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月の船、星の林に 1

 

月の船、星の林に

 

 

目を開いて、覗き込むようにして身をかがめたまま彼が勃起したそれを咥えこんだとき、その口の中で笑ったような吐息が立って、わたしのそれにかかったのを彼も知っている。上目越しに微笑んでわたしを見つめたまま彼は、そしてわたしは口蓋の粘膜の温度を感じていたが、彼の頭を抱くわけでもなく、優しく撫ぜた手のひらに、短く刈りつめられた髪の毛の触感がある。彼は感じているに違いなかった、口の中に、硬く、充血し、温度を放って、硬直した、その、そして彼の舌がその形態を確認するように這わされたのを、黒ずみ、赤らんだ先端の割れ目は彼の舌に触れられて、わたしが見やった部屋の隅には鉢植えの瀟洒な木が小さな白い花をつけていた。

 

 

緑の葉を茂らせたひざ程度の高さのてっぺんを、それらの花は埋め尽くすものの、まだ、その名前を知らない。仮に、それをたとえば白い沈黙と呼んでおくならば、白い沈黙は部屋の隅にたたずみ続け、やわらかい匂いさえ立てないまま、気持ちいい?窓花[まどか]という名の彼は、そう言った後、窓花は言ったものだった、「僕は、生まれる前の記憶があるの、ずっと前から、」彼はそう言い、「下に地球が見えんの。写真で見たまんまの、あれ。」やばくない?声を立てて笑ったが、彼自身にさえ、「僕は単なる光の塊りで、周りに、そんな光が疎らに、星みたいに」その理由などわからないに違いない。次の瞬間、「きらきらって」迷うことなくね?きらきらって、わたしのそれを再びくわえ、「いつ、誰の中に入るのかも、何のためにそうするのかも、すっごい、きれいなの。決めるのは全部自分。自分で信じられないくらい決めるの」わたしは彼の口の中の触感を感じるが、それを感じているのは、わたしの「自分の使命さえも、」その、「記憶が失われることは知ってる、過去世の。全部、何もかも、けど、」それのわずかな面積の出来事に過ぎないことは知っていた。「全部、忘れちゃったけど、生まれる前の記憶の断片だけ、今でも、」頬ずりするように、いちど離した唇をわたしのそれにふたたび押し付けて、信じられる?それは彼の美しい、女性的な顔立ちを大きく崩してさえいたのを、「今でも、覚えてる。それ以外は、全部、」わたしは知っている。彼がそう言ったのは、「忘れちゃった。」ほんの一時間も前のことだった。或いは、それ以内の。この十四歳の家出少年といまだ夜の浅い渋谷の交差点ですれ違ったときに、彼はわたしの腕を掴み、不意に、すれ違う無数の人ごみの中に、この、初めてみる美しい彼はそう言った。耳元で。わたしを抱きしめるようにしてさえ体を密着させ、耳元にささやかれたこれらの音声は、降りしきる雨の中にも拘らず、むしろ心地よく、人ごみの雑然とした中に、その雑音の群れの中で際立って耳に聞こえ、驚きを隠せないまま「そう、」と言うわたしの頬に、彼もその驚きを隠さない表情をさらしたままに、背伸びしてわたしの左頬に口付けると、彼に腕を組まれたまま、出会っちゃったね。わたしは道玄坂のわたしの借りているマンションに入り込む。微笑み、わたしは大学で、生体医療の研究をしていた。わたしを中心とする研究チームの中で、体外受精とヒトDNA書き換えの研究をし、日本で、それらの誰かに頼まれたわけでもない仕事に追われ、膨大なマウスのデータばかりが蓄積されていく。彼が身を滑り込ませるようにして入り込んだ部屋の照明さえつけないままに、彼の名前は、偽名とはいえないが本名ではない。窓花と書いて、まどかと読むが、窓の火と彼は当てていた。あまりにも女性的な名称を嫌っただけに過ぎない。白い沈黙が視界の中で、照明の消された部屋の中の、開け放たれた窓から差し込む夜のさまざまな光の中に、ただ、浮かび上がったように、彼が服を脱いだとき、見とれずにはおかない美しすぎる少年の美貌の下に女性の身体が現れたのを、息を飲んで見るが、どちらに息を飲んだのか?少年だと思っていた彼が女の身体を持っていたこと(未成熟とはいえ、)にか、それとも、まだ十三、四の、(ともかく確実に機能を果たすだろう)幼ささえ残しながら確実に雌雄の(粗作りな性の原型の)差異を刻み付けられたその身体の、はかない(あからさまな)曲線の美しさにか。褐色に近い灼けた肌は、いまだ十分に女性的とは言い難いが、確実に女だった。やがては彼自身さえ失ってしまうかもしれない、成熟それ以前的な一過性の流線型を湛え、もっとも、ついに、彼はそれを失うことなどなかった。「男の子じゃなかったの?」わたしが問いかけるのを、なぜなら、彼はすぐに死んでしまうのだから。彼はあえて無視した。その、残酷で、凄惨な、過酷な、彼の、あるいは、「男の子だよ」声を立てて笑い乍ら窓花は言って、その言葉が嘘ではないことをわたしは知っている。当然のことを聞いてしまうものを小馬鹿にするような口先の笑みとともに窓花は、女性のように美しい、少女の身体を持った彼に、わたしは愛撫されるままにまかせた。シャワーの水滴がわたしの体を洗い流しつづけ、しがみついた窓花の体温が水滴の温度に混ざり、そして、やがて、覆いかぶさった彼の首筋の向こうの背後にたたずんだ白い沈黙にむけて、どうという意味もなく、ベッドの上で伸ばされたわたしの指先が、もちろん、その距離の必然のもとに、その花に触れられるわけもなく空中に微かにもがいたとき、彼の口の中で、耐えられずに射精されたわたしのそれを、窓火は口の中、舌の上ににもてあそびさえして、やがて彼は言った、くちゃい。声を小さく立てて笑って、ずっと、「会いたかった。ずっと。」わたしの胸から首筋に唇を当てて、はっとした。見かけたとき。まじで。ずっと、「君を探してたこと、思いだした。」ずっと。あのとき、どきっと、「潤と会った瞬間に。はっとするくらい鮮明に、」上から、わたしを「思い出した」抱きしめた。あの、彼の最期の瞬間に、彼が見せた笑い続けた後に不意に泣き崩れたような一瞬の表情を忘れることができない。窓花と過ごしたのはほんの一週間程度に過ぎなかったものの、彼を忘れることができないのは、翔や、Bạch バック  のせいばかりではない。彼女たちとは無関係に、彼は彼自身として固有の鮮明な記憶をわたしに想起させ続け、いまや想起された記憶に過ぎないものの、2002年の深夜の、都市空間に不意に開いた広大な廃墟に他ならなかった《旧防衛庁跡地》近くの教会の木立の下で、頭部の形すら変形してしまった血まみれの最期の彼には、この美しさの片鱗さえも残ってはいなかったが、その、血にまみれることのない手のひらでわたしの頬に触れようとしながら、意識も無いままに、瞬間だけ正気づいた彼は確かにわたしを視界に捉えたには違いないが、その焦点は合うことなく、笑い続けた後に不意に泣き崩れたような顔をした。笑う機能など、彼の身体に既に失われていたにも拘らず。あっという間だった。それから彼の身体が生命活動の一切を破綻させてしまうのは。その表情を見たと思った瞬間にそれは残像にすぎなく、その残像が褪せないままに彼は古い蝋人形のような、硬直した表情の喪失の中に、わたしは瞬く隙すらない。わたしの腕の中に、激しい一度の痙攣だけを残して、窓花は結局のところ、彼が今まで生きてそこにいたことそれ自体を否定してしまったような彼の死を、わたしは知っていた。死と言うものが、生の対義などではあり獲ないことを。それらにはいかなる対応関係もない、全く、別の事態に過ぎない。そこに対義性を求めたことが、死の回避だったのか、生の傲慢だったのか、そんなことはわたしは既に知っていたことを思い出しながら、死。それは、どうしても触れることのできない、どこにもないものにすぎない。どこにも。彼方にさえも。これは翔が、わたしにいやと言うほど教えたものだった。腐敗しかけた彼女の死体があからさまに明示する、あらゆるものを切断し果てたそれが明示するわたしたちとの無関係さを、匂いすら残さずに、死は訪れた瞬間には既に立ち去っていたのだった。一瞬ですべてを破壊し果てて。擦り付けられるように、なすり付けられるように、押し付けられたBạch の、いまだ幼い、勃起したそれが、射精した直後の、未だ勃起の解けないわたしのそれに、新しい欲望を植えつけ始め、彼女の褐色の肌がわたしの肌にぴったりとくっついたときに、彼女の身体の息遣いを、わたしの体は体中で知覚した。サイゴンのホテルの部屋から、窓の外に雨上がりの風景が広がっているのを知っている。ベトナム南部の雨期の雨は一度上がり、やがて再び降り始めるまでの間、空は次第に雲の灰色を引き裂いて青空を曝すかも知れない。わたしが彼女の頬を抱くようにして、そして窓花は言ったものだった、「輪廻転生って知ってる?」駅前のカフェで、「おばあちゃんから、生まれ変わりを教わったとき、なに、当り前のこと言ってんだろって思ったの」この少年とわたしは人目を引いたには違いない。実際に、「僕にとっては当たり前で、もう普通に知ってることだったから」はす向かいのビジネススーツの女は、盗み見るように「死んだって、どうしようもない。また、」わたしと窓花を交互に見ながら、その、色白の、清楚で端整な顔立ちと「あそこに帰るだけ、なんでもない。知ってる?」それを裏切るように豊満すぎる身体をスーツで包んで、それらの不均衡が、「僕たちは自分で自分の使命を決めるの。現世の、使命?っていうか、」むしろ色気があるといえばそうだが、残酷なほどにいびつだった。その「どんな使命だっか、忘れちゃったし、そのほうがいいんだろうけど、」女を不意に振り向き見て、窓日はわたしに耳打ちした。ねぇ、あの、さ。朝の、混んだカフェの中の騒音が耳の中に疎らな隙間だらけの膜をはり、彼の声に耳を澄ませる。潤、ねぇ、見て。潤、と、「あの女、欲情してる。きっと、僕たち見て発情したんだよ。たぶん、オナニーでもしちゃうんじゃない?」笑い、その息がかかるのを、わたしの首筋は感じるが、確かに、わたしたちが、扇情的なまでに美しいのは事実だった。そのとき、わたしもまだ二十九になったばかりだったが、憎しみもなく純粋に見下しきったような窓花の女への視線は、女の視線がわたしと彼の視線にかちあって、ためらった数秒の、不快感をこれ見よがしに表現した無表情のあと、一瞬で最早ためらうことなく開き直られた、色気だった覚醒しきった凝視だけを投げかけた。瞳孔は開いて、潤んで、扇情的な、なにかの被害者でるかのような無抵抗なこの視線の中に、わたしたちを交互に捕らえて、彼女自身、窓花と、わたしと、どちらを求めているのかさえ認識できないには違いなかった。耐えられなくなったように立ち上がった彼女が化粧室かなにかを探して立ち尽くし、きょろきょろと周囲を、「オナニータイムだよ」窓花は残酷な、嗜虐的な気配のうちに、笑顔でわたしを見つめる。でもさぁ、てか、かわいそうじゃん」彼はね?、じゃない?彼女に寄り添うように近づき、言葉を掛けられる暇さえ無く彼につれられて立ち去るときに、彼女はあわてた店員に会計を要求されさえしながら、窓花は、あらゆるものを見下した、冷たい笑顔の一瞥を、わたしに投げていた。振り向きざまに、まどか、彼は自分の名前の、あきらかな女性性を忌み嫌ったものだった。まどか。火だと偽られた窓の花。とはいえ、彼を裏切ったのは、そもそもが、彼の身体のほうだったには違いない。精神に肉体に対する優位を与えるならば。ややあって、携帯電話を鳴らした窓花に指定された、カフェを出たすぐの小さな公園の、綺麗とは言い難い公衆トイレの個室の中に、行為を終えた女は、意識を喪失させたまま覚醒している何も捉えきれない表情で、股を開いたままひざまづくように座り込む。茫然として、くずれおちるように、

