止しようとしたら、暴れて、もう、もみくちゃで、そこの電柱に頭ぶつけちゃったんです」あなたが殺したんですか?「血がいっぱい。もう手が付けられないと思って、もう一度、電柱にぶつけたんです。あの子の、頭掴んで。」なぜ、あなたはこんなことをしたんですか?「もう、ぐちゃぐちゃで、助からないですよ。しまったって、思って、もう一回、ぶつけたんです。」わたしを「あの子の、頭掴んで」見てはいない山城の視線から目を逸らし、「どんっ、ぐしゃって」わたしは警察を呼びに行く以外に「だってもう助からないから」する事はなかったが、「この子のお父さんはご存命ですか?」山城が振り向き見ていった。さあ、「生きてるんでしょう。」窓花がそう言ったのなら、どうしたらいいでしょう?お父さんに、なんて言えば?彼は、「堕ちていくときの光の束を覚えてるよ」と翔は言った。放課後の教室の中で、「光の束が、雨みたいに降ってる。」流行のオカルト的な話題の中で、そういえば、と、覚えてるの、「下から上に降ってる雨。まるで。」わたし、と、翔は、生まれる前のこと、「思わず手を伸ばそうとするけど、」と言った。誰にも言わなかったけど、子どものときからさ、「それが触れられないことに気付いたとき、」覚えてて、それが変だなんて、気付いたのは、「手さえないことに気付いた」10歳くらいのとき。夕方の日差しが、声を潜めて会話する少女たちの疎らな群れを差し、「え?ねぇ。ほんと?」

《ドラえもん》と呼ばれた001番の

失敗のあとに出産された《のび太》はさらに

悲惨だった。

「でもさぁ」たぶん、そのとき、わたしには時間がなかった。「翔ちゃん言うんだからさ」

死児として生まれた《ドラえもん》と違って、

それは生き続けたのだから。

「ほんとだよね」部活動の始まる時間だったし、あるいは、やめてしまったあとだったかも知れない。「わたしも思い出したりするんかな?」いつ?笑って、

ある意味において、「損傷」を受けたDNAが構築したのか、

子宮内での造型過程のなかで深刻は事故が起きたのか、《のび太》は、

自分にはかかわりのない会話を耳に聞きながら教室を出ようとすると、「潤くん」呼びかけた翔の思いつめた表情を見る。

その身体に深刻な奇形を持って、にも拘らず

生存していた。成長さえしながら、

振り向きざまに、何?「潤君には言ったよね、これ」わたしに「子どもの頃」

《のび太》の、手足の分化しきらない固まった

有機体に過ぎないその身体は、とはいえ、

内部機構を正常に機能させさえしていた。

そんな記憶はない。首を振るわたしを見留めた時の、翔の悲しげな顔が忘れられないのはなぜか。わたしは思い出す。「とはいえ」上原は言った。実験は、前進したといって言い。どこが?わたしは窓花の死に顔を見ながら、思い出す。なぜ忘れられないままなのか、その理由など、わかりはしないことを。頭部の一部を凹ませた窓花の死体に、時間の推移は完全に停止させられている。わたし、と彼女は、「家に帰らなくなっちゃってもいい?」とBạch は言った。不意に、思い出したように吐かれたその言葉に、わたしは遅れて耳を澄まし、「ずっと、ここにいていい?」ホテルの部屋の窓の向こうに、サイゴンの、降りしきる雨期の雨の、白んだ暗い光線だけがある。「好きにしなよ」わたしは言うが、「どうせ死んじゃうんだから」彼女は、今、四肢を動かすことまえもが苦痛であるかのように、ゆっくりと、身をもたげて、その、薄く筋肉の張った少年の身体を雨の中の光線にさらし、「最期は好きな人のそばに、ずっと、いたかったりする」知ってる?彼女は言った。僕のヒミツ。知ってるか?わたしは言った、俺が知ってるなら、それはヒミツじゃない。それがヒミツなら、俺が知るわけがない。声を立てて笑い、その声は、彼女の喉の中だけで響くが、「ぼく、双子だったの。本当は」

君は今、

「お兄さんは死んで生まれたらしい」

わたしを見つめている

「僕は、」

君は、そしてわたしに、

「奇形児だった」

見つめられている。

「おなかの皮膚がつながってなくて、内蔵が外に出ちゃってたらしい」

何度も、君が

「生まれたら、すぐ、手術だよ。すぐに」

死んでいくのを、わたしは

「他の、おっきい病院に連れ込まれて」

見てきたのだった、君は

「すっごく膨らんでパンパンの内臓、」

知っているか?

「押し込んだんだって。体中に、いろんな、」

君の経験してきた

「チューブが差し込まれたって」

さまざまな

「お父さんが言ってたけど、」

苦痛を?

「で、ぼくは手の指が六本あった」

もはやここにはいない

「手術が終わって、僕を見に来たとき」

君は、かつて

「医者に言われて、もうそのことは知ってたらしいけど、」

言った、微笑みながら、

「家族って、みんな、指ばっか見てたって」

好きだと言った。

「家族会議あって、次の日に」

桜の花が

「お父さんが言ったらしい。」

好きだと。

夢、見たことある

なぜ?

「今すぐ、チューブ、全部はずしてくれって」

桜の花、咲いてるの

図太いから。膨大な、

「死んじゃうから駄目だって、言うから。医者が、」

花を散らしながら

「医者に、それでいいんだって」

桜の木のてっぺんで

気の遠くなるほどの樹齢の

「お兄さんと同じ墓に入れてやりたいんだって」

僕、一人ぼっちなのね

あの図太い生命力が

「不思議な気がする。今でも」

誰もいないわけ、で

好きだ。散る花々など

「お兄さんの墓に行くと、」

孤独、孤独なんか

物の数ではない。それは

「そこって、僕が入ってたかも知れなかったんだから」

感じはしないんだけど、

滅びはしなかった。

「今も、そこで」

むかつくの。なんか

滅び得ない不滅の

「医者はさ、お母さんと対面させるまでできないって」

無性に、どうしても

その時に

「がっかりしたらしいよ、お父さん、で、」

耐えられない、なんか、むしろ、やるせない、さ

花々さえをも濫費しながら

「お母さんは全部知ってた」

腹立たしさ?痛いの

君は

「何日か経って、僕を」

なんか、痛み、痛みを

知っているか?

「見に来たとき、お母さんは」

感じてた。一人で

君が

「僕を抱いて、」

すっげーきれえーな、ね?

忘れてしまった君は

「泣いた。僕は、生き残ることになった」

桜。

何度も死を迎え、

「ほら、手のひらにあるでしょ、痕跡が」

むかつくから、

君は、一度も

「傷痕。子どものころの、」

ね?

