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散り逝く花々のために1

 

 

 

 

 

 

 

 

散り逝く

花々の

ために、

 

… for some

broken

brossoms

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

くすり指を立てる。

何のため?わかんないよ、と(ひと)語散(ごち)た、その自分の中だけの声が言い終わらないうちに、「痛い、」と、既に喉が言っていた。

美沙がまだ寝ているのを理沙は横目に確認する。自分の声が、まだ十歳の妹を起こしたりしないように。なぜ?と、理沙は思う、こんなにも、と、窓越しの陽光を。体中が痛みに燃え上がってさえいるのに、見た。理沙は、泣きもせず、まばたき、その逆光を。

なぜ?わたしは、自分の息を、ねぇ、なぜ、聞いてる。いま、頭が変になってしまうわけでもなくて、息をひそめさえして、もう、熱くはない。なんで?

その、パパはもう、出て行ったのに。さっき父親にアイロンで焼かれた背中は。もう、と、そう、ただ、痛いだけだ。だいじょうぶ。

外はたぶん、暑い。いま、夏だから。

千駄ヶ谷の築の古い、白くて美しい低層マンションの中は、事務所ばかりなので、昼間でもどこかで人の声がする。

自転車?車?ときどき、耳に意識されるかすかで、孤立した、孤独な音と、何を言っているのか聞き取れない声の音声のてざわりだけを、理沙は美沙の寝息を聞く。

まだ、この子にはパパは手を上げていない。どうするだろう?パパの怒りが、どうなるのだろう?この子に直接触れてしまったら?と、この子は?。板張りに床の上に垂らしてしまっていた、自分の唾液に理沙は、嫌悪した。

北浦和晃という名の、その父親ほど美しい男を理沙は見たことがない。一度だって、と、まるでフェミニンで綺麗な男という顔の理想型を、わたしに微笑んでさえくれなかった。かき集めて芸術的にならしたらママは。悲しい、こんなふうな顔になる。絶望的なほどに、悲しくて、か弱いママは。たぶんね。藤原圭輔が、和晃の顔をそう評したときに、「すげっ、」笑った和晃の顔は、「超比喩センスやばいね」笑うときも泣くときも、怒り狂ったときさえも、同じような美しい崩れ方をする。理沙はそれを知っている。気付かれないように、何度も盗み見たから。

圭輔とはいつもつるんでいた。二人とも美容師だった。専門学校の頃からの付き合いだったが、世渡りは和晃のほうがうまかった。いつでも圭輔のフォローに回った。けど、と、いつも和晃が言うのを、「こいつのケツ拭いすんの、かならずしも嫌じゃないからね、俺。」圭輔は知っている。

 

ほら、と、いつだったか和晃はワタ飴を買ってくれた。近くの鳩森神社の縁日で。痛み。大きくなったよな、お前、と頭をなぜられたとき、「気付かないうちに、」泣きそうになった。「お前。」焼かれた背中にこびりついて、もっと、ねぇ、もっと、と。離れない、その痛み。私は時に、嫌悪する。時に息を止めた。あまりにも、「どうした?」わたしの、痛すぎて。この、物欲しげな目つきを。「お前、ピカチュウなんかほしいの?」態度。なんで?「バカじゃね?」パパをもっと。苦しめちゃいけないのに。笑って。「なんでピカチュウなんだよ」パパを悲しませちゃいけないのに「ホントお前、」ねぇ、なんで?求めるの?もっと、物欲しげに、お願いです。パパのやさしさを。笑って、「バカじゃね」パパ。その笑ってください。笑った顔が好き、と、水洗便器に顔を突っ込んで吐きながら、いつでも吐寫物に混じるようになった血の穢い色彩を確認して、絶望的な気分になる。死にたい、と、穢いなぜ?私は穢いから、こんなにもそう、理沙は思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和晃は覚えている。29歳になったいまも、子どもの頃に行った遊園地で手放してしまった風船が舞い上がって行った空の青さと、あの大きさを。目舞いがするようだ、とさえ思いながら、最早、頭の上の父親の怒声さえ耳に入らなかった。

 

十歳くらいだったに違いない。小学校の四先生のときの担当に、日記を褒められた記憶があるから。研二と久美子、いつも殴られてばかりだった両親の結婚記念日だった。手を握られて、早足の彼らに引きずられるようについて歩く。躓きかけながら。実感される、幸せと言う概念のリアルな実在に戸惑う。壊れちゃえ、どうせ、ねぇ、あれ、風船。と、偽りなんだろ?帰り際に言ったのは久美子だった。壊れちゃえ、どうせ、ほしい?指さされた風船を、壊れちゃうんだろ?え?ほんとに?ほんと買ってくれんの?だましぬくことなんか出来ないなら、叫びながら久美子に飛びついて、嘘なんかつくな。子供だよな、まだ。素顔を見せて、その、研二の声を背後に穢い腐った素顔を。こいつ。やっぱ。聞く。研二が笑ってくれている気配を体中に楽しみながら。

久美子が風船売りから買って渡した風船の紐に手がふれた瞬間に、その、重さのないどうしようもない軽さに、吐きそうになった。重量の不在。

自分の視界がすでに見上げられた空の、とてつもない大きさと、青さとを捉えていることは知っていた。

本当に吐いてしまいそうだった。

吐いてしまったら、いま、ここに存在していた幸せという概念の実感が、その瞬間に壊れてしまうことは知っていた。守らなければならなかった。重い。手が。と、僕の子どもらしい不注意のためにどうせいつかはこの手が放されて、手が重い。と、風船はこの青空に吸い込まれ、失われてしまうに違いないのに。手を開いたことに気が付いのは、聞こえる?僕の声。すでに手のひらを開いた後だった。「なにすんだお前。」壊れた、と、ねぇ、聞こえる?思うまでもなく、「こいつ、わざよ、」研二の手のひらが振り下ろされたことにさえ「わざよ放したぜ、こいつ。」気付かない。ねぇ、「こいつ、わざと」見上げてもいない空に、手放された風船がどこまでも上昇し、青さそのものの光の氾濫の中に吸い込まれているのを見える?僕の声。知っている。研二も、久美子も、誰だって気付いていた。和晃がねぇ、いまも?わざと手を放したことくらいは。やめなよ、と、ねぇ、耳元にささやいた久美子の音声を、ほら、見て。なんだよ。世界は、聞く「何だよ。」叫ぶ。こんなにも、美しい。「見てんじゃん、周りの人」あまりにも孤独な小ささ。僕のまじ、視界の中で、やめてくんない?青空の中の風船の大きさは。バカじゃない?ただ、僕は、研二が息遣う、死んでくれない?その美しさに曝された。鼻の音を久美子は聞いた。お前がなんにも教育しないからじゃないの?こいつがこういう出来損ないになったの?違うの?研二の、舌をかみながらしゃべる早口の声。光。七月の。

夏の。

その青空の光。

直射されたアスファルトのやけどしそうな温度の上に、うつぶせに倒れて、和晃はいつものように死んだ振りをしていた。

 

 

見て。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 「なに?」

綺麗。」

「なにが?」

「すっごい、綺麗なんだけど

え?」

「綺麗じゃない?」

「なに?」

「雪みたい

「どうしたの?」

「真っ白くて、」

「ねぇ、ね。」

「純粋で、」

「なに?ね、」

「なんにも、穢れっていうものを、」

「なに言ってんの?」

「知らないの

「ねぇ、」

「さくらんぼみたいに、」

ねぇって。」

「ピンクなの

「だから、

「夢みたい。」

「ねぇ、ね。」

「ほんと、だれかが見た、夢の中みたいに

「なにが?」

「めっちゃ、綺麗。」

ねぇ、」

「わたしのおっぱい」不意に声を立てて笑う和晃を、「ね、笑った?」笑うよ当たり前じゃん、お前さ、「ね、笑って。」ひょっとしてさ、「ね。もっと、」頭さ、おかしいんじゃね?「もっと、ね。わたしさ、」ね、お前。「わたし、幸せそうに、笑ってる和晃のこと、好きだから。」不意に和晃が押し付けた唇に麻里亜はあがなわない。彼女の褐色の肌が自分の肌に、なめらかな質感をしみこませていくのを和晃は、そして、この女の体臭。人はだれもがベッドの上は湿気ている、と、自分の温度を感じない。和晃は、裸の肌と肌が重なり合って、お前の温度しか舌の先に麻里亜の唇の触感を感じない。俺は。感じていたが、いつでも、お前の土人の匂いがする、と思う。暖かさ以外を、感じることは混血児の、褐色の肌から、出来ない。だれが麻里亜の母親がどうやってフィリピン人だということくらいは 認識したのだろう?いま、誰もが知っていた。俺たちの体温が似合わないよ。確かに、笠原愛花が言った。重なり合っているという、カズには。事実を。あんな女。「てかね。差別とかじゃなくてさ。ね。」まるで日本人の振りをして、本当の「お母さん、体売ってたわけじゃん?」日本人女のように喘いでみせて「お金目当てじゃん。単に」それで日本人になったつもりかよって「そういうの、人間的にクズなわけじゃん。」思ったりするけどさ、けど「結論だめな女じゃない?」穢したいんだよね。俺、「遺伝的に?って、言うの?」自分を、なんか、俺自身を「じゃない?」穢いじゃん、ハーフって。だから、「あの黒い子」いいかなって、と言った和晃に、圭輔は彼の前髪を指先ではじいてみせたあと、「自分傷つけるの、やめたほうがいいよ。」その、ただひたすらやさしく響く声を、和晃は聞く。

