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永遠、死、自由 6

目を開けると、天井がある。

コンクリートの。

それは白い。

横から反射して差す、しらずんだ光が、真横から照らしている。

わたしの横たわった身体ごと、その室内を。

 

複雑にたたみかけられた壁面の交錯。

影が光を浮かび上がらせ、光が影に沈んだ。

壁に染み付いた反射光。

 

わたしの身体は、床の上に投げ出されたマットレスの上にある。

部屋の中だった。

あるいは、部屋として見いだされるべき、仕切り壁に不完全に隔離された空間の中。

 

わたしは意識を取り戻している。目が醒めるにしたがって、身体の痛みが、思い出されたように、意識され始めていくのだが、痛み。

しつこく、沈んだ痛み。

そして、この部屋にはなんの記憶もない。

この部屋に来たことはない。

はじめて来た部屋。向こうに、人の気配がした、複数人の。そして、こどもの声が。なぜ、いつでも子どもの泣き声は悲惨なのか。むごたらしいほどに。

天井で扇風機が舞っていた。その音はかすかに聞こえていた。それが大気を揺らし、かすかに風が舞っているのを皮膚は感じていた。その、産毛の一本までもが。

 

体を起こして、立ち上がり、壁面の隙間を抜ける。歩く。声がしたほうに。そして、あらかじめ予想されていた風景を目の当たりにして、わたしはかすかな驚きを感じる。何の想起も伴わないからっぽの既視感とともに。

少女の妹が子供をあやしていた。よちよち歩きの小さな子供と、6歳くらいの子ども、そして、その首が振り向いて、わたしを見上げたが、遅れて、妹はわたしに気づき、一瞬の戸惑いの後に微笑もうとした。

すぐに、我にかえった彼女が、咎めるように何か言った。わたしにだった。彼女はわたしを見ていた。まだ寝ていなければならない、と、彼女がそんな事を行っているに違いなかった。眼差しが優しく咎めた。立ち上がった彼女はわたしに触れ、それらの身体の動きが幼児を驚かせたのか、泣き出してしまった幼児に彼女は短く舌打ちする。

彼女は混乱している。ささやかに、みじめなほどに、どうしたらいいの?ねぇ?どうしたらいいんでしょう?幼児とわたしを交互に見返し、わたしは何度も振り向き見る彼女に微笑まれて、わたしの唇からは笑みがこぼれた。どうしようもないわ、ねぇ?言っていた。ほんとに。ねぇ?ね。

体臭。彼女の体が、その動きのたびに大気に触れて、大気を穢す。それが、わたしに触れる。予感された温度があった。彼女の身体の。なぐさめるように時に、わたしの体に触れた彼女の指さきは、温度を感じさせないままに離されたが、体温はすでにわたしに感じられていた。

口走られつづけるささやくような彼女の音声、それらを聞く。静寂はそのたびに、耳の中で、雪崩を起こして崩壊し続けた。

幼児の泣き声につられて、奥から足音が聞こえ、それはあの男だった。わたしの姿を見留めると、一瞬警戒して、ややあって、微笑み、わたしに近寄った彼の体の匂い。

気配。

理性的で、親密な。

誰からも優しい男として、ときにうらやましがれたりさえしたに違いない。この男の妻は。この男が集団強姦などできるものかうたがわしかったが、わたしには確信されていた。彼らの必然に於いて、それらは確実に行為されたのだった。どんな必然に於いて?彼がわたしの手を取って、握手に握った。そのときにもまだ、わたしは彼を見つめるばかりで、彼の手を握り返すことさえできなかった。しっかりした、厚みのある体温。彼は、あの少女を愛していたのかも知れない。或いは、と、思う、この幼児の父親だったかもしれない。少女の夫。妹と彼には、あきらかに家族集団の集合された《匂い》があった。義理の兄の、義理の妹に対する、同一ではない集合の匂い、のようなもの。気配の。身のこなしの、しぐさの。彼らが同じ時間における体験を共有していたのはまったき事実だった。