 

 

きたない」と窓花は言った。その女の腕は、後ろ手に縛られているかのように後ろに折り曲げられているが、もちろん、縛り付けているものは何もない。黒ずんだ白塗りのコンクリートの壁に左の頬を押し付けたまま、こちらに突き出したむき出しの、ただでさえ豊満な臀部が大きく膨らんで汗ばみ、赤らみさえし、誰かに強姦されたようにしか見えない。確かに、強姦されたのかも知れない。彼女は結局のところ、望むでも望まないでもなく、抵抗できなかった窓花の美しさに。「女なんてみんなそう」窓花は言った。「なんでこうなんだろ。きちゃなくて、げっそりするんだけど」声を立てて笑い、彼は言い、そのやわらかいアルトは、そしてその声は聞こえるものの、女は何を言っているのかさえ聞き取れてはいなかった。彼女の周囲にだけ混乱が立ち込めた気配があって、わたしは目を逸らし、行こう、と言って窓花が立ち去ろうとした瞬間に、不意に、女は大声で泣き叫んだ。無言のうちに、わたしと窓花をひき止めようとするかのように、行かないで、と、その、すべてをそばに、いて。今この瞬間に失ってしまったかのような獰猛ですらある叫び声は、彼女はすべてを失ったのかも知れない。確かに。我慢できなくなった窓花は、ついに大声で笑い、わたしは、わたしも笑いっぱなしだったことに気付く。確かに、Bạch が窓花だということはすぐにわかった。辿り着いたサイゴンの、大聖堂近くのビルの隙間の雑多な飲食街で、ベトナム人の研究者とcuốn クンという現地の料理を食べていた昼下がりに、その少女は凍りついたようにわたしを見つめていて、わたしは一瞬の、不快な、思いあぐねたような記憶領野の停滞のあと、彼女が、翔や窓花に違いないことを確信した。口が cuốn を噛み千切る。それはライスペーパーで網焼きの肉や野菜を包んで食べる、ベトナムによくある料理だったが、Nam ナムと言う名の、わたしよりも若いベトナム人研究者が目の前で、彼はわたしの不器用な手つきを声を立てて笑い、自分で見本を示しながら、その向こうの喧騒の中で、しゃべることなど許されてさえいないかのように押し黙ったまま無言で包み食べ続けていた4人の少女たちの、身を寄せ合うようなたたずまいの中に、独りだけわたしを凝視して憚らないBạch は、強烈な熱帯の日差しをその肩にだけ浴び、彼女が学生であることを明示する真っ白いアオヤイ áo dài は、晒された首から上の彼女の褐色の肌を鮮やかに浮かび上がらせた。太巻きに包んだcuốn Nam がわたしの口元に差し出して、anh… ăn đi 美しい少女だった。食べなさい、あなた。翔や、窓花がそうだったように。Nam cuốn をつかんだまま声を立てて笑っていた。無数の人間が、そこにたむろしていた。ところどころ罅割れたコンクリート敷きの路面の上に、赤いプラスティックの椅子とテーブルが雑多に並べられ、そのほとんどすべては人々に占領されたが、現地の人間以外にはいない。外国人は、ビルとビルの狭間の向こうの大通りで、時にこちらを伺って通り過ぎるだけだ。彼らの視線の中で、日に灼けたわたしは単に現地人に過ぎないだろう。路面の上に、くしゃくしゃにされた口拭きの紙と吐き出された骨で散乱し、猫が二匹ゆっくりと食物を物色して歩く。Nam が巻いて差し出したcuốn が、わたしの鼻先で茶色いソースをたらし、わたしはそのまま口にくわえて噛み千切るが、そのたびに、焼け爛れたわたしの半身の皮膚に、妙なつっぱる違和感が離れない。とっくに癒えてはいるが、違和感だけはふとした瞬間に発生してやまない。爛れた半分の顔と、端整な半分の顔。cuốn のソースが垂れてわたしのひざを汚したとき、Namは声を立てて笑った。Bạch がわたしのホテルの中でアオヤイを脱ぎ捨てたときに見せた、あきらかに彼女が少年である身体的な証明に、わたしは声を立てて笑ったものだった。その、彼女の戸惑った表情はどうしたの?放置され、シャワーをなぜ、浴びるのさえもどかしく、笑うの?わたしによってアオヤイはかなぐり捨てられて、まだ、十四歳の少年の身体は、カーテン越しの陽光にその美しい褐色の肌をさらすが、ひざまづくようにして、彼の臀部を抱き、彼女のそれを口に含んだわたしに、彼女が射精してしまうのに時間はかからない。耐えられないようなつめられた息遣いのあと、はじめて。ねぇ、彼女は何度かひざを痙攣的にひきつらせ、はじめてなんだよ。わたしの首筋に自分のそれを吐きかけるが、子どもを撫ぜる手つきでわたしの頭を撫ぜる。わたしは彼女の陰毛に顔をうずめてその匂いをかぐ。窓花とはあきらかに違う匂いがし、濃く、空気を圧縮して醗酵させたようなその、そしてすべてが窓花とは違っていたものの、十四年後のこの時に、わたしが会ったのは彼女にほかならないということをは知っていた。頬に、いまだに勃起したままの彼女のそれが触れていた。いずれにしても、Bạch は矛盾した表情で、どうしようもなく辱められてしまったことのいたたまれなさに?そして、あるいはその喜びに?痛ましげなその視線が、痛いほどに、わたしを捉えて話さない。cuốn を噛み千切る。Nam が笑いながらわたしに何か言っていた。少女は泣き崩れてしまいそうなその顔を、そして彼女はわたしを見つめ続け、Nam がわたしに話しかける声さえ、最早わたしは聞こえない。そのとき、不意に少女たちの塊りの中から立ち上がった彼女は、日差しの直射の中でその純白のアオヤイがきらめき、日光の白い反射光さえ、彼女の肌の褐色を隠せはしない。Nam を押しのけるようにして彼女はわたしに接近すると、わたしには聞き取れないベトナム語で、彼女は彼女の口が言葉を言い終わらない前に、そのままわたしに口付ける。呆気にとられるNam の存在さえ、そのとき、わたしは忘却していたには違いない。彼女は知ったに違いない。彼女がわたしをずっと探していたことを。わたしを見出した今この時に。その唇が執拗にわたしの唇をむさぼるのを、そして、むしろわたしの唇こそが彼女のそれをむさぼっているのに気付く。すぐに、彼女は強奪するかのようにわたしの手を引き、どこかへ連れ去ろうとするが、どこへ行く当てもないことはわかりきっている。彼女をすぐ近くのわたしのホテルに連れて行く。バイクや、人々の、雑然とした騒音が空間を包んでいることに、わたしは間歇的に気付き続けた。やがて、まるで、犬のような姿勢でわたしを受け入れた彼女は、尻を突き出したその格好のままに、茫然とした数秒のあとで、不意に、獰猛な気配さえある大声で泣き叫び始め、窓日が強姦した、あの女のように。その声がわたしの耳の中を占領する。わたしが初めてだったに違いないBạch の肛門はわたしの精液を垂れ流し始めるが、泣き叫ぶたびに彼女の身体は、時に、痙攣的にふるえ、Bạch は、今、何を感じているのか、わたしはそれを探し当てようとする。陵辱されたあるいは陵辱してしまった屈辱なのか、陵辱され獲たあるいは陵辱し獲た喜びなのか、わたしを自分のものにした喜びなのか、自分がわたしのものになった喜びなのか、いずれにしても、彼女は窓日ではない。わたしは知っていた。彼女はこの褐色の肌の美しい少女Bạch に他ならず、それ以外であり獲たことなど一度もなかった。わたしは、いままで、わたしを知らなかった彼女は今、既に、わたしを、いままで、自分がいかに孤独だったのか、彼女は、わたしは今、知っていた。Bạch は翔でさえもなく、彼女は彼女に他ならない。そんなことは、わたしだって、彼女自身だって、泣き叫ぶ、けだものじみた号泣に、あの女のマンションに窓花が住み始めたのは知っていた。わたしが、まだ日本に住んでいられたころだ。上原茂史と出会う直前の、わたしがまだ有望な若手研究者として一応の評価を得るとができていた頃、評価と並列された複数の懐疑的な眼差しの中に、ひそかに監視され、絡娶られながら、女のほうが、窓花を離さなかったのだった。彼女だって、すでに知っていた。すでに、窓花に陵辱されたときに、彼の身体までもが彼女を陵辱したような気さえした。彼がそれをもってはいないことに。自分を強姦しておきながら、ついに強姦することのできない、自分と等質的な身体に、とはいえ、彼女は気付いていた。彼女は、窓花なしでは生きてさえいけないのに違いない。もはや。その女は知っていた。窓日は美しい。残酷な夢のように。或いは、現実そのものの?夢のように、脳組織の活動野の中に唐突に見出されたそれ。見上げられた空の灰色の分厚い雲が、それでいて空の青を否定し尽くすことさえできず、破綻したところどころの切れ間から空の青さが、純白の薄い雲の断片に膜をはられながら現れていて、とはいえ、青空が雲を引き裂いたというわけではない。雲の、たんなる自己崩壊が見せたに過ぎないそれは、地上を照らしきることもかなわないまま、今、視界のうちに広がった世界は暗く、ほのかに明るい。雨がこれから降るのか、そうではないのかさえわからない。地平線の向こうにまで、大陸の南部の広大な平地が広がり、Bạch が何を記憶していて、何を記憶していないのかわたしにはわからない。問いかけることさえできない。単なる共通言語の問題ではない。わたしだって、わたしが何を記憶し、何を記憶していないのかど、知りはしないのだから。


