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自序

自序

 

まず、説明が必要です。

最初、冒頭部、詩的といえば詩的、意味不明といえば意味不明の言葉が群がります。

それらの中から、やがて、意味を読み取れる文列が不意に生起し初めて、

小説は物語を物語り始めるのですが、

つまり、常に《話者》が正気であるとは限らない、と言うことです。

不意の、狂気。

精神疾患という、非=正気のカテゴリーの中に綺麗に分類されてしまうようなそれではなくて、

不意に落ち込むような狂気。

私たちが、日常的にまみれているもの。

例えば、青空を見上げた瞬間に、不意に泣き出してしまいそうになるような、

…美しい、と、ただ、無意味にそうつぶやいてしまわざるを獲ないような瞬間。

むしろ、私たちの日常は、そうした、ざらっとした《正気とはいえないもの》にまみれているはずです。

 

また、この小説は、80年代末期に起きた、

いわゆる《女子高生コンクリート詰め殺人事件》の記憶にインスパイアされています。

取材はしていません。故に、直接的な関係はなにもありません。

あくまで、勝手な想像力の産物に過ぎません。

当時、同時代だった私も、この「戦慄的」な事件に「戦慄」しましたが、

その「戦慄」はむしろ、かりに、自分の身近でこの事件が起こった場合、

はたして私自身は加害者にならないですむのか、その確信が獲られなかったことでした。

無軌道で、犯行的な少年でしたし、どちらかと言えば犯罪に身近だった事実もありますが、

そうではなくて、《倫理的な一般人の》わたしたちは、本当にこの事件を、阻止できるだろうか?

 

わたしには、自分のそのあやふやな《倫理》感の、あやふやさに怯えたのでした。

しつようで、曖昧な怯え。

 

あの事件の犠牲者の少女は、死体解剖の結果、初期の受胎が確認されたそうです。

もしも、その命が生まれていたなら?

彼はどんな風景を見るのか?

彼が見る風景はどんなものなのか?

そう考えたときに、出来上がったのが、この小説です。

 

いろいろと、過激な描写もありますが、それが目的ではありません。

あくまで、問題にしているのは、

わたしたちが《倫理的》に生きるとはどういうことなのか、

その可能性と限界を思考しようとしました。

 

2018.05.14. Seno-Lê Ma


ブーゲンビリアの花簪1

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブーゲンビリアの花簪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しずかな、その、音も無く、しずかに白濁して、それら、白濁はやがて、白い、その。白濁していくままに、色。白さ、いつのまにか混ざっていた白さが広がって、ついにしずかな、その、音も無く、

花々が

しずかに

散って

白濁して、

行く

それら、

その時に

白濁は

ふと

やがて、

思い出された

白い、その。

光。

白濁していくままに、色。白さ、いつか いつのまにか 見上げた 混ざっていた 青、白さが それは 広がって、おそらくは ついに

色彩。

白くのまれた

…青空の。

眼差しの中に、

光、

靄だてられた まばたいた 樹木は 瞬間に 沈黙したまま 遮断された 目の前で 光は 燃え上がった 照らし続けた その時には、わたしと わたしに 君に 無視された 音もなく、半身が 感じられたのは 起き上がったのを、温度。すでに ただ 打ちつけた 光の 雨は 温度。奪い去って行った。かすかな、どこに?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

何度目かの雨期に、開かれた唇の上に停滞していた羽ばたきは、ただ、触感として、やがてあのまま雨に濡れたのだろうか?その蝶の群れの、色彩を

触れないとでも?

失ったままに

光に。

羽ばたかれた

触れなかったとでも?

空気のゆらめきが、光に。九月の雨に。

まだ遠い。

火事だよ、と 光が 言った。照らした。遠くの空に。光が のばされた 触れた。左手が光にけっして 触れた。空をは 光を 掴み取らなかったにしても、隔たりきらない近さとしてうずくまりながら、わたしに、そして指先は、触れられた。決して 光に ゆがまない 触れて 鏡面を 触れた。なぞったものだった。光は、そのざらつた無数の映像の中断されなかった蝶々の断片は、その雨に触れた濡れたかすかなきらめきさえも含めて、わたしは あらゆる 物を ノイズに 見たのか? 装飾されたのだった。むしろ それらは 光を きっと、見たのか? いつかは 視覚。雲の切れ間を 光の 見たのだった。充溢。あの雨の中でさえも、燃え盛った、それらは、失われた雨の暗さを切り裂いた、空の突端にまで引き上げられた木漏れ日のむれを、やがては同じ雨に、かれらのいくつものの身体は、覚醒されていた断片として、夜明け前の蝶の群れのいつか(ひと)語散(ごち)るままにサイゴンに来たばかりのとき、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

しずかな、その、音も無く、しずかに しずかな、白濁して、その、それら、音も無く、白濁は しずかに やがて、しずかな、白い、白濁して、その。それら、白濁していくままに、音も無く、色。白濁は 白さ、しずかに いつのまにか やがて、混ざっていた 白い、白さが 白濁して、広がって、その。ついに それら、白くのまれた 白濁していくままに、眼差しの中に、音も無く、靄だてられた 色。樹木は 白濁は 沈黙したまま 白さ、目の前で しずかに 燃え上がった いつのまにか その時には、やがて、わたしに 混ざっていた 無視された 白い、半身が 白さが 起き上がったのを、白濁して、すでに 広がって、打ちつけた その。雨は ついに 奪い去って それら、行った。白くのまれた どこに?

何度目かの雨期に、開かれた唇の上に停滞していた羽ばたきは、ただ、触感として、やがてあのまま雨に濡れたのだろうか?その蝶の群れの、色彩を 触れられないとでも? 失ったままに 光には。羽ばたかれた 触れられなかったとでも? 空気のゆらめきが、光には。九月の雨に。

まだ遠い。

火事だよ、と

光が

言った。

照らした。

遠くの空に。

光が

のばされた

触れた。

左手が

光に

けっして

触れた。

空をは

光を

掴み取らなかったにしても、隔たりきらない近さとしてうずくまりながら、わたしに、そして指先は、

触れられた。

決して

光に

ゆがまない

触れて

鏡面を

触れた。

なぞったものだった。

光は、

そのざらつた無数の映像の中断されなかった蝶々の断片は、その雨に触れた濡れたかすかなきらめきさえも含めて、

わたしは

あらゆる

物を

ノイズに

見たのか? 装飾されたのだった。むしろ それらは 光を きっと、見たのか? いつかは 視覚。雲の切れ間を 光の 見たのだった。充溢。あの雨の中でさえも、燃え盛った、それらは、失われた雨の暗さを切り裂いた、空の突端にまで引き上げられた木漏れ日のむれを、やがては同じ雨に、かれらのいくつものの身体は、覚醒されていた断片として、夜明け前の蝶の群れのいつか(ひと)語散(ごち)るままにサイゴンに来たばかりのとき、魅了されたのは、相対的に北のほうの人間らしく、光の散乱の直射する美しさだった。その、眼差し、皮膚感覚、呼吸された喉越しの空気、それらのすべてに感じられた、それら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

既に知っていた。わたしは、熱帯雨林の熱気、たぶんに差別主義的な《文明人》の感傷で、わたしの視界には、未開だが豊かで素直な人々の貧しいおろかな文化、とわたしが感じ、あるいはむしろ、そう感じようとしたすべての目に映るもの、雑然としたままの未整理な街路、人々の褐色の肌と、聞き慣れない言語の発音、彼らの粗雑な眼差し、それらに、自分の中で凍りついた(凍りついていた)何かが、(として再び見出されるに違いない何か、)無根拠なままに(として措定された)解放されていく(何か。)気がしたものだった。(根拠もないままに、)すでに、(一つの確信として、)。あらかじめ予感されながら、(不意に思い出された記憶のように。)すでに(そう感じるだろうとは)飛行機の極端に冷房の聞いた肌寒い空間の中でさえ予測されていたそのままを単に追体験しながら、それらに驚いてみせることも忘れなかった。

もっと前から、わたしは、これらに目がふれ、それらを、耳が捉え、それらが皮膚に感じ取られるその前に、たとえばまだ大学生で、中島敦の南洋物を読んだときにはすでに。たとえばポール・ボウルズ、或いは中学のときに読んだランボォ。Lệ Hằng レ・ハンと言う名の十代らしい女が、わたしのからだの上で、…Nguyên Văn Lệ Hằng その名前、グイン・ヴァン・レ・ハン、彼女は飽きもせずわたしの体の匂いを嗅ぎつづけた。

その突き出されたままの唇を、わたしは眼差しのうちに捉え、みだらな、ふしだらな、わがままで衝動的な、彼女が持っているかもしれないそれらの属性を予兆させた、上下にふちをめくれ上がらせた、その唇。それがかすかに開かれたままに、わたしの皮膚のすれすれの距離に接近させられて。穢死丸、とわたしに勝手に名付けられた少年は、傍らで笑い、何年もずっと渇かないままの血を口元に潤わせ、声をたてて、「まだ雨は、」と、言いながら「…降りません。」その声は、Lệ Hằng にも聞かれただろうか?

まだ雨は

外人用のホテルは(あるいは、結果的に中国人や、韓国人にしかそこに滞在されず、いつか外国人の吹き溜まりになったらしい豪奢な純白のそれは、)古い躯体に何度も漆喰を塗り固められて、

降りません

どこかすさんだ、フランス風なのか中華圏風なのか定められない殺伐とした優美さをかたちづくって、いまだ崩壊しない廃墟のようなたたずまいが目に心地よかった。

なぜ?

Lệ Hằng を愛していたわけではなかったが、彼女に惹かれているのかも知れない。いずれにしても彼女の幼い裸はわたしの裸の体の上にのっかっていて、ファンデーションも何もほどこされないままに、唇にだけ塗られたリップの赤は、彼女の顔立ちを淫売じみて見せた。

わたしの皮膚に、ときに呼吸がかけられたその感覚を、わたしは、彼女の正確な年齢さえ知らなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

英語すらできない彼女とは、言葉によってとられるコミュニケーションは不可能だった。すでに、いつも。十六、七歳くらいより以上には思えなかった。何人もの男たちに使い古されてきたような身体だった。栄養失調児のように痩せ、取り付いた栄養失調にそこだけ見捨てられたかのように、乳房だけが豊満な、性的な愛玩物のようにさえ見えた、その身体を抱きながら、何もかも許されていて、何もかも許された気がした。

わたしは彼女のはじめての男だった。ついには、…好き?誰か、…俺のこと?彼女に愛され獲たことなど、なんで、かつて、愛せないの? 自分以外の 俺以外に、存在を 誰も。愛するどころか、関心を向けたことさえ、…ねぇ? 彼女は、その、蝶の無関心な羽撃きが、結局のところ、何ものかを 窒息する。見出したことなど 不意に、無かったのだった。見上げた 飛べ、と 青空の ささやかれるまでもなく、その 飛べ、と 色彩の中で。自ずから その、望まれた、蝶の その 無関心な 色彩の、羽撃きが 望まれさえしなかった、結局のところ、鮮やかな、何ものかを そして、窒息する。それは 見いだしたことなど あなたに 不意に 出会うまでは。無かったのだった。わたしに。見上げた その、飛べ、と かつては、色彩の中で。無数の 自ずから 現地の男たちのその、現地の美感覚に従って、望まれた彼ら、蝶の淫蕩な男たちに夢見られたように、かつては美しく、豊満だったものの、やがておとずれた衰弱がその名残を最後に乳房にだけ残した、そんなふうにさえ見えた、若いままに老いさらばえた肢体の、この少女は、わたし以外の男をなど愛したことさえなかったかも知れなかった。

あるいは、確実に。

結果的に、わたしのためだけにその純潔を守り続けことになった、極度に大きな目の、黒目がちなそのきらめきの漆黒の中に。

見た。

現地の人間たち。彼らベトナム人たちは思っていた。わたしを、こんにちは。現地の人間の ベトナム。現地の文化に対して こんにちは。理解のある、外人たち。要するに 縁もゆかりもない、進歩的な異なる人。人間だと、彼らは。彼らが差し出す豚足の煮込みも、小鳥の網焼きも、鶏の足の蒸し焼きも、文句も言わずに口にして、何も、何もかも、おいしがって食べてみせてやるのだから。微笑まれた友好的な眼差しと共に。それらの、先進国の人間にふさわしいマナーの、先進国の人間らしからぬ現地文化への親密な理解は、結局のところ、深刻な差別意識こそが支えていた。