抱き上げられた幼児が妹の腕の中で、言語にはならない音声で何かを伝えていた。男が何か言った。素手でとられた皮さえむかれないままの果物を、その、青緑のそれを、男は手にとって、わたしに笑いかける表情のうちに、わたしにも勧めた。

テーブルに置かれていたそれ。バスケットの中の。

男がかじりついた瞬間に、妹が声を立てて笑った声が、空間に、すっ頓狂な時間のひずみを一瞬、うがった気がした。わたしは知っている。わたしがいま、微笑さえしていたのに。どうしようもない既視感がやまない。果物の球形に光がぎざついて反射し、瑞々しく、光ごと男の口はそれを食いちぎった。

音をたてて。

噛み砕く。ほら。おいしいよ。顎は咀嚼する。

男が言っている。

笑いかけながら。あなたも、どう?ね?

…nhe.

ニェエ。

ね。その青づいた果物の球形に触れた瞬間に、それに、指さきが触れようとした一瞬前に、思い出してた。わたしは。妻を殺したときの記憶。

旧東京市街区の廃墟の中。

崩れそうなビルの谷間。

割れたガラスの破片の、路面に点在したおびただしく細やかな反射光の散乱。

 

死んだ妻の死体を廃墟のビルの壁にかくまう。なぜ?もはや誰も奪い去りはしないのに。誰からも咎められはしないのに。既に多くの人々は死に、いま、死にかけ、やがて死を迎えるに違いない。向こうで《死者たち》の一人が、飛び出した鉄筋に突き刺さったまま、右腕を上下させた。路上の真ん中の巨大なコンクリート片の残骸に、猫がたたずんで、しかし、鳴き声さえ立てない。人間の、人間らしい死。特異種とは違う死。痩せた青白い妻は生きているうちから、もはや、すでに半分死んでした。むこうで爆発音がした。死んだ都市の死にかけのパイプラインが、いつもの自然爆発をしたに違いなかった。また、誰か死んだだろうか?美しい妻。女優さんみたいね?清楚な、端整な。ほんとに。女優さんみたい。そのやつれた、黒ずんだ口からの垂れた血痕の赤さ。耳から流れていた血が指さきに触れる。なぜ?そんなところから、何故?と、それは最早どうでもいい。彼女は既に死んでいた。息が荒れている。三歳になる子供はわたし自身が殺した。死んでいたから。原爆症なのか、白血病なのか、がんなのか、それは知らない。痩せ、やつれきった身体が、わたしが遅く目覚めたその朝に。ベッドから立ち上がることもできないままに。妻は泣きもしなかった。ただ、悲しんだ。《重度汚染地区》には、すでに、生存の可能性などなかったが、ここよりほかに行くべきあてもなかった。なぜ、こんなところに生き続けたのだろう?離れ難かったから?すべてが崩壊していたにも拘らず。やがて、妻にその時が来るのを待つ。子供の覚醒は早かった。幼さなかったから?数時間後に起き上がろうとした彼の身体に、ガソリンをぶちまけてわたしは火をつける。燃え上がるそれを背後にして、わたしは奥の彼女に言う、逃げよう。彼女は目を伏せていた。怯えて、震えてさえいて。燃えうつる前に。火が。逃げよう。家屋は既に火を移している。声はしない。子供の声は。行こう。子供をふたたび殺すのはわたしの仕事だった。わたしたちが決めたことだった。彼女がそれを望んでいた。パパに、してもらいたいよ、たぶん。あの子も、きっと。埋葬は?埋葬は。炎の中に。遠い空を、T.O.M.の巨大な影が、月を隠して、向こうに、音も無く停滞しているのを見やる。月からぶら下がった巨大で平らな黒い影。それ。もうすぐ夜が明けるに違いない。それはいま、沈みかけている。妻は未だ目ざめない。もう、二度と目覚めることは無い。まだ覚醒しない、死んだままの妻。もう二度と、彼女が目覚めることはない。起き上がって、何か、どうでもいい文句を並べ乍らわたしに笑いかけることは。火をつけるべきガソリンも無いわたしは、彼女を抱きかかえて、廃墟を登る。崩れかれたビルの群れ。片っ端から割れたガラス、その破片。夜の暗さが薄れ、差し始めた光に、夜の消滅に先行するように、きらめきを空間に放ち始めて、明けはじめた夜。屋上に上がる。あえぐような息。もうすぐ?わたしが死んだら、覚醒したわたしを誰が埋葬してくれるのだろう?最後の人間たちの一人として。広大な空間。すべてのものが崩壊した、どこまでもつづく廃墟の群れが、空間に荘厳なたたずまいを与えた。空間はなにも崩壊していなかった。人間たちの営為だけが崩壊していた。屋上の、罅割れた床の上に妻は身を横たえて、もう何時間も待っている。何時間も。時間の停滞。待つ。夜明けの光。冬の、冷たい大気の中に。体が震えていた。寒さに。悪寒に。わたしが、その、見つめられていた指先が動き始めるのを認めた瞬間に、時は来たのだった、ときは、と、思う。