月の船、星の林に 2

窓花の死から、十四年以上も時間が流れていた。わたしは思い出す。想起された、わたしの、わたしに記憶されていた記憶が想起されたときに、わたしは記憶していた。わたしは、生体医療の研究を始める前、学生だった頃、脳組織が結局のところ、膨大な濫費をしているに過ぎないことをあらためて発見したときに、それは失望とはいえなかった。理論的には既に知っていたから。再確認されたそれは悲しみでもなく、わたしに、ただ、なにか、暴力的な恐ろしさだけを植え付けた。暴力的かつ所詮刹那的な薬物処理によったに過ぎなかったとはいえ、数パーセントしか活動していない脳組織の、残りの全てを覚醒させたわたしたちは、当たり前なのだが、何も起こらないのを見る。いくつもの《ピン》の刺されたマウスの頭脳脳中の光景を、見ることができたなら。その、あまりにもつぶらで表情を持たない黒目の内側を?少なくともマウスに関しては、残された膨大な脳の未活動領野は、膨大なブランクに過ぎない。身体に隠喩など存在しない。可能性さえも。身体は実現された現在をしかも持ちえず、いかなる潜在性も有しはしない。わずかの領野の活動の熱量が、単に、自分の何十倍もの空き容量を必要としているに過ぎない。覚醒させてしまえば、単なるブランクに過ぎないそれは何をも生み出しえることなえなく、無意味な、膨大な熱量をだけ生産し、文字通り、自分自身を焼き尽くしてしまう。マウスの、破綻した脳が見せた、狂ったきりきり舞いは悲惨だった。くるくるまわって逃げ惑う。何から?内側からのすさまじい発熱と苦痛が、そんな苦痛などありはしないにも拘わらず、みずから神経を焼き、自分自身に焼き尽くされた脳が、おそらくは、空恐ろしいほどに破綻した自分の風景の中におぼれていた。脳死するまでのわずかな覚醒の数分間の中で、マウスが見たものは、何だったのか。純粋な断末魔の、純粋な痛み以外にはなかったのか、そんなものですらなかったのか?どこにも行き場のない、行き獲る限りのどこにでも行ける、自由に住処を変えた家出少年の窓花は、いつも常に、誰かを誘惑し、誰かに誘惑されさえし、誰かの家に住み着いた。膨大な数の独り暮らしの人間を抱え込んだ東京とその周辺にいる限り、彼が自分の住処を見つけるのに苦労はしない。窓花はその美しさを行使して、誰かを魅了させてしまえばよかった。彼に逆らえるものなどいなかった。あの女の名前はまだ知らなかった。窓日は、ついに知らないままだったかも知れない。女の借りていた千駄ヶ谷のマンションは古かったが、部屋の中だけ新しく作り直されていて、その落差がいびつですらあったものの、このあたりによくある種類の住居には違いない。どこよりも先に開発が始まった場所だったから、いま、どこよりも古びた建築物が群れをなしていた。女は視線の先にその少年を常に捉えようとしながら、盗み見る視線の先にはわたしがいる。わたしを、悟られないように、誰に?そして、あきらかに悟られることを求めた、誰に?その視線の中に捉え、潤みを持った目つきは瞳孔をいっぱいに開いて、「潤ちゃんに発情してる」と言って、窓花はわたしに耳打ちした。この、知性そのものを感じさせない、美しいだけの、人間の醜悪な出来損ないとすら言ってもいい少年から、まともな言葉など発されることなどあり得るのだろうか?わたしには、この少年が、何を求めているのか、ついにわからなかった。もっとも、未来の希望がないのはこの少年のほうだった。むしろ、枯渇するだけ枯渇していた。未来や将来などあったためしはない。浪費された過去が集積していくだけだ。どう?と、ね、どう?発情した?「潤ちゃんは?」窓花は声を立てて笑い、わざと甲高く立てられたその声が、女が聞こえなかった振りをする。わたしという目の前の美しい存在にいまさら気付かされた彼女は、自分がわたしを求め続けていたことを知る。カーテン越しに、朝の日差しが差す。窓の向こうはたぶん、晴れている。彼女が不意に、彼女は息を吐いて、耐えられないように一度髪の毛を掻き毟って見せて、わたしをついには見つめないまま、窓花が触れるあらゆるものから、彼を愛することと引き換えに、そのものたちが持っていたはずの可能性としての未来を奪い、破壊してしまいながら、もっとも未来そのものを枯渇させているのはこの少年のほうに過ぎない。今、女は奴隷のようだ。このとき窓花に、現実的に未来がないことは、彼自身、最期まで知らないままだったにも拘らず。何のために生まれたのだろう?窓日は言ったものだった、最期の時に、「助けて」確かにそう言ったはずだった。陥没し、破綻しかけた脳作用は最早まともな言語活動をさえ彼に許さず、彼の言う言葉らしきものは声帯が鳴らした音響に過ぎなかったが、そのこわれた音響は確かに、嘗ての彼があまりにも知性的な存在であったことを明示した。みずからが知的活動の破綻した残骸となることによって。助けて、と彼は「死にたくない」そう言ったのを、わたしは知っている。あるいは翔は、九月に、日本へ帰ったとき、翔の母親はわたしの母親と同様に(そしてわたし自身と同様に)もはや老いていたが、未だに癒されない「発作」に苦しみ続けるまま、その苦痛だけが老いることさえなく、30年近い時間の経過の中でさえいまだ若々しく、彼女を支配し続けていた。軽度の、ほんの軽度の痴呆の痕跡さえにおわせる老いさらばえた彼女の精神と呼ばれる何かを、その「発作」は殺し尽くすことなく寄生し、食い尽くすことなくむさぼり続けているように見え、助けて、と彼女は、とはいえ、彼女に巣食った苦痛は彼女と別のものなどではない。それはあくまで、彼女そのものに過ぎない。わたしには彼女が生き続け得ていることさえもが不審だった。助けて、と「死にたくない」と彼女は、十四歳の翔が六人の少年たち、それぞれ親しさの度合いに差はあったにしても、わたしの友人たちだった彼らに強姦のうえ、監禁され、息絶えるまで続いた凄惨なリンチの結果、こと切れていったあの夏の事件にかかわった、結局のところ百人近くの少年少女たちのうちの一人だったが、わたしはまるで自分が一切無関係な人間だったように、翔はわたしの幼馴染だった。

 

 