たぶん、もっとも醜悪な差別意識が露出するのは、他者への理解を前面に表現しているときだった。彼らへの迫害、存在論的全否定、容赦ない見下しが発生するのは、彼らを同等あるいはそれ以上のものかもしれないとする認識においてしか発生しない。歴史的に、東アジアの末子にすぎない日本人たちが、歴史的に、やがて彼らを深刻な軽蔑と嫌悪と共に植民地主義の下に制圧してしまった不可解な歴史は、それによってしか説明できない。彼らを全身で、留保なき寛容さの中に受け止めるとき、わたしたちは、一切の軽蔑をさえ含まないまったき差別主義者になる。人は猿を軽蔑しない。アメリカ人が敗戦した日本人を軽蔑しなかったように。それどころか、彼らのいじましい島国文化を、美しくかつグロテスクな流儀として、やがて世界的に有名なものにさえしてやったように。スシ、ハラキリ、フジヤマ、ゲイシャ、…Lệ Hằng に対するわたしのように。

幼い顔立ちの、他よりはマシだというだけで、決して美しいとはいえない、幼く、わたし以外の男など知りもしなかったくせに、わたしの前で極端なまでにあばずれてみせる少女が、物欲しげに、わたしに纏わりついて離れずに、発情した誘惑的な眼差しで、とにかく、わたしを絡娶ろうと画策するしぐさの一つ一つに、うんざりしながら、やがて、迷うことなく彼女を抱いてやったとき、わたしが彼女を人間として認識していたとは思えない。

捨て猫を拾うように、哀れみと共に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて服を脱がそうとしたとき、むしろ彼女が拒絶して見せながら、わたしは目で追った。わたしの腕から逃れ、この褐色の少女を。それでも二、三歩離れた距離感の中にたたずんで、微笑みさえして。振り返り見た、…その時に。求められた挙句に断りきれずに決意したと言いたげな、潤んだ、決意を秘めた上目遣いに、わたしは声を立てて笑い(なが)ら、彼女は、その周囲においては、美しい少女だと認識されていることをは彼女自身さえもが、...em ơi. 気付いていた。愚かしくanh à... さえ見える、em à ... 戯れ、em ơi... じゃれて、...anh à, anh à 嬌声とともに em ơi, em ơi, 群がる anh à...男たち。カフェに一緒に行った若いベトナム人たちがみんな、お互いに目くばせしあって、わざと気付かれるように彼女に眼差しを投げていたのだから。はじめて彼女を見かけたのはそれらの眼差しを通してだったかも知れない。直接、わたしの眼差しが捉えた彼女は、貧弱な、痩せた、小柄な、その身体を包んだTシャツの黄色い色彩にすぎなかったかもしれない。

そのとき、Lệ Hằng を近くのカフェの娘なのか、使用人なのか、それさえ認識されないままに、彼女はそこで毎日顔を合わせていただけの少女だった。金で買ったわけではない。むしろ、わたしの身の回り品を買ってくるのは彼女だった。飲食代も何も払うのは彼女のほうなのだから、買われ、飼われたのはむしろわたしのほうだった。彼女がホテルの部屋に来るようになって、何日かたったその日に、朝早く部屋をノックした彼女が、小声で笑い声をこらえながら、荒く息遣って、その、ベッドールームのカーテンを閉めたときに、逆光の中に浮かんだLệ Hằng の、貧弱な、あからさまに色気づいた肢体を、彼女はわざと踊るように尻をくねらせて見せながら Anh, …anh Ma 服を脱いで、xem「何を、gì…」振り向いた彼女が何か …vậy ? anh xem gì vậy ? 言ったが、なにも xem em ? ききとれないまま、Anh có見て xem るの?」Lệ Hằng em không ? 不満そうに口を sao anh xem 尖らせた。のばした em. Luôn 両手で「…わたしを luôn?」ひざまづかせた …tai わたし sao ? の視線を、そのかすかに膨らんだ下腹部に誘うと、そこには、《Lê chi Ma》赤らんだ真新しいタトゥーで、わたしの名前のローマ字が彫ってあった。無数の蝶の翼の羽ばたきとともに。Lệ Hằng が声を立てて笑う、その頭上の彼女を見上げながらわたしは、感じる。わたしの指先が彼女の肌にまだ十分に黒づかない文字をなぜたのを。

Lê chi Ma レ、チ、マー。レ・チ・マー。レ・マー。ここの友人たちが、わたしがいくつか名乗った日本語の名前の一つから勝手につけてくれたわたしのベトナム名だった。

誰もが、誰かから聞いたに違いない。わたしのことを。誰かの、誰かたちの、誰もの噂話が、氾濫して行ったに違いない。連鎖した洪水のように、彼らに親密な外国人の、彼らが形成した肖像。彼は誰よりもベトナムを理解しているし、彼はいつでも微笑んでいる。それはわたしだった。

マーはもうベトナム人だから名前が必要だ。

 

…ベトナムの、と、彼らは笑って言った。ただ、親しげに。しかし、わたしの顔色を伺うようにして。彼らの、わたしを受け入れたことの証明として。彼らの声はわたしの周囲で、話され、ささやかれ、わたしは 騒がれ、あなたたちのからかわれ、友人です。囃し立てられ、わたしたちは それらの あなたの 音声の 友人です。群れを、少なくと、わたしは、今は。わたしが日本を出る前に、十五、六年ぶりに会った春奈はまるで、かろうじて生命活動を維持しているにすぎない壊れきった有機物でしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 


ブーゲンビリアの花簪2

我喜屋春奈という、一度聞いたらなかなか忘れられないには違いない、沖縄のどこかの島の出身の女だった。ベトナムを皮切りに、東南アジアに出店するという(そしてそれらの新規オーナーたちとの仕事が、そもそもの、わたしがベトナムに来た理由だったが、)飲食店の経験など全くないアパレルの社長との打ち合わせの後で、(それは子供に算数を教えるような仕事だった。)代々木八幡の駅前で背後から、不意に名前を呼ばれたわたしが訝りながら振り向いたとき、(わたしは見たのだった。)目の前にいたのは、普通ではない醜悪な肥満の仕方をしたうえに、(誰?と思いながら、わたしは)サイズの合わないTシャツを着て、(記憶の中には存在しない)かすかにふらつきながら胸元に、夢見る(誰かを探り、一方で)少女じみてあわせたまんまるい豚の手を(彼女はその)ぶるぶる震わせた、その、

 

ねぇ、

 

と(肥満に自分の表情をさえ埋没させていたが、)彼女は言った。「わかる?ねぇ。わたし、わかる?」わからなかった。わたしには、そして、彼女の体臭は、少し離れた距離にあってさえ、異臭と言うほかない、腐ったチーズをさらに醗酵させたような匂いがした。わたしは、「誰?」と、

 

誰、ですか?

 

春奈。言って、彼女は身をくの字にさえ曲げながら声を立てて笑い、「春奈だよ、わたし。」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

穢死丸 さえもが笑っていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしに共鳴したように。そしてわたしも。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「わからないよね、変わったからね、わたし。春奈。覚えてない?忘れた?」その早口の音声。舌をかみながら、年齢さえ見定められなかった。若く見える四十代後半なのか、老けて見える三十代前半なのか。

 

ああ、

 

と、わたしは、結局、彼女の実年齢は、二十代後半のはずなのだが、

 

あ、

 

ややあって、

 

ああ、

 

とだけ、やっと、わたしは言った。

わたしが最後に見た天使のようだった《春奈》と、目の前にいる壊れた《春奈》とは、まるで別のものだったが、言われてみればその遺伝子情報が、かすかに彼女の細胞の中にもいまだ残存しているのはわかった。わたしは彼女の体臭に目を背けた気がしたが、わたしが懐かしそうに彼女に笑いかけ続けていたのには気付いていた。すでに、それを、いまや、やがて、後悔さえしながら。人ごみの中で、彼女は明らかに異形だった。

どうしようもない、異質な、奇形の、「やばいね。」

彼女は、「変わんないね。老けたけど」

春奈は息を切らして言った。笑った。言葉一つ出すために、人がどれほどの体力を(すくなくともこの女が、)消耗するのか、わたしは知らしめられた。どこかで話、できない?

いや、いま、時間ないから。

いつ?じゃ、いつがいいの?いつ、…ね、いい?

てか、今日は無理だよ。

だから、いつ?…ね。

やり過ごそうとした。婉曲に断ろうとするわたしに、噛み付いてくるような彼女の要求は、そしてわたしは日曜日の昼過ぎを指定したのだし、面倒くさいからわたしの家に来る?

 

そう言った彼女の住居が、同じ渋谷区の、すぐ近くといってもいい距離だったのは意外だった。ずっと、五年近くこのあたりに住んでいたわたしは、もしも彼女もそうだったのなら、何度かどこかですれ違っていても不思議ではなかったし、事実、すれ違っていたのかも知れなかった。なぜ、彼女がずっとそばにいたように思い込んでしまったのか?誰も、なにも言いはしなかったのに、わたしは、目を背けようとし乍ら、どうしても背け切れない彼女への自分の眼差しにうんざりしたまま、そのまま改札に入ろうとした。

 

彼女は見逃さなかった。さき回るようにして、わたしの行く手をふさいだときに、周囲の人間たちが、すれ違いざまにわたしたちを横目に見たのは知っていた。

それはわたしのせいではない。

純粋に、彼女だけのせいだった。

わたしなど、彼らの視線の中で、意識されてさえいなかったに違いない。

明らかな、異常。極端に黄ばんだ皮膚と白目。黄疸。ノーメイクなのだが、何かに憑依されたような異常な肥満の奥に、くぼんだ目の周りだけが、何かが張り付いたように黒ずんでいて、焦点が合っていない目つきが、何を見てるの?しかし、何を。その眼差しに いま、捉えた 何を わたしを 見てるの? 捕獲したまま 何を。決して離そうとしない黒目は、絶えず震えていた。昼下がりの、代々木八幡の駅前の閑静な人ごみの中には、決して存在してはならない何か。同時に、既に、わたしに、それは、不快な、どうしようもなく不快な、そして、生理的な懐かしさを思いださせていた。

わたしたち人間種が、ほら、体細胞か脳細胞かいずれにせよ ...そこに。その営みのどこかしらに、ほら、いつか、ここに。既に住まわせ続けてたに違いないもの。予兆のようなものとして、ほら、すでに あそこに。誰もがよく知っていたもの。Here… 壊れる、there… ということ。And 彼女におしとどめられるまでもなく、everywhere… 改札に入ることはためらわれた。帰り先を知られる気がして、怖かったのだった。殴って拒絶するためには彼女に触れなければ為らず、わたしにはそれはできなかった。指先一本、触れたくなかった。彼女の居場所を知っておくのはいいが、自分の居場所を彼女に知られてしまうのは不安で仕方がない。きびすを返したわたしに、相変わらず独りで話しかけながら、むしろ、一切得られなかったわたしからの応答など、もはや、彼女自身にも求められてさえいなかったのかもしれない。性急な言葉が流れ出して止まらない。ドアを開けたタクシーの扉の中にまで、「あぶないぜ」つられて顔を突っ込んだ彼女に「顔、挟まれちゃうよ」一瞬、彼女は何が起こったのかわからない、何かの犠牲者のような顔をした。と、声をたてて笑った彼女は身を起こして、ドアを閉めてくれ乍ら、じゃね、バイバイ、彼女がわたしを、大袈裟な歓声を立てながら見送るのをは、わたしはもう見なかった。

眼を逸らしたまま、ガラスに手形が付いた気がした。運転手はすべてを無視したが、いま、と、声のするほうを振り向く前に、いま、花々は 咲きますよ。散るだろう、花々が。咲いたことの代償として、いま、その燃え上がった 咲きますよ。樹木の白濁の 花々が。向こうに?