「傷つけてるわけじゃない」

「じゃ、なに?」穢してるだけ。口の中だけで言った。あの時、正午の日差しがお前の横顔に当たっていた、と、和晃は、覚えてる。お前がそう言ったときの事。まだ。思う。麻里亜の豊かすぎる乳房を握りつぶすように握って、「いつか、カズはわたしのものなるけどね」硬くなった乳首の存在に「なんでだよ?」手のひらが気付いたときに「だってさ、」指と指の間に「どうして?」挟んで「わたしが、そう決めたから。」と言った愛花は、時におびえた目つきをした。魅夜美[みやび]たちに廻されたあとでは。

思い出したように。時に。

あの朝、電話の向こうで、ぶっ殺す、あいつ、と、その愛花の声を聞きながら、愛花は罵り続けていた。もういいよ、と和晃は「わかるでしょ、あいつら」思った。黙れって。薬を飲まされたあと、もう、いいから。連れ込まれた魅夜美のマンションの「まじ、クズだからね」ベッドの上で、声を潜めながら、愛花は泣くのを我慢して、なぜ?隣で寝ている魅夜美の泣かないの?立てられ始めたばかりの寝息が、そしてなぜ?ソファーの上の緋翳[ひかげ]の寝息さえもがこんなに、悲しいのに。なんで?重なって響いた。耳の中に。なんでそれ以外に、わたしって、なにも音の立たない、泣かないの?空間の中で。

一時間前に、優貴哉[ゆきや]たちは、すでに帰っていた。

自分のしゃくりあげそうになる声を聞く。もう、急いで、伝えなきゃ、と、なにもかも、電話の向こうの和晃は、おそいけど。なぜ、なにもしないで手遅れだけど。そこにいられるのだろう?すべてはなぜ、いまここに手遅れに来ないのだろう?すぎないけど。わたしのためになにもかも泣き叫びながら。「ねぇ、」なぜ、わたしの話など聞いていられるのか?「聞いて。ね。わかるよね?」

「わかるよ」

「わたし、殺しちゃっていい?」

「だれを?」

魅夜美」お前が死ねよ、と和晃は口の中で独り語散、「まだ、昨日の薬の残り、」しがみつくように眠った「あるからさ。これ、さ」麻里亜の頭を「全部打ったら、」撫ぜた。麻里亜の寝息が、「死ぬかな?」振りだということには「死ぬよね?」気付いている。「まだ、結構あんだけど」聞き耳を立てられた麻里亜の「てかさ、」聴覚の、温度さえ「これ、さ」感じられる気が「むしろ、」した。「売っちゃう?」愛花は声を立てて笑い、その瞬間に涙が溢れ出した。

もはや、とめようもなく、吐きそう、思った。しゃくりあげながら呼吸困難になりかけ、死ねるかな?失心しそうになった愛花はいま、わたし、ここで、吐きそうだと思う。過呼吸、なっちゃたら。もう、と、死ぬかな?一気に逆流した吐寫物がホストの魅夜美の華奢な胸元を穢した。

 

ホストの頃の和晃の画像を見たとき、理沙は誰にも秘密にしておかなければならない、と思った。

父は、美しすぎた。

女性的なようでいて、そのすべての曲線、すべての直線が男性にしかありえないしなやかな強靭さを秘めた。自分の、褐色に近い肌を恥じ入らせてしまうその真っ白い肌の色が、まるで向こうが透けて見えてしまいそうなのは、肌色のせいだけではなくて、和晃の眼差しのせいなのには気付いていた。神経質な眉の表情が、泣いているような、笑っているような、怒っているような、いまだかたちを現さないさまざまな豊かな感情の可能性をだけ暗示して、何を思っているのか、一切、察してあげることができない。

あの頃から変わらない。パパが美しいのは、と、理沙は、パパが美しい人だからだ。なぜか、絶望的な気分になる。「なんだよ、こいつ。」誰にも見せてはいけない。「こいつ何なの?」誰かに見せたら「こいつ、まじ笑わないよね?」誰もが恋をしてしまうに決まっている父は「頭ん中、虫食ってんじゃね?」誰にも見せてはいけない。「病んでるよね、もう。」わたしのものでさえないのに「なんでさ、こいつ、俺のこと」だれかのものになってしまったとしたらわたしは「恨めしそうな顔でしか見ねぇの?」どうなってしまうのだろう?かなしすぎて「勝手に人の携帯いじっといてさ。」言い終わらないうちの何度目かの平手打ちが、八歳の理沙を失心させた。ひっぱたいた手のひらに逆らうように、瞬間えびぞりになって痙攣し、白目を剥いて頭から床に倒れた、仰向けの理沙を、これが?和晃はこれが、足の先で俺の子どもかよ。蹴り上げながら、窓の向こうに雪が降っていた。

麻里亜は鼻水をすすった。自分が泣いているのは知っていた。「失敗作じゃね?」何もかもが惨めな気がした。「違う?」鏡を出して、「そうでしょ?」確認した自分の顔は、「実際」どこもかしかも父親に似ていた。「限界、もう近いんだけど。俺、」まだ、いける。「無理だよ。」わたしはまだ、「もう、」十分に「無理だから。」綺麗だ。「棄てちゃう?」麻里亜が言った。

和晃が自分を振り向き見た気配を、麻里亜は感じていた。「無理だろ。いくらなんでも」愛してる。麻里亜は思った。まだ。たぶん。あきらかに。今でも。覚えていた。覚醒剤を打ったとき、いつだったか和晃は言った。

もし、空を飛べるとしたら、

何になりますか?

声を立てて笑いながら、その笑ってる。和晃の笑い声にわたしは、自分の笑い声をいま、重ね合わせようと笑ってるよ。するが、自分の笑い声を遠い。ねぇ、コントロールすることが遠いの。出来ないもどかしさに、

 ぼくは、鳥になります。

行かないで。麻里亜は思った。空に、もう、なって。自分が鳥を、泣きじゃくって飛んで。いることには星の、気付いてこっちの、いる。なって。果ての、鳥に。青さの、和晃の光が、半開きの溶けた。唇をいま。無理やり開かせて、冷蔵庫の中は静かだ。口蓋に突っ込んだ指先が触れた和晃の、あの子は黙って震えている。粘膜の触感に、感じられた和晃の体温は、好き。理沙。かず、好き。わたしの指を、冷蔵庫にしゃぶりなさい。押し込められた、かわいそうな理沙。誰が?

わたしが。

たすけて。

わたしを。溶けそう、と思った。麻里亜は、そして和晃の指先が自分の体をなぞるたびに、背骨の内側から透明な液体が震えながらあふれ出るのが見えた。

 

 

 


散り逝く花々のために2

時に思いだす。ジョアンナと言う名の母親にひざざまづくようにしてしがみつき、許しを請うしかなかった父親、池田彰浩という名の、顎の尖った小柄な男が、自分を腕に抱いて体の匂いをかぎ、その鼻から吸い込まれた息が肺の中を満たしきる寸前に既に、「いい、匂い。」言われた。耳元で、そして「麻里亜ちゃんの、」まばたいた瞬間に、窓越しに「いい、匂い、ね?」斜めに侵入していた光が「おかあさんたちと一緒。」彼の左肩に白く「パパ、好きな匂い」触れていた。だから、好きなの?パパがわたしにそう言ったわけではないのに、触れたときも「好きだよ」怖くはなかった。不意に返された決して。彰浩のことばににも拘らず、一瞬戸惑ったあとで気を失ってしまいそうな、思わず怖さが、笑ってしまったのを喉の奥になに?」あったのは、「どうしたの?」一歩を踏み出す勇気、彰浩の声。と言うものには不安げな、その違いなかった、声。そう、「違うよ」わたしは言った。思った、違うの。」あのとき、なにが?11歳の問いただすわたしの父の首筋は、声。彼の唇と、かすかに震えて、舌の触感に、どうしたの?それは、なにが?かすかに、「違うのパパの好きなの。唾液の匂いを、心の中だけでわたしの体に独り語散る。付着させて、まばたく。

まるで、目の前の白い日差しが、まぶたに直接触れてしまった気がして。40歳も年上の、まるで別の動物のような違いを持った父の身体を、まばたきの間に見出し続ける。いじり続けていたピンク色のボタンが撚れて、取れてしまって、それはいま、麻里亜の手のひらの中で執拗にもてあそばれた。麻里亜の豊かすぎる乳房が顔に覆いかぶさって、窒息しそうになる。

