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夢のさかいめ

昼寝から覚めて散歩に出た。

ぼんやり歩いていると、後ろから誰かに呼ばれたような気がした。

振り向いたら若い女が立っていた。あどけない顔をした、五十の私から見ればまだ娘だ。女は私に親し気に微笑みかけた。

「どこへ行くの?」

娘が問うた。まるで友人にでも話しかけるような口ぶりだ。

「どこというあてもないが……」

「わたしもそこまで一緒に歩くわ」

まごつく私に構わず娘は、私に並んで歩き出した。

二十歳になるかならないか。この若い女のことを、私は見覚えのあるように思った。しかしまた、それは私の勘違いのようにも思えた。

娘は軽やかだった。薄い服をひらひらさせ、踊るように靴底を鳴らした。顔立ちは特に美しいということもないが、陽気な一方でどこか気品が感じられた。私は独り身で家族はないけれど、息子でもいれば将来嫁に迎えたいと思わせるような、親しみの持てる娘だった。

「論文は進んでる?」

娘が妙なことを訊いた。

「論文?」

「やあね、例の研究よ。ついにまとまったんでしょ?」

私がわざと空とぼけたと思ったのか、娘は小さな口を尖らせて不服そうに私を見た。

私は平凡な会社勤めで研究者などではない。論文など大学を卒業して以来書いたこともない。

この娘はおかしなことを言うものだ、あるいは私を誰かほかの人と見間違っているのかもしれないなと思ったところで、はたと気づいた。

そうか!これは夢の続きだ。

昼寝から目覚めて散歩に出たと思っていたが、実はまだ私は眠っているのだ。つまりここは夢の中なのだ。

まわりをよく見まわすと、景色の輪郭が曖昧でどことなく色も暗い。隣を歩く娘の顔も、よく知っているようで知らない。それもそのはず、みんな私の夢の中の創造物であるからなのだ。

私はほっと肩の力を抜いた。そうして突拍子もないと思っていた娘の話に、調子を合わせてみる気になった。

「ああ、例の論文ね。半分書けたよ。少しくたびれたから散歩に出たのだ」

「まあ呑気なこと。発表には間に合うの?来週でしょ?」

「なあに、大丈夫さ。あと三日もあれば完成するよ」

私は口からでまかせを言った。どうせ夢の中の話だ。何の研究をしているのか知らないが、架空の話なのだから何を言ったって構わない。

自信に満ちた私に娘は笑顔を見せた。私は彼女の身の上を少し探ってみようと思った。

「君はどうなの、最近は」

「最近って学校のこと?」

娘は学生らしい。私は微笑んで頷いた。

「真面目に勉強してるわよ。サークルも楽しいし」

「何のサークル?」

「何のって……演劇に決まってるわ」

娘は信じられないというような顔をした。

「ねえちょっと様子が変よ。研究のし過ぎじゃないの?」

「そうかい?そうかもしれないね」

私は笑ってごまかした。どうやら会話が食い違っているらしい。夢の中だからそれも仕方がないのだが。

ふと娘が足を止めた。道が二手に分かれている。

「それじゃあね」

と娘は言った。まだ少し心配そうな目を私に向けたあと、彼女は右の道を颯爽と歩いていった。

私は彼女の正体が知りたかった。どうもやはり見知った顔のような気がするのだ。追ってみようかと思った。けれども娘の足は早く、見る間に姿が見えなくなった。私は娘を諦めて、左の道を歩み進めた。

 

しばらく行くと、後ろからまた声をかけられたように思った。

振り返ると背の高い青年が立っていた。

「散歩ですか?」

「え?ああ、まあ……」

「息抜きも必要ですね」

男は私の隣につき、一緒にゆっくりと歩き出した。

この若い男のことを、私はよく知っているように思った。しかしまた、全然知らない人にも見える。

男はきれいなスーツを着て、趣味の良いネクタイを締めていた。手には重そうな革鞄を提げている。

「どうですか、論文のほうは?いよいよ発表も間近ですね」

また論文だ。夢の中で、私は一体何を研究しているというのだろう。

眉根を寄せた私の表情を、男は勘違いしたようだった。

「いや、すみません。つい余計なことを言ってしまった。僕のような新米が首を突っ込むことではありませんでした。連日連夜の執筆でお疲れだというのに。無礼をお許しください」