滅びはしなかった。

「整形手術の」

蹴飛ばしてたの。ずっと

わたしも

「ごめんって、お父さんが言ってた」

がんがんがんっ

同じだというのなら

「ごめんって。僕も今、」

わさわさわさっ

気の遠くなる、不滅の

「時々思う、」

ばさばさばさっ

永遠の中に

「ごめんって」

がざがざっ、がさがさっ、がざがざっ

失神するしかない

「あんな思いして育ててくれて、」

俺、僕、ね、

覚醒し続けながら、

「でも、ぼく、」

気付いたの

目を見開いて

「女の子で」微笑とともに、

いま、俺のせいで、地上の皆は

桜の花に埋もれちゃって、

みんなみんな、窒息しちゃって

人類滅びちゃったの。

彼女は言った。

やべっ

わたしは、次の瞬間、

泣いた。俺。一人で泣いた。

言葉を納めた彼女に口付けるだろう。その口付けが、

君に

彼女の命さえ奪うことになるかもしれないことなど、

命のキスを

知りながら。無数の、

君に

生き生きとした雑菌の、

口付けを

膨大な生命とともに、

君に

命のキスを。雨の中に、

 

発熱したBạch のためにアスピリンを買ってやりに行く。何度も、土砂降りの雨をかいくぐって、ホテルのすぐ裏手のメディカルストアに行き、びしょぬれのわたしを店員は見咎めるが、定期的に起こす発熱の発作は、Bạch の体力を奪い続け、最早、なぜ身体が発熱しているのか、その理由の特定さえ困難だった。彼女の発狂した身体の日常的な必然に過ぎないそれは、わたしが、アスピリンと言う言葉を3度繰り返して、やっと言葉を解した店員は引き出しから錠剤を取り出す。その、50代らしい日焼けした男は、小さなビニール袋に入れたそれをわたしに手渡すときに、触れられた指先と指先に、日灼けした顔を恥らうように赤らめてうつむき、わたしはまた、雨に濡れなければならない。「殺したほうが言い」わたしは言ったが、上原は請けがわなかった。研究員総員の意見も安楽死に決まっていた。失敗はつきものでしょう?上原は言い、ラオス人たちの白衣は、今、自分の身体への保護服であるかのようにすら見えた。彼らだって戸惑っていた。子宮を提供した母体にすら見せられはしないのだから。学ぶべきだと思う、失敗から。上原は言った。体中にチューブを差し込まれた、顔にあるべき機能は全てそろえながら、造型として顔らしい顔さえもない《のび太》は、上原の独断で5ヶ月も延命された。「なぜ、あなたは」失敗?「これが失敗だというんですか?」も?しか?独断?だれの?わたしは、彼から、学ぶべきところは多い。彼は言った。そう思います。とても、多い。とても、美しい風景ではあった。意図的に損傷を与えられた非コード化DNAは、みずからの限界をみずから設定することができずに、発現の可能性そのままに、身体は自由に、強烈に発現していた。強靭な再生能力、複製能力、修復能力、そして、不確定で理不尽な諸可能性の発現。細胞の群れがそれぞれに限界付けられた自己の発現の可能性に従うのではなく、それぞれが自己の可能性を模索した結果、それは野放図に自由な形態をとり、最早、確定した身体とは言い得ない。それが生存しているのはかろうじて成立している現在としてであったに過ぎない。いつ破綻するかわからない。いつまでも、破綻しないかも知れない。美しいと、投げやりな言葉を投げるしかない。それは、とても、そして何かの理由で破綻した腎臓が、結局のところ全ての臓器の機能を破綻させていった。彼をも、母は抱くだろうか?体内から取り上げられたときに、彼女だって一瞬だけ、目にしたはずだった。見たくもない、と言った、とラオス人が言った。二度と。もう、忘れてしまいたいほどだ。そう、まあ「そんなものかな」上原が言い、わたしは笑いながら、「ひどいね。生んどいて」上原が声を立てて笑った。汪は?なんか言ってる?「見たがってますね、彼は」と上原が、興味深深いんですよ。彼にとっては。「毎年、お墓参りしてるのよ」と弘明の母は言った。彼女が弘明の母親であることはすぐにわかった。県を隔てた隣の町の、駅前の喫茶店に入ったとき、それは、実家近くの町で雑貨のセレクトショップをやっている裕幸と、高校を出てから10年ぶり近くにあったときだったが、弘明が呼び止めた若くは見えるがあきらかに年老いている女性店員の振り向いた顔が、わたしの意識を一瞬だけ止めたあとに、さまざまな記憶が、何も思い出されないままにあふれ出す。固まりになって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


月の船、星の林に 5

「裕幸くんでしょ、潤ちゃんも」彼女は身を屈めて、声を潜めながらかけられる言葉を聞きながらわたしは、彼女が誰の母親だったのか思い出しあぐねるばかりで、「弘明君の」裕幸が言った。弘明の家族も、事件のあと、引っ越していった数世帯のうちのひとつだった。どれだけの家族が引っ越して言ったかわからない。翔の家族含めて。被害者にも、加害者にも、わけ隔てない平等さで。とはいえ、事件の関係者であることを伏せて生活するためのものではあったはずの引越しが、その意図を実現させえた例はない。どこでも、誰もが、すぐに、彼らは彼らであることを指摘され続け、結局は事件現場から距離が離れたという以外ではない。元気だったの?変わりはない?交互にわたしと裕幸を見返し、もう、「死んでお詫びするしかないんですが、」と彼女は繰り返し言い続けていたものだった。ほんとに久しぶりね。翔の葬儀に顔を出そうとして、その家族に拒否されながら、「死んでお詫びするしかないんですが、」彼女は言った、喪服の人々の群れに、目を逸らされながら意識され続ける中に、「お詫びのお線香のひとつだけでも。そうじゃないと、わたしも死に切れないんで」彼女は泣きじゃくりながら言い、まるで被害者のように、とはいえ、確かに、彼女たちも生活を破綻させられた人々の一群のうちの一人には違いなかった。「常識で考えて、ここは引き取って。」翔の叔父が言って、彼女を連れ出そうとするが、彼女は同じ言葉のヴァリエーションをいくつも並べ立て、不意に、翔は二度埋葬されるのだ、とわたしは思った。弘明たちが、だれにも見つからないようにコンクリートづけにしたあの深夜の埋葬と、そして、これから為される焼却の上の、墓地への埋葬と。祐樹が言っていた。翔を埋葬して帰ってくる自転車の上で、坂道をこぎあがりながら、一哉は思い出したように、呪われちゃったよ、絶対、呪われちゃった、と口走り続けた。興奮状態が、彼の顔に赤斑を与え、一哉は甲高い声を立てて笑いながら、その性急な声を祐樹は聞く。もう終わりだって、絶対、俺ら殺される。そうに違いない、と祐樹は思った。生きられるわけがない。俺たちは、もう死んだ。「あいつらをぶっ殺してやりたい」父が言っていました、と薫は言った。「あいつらを」誰を?「殺すだけじゃまだ足りない」誰から、誰までを?って、思っちゃいましたけどね。薫は言った。あんなに、みんな、どっかで、加担してたのに。「あれから、ご無沙汰でした。本当に、長い間、」裕幸は言葉を切り、彼女の名前は木坂ハナエかカナエという名前だったことを思いだしたが、お忍びで翔の命日前日に彼女の墓に参っているのだと言った。年々、墓地の荒れ方はひどくなる。翔の家族が町を出て行ってから、誰も手を入れる人間がいないから、と、近所の板金屋が言っていたと言った。「たまに、俺が掃除してるんだよ。見かねてね。さすがに」ひどいもんでしょう?とカナエかハナエは言い、事実、翔の家族たちは墓参りさえもう何年もしていない。あれじゃ、あの子がかわいそうで、と、彼女は、生前の翔と彼女は一面識もなかったはずだった。今でも、と、今でも思い出すのよ。彼女は言った。どんなに苦しかったの?って、今でも思い出すの、とハナエかカナエは言った、あの子の痛みや、悲しさや、苦しさや、悔しさやが、今でも思い出されてならないの、だから、と彼女は言って「毎年、お墓に行くんだけれどもね、」それはもう、何もできないから、と彼女は言った。死んでお詫びするしかないんだけれども。祐樹が、その後、地元の小さなやくざ組織に入って、小さな組を構えはしたところまでは知っていた。とはいえ、末端の小さな組織に過ぎない。当時、ネットワークビジネスに似ていたそれは、自分以下の末端を作り続けることでしか維持できなかった。末端近くはいつも、発生と破綻を繰り返し続け、安定と言うものを知らず、末端近くからそれ以上に這い上がれることは、基本的にはない。祐樹は一番、気弱な奴だと認識されていた。寛人に、公園で、不意にみぞおちを殴られて、うずくまりながら息を継いでいたのを覚えている。寛人は声を立てて笑って、油断すんなよ、言い、いま、祐樹に、誰かが漏らした失笑の声さえ聞こえていないことはあきらかだった。その失笑が、祐樹に向けられたものではないことは気付いていた。無意味で、唐突な寛人の暴力に対するそれに過ぎなかった。寛人が今、何をやっているのかは知らない。事件のときが、十五歳で、おきまりの、裁判、精神鑑定、カウンセリング、保護観察、その先に、今彼がどこで、どのように暮らしているのかは、誰も。多くの人間が、けして悪い人間ではなかった、と言った彼の父が、あの事件以降発病した極度のうつ病が、金銭的な面でも何でも、彼らの生活を破綻させたことをは知っていた。図太すぎるんじゃないかと言われながら、もともと住んでいた家にあれから十年近く住みんだあとで、結局はどこかへ引っ越してしまった。多額の借財を抱えていたには違いない。自営の広告デザイナーだった。レタリング文字と、看板製作が専門の。ハナエ、或いはカナエの後姿に一瞥をくれ乍ら裕幸が言った、俺、あいつが死んだとき、なんか、すごい醒めてたんだよね。ハナエ、あるいはカナエは喫茶店の仕事に追われ、豊かな生活をしてはいないことはあきらかだった。雇われで、あの歳で、こんなパートをしているのだから。彼女をわたしは目で追いながら、お前、どうだった?翔が死んだとき、と、裕幸が言った。どうって?だから、泣いたとか、腹が立ったとか、裕幸は言い、一哉に裕幸が「お前、人の彼女に何やってんだよ」と詰め寄っていたのを、見たことがあった。