なじるように、上になった麻里亜が、その乳房を和晃の顔に押し付けるのを止めない。

冷蔵庫の中はどんな感じなのか?不意に、クスリは体の中で溶け、思った。

わたしは溶ける。

雪でも、降りそうなほどに?美沙が、と、理沙ほどの年齢になったら、どうすればいいのだろう?ふたりが愛し合う二人の時間を邪魔なさせないために。もう一つ、冷蔵庫が必要だろうか?息が出来ない。唇の周囲に麻里亜の乳首の触感があって、閉じられたまぶたの向こうに、麻里亜の汗ばんだ顔が自分を見ているのは知っている。不意に、噴出して笑いそうになった。二人の愛の結晶が、二人の愛しあう時間を邪魔する。息が出来ない。自分の体の下で、微かにもがく和晃を抱きしめる。

どうせ、すぐに終わってしまうのだから。ほとんど何も出来ないで、すぐに中に吐き出して、惨めに萎えてしまうのだから。

病んだように痩せた、その身体の中で、乳房だけがいびつなほどに豊かに、まるで、男のみじめな妄想を絵に描いたような女だ、と思った。和晃は、その乳首が押し付けられるたびに、噛み千切ってしまいたくなった。

もし、それが出来たら。それをしてしまったら?その妄想に寒気を感じて、雪が降る。

覚醒剤を打って、麻里亜を抱くとき、いつでも頭の中に雪が降る。

あっけない射精の後で、いつものように茫然としたまま床に視線をまるで、投げるしかない、辱められたみたい。和晃の体の上から自分が、わたしに立ち上がって、辱められたみたい。ねぇ」決して、その問いかけに和晃が答えないことは、もう知っている。仰向けのまま、こっちを見ようともしないで、そして麻里亜が冷蔵庫を開けたとき、中で凍えていた理沙は、麻里亜の体を見ようともしない。

理沙は一気に空気を吸い込み、自分の体も、そうなり始めている、それ。温度を持った空気が、冷え切ったその肺の内部に触れた。

画像でだけ見たママのママもそうだった。煽情装置のように、乳房だけだ衝き上がって、膨張し、垂れていた。

 

ゆたかで、美しく。夢のように、美しく、そして、やわやかに。穢い。その言葉を、思わなかったことにする。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あの時、魅夜美は愛花を本当に殺そうとしたのだった。魅夜美が殴りつけた瞬間に過呼吸の発作を起こした愛花を。いきなり自分の体に覆いかぶさって、えづきながら痙攣し始めた愛花の身体に、寝入り始めたばかりの意識を揺り起こされて、愛花の吐寫物に汚された自分の体がたてる酸味た臭気にも気付かない。

殴った瞬間、愛花は白目を剥いた。一瞬のえびぞりの後、過呼吸にからだをひん曲げる。

魅夜美が舌打したのを、遠む意識のむこうで、はっきりと愛花は知覚していた。さわれるほどの鮮明さで。

自分が腹さえ立てていなかったのを、魅夜美は不思議に思いながら、むしろ、愛すべき、ちいさな、かわいい愛花が四肢を痙攣させて、胸が、激しく壊れそうだ。息遣い続けるのを、壊す。ふらつきながら立ち上がった自分が、壊れる前に。何を探しているのか、壊れそうに、思いつかない魅夜美の視界は壊す。既にビニール袋を見つけている。

血管の中を、薬があたたかな温度を撒き散らしながら、微笑みに満ちたその温度。光をやわらかく発っている気がする。

あたたかい、と、思い出す。止める。息を。

愛花の。

いま。

汗ばんでいるのに、皮膚は冷たい。愛花のそれは。自分のは?俺の?お前だって、と、魅夜美は皮膚は?思った、冷たいまま抜けてないくせに、発熱した。と、クスリが、まだ。その、血管の中を。

膣口の、柔らかい粘膜の中を。

その、細かな毛細血管の中で、それは同じようにやわらかい光を放つのか?いとおしい、と思った。

魅夜美は自分が、耐えられずに涙を流していることに気付いていた。自分が立て続けている笑い声が、自分の頭の後ろで聞こえた。同じ光を、と、どうして、お前もこんなにも、感じていたのなら、ねぇ、と、魅夜美は、いとおしい?その、まじで、光。壊れそう。その、胸が、温度。この、その、胸が。光。

頭からコンビニのビニール袋を被せられて、愛花は自分の二酸化炭素に窒息する。白目を剥いて、のけぞらされた背筋に、死なないで、魅夜美は俺の、もっと、と愛花。思った。もっと、美しい、曲線を。

描け。もっと。

 

夜中に目を覚ました美沙は、理沙が起きていることに気付いていたから、ねぇ、心の中でだけ呼んでも、知ってる。姉が振りだけ。自分に寝た振り、気付いてそれだけだってくれるかどうか、もう、試して知ってる。みたのだった。

 

のた打ち回るような、頭の中で鳴り響いていた呼吸音の無際限に反響する音響が、不意に、あ、そう、気付く瞬間さえなく、消えうせていたのに気付いたとき、まだ?感じていた。まだ、愛花は生きてる。しずかな息を立て続けるまだ、肺に、死んでない。血の味がそれって、あることを、なに?執拗で、微かな、鮮明さで。

 

「なに?」理沙が振り向いたとき、それは3度目に試したときだったが、ねぇ、どうして?寒い。美沙は外は、思った。雪だから。どうして、今年、わたしの二回目の、心の中、雪だから。見えるの?

 

「なんで?」魅夜美はつぶやく。死んだの?と、ねぇ、魅夜美がおれを、つぶやくひとり、声を残して。聞く。この耳元の冷たくて近さで、悲しくその灰色で体温のそして発熱さえ、綺麗な、空気越しにこの、感じられながら。世界に、ねぇ。

 

あのね。ねぇ、ね。ん。と、ね?その美沙の声を、「寒い?」言った理沙は、いつものように、聞く。耳元で、理沙は、「寒い?」寝てるから。いつも「の?」寒いから、抱き合って、冬の、「ん、」理沙。その「よね。」寄り添って、寒いから、抱きしめ、「だ、」温度。姉の、その「よね。」温度。うん。「わかるよ。」と、理沙は言った。

 

肺に苦さが細かく点在してる。愛花は、肺の毛細血管がはじけて、肺の中に真っ赤な血が細やかな血だまりを無数に点在させているのを想像して、そうかも知れない。本当に、そうかも知れない。想う。ビニール越しに見られる世界は、白く、ただ、白く、自分の呼吸にまみれて湿っけ、そしてときに、緑の線が白濁を切り裂いていた。

 

「みぃちゃんは、大きくなったら、何になるの?」理沙の胸元に顔をうずめながら、同じだ、「大きくなるの」と、思った。「大きく?」ママと、同じ。「うん。大人になる」やわらかくて、「なりたい?」あたたかい。「たぶん。」

 

悲しみが、鼻の奥に熱を持たせた。魅夜美は自分がわめき散らし続けていることには気付いていたがやめろ。感じていた。ウザいから。ただ、その黙れ。悲しみの温度を。うるさいから。それだけに消えろ。意識を穢いから。集中させようとして壊れろ。薄れる。何もかも。もう、堕ちろ。意識など、地球の保ちようもない。裏側にまで。

 

美沙が、と思った。理沙は、たら、いいのに、と、たら。美沙の頭をなぜ、胸の中に抱いたその乳臭い頭髪の匂いが立って、麻里亜だったら。たら、このまま、羽交い絞めにして、あなたがパパを誘惑した、あの膨らんで穢らしく垂れ下がったあれと同じこれで、あなたの口を、鼻を、顔中をうずめて、窒息させてやれるのに。

 

死んだ。と思った。その瞬間に、お前を、殺してやりたくなった。そう、魅夜美は言った。ふたたび、正気づいた愛花が、身を起こして周囲を見回し、いつか、既に視界に映っていた魅夜美の姿を、ようやく見留めたときに。

 

穢らしいと、ママ、あの、やさしい、穢いママを寝息。かわいそうなすべてを、ママをいま、すぐに、癒してくれてるよ。いま、美沙の、すぐにその殺してあげられるのにかわいい死にたい?寝息が。ねぇ、世界の、ママ悲しい、残酷な世界の、わたしのすべてを、ママ。

 

「なにしてくれたの?って。」自分をなじる、その「まじ、」声を聞きながら、愛してるよ、って、意識。「なにしてんの?」次第に、言っていいのかな?眠るように遠のいていく、自分の好きだよって、って」意識の本当に?こっち側のどうしようもない「おまえ、俺のこと」至近距離で、言っていいのかな?燃え上がっていたのだった。「悲しませたいの?」俺なんかがって、痛みが。時々、蹴りあげられ「って」つかまれた思ったりするけど、髪の毛が、そして頭部が生きてられないと思う。床にぶつけられたとき「そういうの、」千切れ飛んではもしも、きみが拡がるり続ける、痛みの「違うでしょって。」急激ないなくなったら。拡散。声さえ「わかる?」立てられずに?あるいは、生まれてこなければ。もう、「じゃない?違うの?」聞き取れないだけ、なのか、と、「違うのかよ」叫ぶ。生まれないまま、きみを、研二は自分が叫んだ瞬間に、喉に走った苦い痛みに顔をしかめた。

繊細で、こまやかな痛み。

久美子は仰向けのまま首だけ持ち上げて、自分の、見た。息遣いを、研二を、聞く。彼はただわたしの。子どものようにわたしだけの。泣いているだけで、流れてるもの。変わらない。あかわらず、思った。血管の中に。この人もかならずしも、子どもに過ぎない。わたしだけのものとはいえない、傷ついた、その、ただのわたしの血。子ども。思わず声を立てて笑った久美子の顔を、振り向き見て、なぜ?その、まだらに、真っ赤に充血した久美子の顔が、俺のせいだ、思った。俺が、殴ったから。なぜ?

