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永遠、死、自由《愛する人》1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

愛する人

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 うごきが停滞した。

やわらかく、半開きのままに。その唇が、やわらかな、ふと。

なにも語りはじめないそれは、まだ、その、それ、それら?。

それはやわらかい。

かたちを崩しさえしないその寸前のそれら、言葉が模索された、群れをなした瞬間の。

言葉に崩れされる瞬間が、いま、求められてはいたが、唇はやわらかに。

そのまま、ただ。

黒く。

彼女の皮膚は褐色だった。どこかの南のアジアの島国人間のように。どこの? 伺うような眼差しが、そしてわたしを見つめた眼差しは何の表情をも獲ないまま、眼差し。

見つめた。

眼、その白さを。

それが表情をつくる機能などはじめから獲得していないことなど知っていた。

ふたたび、その機能不在を確認する。

白。

その瞳の周辺が純粋に白濁していて、白さというその事態の意味。

白さは色彩の不在ではなくて、それはどうしようもなく力にあふれた色彩の一つに過ぎないかった。色彩による完璧な制圧。もはや何も暗示しない。何も明示せず、それは単なる白の暴力的なまでの実在に過ぎない。

潤み、いつも、泣いていないときにさえ涙に濡れたように潤っていて、見つめる。

わたしはそれを見つめていた。

黒目がかすかに振動しつづけていた。

何かの発作のように。ふらつくような振動。かすかな、その。

予想外の機能不全に、ふいに襲われて仕舞ったように。瞳孔はその形態をかすかに、常に変容させながら、それらがわたしを見ているのは知っている。それら、無数の色彩が。黒から、ブラウン、金色にいたるまでの色彩の凄まじいグラデーションの深刻な複雑さが、それらの複数性。単数の集合として複数なのではなく、もとから複数なのだった。無慈悲なまでに。ひとつの具象のままで。

ただ無機的に、それらは飛び込んできた光を反射させ、

かつて、それらは光を受け入れたことなどあったのだろうか?

知っていた。わたしは。光に対して開口しきったそれら色彩は、光を受け入れ、吸収し続けてた。そんな事は知っている。にもかかわらず、そして、その事実が信じられなかった。どうしても。その内部が光で溢れかえっている現実をなどは。

光の氾濫。

切り開かれたその内部に見るのは有機体の、みじめなやわらかい塊りに過ぎないに違いない。ぐにゃっ、として、ぐにゃぐにゃの。血さえ充分にはながれてはいない冷たい有機体。その粘液、あるいは神経系。ニューロンの糸。どこへ?、と、わたしは、光は?思った。どこへ行ってしまったのか? 飲み込まれて、もはや二度と解放されなかった光は、視覚としてのみ解釈され、その、打ち捨てられたそれらの、それ、それら、その、光の存在は? どこへ?

光さえもが素粒子としての実体を持つというのならば?

それらは、どこへ。

なんだったのか。光とは。

かつて光は触れられたのだろうか?

光が触れたすべてのものによって。無残な、

そして、無残に、残酷なまでの苛立ちに、

無残にも苛まれ、わたしは

違う理由で声を立てて笑う。小さく。

彼女は美しい。彼女が聞き耳を立てたのに気づいた。気づかれていた。わたしに。つき刺すような、その気配は。長いまつげがつき刺さるように屹立しその周囲に密集したが、それらのやわらかさなどは知っている。とても、よく。まばたき、それぞれに息づくような、それぞれの。わたしが愛したもの。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

密集。やわらかな。

もはや笑うしかないほどに美しさは湛えられて、その美しさはわたしの夢見た産物だったのか、あるいは、それがその夢をわたしに与えたのか? 強制として。茫然と、魅了されてみせさえしながらわたしは、そして見る。まばたかれるたびに震えるまつげの、そしてわたしは思い出す。忘れることはできなかった。それらの触感をは。たとえば唇が触れたときの、それが皮膚に与えたやわらかさを。夥しく密集し乍らもそれは、その眼差しを隠しさえしない。ふたたび、ふいに、まばたたかれて、その運動は一つの世界の終焉だったような気さえする。まぶたの、音さえ無いまばたきの一つが、いま、そして一つの固有の世界は破壊された。完璧に破壊しつくし、崩壊さしめ、消滅された、その世界の存在にすら、その眼差しは気付かないままだった。一気に充溢した潤いが、いつのまにかそれが涙だということに気付く前に、気付いたときにはそれはあふれ出してしまっていた。その洪水の惨状。

一気に滲んで漏れ出し、溢れてしまっていたもの。

純粋な水分に他ならないそれは、どうしようもなく為すすべのない穢なさを感じさせた。どうして、こんなにも?、と、涙は。こんなにも? 拒絶するように、息を詰めて身を曲げたとき、わたしが彼女を殴りつけたことに気付く。なめらかな髪の毛は長く、それが乱れたのをわたしはその一瞬に見ていた。空中に。空を掻くような、一瞬の停滞。くの字に体はまげられて、息遣い、息は乱れて、彼女は泣いていた。どうした? と彼女が言った声を聞く。どうした?

ね。

のさ。

さ。

ねぇ、

え?。

潤。

ね。耳元にささやかれたそれらが、わたしはうずくまって、泣きもしない。もう二度と。それは確信されていた。

ごめん。

その、やわらかいアルトの女声が、それは鼻にかかっていて、少しだけ、嗅いだ。彼女がわたし額に口付けて、わたしはその体臭を嗅ぐ。体温、そして匂い。大量のあたたかな水分に満たされた有機体の美しい体液がかすかに醗酵しかけたような。わたしを傷つけてしまった彼女の意図されざる過失を、それが過失であることと、それが過失であったこととの正確な理由など、だれにも一度も認識されないままに、なぜ、彼女はわたしにあやまるのだろう? ごめんね、潤、と、わたしは自分を苛むしかなかった。歯がゆい怒りにさえ駆られて。どうして? 純粋で、透明な。何ものによっても正当化されなどされないそれ。匂いさえない。燃えるような、なにものをも焼き尽くすことなど無かったそれ。愛していた。愛し合って、愛してるよ、と。わたしもそれを言いたかったのだろうか? それを言おうとして、彼女が口籠ってさえいるのには気付いていた。

何度目かに。

もう既に。わたしも。

ずっと前から。わたしたちは。

二人が出会う前から。生まれる前からさえ。

何度も。

むしろ世界が存在する前からさえ。

無数の。言葉、

わたしにはそれを言うことができなかった。

もはや無際限の、痛み?

彼女が死んだとき、それは自殺だったが、

彼女は何を殺したのか? 空は青い。そのとき。

何を殺し獲たのか?

青さとはこういう色彩のことをいうのだと、そのとき、

空は巨大な光の塊りとして、

みずから驕りさえしていたのか?

わたしたちの頭上に。

それが視覚の中に再構成された《現実》に他ならないくせに。

それは青い。空。曝された、白から紫がかった青さにいたるまでのグラデーション。それら、色彩の推移。わたしは息を殺して理沙を見ていた。渋谷の雑踏で。彼女は、立ち尽くしさえして。どうして、悲しかったのだろう? あんなにも。駅前の、さまざまな騒音じみた音響の心地よい音量での連なり。もし死ぬなら、と彼女は言った。温度。いつか、以前に。大気の、どんな? 温度。どんな風がいい? もし死ぬなら。お前が? どんな風に? なに? だれが、と、そのわたしの言葉は、ふいに立てられた笑い声といっしょに、振られた彼女の首に否定され、

お前が、だよ。お前が。

彼女の声を聞いた。

どんな風がいい?

もし、死ぬなら。

壊れちゃいたい?

吹っ飛んじゃいたい?

しずかに消え去りたい?

燃え尽きたい?

 

どっち? どれ? どう? なに? ね、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

お前は? どう? 首を振り、なに? したいの? お前が。ん? お前が。自殺? したいの、なに? したいのは。なに? 一瞬で、ねぇ。燃え尽きたい。ね? 時間もマイナスするくらいの一瞬で。音も、匂いも、気配も無くて。

理沙は、そのとき、ふいにわたしの触れようとした手を振りほどいた。振りほどかれた、やっとその存在をふたたび意識し獲たようなあっけなさで、その手にのこっていた触感。渋谷の駅前は、いつでもやわやかい戒厳令だった。走り去りはしない。彼女は、やさしい哀れむようなまなざしで。何度も振り返る。親切な警官たちが、何の意味も無いままに警邏して周り、職質を重ねるものの、なにかの犯罪を摘発することも無い。無意味な戒厳令都市。戯れるように。人々が重なり合うようにして行きかう中を、すりぬけて理沙がわたしの腕から逃れていく。戯れるように。走り出すことさえなくて。夏の温度。その末期の。空が青いことなど知っている。見るまでもなく。風は吹き降ろされ続けた。光。この小さな谷間の盆地に。渋谷。そして翻った、ながい髪の毛の、ながい、空中に乱れるその一瞬の停滞。振り返りながらわたしを確認し、何を? 理沙は、わたしを見た。彼女を見捨てずに、追いかけていたことを、彼女は知った。わたしは、逃げていく理沙を、わたしは追いかける。君を。冴木理沙、その名前は彼女の名前ではなかった。水商売や風俗の源氏名に過ぎなかった。名前が名前である限りにおいてそれは理沙の名前だった。いつも電車など使わない理沙がめずらしく、渋谷駅の改札に入って、一瞬立ち止まって、眼差しはふらつかされたままに、行き先に迷う理沙のしぐさが、その一瞬の困惑。

理沙が曝した困惑は、彼女に、どこにも行くあてなどなかったことを察知させた。彼女も気付いたに違いなかった。その瞬間に。その行き場所の不在に。一瞬の迷いの後で、新宿行きのホームに駆け上がりかけては止まり、わたしを確認した。振り向いて、ね、と、見て。

彼女がそれを求めていたのは知っていた。ついてきて。誰を? 見て。わたしを。お前を? だけを? なにを? お前? ホームへのだけ? 階段を上がって、彼女は立ち止まり、ふたたび、その、伸ばされ、彼女に触れかかったわたしの腕から、ふたたび、そして指先からさえも逃れ、息をつく。理沙は。何度か、そして、なにをも、理沙は語らない。その表情さえもが。

なにも考えられてなどいないくせに、すべてを知り尽くしてしまったような顔をして。知っていること以外の、何をも知らないくせに。ね、と。死にたいって、ね?、本当に思うとき、あんだよ。理沙は言ったものだった。いつ? かつて、いつか、思い出したように、彼女は、そしてなんどかわたしは思い出す。理沙に言われたその、俺、死にたいとき、あるの。それらの音声。なんで? なんか、さ。一番綺麗なときに、さ。ね?、死にたい。死にたいんじゃない。無くなりたい。てか、うん。ん? ややあって、ごめん、嘘。やっぱ、死にたい。本当に、んー。ね? 死にたい。綺麗に? 一番きれいなときに、綺麗に? てか、と、理沙は打ち消して、そうじゃなくて、だから、何? だから、

「何だよ?」わたしの鼻にかかった笑い声は、彼女にふれたに違いない。その耳元に。頬の、すぐ、近く。

近づく。

呼吸は絡まりあい、重なりあうことなく、ふれあって、ふれては崩れ去りながら。なにも聞かなかったふりをして、完全に逸らされていた視線が、にも拘らず、理沙がわたしを捉えていたのは知っていた。素手で、じかに触れたような、その。穢くていい。穢いほうがいい。ん。だってさ、ん、わたしは聞く。ki-,…きぃ、きっ。た。ないじゃん。聞く。穢いじゃん。死ぬって。どうせ。聞く。理沙の声を。

騒音が溢れかえっていた。ホーム付近の雑踏。つらなるささやき声の帝国。日本とよばれたある人間たちの領土の上に生息する人々の、ささやくように高速で連射される音節の群れ。かさなり、電車の、風の、足音の、電子音の、無数の音響の適度な音量のそれらが連なって、耳を聾すことのない巨大な、すきまだらけの音の塊りを形成していた。

響きあっていた。その音の塊りのすべてをなど、聞き取られ獲たことなどあったのか? ただの一度、ただの一瞬でさえも。誰かに、誰か、なにか、どうしようもない残酷さが、わたしを傷つけ、理沙は、響きは、いつも、傷つけてばかりで、傷つけられたのだった、わたしたちは、それらの、確実に、音響のうちに、傷ついていた。わたしたちが。まばたく隙も無く、わたしは見つめ、理沙の姿はわたしに追われた。駆けだそうとした瞬間に、偽って、停滞し、振り向き見、笑った。踏み出された足、その、音音をさえ忍ばした、走り出しなどしない。立ち止まりなど。静止されることさえなく、一瞬たりとも、静止など。それら、何ものによっても制止されなどしない、野放図な、猫のような歩み。ホームの音響の群れ。やんちゃな。

くじゃっ、

と。音の連なりに視界はずっとさらされて、音など。そんなものなど。それらが耳にふれる。君を見つめる。向こうから電車が来たときに、何が起こるのか気付いていた気がした。いま、目の前で。匂いは嗅がれた。何かの。通り過ぎた女の、あるいは香水? 咳き込む男、その? 若い、若かった、老いた、ざらついた、人々。無数の。乾いた、それら、饐えて、澄んだ。若干の甘さ。におい? じゃっかん、程度の。電子音は鳴っていた。頭の上で。それらが到着を告げた。笑い声を立てた声。男。もはや、立ち止まることの無い直進の一瞬、最後に理沙が振り向いて見たのはわたしだった。なぐさめるように。見る。傷つかないで。堕ちるように線路に身を投げて、じゃね。砕かれる身体の周辺に四方から立った悲鳴と喚声が、そして急ブレーキ。昼間の叫喚。

 

きしむ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ッ、と。思う。軋む。視界を引きつらせて、わたしは、無関係な人々、彼ら、彼女らが、見ていた。顔面に痙攣を感じた。見た。ホームの上に、駆け寄り、あるいは、逃げ惑うのを。昼の光の中に。見る。それは彼らの死ではない。彼女らの。だれにも見られなかった空の青さの下に。誰にも。誰も、にもかかわらず、そして自分が死に、自分の身体が引き裂かれてしまったかのように。まるで。わたしは苛まれた。どうしようもない身体的な苦痛に。その、引きずるように追体験され続ける体験されないまま記憶された痛みの想起の連鎖に。引き裂かれる。理沙の身体を、電車は引き裂いてしまっていた。血と肉が外気に直接ふれた、穢れた臭気さえ嗅がれた気がした。事実、焦げた匂いがしいた。何の臭いかわからなかった。肺いっぱいに吸って、確認する勇気は無い。急ブレーキの騒音が空間を裂いて鳴ったのは知っている。駅員が叫んだのも。彼らの一人が疾走したのも。追体験され続ける、それら、残骸にすぎない残像。もはや。逸らされた目が路面のコンクリートとアスファルトの接合面を捉え、そこは鈍い色彩と音響で溢れかえっていた。視界、目にうつるものすべてが、すでに、色彩に溢れかえっていた。なぜ? 理沙はなぜ死んだのか? その理由など知っている。それは理解されたことなど一度もないものの、わたしは既に知っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

すき?

