閉じる


永遠、死、自由《廃墟の花》1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

廃墟の花

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

…Chết rồi.最後に発話されたチェッローイ単独の男声が耳に残って、既に閉ざされ始めた視界は、結局は何も見いださなかった。

ヘリコプターの音響が耳の中に存在しつつける。

視界が、白濁した揺らめきとしてしか、もはや、何をも見いださないことにも、鼓膜が、鳴り響く音響をさえ、もはや、遠くの出来事としてしか認識しないことにも、気付いていた。

消滅しかけた意識は、まどろんで、もう、混濁していくだけの堕ちるような気安さに、すべてはいつか、気付かれないままに消滅する。

風が吹き荒れていたのには気付いた。失心。

そっと、指さきでふれられてしまった積み木のような、あざやかな崩壊。

 

意識の。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見開かれた眼が壁面を捉えていた。側面のそれを。右の、手を伸ばせばふれられて仕舞いそうなほど、身体のすぐそこに接近した側面。気付いたときには、そして、何度目かに、ふたたび気付く。

まどろむ。

わたしはコンクリートの壁を見ていた。果てが見えないほどに、天井は高い。わたしはマットレスに身を起こしたまま、清潔なマットレスの上の泥だらけの身体。窓はない。

はるかに高い通風口の列から日差しが入るが、それらが連続した逆光の模様を描く。気付けばずっとそれを見ていた。

部屋の果てさえ見えない。縦の奥行き。光の列がどこまでも空間の中を照らし出した。

見るべきものはその光の模様でしかなかった。はてしない連続。空間の優しい薄暗さと、それを裏切った光の模様の鮮烈さ。

自分の息遣い以外には、聞くべき音は無い。

左手の向こうも壁で閉じられていた。数百メートルの向こうに。閉じ込められているには違いない。幽閉されているのか、収容されているのか、それさえわたしは知らない。

わたし以外には人はいない。離れたところに単独の、何かの気配があった。誰かの。

気付かない振りをした。

体中に痛みがある。骨の内部の鈍重な痛み。皮膚を荒いやすりで磨り切ったような、痛みと。筋肉の固まった、ときに痙攣させる痛み。

重い。まどろんだままの身体が、瞬間、しばし、ひきつり、あえてそれらのリアリティを確認することをは拒絶する。

嘔吐を繰り返した記憶がある。

休息が必要だった。いずれにしても、わたしは休息できるのだった。幽閉され、放置されているいま、休息するしかないのだから。何かが起きるまでの猶予かも知れない。何も起こらないのかも知れない。何か起こっていないわけでもない。いまも。既に。わたしの内臓は、ときに痛みを、不意に発生させた。それがわたしをうめかせる。向こうのほうの何かの気配が、それは体ごと床に引きずるような音声を立て始めて、その音声は接近した。

逃げ出すべきだと察知されながら、まだ、それの射程件には入っていないと思い込む。なんども目を閉じては開き(ながら)ら。もうすこし猶予を。もう少しの。

目を閉じたままに、わたしは感じるのだった。やがては、それが至近距離にまで接近して、聞き取れない耳慣れない言語が独り語散られたときに。わたしは彼の体臭を感じていた。

ずっと。鼻に突き刺さってくるような、明確な、至近距離の、肉が腐敗していく嫌悪感を伴ったあまやかな匂い。

そして、それ以外の刺激臭さえもが混入した、その、病んだ匂い。それが、何か、あいまいな違和感をだけ感じさせた。

眠ろうと努力するうちに、やがては眠りに占領されてしまう。記憶などどこにも、何も現存しないことに意識のどこかで気付いていいた。そんな事が重要なのではなかった。眠りのうちに、すべてはやりすごされて仕舞うべきだと、その明確なその意志は、眠りに落ち始めた意識の混濁のうちに、もはや、何らの明確さの痕跡さえない。

 

するどく突き刺された不意の痛みに眼を見開いて、視界が明確さを獲得する前に、わたしは痛みに目覚めていた。意識する。わたしが苦痛にのた打ち回っていることに。

内臓が痛かった。助けが必要だった。口の中だけで、痛い、と、その言葉だけを繰り返すうちに、その痛みを訴える短い言葉の無数のヴァリエーション。

言葉の。

声の。

音声の。

しぐさの。

汗がにじんでいた。いつか苦痛が消え去り、あるいは少しは緩和する気がしたが、わたしは苦痛にのた打ち回り続ける。何の解決も無いままに。気付いていた。傍らの壁際に、物体のように、ある生体がからだを横たえていることには。

フードのような布地につつまれたそれ。それは人体には違いなかった。ぼろ布に包まれた、あの臭気の正体。獲得された記憶が、記憶を整理し始めるが、痛い。腹部に強烈な痛みが、そして、わたしの身体はただ、汗ばみ、歯と歯をかみあわせた。奥歯と奥歯を。

前歯と前歯が口の中で音を立てた。舌が噛み切られるのに怯えた。丸まった。通風孔からの光が、ひたすらな白さを獲得していたのに気付く。

白い。内側から白さに、透明なままで染まりきって仕舞ったような。希薄で確実な白さ。それには、なにか記憶があった。なにも思い出されないままに、雪の日の?走ってくる無数の足音がして、雪の日の、彼らは光線の息を白さ。乱してさえいた。

男たち。二人以上、四人以下の。いくつかの足。入り乱れる腕。その身体と、頭部。覗き込まれる顔。それら。

それらは、彼らの体臭のそれぞれの差異を知覚させさえし乍ら、わたしの周囲に、ばらばらにばたつくが、彼らの身体の一つがわたしに何かを注射したのは知っている。身体の動き。それらの断片的な動きは、実際には一つの固有の身体として動いていることをは察知されていた。

わたしの過失に過ぎない。それらを無数の断片として知覚することしかできないでいることは。散乱する無数の腕、乱雑な足音、散らばった息遣い。それらを、崩壊した空間を寄せ集めた塊りとして、わたしは知覚する。冷たい戦慄に、おののき乍ら。不意に、急に、わたしの意識が消滅したことに気付こうとしたとき、最早意識は、ふたたび、ない。

 

叫びながら眼を覚ました。そんな気がした。何かを夢見ていたに違いない。怖い、ふたたび見たくはないような何か。叫ぶにあたいするような何か。指先ひとつ微動だにしないまま、気付けば眼は見開かれ続けていた。天井の、突き当りさえ見えないくらいの高さに向かって。高い。百メートルくらいの見上げられた上空に、コンクリートの。

建物は新しくはない。古いとまではいえない。誰も手を入れていない躯体は、無数のクラックを既に発生させてた。傍らの何かがからだを動かして、わたしに何か言こうとしていた。鼻にぬけていくような、優しい音声だった。わたしはそれを聞き取り獲ない。それが未知の言語だったからだ。神秘性は無い。人間の、たんなる外国語に過ぎない。聞いたこともない言語なのかもしれないが、聞き飽きている気がした。いずれにしても、人間の声帯がたて獲るにすぎない言語音声。

《それ》の呼吸音が聞こえる。わたしは既に《それ》が人間とは呼べない、不愉快な肉塊りに他ならないことに気付いている。腐った肉のような匂いと、干し肉のような匂いが混濁した、執拗な臭気がする。それら、明らかに差異する傾向の匂いが混ざって、ないまぜになって、そして、すでに慣れてしまったわたしの鼻には、なんらの違和感ももはや無かった。

《それ》が音声を発していた。懐かしくさえない人間の言語。鳴き声でも吼え声でもない。人体の成れの果て。文字通り、生きながら腐っていく身体。生き乍ら?《それ》が、生体とは最早いえないのには気付いていた、いつからか。最初にそれが接近してきたときにか。身を起こして、《それ》を見る。うすい暗がりのあかるさに、癒されきった眼はその正確な姿を捉え続けていた。崩壊しかけた肉体。それが生命を維持しているのが不可解だった。指先をのばす。ふれそうな至近距離の中に、一瞬、ためらって、布に触れて、それをめくる。わたしはうつむいて、目をそらす。《それ》は、何かを言おうとしていた。それは腐っていた。それは何かを言っていた。

何かを。

伝染するだろうか、と思った。一瞬、恐怖に駆られた。もしそうなら、と、すでに気付いていた、もう手遅れだと、それに気付いた最初はいつだったのか?手遅れ。

何度目に失心する前なのか?もう、遅い。

ひざを組んでマットレスの上に身を曲げ、記憶。すべての事跡の記憶を喪失しているにも拘らず、思考能力が維持されていることに、不意に、違和感を感じた。ならば、思考とは何だ?自分の思考が、そのまま狂っている可能性について考えた。

 

失心のようなうたたねを繰り返し、《それ》の音声に気付いて、ふたたび意識を取り戻し、まどろみ、通風孔の外のあかるさが、いつでも同じあかるさに過ぎないことに違和感を感じる。それは、自然光なのではないのかも知れなかった。朝もなければ夜もない。あの、いつか見た記憶のある、雪が降った日の外光のような、かすかに白んだ明るさ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

人工照明なら、ここは、何かの、更なる巨大施設の内部に他ならないのだった。広大な空間が、更に巨大な外壁に包まれている可能性。

傍らのそれはいつか沈黙していて、空気が通り抜ける音声だけがする。あるいは、それはまだ話し続けていたのかもしれなかった。身体的な能力として、声を形成するだけの十分な声帯をなくしたそれは。

わたしは、立ち上がって、歩く。リハビリをするように、ゆっくりと歩き出してみ、何の損傷も身体には存在しないことに気付いた。体が、ただ、汗ばみ、皮膚に臭気があるだけだった。何の?いつ流されたのか知らない、誰のものかもわからない血痕さえ無数にあって、泥だらけの身体。わたしは穢れていた。傷は無い。清潔なマットレスを陵辱するような身体の穢なさ。目だった傷は、無数のかすり傷以外にはない。重要な痛みは、なにもない。無い。

壁際にうずくまった《それ》をふたたび見下ろし、《それ》は思ったよりも小さく、小柄な老人が胡坐をかいて座ったくらいの塊りにすぎない。臭気。そして、空気は冷たい。寒いほどではなかったが、鳥肌を立たせる寸前の冷気が大気を支配していた。清潔な大気だった。

左の壁の行き止まりにまで歩く。数百メートルの距離。何があるわけでもない。床と壁がある。天井がどれだけ高いのか確認してみたい気がした。歩くたびに衣擦れの音がわたしの周囲でだけ小さくたった。それはわたしが立てた音だった。わたしの音、と、無意味に独り語散る。

振り返った向こうの壁にだけ、上方に、十メートル間隔で空けられているに違いない無数の通風孔の一列が、上のほうにまで連なって、見上げられた上方にいつか尽きていた。

広大な空間であるには違いない。巨大建造物。暗くは無い。通風孔の照明が規則的にうがった逆光が、丁寧に幾何学模様の光を空間に放ち続けていたから。それは美しくさえあった。コンクリートの、剥き出しの壁、そして床。

縦の奥行きは、はるかに、奥のほうまで広がりきって、その果てに、いつか、尽きているらしいのがわかる。数十メートル先にドアが見えていた。白い鉄製のドア。なぜ、まっすぐにそこに行かなかったのだろう?すでに、その存在には気付いていたのに。白いドア。

壁に一度身をもたれ、息を整え、わたしはしばらくの間休息をとる。たいした運動がなされたけでもないのに。

いつか、すでに、ここが安らかな空間であるかのように錯覚されていた。

いきなりドアを開くと、何の抵抗も無くドアが開いてしまったことに驚いた。隔離など、何もされていたのではなかったのだった。あるいは、そこが、単にわたし自身の部屋だったのかも知れない感覚に襲われ、目の前には、当たり前のように、外国の廊下が広がっていた。軍用機関なのか、医療機関なのか。飾り気のない、白くと塗装されたコンクリート壁の廊下。床に敷かれた淡い緑の御影石。薬物の匂いはしない。目の前の椅子の上に座っていたアジア人の老人が顔を挙げ、沈黙し、わたしを見つめ、ややあって、片方のまゆげを上げた瞬間に、彼は話し始めた。聞いたことも無い言語を、早口に、そして、それは中国語風の音声のような気したが、なにか決定的な差異がある。わたしだって中国語くらい知っている。ニーハオ。シェーシェー。それだけ。

彼が何を言っているのかはわからない。笑うしかないわたしは笑みに顔を崩すのだが、もてあまして、ドアを開けはなったまま、ふたたび部屋の中に帰ると、いつか立ち上がっていた老人は部屋に入ってくる。この、あまりに広大な、わたしと《それ》との部屋の中に。隔離された部屋?

老人はしわだらけの茶けた軍服らしい衣服を着崩していた。粋がってはずされた胸元のボタン。部屋の奥に、わたしは彼を誘導していく。そんなつもりは無いが、わたしが歩くほうに、彼がついてくるので、いつか、わたしは彼を誘導している気になっていた。どこへ?老人はわたしに背後に話しつづけた。わたしは揃いのブラックスーツの上を脱いだ状態で、ジャケットとネクタイはどこにもない。靴も無い。ソックスははいていた。泥水に汚れてかわいたそれらはごわつき、臭気がある。もう慣れた。老人は話しやまない。わたしが彼に返答することは、なにも、ジェスチャーにおいてもない。右手のほうで、足音がした気がした。通風孔の光がどこまでも続いているだけで、何も見えない。どこかに、身を隠しているのかもしれなかった。どこに?老人が立ち止まって、その善良な顔つきのまま、わたしに何か必死に教えようとしているのに気付いた。なにか重要な事柄ではない。ほんの、ささいな、どうしようもなくささいなことなのだった。

 

俺、痛風なんだよ。

だからさ、もっとゆっくり歩けよ。

 

例えばそんな。にもかかわらず、彼にとってそれは重要なのだった。わたしは彼に笑いかける。それは初めて彼に投げかけたわたしの返答に他ならなかった。壁に背をもたれて、自分を見つめているわたしのシャツの首もとを直してくれて、老人はわたしの肩をたたいた。何かを言った。

笑う。

わたしは、彼が、わたしに背を向けて、立ち去っていくのを見る。振り向きはしない。マットレスを避けもせずに踏みつけて、《それ》に一度、慰めるように手を振ったが、見向きもされない。そのまま気にせず、通り過ぎる。

壁沿いに歩いて行く。もはや、わたしたちを振り向きもしない。鼻歌を歌い、ときどき、思い出したようにする老人の両手のジャスチャーが、何を意味するのか、わたしには意味を取ることができない。背はひくい。わたしの胸元までしかなかった。

遠ざかるほどに、どんどん、背が縮んで行く。

わたしは床に座りこむ。壁に背をもたれる。

聞く。

自分が呼吸する音を。向こうの正面に、ドアがある。

そこにドアがあることなどすでに、気付いている。

そこから老人を迎え入れたのだから。

いつでも出て行くことができる。

老人の声は陽気だった。記憶。思い出して、ゆっくりと、小さくなっていく彼の背中をときに見る。

乾ききった喉が、渇きに苦痛をさえ感じていた。皮膚に、いまさらのように、こびりついた垢に膿んだひりつく触感があった。決断するべきだった。ドアをもう一度開けさえすればいいのだった。老人は、空間の縦のはるかな先を、壁沿いに、まだ歩き続けていた。そのまま、いつか出会うその突き当りの何かから、どこかへ行こうとしているらしかった。何か、どこか。ドアがあるのか、或いは彼の住み慣れた住居スペースでもあるのか?いずれにしても、何かがそこにあり、そこで何かは起こり、何かが起こって、あるいはなにも起こらない。そんな何かの可能性のほうに彼は帰っていく。