久美子は不思議だった。なぜ、こんなに、なぜ、涙ばかりを、暴力にこんなに、まみれなければならないのか?だれもが、来る日も、来る日も。流すのか?いつ?そんなに暴力から解放されるのか?ありふれたものなら俺は?君がこんな日々など、私が求めてなどいないのに。流した涙は、

無意味だ。ねぇ。

子どもの泣き声が耳元で鳴っていた。それ、和晃。部屋の隅、手をのばしても届かないところに、うずくまって。その、彼。ねぇ、「知ってる?」声を聞いた。

久美子のつぶやく、その声を、「無意味だよ。」聞く。笑っていた。久美子のその笑顔を、研二は自分が蹴り上げなければならないことを知っていた。

う、と言った気がした。蹴り上げた足の先が顎の触感を感じたときに。誰が?俺が?久美子がなぜ?失心したとき、立てたこんなに、その暴力が、声を、苦しめるのか?研二は俺を。耳元にいつでも、聞いた、いつも。そのいまも。実感が拭えない。

 

和晃も、麻利亜もいなかった日曜日の午前に、死んだ人ゲームをした。

それは、美沙のお気に入りだったが、好きじゃないから、と、いつものように断ろうとした、なんで?理沙を、ねぇ。なんで?見詰める美沙が、涙ぐんでいたので、理沙は美沙の目の前で、死んだ。

夏の初めの、やわらかい日差しが、斜めに差し込んだ。

カーテンの、風に瞬いた切れ目から。

床の上にその光が反射し、いつでも、まばたく。光は、理沙はじかに触れては、ベッドの上、その、横を向いて、触ったものの、色彩を目を破壊する。見開いたまま、光こそが、死んでいた。色彩をねぇ。生んだのだというのに。どうして?

 

「どうして、おねぇさま、死んでしまったの?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

美沙がしがみついて、体をゆすり、泣きじゃくってみせる。わざとがやがて本当の涙になり、ついには本当に悲しくなってしまう。おねぇさまが、と、本当に死んでしまったら?「ねぇさま、わたしのねぇさま」どうするの?「どうして、ねぇ」もしも本当に「どうしてなの?」やがてはいつか、こんな風に「こんなにかなしい」死んでしまったら?「トランシルヴァニアの森の中に」ねぇ、ひとりになって「死んでしまったなんて」そうしたらもう、「ねぇさま、ねぇ」会えないね。もう、永遠に。「わたしをたったひとりで」死ぬまでずっと、でも「ねぇさま、ねぇ、」たぶん、死んでも、ずっと「いかないで、ねぇさま」だって、死んだら「だれか、ねぇさまを

「ママ、殺しちゃおっか?」不意に跳ね起きて、理沙が言ったので、美沙は一瞬で泣きやんで、何を考えるわけでもなく、「いいね。殺しちゃお、」叫ぶ。理沙が言い終わらないうちに。笑いながら。そして、二人のくすくす笑いの音は耳元で重なり合って、

美沙。この子はいつも、何の嘘もなく笑う。

理沙は思った。

日差し。

窓の。

その、切れ目。カーテンの、その、切れ目の。

光。

そして、ね。風が、ね。

やさしく吹くの。

風が、ね。理沙ちゃん、

大丈夫。自分に、言う。

大丈夫。ね?

理沙ちゃん。

ね。大丈夫。嘘のない。笑顔。

美沙。

何も考えないで笑うから。

この世界には、悲しみも、痛みも、何もないことを、ちゃんと知っているから。

ちゃんと、しっかり、知っているから。わたしも「知ってるよ」

「なにを?」知ってる。ちゃんと、

「知ってるよ。わたし」

ねぇ、なに?」秘密だっただけ。

「わたしも。」

「何を?理沙ちゃん、なにを?」秘密に

いままで、秘密にしてただけ。「じゃ、美沙が死んで。美沙が、ママだから。」

ママを、葬送する。悲しいママを。ベッドの上のママは、死んでさえいても、まるで、世界には、なんの悲しみも、痛みも存在しないように、あどけない笑顔さえ浮かべて眠っている。

安らかに、ママ。

理沙は、本当に悲しいとき、涙さえ溢れないことを知った。

悲しみが、ただ、音も、気配もなく体の内側をつかんで、自分が生きている実感さえ、もはや、なかった。あ、と。理沙は思った。死んでる。わたし、死んだ。

体を曲げ、ママの匂いをかいだ、子どもの体の、いい匂い。ママの、小さな半開きの唇に、口付けた。

理沙は十一歳だった。

背中に初めてのアイロンのやけど痕ができて、一ヶ月ほどたっていた。奥歯は二本、なかった。

 

散り行く花々のために

ぼくたちが できること。

誰にも気付かれないように

覚えておいてあげること。

 

散り行く花々のために

ぼくたちが できること。

色あせて穢くなる前に

握りつぶして棄てること。

 

散り行く花々のために、と、口の奥でだけつぶやいて、後ろ頭を殴打した和晃の拳に目舞う。言わない。なにも。意識の爆発。

 一瞬で白濁し、なにも言わない。そのまま、痛い、と思った。

声はなかった。息遣いの音だけが重なって、ぼくたちが、できること。

花が不意に涙したなら

火をつけて燃やしてあげること。床の上に嘔吐する。耐えられないほどに煮えたぎった不快感だけが喉の奥で、放熱していた。

吐く。くの字にからだをまげ、汗をだらだらかいて、四肢を震わせ、穢い、思った。自分でも。穢い。事実、そうだった。

吐寫物にまみれる。

それが、さらに、和晃の怒りに火を注ぎ、麻利亜は思わず吹き出した。嘲笑。なんで、と、笑った自分を一瞬咎め、なんで、ね?、耐えられずに、再び笑ってしまって、この子、なんで、こんなに、なんで、馬鹿なの?

吐いちゃえば、もっと殴られるなんて、バカでも分かるのに?

恨めしげな上目遣いなんてすれば、もっと憎まれるなんて、バカでも分かるのに?

親にさえ愛されないのに?もう、と、麻利亜は、死んだら?

ねぇ、なんで?

 

散り行く花々のために

ぼくたちが できもしなかったこと

花を殺してあげること。

花を生かしてあげること。好き?

 

好き?

声。その、頭の上の方から、堕ちてくる、それ。

その、声。好き?

 

ですか?、と、言われた。

理沙は振り向き見て、「好きですか?」

男を見た。調った顔立ちの男。花屋の中だった。

駅前にあって、中学校への通い道の、ちょうど真ん中だった。何が?

何も言わない少女を、男は見詰めた。微笑んだまま。何が?

ねぇ。花の匂いが、何が?氾濫している。四方に。逃げ場所もないほどに。「好き。」水仙。理沙は、ようやく言って、うつむき、男に惹かれたわけではない。百合。恥ずかしかっただけだ。

自分が恥ずかしがっていることに気付いたとき何で?薔薇。理沙は自分の顔がどうしようもなく上気して行くのを、さらに、恥じた。男。霞想(かすみそう)明らかに、日本人ではなかった。

その、褐色の肌。木蓮。日差しの匂いがする気さえした。もはや、華婦人(カトレア)花の匂いしか、感じることなどできないくせに。

調った顔立ちの調い方が、日本人のそれとは違って、調い方にも国籍があることに気付いく。それは、一瞬、理沙を笑わせてしまわずにおかなかったが、福寿草。どうしたの?

男が笑ったまま、いま、戸惑いさえしていることを、知ってる。わかる、と明散縁(アスチルベ)想った。

その気持ち、分かる。「何?」言った。男は、そう言った。

「どうしたの?」どうして?ねぇ、「何?どうして?」理沙は、天凛女(アマリリス)男を見上げて、「どうしたの?」男の、その声。やわらかい、恥知花(オシロイバナ)聞く。

目を閉じているようだ、と想った。

まるでだって、乙女添(オミナエシ)いま、何も、見えてなどいないから。「好き。」理沙は言った。桔梗。その瞬間、耐えられずに、理沙は吹き出して笑った。

 


散り逝く花々のために3

顔。

褐色の肌に、ななめにやわらかい光が差して、影が生じるとその影は、彼の顔立ちの堀の深さを、沈黙の中に際立たせる。

しずかな顔。

表情豊かな、けれども、確実に表情を伝えていない気がする。どんなときも。それが、自分の思い違いに過ぎないことは、分かっている。彼は、単純に、本当の表情を曝しているだけだ。なのに、なぜ?と、ときに理沙は自分の心を疑う。

ざわめく。

なにも、語りきらない、そんな気がしているから、何も語りかけないに等しいしずかなその顔を見ていると、言葉がざわめく。

笑えば、笑うほど、表情が翳りを帯びるのは、なぜ?