すきだよ。

まじ?

ごめん。かなり、まじ。

その、すれすれに寄せられた唇から理沙の吐いた息が額にかかって、わたしの鼻はかすかな口臭を捉えることにさえ成功する。生き物の匂い。覆いかぶさった、長い、美しく束なったの髪の毛のそれぞれの匂いの群れが厚く、鼻を侵してやまない。

顔を上げて、窓越しの陽光に、理沙はその逆光の中に、くらんだ色彩にうずもれるが、目を閉じた。わたしはその頬に頬を触れてみる。整いすぎ、美しすぎて、目を閉じると思い出せない気がしたが、記憶のどこかは確実に引っ掻かれたままに、掻き毟られて。結局のところ、いつでも彼女の形姿は鮮明に思い出せたので、なにかが壊れ、どこかが崩れていたのかも知れない。正確には気づかれないうちに。すべてが、端整な、その精密な顔。女性的な。そのやわらかい体臭。女性的な。あまりにも女性的な身体。何ものも過剰ではない端整さが、彼女に無数の表現の可能性を与えた。ときに処女のように、ときに娼婦のように、ときに母のように。完璧な均整は、それらの表現の自由な可能性をまるごと理沙に譲り渡した。表現されるべき素材としての、むきだしの素の身体。暴力的な美しさによって、女たちを嫉妬の上に降伏させ、男たちをひれ伏させなければ気がすまないその身体は誇られ、駆使され、濫費され、彼女が女だったことはない。

理沙は生まれてからずっと、男だった。ほんの幼い少年期に、発芽しかけの、同性愛的なやわらかい性欲にあおられた眼差しの中に、同い年の少年たちを捉えたほどには。

美しさの均衡のすべてをなじりながら陵辱するように、その肌は不自然に陽に灼けていた。ハーフ? と、女たち、男たち、わたしも、多くの人間たちが彼女に問い、笑い乍ら理沙は首を振り、彼女がついた嘘。


永遠、死、自由《愛する人》2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女の唇がふれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

いつか、なんども、ほほに。ふれた瞬間に、いつも、それはすぐに離されて、なんども。初めて会ったとき、理沙は、すべてを見下した上に見下されたもののすべてを見下しぬいたような、屈辱的な眼差しをくれた。すでに彼女には、そこで、最も美しい女としての多くの特権が与えられていた。理沙は十九歳だった。わたしは十八歳になったばかりだった。新宿の区役所通りのキャバクラの店の中だった。真新しい店内。わたしは木村文哉という名の店舗責任者に彼女を紹介されたが、彼は、好色なわなを自分の周囲に張り巡らさないでは一瞬たりとも生きていけない人間であることをことを周囲に知らさないではおけない、露悪的で、意図的に装われた愚鈍な眼差しを曝して、常にわたし達を見た。計算高く。彼の目に映るすべてのものを。四十人近くの不細工ではない女たちと、十数人の美しい、金銭を生み出しうる可能性を予感させずにおかない女たち、そして彼女たちにひざまづき乍ら、彼女たちを酷使したうえに、その予感どおりに実現された金銭を簒奪する十人以下の男たちの集団の中で、木村がある絶対的な王様だと言うことには、すぐに気付いた。男たちはみんな、それが作法であるかのように、木村に従った。奇妙な、どこか去勢された同性愛をさえ感じさせながら。

三十歳前の大作りな男。大柄な、無造作に伐採された樹木をかち割ったような。絶対的に美しくは無いが抜け目の無いことだけは馬鹿でもわかる木村。彼の周囲に群がる、同性の、信者じみた下僕たち。窮屈な店舗組織の密室の中、水商売という閉塞的で出口の無い、とめどない欲望と細かな作法の空間の中で。あいつは所詮、信じられるやつじゃないよ、という軽口と軽蔑と共に彼に盲目的に従う信者たち。口々にさまざまな不平と不満を、その眼差しの範囲の外でだけ口ずさまれ乍ら木村は、ねぇ、と、初めて会ったそのときに、理沙、さぁ、木村は言った。

なに、俺? と、その、理沙の答えは鼻にかかって、やわらかいアルト、で、ね? 理沙さぁ、わざと下心をこれ見よがしに表現したいかがわしさを湛えて、木村が、この子、拾ってきちゃった。言ったのを聞いた。笑い乍らなにそれ? 鼻でだけちいさく笑って、理沙が、なぁに? ね? なにそれ。

北浦さんの紹介なんだよ。

あー、あの。うざいの。くさいやつ?

ひで。でさ、この子さ、育てたげてくんない?

何でだよ? 店のソファーの上に、理沙は胡坐をかいて、なんで、おれなんだよ? 私服で座ったまま、木村の笑い声が立つ。おれは無関係だよ、お前たちとは。知ってる? と、それを暗示した哄笑じみた笑い声が。渇いた、木村の、その。俺、うざいからやなんだけど。そういうの。木村は理沙の声を聞いた。茜とかいいじゃん。駄目だって。なんで? てか、食っちゃうから、茜だと、すぐ。木村の笑い声が聞かれた。わたしたちに、いいじゃん。それはそれで、さ。じゃね? おいしそうじゃん。おれも食っていい? だめだって。だから。さ。レンジでチンしたらいけそうじゃん? てか、煮込んじゃう? あー、てか。そっちかよ、ばか。「ぼくちん、おすわり。」こっち、と指さした理沙のすぐ傍らにわたしは座って、「ぼくちん、名前は?」潤、と、木村が答えた。その、店のソファーの上。高級ぶった、安物の。店の金も何も、片っ端から着服しながら、企業舎弟の、オーナーの風間優宇弥、という偽名で通していた四十過ぎの小柄なデブに寵愛の限りをいただいていた木村。叶恵(かなえ)という源氏名の女の一人が、背後で木村の名を呼んでいた。如月(きさらぎ)光理(ひかり)という源氏名の女をうしろから抱きしめて、同性愛的な気配を意図的に鼓舞して。自分の身体に、「ね。」複雑に彼女の身体をからめたまま。「名前は?」理沙の声。

「水沢潤。」え?、と、不意に甲高く笑って、なにそれ、まじ?「偽名?」ね? 言った理沙の完璧な笑顔を振り向き見たが、そのとき、わたしは彼女が女だと思い込んでいた。いつだったか、綺麗だね、と言われて、美しく、馬鹿な男たちのあぶく銭をかき集める才能に恵まれた、綺麗だね、きれーな、顔してる。潤ちゃん。許しがたくわがままで傲慢な女。理沙も。笑って、その笑い声が収まらないうちに、わたしは、綺麗じゃん、お前も。むしろ。やばいよ。ね?、と。幻想ってやつ、と言った。

 

理沙が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あんたの、ただの、幻想。あほくさ。綺麗?どこが? 誰もが、「本名だって。」錯覚する。「本名。なんかさ、まんまホストでしょ。」木村が甲高い声を立てて笑う。木村はいつでもしり上がりに言葉を切る。連なりあう声の、そしてややあって、「かわいいけどね。でも、すぐやめちゃいそう」木村のまくし立てた雑談をいきなり切って理沙がそう言ったとき、「だってさ、」彼女は身をよじるようにしてわたしをみつめ返したまま、「もういいよ、みたいな目、してるよ、この子。」片っ端から、すべて、ぜんぶ、もういいよ、もう、って。わたしに押しつけられた身体が、その体臭と、してるよ、もう、いいよ、みたいな。その体温をさえ、そんな、ね?、目、してるよ。じかに伝えたが「いい、もういいからって」匂いを嗅いだには違いない。わたしは、気付かれないように。彼女に。息をひそめて。彼女の。うん、と言って、「お前、いい匂いすんね」理沙が言った。十四歳だったのか、わたしは、かすかに笑い声を立てて、十三歳だったのか、鼻腔の発情を無視したまま。わたしは不意に、気付いた。

世界が滅びていたことに。

そのときに。中学生の頃? 確か、おそらくは。確信でも、認識でも、隠喩でもなんでもない。振り向いた、あるいは一瞬まばたかれて、ふたたび見出された、それは決定的な事実として、わたしは世界が既に滅びていたことを知った。あの、滅びきった月の世界と、この目の前の世界に、本質的な相違は何もなかった。それらは、ヴァリエーションの一つに過ぎなかった。壊滅していた、その否定できない事実の。美しい世界。この。美しい、と。そう抽象化して呼ばざるを獲ない、もはやすべての形容詞を拒絶したわたしたちの生存事実。わたしの、わたしの細胞の。光の、樹木の。風、雨の、無機的な地面の。月の海の。干からびた。その無音響の、空間。虚無を切り裂いて開かれた空間を、それをうがつように滑走する鳥。鳩のならされた喉。その眼差しが捉えきった世界。一瞬の疾走のあと立ち止まった猫の研ぎ澄まされた聴覚が、そして、いくつもの、あれらの、これらの眼差しは、見出された無数のこれらの世界と、それらを見出した世界を。生きる。細胞の分裂。無機物の分子崩壊。砕かれた大気の流れ。生産と破壊。融合と分離。世界は既に滅びていた。それを知ったとき、わたしは孤独だった。どうしようもなく。なぜ、生きていられるのか? わたしはその留保なき理由を知った。世界は、すでに滅び去ってしまっていたからだ。わたしたちは生きている。無慈悲なほどに。絶望的なまでの強度で。ねぇ、と、理沙が言うのを、その耳元の声に、わたしは、彼女を、わたしに彼女の部屋で抱きしめながら、彼女は、わたしたちは愛し合って、飢えたように、そのまま、まだ、シャワーさえ浴びていなかった。瞬間で恋に堕ちる。

恋したことが気付かれたときにはすでに。それらを、ふたたび思い出す。記憶の断片として。なんどめかに、窓の外を、三月の終わりに降った大雪が、白く染めていたことをすら、窓越しに「なに考えてる?」なにも。まさか? なんにも。差込む朝の、えーうそ?」浅い光さえ「何にも?」何にも。まばたくうちにいつか忘れ去られて「なんで?」だって、と言いよどむままに、「なにも、」白んだ朝日「考えてないの?」何も。その光線。やわらかに白い、その。ね? いい? それが外を埋め尽くした雪の光のせいだということが、ねぇ、もはや誰にも忘れられたままに「考えてよ。」なにを?。

体温。

暖かな。肌。女性の、あまりにもやわらかい「何か。何かを」何を? その肌を、それは体温を伝えた。わたしに。「なんか。例えば」なんかって、気の狂った男たち「俺のこととか」何? まがい物の生物たち「俺の昨日のこととか」何を? 生きられない、屈辱的な生き物「俺の明日のこととか?」何、考えて、その存在自体がこの美しい調和への「俺の、」ほしい? 冒涜に他ならない「俺のこととか?」何を? 穢れた生き物「考えてて」考えててって。それって、わたしは「俺のことだけ」何を? 望んだ。それでも。生きていることを? 本当に? 理沙は片親で育った。父親は「好き? ねぇ。すき?」何? 生まれたときにはどこかに行っていた。母親、睦美の十八歳のときの「俺の、おっぱい。ねぇ」すき。だよ、すき。子供だった。高校は退学され、ん? 同じように「好き?」すきん? だよ。お前は? 水商売で生きていた。理沙を育てたのは彼女の父親だった。秀雄という名の。彼は「すき。俺も」好き。理沙を溺愛した。睦美にはただ、「好き? 潤、さ、」何? 暴力でだけ答えた。散々、性的な「俺の、唇」くちびる? 奴隷状態に睦美をおいた挙句に、彼女が「唇。俺の」上の? 他人の子供を妊娠した瞬間に、彼女、彼の娘は「好き?」下の? もはや生理的な憎しみの対象以外では「すき?」好きだよ。なかった。彼にとっては。その女は「まじ?」本当に。穢れてさえいた。「嘘じゃない?」まじで。理沙の母親はどこかに逃げていた。だれもが「すき?」どこが? 居場所は知っていたが、誰も会おうとはしなかった。覚せい剤が「上が好き?」なに? 彼女の脳を中心にした身体を容赦なく崩壊し、連鎖的に、「下?」何の? 彼女の身体は「唇の。」くちびる? 常に危機に瀕していた。廃人だと言われながら、「上? 下?」下。何度も更生し、何度もふたたび「噛んでよ」なんで? 堕落した。

噛み千切っていいよ。まじで。

曲を作るのが好きだった。インストの。てか。あー、歌つきの。ね? 歌詞を書くこと。インターネット上の薬物更生ブログで、「すき?」どこ?「目」いくつかの詩が発表されていた。いくつかの、生きることの「おれの、目」すき。美しさを讃えた、文章。感謝と、惜しみない愛を、惜しみなく、みんなに。LOVE、好きだよって