男があまり丁寧に詫びるので、私は却って恐縮した。

「なに、そんな気遣いはなさらんでください。論文は順調。あと三日で仕上がりますよ」

私は先ほど娘に言ったのと同じことを言った。

「そうですか、それはよかった」

男は安心したように笑った。良い笑顔だ。背筋がぴんと伸びている。好感の持てる青年だった。

「ところで君はどちらへ?今から何か仕事の約束でも?」

男の持つ革鞄に目をやりながら、私は男にそう尋ねた。

「ええ、このあとちょっと」

と男は言った。そして自分の手首を上げ、腕時計を見た。

「急がないと。お姿を見かけたのでつい話しかけてしまいました。どうぞゆっくり散歩の続きを楽しんでください」

失礼しますと頭を下げた。実に晴れやかな笑顔を残し、踵を返すと男は元来た道を足早に戻っていった。

 

私はまた一人になって、あてもなく歩き続けた。

長い夢だ。一体いつ終わるのだろう。

もうそろそろ散歩にも飽きてきた。腹も減った。現実の私の腹が、眠りながら鳴っているのかもしれない。

早く夢から覚めたいと思った。何とかして起きられないだろうか。

気が急いてきたところへ、細道を向こう側から歩いてくる女があった。着物を着て、日傘を差している。どうも自分に向かって来るようだと思った。

大分近づいてきたところで、女はやはり私に声を掛けてきた。

「あら、どうなさったの?こんなところで。お散歩ですか?」

にこやかに微笑んでいる。誰だろう。思い出せない。日がずいぶん傾いてきた。

女は当然のような顔をして、私の隣をちょこちょこと歩いた。白粉だろうか、甘い香りが私の鼻孔をくすぐる。

女は耳ざわりの良い声でよく喋った。私は適当に話を合わせながら、女をちらちら盗み見た。顔立ちといい体つきといい、実に魅力的だ。

気がつくと私は女の家にいた。急な場面転換は、夢の中ではよくある話だ。

客間のようだった。黒檀の広い机の上に、酒と肴が美しく並べられている。

女が差し向かいに座っていた。私はもう酒に酔っていた。女が楽しげに笑っている。

私たちは次々と杯を重ねた。女がいつの間にか私の隣にいて、時々しなだれかかるような真似をする。

女の傾ける徳利からは、際限なく酒が出てくるようだった。

「わたしもずいぶん年を取りましたわ」

と女は言った。酔うとなお妖艶さが増した。

「何を言うんだ。君は十分若いじゃないか」

「だってあなた。娘はもう二十歳ですよ」

私は驚いて女を見た。まだせいぜい三十ぐらいに思える。

「まさか。とてもそんな風には見えない。君は若いし、とても綺麗だ」

女は瞼の重そうな目で、私の顔をぼんやりと眺めた。

「めずらしいわ。あなたがそんな冗談をおっしゃるなんて」

「冗談なんかじゃない。本気だよ僕は」

女は艶のある唇で笑みを作ると、私の手の甲を軽くつねった。そうしていよいよだらしなく、私の肩に凭れかかってきた。私は何の遠慮もなく、柔らかな女の肩を抱き寄せた。

「ねえ先生。わたしとっても幸せよ」

「僕もさ」

女はますます私に体を押しつける。

「娘も順調に育ったし」

言いながら女は袂から写真を一枚取り出した。

「もうすっかり一人前」

私は写真を覗き込んだ。あっと思わず声を上げるところだった。先ほど往来で私に親しげに話しかけてきた、若い娘の顔がそこにはっきりと写っていたのだ。

「君の娘さんかい?」

女はまた重い睫毛を押し上げて私を見た。

「おかしなことをお聞きになるのね」

私は焦った。また失言したらしい。

「いや、あまり似てないからさ」

私は何とかごまかそうとした。

「似てないって誰と?」

「無論君だよ」

「そりゃそうよ。あの子は父親に似たもの」

「父親に?」

「あなたもそう思うでしょう?」

「さあ、僕にはわからないな。君のご主人を僕は知らないから」

私の言葉を聞くなり、女は大きな声を出して笑った。

「まあ、あなたはさっきから冗談ばっかり」

女は高らかに笑い続けた。

「嫌ですよ、本当に。あの子の父親はあなたじゃないの」

 

