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はじめに

 ③(第3章)の「創世の物語」は、小説『アトラス』の鬼門だ。内容が暗いからである。

 

 ②がアサジの勝利とチェリアとの婚約によって大団円を迎えるのに対して、③は敗者イドの苦悩からスタートする。

 

 このあまりのコントラストに読者が戸惑ったとしても、作者として、それを責めることなど出来るはずがない。読者にしてみれば、まるで快晴下の道路から、いきなり暗いトンネルに迷い込んだような気分だろう。

 

 著者である私に出来ることは、暗いトンネルの滞在時間を、なるべく短くしてあげることぐらいだ。

 

 そこで、一週間に一節のペースで配信していた『アトラス』の連載を、今回にかぎり、一気に、第三節まで配信することにした。この三節を乗り切ってしまえば、③の最も暗い箇所は通り抜けられるからである。

 

 第4節以降には、またアサジとチェリアが登場するので、どうかお楽しみに。

 


1 日暮れの浜辺

 タンガナから数日を経て、勇者アサジの名が島中にくまなく知れ渡った頃、栄光を手にした彼とは対照的に、タンガナのもっとも惨めな敗者となったイドは、その大きな体を忽然と人々の前から消し去ってしまい、目下のところ完全な行方不明となっていました。


 あの日以降イドの姿を見たという者は皆無で、そのため父母をはじめとする関係者は気が気ではありませんでした。また、姿が消えてから三日もすると、


「イドは、もう島にはいまい。船の操舵技術に長けた彼のことだから、今頃は海上を船ですべり、きっとどこかの陸地を目指しているんだ」


 などという噂が、まことしやかに囁かれるようにさえなりました。


 島の伝統とでも言うべきなのでしょうが、テピト・テアナの男たちは、何かしら自分に罪の所有を感じると、往々にして、島を離れるという行為にかられることがありました。これは、テピト・テアナの"絶海の孤島"という有りさまを如実に示すものでしょう。つまり、


「近くに陸地がないのだから、島を離れることは、それだけで、死ぬのに近い危険を被ることを意味している。その危険を越えて、どこかの土地に漂着できたならば、その人間は死界を潜って生まれ変わったも同じである。罪人は海で死んだのであって、陸地に着いた者は潔白な別人なのだ」


 という無言律のもとに、贖罪を認めてもらおうという心情があったのです。ですから、


「姿を消したイドも、そうした伝統に従ったのではないか」


 そう思う人たちがいたとしても不思議はありません。


 しかし、当のイドは、決してテピト・テアナを離れた訳ではなく、たしかに今も島内で生活を続けていました。ただ彼は、考えられるかぎり最も人目につかない所を探しだし、そこで閉じた貝のように静かな日々を過ごしていたのです。

 

 

 

 あの日、バッティーヤはがタンガナの閉幕を宣言したのち、イドと、彼のとなりに付き添っていたカラマは、他の選手たちと離れてアノ・アロイ大火山の方向に――オロンゴ岬を擁するラノ・カウ大火山と同様、島の三角形の頂点をなす火山がある方向に――海岸づたいで歩いていきました。すでに日が暮れかかっている頃のことです。


 そうして歩いている途中、イドが胸苦しげにカラマに対して言いました。


「もう、いいよ。もう一人で歩けるから、あんたはここで帰ってくれ。俺はもう誰とも話したくないし、誰とも一緒にいたくないんだ」


「冗談じゃない。こんなに傷ついている君を放っておけると思うのか」


 カラマの言葉には純粋な労りがこめられていましたが、それに向かって、傷だらけのイドが烈火のごとく怒ります。


「傷つけたのは誰だよ! あんたとアサジじゃないか! あんた達さえいなかったら、俺は、この俺は今ごろは......」


「勇者になっていたというのか。だが、たとえ勇者になっていたとしても、その肩書は君を苦しめる事にしかならなかったはずだ」


「やめてくれ! 勇者になれなかった今、俺はこんなにも苦しんでるんだ。


 頼むよ......俺の前から消えてくれ。今は一人にならないと、まともでいられる自信がないんだ。そばに誰かがいると思うだけで気が狂いそうになる。だから頼むよ」


「だが、それじゃ......」


 すがるようなカラマの顔は、それを見るイドの表情を、急に大人びたものへと一変させました。少年の唇には、老いた者の諦念じみた微笑みすら浮かび上がります。


「頼むよ、一人にさせてくれ。安心していいからさ。


 今あんたが消えても俺、それであんたを恨むようなことはしないから。あんたが優しいってことは、それだけは分かるから......それに子供のすることなんだぜ、気が済んだらすぐに家に帰るさ。そんなに深刻になることはないんだよ」

 


 そう落ちついて告げられると、カラマには、もはやイドの後を追いかけることは出来ませんでした。カラマには、傷ついた少年が宵闇のなかに消えていくのを、ただ黙って見つめていることしか出来なかったのです。

 

