閉じる


イチ-ゴジュウ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

よろこぶゲンシジン

 

              エイゾウ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

はじめに

 

ゼンチョ『むしのツゴウニンゲンのツゴウ』をハッピョウしてからイチネンほどたった。
コンカイはブンリョウをジュウマンジテイドにふやしたので、イチネンでまたこうして
チョショをおもてへだせるかはわからなかった。しかし、おわってみるとアンガイはやく
かきおわった。わたしのいいたいこと(といっていいかわからないが)が、サクネンより
ふえたのかともおもう。しかし、かくのはラクでも、ダッコウ、ヘンシュウのサギョウは
かなりジカンがかかった。ジッシツイッカゲツちょっとだが、サンカゲツほどかかった。
そのクロウがあって、いまはヘンシュウにめどがつきほっとしている。

ジカイはコンネンチュウにだせるかであるが、シッピツチュウである(ハンブンテイド
かきおわっている。)。ジツはネットワークでレンサイをしている。おきにめせばゴラン
いただければとおもう。すきなことをかいているが、わたしのあたまのなかをセイリする
モクテキもあるのでゴカンベンいただきたい。またコンカイもカタカンタイショウヒョウ
をつくった。カタカナゴがわからないばあいにサンショウしてほしい。

 

カタカンタイショウヒョウ

 

 

 

 

イチ


 「ひやめしをくわせる。」などというが、「ひやめし」はあまりジュウヨウでないひとにく
わせるという。つまり、だれかのいえにいって、ひやめしがでてきたら、あまりカンゲイさ
れていないということだ。これはブンカというかフチョウであるから さからいづらい。わた
しはひやめしをよくたべる。わたしのいうコウゾウシュギテキにいえば、「わたし」は「わた
し」にとってカンゲイされていないことになる。そういうブンカ、フチョウコウゾウがある
のだから そういうことになる。しかし、わたしはわたしに ひやめしをだすとき けっして「カ
ンゲイ」していないわけではない。ただ、あたためる(ヒツヨウがあるにせよ)のには エネ
ルギーがかかる。そこまでして あたたかいものをたべたいとはおもってないからだ。これは
キノウシュギテキで「エネルギー」のセツヤクがモクテキされている。しかし、ブンカやツ
ウヨウするフチョウからすれば「カンゲイされていない」というイミがそこにあるとされて
しまう。いやいやそういうことではないんだ。といっても、コウゾウをダイジにするひとか
らは、「カンゲイ」していないやつ、「カンゲイ」されていないやつといわれてしまう。しか
し、わたしは「ひやめし」をたべることをやめない。そのコウゾウをまもることよりも、エ
6
ネルギーのセツヤクのホウがユウセンされるのである。
 わたしもダイブ「コウゾウシュギ」テキになったが、ときおりこういったダツコウゾウす
るのである。わたしはジチョ『アルクカラ カンガエル』で、「ダツチ」をテイショウした(●
『アルクカラ カンガエル』[イカ ア]ヒャクロクジュウシチ)。「ダツチ」とは、あるチシキ
があると、その「あることがら」にタイして、センニュウカンをもってしまうことがあるが、
そういうヘンケンといったりするが、そういうみかたからダッして、ジブンジシンでカンサ
ツしてみようということだ。そういう「ジゼンチシキ」も キョウイクなどで キョウカされ
たり、いくつかのコウゾウをたもっていたりするから、ユウキがないとダツコウゾウはでき
ない。たとえば、キンリをさげると ひとがショウヒをはじめるというセツがある。ツウカの
カチがさがるわけだから、ほかのものにシサンをうつすという まっとうそうなセツだが、こ
れはかならずしもただしくない。キンリがさがるといっても、さがるキンリはセイサクキン
リ(コウテキキカンとギンコウのとりひき)についてだけだから(サラキンがキンリをさげ
るわけではない)、ケッカ、ひととギンコウのとりひきにはそうエイキョウはない。さらにコ
クガイシジョウもあるので、ニホンではキンリがさがっても、コクガイのキンリがたかいツ
ウカや ショウケンでウンヨウすることができる。だから、キンリがさがってもキンリはさが
7
らないのである。こういうことも「ダツチ」をするとみえてくる。



