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第4章 教会の罪

 前回の、

 

 (1)非人間的な人間の捏造

 (2)罪を封印した教会の罪

 

 に続いて、今回は、

 

 (3)イエスの神格化

 (4)異端の撲滅

 

 をお送りします。


(3)イエスの神格化

神格化の犠牲者であるイエス

 

 すべてはキリスト教会による「イエスの神格化」に原因があったように思われる。強引な「イエスの神格化」によって、多くの歪みや矛盾が、教義のなかに生じてしまったように思われるのだ。


 では、何のためにイエスは神格化されたのか。


 たしかに宗教の教祖ともなれば、それは一つの宿命ではあったろう。


 ギリシアの神々は、大昔の、優れた「普通の人間」だったかもしれないし、日本の八百万の神々は、かなり高い確率でそうだったろうと思われる。最近ですら、明治天皇や乃木希典は神として祀られているが、彼らがもともと人間であったことは周知の事実である。


 仏陀も生誕についての神話化(天上天下唯我独尊など)を逃れられなかったし、ローマ皇帝や日本の天皇は、現人神へと高められた。エジプトの王にしてもそうである。また、いまの北朝鮮に目を向ければ、実に滑稽な「人間の神格化」の現場を見ることが出来るだろう。


 しかしイエスの場合は、単なる「素朴な神格化現象」では片付けられない、ある込み入った問題を孕んでいるように思われる。すなわちイエスの場合は、彼をして、


「もう二度と、この世に現れることがない偉人、神人」


 に仕立て上げるために、かの処女懐胎、処女降誕のような神話が付加されたように思われるのである。つまり教会が、


「キリストは一人きり。キリストの代理人は教会のみ。他のキリストはありえず」


 という「救いの権能の独占」の図式を築かんがために、それをしたということである。


 この図式を満たすことによって、教会はその権力を、唯一化、絶対化させることが出来る。そうしてキリスト教圏における、指導者としての特権を、独占享受することが出来るのである。

 

 


寛大な仏教

 

 仏教においては、決してそうではない。


 それを証する次の文章などは、私にとっては、衝撃的ですらあった。 

 

「仏教では釈迦如来以下数多くの仏の存在を説いている」。


 だから「浄土(=天国)はたくさんある、と経典に書かれている。星の数ほどではなく、仏の数ほど浄土はある」 瓜生中『仏教入門』より

 

 つまり仏教では、第二の如来(=仏陀)、第三の仏陀が現れても、一向に差支えないのだ。これは、キリスト教に焼き直せば、何人キリストが現れてもいいという事である。実に寛大で、実に理に叶った、実に平和な教えだと思う。

 

 


狭量なキリスト教

 

 翻ってキリスト教会を眺めてみると、そこでは、絶対にそんなことは語られない。いや、彼らは、それとは全く反対のことを言うのである。すなわち「イエスは神の一人子であり、キリストは一人きりである」と。


 教会は、あくまでも第二、第三のキリスト出現をブロックする立場につく。その意図を押し通すために、イエスを処女から降誕させたりもする。


 もしもイエスが、父母のセックスによって、普通に生まれてくるような人間だったら、第二、第三のキリストが生まれてくる可能性も、かなり高まってくるだろう。


 しかし、聖霊によって身ごもった処女から生まれてくる人間は、きっと現実には輩出されない。それによって、教会が望んだとおりに「第二、第三のキリスト出現」がブロックされるわけだ。


 多少ばかばかしい気もするが、そこまで懸命になってブロックしなければならないほど、教会にとって「第二、第三のキリストの出現」という事態は、耐えがたいことなのである。つまり、そんな強大な商売敵など、絶対にお呼びではない、と。


 であれば、イエスは一応人間ではあっても、その実、遠く人間離れしていてくれたほうが、教会にとっては、よほど都合がいいのである。


 そして、そうであるとすれば――見よ、ここには自己犠牲的な愛などは、欠片ほどもない。あるのは自己保存的な企みだけである。自分をかわいいとする気持ちだけである。保身、自己愛、力の独占――自己犠牲とは逆の方向を向いている心象ばかりが、ここには溢れている。