何十人の《友人たち》が、彼女の監禁を知っていただろう?何十人の《友人たち》が、その部屋を訪ねさえしただろう?わたしは思い出す。まだ、わたしたちが八歳くらいだった頃、翔は言った、わたし、潤くん、ねぇ、と、「結婚するかも。ね。わたし」彼女は言った。いつ?どうして?だれと?矢継ぎ早にわたしの口から吐き出される質問に、ややあって、「潤ちゃんと」彼女は答え、まじめな顔をしたまま、翔は思いあぐねる。なんで?わたしは言い、わたしは、確かにそうなるのかも知れないと思った。翔という、まるで男の子のような名前を持った、おさなく、あどけないながら美しい少女は、その多彩な、豊か過ぎる表情の向こうに、とはいえ、あの頃わたしたちは全てを知っていた。まるでワンちゃんみたいね、と母は、「翔ちゃんは」言った、声を立てて笑いながら、表情がくるくる変わって、世界の全て、それがどれほど美しく、どれほど凄惨で、どれほど気高く、どれほど愚劣なのか、わたしたちは全てを知っていて、わたしたちがこの世界の全てを知り尽くしてしまっていたことさえも知っていた。確実に、この認識されつくした世界の中で、確かに、わたしたちは結ばれるのかも知れないと思っていた、わたしは、深刻な真実を打ち明ける彼女のそのあどけない表情を見つめながら、翔の死体は無残だった。近所の資材置き場に放置された、コンクリートの塊りの名から発見されたそれは、半ば腐敗し、髪の毛らしきものは残存さえしていなかった。あの事件の恐怖が、それをもたらしたことが予想された。そんなことはわたしだって知っていた。まだ生きているときにすら、最期のころ、彼女は最早、翔であるとは見極めがたく変形していたのだから。その外見、そして、精神疾患などとはあきらかに違う、狂気。単なる疾患と狂気との圧倒的な差異を暴き立てている気さえする翔の気違った眼差し、苦痛と恐怖と、恐怖と苦痛と、苦痛と恐怖とが交錯する音響をその頭の中に鳴り響かせながら、遺体鑑定などできるはずもなかった。その腐敗しかけた、彼女の母の「発作」の直接的な引き金はその遺体鑑定には違いない。周囲の人間は彼女にそれをやめさせようとしたものの、彼女自身がそれを望んで退かなかったらしいと、わたしの母は言った。翔太と言う名の翔の父は「発作」さえ起こすことができなかった。多恵子と言う名のその妻が、失心、嘔吐、痙攣、あまりに悲惨な「発作」を起こして止まない傍らで、彼は介護者であらなければならず、彼自身が「発作」を起こし獲る余地を見事に破壊し尽くした。翔の弟はもはや、誰とも話さない。その、薫と言う名の、そのとき彼は十二歳だったはずだ。わたしたちより二歳下だったから。彼は、何かを恥じていた。何を恥じているのか、わたしにはついにわからなかった。絶望的なまでに、それは彼自身にもわかっていなかったはずだった。彼は鮮明な恥辱に、そしてそれは彼から人の目を見て話す自由を奪った。町に犠牲者が生き延びる余地はなかった。どこにいても付きまとうわたしたちからの同情の眼差しが、彼らの居場所と、彼らが癒えて行く余地をさえ奪っていた。生殺しの犬が、殺され果てないまま延命させられ続けているような、しかし同情の眼差し以外に彼らに向け得る何かなどどこにも、何も、なかった。彼らは、わたしは知っていた。わたしたちは、知っていた。翔への事件への関与が一切ない少年少女など、この町にほぼいないに等しかった。今日のいじめの対象あるいは明日のそれの対象になり得る「マイノリティ」の特に特出した少数以外には。そもそもの半数近くがその「マイノリティ」に該当していたにしても。わたしたちは何らかの加担を多かれ少なかれ認識せざるを得ず、彼女を、彼らを、ときにわたしたち自身をさえ同情の眼差しのうちに捕らえざるを得ず、あと十年と少しで、ノストラダムスの予言は本当になるかもしれないが、そうはならないことなど、誰でも知っていた。半年も経たないうちに、彼らは引っ越して行ったが、隣接する県を隔てすぐ近くのその町に、彼が生きているのは誰もが知っていたし、その町の人間だって、彼らがあの事件の、あの彼らであることは知っていた。

sao anh nghỉ gì vậy ?

Bạchが耳元で言ったその音声を、なんで?  わたしは振り向いてそんなこと、考えてるの?彼の頭を撫ぜてやり、彼女のそのわたしには理解されることのないベトナム語の音声を

Tai sao anh buồn , luôn luôn ,

覗き込んで、なぜ?わたしを眼差しに伺うBạchは、悲しいの?何が?Sự buốn của anh là gì ? 悲しいの?翔の葬儀は盛大だった。当時のマスコミがそれを強制したようなものだ。広くはない家の広くはないリビングに、考え付きうる片っ端の町の人間が入れ替わりに集まって、もはや、収拾の付けようさえもない。多恵子は、眼球に部厚い透明な膜を貼り付けさせられたような、じっとこちらを見ている、何を見ているのか推測を許さないあの目つきで、学生服で訪れたわたしに、多恵子は言った。潤ちゃん、どうして助けてくれなかったの?わたし、「潤ちゃん、何に」翔が何かしたの?「悲しんだらいいの?」なんでこんなことしちゃったの?「この子は」と、

「何もしていないから。」夫の翔太にたしなめられ「何もできやしないし、そんなことは言うな」彼女が一瞬泣き崩れかけたとき、ややあって、再び《それ》を思い出した多恵子は身をまげて、嘔吐する。焼かれた髪の毛、口の中から内臓を殴打され、吐き出さなければへし折れた前歯、気がすまないといった、身体が何十回目かの強姦、身体そのものに巣食った見上げられた窓越しの陽光、何かを背中の皮膚が感じたカーペットの質感、吐き出そうとするかのような。わたしは目を逸らし、多恵子の周りに浅い人だかりができていたが、声をかける女たちの喚声さえ嘔吐され続けているあの音声を消すことができない。喉を握って絞るような。多恵子はそれらの多様な「発作」を何度も繰り返した。唐突に、ときに裁判の最中にさえ。被告人弁論時のその、娘に加えられた暴力の描写が、娘の身体が感じたに違いない苦痛の群れの、そのうちの何かひとつでも彼女が想起するたびに。彼女が目にもしはせず、彼女が感じたこともなく、彼女が何も体験したなかったそれらの鮮明な記憶が、彼女は彼女が嘗て知らなかった経験を思い出し続けるのだった。他人の、既にどしようもなく失われた記憶を。翔は窓花ではない。繰り返されつづけた嘔吐と失神。わたしはそれを知っていた。窓花はあくまでも窓花だった。わたしは、多恵子にとって食物は嘔吐されるためにあり、窓花は正に彼に他ならない。多恵子の意識が失神されるために覚醒していたように、そして、窓花は翔以外ではなかった。確実に。このあからさまな、どうしようもない現実が、窓花が窓越しに指さす。ねぇ、わたしはその指さすほうを見る。見て。赤らんだ夕焼けが空のてっぺんのまだ残存した青さを消し去ることなく染め上げて、その色彩の重なりを背に、女はベッドの上で、行為が終わった姿勢のままだった。股を広げて、両手を投げ出し、女の身体は逆光の中の影に過ぎないが、「つぎ、生まれ変わったら、何になりたい?」窓花が言った。お前は?お前は何に?「桜の木がいい」なんで?わたしの口先の、笑んだ吐息を、なんでってさ「みんなに、意味もなく大事にされるし、」窓花は寄り添ったままわたしの唇を指先でなぞって見せるが、てか、「無骨で、図太くって、寿命も長くて、」わたしはそれを唇に軽く加えてやり、

mưa sẽ rơi. そして、Bạch が窓越しに指さす。その先の窓越しに、未だに空を隠しきれないままの雲が大量の雨期の雨をたたきつけ、その騒音が部屋の中を包みながら、「いつ、ベトナムに来たの?」Bạch が不意に言った。後ろからわたしを抱きしめながら、わたしはそのよどみのかけらもない日本語に、話せるの?日本語、ねぇ、どうして?「思い出したの」それが、わたしの問いへの直接的な答えであることを理解するまでかかったほんのわずかの時間に、彼女はわたしの腕の中に身をすべるこませるが、わたしの腕は慎重にかけられた彼女の体重を抱きとめて、その体の温度が「潤ちゃんと話したかったから。ベトナム語、駄目なんでしょ?わたし、英語駄目だし」わたしは、その瞳孔をやわらかく広げた視線に捉えられていた。なんか、「ずっと考えてたら、何を考えてたわけじゃないけど、思い出した。」わたしは、今、わたしの視線が、瞳孔を広げた中に、彼女を捕らえて放していないのを知っている。唐突な、窓花の、或いは翔のそれとは似ても似つかない、Bạch の鼻にかかった男声の日本語に、わたしは思い出す。上原との合流が研究に飛躍的な進歩を与えた。窓花が死んで数年たっていた。上原がもたらした潤沢な資金は、わたしの、(半ばみずから追放されたかのように、と多くの人間たちに揶揄されたらしい、その)日本からの出国をも可能にしたのだった。汪と言う、その中国人を中心とするカルテルがいくらでも投入してくる資金をわたしたちは使いたいだけ使い、上原が言った、その頃には既に焼け爛れていたわたしの半身を指して、汪が言っています、なぜ、あなたは自分の治療を何もしないんだって。常に微笑を絶やそうとしない彼らしく、「現代の奇跡の人である、あなたたちが、と。」当然のように微笑み続けながら、そしてわたしは笑うしかない。確かに、汪には疑問である違いなかった。死にかけの四十五歳の汪自身を一度殺してから生き返らせ、いまや彼に永遠の生存をさえ可能にするかも知れない研究を進行させるわたしたちが、なぜ、たかが自分の皮膚の薬品焼けのケロイドすら放置しているのか?わたしと上原が重度の筋弛緩症で、余命に過ぎない生をかろうじて生きていた彼に施術したのは、頭部の移植手術だった。救命でもあれば、たんなる人体実験でもあった。彼自身の細胞を根拠に体外受精させ、育成した幼児の身体への。もちろん、移植先の身体は6歳児にまで生育されていたのだから、殺人行為といわれれば明らかにそうに違いない。マウスにおいての成功率さえ必ずしも高くはなかった。それが危険なばくち以外のものではないことはあきらかだった。施術の技術的問題においても、移植手術に付きまとうその後のリスクにおいても。頭と体のこっけいなほどの年齢差も、言うまでもなく。いずれにしても結局のところ、成功してしまえば、どうでもいいことだ。失敗しても、それは汪自身が強固に望んだことに過ぎず、そして死ぬのは上原でもわたしでもない。知ったことではない。十二年後に、彼の身体が破綻をきたしたには違いなくとも。急速に壊死を起こしていく筋肉系組織と、死なない神経との間に生じた、身体細胞を分断するような苦痛とともに、汪が死んで行ったには違いなくとも。わたしは記憶していて、思い出す。わたしは、翔が中学にあがったばかりの頃、それは、わたしが中学に上がったばかりの頃だった。その日、わたしの家の電話を鳴らしたのは翔だった。ねぇ、潤、「どうかしたの?」取り次いだ母が言った。「匂い、変わんない」わたしの髪の毛に鼻先を突っ込んで、耳もとに言うBạch の「あの頃のまんまなんだね」どの頃の?「なんか、変だったけど。翔ちゃん、お酒飲んでる?」母の言うとおり、翔の声はどこかで焦点を欠いていて、「潤ちゃん?おはよう。」電話の向こうの、荒いそ雑なその音声に、今、夜だろ?わたしは笑いかけて、それは、もう、十時を少し回った頃だった。あのあと、そして、君は、どうなんだろう?「何が?」Bạch に、答えるすべを不意に失い、わたしは沈黙するが、君も変わらないね、とは言えない。君は変わってしまった、とも言えない。君は別の人間なのだから。けれど、わたしは知っている。君が、例えば、「知ってる。もう、十時だね」と言った翔だということを?「もう、遅すぎるかも。」翔は言い、何が?時間が?まだ早いだろ?何も答えない電話の向こうの沈黙に、どうした?あのあと、教師たちは言ったものだった、新しい慣れない環境への適応に、苦労しているのかも知れません。もう少し、「遅すぎたかも」とBạch は言った。待ってあげてください。彼女のために。「会うのが、ちょっと遅すぎたかな、今回は」どうして?「ずっと、探してたし、ずっと待ってたけど」今、それに気付いたくせに。わたしは悪びれもせずに鼻で笑ったが、もう少し、様子を見てあげるべきでしょうと、教師たちは言ったものだった。彼らは翔の母親に。「手首、切っちゃった。」翔の声を、マジで?わたしの耳は「マジ。」受け止めるのに時間はかからない。なぜか、理由などないが、彼女なら、そうしてもおかしくはない、と思った。「もう、もちそうもない」何が?問いかけるわたしを、その頬を不意に手のひらに抱き、見つめ、Bạch は「もう、崩壊しちゃうよ。時間の問題かな。」と翔は言った。わたしの頬に感じている手のひらの温度の存在が、わたしの体。もう、彼女の神経系の中にも溶解して行く。わたしの頬の温度が。褐色のBạch、死にかけの。そしてわたしの背後に向かって「どうしたの?どこ行くの?」母は言ったのだった。「翔ちゃんのとこ、行ってくるよ。」どうして?「なんか、変だから。」やばそうだ、とわたしは思い、事実、そして、翔ならやりかねない、と思った。あの、屈託のない翔なら。