そして、なぜ、答えてくれないの?

 

なにも、わたしが問いかけないから?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

想う。なにかを想っていることは、理沙も知っていた、なにを想っているのか、わからなかった。たぶん、なにも想っていないから。

温度を持った霧のようなおぼろげな塊りが、消え去りもしないままに、喉の奥に靄ついて、想う。

想い続けていた。

自分が、何をしているのかさえ、もはや、わからない。十三歳の理沙を、だれもが美しいと言った。自分が美しいことも知っていた。そして、その美しさには、たぶん、何の意味もないことも予感していた。

美しさが誰かに愛され、大切にされるためのものならば、確実に、それがかなえられることなどありえなかった。

握りつぶされるに違いない。誰に?だれかに。答えようとすると、頭の中が熱くなる。

冷たい温度で、発熱する。答えてはいけないことを知っている。だから、答えようがない。

誰もが想っていることを、知ってた。理沙は、誰もが、彼女ほど幸せな少女などいない、と。

同級生の少女たちさえ、まるで下僕のようだった。彼女たちは知っていた。理沙が、自分たちとは違うということを。その差異が絶対的な事実として、目の前に突きつけられているとき、もはや、彼女たちはそれにあがなおうとはしない。

疎外するに等しい尊重と敬愛。

希薄なやさしさと、希薄な友情。

だれも、たぶん、愛してはいないのだと想った。自分のことなど。ただ、見惚れ、讃えるだけで。

彼女たちにとって、自分は違う世界の人間にすぎない。

豊かすぎるほどの、なにか手入されているわけでもない漆黒の髪の毛が、暗闇の中の漆のような光沢を持って、滑らかな反射光を何重にも重ねた。

見ているものの、来世の、その来世の、その先の来世をまで見詰めているような、深い眼差しが笑みに崩れると、頬に一瞬だけ深いえくぼがためらいがちに浮かんで消える。

常に潤んだ眼差しが、何重にも謎をかけて、結局は答えなど見つけられないままに、人々は微笑み返すしかない。

華奢な体に不意に生じた目舞うような曲線が、誰かを煽情するでもなく、目で穢してしまうことを詫びなければならない気にさせる。そのシルエットは、理沙が身動きするたびに、嘲笑うように自由な美しさを、かたちづくった。

むごたらしいまでに、愛してるよ、美しい。って、吐く。言っていいのかな麻利亜に見詰められるたびに、好きだよって、泣きそうになる。本当に?悲しくないのに。言っていいのかな?制御できない涙がわたしなんかがって、一粒でもこぼれてしまえば、時々、まぶたは思ったりするけど、決壊する。生きてられないと思う。止め処もない、もしも、きみがいなくなったら。滂沱の涙が、ただ、わたしなんかでいいのかな?頬を熱く濡らしてきみの、砕け散る。運命の人が。振り向きざまに、わたしなんかでいいのかな?麻利亜にひっぱたかれたときに。きみの、何でよ、と、幸せそのものが。麻利亜がなじっているのを知っている。出会わなければよかったなんて思わない。わかっていた。生まれてこなければ。当たり前のこと。誰も傷つかなかったのに。意味もなく、生まれないまま、顔を見た瞬間に泣き出すなんて。生まれないまま、きみを、ママが怒るに決まってる。生まれないまま、きみを、愛することができたら、ママは間違ってない。生まれないまま、きみを、愛することができたら、よかったのに。そんな事は知っていた。消して。今すぐ。涙が止まらなかった。今すぐ、消して。吐く。頬が痛みを感じた瞬間に。壊れる。

 

誰のせい?

想った。知ってる。わたしのせい。壊れる。

わたしが泣いたりしたから。知ってる。壊れた。なにもかも、

知ってる。壊れる。誰が?

壊れた。わたしが、壊した。

 

「目を閉じて」

ね?

「そして、そっと。」

知ってる?

近付けて、」

美しさを。

「感じて。」

この世界の、どうしようもないほどの、

感じる?」

無残なほどの、美しさを。

「わかる?」わかる、と、不意に目を開いて、理沙は言った。男に言われるままに、そうすると、白百合と、黄色い百合の、花弁の匂いの違いが、はっきりとわかった。

「違うでしょう?」花屋の男。その名前は、「うん。」知らない。「違うね。」花屋の中の、飽和した花々の芳香。

「日本語で、何と言いますか?」

「なに?」

「この匂い」ベトナムから来た、留学生だった。「匂い?」名前を知らないわけではない。「そうです。この、」お互いに、初めて会った日に、「この匂いの、」名乗りあったものの、「名前」聞きなれない発音のそれを、「あ、……」理沙は覚えることが「んー」出来なかった。ね、

「うみにじっぽい」なに?理沙のその言葉を聞いた瞬間に男は声を立てて笑って、「なに?何、ですか?」

「うみ、にじ、っぽい」

「なに」海に、かかった、虹。わかる?ゆっくりと、確認すように発音する理沙を、「海、虹、っぽい」見詰め、その微笑の向こうには、「うみにじっぽい」光。

男は想った。こんなにも、翳りのない眼差しがあって、いいのだろうか、とさえ。

まぶしくすら感じられる、眼差しの向こうの、光に満ちた風景。どんな?想った。光、風景なの?わたしを、あなたが包んで、見ている失明させる風景は。光。どんなに一瞬で綺麗なのだろう。全てをその包んで眼差しが白濁させ捉える消し飛ばして、風景は。光。

叫び声さえ、あげられない。白熱した光に、頭の中、体の中さえもが、白濁していた。光に、包まれる。和晃の指先が髪の毛に触れた一瞬に。その指先がやがて髪の毛をつかんで、顔面がたたきつけられた壁のクロスの触感と味を再確認するときには既に、光。

 

包まれる。光。

あったかい。

熱いくらい。息も、出来ないくらい。

光。

 

もはや、許しを請うことさえ出来ずに、床にうつぶせに倒れ、四肢を大袈裟に痙攣させて、胃液を吐き始めるいつもどおりの理沙の穢らしい姿に、和晃は目を逸らさざるを得ない。

閉ざされた部屋の中、人体の温度に汗ばむ。

美沙が、哀れむまなざしを、理沙におくった。

なぜ、理沙が、誰にも愛されないのか、美沙にはわからない。なにか、生得的な、致命的な欠陥があるに違いなかった。

哀れむしかなった。

為すすべもない。失敗作として、生まれてきてしまったのだから。「まじ、むかつく」和晃の声を聞いて、麻利亜は振り向き見、クスリ。「なんでこいつ、わざと引き付けおこすんだろ?」つぎのクスリは、いつ手に入るのか?「壁に頭ぶつけただけじゃん」わたしが体を売ってまで、手に入れているのに「普通じゃねぇよな」なぜ、あなたは何もしないのか?「いじけてんじゃんぇの?」すぐに、何も言わずに辞めてしまう。「なんか、奴隷根性っていうかさ。」せめて、けんかでもして辞めれないの?「まじ、たたきなおさないと、クズだよ、」次の日、いじけたように、突然行かなくなるくらいなら。「こいつ。」死んで。ねぇ、と「死んでくんね?」独り語散た。

 

光が消えうせているのに気付く。

いつも、ふたたび気が付いたときには。

体中にこびりついた、汗の嫌な触感が在る。

吐寫物と、汗と、何か自分の体内から漏れ出たさまざまな、穢いものが、いま、自分の体を穢しているのを知っている。

みんな、出掛けていた。

部屋には誰もいなかった。夕方。

せまい、DKのフローリングの温度と触感。

うつぶせの、頬に、胸に、下腹部と、太もも、そして、足の指と甲。そして、二の腕にも。

どうしてだかわからない。体中が痛いのが。

わたしは、穢い。

いま、とても、穢い。

体が痛い。

起き上がれない。

 

死んだ振りをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

79歳の麻里亜が見上げたのは、空が前触れもなく発した凍りつくような光だった。

あのころ、車椅子の上で、手のひらを開いて、閉じ、そして開き、それを繰り返し続けることでいくつもの一日は終わって行った。

何が起こったのか、わからなかった。轟音がとどろく気がして、それに身構えようとするまでもなく、その次の一瞬に、音響が死んでいだことに気付いた。

静寂ではなかった。音というものそれ自体が、もはやそこに存在していなかった。

大きい、と思った。青の色彩そのものが一瞬で真っ二つになったかのような、その、空が崩壊するさまに。大きい。

なんて、大きな破壊。まだ轟音は鳴り響かない。

介護施設の中には桜の木が植えられていた。まだ咲いてはいなかった。

2059年の3月。

晴れていた。

 