わたしは。

わたしの腕に抱かれた彼女の冷たい身体は、そして、その目がふたたび開いて、わたしを見つめた気がした。わたしは手を放した。落とす。地上の一番下に。廃墟のこ高い屋上から。堕ちる。妻の身体は。その、目覚めかけた身体を、ふたたび目覚めないように、完全に破壊するために。もう二度と。何かにぶつかって、撥ねるそれ。もっと。思う。もっと、取り返しがつかないほど、破壊してくれたなら。その、落下が。彼女のために。

妹の、手が触れた。彼女の妹の。わたしの指さきは、果物の新鮮さに触れたまま停滞し、それがかすかに震えているのは知っている。茫然と、そして、涙はない。叫び声も。表情の変化さえ。どうしたの?そう言っているのは知っている。彼女が。あなた、どうしたの?そして、だいじょうぶかしら、彼?そう、話されているのは知っている。親密な、やさしい気配が、わたしたちの中に流れる。時間がやさしい。わたしたちの時間は。わたしは彼女の唇に触れた。のばされた指先は。その温度に。彼女は、そして、彼はそれを許した。慰めるように、わたしを見つめたままで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思い出す。なんども。瞬間ごとに。泣き叫びながら、それは悲鳴を上げているようだった。耳元にじかに響いている自分の声は、遠くの、はるかに遠くの背後のほうで聞こえていた。地上に降り立って、わたしは探したのだった。あのとき、妻の死体を。屋上で、何時間かの無駄な時間を過ごしたあとに。体中が重い。骨が痛かった。骨の内部が、そして、歯茎が血を流している気がしていた。確認のために突っ込まれた指はなんども見られたが、それは一切血を付着させていなかった。わたしは血にそまっている。彼女の血に。わたしは悲鳴を上げている。地上、真ん中で罅割れて、大きく競りあがったアスファルトの路面の傍らの凸面に、見つけた。わたしは、叩きつけられて原型をなくしかけた彼女の四肢の、その痙攣するような筋肉の動きを。這う。まさに、生き返ったかのような。叫びながら。泣き叫びながら?いや、わめき散らしながら。悲鳴を上げて。動物の。もはや、単に、追い詰められた動物の声帯の振るえ。ガソリンさえあれば、綺麗に燃やし尽くして仕舞えるのに。わたしは失心しそうな意識を、なんども無理やり覚醒させながら、知っている。砕けたコンクリート片をつかんだ腕が、それは必死に、彼女の身体を叩き潰すために振り下ろされていて、彼女のために。その、わたしの腕は、コンクリート片をつかんだ、それ。血にまみれ、何度もしぶきを上げてわたしの体に触れるのだった。じかに。彼女の血は。彼女の、声。手。あの子、まだ生きてる。ガソリンに火を放った後に、息を切らせたわたしの背中に彼女は言った、まだ、と、生きてるよね、まだ。

永遠に。

ずっと、と、「そうだね。」

わたしは言う。

ずっと。

永遠に、思い出の中に。

いっしょだよね?