遠くから誰かが呼んでいる。

はっとして目が覚めた。

「お父さん、迎えの車が来てるってば!」

私は書斎のソファに横たわっていた。ひらひらした服を着た若い娘が、私の顔を心配そうに覗き込んでいる。

「すごい汗よ。大丈夫?」

娘が渡してくれたハンカチで、私は額の汗を拭った。

「もうすぐ12時よ。1時からでしょう?発表」

私は娘にせき立てられるように、ソファから起き上がった。頭がふらふらする。

「あなた、お急ぎにならないと」

部屋の入口に、和装姿の女が不安げな顔つきで立っていた。

階段を下りると、玄関に背の高い青年が待っていた。きれいなスーツに趣味の良いネクタイ。

「資料と着替えは車に用意してあります」

青年に促されて、私は車の後部座席に乗り込んだ。車はすぐに発進した。

「30分でホテルに着きます。資料は教授の横に」

見ると赤いファイルが1冊、シートの上に置いてあった。私はそれに手を伸ばし、表紙をめくった。

何かの記号らしきものが、ずらずらと並んでいた。間違いなく私の字だ。一体何だろう、これは。さっぱり意味がわからない。私はまだ夢の中にいるのか。

「教授、ホテルに着くまでどうぞしばらくお休みください」

運転席から声がかかった。

「ゆうべも遅くまで準備をなさっていたのでしょう?何しろ歴史的な快挙ですからね。世界中の天才的な数学者が決して解けなかったあの難解な数式を、教授がついに解明されたのです!」

数式?解明?この男は一体何の話をしているのだ?

「教授の功績とお名前は世界中に知れ渡り、歴史に深く刻まれることでしょう。その瞬間がもうすぐそこに迫っている。ですから教授、いまはどうぞゆっくり目を閉じて、少しでも体を休めてください。ホテルに着いたら起こしますから」

 

ーー1週間後。

病院で意識を取り戻したある数学者の容体が、全世界に向けて報道された。

「ホテルから緊急入院となった数学者A氏についての続報です。

主治医によるとA氏は命に別状なく、身体的には順調に回復しているとのことです。ただ<自分は一般的な会社員であり、数学の高度な知識など持っていない>などという主張を繰り返し、実際にA氏が解明したことを発表する予定だった数式を見せてもこれといった反応は示さず、ただの記号にしか見えないと話している模様です。

また結婚をしたことは一度もないとも述べており、妻や子の判別もついていないとの情報です。A氏の意識がなぜこのように突然混濁したのか原因はいまのところ全く不明で、今後慎重に解明を進めたいと病院側は語っています」

 


オセロ

 Yと僕が二人でいると、よく兄弟に間違えられた。容姿や雰囲気がどことなく似ているらしかった。

 中学生からの付き合いが、十五年ほど続いていた。別々の大学に進み、社会人になってからは、互いの行き来が減り始めた。久しぶりに連絡を取ってみようかと思った矢先、Yのおばさんから電話があった。そこで僕は、Yの意外な近況を知らされた。

 

 

 

 

 仕事帰りに、僕はYの家へ立ち寄った。おばさんがいつものように笑顔で出迎えてくれた。

 Yの自室に通された。布団の中で、Yは静かに眠っていた。

 彼は病気を患っていた。こうして伏せって一ヶ月になる。よほど重体だという話だった。

 病名は特定されていなかった。はっきりした原因は医者にもわからず、ただ体が日に日に衰えていくのらしい。病院では手の施しようがないため、自宅で安静にしているのだった。

 Yの寝顔はまるで老人のようだった。頰の肉が落ち、すっかり痩せ細っていた。眼窩は窪み、皺の多い瞼の縁から、乾いた睫毛が弱々しく震えていた。布団から伸びた点滴の細い管が、一層痛々しく僕の目に映った。

 僕はおばさんに励ましの言葉をかけて、Yの家を後にした。

 Yを見舞うのは辛かった。それでも僕は、週に一度は彼を訪ねるようにしていた。

 家には母子が二人で暮らしている。一人息子を懸命に看病しているおばさんを、僕は少しでも勇気づけたかった。

 

 

 