あいつ、好きかもよ。理沙ちゃんのこと。

ささやいたのは瑞希だった。ちっちゃな、破壊者。あたまがよくなくて、それでも勘は鋭くて、そのくせ勘違いが多いけれど、結局は、わたしの心を破壊してしまう。

凍りついた、冷たい心を。

ママを殺してしまいそうになった、穢い心を。

小さな破壊者は、笑ってはいけない、穢いわたしの顔を笑わせてしまう、と、理沙は「ないない」思った。「違うよ」わざと唇を「なくないから。ね、」とがらせた瑞希は「まじだよ。これ。」かわいい。かわいくないけど、その日、かわいい、と、後ろから見た思う。麻利亜の首筋は、「なんで、そんなこと、」おくれ毛がしずかに思うの?」煙だって、「悠太の気持ちなんか」繊細に「わかんないじゃん?」霞見草を「わかるよ」と散らしたようだった。即座に答えた理沙には瑞希はそんな気がした。唇が触れそうなほどに美しいと、耳に寄せ、だってさ。言っていいのかどうかさえわからない、「あいつ、自分で言ってたもん」どうしようもなく理沙のこと、繊細な、好きだって。それ。声を立てて笑う。息をねぇ、」吹きかけただけで、「それってさ、」全てが「かも、じゃなくない?」壊れてしまいそうだ、「単純に、」と思い、「好きなんじゃない?」触れる。瑞希が笑う。心の中で触れたが、「だから言ってるじゃん」指先は「理沙のこと」戸惑ったまま「好きだよって」停滞した。「かもって言ったよ。」狭いDK「みぃちゃん、」テーブルに座って、「かもっていったじゃん。」頬杖をつき、「言わないから。」理沙はそのうたた寝した「好きって、」息遣いを聞く。「好きって、」逡巡。「言ったからね。わたし」気づいたときには、「ゆわないから。」指先は「ゆってないから」麻利亜の首筋に触れ、認めようとしない瑞希は大切に、埒が明かないから、いつくしむように「好きだって言ったよ」その皮膚を「わたし」撫ぜた両手のひらが不意に、首の皮膚の温度を思いついたままに、感じたときに、キスした。いけない、と、瑞希に口付け、最後に「みぃ意識したのは「うるさいぞ。自分のみぃ。」声だった。「ごめん、」と、断りもなく、ややあって、触れるなんて。茫然としたままのそんなこと、表情さえ崩さずにしちゃいけない。瑞希は言った。手のひらが「だいじょうぶ?」首を完全に「口、臭くなかった?」包みきったとき、理沙が声を立てて笑う。まるで、「はい?」手のひらが、「みぃ、まじで」それをするためだけに「みぃ、まじであたま変だよ」作られていたかのような抱きしめ、自然さで、もう一度、麻利亜の首をキスする。絞めた。

なんで?」自分が何をしているのか、ねぇ、理沙は知っていた。「なんでよ。」瑞希が止められなかった。言った。知ってる?指がふるえ、「なんでもだよ」腕が熱を自分が、かわいいこと。持っていた。つぶやいた、正気づいた心の中だけの麻利亜が自分の言葉を、甲高い悲鳴を上げ、理沙は振り向いた眼差しには、聞いた。

確実な絶望があった。自分の心の中だけに。

 

絶望。自分がもう助からないことを、確信しながら哀れみを乞う、無残な表情を麻利亜は、違う、と理沙は思った。こんなことが、と、したいんじゃない。何も意識されないが、いま、空間が音響に満たされていることは知っている。麻利亜がすすり上げるような悲鳴を立て続けている。もしそれが聞こえたなら、わたしはその瞬間に、発狂してしまうに違いない。痛ましすぎて。麻利亜のひん剥かれた白目のこまやかな毛細血管が、絶望に潤った赤をきらめかせた。もしそれが見えたなら、わたしはその瞬間に、自殺してしまうに違いない。悲しすぎて。やがて二階から降りてきた和晃に引きずられるまま、そして突っ込まれた水洗便器に流された水流が理沙の顔を洗う。水を飲み、鼻の中いっぱいに水の臭気と触感が拡がり、鼻と喉がつながっている事実を再認識する。窒息しそうになる。このまま死にたいと思う。訴えたかった。なぜ、本当に殺してくれないのかと。なに?

 

と、言った。

言わなかった。聞かれはしなかった。

だって、言わなかったから。秘密だから。心の中だけで、教えないから。言ったから。あててごらん。なにを想っているのか。

なにを、求めているのか。わたしが、なに?と花屋の男が言った。その背後からかけられた言葉を、まるで不意にうしろから抱きしめられたように、からだを固め、しかし、それは一瞬に過ぎない。

すぐに、振り向いて、理沙は笑ってしまったから。

なに?これ、なに?

…hoa」男が言った「hoa huệホアなに?ホア、フエ。名前は?この花の、名前は?あなたの国言葉で。その、褐色の肌の人たちの住む国の言葉で。

わたしと同じ肌の色の。ママと同じ肌の色の。

百合の花。

男の褐色の肌に、花で満たされた入り口の、斜めに入った午後の陽光が触れていた。そう。そうなの。

ホア、フエ。口の中だけで、理沙は繰り返して、そう。ホア、フエ。ベトナムから来た、と男は言っていた。百合。戦争の国。百合の花。お互いに殺しあった人たちの国。白百合。銃弾とアオヤイの国。純白の花。陥落したサイゴンで、女たちが泣いた国。無垢の花。そう。理沙は知っていた。この男は、自分を愛しているに違いなかった。

歳が離れすぎてるよ、と、いたずらな、微かな嘲笑さえ交えて、そう。もう知ってるよ。想った。あなたの想い。

あなたは、わたしを愛さずに入られなかった。たとえ、わたしが外国人で、幼くて、たぶん自分の手が届かなくても、あなたは愛さずにはいられない。

美しいから。

百合」と、その日本語の名前を、つづけて何度か、「ゆ、り」繰り返して、「ゆうり。」聞いた。

男の音声。彼が、時々、自分に隠れて、秘められた息遣いとともに、自分を見ているのは知っていたし、いいよ。ときに、見て。吸い込んでいた。見たいなら。花々の匂いとともに、見て。彼は、いいよ。理沙の、例えば、見せてあげる。髪の毛の匂いさえ。

空間を満たした、くすぐるような、あまやかな匂い。

駅から離れた暇な店だから、学校の帰りに立ち寄った殆どの場合、男と理沙以外には誰もいない。

理沙が花を買うわけでもなく、眺め、時間を潰すに過ぎないことは男だって知っている。

嗅ぐ。百合の花の、綺麗な水の、それらの混ざり合った香気に、その美しく幼い少女の匂いさえ混じって、男は目を逸らす。

「きれい?」理沙が言った。

花が?そうではないことは、知っている。ね?

眼差し。すべてを知っているに違いなかった。この少女は、自分の気持ちも、なにも、かも。「きれい?」教えて。

その瞳は、いま、何を見てるの?答える代わりに、微笑んで、黙り込んでしまった男に、理沙は小さな笑い声を投げた。

 

空間を、その笑い声が小さくふるわせたことに、男は気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


散り逝く花々のために4

その日、土砂降りの雨が降った。

テレビをつければ、高尾山の方で土砂崩れがあって、何人もの人間が家か車ごと埋もれてしまったことを知ることができたたはずだが、理沙は知らなかった。目を背けようとした。自分を見つめる、怒り狂った眼差しから。東京の交通機関は麻痺した。その怒号を聞こえない振りをしてやり過ごそうとし、殴打するこぶしが与える痛みをなかったことにする。水浸しの町。

こんな風になるなんて。すべてのものが、水浸しになって、それでもたたきつけ、破壊しつくそうとするような豪雨は収まろうとしない。

サイレンの音。水を撥ねる。

都市の排水機能は麻痺し、けど、どこかで慣れている。地震。雨。津波。台風。いつか、誰かは無慈悲にも死んでしまうものだ。

あたりまえのこと。歯軋りするだけで、目を剥いて、穢い。何も言わずにこれが、立ったまま俺のこどもか?痙攣する、よだれさえたらして。理沙を人間の穢れを見る。一心に、和晃は、表現したような壊れた人類の失敗作。絶望感にさえ苛まれながら。

助けてくれ、と、和晃は想った。

麻利亜は風俗のアルバイトからまだ帰ってこない。若くはない体を、若い男に投げ与えることでしか生きていけない、あの、穢い女。

舌打した自分の舌が、口の中で立てた音を聞く。

 

放り出された豪雨の中で、音響がやまない。耳の中で、聞き取れないほどの怒号の記憶と、雨の音響が交差して、鳴り響き、重なって、塊る。

水浸しの路面は、理沙のかかとまで沈めた。

誰もいない町を歩き、泣いてなどいなかった。息遣っている。理沙は想った。わたしは息遣っている。交差点を曲がった角のところで、非常事態の黄色信号が明滅を繰り返し、ぶつかりそうになったのは、濡れねずみのあの花屋の男だった。あれ?声。

あれ?」轟音の向こうから聞こえるその声を「どうしたの?」聞いたとき、理沙は倒れるように、男の胸にしがみついたまま失心していた。

 

だいじょうぶ。

もう、だいじょうぶ。

しんぱいしないで。

だいじょうぶ。

 

