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白い女

 妻が温泉へ行くと言う。土曜の朝を私は心待ちに迎えた。

「靴下が見つからないぐらいの用で、連絡しないでくださいよ」

 玄関先で見送る私に、妻は宿の電話番号を記したメモを手渡した。

「俺のことは気にしないで、明日までゆっくりしておいで」

 妻は機嫌よく家を出た。

 私は両手を上げて大きな伸びをした。

 さあこれで今日一日、一人でのんびり過ごすことができる。私は早速脱いだパジャマを着なおして、ベッドの中に潜り込んだ。

 妻との暮らしを気詰まりに感じ始めたのは、いつ頃だろうか。息子が巣立つと、途端に私にまとわりつくようになった。仕事が休みの週末など、何かにつけて世話を焼きたがる。あれこれ話しかけてくるので、静かに読書もできない。

 部屋数が少ないため、私には自室がない。息子の部屋は妻が寝室に使っている。ダイニングでは落ち着かないし、リビングは妻がしょっちゅう行き来する。唯一自分の寝床だけが、いつしか私の城になった。

 休みの日にいつまでも起きないと、妻が何度も声をかけに来る。それで渋々床を離れるのだが、今日はうるさい相手がいない。好きなだけ眠れるし、存分に本が読めるのだ。

 布団の中で寝たり覚めたりを繰り返し、やっと起き出して時計を見たら、もう夕方になっていた。服を着替え、少し散歩でもしようかと玄関に向かったところでチャイムが鳴った。ドアを開けたが、誰もいない。外に出て通りを見渡したが、人の姿はなかった。

 何となく散歩に行く気がそがれて、私は家の中に戻った。突然腹が鳴った。朝から何も食べていないことを、私は思い出した。途端に強い空腹感が私を襲った。

 冷蔵庫に何もなければ、買い出しに行こうと決めた。私は廊下からリビングに入り、ダイニングのほうへ向かった。

 ふと足を止めた。

 奥からいい匂いがする。

 甘辛い、煮物のような。

 小さな物音も聞こえる。

 妻が帰っているのだろうか?私は急に不安になった。

 旅行が突然中止になったのか?先ほどのチャイムは妻が鳴らした?

