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永遠、死、自由 Ⅴ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠、死、自由

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

走って逃げ去る穢死丸の後姿を見た気がした。両目は潰れたままに、音響だけがその視覚の記憶を作ったにすぎない。二つに引き裂かれた腹から血が噴き出して、わたしは死なない。やがて、まだ未成熟な下半身で、よたつきながら身を起こす。自分の、そして穢死丸の血で汚れた衣服を、身体を、洗い流す川を見つけ出すのが先決だった。彼らとふたたび出会う前に。見上げれば頭上を覆った樹木の尽きた裂け目からの陽光が降り注ぎ、その逆光は視界をくらませるが、龍笛の音が鳴った気がして振り返ると、幼い子どもを連れた母親らしい十代の女が微笑んでいた。麻地の、もはや、ぼろ布か着物かよくわからない衣服に体を包んで。すすけたように薄汚れてはいるが、さまざまな欲望の対象になりうるほどには、かろうじて美しい。目ばかりが大きい幼児は、その背中で笑いもしない。こんな奥地の山の中に、こんな女がいることに戸惑い、女のほうも戸惑っていることは知れた。風が上から吹き降りるたびに山が鳴って、それら、木の葉、枝の群れのこすれあった音響の重なった轟音に、周囲はいつでも荒れた騒音に満たされていた。小さな山、細い川、日差し、それら自体さえ、最早それらの音響の大きさが生み出した落とし子のようにしか見えなかった。鳥の声が疎らに空間を包んでいたが、遠くで、老婆のものらしい低い女性のうめくような声が聞こえ続けているのは知っていた。不意の遭遇におびえた本音を隠そうとする女の、とってつけたような微笑を見やりながら、彼女が何かを恥じていたのはすでに知れていた。それでも女は何か言ったが、その方言をわたしは解することができない。わたしが、何も言わずに彼女を捨て置いて立ち去っていくのを、彼女はどう想ったのだろうか?安堵したのか、それとも落胆したのか?何事も起こらなかったことに。山の音の隙間に、老婆らしいかすれた女声のうめき声がやまない。夏には違いない。蝉の声は膨大な連なりになって空間を押しつぶした。日差しの強烈な温度が、この樹木の狭間の暗さの中にすらまだらに襲い掛かってきていた。不意に、穢死丸の刀は思わない方向から襲い掛かってきて、それを避けることはできない。彼はまだ若い。彼には、わたしの腕に深手を負わせることしか出来ない。振り向きざまのわたしの尺八が彼の頭をかち割るが、頭部の再生には時間がかかる。噴出した自分の血にまみれ、とはいえ、傷はもう癒えている。彼が再生する前に、わたしは逃げなければならなかったが、いまだ失ったままの血がわたしの意識を遠ませて、軽い立ちくらみの中に立ち尽くしているわたしの足元に、穢死丸の頭部は急激に再生していく。手遅れになる前に、彼の手から奪い取った刀でその首を切り落とした。わたしは知っていた。今、わたしの体は汗ばんでいて、息は荒れている。あの女はどこに行ったのか?あの幼児の眼差しを探す。気が遠のく。夏の暑さのせいばかりではない。穢死丸の切断された身体はそれぞれに再生していく。想ったより速いその速度に戸惑いを隠せないまま、彼はまだ若い。その固体差に苛立ちさえ感じる。わたしは今すぐに立ちさらなければならない。わたしたちの殺し合いが発生しなければならない事態の発生の前に。あの穢死丸はどこへ行ったのか?わたしから逃げおおせてしまったのか?どうせ、わたしたちを殺すために、探し続けているはずなのに。遠み、かすむ意識のままに、しかし、目を覚ましたままの失神がわたしを覆い、わたし立ってはいたが、倒れ伏しているのと変わりはしない。幼児程度の身体を再生した穢死丸の頭部が、ようやく意識を取り戻し、すさまじい速度でわたしの体内の中に血が再生産されているのは知っているが、彼はいま、白濁したままいまだはっきりしない、自分が感じている絶叫の六重奏のような苦痛の意味すら理解できなかったはずのその意識の中で、穢死丸がわたしの存在を見留めたのに気付いた。土の上に、上目にわたしを見つめて、逃げなければならない。

 

わたしは。

 

 