 やがて夜の暗がりのなかに、うっすらとラノ・アロイ大火山の山稜が浮かび上がります。一人で歩いているイドは、その山稜の形と大きさを確認すると、


「ということは、このあたりの林に隠れているはずだ」


 と、木々が立ち並ぶあたりを熱心に探しまわり、そこに、ずいぶんと朽ちているけれども、どうやら家の残骸らしいものを見つけました。


「あった......まだあったんだ、俺たちの基地が。


 昔やった基地あそびは楽しかったな。みんなとこの小屋に隠れてさ。だって大人たちは誰もここを知らないんだから。結構いいところなのに。海までいけばエビだって摂れるのに......はは、美味しくもない、痩せこけて小さなエビだけどさ、みんなと食べるとそれでも美味しかった」


 イドの脳裏に、にこやかな少年たちの顔が明滅します。


「今は、まわりに誰もいない。どうして、こんな事になっちゃったのかな。あの頃に戻れたらいいのに」


 過去に戻ることは出来ませんが、まわりに誰もいない、というのは確かにそうでした。このラノ・アロイ大火山の付近は、島でも極端に集落が少ないところだったからです。面する海で大したものが採れなかったのが、その主たる原因でした。イドが言うような小さなエビがせいぜいのものです。


 わざわざそんなものを漁るために海岸を訪れる者などまずいませんから、この辺りにさえいれば、イドが当初に望んだように、誰とも会わずにいることは、ごく簡単に叶えられそうでした。まさに一人きりになるためには絶好の場所であったのです。


 あと、カラマに対して「子供がすることなんだから、気が済んだらすぐに帰るだろうよ」と、その日のうちにも、自分が家に帰るようなことを匂わせたイドでしたが、実際には、彼は、この海岸で独り暮らしをするつもりでいました。それが何日間になるか分かりませんが、とにかくそうせずにはいられない気持ちだったのです。

 

 

 

 とはいえ、そうした侘しい生活も、今日で六日目になります。


 いつものように日没前の海に入っていくと、足を洗う波は思いのほか冷たく、お目当てのエビも、たった三匹採れただけにとどまりました。


「くっそ、これだけかよ」


 体が大きく、まして食べ盛りの頃でしたから、小さなエビ三匹という粗食にはひどく辛いものがあります。


「家にいたら、さぞかし腹いっぱいに食えたんだろうな」


 そう思いつつも、やはり家に帰る覚悟はつきそうにありません。イドはエビを採ってもすぐには小屋に戻らず、しばらくの間、まもなく沈みきろうとしている太陽をじっと眺めていました。じっと身じろぎもせず、目に涙を滲ませながら。


 太陽が完全に沈むと、イドはわずかに摂れたエビを焼いて、それを夕食としました。そんなものを夕食と呼ばなければなりませんでした。もちろん満腹感など期待できようはずもありません。


 ですが食物のかわりに、悔しさがイドの腹を満たしました。夜の冷気のなか、このような場所で空腹に苦しまなければならない悔しさ、それがイドの腹に溜まっていくのです。「こんな事になったのも、すべてはタンガナに参加した選手どものせいだ。アイツらが、俺のしたことを黙っててくれなかったからなんだ。


 俺がアサジを殴ったことは、アイツらが、もう島中に報せちまったに決まっている。今では島の誰もが俺のしたことを知っていて、それでもって......俺を、俺をみんなで馬鹿にしているんだ。イドは卑怯者だって、そう言って。畜生、いつか島の奴らみんなに復讐してやる。四の五の言うやつは、ああ、殺したってかまうもんか!」

 

 

 

 このような憎しみで空腹を満たすイドでしたが、彼はその夜遅くにある夢を見ました。なにか黒い霧のようなものが目の前を覆い、その霧がものを喋ってくる夢です。


 その黒い霧とイドは次のような対話を交わしました。


「聞こえるか......お前に......我が声が、聞こえるか」


「誰だよ、霧の中に誰かいるのか」


「誰と問うても我に人の形はない。なぜなら我は霊であるから。強大な霊であるから。しかし霊は、肉体という依代を持たなければ、その力を現世で発揮することが出来ない。小僧、お前は我の依代となるか。なるならばお前に大いなる霊の力を与えるが」

 


「俺に力をくれるだって?」


「いかにも。我に命を捧げれば、憎む者たち全員の命を奪える、それだけの力をやろう。だが、お前に自らの命を投げ出す勇気があるか」


 そう言われて、イドに迷いがあるはずもありません。


「やつらに復讐できるなら、こんな命、いくらだって差し出すさ」


「ならば力を与えよう。そのかわり、お前の命はもう我のものだ。もはやお前のものではない。だが、それ以上のこともある。我に魂を捧げれば、お前を私と同等の存在にしてやろう。すなわち悪魔に」


「悪魔だって? じゃあ、お前は悪魔なのか。俺は悪魔と喋ってるのか」


 と、驚いて目がさめたところが夢の終わりとなりました。


 このように不思議な夢を見るのは、イドにとって初めての事でしたし、それが夢のくせに奇妙な現実感を帯びているのが気にかかりました。


 ですが、自分の体を眺めてみる限り、夢で言われたような力が与えられているとは、少しも感じられません。ですから、まあ、夢はしょせん夢だったということなのでしょう。イドには、確実にそのように思えましたし、だから彼は、その日のうちにも、不思議な夢を見たこと自体を忘れてしまえたのです。ええ、完全に。


 それがいつか、彼にとって、重大な意味を帯びてくることも知らずに。 

 
 