 三日後、おばさんから電話があった。Yが僕に会いたがっているという。僕は仕事を早めに切り上げると、急いでYの家に向かった。

 Yは眠っていた。起こそうとするおばさんを僕は止めた。

「夕方突然目を開けてね。しきりにあなたに会いたいって言うものだから」

 僕は翌日も翌々日も、仕事帰りにYを見舞った。Yはやはり眠っていた。昼間は目覚めることもあるという。

「週末の休みにまた来ます。陽の高いうちに」

 僕はおばさんにそう約束した。

 

 

 

 土曜日の昼過ぎに、僕はYの家を訪ねた。

 Yはこのときも眠っていた。

「気長に待ちますよ」

 気の毒がるおばさんに、僕は笑顔を見せた。

 本棚の中から手頃な本を拝借し、Yの寝床のそばで読んだ。時々寝顔を確かめながら、本を読み進めていくうちに、陽が傾きだした。

 僕は本を閉じてYの枕元に座った。

 彼はよく眠っていた。レースのカーテン越しに、西日が彼の胸元を照らしていた。そのせいだろう、彼の顔色がいつもよりよほど明るく見えた。げっそりした頰にも少し、膨らみが戻ったように感じられた。目の錯覚だとわかっていても、僕には嬉しかった。

 日が暮れたら帰るつもりでいたが、このままYと別れるのは何だか惜しいような気がした。目を開けなくてもいい、話ができなくても構わないから、もう少し彼と一緒にいたいと僕は思った。

 僕がそう言うと、おばさんはとても嬉しそうに笑った。

「夕飯用意するわ。何なら今日は泊まっていって。あなたさえよければ」

 おばさんの本来の陽気な性格を、僕は久しぶりに思い出した。食卓でもおばさんはよく喋った。Yや僕がまだ学生だった頃の思い出話を持ち出しては、懐かしそうに目を細めた。

 勧められて入った風呂から上がると、パジャマが畳んで置いてあった。袖を通した僕の姿に、おばさんは目を潤ませた。

「まあ本当に、あの子によく似て……」

 おばさんの涙声に、僕の目頭も熱くなった。

 もしもYがいなくなってしまっても、時々僕はこの家に来よう。そうしておばさんと他愛のない話をしよう。心の中でそう強く思った。

 おばさんは僕の床を、Yの部屋の隣室に用意してくれた。いつもはその部屋におばさんが眠って、夜中でも襖を開ければYの様子が見られるようにしているらしい。

「わたしは今日は下で寝るから、もし何かあったらいつでも声を掛けてちょうだいね」

 そう言っておばさんは階段を降りていった。

 僕は部屋の電気を消して、布団に横になった。すぐ隣の部屋にYが眠っているのだと思うと、不思議な気持ちがした。

 枕元のスタンドの小さな明かりを頼りに、夕方読んでいた本の続きを読んだ。ページをめくるうちに、瞼が少しずつ重たくなってきた。本を持つ手から力が抜け、そのまま僕は眠ってしまった。

 

 

 

 ガタン!

 と大きな音がした。

 僕は驚いて目を覚まし、布団の上に起き上がった。

 枕元のスタンドがついたままになっていた。置き時計の針が見える。午前二時過ぎ。

 音は隣室から聞こえたような気がした。僕は襖の取っ手に手を掛けた。一瞬のためらいのあと、僕は襖をゆっくりと開いた。

 Yの寝顔がぼんやりと見えた。夕方の西日のかわりに、いまは月明かりがYの胸元を淡く照らしていた。カーテンが開いている。おばさんが閉め忘れたのだろうか。しかしよく見ると、窓そのものが開いているのだった。

 閉めようとしてYの布団の足元まで来たときに、ふと僕はYの顔を見た。

 月明かりに浮かび上がるYの顔。

 ギョッとした。

 目が開いている。

 大きな目が開いて、僕の顔をじっと見ている。

 その場を動けずにいる僕の背中が、何かに強く押された。はずみで僕の体は、Yの布団へ倒れ込んだ。

 咄嗟に手をつき、顔を上げた。

 すぐ目の前に、Yの顔があった。

 Yの目が僕を見ている。

 艶のある、黒々とした長い睫毛に縁取られた、大きな目が僕を見ている。

「待っていたよ」

 血の色をした赤い唇が笑った。

 ふっくらとした頰。

 生き生きと光る白い歯列。

 次の瞬間。

 

 

 