繰り返される音声を、しかし、口に出しはしないので、結局は、男にさえも聞かれない。

気は付いていた。もう。失心しているのと同じような、希薄な白濁した意識の中で。男が自分の部屋につれて帰ったことを知っている。実際、それ以外に、彼としては為すすべもなかったことも、理解していた。

狭い、ごちゃごちゃした部屋。すこしくらい、掃除すればいいのに、と思いながら、男が渡そうとするタオルを取る力さえ、腕にはなかった。

一瞬、男は思いあぐねて、欲望も含めたさまざまな感情が重なって、しかし、かたちをなさない。

男が自分の濡れた、重い衣服を脱がして行くままにまかせる。男は上半身裸だったし、匂い。雨に濡れたからだの匂いに、部屋の中の空気が湿って混濁する。男が、息を飲んだのに気付いた。

男は見詰めたまま、眼を逸らせなかった。理沙の褐色の肌の、男たちが夢見たように豊な胸の膨らみに這った、無残なケロイドを。わたしのせい。美しさを、わたしが、ね。破壊しなければ気がすまないような、じぶんで、鮮やかな、アイロンで焼いたんだよ。ケロイド。熱いってか、小さな痛かった。理沙の手のひらをママみたいに、ちょうどなりたくなかったから。被せたような。見ていいよ。なぜ?見て。なんで?これが、ねぇ。わたしだから。

理沙は、何も言わない。

男は、立ったまま、素肌を曝している理沙を見詰めた。一瞬、男は目を逸らし、そうじゃない、想うKhông phải…違うんだ、想った。違う。

見詰め、身動きもしない、空に棄てられたままの眼差しを見いだし、遅れて、なぜかハッとして、もういちど息を飲み、見詰め、目をそらせなくなったように、理沙を見詰めてばかりなのは、にも拘らず、彼女の裸体が美しいと想おうとしていたからだろうか?

やわらかく息遣う、繊細な皮膚を握りつぶして掻き毟ったようなケロイドを、もう一度眼差しに確認して「どうして?」聞く。聞く。理沙は、しかし、わたしは。何も聞いた。答えないままに、わたしは、いけない。音。男は壊れた音。Không được… 雨の、だめ。聞く。しちゃ、雨の、だめだ。音を。男は怒鳴りつけるような。自分の連呼された、指先が無数の、彼女のそれら、ひきつったやまない怒号のような、ケロイドにそれら、触れた。聞く。知った。壊れた男は音。指が壊れた空から、触れたことを。たたきつけられた、触感。轟音。ざらついて、次に壊れるのは、ひきつった、なに?そのなに?ねぇ、壊れるのは?どうして?つぎは、なにが?なに?なにが、起こったの?一体、

 

きみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだを拭いてやれば、ベッドの中にもぐりこんで、毛布に丸まったまま、彼女が震えているのを知っている。どれだけの間、雨に打たれていたのかわからなかった。

いけない。と想い、その男、ベトナムから来た24歳の男はなんども繰り返し、いけない、そのKhông được…ベトナム語と日本語をかわるがわる反響させ続けたが、男は知っていた。彼女をいま、誰かが抱きしめてやるべきなのは、誰にも否定できない。

美しいとはいえ、幼い少女だった。そのような感情の対象であってはならないことくらいは知っている。それに、外国人なのだから、例えば、永遠を誓うことなど、どんな風にか、誰かにか、何らかの嘘をつかない限り、できはしない。

そして、明らかに彼女は傷ついていた。背中、尻、いけない、と、太もも、想い、二の腕、乱れ、肩、とめどもなく、腹部、どうやって?すね、どうすれば、やけど、きみを切り傷、愛することが黒ずんだできるだろう?うちみ、傷ついた赤らんだ君を傷痕、傷つけない紫色の、ままに引っかかれたような、いとしい掻き毟ったような、君を。無理だ。

 

無理だ、と、その言葉をKhông được…最後に頭の中にだけ、つぶやくより先に、君を男は彼女を愛することは、抱いていた。仕方ないこと。脱ぎ棄てられた君は、床の上に美しすぎたから。散らされるにまかせて、君を願った。愛することは、何とか穢すこと。傷つけないですむようように。君に心を?犯罪をからだを?加えること。わからない。君をあるいは普通でなくすること。すべてを。君を聞く。最後まで耳の向こうで追い詰めること。轟音。君を雨の壊してしまうこと。あの、降りつけていた雨の触感の記憶。そして、まだ、僕が覚えていた。求めたことは肌は。唯一つ。記憶。君の痛みの、幸せ。苦痛の、君の記憶。癒し。悲鳴を不意に君が、たててしまいそうになって、いつか微笑んでくれること。しがみついた。何かに覚醒したように、肌が男の肌の触感を、あるいは汗ばんで、湿った暖かさ、その温度、息遣い、感じた、想う、わたしは、聞く。いま、音。感じる。雨の轟音のいま、こっち側に、あらゆるもの、重なり合った音、息遣いのあらゆる、音が、色彩。二つあって、触感。そのうちの触れる。ひとつがわたしに自分のものに触れた、他ならないことに、あなたに気付いたわたしは、いま、理沙は、触れた。自分が立てるその音を聞く。

 

とざされたままの理沙のそこが、何度か試されるうちに、次第に開いていって、彼のそれをついに受け入れたとき、すくなくとも、そこだけは、彼女が彼を受け入れられ獲る状態だったことに、何かの罪を許された気がした。彼女の体内の温度を感じながら、確信した。もう、許されはしない、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日差しに、まばたく。

記憶にさえ残させないで、すべてを消し去ってしまったかのような、そんな晴れ渡った日差しが、雲の一片さえない空を、青く染めているに違いなかった。

カーテン越しの、朝の陽光が、その現実を、余すことなく予感させた。

男はまだ、寝ていた。昨日、男が自分になにをしたのか知っていたし、自分が何をしたのかも知っていた。

想った。男が、あっと言うまに、体の中に放ったときに、こんなに感じるのか、と、自分の体内に出されてしまったときの感覚は、こんなにも、はっきりと。…Yes.

言った。心の中にだけ、それ以外の言葉は想い付かなかった。はぐくむ。

同じように、ママと、と、想い、瞬き、息遣い、あたたかい。日差しが、やわらかく、カーテン生地を通り抜けて、「こんにちは」肌に「おはよう」触れた。「世界。」

 

世界よ、おはよう。

 

髪の毛の先で鼻をくすぐって、男を起こし、寝ぼけた眼差しの一瞬のあと、再び寝ようとして背を向けて、鼻に立てた理沙の笑い声を、男は振り向き見て、聞いた。

言った。「理沙ちゃん」

「なに?」

「いや、いいえ。」

「なに?」

「あ、

ね。」

「ん?」

「なに?」

理沙ちゃん、」

ん?」

ね。」

うん。」

「ん、

なぜ、理沙は、すべてをただ、破壊してしまわなければならないのだろう?彼を見詰めたまま、大雨の何度も記憶さえ。息遣ってその彼の事実さえ。呼吸になぜ、あわせてみようとすべてをしさえしたがなくしてしまわなければならないのだろう?不意に吹き出して笑った。大雨のできないよ。苦痛さえ。そんなこと。そのだって、凄惨ささえ。別の人だから。同じ人なら、愛さない。

あなたを愛するようには。

話していることと、話さないでいることが、殆ど差異を持ち獲ないほどに、無意味な会話と音声が交わされ、時間は濫費される。もっと。むしろ、時間など、と、理沙は、この退屈で停滞した何も生み出さない無駄で無益な時間の中で、燃え尽きてしまえばいい、と。

 

 

話しかけようとして、口籠り、ややあって、そのこのまま瞳はもう何かを手遅れに伺ってなってしまえばいいと想ったぼくは、震えた。君を見た。ついには見詰めて、手遅れにしてしまったことに、なにか気付いた。言おうとして泣き伏したくなるような口籠り、悲しみとともに。笑った。声を立てて。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もう一つの一晩が過ぎて、もう一度日が暮れて、そして、朝日が昇った。どうして?と男は想った、わたしは、に他ならない、知っていた、ことなど、犯罪、自分がしていることは。瞬き、わたしは自分がしていることは犯罪に他ならないことなど知っていた。見詰めた。ベッドに腰掛けたまま、まだ目を覚まさない理沙を。

無傷に済ませてしまうべき時間は取り逃がされてしまった。何も起きないですぎて行く気がした。このままずっと。そんな事などありえないことなど、よくわかっていた。時間は燃え尽きた。浪費され、無駄にされ、濫費され、世界は崩壊していた。もう、わたしたちに未来などないのだから。つぶやく。

心の中でだけ、彼女を目覚めさせないように。抱きしめながら、天使を、いつのまにか、堕ちて行った、知っている、ぼくは、悲しみを、抱きしめながた、知った、犯罪に、ぼくたちは、ことを。悲しみを知った天使を抱きしめながらいつのまにか僕たちは犯罪に堕ちて行ったことをぼくは知っている。

僕達は、犯罪者だ。

境界線?