 


2 キンナラという老婆

 劣等感に苦しむイドは、自分に対する人々の視線を大変気にかけていましたが、事実、彼がしたことを知らない者は、島にほとんどいないと言っても過言ではありませんでした。


 アサジを殴ったというイドの話は、あっという間に島中に浸透していき、少しすると、彼が行方不明になっていることも話題になりました。それと同時に、先述した離島の噂も流れはじめ、かくしてイドは、島における話題の中心にまで登りつめたのです。


「でも仕方ないよ。幼い身でタンガナに参加して、その精神の未熟さのために失格者の烙印を押されたんではさ」


「私たちタンガナの参加者も、今さらですが、あのときは大人気ないことを言ったものだと後悔しているんです。それほどの悪意を込めたつもりはないのですが、あのときの私たちの囁きは、イド君にとって耐えがたいほどの苦痛だったのでしょう。こうして姿を消してしまったことを知るに及び、自分たちの浅はかさが情けなくて仕方ありません。今すぐ彼に謝りたいぐらいです」


 イドの思い込みとは逆に、彼をあわれむ者は、彼がしたことを単純に責める者よりも遙かに多かったのです。


 こうした空気の中で、あの、事件の目撃者であり広報者でもあったタントリが、自分の居場所をなくして家を出て行ってしまうという事件すらありました。


 今、もしイドが村に帰ってきたならば、彼を責める者はまずなく、その帰りを知った多くの者がイドを歓迎してくれたことでしょう。


 しかしイド自身が考えている"現実"はあまりにも暗く歪んでしまっており、その歪みを彼に指摘してあげられる者もまた、イドの周りに居はしなかったのです。

 

 

 

 イドはあれからも幾度となく島人たちを恨み、幾度となく心のなかで島人たちを殺し、幾度となく悔しさに泣きました。食事はいつも貧しく、その貧しさがイドの憎しみを一層あおり立てるのです。


 この日の夜も、すでに真夜中を過ぎていましたが、それでも未だに眠ることが出来ませんでした。今もどこかで自分をあざ笑っている奴がいるかと思うと、燃えるような悔しさに血脈が沸き立ってくるのをどうしようもないのです。


「何も考えずに眠れたら楽なんだろうけどな、腹が減ってると眠れもしない......


 そうだ、どうせ眠れないならエビでも採りにいくか。今夜はそれほど冷えないし、体は熱いぐらいだ」


 そう言いながら、イドは海に向かって歩いていきました。何気なく見上げた夜空には、青い三日月がかかっています。

 

 

 

「お、これで六匹目だ」


 この夜エビは思いがけないほど沢山とれ、数えてみれば、ここに住んでからの最高記録になっていました。ほかに食用の海藻なども見つかり、これらを持って帰れば、さしあたり深い眠りを誘ってくれるだけの食料にはなってくれそうでした。


「じゃ、ぼちぼち終わりにするか」


 と、イドは小屋に戻ろうとします。しかし、そのつもりで波間から上がろうとしたとたん、彼の脛のあたりに、まずもって魚や海藻ではありえない、妙に肉厚で柔らかいものが当たりました。


「うわっ、なんだ!」と、思わず大声をあげるイドでしたが、そう叫んだ間に"何か"から飛び去った距離も大層なものでした。

 


 図らずも持ちえた距離を挟んで見てみると、その得体の知れないものが、どうやら丸太にしがみついた老人だということが分かりました。どうやら気を失っているようでしたが、それでも、ちゃんと息はしています。


「どうする、一応は介抱してやるか」


 イドは濡れた黒衣をかぶった老人を背負うと、そのまま小屋まで連れ帰りました。そして、エビを焼くために焚きつけた火の傍で、あらためて老人の顔を眺めます。


「こりゃ婆さんだな。しかし人相の悪いこと悪いこと、今は目が閉じられてるけど、こいつが開いたらどうなるんだい」


「こんな風さ、イド」


 その言葉とともに、まるで人事不省とも思えた老婆の目がカッと見開かれました。

 


「なっ、気づいていたのか。ああっ、なんで俺の名前を!」


「ああ、わめくな。うるさいね、こっちの苛立ちが増すばかりだ。ほんとにイライラする。お前があたしを呼び寄せたおかげで、こっちは大波に揉まれて死にかけたんだ。とにかく、まずは謝りな。いま謝っておくと、あとで辛い目を見ずに済むかもしれないよ」


「はあ?」


 イドには、この老婆が何の話をしているのか、皆目見当がつきませんでした。あまつさえ謝罪しろなどと言われても、そんな唐突な求めに、応じられるはずもありません。


「身に覚えのないことを謝れるかよ。それよりお前、俺の名前を知ってるってことは、初めて見る顔だけど島の奴なんだな。訳の分からないことを言いやがって。俺を探しに来たのなら無駄だぜ、俺は帰らない。だからさっさと村に戻れよ。けど俺の居場所をバラしたら、意地でもお前をブッ殺してやるからな!」 


 しかし、その小屋が揺れるほどの迫力にも、老婆はただ笑うだけで、イドの怒声などは、てんで屁でもない様子です。

 

 

 