 僕は布団の中にいた。

 布団の中から、僕の顔を覗き込むYの姿を見上げていた。

 Yが僕の枕元にしゃがんだ。

 指先が僕の頰に触れる。

「可哀想に。こんなにやつれて」

 身体中がだるい。力が入らない。瞼が重い。

 誰か女の人の声が聞こえた。

「点滴はどうしようかね。外そうか?」

 Yの手が、僕の頰から離れたのがわかった。

「このままでいいよ」

 Yの声が遠くに聞こえる。

 

「どうせすぐなくなる」


白い女

 妻が温泉へ行くと言う。土曜の朝を私は心待ちに迎えた。

「靴下が見つからないぐらいの用で、連絡しないでくださいよ」

 玄関先で見送る私に、妻は宿の電話番号を記したメモを手渡した。

「俺のことは気にしないで、明日までゆっくりしておいで」

 妻は機嫌よく家を出た。

 私は両手を上げて大きな伸びをした。

 さあこれで今日一日、一人でのんびり過ごすことができる。私は早速脱いだパジャマを着なおして、ベッドの中に潜り込んだ。

 妻との暮らしを気詰まりに感じ始めたのは、いつ頃だろうか。息子が巣立つと、途端に私にまとわりつくようになった。仕事が休みの週末など、何かにつけて世話を焼きたがる。あれこれ話しかけてくるので、静かに読書もできない。

 部屋数が少ないため、私には自室がない。息子の部屋は妻が寝室に使っている。ダイニングでは落ち着かないし、リビングは妻がしょっちゅう行き来する。唯一自分の寝床だけが、いつしか私の城になった。

 休みの日にいつまでも起きないと、妻が何度も声をかけに来る。それで渋々床を離れるのだが、今日はうるさい相手がいない。好きなだけ眠れるし、存分に本が読めるのだ。

 布団の中で寝たり覚めたりを繰り返し、やっと起き出して時計を見たら、もう夕方になっていた。服を着替え、少し散歩でもしようかと玄関に向かったところでチャイムが鳴った。ドアを開けたが、誰もいない。外に出て通りを見渡したが、人の姿はなかった。

 何となく散歩に行く気がそがれて、私は家の中に戻った。突然腹が鳴った。朝から何も食べていないことを、私は思い出した。途端に強い空腹感が私を襲った。

 冷蔵庫に何もなければ、買い出しに行こうと決めた。私は廊下からリビングに入り、ダイニングのほうへ向かった。

 ふと足を止めた。

 奥からいい匂いがする。

 甘辛い、煮物のような。

 小さな物音も聞こえる。

 妻が帰っているのだろうか?私は急に不安になった。

 旅行が突然中止になったのか?先ほどのチャイムは妻が鳴らした?