 芸術家イエスは、このような教会のあり方を見て、きっとそこに「醜」を感じることだろう。自己保存は、美を求める芸術家イエスが、最も嫌ったものだからである。


 そんなイエスが生きていたならば、彼は、かつて両替商を神殿から追い出したように、教会から、その構成員たちを追い出すに違いない。そう、その宮を「醜」から清めるために。

 


(4)異端の撲滅

耳ざわりな正論

 

 イエスを"実質的に"人間以外のものにして、人間世界から「第二、第三のキリスト出現」をブロックした教会のやり方は、当然のこと「異端者の撲滅」という暴挙にもつながっていく。


 それは異端の多くが「↑」という、キリスト教の正統派教会にとって、非常に都合の悪いベクトルを含んでいたからである。


 すなわち「↑」は、悟りによって、第二、第三のキリストを生み出す温床となるのだ(そもそも、この私、つまり「再臨のキリスト」だって、そのような中から生まれたのである)。だから、その温床が温床でしかない段階でもって、教会は、異端者たちの活動を封じた。


 いや、むしろ異端者と呼ばれた時点で、彼らの社会的活動は、すでに封殺されていたと言えるかもしれない。異端宣告や破門は、ヨーロッパの中世においては、ほとんど社会的な「死」であったからだ。


 また、べつに異端者たちの悟りが"キリストの域"に高まらなくとも、少なくとも、その「↑」には、多くの宗教的正論が含まれていた。だから、特権を貪ることによって腐敗化していた教会にとっては、その正論を聞くこと自体が、著しく耳ざわりだっただろう。


 巨大な権力機構と化した教会にとって、その正論は、耳元で飛んでいるハエの羽音にも似て聞こえたはずだ。これを黙らせなくては、とうてい落ち着いてなどいられない。その心情は容易に想像がつく。

 

 


異端者の撲滅という罪

 

 かくして異端者に対する鉄槌が振るわれ、多くの人々が、教会の暴力によって殺された。


 その中には、確かに死んではならない人たちがいたはずだ。すなわち、真摯なる「↑」の体現者たちのことである。彼らは、キリスト教が、真理の保持者(真の宗教)たりうるためには、どうしてもキリスト教の中に内在していなければならなかった人たちだ。


 宗教改革者であるルターは、キリスト教史上で初めて、堂々と生きながらえる事ができた異端者だった。


 しかし、彼以前には、数多くの異端者たちが、教会の暴力によって命を奪われたり、社会的生命を奪われたりしている。ウィクリフやフスがそうだし、また名もなきカタリ派信徒やヴァルド派信徒などがそうだった。


 神の目から見たら、それは明らかなる冤罪である。それだけに、さぞかし無念であっただろう。彼らのうめき声が、この耳に聞こえてくるようだ。


 ルターは、カトリック教会を「悪魔の巣窟であり、アンチ・キリストである」と非難したが、それは、かなりの純度でもって真実であった。


 彼らは、自分たちにとって都合の悪いものに対しては、きわめて狭量であるのに、自分たちの腐敗に対しては、恐ろしいほどに寛大なのだ。その姿には、まさに地獄の悪鬼たちを彷彿とさせるものがある。
 


既刊作品のご案内

 次回は、

 

 (5)性への蔑視

 (6)イエスの性

 

 を、お送りします。

 

 

 既刊作品の紹介をします。

 

 再臨のキリストによる第一福音書

 テロス第1

 

 

 

 福音書シリーズの第一巻です。本書『最後の審判』の序章は、この福音書のダイジェストですが、やはり本編には、本編ならではの、詳細さとドラマ性があります。ぜひ読んでみてください。

 というより、この福音書を読まないと、シリーズ全体の構造が見えてこないと思います。

 


奥付



【2018-05-11】最後の審判


http://p.booklog.jp/book/121873


著者 : 正道
著者プロフィール:http://p.booklog.jp/users/seidou1717/profile


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