 老婆が言います。


「あたしはキンナラってんだ。島の人間じゃないよ。つまり異国人でね、ご主人さまに遣わされて、わざわざここまでやってきたんだ。お前の名前もご主人さまから聞いたんだが、イド、お前だって、あの方と話をしたんだろう」


「ご主人さま? 俺がそいつと話したっていうのか。知らないぞ、ちっとも」


「ほう、どうやら忘れちまったんだね。でも、忘れられた約束だって、約束は約束だ。あたしは、あんたの願いを叶えるよ。約束のとおりにね」


「世迷いごとは止してくれ。約束なんてした覚えはないんだ」


 キンナラは、フンと侮蔑をこめて鼻を鳴らしました。


「タンガナで負けたあんたは、ずっとアサジのことを憎んでたね。


 そしてタンガナに参加した他の男たちも憎んでた。いや、それだけじゃない。お前はすべての島人たちをも憎んでいたんだ。島人を、今もお前を馬鹿にして、今もお前を嘲ってやまない奴らのことを」


 その老婆の言葉は、イドの顔を真っ青に染めるのに十分な的確さを持っていました。


「あんた、一体なんでそんなことを......」


「だからご主人さまに教えてもらったんだよ。まったくね、子供ってやつは、純粋だから歯止めを知らない。それにイド、お前は人よりも"念ずる力"が強いんだ。そういう人間が激しい憎しみを育てていると、このブ厚い結界をめぐらせた島であってもね、抜け道が出来るんだよ。あたしたちが通るための抜け道がね、分かるかい。


 ふふ、あたしたちが、どんなに長いこと、この島に忍び込もうと思って、結局それが出来なかったことか。それを、お前のような奴が島の内部にいたことで、抜け道ができた。そして、とうとう、あたしがここまで来ることになったんだ。ひひひ」

 

 

 

 そのキンナラの言葉は、動揺するイドの耳には、もはや一つも入っていません。実際イドの動揺ぶりは見ていて気の毒なほどでしたが、彼は、もはや絞り出さなければ出てこない声に、それでも虚勢をおり混ぜずにはいられませんでした。


「たっ、確かにあんたは俺の心を読んだよ。だけど、あんたみたいな人相の悪い奴を信用できるはずがないじゃないか」


 キンナラはもう一度フンと鼻を鳴らしました。


「信用しようとすまいと勝手にやらしてもらうさ。契約は済んでいるし、あんたの命は、もうあたしたちのものなんだから。それに、あたしがするのは、もともとお前が望んだことなんだからね。島人全員への復讐ということはさ」


「島人全員への復讐......」


「そうさ、すべては、その目標に向かって進んでいくんだよ。あたしたちのこれからは。嬉しいだろう、ねえ」


「......俺は......その......」


 なるほどキンナラが叶えようとしていることは、たしかに自分が望んだことの実現ではあります。しかし、いざ、それが実際に叶うとなると、不甲斐ないことに、急に下腹のあたりが底冷えしてくるのです。


(このババアは、イドっていう俺の名前はおろか、この心の中までも知っていた。こんな不思議なことはないだろうし、だとすれば、俺の願いも本当に実現するかもしれない。だけど、そんな事が叶ってしまっていいのか)


 イドが何も言えずにいるのを、キンナラが苦々しく不快がりました。


「なんだい、あれだけ人を憎んでおいて、いざ思いが果たされるとなったら、急に尻込みかい。お前さん男だろうが。なのに、ずっと島の奴らに馬鹿にされたままでいいってのかい、弱虫め。自分の憎しみに対してまで卑怯者になるのかい。いいかい、島の連中は、今だってお前を馬鹿にしてるんだよ。お前を卑怯者だって言ってるんだよ」


「うっ、うるさいな。とつぜん変なことを言われたんだから、何も言えなくなったって仕方ないじゃないか。俺はちょっと外に行く。そこで考えさせてくれ」


 そう言い、イドは老婆に背を向けました。

 

 

 

 そうして小屋から出ると、イドの充血した目に、いきなり眩いばかりの太陽の光が飛び込んできました。すでに朝日とは言いがたい太陽があたりを照らしていたのです。エビを捕まえていたときには真っ暗だったのに。キンナラと話している間に、思いのほか時間は流れていました。


「きれいだ......」


 イドはそう言いましたが、その感嘆は、やがて悲しい思いを引き寄せていきます。


(そうだ、キレイだよ。太陽め、お前は、あの暗い夜をどこにやってしまったんだ。お前は、あの暗い夜を追い出すことで、今のうのうと光ってる。そんなにもキレイに、それまで暗い夜があったことを忘れたように。そう、お前は暗がりを完全に無視することで、自分の光を完全なものにするんだ)


 かっと目を見開いて太陽を眺めるイドの目に涙が浮かびます。


(島の奴らも同じだ。俺という人間がどんなに苦しんでいるかも知らず、俺を無視することで、その明るい毎日を送っていやがるんだ。俺を無視することでこそ、俺を遠く嘲笑うことでこそ、その穏やかな笑顔を浮かべていられるんだ。


 だとしたら......太陽よ、お前が夜を受け入れてくれないなら、夜はお前に対立するしかないじゃないか。島の連中よ、お前たちが俺を受け入れてくれないなら、俺はお前たちに対立するしかないじゃないか。たとえ、あの魔物のような婆さんの仲間になってでも)