生きてるよ。

心の中に。

わたしたちの。

永遠に。彼女も、まだ。血に染まった手。ちぎれ、潰れた筋肉片に、じかに触れる。その指さきは、そして、生存の確認。筋肉片の、未だに死に絶えない、生存反応。もっと。ふたたび、もっと。もっと、深刻な、絶望的な破壊。もっと。生きている。もっと。守るために。彼女を、守るため。あいした、彼女を。わたしは。守るために。彼女。わたしの、わたしだけの。彼女の。彼女、その愛。その尊厳。もっと。もっと、絶望的なまでの、血と破壊を。もっと。彼女のために。わたしの彼女のために。わたしのために。もっと。わたしたちのために。背後で、獣の声がしている。ずっと。穢らしい、その。

 

 

 

 

 

 

* *

 

 

 

もっとゆっくりしていけ、と、その老婆は言っているに違いなかった。あの、姉妹の祖母らしい老婆は。わたしは、なんども手を振って、あるいは彼女たちの手を握り、微笑み交わし、その居住地を出る。歩く。回廊の日差しを浴びる。物音のさざ波。話し声、それらの連鎖を聞く。耳を澄ます。頭のなかに、静けさがある。何もかも、しずかで、わたしは頭の中の静けさにさえ耳を澄ました。

少女はわたしの居住スペースの入り口で、外を見ていた。わたしを待っている気がした。立っているだけに違いなかった。彼女の眼は、わたしを捉えなかった。胸ポケットにあったはずの花は、どこかに捨てられていた。そこには、もう無かった。だから、どうというわけでもなかった。なにも、嘆かれるべきではなかった。無残なまでに悲しかった。

猫には猫の世界がある。猫には猫の尊厳がある。猫のしぐさの何かが、たとえ、人間にも理解可能なジェスチャーに見えたとしても、それが猫の尊厳を冒すことなどついにありえない。そして。彼女を見つめる。明らかに、死んでしまった女。自分で、死を?なぜ?あるいは、彼女にもわからなかったのかも知れない。それが衝動的なものであったならば。いずれにしても、きみは死んでいる、もういない、そして、きみはいまここにいて、わたしを見ている、と、わたしは、彼女を通り過ぎて、その瞬間に、あの、髪の毛の匂いを嗅ぎながら、その生者とかわりのない、それ。豊かな、芳醇としたその芳香の束なり。部屋の中に入り、そして、わたしは、言葉を失うのだった。視覚が正確にその視界に写るものを理解する前に。

 

 

花々が散らされていた。夥しい花々が、部屋の床中に、それは彼女にさしてやったあの花だった。ベッドの上、床の上、隅々にまで、それらの花々は幾重かに重なりさえし乍ら、撒き散らされ、その色彩に、部屋の中は満たされていた。振り向くと、彼女は相変わらず、外を見ていて、わたしは、彼女を後ろから抱きしめる。冷たい死者の不在の体温の冷たさを、わたしは体中に感じた。愛?

何を?

わたしは愛する。

何を?

彼女を?

目の間の?

記憶の?

垣間見られた記憶の中の?

悲しげな記憶として?

自分のものではない、その記憶。

妻を?

彼女を?

誰を?

 

わたしは愛する。涙は無い。わたしは愛した。悲しみ、その気配だけが、悲しみ。耳の奥に、音響のように聞こえる。幸せにしよう、と、わたしは思う。幸せに。それが、わたしにできること。わたしがすべきこと。それだけが。幸せに。誰を?きみを。永遠に、幸せを、と、キミに、思う、わたしは、永遠に。ただ、永遠に、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

兵士を殺したのはわたしだった。一人、煙草を吸いながら歩いてきた彼を手招きし、《花園》の中に導く。口笛を吹き、笑いかけ、微笑んで、呼び寄せて。わたしは果物ナイフで彼の喉を裂き、殺す。まだ死にきってはいない。四肢は痙攣していた。同じことだった。助かりはしないのだから。いま、彼の身体が、生存維持が可能なリミットを越えて、にも拘らず、かろうじて行き続けていた。惨めな気がする。こうやってしか、死ぬことさえできないということが。死による破壊は、なぜ、こうまで、いつも、穢らしいのか。銃器と、刃物を奪う。花の匂いがする。