 

学校で、まだ翔が監禁されていたときに、そして、その打ち明けられるような小声に、むしろ祐樹が「寛人さんだから」と言った「連れ込んだの。だから、あの人に言ってよ」舌打ちする裕幸は、ややあって、お前ら、本当にやばいよ。わかってる?「わかってるよ」おれ、と裕幸は言った、なんか、「悲しかった」わたしの声を、「すっげぇ、泣いたの、覚えてるよ」そっか。おれは、と、裕幸は、知ってる。祐樹が不意にうつむいて、あのとき、そう言ったのを記憶している。実際、なんか、おれの人生終わっちゃった気がするもん、マジ。と言う祐樹を、泣いたの?お前、と裕幸は言った。「泣いたよ。普通に」わたしは答えるが、それは半分以上嘘だった。むしろ、わたしがあの事件が起きたことを実感したのは、数年後に出版された、事件のルポルタージュ本を読んだときだったのだから。その、自主規制のかけられた、かなり水で薄めて書いてある本を読んだときに、わたしは、彼女の全身の苦痛を思い出した。何度か、祐樹の部屋で目の前に見た彼女が与えることのなかった苦痛の記憶が、唐突に、わたしの中に思い出されて、わたしは涙を流すことすらできなかった。よみがえる痛みと、苦痛と、恐怖の記憶が、ただ、わたしにできることは、それらに耐えることでしかなかった。なぜ?「俺、泣けなかったんだよ」と裕幸は言った。なぜ?口ごもり、ややあって、なんか、むしろさ、自分が恥じかかされた気がした。「なんで?」わかんない。あいつ、彼女だったじゃん、俺の。だから、なの?わかんないけど、すっげぇ、恥じかかされた気がして。「だれに?」わかんない、裕幸は言い、なにに?それをされたのかわからないかのように、窓花は指を自分のそこにあて、流れ出てくるわたしの精液を指にもてあそびさえするが、鼻に匂いを嗅いでみせ、ばっちい、声を立てて笑った。女は壁にも垂れて座り、ベッドの上の行為から目を離さないまま、未だに目を離さずに、薄く開いた口からひそめられた息を吸い、吐き、この女が最早正気だとは思えなかった。毎朝、朝になれば、窓花に食事を作って、さんざんキスをせがんだあとに、会社に行き、部屋の外では彼女の以前からの日常が継続しているにはしても、部屋の中のこの新しい日常と、どういう接続がされているのか、どうつじつまが合わされているのか、わたしには理解できなかった。「潤ちゃん、ねぇ、」窓花は、指先を眺めながら言い、傍らでわたしは「子どもほしい?」その乳房のかすかなふくらみに「できちゃったら、どうする?でも」戯れに舌を這わせてみるが、窓花は「超違和感あるよ、俺」声を立てて笑いさえして、わたしの「おれが生んじゃうの?子ども」頭を撫ぜる。「だって、俺、けど、できちゃうんだよね」結局のところ、為されているのは「普通に。でも、欲しい?できたら、」年齢をさえ別にすれば「うれしいのかな。できたら」当然の営みに過ぎない。「それ、普通に」普通の男女の。そんなことはわたしだって知っている。「潤ちゃん知ってる?」彼が女を抱くときの「男の体ってさ、だから何?って感じなんだけど」どうしようもない身体的な「やっぱ、いいよ。知ってた?」ぎこちなさがここにないことが「普通にいいんだけど。これってさ」むしろ、ぎこちなさを与える。「女に目覚めたってヤツなの?俺が?」当たり前の営みの中で「笑っちゃうよ。俺?」どうしようもなく「やめて。勘弁してって感じ」窓花は声を立てて笑った。眠くて仕方ない女は、半ば目を開いたまま、眠りかけては目を開く。その緩慢な繰り返しが止まない。身を寄せて、わたしに口付けようとしたとき、予想外の拒否にあって、Bạch はすねたような顔をして、「どうしたの?」問いかけるその声をわたしが聞いているのを、彼女は知っている。「わたしのこと、嫌いになったりした?」窓の向こうに、雨の濡れた風景が、ただ、白く広がり、その降雨の、あらゆるものをうって止まない音が、耳の中に反響しさえしているのには、わたしだって気付いていた。あの、おそろしく旧式な設備と最新設備がごっちゃになったできそこないの研究室には、もう二日間も通ってはいなかった。Nam も、だれもが、あわてているかも知れないし、そうではないのかも知れない。少なくとも、電話すらかかってこない。そうしたものだ、と思っているのかもしれない。なんといっても、彼はマッド・サイエンティストなのだから。Bạch は、出会って以来、一度も両親の元に返ったことはなく、もう二日もたった。両親は探しているに違いない。とはいえ、彼女の電話が、鳴りもしないのも事実だった。どうして?彼女は言い、雨が降っていた。ねぇ、どうして、雨の日の日差しを反射させた彼女のキス、だめなの?横顔を見、息がかかるほどの近さの中で、「君を死なせるわけにはいかないよ」わたしが言うのを聞く。意味ないよ。だって、どっちみち、もうすぐ死んじゃうんだもん。わたしは瞬き、思い出す。《しずか》はカンボジアの、ベトナムとの国境近くの町で、褐色の肌のよく灼けた少女になっていた。005番、そして、双子の006番。そこに一時停車する国境を渡る長距離バスのための休憩所で、ベトナム料理を出している店を、彼女の両親と営み、十歳になった彼女は、母や父とは似ても似つかないほどに美しい。声をかけるわけでもなく、ただ、彼女を目で追う視線に気付いて、彼女は一瞬訝るが、それ以外のかかわりはなく、それ以上に関わらなければならない必然性もない。この店が、彼女の母に、汪によって支払われたカンボジアの貨幣価値においては多額の金銭で始められたに違いないことも、わたしは知っていた。二人は撤退の産物に過ぎない。まともな人体を生成する必要性があった。彼らは修正された単なるクローンに過ぎず、忠実な複製ではないという意味で、クローンですらない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人体の複製そのものが、受精という正確なクローニングの破綻から発生するのであって、そもそも複写とはいえないことから言えば、要するに単なる人体に過ぎない。人体の諸限界に基づいて構築された、それ固有の存在。ただ、美しすぎ、諸能力が高すぎるだけだ。もう一度、唇を寄せようとする彼女を、もう一度、拒絶し、駄目だよ。「だから」と彼女は、なんで?「ねぇ、なんで、駄目なの?」俺の唇の上で、当然生命を維持しているはずのさまざまな雑菌の群れのひとつが、君の命を奪ってしまうことだってある「それがどうしたの?」君を、俺は、殺したくない「なんで?」不意に、わたしは言葉に詰まるが、ややあって、「守ってやりたい」と言ったとき、わたしは窓越しの日差しに瞬きながら、確かに、そうだ、と思った。何が?守るとは、何を?誰が?守るとは、どうして。何から?頬に触れようとしたわたしの手が、思いあぐねて、その至近距離にとどまるのを彼女は一瞬訝った後、とはいえ、その手のひらに頬を埋めようともしない。見つめる彼女の視線に見つめられるままに、弟の姿を探した。《しずか》には弟がいるはずだったが、一年前のそのとき、彼の姿は見当たらなかった。彼らの健康状態については、彼らの行きつけの病院からの検診データで、詳細まで知ってはいた。何も問題はない。その医者が、データの改ざんでもしていない限りは。「わたしなんか守って、どうするの?」彼女の息遣いがかかり、彼らは彼らの固有の生を生きていた。「わたしの、何を、守るの?」その無防備な至近距離の中で「どうせ死んじゃう命をいまさら守って、どうするの?」どれだけのヴィルスが彼女の身体に運び込まれているのか「わたしが、今、死んでもいいからキスしってっていったら?」それら固有の生命組織が。わたしだって知っている、彼女は「それだけが最期の望みだって言ったら?」生きられない。「わたしのそんな思いより、わたしが生きてることのほうが重要だなんて、あり得るの?」答えられない。俺には、とわたしは、「俺にはわからない」言った。「自分勝手じゃない?って、」彼女は、耳元に、思わない?「思わない?」言った「本当に愛してたの」知恵が言った。彼の父親は動揺したまま自分で警察に行き、娘には会わせる顔がない、と言った。けれど、わたしが、と彼は、間違ったことはしていないと、それだけは、間違いだとは思えない、と山城は言い、帰ってきたわたしを、むしろ、透明な、毅然とした顔つきで、彼女がかつて何も恐れたことなどはなかったということを明示しようとするかのように、知恵はわたしを見つめながら、窓花ちゃんは?「死んだ」と、殺された、わたしは、「自分で」言った、死んだようなものだ、と、窓花が、あれほど、助けてくれと懇願しさえしたのに?それがわたしだとさえ認識できない意識の中で、誰かさえわかり得なかった誰かに向かってさえ。表情の一切変わらないままに、彼女は今、微笑んだ、とわたしは思ったが、一瞬の遅れのあとに、不意に知恵は身をまげて泣き崩れ、わたしはその声を聞く、喉がこすれ、しゃくりあげるようなその音声に、誰がいったい殺したのか?それがわたしではない必然性などどこにもない。君が?とわたしは、「殺しちゃった」知恵は言った。わたしが、窓日ちゃんを殺しちゃったの?なぜ?「大丈夫だよ」と、慰めの言葉もかけられないままに、知恵は言い、あなたが「もう、」いるから「あなたしか」と、彼女は「いない」と言った。わたしを、嗚咽に中に見上げ、見つめ、彼女は窓花を愛していた。彼が奪われてしまった悲しみが、知恵の心を引き裂いて、わたしは悲しい。窓花はもう、いない。わたしはそれを知っていた。「ホトケが、見えるんだよ」窓花は言った「俺。ホトケって呼んでんだけど」彼は言い、窓の向こうに雨が降り続けていて、あけない梅雨の雨の中に、「人間だけじゃない、細胞とが、そういうの、全部」朝早い日差しが差し込んでいたが、「光の玉が包んでるの」女は未だに眠っているままだった。「オーラって言うの?あれ」まだ寝てるよ、と窓花は「木も、幹も、葉っぱも、なにも、かにも」言い、一日、「生命単位全部に。」何時間ねりゃいいの?笑いさえするが、「命って、集合体なんだなって、」窓花をわたしは見下ろしながら、「よくわかる。」立ったままで「生まれる前に」何が君を殺したのか?「見たのと一緒、その」あるいは誰に?それが「光の玉を見るたびに」かつて、何かに「目を開けるたびに」殺されなかった「思い出す。ほら、」何かなど存在しない。「全部がすっごいたっくさんの光の玉の」誰もが、何かに「固まりなってて、乱反射してる」殺され、「魂、って言うの?何のために?」何かが、「そんなのなくても、生きてられるはずなのに」誰かに殺される。「何でホトケなんかがあるの?って思う」と、窓花は「いっつも。目を開けてるのが」声を立てて笑い、「いやになるくらい、まぶしくて」わたしは彼の頭を撫ぜてやりながら「何もできないって言うか、何の意味も」と、窓花は「ないくせに」ラオスで獲得した、最初の被験者が生む子どもが解釈困難な奇形を持って、その母体の中で発育しているのは、最初からわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