月の船、星の林に 3

美しく、頭もよければ、運動もできて、要するに、誰もが彼女を、成功と、幸せの約束されたような少女だと思い、事実、影というものの一切ない、あの翔なら。なぜ?彼女はなぜ手首など切ったのか?わたしが翔の家に着いたときには、もう救急車が先に着いていて、それは翔の両親が通報したのだった。「ねぇ、どうしたのよ。なんかあったの?」わたしに母が、次の日、多恵子は言った、リビングでテレビを見ていたら、翔が入ってきたの、手首から、と多恵子は、血をだらだらと流して、床も服もびちゃびちゃにながら、と、「ねぇ、どうしたのよ。なんかあったの?」と、多恵子は、聞いたけど、何も答えないで、ボーっとして、電話を掛け始めたから、わたしは今、電話してる、と翔は思った、受話器を握って、電話番号をプッシュしながら、手首に痛みがあるのは、誰のせいでもないの、と彼女は思った、切り裂かれた手首の、誰のせいでもないの。悪いのはわたし、と、翔のせいだ。あの電話がいきなり切れたのは。受話器は一度手首が痙攣したときに話され、取り落とされた。わたしは納得し、まだ救急車で運ばれていなかった翔は包帯をぐるぐる巻きにされた手首を小さく振って、その、薬物にでも影響されているかのような茫然とした笑顔は、かすかな恍惚の、しかし傍らの泣き惑う多恵子を、勇気づけたりしさえする翔を、大丈夫。いつかは大丈夫だから。こんなことが起こると思っていたことを、わたしは既に思い出していた。どうして?あの、美しく、美しいことをだれにも知られ、自分自身さえそれをよく知っている、幸せな少女が。救急車で搬送されていく翔を見送りながら、であるが故に?取り残されたように、わたしと薫は取り残された格好で、あとに残ったのは、わたしと、彼と、彼の祖母だけだった。まだ若く、色気さえ消えたわけではないその祖母が、「考えられない」とつぶやくように言うのを、わたしは聞いた。「ねぇ、どうしたの?何かあったの?」わたしに、母が言ったのは、動揺しきったあの祖母を慰めて、落ち着かせたあとに帰って来た家の、もう12時を過ぎていた。恐ろしいほどに動揺していた翔の祖母は、手に負える状態ではなかったし、薫の面倒をさえ見れそうもない。そして薫は何かにおびえていた。現実にそこの床の上にある血と血の匂いになのか、暗示されあと、回避されはした、とはいえ、暗示され続けているままの死、わたしたちがそう呼ぶ、それの唐突な出現に対してなのか。近所の大人たちは駆けつけ、遅れて母も駆けつけたが、泣きじゃくって止まない翔の祖母は、輸血の心配をさえしていた。あの子が助かるんなら、わたしの血なんか全部あげてもいいんだから。だから、病院に連れてって。あの子が必要かも知れないでしょう?それほどの出血ではなかった。わたしの血だって、悪い血なんかじゃないんだから、きっと、そうなんだから。それほどにも、「ねぇ、どうしたの?何かあったの?」わたしは、「ねぇ、」降りしきる雨に向かって、聞いてみろ。同じ言葉を。絶望的なまでに美しい、あらゆるものからその鮮やかな色彩を奪い去ってしまうあの強烈な色彩の中に、その白濁した色彩に、その音響に向かって、悲しみとともに、遅すぎる、と、すべてはもう、そう彼女は、「たぶん、もうすぐ死んじゃうの。」どうして?答えを返さない。うつむいて、沈黙したままのBạch の唇に、わたしは唇を微かに重ね、鼻からの呼吸の、感じられないほどの空気のゆれに、Bạch は既に、全てに満ち足りてしまったように微笑み続けていて、その一瞬の表情をわたしは、ついに忘れることができなかった。手首をぐるぐる巻きに去れた翔の、わたしに手を振るなぜか満ち足りた笑顔を。「白血病。日本に行ったら直るかな」そう言う彼女の男声のアルトは、見かけの身体的な違和感とともに、確かに心地よく響いて止まない。直る人もいるし、直らなかった人もいる。「死ななかった人もいるし、」彼女は言葉を継ぎ、「死んだ人もいる」と言った。病気なんていうのは全て、わたしは、そういうものだ、彼女の耳に唇で触れる。そっと、治療は?「病院なんか」Bạch の丁寧にそられて「アスピリン大量にくれて終わりだよ。ベトナムの医者なんか」そこに本来ひげが生える事実さえ消去し去った顎を、わたしの指先に撫ぜられるにまかせ、窓花の、あの女との行為は拷問のようだった。身体が拷問を受けているわけではないものの、この、知性や、感性の繊細さのかけらすら感じさせない、頭の中を老化させきったような、無様に老いさらばえた少年は、それしか喜びを知らないように、うつぶせの、尻だけ持ち上げた女のそこに、指をいれ、つっこみ、いつも、これにみよがしに残酷な笑みで、ときにわたしに色目を使いながら、女の部屋はこざっぱりとした部屋だった。きれいに、すべてのものが整理され、彼の腕が動くたびに、女は虐待された動物が慟哭するようなくぐもった深い音声を喉の深いところに鳴らし続けた。女は、そしてその極端に白い豊満すぎる身体は時として、彼女の神経系が感じ続けているのは、性行為の快感であるよりもむしろ理不尽な苦痛以外の何ものでもなかったはずだった。わたしはそれを知っていたが、彼女は監禁されているわけではなかった。彼女は少年に拘束されていた。彼女は暴力を加えられているわけではなかった。彼女は傷つき果てていた。こんなにも、と、わたしは、よくも行為が醜悪になりうるものだと、あきれ果て、女の行為は終わらない。会社から帰ってきて、朝まで、彼女は窓花に求め続けた。その行為、抱擁、愛撫、添い寝、会話、窓花が何かしゃべるとき、彼女は耳元で金属的な大音響が鳴り響いたかのように、不意に身をのけぞらせるようにして、その過剰すぎる反応に窓花は声を立てて笑う。とまらない、微かな、唇の、指先の、身体の、あらゆる部位の震えが、女の追い詰められた現状を明示する。逃げ出すことも、追い出すことも可能だが、彼女には不可能だ。窓花は、なにも特殊な行為をしているわけではない。単に、男性性器を欠いた行為を繰り返すだけに過ぎない。ありふれた、震えの止まらない彼女の身体の上に、彼女の目線は瞳孔を開ききって、潤み、絡娶らずにはおかない執拗さでわたしを、窓花を見つめ続け、捨てちゃえよ、と、あるとき、わたしは言った。「いますぐ」窓花に、不意に振り向いて、壁にもたれたままのわたしのそこにのばした手を、ひざまづいたまま這わせたその女は、「捨てちゃえよ」と、わたしは窓花に言い、行為を終えたばかりの、とはいえ、射精するわけでもされるわけでもない窓花にとって、それは単に飽きられた行為が中断されたに過ぎなかった。「何を?」むさぼるように、手のひらで、布越しにわたしのそれをまさぐり続ける女を指し、「きちゃないだろ。もう、捨てちゃえよ」と、陽一という2歳上の少年が言ったのを、わたしは知っていた。それは隆文が教えてくれたのだった。翔が監禁された先の、必ずしも不良少年とはいえなかった祐樹の家の彼の部屋の中を、隆文は何度も訪れてはいたが、何をするわけでもない。ふけられる雑談と、客が来るたびに、彼らの前でエスカレートする彼らの暴力的な性交と、直接的なリンチと、「陽一さんとかち合っちゃってさ。祐樹んとこで。言ってんの、あの人、捨てちゃえよって。翔のこと」不意に声を立てて笑って、同い年の隆文が、小学校の頃、翔のことが好きだったのを、わたしは知っていた。「ひでぇよな。普通に。あの人も悪いからさ。」バレンタインってさ、誰かに渡すの?翔、と隆文はわたしに言った。小学校の、「でも、」彼女にとって、確実にかけているのは、今、彼女が手のひらにもてあそんでいるそれに他ならなかったが、窓花がそれを持たない以上、今、この瞬間に、それは彼女に永遠に欠けていた。「翔もないよな。もう終わっちゃってるよ。あの子」陽一は不意に、「なんか、もう、穢いもん」唐突に彼に取り付いた悔恨に襲われたように、うつむいて、髪をかきあげ、わたしは、わたしが、どこかで嗜虐的な高揚に包まれているのを、知っていた。陽一をも含めて、かすかに唇をよじってみせ、どうでもいいだろ?声を立てて笑ったが、それは友人に対してわたしが強がってとって見せたポーズだったのか?それとも、わたしの良心の実態がその程度に過ぎない、浅い、枯渇寸前のものだったのか?「欲しがってんじゃん」窓花を振り向き見て、わたしの言った瞬間に、わたしの立てた笑い声が消えないうちに窓花のすねが女の顔を蹴り上げ、わたしは息を衝く。女の手のひらには、彼女が勃起させたわたしのそれの触感さえまだ残っていたに違いない。窓花は最早笑わない。表情をなくしたまま、そして女は、彼にけられ、殴られるにまかせる。窓花のふるう暴力は、彼の身体が少女のそれに過ぎないことを露呈させる。怒りに駆られ、侮辱を感じていることを隠せもしない窓花は、まるで、猫が捕獲した鼠に加える、やわらかく、たわむれ、もてあそんでいるようにしか見えない、渾身の、逆上した暴力を、とはいえ、猫の暴力が結局は鼠を惨殺してしまうことも事実だった。知ってる?翔は言った、十二歳の彼女は「わたし、お父さんに殺されたことあるの」うそ、と瑞樹と言う名の、小柄なその少女は言い、窓花の低く鼻の中だけで切らせられる息を、振り向けば明け方の、窓の外に混在した光の束なりに照らされた部屋の中に、白い沈黙が相変わらずたたずんだままだった。まだ小学生の頃の、朝の教室で、「過去世のどっかで。」