 

回廊の奥で、発砲の音声がした。ややあって、怒号が立って、乱射される複数の銃器の音響が遠くを満たした。わたしは軍用ナイフと機関銃を持って、そのまま歩く。すれ違う人々が怯えた眼差しを向ける。それはわたしに向けられた感情ではなかった。どこかの発砲音に怯えたそれへの同意を促しているにすぎない。発砲音が連なって、連鎖していく。手も施しようのない何かが、向こうで決壊していた。革命?暴動?モーターバイクの音。喚声。叫喚。わたしとは無関係なそれ。わたしを巻き込む可能性も否定しきれないままに残して。混乱が起こっていた。わたしは、やがて、身を潜めるようにして、回廊を走る。身を屈めて。そうするのが、作法であるかのように。息をひそめる。彼らの混乱とすれ違う。もはや彼らはわたしを見なかった。彼らは戦っていた。射殺された人々が死んでいく。煙る。発砲の、爆破された火薬、そして吹き飛ばされた手榴弾の匂い。炎、黒煙、そして飛び散った微かに焼けた肉片の臭気。煙った大気の下で、片足を失った男が這って、早口にわたしに何かを言った。背後をモーターバイクが通り過ぎ、それらの連なった、数台の音響、右手で、腹を押さえた男が血にまみれて何かを口走っていたが、銃弾が彼の頭部ごとなぎ倒した。死。ふいに訪れた彼のブラックアウト。通り過ぎ、走る。音を立てないように。千切れた腕が床の上で痙攣していた?復活?片腕だけのラザロ。見てる?と、わたしは、不意に、思い出す。見てるかもしれない、彼は。わたしを。この混乱と同時に。見ているに違いなかった。彼は。予測しながら。わたしの行方を、いま。レ・ハンの自動ドアは、遮断されないまま、わたしの進入を許す。次のドアも。白い無意味な空間の中の観葉植物と、ソファー。戯れに発砲してみる。銃声が響く。跳ね返った銃弾が孤を描く。空間の中に反響し、空間を切り裂いた音。それらは。手に、火薬の匂いがついた、と思った。その煙が触れた腕にさえも。

 

開かれた自動ドアの向こうに、レ・ハンはいない。美しく、あかるく、清潔な空間に、わたしは一瞥をだけくれた。右手、あの棚のわきを通り抜けて、身を潜め乍ら彼のベッドルームに侵入する。消された照明の部屋の中に、壁の左上方の採光窓からの光が、優しくレ・ハンと少年たちとを照らしだしていた。やわらかな影と、それが際立てた繊細な光に浮かび上がって、レ・ハンはうつむいていた。何も考えられてはいなかった。思考能力さえ失っている気がした。その、残骸のような優しい形姿。いま、レ・ハンは全裸で、少年の一人をひざに抱えていた。「どうしたの?」レ・ハンは言った。「理解できない」何が?しずけさに、わたしは耳を澄ました。頭の中のしずけさに。「何が?何が起こったの?何?」少年の一人が声を立てて笑った。「何が起こってるの?」わたしの発砲した銃弾がレ・ハンの左肩を打ち抜き、瞬間、少年が声を立てて泣き出すのをわたしは見る。そして見た。彼が少年を抱きしめようとしたのを。泣き叫ぶ少年を、その涙と、その声とを非難するように。いけない、と、彼は、きみは泣いてはいけない。傷ついてはいけない。

つぶやかれていた。レ・ハンのしぐさに。

レハンはややあって気づき、思い直して、泣き叫ぶ少年を泣き叫んだままに脇にどかして、その右手は指図する。あっちにいけ、と。まるで、少年が自分の穢れた血に触れるのを拒否するかのように。レ・ハンは息を詰めた。銃弾が彼の腹部を破壊した瞬間に。ベッドに倒れ付したレ・ハンは血に染まっていた。「なぜ?」彼は、「どうして?」わたしを見向きもしないまま、その視線が天井に投げ捨てられていた。「あなたは日本人の恥だから」わたしが言った声に、彼は笑った。「わたしは、