そして、見えますか? 爪は もうすぐ 震えるのだった、両手の先の小さな領域の中だけに、いつも、開かれた口蓋は何を語ったのかと、かつて 見えますか? 目を凝らした人々は、もうすぐ その沈黙の形姿を、舞い上がった灰の、その舞いあがらせた春の風に重ねたのだった。蝶の羽ばたきの名残さえも、いま、と 咲きますよ。ふたたび 花々が 囁かれたならば、Lệ Hằng を裸にむいたまま、Lệ Hằng は窓際に立って、カーテン越しの午後の陽光の中に、わたしは Lệ Hằng を後ろ手につかまえたまま、やがて、片手でこっちを向かせてやると、すれすれの距離の中で、わたしは彼女に見とれてやる。この少女のために。その肢体を。

秒数だけを頭の中で数えながら。

Lệ Hằng が背を伸ばして、わたしが眼差しの中に捕らえているはずの美しい自分の裸体に、そしてわたしの眼差しに見つめられ続けていること自体に、倦んだような、

…一秒。

恍惚とした表情を曝したのは

…二秒。

知っている。

…三秒。

どんな女も、

とばして、

同じような

2657秒。

表情を曝した。彼女の右の乳首に唇を当てて、やがて乳房に顔をうずめると、見えない頭上で彼女が首を曲げて、わたしの頭に唇をあてがったまま、Lệ Hằng は髪の毛の匂いをかいだ。彼女のいまだ幼すぎる体には興味が持てない。Lệ Hằng は恍惚とした。やがて成熟しきったあとの体を前にしても、たぶん同じことを思うには違いない。Lệ Hằng はふと、鼻をすすった。たしかに、彼女を初めて抱こうとしていた数分の間だけは、彼女に、あるいはその体に魅了されたに違いない。

むせ返るような興奮があったのは、確かだった。見えたのは、破棄された工場の尖塔の逆光の、いつも、誰かをはじめて抱くときに自動的に感じるもの。外国人による、まだ未成年の、いたいけない少女への、何と言えばいいのだろう? 彼女の身体の中に、何度か失敗しながら、やがてわたしのそれが挿入されたときに、いつものように、高揚した喉の奥の中の温度はどこかへ溶解して、早く終わってくれることだけを願う。Lệ Hằng に、ほしい、と、いま、自分が彼女に魅了されて、求めても求めても、ほしくて、もう、ほしくてたまらずに、と、もっと、求めること自体が飢えを発生して、もっと、もはや飽き足ることがないのだと、そう、もっと、思わせてあげられるように、もっと、ほしい、もっと。ほしいよ。もっと、ほしい。ね?ほしくて、しかたないんだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

彼女の息遣いに自分に息遣いを重ねてあげながら。彼女が、その両親と口論しているのは良く見かけた。間違いなく、原因はわたし以外にはありえなかった。当然のことだ。いくらなんでも、年端のいかない娘がわけのわからない外国人に手篭めにされて面白い親などいない。

 

 

春奈はむかし、わたしが大学を出るまえから、新宿や六本木で水商売をやっていた、あのころに知り合った女だった。いかなるかたちでも、仕事上の付き合いはなかった。池袋のキャバクラで、それなりに名前の通った女で、そして当時親友だと呼びあっていた男の女だった。あるいは妹だった。

春奈との約束など忘れてしまえばよかった。わたしの記憶にあった、小柄で、見掛けは華奢だが、脱がしてみれば、それなりにふっくらと、極端なほどに扇情的で、児童ポルノまがいの色気のある体が現れる、切れ長の目の、色白で、淡白な顔立ちの中で、ゆたかな厚みをもった唇が、ただ赤く目を引く、あの21歳の女だとはどうしても思えなかった。必ずしも美しいわけでもなく、かわいいわけでもないが、どこか男好きのする、かつ、清楚な、謎をかけずにはおかない雰囲気を持った女、だった女。まるで別の人間にしか見えない。背の高ささえ違う気がした。整形の失敗なのか、後遺症なのか、何なのか。全部の複合態なのか、何なのか。年を取ったりやつれたり自然に劣化したのとは違う、あきらかに暴力的な劣化が、その顔にはあった。

インターネットで彼女の名前を検索すると、いくつかのノイズのなかに、彼女のブログと、フェイスブックが出てくる。ブログは、10年前から放置されたままの、おそらくは現存しない水商売の店のブログで、まだ、醜くはない彼女が写っていた。フェイスブックには、1枚だけ、昼間見たあの女の泣いているのか笑っているのかわからない顔が映っていて、その隣には 時には、見たことのない、思わず 地味な、笑ったりし乍ら、中年太りの その《おやじ》然とした、自分とは たぶん 本質的に 二十代後半の 無関係なはずの 男がならんで 彼女を 写っていた。見た。彼は、わたしは、つまらなくて 記憶を 仕方ないのを、まさぐり乍ら、無理やり笑わさせられたような顔をしていて、それでも彼女の誕生日を祝っているのだった。もともと、そんな笑顔しかできないのかもしれない。2012年。何年か、ちょっと前。それ以外に自分の写真はなく、料理や、風景の写真だけ。あるいは、すさんだ、自分の部屋の中らしいごみ屋敷の中のからの窓の逆光にぶれた写真など。あとは、二日をあけずアップされているらしい、文字だけの記事。今日また手首を切ったこと、生きていたくないこと、彼氏が例外的に今日やさしかったこと、今日言いことがあったが秘密だということ、あるいは、よくわからない身辺のことを、誰にもわかりようのないあだ名や言い回しだけで、膨大な量の文字数をつかって書いた、読解不能な、何かを訴えているらしい文章など。

明らかに、壊れた人間がいた。その、壊れ方が、わたしの興味を、少し、そして確実にそそった。

会ってみれば、一瞬でも興味をそそられたこと自体をすぐに後悔させられる。彼女が指定した場所の近くをうろつきながら、その居場所を探しているときに、ほんの少しの頭上でした彼女の声を、振り返って見上げた幡ヶ谷のアパートのベランダの逆光の中の彼女を見た瞬間に、すぐに逃げ出したくなる。手招かれたままに二階に上がると、ドアを開けて待っていた彼女は、安心して、と、男はどっかへ行って、今いないから、そう性急にささやいたまま、上目遣いの伺う目線の中に、一歩入っただけで部屋の中は、すえた異臭が鼻を打ち、呼吸をするのさえためられた。ほんの三十分程度しなかったいなかったが、逃げ出したいわたしには、それらの停滞しきった時間は永遠のように思えた。再び部屋を出たときにはじめて息を深く吸い込むが、空気に味があることに気付いた。新鮮で、腐っていない空気と、そうではない空気との絶対的な味覚上の違い。早足で、最早、彼女と一切言葉をかわそうとしないわたしと、送ると言って聞かずに、離れた駅までの距離を付き添って離れようとしない彼女との、接近しては遠ざかる距離感の執拗な戯れが、ただ、皮膚感覚として、首筋から喉の奥にかけて、痛い。人を殺したに違いない時、がある。わたしは思い出す。まだ美しかった、あるいは、まだ人間だった頃の春奈と会う前か、別れも告げずに、彼女がわたしの近くから立ち去ってしまった後のことだった。新宿の、加藤連合系の末端のやくざが流してきた話だった。

人、殺してみん?

浜村というその男は言った。ちょっと、稼ぎにはなるよ。彼は笑って、わたしは癪な気がした。

オッケー、

いいよ。

終電近く、錦糸町の駅の前で、その指定された男を張り込み、浜村に渡された、よく手入れのされた短刀をおさめたかばんを肩に担いで、わたしは彼を待っていた。名前は知らなかった。

「もう、会わない気でしょ」不意に立ち止まった春奈が言った。わたしも、彼女に寄り添うようにして立ち止まり、「どうして?」わたしは言った。どうして、そんなこと思うの?わたしは知っていた。わたしが、優しい、とても、限りなく優しい眼差しのうちに、微笑と共に彼女を見つめているのを。

ずっと微笑み続けていたのを。

彼女の部屋の中でも、いまも、一方的に話しかける彼女の声を聞いている間中からすでに。

ずっと。接近と乖離を繰り返す、互いに仕掛けあった追走に、彼が付き纏うわたしの存在に気付いているのは知っていた。錦糸町の駅から離れた、最早繁華街とは言えない人気のない道路のビルの前で、わたしが躓きそうになったとき、それがやっと機会を与えた。なぜ、逃げないのだろう?わたしは訝った。なぜ?わたしは前のめりに走り出す。なぜ、逃げないのだろう?気付いているのなら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなことないよ」わたしは、又会おうぜ、また、と、「近いうちに」言った。春奈に、何故、逃げないのだろう?彼女は。

狂った自分から?自分の破綻そのものから。飛び掛ったわたしに、なぶられるまま倒れこんだ男が路面に頭さえぶつけたのを、知ったのに少し遅れて気付く。息が荒れる。まだ若い二十歳過ぎにすぎない彼は、息を詰めながら、仰向けにわたしのほうを見上げた。問いかけるような眼差し。…なに? 見た。なにを、わたしの 見てるの? 背後に広がっているはずのものを?

空を。夜の?

「うそ」

春奈が鼻の奥から甲高い笑い声を立て、不健康に太りすぎた彼女の崩れた顔は最早笑っているのか泣いているのかの区別さえ付かなかった。フェイスブック画像と同じ表情。あるいは、同じ主題によるヴァリエーション。夜の空の色彩。わたしの背後に広がっているのは、暗い夜の空ではなかったはずだった。むしろ街路を照らしだした照明に、逆光の中で、彼が目を一瞬くらませ息を飲んだその、そして、わたしの手のひらがその目を覆ったとき、わたしは彼の喉に短刀を突き刺していた。

血が噴出していたことは、逃げ出して走った週百メートル先のビル影で気付いた。

…想起するように。

やっと。

刃物が肉あるいは筋肉の筋あるいは骨格らしきものに連鎖的に触れた気がした瞬間に、わたしは既に逃げ出していた。右手だけを、少しだけ血が汚していた。手を洗うすべはなかった。冬の、ダウンジャケットの内側でそれをすぐに拭った。手は震えていなかった。内側だけで骨が震えていた。短刀はバッグに押し込んだ。わたしが大きく息をついた瞬間に、いままで呼吸をしていた記憶さえなかったことに気付く。いつから? 死んだに違いない。いつ? 確証はない。誰かを殺した手触りだけはある。誰を? 冬の空気は冷たい。…いま。声さえ立てなかった。記憶していた。引き詰められた未生の音声が彼の喉の奥から立つ前に消えたのを。春奈の部屋は見事に荒んでいた。部屋の中を耐えられない臭気が包み、Lệ Hằng にフェラチオを教えようとしたとき、欲望として明確に、わたしがそれを求めていたわけではなかった。時に声を立てて笑いながらわたしは、そして彼女は鼻の前にぶら下がったそれを、上目遣いで、Lệ Hằng は激しく何度も首を振った。何度も、…だめです。繰り返し拒絶して、…できません。部屋の荒れようはただ事ではなかった。整理されたものは何も、どこにもなく、清潔な空間などどこにも、何も存在しない。すべてが腐って、汚れ、穢されていた。…入って、…ね。「遠慮しないでいいから。」わたしの手をつかんで連れ込む春奈を拒絶できないまま、わたしが彼女の身体を求めようとしない時には、ときに自分からわたしそれをまさぐって、勃起させようとするのに。後頭部を鷲掴みにしてその唇を、勃起しかけたそれに、誘ったわたしの手のひらを、Lệ Hằng は、泣きそうな眼差しを曝し、その、こっけいなほどの拒絶の極端さに、…穢いです。わたしは耐えられず笑い声をもらす。…わたしにはできません。あまりにも春奈の部屋の中は穢すぎて、息さえできない。わたしの口はそんなものを含むためには存在してはいません。口元にさしだされた「食べて」彼女の太った、痙攣する指先につままれたスナック菓子を、「遠慮しないで。何もないけど」彼女はそのつまんだ指ごとしゃぶって欲しかったのだろうか?ときに、かつて、わたしが戯れに、その指先に対してしてやったように。あの天使の華奢な指先に。瀟洒なピンクのネイルに。自分に見とれたような眼差しを自分に対して浮かべたまま、春奈はわたしを見つめたものだった。裸の、わずかな胸ふくらみのうえに、横たわったわたしの頭を抱きながら。小さく、声を立てて笑い、とまらない、嗜虐的にしか聞こえない笑い声を自分でも耐えがたく聞きながら、Lệ Hằng の頭を押さえつけてその唇をわたしのそれに押し付けようとするうちに、それはすでに勃起して、彼女の目の前で、かすめるように、その鼻先に触れた。Lệ Hằng は必死に顔をそらそうとして、「穢いけど座って」言われるままに、諦めるしかないわたしは、黒ずみ、湿気たカーペットの上に座るのだが、春奈の部屋は思ったよりは広い。それなりの広さの空間の中を、部屋の真ん中のテーブルの周囲のささやかな表面以外の空間すべてを、ごみ、無数の缶ビール、ハエ、小さな羽虫、それらのものが、足の踏み場もない占領を見せて、春奈はたしかに、これらの現状のすべてに占領されているに違いない。泣きそうな顔をして執拗に拒絶するのを、ついに緩められた手を振りほどいた Lệ Hằng が鼻先のそれに咬み付くようなそぶりを見せた後、本当に咬み付くかも知れないとわたしは思う。歯をときに、カチカチと鳴らしながらしゃべる春奈が、なぜ、そんな風にしかしゃべれないのかがわからない。ときに、本当に舌を咬んで、言葉が不意に濁音化し、発話は中断されたまま、そしてわたしは春奈から目を離すことができない。ビールを開けようにも腕自体が震えて、開けきるまでには大量にこぼしてしまう春奈を。ややあって、再び話され始めたとき、会話は飛んでいる。話し続けていたのだろうか?舌を咬んで、口を押さえて、一瞬息を止めていたあいだにも、彼女は。舌の一部に存在した強烈な痛みに白目さえ剥いてみせる、のけぞった大袈裟さの向こうで。