 

 

なんで?占いの雑誌を瑞樹のまるっこい指先がなぞり、利発で、いい子の翔が言うことに嘘はないというわたしたちに共有された価値観の中で、その水をやっているところを見たことがない。この二日の間に。その白い小さな花は大量の水を嫌うのに違いない。過去なのか「いつか知らないけど」未来なのか、と、翔は「お父さんが殴って、」わからないけど、言いよどんで、「殺しちゃったの」わたしを。と、翔が、思いつめたように言いよどむのをわたしは見たが、瑞樹は息を詰めた。信じらんないね、口走ったあとで、花々はむしろ枯渇寸前の状態で、女は鼻血を流しながら、切れた口の中の血を吐く。むせ返る。鼻だけで無理やり息をして、失神する寸前の、鼻の奥を豚のように鳴らして不意に立ち上がり「好き!」と女は窓花に言った。叫ぶように。「窓花ちゃんが、好き!」低い、ささやくような声量しか、今、自分の喉が出せないことに自分の声に気付かされながら。窓花は女の言い終わらないうちに彼女を殴りつけたが、彼の腕に、女の命を奪ってしまえるほどの強さはない。空を切ったのと同じ強度で、そして女は崩れ落ちて、いつものように、間歇的な嗚咽を漏らす。悲しみのきわまったそれなのか、欲情に似た高揚のきわまったそれなのか。「だから、」と、捨てちゃえよ、わたしは、「お願いだから、捨ててくれない?」呟き、「たかがチンコじゃんかよ」吐き捨てるように言った窓花の目が、切実に、わたしの同意を求めているのをは知っていた。窓花はわたしを愛していた。どうしようもなく。わたしにすがりつくように、Bạch はわたしの顔を腕に抱き、わたしの顔は、自らの、張り詰め始めた幼い筋肉がしずかに張った、荒く息づいているその胸に押し付けられるが、「見て」彼女は言った。窓の向こうを指差しもせずに、-Chim …chim bồ câu vượt qua trên trời, その音声に耳を澄ます閉ざした目のままに、その暗闇の中に、「日本語で、ねぇ、bồ câuって、なんだっけ?ねぇ、何、あの鳥、bồ câu、が、今、ねぇ、飛んでいく、ねぇ、どこに?」彼はわたしを愛していた。彼自身、彼がわたしを愛することに戸惑い続けているのに違いなかった。なぜ、窓花は、わたしをなど愛してしまわなければならないのか、わたしは知っていた、とはいえ、愛するということは、わたしは既に知っていた、つねにそうだった。わたしを愛した多くの女たちが、或いはゲイたちさえもが、わたしに言ったものだった、何で、わたしの、あたしの、うちの、ぼくの、おれのこと、なんで好きなの?」と、窓花は言った。多くの、ときにわたしから愛されてなどいないにも拘らず、わたしから例え一瞬であっても愛されてみたいと思うがために彼女たちは、いつものように、わたしは言った、じゃあ、なんで、俺のこと愛してんの?お前は。口の先で、微かに、笑いの吐息を吐いて。窓花は、そしてすべての彼女たちあるいは彼らは答えられずに、すべてをごまかしてしまおうと企んだ眼差しの中に「潤がめっちゃかっこいいからじゃん」はるかはそう言ったが、嘘だろ?わたしは言い、わたしに声を立てて笑われながら、「自分で、自分がいま、うそ言ったの知ってるでしょ、お前」上半身をかすかに紅潮させたはるかが「潤って、なんでいっつもわたしだけいじめんの?信じらんないんだけど」言うのを聞く。薄い顔立ちにメイクで無理やり陰影を彫った彼女は、幸福な笑顔に顔を崩しきって、わたしを愛することそのものが、わたしを愛することの不可能性を彼に暴き立てた。身体的には、まさに、通常のノーマルな性行為がされているそのときに、窓花は明かされ続けなければならない。それが、女の感じるノーマルな感覚に他ならないことに。そして、彼にとってそれはノーマルな事象ではない。それは、他人の性に過ぎない。わたしのそれを迎え入れて、窓花が愛した彼のそれを包み込むときに、窓花は自分の身体が彼自身を裏切って止まないことに気付く。いつも、この、男たちのいじましい妄想によって、あるいは女たちの羨望によって夢見られたように美しく、鮮やかな褐色の、滑らかな少女の身体が。ときに、窓花さえ、鏡の前の身体に焦がれさえしたかもしれない。多くの女たちが、わたしのそれを受け入れ、わたしは愛されながら、確かに、ときに、愛しさえしたのだった。多くの、彼女たち、彼らを、ときに、中学に入って、ややあって夏を過ぎたあたりに、翔が裕幸と付き合い始めたのを知ったときは、裏切られたような気がしたものだった。翔を、愛していたとは言えない。愛していなかったともいえない。なぜ、彼女がわたしを愛さなかったのか、わたしにはわからなかった。わたしはときに、翔に尋ねてみたくなった。授業中に、不意に、彼女の後姿が目にはいったときの一瞬に。なぜ、わたしを愛さずにいられるのか?「なんで、」多くの女が愛さずにいられないというのに?わたしは、前の席の翔に聞いた。「手首切ったの?一年ん時。」休憩時間だったが、読んでいた本を伏せながら振り向いて、「なんなん?そのデリカシー的なもののなさ」声を立てて笑い「さすがに、やばいね」不意に康正もつられて笑ったが、「なんか、悲しかったんじゃん?わかんないけど、あるじゃん、そういうの。」ああ、と口の中でいい、聞こえるはずのない相槌に、ね。翔は答えて相槌を打つが、「まあ、特に後悔もないんだけどね。ちょっとね、ないよね。ああいうのは、ないよ、ないない。たぶん」わたしには、彼女の言うことの全てがわかっていた。彼女は、わたしが知っていることを繰り返して言っていたに過ぎなかった。とめどもない悲しみが、悲しみとして純粋なまま、彼女にカミソリをとらせた。死ぬつもりだったのか、そうではなかったのか、それなりの深さを持った傷がとめどなく流れ出した自らの血の中で、痛みを感じたのはその先端が触れた最初の一瞬の、あの接触の一瞬に過ぎなかった。むき出しの腹部にトルエンを撒いて、圭吾が煙草を押し付けると、それは音も立てずに透明な火をたてて、翔の肌が焼かれる、生くさい臭気をわたしは感じた。祐樹の部屋の中で、監禁され、失神したままだった翔が、その苦痛に再び目を覚ましたとき、またすぐにしずかになって、歯を食いしばって、翔は沈黙していたままだった。


月の船、星の林に 4

何日目だったろうか?ここに連れ込まれて。

 

 