実験とは言えない。それは、マウスと言う公認された屠殺自由な生命体によってなされるべきものだ。「非コード化DNAが、発現の支配者だとするなら、話は早い。」

外観しかわからなかったが、足らしきものは3本あり、

「それらは結局のところ限界設定しているに過ぎない」

むしろ猫の尻尾のようなやわらかい骨格であることが予測され、

「設定されない限界は固体を形成しない」

足とはいえなかった。

「外延が常にその終点によってもたらされるように」

手は健全だが、頭部に不審なかげりがあった。

「膨大な非コード化DNAが限界設定するための」

実物を見なければ、

「障壁コードであるとすれば」

何も言えない

「それらこそが」

不審なかげりが。

「固体を固体たらしめている」

予測された結果ではないことから言えば

「それらは限界という」

それはまったき失敗だったが、

「固体の可能性そのものを」

失敗とは何なのか?

「結果的に支配している」

哺乳類の生成が、精子と卵子の結合、

「存在Aが存在するには」

或いは異なるDNA同士の衝突によって

「存在Aとして」

起こった事件であるとすれば、

「限界を持たなければならない」

その事件の結果は文字通り結果的なものであって、

「限界こそが存在の」

成功失敗の価値観の埒外に過ぎない。

「可能性を与える」

台風が樹木をなぎ倒そうがなぎ倒すまいが、

「それらは固有性を与えざるを得ず」

台風が台風であることに違いはない。

「単なる論理的な限界に過ぎない」

その固体が生存しえたかしなかったのか、

「逆に言えば」

どれほどの期間生存しえたのかは、

「あなたが例えば永遠の生を」

個体の生の結果であって、

「手に入れることもできる」

発生そのものの問題ではない。

「わかりますか?」わたしが言ったとき、上原の通訳を介して、汪はやせ衰えた虚弱児のような身体の上に、笑顔をほころばせ、Goodとだけ言ったものだった。失敗だ、と上原が言った。わたしは言った。もう少し、見てみよう。なぜなら「これは生きている」わたしたちは「見てみよう」この固体の結果を「もう少し」見てしかるべき「もたらされる結果を」必然がある。そう言ってしまうと、と上原が、「俺たちが今やってる」言った、「実験そのものが」まさにそうですが、「無意味なものになりませんか?」可能性の限界を持って「単純に」生まれてくるのは「いくら優秀に」事実ですよね?「DNAを書き換えて」この子の生存期間が「与えたにしても」どれだけか出生できるのかすら「問題のあるDNAと」わかりませんが「本質的な」この奇形自体が「差異がないと」その可能性を限界として「言ってしまえば」はらみこんでいる。わかってる、とわたしは「何が?」言い、ただ、と、「もう少し見てみましょうか」上原が独り語散るように言うのを、聞く。結果として、帝王切開によらなければ生み出されなかったその生体は、取り出されるとほぼ同時に生を停止した。その生体は母体内で既に脳死状態だったことが発見され、わたしたちは発育を早期に中止しなければならなかったことを、改めて、知った。サル=ヒトの脳はあまりに保守的過ぎるのだ。それらは変動性、可変性を受け入れることができない。正しかったのは、むしろ、上原のほうだった。ラオス人の研究者たちにも、落胆は広がり、確かに目の前の固体の形姿は、落胆させざるを得ないどころか、そのそもそもの倫理観にさえ訴えかけずにはおかなかった。生みだされたそのいびつな形姿が。大半の研究者が、その倫理問題を理由に、チームから離れていったことも、彼らそれぞれの表情を見れば、納得はいった。じゃあ、と、わたしは言った、卵子が精子を選別するのに、倫理性はあるのか?膨大な《それ以外》を排除した卵子の倫理性は?ときにその選択が奇形を生むというのに?或いはこの男を選びこの女を選んだ男の倫理性は?倫理的であるとはどういうことだ?「それとこれとは違う」上原が言った。「少なくとも、彼らは違う」

「わたしたちを見棄てた彼らは彼ら自身の固有の倫理によって、正当にわたしたちを見棄てたんですよ」上原が笑いながら言い、じゃあ、なぜ、君は俺と一緒に研究してるの?わたしは笑い、声を立ててさえ笑いながら、本当に、「こんなとこまで、」それが疑問だよ「一緒に来て。」わたしよりもはるかに若い、この、九州出身の、極端なほどに色白な男は、その端整すぎる顔立ちに似合いもしない薄いあごひげを指の甲で撫ぜたあとに、

「知りたいんです」

彼の眼鏡越しの眼差しは、

「人類と言うか、その」

常にある悲しげなほどの優しさを湛え、

「ヒトの、結局、その限界と言うか」

わたしは彼が

「限界としての」

同性愛者だと言うことは

「可能性の限界」

知っていた。見れば分かる。

「つまり」

紳士的な、

「ヒトとは何か、」

他人との距離感をとるのに長けた、

「その現実を、」

美しい青年。

ね、と彼は言った。ソクラテスにでも聞いたほうがいいよ。全身に繊細な気配をただよわせて。わたしが言うのを、彼は笑うが、「友人に言われましたよ。プロメテウスの火、と言うのを知ってるかって」笑い、「俺、言いましたよ。それは違うよねって」彼は言った「プロメテウスの火って、限界の突破でしょ?俺たちのは、むしろ、限界への直面に過ぎない。つまり、」わたしたちは限界をなど一度も突破しようとはしなかった。わたしは彼を見つめ、「退屈な研究です。本質的には。」上原は確かに「そこに惹かれるんです」美しい「むしろ」扇情的なまでには。なぜ、「聞いていい?」君は、「こんな研究を続ける」君の美しさを「理由は、」直視しないのか?「何?」と言ったわたしに、窓の向こうの雨が降っていて、色彩の一切が奪われてしまった気さえする。「どっちの質問に答えて欲しいですか?」雨はいつでも色彩を奪う。それが触れるあらゆるものから。あからさまに男声に過ぎない、男声特有の美しさを、耐えられないほどに抱えながら、上原は声を立てて笑い、端整ではあるものの、結局のところ手を伸ばしても触れることなどできないに違いない一種の無表情さを持った彼の視覚的な美しさが、むしろ、美しさの実在そのものを否定しさえしている。とはいえ、彼に多くの女たちの、煽情された、扇情的な眼差しが、時に押し付けがましく、時に押し付けがましいほどに息をひそめ秘められて投げかけられ続けるのは事実だった。驚くほど小柄の、この東洋人は確かに美しい。「多くの研究者が離れていきましたね。今回の失敗で。ラオスにさえいられなくなるかも知れませんね。一般的に言って、異端的な研究ですから。」そうだろうね、とわたしは言い、「あなたの一番古い記憶は何ですか?」不意に言う彼に、「答えられないよ。唐突過ぎて。」笑うが、「むかし、子どもの頃、」と彼は言い、

「記憶力がないわけじゃない。けど」とわたしは、

「家族で近くの山に登ったんですが、」その、彼の

「思い出せないよ。一番遠い記憶?」

「小さい山で、すぐに上りきってしまう程度の、」

いつの?なぜ?」

「山道のはしに、バスのおもちゃが捨ててあったんです」

「遠すぎるから思い出せないんじゃない。たぶん、」

「古くて、ぼろのろで、日差しに、」

「近すぎて、そう

「灼やかれて、」

「あまりにも近く」

「色あせて、」

「すぐそこで想起され、」

「小さくて」

「だから」

「それに、」

「いつでも、」

「木漏れ日の光が、」

「俺に、」

「静かにあたって」

「記憶されていたものは」

「おそらくは夏の」

「その、最早、絶対的な」

「その日差しが」

「距離の喪失ではなくて」

「直接、あたって」

「むしろ、」

「きらめくことさえなく」

「無距離なまでの」

「そこにあるそれは」

「近さの絶対性に過ぎない」

「もはや」

「それらは」

「何も語りかけない。…けど、」

「その近さゆえに」

「なぜかそれが」

「なにかを語ることを」

「さまざまな記憶を喚起し、」

「あくまでも、」

「にもかかわらず、」

「不可能にしながら、」

「思い出せない」

「そして」

「なにも。…なにも」

「それが今、」

「なにも思い出せず、」

「想起されたものに過ぎないことさえ」

「そして、」

「いつの間にか」

「何も思い出さしめえない」

「忘却させたまま」

「にもかかわらず、」

「語られえないままに、」

「わたしは」

「痕跡どころか」

「逃げるように立ち去った」

「そのあからさまな存在だけを」

「他者の生の」

「明示させて」

「うち捨てられた痕跡から」

「それらは」

「あるいは、」

「目をくらませる」

「…消滅してしまった、」

「なにも見えない」

「…記憶から?」

「視力の喪失に」

「何から?」

「等しい」

「わかりますか?」

「光の強度の」

「なにから、」

「中に、」

「わたしは、」

「それはもはや残像として」

「逃げたんでしょうか?」

「放置されたかのように」

「わたしは」

「にもかかわらず」

「それが」

「あくまでも」

「わからない」

「見つめ続けながら」と、彼は耳を澄ましたように、わたしの声を聞き、声を立てて笑いさえするが、「わたしにとって、問題なのは、倫理なんです。」上原が言った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「倫理の問題ほど困難なものは無い。例えば、わたしは、言ってしまえばわたしたちのしていることは人体実験に他なりませんが、そこに倫理問題など感じない。あの固体、要するに《ドラえもん》ですが、《ドラえもん》がああしたグロテスクな形で、死児として取り出されたにしても、ね。あの形姿に倫理観を問われている気がするなどと言うのは、倫理そのものの欠如に過ぎない。倫理が崩壊したとするなら、《ドラえもん》が生き残れなかったということだ。そこにおいてのみ、確かにわたしたちの倫理問題はある。とはいえ、」