決断すればいい。

わたしは、十まで数えて立ち上がると、ふたたび、ドアに歩く。

背後で《それ》は身じろぎもしない。

もうできないのかもしれない。

ドアはふたたび開かれる。

 

 

開かれたドアの向こうには公的施設の通路に違いない。飾り気の無いコンクリート壁の通路を電気照明が照らしだし、天上は高めだが、4メートルほどでしかない。老人が座っていた5、6人がけの椅子には新聞が投げ捨てられていた。

見慣れない発音記号つきのアルファベットが書かれたそれに、一人の男の写真が載っている。賞賛しているのかもしれない。否定しているのかも知れない。何かを、彼は演説したに違いない。ここの指導者なのかも知れない。

廊下の突き当たりはT字に分かれ、わたしは左に進む。それに何かの意味があったわけではない。

広い空間に出る。

噴水がある。

中央に。

天井がいきなり高く切り開かれていた。もっとも、三階分くらいの高さに過ぎない。噴水の水に触れる。

それが、わたしの干からびかかった指先にふたたび潤いを与えた気がした。

泥水が、一瞬水を汚し、それはすぐに拡散して仕舞う。

顔を洗う。

水は冷たい。

匂いは無い。

折れた壁の向こうで複数の連なりあった音声が聞こえる。人々が、無数のそれらの群れが、その、何かを語り合っている音声の連なり。

低い反響。

白く塗られた壁。

噴水以外には何もない。

振り向いた壁に大きくTCMとスプレーで殴り書きしてあった。意味はわからない。その黄色い色彩。くすんでいる。すでに、それなりの時間が経過しているに違いなかった。噴水で顔を洗いながら、唇から混入した水滴が口の中を濡らす。吐き出そうとし乍ら、なしくずしにそれを喉に入れる。一瞬のためらいのあと、その水を口に含んだ。渇きは癒せない。含んだ後、それを吐きだす。

飲める水なのか、そうでないのか。飲めない水なのか、死をもたらすほどに、汚染された水なのか。

色は透明で、何の穢れも感じさせない。そして、わたしはその噴水の形態を眼差しのふちに確認する。

単に、パイプが上方に水を噴出しているだけに過ぎない。小さな噴水。

喉の渇きが、最早、少し猶予をも許さなかった。歯に痛みがある。歯茎の内側にこもったような執拗な痛み。折れ曲がった壁面が組み合わさった四方に、無数の通路が開かれているらしいのには気付いている。

髪をかき上げたとき、わたしはわたしの髪の毛が、短く切りそろえられていたのに気付く。わたしはわたしの顔を知らない。

渇く。

喉が渇いていた。

かわく。

かわく、と、その音声が頭の中に繰り返された。背後の通路に気配を感じたとき、それは数人の男性の気配に違いない。わたしは右手の通路に足音をしのばせながら侵入する。彼らから隠れようと。その正当性を保障するものは何もない。あのドアを閉めただろうか?白い鉄板の。《わたしの部屋》の。開け放ったままだったろうか?その記憶が一瞬飛んだまま、わたしが侵入した広い通路は、高い、どこまでも高い天井の下に、天井の上から数メートル間隔にうがたれた不規則な採光口からの光が、その純白のタイル石の床の上に、自由な光の模様を、向こうにまで描き出す。

突き当たりに空間が開かれている。数百メートル先に。早足に歩かれるわたしの素足の足音が、足元だけで音を立てた。わたしの息遣う音とかさなって。

三人の女が壁際で寄り添うように話し込んでいた。若い女だった。質素な、色彩と言うほどの色彩も持たない素朴な色の衣服を身につけ、それは公的機関の制服のように見えた。警官か、軍人のような服。手首と首から上以外には肌の露出は一切無い。外気から身を守ろうとするように。気温からも?たしかに暖かくはない。褐色の肌の一人と、ふたりの白い肌の女。真ん中の女はすでにわたしに気付いていたが、順番にわたしに振り向いて、視線をくれた。彼女たちは、それまで、同性愛を暗示するかのように、お互いを交互に抱きしめあうようにし乍ら話し合っていた。その会話は既に途切れていた。わたしのせいかもしれなかった。丸顔の、淫蕩な気配のある唇の女がわたしに笑いかけようとした一瞬に、警戒を浮かべようとするが、すぐさな、なしくずしの笑にくずれた。いいんです。

いいの、と、いいんですよ、と、無根拠に肯定したような笑顔。だいじょうぶ。ね?もんだいないから。だいじょうぶ。でしょ?

彼女の両脇で、二人の女が、わたしのために悲しんでいたような、やさしい、どこか過去形の笑顔を作って見せていた。右の女の皮膚は褐色だった。肌に荒れがあった。それが表情にすさんだ気配を与えた。口紅はあざやかにその唇を装飾していた。すれ違ったときに、彼女たちの髪の毛の匂いがした。長く伸ばされた、美しい、その。

通路の尽きた先に、開けた空間が見えている。遠い向こうの突き当たりに巨大なシャッターが見えた。わたしの視界の正面に。突き当たりの果てにまで広がる、それぞれ四面のシャッターの群れ。飛行機か何かでも格納しようとするかのようだった。巨大な空間。何台かのヘリコプターが収容されているのが見えた。向こうから男が一人歩いてくる。わたしに用があるわけではない。陽に灼けた長身の彼は若い。一瞬立ち止まって、わたしに挨拶しようとした。彼は知っている。わたしが彼らの言語を解さないことを。戸惑った、善良な顔つきを、すぐに困惑の中に混濁させて、彼が通信機器を胸元に探す。わたしの彷徨を誰かに報告しようとしたに違いなかった。逃げ切れるとは思えなかった。

すれ違いざまに会釈したわたしに、彼は、わたしのそれを丁寧に模倣した会釈をくれた。突き当たりの空間に出たとき、そこは広い。薄暗い広大な空間。天井は見えない。だが、その尽きた暗さが、にも拘らず、やがては天井によってその空間が終了して仕舞っているらしいことを暗示した。振り向いた背後の壁面に、はるかな上まで小さな丸い窓が無数に開かれ、それらの内部からの明かりが、気まぐれで数学的な模様を描き出したが、暗い。

シャッターの側の向こうの壁面に、白い電気照明の列が、一直線に、ほのかな逆光を作る。何を意味しているのかはわからない。人々が疎らに点在している。ざわめきはない。話し声が、ときに、ささやくように聞こえる。彼らは何か仕事をしているに違いない。彼らの仕事を、そして不意に、声が四方で立つ。

気配が乱れる。

両脇の向こうの果てまで、行き止まりは見えない。数台のヘリコプターが整備されていた。見上げられた天井の一角に、空が見えた。はるかに遠い上方に。たぶん。その、四角い、純白の光。おそらくは、数百メートル四方に切り開かれた正方形の口。油の匂いがする。洗浄剤の匂い。火薬の匂い。すれ違うたびに、男たちの体臭。どこかで女の嬌声がした。

ヘリコプターのどれかが羽根を廻し始めた音がする。軍用らしいヘリ。輸送用の。男たちは老人と同じようなデザインの、いくつかの色違いの制服を着ていた。誰もが一瞬わたしをすれ違いざまに見るが、さまざまなその反応。笑顔、人懐っこいそれ、媚びるようなそれ。たんに浮かべたに過ぎない何の感情も伝えないそれ。いぶかしげな一瞥。沈黙した、無口な凝視。それら。ヘリの陰から、人間のようなものが、ゆっくりと這い出して、わたしの前を歩く。

立ち止まろうとしたが、わたしの足は立ち止まらなかった。

わたしの前を横切ろうとするそれは、ぶつかりかけた一瞬に、わたしはそれがあきらかに生きてはいないことに気付く。それは既に死んでいる。崩壊した皮膚組織の、腐りかけの身体。《あれ》に似た匂い。生体の何らかの生体特有の疾患を差別的に比喩したのとは明らかに違う、あからさまな死穢の、腐敗した皮膚。その乾いた臭気、澱んだ腐臭を背景にした、乾ききった干し肉のようなそれ。

《それ》にかすかに肩が触れた瞬間に、それは女だった。

幼さを残した、十二、三歳くらいの少女の身体の残骸。彼女は一瞬、あきらかな驚きを、あきらかに顔に浮かべ、遅れて、その顔面の皮膚にえがかれた、不意の、戦慄の表情。

彼女の。

その、見開かれた目は、彼女がわたしを見ている実感をは与えない。

一瞬、日に灼かれたプラスティックを連想させた、黒目のそろわない眼差し。あきらかに、彼女は死んでいた。

わたしがその瞬間に曝した表情を、わたしは知らない。

恐怖した気がする。

感情が明確さを獲得する前に、彼女の開かれた口が、それは何の臭気さえない。彼女はわたしの左腕に噛み付いたが、わたしは聞く。その時たった、すぐ右に屈んでいた男が立てた笑い声を。笑い声が一瞬で連鎖し、煽るような声の群れが周囲にたったが、女声さえ混じって、力なく、わたしの腕の皮膚に噛み付くそぶりをしている少女。

戯れと呼ぶにも値しないその力の無さが、そして、わたしは、肌に触れたその触感を感じていた。

歯。かさついた唇。乾ききった、口の粘膜。歯。歯の硬い、無造作な肌触り。それらを。歯。咬む。とっさにわたしが腕を振りほどいたとき、彼女の顎は一瞬で崩壊した。

口の形は最早無い。

下あごだったものは千切れかけてぶら下がり、彼女は自分が今、何をしているのかわかっていないに違いない。彼女は茫然としている。え?。

 

なに?囃すような笑い声がやまない。

身を避けるようにして彼女を通り過ぎると、その左腕は執拗に、反対側にのけぞろうとする運動を繰り返し続けていた。何の意味もなく。右足と左足は明らかに違う方向に歩こうとしていて、彼女の歩みは、その無根拠な動きが結果的に生じた前進に過ぎなかったことに気付く。彼女が歩いているのは偶然に過ぎない。あるいは、すでに、わたしの視覚はそれらを認識していたはずだった。最初から。彼女はすでに死んでいる。

息をしている。

わたしは、自分の息遣いを聞いている。向こうの突き当たりのシャッターに歩く。

話し声の束。笑い声。

そして、それが必ずしもわたしと少女にだけ向けられたものではなかったことに気付く。彼らは彼らそれぞれに、いま、生きていた。

わたしたちは。

自分勝手に。

それぞれに。

シャッターに触れる。

その横の壁面に、不細工なほどに大きいボタンがあって、それは赤い。ボックスの黄色地に黒い斜線のその上に。わたしがそれを殴りつけるようにして押したとき、警報音は鳴り響き、赤い閃光が頭上に点滅を繰り返す。喚声が四方に立っていた。遅れて、開き始めたシャッターから冷気が一気に、そして外光が足元から差し込み始める。四面のシャッターはわたしの側から順番に開き始め、駆け寄った男がわたしを羽交い絞めにし乍ら引きずり倒し、倒れ掛かる瞬間に、わたしは見た。

 

外の世界。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その滅びきった世界を。

 

鳥が飛んでいた。

向こうの空に。

二羽。

純白の鳥が、二羽。

羽根を広げて。

白い。

地の果てまで雪にとざされた、純白の世界。

 

それ以外に何もない、その。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

白い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


永遠、死、自由《廃墟の花》2

わめき散らされながら、二人がかりで引きずられる。わたしがわめき散らしているのも知っている。背後でシャッターがふたたび閉じられたのも知っている。あの部屋に投げ込まれ、ふたたび閉じられたドアの向こうでも、まだ、わたしをののしる彼らの声はやまない。鍵が掛けられる気配は無い。鍵という機能自体が失われていたのかもしれない。鍵穴はあるにも拘らず、鍵そのものが失われてしまえば、外から鍵などかけられはしないのだった。内側から鍵をかけてやろうかという思い付きが、わたし一人だけを笑わせた。立ち尽くし、ややあって、彼らは未だ立ち去ろうとしない。単に、話し込んでいるだけなのかもしれない。いつの間にか、彼らの音声はのんきな陽気さに支配されていたから。

歩く。マットレスのほうへ。ふたたび《それ》のほうへ。わたしののばされた指先が《それ》に向かう。布を剥ぎ取る。その瞬間に、壊れた。《それ》は砂になって一気にかたちを崩し、不意のその崩壊。

叫んだ。

 

わたしは悲鳴をあげ、なんども叫んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

誰にも無視された数度の叫び声の後に、不意にドアが開く。長い時間が経過した後で、なぜ?と、開かれるドアを見乍ら、いまさら何を?訝りさえした。この期に及んで?と、ただ。

実際には五分もたっていなかったに違い。疲れ果てた神経はもはや何の驚きも示さない。マットレスに、その崩壊した《それ》に背を向けて、のけぞるように身を横たえたわたしが、駆け寄る四、五人の男たちの足音を聞く。

彼らの姿を視界が捉えたが、何の知覚もされず、一瞬たりとも記憶されないままに、すでに最初から忘却されていた。音響と、匂い。渇いた布と、湿った有機体の臭気の混交した匂いが、そして、彼らがわたしを引きずるようにして連れて行ったのは、無意味に大きいエレベーターを上がった二階のシャワールームだった。

あるいは、殺菌室と呼ばれるべきなのかもしれない。

広い。衣類は剥ぎ取られる。彼らが、もはや何の抵抗をすることもないわたしに、何度かしてみせた舌打ちの意味はわからない。

純白の細かいタイルが張られた50メートル四方の空間の中央に投げ込まれ、不意に、どうしようもない屈辱感にまみれる。なぜ、彼らは舌打ちをしたのか。なんども。彼らは壁際に退避して、わたしを見やる。一番右端の男が慰めるような目つきをしていた。彼らは五人だった。わたしの体にふれた腕には、四人分の記憶しかなかった。わめき散らしながら、彼らに殴りかかろうかと決意するより先に体が立ち上がりかけた瞬間に、上方から大量の水が降り注ぐ。

わたしはわめいた。

水には臭気がある。

叫んだ。

口の中に入れることをためらわせる薬品臭い臭気。殺菌剤交じりのシャワー。あるいは洗浄液入りの。口の中に、あるいは吸い込まれた鼻の中に何度も混入しそうにるたびに咳き込み乍ら吐き出す。少しの液体さえ、体の中に入れたくなかった。遅れて、その水の冷たさが、皮膚の内側の温度の存在を感じさせる。凍りつく寸前まで冷やされきったその水温が、心臓を明らかに脅迫していた。皮膚が凍える冷たさに震え、筋肉が骨ごと痙攣したさなかに、血管の中にだけ熱気が生まれている。不意に水流が停止した、それを認識する暇も無い一瞬、そのあとに、温水が叩き付けた。匂いはない。身体の硬直が一気に崩壊してさる。息が荒れる。湯が止まった後、タイルも、わたしの体も未だにその湯気を、うすく漂わせていた。

