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 月はベッドシーツへ潜りこみ、太陽があくびをしながら目を覚ます。

 秒針は等しく時を刻むはずなのに、ハルトの体内時計は目まぐるしく回転を続けていた。朝、目が覚めて思うことは、早く夜がやって来ないかな、ということだ。夜になれば、夜警の合間、彼女に会える。想像するだけで、胸がいっぱいになる。

 

 少女の名は、リーシェといった。十六才。

 子猫の名前は、ルフラン。リーシェがそう呼んでいた。

 

 初めて二人が顔を合わせた夜、少女はハルトの挨拶に答えることなく背中を向けた。

 関わり合うなんて冗談じゃない、とでもいうように。

 しかしルフランの方は、そうではなかった。白い毛玉のように、あちらこちら跳ねまわる子猫は、ハルトをたいそう気に入ったようだった。二人の間を行ったり来たりして顔をこすりつけるルフランに、リーシェはため息をつき、「こんばんは」と挨拶を返した。

 鈴の鳴るような声だった。

 

 だけど恋の幕はあがったものの、二人の距離はつかず離れず、影踏みをする少年少女のような関係を築いていた。

 ハルトがリーシェのことを知りたいと思っても、彼女は頑なに自分の身の上を話さない。なぜリーシェが、ルーブル美術館に密かに住み着いているのか。その理由が、分からない。

 ハルトは自分を気に入ってくれている子猫の相手と世話のため、という免罪符を掲げて、毎晩のようにルーブル宮の隠し扉へ通いつめた。

 

 隠し扉の向こう側には、螺旋階段と屋根裏部屋があった。

 十平方メートルほどの広さの部屋には、無数の絵画が布を被せられ無造作に立てかけられており、キャンバスと背の低い椅子が置いてある。床には使い古した絵筆、画材、木炭、パンのくず、丸めたボロ布、ブリキのバケツ……あらゆるものが散乱していた。しかし、子猫のための、ふちが欠けた皿だけはいつも清潔に保たれていた。

 

 ランタンのオレンジ色の光が、洞窟のような部屋をぼんやりと照らす。

 浮かび上がる二人と一匹の影。体を丸めて眠るルフランのひげが、幽かに震えていた。その寝息を乱さないように、二人はぼそぼそと話をする。

「リーシェ、君のことが知りたいんだ」

 短い会話を交わした後、ハルトは決まってこの言葉を口にした。

「君のその、哀しい瞳のわけを」

「わけを知って、どうするというの。日本には、知らぬが仏って言葉があるんでしょう。知らない方があなたにとっては、幸福よ」

「幸福かどうかは、僕の心が決めるよ」

「愚かな人……」

「愚か者にもいろいろだよ。タロットに描かれる愚者は、どこか楽しそうだ。僕はウェイト版しか見たことがないけれど。崖から落ちるにしても踏みとどまるにしても、僕は最後まで心のままに往くべきところへ往きたいと思うんだ」

 恋は盲目と言うけれど、ハルトには本当にリーシェ以外が見えていなかった。

 薄闇の中に浮かぶリーシェの瞳が、ゆっくりと伏せられる。

 

「行きたい場所に、いつでも行けると思っているなら、あなたはきっと幸福な人なんでしょうね。でも、私はそうじゃない。いつまでこんなことを続ける気?」

「君の過去を知ったら、もっと君のことが好きになるかもと思って。リーシェ、初めて会った時から君のことが好きだよ。君は僕のこと、煩わしいと思ってるかもしれないけど。僕は、いつでも君が寂しそうな目をしているのが、気になってしょうがないんだ」

「それで? 何もかもあなたに打ち明けたら、私の寂しさが消えてなくなるっていうの?」

「そうなれたらいいなって、心の底から思ってる」

「ばかみたい」

「それでもいいよ」

 

