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永遠、死、自由 Ⅰ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

永遠、死、自由  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

耳を澄ます。

ゆらぐような、その、そして、それ。

それら、ピアノと弦楽器の。

ピアノ、

響き。ピアニシモの、すき?彼女は言った。ささやくように、その、鼻にかかった音声を聞いた。

気配と。それ。

それ、ら。それらは希薄な親密さにあふれて、好きなんですね。ね?、すごく。モートン・フェルドマン。

 

振り向きもせずにわたしは笑う。同意なのか。たんなる笑みなのか。それは?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは?見上げれば頭上を覆った樹木の尽きた裂け目からの陽光が降り注き、そのとき、その逆光が視界をくらませた。龍笛が鳴った気がした。振り返ると、女が微笑んでいた。日差しの中にくすんだ女。幼い子どもを連れた母親らしい十代の。彼女の粗末な麻の衣類。山の音響。夥しい葉の群れが周辺の無数にこすれあった。枝さえも。束なり、弱音で鳴り響く。女は薄汚れてはいるが、さまざまな欲望の対象になりうるほどにはかろうじて美しい。こんな女がこんな奥地の山の中にいることに戸惑い、女のほうも戸惑っていることは知れた。

わたしは死んだことがない。生まれたときの記憶さえも。単に、忘れてしまったのに違いない。鮮明な記憶の保持期間などたかが知れている。鳥の声が疎らに空間を包んでいた。

老婆のものらしい低い女声のうめき声が、遠くに聞こえ続けているのは知っている。不意の遭遇におびえた女の、本音を隠そうとした、とってつけたような微笑を見やりながら、女は何か言ったが、その方言をわたしは解することができない。彼女はどう思ったのだろうか?わたしが何も言わずに彼女を捨て置いて立ち去っていくのを。安堵したのか、それとも落胆したのか?瞬間、彼女がかすかな屈辱にまみれたことさえ否定できないままに。老婆らしい、かすれた女性のうめき声がやまない。

 

穢死丸という呼び名は自分でつけたものではない。誰かがそう呼んだ。まばらに残存するさまざまな記憶があるには違いない。時を隔てたそれら。それらを系統立てることは最早出来ない。樹木の向こうに気配がし、それが穢死丸の気配だということには気付いていた。わたしは彼を探している。ずっと。物心ついたときからずっと。いつから?夏には違いない。蝉の声は膨大な連なりになって山の中、樹木の群れに占領された空間を押しつぶしていた。強烈で、ぶあつい温度が、これら樹木の狭間にすら襲い掛かっていた。不意に、穢死丸の刀は思わなかった方向から襲い掛かってきて、それを避けることはできない。

 

彼はまだ若い。

 

彼には、わたしの腕に深手を負わせることしか出来ない。痛みがわたしに悲鳴をあげさせる前に、振り向きざまのわたしの尺八が彼の頭をかち割るが、血が噴き出していた。頭部の再生には時間がかかる。噴出した自分の血にまみれ、知能を破綻させた穢死丸は、とはいえ、わたしの傷はもう癒えている。彼が何か言おうとしている。知性も記憶も何も失った、壊れたての頭部で。彼が再生する前に、わたしは逃げなければならなかった。

穢死丸の口と、まぶたと鼻の穴が開ききって、人体の穴を曝した。大量に失った血が遠ませたわたしの意識は白濁したまま、軽い立ちくらみの中に立ち尽くすほかないわたしの足元に、穢死丸の頭部は急激に再生しつづけていた。もう、彼は笑いさえできた。幼児のように。

その首を切り落とした。

殺さなければ為らない。わたしは、手遅れになる前に。すべてが。彼の手から奪い取った刀で、彼を。

 

ぶったぎる。噴き出す血をふたたび眺める。目を背けながら。わたしは知っていた。今、わたしの体は汗ばんでいて、息は荒れている。夏の暑さのせいばかりではない。穢死丸の切断された身体がそれぞれに再生していった。思ったより速いその速度に戸惑いを隠せないまま、わたしと彼との固体差に苛立ちさえ感じる。

当然だった。それは当然なのだった。固体である以上、固体差は必ず発生する。特異性、みじめで無慈悲な叫び声のようなもの。おれはおれに他ならないと叫ぶ、その。すべての固体がまみれていた。叫び声に。無残でさえある、そのおれは?わたしは今すぐに立ちさらなければならない。いくつもの固体で殺し合いが発生しなければならない事態の発生の前に。わたしは、遠み、かすむ意識のままに、そして間歇的な、目を覚ましたままの失神が何度もわたしを襲い、わたしは立ってはいたが、倒れ伏しているのと変わりはしない。