舌を咬んでしまった春奈は大口を開けて、舌をゆっくりと上下させ、噛み付かれるかもしれない恐怖感をさえわたしに抱かせながら、その、何かに舌を這わせる動きを空間にして見せた後、Lệ Hằng は、迷い無く根元近くまでくわえ込んで、ふたたび上目遣いにわたしを見つめたが、不自然に開かれながらすぼめられた口と、占領され、圧迫された口蓋内部は、自然に、辱められた不細工さを彼女の顔に与えた。

微笑もうとした瞬間に、むせ返った Lệ Hằng は、くの字に背を曲げるしかない。多くの女たちと同じように、はじめての時の Lệ Hằng は、力なく征服されてしまったことを、自分自身にさえ証明しようとするかのように諦めきった無抵抗さで、体を為されるがままにまかせた。ときに、自分を蹂躙するものに対して力を貸しあたえながら。二回目からは、完全に自分を、が、支配した彼をいつくしむように、彼女は自分から、彼を助けるような身振りの中に、彼を求めた。同じ日の夜であったとしても。数時間の間の出来事に過ぎないにも拘らず。それらはまったく差異する出来事だったに違いない。彼女たちにとっては。

誰が、加害者なのか。

誰が蹂躙したのか。

彼女は蹂躙し、穢したのだった。彼女もそれを良く知っていた。気付いてはいないにしても。彼女の眼差しがすべてを語った。あの、暴力によって強姦し、辱めてやった被害者を哀れみとともに見つめたに他ならない、彼女たちがくれた眼差しのすべてが。体液を、その体内に吐き出した後で引き出されたわたしのペニスは、なにより彼女たちの体液で濡れていた。いつも。あんたがいなくなってから、と、なんか、やっぱり、…彼女が言うのを聞き、わたしは、頭おかしく為っちゃって、と春奈は言った。なんか、どうしようもないじゃん、と、春奈は、わたしと別れてから、風俗のほうに流れたらしかったが、だからさあ、痛くってしょうがないの、…んだけどさ、アルコール中毒と合法ドラッグ=脱法ドラッグ=違法ドラッグ=危険ドラッグと、…ね?切っちゃうよね、やっぱ。昔からのリスト・カットと、きっちゃうと、それなりに頭、すっきりすんの、いずれにせよ病的な肥満が彼女から賞品価値を剥奪していくのに時間はかからなかったが、だからさ、やるんだけど、いたいのはさ、いまや、無職の、壊れて無色同然のかのじょは、なれないんね。なれないん、だから、やんの、だから、そ、だから、彼女は男に養われていたが、んぁだけどさ、でもさ、いたいのはいたいんじゃん?、…からさ、けんかして二日前に出て行ったきり、っちう、でもきるとね、なんか、あたまんなかに、できんのね、なんか、いまでも時々廃れた出会いパブで男を何とか捕まえて、すーとしたくうきかん?っちう、なんか私的売春で食いつないだりもするものの、なんにもないくうかんにさー、ぽーんとはいえ、男はなかなかつかまらない、とさー、なげだされたみたいな、めったに。そういう、んじゃん? 逃げられてばかりだと「死ねばいいのに」

わたしは言った。微笑みながら、耳元にわざと近付けて、はっきり聞き取れるように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その瞬間、嗅いでしまった彼女の至近距離の体臭に眉をひそめた。

「ほんと、それ。」ほーんと、春奈は声を立てて笑った。ほんとしんだほ-がさ、この日一番の上機嫌に ほんとふつーに、ふつーにそーおもうんじゃん? なった春奈の笑い声は それせーかい 止まらないままみたいな?何年も同じ男と同居している。キャバクラ時代の客だった。金もないのに、彼女に給与の大半をつぎ込んでいたのだった。女っけのない男だったし、女など作れない男だった。風俗の女と、春奈以外をは、抱いたことがない。語れ。何度も別れたが、君の物語を。男はそのつど 誰も聞きもしない 帰ってきた。物語を。ずっと男が借りている 君に、部屋に 存在価値など 一緒に住んでいた。ありはしない。男は、1グラムさえも。帰ってくるしかないのかも知れない。最初の内、風俗で働くことには反対されていたが、今では彼も賛成している。一日中家にいて、ずっと酒と薬物ばかり、ときに、手首を切るだけ、それよりは、マシだと。けど、独りのときは切らない、誰かのそばにいるとき。そんなとき、安心して切れる。あいつがいないから、この二日間は切ってない。我慢してる。あの頃から、そうだった。《天使》だった頃から。手首に何本もの傷があった。いまや、手首に傷があるというよりも、傷そのもののことを手首と呼ばなければ為らないほどに、それらは密集して、皮膚らしき有機物の上を埋め尽くしていた。

精神疾患などとは呼びたくない。そんなに、整然としたものではない。狂気などと呼びたくはない。そんなに、美しいものではない。

目の前に、この語の最も差別的で、軽蔑と侮辱に満ちた、最も穢い意味での、その《気狂い》が息遣って、生息していた。

相対的に穢いのではない。絶対的に穢い。人権など彼女には存在しない。なぜなら、人間ではありえないからだ。彼女をさえ内包できるほど、人間という概念は強靭ではない。触れるものすべてを腐らせてしまう彼女は、その《彼氏》をさえ腐らせているに違いない。何度殺したってかまわない。何度も殺してやればいい。決して、彼女が死ぬことなどできないはずだから。死ぬのは生命あるものの特権だ。彼女を殴ってしまわないのは、彼女に触れたくないからだった。たまった洗い物の下の、腐った何かの臭気の奥を、何とか探せば出てくるかも知れない何かの刃物で、彼女を突き刺さないのは、彼女が触れたものに決して触りたくはないからだった。彼女に、一瞬たりとも関わりたくない。わたしは知っている、そして、彼女に対してみもふたもなく感じる、このどうしようもない懐かしさは何なのだろう?わたしは知っている、例えばアルフレート・シュニトケのかすれた弦楽器の微分音の先に、ほら、暗示だけされていたのかも知れない 花が咲く。何かに感じられたような、その。ほら、どうしようもない 花が。無距離な近さで、それが、もはや暗示ではなく親密に、ただそこに、ただ、わたしに、それそのものが触れるときに、知っている、よく知っていた。泣き出したいほどに。謝って、泣きながら、何度も謝り続けて、ひれ伏して、許してください、と、あるいは、抱きしめてくださいと、乞い願っていたのかもしれなかった、その。微笑んだまま、わたしは、彼女がわたしに触れ続けていた。夜が明ける。ゆっくりと、一気にすべての暗さのやさしい均衡を破綻させながら、明らんだ色彩が斑に空間を染め、破壊的な色彩の光に、にもかかわらず何ものも染められもしないままに、やがてその無残な破滅美が消滅していくとき、内側から白んでいくような青さが、一面の空を支配していく。眠れないままに明かされた夜の終わりに、わたしは、開け放たれた窓の向こうからの光の中にゆっくりと身を起こし、まだ眠っていたのだった。わたしは息遣い、息をつくものの、いまだに、彼女は眠っていたのだった。すでに起きていた 穢死丸 は、声を立てずに笑って、Lệ Hằng は、わたしの腕を後ろからつかみ、立ち上がって、わたしはようやく目覚めたような気がしながら息遣っているだけのわたしに、ただ、日差しはいまだに優しい。窓越しの、そして、昼の、熱帯のあの強烈さはないままに、トイレに立とうとしたとき、Lệ Hằng は頭を振りながら拒絶するのだった、後ろ手にわたしの腕をつかんだままで、わたしが立ち上がったのを、不意に Lệ Hằng は、

んノー、

言って頭を振りながら、彼女は。トイレに行くだけだというわたしに、わざと聞く耳さえ持たず、結局シャワールームにまで着いて来た彼女が、わたしを便座に女性のように座らせた。いたずらな笑みだけを浮かべつづけた彼女の尻をたたき、背後の通風窓からさす高い日差しが、その褐色の肌の半分をだけ直射する。かすかな金色の光の白濁。うぶ毛のささいな明滅。わたしは命ぜられるままに女のように放尿するが、その匂いと、汗ばんだままの彼女の皮膚にこびりついた体臭が、混ざり合って鼻に入る。自分の体臭には気付かない。眠れないかと思ったが、自分の体臭には気付けない。一本だけコンビニで買った缶ビールを飲むと、不思議にすぐに寝てしまったのだった。次の日メールで呼び出した浜村に、用心のためと言って彼が指定した、いつもと違う、渋谷のガード下の喫茶店に行くと「ほんまに、やったん?」

浜村は、眉をひそめながら言った。

朝の早い時間だった。7時半。シャワーを浴びれば、結局は、朝はすがすがしかった。いつも夜に会う浜村の顔だけが、朝の新鮮な気配にそぐわず、わたしにはそれだけが目ざわりだった。「浜さんが、やれって言ったんでしょ?」

わたしは声を立てて笑った。素人は普通、怖気づいて逃げるもんで。浜村が、独り語散るように言い捨てながら、こっちで処分したげる、と、短刀の入ったかばんを受け取るのを、わたしは目で追った。

彼は人を殺したことがあるのだろうか?自分で。

「もう二度と、すんなよ」念を押すように言う彼にわたしが笑いかけると、表情は人の良い笑い顔に崩れて「お金、今晩あげるから。いつもの、歌舞伎の喫茶店な、」甘えるような、人なつっこさで「あそこ、来て。な」声を立てて笑い、わたしの肩を撫でて「まぁ、ねぇ。まぁ、ご苦労さん」あの男はまだ大学生だったらしかった。

海外旅行だかバックパッカーだかサーフィン留学だかなんだかで、何度か単身訪れたフィリピンのどこかの島で覚醒剤の密輸ルートを自分で作ってしまったらしかった。前代未聞だというので、粛清しようとしたのは、浜村の上の人間だった。素人だから、というので、冗談めかして、浜村が独断で、飲んだ時にわたしに話を振ったのだった。断っても良かった。彼も断ると思っていたのかもしれなかった。その、当たり前のことをするのが、単に癪だっただけだ。どうせ誰かに殺されるのだった。それが、わたしの手であっても、誰かの手であっても、たいして変わりはなかった。春奈と初めて会ったのは、その後だった気がする。


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わたしは歌舞伎町でホストをやっていた。家出をして東京に出てきたわたしにとって、一番手っ取り早いのは、それ以外にはなかった。ある意味、春奈のような人間たちと同じ種類の人間なのかも知れなかった。彼女の場合は、もっとシンプルな理由だった。ある女がいた。その母親は離婚後に、極端な潔癖症から、彼女を虐待した。生傷が絶えなかった。ある男と結婚した。息子ができた。すぐに離婚した。旦那に暴力癖があったのは事実だったし、女にも浮気癖があった。新しい男と結婚した。息子の存在がネックだったが、結婚してみると新しい男の溺愛がはじまった。子ども嫌いだった男が、自分なりに頑張った結果だったかもしれなかった。血のつながった娘ができると、更なる溺愛が、二人の子供を包んだ。彼はもう、手一杯だった。それが女には許せなかった。同時に女の、娘への虐待が始まった。これ以上ないほど、陰惨な。押し付けられる煙草の火、肌を焼くアイロンの温度、強制的に食わされた生ごみ、その腐りかけた味覚。ウサギ用のケージの中に閉じ込められ、風呂場で水をぶちまかれ、その他。やがて娘は家出した。名前を我喜屋春奈といった。整形とリストカットと拒食症と過食症を繰り返した。整形以外のものは母親と同じだった。暴力の無限連鎖。遺伝より残酷な暴力の無限に拡がる波紋のような破壊。いっそ、殺してあげればいいんじゃないですか? ほら、なぜ、咲いてるよ。だれもそう言わないのだろう。足元に、善良な 小さな 何かが 花が。それを 一生懸命 言わせないのだろうか? 儚い命を 善意とは きらめかせて 何なのか? 咲いているよ、良心とはなんなのか? 小さな花が。そもそものどうしようもない 君の 悲惨さから、足元にも、目を ほら。背けなければ 小さな花が。生きていけないから。それだけなのではないか?善意、あるいは良心とは、そむけられた眼差しが見いだした、仮想上された花のようなものなのではなかったのか?殺戮し、殺戮されることでした生きてはいけないことを、目覚めたまま一つの容赦ない殺戮としてそれを見つめ続けなければならないとき、すでに逸らされていた眼差しのうちに、かつて良心と呼ばれ、あるいは倫理と呼ばれたどうしようもない内面拘束力が発生したのかもしれない。そして、見つめられさえしなかった悲惨さは、いつもうすらべったく、単に愚かで見苦しい。安っぽく、ぺらぺらで、聖書の1ページ分の重みすらない。振り向いたそっちで、…お前は?お前は、いま、どれだけ悲惨な、薄らべったく、見苦しい、絶望そのものとして、いま、ここに息遣っているのだろう。わたしが問いかけるそれはいつも《お前》だ。そんなことは既に知っている。何度、わたしはお前をあざ笑いながら殺してしまっただろう。自分の血にまみれて覚醒する。穢死丸 が子供のように笑った。最早飽き果ててさえいるのに、それは繰り返し続けられざるを獲ない。浜村がいつだったか連れてきた北村翔太と言う名の男は、わたしよりも年下に見えた。いまは、実際には6歳も年上だったことを知っている。立派なホストにしたげて、と、浜村は言った。長く髪を伸ばした華奢に見える男で、見かけはそうであっても、裸を曝せば、筋肉がただ驕って骨格の上を覆った、きなくさい精悍さが現れるのを、そしてわたしは嘘をつかれたようにして正面から盗み見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋愛感情は窃盗のようにして成就される。わたしが眼差しのうちに探りを入れるのを、探りを入れていることに彼が気付いていることの眼差しのうちでの明示は、嗅いでごらん。すぐさま 匂い。すべての 僕のからだの 承認を 匂いを。意味した。すがりつく犬のように。眼差しに、何もかにもが了解され、交わされる多くの言葉の向こうで、或いはこっちで、すでに会話は尽きていた。