彼女の見開かれた目が、天井のほうを、膜を張られたような不確かな視線のまま凝視し、わたしは、ベッドに腰掛けて、全裸に剥かれた床の上の翔の、思ったより豊かだった体の曲線に、彼女が女だったことをいまさらのように思い知らされる。翔は、わたしが誰なのか、気付いているのか、いないのか、自分でも気付かなかったに違いない。顔はところどころ腫れていて、曝され皮膚に無数の焼かれた痕跡がある。ガソリンだったらもっとよく燃えんじゃん?という弘明を一哉が、あぶねぇよ「おれまで燃えちゃうじゃん」茶化して笑った。翔の髪の毛が薄くなっていて、痙攣的な、どこか機械的な表情の推移が、翔の頭脳が、最早、正常とはいえなくなっているのを明示する。誰もがそれを知っていた。翔自身さえも。剥ぎ取られた数枚の彼女のつめが、ティッシュペーパーにつつまれて、隅のテーブルの上に保管されていたが、「帰してやったほうが、いいんじゃないの。結構、やばいぜ。」弘明が言うのを、思わずわたしは声を立てて笑い。「いや、無理でしょ。」わたしは言った。「いまさら、無理だって」笑う。事実、そうだった。もはや、既に、何ものも無傷ではないのだった。翔の体の上で、皮膚を焦がした透明な火は消えて行き、一哉がわざと下卑た笑い声を立てながら乳首の上から垂らしたトルエンは、その脇まで垂れていくが、「いまさら帰せないでしょ。ここまできたら」祐樹は同意するように言って、その悟りすまされた声の終わらないうちに、一哉のライターでつけた火が、また、しずかに燃え上がり、透明な小さな炎の周辺だけ、皮膚は汗ばんでいる。匂う。翔は無言で、詰められた息遣いを鼻だけに吐き、その火で弘明は煙草に火をつけようとしたが、翔はそれに、はっと、気付く。弘明は翔の皮膚の、乳児に乳をぶちまけたような体臭を嗅ぐ。焼かれる皮膚の鮮やか過ぎる痛みが彼女の頭の中に反響ていて、苦痛が全ての知覚を塗りつぶしたときに、その立った火の透明さに、蝶ちょのような、。と思ったが、自分の内側だけで立てられた悲鳴の連鎖が、それが蝶とはどこも似ていないことなど知っていた。「でも、最初にさ、やっちゃったときからさ、もう帰せなかったわけじゃん。結局はさ。どうせ、」チクんだから。不意に、口から煙草を放して言う弘明は、かんがえてみりゃあさ、耳元に、「でも、かんがえてみりゃあさあ、かわいそうな子だよな」と(ひと)語散(ごち)る祐樹の声を聞き、絡みつくような、舌の愛撫のあとで窓花はわたしを下にしたまま、彼は、わたしのそれを自分の体内に導きながら、自分のそれが彼の体内に挿入されていくのを感じようとする。あきらかに、矛盾した感覚は、事実、窓花はわたしを愛しているのであって、他の女を愛しているわけではない。窓花が欲しがっているのは、単なる男性性器ではなかったことなど、わたしにもわかっていた。窓花は彼の矛盾を、どうにかして解消しなければならなかった。まるで男が女にするように腰を使うが、窓花が下にしたあきらかに男性の筋肉質な、骨格の張ったそれは目の前に、彼を茫然とさせるほどに匂いたちさえして、ここに、と窓花が言った。あの女さえ、物欲しげにそうの行為を見つめ続けるものの、「おとんがいる。」みずからの下腹部をなでて、窓花は言い、女が飢えているのは、たんなんる男性性器ではない。「妊娠してるの。ぼく。たぶん。」女は窓花とわたしを見つめ続け、愛する男の、少女の身体への、それは何なのか?「知ってた?」窓花は深刻ぶって言い、まるで何かを告白しようとしているかのように、女は、愛しながら、見とれさえしながら、「みんな、つながってるんだなって。」ストレートに過ぎないこの女が求めているのは、「結局、みんなで、一つなんかなって、」本来、こんなものでは「おもったりして」なかったはずだった。既に彼女自身が所有している種のそれは、憧れられるのはあまりにも近い近さで、窓花の体に、目覚め続けていた。妬いちゃった?「潤ちゃんの前に会ったやつの子どもだと思うけど」例えそれが、彼女をして見惚らせざるを得ないほどに美しかったとしても。「俺たちは、美しくないといけない」窓花は言うが、女はさっきからずっと寝た振りをしていて、例え呼んだとして眼を覚ましたそぶりなどしないに違いなく、わたしはまだその女の名前を知らない。部屋の表札に苗字さえかかれてはいなかった。「美しくなければ、」402号室と言う以外に、

「雨が降ってる」わたしは窓花の胸を撫ぜてやりながら、その、少女の美しい胸部の曲線に朝の、雨の日の窓越しの陽光が、肌は褐色に浮かび上がる。わたしは言った「一日中雨だろうな、たぶん、今日は、」そして、わたしを、子どもを抱くように腕枕をして抱いた窓花は、わたしをなど見てはいないが、窓花は言った「猫が俊敏なように、」

「やがて」わたしの「もうすぐ、土砂降りになる。」声を聞く。

「狼の牙が鋭いように、」窓日がわたしの額に「音を立てて、」わたしのその声を聞き乍ら口付けると、彼は、

「猿の木の枝を這う腕が長く繊細なように、」言った。

「土砂降りになった雨が、その」

「手先は極端な繊細さに極端な英知を宿らせて、」

「自分で立てた音響の中に、」

「言葉は研ぎ澄まされるだけ研ぎ澄まされて、」

「雨の色を知ってるか?」

「美しさは、目をもくらませるほどに、」

「無色のそれは塗りつぶす、自分の色に、」

「その美しさは、」

「美しくさえなく、全ての」

「だからって、何が?」

「その、」

「美しさが、なにを?」

「色彩の鮮やかさを破壊し尽くしながら」

「何ができたんだろう?世界から、守られるために。」

「色彩は、」

「生き残るために、今、生きてあるために、」

「すべての色彩のそのすべては、」

「美しくなければならない。」

「それらは既に」

「今、この時に、」

「失われていた」

「俺は知ってる」

「雨の中に、」

「できなかったこと以外に、」

「覆い尽くされた音響の中で、」

「できなかったことなど何もなかった」

「その音響の残響の終わらない中で、」

「既に、」

「俺たちは、」口付けるのだった。「既に。」上から、「不思議だったんだ」わたしに口付けられたその唇が、

「ねぇ、どうして?」

「蝶は雨の中を」

「君は、僕のこと」

「飛ぶことができないの?」

「好きなの?」笑いながら

「ならば」

「どうして」

「雨の中で」

「ほかの」

「無数の」

「だれでもなく」

「蝶は」

「ぼくを」

「何をするの?」

「君は」

「どこにいて」

「だれを」

「息をひそめて」

「愛したの?」

「何を見て」

「今、」

「何を感じるのか?」

「君の」

「その」

「唇は」

「あざやかな」

「無言のうちに」

「翼の存在の」

「何も」

「意味を奪った」

「見てさえいない」

「雨の」

「ふりをして」降りしきるかのような「中で」むさぼるように押し付けられる窓花の唇を、彼は少年だった。欲情に身を任せた少年に他ならず、いま、とはいえ、彼が愛しているそれが男性に他ならないことに気付きながら、いつから自分が同性愛者になったのか、窓花は訝らずにいられない。見苦しいだけのホモたち。その同類項。彼が生理的に嫌悪する類の人種。閉じられた目はやがて開かれて、床の上で仰向けのまま、女が目を覚ましているのに気付く。「おとんが初めての相手だった。知ってた?」あからさまな、女の目が宿らせている嫉妬が、執拗に彼女は目でわたしと窓花の身体を追った。なぜ、窓花は、十二歳くらいかな、わたしにしないの?ささやく「おとんが」結局なぜ、耐えられなくなって、わたしじゃないの?耳元に「俺を強姦したの」やっちゃったの。なぜ、女は、そして放置すんの?ねぇ、その嫉妬はわたしのこと、ね。何にむけられるのか?その男が、わたしに、彼自身にとっても不可解な感情を抱いているのは知っていた。なんで?「俺が綺麗すぎるからじゃん?」研究所の中で、わたしより十歳以上年上の彼は、坊主頭に近いほど刈り上げられた頭の中で、「やりたくなるじゃん。誰だって」わたしを見つめずにいられないのをは、「俺、美貌じゃん?じゃね?」わたしも、彼自身も知っていた。「我慢できなくって。だって、十二の頃、」嘗て、杉山と言う、その彼が同性愛者だったことなど一度もない。「もっと綺麗だったもん。俺」今ですら。そして、杉山はあきらかに、隠しようもなく、わたしに恋焦がれていた。「一回やっちゃったら、もう、駄目だよね」わたしよりはるかに鈍重な頭脳で。「好き、好き、好き、で」わたしへの嫉妬にさえまみれながら。「死ぬほど嫌だった」窓日が死んでから、「おとんのこと」まだ、一年もたってはいなかった。「ぶっ殺してやりたかった」わたしがまだ日本にいた、或いは、いられた頃の、春の深い時期に、「あいつ、抱いたのは女の体だぜ。俺の」上原は中国に行ったきり、「なめてんの?あいつ。」半年以上、帰ってこないままだった。「おれは女じゃない。ホモじゃないし、」確かに、ストレスの多い職場だったことは間違いない。「わかる?」わたしたちのヒトDNA書き換えの研究はお決まりの倫理問題を、あきらかに、多く抱えてはいた。「3回目、あいつが俺をやった後、」かならずしも、それが倫理的に正しい研究だという確信を誰も獲られないままに、「出ちゃったの。家。」多くの懐疑にまみれながら続けられる研究は、とはいえ、「許せないから。」形骸化した倫理が命を救ったこともなければ、奪われてしかるべき命を救ったことなどもなかったのだ。そう言うことだってできたはずだ。その日、不意に後ろから近づいてきた杉山は、「水沢さん、ちょっと、いいですか?」無菌室から出てきたばかりのわたしが、何ですか?振り向きざまにわたしの半身にぶちまけられた可燃性のその溶液は、杉山にライターにつけられた火に燃え上がり、わたしの皮膚を白衣ごと焼き尽くそうとする。騒ぎ立ってやまない分子を停滞させ、触れることを可能にするその溶液が引火性のものだということくらいは知っていたが、改めて現実に目にするその圧倒的な引火性は、火そのものを鼓舞する司祭か何かの様に、強烈な熱さが苦痛そのものとなって、わたしの全身を支配しきっていたのは知っていた。今、叫んでいるのか、むしろ、無言でさえいるのか、それすらもわたしは知らなかった。苦痛?そんなものはどこにもない。あの最初の一瞬のあと、苦痛そのものが、神経系の正常運用を遮断してしまった。目覚めたまま灼ききれた神経系は、最早、感じているはずの現実の苦痛の断片をすら伝えない。火が消されるのに時間はかからない。もみくちゃにされて殴打される杉山が、人の山の中に崩れ落ち、炎は一瞬でわたしの身体の40%近くを焼いた。なんだよ、こいつ、と、泣きそうな顔で、もはや無抵抗の杉山の上に乗っかった山城が言った「こいつ、狂ってんじゃん」はき捨てるように。狂気。杉山はなにがしたかったのだろう?馬乗りになられた杉山は茫然と無表情な白目を曝しながら。山城はまだ知らなかった。人間の単なる精神疾患など、狂気の名には値しない。人間の精神的な「発狂」など、単なるささやかな精神疾患にすぎない。例えその疾患の論理が、彼が銃を乱射して無数の人間を惨殺する結果をもたらしたとしても、彼が殺した身体を解剖して食ってしまったとしても、いわゆる親族に極度の精神的な動揺と負担を喚起したにしても、治療費と言う名目の莫大な金銭を消費さしめたとしても、だ。本当の狂気を知っているか?何と言うわけでもなく採取した《白血病》のBạch の血液の中で繰り広げられているはずの、深刻な狂気に、わたしは目を疑ったものだ。それは、文字通り、どうしようもないほどに純粋な発狂だった。彼女の極端に覚醒した、奇形化すらした白血球は、もはや自分以外の全てを外敵とみなして、常なる戦争状態にいた。覚醒しきったリンパ球と白血球の不断なる暴力状態。それらはすべてを殲滅しようとしていた。その固体以外のものが全て殺戮の対象であるとき、その状況がこの形姿の奇形化をもたらしたのか、奇形化がそれをもたらしたのか、わたしにはわからなかった。確かに、「白血病」といわれればそういえるのかもしれない。鈍磨剤で酔いつぶれさせられた白血球はほとんど活動も見られず、そしてそれは、彼女の免疫系の破綻を意味していた。わずかな細菌も、彼女にとっては、いま、致命的なはずだった。鈍磨剤を切ってしまえば、白血球の凄惨な殺戮が、最早比喩表現ではなく、彼女に想像もつかないほどの苦痛を与えながら、彼女の身体は破綻するしかない。いずれにしても、免疫系は完全に破綻している。