 「チイキのエンがうすれた。」というようなはなしをきく。チイキのキョウドウタイがちか
らをうしなったというようなはなしである。やなぎだくにおによれば、むかしはさかななど
のショクリョウを チイキでイッセイにコウニュウしていたという。つまり、むかしはチイキ
ではおなじようなものをたべていたということである。それがメイジイコウ、それぞれショ
ウテンでさかなをかったり、ヤサイをかったり(つまりトシカした。)、いまではダイキボシ
ョウテンで にくをかったり、カコウショクヒンをかったりしている。
 このレイをひいてなにがいいたいかというと、キョウドウタイをコウセイするコジンがた
べるものが、それぞれになったということである。おなじチイキでくらすエーさんは ゆうご
はんにカツどんをたべ、またおなじチイキでくらすビーさんは やきざかなをというグアイで
ある。つまりそのエーさんと ビーさんはキョウツウのヨウソがすくない。いや、「セイブン」
といったホウがよいかもしれない。つまり、おなじものをたべていたむかしとくらべて「キ
8
ョウツウセイ」がすくないのである。だから、チイキのエンはうすくなったといえるとおも
う。いや、もっともイッショのものをたべなくなったホウがさきか、チイキのエンがうすく
なったホウがさきかはわからない。しかし、それがカンレンしあって、「チイキのエンがうす
くなった。」といわれるまでにシンコウしたのだろう。
 しかし、レイガイもある。それはガッコウキュウショクをたべるショウチュウガクセイで
ある。かれらは、さきにセツメイしたように おなじものをたべているがゆえに「こい」キョ
ウドウタイなのだろう。おなじものをたべるカゾクもそうだ。しかし、おとなはキュウショ
クをたべるキカイがあまりないから(シャインショクドウやビョウインでたべることがあろ
う。)、チイキキョウドウタイはちからがよわまったままだ。ムリヤリおとなにもキュウショ
クをたべさせるようになれば、チイキキョウドウタイのちからはつよまるだろうが、「むかし」
のように、つまりチュウセイのようになる。これを「サイチュウセイカ」とよんでおく。い
ってみれば「グローバルカ」のギャクである。

 

サン
9
 ニホンのガッコウのソツギョウシキには おくることばの「ソウジ」とソツギョウセイのこ
とばの「トウジ」がある。その「ソウジ」をよみあげるヤクになって、よみあげるブンショ
ウをかんがえた。そこまではよかった。しかし、レンシュウでよみあげてみると、シドウの
キョウシが おまえのはカンジョウがこもっていないとかいう。それはもっともなのかもしれ
ないが、ガッコウのカテイをおえて、つぎにむかうソツギョウセイは タショウなりともカン
ガイぶかいだろうが、ただみおくるザイコウセイにとっては、いや、すくなくともわたしに
とっては、あまりカンゲキというのがなかった。たしかにおおゲンカしたり、なんかのギノ
ウにたけていたりとトクショクがあるソツギョウセイだったら ちからがはいるテンがある
だろう。しかし、わりとまじめなソツギョウセイだったから、やはりカンジョウがはいりづ
らかったんだろう。だから、ナンドもナンドも「カンジョウ」がこもったよみあげができる
よう「エンギ」シドウをうけた。
 いまかんがえてみると、「カンジョウ」がこもったよみあげを キカイにやらせるにはギノ
ウがヒツヨウだ。ずっと、「ド」のおとでよみあげると いわゆるぼうよみになるが、「ドレド
ドレミレド」というようによめば いわゆるカンジョウのこもった(とおもわれる)よみあげ
になる。
10
いま、そんなエンギをするんだったら、シドウのセンセイに、「グタイテキなおとをシテイ
してください。できればゴセンにかいて。」といってしまうだろう。それほどやりなおしをさ
せられたことをおぼえている。そうしないですますには、「ソウジ」のブンを カショウする
とよいだろう。

 

ヨン

 

 いつからだか、「スパゲッティ」や「ピザ」がはやりだしたようなきがする。また「ラーメ
ン」とか「パン」も なにかとうれているようなきがする。しかし、ひるごはんに、スパゲッ
ティをたべたロウドウシャがテッコツをもちあげられるきがしないし、ひるめしにラーメン
をたべたカイシャインがモクザイをタクサンはこべるとはおもえない。
ジツはそうやって、ニホンケイザイは、ちからしごとがゲンショウして、デスクワークの
わりあいがふえたのかもしれない。「ショク」のヘンカがさきか、「ショクギョウ」のヘンカ
がさきかはわからないが、すくなくともタイリョクをつかわないしごとがふえているんだろ
う。このケイコウはバブルのあたりから(パンとラーメンはまえからよくあった。)つよくな
11
り、いまもつづいているようだ。きつくいえば、ニホンジンのヒンジャクカがすすんでいる
と。
 そのころから(ケイザイの)テイセイチョウがはじまった。そういうショクリョウをこの
みつづけるとしたら、(ケイザイ)セイチョウはむずかしいとおもう(やはりタイリョクショ
ウブであろう)。むかしのセンソウは「ショク」にこまったらしいが、そのケッカだろう、た
たかいつづけられなかった。いまはたべるものがあるとはいえ、エイヨウカのひくいもので
は、たたかいつづけるのはむずかしいであろう。