上原は十二歳までロンドンで過ごした。

「わたしが個々に生きてあること自体が」

三十代になった今

「その本質において生存するための」

東京で暮らしながら

「生体実験の中の出来事だと言っていい。それはどうしようもない」

毎月の半分をラオスで過ごし、

「事実として、その生体の身体システム、」

重ねられる研究は遅々として

「有機体構造、それら全てが結局はその生体が」

その結果を出しはしないが、彼は

「生存しえるという保障さえかいたまま、」

「時間はかかりますよ。当然

「ひとつの前例なき実験として出生し、実験そのものとして」

母体の中で十ヶ月以上発育させねば

「生存するための戦いを強いられる。すさまじい戦いが、」

ならないんだから、」そう笑って、

「生存に向けられた実験として実験され、かつ、」

でしょ?」父親は外交官だった。その意味では

「生存すること自体は生存の不可能性との普段の戦いなのであって、」

エリートだといっていい。少なくとも

「すさまじいストレスとプレッシャーにさらされ続けている。我々は」

金に困ったことなどは無い。といはいえ

「正に実験体に過ぎない。モルモットの飼い主がいるならいいが、」

何のかげりも無いどころか

「いないことこそが、この実験に凄惨なまでの美しさをすら」

苦しみをすら、

「与えている。わたしにとっては、ね。」

悲しみをすら、

「わたしたちは実験されているが、」

感じたことなど無い、と

「実験しているものは、試験管の外を見ても」

多くの人間からそういわれる彼はただ、

「どこにもいない。むしろ、試験管の外すら存在しない。」

飽きている。そう見える。わたしには、それらの

「試験管の絶対的な中の中で、わたしたちは倫理を知る。」

羨望するわけでもない

「倫理的であろうとすることを。」

嫉妬するわけでもない

「何とかして、倫理的であろうと努力さえする。」

とはいえ、羨望と

「倫理は構築され、破綻し、破壊され、」

嫉妬と

「構築される。倫理は停滞しない。相対的な速度の問題ではなく、」

雑多な感情の

「それは生体全てを貫く、どうしようもない」

混濁した

「疾走に過ぎない。」

眼差しに。彼は

「問題は、それが疾走というべき速度を一度たりとも持ちえたことなどないということだ。それは常に、生態にとって絶対的に近く、触れられえはしない距離の向こうにまで遠かった。常に。わかりますか?わたしは、倫理的な人間です。何の比喩も含まずに。」自殺した上原の死体は、まるで惨殺死体のようだった。朝起きたわたしが何の気もなしに、カフェにでも行かないかと、彼の部屋をノックしたときに、返事もない彼の部屋のたたずまいに、不審を感じる必要も無かったはずだが、彼の部屋のスペアを借りに行ったフロントの青年は、寝起きの、いまだに眠い目をこすりながら、いぶかしげな一瞥と、親しみを同居させた眼差しの中で、彼の部屋に鍵を差し込んだときわたしの指先が感じたためらいは何故だったのだろう?外で、騒ぎが起こっていたのは知っていた。確かに、その騒ぎの音声が、わたしをさっき、目覚めさせたのだった。ドアを開けると、そこは死体不在の殺人現場のようだった。彼はいないが、部屋は乱れ、あらゆる場所に血が付着し、二人以上の人間がここで争ったようにさえ見える。わたしは、彼が誰かに殺されたのだと思った。テーブルの上のパソコンの上に、遺書らしきメモが置かれているのを見つけたときにさえ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本語と、英語で丁寧に書かれたそれを、しかしわたしは、彼が殺されてしまったのだとあわて、見回わされた部屋は、血の付着したシーツが乱れて床に落ち、水道の水は出しっぱなしにされて音が立ち、外で、騒ぎが起こっていた。それは既に知っていたことだ。開かれた窓から風が吹き込み続けていたのも知っていたが、開かれた窓から風が吹き込んでいるのに気付いたわたしは、カーテンにさえ血が付着しているのを、床に転がっている凶器に違いない軍用風のナイフを避けてとおりながら、身を乗り出した窓の下の輪をかいた人だかりの中心に、飛び降りた彼の死体がうつぶせになったままだった。それなりの時間が経過しているに違いないにも拘らず、人だかりにだけ囲まれ、未だに誰にも手を付けられていないそれは、宿泊先のラオスの路上で、それだけが時間の存在を否定し、いかなる時間の経過も身に受けずに、無様にそこに停滞し、《ドラえもん》よりもむしろ鮮やかに、自分が死体であることを明示さえしているのを、けなげにさえ感じる。ホテルの部屋から飛び降りた上原の死体の周りにできた輪が、一切の静止をすることなくうごめき続けながら、輪を崩すことなく、警官すら彼に触れようともせずに、その周囲にいて、誰も彼に近づこうとしないのは何故なのか?《夢を見ました》と遺書には書いてあった、彼の死体は、《お母さんの夢です》自分で突き刺された喉への《とても幸せで、素敵でした》或いは手首への《この美しさとともに》傷から大量に出血しながらも《死にたいと思います》死に切れず、彼は部屋の中で、物静かに暴れたのだった。少しの音さえ立てないように気遣って?声さえ立てずに、その鼻からだけ、うめくのと同じ息遣いを漏らしながら、その苦痛は予想以上だったのか、予想以下だったのか?単純な解決法として彼が見出した窓を開け放つと、風は吹き込んだに違いない。雨は朝から降りしきっていたが、雨の中であらゆるものが色彩を喪失してしまったかのような、鮮やかで何をも語り掛けない色彩そのものとともに沈黙しているのを見たときに、それは始めから何をも語りかけなどしなかった。ミツバチを呼ぶ花の色彩以外には。それだけが、唐突に目覚めた言語だといってよい。