叫び声が連鎖して、やがて目覚めた意識の中で、ふたたび叫び声の連鎖を聞く。体半分引き裂かれた身体が再生していく吐き気を伴った苦痛が白熱する。失心する。やがてふたたび痛みがわたしを覚醒させる。燃え上がった山林の臭気がする。自分が叫んでいるはずはなかった。声帯など失われている。それは自分の立てている叫び声に違いなかった。自分の背後で、叫び声の連鎖がやまない。

 

 

《それ》が海水の中で分散していくのを見る。生暖かい海水に融合しながら、《それ》はみずからの細やかな分子結合を溶いていく。その必然性がわたしにはわからなかった。透明になりかけた《それ》の灰褐色の身体の無数の息吹を、わたしは海水の中に揺らめく色彩のなかに見る。

 

自由な、その。

戯れるような、その。

うつくしい、醜い、醜悪な、華麗なまでに自由な

あるいは。

 

生命体。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

灼熱した大地に触れた。燃え上がった太陽の下で、干からびた地面がひび割れ、強烈な重力が身体を襲った。柔軟性を持った皮膚が、触れた物質と同化し乍ら、同化しえる物質の選別に追われた。樹木の群れが針金のような葉を空に向けて突き上げていた。地表のほとんどを支配した樹木が茂った。強靭な幹には火がついたような温度があった。その下に呼吸する繊維の、鋼のような束があった。それらが吐きだす酸素を私の皮膚は吸引した。空は青かった。彼らを汚しえるものは最早どこにもいなかった。夜の空には星々がそのまま大気圏外の風景をさらした。燃え尽きようとする太陽の荒れ狂った重力と、暗い光線を私の皮膚が食っていた。大地、かつてそう呼ばれたものは、必死にまって、かろうじて結合する。自分の、儚い重力によって。わたしは傍らの樹木に寄生し、それらの組織を同化した。覚醒した細胞が解体されていく細やかな痛みのきらめきが無数に襲い、わたしは恍惚とし乍ら、それらの違和感を咬んだ。神経の中の、どこかで。風はいつも上空から叩き付けるように吹いた。空間にくまなく存在する力と力の狭間を縫って、わたしの身体がそれらの力の中に形態化した。わたしは無数の重力の風を吸い込んだ。咀嚼された力が皮膚の中に分散し、わたしの細胞は自由に分裂する。

 

熱を帯びた雨が降りしきったあとで、海水が細かく舞い上がって、空に雨を描いた。空中でさまよった粒子のような水滴が無数の力にさらされながら渦巻き、弧を描いた。真っ白い雨が空に上がっていた。空間のすべてを白く染めてしまいながら、霧の粒子が地表を飲み込んだ。わたしは皮膚の中にうずくまって、わたしに触れる水滴に触れた。

 

そっと。

やさしく。

 

空間に浮かんだ滅びかけの太陽の光を見た。無数の力の風が私に形態を与えた。力の帝国。形態のない黒い空間の中が、衝突し引き合いあう力の群れの戦場と化していた。もう、何年もの間。太陽の周りを、たぶん、数千回程度旋回する間に。木星が崩壊した後の物質の群れが弧を描いて太陽を回る。膨張し、今にもそれの力が届く限りのすべてをいまにも飲みつくそうとする太陽が、やがて破綻するまでにはあと数千年は必要だった。

 

 

力の波の中で。空間のすべてがざわめき、わなないていた。

 

 

太陽に堕ちる。燃え上がった炎。太陽に触れ獲ないはるか遠くでその熱のために燃え上がったとしたら、その瞬間、それでも太陽に触れたといえるのだろうか?そうに違いない。どこまでを太陽と呼ぶのか。その炎ののたうつ先端までなのか、あるいはその放たれた力のすべてなのか?

 

触れる。

 

あるいは、わたしはすでに触れていた。力の風がのた打ち回って、揺れる。

 

わたしは、やがて太陽に触れようとする。

おそらくは数百年の先には。

 

空間の中で、炎がのたうちまわっているに違いなかった。

それがわたしを呼ぶ。

 

力はわたしに触れて、もはや(触れようとして)離さなかった。

堕ち、(触れられながら)触れる。

 

触れている。

 

堕ちた。

 

触れようとする。

 

堕ちながら、触れ始めていた。

 

堕ちかける。

 

接触。

 

確かに。

 

そして。

それから、そして、で。

ね、触れる。

 

ふれ、ふれられ、ふれて、ふれていて

 

ふれた。

 