何か、あの、右端の男が言った。

わたしにではなかった。彼の友人たちに言ったのだった。彼らの着ている、軍服らしい衣服。彼らのそれは、薄い黄色だった。右端の男に、答えるものは誰もいない。さらに彼は何度か、口を利く。人間がデザインする軍服はどれも似通っている。なぜだろう、と思った。わたしを見つめたままの視線が、にも拘らず、彼の言葉が決してわたしに対して発されてなどいないことを明示している。わたしは彼らを見つめる。真ん中の男が呟くように何か言い、その瞬間の、哀れむべき犠牲者に掛けられたような短い言葉。左の男が床のホースを手にとって、彼らの手にはゴム手袋が巻かれていた。透明なそれ。わたしは気付く。わたしが、汚物、ないしは汚染物として処理されているに他ならないことに。たしかに、と、わたしは思った。汚染されているに違いない。《それ》が、目の前で崩壊して、砂になってしまった瞬間に、と、想起された記憶がわたしに軽い悲鳴を起こさせそうになったが、どうして?思う。

短く。

何の回答も期待しないままに、なぜ、それが怖かったのか。

あるいは、本当に怖がっていたのか。

悲鳴は何故立てられるべきだったのか。

何を感じて叫ばれたのか、あの時には、と、わたしのふたたびあげた悲鳴が耳から、わたしはついに、わたしが叫んでいることを認識した。彼らはわたしをホースの水で洗浄していた。強烈な水圧は、わたしに立っていることをさえ困難にした。諦めて背を向けて、ひざまづいて丸まりながらそれを受ける。回り込んだ彼らはなぶるようにわたしを洗浄する。わたしがした失禁を、それごと水流は洗い流す。誰も気付きはしなかっただろうことが、意識のどこかでわたしに安堵を与えた。善意なのか、悪意なのか、最早それらは認識の対象ではない。ただ、この暴力的な洗浄作業がおわることだけを祈った。

 

わたしの洗浄を終えた彼らが、ゴム手袋を外して、ホースからの水で戯れるようにし乍らお互いの手を洗いあっている風景は、思わずわたしを微笑ませた。早口の言語がお互いに発話され、口笛さえ吹かれそうなのだが、一仕事終えた彼らも笑っていた。一人がわたしに声をかけ、もう一人に笑い乍らののしられたのは、こいつに話しかけてもわかるわけ無いだろう?彼はそう言ったに違いない。こいつ、外国人だぜ。

そうだな。もちろんだよ、ばか。もうひとりが、不意にわたしに振り向いて言った。おそらくは、ごめんな。笑い声が立つ。自分の体を腕に抱えてうずくまったままのわたしは、のどで短く声を立てて笑い、手を振った。彼らに。口笛が吹かれた。こいつ、ばかなの?あるいは、こいつ、いいやつなんじゃないの?あるいは、こいつ、だいじょうぶ?そんなことを、壁際の男が言った気がする。一人だけ長めに髪を伸ばして、横に撫で付けていた。薄毛に悩んでいるわけでもないのに。彼らがばらばらに、わたしに手招きする。脱ぎ捨てられた手袋は床の上に、放り棄てられたままだった。誰が片付けるのだろう?だれが処分するのか、それとも、そのままそこにおかれたまま放置されることになるのか。そういう習慣なのか、規則なのか、ミスなのか、なんなのか。床は未だ濡れていた。息が荒れていた。かすれた音さえ立てて。わたしの息だけが。横に広い、天井の高くない通路のすぐ横に入って、与えられたタオルと医者の手術着のような、薄く青い色の衣類に腕を通す。タオルをわたされたときに、あの、わたしを哀れむような眼でみた男は、わたしの股間を指さして、ひゅっ、と口を鳴らした。仲間たちに。笑い声はたたない。うんざりした目つきで彼を背後から、長髪の男は見ていた。

 

長い廊下をぐるっと周り、エレベーターに乗る。その内部は非常時のように、赤い照明しかついていない。地下7階らしい階でとまった。最下層らしかった。

地上には3階までしかない。あれほど高い天井を持っていたのに?まるで、50階建てくらい高層ビルの壁面を見上げたような、あの。

ふたたび通路にでて、ながい距離を歩く。壁は白一色に塗りこめられていた。照明のまでもが白い。横手に、おそらくは最上層階まで吹き抜けになった回廊のような巨大な空間が通って、その百メートル以上の幅を、照明とは違う優しい光が、幾何学的に、斜めに差し込んでいた。静かだった。天井の採光口から差し込んでいるらしい光の筋が、なぜかその壁面部のコンクリートに何度も反射し、群れた直線のあざやかな屈曲を空間の中に重ねて、平面と、空間に複雑で、単純な光の映像を描き出した。舞い上がっていたほこりが、光に細かく差されてきらめきながら空間を推移した。何度か、その回廊を横切る。建物のなかに、その回廊は、規模の若干の差異はあれ、4本以上通されているに違いなかった。回廊は、この巨大な地下空間を何棟かに分断しているに違いない。

中央部分らしいの棟の部屋の中に入る。右手にシャワールームがある。指を差され、わたしはもう一度裸になって、シャワーを浴びる。自動的に温水は流れ出し、あたたかな温水。頃合で、自動的に止まる。あたらしい着替えが用意されている。同じ種類の、新しいそれ。いちども肌を通されていないらしい肌触りがあった。男たちは外で待っていて、笑い乍ら顎をしゃくった。

ドアがあった。

それは自動ドアにいなっていて、男たちは一つ目のドアまで同行した後、目の前の二つ目のまえで、行けよ、一人で。眼で合図した。哀れむような眼をしていた男が、笑い乍らウィンクをくれた。じゃあね。わたしはその二枚目の自動ドアをくぐる。

 

電子音が何度もなる。現地語で何かが警告される。純白の空間。アラームが長い音を立てて、不意に何も聞こえなくなる。瞬間、ガスが噴出し、それが、除菌のためのそれであることはすぐにわかった。何もかも除菌しなければきがすまない潔癖症的な気配が、この空間にはすでに漂っていたから。執拗なほどに。最初の洗浄は数秒で終わって、短いアラームの後数秒、そして再度噴射。それを三回繰り返し、アラームの無い無音空間の、数秒の持続が、除菌の終了をわたしに察知させた。OKです。

いいよ。

だいじょうぶ。

終わりましたよ。

おわったぜ。

おわったよ。

 

おわたってば。向こうの、三枚目の自動ドアをくぐる。待合室らしい、100メートル平方の空間がある。純白の空間。中央に三人がけの赤いソファーがこちら向きに並べられている。十メートル間隔で四つ。何の意味があるのかわからない。それ以外には何もない。照明は部屋を横断した床のガラス板から差し込まれ、無数のその連なりが向こうまで縞模様の光のかすかなグラデーションを描きだす。とりあえず、突き当りまであるく。ところどころの壁際に、ちいさなサボテンと観葉植物が、忘れた頃に設置されている。白い引き戸が突き当たりの壁にある。自動に違いないと、そのまま足を進めると、それは果たして、予想を裏切らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「早かったですね」彼は言った。

その横に長い空間の左手の奥の、休憩室のような空間の中で、彼は、薄い青色のソファに座ったまま、水を飲んでいる。極端に洗浄された純粋に透明なガラスのコップ。彼が飲む水は、沸騰された後何度もろ過されたもの違いないと、わたしは察知した。「遅かったけど。無菌室に入ってからは早かった。」

彼は、黒いタートルネックに、白く、長いフードを身にまとって、素足のまま靴は履いていない。わたしも素足のままだった。彼は、華奢で、小柄な、スキンヘッドの東洋人だった。一度も日差しに触れたことなどないような透き通るような肌のきめ細かさを持っている。その肌の色が、日差しを冒涜するかのように、ただ、白い。そちらへ、と何メートルか隔てた黒いソファを指さす。

彼の手は医療用の白い手袋が隠している。向かいの黒いソファーは、来客用に違いない。薄汚れた来客のための、特別なそれ。彼自身はいちどもそれに触れたことさえないに違いない。

「一般的に、あの、」と、少し早口に彼が言う。「赤いソファの部屋があるでしょう?あそこで行きあぐねて、時間をかけてしまうんですね。普通は。何これ?どうしようかなって。けど、あなたはそのまま直進されましたね

「見てたんですか?」

「ええ。」彼は傍らのテーブルのパソコンを指差したが、キーボードには白い布が掛けられていた。直接、汚染源であるキーボードに手を触れなくともよいように。何重もの警戒。居心地のよい、あかるくて清潔な空間のここは、彼の無菌の要塞に他ならない。それが、あらゆるものに明示されていた。うるさいほどに。

ビニールに包まれた通信機器。

透明な水差し。

静かに音を立て続ける空調の音。

片隅の小さな白い装置からのスチーム。

何に手を触れるにしても、彼の許可が必要なはずだった。空間の帝王にして、独裁者である彼の。あるいは、そこまでしなければ彼が彼の健康を維持できないのだとしたら、彼は寧ろ、この空間に閉じ込められた捕囚に過ぎないのだった。

「監視カメラが。この施設のすべての監視カメラはここで見ることができますが、ほとんど、使いませんけどね。用があるとき以外には。」

「用?」

「誰かを呼び出す、とかですよ。わたしだって、誰かと冗談でも言いながら、お茶を楽しみたい時だってあります。もちろん。わたしが飲むのは水ですが。

 そう。あなたは?」

「わたし?」

「ええ」

「なにを?」その瞬間、彼の顔にわたしの知性を疑った、懐疑と軽蔑が入り混じった表情が浮かんだが、すぐに思い出したように笑って、「お茶を。」

「お茶?」

「そう。お茶は、飲みますか?あなたは。お茶は?」

あなたは、」と、言いかけた瞬間に、わたしはすでに自分が何を言おうとしたのか忘れてしまい乍ら、不意に、彼と自分が共通言語でじゃべっているのに気付く。

日本語。

わたしは、少なくとも、日本語を話す人間なのに違いない。それが、所属する国籍を現すとは限らないとしても。彼も日本人なのかも知れない。「日本人ですか?」わたしは言った。最初に言おうとしたこと、それとは、まったく一致しないはずだった。

違和感があった。「いいえ。中国人ですね。残念ながら。7年間、日本に留学していたので。ここでは、日本人として、生きています。」

「なぜ?」

「彼らが日本人だと思っているからですよ。日本語ができる人間が、何人かいたと思いますがね。まだ。

 ここに来た、初期の頃には結構いて、ベトナム語は彼らに教わったんです。」

「ベトナム語?ベトナムなんですか?ここは」

「旧、ベトナム。まぁ、いわゆるベトナム。早い話が、ようするに、ベトナム」すわったら?彼は言った。わたしは、彼のそれを無視した。「もう、そんな国は崩壊していますけどね。あるいは、国家という観念概念?自体が、ね。あなたは、」彼は、微笑み続けていた。許す。いいよ、許してあげる。そう、耳元で呟き続けるような、微笑だった。

それはわたしを不快にした。

無根拠なみじめさを植えつけるからだった。「本当に、なにも覚えていないんですか?」善良な彼のために、善意を持って咬み殺して上げなければならない、そんな不埒なみじめさ、と、心のどこかで認識して仕舞う彼に対する許し難い不快さ。「最初に眼を覚まされたときに、少し、覚えてらっしゃったようですけどね。部分的な記憶喪失のはずだと。もっとも、日本語を解さない人間の所診なので、感覚的感性的?直感的、な、診断に過ぎないし、あなたが何を話していたのか、わたしたちには現状、最早、誰にもわからないのですが。身近に、日本語を理解できる者がいなかったので、ね。

 あなたは、それは記憶されていますか?」

「最初に、眼をさました?初めて?

 それは、いつ、ですか?」

「最初の記憶は?」

彼が言った。

わたしは口籠った。もはや、それは、あまりにも感覚的で、断片的な記憶、ほとんど印象のようなもの、にすぎなかったので、自分にもよくわからないのだった。

音響の記憶。ほんの、一瞬の。「一番、古い、記憶は?」沈黙した、というよりも、単に何も言えないでいるわたしを、一瞬、離れた距離のままで覗き込むようにして、「困難な状況ですね。」彼は言った。「非常に、心配です。」

表情は一切変わらない。あの、懐かしい微笑みが、常に「非常に。」許す。と言っている。すべてを。あなたの、すべてを。不意に、どこかに堕ちるように停滞した沈黙の一瞬のあとで、「多くの日本人が、もっとも、あなたが本物の日本人かどうか知りませんが。今のとこは、ね?

 こんな人がいた。非常に礼儀ただしく、わたしたちに協力的で、友好的な日本人がいた。60歳くらいですか。異変種の兆候も無かったので、」

「異変種?」

なるほどね。それも忘れたんですね。まあ、いい。」彼の顔には、「突然変異の一種です。」頭にも、体毛というものが無い。「そういう種類の人間が発生したんですね。ちょっと前に。」それが、彼の整った顔立ちに、「大量にね。」一種、凄惨なほどに抽象的な美しさを与えていた。

人間の顔の祖形を見るようだった。個性という名の、ある穢れた屈辱にまみれる前の抽象的な祖形。そして、すぐに、それが錯覚だということに気付く。それは彼の身のこなしが与えた錯覚に過ぎない。事実、彼は「次の第三種という進化した身体を持った人間にいたるまでの。突然変異的な、なにか、ばらばらな個性。」眼が切れ長に過ぎる。「これは、進化も変異もしなかったわれわれの命名であって、彼らは別の言い方をしたはずですが。そう、かつての差別用語ですが。異変種、第三種、いずれにしても、まあ、普通のいい人の日本人の叔父さんがね、いたんです。とてもいい人です。信用できませんが。ちょっと裏表があって。

 自殺しましたよ。」

「あなたは、」不意にわたしは、忘れていた最初の質問を初めて思い出して、「失礼ですが、いいですか?」言った。

「お名前は?」彼は噴き出し、声を立てて笑い、「すみませんが、あなたの」なかなか笑いやまない。

わたしはソファーに座る。座った瞬間に、この明らかな、外から来た穢れ者専用のソファーに座ることを許してしまった自分に対する、自虐的な軽蔑にさいなまれた。

「すみません。わたしの名前は、」彼はもう笑っていなかった。「レ・ハン。」中国名ですか?わたしの質問に、いや、と彼は言い、ベトナム人たちが、私のことをそう呼ぶから、これを名乗っているだけです、言った。その、鼻にかかったアルト。男声として、明らかに甲高い部類に入るそれ。「納得しました?名前は?」彼の眼差しを見つめる。

「あなたは?」

微笑を絶やさないそれ。わたしは自分自身に対して沈黙する。名前は?