何ものをも解決しない、言葉それ自体の属性に従って、本質的に尽き獲ることのない会話は、つまり、最初から会話など存在してはいなかったのかも知れない。ただ、わたしたちはすでに直接知っていたのだった。愛し合っている、そしてそれが承認されていることの事実を。

それは同性愛の特質ではない。異性愛においては、少しだけ手間がかかるだけのことだった。異性愛のほうが、むしろ、いつも劇場的な偽りと虚飾の感覚にまみれてさえいた。本質を包み隠して。より自然で、哺乳類として本能的で、生体として妥当な営みであるにも関わらず。…が、故にこそ。

蜜蜂ではなく、射精という身体内の事件によってのみ受精が達成されることの、単なる必然なのかも知れなかった。射精という事件は起こされなけばならない。肉体を存在させるために。そして肉体は劇場化された。その肉体上に、あるいはその肉体に関わる肉体上に、さまざまな媚態が発生した。

肉体に於ける事件の発生が、本来、その肉体以外の他なるものとの接触によってしか起こり得ない以上、肉体はすでに、事件そのものを他者として見出していた。単なる論理的な必然として。自らには含まれない他者の存在の絶対性に、肉体は精神という名を与えた。その瞬間、それはわたしの内部のものになった。精神は、わたしそのものとして以外には存在し得なかったから。

そのとき、精神という名の架空の王は見出され、成立したのだった。認識上に、感覚上に、当然のあり獲べき錯誤に他ならかったが故に、必然的に。王は、すでに戴冠されたていた。やがて、すでに殺され、いまや、死児として生まれた王として。すでに、肉体と肉体が触れ合い、王の冠がきらめくとき、それを仮に、愛と呼んだ。誰が? その、倒錯の只中で見いだされた、自分自身の固有の体験に。いつ? いつものように酔いつぶれた浜村に、じゃあ、これで、俺、帰るから、そう言うわたしを、彼はなじりさえしながら、わたしの傍らでうなづいた北村は「じゃ、俺も。」言った。

チキンの浜村。自分では何もできない、残酷なほどに無能な、熊のような体格の下に何かに対する解消されない欲求不満だけを抱えた小さなチキン。飛べないばかりでなく、食われることでしか生存理由を示せない子飼いのチキン。生み出される卵すら、食われる以外に意味はない。なじり、ののしり、笑い声を立てて、ゴールデン街の小さな飲み屋に居残った客たちと共に置き去りにされ、「…どこか入ろうよ。」

言った北村を、わたしはその頃、歌舞伎町の中のライオンズマンションの最上階に住んでいた。小さな部屋だった。滑稽だったのは、部屋自体より、ルーフバルコニーのほうが広かったことだった。でたらめな間取りの、全部がやっつけ仕事の、巨大な、古いマンション。不良外国人か、水商売の人間か、やくざか、それまがいの社会の末端の人間たちが、住むか、事務所を開くかしていた。

初めてわたしの部屋で夜を明かした朝に、その光の中であらためて見た、どうしようもなくでたらめな間取りに、北村は声を立てて笑いさえしたものだった。北村の裸体は美しかった。造型上の明らかな過ちが目障りに集積したその身体は、それらの無数の過ちを根拠とした、固有の完成度を持った集合体として、その特異な美しさに於いて、視覚を魅了させざるを獲ない。わたしたちは、どちらかが征服されたのではなく、どちらもが獲得したのだった。わたしたちはお互いに知っていた。昨日獲得されたいまや、わたしたちは獲得された事実が消滅することのないように、いまや、わたしたちは。破綻することのないように、すでに、わたしたちは。お互いを禁欲的なまでの慎重さでまさぐりあうのだった。いつも 見つめあった眼差しのうちでさえも、わたしたちは。わたしたちが、お互いの了解のかつての成立を、とっくに、いまに於いても成立させるため、わたしたちは 心細い努力を いつでも。わたしたちが重ね続けねば為らなかったことを、もはや 知っていることには気付いていた。わたしたちは。蜘蛛の巣を張りめぐらしたような、繊細な気配の震えの中で。

 

いつものことだった。

 

わたしは朝日の逆光の中に目を閉じるが、閉じられたまぶたの、内側から赤らんだ逆光の暗闇の中に、北村の存在の形態を、その動きの気配をすら追っていた。

やがてわたしの唇は彼の鎖骨のおうとつに触れ、覆いかぶさったその身体は、手でも指さきででも触れることはなく、そっと、押し付けられた皮膚全体の下にこの骨ばった流線型の形態をなぞる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの息がいま、彼の皮膚に触れているのには気づいている。

彼はそれを感じていた。

彼も目を閉じていたに違いなかった。

北村のそれと、あやうく重なり合うわたしのそれが、温度を交換し合っているのを気付いている。

北村のそれの温度をだけ、一方的に感じているだけにすぎないにしても。

愛しているのかどうか、それさえわたしにはわからなかった。愛して、

 

愛し、

て、

いる。

この複雑な動詞の、その暴力的な断定は、或いは、トランスジェンダーのそれをも含めたあらゆる種類の異性愛にふさわしいものではあっても、わたしと北村にとって、最早ふさわしくないばかりでなく、不可能でさえあった。

むしろ、仮定。

あるいは措定。ややあって、北村がわたしのそれの裏側に鼻筋をあてて、睾丸のふくらみに息を、ふっ、と、かけてしまった時に、わたしは彼の指先が右の乳首をだけ執拗にいたぶっていたのを感じていた。口の中に開かれた領域の中で、わたしはいつか夢に見入ったものだった。いつしか予測されていた執拗さで、愛してる? 網膜は …ねぇ、裏側で 僕を。向こうの音響を聞いた。…誰が? 耳元の、遠い向こうで聞き取られたその音響が。…誰に? 岸の向こうに、…誰を? 皮膚が伝えた大気の温度を忘れてしまう前に、…どこで? 岸の向こうで、いまだ橋は掛けられなかった。わたしたちは 愛してる? そして、岸の 飛び立ったのだった。

向こうで 夜が いまだ 明けることを 橋は 兆した 掛けられなかった。鳥たちの羽撃きの、わたしたちは 容赦もない 愛してる? 昏い そして 呼吸の 岸の あの 飛び立ったのだった。淡々とした 向こうで 暴力的な 夜が きらめきが、いまだ いつか、明けることを わたしたちの 橋は 肌を 兆した 打つように、掛けられなかった。そして、鳥たちの 淡々とした、羽撃きの にも拘らず わたしたちは 痛みに 容赦もない 解消されないままに 愛してる? うずくまった接触は、昏い ときに そして 暴力的な愛撫をさえ、呼吸の わたしは Lệ Hằng に加えたものだった。息の あるいは彼女は拒絶することにさえ疲れ果てて、鳥たちの Lệ Hằng はそのとき、淡々とした なにを見ていたのか。羽撃きの 例えば振り向きざまにわたしにひっぱたかれたときに、にも拘らず 彼女は息を詰めて、そしてわたしは知らなかった、わたしたちは 自分のとっさの 痛みの 窒息しそうなほどの憎悪が、容赦もない(体の中で、叩き割った粉々のガラスが、)なにを根拠にして(神経に冷たく刺さっているような、その)成立してたのかさえ。Lệ Hằng はわたしを 解消されないままに 愛していた。あるいは、わたしから最早逃げ出せなくなっていたのかも知れなかった。愛してる? 誰にも命じられることなく、逃げられない命令として。愛してる? 例えば、殺される直前のわたしの母がそうだったらしかったように。愛してる? 春奈が、愛してる? あるいは、愛してる? その 愛してる?《彼氏》が 愛してる? 春奈から、愛してる? 結局は 愛してる? 逃げられないらしいように。あるいは、わたしが北村から逃げられなかったように。北村の焼身自殺はこっけいだった。

クリスマス・イブだった。雪は降らなかった。

逃げ込んだ雑居ビルの屋上で、他人を殺すために用意されたはずの …お前? 声。…ん?… わたしと …おれ、彼の どうしたの? その いまから、おれ、死ぬ。それらの …は? 声。無理っぽい。終わったっぽい。電話越しの なんで? 声は、もう、やばい。その、まじ? 北村の おわり。…死ぬわ。わたしは思い出す、鼻血を流しながら上空を見上げたLệ Hằngは、世界中の苦悩の一切を、いま、すべて知ってしまったような顔をして、涙さえ流さずに、やむを獲ず彼女を見つめ続けていたわたしが、不意に、Em, ... em… 正気づいたように、Xin lỗi, em… そう早口に Anh xin lỗi … すみません。わたしの唇に「…ごめんね、」つぶやかれた瞬間に、崩壊するように、Lệ Hằng の両目に、決壊した涙が溢れた。一気に。

その時に、一度気付かなかった携帯の二度目の着信に、《…どうしたの?》わたしを咎めることなく《…お前?》北村は言ったが、逃げ続けた雑居ビルの屋上で、もとはといえば他人を、あの歌舞伎町の不愉快なやくざたちを焼き殺すために用意したはずのガソリンを体中に帯びて、最期のこの時には、その行為のうちに、ふと首を絞められた Lệ Hằng は、白目を剥きながら《…どうしたの?》舌を出したが、大袈裟に、自分の体に放火する前に最後の煙草を一本すってからそのあとに、放火しようとしたガソリンまみれの馬鹿な北村が、くわえ煙草のままに点けたライターの《いまから、おれ、死ぬ。》火がともった瞬間に体中が燃え上がってしまったのを、電話越しでなくて、もし実際にこの目で見たとしたら、《…は?》わたしはその馬鹿馬鹿しさを笑っただろうか?叫び声をあげながら暴れまわるその、《無理っぽい。…終わったっぽい》涙したのか?その、ばかばかしさを、遺体安置上で、北村の、焼けただれて《なんで?》頭が砕けていた死体の身元確認をしたときの彼の母親のように、涙しただろうか、Lệ Hằng は、何度、わたしの、わたしに単に思いつかれただけにすぎない(だが、)理不尽な暴力が終わった後で(わたしはそうするしかなかった。)、その女は確か(彼女を、)北村芭苗と言った筈だったが(わたしは。)、その母は、(なぜ?)そのとき、《もう、やばい》40歳ちょっとだったに違いない彼女は、(愛してさえいないのに?)やがて、その死体を見た一瞬に泣きじゃくり始めるのだが、わたしはその号泣を思い出す、彼は燃え上がりながら、あ、…ああっつ、あつっ、

 

あつ、あっつ、あつ、

それらの音声をわたしは聞いたが、電話越しに、《…まじ?》何が起こっていたのかをわたしが知ったのは、その数持間後の、Lệ Hằng への暴力が終わった後の、子どものように許しを乞う愛撫のさなかに、《おわり。死ぬわ。》何度もの、…何度目かの涙が、Lệ Hằng を?