体が震えていた。細かな痙攣のように。

幼児程度の身体を再生した穢死丸の頭部が、ようやく意識を取り戻し、すさまじい速度でその体内の中に血が再生産されているのは知っている。苦痛と怒りに燃え上がった目が、なにかを見つめた。彼はわたしを殺すだろう。いまだはっきりしない、自分が感じている絶叫の六重奏のような苦痛の意味さえ理解できないはずの幼児以下の意識の中で、穢死丸がわたしの存在を見留めたのに気付いた。目を剥いた彼はいま、ふたたび認識され始めた身体再生の痛みにむせかえっている。あざやかで鮮明な痛みに。

 

 

逃げなければならない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小島正俊という名の男がいた。端整な顔立ちの、美しい男だった。彼の住居は狭いが、清楚で、居心地が良かった。まだ琉球国革命が成立する前の話だ。旧日本国領土地区はまだ日本国とよばれた政府の統治下にあった。その政府が投げるわずかばかりの研究助成金の少なさにに彼は文句ばかり言っていた。文化後進国ですよ。まったく。2029年。あなたの《生成領域》は、非常に興味深い、と小島は言いかけ、言いよどみ、いや、勘違いしないで。

「モルモット扱いしたいんじゃないですよ。あなたを。」わたしはふと、笑った。そして、彼はわたしのことを絶対に穢死丸とは呼ぼうとしなかった。それは、その、どうなんですかね?小島は言った。差別用語でしょう?だって。それは。たぶん。

ね?わたしは声を立てて笑い、あなたの好きにすればいいですよ。言う。代わりに彼はわたしをモートン、と呼んだ。ニックネームとして。それは彼が好きだった作曲家の名前に過ぎない。

微細な、と小島は言った。せんさい、な、

ね、

聞こえるでしょう?こまやかな音の連なりが、

ね。

それらが、驚くほど有機的につながっているのであって、と、微笑んで、彼は。こう、ね。なんていうんでしょう?この、ピアノ。ピアニッシモ。ピアニシシモの作曲家と呼ばれていますが、モートン・フェルドマンはわたしにとってワーグナー、ブルックナー以上の、雄弁な、大音響の作曲家なわけです。フェルドマン。小島の笑い声は、こすれるように喉に鳴る。「いまや、だれも省みませんが。」ね?モートン、笑う。フェルドマン。小島の自宅、清楚な住居。ブルーノ・マーカスのために。その、これ見よがしなほどの善人の妻と、自閉症の気のあるらしい一人息子。沈黙するために、眼差しに一枚だけ薄い幕を張って、なにかを守ろうとするような、息をひそめて凝視する十四歳の彼の眼差し。ご存知ですか?

彼のことを?

知っています。

ん。誰?だれ、を?わたしの答えは彼を驚かせた。モートン・フェルドマンね?少しだけ。

そう、珍しいですね。小島の鼻から不意に漏れた笑い声。いや、あまり一般的に有名な作曲家じゃないんで。「いや、」わたしが笑うのを、「いや、今、知ったんです。」小島は聞いた。「あなたに教わりました。だから、今、わたしは知っています。少しだけ。」自分の笑い声の向こうに、小島はわたしを見た。喉にこすれるような彼の笑い声。

 

《資料室》と彼が呼んだ狭い書斎の小さなスピーカーから、ケーブルがパソコンにつなげられている。旧型のJBLのスピーカー。ピアノと弦楽器の長いロングトーンが響く。空間に。白いクロスの貼られた壁。音は反響しない。小島は声を立てて笑い、それらが響く。耳は澄まされた。音響に、そして小島教授の、わたしは目を凝らす。その親愛なる笑顔に。忘れられないのは、90年代の終わりの、地上においてT.O.M.と呼ばれたあの空中都市が、Teardrop of the moon、月の涙。あの旧東京市街地区の瓦礫の上に墜落していく姿だった。旧渋谷地区の方だったかもしれない。遠くの空に、音も無く。

 

 

穢死丸の防護スーツを引き破って彼の素肌を大気にさらし、彼は気付いていた。そこに、今、やがて彼が本当に死んでしまうことの可能性が口を開いてしまったことを。放射能による、遺伝子破壊。その可能性。わたしはそれを、まるで夢の中の風景のように見た。振り向き見た視界の中で、それは堕ちていった。鉄の群れが泣き叫ぶような音を立てている気がした。Teardropの墜落。放射能に穢れた地上に。