「覚えてないでしょうね。まぁ、そうでしょう。心配です、非常に。」空中にさまよわされたレ・ハンの左の薬指が、不意にわたしは、彼は左利きなのに違いない、と思った。空間に、不可解な線形を描く。蝶をかたどるような。

「浜崎庸一というお名前の方だったんですが、その方のなくなり方は悲惨でした。精神疾患の兆候は、あったのかもしれませんが、言語の不自由な交換がその表現を隠蔽してしまっておそらくね。英語で話していましたから。そして、彼の英語はよくありませんでしたから。非常に困難な英語でした。」

「どうなったんです?」

「ここで作った妻を殺人して。自分も死んでしまいました。F-45のWater poolの近くで。残念でした。ほかにも、4人くらい。日本人は、みんな、順応、対応?適応?できませんでした。犯罪を犯したり、そして、処刑したり、逃走しようとして、事故で死んで

「されたり?処刑されたり、ですか?」

「そう。で、すね。そう。うん、文法的にはね。」レ・ハンは一瞬、何を聞かれたのかわからない顔をした。

レ・ハンが思い出したように、声を立てて笑った。「いずれにしても、あなたは《重度汚染地区》で発見されえました。放射能の、です。そこで、」

「放射能?事故ですか?原発の?」

「げんなに?それ。知らないな。英語だと?いや、わかりやすく言うと、」彼が、話に飽き始めていたのにはすでに気付いていた。最初から「戦争があったんです。」飽きていたのかも知れない「戦争という言葉の意味は時代によって違う。わかりますね?戦争行為の意味は、常に定義され直さなければなりません。そういう事で、大きな深刻な戦争がありました。世界は核で汚染されました。洗浄[戦場?]の不可能です。世界は、それ以前の世界の様子を基準にすると、滅亡しました。あなたは、いわゆる日本で発見されました。ここに彼らはつれてきました。彼らは、いまもそこでベトナム人を探しています。日本のベトナムの留学生は大量でしたから。」わかりますか?レ・ハンは言った。「わたしは心配ですが、あなたは心配はいりません。みんな、歓迎していますよ。彼らは。」

「彼ら?」

「ここの人間たちです。生きている人間が発見したことは、よろこぶべきですから。普通に、自然に、仲良くすればいい。」

「なにを?なにをすれば、」

「何もしなくていいんですよ。」レ・ハンがコップを手に取り、それを口につける。それを見た瞬間に、自分がなにか禁忌を犯した気がした。

彼が眼を伏せ、恥らうように横を向き乍ら、水を、口を浸す程度にだけ、口にしたからだった。

ながく息をつき、彼は言った。「だれか、気に入った女性でも作って、子供を作ればいい。生まれることはいいことです。歓迎します。わたしたちは滅びかかっています。それは、滅亡に抵抗しますから。彼らは喜びます。もし、生まれた子供が壊れていたら、残念ですが、」その瞬間にだけ、彼は微笑を意図的に消した。「処理は彼らがします。」

帰れ、と彼は手でわたしに合図した。彼は、突然、いま、みじめなまでに疲労していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レ・ハンの部屋を出たわたしを、あの四人の男たちが出迎えた。彼らはわたしを待っていたのだった。わたしにあてがわれたのは、レ・ハンの部屋から遠く離れた、また別の廻廊のすぐ傍らの部屋だった。地上2階。壁を作った仕切りが複雑に入り組んだ空間。地上であるということが、ここにおけるわたしの地位を伝えている気がした。もし、レ・ハンの言うことが事実なら、地上は住居としては歓迎されるべき場所ではなかったはずだから。

清楚な、50メールル四方の正方形の部屋だった。簡単な椅子と、机、キッチンはあったが、それ以外には何もない。クローゼットには、あの青い医療服が大量にハンガーにかかっていた。窓と呼ばれるべき、壁面いっぱいの開口があって、その向こうはコンクリートの壁でふさがれていた。上部から光が差していた。パソコンはある。インターネットはあるが、彼らが運営しているらしいウェブサイトにしかつながらない。

あの風景を思い出す。

シャッターの隙間から見た風景。確かに、このコンクリートの要塞の外は、事実として、すべてが壊滅した世界なのかも知れない。地上用のものらしい廻廊は、壁面にいくつもの開口を作って、それらの気まぐれで不規則な配列が、散らばり、どこまでも上方に伸びる。

天井は無いのかも知れない。上空を光が満たしていた。しかし、その光が夜を迎えることがついに無いことに気付いたときに、それが人工照明に他ならない可能性に気付いた。もしそうなら、ここは完全に外部から隔離されていることになる。そうともいえない気もする。実際、外部の世界から夜というものが消滅していたら?そんな事が可能なのかどうかはしらない。朝も、昼も、夜もないのだとしたら?レ・ハンのいう《戦争》の結果なのか。別の何かの結果なのか。

 


永遠、死、自由《廃墟の花》3

上空の、あるいは天井の光。そこが、外部への巨大な開口部であるという確信が、どうしても拭えなかった。

事実、光には自然な開放感があった。光が一直線に降り注ぐ。まばゆくは無い。白く、ほのかに、やさしく。

一階部分の無機質なコンクリートの上を、それらのまだらな不細工なグラデーションをかすかに浮かび上がらせ乍ら。二階部分の各塔屋をつないだ無数の橋に、手すりのようなものは何もない。ただ、コンクリートの長方形だけが、二車線分の平面をわたしていた。橋を渡る。

何度目かに寝て、何度目かに眼を覚ました後に。

何もするべきことのない、停滞した時間のなかで。

きょうも何もすることの無い、自由な、拘束されない、そして行き場所もない時間を消費しなければならない確信だけがある。それが鈍い苦しみになって、わたしの意識を常に支配している。人々。《ベトナム人》らしい人々。

女たち。橋の真ん中で、向こうから来た女が一人、わたしに微笑みかけた。三人の集団の一人だった。背の低い、ふっくらとした女性。色は白い。唇に口紅だけが塗られている。厚ぼったい口紅。立ち止まりそうになり乍ら、わたしは彼女の微笑を見つめ、すれ違って仕舞ったあとに、ふと、立ち止まって振り向くと、もはや彼女はわたしのことなど見ていなかった。

いくつか、仕切られた空間全部を満たした水の広場がある。百メートル四方にうがたれた広大な空間に、コンクリートの壁面は流線型を連ね、すべての空間が直線で描かれたこの巨大施設の中では異質だった。

床は透明な水で満たされ、水の絶え間ないかすかな波立ちは光を反射して無数の反射光の渦が壁面を流れる薄い水の流れに波立ったそれらにさらに反射される。

淡い光の塊りが絶え間なく揺らめく。

無数の開口が通路とつながったが、《水の広場》の傍らを、人々は通り過ぎるだけで立ち止まらない。水滴の群れがはね、細かい水の粒子が、たちどまったわたしを濡らす。中央の噴水は高い天井にまでか細い水流を吹き上げていたが、それは天井に当たって、天井の全面に膨大な量の水をためている。

重力を無視した天井の水流は、それでいて、確実なその必然性を湛え乍ら、しずかに波打っていた。これは、当たり前の風景ですよ、と。

十メートルほど上方の、水の天井。

水滴さえ、一粒たりとも落ちてはこない。その水の波立ちが壁に当たって、ゆっくりと流れ落ち、その壁面の水の流れを形成しているのだった。どういう方法論がそれを可能にしていたのか、わたしにはわからなかった。わたしは水の中に入り、それは自然な温かみをもって、冷たくは無い。

ひざまでを濡らす。

中央の水流に歩くはじめると、背後で、女の声がする。振り向く。若くは無い女。逆光の中、表情は見えない。たぶん、四十代くらいの。たった一人で、何か、わたしに話しかけていた。笑い声を立てながら。異邦人の奇矯な振る舞いを、面白がりながら諭しているに違いなかった。おぼろげな水の反射光がわたしをてらしだしていた。

振り向いて手を振ってみせ、わたしは笑っていた。声をさえたてて。

水の、夥しいきらめきの渦は、わたしのからだ中にに反射する。水の流れのかすかな水音が、無数の束になって空間を、わたしの耳の中を満たす。

中央の水流は細い。華奢な樹木の枝くらいの太さしかないそれが、ゆっくりとした水の流れになって、上方に吹き上げている。音さえない。それに手を触れようとする。

女が背後で笑い声を立てた。

のばされた指先がそれに触れた一瞬に、水の柱は崩壊し、水の天井は破綻する。墜落した水の塊りが一気に崩れ落ちて、わたしは叫び声を上げながら溺れかける。

濡れた髪をかき上げたときには、それらは既に回復している。何事も無かったかのように、一瞬で。水の円柱が、ゆっくりと水を噴き上げていた。女はすでにどこかに行っていた。

四方の壁に、不規則にうがたれた正方形の出入り口の向こうに、何人かの人が通り過ぎていくのが見える。その一つに、明らかにぎこちなく歩む、少年らしい人影がある。彼に、わたしは興味を引かれる。あきらかに、彼は彼らと違っている。あの少女、あるいは、あの、砂のように崩壊した人体と同じ、なにか。

彼についていく。彼は歩いている。少年、十歳くらいの。足と手に連動性は無い。彼が立っていることは、それら手足がかろうじて成立させた偶然にすぎない。両足の動きさえ、痙攣の産物でしかない。

濡れたからだが作る、床面のわたしの足跡に、わたしは目を落とす。

背後の通路に、わたしの足跡は刻印されたが、乾いて、すぐに消滅してしまうに違いない。

円柱が両方を支えた通路のような空間。向こうの遠いどこかからか差し込んだ黄ばんだ光が、横から差す。人工照明のそれのようには見えない。夕暮れ時に差し込むような、そんな、やわらかい光。

高ぶったわけでもない、なにか、鈍い気持ちを持て余して、彼の前に回り込む。彼は既にわたしの存在に気付いていたに違いない。

眼を合わせないが、表情に、一瞬、わたしを咎めるような影が差した気がした。あきらかに、彼は生きていない。生命を保持された体内を流動する水分を失って、干からびたような皮膚の、生命感を一切欠く青白さ。

腐りかけてはいない。まだ。彼は歩いている。

その視線は何も捉えない。黒目はちぐはぐに、両方が違う動きをする。前面に、髪の毛はもはや生えてはいない。後頭部の長い伸ばされきった髪の毛が、肩にまでかかっていた。毛髪は、死ぬことさえなく伸び続けているのだった。立ち止まったわたしの傍らを彼が通り過ぎていく。匂いはまだ無い。

 

 

食堂か市場のような空間があって、そこで、人々は食事し、買い物をした。金銭の交換は無い。ののしりあうような会話を重ねながら、笑い声が無数にたつ。人で溢れている。相変わらず天井は高い。

《死者たち》さえもがそこにたまに紛れ込んでいだ。人にぶつかって、倒れ、起き上がったり、起き上がれずに、床で痙攣を繰り返したりし乍ら。誰かが起き上がらせてやった。太った、五十代らしい男だ。彼はすぐに、蛇口をひねって手を洗う、ののしるような声を立てながら。

《死者たち》は何を食うわけでも、なにを買う、正確に言えば入手するわけでもなく、ただ、そこで生きている。彼らは生きているように見える。生きているのかもしれない。事実としては、彼らは明らかに死んでる。すくなくとも人間としては。その身体組織自体は、死んだ人間の身体組織に過ぎない。

 

口から吐き出した血にまみれて搬送されていく女を見た。妊婦のようだった。あるいは、何らかの深刻な疾患を抱えていたのか、その腹部は空気を入れたように膨らんでいた。四肢が痙攣していた。黄色い担架に乗せられた彼女の痙攣する身体が、不意にこぼれ落ちそうになって、男たちはそれを殴りつけるように保持した。彼らは走る。十人ばかりの人が、担架を担いだり、その周囲で単にののしったりしながら彼女を運ぶ。彼女が助かるとは思えない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日々が過ぎていく。

何度か《死者たち》を見かけ、無数の人々とすれ違う。

そうめんのような味の無い麵を食べる。

水を飲む。

時に音楽が聞こえる。

歌。

何を歌っているのかわからない。

ラブソングに違いない。

あまったれた、感傷と媚を含んだメロディ。この、巨大施設の中でのラブソングが、どのような風景を歌いだすか、わたしは不意に気になったが、それを聞き取る手立ては無い。朝なのか、昼なのかもわからない。回廊の日差しは常に同じ一定の明るさで、差異は、微かなものに過ぎない。美しく、やわらかな白ずんだ日差し。

 

回廊の日差しを、わたしは愛した。何よりも。ただ、それだけが留保なくうつくしいもののように思えた。なんどもそこに行き、日差しにふれる。

肌にふれさせる。

人々がすれ違う。

橋の上に座りこんだわたしの背後を。

足の下に、一階通路に人々がたまに行きかった。何人くらい?ぜんぶで数千人程度なのだろうか。《死者たち》をふくめて。

施設の巨大さに比べて、明らかに人口は少ない。この巨大施設が維持できているのが不思議なほどだった。あるいは、かつて栄えた文明の、太古の遺跡であって、そこを間借りしているだけに過ぎない錯覚さえする。もちろん、そんなはずは無い。新しすぎる。これらは、あきらかに彼らが彼らのためだけに作った建造物にすぎない。

回廊の隅に横たわった。

あおむけに目を閉じた。

閉じたまぶたに光を直射させてみる。閉じられたまぶたのうちの暗闇を、かすかなオレンジ色に染め上げる光。眠ったような、眠らないような時間のまどろみの中に、わたしは聞く。

時に通り過ぎる人々の足音、衣擦れ、音声、それらの音響、空間の最も低い吹き溜まりに反響したそれらを。

ふいに、停滞した気配を感じる。何者かの気配ではなく、停滞した、なにもかたりかけないそれ。

眼を空ける前に、予想はついていた。

少女だった。

あるいは、女性だった。《死者たち》の一人。死にきった皮膚が、正確な年齢感を奪い、十代後半なのかも知れない彼女に、時間の崩壊したある幼さを与えた。同時に、幼さという概念が、あくまで見の前にありもしない成長の未来の予感を根拠にした感覚に他ならないことを、彼女の容姿は明示した。それは、生きている幼さとは明らかに違った、決定的な欠損が見せる幼さに過ぎなかった。彼女に未来の成長は一切無かった。現在しかない。

崩壊しかけていく。

あからさまに欠損していたのは未来だった。年齢はわからない。年齢など最早存在しないから。

髪は長い。

 

女性には違いない。青ざめた褐色の肌。立ちつくしたまま、わたしを見下ろすわけでもない。わたしは身を起こす。左腕だけがしびれて、震えていた。彼女がわたしを見た気がする。意識?

 

どんな?