  影踏みのような少年少女の関係に終止符を打つように、ハルトはリーシェの手をとった。

 強く握れば折れてしまいそうな細い手首。透き通った肌の下に青ざめた血管がめぐっている。冷たい手を温めるように、リーシェの手に自分の手を重ねると、少女の肩が震えた。

 まじまじと緑の瞳が、初めて出会った夜のように、ハルトを見つめている。

 

 外では雨が降り出したようだった。

 しとしと、と雨音が屋根を伝って届く。

 血液の流れのように、あるいは滴り落ちる涙のように。

「……いいわ。そんなに自信があるなら、話してあげる。私の過去を。その代わり今夜は私が話し終わるまで付き合って。それから、一回きりのデートをしましょう。夕方、午後六時に待ち合わせ。港に行って、海を見るの」

「えっ」

 突然の誘いに、ハルトは動揺した。

 

「どうするの? でも今夜じゃないと、私はもう話さない」

 リーシェの瞳のなかに、ランタンの光の輪が映って踊っていた。

 それが、怒りなのか哀しみなのか、ハルトにはまだ判断がつかなかった。

「……いいよ。わかった」

 ただ、愚者らしく巨大な闇に足を踏み出すことを覚悟して、彼はゆっくりと頷く。

 崖の底にたとえ何が待ち受けていようとも、彼女が行くというのなら自分もまたそれに続くのだ、と。

 


 

「私はね、生みの親の顔を知らないの」

 雨音に紛れるように、ぽつぽつとリーシェは語り始める。

 彼女の声はハルトの耳によく馴染み、すぐさま情景が、僕たちの頭の中で像を結ぶ。どうどうと音を立て、濁った水の流れる河。あっという間に、渦に飲みこまれていく葉の舟……。

 

 彼女は捨て子だった。いつ河に流されてもおかしくないような橋の下、段ボールと毛布に包まれ泣いていた。鴉の鳴き声に、野犬の遠吠えに、何もかもにひたすら怯えていた。

 その捨て子を拾ったのは、年老いた男だった。

 男の名は、ロジャーといい、表向きは画商を営んでいた。そう、表向きは。

 彼は美術品の腕利きの鑑定士でもあり、修復士でもあった。大金持ちや個人の収集家の家を周り芸術と金銭を結びつけ、その価値を小切手に記すのが仕事だ。疵のある絵画や彫刻は引き取り、修復する。

 

 しかし、その実態は美術品を専門とした盗賊団の一員だった。顧客から価値のある美術品の存在を知らされると、言葉巧みに修復の必要を訴え持ち帰る。手元に美術品がやってくると、贋作とすり替え顧客へと返還する。

 本物の美術品は闇ルートで取り引きされ、潤沢な資金を組織へもたらす。

 何十年と、ロジャーは組織の歯車として働き続けていた。

 そんな男が、大荒れの天気の夜、世界のすべてに怯えているような赤子を拾った。

 それは、ロジャーの芸術に対する贖罪だったのかもしれない。

 かつては芸術の道を志したはずの青年が、芸術を冒涜する立場へ身を落としたことに対しての。

 

 だが、数奇な運命は男へ悲痛な最期を用意していた。拾った子どもが、修復士としての類まれなる才能を秘めていたのだ。

 成長するにつれてリーシェの目と鼻、そして手先の器用さは、ロジャーを凌ぐ贋作の制作者へと彼女をのし上げた。養父の仕事ぶりを観察するだけで、同じ仕事を感覚だけで成し遂げることができたのだ。

 やがて、その才能を組織は知る。リーシェが望もうとも望まざるとも。彼女が悪事に手を染めざるを得ない事態へ陥るには、時間はかからないように思われた。

 

「私が八才になったとき、どんな絵画でも復元できたし、贋作を作れるようになっていた。色、形、原料……あらゆるものの情報が勝手に頭に流れこんでくるの。でも私はそのとき知らなかった。父が描いていた絵画の裏の事情を。それらがどんな経緯で人の手に渡って、血に濡れた歴史を掻い潜り、自分の目の前に置かれているのか。そして、どれだけのお金が関わっているのか」