 いいたくて

 いえない想い

 だきしめて

 大切だよって

 つたえたくて

 つたわんなくて

 でも悲しくて

 傷つけあっても

 せつなくて

 せつない想い 加速するだけ

 雪が降る日に

 また出会えるなら

 想い抱えて また

 目を閉じて、理沙の「目?」好きだよ。母親は風俗産業でさまざまな町に出入りした挙句、「何で?」

「何でって?」なに? ん、

ね。「どうして?」え?「好きなの、なんで?」

「好きだよ」そ、ほら。

ね。「だから」好きだよ「てか、だからさ」

「どうして?」なんでも。は?「、ん。って」ねぇ、

「なんで?」最初の子供以外はすべて奪胎した。いくつもの、《ホントのエッチ》で睦美は避妊を拒絶していた。プライベートでの性交において、避妊は裏切りに過ぎないと、ときに男性に発作的な暴力を加えながら。殴打。店の男たち、いくつかの客、それらの無数の人間たちが、彼女の《ホントのエッチ》と奪胎の原因になった。リストカットは繰り返された。複数の合法-脱法-危険ドラッグ。覚醒剤をは嫌悪をした。ボランティアで海外に行くのが趣味だった。少なくは無い金銭がばら撒かれた。ベトナム、インドネシア、カンボジア、ミャンマー、フィリピン、さまざまな、それらの《恵まれないかわいそうな》国々。多様な、それらの。わたしはハーフだった。フィリピン人女性と、日本人の男との。やくざに斡旋されてきたフィリピンパブの。美しい、純白の肌がわたしには与えられた。父親は色白だった。いつの間にか引き返せなくなっていた覚醒剤が、理沙の母親の身体を直接蝕んでいく。覚醒剤へのどうしようもない嫌悪が彼女に、彼女自身への嫌悪感を加速させ、睦美が自分を許した男たちへの暴力は加速し、男たちからの暴力は加速する。折檻。制裁。報復。骨折の入院さえ彼女は拒否した。メスと発覚への恐怖。治療されずにゆがんだ骨。倦んだ間接。なんども刈ってしまおうと迷われた美しかった長い髪の毛。にも拘らず、覚醒剤によって、二度、逮捕・拘束され、ややあってふたたび彼女は復帰する。《社会》に。幸福で、痛ましく、美しい、みすぼらしい薬物の世界に。彼女が交通事故で死んだとき、解剖する指先は、比喩ではなくて腐りかけの内臓と、すかすかの、ゆがみ、変形した骨を見いだした。もはや薬物のせいばかりではなかった。十一歳のとき、母親のことを臭いと言った同級生の少女を二人、わたしは殴打して骨折させた。十三歳の時には、母親はわたしにとって軽蔑と憎しみの対象でしかなかった。なんども家出を繰り返した理沙は、もはや祖父のあてどない不安の対象にほかならず、次第に彼の中で、理沙の存在だけが巨大な岩石のように肥大化した。母親とはほとんど顔を合わさなかった。会うことさえ拒絶した。睦美自身の拒絶を、理沙が真似しただけかもしれなかった。わたしは母親を人種として差別した。それらは恥ずべき、調教されるべき人種だった。貧しく、下等な、穢い土人ども。十二歳のとき、理沙は友達に体を与えた。小学生だった。何かを確認したのか、何かを拒絶したのか。あるいは、単純に早熟だったのか。男の子の性欲に目覚めた彼女が自分の身体で、他人を媒介にして女を体験しようとしたのか。本気で? 遊び半分に? すでに、理沙は自分が女ではないことはよく知っていた。事実、女であったことなど一度も無かったから。彼女の性別は自分で公言されていたし、だから誰もが知っていた。おれ、女なんかじゃないからね、まじ。十六歳のとき、高校の授業中に立ち上がって、教室を出た。晴れていた。夏だった。授業のいたたまれない無意味さと退屈さが、その内容以前に許せない実感があった。何かに反抗したのではない。笑うしかないほど、教師も含めて、自分たちが惨めだった。それから、わたしは二度と学校にも親元にも帰らなかった。理沙の最初の家出は7歳のときだった。何をしでかしたのか、もはや誰も記憶しない些細なことだったが、出て行けと叫んだ祖父の言葉に純粋に従ったのだった。単純に。素直に。まるで趣味のように。生きる手立てであるかのように、家出と暴力は常態化し、十四歳のとき、同級の女子生徒に対する深刻な暴行事件をおかし、停学処分になった。女子生徒の無残な顔は医療整形が必要だった。地元の暴力団の北浦久雄とつるんだ。わたしは歌舞伎町で、ホストをした。久雄はわたしの客だった。暴力事件で、店を追い出された。客の女の頭を、シャンパンのボトルで割ったのだった。頭部の出血が、あそこまで派手だということを、何度目かで知った。デブで、食べ方が穢かったからだ。告訴された。地元の進学校に進んだときには、理沙は、うそのように、《普通の》美しい少女になっていた。小学生のときの卒業文集の《将来の夢》欄には、かわいくて、やさしいお嫁さんと書いてある。高校は1年半で自主退学させられた。家出したからだった。楓という名前で、神奈川県の風俗店で働き、発見された彼女は実家に連れ戻された。1ヶ月後には、住所不定のまま埼玉県の風俗店で働いていた。ヒナタという名前だった。十七歳からキャバクラで働くようになって、彼女は冴木理沙になった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

歌舞伎町に来たときには、その業界の中で彼女は有名な女だった。彼女が十九歳のとき、わたしたちは出会い、半年後に理沙は自殺した。轢死だった。理沙の、花々に囲まれた埋葬。回収された無残な肉体の断片を覆い尽くし、隠し通す純白のそれら。時間さえ停滞した錯覚のうちに、その美しさ。花々の。音響のなかに、その連なりの中を、わたしはそのまま駅を出て、背後の叫喚。かすかな。向こうに消えて行くざわめき。わざと人の流れとは逆に歩く。何の意味も無いことに気付き乍ら。自分のその歩行が、そして、泣かなければならない気がし、穢い涙を流す気にはなれない。せめて、泣いてやらなければならないはずなのに、一生、涙など流したくは無い。最後だよ、と久雄は言った。あの女の頭ををボトルで割った次の日に。多くの人間が、何かあるたびにわたしに繰り返したそのままに。

最後だよ、もう。

暴力事件が繰り返されるたびに、「脅かさないでよ。北浦さん

「ばか。マジよ。まじ、」最後だよ。わたしはそれらを聞いた。無数の声色で。色彩。声の色彩。それらはわたしに彼らの差異を教えた。そのつど呼び出された記憶のうちに。十三歳のときに柳原と言う教師が言った。最後よ、と、彼女は三十歳を越えた、ただひたすらに丸い顔を晒しつづけた。痴呆じみて温厚なそれは、いま、ひきつって表情をなくし、わたしより小柄で、生徒の誰よりも小柄だった。彼女は。酔いつぶれて見上げたその顔が、あの女はその夜初めて合わせたわたしへの視線に、明らかな発情をさらした瞬間に、そのとき、わたしはボトルが彼女の頭部から血を吹き出させるのを見た。何の衝動も無いままに。女たちの悲鳴と怒号。逃げ出したいほどの悲しさだけがわたしを駆っていた気がした。希美耶(きみや)が殴りつけるようにわたしに飛び掛った。

 

最後だよ、お前。

 

 

 

 

 

 

 


永遠、死、自由《愛する人》3

最後だよ、お前。

理沙の店に紹介するときにわたしにそう言って、駄目だったらお前、人間やめろ、笑い乍ら言う久雄に、いや。まじだからな。これ。なんども、声を立てて笑ったのは何故なのか? 華奢な、壊れそうに痩せた身体の、背の高い久雄。体重だけは重い。骨が太いから。サウナでそう言った。俺な、骨、が、さ、やがて、囲っていた女に刺されて、病院にもいかずに井の頭公園に辿り着き、池の水を飲もうとする久雄。そのとき、まだその女とは出会ってはいない。イタリア人の父親と、日本人の母親が産んだ久美子と言う名の女とは。いわゆる《危険ドラッグ》のせいだった。その処方と名前は知らない。日陰物じみた、小作りな、陰湿な顔をした表情の暗いかわいい女。半身不随になった久雄を見舞ったのは彼が舎弟だと呼んだ原田健史だけだった。理沙の店の役つきの若い男だった。二十四、五歳の。ボーイッシュな女のこのようにかわいい男。理沙に群がる男たち。理沙は美しかった。いやぁ。健史が言った。なんか、穢いでしょ、と。存在が。理沙ちゃんは。笑って。肩幅でかいし。彼女に親しまれた少数の男たちだけが彼女の秘密を知っていた。なんか、臭そうだしさ、ね?その性別の。いろんなところが、さ。隠されていたわけではない。説明が面倒くさいからだ。すべての人間に説明して回らなければならない必然性などなかった。彼らは、にも拘らず、彼女をただ、わたしたちは?女として求めていたはずだった。身体は事実、女としてわたしたちの視覚を支配したのだから。ときに、想起された錯覚感にとまどうこともいつかは忘れられ、彼らは、ときに体を許されさえし乍ら、わたしにも、理沙は、彼らにも、女の身体を与えた。自身が愛した男たちへのご褒美のようなものとして。わたしたちと自分自身へさえもの軽蔑と哀れみさえ含んだ、だらしなくしなだれかかってくるようなやさしい眼差しのうちに。彼らを喜ばせるためにあげられる彼女の声を、彼らは耳にする。わたしは。その美しい身体に、わたしたちは、その体温にまみれながら。はるかに自分以外にその体をさえ与えたことをなじられ乍ら。何でよ?、と、その、はるかの甲高い早口のソプラノは、なんどもはるかは理沙につめり、彼女は、わたしとの《同性愛》を打ち明けられて、その関係のだらしない継続が、はるかの心に暗く想起されるたびに。

 

なんでよ、と、なんで? ね。男なんか、ねぇ? なんで、他の人なんか抱けるの? なんで? 理沙が自分のものであるばかりではないと言う現実が、はるかに焦燥を与え、レズのはるかにとっても理沙は錯覚の対象だったに過ぎない。はるかはだれよりも理沙を冒涜していた。理沙に正妻、と、戯れに呼ばれながら、レズビアンに過ぎなかったはるかは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はるかの愛したのは女の理沙だった。そして、彼女が《おなべ》であることも、はるかは知っていた。理沙にとって、はるかという女への欲望は、何の倒錯性も無い恋愛感情にすぎなかったのだった。わたしははるかを嫉妬しなかった。はるかという女個人に対する、かすかな苛立ちを感じただけだ。その存在への、執拗な。哀れみをしかそそらない、自分が愛玩物に過ぎないことに開き直られた、みじめったらしいその存在。愛して、愛して、とつぶやく。愛さないと、死んじゃうよ。小さな、少しだけ太ったかわいい女。日陰でかわいく腐ったような女。彼女のような陰惨な女をこそ愛してしまう男がいることは知っている。それはわたしではない。弓削はるな。それは本名だった。理沙の高校のときの一年後輩だった。憧れの先輩だった、とはるかは言った。わたしが知りえない、まだわたしに触れられていなかった彼女に、自分が既に触れていた事実を《みんな憧れててさ》これ見よがしに誇って、あのときが一番綺麗だった、といい、マジで? いまは? 笑い乍ら、その、からかいの声を立てた《だれも近寄れないくらいにさ、でも》理沙に、ひざまづくようにすがって、違うの。違うから。そういうんじゃないから。何が?《すっげぇ優しいからさ》何が違うの? 綺麗じゃん。理沙、やばいもん。《理沙って》なんで? なんでそんなに綺麗でいられんの?って、いっつもおもうの? ね、やばくない? 絵を描く。きれいくて。綺麗すぎてさ、やばいから。はるなの書いた絵は《覚えてる? 海行ったじゃん。悠美とかと》理沙の部屋に飾られた。二枚だけ。神楽坂の瀟洒な建築。《覚えてる?》白い壁面。なんで? っておもう。いっつも。宇宙の絵。宇宙ってさ、意識体なの。なんでこんなにかわいい人、いきてられんのって。こわいもん。青い色彩の見苦しいグラデーションの中の黄色い光の無数の点在。《覚えてる?》なんか。きれーすぎてこわいもん。宇宙の絵。見上げられた空に、星さえ見えはしないのに。東京において見上げられたそこには。《行ったじゃん、ね。》地上の光がやわらかい渦になって、大気圏の上方をその黒い色彩を穢そうとするかのように、それらは照射された。《海。》久雄の連れの二十五歳の一樹が腹を切ったとき、それはその八月の終わりだった。馬鹿な右翼の林一樹。《死ぬぜ、俺。》LINE の通話の向こうで《なんで?》知っていた。彼が《これから。腹、切るわ》もはやわたしの声など聞いてはいないことなど《どこで?》刈り上げられた美しい髪の毛《綺麗に、ぐさってさ》真っ黒い、漆黒の《おまえ、いま、どこ?》一樹のその《見せてやるよ。まじの死に方》なぜ、声を聞かないの? 俺の《まじで?》声を? 耳元で、ずっと《てか、俺自身に見せてやる》鳴っていたこの声を?《なんでだよ》お前は?《俺自身にさ》死。いくつかの。《酔っ払ってんの? お前、》警察から逃走し乍ら、《酔っ払ってんの?》彼らばかりではない。新宿のやくざたちだって一樹を追っていた。未来のある男。無駄死にさせるには惜しい男。なぜ? かれらが自分たちのために無駄死にさせるには有為な男。たとえば抗争の銃弾を打ち込まされるために。誰かを時に本気で射殺させるときには。タクシーを止めて、チップだと言って手持ちの金を全部わたした。投げ捨てるように。それは運転手に深い恐怖感を与えた。一瞬だけ。彼の日常が不意に突破されて仕舞う瞬間がいま、目の前に突きつけられたのかもしれない予感に。なぜかののしるようなドライバーの声をタクシーを出た一樹が背後に聞いたとき、走って、一樹は明治神宮の中に入って行った。時間は無い。ここでやるしかなかった。靖国? いや、と、他人の墓に興味は無い。皇居? 誰だ? あの老いぼれ。海辺ならなお良かった。そこまで行ける自信は無かった。すぐ背後に追っ手が迫っているわけではない。彼らはまだどこかで彼を探しているに過ぎない。クーデターは失敗した。誰も殺されなかった。これから彼自身に殺される自分自身以外には。巨大な樹木の連なり。ここには神様はいない。そう誰かが言った。あるいは、神様などいたためしなど無い。祭られた神々。人間ごときに祭られてしまうような、家畜のような神々に神性はない。一樹はあせっていた。彼自身が彼自身に刃物をつきたてるその瞬間の到来が一樹を駆り、焦らせ続けた。皮膚の下に冷や汗さえ感じた。もはや、自死を準備することは彼自身にとって、そのときの到来の遅延をだけ意味していた。遅すぎる、と思った。なぜ、未だなのか? いまではないのか? なぜ、まだ生きているのか? この、穢らしい肉体を抱えて。穢らしい肉体の生命を維持し。肉体以外の何ものも信じたくはなかったにもかかわらず。

肉体。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その無慈悲なまでの存在。生まれるために死ぬのか? 死ぬために生まれるのか? 死。肉体の生以外のすべての可能性をは、既に当然に否定されていながらも? 樹木の間をはいって、堀池の汀に。脱ぎ去られた衣服の下の身体は無駄が無く、美しい。夜の光が、それに鈍い色彩を与えたに違いない。一樹は自分の手が震えているのに気付く。弱者のそれ、卑怯者のそれではない。溢れかえった力と、歓喜のそれ。駆り立てる。もっと早く。今すぐに。いま、それそのもよりも早く。近くへ、いまよりさらに近い、通り過ぎてしまうほどのいまに。夏の大気。それらの温度が彼の身体を汗ばませていた。音は遠くのほうからさえ聞こえては来ない。もはや、聞かれるべき音など無い。胡坐を組んで、息を整え、もっと。もっと早く。呼吸は整えられて、意識は研ぎ澄まされていが、早く。もっと。もはや、蝶の羽音さえもが頭の中に大音響で鳴るに違いない。早く、待て。もっと、いま、待て、近くへ!現在そのものよりも早く、近く、待て。澄み切らされた息の中に、最早聞き取られてはいない音響の巨大な渦巻く塊りが、待て。耳を聾する瞬間にまで高まる瞬間を。時の到来を。みる。最早その眼差しがなにものをも捉えない、透明な、その、聞く。皇国万歳、と叫んだときには短刀はすでに彼の腹に突き立てられていた。筋肉が限界を超えて引き締められて、筋を形成した細胞そのものが過剰な力にわなないていた。血が噴き出しているのは知っていた。肉体は、苦痛そのものだった。痛みは最初の一瞬に過ぎない。神経系のすべては麻痺し、破綻し、焼きつき、それらは最早破棄され、腐った肉塊に過ぎない。純粋な、澄み切って、ひたすらに狂った苦痛だけが、いま、内側からすべてをさいなんだ。残酷、悲惨、絶望そのものが、彼を内側から祝福した。美しい、と呟く隙すらあたえない、絶望的な美、そのものは、認識されていた、既に、死んだ、と。絶対的な強度で。意識のすべてを焼ききりながら。溢れていた。涙が。肉体は破綻していた。極度の痙攣が、刃先をぎざぎざにえぐらせながら、腕は腹を切ってく。張り詰められた筋肉それ自体に阻害されながら。張り詰めた極限の筋肉が、張り詰めた極限の筋肉を断ち切る。その凄まじい困難が、死。気付かれなかったある瞬間に、彼は既に死でいる。自分の血の夥しい奔流と壊されて溢れた内臓の臭気に顔を突っ込んで。《皇国及琉球解放会》のクーデター未遂に連座した有志十二名のうち、花田英俊、白田貢、川村直人、原田優輝の四名は本懐を遂げた。各警察機関によって拘束された六名、田村惣一、木田悠、内田直哉、加賀健二、真砂雄太、渡辺春人のうち、加賀健二、真砂雄太の二名はその後自殺している。拘留中の吊死。他二名、村田要、渡部翔の所在は不明で、逃亡を続けているのか、自死して果てたのかは定かではない。

 

なんか、悲しいんだよね、理沙が言い、わたしに触れようとした唇を、なんか

「悲しいんだよね」そのたどりつくべき

なんか、」唇のすれすれに停滞させたまま、

「なにが?」その息がかかったのをわたしの唇が知覚する。あまりの距離の接近が

「なんで?」、視界から正確な形象を奪ったまま、

「悲しい、じゃん。ね。」何かを、正確に見出したことなど「なんか、悲しい」あったのだろうか?