彼女が見ている風景を、見ようとする。

重なりえない。

いかなる想像力を駆使したとても。

だぶついた薄青のパンツだけをはいている。上半身を隠すものは何もない。胸のふくらみは、柔らかさも感じさせず、その手ざわりも予感させない。それらは皮膚が作った単なる流線型に過ぎない。生々しさを欠いた、造型された有機体の曲線。彼女はわたしを見ている。明らかに、その視線を感じた。わたしは指をのばす。のばされた指先に光が触れる。温度は無い。指先が、彼女のみぞおちに触れる。温度は無い。体温を失った、皮膚という細胞組織そのものに触れた触感があった。これが皮膚なのか、とおもった。皮膚と呼ばれるものの実態に触れた気がした。彼女が笑った気がした。表情は無い。顔の筋肉が、時に動く。痙攣したように。それが何かを、かたちづくっている。

何か。

何かを。彼女は何かを感じている、と思った。この、死に絶えた肉体は。あり獲ないことには気付いている。目の前のそれには明らかな断絶がある。飛び越え獲ない断絶。

鮮明にして、あきらかな。

 

ひざまづいて、胸に、耳をつける。ひんやりとした触感が、耳と頬に触れた。人々は、ときに行き過ぎた。わたしに笑いかけさえし乍ら。奇矯な異邦人。頭が狂いかけている、かわいそうな外国人。心臓の音は無い。

当たり前の事実を確認する。

わたしは彼女を抱きしめて、その胸に顔をうずめた。匂いをさえ、いっぱいに吸い込みながら。死者をもてあそんだ気がした。冷たい、明らかに死んだ皮膚がわたしの顔に触れた。何かを感じる気がした。なにをも感じなかった。

彼女が死んでいる、この、既に知っていた事実以外をは。

 

子供たちが笑い声を立てながら通り過ぎた。目を閉じたままの、わたしの背後を。

 

 

最初に隔離されていた空間。そこを探そうとする事がある。なんどか、暇つぶしに。とはいえ、この巨大な空間はあまりにも広く、もはや、わたしはそこに辿り着けないのだった。何人かの《死者たち》とすれ違う。無残なほどに、片腕だけ腐らせた男。何歳なのだろう?あるいは、何歳のときに死んで、何日、何週間、経過したのだろう?その臭気とすれ違った瞬間に、生命体への冒涜を見せ付けられた気がした。冒涜?

 

なぜ?老婆。回廊の光の下に立ち尽くし、光は彼女を直射したが、素っ裸の彼女の目を背けずには置かない醜い曲線を、光は、細かく、白くきらめきだたせた。光を見上げ、彼女は何かを言っているようだった。音声を発する機能はすでに失われていた。紫がかった死斑が、その身体を無数に彩っていた。

 

 

さ迷い歩くうちに、ある数百メートル四方の空間の中に、無数の花々が栽培されているのを見つけたことがある。不意に、目の前に出現した花園に、わたしは一瞬笑いそうになったが、声はない。

わたしは、わたしが笑った気がした。笑ったかどうか、ついにわからなかった。ミツバチが飛ぶ。

花の名前はわからない。

数百メートルの上方に壁は尽きて、あきらかに、空のようなものが見える。

透明な水で張った膜のように、それは静かに波立っているようだった。

しろい。光がかすかにゆらめく。白。まだらな曇り空の様にも見え、しかし、外気の気配は無い。

色彩はゆっくりとかたちを変えていくが、それが見上げられた空であるという確信が抱けないのは、なぜだったのか。あまりにも巨大な四方の壁面が、それを取り囲んでいたからなのか。この空間が、閉ざされた密閉空間なのか、開かれた空間の壁面に過ぎないのか、それさえも確信が抱けない。わたしが見ているものは何なのか。わたしが存在し、生息しているここは何なのか。巨大なシェルターならば、外気に触れる開口はあり獲ないはずだった。

無数の花が咲かされていた。

咲いているとはいえない。それは、白いボックスの中に列をとって、向こうの果てにまで、完璧に管理されているのだから。

飼育され、支配された花々。ミツバチと、昆虫が舞う。

蝶さえもが。

管理の及ばない偶然を与え乍ら、結局は管理者の意図に、おおまかに従ってしまう。蝶ちょ。見たことのない、大きめの、純白の蝶が舞う。

はためきが空間に作る色彩の推移を見つめた。

色彩をなくしたような純白さ。その翼が、透き通ってしまいそうなほどの。

蝶を追った。

時間を費やして、戯れるように逃げ去られ乍ら。

やがては、わたしは、息をさえ乱し乍らも。

誰もいない。

なぜ、誰もいないのか。

これほどまでに管理されきっている空間にも拘らず。

蝶の後を追う。

 

やがて、蝶の静止。

紫から葵にかけてのグラデーションを湛えた、百合のような形の花の、花弁の黄色い花粉の小さな塊りの上に、一瞬停滞したそれに、ほんの一瞬、ふれたと思われた指先は、そして、蝶は既に逃げ去っている。手に触れた実感など何もないままに、指先にはかすかに粉がついていた。ほんの掠めたほどの、微量の。銀色がかった光沢を浮かべた、白い粉が。蝶の、翼のそれなのか。

あの、透き通ったようにさえ見えた色彩の。

指と指を、なぜあわせた。手ざわりはない。指の腹の、お互いの手ざわりしか。

 

日々の経過。夢をみた。わたしは回廊の真ん中にうつぶせになって眠っている。背後に気配がした。

それは無視された。

怖いのではない。もはや、手遅れだと思ったのだ。すべてが最早手遅れであることの気安さにだけに支配された。わたしはそのままの姿勢で、閉じられたまぶたのうちに空を見ているのだった。

純白の空を。

透き通って見えるほどの。

それはこれだったのだろうか?わたしが、常に空としてみてきたものは。それは、むしろ、羽撃かれたあの蝶の羽ばたきの記憶だったのではないか?

それを確信したときに、空は一気に崩壊した。

巨大な音響を立てさえして。わたしはすでに、ずっと、叫んでいた。わたしの叫び声がやまなかった。最初からずっと、土砂降りの雨が降っていたのに気付いた。真っ赤な色彩のそれが。命の気配をたたえながら。

 

気が狂ってしまう、とわたしはときに思った。レ・ハンが言った自殺者たちの未来が、足元に口をあけている実感があった。たやすいことだ。一瞬の気の緩みが、それへの失墜を可能にしていた。そんな気がした。にも拘らず、わたしは正気だった。

いっそのこと、狂ってしまおうと思った。発狂は困難だった。それが不思議だった。危機がそこにあるのに、それに自分から飛び込むことができないことの、不可解な苦痛。

ほんとうに、もう、気が狂ってしまう、と、壊れてしまう。

わたしは思った。

 

回廊でふたたび眼をさます。いつもと同じ光が差している。常に、大まかな意味で変わらないそれ。そして、ごく精密には、そして現実そのものとして、常にたゆたい、変容しているそれ。光。

かすかな、微細な変容。

光の。

 

透明な水に立った波紋に反射した光が作るような、遠い、わずかな変容。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

夢を見た。降っていた雨が一瞬、静止した。

空中に。

ながい、ながい、一瞬。それらの水滴がわたしの周囲を取り囲み、それにわずかでも触れた瞬間に、時間の凍結は崩壊して、雨はすべて降り堕ちて仕舞うに違いなかった。

わたしがそれに触れないかぎりの、永遠の停滞。

もしも、と、わたしがそれに触れることができなかったなら、と、わたしは、いや寧ろ、と、思う、死んでしまったら?。このまま時間が静止したにまかせて、いつか、わたしがそれらに触れる前に死んでしまったら、どうなるのか。

この、死んだ体が崩れ落ちて、しかも、死者だけのためにもふたたび雨は降るのだろうか?

一気に、この空間を葬り去るために。

 

指を伸ばそうとする。

 

それら、ふたたび墜落する水滴が破壊してしまうに違い、この雨の中からいち早く逃げ出すために。彼らが、この世界の停止を崩してしまう前に、と、気付くのだった、わたしは、思い出したように、それらに触れることができなかったら?と、叫びそうになったのは何度目だったろう?

 

触れることが、永遠に不可能だったとしたら?思い出した。晴れた日には、雨が降っていたのだった。

いつも、燃え上がりながら空間に消滅して仕舞った雨の水滴の無数の群れの痕跡が、それらを空間は満たしていたのだった。

それら水滴の内部にいっぱいに。

破裂しそうな無際限の空間をはらみこまされたまま、水滴の無際限の群れが空間に燃え上がって仕舞っていた。

 

途切れることさえなく。

 

一切の色彩を持つ前に、もはや、色彩などという穢れにふれる猶予さえ与えられずに。

 

すでに、それらは、空間に記憶されていたのだった。自ら、自らを食い散らすように崩壊させてしまいながら。寧ろマイナスの時間の中で、逆方向に覚醒し乍ら、眼はやがて、見た。

両方の眼は。

わたしのものだったそれは。こぼれ落ちようとした水滴のたった一つの水滴の一つに、覚えているのか?

その水滴の記憶を、わたしは。

恥じながらそれらが放棄してしてしまった、廃棄されていた記憶のどれかを?

すべての声は無視されなければならなかった。

周囲に鳴り止まなかったすべての声は。

いま、わたしが見ていた夢の数々さえも。

それらが呼び起こした声の無数の連なりのその一つが、わたしに見つけられて仕舞ったにも拘らず、すでに最早、この世界には存在しなかったのだった。

流される涙にさえ触れられなかった時間の消滅のなかで。

 

気付く。

その生誕の前から既に、時間はただ自らのうちに消滅していたのだった。ついに支配されることのなかった、無数の世界が、想像された誰かの声を立てながら最早、なにものも支配されることなどできなかった。

なにものも崩壊することも、破壊されることもできなかった。

世界の実態そのものが、触れ合うことさえなく無際限な集合として充溢していた。つまり、蝶は羽ばたいたのだった。

わたしの視線の、わずかな先で。

 

蝶が音もなく羽撃く。

 

人々の気配を背後に聞く。

無数の人々が走り去っていく、その。振り向く。わたしはまだ回廊の光のしたにうずくまるように座り込んだままで、その目の前に少女がいた。

明らかに、知能に障害を抱えていた、その少女は。障害、という生易しいものでは無いのかも知れなかった。彼女は体中を痙攣させながらわたしのほうを直視していた。その何ものも捉えてはいない眼は何も捉えてはいなかった。

その眼差しが直視しているわたしさえも、明らかに。

痙攣する身体が、そして呼吸器が声帯を震わせるわななくようなノイズが低く、喉から発生されていたが、脳組織自体が、欠損している気がした。生体として、そこに自立しているのが不思議だった。耳から、彼女の脳組織がちょうど半分、色の無い水になって流れ出すのを想像していた。

彼女がまばたいた一瞬の、いつかに。

何も見ない、見開かれただけの眼差しの先にはわたしがいることを彼女に知らせるすべはなかった。

ふいに帰ってきた四十代の太った女が、健康そうな贅肉を揺らしながら、わたしに何かののしった。わたしにではなく、その少女へのののしりを、わたしに言ったのかもしれない。

あるいは、聞き取るべき聴力の無い彼女の代わりに、わたしに言ったのかもしれない。

彼女の耳の代理として。

 

女は少女のかたわらに一瞬静止し、わたしを振り向き見てその眼差しがわたしを認めたにちがいない瞬間に、彼女は少女を殴打した。文字通り、壊れたように少女の身体はくずれ、一切の力をなくして倒れ臥したが、失心したのかも知れない。

わずかに作用していた脳の機能さえもが死んでしまったのかもしれない。

 

女はわたしに、わたしを慰めるような笑みをくれて、その少女を脇に抱えて、走り去って行った人々の足音のあとを追った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

指さきを光にふれてみる。指のはらに光がふれる。温度もないままに。見つめてみる。

そのきらめき。

ざわめいた、こまかな産毛の、そして、皮膚の表面が刻んだ凄まじい複雑な形態。

 

光。

 

もしこのまま、時間だけがたっていくのだったとしたら、今すぐに死んで仕舞うほうがいいのかもしれなかった。何のためにも生きていけないのだとしたら。すでに終わっていたのと同じことだった。あるいは、なぜ、何のためにでもなく生きていけないのか、わからなかった。なぜ、蝶のようには、猫のようには生きていけないのか。

発狂してしまったほうがいい。そう思った瞬間に、人間に自殺することはできても、自らの意思で発狂することはできなかった事実にあらためて気付く。

これほど、狂気との不確かなすれすれの距離の中で、お互いに交じり合いさえしながらも。

 

光が唇に触れる。

たわむれに唇を開閉させて、そのわずかな動きの中に、光を感じたふりをする。

目を閉じたままの暗闇の中で?

 

なおも、まだ。

 

回廊の橋から見下ろした一階に、女性の靴が落ちていた。小ぶりな赤いスニーカー。

片方だけ。

紐は無い。

それは地上通路の真ん中にあった。

人々が疎らに行きかうが、誰もそれに触れようともしなかった。たまに気付かれて、一瞬の視線を浴びながらも。

 

なぜ?

 

いつか、回廊を通り抜けて《水の広場》に行った。

いつだったか。

絶え間の無い水の音。

そして、向こうまで続く、広大な、反射光の鈍い連鎖する揺らめき。

 

彼女は向こうに、水に浮かんで、死んでいた。あおむけに。

 

あの、死んでいる少女だった。いつか会ったあの。

 

あの日のパンツすら失って、いま、彼女は全裸だった。

かすかな渦巻く水の光が、おびただしく、その硬直した身体に反射した。

 

見開かれたまま、眼はなにものをも見いだしはしない。

 

水に入る。

 

わたしは彼女に接近していく。

 

身動きしないまま、わたしが立てる波紋に揺れる、髪の毛が水の中に拡散して、揺らめきながら、光の反射の中に、無数の昏い影をうがつ。

 

透き通った水に反射された皮膚は、水の反射光の透明な気配に染まった。死んだ身体は、揺らめきにまかされていた。

 

彼女を抱き上げる。

いつの間にか、彼女の目が閉じられていたのに気付いた。呼吸もしていないそれは、完璧で否定できない死体に他ならなかった。

その眼から、水滴がしたたり落ちていた。

 

泣いた、と思った。

 

彼女が。

 

いま。

 

わたしは。

 

うつくしい、と思った一瞬に、誰かの流した涙を、自分のそれをも含めて、そのときが初めて美しいと思った瞬間に違いないことに気付く。うす穢れた、と、そんな風な自虐的な軽蔑を含めてしか、涙を見たことはなかった。

 

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

 

少女を抱いたまま部屋につれて帰る。すれ違った誰もが、奇異な眼でわたしを見た。この行為が、なにか、わたしに事件をもたらすかも知れなかった。わたしにとって破滅的なそれか、彼女にとって破滅的なそれか、彼らにとって、あるいはわたしたちにとって、それとも、わたしたち皆にとって、いずれにしても、何か。

あるいは、彼女の破滅は既に訪れて、去っていた。

彼女はすでに、存在しないのだから。

 

この世には。死。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの部屋にドアなどは無い。入り口と敷居を作った壁面があるだけだが、それらが作り出す陰と光の連鎖が腕の上で彼女の身体に模様を描く。どの部屋もそんなものだった。

部屋に照れて帰った彼女を椅子に座らせた。彼女の視線がわたしを見た気がした。一瞬だけ。

確認しようとふたたび捉えたわたしの眼差しが見いだすのは、何も見ていない、いつもの黒眼の停滞だけだったとしても。

シャワーで濡れた体を洗い流し、着替えようとした瞬間に、彼女に対しても、それはなされるべきだということに気付く。入浴なのか、洗浄なのか。

ふたたび抱き上げられた彼女の身体を、そして、浴室でその体を洗い流したときに、内股の、傷ついたその部分に、腐敗がしずかに発生し始めていたのを見いだす。

わたしはしばらく見つめ、何かを確認し、目線を逸らす。何を確認したのか、わたしにはわからない。簡単なことではある。彼女が死んでいることを確認したのだ。

そうとは言いたくない、執拗な、いたみのような感覚があって、その簡単な回答を何度も否定させた。

 

コンクリートの壁面が尽きた上方からの、光。壁の一面いっぱいに開かれたガラスも何もない採光窓に腰掛け、あの青い医療服に着替えさせた。

彼女を見る。

彼女は部屋の中を確認するように、しずかに、ゆっくりと、あらゆるもに手を触れてみ乍ら歩き回った。

時間をかけて。

なんどもわたしを振り向き見乍ら。

 

意識が存在するとしたら?と思う。

もしも、彼女に。

彼女たちに。

あるいは、彼女にだけは。

 

背後、後方上部から差しおろす日差しに、わたしの体は染まっている。

 

 

思い出す。

あのあと、彼女は疲れ果てたように、倒れこむようにして、ベッドに身を横たえた。

わたしの部屋の中の、小一時間程度の散策の後で。

彼女はうつ伏せで、思い出す、その、倒れ付した瞬間に彼女は身をよじって、わたしを見たのだった。

 

笑った気がした。

 

わたしは彼女を見ていた。

ふいに差し上げられた腕が、まっすぐに上方を指差した。

 

死にました、と言った気がした。わたしは、すでに、もう、と、死にました。そんな気が。

 

彼女は眠らない。

 

いつまでも、ずっと、その開かれ続けた瞬きの無い瞳が閉ざされることはない。

その眠りによって。なにを?思う。見ている?