裕人が彼の母親を殺しかけた次の日、小島はいつものようにわたしにコーヒーを淹れた。朝だった。「研究所には?」

「研究所?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「行かないんですか?」いや、と言って、小島は口元でだけ笑ったが、昨日の夜、小島は見たのだった。物音がしたわけではなく。ただ、予感がしたから。

ベッドルームのドアは開け放たれていた。向こうの、窓際のベッドの上に彼の妻は寝ていて、その上に覆いかぶさるようにして、慎重に彼女に触れないようにまたがった裕人が、彼女の首に手のひらを当てようとしていた。それはずっと、その息遣う皮膚の近くで停滞したまま、裕人は彼女を見つめていた。ささやくような早口で話す女性だった。彼女は。「どうした?」ややあって、(繊細に、)小島は(空気を震わすことを)自分が言った気がした。頭の中だけで(ためらったような)呟いた気がした。(彼女の話し方。)殺しちゃっていい?

振り向いて、言った裕人に、小島は、自分が言葉を発していた事実に気付いた。「駄目だよ。」

「そっか」だよ、ね。言って、自分の傍らを通り過ぎ、自分の部屋に帰っていく裕人と目線を交わらせることはなかった。

その年、雨がよく降った。

数日おきに、空間は乾きかけの自らのすべてを、もう一度雨にぬらした。しろずんだ気配が空間を満たした。空が白く、霧状の小雨が空間に斑な白い色彩を細かく踊らせさえもした。多摩川がただ、白い空に染まって、白く流れ、橋がそのうえにくすんだ色彩を曝し、ときに鳩の群れを飛ばせた。白を穢した、無造作な灰色の汚点。「洋食がお好きなんですね?」久美子と言う名の、その妻の優しい声を、そして裕人はいつも部屋の中に閉じこもっていた。学校にも行かずに。「いじめ、とか?」唐突な質問に、久美子は一瞬、言葉をさがして、いえ、ね。「そう言うわけじゃないんですけど。」

「なんで?」

笑う。「何ででしょう。」言った。小さいが、居心地のいい家屋。多摩ニュータウンの安価な土地を買って、友人の設計士に作らせた、と言った。螺旋階段が一階の真ん中で渦を巻いて、一階は疎らな仕切り壁であいまいに区切られただけの、広いなんでもない空間だった。日当たりが良かった。米軍のゴルフ場の近くだった。「いじめ、何でしょうか?」

「なにが?」思い出したように言われた久美子の音声に、一瞬とまどう。「なに?」

「あの、やっぱり、ね?」

「かも、しれないですね。」

まぁ、」でも、ね。彼女は言った。いいんですよ。いっぱい傷ついて。そのぶん、痛みを知って。で、やさしい大人になってくれたら。ね。それまで、いろいろ、あると思いますけど。でも、人生って、長いから。彼女も知っていたはずだった。わたしと小島との出会い。彼が打ち合わせに使った和食屋を出た瞬間に、彼の目の前にわたしが堕ちてきたのだった。口蓋から上だけのわたしが。あの、穢死丸は容赦を知らなかった。ビルの屋上で、わたしは大変な目にあったあとだった。ひとけはなかった。何が起こったのかわからないままに、あ、という文字が無際限に頭の中に躍って、おお、と、口の中でだけ音声を低くあげていたのに気付いたときには、小島はわたしを手のひらに抱いていた。わたしの頭が、失心したまま、再生し始めていたから。自宅に戻る彼の車の中で、わたしはほとんど再生し終えていた。二十分ほどの間に。痛みはまだひけていなかった。再生しかけの新しい身体が、ぎこちなく軋んでなじみ合おうとし乍ら、緊張と弛緩を繰り返していた。「だいじょうぶ?」小島は真顔で言った。「なんとか」わたしは言った。

あのあと、そのときのことを、小島は笑いながら久美子に話した。久美子も笑った。裕人がどんな大人になるんだろうって、と小島は言い、わたしにコーヒーを勧めたが、「冷めないうちに、どうぞ」いや、と、「猫舌なんです。」言ったわたしに笑いかけるが、むかし、いつだったかな?朝の空気。冷たすぎない冴えた空気が、窓の外を支配しているのは知っている。「いつだったか、十代の頃、海を見に行って」