或いは、無言の住居の群れ以外には。屋根の形、かすかな装飾の曲線、壁の形態、色彩、それらが、或いは路面そのもの、電柱の群れ、あらゆる、それらが、それらの言語のうちに目覚め続け、不意に、正に語りかける無数の言語の音響が目の前に広がったときに、全ての色彩を奪っていく雨の透明さの中にさえ、彼が飛び降りたとき雨は彼の体を濡らしめることができたのだろうか?色彩が目覚めていた。形態は覚醒していた。正に、言語そのものとして。彼の身体が雨と同じ速度で落ちて行ったのだとしたならば、雨は、濡らし獲たのだろうか?今、路面の上の彼の身体は雨にぬれ、水の流れが路面に彼の血を拡散して止まない。結局のところ、その血の路面への拡散の範囲が、人だかりの輪の内径の範囲に他ならなかった。いずれにせよ上原は死んだ。人々の声は聞こえなかった。死体はただ、持て余されていた。なぜ、彼は、とわたしは、なぜ、上原の死に不審など抱きえるのか?と思った。明確な遺書があるにも拘わらず。明晰で、明らかな死。当然のように、上原の自殺はラオスからわたしの居場所を奪ったが、それはすぐにわたしに新たな居場所を与える。山だらけの国から海沿いの国へ横滑りするようにわたしは移動する。ベトナム、ホーチミン市。旧名サイゴンへ。多くのベトナム人たちが、わたしを見て、目をしばたたかせるようなしぐさをしたものだった。あの陽気な Nam だって。空港を通り抜けるときにさえ。体の半身を焼かれた、美しい外国人に。理解の範疇を超えた人間に対して、人間は寛容になるか、徹底的に排除するかしかすべを持たない。被験者はカンボジアで探せばいい。自分の身辺で、人が死ぬのはもう十分だ、とわたしは思った。一度も、その、どの死者をも自分の手で埋葬したことなど無い。最期に会ったとき、裕幸は子どもが生まれるのだといった。二人目の子どもだ、と彼は言い、わたしは彼にグラスに、彼が好きな九州の焼酎を注いでやりながら、実家近くのその居酒屋は裕幸の甥っ子の同級生が経営している個人店だった。その男との面識は無い。裕幸にその男を紹介され、四十歳をはるかに超えたようにさえ見える、奇妙に老け込んだ小柄な男はわたしの人目を引く外見を、あらゆる気遣いのうちに、見るでもない一瞥をくれ続けたが、裕幸の最初の子どもは重度の知的障害を抱えてるらしかった。ショックじゃなかったとは言えない、と彼は言い、中学のころだった。翔はまだ生きていた。翔として。わたしは不意に、裕幸の頬に触れ、お前、興味あるだろ?と言った。最初の子がなかなか言葉を話さない理由が、おそらく予測される知的障害にあることはほぼ間違いないものの、まだ5歳にならないその子どもが、どれだけ深刻なのか、或いは、それほどでもないのか、結局のところ、未だ何の結果ももたらされていない以上、誰にも、何も言えはしない。何に?笑いながら裕幸は振り返り見て、男にだよ、と笑って見せるわたしを伺い見るが、面白くてたまらないように、笑い転げて、それがわざとなのか、本当におかしくてたまらないのか、裕幸本人にもわからない。妻の夕貴は口ではたいしたことではないはずだと言いながら、あらゆる暗い未来をさえ予想し尽くしていたのは、わたしも知っていた。過剰なほどに暗い未来が予想され尽くし、むしろ、現実に目にする現在そのものが、味気なく見えざるを獲ないほどに。とはいえ、と、「あの子を見捨てたりはしないよ」裕幸は、同じように笑い転げてみせるわたし自身、もはや何が面白いのかさえわからなかったが、彼を羽交い絞めにするように抱きしめると、裕幸は逃れ、彼を捕まえようとするのをかわしながら、次のわたしの接近を待つ。わたしの視界に、土手沿いの道の街路樹は茂らせた葉の中に埋まり、最初の子の事を悪く言うんじゃないけど、今度の子どもは、と裕幸のささやくような声は、わたしの「今度の子どもは普通に育って欲しい。だた、」耳に触れ、不安なんだけどね。今、「すっごく」おなかの中で「ただ、結局」どんな風に「生まれてみないと」発育してて、どんな風に「わからないけどね」生まれてくるのか「今度は、」まともな子であってくれたらいい、と彼は言い、あ、待って。でもね、と、「あの子の事を悪く言ってるんじゃない」裕幸は繰り返し言った。雨上がりの空が街路樹の葉越しに見上げられ、それは白から灰色までの、一切の停滞のない流動するグラデーションとして、生成し続け、その色彩と光をさらす。あれらの戯れが、結局は、わたしの唇を彼の唇に触れさせ、「実際、歳とって以降のことが、」はじめて彼の唇に触れたときのことをは、最早「心配だったんだよ。誰が俺の介護を」記憶してなどいない。忘れ得ないほどに、「してくれるんだろって。あの子じゃ、できないでしょ」鮮烈な印象を残したことだけがかろうじて「あの子には介護が」記憶されているに過ぎないそれは、「必要になってるはずでさ」わたしは裕幸の皮膚の匂いを思い出す。「どう思う?自分勝手だろ?」汗と、獣くささに香料をぶちまけたような「でも、次の子がまともだったら、」その匂いを。わたし自身の身体の匂いを確認したい欲求に「何とか、未来がつながる。大変だけど」悩まされながら、その匂いに裕幸の存在を確認した「子どもが、かわいそうだけど」気がしたわたしは、瞬きながら、そしていつかの夜に、裕幸の家に泊まったときに、交互にそれをお互いの身体に試してみながらも、まるで、未だ知りえなかった新しい知性に触れたかのような感覚と、体験されてしまった倦怠感に似た退屈さに早くも悩まされさえし、こんなものだったの?わたしは、裕幸を愛してさえいたことをこんなに、みじめで、知っていた。いつから?「あの子が生まれてから」わたしのことを?「いろんなこと、学んだよ」裕幸がこんなに、ちっぽけな、わたしを愛していることに気付いたわたしは、彼にこんなものだったの?問いかけることなく、