 こうしてイドの居場所は決められました。それは夜の中、暗がりの中、憎しみの中、そしてキンナラの術中の中でした。

 

 


3 デルフィー

 それから一週間が過ぎると、これまで誰も来なかったラノ・アロイ山麓の海岸、すなわちイドが居住していた海岸は、異様なまでの人だかりに満たされるようになりました。


 まず、イドが隠れ住んでいた小屋を改装し、ここにキンナラが店を開いたのが始まりです。店で扱っているのは"デルフィー"。一種の薬品です。


 そして、その宣伝文句は次のようなものでした。


「島民のみなさん、どうです、あなた方が尊敬している巫女さんと同じ体験をしてみたいとは思わないかね。巫女は天の意思を感じられるというが、他方、島民の皆さんには、そいつを感じることが出来ませんでしょう。


 でもね、このデルフィーを飲むと、巫女と同じ体験ができるんですよ。味わってみたいでしょう、あの偉い巫女さんと同じ気持ちをさあ。同じ体験をすれば、今よりももっと巫女さまの気持ちを分ってあげられるし、それは巫女さんも喜ぶことだと思うんですけどねえ」


 そのようにキンナラは言いましたが、早い話が、このデルフィーは幻覚剤、つまり麻薬なのです。麻薬によって、島民たちにも、巫女が味わうような神秘体験をさせようというのがキンナラの狙いでした。

 

 

 

 しかし、キンナラが言っていることに根拠がないわけではありません。巫女は天上の意思を感じる際に、一種の宗教的な、神秘的な高揚感を味わうのですが、その高揚感は、幻覚剤を飲んだときに味わう感覚と、極めてよく似ているからです。


 そのため――一般論ですが、誤った宗教は、よく麻薬に結びつきます。私たちの時代で言えば、オウム真理教などがそうでしょう。


 そして、どうして麻薬と結びついた宗教が間違っているのかは、それが信者に未来を与えないからです。


 正しい宗教と、それに伴う神秘体験は、その人の心に働きかけ、更生し、高め、豊かにすることで、輝かしい未来を彼に贈ることになります。


 それに対して麻薬を使った神秘体験は、似たような心的体験をさせるものの、信者の体にまで働きかけ、副作用を与え、依存性を与え、その結果、著しく健康を損なわせることになります。つまり麻薬が、信者の未来を奪っているわけです。そんなものが正しいはずがありません。


 しかし、副作用や依存性が現れてくるのは、麻薬を飲んでからしばらく経ってからです。ですから、それまでは事の善し悪しが分かりにくい、そうした盲点があるのも事実でした。そして、キンナラが目をつけたのは、まさにその盲点だったのです。


「客に依存性が現れれば、もうこっちのものさ。そいつらはもう、あたしら無しではいられなくなるからね。そうなれば、島の秩序や巫女の影響下から離れて、あたしたちに与する奴らが沢山できることになる。まったく簡単な勢力拡大だよ。とにかく人数を集めないと何も出来ないからねえ」

 

 

 

 ところで、キンナラの店にはイドの姿もありました。


「あたしが店主をするから、イド、お前は店員として手伝っておくれ。もっとも、そのままじゃ正体がバレちまうから、そうだね、顔に泥を塗りこんで、異国人のフリでもしてもらおうか。あたし共々、島に漂着した異国の薬売りを決め込むんだ」


「なんだよ、異国には、真っ黒い人間がいるのかよ」

 


 と、しぶしぶながら老婆の意向に従ったイドでしたが、いかにも異国人らしい片言を使って薬の宣伝をしにいくと、近くに点在する村で"デルフィー"はすぐに有名になり、それで興味を覚えた人たちが、やがてキンナラの店に集まってくるようになりました。


「ワタシ、薬売り。教えてモラタから、少し言葉わかる。薬キク。この薬オモシロイ。飲んだら神サマに会える。巫女みたいニ。店スグにくるとイイ」


 イドが意外なほど見事な演技を見せたので、来店する客のなかには、ただこの黒人の少年が珍しくて物見にやってくる者もいました。そういう者も少なからずおりましたけれども、しかし大部分の客は、やはりデルフィーそのものに興味を持っていたようです。 


 一言で言えば好奇心なのでしょうが、門外不出の巫女の神秘が、苦労もなしに味わえるというので関心が持たれたのです。しかも、キンナラは、それが巫女にも喜ばれることだと言ったのでなおさらでした。


「あたしは、すでに巫女に会っている。巫女もデルフィーの効能を認めている」と。実に見事な詐欺の才能と言うほかありません。

 

「ただしイド、宣伝はなるべく男だけにするんだ。女は変に分別がつくから、あたしとしても子飼いにしにくいんだよ。その点、男はバカだから飼いやすい」


 そうしていざ島民たちがデルフィーを飲むと、確かに酒に酔ったような、けれどもそれをもう一歩踏み込んだような酩酊感があります。宙に浮いて光に包まれるような感じがするのです。当然「これは面白い」という評判が立ち、それゆえ店には、島のあらゆるところから客が集まるようになりました。