逆光の中、いつでも黒く見えた巨大なそれの向こう側が、実際にはガラス張りビル群の輝く居住地区を持っていたことを、初めて知った。黒鉛の向こうの、その垣間見られた反射光。やがて「死ぬのかな?」内部で、クーデターが起こったのだという噂が立った。「おれ、死ぬ?」月からぶら下げられた空中都市。さまざまな噂。新興宗教の集団自殺だったとも、単純な浮遊維持システムの技術的な破綻だとも。「死ぬの、かな?」月から下がったそれの《ワイヤー》の破綻だったとも。本当のところは、たぶんだれも知らない。生き残りがいるという噂もない。「ねぇ。」誰も生きのこれはしない。「どう思う?」あの距離から燃え上がりながら墜落してしまえば。「おれ、死ぬの?」空のさなかで燃え尽き、地上に落ちたときに更に燃えあがり、遠くのその大音響のピアニッシモの残響。その後の数度の爆発ですべては焼き尽くされてしまった。そして、「死ぬよね?」残存したわずかな遺伝子の断片は放射能が焼きつくす。一度は不死でありえた生命体たちの完璧な死。「おれは。」胸元で二つに引き裂かれた苦痛にうめきながら、穢死丸が呟いているのは知っていた。音はしない。においも。たとえ、遺伝子がいましずかに燃え上がり始めていたとしても。

荒く息遣い、穢死丸はわたしを見ていた。

仰向けのまま、顔を血に穢して。重度放射線地帯のそこに、わたしたちの生き残りえる余地はないはずだった。2092年、確か春だった。雪が降った。夏でさえも。

 

 

土の上に突き刺さっていた矢を引き抜いて、穢死丸の目玉にそれを突き刺したときに、彼は何の声を立てない。

すぐ近くで戦争が行われているのを知っている。どこの国とどこの国かはわからない。ここが駿河であることしか、いま、わたしは知らない。そのとき、甲冑さえ着させられてはいない、貧しい、痩せた肉体そのままの兵士たちのいまだ死に切れない身体がまばらに散在し、それらがたてた微かなうめき声だけが耳をつく。わたしは涙を流している。

涙を。

 

ただ。

 

わたしは逃げなければならない。殺しすぎた。兵士たちの四肢には矢が突き刺さってへし折れている。彼らはたぶん助からない。軍が残していった彼らは、助けられない人体の集合に過ぎない。わたしは探し出し、殺さなければ成らない、穢死丸たちを。わたしと同じ、永遠に不死のあれらの生命体を。わたしが彼らに殺される前に。逃げなければならない。燃え上がっていた。城ではない。農村か何かの集落に火を放ったのか、単なる野火事なのか。山際のなんでもない土地がいま。悲鳴、怒号、喚声さえもが聞こえた気さえする。雨上がりの蛙の声の連なりしか聞こえない。そればかりではない、さまざまな、かすかな音響が連なっていることをも、わたしは知っていた。

足元に転がっている、わたしの切り落とされた右手が急激に再生を続けていた。時間がない。逃げなければならない。数えれば、自分のものだったそれを含めて、七つの穢死丸の躯体の残骸が、再生し始めていた。それは、わたしにとっては、恐ろしい惨状を意味した。わたしは混乱していた。体中が痛い。背骨を咬み砕かれるような、再生の、痛みの連鎖。そしてそれらのかさなりあう明滅。痛みが、わたしをただ涙させた。ひたすらに。あの火事が、ここまで焼き尽くしてくれたらいいのに、と。そう思った記憶がある。すべてのわたしたちの細胞を、と、わたしは、一片の灰さえ残さずに。思った。

 

すべて、焼き尽くしてくれさえすれば。

 

 

一本だけ残っていた左手が地を掻いて、わたしは仰向けに這った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

崩壊しかけた五つのビル郡が螺旋状にもたれあっていた。その周囲を広大な瓦礫の山が、地平線の向こうまで支配した。防護服を高層ビルの廃墟の先端で引き裂いたとき、死ねた、と思った。すぐに、あるいは、いつかは。汚染された暴力的な外気が皮膚を撫ぜるに任せて。大気を吸い込み、両手を広げた。

自由。

 

いま、それらは、瑞々しく澄んでいた。風があった。人気の絶えた都市の廃墟のてっぺんで。

剥きだしのゆがんだ無数の鉄筋がかたちづくった無言の抽象絵画。背後に近づいてくる穢死丸に微笑みかけた。振り向き見たわたしの視線の中で、穢死丸は歩みを止め、立ち尽くしていた。わたしの両足が震えていた。

いま。

 