…あつ、あっつ、あつ、

予想外に燃え上がった自分の身体が包まれた苦痛のつぶやきの最強音の反響にいたたまれなかった北村は、燃え上がりながらフェンスを飛び超えて、飛び降り、炎は夜の空間にたなびいて、ビルの裏手に堕ちて行った。原宿と新宿の間の小汚い路面に打ちつられた彼の頭を、アスファルトは張り飛ばすように叩き潰して、派手な物音と臭気が立つが、誰かが上げた声の、それらが連鎖して行く連なりがビルの屋上、やっと追いついた浜村たちに、北村の居場所を教えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

喚声。その連なり。騒音、それらの連鎖。そして怒号。

 

 

Lệ Hằng... 言葉の重なりあわないことは、わたしたちに希薄な、と同時に確実な親密さを与えた。言葉でもって裏切られる必要がなく、その可能性すらない、むき出しの信頼の中で、お互いの眼差しが捉えただけの事実しか持ち獲ない、その。その巨大な空き容量の膨大さだけが、十全には触れ合っていない不自由さを、いつか、自覚させていた。触れることが、何かが何かに触れるのである以上、そこにあらかじめから一瞬の猶予さえなかったにも拘らず。わたしは Lệ Hằng を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 

その眼差しのうちに捕らえた Lệ Hằng がひそめられた息遣いを、

 

そして彼女はわたしを視界に捉えきったままに、

 

やがて皮膚と皮膚は接触しあう、その明晰な気配の中で、自由さえ奪われて、無数の言葉は自分勝手に聞き取られないままに交わされあいながら、眼差しは、閉じられた時でさえわたしにただ彼女の言葉を運んだ。沈黙の、語られなかった、語られたとしても、理解されることもなく、その音声を嗅がれ、味わわれただけに過ぎないそれらの戯れられた断片を。確実に、その。あるいは、本当に春奈は北村の女だったかもしれなかった。彼が自分で言ったままに。妹、こいつ、…俺の、と、苗字違うけど、親、別れたからさ。まだ、いっしょに住んでんだけどね、あいつら、と、彼は言った、北村は、まだ?…また?…まぁ、相変わらずって言うか、ね。そんな、…ね?、と彼は、でも、こいつ、うざいからさ、妹。春奈、と、ま、部屋代って言うか、やりたいときにやってるっていうね。汚物処理的な? と、汚物処理班一号状態ね。手頃じゃん? 単純に、と言う彼は、それは嘘には違いなかった。北村が女に手を出すはずがない。いずれにして我喜屋春奈は、北村の部屋に住み着いていた。我喜屋は父親の苗字だった。風林会館の《パリジェンヌ》という一階喫茶店で、始めて会った彼女は、小柄な、華奢な、色の白い女だった。整った顔をしているが、とくに女らしいと言う感じはしない。それがむしろ、中性的で、清純な、神秘的な雰囲気をさえ与えていた。多くの男たちが、この汚れた世界では生きていけない、まるで天使のような、と、そう思うに違いなかった。女たちさえも、嫉妬と共に。

わたしには、彼女がそんな人間ではないことはすぐにわかった。春奈は、しずかに、みごとに表現された子どもらしさで微笑みながら、隠そうともしない手首の無数の傷が、彼女があばずれと言ってもいい性質を、少なくともその頭の中には執拗に燃え上がらせているのに違いないことを、わたしにはっきり明示する。多くの、とてもたくさんの、リスカ痕のある女たちを見てきたものだった。わたしは知っていた。それは自己破壊などではなく、欲望への単なる依存の充溢にすぎないことを。自己憐憫への惑溺にすぎないことを。池袋のキャバクラで働いていると言った彼女のその声の、装われたような甲高さは、しかし、改正できない地声だった。

「どうしたの?」

いつだったか、会った春奈の右目にされた眼帯に(整形したんだ、とわたしは思った)、「こいつ、なぐった」わざと口を尖らせて春奈は言ったが、指差した先の北村が「ばか。ばっかじゃね?」言うのを、わたしは笑って聞いた。

「しょうがないじゃん」と、わたしは「ばかなんだもん。な?」

言いながら春奈の頭を撫ぜてやり、Lệ Hằng のことを、現地の人間たちが気違いだよ、と言っているのも知っていたし、それも事実なのかも知れなかった。彼女は、わたしの友人たちにとって、美しく、耐え難い欲望の対象であり、その同じ男たちによって彼女は、気違いとして忌避されるのだった。

狂ってるよ、と、南部の、能天気な、一秒たりとも笑っていなければ、それは「彼女は、」時間の浪費だとでもいいたげな、よく笑う彼らが、「壊れています。」眉をひそめて、深刻そうに、生理的な嫌悪感とともに、わたしに忠告してくるのだった。ベトナム語、英語、日本語、さまざまななまり、…なんて言ってる?

初歩的な日本語と英語ができる経理の女に言うと、英語の通訳が返ってくるが、「頭がおかしいと、言っています。」通訳者が嘘を訳しているのか、仮に意訳であったとして本当もことを訳しているのか、すぐにわかってしまうのは何故なのだろう?片方の理解できない言語など、単なる音の羅列に過ぎないのに。Lệ Hằng は気違いだよ、彼女は、本当にどうしようもない。貧弱な Lệ Hằng の尻にいまだにちょっかいを出し乍ら。わたしには笑うしかなく、それが嘘とは言えないことくらいも知っていた。始めから、勝手に部屋に上がりこもうとしたのは Lệ Hằng だったし、いつの間にか守衛からスペアキーを入手してさえいた。気違い扱いされながら、自分が微笑めば、異性なら片っ端から自分に従うに違いないこと(少なくとも一度くらいは。)をは、彼女は十分に自覚していた。(少なくとも魅力の醒めない十五分間くらいは。)初めての日、カフェを通りすぎて、近くの日系商業施設に行こうとするわたしの後ろを付けてきて、その背後に彼女の母親の罵声が立つのをわたしは聞いた。サイゴン近くの南部の地方都市の、日の光が注ぐ。新鮮な気配が消えない。コンクリート造の低層の建物の群れが、内側にたった無数の音声と騒音を固まらせながら、わたしは冗談のように、早足になったり、ゆっくりと歩いたり、Lệ Hằng の気を引こうとするかのように?立ち止まったりしながら、なんの意味さえ持てないままに、Lệ Hằng は声を立てて笑いながら後ろを付いてくるのだった。この、数日前にカフェで一度見かけただけの少女は。振り向いたわたしに、ときに、舌を出し尻を振って見せながら。まだ朝早い光が、ゆっくりと熱帯の温度を所有し始める。サイゴンのほうへと続く主管道路があまりにも広く左手に広がって、白い砂を蓄えて、それらは日の光に差されるが、バイクの群れと貨物車両がそれにその音響を重ねた。大気を温めた温度がそのまま肺の中に入るのをわたしは知っている。背後の Lệ Hằng がときどきわざと立てる笑い声を聞き、母は、かつて、同世代の、複数の少年たちに強姦されて惨殺された。監禁され、暴行され、どのくらい?1ヶ月くらい?それは記録的な残酷事件だった。80年代の終わりにある少女を強姦した少年たちの集団は、少女をひとりの少年の部屋の中に監禁して、暴行を加え続けた。死体に刻印された悲惨な、あまりにも悲惨な暴力の痕跡、少女は逃げなかったのだった。Lệ Hằng が不意に走り出してわたしの前に飛び出したときに、彼女のこぼれるような笑顔を直射日光が差したのを、まばたく。ときに、光の、逃走の 美しさに。機会などあったはずなのに?監禁先の少年の母親と家の中で顔を合わせたことさえあったというのに?あれ?

あなた、だれ?

すみません。(あれ?)

どうしたの?(あれ?)もう、かえりなさいよ。

すみません。

もう、(…あれ?)遅いじゃない…いずれにしても彼女は逃げることがなく、それは彼女にはできなかった。少年たちがくゆるらした煙草の煙と、戯れに吸引されたシンナーの匂いのこもりさえした部屋の中で、見ろ、この傍らの木漏れ日を。いま、道路の日差しのなかで、褐色の少女は このきらめきを、撥ねるように歩いて、わたしを そして、樹肌の匂いを、先導するように 嗅げ。歩くのを、声を立てて笑ったわたしはその先導について角を曲がり、見ろ。彼らの特別なパーティに、さまざまな少年たち、少女たちが彼の部屋を訪ねた。監禁された少女を見に、強姦しに、暴行しに、慰めに、差し入れしてやり、あるいは単純に、彼氏に会いに。多くの彼らが、見ろ、そこで、とんでもない事件が起こっているのをは知っていた。誰も通報しなかったのは、それが、隠されなければならない普通ではない犯罪であることに、誰もが、普通に感づいてしまったからかも知れなかった。あるいは、恐怖感に似た感情が、単に目を背けさせ、わたしたちは恐怖した。口を閉ざさせ、わたしたちは誰もが、それは、彼らへの加担を結果しつつも、振り返りながら時に笑いかけ、時に思いあぐねた視線の中で、Lệ Hằng はなにを思ったのか?振り返り見たわたしの微笑を?彼らへのかすかな共感をさえ感じさせる笑い声さえ立ちながら、重なり合った音声と眼差しは。彼らのさまざまな必然が交錯する中で、わたしたちは共謀した。恐怖と苦痛の連鎖が、一度現実として巻き起こってしまった限り、もはや逃げることも解消されることもないことを少女に自覚させたのは、わたしたちがもはや後戻りできないことをだけうすうす感づいてさえいたからだろうか?いつか、誰かがその少女の死を眼差しのうちに捉え、やがては、彼女を、ついにはもはや麻痺しさえした長い痛みのはてに殺してしまったのを、わたしたちは見たのだった。自ずからの視界のうちに、Lệ Hằng が周囲の竹林の中に、土の道路、疎らな平屋家屋を両方にはべらせただけの空虚な空間の中で、部屋の中の窓越しの陽光を見やった彼女の眼差しのうちに、その逆光、この空間が自分が最後に辿り着いた、終着の風景だと、少女が意識さえしたのはいつだったのか?肉体を破壊されたあの、そして、その体内で、わたしの細胞は分裂する。誰にも気付かれないままに。…終わりだよ、と。ライターの火がオイルを塗られた彼女の肌を何度目かに焼いたときか、あるいは金属バットがその身体を殴打した無数の暴力のうちのどれかの、全身に何度目かの痛みの拡散していく救いようのない波紋の中にか?…終わりだよ、と、思ったときは。人気(ひとけ)がないことをいいことに、あるいは彼女は人気(ひとけ)があったとしても、この褐色の Lệ Hằng は、たとえ他人の眼差しが盗み見たとしても、何も気にもしなかったには違いない。死んでしまった彼女は、少年たちにコンクリート漬けにされて埋葬されながら、ついに一度も避妊されなかったその健康な身体のうちの、何度目かの射精が実を結んだ受精卵は、いくども当然の細胞分裂を繰り返していたのを、彼らがひとりも気付かなかったのは、あるいはその少女すら気付きはしなかったのだった。Tシャツを脱ぎ捨てて上半身裸になった Lệ Hằng が日差しの下に、Tシャツはわたしに向かって放り投げられた。

 

 

 

 

 

 

 


ブーゲンビリアの花簪4

バイクが一台通り過ぎて、為すすべもない驚きの眼差しのうちに彼女の肢体を捉えた男の両目は、すぐにバイクと共に遠ざかっていく。瞬間、Lệ Hằng が立てた甲高い嘲るような笑い声をわたしは忘れない。付近の資材置き場の隅に凝固した、不審なコンクリート片から漏れら腐乱臭に気付いたとき、死んだ彼女の体内で、わたしは八ヶ月目の成長段階だったのは、そのすべての髪の毛さえ抜け落ちた(それは、生存時に与えられた恐怖のためだとされた)惨殺死体の悲惨な状態以上に人々は、彼らは単純な恐怖をあえて咬み殺した。彼らは驚嘆させられた。わたしは生きていた。たしかに、普通ではなかった。感じられた恐怖や驚嘆とともにその事実は彼らによって伏せられようとし、ひそめられた声の群れのうちに、Lệ Hằng は、誘い、誘惑するというよりも、声を立てて笑いながら、わたしから逃げ、わたしのために裸になって行く彼女が、スパッツを脱いでわたしに放り投げたときに、わたしは育った。死ななかったわたしを、少女の母は、不死丸と名づけた。育てられたわたしは、やがては、祖母が最早正気の人間とは言えないことくらいはすぐに気付いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしの生存領域の中で日常的に繰り返される当然の事実として、少女の母親の唐突な発作の悲鳴と、失神と、嘔吐の音声と気配と匂いとそれらの視覚の群れは、下着すら脱ぎ捨てようとした瞬間に、見咎めた中年の女が家屋の中から早口に叫ぶのを、逆にののしって笑いながら逃げ去る Lệ Hằng の後をわたしは追う。祖母の夫は沈黙がちなまま、わたしの頭を撫ぜたものだった。わたしは彼らに、あの事件が少女の身体に刻んだ痛みそのものを、おののきの中で想起させ続けながら、わたしは彼女が最後に育んだ奇跡の命に他ならなかった。暴力そのものに過ぎない、幾度もの、もはや特定できない体内射精のどれかが結果した、犯罪の結果に過ぎないにも拘らず、彼らは目を背けながらわたしを愛し、愛の感情の背景に、むき出しの怒りそのものが生起している事くらいは知っていた。誰もが。彼らには許されなかった。許しや忘却などをは。わたしを愛そうとする眼差しこそが、暗い暴力の記憶の忘却を不可能にし、浄化あるいは救済の時の到来を破綻させる。