 私は息を潜め、台所をこっそり覗いた。

 女がいる。顔は見えない。花柄のエプロンの、リボン結びが目に入った。後ろに丸くまとめた髪。細い首。

 ふっとこちらを振り向いた。

 色の白い、若い女だ。

 無論、妻ではない。

「あら」

 と女が微笑んだ。

「もうすぐできますからね。お部屋でお待ちになって」

 女があまり親しげに話しかけるので、つい私も曖昧に笑った。美しい女だ。それに今、私はとても腹が減っている。

 私はリビングのソファに座った。部屋で待てと言われても、ここしか場所がない。新聞を広げていると、やがて女が大きな盆を持って現れた。

 料理の乗った皿を女は次々とテーブルに置いた。すべてが並ぶと女は私に向かって

「どうぞごゆっくり」

 と声をかけ、静かに立ち去った。

 テーブルの上の料理に、私は目は吸い寄せられた。マグロの刺身、豚の角煮、天ぷらの盛り合わせ。私の好物ばかりだ。

 日頃妻から脂を控えたものを食わされているため、久し振りのこってりした料理は私の食欲を恐ろしく刺激した。早速箸を取ると、私は無我夢中で食べ始めた。

 すっかり満腹になったところで、また女がやって来た。空になった皿を片付けると、湯気の立った湯飲みを私の前に置いた。小さな白い手。長く伸びた細い指。

 私が女を見上げると、女はにこりと微笑んで、台所へと姿を消した。

 腹が満たされて、いつの間にか眠ったらしい。ソファに横たわる私の体には、ブランケットが掛けられていた。

 私は女を探したが、どこにも見当たらなかった。台所にもいない。夢でも見ていたのだろうか。

 立ったついでに風呂の湯を沸かそうとして、後ろから声をかけられた。先ほどの女だ。

「どうぞお入りになって。ちょうどいいお湯加減」

 私は風呂に入った。私の好きな、少し熱めの温度だった。

 風呂から上がると、リビングのテーブルにはよく冷えたビールと、ちょうど読みたいと思っていた本が置かれていた。私はまた女を探した。どこにもいない。

 しばらくして寝室に入ったら、ベッドの枕元に私好みの薄暗い照明が灯っていた。そうして部屋の中には、何とも言えぬいい香りがほのかに漂っていた。

 翌朝、目覚めてリビングへ行くと、テーブルに朝食が用意されていた。艶やかな白い米と、焼き魚に濃いめの味噌汁。

 食い終わった頃に女が来た。

「お休みなのに早起きですね。どうぞゆっくりなさって」

 テーブルを片付けると、女は台所に向かった。

 私はその日も何度か女を探したが、どこで何をしているのか、一向姿が見えなかった。

 それなのに、私が腹が減ったと思う頃に美味い料理を持って来て、そろそろ風呂にでも入ろうかと思えば支度ができている。風呂上がりのビールも、寝室の整い方も、ゆうべと全く同じだった。

 その晩、旅行から戻るはずだった妻は、なぜか帰ってこなかった。

 

 

 

 次の朝、私は女の用意した朝食を食べ、女の作った弁当を持って会社へ行った。

 昼休みに妻から渡されたメモの番号へ電話をかけたが、どこにも通じなかった。宿の名前は聞かなかったし、連れがいるのか、その素性もわからない。

 仕事を終え、もしかしたらもう帰っているかもしれないと思いながらドアを開けたら、玄関先に私を迎えたのは、妻ではなく女だった。

 夕飯の味付け、風呂の湯加減、寝室の心地よさ。この日もやはりすべてが私の望み通りだった。タイミングも完璧だ。これだけ世話を焼いてくれるのに、女の振る舞いは実に静かである。押しつけがましいところがない。

 妻はとうとうその夜も戻らなかった。

 翌朝、私が台所を覗くと、女が卵を割っていた。

「あら、おはようございます」

 私に気づいた女が、振り向いて微笑んだ。

「おはよう」

 と私も応えた。

「何かご用?」

 と女が訊く。

「いや、今朝のおかずは何だろうと思ってね」

「オムレツよ。今朝は洋風なの」

 女が可愛い目で私を見上げる。

 女に対する私の親しみは、急速に増していった。妻を心配する気持ちが日に日に薄れ、代わりに女の存在が私の中で大きく育つ。もっと女と一緒にいたいと思うようになった。ただ私に仕えるのでなく、私の相手になってほしい。

 ある晩、いつものようにリビングのテーブルへ料理の皿を並べる女に向かって私は言った。

「君も一緒にここで食べないか?」

 女は驚いたような顔をした。

「ご一緒してよろしいんですか?」

 勿論だというふうに私が頷くと、女は自分の食事を台所から運んできた。そうしてソファの私の隣に腰掛け、私のグラスにビールを注いだ。

 何日か過ぎた頃、私は女に思い切った提案をした。寝室を一つにしたい。離れて寝るのは寂しいからと。

「でもそれは……」

 女はためらった。

「嫌ならいいんだ」

 私は慌てて話題を変えた。

 その夜ベッドで本を読んでいると、カチャッとドアの開く音がした。薄暗い照明の中に、女の寝間着姿が浮かんだ。私が手を差し伸べると、女は黙って私のほうへ近づいてきた。女の体の重みでベッドが軋んだ。

 いつもは後ろで丸くまとめてある髪がほどかれて、胸のあたりまで落ちている。こうして間近に見ると、女はずいぶん若かった。

 薄暗い明かりの中でも、女の肌の白さがわかった。その白く滑らかな肌の上を、女の黒髪が絹糸のように流れた。

 

 

 

 旅行からひと月経っても、妻は帰ってこなかった。私はもうとっくに、妻を待つ気を失くしていた。

 私にとって、今や女が全てだった。控えめで優しく、可愛い女。私だけを見てくれる、理想の女。

 この頃ずいぶん若返ったと、会社でも言われるようになった。皆からのやっかみ半分の賞賛を、私は笑って受け流した。

 初めのうちはそうしてからかわれているだけだったのが、そのうち皆の様子が違ってきた。私から距離を置き、どこか不思議そうに私を見るのである。親しい同僚が、ある日私に妙なことを言った。