なにを。


永遠、死、自由《廃墟の花》4

二日後、すくなくとも一回寝て起きた後に、二人の男がわたしを訪れ、彼らは手招きした。笑いかけ乍ら。

わたしは従うしかなかった。一度、背後に彼女を振り返る。壁を指先で撫ぜて、彼女はふと、わたしを見やった。

横目に。

レ・ハンがわたしを呼び出したのだった。

すでに、おそらくは一週間程度、或いは、それよりはやい時間が、為すすべもなく濫費されていた。

 

 

同じ手続きを繰り返して、レ・ハンの部屋に入る。

レ・ハンがわたしを呼び出すだろうと、わたしは確信してさえいた。彼女をかくまい始めたときに。それは、きっと、違法行為に違いないのだった。「何も問題ありません」レ・ハンは言った。

入ってきたわたしを見留めるとすぐに、振り向きもせずに。

あるいは、彼のパソコン画面に映っているわたしに声をかけたのかもしれなかった。

「大丈夫?なにか、問題ありませんか?」元気で、毎日、生活してました?何も問題はなかったが、何も問題が無いとは言い獲なかった。

このまま、何も問題なく毎日が消費されて仕舞えば、本当に、気が狂って仕舞いそうだった。

レ・ハンの、わたしを見つめる微笑み続けた眼差しを、不意に、わたしは眼をそらし、思いつかれた唐突な「彼女たちは、何者なんですか?」その質問は、早過ぎた気がした。違う。最後に聞かれるべきだったかもしれない。今ではない。そう思った。

「予想されている通りですよ。あなたが。要するにゾンビです。いわゆる、ね?」

「どういうことなんですか?この施設における、最下層階級とか、そういった、人間たちなんですか?

 例えば、宗教を背景に虐待されている」そんな言葉、これらは自分自身が真っ先に信じていない言葉だった。

「じゃなくて、単純に死体が動いてるんですよ。」

「どうやって?」

さぁ」

「なんで?」

さぁ」声を立てて一瞬笑ったあとで、レ・ハンが手を叩いた。パソコンのキーを押し、イン、と言った。それは鼻に音声を抜きながら舌で喉に音を押し込んだような音声だったので、正確には聞き取れなかった。現地の言語に違いなかった。背後、突き当りの壁面に、棚に隠されて、在るとは気付かなかった出入り口から、入ってきたのは十歳くらいの少年だった。

手招きされるまでもなく、レ・ハンを意図的に模倣している同じような笑みを浮かべながら彼に歩み寄るのだが、振り向いて見たレ・ハンの顔に浮かんだ、単純で無邪気な笑顔は、いままでの見せた微笑みはすべて彼の偽られた表情に過ぎなかったことを暴露していた。

はじめて、わたしは彼が笑った顔を見た。

「《イン》と言います。彼の名前です。」ひざに抱き上げた少年を彼は紹介した。その正確な名前はわからない。わたしに聞き取りうる発音ではない。「彼のお母さんも、二年前かな?死にました。そして、ゾンビになりました。LDと呼んでいますがね、ゾンビだと、あまりに昔の映画や、何やの

LD?」

「そのままです。アルファベットにしただけ。Living dead…LD。ゾンビよりいいでしょ?ごまかせて。ね?かりに、一時外に溢れかえった彼らを第一次発生と呼んでいますが、彼らをLD。この施設を構築して、この施設を築いて以降、この施設内で発生したのを二次的発生、LDもちろん、これは、この施設の中だけでの俗語の類ですよ。もっとも、正式名称があるわけでも無いですが」

「第一次発生?」

LDの。そう、

細胞が、ね。進化、というのか、変異、というのか。もはやわたしたちも皆そうなんだと思いますよ。身体組織がトータルな死を迎えても、細胞単独は死ななくなったんです。つまり、死んでも、復活するんです。というか、死なないんですね。細胞たちそのものは。すぐ、腐っていきますけどね。細胞の再生機構自体は崩壊してますから。養分の補給もできませんし何なんでしょうね。生とは何か、死とは何か。あまり、この問題の立て方には、興味がないんですが。

いろんな人が、いろんな言い方をしましたよ。LD危機のとき。」

「危機?」

「精神的な危機。わかるでしょ?なんとなく。もちろん、LDも、食事の機能は破綻していますから、まちがっても人間を食べたりはしませんよ。映画みたいにはね。そういう危機は、何もなかったんです。あなたも、食べられなかったでしょう?」

「外にもいるんですか?」

「このあたりにはいませんよ。見たでしょう、雪に埋もれた鳥。白い。雪に果てまで覆われた真平らな地表。飛んでいた、「外では」鳥は。「生きられませんよ。彼らも雪の下で凍ってる。もっと南のほうに行ったら、まだ生きてるんじゃないですか?少しくらいは。ただ、単純に、腐りますからね。どうでしょう。」透明な水を少年の口に含ませてやったあと、彼は見た。少年の口がかすかに動いて、やがて喉が一気に飲み込んで仕舞う、その皮膚の上にえがかれた繊細な動きを。

遠い、ひそかになじるような目で。

レ・ハンは思い出したように続けた。「最初、第一次発生のときは、Friendsって呼ばれたね。最初。どこかの学者が言ったんだよ。最初に。ゾンビとは言いにくいでしょう?最初、例えば自分のお父さんや、なくなったばかりの奥さんが、そうなったからって、先日、妻がゾンビになりましたなんていえないでしょ?ただ、Friendsはすぐに、日本語に変えられましたね。自然発生的に。Tomodachiって。英語だと、意味がわかりすぎて、その逆説が強烈で

 それに、日本はLDの被害に精神的な被害に、ですがね、ほとんどあわなかったし、

「なぜですか?」

「火葬でしょ?」レ・ハンは少年に笑いかけ、もう一度水を含ませてやる。少年は口を膨らませて、水を含んだ、その唇にレ・ハンは口付けた。ためらいもなく。

少年は、口移しに、レ・ハンの口に水を注ぐ。

レ・ハンは口移しの水を飲む。

少年は、目を閉じていた。

両腕をだらしなく下げ、もはや、脱力し切ったようにレ・ハンの腕の中にしなだれかかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その、明らかな少年の恍惚には、少年の保身のための意図的な演技の存在を感じさせられた。目を閉じたレ・ハンの、本当の恍惚と見比べると、それは見苦しいまでに、薄っぺらかった。

一瞬の、少年の、わたしへの目配せを、わたしは見逃さなかった。

 

ね?。でしょ?」哄笑を含みながら、彼はわたしに同意を求めていた。一瞬、何への同意かはわからなかった。あるいは、彼自身を取り巻くこの環境自体への、乾き切った、彼自身の哄笑への同意に違いなかった。

レ・ハンの、恍惚の表情の故にではなく、彼が他人の、しかも子供の、細菌にまみれた皮膚に触れる、という目の前の行為そのものが、わたしに禁忌を踏んだ恥じらいと、ためらいを感じさせ、秘かに動揺があった。

「なぜ?」わたしは言った。

「なにが?」レ・ハンは、「ああ、」恍惚を、堕ち、崩すように、表情に崩壊させ乍ら、レ・ハンが言う。「わからない。」

少年は、彼の首もとに顔をうずめた。

「だれにも。わたしも研究してるけど。

「何の?」

「死者の。ゾンビ。LD。当初。LDの危機の当初、そうとうな自殺者が出たらしいね。一家で、集団自殺、とかね。LDといっしょに。動きだした恋人だとか、お母さんとか、子供とか。殺した後で自分も死ぬ、とかね。精神疾患を起こしちゃったりね。あるいは、倫理問題。死者の人権。彼らをどうすればいいのか?

 もちろん、怖いわけでしょう?死者が歩いてると。オカルトじゃないよ。単純に衛生問題からいって、ね?仮に彼らを隔離するとして、それは倫理的に正当かどうか、など。」

「死者がよみがえるなんて可能なんですか?」

「飼ってるじゃない?いま、自分でも。」レ・ハンが立てた笑い声がわたしには不愉快だった。単純に、「部屋に。」自分の自慰まがいの感傷を「昨日から。」あげつらわれた気がしたのだった。「明らかに死んでるでしょ?

 でも、動いてるでしょ?」

「意識はあるんですか?」

「わからない。人体における意味での意識と呼ばれるものはない。つまり、脳組織と神経系、シノプシス組織等の活動の産物、あるいはその総体としての意識は存在しない。

絶対に。

なぜなら脳は機能してないから。腐ってるから。やわらかいから、すぐ腐るからね。彼女のも、もう腐ってるかも知れない。死んで10日目くらいだから」

「知ってるんですか?」

「彼女を?」

「誰なんですか?」

「名前はチャン。Trang…Nhu Trang。」

「チャン?」

ん?」レ・ハンの表情が一瞬、喪失する。彼の「うまいね。ngの発音。日本人、たいてい駄目だよね、あれ。」眼差し。

「二週間近く前、集団強姦された。犯人探しは一応したけど、強姦はね殺人と違って、増えるほうだから。減らないから。そんなに、重要視されない

「泣き寝入りですか?」

「怒りますか?在りし日の彼女のために?」笑う。「悲しみの記憶のために?考えて。倫理の必然を。いま、人口が減り続けてる現状でしょう?どうでもいいんだよ。まず、増えることが正義なんだよ。」怒り?

レ・ハンを殴りつけたい欲望に「わかる?」駆られた。「死んだけどね。彼女は。」突発的な感情として。

 

「どうして?」

「自殺まあ、派手だったよ。半裸状態で泣き叫びながら回廊を駈けずりまわってた。何人だろうね?6人くらいかな?見ましたがね。これで」パソコンを指さし、「悲惨な、ね。なにもそこまで悲惨にしなくてもいいのにっていや、彼女のほうが、ね?その泣きさけび方が。」

「ここの中はいったい

「いや。平和ですよ。めったに発生しない。犯罪なんか。面白がって、わたしがずっと見ていたくらいだから。自殺は地味だった。手首切って、死んた。ほら、水びたしの部屋、あるでしょう?天井に水がへばりついてる。浮かんでましたね、あそこで。彼女。母親ですらなじったよ。何も死ななくてもいいのにって。増えるチャンスなんだから。それを減らしてどうするんだって。」

じゃあ、」そのとき、わたしが感じたのは、「記憶があるんだ」希望だったのか、絶望だったのか?

あるいは、「ありませんよ。」何に対する?

「絶対に。」なぜ?レ・ハンは言った。「意識なんか、絶対にないよ。」彼は、いま、わたしを見つめていたが、わたしは水に浮かんだ彼女の身体を照らした水の波紋の光の反射を思い出す。

「ありえない。だとしたら、本当に死者の魂がよみがえっていることになる。脳は腐ってるんだから。であるならば、逆説として、死者に魂は存在しない。魂に満ちた、身体がここと直接天国をつないでいる身体が、あれですよ?知性どころか、知能のかけらも無い。生きていたときの意識よりも低俗な魂が意識の源であるなら、生きていたときの意識があそこまで高等であり獲るはずがない。つまり、魂の論理自身において、自己矛盾する。以上。終わり。でしょう?」

「でも、意識が、

「わからない。筋肉の痙攣が、まるで彼らを生きているかのように見せているだけだという説もある。ただし、十分ではない。まるで生きているように見える彼らを説明しきれない。意識があるのかもしれない。しかし、それは、脳が作る意識ではない。つまり、人体に於ける《意識》という概念を外れた、何らかの認識行為が行われているのかも知れない。

まだ、わからない。

ただ、それは最早意識とはいえない。わかりますか?意識とは人体に於けるそれに代表される、脳に関わる機能なのだから。猫は猫です。猫は猫として猫の人生を生きる。彼女は人間ではない。ゆえに、人間と同じ世界をは絶対に体験していない。事実、目の前で同じ風景を体験したとしてもね。猫は人間のようには生きない。猫はあくまで猫らしく生きる。彼らの意識を、人間の意識と同じく認識することは、できないばかりか、あってはならない。猫の意識を人間の意識は体験しない。」

そうと、レ・ハンは独り語散るように言い、少年の頬をなぜていた手を自分の唇に一瞬当てたが、水。

彼女は自分が死んだ水の上に浮いていたのだった。自分の死んだ身体を水に浸すかのように。「犯人、知りたい?」

「犯人?」

Trangを強姦した、死に追い込んだ人たち。」レ・ハンが、あからさまに企みを含んだ笑顔を見せた。「ね?」

彼の気持ちが手に取るようにわかった。

知りたいんでしょう?」

 

わたしの反応を知りたいに違いないのだった。ちょっと待って、と、レ・ハンは、不意に思いつかれたいたずらが面白くて仕方がないかのようにパソコンを操作し、いくつかに分割された画面から、一人の男を検索した。

監視カメラが上空から映し出したその画面には、クローズアップされた一人の男が写っていた。

「彼が、首謀者、かな?グループのリーダー格。といっても、お友だち集団のリーダーってだけ。なにも犯罪集団ってわけではありません。」

 