 組織から一通の手紙が届いたとき、リーシェの養父、ロジャーは娘を連れて組織から足抜けすることを決意した。

 

 その手紙は、リーシェの身柄を組織本部へ引き渡す通達だった。

 このままでは幼い娘までも、自分と同じ暗い井戸の底で、もがき続ける人生を送らせるはめになる。

 ロジャーは自責の念に苛まれ、地獄の炎で背中を焼かれる思いに駆られていた。

 

「そして、あの夜がやってきた。新月で、辺りはとても暗かったわ。父は私の手をひいて、港への道を急いでいた。アスファルトに響く私たちの足音が、妙に、そら恐ろしかった。私は怖くなって、父さんに聞いたの。ねぇ、どこへ行くのって。そしたら、父さんは外国へ行くって答えたわ。海を渡って、南のあたたかい国へ行こう。そこは太陽の黄金の輝きと海の青さと夜の静けさがある、素晴らしい場所だからって」

 リーシェは、しばし押し黙った。

 ハルトは、そっと彼女の肩を抱き寄せる。

 胸が痛くなるような悲しみが、空気を伝って彼の肺にも流れこんできた。

「リーシェ……」

 リーシェの瞳のふちに、みるみるうちに水の膜が張る。

 呼吸するごとに、涙の粒は頬を滑り落ちていった。

 

「でも、私たちはその場所にはたどり着けなかった。組織の追っ手がやってきたの。銃声が二発、鉛の弾が父さんの足を貫いたわ。父さんは私に自分を置いて逃げろと言った。でも、私は独りぼっちはいやだった。家族は父さんしかいない。どこに逃げたらいいかも分からなかった。何か恐ろしいことが起こっていると分かったけれど、父さんを置いて逃げたりしたくなかった。父さんが死ぬなら、私も一緒に死ぬんだと思っていた。でも、でも……」

 

 ハルトは、リーシェを胸に抱き寄せ、嗚咽を零す背中をゆっくりと撫でる。

 シャツは涙で冷たくなっていったが、気にもならなかった。

 やさしくリーシェの髪を梳いてやる。

 

「父さんはそのまま、海に放りこまれたわ。私だけが岸に残された。銃声がまた四発響いて、父さんは海に沈んでいった。でも、その夜のことを誰も口にしなかった。私は組織に引き取られ、贋作をひたすら描いていた。八年。八年も……」

 

 ハルトは何と声をかけていいか、分からなかった。

 この少女がのたうち回っている苦しみを、軽々と言葉で形容することなどできなかった。

 

「贋作を描きながら、私は生きていながら死んでいるも同然だった。けど、もうじき十六才の誕生日がやってくることに気がついたら、急に何もかもが怖くなったの。父さんと過ごした八年、その八年よりも、組織のために働いた月日が長くなる。あのまま、あそこにいたら……生きている限り、これからずっと。そんなのって、耐えられる?」

「リーシェ……君は、だから、逃げてきたんだね」

 こくり、と少女が頷いた。

「ずっと、頭の中で八才の私が叫んでるの。お願い、私を海へ放り投げてって」

  僕はハルト背に立って、ぐるりと、部屋を見回す。

 この屋根裏部屋に散らばる画材の数々。

 きっと、この場にあるすべてのものが彼女の贖罪の証しなのだ。

 修復された絵画、ルフラン、孤独、そのすべてが。

 

「……リーシェ、それなら僕と海を見に行こう。午後六時。ガラスのピラミッド前で待ち合わせしよう」

 ハルトは、一言一言かみしめるように言葉にした。

「君が過去ごと自分を海へ沈めたいと思っているのなら、そのあとを追いかけて、海から引き上げる役目を僕にくれないか」

「…………」

「君の手をつかんで、離さない。絶対に」

 ばかみたい、とリーシェは言わなかった。

  代わりに自分にもたれかかる少女の頭の重みが、ハルトには哀しく愛おしかった。

 


この本の内容は以上です。


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