「若返るのは結構だが、この頃少し度が過ぎるぞ」

 意味がわからずに聞き返すと、彼はこんなことを口にした。

「さっきの会議でも、反対意見を言われてひどく怒っただろう。そうかと思うとちょっと褒められただけで大はしゃぎをする。喜怒哀楽が大袈裟なんだ。ほかの皆も対応に困ってるぞ。おまえもいい歳なんだし、もう少し落ち着いたらどうだ」

 そんなふうに言われても、私には思い当たることが全くなかった。部下を持つ上司として十分落ち着いているつもりだし、元々私は感情を表に出すタイプではない。

 それからもごく当たり前に、常識的な社会人として振る舞っているつもりだったが、私の勤務態度に問題があるというので、とうとう上司から呼び出しを受けた。

「君、近頃大丈夫か?何か悩みでもあるのか?」

 上司の顔つきは深刻だった。しかし私に悩みなどない。

「君が作ったこの書類も、誤字脱字が目立っている。君は仕事ができる男だと思っていたがね」

 それはパソコンのせいだ。漢字の変換がうまくできないんだ。

「昨日の会議でも、自分の意見が通らずにいきなり泣き出したじゃないか」

 だって悔しかったんだ。僕の言うことを誰も聞いてくれないから。

「仕事に集中できないような事情が何かあるのじゃないか?」

 集中なんてできない。仕事はちっともおもしろくないもの。

「私に言いにくいことがあるなら、会社のカウンセラーに話を聞いてもらったらどうだ。少しは気持ちが落ち着くだろう」

 そんなものいらない。さっきから何なんだ、こいつ。変なことばかり言うやつだ。それにしつこい。

「ともかく君ね、少し休みなさい。今日は早退していいから。明日から三連休だし、家族とゆっくり過ごすといい」

 一礼した私は、こみ上げる喜びを抑えることができなかった。

 やった!家に帰ることができる!もうすぐ女に会える!

 意気揚々と帰り支度をすると、皆が奇異な目を向けるのにも構わず、私は会社を飛び出した。電車がまどろっこしい。私はタクシーに手を上げた。

 早い時間に帰宅した私を、女はいつも通り笑顔で迎えてくれた。上司の執拗な尋問にまだ腹を立てていた私は、すべてを女に洗いざらい話した。

「ねえ、どう思う?」

「どうって別に、気にすることないわ。あなたはいつもの可愛いあなたよ」

「そうだよね、気にすることないよね!」

 女の言葉にすっかり安心した私は、ソファに並んで座る女の柔らかな膝に頭を預けた。女の白くて細い指が、私の髪を優しく梳く。

「今日の晩ごはん、なあに?」

「あなたの大好きなハンバーグ」

「やった!」

「でもその前に、お腹が空いたでしょう?ほら、ちょうどおやつの時間」

 私は壁時計を見上げた。針が三時を指している。女がビスケットとミルクを用意してくれた。動物の形をしたビスケット。ぞうさん、うさぎさん、アヒルさん……。

 

 

 

 気がつくと私はソファに一人だった。

 女の座っていた場所に何か落ちている。取り上げてみるとそれは、一枚の古い写真だった。

 女の顔が写っている。腕に抱かれた赤ん坊。

 ああ、そうだ。

 私はすっかり思い出した。

 小学校を卒業するとき、祖母が私に持たせてくれた写真だ。おまえの母さんだと言って。おまえには母の記憶がないだろうから、せめてこの写真を持っていておくれと。

 長い間大切にしまっておいたはずなのに、いつの間にかどこかへ紛れてしまった。

 こんなところにあったんだな。こんなソファの上に。

 今度こそ大切にしまっておかなくっちゃ。

 ガチャンと玄関の開く音が聞こえた。

 旅行鞄を提げた妻が、リビングへ入ってきた。

「ああ、疲れた。途中でバスが渋滞したけど、予定通りに帰ってこられてよかったわ」

 テーブルの上のビスケットとミルクを、妻が怪訝そうに見た。

「あなた、こんなもの食べてたの?」

 返事をしようと私は口を開けた。

「んまあま」

 

 赤ん坊の声だった。

 


この本の内容は以上です。


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