理沙の、美しいその「痛い。お前のさ、」、わたしの、この、目は、何かを、正確に?「そばにいると」その、そのままに。

この世界の中に「なんか、」生み出されたこれらの有機物は「痛い」、それら自身に他ならなかったこの世界を?

この世界のさなかで?

何を見たの?

君の目は、その眼差しは、「何を」見たの?

その目で、なにを「ねぇ。ね、見たの?」お前は?

空。」触れられないままに「何の?」唇が吐く理沙の「青空」呼吸がただ「どこの?」触れた。わたしの「いつだったけ?んー、ね。十二歳くらい?」

唇に、それは触れて「どんな?」わたしは受け入れようとした、「親父に殴られて、何でだっただろ?」

その感触を。その、それを、「いつの?」追いかけるがそれらは「泣き叫んでたよ。俺。」すでに失われて「どこで?」触れられもしなかった「悔しくって。つらくって?」それらの記憶に

「誰と?」、触れた。

見つめていた「何が? 何が、つらくて?」その眼差しを見つめ「誰の?」それが「何が? ねぇ、」見つめるのに「泣きじゃくってたよ。」任せたまま。

見た。「今は?」理沙はわたしを見、「見上げて。空。」言葉は聞かれた「なんで?」耳のどかで、すぐ近くの、その「不意に、」不確かな「見上げたら。」記憶を追いかけながら「いつの?」唇が、失われた「綺麗だったかな?

青かった。

なんか。」呼吸の接触をふたたび「いまも?」探していた。いま「春か?まだ寒かった。」見つめられながら、その「何が?」瞳孔の震え。「聞いて。もっと。」と、「ね、」理沙が、「聞いて、

おれに。ね。もっと。

聞いて。言い尽くさせて。

何もかも、で、ね。

自分が思ってもいないことも。

ん、知らないことさえも。壊して。

何もかも。好きだよ。」言って、理沙は、窓の外に鮮やかな空の色彩が、ほんの数時間前まであったのは知っていた。夜の暗さが襲ってくる前には。記憶され、ふたたび想起されたその色彩の記憶を、理沙は愛した。わたしを? 愛する理沙は、わたしを愛した。わたしが愛した理沙は、愛し、いつ、どこで。どうやって? わたしの指先がその唇に触れようとするのを回避して、小さく声を立てて笑ったまま、何も言わないままに、停滞したままの指先に唇を触れた理沙は、わたしを愛する。《すき?》その眼差しと、その接触のうちに、愛しながら、愛するものはその愛するものを愛する。ふれられた触感の記憶が、皮膚の上に、その離された後にまで持続して、声さえ立てないままに。一樹を始めて紹介した久雄は、有望株、と言って笑った。《すき?》美しい男。甘ったれたような美しさをその顔に曝して、にも拘らず、そのたたずまいは乱れの無い身体の機敏な動きに裏切られつづけた。笑いもしない顔がなぜか、《俺のこと、》一樹がいま、心地よくわたしを眼差しに捉えていることを暗示した。張り詰めたほどの《すき?》無表情さで。年上の男のくせに、何の年齢的な差異も感じさせなかった。誰に対してもそうだった。沖縄生まれの《なに?》一樹は、大学に通っていた。修士は終わって、博士課程だった。修士論文は《すきってなに?》アウグスティヌスで書いたといっていた。裏切られたよ、《嘘言わないで》といって笑った。理沙には。彼女が《たとえ、》男だということを知ったとき、一樹はすぐに《嘘にまみれたときでも。》それを受け入れた。一瞬の迷いさえなく。理沙に指一本触れようともしなかったが、その感情はなんだったのか。愛といわれるべきそれだったのか、友情に近い共感だったのか。渋谷のクラブで、一樹は言った。錠剤を差し出しながら、革命って興味ある? お前。音響と光。わたしは知っていた。久雄がすでに宣伝して回っていた。派手に。極彩色の派手はでしさで。一樹主宰の右翼団体の実態を。なにを宣伝してまわるわけでもなく、ただただ身体の訓練だけに徹底した彼らの、禁欲的な、久雄いわく《修行活動》を。《すき?》誰もが知っていた過剰な着服が明るみに暴露された木村が、風間に呼び出された久雄の事務所で、久雄たちに《うそいわないで》リンチを食らったときに、「秘蔵っ子」の一樹はソファに座ったまま何も言わなかった。小さく狭い歌舞伎町の事務所は、六人の男たちで、《さわって》いきぐるしいほどに、木村はひざまづかせられ乍ら、それでも自分の非はかたくなに認めないのだが、次の日、《どこに?》言った。あんなの単なる脅迫じゃん? わたしと顔をあわせた瞬間に、大袈裟に不快感のきわまった表情をさらして。あいつら、まじ《どこがいい?》、訴えてやろうかなって。だろ? 靴を舐めなければならないほどの目の前に《どこ?》接近した久雄の靴の革の臭いに向かって、木村は、やってないです、いえ。ません。繰り返し続けたが、《さわって》いじけてんのか? おまえ。言いながら頭を踏みつけた久雄の靴底に、木村は顔を蹴り上げられ、息を詰めてのけぞり乍ら《どこでも、》、チキンだね、次の日理沙は言ったものだった。やっちゃえば良かったのに。木村に。やれないから。木村は笑う。いや、マジで、《どこがすき?》本職はさすがにやれないからね。俺は。理沙が笑った。わたしも、そしてあの日、《すき?》一樹は退屈そうに携帯をいじっているばかりだった。ソファーにうずもれて、消音されることのない彼のゲームの電子音が事務所の中に響いていた。複数の息遣いと、《どこに、》時に上げられた木村のうめき声とともに。風間は来なかった。あいつ、《さわりたい?》また、ばっくれたん? 久雄の舎弟の矢作が言った。いつものことだった。暴力的な瞬間には、《ふれて》風間はいつも不在だった。それを彼らに懇願して、彼らに強制し乍らも。「小指折れたんだけど」包帯を巻かれた木村の小指に、《さわって、》理沙は笑い声を立てたが、暴力を、嫌悪しながら彼女はそれを楽しんだ。《いま。》いつも。無関係な見世物として。《さわって》あいつら、みんなぶっ殺してしてやるよ、と木村が言ったのは、《制裁》がおわってわたしが彼を店に連れ帰っているときだったが、理沙に《ふれて》ひざまづくことを強制されて、あのとき、木村は額をわななかせていた。悲鳴のような、執拗な憎悪に。優輝という源氏名の女は罵り声を立てた。悲鳴のような。理沙はそれをふりむき見た。憎しみ。容赦の無いそれが、そして店の更衣室の中で、確かまだ冬だった気がした。出会ったばかりの頃だった。理沙とは。わたしは。理沙は。一人で立てた四重奏のような優輝の音声の喧騒を、わたしと。優輝の身体が音を立てて崩れる前に、理沙が振り向きざま彼女を殴りつけた瞬間、優輝は失心したような表情を皆にさらしていた。何か言おうとしていたが、すぐさま床に倒れ付して、皆が、優輝を見ていた。床の上の。入れ込んだホストの名前をそのまま取って自分の源氏名にした豊満な女。ポルノじみて極端に身体が豊満な、愛玩動物のような、優輝が理沙の客を取ったと密告したのは愛実だった。本当かどうかもわからないその密告が、理沙にもてあそばれたのは事実だった。ひまつぶしにすぎない。顔を合わせた瞬間に優輝の胸倉はつかまれ、誰にとっても優輝は嘲笑の対象だった。体と引き換えに、数多くの、善良な男たちに貢がれたその女は。いじましさが取り柄の、みじめったらしい見苦しい女。馬鹿で、ずるがしこい。笑い声さえあたりで沸き起こりながらも、理沙の暴力を咎め、制止しようとする声がときに喚声になって、まばらに立った。だれも理沙を本気で咎めるものは無かった。彼女の成績と個性的な容姿は店の中で特権を与えていた。しかめつらの悠華が煙草に火をつけながら、化粧台にすわったままで、ねぇ、と、その日の帰り際、悠華はわたしに言った。「理沙ちゃんってさ、ちょっと、あたま、おかしいよね」声を立てて笑って。大変だぁ。あんたも、じゃない?「大変だよね。潤も。」おあんたも。ね。かしいよ。あたま。言ったわたしに、悠華は笑い声を立てた。実質、何人の男たちに囲われていたのだろう? 理沙は。とっかえひっかえ、企業の重役や、ベンチャーの社長を彼女の部屋に連れ込み乍ら。不意にでくわした、彼女。おれの。はるかの挨拶に戸惑いながら、ややあって、笑いかけ、だれもが自分だけの女ではないことなど知っていながら、自分だけの女として愛した。自分がいなければ、駄目になってしまう庇護されるべき女、として。理沙から、その唇から、見下した哄笑が消えうせることはない。

海に行ったときの一樹の拒絶を、理沙が忘れることはなかった。

 

白浜の海。匂いがした。塩に膿んだ海水の。世界、哄笑されるべき対象のすべて。他人の眼差しへの哄笑を公然とさらしたまま美しい水着姿を見せびらかせながら、ふと親しい共感と共にその身体に、指先だけが失心したように触れようとした理沙のそのほそい指先のなにげなさを身をかわして拒絶したときの、一樹。その身のこなしに理沙さえ見とれた。研ぎ澄まされた猫のような。哄笑、見られるものすべに対してなされるべき、その。声を立てて笑ったあと、何が起こったのかわからないままに、むしろ茫然とした理沙に「触るな。俺に」なんで? その問いかけを待つまでもいなく、一樹がささやくように言う、「女には触れない。女には触れさせない」わたしとあった視線に、なぜか笑い崩れながら、なに? 一樹は。ねぇ、なに? 理沙が言う「童貞?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

一樹のまなざしには無条件の親密さがあった。無条件で受け入れたような。理沙を見つめるときには。理沙の心に、その眼差しがふれるたびに動揺が起こるのは知っていた。こまかい、その。

「残念ながら」一樹、この「高校のときに。いまは、後悔してる」男の後悔が、その恋愛経験の破綻の結果したものではないことは、言われるまでも無くわかった。それは、彼が、彼の自覚した哲学が、純粋に美学として拒否したに違いなかった。「死ぬなら、純潔のままが良かった」共感と愛との差異がわたしにはわからなかった。憎しみとの、絶望との、拒否、拒絶、依存、その他、無数の。感情にまみれた。穢くね?

そう?

愛とは、感情なのか、なんで? 或いは概念なのか? なんでだよ? 愛するという言葉を消費し続けながら。なぜ、三島の「憂国」が薄汚い読後感しか与えないか知ってるか? 一樹はときにわたしにささやく距離感に接近して、それってさ、結局あれが、言う。ね? エロス・タナトスのくだらない話に過ぎないからだよ。にもかかわらず、わたしを愛しはしなかった。一樹は。考えられない? 潤には。ね? 無数の時間を傍らで過ごし、考えられないかな? なんどもその指先にわたしの皮膚を触れながら、ねぇ、たとえば、エロスでもタナトスでもない、純粋に生き抜かれた死。ね。むしろより強い共感を理沙だけに与えた一樹は、考えられない? 慾動なんかのなぐさみものじゃない、純粋な死を生き抜くこと。潤には。にもかかわらず、一樹は理沙をも愛しはしなかった。おれはね。ね? 女になんか触れないし、女になんか触りたくない。生物だよ。な? 純粋に。女は。やっぱ。ね、男っていうのは、さ。哺乳類が、さ。生殖機構の中で、さ。生まざるを獲なかった、ね? 生殖上の必然に過ぎないけど、な? 結果、偶然的で例外的な恩寵だと思うぜ。一種の、ね? 純粋に死を生ききるかも知れない、生自体に対する裏切りの生の、わかる? 可能性。ね? 生物であるがゆえに、その結果、その生物である必然を裏切った、そんな。な、わかる? 生み出すことに興味は無い。破壊することに興味がある。わかる? 生産的な破壊じゃない。未来なんか何もない、ただ、美しくしかない破壊だ。ね? 自決の翌日に発見された一樹の無残な死体には、生前の、張り詰めた美しさなど微塵も無かった。ふれるのをためらわれる、汚物のような、穢れた死体。悲しいほどに、表情を失った理沙の眼差しは、警察署で彼の死体の身元確認をし、わたしたちの眼差しは、悲しいほどに、無根拠に表情を失ってしまった眼差しが、いつもわたしを捉えたのだった。見詰め合うときには、いつも。仮定的に愛と呼んだ感情の束に駆られて。捉えられたはずだった。理沙も。わたしのそれに。おなじような、代わり映えの無い眼差し。表情をなくして、むしろ、言葉をさえなくしてしまった、その。