僕たちが求めたもの

裕幸を見つめ、彼の十代の裸の身体に、夜の光の差すのを見るが、

僕たちが

「喜びとか、悲しみとか、」

すっごくつらいんだよ、毎日、

勝ち取ったもの

「今まで気付かなかったこと、」

不安で、次の子のこと含めて、

僕たちが

「気付かせてくれるなって。」

けど、ありがとって思う。

憧れたもの

「本当に、もう、」

あの子の将来も何もかも不安で、

僕たちを

「毎日が新鮮でさ。不思議なくらい」

でも、結局、すごい、

苛むもの

「いいことより」

ありがとって思っちゃうの、

こんなものなの?

「つらいことのほうが多いけどね」

これって、何でなの?と、

こんなものだったの?

そして笑う裕幸をわたしは見つめ、そう、としか思いつく言葉はなく、のばした指先の先に、窓花の唇が触れる。「俺、」窓花は言った。「潤ちゃんのためなら、死ねちゃう気がする」声を立てて笑うわたしに、つられるように知恵は顔を上げ、窓花は一瞬の深刻な表情を笑みに崩して、しなだれかかるようにわたしに身を預けるが、雨が降り止まない。下腹部を撫ぜ、「ここにおとんがいる」故意に潜められた声で。とまらないBạch の咳が、彼女の体力を奪っていく。「過去世のおとんだよ。」彼女の身体の中で、何が荒れているのかさえ、わたしにはわからなかった。「いつのおとんの後なのか知らないけど、」Bạch の骨ごとへし折ってしまいそうな連続的な深い咳き込みが、広くはない空間を満たし、「ここにいる。」にも拘らず、そのまま見殺しにする以外に手立てはない。なんとか、その問題を、Bạchの身体が解消するまで。あるいは、解消し得ないまま、破綻するまで?つまりは死、翔や、窓花のように「ホトケが、見える?」問うわたしを、振り向き見て訝ったままBạch は、何?それ。

 

「光の束」

 

何?声を立てて笑い、

潤ちゃん、熱でもある?

その笑い声が咳き込まれた身体のくねる動きに飲み込まれながら

そう言って、彼女は

「それ、天使とか過去世とか、出て来る感じ?」再び、

わたしに体をすり寄せたが

発せられるBạch の笑い声のアルトを聞く。わたしは

肩にかけられたその吐息のような

知っている。窓花はホトケの光を、

呼吸がくすぐったくて、

うざったいほどだと言い、

思わず、わたしは

目を時にしばたたかせ、

声を立てて笑う。

そんなものがなくても、

幸せ?…唐突に尋ねたわたしの

いわゆる精神と呼ばれるものは

質問を

それ自身で

Bạchは一瞬聞き取れなかった。

いくらでも機能する。今、

ん?

ホトケの光は

なに?

わたしたちの周囲を

「お前、幸せ?」と

内側から

いま」

取り囲んでいるに違いなかった。

戸惑った、Bạch

雨が降り止まない。

あっけにとられた顔が不意に、わたしを笑わせたのだった。

激しい咳き込みのあとで、息をつき、

どうして?

彼女の長く吐かれた息のもった

意味などなかった。

ざらついたノイズが

おかしくてたまらなかった。

わたしの耳のなかに

なに?」がBạch言う。

残響をもって引いていったとき、

「なんだよ、ね、」

抱きしめて欲しいとBạch

潤ちゃん」

わたしに向かって

わたしは

手を伸ばしたが、

何も答えられないまま

首を振るわたしにすねたような表情をさらして

笑い転げるしかない。

見せる。

幸せ?

なんで?

いま

彼女を、わたしは、殺してしまうのを

幸せ?

望まない。なぜ?