 私は息を潜め、台所をこっそり覗いた。

 女がいる。顔は見えない。花柄のエプロンの、リボン結びが目に入った。後ろに丸くまとめた髪。細い首。

 ふっとこちらを振り向いた。

 色の白い、若い女だ。

 無論、妻ではない。

「あら」

 と女が微笑んだ。

「もうすぐできますからね。お部屋でお待ちになって」

 女があまり親しげに話しかけるので、つい私も曖昧に笑った。美しい女だ。それに今、私はとても腹が減っている。

 私はリビングのソファに座った。部屋で待てと言われても、ここしか場所がない。新聞を広げていると、やがて女が大きな盆を持って現れた。

 料理の乗った皿を女は次々とテーブルに置いた。すべてが並ぶと女は私に向かって

「どうぞごゆっくり」

 と声をかけ、静かに立ち去った。

 テーブルの上の料理に、私は目は吸い寄せられた。マグロの刺身、豚の角煮、天ぷらの盛り合わせ。私の好物ばかりだ。

 日頃妻から脂を控えたものを食わされているため、久し振りのこってりした料理は私の食欲を恐ろしく刺激した。早速箸を取ると、私は無我夢中で食べ始めた。

 すっかり満腹になったところで、また女がやって来た。空になった皿を片付けると、湯気の立った湯飲みを私の前に置いた。小さな白い手。長く伸びた細い指。

 私が女を見上げると、女はにこりと微笑んで、台所へと姿を消した。

 腹が満たされて、いつの間にか眠ったらしい。ソファに横たわる私の体には、ブランケットが掛けられていた。

 私は女を探したが、どこにも見当たらなかった。台所にもいない。夢でも見ていたのだろうか。

 立ったついでに風呂の湯を沸かそうとして、後ろから声をかけられた。先ほどの女だ。

「どうぞお入りになって。ちょうどいいお湯加減」

 私は風呂に入った。私の好きな、少し熱めの温度だった。

 風呂から上がると、リビングのテーブルにはよく冷えたビールと、ちょうど読みたいと思っていた本が置かれていた。私はまた女を探した。どこにもいない。

 しばらくして寝室に入ったら、ベッドの枕元に私好みの薄暗い照明が灯っていた。そうして部屋の中には、何とも言えぬいい香りがほのかに漂っていた。

 翌朝、目覚めてリビングへ行くと、テーブルに朝食が用意されていた。艶やかな白い米と、焼き魚に濃いめの味噌汁。

 食い終わった頃に女が来た。

「お休みなのに早起きですね。どうぞゆっくりなさって」

 テーブルを片付けると、女は台所に向かった。

 私はその日も何度か女を探したが、どこで何をしているのか、一向姿が見えなかった。

 それなのに、私が腹が減ったと思う頃に美味い料理を持って来て、そろそろ風呂にでも入ろうかと思えば支度ができている。風呂上がりのビールも、寝室の整い方も、ゆうべと全く同じだった。

 その晩、旅行から戻るはずだった妻は、なぜか帰ってこなかった。

 

 

 

 次の朝、私は女の用意した朝食を食べ、女の作った弁当を持って会社へ行った。

 昼休みに妻から渡されたメモの番号へ電話をかけたが、どこにも通じなかった。宿の名前は聞かなかったし、連れがいるのか、その素性もわからない。

 仕事を終え、もしかしたらもう帰っているかもしれないと思いながらドアを開けたら、玄関先に私を迎えたのは、妻ではなく女だった。

 夕飯の味付け、風呂の湯加減、寝室の心地よさ。この日もやはりすべてが私の望み通りだった。タイミングも完璧だ。これだけ世話を焼いてくれるのに、女の振る舞いは実に静かである。押しつけがましいところがない。

 妻はとうとうその夜も戻らなかった。

 翌朝、私が台所を覗くと、女が卵を割っていた。

「あら、おはようございます」

 私に気づいた女が、振り向いて微笑んだ。

「おはよう」

 と私も応えた。

「何かご用?」

 と女が訊く。

「いや、今朝のおかずは何だろうと思ってね」

「オムレツよ。今朝は洋風なの」

 女が可愛い目で私を見上げる。

 女に対する私の親しみは、急速に増していった。妻を心配する気持ちが日に日に薄れ、代わりに女の存在が私の中で大きく育つ。もっと女と一緒にいたいと思うようになった。ただ私に仕えるのでなく、私の相手になってほしい。

 ある晩、いつものようにリビングのテーブルへ料理の皿を並べる女に向かって私は言った。

「君も一緒にここで食べないか?」

 女は驚いたような顔をした。

「ご一緒してよろしいんですか?」

 勿論だというふうに私が頷くと、女は自分の食事を台所から運んできた。そうしてソファの私の隣に腰掛け、私のグラスにビールを注いだ。

 何日か過ぎた頃、私は女に思い切った提案をした。寝室を一つにしたい。離れて寝るのは寂しいからと。

「でもそれは……」

 女はためらった。

「嫌ならいいんだ」

 私は慌てて話題を変えた。

 その夜ベッドで本を読んでいると、カチャッとドアの開く音がした。薄暗い照明の中に、女の寝間着姿が浮かんだ。私が手を差し伸べると、女は黙って私のほうへ近づいてきた。女の体の重みでベッドが軋んだ。

 いつもは後ろで丸くまとめてある髪がほどかれて、胸のあたりまで落ちている。こうして間近に見ると、女はずいぶん若かった。

 薄暗い明かりの中でも、女の肌の白さがわかった。その白く滑らかな肌の上を、女の黒髪が絹糸のように流れた。

 

 

 

 旅行からひと月経っても、妻は帰ってこなかった。私はもうとっくに、妻を待つ気を失くしていた。

 私にとって、今や女が全てだった。控えめで優しく、可愛い女。私だけを見てくれる、理想の女。

 この頃ずいぶん若返ったと、会社でも言われるようになった。皆からのやっかみ半分の賞賛を、私は笑って受け流した。

 初めのうちはそうしてからかわれているだけだったのが、そのうち皆の様子が違ってきた。私から距離を置き、どこか不思議そうに私を見るのである。親しい同僚が、ある日私に妙なことを言った。