飛び降りたわたしをどう思っただろう?穢死丸は?足の上に空の青さが、視界いっぱいに広がったあの一瞬。飛ぶ。空を?急速に堕ちながら、空はいま、舞い上がって、自らを突き抜けていくように、遠ざかっていく。ただ、急激に。真っ赤に飛び散った意識がふたたび取り戻されたときに、頭部と上半身以外の大半を飛びちらせたわたしの身体の断片の群れが、それぞれに再生し続けている光景に茫然とする。なぜ、放射能はわたしの遺伝子を焼き尽くさないのか、せめて、わずかに破綻さえもさせられないのか、それがわからなかった。人間たちはすでにほぼ死に絶えていたというのに。爆心地近くの北京に最早人影はない。もうすぐ、新しい千年期が始まろうとしているはずだ。

正確な日付は忘れた。

 

 

小島は、DNA機構の全体を《生成領域》と呼んでいた。コード領域に関しては一般的な人体に過ぎないわたしの、非コード領域における決定的な特殊性が、「あなたに、永遠を与えてるんですよ。」自分自身を教え諭すように、彼は言う。「まだ、すべてのシステムを読み尽くせたわけではありませんが」あなたは死ぬことができない。いや、例えば頭脳を失えば、「膨大な可能性があります、細胞の生成、ということに関しては」新しく再生された頭脳は今のあなたAとは別の頭脳ということなので、「読みつくされるということはありえないのかも知れない。とはいえ、」あなたBはべつの生命体であって、「わたしは追い求めてしまうんです。」あなたAは死んでしまった、という「その、読みつくされない」ことになるのかも知れません。「膨大な可能性の束の」これは、ちょっと、「完全読解を。」議論が必要でしょうね。いずれにしても、あなたの非コーディング領域の運用システムは、すばらしく革命的だと言えます。あなたはいつ生まれたかもご記憶がないので、正確なことは言えませんが、ヒトの進化は既に為されていた、ということに、わたしは驚きを隠し獲ません。「逃げたほうがいい」わたしは言ったが、いろんな話を聞きたいですね、あなたから。「穢死丸がわたしを見つけ出す前に、」あなたは長い長い人生を生きてこられた、どうか「わたしが穢死丸を見つけ出す前に」教えて欲しい、あなたが見てきた現実を。そのすべてを、あなたが「殺し合いが始まる前に」知っている「教授、あなたは」わたしたちの歴史のすべてを「拘わらないほうがいい」わたしの記憶している歴史などたかが百年以内のものに過ぎない。新鮮な数年分の記憶と、おぼろげな、たぶん回想されるたびに作り変えられてしまった記憶と言う名の創作物の記憶された断片にすぎない残骸の群れと。教授。あなたが好きだったモートン・フェルドマンを、いつの間にかわたしも気に入って、聞くようになった。

 

ピアノと、弦楽器の、ロングトーンのかすかなふれあい。それらが触れ合ってなどいないことは知っている。とはいえ、それらはある瞬間にふれあって、屈折したのだった。今、耳のなかで、現実的に。

 

もはや、こまかな光の加減のようなものとして。

 

わたしは耳を済ませる。それらの音を。その、それらの向こうに、穢死丸の気配を感じようとする。察知できたときにはもう遅い。彼らより先に察知し、殺してしまわなければならない。探さなければならない。

 

無抵抗な小島を穢死丸が銃殺してしまうのに、何のためらいもなかった。戦うには彼の住居は狭すぎたし、確かに、その穢死丸は強かった。固体差。小島の子どもが、流れ弾に当たって、荒い息をつきながら、死んで行こうとしているのにも気付いていた。痛い?思った。裕人、痛い?その妻は正気を失って、壁際で、目を見開いたまま、息遣っているだけだった。

失禁しながら。

 

すべては壊れてしまっていた。穢死丸の放った火は家屋をすべて焼き尽くす前に消し止められてしまった。向こうで人々の喚声と、サイレンの音が聞こえる。切り落とされたわたしの首から下は頭部の形態だけは再生し終わっていたが、未だに知能が伴わない。幼児程度の不自由な体躯をよじりながら、わたしは逃げだす。体中を、氾濫した痛みが発熱しながら駆けずり回る。穢死丸の放置していたガソリンを知能づく前の穢死丸にぶちまけて、火を放つことも忘れない。息を切らせ、わたしは、不器用にガソリンにまみれながら。

痛かった?再び燃え上がった火の手に喚声が上がり、裕人。ねぇ?不自由なわたしの四肢は何度も転びながら逃げる。

 

 

もうやめよう、と穢死丸が言うのにも、わたしは声をかさない。貴族の娘の屋敷の中に入り込んでいた穢死丸を探し出すのは容易だった。(モノ)が触れた男として評判だったのだから。