なにを言いたいのか、なにを想っているのか、自分でさえわからない、その。

表情の残骸。

わたしの知らない瞬間に、はるかさえも。理沙に曝す。わたしたちは愛し合って、彼女の部屋の中に、抱き合い乍ら。お互いの体温の存在に、お互いの愛の存在を確認しようとさえしながら。愛と呼ばれる、感情だか概念だかわからない、ある凶暴な実体にふれられたときには。沖縄に帰るの? と言った夏の日に、一樹は、夏休みだろ? 帰らないの? 言った。帰らないよ。父親は沖縄のリゾートグループの重役だった。正確な役職は知らない。日本の東京に本社があるリゾート会社の沖縄施設の管理者。ときに、出張でプーコック島へ。なんで? 質問に正確には答えないままに、飽きた。もういい。言って、一樹は理沙にお前は? と言ったが、彼だって、彼女が帰るべき実家などないことは知っている。もう、何年も帰ってないな、と、一樹は、東京に来てから、一回? 帰ったよ。言う。叔父が死んだときに。さすがに帰らなきゃならなかった。何で死んだの? 事故。何で? 轢かれた。バスに。一番でかいの。悲惨だったぜ。残ってなかったよ。体。残ってなかったよ。笑って、夏の、昼間の歌舞伎町は美しい。いや。完全に残ってなきゃいいんだけど。ね。だれもいない、廃墟のような薄汚いビルの狭間のアスファルトに、残骸だけ残ってる感じ。体の。夏の光だけ、音も無く降り注いで照らしだす。もう、世界は既に崩壊している。人々は、生き物たちは生きているが、それは、かつて世界が存在したことの記憶をいつくしむように生きている。自分たちが存在したことの記憶さえ含めて。またたき以下のわずかな瞬間の未来に喪失され続けた現在に駆られながら。猫が路上を疾走し、捉えた聴覚の中に開けた視界を走査する。たちどまって、すまされる耳の、尖らされた震え。かすかな、いつ?既に、世界が死んでしまったことだけは知っている。手に痛みがある、やわらかな。かすかな。その手の痛みがゆっくりと全身に広がっていく。わたしはいつ死ぬのだろう? 死にかけているわたしは? わたしはいつ決別し終わるのだろう? いつ? 既に死に絶えた世界の中で? 繰り返される理沙とわたしの音声。無駄に費やされていく時間。何をも生み出さなかった。愛は、常に。生み出すのかも知れない。いつかは。その有機体を。副産物のように仮構して。一つの細胞の受胎は分裂を繰り返し、空間を占有していく。もしも彼女が受胎したなら。彼女はそれを望まなかった。少なくともいまは。彼女は女ではなかったから。そのときには。彼女が受胎したなら、彼女は見出す。彼女の男性の破綻。女性の生誕。それらの反発しあう共存。すでに破綻は体験されていた。彼女に。わたしの愛撫に、彼女がふと声を漏らした瞬間に。気づき、気づかれていた。わたしにも。女性の発したその声に。破綻を撫ぜる。愛する瞬間に常に。わたしたちは愛し合っている。破綻に耳を済ませて。愛する。わたしたちは。愛する人を、愛する。理沙を。きみだけを。愛した。あなただけを。理沙を。愛してんの。はるかが言い、かすかに、既に発情していたことを恥じらいのうちに隠そうとした、女性的な、惨めなほどの欲情を曝した彼女の、そのあまりにも女性的な欲情の形式。女って、と、その表情はいつも。「穢いだろ?」一樹は言った。女って、なんか。なんかね「なめんなよ」言った理沙は、自分にふれるなと言った海辺の一樹に食ってかかるそぶりを見せて、思い惑った一瞬のうちに、女じゃねぇから、(ひと)語散(ごち)て、わたしは彼女が言い足りない表情をしたのに気付いていた。

海辺の夕方にまだ日は堕ちない。

 

わたしの言いたいのは、理沙がうつむく。こんなことじゃない。一瞬だけ。あの哄笑がふたたび始まるまでの、その。「だけ。、まじ。だけ。

 

 

 

 

 

 

 


永遠、死、自由《愛する人》4

理沙だけ」はるかの唇が自分の唇にふれるのを理沙は拒絶しない。自分が発情しているのは知っている。押さえ難い、胸をむかつかせるほどの性欲が、そのぶ厚い温度が、理沙の部屋の中のベッドの上で体中に熱を放ち乍ら拡散していく、消えうせない拡散。こんなものなの? したかったことは? と、わたしの眼差しに、ときに直接そしてこんなものなの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

求めていたものは。

ねぇ?

ふれる理沙の視線を、見たかった風景は? 見る。はるかが、こんなものだったの? 声を立てて笑い乍ら、荒稼ぎした理沙のベッドルームは広い。耳元に、言いたかったことは? 言う。「妬いてる?」こんな場所なの? 潤ちゃんなんで? だって。だって、さ、はるかの声。たどりつくべきところは? こんな? 自分の理沙ちゃん、ちゅうされて。こんな? ソプラノ。甲高い、はるかの、その、こんなに? 声を。こんなの? 妬けちゃう? ねぇ、これって? 妬けちゃう? ねぇ、これってさ、ねぇ。なに?

これって? なにが? この感じ?

なんなの?

ねぇ、理沙のその、彼女は息遣った。その声を(その声、)ねぇ、聞く(もっと、)。聞かせて。その、「この感じ。」声を聞かせて。お前の。ねぇ。なに? 声を。ねぇ、なんなん?

なん。なん?

なに?

な、。

、ね。

、から、さ。ん。なんか。

ん。なに。これ。

なんなん?

わ。

わーって、

なん、なん? ね、

これ?

ね。

はるかの望むものは何だっただろう? 理沙との、彼女に夢みられた最後の風景は、たとえば、なんなんだろう? なんなの?「わかんないよ」お前のいうこと。笑って、理沙の声。笑ってよ。

その笑う声を。聞く。もっと、

聞かせて。なにを?

いつの?

その。

最後の、その風景は? 理沙と彼女が夢見獲る最後の風景として、はるかに描かれ獲るのはどんな風景なのか? 老いさらばえた二人が、醜い「未来はさ」老残した肉体をさらしながら、おたがいに「未来だから。わかんないじゃん。だって、」死んでいくことなのか? こんな風に、「から、さ。」抱き合いながら? いまを抱きしめていたいって感じ? 笑う。声を立てて、はるかは。いま、彼女は閉じられた理沙の唇に息を吹きかけて、悲しいよって、

言ったら、きみは

笑うかな? 青空に、たとえば赤い花を

投げつけたりして、それが哀れむべき愚かないたずらに過ぎなかったかのように、少し困惑したその表情が消えないままに、寝たふりをし続ける理沙のまぶたが触れられた。はるかの唇に。下唇だけが、肉感的にふくらんだ、愛玩賞品のようないじましい唇。理沙という女にしか愛されること無く、彼女をしか愛さなかった、その「ホントは、あの子、」唇。それを「さ。」感じる。理沙のまぶたが。その、「おれの女じゃないんだよ」温度。理沙が言った。その触感を? 吹きかけられた息の、その触感の隙間に。まぶたは。いつか。「だって、あの子、レズでしょ。」言って、思いあぐねたように、その沈黙の間合いが。「なに? レズっていうの? おなべ? やかん? なに? なんか、もう難しくなりすぎてよくわかんないけどさ。要するに、変態。変態、な? じゃね? あいつ、変態じゃん。俺といっしょ。」こんなことなの?「だから、おれの女じゃない。そんな」話したかったのは?「気がする。」十二歳のとき、男とやったの。まじで。ふつうに。興味でかけるじゃん。てか、あるじゃん。だから? 男のほうはさ。普通に。わかんないけど。女のほうは。女もじゃね? けど、なんだろ? 生理とか来るじゃん? やっぱ。で、なんかさ。なんか。悩むじゃないけど。穢いしさ。実際。つらいよね? 俺、なに? みたいな。なんで? みたいな。女なの? っていう。男になるのか、女になるのか、男捨てるのか、女受け入れるのか、なんだろ? しゅんじゅんするわけ。逡巡するわけね。で、さ。やっぱ、しゅんじゅん、じゃん。やろっかって。まじ? そ。やろっかって。しゅんじゅんして。そんな問題? まじ。やばくない? いや。てかさ。そういうもんにしかさ、ならないよ。むしろ。しゅんじんしすぎてて?そそ。しゅんじんしすぎてさ。やばいね、しゅんじゅん。てかさ。こんなことなの?

話したかったのは? かあちゃん、やばいよ。うちのおかん。シャブ中だからね。なんかさ。こわいの。て、なに? なにが、

なにが?

どんなふうなの? くさい。まず、くさい。へんなんだけどさ。もうあたまくさってるからさ。シャブうってなくても腐ってるからさ、それはいーの。いーけどさ、なんか、くさいからさ。やめてって。おねがい来ないでって。なんか怖いくさいかさなるとほんと地獄なの。わかる? これ? 見出したかった、風景は。

これ?

こんな場所なの? ね、

辿り着こうとした場所は? あれてたね。なんか。はるかとね。いっしょにね。いたころね。てか、いまもいるけど。いっしょに。あのころさ、なんか、さ、むかついて。さ。思春期的な? んでも、ん。いんじゃん。いーよ。なんか、愛、と、呟いたときに。あいし、なんかね、いい経験だったってか、そんな、ね。で、さ、そして辿り着こうとした場所は? ね。やっぱ、ね、こんなにも? こんなに? こんな? この? これ? 時に暴力がはるかを襲う。突発的に。無根拠な疑いが理沙を襲い、崩れそうになりながら、理沙が襲い掛かったのがわかった。はるかに。ふいに気付かれた、自分が裏切られていたのかも知れない事実に激昂する。打ち付けられた平手を、はるかは頬を押さえながら泣きそうな顔をした。泣かないで、理沙は思った。泣かないで、お願い。見たくない。泣かないまま、はるかは、じっと、なぜ、自分が理沙を見つめていたのか、それを、彼女はよく知っていた。すでに、彼女はいつもの突発的な理沙の暴力が、何の理由によるものかなど知り尽くしていたから、彼女は泣くことさえできないのだった、いまさら。無理。いまさら。もうさ、泣けないから。「違うから」それ、だから、違うから、とそれだけを言い続けるはるかの声を何度聞いたのか? わたしは。何度、なんども、あるいは理沙は?「殺してくんない?」いつだったか、ねぇ、理沙が言った。ささやくように、わたしに。ひっぱかれるたびに、新宿の路上で、ひっぱたかれるたびに、伊勢丹の前で、はるかを、部屋の中で、わたしに、ホストクラブの中「ここってさ、」、飲み屋の中、「前、おまえ、働いてたとこ?」どこか、あらゆる、彼女の神経を焼き尽くした場所で。その瞬間に、突発的に、崩れるように、違うから。「ちがわねぇだろばか。」否定する「違うから」はるかを否定し、理沙に襲い掛かっていた嫉妬が彼女の神経を焼き切る。忘れる? 我を? 怒りに? いや。むしろ、「関係ねぇよ」怒りにもてあそばれて、いつか怒りをもてあそんでいた。思ってたのに。もう限度だと。知って、ん。もう限度を超えるかもしれないと、知っていたのに。窓越しの、陽光を見る。いつか言った。理沙が、殺してくんない?

逆光の、無理だよ。光。

無理じゃないって。笑う。

簡単だよ。陽だまりのなかに、どうやって?

眼差しを投げ捨てたまま、妊娠させろよ。言った。

イッツ、イージー。笑い声が、彼女の。

は? わたしの、その声を聞いて、理沙は、俺、妊娠させな。

いつだったか。

まじ?

まじ。

できた瞬間、おれ、踏ん切りつく。(から、さ、で、ね?)

(てか、さ、てか)迷惑かけねぇよ(まじ)。違うから。(ぜんぜん)違うから。踏ん切りだけ、(ね?)つけさせてくんね?

)自分で綺麗に散っていきますよ。(そ。

そこんとこは、さ)美しい盛りで、この美しい花は、(さ。)

自分で。始末くらい、

踏ん切りだけ、つけさせてくんね? いつか。こいつまじむかつくからさ。理沙が言い、その声は、限度を超えた怒りの高揚を教えた。理沙は、飲み込まれてしまった。「こいつまじ、やっちゃって。」何かに。「おかしちゃって、こいつ」すがりつくように、窓越しの空は、はるかが理沙に取りすがった。穢らしく泣いて仕舞い乍ら。青い。陽光に照らされたままに、潤、さ、空。まじ、理沙が「こいつ、まじ、ぼろぼろにしてやってくんね?」言い終わる前に。はるかの指先が一瞬、ふれた理沙の唇。はるかに興味は無かった。俺の好みじゃない。思わせてやって。死んだほうがマシだって。生まれてこなきゃ良かったって。人間のくずだって。人間のくずの腐ったのだって。生きてるだけで、酸素の無駄なんだって。教えてやってよ。たち直れなくしてやってよ。死ぬこともできなくしてやって。破壊にしか興味ない。一樹は言った。いつだったか。美しい。それだけ。何もかも、惨めで、見苦しくて、穢らしいけど、破壊された瞬間だけ、美しかった気がする。その瞬間が。なにもかも、見たの?

 

なにかが、本当に壊れるところを? それ以外は、惨めで、見苦しくて、穢らしいだけなのに。なにもかもが。破壊された瞬間だけが。一樹はどう思っただろう? わたしに強姦されたはるかの、茫然とした表情を。困惑から、怒りへ、それから、屈辱へ、軽蔑へ、それらのグラデーションの点滅の狭間に、理沙への懇願だけが、ただ、何度も何度も同じ表情を見せた。いつもだから、と、何日か後で、はるかは言った。むかしから、理沙、たまにああなる。けど、さ、殴打された横顔。愛されてるから。理沙って、さ、わたしが殴打したのだった。その青タンまみれの顔は。普通じゃない子だから。ちょっと、ね。あのときに。そういうのも、ぜんぶ、あわせて、理沙だって思ってるから、わたし。ぜんぶ。ぜんぶで、理沙。それは、わたしが。いつだったのか、はるかの唇が切れる前に。はるかのその。それはわたしのせいだった。わたしがやったのだった。すべて。黒ずんだ目の下。息遣い。はるかの屈辱。そむけられ、その壁に投げ捨てられた眼差しの茫然。痛み。痛い? 理沙の、はるかの屈辱を、今正に追体験していた表情の痛み。自分の皮膚の上に。唇をふるわせる。いま。痛い? つらい? 一樹は何と言うだろう? これを見たら。吐きそうだった。俺を、一樹は? 軽蔑する? お前。誰が。痛み。だれがこんなことをやったんだ? 目を逸らしてばかりで、一瞬たりとも直視することができなかった理沙が、壁際にうずくまって泣いているのは知っている。しゃくりあげ、鼻をすすり、理沙のそれであっても、涙はどうしても穢らしい。無慈悲なほどの正確さで、あまねく、それはただ見苦しく、穢い。なぜ? そんなふうに。理沙はもっとも悲惨な、最も傷つけられた被害者のように。独りで泣いていた。なぜ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

理沙の乳房は美しい。

わたしたちは知っていた。柔らかな隆起と、絶望的な不意の陥没。奈落に落ちるように。救いようの無い隆起の終焉が、そのあまりにも豊かなふくらみを実体化させていた。そして、褐色の肌を、花で埋め尽くすしたように。褐色などではない、本当の黒さに焦がれたように。かたどられた花々と蝶の形態の黒い線の交差。その刺青は両方の乳首の周りに、小さな手のひらをかぶせたような形で両方に彩られて、色彩。

白、青、赤、それらの色彩が埋め尽くす。わたしが普通でないことを知ったのは、世界が既に崩壊していたことを知った、その、ずっと前だった。馬鹿な中学の先輩が切りつけてきたナイフが、その装飾的な実用性の無いそれ。所詮飾り物にすぎないもの。日本のサムライたちが誇示したカタナのようなもの。カタナで人は殺せない。少なくとも即死をは。名前は辰巳。村田辰巳。彼は十四歳か、何歳か。そのナイフはわたしの指先を切りつけたが、骨までえぐったそれ。痛み。忘れようも無い、そして、想起されるたびに過剰な装飾を施され、あるいは、大事な何かを削ぎ落とし続けて、もはや原型さえとどめなかったこの記憶。痛みの。繰り返された想起の果てに、もはや存在しないこれ。消えうせてしまえばよかったのに。どうせ、存在さえしないのなら。わたしの指先は驚くほどの早さで治癒していった。切り裂かれた事実さえ、三十秒後には消滅するほどに。「舐めて。」理沙が言った。乳首、舐めてよ。お前、好きだろ? 女の、乳首。美しい刺青で飾られた、きみの? またたく間の快癒。乾ききらない血がまだ指をぬらしていたのに。「好きでしょ? 」なぜ?「舐めて」求めてさえいないのに。そんな事。女として、わたしに愛されることなど? 辰巳の荒れた息遣い。生意気すぎなんだよお前。その、言葉、呟かれた性急な、こんな、求めてさえいないのに。こんなこと。なぜ? 加害者の癖に、お前はなぜそんな、すべてに傷つき果てた顔を晒すのか? 息を荒らげて。「ふざけんなよたこ」聞く。辰巳の言葉。痛みに顔をひきつらせ、振りかざされたナイフ。わたしは、殺されるかも知れない恐怖にさらされた。存在の痛みに。指先だけじゃない。予感された次の瞬間の痛み、いま、時間の中に存在していることそれ自体の痛み。むしろ、生きている事実が痛い。恐怖。死と、これから破壊される身体への。わたしは自分の表情を見なかった。卑怯者の顔をしていたのか? 何も恐れない顔をしていたのか? 汗ばんだ触感だけが、自分の神経系に自覚されていた。

なにうんこみたいな顔してんの?