 

「あなたの狂った独裁政権を崩壊させるため」いま、レハンは笑うしかなかった。事実、彼は笑っていた。骨に砕けた銃弾の痛みに、そして傷ついた筋肉と、神経と、脊髄が、最早彼に自由な表情を許さなかったにしても。痛みが固まりになって彼に襲いかかったが、それ以上の感情が、彼を支配した。何か言おうとした。彼が、それを言う前にわたしのナイフは彼の喉を突き刺した。骨を傷付け、欠き、砕き乍ら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

痙攣するレハンの身体は、留保なく彼がもう死ぬことを明示した。もう死んでいるのかも知れなかった。ただ、明らかなのは、彼の四肢の筋肉が間歇的に痙攣していることだけだ。傍らの少年と目が合う。十数人の少年たちがわたしを見ている。彼らのひとり、壁ぎわの小柄な彼が、不意に、笑いだし乍ら、駆け寄ってきて、わたしに触れる。無邪気なその笑顔。完全に許して、認めたような、OKと、ただ、無根拠にそう呟かれたようなその笑顔と、声が、やがて、彼らの集団は、わたしかわるがわる近寄って、触れた。邪気の無い笑い声を立てて。お互いに連鎖するように、笑い声が反響して連なり、わたしは彼らを見つめる。はじめて経験するゲームに、戯れに、共感して喚声を上げたような、その。

その笑顔と声を、わたしは聞く。見た。

見る。銃器はすでに投げ捨てられていた。レ・ハンのベッドの上に。

立ち去るしかなかった。彼らはついてこない。そこで戯れ続けるまま、背後に彼らの歓声を聞く。

外は銃声に溢れていた。今度の暴動は深刻だった。人々はあても無く逃げ惑うか、戦うか、殺すか、殺されるか、それは最早戦争だった。何人もの人間が死ぬ。そして、すでに死んでいて、いま、死に瀕していた。省みられない男の、血を干からびさせかけた死体が口を開けたまま、彼の身体は人々に踏みあらされた。立て込める煙をかいくぐって、住居に帰る。少女は部屋の中にいる。花々の散乱の真ん中に立って。花々さえ見ないで。彼女はわたしを見た。

思う。

わたしは想起していた。

在りし日の彼女。

はにかむようにしか笑えない少女だった。

少しだけ端のめくれた唇を、笑いを恥じるようにいびつにまげてしか、彼女は笑えなかった。

手を触れる。

彼女の手に、感じた。

わたしの皮膚は、その冷え切った温度を。

 

きみを、守ろう。

 

怒号と音響の連なり。匂い。破壊される有機体と、無機物の、それらの散り乱れた匂いの、識別できない塊り。わたしは走れない少女の手をとって、歩く。混乱した人々の中を、それらの音声と、汗ばんだ温度と、音声の群れのはざまを。

歩く。

ヘリの格納庫に辿り着き、ふと、あの少女は?と思った。あの、少女の妹、あるいは、あの男。彼らは、死んで仕舞ったのだろうか?

殺されて?

 

どこかで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

格納庫は、静まり返っていた。背後からの反響以外には。一人の男がヘリの陰にうずくまって、一人で泣きじゃくっていた。

わたしは少女の髪を撫でてやった。少女はわたしに身を預けていた。

シャッターの解放ボタンを押す。

上がっていく。

外気が一気に中に進入し、空気の凍った匂いがする。

肺の中まで、冷たく、浄化して仕舞うような。

 

そして、おそらくは放射能に汚染されているに違い、その、大量の外気。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

光が差し込む。

その不意の逆光に目を細め乍ら、わたしたちは歩き始める。

 

その、世界。この世界の外の、その、世界の中に。少女の身体が一瞬、震えた気がした。寒さに?白い世界。鳥が遠い向こうで、舞った。地平線の果てまでも、純白の、雪に包まれた世界。わたしたちは歩きだすしかなかった。その色彩、純白の中へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.01.12.-16.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付

 

廃墟の花


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著者 : Seno Le Ma
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