だれもが知っていた。普通ではない男が、いま、中納言に取り付いている、と。その、不死の人。

 

低い声で、ひそひそ声で人々に話される、大音響のささやき。いわく、蜥蜴の人。

それはたやすく耳に触れる。爬虫類の王。

しっぽどころか、首をはねても再生する。

 

庭で、櫓の荒れた炎の色彩と温度と燃え上がったその匂いとに彩られた庭で音曲が奏でられた。

舞い手が、一人で舞う。太鼓が打たれた。囃し声が立ち、庭に集った人々は、それを見ていた。笛が音を外した。その曲の名前くらいは知っている。油の火が消えそうに大気の動きの中に明滅し、だれもいない屋内で、女のほうは既に死んでいた。美しいとは言えないが、確かに色気はあった。公家好みの女だ。後ろから背中を刺し貫いた刀にふれようと、もがくたびに傷は広がり、血は噴出し、彼の、その苦痛がわたしの顔をゆがませる。あまりに鮮明に知覚された苦痛のために、麻痺状態にあるに違いない穢死丸自身よりもむしろ、わたしにとって、苦痛はよりあざやかだった。もう、やめよう、と彼が言っているのは知っている。うわごとのように。言葉にならないその音声の連なり。なにをかのぞむや?わたしは刀をそのままに、火を放つ。たださちをば。引き戸の連なりの向こうの庭で、林邑楽、蘭陵王の、龍笛の急激な音の連なりが乱れ、耳を打つ。篳篥と笙の交じり合った響きが空間を穿った。叩きつけられる太鼓が調子を鼓舞し、もはや騒音でしかない。舞人が駆ける。屋敷ごと燃え上がり、生きたまま、不死の身体はやきつくされる。家有者(いへならば)

 妹之手将纏む(いもがてまかむ)

 草枕(くさまくら)

 客迩臥有(たびにこやせる)

 此旅人珂怜(このたびとあはれ)いつだったか、惨殺された醜い不死の人の美しい魂を封印するために、人麻呂はそう歌った。海、見たことある?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「海、見たことある?」それは小島の息子だった。裕人。十四歳の、それほど性別感のまだない少年だった。彼の身体は発育不全をおこしていたのかもしれない。よく見ればやがてはすぐに彼が少年であることに気付く。ゆっくりと、あわされるピントのように。振り向き見て、「海?」

「おれ、まだ、ないんだよね。」聞く。その少年の声を。確かに埼玉県には海はない。

「見たことないの?」

「あるよ」

「どこで」

「テレビとか写真とか。海を見たことのない奴なんかいないでしょ」わたしは笑うしかなく、裕人も笑うしかない。笑った息遣いが、二つのまま重なるのをわたしが聞き取ったとき、それは既に空間の中で、消滅してしまっていた。「行く?」

「いつ?」

「いつがいい?」

「どこ?」どこの、海に行く?わたしがそう言って、ふと、人目を気にしながら彼を抱きしめてやったとき、小島の家の庭に、穢死丸が立っていたのに気付いた。追い詰められ、飢えた眼差しがある。壁一枚隔てた背後には、小島たち夫婦の気配がある。穢死丸がわたしに飢えている。

追い詰められきって。

壁の向こうで食事の準備が出来たに違いない。呼び声がする。ただならないわたしの気配に、裕人も何が起こっているのか、すでに気付いてしまったに違いない。悲しくないの?いつか、裕人が言った。悲しくない?

何が?殺せ。

穢死丸がその一歩を踏み出す前に、

何を?

 

何が?

 

ねぇ。

 

 

 

 

 

 

 

2018.11.18.

Seno-Lê Ma

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後記

これは、ノンコーディングDNA(ジャンクDNA)について調べていて、思いついた小説です。

および、進化論について。

すべての生命体は、何の必然性も無く、ひたすら生存のために、

その場しのぎの途方も無い進化を重ねて行ったのだとしたら、

それは途方も無い経験だったのだ、と想うのです。

そして、わたしたちも、その、途方も無い無根拠さに曝されて生きている。

つねにその無根拠な途方も無さを意識しているわけではありませんが。

例えば、決して死なないDNAを持った生命体がいたとしたら?

彼がヒトと関係しながら棲息していたら?と。

その、不死の男の物語のあいまに、二つの、《ヒト》の挿話が挿入されます。

これは、全体の序曲的な作品です。

時代を飛び交う断片が、響きあいながら構成します。

2018.05.15 Seno-Lê Ma

 

 

 


奥付

 

永遠、死、自由Ⅰ


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著者 : Seno Le Ma
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