わたしは言った。わたしのその笑い声に反応した辰巳は襲い掛かってくる。それは既に予感されていた。いいんだ。それで。お前は正しい。お前の怒りは。痛み。指先は未だ痛い。完治していたのに。すでに。まだ、神経系は痛みの記憶を引きずっていた。ほら、と。怒り狂ってみろよ。怒りたいんだろ? ぶっ壊してみろよ。ほら。それが望みなんだろ? 学校の中で、ほら。校舎の狭間。窓からのぞいた顔の群れが、それぞれに差異する表情を連ならせ、その喚声。青い? 青かった? 恐怖。空は? 怖い。死ぬのが? あるいはむしろ、痛めつけられるのが。三人の少年たちが、襲い掛かって、数分間のリンチ。仕掛けたのはわたしだった。辰巳さん、辰巳さん、叫ぶようなわたしの声、すれ違った振り向きざまの。声の群れ、わたしを見る。それらの声の群れ。あんた、うんこみたいな顔してますよ。「やば、お前。何言ってんの?」群れ。声の。束なる。眼差し。それらは見た。それぞれに、この、リンチを。二号館と三号館の間の校舎の影。「お前殺されるよ、ばか」殴られ、蹴られるに任せ。「何事も無くてよかったけど」氷川という名の教師が言った。「お前、」傷はすべて、完全に治癒していた。「これが最後だよ。」ほんとうに、これが、なぜ? 最後だよ。二箇所も差されたのに。傷ついていなかったのか? どうして? あんなにも、痛かったのに。二日後に、どうしても不可解なわたしは、台所で小指を切り落とそうとした。痛み。涙が無意味に溢れる。そのときのいま、わたしの身体に、その神経から頭脳にかけて、あまりにもちっぽけな部分が与えたあまりにも大きな苦痛に、心さえ破綻しかけたのには気付いていた。切り落とされないままに、ぶら下がったそれ。何度も綺麗な切断をためし、もはや指先は麻痺した。麻痺した指に苦痛は突き刺さらずに、苦痛の残像の重さだけが暑苦しく全身を支配する。骨の内側を。汗にさえまみれて。取り落とされた包丁が流しに落ちて音を立てる前には既に、流しはあふれ出した血に染まっていた。進化? 左手の手のひらが包み込んだ、傷ついた右手。腹部にこすり付けられて、痛みをようやく耐えられているその指先が、急速に治癒しているのには気付いている。進化? 頭の内側をがりがり引っかく音がしていた。気付く。あらゆる生命体が進化することは知っている。にもかかわらず、誰も進化そのものを見たことはなかった。これは進化だったのか? あきらかにわたしの身体は、人類の大きな類型の中に納まりきらないはずだった。無数の個体的特異性に貫かれたあの多様性を抱え込み、類型としてはすでに破綻した、かつ、絶対的な集合には。人類から零れ落ちていく一つの可能性が、いま、ここに実現されていた。

 

進化?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

辰巳とはもう何年も会っていない。もうやりあったからさ。お前とは。彼は何をしているのか?もう、分かり合ったよな。お互いに。そう彼は言った。わたしをリンチした二週間後に。お互いに食らった謹慎処分が解けた後に。つじつま合わせの笑顔。本気だったかも知れない。彼は、本当にわたしとわかりあえたのかもしれなかった。彼にとってだけの、彼の容赦の無い事実として。


永遠、死、自由《愛する人》5

一樹がネットで集めて組織した皇国及琉球解放会は、一切の言論活動を禁じた。一樹自身によってそれは発議され、メンバーのすべてに同意された。革命は無言のうちになされなければならない。神聖なる、真性の革命は、言論などという穢れた停滞をあくまで嫌う。彼は言った。言論活動は必要ない。わかるやつにはわかる。わからないやつはわからなくていい。無駄死になろうが、それならそれで本望だ。だれも理解しないだろう。それでいい。必要ない。説得しなければ獲られなかった理解者などよりは積極的な無理解のほうがいい。久雄の支援は、彼のその矛盾律をもてあそぶような論理の生真面目な遊戯性を、戯れに面白がったに過ぎず、あるいは、同性愛的な、一樹という美しいの存在への無根拠にして絶対的な共感に他ならず、そして誰もが知っていた。彼が、もうすぐ死んでしまうことは。一樹が口走り続ける自殺衝動を、誰も本気にはしないながらも。死ぬよ。言った。俺は、「生き過ぎた。」死ぬよ。けど「老いぼれる前に、」理解なんかしなくていい。俺らのことなんか「もう時間はない。」俺ら?違うな「遅すぎる。」俺らは集団じゃない。個人だよ。純粋に個人。個人として生きて、個人として死んで行く。決意してね。自覚してね。それが、俺らの本懐だよ。理解なんかしなくていい。進化?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

やがては彼らは滅びるのだろうか? この世界の中で、自分たち自身に破棄されて? 誰が彼らを破棄したのか? 何の必然性も無いままに? いずれにしても、彼らは最早滅びていく種族に過ぎなかった。芋虫は蝶への脱皮を拒絶することはできない。例え、それが芋虫という生体の死と壊滅を意味したとしても。滅びざるを獲ない旧人類たち。そして、その一方で、それが進化ではなく、単なる特異的な奇形に過ぎない可能性の存在も知っていた。それは種の経験なのだろうか。わたしの個人的な経験なのだろうか。未来は既に滅びていた。すべてのものはすでに、滅び去って仕舞っていた。未来のことなど誰にもわからない、というあたりまえの事実の破壊的な恐怖がわたしの周囲に口をあけていた。それは、あらゆる論理や、倫理を飲み込み、破壊しつくして仕舞う。自殺への衝動が、恐怖と共に生じた。あるいは生きようとする欲望が。貪欲な、渇望のような。例えばガソリンをかぶって、火をつけたとしたら? わたしは死ぬのだろうか? わたしの限界はどこなのだろうか? 首をはねたら? この再生能力の限度は? さまざまな種類の恐怖のさざ波と共に。予感された痛みの。そして、はからずも突破された限界がいつかもたらす死の可能性の。恐怖。いや、単純な怖さ。恐怖という概念は、怖さそのものの隠蔽に過ぎない。わたしは知っている。世界は既に崩壊している。すべては既に滅んでいた。月の砂漠と地球の熱帯の樹木の群れに本質的な差異はない。こわい。「ほしい?」

なにが? 理沙が言う。「ほしい?」だから、

何が? わたしのその声を聞きもしないで。聞こえたくせに、何も答えようとはしないままに、「俺のこと、ほしい?」

ほしいよ。なんで? なんでって? かわいいから? 綺麗だから? 女だから? やばいから? むらむらするから? やっちゃいたいから? すきだから? 愛してるから?「ほしい?」はるかは聞こえないふりをする。それは、彼女には関係が無い。わたしと理沙が話しているのだった。彼女はいまここには存在しない。はるかは聞こえないふりをして、やりすごせないままに澄まされた耳の、理沙の声の一つ一つが、気配の、しぐさの、やがてそれらのすべては、いつもはるかを、鮮明に傷つけた。身体的な暴力、たとえば繰り返された殴打より鮮明に、致命的に。「なにが?」声を聞く。なにがほしいの? 理沙の「好きだよ」声を。ほしい? なにが? ねぇ。

ほしい?「ぜんぶ」声を立てて笑うことさえなく、「なにもかも。お前の全部」全部って何? 何のぜんぶ? ぜんぶって? こんなものなの?

ほしかったものは? ん。これ?

これ? 表情をなくした眼差しは、理沙の。それ。それがただ、わたしを捉えていたが、それら。朝方の飲み屋のノイズ。それら、酔いつぶれかけた声の群れ。乱れた女声、男声、つらなる物音。聞く。聞け。ぜんぶ、「未来も?」手に入りはしないのに? 過去も?「どうやっても、手に入りはしないの?」どうやって? はるかは沈黙していた。傷ついたまま。「一瞬たりとも?」どうやって? どうやって手に入れるの?「すき?」

わたしが答えられないままに、「女のおれがすきなの?」

お前さ。てか、さ。「男の?」沈黙するわたしを、「ねぇ、」と。

どこか、茫然とした「お前、ホモ?」その、理沙は美しい。

俺はさ。て、ね。ん?「ホモだよ。」美しい。女として、その。

 

「お前は?」身体の、絶望的なまでの女性美。沈黙したおれには、もう、みあきたろう? なにもないだろう? すててしまいたいだろう? からっぽだろう? さわれもしないだろう?「お前は?」なんども、と、理沙は言った。顔、つぶしてやろうかなって思った。自分の。なんか、薬品とか、刃物とかさ、かみそりとか、あるじゃん? ああいう。けどさ。狂っていた。理沙は。はるかも。だれも。できないの。俺。なんで? 既に。彼女は。はるかは逃げもしない。あんなにも痛みつけられてばかりなのに。理不尽な嫉妬が、無根拠に燃え上がっては理沙をいたぶる。はるかは自分を守り獲る手立てさえなかった。できないんだよ。自分の顔、つぶすの。「何でだよ? 何で」きれいじゃん。俺、単純に「俺以外の男にいけるの?」すげぇさ、単純に、女として「なに、お前? ただのビッチ」綺麗じゃん、なんか「じゃね?ばか?穢ねぇんだよ」いっしょに死にたいって。この、ね、「お前。なんでそんなに」美しさと。もったいない。なんか、俺の「ゆるいのお前? なんでそんな」綺麗なうちに。一番「クソなの? お前。」綺麗なとこで「否定できなくね?」なんかさ、裏切りなんだけど。結局は。最後に、裏切ってやりたい。綺麗なまま、ぼろぼろに裏切ってやりたい。来てくれ、と一樹が言った。なんか、へんだよね、俺。けど、見てやってくれ、と一樹が言った。まじなんだよ。処刑。六本木の雑居ビルに上がる。不法侵入。屋上に上がって、それは夜だった。ミッドタウンの桜が見える。美しい、「ここってさ、むかし、」その咲き誇られた、桜色づいた「防衛庁だったんだよ」花。白からかすかに桃色へと推移を描く色彩の、しかし、最後の一線において白をついには裏切られないままの清潔な白さ。「旧防衛庁跡地。ネットで」見てみな。綺麗だぜ。いま、こんな風になっちゃったけど。夜の照明の中で、桜の色彩がかすかに、これ見よがしなほどに、足の下に広がった。「自分で言ってきたんだ」日向孝治と言う名の、二十二歳の男、見苦しくは無いが「腹、切らせてくれって。」美しいとはいえない軽量の柔道家のような体躯「結婚するんだって。どうしても」地味な、丸い顔立ちの、その「断ち切れなくて。女、」男はときに笑い乍ら、用意された死に装束に着替えて「思い切れなくて。だから、」刃物は既に日本酒で清められた。いま、「切らせてくれって。脱退するか? って」最後に桜の花々を見下ろし、ホントは「言ったけど。それは無理だって。」朝がいいんだけど、ちょっと「切らせてくれって。」無理だからさ。一樹は言った。「一晩考えろって。」申し訳ない。日向が一樹のその「そう言ったけど。変わんないって。」声にうなづく。「何日、何週間、何ヶ月、俺、」時世の句は既に読まれた。「ずっと、考え続けてきたって思うんですか?」胡坐をかいたその後ろに「って。切らせてくれって。」一樹の構えた介錯の「奥さんは? って言ったら、」刀に、流された酒が流れ落ちていくのを「言ってないって。」見つめる眼差し。一樹の、その「言えないって。」視線のうちに、刀は夜の光を反射して「あいつの幸せを壊すことは、」流れる酒がきらめかせる。「できないって。」息をつく、何かを待つ。日向は「愛してるから。」目を閉じたままに、高まり?「矛盾してる。けど、」何の? 時間の? その「もうどうしようもないって。」時の? 不意に「俺、言ったの。」見開かれた目の見開かれる直前に「わかったって。」刺し貫かれた短刀は「見届けるって。」血が噴出す前に、叫び声が小さく、口の中だけで立つが、介錯の刃はまだおろされない。一樹は待った。限界以上に硬直した筋肉が、その筋肉の極端な硬直をみずから切り裂いていくのを。十字に切ります、と言った。その時を待つ。わたしは目を背けることさえできなかった、久雄は顔色を失っていた。筋肉の、骨の痙攣。刃物はまだ一文字さえ切り裂かない。呼吸の、乱れながら整えられた音響が耳元に木魂し、一樹は言ったものだった、「裏切られていいんだ。」かつて。震えつづけている、その腕。「すでに裏切られているから。」日向の。まだ、意識は途絶えない。見つめられた「すでに裏切っているから。忠孝とかね、」その視線は何ものをも見ないまま「そんなのはごまかしだよ。」凝視した。自分の死を? その「陛下は国民を代表している。」接近を? いま、「代表させている。」それははっきりと「代表させられている。」日向の腹に触れていた。「代表って言葉を象徴って言葉に代えてもいい。同じことだ。その時点で、既に、俺たちは陛下を裏切っている。裏切られながらも、その裏切りを陛下が受け入れられている時点で、俺たちは陛下に裏切られ、裏切らさせられ、そして見捨てられている。政治のための政治なんて愚劣だ。何のための政治だ? 見苦しい生き残りの方策会議に過ぎない。それが政治の実態だ。政治的な行動じゃない。政治をよくするための行動じゃない。政治を破壊するための行動だよ。国会議事堂に火を放つ。政治の象徴たるあの伏魔殿をね。主要政治家に太刀をくれる。一人一殺だよ。だれもなにがおこったのかわからないだろう。だれもその意味なんか判らなくていい。陛下でさえも。犬死でいい。政治的行動じゃない。純粋に、倫理的行動だ。倫理は政治には姦されない。穢されてはならない。」腹を横に切り裂いた後、無理矢理引き出された短刀に映える鮮血の、透明極まるまでの美しさ。滴り落ちる、その、そして、はらわたはこぼれそうになるが、虚空での、刃先の停滞。痙攣する腕がそれを震わせる。もはや、刃先が震えていたのか、腕が震えていたのか? それさえももう、長い停滞。介錯は未だ無い。一樹は背後から、日向を見つめていた。まだ。息を吸い込もうとした日向の唇が開かれかけた瞬間に、はらわたがこぼれ、突き刺す。ふたたびその腹部は突き刺されていた。最早、痙攣する刃先は何ものをもきりはしない。かき乱し、無差別に体内を傷つけ果てなら、ゆっくりと下ろされていくだけだ。でたらめに内臓を破壊しながら。介錯の刃が振りおろされたとき、骨をうがって、日向を体ごとなぎ倒しかかる。何か言おうとし乍ら、日向が首に突き刺さったままの刃物に触れようとした瞬間に、彼は死んでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

こんなものなの? もとめたのは?