 こうした中、キンナラがしていることに不審さを感じたイドが、


「婆さん、薬を売るのはいいけど、それで島の男たちを面白がらせてどうするんだよ」


 と、キンナラを皮肉るように問いただしました。すると老婆は、


「光で招き、明暗の妙で引き込み、そうして影のなかで縛る。人を陥れるっていうのは、こういう手順でするもんなのさ。だから、いまは光をばらまいている。けど、イド、すぐに面白いものが見られるはずだよ」


 と言ってニンマリと笑いました。

 

 

 

 デルフィーは液状の薬ですが、キンナラは日ごとにその濃度を上げていき、薬の効能が次第に強くなるように仕向けました。そんなキンナラの思惑を知らない客は、


「光が見える。すごい、巫女はこんなものを見ているのか。優しくて大きなものに包まれているようだ。なんて幸せな気持ちなんだ」


 と、ほとんどフラフラになって薬の快楽に咽びました。


「そんなすごいのか、なら私にもだ。私にもデルフィーを売ってくれ」


 そう言って薬を飲んだ誰もが快楽にうち震え、なおさらにデルフィーを買い求めました。デルフィーが自分たちの体を蝕んでいるという事に気づくには、島の医学は、麻薬に対してあまりにも無知すぎました。

 

 

 

 しかし、薬の評判が揺るぎないものになり、島でデルフィーの名を知らぬ者がいなくなったころ、客たちの内部で蓄積されていた異常性が、遅まきながら、目に見える形で表れ始めました。つまり、薬の禁断症状が見られるようになったのです。


 デルフィーを服用するたびに「いい気持ちだ」とか「幸せだ」とか言い、そうしてだらしない笑みを浮かべていた男たちでしたが、近ごろでは、その笑顔がそうそう長くは持ってくれません。つまり、服薬時からしばらく経つと、妙に気分がイライラしてくるのです。


 そのためどこでも、とくに家庭に戻ると、彼らはまるで、デルフィーの服用時とは別人にでもなったかのような、気荒さを呈するようになりました。


 そのうち、島の到るところで怒号が轟くようになり、路上での口論や殴り合いが日常茶飯事になりました。以前のように熱心な働きぶりを見せる男たちは激減し、向上心と穏やかさにあふれた男たちの生活態度は、いまや、人を見れば争わずにはいられないような、それほどにも気短で混乱したものへと堕落していたのです。

 

 

 

 そのような者たちであれば、人に対するへりくだりなど、一片たりとも持ち合わせていなさそうですが、こうした無頼じみた様相の一方で、彼らはデルフィーを売っている薬売りたちに対しては、ほとんど卑屈にも見えるような従順さを示していました。


 しかも、その何割かは、もう紛れもない中毒症状をさらけ出しており、しまいにはイドに向かって、地に頭をすりつけながら哀願する者まで現れたのです。


「すみません、お金はありませんが、どうしてもデルフィーを譲ってほしいのです。もう、あの薬なしでは一日といられません。どうかお願いします」


 イドは、そのような哀願者に向かって、一様に、


「ドウシて私が、困っているアナタがたを見捨てるコトが出来るでショウ。どうぞ、コレを飲んで楽しんでクダサイネ。お金はイリマセンかラ」

 


 と訛った前置をしてから、無償でデルフィーを施しました。


 正体を隠すために"マゴラー"と名前を変えたイドの「お金はいりません」という言葉は、薬を求めてやってくる誰をも、唖然とさせずにはおきません。


「不思議ソウな顔をしないでクダサイ。確かに利益はありまセンが、私たちは、ただアナタガタが楽しんでクレレば、それデいいのです」


 男たちの喜びようは大変なもので、中にはその場で、浴びるようにデルフィーを飲む者までいました。


「ひひ、そう、それでいいんだよ。まったく巧いもんだね」


 本日、何度目かの名演技を見せたイドの肩を、徹夜明けのキンナラが軽く叩きます。


「婆さんか、デルフィーの調合は済んだのかい」


「ああ、もう金を貰うのが馬鹿らしく思えるほど大量にね。出来た粉を水に溶かせば、いくらだってデルフィーは出来あがる。ああ、いくらでもね」

 

 

 

 さて、金が尽きた客の来店が増えるにつれ、いつの間にかキンナラとマゴラーの二人は、


「偉大なるキンナラさま、マゴラーさま。どうか私たちのために、聖なる薬デルフィーをお与えください」


 と、薬なしではいられなくなった男たちから、まるで全能の神のごとく崇め奉られるようになりました。店を閉めた後でないと普通に喋れないという難はあるものの、こうなるとイドは面白くて仕方ないらしく、


「婆さん、奴ら本当にバカだよな。俺たちのことを神さま扱いして拝んでるんだぜ。卑怯者だって馬鹿にしていたはずの俺に対してもさ。何だが胸がスーっとするよ」


 とキンナラに笑いながら言うのを止められませんでした。


 それとは対照的に、キンナラのほうは不気味なまでに冷静です。


「フン、本番はこれからさ」


「本番?」


「ああ、ぼちぼち引っ越しを始めるよ。いいかい、明日、店に来た男たちを伝令役にして、ほかの顧客たちにこう伝えさせるんだ。


『キンナラとマゴラーは、人目のつかない所に引っ越しをする。だから、あたしたちに付いてこないと、デルフィーはもう手に入らない。デルフィーが欲しいなら、真夜中に店の前に集まりな。それから皆で引っ越しだ』と」