あの、無駄な言葉と、無意味な笑い声と、吐息の中に、いつの間にか濫費されたにすぎないもはや幸せとさえもいえない鮮やかな幸福が、それだ。

 

おなか、すいた。

言った。その声を聞いて、そして、耳に感じられるのその音の感覚をなぞり、そして、理沙。想った。理沙の、聞く。声。

ね?わたしは、すかない?きみの、おなか、声を、すかないの?聞いた。ね、

名前、なに?

 

え?」と言って振り向き見た男を、理沙は後ろから抱きしめて、声を立てて笑いながら、「ひどい」はしゃぎ、「ね、」飛び跳ねてみせ、「ねぇ、」重なる、「教えたよ、前に。」自分たちの「忘れたの?」笑い声と「ね、ひどい。」乱れた「ほんとに、」息遣いが、「ね?」重なって、「ほんと?」反響したのを、「ねぇ!」聞いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

―…Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「ゴック?レ・バン・ゴック?」

―…Không !, Không phải …Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「ゴッ?レ・バン・ゴッ?」

―…Không !, Không phải …Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「ゴオ?レ・ヴァン・ゴオー?」

―…Không !, Không phải …Ngọc, Lê Vạn Ngọc…

「んゴッ?レ・ヴァンんゴッ?」ごーさん。ね?と理沙が言った。「あなたの名前は、ね?ごーさん?」ね?理沙が微笑み、Ngọcはその頬に、自らの頬を当てて、彼が感じたのはその温度だった。暖かい、至近距離に存在する、腕の中の小さな発熱体。「おなかすいたね?」

ね?」と、不意に小さく、耐え切れなくなった理沙が声を立てて笑うのを、Ngọcは聞く。「なに?」

なんでもない。「どうしたの?」だから、と、「なんで、笑うの?」なんでもないよ。理沙の「ね?」笑い声は「なに?」止め処もなくて、「ねぇ、リー。」抱きしめられたままに「リーちゃん、Ngọcの「ね、」胸元の匂いを嗅ぐ。

 

もはや何も、まともな記憶を残していない麻里亜は、車椅子の上にいつものようにからだを投げ出して、見とれるしかない。空の割れる、その光の巨大な荘厳さ。こんなにも、と想った。こんなにも、空が、大きかったなんて。息つく間もない光の奔流が自分に、今、触れた。

 

その瞬間、燃え上がった大気が一気にすべてを焼き尽くし、あ。と。

 

ただ、その、自分が無意味に漏らしてしまった音声だけが聞こえた気がした。光。

 

こんな光に照らされたなら、沖縄の海にさえも、明日、雪が降りしきるに違いない。

最早完全に消滅した意識の残骸のどこかで、響き渡った轟音の凄馬じい音圧を感じた気がした。

 

二人で、窓越しの夕暮れを見た。

鮮やかな紅が、さまざまな色彩のグラデーションを曝しながら、結局のところ、それは赤だとでも言う以外にすべなどなかった。

駆け抜けるような足音が立って、ドアの向こう、誰かのささやき声がした瞬間に、怒号と音響が、部屋中の空気を震わせた。

何度もたたきつけられる安っぽい鉄板のドアの向こうで複数名の男声の怒声が巻き上がっていて、何を言っているのか、聞きとろうとするまでもなく、「パパ」理沙が言った。

音響。それらを彼女も聞いているはずだった。

何も聞こえてさえいないようにしか、Ngọcには見えなかった。

ね?

理沙。

ん?

耳元にささやかれた、Ngọcのその音声を聞くと、理沙は一度まばたいて、ね?言った。聞いた。

その音声を、Ngọcは、そして見た。かすかに微笑んでいた理沙を。その、瞳の潤みに映えた光の反射の白の点在を。

かえるね。」言った。帰るのか、変えるのか、その中間の発音のその言葉の意味を、Ngọcは探ろうとした。

 

理沙がドアを開けた瞬間、この部屋には鍵さえかけられていなかったことに、和晃は気付いた。

自分の手ではないそれがいきなり理沙の首元をつかんで叩き付けるように引きずり出す。それが圭輔であることは知っていた。村井優輝が部屋に乗り込んで、和晃は温度。見た。温度が、部屋の中にたつ。立ち尽くした何人かの、アジア人がわたしたちの、無意味にわたし以外の。彼らを見ていたのを。知ってた?優輝が馬乗りになってNgọcを殴打する。

自分の体温って、自分じゃ、感じられないんだな。

 

背後の悲鳴は、理沙のそれだ。誰かを呼ぼうとしたのではない。ただ、立てられただけだ。羽交い絞めにされて、顔を押し付けられ、コンクリートの砂を舐める。まみれだ。想う。暴力まみれだ、と、和晃は想って、許せなかった。

なぜ。これほどまでに、まみれ続けるのか?Ngọcが壁にたたきつけられ、なぜ。噴き出した息に鼻血が散った。これほどまでに、見た。まるで、そうでなければならないかのように。

見つけたのは優輝だった。カフェでTwitterを見ていたときに、顔を上げたその前を、一人のアジア人と、日本人の幼い少女がもつれるようにじゃれあいながら歩いて行った。

少女は和晃の娘に違いなかった。

何と言うわけでもなく、写真を撮って、アップした。《不良アジア人やりたい放題。日本人の未成年だまして淫行条例完全無視実行中。これ、犯罪でしょ?》#未青年その瞬間、#淫行条例確かに、#アジア人自分は、#国に帰れ彼らを許しては #犯罪者いけないのだという事実を #頭おかしい改めて #日本政府もこいつら国外追放しなくていいの?確信した。#こいつら普通におかしいから事実、目の前のアジア人は明らかに犯罪者に違いない。

彼らの後をつけ、すぐ裏の築の古い、安っぽいレオパレスに住んでいることを確認した。

圭輔に連絡して、和晃を呼び出した。駅前の交差点で待ち合わせた和晃は、顔色が青かった。

怒り?そうではなくて、と、優輝は想った。悲しみ?

壊れそうだ、今、お前は。優輝は、そして和晃の肩をなぜ、「行こう、」あの、言う。穢らしいいこうぜ、」アジア人が、「俺たちの子ども、」俺たちをな、」壊してしまう前に、「取り戻そうぜ、壊さなければならない。な」彼らを。でも、わたしたちは。カスだよな。その、圭輔の声を、「理沙ちゃんも」聞いて、「なんでそんな」しかし、和晃は「アジア人なんかとくっつくの?」振り向きもしなかった。「言ってさ、あいつら、下等人種には違いないわけじゃない?」やめろ、と、和晃は想う。

音響が響く。やめてくれ。暴力の。目の前に、そして背後に、あれた、息遣い、そして、からだがもがき、何かにぶつかり、音を立て、熱をはなち、痙攣していた。理沙。振り向き見たそこで、穢く鼻血を流しながら、顔をゆがめて砂に穢す。やめろ。

すべての、暴力を。

 

疲れ果てた顔をして、和晃は理沙の首根っこをつかむと、階段にほうり投げ、肉体は後ろ向きにコンクリートの段差を撥ねる落ちる。派手な音を立てながら。息が詰められ、Ngọcが駆け寄ろうとした瞬間に、優輝が再びその後頭部を殴打した。

ぐ、という、そのアジア人が喉を鳴らした音を、和晃は一瞬、穢く想った記憶がある。

階段を下りる。

階段半ばでさかさまに、理沙は、痛い。逃げようとするのか、ねぇ。身を起こそうとしたのか、痛いの。からだをぜんぶ、持ち上げかけて、痛い。ずり落ちながらどこも、頭部からの出血は、なにも、コンクリートを痛いの。穢した。ふらつきながら立ち上がり、和晃をむしろ先導するようにゆっくりと、ときに振り向き見なが、二、三歩歩いたかと想うと、見上げた。不意に、空。想った。理沙は、綺麗。

いきなり走り出し、ふらつき、飛び出したその少女を、主管道路を走るドライヴァーはかわせなかった。4トンの運送トラックは前のめりに倒れこんだ少女の頭部を轢き、いかにも穢らしい血と肉黒ずんだ赤が線を引く。飛び散り、血溜りをつくり、匂い。生暖かな匂いがした、と、和晃は想った。疲れた。言った。口先だけで独り語散られた言葉をだれも聞かなかった。

どうやって、なにを?どうして?どうやって、麻利亜に、なにを説明すればいいのだろう?

なにを?

なにが起きたのか、自分でさえわからないのに。駆け寄るNgọcを最早誰も止めない。ドライヴァーが駆け寄って、すぐに誰かを呼びに駆けた。混乱。人々が集まる。

声。誰も叫ばない。ささやき声の群れ。

彼女を抱きしめようとしたNgọcは、その肉体の残骸に戸惑い、背を向け、眼を逸らし、なにをも抱きしめることが出来なかった腕が空中で震えた。空。色彩が、温度さえなく燃え上がる。その紅蓮。ずっと、さっきから横目に刺していた夕方の空の夕暮れを、美しい、と、仰ぎ見てNgọc は、美しい、なんて、なんで、これほどまでに?

 

つぶやく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018.4.21.-27.

ある魂のために

 

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


奥付


散り逝く花々のために


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