ほしかったものは? こんなもの? こんな? みいだしたかったもの。

たどりつきたかったのは? こんなもの? こんな? この?

これ? 病院から出てくる理沙を待つ。新宿の真ん中の。巨大な、古びた施設。何名もの死にかけのものたち。快癒しかけたものたち。死んだもの。痛めつけられたもの。へし折られたもの。これから切り刻まれるもの。収容されたそれらの集積。そこで求められたもの。生存すること。生き残ること。スマホが鳴って、どこ? わたしは伝えた。彼女を待っている喫茶店の場所を。眼差し。疲れたそぶりはどこにも無く、悲しげなそぶりも、うれしそうな笑顔も。その表情に、理沙はすでに知ってる。何を? 何かを。どうだった? わたしは言い、唇を一度尖らせたあと、できた。理沙が言ったとき、わたしは声を立てて笑った。ふしぎじゃん?「なんで?」お前が、「なんで笑うの?」理沙は言っていた。妊娠するなんてさ。抗議するように。「もう、わかってたけどね。予測、」髪をかき上げ、「ついてたからさ。」そう。パパになる、と思った。よかったじゃん。わたしはわたしの声を聞いて、その、その言葉に対する違和感は何なのか? これは? やっと、安心した気がした。父親になれることによって。理沙はわたしに見つめられた。なんなのか?これは。「どうするの?」なに?「はるか」あー。

あの。そう。あの子。ん。

ね。ん?ねぇ、

どうしよっか?笑って、わたしは見つめたのだった。その瞳を。理沙の。笑い、震えるそれ。潤って。愛してる?

なにを? 俺。俺のこと。お前?ん?

うん。ね。男の子かな?

え? 女? かな。って、さ。あいしてる? ん。

そっか。んー。

そ。な。ん。んん? ね。こんなものなの?

わたしたちは話し合う。こんなものなの? 週末の計画。木村の馬鹿さ加減。久雄のくさい体臭。おやじくさい。しんだほうがいいよ、あいつ。クリスマス。何ヵ月後だよ。嫌いなんだよ、ハロウィンは。もはやブルー。タクシーを降り、渋谷。東急の映画館の下の喫茶店が好きだった。お茶しようよ? オッケー。また? いいじゃん。気付き始めたもの。理沙がしようとしていること。制御できないそれを、わたしは圧しとどめることはできた。どうにかして。乞い願って? 殴りつけて? どうにかして。夏の終わりかけた斜めの日差し。どうにか。すでに、理沙自身には、決定された未来だと錯覚されていたにしても。喫茶店を出て道玄坂を降りる。並木道。街路樹。日差し。木漏れ日。空は確か、青かった。晴れていたはずだから。珍しく、理沙が駅に入ろうとする。適当に切符を買って。わたしはそれに従う。既に、何をしようとしたのか、わたしは知っていたはずだった。はるかは何も知らないで眠った。いつかの明け方に。理沙のマンションの中に住み込みながら絵を描いて、それらの水彩画の。

アプリケーションソフトの営業に回りながら。何のコンピューター言語も知らないままに。言語? それら、彼女が知らない言語で構築されたシステムを、はるかは使って、わたしたちは会話した。朝から晩まで。アプリケーションが描き出した日本語のフォントを読解し、日本語はフォントとして書き付けられながら。わたしたちは言葉にまみれた。理沙が身をまげて、そのとき、朝はまだ来なかった。窓越しに光がかすかにさしはじめて、さっき、カーテンは理沙によって開かれたまま、「寝てる」鼻先に近付けられた理沙の皮膚がはるかの呼吸を認識する。みぎ頬の皮膚が。「完全に寝てるよ」笑って、はるかは家出同然だった。両親は疑っていた。理沙との関係を。もっとも、疑いは正解に過ぎなかったが。理沙の性別を認識していなかった両親にとって、娘の行動は単なる不可解で非常識的で病的な惑溺に過ぎなかった。会ったばかりの頃、一樹がわたしたちに公表した行動計画は、わたしたちを笑わせた。哄笑、嘲笑、それらを含んで、純粋に、わたしは一樹を賞賛した。「いいじゃん。」おもしろいじゃない、久雄が言った。やってみれば? クーデター計画。組の事務所の中で、声を立てて笑いさえし乍ら。一樹が本気だということはわたしも知っていたが、なんで? いつだったか、言ったわたしに、「なんで、そんな、右翼とかやってんの?」理由? 一樹が言ったのは、新宿の喫茶店の中だった。風林会館の一階の。クーラーが音を立て、水槽の中の金魚が泳ぐ。その向こうに、目が合った店員がわたしに笑いかけた。「どうでもいいんだよ。理由なんて」はるかはまた、絵を描いているに違いなかった。「理由なんて追いつけないくらいの、行動のスピードが欲しい」あの部屋の中で「その速度が」あ、とはるかが言って、目を開けたのを、あれ、理沙は「起きてたの? お前?」見咎める。嘘をつかれていたことにあらためて気付いた表情で。「起きてた?」いま、身を起こしかけたはるかが「宇宙意識が通った。いま。」耳元でささやき、理沙の体の半身を、開け始めた朝日が薄く描きだす。くらい、室内の空間の中で。さわってったよ。いま。やばっ。意識体が。茫然とした表情のまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日向の死体の発見には三日か四日間ほどかかったらしかった。警察の尋問を一樹が受けたのはその一週間近くあとだったから。遺体はビルの屋上に捨ておかれたままだった。だれも、その後の遺体の始末など、考え付かないことだったから。結婚したばかりの日向の妻は妊娠していた。多恵子という名の、その女が一樹に会いに来たとき、根掘り葉掘り聞いたと言った。何をやっていたんですか? あなたたちの会って、何を? 誰かに恨みをかうようなことでもしていたのか? 刑法に抵触するようなことはあったのか? 会の実態は何か? 彼らは、ただ、身体を鍛えていただけだった。自衛隊に体験入隊しさえして。自衛官が言った。本気で、隊に入ればいいんですよ。真似事じゃなくて。本当に入って、本当の自衛防衛の最前線でね、お互いに、切磋琢磨できれば。日向は感謝の意を伝えながら、わたしたちは、彼が、彼らを軽蔑さえしていたのを知っていた。家畜だよ。彼らは。日向は言った。軍隊ってのはさ、いつも家畜だ。政体の家畜だよ。はるかがわたしに目配せする。部屋の中で、もう朝は空けていた。美樹矢(みきや)の店でシャンパンを開けて、理沙が酔いつぶれた、その朝だった。理沙は眠り始めたばかりだった。わたしは床の上に寝転がって、「なんで?なんで、」背中にフローリングの「そんなとこで寝るの?」硬い触感がある。なんか、熱いじゃん。夏だった。だってさ。

ばか? いいけど。ベッドの中。理沙は笑って、ややあって、その笑い声の記憶が風化しないうちに、すでに彼女は寝ていた。わたしに聞き取られた理沙の寝息。未だに眠りつく前に、わたしは既に寝ていたようなものだった、そのまどろみの中に、わたしは知っていた。伺うように、いつか目を覚ましていたはるかは、彼女は目覚めていた。目を閉じたまま。わたしたちが酔いつぶれたままに、部屋に入って行った瞬間には。転がり込むようにして。眠れなかったのかも知れない。一人で理沙の部屋にいることの、取り残された嫉妬と、寂しさと、そして目覚めたまま、意識して寝たふりをしたわけでもなくて、はるかは目だけを閉じる。聞き耳を立てたわけでもなく。何してるの? 理沙が言った。お前、何してんの? 眠りに落ちる前に、寝るんだよ。フローリングの温度、そしてそこで? こっちこいよ。立てられ続けたクーラーのかすかな騒音は、はるかいんじゃん。誰にも聞き取られているわけではなかった。いいじゃん。ベッドの上、はるかの横に、さ、ね? こいよ。理沙が音も立てずに滑り込んで、いいよ。な。理沙はあくびをする。眠っている理沙の上に身を屈めてはるかは彼女を見ていた。わたしはそれに気付き乍ら、なにやってんの? 沈黙の時間の停滞の中で、わたしとはるかは聞いたに違いない。わたしたちの、三つの、重なり合わない呼吸の音響を。それらが空間の低いところにまどろんで、すぐに消え去っていくのに注意さえされないまま、「寝てる?」はるかが言った。わたしが寝ていないことに気付いていたはるかは、見向きもせずに、「理沙ちゃんって、寝てる?」覆いかぶさって見つめらながら、理沙はただ息遣うだけだったが、そのかすかに開かれた唇を、わたしは見なかった。そらされた眼はフローリングの咬み合わないピッチを数えた。「起きてるの?」ん? そのはるかの声を、「いつから?」無視したわたしの問いかけは無視されて、なんかさ言う。「なに?」なんかさ、はるかは言った。すき。悲しくて仕方がないんだと、自分に対してだけ精一杯表現しているはるかの眼差しを、わたしは見なかった。うつむいたその背中を見つめ、胡坐をかいて座ったままに、組まれた足がフローリングの触感を、なんでさ、「なんで、理沙じゃなきゃ駄目なんだろ?」理沙じゃさ、ないとさ、「なんかさ」わかんないんだよね。なんでか。理沙がいないと、「なんで?て。」でもさ、でもでもでも。「じゃない?」どこがいいのかよく「たっぱ、理沙なのかなって」わかんないんだけど、やっぱ、「理沙なのかな?って」なに、え? と、わたしの、「何言ってんの?」声に初めて振り返って、「どう思う?」