 それは、イドにとってはあまりにも突然のことでした。


「何だよ、男たちと隠れて何をしようってんだよ」


「なあに、ちょっとした教育を施そうかと思ってね」


 

 

 

 


4 オンパロス

 デルフィーの蔓延による島の混乱は、大した間を置くことなく巫女チェリアの耳へと伝わっていきました。いえ、伝わるどころの話ではありません。砦には、すでに何十人もの女性たちが訪問しており、山のような苦情を持ちかけては、まだ巫女の仕事を継いでから一月にもならないチェリアを、大いに悩ませていたのです。

 


「聞いてください。私の夫は、妙な薬を飲むようになってから、人が変わったように怒りっぽくなり、今では家に帰っても来なくなりました。


 私には、そんな夫を家に引きもどす力はありません。しかし、男手をこのまま失ってしまったら、私たち家族は、生活のメドを立てることが出来なくなってしまいます。私の願いは、きっと島の女たち皆の願いでもあると思います。巫女さま、どうか、男たちを私たちのもとに戻してください」


 苦情は概してこのような内容であり、悔しそうな表情でなされる、女たちの嘆願は毎日のように続いていました。とくに、ここ四、五日は、一刻たりとも人の流れが途切れないほどの勢いです。


 巫女の仕事の引継ぎのため、忙しい毎日を送っていたチェリアでしたが、それだけの嘆願を耳にしては、さすがに自身の腰をあげない訳にもいきません。とにかく島の現状を知る必要がありました。そのため、勇者アサジを伴って、島の様子を視てまわることから始まりましたが、そうやって自分の目で確かめてみると、島の異常性は、たしかに痛いほど明らかでした。

 

 

 

 チェリアは、傍らのアサジに動揺を隠せない声で言いました。


「少し前までは、あんなにも熱心な働き手だったのですよ。なのに、それと同じ男たちが、今では秋の収穫作業まで投げだす始末。ねえアサジさん、一体どうしたというのでしょう。やはり例の薬売りのせいなのでしょうか」


 そう話しかけられたアサジの表情が曇ります。


「五日も前に、チェリアさまから薬売りたちを連れてくるよう命じられていたのに、未だに、彼らの居場所すら割り出せない私が悪いのです。何人もの部下を与えられましたのに、結局、手がかりの一つも見いだせないとは情けないかぎりです」


 アサジの謝罪に、今度はチェリアのほうが狼狽してしまいます。


「そんな、違います。そんな風に自分を責めないでください。私がお願いした時には、薬売りたちは既に姿を消していたのです。初動が遅かったと言うほかありません。


 ですから、落ち度は私のほうにこそあるのです。ああ、どうか頭など下げないでください。あなたにそんな事をされては、私はどうしていいか分からなくなってしまします」

 

 

 

 さらに歩いていった二人は、とうとうキンナラの店があったという海岸まで至りました。そこでアサジが苦々しげに呟きます。


「ご覧のとおり、残念ながら、今は店の残骸しかないんです。老婆も、異国人の少年も、そして客であった男たちも消えてしまいました。それもかなり大勢の人間が、忽然と。私にとっては、ほとんど信じられない思いです」

 


「ええ、そうですね......」


 と答えたチェリアでしたが、そのとき彼女は、何かを思い出したように歩きだしました。


(そうよ、たしか、この近くにあったはず)

 

 


 チェリアが進んでいったのは、キンナラの店があった場所から少し離れた、砂よりは小石のほうが多い海岸でした。そこに、やたらと目立つ“丸い岩”が一つ転がっているのが、アサジの目にも確かめられます。


 その岩がなぜ目立つのか、それは風景に溶け込んでいないからです。まるで突如として投げ出されたかのような無造作さで、その岩は置かれています。


「変な岩ですね、チェリアさま。周りの小石は黒いのに、この岩だけは青みがかっています。表面だって変にツルツルしている。ほかに、こんな抱えるほどの大きさをもった岩などありませんし、何でしょう、この岩の違和感は」


「それは......この岩が特別なものだからです。それに、この岩は、以前に見たときには岩などではなかった。これは確かに石だったのです」


 なぜか思いつめた目で岩を眺めるチェリアが、アサジにそう答えました。


「岩が石だった、とは、それはどういう意味ですか」


 言いながらアサジがチェリアの顔を覗くと、その顔は蒼白になっていました。

 


「どうしました、チェリアさま!」


「空の種が......創世記に書いてあったことは、本当のことだったのね......」


 そう独白すると、まるで力尽きたかのように、チェリアが倒れそうになりました。アサジが咄嗟に彼女を助けましたが、チェリアは震える声で大丈夫だと言い、病人のような足取りで岩に近づいていきました。そうして忌まわしげに岩に触れながら、


「アサジさん、すぐに砦に戻ります。急ですみませんが、調べたいことがあるのです」


 と沈痛にも見える横顔でそう勇者に告げました。

 

 

 