君は、いま

君を守らなければ為らない。「キスして」彼女は

幸せ?

言い、すでに、わたしがそれを拒否することさえ知っている。彼女が、今正に死のうとするときに、わたしは最期に彼女を抱きしめ、キスしてやるのだろうか?

色彩

窓の向こうの雨が降りしきったまま、

色彩

色彩を奪ってしまったような白濁の中に、

僕が好きだったのは

全てのものを包み込むが、

雨の日の、ではなくて

遠くの白くにごった白の氾濫のこちらで、

晴れた日の、その

雨にうたれるすべてのものが、

色彩、その

決して崩壊されることのないそれ自身の色彩を、今も

色彩

さらし続ける。最初からそれらが何をも語りかけてなどいないことなど

染まったのだった

知っている。それらが

その色彩

たとえ

海は

沈黙しているように見えたとしても、

空の色彩に

それらの沈黙自体が既に、

空は

あり獲はしなかったものに過ぎない、その、

海の

色彩さえも。

色彩に

眼球の中以外に、その

色彩

色彩がその

色彩

色彩であり得たことなど

あふれかえった

一度もなかった。にも拘らず、

色彩

わたしの決して触れ得ないその

色彩

色彩の永遠に

その

遠い実在が、わたしは

色づいた

それらを眺め、息遣い、

色彩

彼女はまだかろうじて生きていた。原則としては、

燃え尽きる、その

既に破綻している彼女の

色彩

身体は、尚も。

色さえ失って、いま

「日本へ行く?」なんで? Bạch は言い、「行きたいんだろう?」わたしは言うが、「どっちでもいいよ」そう言ったろう?いつか、おれの生まれたところが見たいって「今?」いつ?行こう、じゃあ、ぼくが死んじゃうまえに、と彼女は言った。ビザに拘わる諸問題。それらの煩雑さは、ちょっとした違法行為が処理してしまうだろう。その手立てさえ探してしまえば。わたしは彼女を連れて、日本へ帰るだろう、何のために?「行こうよ、潤の生まれたところに」彼女は言い、目を閉じるが、再び彼女の目が開くことがなかったとしたら、わたしは泣くのだろうか?泣き叫びさえ?空間を雨の音が満たし天海丹(あまのうみに)

雲之波立(くものなみたち)

月船(つきのふね)

星之林丹(ほしのはやしに)

漕隠所見(こぎかくるみゆ)数日の休暇のあと、教室に入ってきた翔をクラスメートは歓迎した。多かれ少なかれ、彼女のうわさは知っていた。わたしが言ったわけではない。にも拘らず、わたしたちの誰もが彼女がリスト・カットをしたことは知っていた。彼女の両親に言われたに違いない瑞樹と言う名の小学校時代からの同級生が、翔に付き添って教室に入ってきたとき、わたしの視線が瑞樹のはにかんだような視線とかち合った瞬間に、瑞樹は切れ長の目をかすかに逸らし、一瞬、口元だけで声も立てずに笑った。その意味は、いまだにわからない。どうしたの?「行けるかな?」Bạch が言った。死んじゃう前に。わたし。元気だった?それらの女子からの声が彼女にかけられ、浩一が囃し立てるように、翔に絡んだ。何?妊娠でもしたの?本気ではない非難の声が上がり、まばらに、連なりあう声の群れに、わたしは瞬く。やがて、わたしは翔に言葉をかけるのだった、大丈夫?振り向いたBạch に、「大丈夫」もう一度言うわたしを、彼女は見る。一時間目の授業が終わったときに、わたしの前の前を彼女が通り過ぎようとした瞬間に、え?と、翔は「何?」振り向き、え?わたし?「大丈夫?」私は言った。窓越しに日差しは差し込み、向こうにグラウンドが見えていたはずだった、彼女を背景にして。低いビルの疎らな連なりさえも。どうしたの?翔が口元で呟くのをわたしは見るが、「何?どうしたの?」わたしは、不意に、涙が流れそうになる感情のかすかな波うちを感じてはいたが、それが何なのかは理解できない。Bạch が、不思議そうに、わたしを見上げていたのは知っていた。何?まじめな顔して。心配すんなよ、わたしは「心配すんな。」言われた、わたしの声を聞く。振り向いて、Bạch  は、彼女は、わたしを見つめ「お前のこと、守ってやるから」わたしが言うのを、翔は聞いたが、無表情なまま、何、それ。声を立てて笑い、小さく、「何で?」そうしたいから。わたしは言った。守ってやりたい。お前のこと。一瞬、何も言わずに、向こうで、疎らな声の群れがやまない。Bạch が微笑む。ただ、彼女は微笑んだ。音声、そして物音が。それらが耳の中に。鼓膜が震え続けているのは知っている。「そっか。いいよ」翔は言い、微笑んでみせ、わたしは知った、もはや、彼女のことを愛してさえいたことを、

確かに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2017.10.03.-22.

Seno-Lê Ma

 

天海丹… 万葉集巻七伝柿本人麻呂

 

 

 

 

 

 


後記

これは、いくつか説明が必要です。

 

まず、この作品は先の《ブーゲンビリアの花簪》で扱った、例の事件が直接出てきます。

事情は同じです。ですから、繰り返しません。

 

次に、最初から面食らう書き方で始まって、読んでくださる人にとっては、

この小説はどうなってるんだという感じだと想うのですが、

いまさら《前衛小説》《実験小説》を書きたいのではなくて、

単純に敏感な表現様式を求めたらこうなった、ということなのです。

 

たとえば、言うに言われない微妙な心のひだとか、ちょっとした、うまくいえないけど、ほんのちょっとした、何か、…

そんな、微妙で微細で繊細で震える感情の触れ合う寸前の気配のようなもの

 

それを追いかけようとしたら、こうなったんです、という、作者としては開き直るしかない理由があるので(笑)

開き直るしかありません(笑)

 

最初に書いたヴァージョンと、明らかに様式が違いすぎてきたので、別枠でアップしています。

 

実は、この連作の中で、一番先に書いたのが、これです。

次に《ブーゲンビリアの花簪》、最後に《花々を埋葬する》だった気がします。

 

この複雑なテクストの読み方ですが、何も考えずに、

細かいこと気にせずに自由に読んで行くと、

言葉相互がなんとなく触れ合いそうで触れ合わなかったり、

邪魔しあっていたり、意外に想ってもいない効果を挙げたりと、

いろいろな風景を見せてくれるはずです。

(僕のコントロールがうまく行っていれば、ですが…)

なにも、極端に細かな意味論上の操作をしているわけではありません。

一字でも意味を取り違えたらわからなくなる系の、めんどくさいヤツですね。

好きなように、読んでください。

 

最初に言ったように、はっきりと言いきることのできない、

心のひだの、さらに息遣いのようなもの、を、捉えようとしたのです。

 

もっとも、いきなりそれから始まるのか、と、あきれる方もいるかもしれない場面から始まりますが、

文字どおり、そんな、生々しくて露骨な場面の、さまざまな《息遣い》から、はじめたかったのです。

 

実際、誰だって、その時、本当に繊細な心の動きを、誰もがしているものだ、と想うのですが、

 

…どうでしょうか?

 

 

* *

 

ところで、最近書いているのは、基本的にこれらのような、

《前衛風》といえばそうなのかもしれない感じのものなのですが、

《ナーヴァスな音色》という、これの続編、のようなものを書いてしまって。

それで、書き直しちゃった、と言うのが、改稿の理由でもあります。

 

もうちょっと、膨らませたら、新しい形でアップしようと思います。

 

ヴォリュームは、原稿用紙で、180枚~二百数十枚くらいだと思います。

…たぶん。

 

2018.05.28. Seno-Le Ma



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