女の罵声を背後に飛び越えて笑い立て、竹林の向こうに走り抜ける。Lệ Hằng は何度も振り向き見ては、立ち止まり、追ってくるわたしを見つめた。褐色の肌は、その内側に向かって、曝されないまま日に灼けなかった白さへのかすかなグラデーションを現した。彼女がその両親の金銭を奪っては、濫費して果てるらしいことを、やがてわたしは知るのだった。Lệ Hằng が弟に加える深刻な、肉体的な暴力。両親に逆らう時の Lệ Hằng のあの、内側から発熱したような眼差し、それらは、やがてそれぞれ別々の時に知ることになるものの、この明らかに清楚な、無慈悲なまでに、悲しみと共にすべてを一瞬で思いつめてしまったような表情のこの少女の眼差しのうちに、すでにわたしは彼女の癒し難い発熱を知っていた。知性とよばれるものを内側から焼き尽くすような。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初めて入った小汚いカフェで、コーヒー一杯を注文するのに無数の言葉とジェスチャーを消費しながら、わたしが捉えたその彼女の微笑み続ける眼差しのうちに、すでに。穢死丸 は、雨が!と叫び、竹林の向こう、工場跡らしい廃墟に出て、曝した肌の上に午前の日差しを浴びたまま、Lệ Hằng はゆっくりと、尻を振って見せながらあるく。何の工場跡だったのか最早定かではない錆びた鉄材の群れと、クラックにまみれ罅割れかけたコンクリート家屋と、トタン屋根の連なり。その錆びの赤茶色が、やがてわたしは彼女の至近距離に近づいたまま、すれすれの距離の中に、彼女はその至近距離にわたしの体臭を嗅ぐ。わたしが彼女の体の匂いを吸い込んでいるのは、Lệ Hằng はすでに知っていた。Lệ Hằng の視線は煙突のような尖塔の、低い頂の向こうに、逆光の黒ずんだきらめきを捉えたに違いないあの一瞬に、足を止めそうになった彼女を振り向かせてひっぱたき、わたしは Lệ Hằng を壁に叩きつけた。

痛い?

投げつけられた彼女は、何も触れなかったはずの鼻から鼻血を流しながら、荒く息を付き、怯えた Lệ Hằng は上目越しにわたしを見上げた。

感じて

内股でようやく立っていた、痙攣を曝す彼女の身体を、そしてわたしが立ったままに彼女の初めての男になったとき、あげるべき声さえあげられず、

君の

吐かれるべき呼吸さえ吐き獲ずに、尻を突き出さしめられた彼女は恐怖にただ、息をひきつらせていた。

痛みを

わななくように震えながら、自分の尻を抱え上げた男に無抵抗の臀部を差し出して、涙と鼻水と鼻血の混合物で、時にさかさまのまぶたをさえ汚してしまい、なぜ?

いつでも Lệ Hằng が、わたしの下唇を一度かんでからわたしの唇に、吸い付くようなキスをするのはなぜだろう?執拗な。

なぜ?あの日からずっと、わたしのホテルにいりびったっているこの未成年の少女は、両親からふんだくった金でわたしのためにシャツと短パンを買った。彼女好みの、確かに、町で若い男立ちが来ている風の服だった。彼女の好みのサンダル、飲食物、嗜好品、その他、彼女によって思いつかれたさまざまな貢物が気まぐれに用意されるままに、わたしのホテルの部屋は満たされ、天井の扇風機は壊れたままだった。Lệ Hằng の母親がいわゆる継母であることは知っている。その事情は知らない。Lệ Hằng の顔と父親のそれとの類似が、明らかに、あの、小太りの、とはいえ極端に豊満で色気づいた身体を抱えた、灼けた地味な顔立ちの母親の顔と並んだときに、それらの連鎖は絶ち切られた。何の感傷さえ残さず見事に。窓越しに、激しい雨期の雨の轟音が立っていたにも拘わらず、わたしは《天使の》春奈のさしだした手首のリスカ痕の群れの一つに舌を這わせてやったのだが、その、優しい愛撫。Lệ Hằngは多くの男たちから、さまざまな金銭やプレゼントを貢がせながら、《壊れ物の》春奈は酒の臭いを彼女が息遣うたびに撒き散らし、だから、わたしは思うのだった、彼女の話を聞いてやるふりをしながら、死んでくれればいいのに、と、やがてLệ Hằngが殺されてしまったときに、わたしは泣くのだろうか?あの音響の中で、車道に飛び出し、いつかの夜に酔いつぶれさせられた《天使の》春奈は飛び出すその《壊れた》上目遣いの眼差しに、いつ、死んでくれるの?潤んだ《天使の》春奈の瞳は落ち着きを失って、挙動不審になって、やがて彼女は正気を失っていくのに違いなかった、傷をなめる舌の感触と、彼女を強姦するためだったのか、口説くためだったのか、なんだったのか、そのはっきりしない境界線のままに、陽気な友人たち。彼らに酔いつぶれさせられた Lệ Hằng は、酔いつぶれた衝動のままに、大声を上げて大通りに飛び出して、群れて立つ笑い声、バイクとトラックの群れは急停車した。無数の、一瞬で束なったそれらの音響、その、そのときの急ブレーキが、そして春奈が鼻をすすったとき、鼻の奥で豚の鳴き声がし、《人間ではなくなった》春奈の頬の贅肉が揺れて弾むのを、急停車するトラックから、墜落する無数の鉄骨が、すれすれのトラックの躯体のほうをいまだ笑った顔で指差し続けるままに、それらは Lệ Hằng を押しつぶしたが、見つめた上目づかいの眼差しのうちに、にもかかわらず無抵抗の拘束された無残な被害者のような顔で、挙動不審な黒目の震えのままに、何かを訴え続ける眼差しが、きみは、立ち上がった轟音が鳴り響いて、飛び散ったに違いない Lệ Hằng の肉片も血も骨も、いまだ、重なり合った鉄骨の群れが明確にはあかさないいまま、《腐った》春奈の手首の、ささくれ立ったって残骸化した皮膚の上にも、午後の窓越しの陽光は差す。まるで、なにかに救われたがっているようだ、と不意に思いながら、わたしは《天使の》春奈の手首の傷から唇を一度外して、

 

どうしたの?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そう言ったのはわたしだった。まるで、《まだ腐っていなかった》春奈がそう言ったように、わたしには聞こえた。天使のような、その声で、《なんで?》彼女は《何もしないの?》言いながら、堰を切ったように涙声になって、わたしに抱きついて押し倒し、彼女の四肢がわたしの四肢に絡みついていくのに、わたしは気付いていたのだった。泣くのだろうか?その華奢な背中の曲線だけに触れ、彼女の皮膚が、わたしの皮膚に重なったまま、骨と骨がお互いの所在を探り当て、わたしは、声を立てて泣きさえするのだろうか?彼女の体重と体温が、わたしのそれを重く押しつぶしさえし、Lệ Hằng が死んでしまう時には、やがて、その時に、Lệ Hằng の意識は一瞬で消し飛んだに違いない。北村は言ったものだった。《父親がいつも殴ってたよ。お母さんをね、だから、春奈をさ、あれだけ不安定なさ、女にさ、》工場跡地で《させたのもなんとなくわかるけど。折檻とか、》行為が終わったあと、Lệ Hằng は立ったまま股に触れて《虐待みたいなのもあったけど、たいしたことないよ。春奈が大袈裟に言ってるんだよ。だって、あいつ、まだ生きてんじゃん。…汚物処理班だけど。》行為の結果を指先に《…あいつ。死んでないじゃん。五体満足じゃん。要するに、たいしたことないんだよ。

お前、妹のこと嫌いなの?

アイロンで背中、》確認したが《焼かれたことあったけど。まだ

あの子、未だに

跡、》Lệ Hằng は見つめたまま《…残ってない?

うなされてるよ、なんか、

やった?もう、》息を殺して《春奈と。

ときどき、俺、

お前。

…気味悪いんだけど。

もう?まだ》わたしの唇に《残ってるんじゃない?

吐いてるし。

俺がやるのって、

いっつも、

あいつに》指先で、Lệ Hằng は、指先を《せがまれて

いっつもだよ。

…さ。》濡らしたものを、《だから、》なすりつけるように、《あいつの体

食ったらすぐ

たいして》口紅を《興味ないから

げーげーげーげー

よく》指先で唇に《知らないんだよ。

食った直後、

好きで》のばずように、《やってるわけじゃない。

他人の話なんかさ、

実際、

俺、興味ないんだけど

やめて欲しい。

ずっと言うわけ、あいつ

頭おかしいんだよ。

お母さんからずっと

死んだほうがいいんじゃん?

殴られてたの?

トラウマとか何とか

家で?

結局

言ってたよ

自己正当化だから

生きてるのが不思議って

あいつのは

本当は

甘えてるだけでしょ

死にたいけど、

ほかの人のは知らないよ。

死んじゃうと

じっさい、くるしかったんじゃん?

何もなくなっちゃうじゃん、わかる?

同情するよ。

わかる?

理解するよ。

とかずーっと

でも、あいつのは、嘘。

言うわけ

でたらめ

何か

じっさい、俺、ふつうじゃん。

俺…俺までさ、

あいつの頭おかしいの

うつになりそうなんだけど

親のせいだったら

…かわいいからさ、

俺だっておかしくないと

許す、的な?

おかしいじゃん?》北村の《…違う?》言うことがいつも半分以上の嘘を含んでいることは知っていた。

北村と妹に肉体関係など何もないことは見ればわかった。わたしは気付いていたが、その嘘に関して誰かを処罰する必然性も、誰かを糾弾する必要性も、わたしにはなかった。春奈はむしろ、何の反論もないまま、北村の傍らで微笑んでいるだけだった。透けそうなほどの《朝から晩までさ、ほんと》肌の白さが、風鈴会館の一階の喫茶店の《うそだらけだよ。気付いたら》中で、暖房の温度に温められすぎて、皮膚をかすかに《手首切ったりさ》上気させたが、わたしは《…死ぬ気もないくせに。》何度か彼女の目配せを眼差しのうちに《死ぬ振りすんの。気付いたら》捉えはしたものの、彼女がむしろ、彼女に関するこれらの《切っちゃったって》話に対して以外の何かをわたしに《馬鹿じゃないの?って》暗示しようとしているのは明白だった。愛してる。彼女を初めて 春奈の《思うじゃん?》眼差しが、抱いて、言っていた。すでに何日か経ってはいたが、《…違う?》北村もそれを知っていたのか、気付いていたのか、わたしにはわからなかった。彼女の、飢えたような欲望を背景にした、にも拘らず充足しきった眼差しが、ただ、わたしの気配の全体を捉えているのは知っていた。

北村はいつか彼女を殺してしまうかも知れないとさえ思うが、その予兆は、実現されることはない。とはいえ、その予兆が、現実的に既に起こってしまった後の傷痕のように、わたしの眼差しに張り付き続けて、目の前に見えるものを単に見ることを阻害し続けた。春奈は、北村が殺してしまったとしか、わたしには思えなかった。彼女がわたしの前から逃げ去って、何年も姿を現さなかった空白の間のずっと。ふたたび、その残骸を見にしてすらも。わたしは何も見なかった、何も聞かないばかりか、自分が、自分勝手な錯覚と錯乱の中に、自分が吐いたものらしい言葉の群れに苛まれ、それに非議さえ訴えようとしているのを知っていた。《死ぬんだったら、》北村は振り向き見て、その固定された視線のうちに《ほんとに死ねばいいのに。》春奈に言ったが(装われた冷酷さで)、もはや、彼女はそれらの言葉を耳のうちに聞いてさえいなかった。そのとき、愛してる? その眼差しは ねぇ、言っていたに違いなかった。ただ、愛してる? 彼女が見つめたわたしに、そして、答えのないままに、わたしも。と、彼女はその眼差しのうちに。わざと酔いつぶれた春奈は何日か前に新宿のラブホテルでわたしに抱かれたものの、最初から狙っていたのか、偶然の結果だったのか、誰にもわからないまま、しかし、彼女と連絡を取るのは、いつでも困難だった。無視される着信と返ってこない、返されるべきだった返信が集積する以外にはない。生きているのか、死んでいるのかさえわからない、行方不明の、そしてある日、珍しく自分から掛けてきた電話に出なかったら、出るまで執拗に鳴らされ続けるにも拘らず。メールもそうだった。返されるべき返信が返ってくるまで、執拗にメールは鳴らされつづけたものだった。忙しいの?

どうしたの?

だめ?

いま、無理?

忘れたの?

忘れたいの?

ねぇ、言って。

言っていいよほんとのこと

いいなよ。むしろ

ね。…まじなの?

《ごめん。待って。今、忙しい》

関係なくない?

それ、違わなくない?

無理?

完全に、もう無理なの?

終わった?