 砦に到着しても、チェリアの蒼白な顔は、一向に血の気を取り戻そうとはしません。陰鬱な空気を漂わせた彼女は、アサジと別れて書物庫に直行すると、そこで迷うことなく一冊の書物を手にしました。表紙には『創世記』と書かれています。チェリアは震える手でその本を捲っていきました。

 

 

 ―――始まりのとき、世界には天と地のほかには何もなく、地上には誰も住んでいなかった。地の表面は、天の底にじかに接しており、その狭間には、何者かがもぐりこむ隙間など全くなかったのである。


 神はある日、地上に生き物を住まわせることを決めた。その生き物は天上でこしらえた生物で、その体のなかに動物の性質と植物の性質、そして人間の性質を持っていた。

 


 神は、彼のために、地上に種をまいた。そうして種とともに、彼を地上に降ろした。


 彼が種に手を触れると、その種から空が吹き出した。そして天の底は、この空によって、上空の彼方へと持ち上げられた。すなわち、空によって、天と地が遠く分かたれ、その狭間に生物が暮らすべき空間が現れたのである。


 種に触れた生物は、その瞬間に動物と植物、そして人間に分かれた。そうして地上の至るところに満ちて増えた。


 これが世界と生き物たちの始まりである―――

 

 

「私たち人間は、天上の生き物の子孫であり、彼とともに地に蒔かれた種、空の種というのが、あの海岸に転がっていた丸い岩を指していることは、すでにお祖母さまから教えられている。空の種が、別名"オンパロス(ヘソ石)"と呼ばれ、その石のあることが、この孤島に"世界のヘソ"という名前を与える原因になったことも」

 

 

 ―――オンパロス(ヘソ石、空の種)は、天と地上の生き物をつなぐヘソの緒である。

 


 もし、地上に降ろされた生き物が、神に対して、親子の絆を断つようであれば、そのときヘソの緒も断ち切られ、オンパロスは、ただちに地上から、生物が生きるために必要な条件を取り上げてしまうことだろう。

 
 ヘソの緒が切れれば、胎児は死ぬのである―――

 

 

 神に対して、親子の絆を断つとは、要するに、親である神の意向に背くということでしょう。つまり天の理法から離れた悪事をしたならば、ということです。

 

 

 ―――すなわち、そのときオンパロスは、かつて吹き出した空を、今度は吸い込み、地上から再び空を無くしてしまうだろう。それによって、天と地の狭間には――かつてそうであったように――何の空間もなくなり、地の表面は、天の底に直接触れ合うことになる。そうして始まりの状態に戻るのである―――

 

 

 この『創世記』の記述を覚えていたチェリアが、海岸でオンパロスを見たとき蒼白になったのは、さきに描写したとおりです。


 ですが、それも仕方ないでしょう。以前に訪れたときには、オンパロスは、自分の膝ぐらいまでしかない"石"だったのに、それと同じものが、いまや、アサジの腰ほどの高さをもった"岩"になっていたのですから。となれば、オンパロスが空を吸い込んでいることは、もはや火を見るよりも明らかでしょう。


「オンパロスが空を吸い込んでいるということは、つまり天の底が地上に近づいてるということ。これが進行していけば、いつか私たちは、天の底の下敷きになる」


 そう言うチェリアの顔は、まるで凍りついたように強張っています。


「それもこれも、デルフィーという薬に、魂を奪われた男たちのせい。その、天意から離れた堕落のせい。そして、このような事態を、未然に防げなかった私のせいなんだわ。オンパロスがテピト・テアナにあるということは、この島で暮らしている人間の想念こそが、もっともそれに影響を与えやすいということだもの」


 もしオンパロスが大きくなり続けたとしたら、それによって天の底に押しつぶされるのは、テピト・テアナの住人に限られたことではありません。世界の空に境目などありはしないのですから、この島の空が完全に無くなったとすれば、その瞬間は、世界中の空がオンパロスに吸い込まれた瞬間でもありましょう。

 

 

 これに気づいたチェリアは、それこそ全身を震わせて慄きました。


「もしそうなったら、誰もが、本当に世界中の誰もが死んでしまう。一人残らず、天の底につぶされて死んでしまうんだわ」


 チェリアは、どこかに逃げ出したい気持ちで一杯でした。


 実際、まだ十四歳の"少女チェリア"にとっては、自分の幼さ、幼さゆえの弱さ、脆さ、それだけが我が身の全てでした。しかし"巫女チェリア"には、どんな事をしてでも、島民たちを救わなければならない義務がありました。


「そう、巫女......私は島の巫女なんだわ。問題から目を逸らしてはいけない」


 こう自分に言い聞かせて、チェリアは、とにかく、まず真っ先に自分がしなければならないことに、考えの的を絞ろうと思い努めました。


「何はさておき、薬売りたちと、その客となった男たちを見つけ出すことだわ。


 いくら天の底が押し寄せてくるといっても、幸い、この広い世界中の空がオンパロスに吸い込まれるまでには、まだ相当の時間がかかるはず。それまでの間に彼らを探しだし、会ってオンパロスのことを教えてあげればいい。このままだと自分自身も死ぬことになるのだと。彼らが自分たちの立場を知り、罪を認め、反省してくれれば、きっとオンパロスはもとの大きさに戻ってくれるはずだわ」

 

 

 



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