「奥さんと?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いや、違う、女の子と」冗談のように人差し指を立てて、秘密ですよ。これ。わたしは声を立てずに笑うが、「海辺で、まぁ、何をするわけでもなく戯れて、ね?昼下がりだったけど、思ったんですね。」

「何を?」

「あ、って。あ!って。ああ、これって、はじめて見る風景なんだなって。」小島の指先が自分のカップの縁を撫ぜた。「いま、はじめて見た、見たこともない風景が広がるって。」クマの絵がプリントされたもの。なぜ、「その感じ、わかります?」

「わかりませんよ」そんなクマのカップが選ばれたのか、もはや、コジマたち自身、理解不能には違いなかった。笑った小島がわたしから目線をはなすままにまかせ、わたしはカップに口をつけた。わたしのカップには、女の子のクマが誰にと言うわけでもなく手を振っていた。「わかるでしょ?」

「なんとなく?」

「なんかね、途方もないな、と。そのときの風景なんか忘れちゃいましたけどね。」

「そのときの女の子は?」

「さぁ結婚したんじゃない?」背後に気配があった。

二階から降りてきた裕人に違いなかった。確実に、何かに傷ついているか、何かに傷つくまいとしている少年であるには違いなかった。父親には目線さえ合わせなかった。キッチンで、冷蔵庫の中から何かを探していた。母親は洗濯機を回していた。そこには不在だった。わたしは言い澱みながら、そして、言った。「国籍の人種?何でしょう。そういう問題?」

「そうかな?」小島は言い、わたしたちはいつの間にか声を潜めていた。それらのささやかな気遣いそのものが、彼を傷つけていたのかも知れなかった。それに気付いたときにはもう遅かった。わたしたちは彼を、必死に気遣っていた。「在日問題?」

「そうなんでしょ?」

「どうだろう?」小島の顔を斜めにさす窓越しの光が、やわらかい影で隈取るが、「なにを、いまさら、という気もする。」わたしは彼の声を聞きながら、皮膚で、あるいは髪の毛の先で、背後の壁の向こうの裕人の気配を探った。「好きですよ。やっぱり。日本が。故郷だから。韓国には行ったことないしね。いや、あるけど。」小島が声を立てて笑った。「学会で。あるけどね。外国だよね。外人だよ。韓国人は。」でもね、小島は言う。「外国に行くと、アメリカでも何でも、人種の問題って、ある意味どうでも良くなる。けど、違う意味で、重要になる。Where you came fromって言われるでしょ。答えますよね、日本から来たって。そしたら、日本人かって?うーん、そうだけど、そうじゃないって。そこで日本人だって言うのは、ちょっと、違うでしょ?変なことに拘ってるわけじゃなくて、なんか、違う、よね?それが煩雑なんだね。結局、Long,long storyって。外国に行くと、どうしても何人だかにならなきゃならないでしょう?それが、面倒くさくて。苗字も、小島ですって言ってる。これ、学生の頃の恩師の苗字なんですけどね。」

「そう」

「おれの国籍はおれだって、言ったことがある。そしたら、は?って顔、された。なんか、面倒くさくて、困ったタイプの人なんですね、あなたは、って。」笑う小島の顔のむこうに見えた裕人に、どうしたの?声をかけたわたしに、彼ははにかむような笑い顔をくれた。「なに?」うつむき加減のまま、裕人は笑っていた。「どうしたの?」

「だから、どうしたの?」

「なにが?え?」

「どっか、行く?」

「ん?んー。」

「なに?」

「コンビニ?」行こっか?わたしが言うのを、笑いもせず、うなづきもしなかったが、彼が同意していることは知っていた。繊細な空気の束が無数に束なりあったような少年。無口だが、沈黙がちな気はしない。こまかな表情がむしろ雄弁に、言葉になりかけて排除される感情の動きを常に、微細に伝えた。一種の、空気の震えのようなものとして。さわっていいよ、と、いつでも彼はその表情で言っていた。いいんだよ、この震えの群れに。いつでも、好きなように。

ドアを開けると、皮膚が外気に触れた。匂いさえない、朝の気配が嗅ぎ取られ、わたしは肩を丸めた。寒い?裕人が言った。ちょっと。わたしは答える。答えたわたしを振り向き見て、裕人は表情一つ変えずに、一瞬だけ見つめ、そして、声を立てて笑った。わたしはそして、笑む。綺麗にゆがんだ、少年のやわらかな口元を見つめて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.29.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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著者 : Seno Le Ma
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