「若返るのは結構だが、この頃少し度が過ぎるぞ」

 意味がわからずに聞き返すと、彼はこんなことを口にした。

「さっきの会議でも、反対意見を言われてひどく怒っただろう。そうかと思うとちょっと褒められただけで大はしゃぎをする。喜怒哀楽が大袈裟なんだ。ほかの皆も対応に困ってるぞ。おまえもいい歳なんだし、もう少し落ち着いたらどうだ」

 そんなふうに言われても、私には思い当たることが全くなかった。部下を持つ上司として十分落ち着いているつもりだし、元々私は感情を表に出すタイプではない。

 それからもごく当たり前に、常識的な社会人として振る舞っているつもりだったが、私の勤務態度に問題があるというので、とうとう上司から呼び出しを受けた。

「君、近頃大丈夫か?何か悩みでもあるのか?」

 上司の顔つきは深刻だった。しかし私に悩みなどない。

「君が作ったこの書類も、誤字脱字が目立っている。君は仕事ができる男だと思っていたがね」

 それはパソコンのせいだ。漢字の変換がうまくできないんだ。

「昨日の会議でも、自分の意見が通らずにいきなり泣き出したじゃないか」

 だって悔しかったんだ。僕の言うことを誰も聞いてくれないから。

「仕事に集中できないような事情が何かあるのじゃないか?」

 集中なんてできない。仕事はちっともおもしろくないもの。

「私に言いにくいことがあるなら、会社のカウンセラーに話を聞いてもらったらどうだ。少しは気持ちが落ち着くだろう」

 そんなものいらない。さっきから何なんだ、こいつ。変なことばかり言うやつだ。それにしつこい。

「ともかく君ね、少し休みなさい。今日は早退していいから。明日から三連休だし、家族とゆっくり過ごすといい」

 一礼した私は、こみ上げる喜びを抑えることができなかった。

 やった!家に帰ることができる!もうすぐ女に会える!

 意気揚々と帰り支度をすると、皆が奇異な目を向けるのにも構わず、私は会社を飛び出した。電車がまどろっこしい。私はタクシーに手を上げた。

 早い時間に帰宅した私を、女はいつも通り笑顔で迎えてくれた。上司の執拗な尋問にまだ腹を立てていた私は、すべてを女に洗いざらい話した。

「ねえ、どう思う?」

「どうって別に、気にすることないわ。あなたはいつもの可愛いあなたよ」

「そうだよね、気にすることないよね!」

 女の言葉にすっかり安心した私は、ソファに並んで座る女の柔らかな膝に頭を預けた。女の白くて細い指が、私の髪を優しく梳く。

「今日の晩ごはん、なあに?」

「あなたの大好きなハンバーグ」

「やった!」

「でもその前に、お腹が空いたでしょう?ほら、ちょうどおやつの時間」

 私は壁時計を見上げた。針が三時を指している。女がビスケットとミルクを用意してくれた。動物の形をしたビスケット。ぞうさん、うさぎさん、アヒルさん……。

 

 

 

 気がつくと私はソファに一人だった。

 女の座っていた場所に何か落ちている。取り上げてみるとそれは、一枚の古い写真だった。

 女の顔が写っている。腕に抱かれた赤ん坊。

 ああ、そうだ。

 私はすっかり思い出した。

 小学校を卒業するとき、祖母が私に持たせてくれた写真だ。おまえの母さんだと言って。おまえには母の記憶がないだろうから、せめてこの写真を持っていておくれと。

 長い間大切にしまっておいたはずなのに、いつの間にかどこかへ紛れてしまった。

 こんなところにあったんだな。こんなソファの上に。

 今度こそ大切にしまっておかなくっちゃ。

 ガチャンと玄関の開く音が聞こえた。

 旅行鞄を提げた妻が、リビングへ入ってきた。

「ああ、疲れた。途中でバスが渋滞したけど、予定通りに帰ってこられてよかったわ」

 テーブルの上のビスケットとミルクを、妻が怪訝そうに見た。

「あなた、こんなもの食べてたの?」

 返事をしようと私は口を開けた。

「んまあま」

 

 赤ん坊の声だった。

 


この本の内容は以上です。


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