長く伸ばされた髪の毛の、端整な、色白の男だった。綺麗な、と言ってもいい。その言葉の、もっともありふれた意味で。

優しげに彼はいま、市場で果物を買い込んでいた。

友人たちか、家族に持って帰ってやるのか。

「彼を見つければ、それ以外の人間もすぐに見つかるよ。いつも、彼の周りに群れてるから。彼の回りにいる男の子たちが、そのまま、犯人グループ、つまり、あなたの恋人を強姦した

 

「恋人?」

「違う?」笑う彼の声を聞く。鼻にかかった笑い声。「愛。不可解な問題ですね。」少年がくしゃみをして、「でしょ?」その鼻に、レ・ハンは口をつけて、何かを吸い込んでやるのをわたしは見た。「誰もが愛します。誰かを愛し、誰かは愛されますが、その感情及び営為の正確な定義をすることはできない。」

 

「あなたはなぜ人間を軽蔑するんですか?」わたしは言った。

 

まさか。むしろ、尊敬しています。自分自身も含めて。もはや、滅びるしかありませんがね。すでに、わたしたちは古くなっている。あたらしく生まれる子も、変異体のほうが多い。」

「変異体?」

「わたしたちより、若干の進化をしている人間たち。細胞の再生能力に優れている。例えば、指一本切り落としてもすぐに再生する。人類とは見なされない。だから、まとめて処分されている。」

「処分?」

「屠殺。焼いちゃうの。人間種じゃないから。」

「なぜ?生んだんでしょう?自分たちが。」

「ここは人間種の空間だから。人間種を保存するための。」

「誰が?」

いや。そんな、陰謀論なんか無いよ。彼らが、わたしたちが自分でそうしてるだけ。別に、僕はどっちでいいんですけどね。もちろん、彼らだって、あした、やめちゃうかもしれません。屠殺なんか。いきなり、ね。誰かが言いだして」少年がわたしを見つめていた。

目が合うと笑った。

その眼差しに、笑いさえすれば何でも許される、不遜な確信があった。「これが、彼女の母親。」映し出す。小柄な、太った女。優しげな物腰しで、子供たちをあやしていた。「会いますか?」わたしは答えなかった。

わたしはレ・ハンに言った。「あなたと、この少年の関係は?」

「わからない?」わかりますが、と、わたしは言い返しそうだった。わたしが思っているとおりですか?「あなたが思ってるより、なんだろう?日本語で。なんだろう?」レ・ハンは当たり前のように少年の衣服の中に手を滑り込ませ、それは、明らかな男性の愛撫だった。「穢い?かな?違うな。」レ・ハンが、不意に少年の唇を奪う。

少年は目を閉じて、いつくしむように、その頭を両腕に抱いた。

「殺されますよ」

「なぜ?」片目だけを開いて「誰に?」

「増やせばいいんですよね?増やせば。ところが、あなたの行為は増やさない行為でしょう?」笑っていた。むさぼる唇から、唇は離されないままに。「そのうち、殺されますよ。誰かに」

「たぶんね。」

 

「最後に」立ち上がって、わたしは振り向きざまに、レ・ハンに言った、「覗き見なんか、やめなさい。大人のすることじゃない。わたしの私生活の監視を、禁じます。いいですか?」一瞬、目を細めた後、レ・ハンはただ、声を立てて笑った。唇は離されていた。少年は愛撫の唐突な中断に、ただ、戸惑っていた。レ・ハンは本気で、笑ったに違いなかった。彼はいま、おかしくて、たまらないのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

階段を上がる。

 

地下から地上まで。

 

巨大な階段。

 

かならずしも人々はここを使うわけではない。

エレベーターがあるから。

螺旋を描いた階段の円筒の上部からの光がさす。

 

白い光。

レ・ハンが期待するとおりの行動を、わたしはやがてしでかすに違いなかった。それにしても、すぐさま、そうするのがいやだった。かすかに反響したわたしの衣擦れと足音とを聞いた。床面は、水が反射するような光のひだをしずかに映し出していた。純白のコンクリートに。最上階に上がる。

階段が尽きた先に、屋根も何もない屋上が広がった。はるか向こうの両脇にまで、上空に突き上げた無数のコンクリート壁がある。

見上げれば、高さの疎らな巨大なそれらが迷路のように入り組まされて、その巨大なコンクリートの長方形はそれぞれ、最終的にお互いに突き刺されている。

それらのつらなりが、コンクリートの城壁を造っているに違いない。見えるのは一部に過ぎない。すべて、その果てをまで見切ることはできない。

空は、水で覆われていた。

 

広大な天井は水流が形成しているのだった。見上げた眼差しの中で、かすかな水の揺らぎは空の揺らぎのように感じられた。水の向こうは白い。光は、ただ、厳かだった。向こうの壁面に、うなだれてもたれた人体があった。

たらされた右腕だけが震えていた。

遠く、性別も年齢もわからない。

《死者たち》。

それは、そこで、独りで腐っていた。

 

 

回廊の近くの広場に行く。噴水の周りに座る。水の音を背後に聞く。人々はたちどまらない。四方に開かれた通路から入れ違いに、すれ違い、声はかけられ、笑い声がたち、たまに彼らはわたしにまで笑いかけ、声をかけさえしたが、わたしは水の音を聞く。彼らはいぶかしかったに違いなかった。この異邦人は、なぜ、こんなにも不機嫌なのか?

《死者たち》の老人が一人、いま、壁にぶつかって倒れ付した。骨が折れたらしかった。床で、のたうちまわるように、四肢をばたつかせるが、彼らに痛みの感覚はあるのだろうか?あるとしたら?生きながら崩壊していくこと。

比喩ではなく現実的に、彼らは死に犯された身体に訪れる、それらを崩壊さしめていく作用のすべてを直接、感覚しているのだった。彼らは指を触れ続けているのだった。それどころか、体を浸しきっているのだった。死に。とはいえ、死という事態自体が、訪れるつつあるものではなく、すでに訪れたものに過ぎない彼らに、死にもはや何の意味も無いのかも知れなかった。

 

女が一人、わたしの顔を覗き込むようにして一瞬伺い、笑いかけて、通り過ぎて行った。不安なのかも知れなかった。彼らは。わたしがなにかしでかしはしないか。あるいは、興味深く、彼らはわたしを見守っているかも知れなかった。いつまで、この男は生きていられるのか?つれてこられた何人かの男たちのように、いつ自殺してしまうのか?いつまでも生きていられる自信は無かった。すくなくとも、まともな意識のままで。

年老いた女のらしい、長い悲鳴が立った。向こうで。

喚声が立ち、向こうで、何かが起こっていた。

耳を澄ます。

通路に出た、右手のほうか。

何人かの人間たちが駆け込み、逃げ出してきて、叫び、ののしりあうのだった。口々に。ときには何かをお互いに指示しながら。暴力の匂いがした。事故だとは思えなかった。何もわからない。皮膚すれすれに危険な何かが迫っていて、それを回避しようとする不快な圧力が喉もとに迫った。単なる、感覚として。

背後から数十人の人間たちがバイクを飛ばして駆け抜けていく。

なぜか、吐き気がした。

銃を担いでいた。

皮膚の下で体内が体温を失った。

鎮圧部隊だったのか。あるいは、混乱を煽る側の人たちなのか?

人々。

ある女が床にすわりこんで泣きじゃくり、なぜ?三人がかりで女たちは慰めるのだった。白目さえむいた彼女を。子供が泣き叫んでいた。その音声が頭の中を突き刺した。悲惨なノイズだった。誰も彼に手を貸しうる人間はいなかった。頭から血を流している男が歩いてきて、通りすがりの男にすがるように指図した。男は床に座り込んで、頭部の出血の手当てさえしない。男は何かに絶望していた。うずくまって床を見ていた。自分で、血に汚れた布を頭に押し当てているだけだった。いま、この風景を、と、向こうの奥で銃声がする。

見ているのだろうか?機関銃の乱射。

レ・ハンは?無数の。

やけになったようなそれら、機関銃の発砲音が向こうで木魂して、その絶え間ない音響が、叫び声の束と共に、それらは大音響となって空間を破壊しあい、離れたここで、いま、それは、ささやき声に満たない音量で、すまされたわたしの耳の中に聞こえていた。

レ・ハン。彼の構築した世界が、いま、崩壊しようとしている、と、思う。あるいは、彼自身が仕掛けたのだろうか?この崩壊を?サイレンの類は何も鳴らない。女が笑うような声を上げて泣き崩れた。

通路に入ると、大気が、向こうから立ち上がってくる煙にいぶされて、臭気にまみれる。衣服ごと燃えている人体が死んでいた。銃声は最早無い。喚声だけが時に、疎らに立った。

人々は傷ついて、床に倒れ付していた。

無数の発砲が殺してしまった二人の男の人体が寄り添うように重なって、血にまみれていた。

流れだした血は、濃すぎる紅に床を、彼らの衣服を、染め抜き、灼けた内蔵の匂いがした気がした。一瞬、しかし確実に。もはや鼻腔は麻痺していた。

無数ののた打ち回る肉体はまだ死に切れてはいない。肉体がせめても生を維持しようとする。進めば進むほど惨状はひどくなる。何人死んだのか?何人死のうとしているのか、そして、結局は何人死ぬのか?なぜ、彼らは殺されたのか?誰が、なぜ、彼らを殺したのか?通路の真ん中に、体をへし折るようにしてうつぶせた男の、撃ち抜かれ、上部を吹き飛ばしてしまった頭部の残骸を、ある男がひざの上に抱えるようにして、そのくせ、彼は泣きもせずに、なにか、訴える眼差しでわたしをただ、見上げる。

わたしだけではない。

彼の目に映るすべての人間を、彼は。

彼は明らかに、死ななかった人間のすべてを、ただその眼差しのみによって非難していた。

よくも、まだ、と。

 

死体を引きずって、一箇所に集めようとしている男が背後から殴打され、逃げさろうとした加害者は射殺された。

周囲に立っていた女を、へし折るように、ひとり巻き添えにし乍ら。

 

まだかろうじて生きている兵士が、にも拘らず、死にかけた目でわたしたちを見ることなく、彼の見開かれただけの眼は、すでに、何ものをも見い出すことなどなかった。

 

火災が、コンクリートを黒く染め、傍らで肢体が燃え上がっていた。あるいは、生きながら火をつけられた人体が、叫び声さえ尽きたいま、死体として燃え始めているのかもしれない。

 

臭気。

さまざまな臭気が鼻を打つ。呼吸さえためらわれるが、なだれこむ複数の臭気に、なんどめかに、ふたたび、鼻がゆっくりと麻痺しまじめていた。

 

残酷な色彩。

天井近くにまで跳ね上がった鮮血。

砕けた頭部の肉片と、その踏み砕かれた断片。床の上に。そして、いまも踏み砕かれながら。

 

首から下しかない死体の出血が止まらない。


永遠、死、自由《廃墟の花》5

そのまま、その惨状を突っ切って、わたしは《花園》に行く。静かだった。何も起こっていなかった。混乱が起きたのは、西のブロックのわずかな範囲に過ぎなかった。それでも、百人近くが負傷していたはずだった。50人ほどの死体を見た気がする。膨大な花の群れが一輪たりとも乱されることなく、咲いていた。目にあざやかな色彩。

《花園》の空気を吸い込む。容赦なく、その鮮明な空気が入り込む。穢れた肺に。一気に。鮮明な。鮮度に冴えた空気の触感。臭気の無い空気の匂い。その瞬間、わたしの体中が血と肉片の臭気に汚染されきっている気がした。

涙をなどともない獲ない純粋な悲しみが、悲しみ以外の何ものも含まないまま、わたしに襲い掛かっていた。

彼らの死を悲しんだのではない。

こんな世界に生きなければならないわたし自身を悲しんでいるに過ぎない。

 

そんな気がした。

そして、もはや、それがすでに悲しかった。

わたしは、百合のような、かすかに花弁の縁を桃色がからせた白い花を、一本、折った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ぐるっと回って回廊に帰る。回廊の周辺には何も変化はない。変わり映えのしない時間だけが経過している。部屋の中で少女はベッドに座っていた。わたしに気付いた彼女はわたしを振り向き見た。

知覚。

彼女はわたしの接近を知覚した。どうやって?知っている。彼女が、わたしのここにいることを。確実に。

たとえば植物は知っていたのだろうか。樹木はかたわらに立ったわたしの存在を知覚していたのだろうか?

昆虫は、蝶は知っていたのか、花々とともに、自分を見つめたわたしの眼差しに。

見つめられていることに。

知っていたのか、花は。

へし折られて仕舞うこと、仕舞ったこと、仕舞っていたこと、それらを、その、経過をさえも?

 

その、植物的な知覚に於いて。

 

 

彼女の胸ポケットに、そっと花を差してやった。

表情はなかった。

指に触れた彼女の、体温のない胸元の冷たさが、かすかな恐れを指さきに与えた。

彼女はわたしをだけ見上げていた。

かすかにあごを上げて。

黒眼がわたしのほうを向き、黒く、そしてきらめく。

 

それらが、結局は何も見ていないことをは知っている。

 

向かいの壁の窓に座り込んで、見詰め合うのだった。沈黙の中で、話すべきなにかを探した。日差しが遠い上方から床に直視する。体半分だけ光に埋もれた彼女の、半身の白いきらめきを見る。レ・ハンは見ているだろうか?監視カメラは見当たらなかった。本当に見たのだろうか?もしも、彼が煽情に長けた心理学者で、わたしの何かを煽ろうとして、伝聞に過ぎない情報で、嘘をついているとしたら?見てるの?と、問いかけたくなる。見てる?少女に。ねぇ、その視線は俺を。明らかにわたしを見ている。こまかなきらめきの向こうで。わたしだけを。

 

見てる?

 

Trangの母を見つけ出すのに、苦労はしない。いくつかある市場を回るうちに、あの《水の広場》から遠くない市場で、すぐに彼女を見かけることができた。人ごみの中に見いだされた彼女は、食事のために違いない、野菜と肉を大量に買い込んで、何かのパーティでもあるのだろうか?かごを押し乍ら歩いて回っていた。市場を出た彼女の後をつける。彼女は結構な距離を歩いた。突かれ切るには十分な。

天井から差し込んでくる、壁に反射させられた横向きの光が、ときに逆光を作る。

人々は行きかう。口と鼻から息使い乍ら。

住居の中に入っていく。部屋の入り口はほとんどしきられないままに、数十メートルにわたって開口し、壁面はそのまま広い空間を維持して、その奥で重なった壁の向こうに居住空間があるのかもしれなかった。

この施設に無数に開かれた、ありがちな住居スペースの一つ。わたしの部屋とたいして変わらない。

いくつかのかざり壁が戯れに遮断しただけの空間の中で、若い女が子どもと戯れてやり、小さい子どもたちは3人いた。奥の木製の椅子に年老いた男が、うなだれるように座りこんでいた。そのおちた肩がなぜか悲痛だった。一瞬、もう息をしていないのかと思った。その若い女ははじめて見る女だった。見覚えが合った。あきらかに、見覚えがあった。

 

彼女たちの住居のはす向かい。通路の柱の影で時間をすごす。女が出てくるのを待つ。その日、女は出てこなかった。

 

次の日もあるいは、あれから、なにごともなく、ただ待ちくたびれて、みじめに、疲れ果てて、帰ってきて、寝て、起きて、ややあって、ふたたび、経過する時間の中で、ふたたびあの女のところに行った。何が起こるのか、なにを確認するのか、すでにわたしは知ってさえいた。

女は出てこない。

若い男が出入りした。やがて、わたしは自覚した。すでに、この円柱と、床と、周囲の空間に、奇妙な親しみを感じ始めていることに。うずくまって、立てたひざの中に顔をうずめたままに、やがて眠り始めてしまったわたしを、そして、誰かが起こした。

わたしは、意識を取り戻しながら、鼻腔が匂いを感じていたのに気付いていた。

開かれた目が、彼女を捉える前に。

それは、女の髪の毛の匂いに違いなかった。

鮮やかな。

鮮明な。

そして、かすかな、彼女の体臭の、やわらかい、生きた皮膚の匂い。それを嗅ぐのは久しぶりだという気がした。つねに、自分のそれを吸い込んでいるに違いないのに、それは。

正気づかれたわたしの眼差しは、彼女を捕らえる。寝呆けたわたしを、心配そうに彼女は揺り起こして、何か言っていた。何を言ってるの?わたしは言った。何?