「なに?」

「幸せになれるかな?」

「なにが?」

「うちら」

「いつ?」

「どう思う?」

「いまは?」はるかの調った、作り物じみた顔は、「いま、おまえは、」整形の産物ではなかった。会社でも「どうなんだよ。お前、」彼女に反感を持った女たちは、その整形をわざと確定事実として噂したが、「幸せなの?」幸せって、なに?、と、こどものころは気持ち悪がられたと言った。あまりにもはっきりした顔立ちだったから。なに? はるかが言った。やばい。なに? どうしたの? やばい。まじなにがだよ。ささやき、小さく、笑い声が、それらの聞き取れないほどの音響は、殺しちゃいそう。なんか。何を? だれを? ほんと、やばい。切なくて。何が? 死んじゃうかも。木村の着服を風間に密告したのはわたしだったが、風間自身、そんな事は既に気付いていたにも拘らず、いつ?いつ死んじゃうんだよ。なにも答えないまま、はるかは、本当なの? わたしをはがいじめにして風間は店の事務所に連れ込んだ。まるで、木村の《犯罪》を初めて知ったかのように、いつか。わかんないけどさ。このまま、さ、「全部教えろよ。」その、自白を強制するかのような風間の声を聞きながら、わたしは木村を、切な過ぎるから。だって。なんか。さ。失脚させようとしたのではなかった。すでに失脚しているようなものだった。風間たちの、使い勝手のいい、いつ裏切るかも知れないペットに過ぎない木村は、なぜ? わたしにはそれがわからないままに、わたしを昇進させようとした風間との会話に中に、なぜ? わたしの唐突としたあらいざらいの暴露は、「全部、綺麗に言ってくれよ。」風間が、上目遣いにわたしを見つめ続け、なんで? なぜ、そんなに、自分に対してまで見事な嘘をつけるのか? もう知っているくせに。すべて。なにもかも。自分も、誰もが、風間のそれらの反応のすべてが完璧に嘘に過ぎないことさえ、とっくに知っているのに、見事に綺麗な嘘をつく。指を切れ、と、久雄が言った。風間ちゃんが言ってるからな。指とっといてくれって。久雄は悲しげに哀れんだ、弱者に過ぎない人間への耐えられない同情に駆られた眼差しのうちに木村を捉え、やくざたち。彼らが力を持っていることを、同情的な眼差しのうちに、彼らへのやさしさとして認めてあげた人たちの中でしか、もはや力を持てない滅びかけの人種たち。いくら滅びかけても、滅びきることの無い人たち。社会的底辺というものの、常に滅びかけの永遠。まじっすか? 木村の怯えた目が、そして、うなずく久雄から、わたしは目を逸らした。木村は気づいていたはずだ。わたしがここにいることの意味を。無関係なはずのわたしが、無関係ではないことの意味を。本職じゃないんすよ。俺。ふつう、なくないすか? そんなん、犯罪すよ。泣き出しそうな目を、わたしは直視した。しかたないやろ。おまえも犯罪者やんか。声を立てて笑う。久雄。誰からの尊敬も受けない、末端のやくざ。社会の哀れむべき底辺の、末端の末端における、吹き溜まりの人間くずにして、小さな権力者。いま、ここで、彼が求めたことは絶対なのだった。嘘だろ? わたしは思った。風間が指を求めた? それは久雄の嘘に違いない。坊主頭の、脳みその半分が損傷して腐ってしまっていたか、先天的に単なる馬鹿であるかに違いない差崎という名のやくざが、病的に痩せた長身をへし折るようにして、意味のわからないまま周囲に媚を売り散らしていた。差崎が薄い笑顔で、盆の上に白布と短刀を用意した。部厚い木のテーブル。かんべんしてくださいよ。まじで、木村の声を、犯罪っすよ。聞く。わたしたちは。そして木村に、いま、逃げるすべはなく、久雄は彼を見つめ、差崎は木村にまで媚を売った。病みきった媚。人間のくずたち。わたしは? わたしもくずに違いなく、理沙も。会社の金、身銭、借財、正当な、不当な、いずれにせよ獲得された金銭を、単に彼女の綺麗な色気づいた嘘はかき集めて、濫費され、どこかに消えて行く。クズの中のクズ。誰もがその美しさに嫉妬する、クズの中のクズ。掃き溜めの中の汚物の女王。「客にやられたことあんの。薬のまされて。なんかさ、」木村はややあって、短刀を取るが、「錠剤? わかんないけど。頭ん中、なんか、壊れて。」それは久雄と差崎に散々煽られた末だった。短刀を握ったその「意識あったけど。ホテル連れ込まれてさ。やられてんの。俺。ばかじゃね?」手は震えはしなかったが、思い切るのに、さらに「やりたかったら、やらせてやるよ。でもさ、そういうの、」長い時間を要した。一時間以上の、まじめ腐った顔をした嗜虐的な停滞した時間が「やっていいよって言ったらさ、勃たなかったりして。そういうの、」暇なの? お前ら? ひま? 笑ってしまえば。すべて「欲しくないんですみたいな? 何かの社長。」笑ってしまえばいいのに。突きつけられた「ベンチャーかなんかじゃん? まだ若いからさ。」暴力的なまでに正しい倫理の顕現として「ホストみたいなの。見た目。ばかじゃね? って。」抜かれたままの短刀は、見つめられ、目を逸らされ、それらの長い、やがて振り下ろされた短刀は木村の骨に触れただけで、切断できないままに。歯を食いしばって、木村は何も言えない。それは、許してください、と、もうなんども、その言葉の無数のヴァリエーションをわめき散らした後だったが、停滞したままの腕はそれ以上何もできずに、痛み。感じられた。木村の指の痛みが。刃物に食い込まれた指先は微動だにしない。すこしの動きが、いま、すべてを破綻させてしまう危機感に怯えていたように。一樹の視線が、人間の底辺のくずの指先を、じっと見つめた。無表情なままに。なめんなよ。ふいに、「水商売の人間、なめんなよ」木村が叫んで、刃物を握った右腕に力がこめられたが、何も動かない。それは停止したまま、なにも更には傷つけることなく、みたか!、と木村はさけんだ。眼は血走った。久雄が声を立てて笑った。もういいよ。手当てしたげて。差崎が包帯を用意しながら、幼稚園児をあやすように、よくやったねぇ、えらいじゃんか、えらいじゃんか、それらを繰り返す。木村が高揚した笑みだけを漏らしていた。極端に高揚しすぎて、もはや無表情でしかなくなった、その。たまにね、と、はるかは時に、言った。差崎はなぜ、あんなにも陽気なのか?宇宙意識がふれるの。何もかも、この世界に悲しみなど、ぽんッて。何も、まじ。ぽんッて、ね。触れんの。存在したことさえないとばかりに。えらいじゃんか。すごいねぇ「あたまおかしいの?」声を立てて笑う理沙にわざと抗議のこぶしを振りかざして、はるかが、きれいだよ「えー、でも。ほんとは、」すっごいきれいで、なんか、なんにも「理沙もわかってるんだって。」みえないんだけど、あるじゃん?「だって前さ。高校ん時、ね。だよね?って、」気配が見える感じ? まじ「だよねって。言うの。理沙。」きれい。まじ「わかってんだって。」やばっ、「あーって。ね?」じゃん?「この子わかってんだぁって。」でもさ。思うんだ。救われてないんだなって。みんな、結局。はるかはいつも舌をかむように話した。思考の速度に、みんな、感じないわけじゃん? 見ようとしないじゃん? 口が追いつかないかのように早口に話しながら、常に繰り返される同じ話は、結局、ふれようとしないじゃん? 知らないだけなんじゃん? みんな。やっぱ、まだ、さ。みんな、話し半ばに聞き取ろうとする努力を放棄され、さ、わたしたちは、救われてないんだなって、なんか、すごい、さ、悲しいんだよね。いっつも。いーっも、聞きはしなかったのだった。だれも。はるかの話などをは。にも拘らず、ふっと、かなしくなんの。めっちゃ。悲しくって、だってさ、救われてないじゃん? みんな。わたしもさ。ね? 結局、そこから生まれてきたんだし、そこが、なに? ほんとのわたしたちのさ、本当なんだけど、けど、救われないわけじゃん? わたしも。結局は。かなしいよね。でも、素敵なんだよねって。そう思うの。素敵な。みんな。救われてないけど。ぜんぶ。素敵だったの。ほんとは。「あいつらさ、みんな、」木村が言った。ほんとに。「ぶっ殺すからさ。俺。」久雄の事務所を出た後で、風林会館の喫茶店に入ったわたしたちは、「まじで。あいつらさ頭おかしいでしょ。」見る。わたしは、彼の指の「第一。まじで、」大袈裟な包帯を、いずれにしても「やっていいことと悪いこと無い?」木村はそれから、一回家に帰ってくると言ったきり、行方をくらましてしまうのだが、風間たちに、不都合のすべては木村のせいにして処理されていった。一週間もたたないうちに、木村は驚くほどいびつな詐欺師になりおおせていた。周囲からの罵詈雑言にちかい誹謗中傷と共に。それらが所詮無意味な戯れの戯言に過ぎなかったにしても。「お前、どう思う?」木村は言ったものだった。お前どう思う? あいつら。「馬鹿でしょ? じゃない?」一樹とか、久雄さんとか、「て、思わない? やばいよ。」本気でお前、「あそこらへんはさ。」あんなやつらと付き合ってんの? 本気って、何ですか? わたしは言った。「ああいうのはさ、まあ、いいんだけどさ」行方不明になって、新しく発覚したのは店の中で手をつけた女たちの数だった。公然の関係だった二人のほかに、あと四人の女が、彼に手を付けられていた。そのうち二人は、彼といっしょにどこかへ行ってしまった。久雄が、こんどどっかの街に現れたら、まじで未来ないからな、あいつ。そう笑い乍ら言ったが、それが本気であるはずも無かった。一年半後、池袋に現れた木村と、久雄はつるんで夜の街を徘徊していたのだから。俺がちょっと、あいつに店持たせてやろうかと思うんだよ。久雄は言い、金策に走ったようだったが、久雄ではまとまった金など作れなかった。所詮は、盛り場の飲食店で、一晩いくらの金をばら撒く以上の金銭など獲得できる男ではなかった。理沙とわたしが交際している事実を、茜祢(あかね)によって暴露されたとき、たしかに、それはすでにインターネットの掲示板で、少し前からアップされ続けていた公然の事実ではあった。茜祢が酔った降りをして、理沙の客に告げ口したのだった。いーよね。いつも更衣室でラブラブしてるもんね。逆上した客は、もう若くは無いアパレル会社の社長だったが、木村に土下座を迫ったものだった。沢村光輝と言う名の、彼は、わたしたちの無能と不義理をののしり、わたしを人間のくずだと名指しし、そして理沙をなじることだけは、彼にはできなかった。理沙の嘘まみれの薄汚さをののしろうとした彼の口吻は、結局は、わたしと木村の低脳な無能さの批判に終始するしかなかった。あの子がかわいそうだろう、と。あの子のつらさ、わかってやれよ。お前らなんかに騙されて。いいようにされて。何を言っていて、何を怒っているのか、もはや、自分でもわからなくなっていた。絶望のふちに陥ったことを、むしろ目を背けることでやり過ごそうとするかのように、言葉が言葉を生み、とめどなく彼はしゃべり続けた。店の前の道路の電柱の横で、わたしは土下座させられ、時に頭の上から彼のののしり声を浴びながら、木村はいらだつでもあきれ果てるでもなく、ただ、彼は飽きていた。なんども相槌を打って、沢村に同意し続け乍ら。二度と手、出すなよ。更衣室と、事務室を兼ねた部屋のドアを開けた瞬間、早口にささやいたその声が言い終わられないうちに、木村はわたしをソファーセットになげつけて、その音響。一瞬遅れて、そして痛み。テーブルや、ソファーをたたき散らしたわたしの身体が、うめいて、背骨の痛みは全身の皮膚の下につめたい汗をかかせた。悲鳴が立った。理沙もいた。更衣室から、いくつもの女たちの顔がのぞき、とりなすように駆け寄ったりもし、誰かに電話をかけたりも、ささやきあったりもし、それらの、無数の行為の集合。無数のかさなった話し声の。「なめてんの?」うずくまったままのわたしを覗き込んで、引っつかまれた髪の毛が引き上げられたが、木村だって知っていた。すでに。木村に理沙とわたしとの関係を密告したのは、そもそもが理沙自身だった。キャバクラの中で誰かに手を出していない男は、誰からも男として見られない、無能なその他大勢にすぎなかった。あー、俺さ。理沙を抱いた、あるいは理沙に抱かれた? その次の日に、理沙は言った。出勤して、「男、できたから」木村と顔を合わせた瞬間に、「まじ? だれ?」かわいいじゃん、今日も。ねぇ「潤。」あんたばか? あきすけな告白。「まじなの? 食っちゃったの?」理沙は声を立てて笑った。「なめてんの?」木村が耳元で言うのをわたしは聞き、すみません、というしかないままに、理沙は更衣室の向こうから他人のように見つめ、何も手はださなかった。怒り狂った木村は、「まじ、なめてんだろ?」知ってますよね? あなただって。その木村の怒り狂った表情を、てか、だれだって。じょうだんみたいなものでしたよね? だれもが。たしか? じょうだんにしてましたよね? 知ってる? あの日、木村は言った。すぐさま、傍らの愛に、「潤ちゃん食われたよ。ついに。理沙に」笑い声が立って、童貞卒業おめでとー。囃し立てる声の向こうに、濃い桜色の壁には無数の花の装飾。だから? だから木村を裏切ったのだろうか? わたしは? 誰もが、知っている事実を密告することによって? 留めに入った従業員の男たち。二人の。留めに入るふりをし乍ら、むしろあおり、囃し立てる女たち。わたしは楽しまれていた。音響、喚声。理沙が何も言わないまま更衣室を出て行く。ふいに、アフター。平田さんと。振り返って言った。見上げた木村は言った。ごめんな。

いいよ。りさが答えるのをわたしは聞く。抵抗しないままに、結局、唇が切れる程度には殴られたのだった。脆弱な、やわらかい、く、ち、び、る、その組織、少しの暴力で、暴力をむしろ自己破壊によって拒絶しようとしたかのように、簡単に壊れてしまうやわらかな部分。「やられた?」部屋に帰ってきた理沙が言った。やられた。わたしは理沙の部屋に住んでいた。

めっちゃ?

かなり。「ね。」ん?

やばいね。

だね、「あー、」

けどさ。んん。「ん?」

なに?

よかったのにやっちゃえば、

「良かったのに?」ん。なんで?

やんなかったの?

あー、ね。

なんで?

てか、さ。

こわかった?「あ、」さからえない?「ん」まもりたかった?

なにを?

おれを。ね?

なにいってんの?

わらっちゃうよね。まじ。そ、

守りたいでしょ。

なにを?

女。じゃん?自分の女、じゃん。自分の、てさ、守りたいでしょ。やっぱ。だから、やられたんでしょ? 違う? わたしを見つめながら、「わかるよ」理沙が言う「俺もそうだもん」声を、わたしと理沙は、「やっぱ」聞く。すれすれの距離に、耳元の、その聴覚のうちに、それらの声を。「守ってやりたいじゃん。自分の女って」美しい女。単なる、幼稚な男の子。くそガキ。夢見るほどに美しい、時に扇情的な女。軽蔑を湛えた、舌っ足らずなほどに幼稚な感性の男。理沙。初めて彼女が素肌を曝したときに、わたしは見とれたものだった。

あるいは、誰もが。彼女を抱いた、わたしたちの誰もが。褐色の滑らかな肌。タトゥー。乳房の、乳首の周辺に輪を描いた花と蝶。星のかたちをなぞるように、乳首をくまどった、そして、腰から腹部にかけて駆け上がる曲線を描いた、抱きしめた二本の腕のような、タトゥー。その、翼をかたちどった、野蛮な蝶と花。あざやかな色彩は、肌の色に埋もれて、やわらかく、くすむ。太ももを巻いて描かれた、花を散らされた茎と葉、散る花々。黒い隈取と乱れた色彩。左腕の龍のタトゥー。しなやかな身体。初めて会った瞬間、彼女の性別を意識しないままわたしが彼女を愛して仕舞った瞬間に、彼女は不意に、沸き起こった越境の可能性に戸惑った。同性愛? そうではなくて。バイセクシャル。それは、決断を必要とする。その境界線を、いま、越境するかどうか? 性別はともかくも、男しか愛さないもの、女しか愛さないものの、それらいわば《ストレート》の性愛者にとって、愛に触れることは、直接、愛情そのものが彼に、彼女に、じかにふれて、彼は彼女は、ついに、すでにその対象を愛していたのだ。あくまでも、自然に。だが、バイセクシャルにとって、その瞬間は突きつけられた刃の存在を意味する。刃に触れる。決断を迫られ、決断を迫る。転がり落ちることを許可するか、あるいは踏みとどまるのか? 生まれつきの、あるいは性別としてのバイセクシャルなど存在しない。それはいつでも後天的な決断の産物に過ぎない。馴れ合う女たちや、男たちの友情ごっこに撒き散らされた、同性愛の可能性の上に常にだれもが生きていながら、あえて決断を下したものしか、その風景には触れない。おなべのバイセクシュアル。男でしかいられない女の身体が下したバイセクシュアリティ。理沙は決断したに違いなかった。いつかはしらない。わたしが愛したのは誰だったのか? そのあまりにも美しい身体の、その女性を愛したのか、或いは、彼女のしぐさ、まなざし、言葉、それらのすべてが暗示した彼女の隠された、あけすけに明示されていた性別を愛したのか? 理沙。彼女はどこにいたのか? その身体の中で、身体の行為として、わたしにふれたそれらのしぐさ、まなざし、言葉の群れ、それらの点在。彼女はどこにいたのか? 愛する。何を? 愛する。いつ? 愛した。どこで?

なにを? 初めて会った日の営業終了後に、理沙が言った。更衣室を出て、店のソファーの上に胡坐をかいてスマホを散々いじった挙句に、酔っ払っちゃったからさ、

何? 木村が振り向く。一杯のアルコールも口にしていないくせに。潤ちゃん、借りていい?なんで? 木村の何か企んだような笑い声。いつも、木村は「送らせるから。潤ちゃんに。俺を」そんな笑い方をした。何のたくらみも無いときでさえ。「いいよ。」だれもが気付いていた。理沙のたくらみには。だれもが、わたしさえも。行為が終わったあとに、そのぎこちない行為の意味、なれない、ぎこちなさ。吐き気がするほどの欲望にまみれながら。ぎくしゃくした、理沙の。言った。「俺さ、」耳元で、おなべなの。笑う。声を立てて、もはや、自分自身をすら哄笑するような、理不尽な、軽蔑的な笑い声。わかる? わかんないよ。「わかってよ。」ねぇ、理沙が言った。わかってよ。唇に触れる。指先は。わたしの、その。言葉を、わかった? なぞるように、わかる。

「わかるよ。」ばか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

打ち消す、理沙の、わかるわけ無いじゃん。アルト、鼻にかかった、「うそつかないで」声。すき? なんで? ね。すき? すき。だれを? おまえおまえを。だれ? だれ?、それ。だれ?



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