月の船、星の林に 5

本来、彼女は無菌室の中以外では生きていられないのだった。「気違いばかりよ」とわたしの焼けてひきつった顔の半分を見たとき、多恵子は言ったが、それは一度台湾に渡る前に、実家に帰ったときだった。入院していたわたしを見舞った上原は、わたしの焼け爛れた半分の顔を見て、まるでマッド・サイエンティストの見本ですね、と笑ったものだった。汪と会ってきたばかりの上原は、「まるで、アメリカ映画ですね。国家機密の軍用施設でゾンビの研究でもはじめたんですか?」声を立てて笑い、研究は、日本ではほとんど不可能だった。杉山の事件もその非倫理性に花を添えた。何も咲かさない花を。「汪は施術を希望しました。リスクは十分理解しています。あとは、あなたとわたしの腕次第です。」本当に?一瞬、信じられずにわたしは、そう、と、上原は、「そうまでして生きたいらしい」言った。地球人口の6分の1は中国人なのにね、と、「気違いばかりだ」みずからが吐いたその言葉を聞いた瞬間に、多恵子は何かを思い出しそうになって、一瞬、嘔吐しそうになるが、多恵子はかろうじて持ちこたえた。「けど、あいかわらず」薫は「イケメンのまんまで」言いながら、自分の言葉への戸惑いの中で声を耐えて笑い、確かに焼け爛れた半分の崩壊も、わたしの美しさを破壊しなかったことをは、わたしだって知っていた。それは彼らとの、十年ぶりに近い再会だった。「けど、痛かったでしょう?」と多恵子は、その瞬間に彼女の、焦点すら合わせられずに見開かれた目は、わたしへの凝視が既にそこにはなく、自分では見たこともない嘗て見たあの記憶に向かって見開かれながら、必死にそれから目を逸らそうとしているのを、わたしは知っていた。多恵子の娘の死んだ皮膚には無数のケロイドが散在していた。わたしも呼び出された、或いは、町中の少年のほとんどが尋問されもした、あの調査と裁判のときに、彼女がいったい、何回失神と嘔吐と痙攣と意味不明な絶叫を繰り返したかわからない。悲惨な、というよりも、最早、彼女が普通ではないことに、例えばわたしの母は目を背けながら、ああなっちゃおしまいよ。「人生、もう、終わり」そう呟いたが、それは同情だったとはいえない。薫と、二人だけで居酒屋に行ったのは、多恵子から逃れるためかもしれない。薫も、もう三十を超えていた。彼もまた彼女の介護をし続けたのだが、薫は彼女から目を逸らし続けなければならなかった。やがて、彼女の存在そのものが、あの事件をただ、想起させ続ける執拗な記憶の根拠にでしかあり獲なくなった限りにおいて。わたしと彼が、親しかったことなど一度もない。無口な少年だったが、あの事件の前からそうだった記憶はない。そうではなかった記憶もない。希薄な、薄らんだ記憶の中で、翔に文句を言われてはいじけていた姿くらいしか思い出せない。なんでよ?彼は翔に言った。「うるせぇよ」希薄な人間に過ぎなかった。「覚えてます?」薫の、甲高く浮いた地の声を耳の中に、「水沢さんって、神童扱いだったじゃないですか、子どもの頃」わたしは、あの少年がいまや、敬語をさえわたしに使うような大人になったことに改めて気付き、30近くなった、体格のいい、わたしよりもはるかに背の高いこの男の、汗ばんだ匂いを鼻にした。「神童って」わたしは声を立てて笑い、「いや、本当に。母なんかも言ってましたもん。姉が水沢さんと並ぶと、見劣りして困るって。中身も外見も、ですけどね」薫の笑う声を聞き、薫は癒えた、のだろうか?何から?姉の死から?癒える、とは、何なのか?東京都周辺の、嘗てニュータウンと呼ばれた、いまや、閑散とした、その町の雑然とした繁華街らしき場所の居酒屋は、疎らな現地の住人が寄り集まっているに過ぎない。都市と都市周辺は何度も再開発されては古びていき、次なる再開発を待つしかない。「結婚したんですか?もう?まだ?」わたしは、まだ、全然、相手すらいないよ、薫の丸っこい鼻は、彼が何か思うたびに、かすかに嗅がれた匂いを思い出したように小さくひくつく。「そんな、なんか、いや、でも、そうかな」そんな癖ができたのは、いつからなのだろう、「実際、恐れ多くて、近付けないのかも知れない。水沢さんに。むかしの姉貴みたいに」昔からそうだったのか、それとも、大人になってからの癖なのか、「いまなんて、ちょっと、もう、この世の人じゃない的なね、」重力にへばりつき、細胞組織の自己活動に支配されているに過ぎない、「いや、普通の女なんて、近付けないでしょう?」そしてその活動を支配することさえできない、「そんなことないよ」この精神と言うもの。声を立てて笑い、君はもう生きられない、とわたしはBạch に言った。「薫くんは?お前は、君は、どうなの?」知ってるよ、Bạch は笑いもせずに、「俺?いや、実は、結婚してて、もう」やっぱ、無理だよね。みんな言うもん「千葉のほうに。ちょうど昨日、ほら、命日で」窓越しの日差しに横から差されるままに、「誰の?」無理だよって、とBạch は言い、「ひどいな」彼は声を立てて笑った、「姉貴のですよ」確かに、あの事件があったのは、夏だった。夏休みが始まる直前に監禁されて、夏休みの終わりごろに、彼女は死んだのだから。誰が直接殺したとは言えない。和明は言っていた。直樹が言っていた、頭、ポンってはたいたの、そしたらさ、あいつ、あっ、って言った気がしたけど、翔はその瞬間崩れ落ちるように死んでいった。深刻な暴力の果てに、不意の、かすかな手のひらの頭部への接触が。誰も、その瞬間、彼女が死んだことにさえ気付かなかったほどに、「大変だったろ?あれから」翔のことを、初めて思い出したように話している自分に気付いた。誰が?「いや、母がね。祖母も。父も、まあ、おれもですけど」わたしたちが。日本に行ってみたいな、と窓越しの淡い日差しを振り向きながら、Bạch は言った。まだ、雨は降っていない。「今の女房と会うまで、おれ、女、知らなかったもん」どうして?だって、日本ってさ、ベトナムと違って、ゲイとかホモとか、いっぱいいるんでしょ「どうしても、なんか、セックスって言うのが。無理だったんですね、」まさか。いないよ。そんなには。でも、サムライってホモでしょ?なんで?「おれには。トラウマなのかな。トラウマって言うんですか?こういうの。」日本語学校行ってるやつが言ってたの。その子の先生、留学したこともある。「そもそも、付き合うって言うのもね。好きになるっていうこととか、」四年も。四年間もだよ。生き辛い?ここだと。生き易くはない。なんとなく。けど「あのことあって。でも、あの子が口説いてきて、何回も。で、なんとなく。」どんなことが?何で、生き易くはないの?一応、女の子として「ほんとに、なんでこうなったのかわからないんですけど」認知してくれはするけど「けど、初めてあいつ、抱いたとき、変な話ですけど」とはいえ、君は海なんか渡れない。知ってる。死んじゃうよ。「すげぇ、何かが洗われた気がしたっていうか、なんか、」でもさ、「変な話、やっちゃった後、泣きましたよ、おれ」一回くらいは「大泣き」口の中だけで、「号泣、っす、ね。まじ。」声を立てて、薫は笑った。結果的にいま、潔癖症患者の世界観を確率論以前に全き現実にしてしまっているBạch の身体が、無数の人間たちの雑菌にまみれた空港の中を、無事に通過できるわけがない。ほぼ100パーセントの確率と言うことは、確率論の領域などではないということだ。潔癖症患者の論理すら超えた現実が、彼女に襲い掛かる。

 

 

「名前は?」不意に、振り向いて言うわたしに、何を言われたのか戸惑った表情をして、女はわたしを伺い見たが、窓花の出て行ったあと、女と二人で残されたものの、女のわたしを意識しすぎた気配が、執拗に部屋の中をよどませ、窒息してしまいそうだ、とわたしは思った。誰の?女は言うが、すぐに、彼女は自分の名前を尋ねられたことを察する。未だに、女の名前さえ知らなかった。もう、五回以上は、顔を合わせたのに。彼女の部屋を、毎日訪ねる必要などなかった。「知恵」と女はいい、声を立てて笑うが、なぜ、女の部屋に、わたし自身入り浸るのか、わたしにはついにわからなかった。そういえば、わたし、と、その媚を作った声を、「あなたの」わたしまだ知らないです「お名前」窓花を殺してしまったのは、知恵の父親だった。



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