「なに?」

 

答えないまま、あたりまえのように彼女は笑いかけた。彼女が何か言っていた。彼女の言葉に言葉を発した。なんでもない。大丈夫です、と、気にしないで、大丈夫。言う。わたしの言葉を、

「だいじょうぶ、」わたしは、「ありがとう」聞いていた。彼女も、その耳のすぐそばで。わたしが言うのだった、もう、だいじょうぶ。大丈夫です。彼女は、あの少女の妹に違いなかった。十六歳くらいなのか。美しい少女だった。あるいは、彼らにとっては。わたしには少し、唇が跳ね上がりすぎている気がした。そして、鼻はまるすぎ、眼は大きすぎた。美しい少女だった。人種的な差異に傷つけられながら、わたしたちは予測しあうのだった。その、固有の美しさを。異人種との間では。探りあうのだった。目の前のものの、美しさの妥当性を。

すこしも美しいとは思わないときにさえも。

この少女が、あの少女の妹であることなど、すでに知っていた。離れた距離において確認されていたものを、至近距離の中に確認しなおしたに過ぎなかった。彼女が何か言った。ありがとう、わたしは答えた。わたしは立ち去ろうとする。あの幼い子供は、と、思う、あの少女の生んだ子どもに違いない。まだ、床を這っている、あの子供は。

 

父親は誰だったろう?出入りする男たちの誰かなのだろうか?すでに、それはどうでもいい気がした。わたしは、わたしが記憶する少女の顔と、目の前の彼女の顔を重ね合わせて、いつか、生きてあるならばそうであるはずの彼女の顔の映像はかたちづくっていた。

あの少女の顔が見えた気がした。

なんの、映像も正確には結ばないくせに。

 

立ち上がって、帰ろうとした瞬間に、彼女の家から出て行った男とすれ違った。息を飲んだ。それは、あの男だったから。Trangを強姦した男。首班だといわれた男。彼は、すれ違いざまに、彼女に何か言われて、わたしにふと、さびしげな笑顔をくれた。

 

でしょ?、と、わたしに同意を促す笑顔。知っているのかも知れなかった。わたしが、いま、少女を《飼って》いることを?そうではなくて、単純に、わたしを悲しんでくれたのかも知れなかった。いつか自殺するに違いない、あるいは、いつか狂気に堕ちるかも知れない、あるいは、その両方を享受することになるかもしれない、目の前の男の、将来の破綻の予兆に。わたしが何の気も無く差し出した手を、彼は握った。握手に、わたしはその手を握り返した。触れられていた。わたしの手は、彼の手に。しっかりした手だった。肉の厚みのある。その手。少女を殺して仕舞ったその手に。わたしは自分の手さえ穢れてしまったのを実感した。ふたたび、手が離れた瞬間に。はっきりと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

レ・ハンの部屋に行った。

誰もいなかった。

いつものソファに座った後、思い直して、立ち上がり、振り向いて、突き当たりに歩く。壁面と棚が、そこに出入り口のあることを巧みに隠している。知っている。あるいは、隠されてさえいなかったのかもしれない。単純に、見えにくいだけなのかもしれない。

その部屋は、薄いピンクの壁紙が張られ、花の柄を意識した抽象的な筆が色彩を描き出していた。

花が舞っているように見えた。

中央の、薄桃色のシーツが掛けられたベッドの真ん中に、レ・ハンは仰向けのままで裸体を曝していた。わたしは目を逸らした。恥じらいが生まれて、すぐに、通り過ぎた。

数人の少年たちは、彼を愛撫し乍ら、気付いたわたしにかわるがわる笑いかけた。十人程度の少年たちが戯れていた。ときに、駆けずり回ってみせながら。裸の少年たち。十歳程度の。それ以上はいなかった。幼い子供たち。レ・ハンは茫然としたように、天井を見上げていた。射精したばかりなのだ、と、わたしは一瞬思った。その痕跡はなかった。あるいは、薬物のせいかも知れなかった。いずれにしても、彼は恍惚としていて、わたしに、禁忌に触れた、生理的な見苦しさがあった。

いたたまれなかった。

 

どうしました?

帰ろうとしたわたしにレ・ハンの声はかけられ、わたしは振り向く。「どうしたの?」

「あなたこそ、どうしたんですか?」

「何が?

 

落ち込んだような沈黙がながれて、「ここは、何ですか?」わたしのその声に反応した少年の一人が声を立てて笑い、早口に彼らは何かを耳打ちしあったのだった。

聞き取れないささやき声によって。

「何事ですか?何をしてるんですか?いったい、あなたは、」と、言い終わらないうちに、「愛しています。」レ・ハンは、身を起こさないまま、「見えますか?わたしは、いま、愛しています」言った。

 

「少年たちを?」

「見えますか?」

「奴隷ですか?彼らはこの子たちは。あなたの?」

「違います。見えるでしょう?」

「なんですか?これは」見てください、レ・ハンは言った。わたしの声には、明らかに非難があった。軽蔑と、嫌悪と。少年たちは、くすくすと笑ったり、笑いあったり、或いは、既にわたしの存在に飽きて仕舞った少年たちは、ほかの新しい獲物を探して周囲を見返した。「壮大な、廃墟です。ここは」わたしが言うのを、彼らの何人かは聞いている。「あなたの、欲望の。独裁者の。哀れむべき、狂った

「違いますね。」

「何が?」

「まず、」身をおこしたレ・ハンは、いつものように微笑んでいた。「わたしはいかなる意味でも独裁者じゃない。単に、協力しているんです。彼らの生活レベルの向上のために。わたしは、生態医療の研究をしていましたから。彼らのために、いまも、研究しています。」

「何を?」

「ここで?ここでは、薬を作ろうとしたり、治療法を考えようとしたり

「したり?」

「医者でも薬剤師でもないから。DNA工学の研究者だったに過ぎません。ですから、基本的には何の役にも立ちません。DNA学者に薬を調合させるということは、パブロフにトナカイのそりの乗り方を尋ねるようなものです。素直に、サンタクロースに聞いたほうがいい。わたしは、基本的には誰も救えません。自分自身さえも。」

「あなたは、」

「末期がんです。ここの医者が言いました。いつだったか、そう。失心したときかな?のけぞって倒れたらしいよ。いきなり。とはいえ、正確な余命さえ、自分では診断できません。すこしまえ、暴動事件があったでしょう?あの犠牲者たちも、ひとりさえ、わたしには救えませんでした。何もできません。ましてや、彼らを支配することなど。しかし、わたしは救おうとしている。彼らを。わたしたちを。何とかして。研究しています。どうにか、

「なにを?何の研究を?」

「わからない。調査している。LDや、異端種の。彼らの。なにを、研究すればいいのか、それを探している。あわれでしょう?でも、精一杯やってる。どうすればいいのか、わたしにはなにもわからない。が、何とかしようとはしている」

「そして、」嗜虐的な、喜びをわたしはいつか感じていた。「この、くそいまいましい、穢らしい、あなたの変態のハーレムを築いている?」

「結果としてはね。ただ、」わたしは、彼をなじって、ぼろぼろにし、穢し、穢しぬいて、ひれ伏させ、生まれてきたことそれ自体を後悔させてやりたかった。「この子たちが、望んでいることです。」

「うそでしょう?」

「嘘ならよかった。わたしは綺麗なんです。美しいんです。彼らにとっては。わたしは愛されているんです。力で強制してるわけじゃない。求めるもの、求めることを与えているんです。彼らのために。彼らを辱めないであげてほしい。」

「愛とは何ですか?あなたにとって。性的な愛玩物として堕落させることですか?愛する対象がそんな穢れた存在になることを、むしろ自ら楽しんで仕舞えるような、そんな感情にすぎないんですか?あなたにとって、誰かを愛するということは?」

「あなたにとっては?」

「わたし?」

「あなたにとって、誰かを愛するということは、どういうことなんでしょう?」

「いつくしむこと。尊重すること。その人が幸福であるために尽くすこと。幸福を願うこと。」

「同じですよ。わたしも。同じようなものです。」

「いつくしんでいますか?あの子たちを穢し乍ら?」

「いつくしみの感情もなくて、欲望に駆られただけで、人は口付けできますか?他人の肌に。やさしく?」

 

わかるでしょう?もういいかげんにしましょう?そんな表情を、レ・ハンは晒していた。もういいでしょう?ね?わたしは次の瞬間に、笑い出して仕舞いそうだった。

「この子達の親は知っているんですか?」

「気づいていますよ。ただ、まだ、知らない。気づいているということと、知っているということには、本質的な差異があるとは思いませんか?それらは別の体験なんです。」

「殺されますよ。彼らに」

「そうでしょうね。彼らが知ったら。間違いなく。」

「知らせてやりましょうか?わたしが。」ついに、わたしは声を立てて笑った。その瞬感、後悔が残った。

「殺したいですか?あなたは。わたしを。

なぜです?」教え諭すように。簡単な答えに、幼い子に、答えをみちびいてやろうとするように、彼は。

わたしにはそう聞こえた。「何もあなたを害しはしないわたしを?」もう一度、ややあって、彼は、繰り返した。同じ眼差しのうちに。「何故です?」

少年の一人が泣き始め、それは、ちいさな子供同士のいさかいだった。彼を泣かして仕舞ったほうも、いつの間にか泣いていた。その泣き声が、不意に、この空間の気配を悲惨なものにしていた。なんという、と、わたしは、残酷な世界なのか、この世界は。思う。なんという、無残な世界。「だいじょうぶ」むごたらしいだけの。レ・ハンは、二人の子供を呼び寄せて、彼らはお互いにレ・ハンにすがって泣きじゃくっていた。「だいじょうぶ。もう、」まなざし。慈愛に満ちた、その、彼の眼差し。

立ち去ろうとしたわたしに、思い出したように、レハンは言った。「わたしも、あなたと同じように彼らに救われてきたんです。同じように。日本から。ね?」

「待って。」わたしの声を彼が聞いているのか、もはや、不安だった。「じゃ、この施設は、誰が作ったんですか?あなたじゃないんですか?」レ・ハンは、泣き止みかけた少年の涙を唇で拭っていた。やわらかく、「わたしじゃない」閉じられたまぶたに、恍惚の表情がはっきりと、あった。「くわしくは知らない。ただ、」自分さえもが、泣いて仕舞いそうだった。レ・ハンは、いま、「東ティモール人かな?海の向こうの」少年に、共感しているのだった。心から。彼が触れた、涙そのもの。その、ぬれた触感、温度にさえも。「どこかの島の少数民族か、なにか。クインとかキインとか外国人の名前だから、発音は正確にはわからない。スズキさんが、シュジュキさんになったりするでしょう?」

「彼は、いま、どこに?」

「知ってどうするの?」レ・ハンは声を立てて笑った。「死んだ。殺された。DE‐34に、真ん中近くの、北の外れに、廟があるよ。クーデーターを起こそうとした疑いがあるとかで、彼らに殺された。この建物は彼が設計したんです。システムも、何もねかもね。グループだったかな?個人じゃなくて。ただ、廟は個人の遺体が祭られてるね。LD化しないように、冷凍されてね。伝説的な英雄だね」

「クーデター?」

「ちょっとしたいさかいがあったんでしょう。興味ない。わたしは。」

「なぜ?なぜ、興味が無いんです?」

「決まってる。」ふたたび、鼻にかかったレ・ハンの笑い声を聞いた。「触れられ獲ない過去に興味は無い。過去をいたぶる時間も無い。すでに、猶予も無く滅びかけてるんだから。」微笑んだ。「わたしたちは、みんな」

 

 

あの男を捜した。見つけ出さねばならない気がした。わたしは時間におわれた。走った。憎むべき、あの、うつくしく優しい男を追った。時間に追い立てられていた。人々の間を早足に、彼らにときにぶつかりながら駆け抜け、時に、見誤った男を殴打してしまった後で彼に殴られる。喚声、わめきごえ、わたしは探す。乱れた自分の息を聞く。時間がなかった。あの、小さな噴水の近くで見つけた彼は数人の男たちと群れて、話し込んでいた。立ったまま。Trangを殺した男。彼の友人が笑い乍ら煙草に火をつけた。不意につかまれた胸倉に、一瞬戸惑った表情を浮かべた。男は、殴りつけられて倒れ掛かるのを踏みこたえ、誰かがわたしの肩を羽交い絞めにしようとする。こぶしに痛みがあった。彼の歯が傷つけたのだった。振り払って逃れた隙に、誰かの体にぶつかって噴水に落ちた。よろめきながら。彼を殴る。水の中で。首を絞めてやろうとした瞬間に周辺で声が立っていたのに気づいた。

周囲の、誰もからも。

音響が満たしていた。

水の中をさえも。

水は飛び散る。

水の中に、彼を窒息させようとした。羽交い絞めにされたわたしは床にひずられ、男たちの制裁が始まる。体中が濡れている。歯が折れたのは知っている。血の匂いが鼻中に満たされ、口の中が濡れている。痛みが体の内部を満たしきって、口からあふれた。一瞬、止まった呼吸が肺を無意味に膨らませた。わたしは、誰を愛しているのだろう?誰を?何を?殴打がやまない。何度か失心した意識が、ふたたび、殴打の痛みに呼び起こされて、強制的に、あの天使のような少女の、穢され、自殺させられて仕舞った少女の思い出を?見たこともない、思い出され獲もしなかった、わたしの、このわたしだけが抱いた彼女の思い出を?、彼女は振り返った。微笑み乍ら夢見られた、生きていたとしての少女の残像を?髪が乱れた。

はらっ、と。

振り返ったその一瞬に。なにを?

目の前に見ている少女の死んで仕舞ったなきがらを?彼女の身体をいま、動かす、何らかの意識の明確な存在を?それらを、それらに、いちどたりともふれえもしなかったままに?

それらを?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛している、と思う。

 

何を?

偽り無く、否定もできずに。

 

やがてわたしは失心していた。

 



読者登録

Seno Le Maさんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について