終わっちゃったの?

終わらせた?

もう、終わらせちゃったりした?

...まじ?

会うと、あれほど行方をくらましていたというのに、昨日会って話したばかりのように、何日も前の最後にあった日の次の日をいきなり継続させた。その自然さに、結局はわたしたちは彼女に従うしかないのだった。北村に対しても同じことだった。その頃彼女に三歳になる子どもが既にいて、その、彼女の両親の元に預けられっぱなしになっていた子どもたちのことで、彼女の《家庭》にいさかいが絶えなかったのを知ったのは、彼女が本当に、完全に連絡を絶ってからだった。北村から聞いた。《あいつ、お前のこと、ほんとに好きだったからさ》父親が誰かは 何それ? ね、待って。《なんかなにも、何も問題なかったのに《なんか、さ。》春奈以外に誰も《なんか、気にしてたんだよ、ずっと。あいつ、》いや、知らない。聞いたとしても気にしないわけじゃないけど。おれだって、答えないらしかった《お前にばれたらどうしようとか言うから。絶対、》お前に連絡するってあの子が、ちょっと、普通の子じゃないなんてね、知ってるじゃん? おれだって。だから、言ってたけど、ない?連絡。《内緒にしてくれって。悪いなって、なんか、だましてるみたいな?そういう》言ってたよ、謝りたいって わからないわけじゃないけど、そんな事、いまさら言われても、もう、何を謝るのか知らないけど《悪いなっていうのはさ、けど、言えなかったおれも悪いんだけど》なんか、連絡あるかも 何もしてやれないし、もう、何も… ないかも。実家にももう《帰ってこないんだよね、あいつ。何してんのって?》一ヶ月?帰ってきてなくて おれ、できなかったしさ。実際、何も。何もかも、子どものこととか《こどもいるのに。育ててやんなきゃいけないわけじゃん?》完全に放棄しちゃって もう遅いよ。そんなこと、ほったらかしだよ《自分で生んどいて何してんの?って。》でもさ、家族じゃん?一応は、さ どうでもよかったのに。そう言ったわたしは、どうでもよかったのに、そんなこと。わたしが、涙を おれ、あいつのこと、流しているのには気付いていた。わたしは 守ってやりたかったのに。知った、わたしは自分が泣いていたのを知った。その瞬間に 守ってやりたかったからさ。涙がとめどなく溢れ、息を詰まらせながら、歩きながら泣きじゃくるしかなかったわたしの肩を、北村は抱き、「あいつのこと、好きだった?」北村が言った。わたしはそれに答えるすべも、言葉もなかった。「ありがと。」北村が言ったその声を、わたしは耳元に聞いた。「あいつのこと、好きになってくれて」思い出す。母の写真を見せられたことはなかった。その写真は後に、インターネットで検索して発見した。犯罪者のようにぼかしの入った写真や、顔そのままの写真、加工されたもの、それらの無数の、基本的には同じ写真のヴァリエーション。その隙間を夥しく埋めたノイズの数々。どこかの水商売の女らしい女の商売用の写真、整形手術直後の顔の傷跡の接写、笑っているどこかの中年男の背景に、富士山が見える。うどん屋で写真を撮っている女の写真。ビデオデッキの古いカタログ写真の画像。事件のことは、母親の弟から(叔父から)聞かされたのだった。事件の通称名だけ教えられ、大体のあらすじが教えられて、気になるなら、と彼は言った、おまえ自身の《調べたかったら、》心の強さに《自分で調べてみな。》心が折れない《ネットで。すぐに》自信、あったら「自分のお母さんの、話だからさ」彼は言い、薫と言う、女のような名前の彼は、しかし、彼がゲイに違いないと見ていたわたしの見立ては何度も裏切られたものだった。年の離れた彼の奥さんとの間に子どもができるたびに。そして、彼がその子どもたちの前で単純に父親でありえているのを見るたびに。あの、男であることを拒否したいような、忌避したいような、そんな彼の気配はなんだったのか?その気配を未だに漂わせながら、やがて、彼が癌で死んで行くしても、そのときにまでもその気配を、わたしは感じる、死のふちの、やせ衰えた彼のまだ若いはずの50代の身体を眺めながら、注意深く、なかったことにされた母の存在が、にも拘らず、片付けられないままの、女子学生のものらしいその部屋はそのまま保存されていて、時代遅れの女物の靴は何足もそのままに下駄箱の中に安置されたが、彼女の存在は、言葉としては、或いは写真としては完全に消し去られていた。忘れ去ろうとしたのか?記憶し続けようとしたのか?娘のことを想起するたびに、癲癇のような発作を起こして倒れるか、発作的な過呼吸を起こして失神状態になるか、嘔吐するか、祖母の精神は痛んでいた。わたしはずっと、かわいそうで面倒くさい頭のおかしな老いぼれとして、ただ、彼女を忌避した。何かの瞬間に、何かをしかねない怖さが、彼女にはあった。その何かが何なのかはわからないにしても、わたしは恐怖し、彼女は、おそらく、思い出すのだった、時に、優しい日差しの中に微笑むわたしの表情に、かつて、その娘がその身体に体験したに違いない暴力の、すさまじい苦痛、痛み、逃げ場のない恐怖、おののき、声にならない悲鳴、発されることのなかった絶叫、流される前にその限界を超えてしまったのかもなかった、失われてしまった滂沱の涙。それら、祖母が自分では絶対に見たことも、見ることもできなかった、経験されたこともされ獲ることもない、記憶されなかった、どこにも存在しない、それらの生々しい、消失しないままの記憶の鮮明さの、それらは彼女を内側から壊してしまう。祖母は声を立てながら泡を吹いて、のけぞって頭からたおれたとき、わたしは思ったことがあった、床が立てた派手な音と、棚のものが飛び上って立てる破裂音の向こうに、どうしてもなかなか壊れ切ろうとしない人体の不遜なまでの強固さを。目を背けたくなるほどの。残酷なまでの。小さな子供の目が捉えた、巨大な大人の身体がくず折れる凄まじい衝撃と音響。大人になって見出された、その小さな貧弱な身体と、その貧弱な狂気の薄っぺらさ。壊れ、《腐った豚の》春奈がしゃべりながら舌をかみ、苦痛に顔をゆがめながら、それでもしゃべりやめない春奈は足元からスナック菓子を取り出して、「食べて」言った。胡坐をかいてカーペットに座ったまま「気にしないで食べて」話しがやまない。同じ話をなんども、違う章句で繰り返されて、やまない、波紋をなすような自分勝手な会話は、言葉の群れが、結局は何ものをも形成しないまま、とはいえ、耳元に言葉の破片だけを残して、わたしに記憶されてしまうのだった、いつの間にか、彼女の身の上の聞きたくもない話は。穢死丸 は笑いながら、雨を警告し続けていた。しきりに、そして向こうのほうを指されたその指の、向こうに飛び立った鳥たちが、やがて失神してしまったときに、わたしたちは怯えたのだった、雛たちの血の温度さえもが、その悲しいおびえを知って、鳥たちはやがて失神してしまったのだった。ささやき声は、いまやどこに?と、その羽ばたきの消え去ったほうの、空にあったかもしれない決して手渡されはしなかった記憶のうちに、凍りついたわたしにさしだされた、湿気たスナックを、というよりも、彼女の周辺に存在するものを口に入れる気にはなれず、空気さえも、吸い込みのが嫌だった。そして、目を背けたくなかった。存在そのもを消してしまいたかった。直視した。わたしは恐怖した。かつてのハンセン氏病をめぐる、いまや伝説的な忌避の挿話の数々の、その恐怖のリアリティが、わたしにはわかる気がした。(やがて克服されてしまうのだろうか?)振り向いた彼は(かつての天刑病のように、)ひげをそっていたが、いたみを(わたしたちの存在そのものは?)感じない彼は(だれかに、いつか。)耳をそのまま気付かずに剃ってしまう。血まみれの彼は微笑んで言う、ごきげんよう。そんな、伝説的な挿話の群れ。わたしは知っている、今目の前に、わたしはそして恐怖する。どうしようもない生理的な恐怖。一歩よろめいた先に、出会うことになる顔。あるいは、仮面の下の素顔どころか、皮膚を剥いだ下の筋肉と骨格そのもの。かろうじて押さえらているのに過ぎない崩壊寸前の建造、遠く、絶対的な隔たりとして忌避されなければならず、にも拘らず無距離の近さとしてここに既にあった、それ。魂。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なつかしさとして振り返られるのは、それが、未だに姿を現していないからというだけだ。未生のそれらはすでに、皮膚の下に、膨大な骨格と筋肉と神経と、あらゆるそれらを形成し続けてやまないままに、咲き誇られた花々の純白の色彩が、わたしの爪の上に咲き続けていたのを知った。わたしは息を殺して見つめるのだった。やがて消滅した沈黙の、長い不在の間に、それらは記憶されていたのだった、おののきも、震えも、すでにあれら、見知らないものとして、いつか。夕暮れごとに、輝いたほうからふいてきて、あれらはすでに、たたまれたものとして心にかかってさえいた。薫の二人目の子どものうちの幼いほうの一人が、交通事故で死んだのを知ったときに、わたしは見つめざるをえなかった、暗い予兆がただ空間が満たして、何者をも音響を立てることなく、薫はわたしの視界の中で、涙を流すことすら一度もなかったが、彼が泣けるだけ泣いていたのを既に知っていた。単なる普通自動車とはいえ、対比の中で、見上げるほどに巨大な鋼の塊りになったそれがあの小さな身体をひき潰したときに、やがて薫は泣いたのかも知れなかった。わたしたちの眼差しのそとで、彼自身は、とはいえ、わたしは彼の流された涙を見ることはなかったが、けっして見られなかった嗚咽さえも、激しい、過呼吸を起こした身体のような、それの痙攣を記憶していたのだった、わたしは、彼の無言の伏目の上に。それらは記憶されいたかも知れなかった、薫に、けっして彼が知ることのなかった、ある小さな身体が破壊されていくその瞬間の、一瞬の意識がはっきりと、焼け付くほどに最期に獲得したかも知れなかった、痛み、骨が砕かれ、筋肉がつぶされて、引きちぎられた血管の、それらを知りはしないわたしは、確実に予感していた。気配の中に、わたしはそれらの痛みと、純粋なある孕みきれない理不尽な大きさを、こどものいまだ埋葬されない死体の上に、わたしは見出した気がした、広げられたあの口にすでに無理やり押し込まれてしまった、決して口がくわえ込むことなどできない、絶対的に大きい質量の何かの暗いきらめき、感じ取られた予兆のような、それらの気配の中に、彼らが、わたしが、どうしようもない瞬間に一気に制圧されてしまった屈辱感を、わたしが感じたのは何故だったのか?薫の妻は、ただ、伏目がちに視線を落としただけで、最早、悲しみの言葉さえなく、ただ沈黙していたのは何故だったのか?「全部、ぶっ壊してやるから」北村が言った、あの「俺が取り戻す」美しいだけがとりえの、末端のホストの北村。誰もが使えないと言った馬鹿の北村。まともな会話さえ成立しない。中国人たちから偽造カードを買い取って転売して、副業を立てながら、「歌舞伎町をさ、あいつらから取り返すから」彼は言うのだった、耳元に唇を「むかつくでしょ。俺たちの町じゃん」触れるほどに近付けた挙句に、「あいつらの事務所、ふっ飛ばしてやろうと思って」背後の奥の席の地元のやくざのほうを、自分の胸元に隠して指さしながら「いや。関係ないじゃん。加藤連合とかさ」言った、「マジで」笑いながら、マジ、関係ねぇから。わたしは美しい北村の髪の毛を右側だけかき上げてやり、彼が一度も同性愛者であったことなどなかった。その身体がどうであっても、本質的には女性以外ではありえなかった北村は、結局のところ代わり映えのしない異性愛者だったに過ぎない。ときに、彼の、男性として美しい身体が、彼に男性であることをむしろ強制したとしても、彼自身、自分の身体に惹かれ、それに求められるままに、あまりにも男性的な性格を後天的に獲得して行ったに違いないにしても。彼が、当時の赤坂のチャイニーズマフィアとつるんでいたのは知っていたし、《林》と名乗っていた《宗》は片足が義足だった。朝鮮でなくしたのだとは言ったが本当かどうかは知らない。もはや、二つの国家が崩壊しあう以外には終わらせようのない朝鮮戦争。全てをぶち壊すか、あるいは気付かなかったふりをして休戦し続けるか。丸顔で、よく笑った。赤坂の持ちビルで中華料理屋をやっていて、近くのもう一棟の小さな居住マンションを貸しながら住んでいて、もう若くは無い日本人の内縁の妻が常に寄り添いながら、よどみのない日本語で、「いまに見といて」思い出したように、再び「いまに、この町、変えるから。」北村は言った。



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