 

ロク

 

 ニホンジンはクイズがすきなのだろう。テレビバングミでもやっているとおもう。わたし
はそういうのはすきではない。ショウチュウガクセイのころは(ベンキョウというクイズを)
ときおりやっていたが、まぁまぁのホウだった。タブンそうやってあるテイドのジカンをす
ごすから、「クイズ」にテイコウないひとがおおいのだろう。
サイキンはそういう「クイズ(シケン)」のカイトウを デンシサイトからひっぱってきて
12
カイトウすることもあるときく。それでよい、わるいいうのだが、どうせ「キョウカショ」
からこたえをひっぱってきて、カイトウヨウシにフクシャするのだから、ガクセイならそれ
でわるいことはないとおもう。
 しかし、そういったデンシキョウカショがはやると、かみバイタイのキョウカショがうれ
なくなってしまうだろうから、キョウイクサンギョウからは、わるいというヒョウカがでる
のだろう。わたしはジュギョウでつかったものイガイに クイズボンのクイズをといたことは
ない。カッコウがいいからとかったことはかったが、ケッキョクつかわずショブンしてしま
った。クイズはとかなかったがホンはそこそこよんだとおもう。やっぱりジッサイテキなク
イズをとかなければとおもう。

 

シチ

 

 ニジュッセイキなかばのセンソウでは、いろいろなセンカンがしずんだ。「やまと」もそう
だし、「むさし」もそういわれている。クウボも「かが」とかがしずんだのだろう。これらは
だいたいむかしのニホンのチメイである。だから、「ニホンがしずんだ(しずむ)」というい
13
いかたはコウトウムケイではない。サイキンきかれなくなった「やまとだましい」も「やま
と」がしずんだのだから、「しずんだたましい」みたいなはなしになる。「やまとなでしこ」
もそうだ。そういうわけがあるから、「やまとなでしこチーム」とはいいわずに「なでしこチ
ーム」というのだろう。

 むかしのレキシをダイジにするなら、「やまと」などはうみのそこからひきあげたホウがい
いのではないかとおもう。「しずんだ」とほかのことでいわれるのでなく、「サイフジョウ」
といわれたホウが、きもちがあかるい。だが、なんマントンのふねをひきあげるにはクロウ
するだろう。うきぶくろでうかせるのではだめか。

 

ハチ

 

 ニホンジンにとって、このふゆはさむいものになりそうである。それはあぶらのねだんが
あがるだろうからである。そうするとデンキリョウキンもあがる。くにのタンイでみれば、
ユニュウガクがふえて ボウエキあかじがでかねない。それはつまりおおきくみたコジンのカ
テイがあかじになるということである。これはヘイキンテキないいかたなので、そんなにく
14
らしむきがかわらないカテイもあるだろうが、あまりおかねをもっていないカテイにとって
は シカツモンダイとなる。ヘンサチでいうとゴジュウイカのカテイがあかじになるというこ
とだ。つまり、ニホンのゼンカテイのハンブンが「あかじ」になるわけだ。だからネンリョ
ウをダイジにつかわなければならない。それができなければあかじだ。

 わたしはあまりさむいときは、コートをきてねることにしている。チャンチャンコならワ
フウだが、あまりうっているのをみかけない。これがあったかいので、ねるときにダンボウ
はヒツヨウない。ニッチュウにつかってもよい。ダンボウダイがセツヤクできる。とはいえ、
こたつをつかっている。ヘヤゼンタイをあたためるとねつがムダになる。テンジョウまであ
ったかくするヒツヨウはないからだ。ブブンテキにあったかければよい。
あとエネルギーをつかうのがフロだ。シャワーならつかったブンだけであるが、ゆぶねを
つかうとヒャクリットルイジョウをわかすことになる。だからわたしはキョクリョクゆぶね
にははいらない。みずあびですませるのである。
 こうしたクフウで、さむいふゆをすごせばあかじはへっていく。ドリョクすればいいので
ある。くにのボウエキがあかじということは、コクナイのいえやキギョウのソウワがあかじ
ということだ。なかにはくろじのいえやキギョウもあるだろう。しかし、ゴジュッパーセン
15
トイジョウのカテイやキギョウがあかじだと、もはや「チュウリュウ」とはいわない。
いまのところシサンがあるだろうから モンダイにはならないが、あかじがつづけばやがて
それもつきる。たとえばイッチョウエンのボウエキあかじだとしたら、ダイタイひとりあた
りイチマンエンのあかじだということになる。キュウリョウがサンジュウマンエンあれば、
たいしたガクでないようだが、まみずのイチマンエンなので(ボウエキはコクサイトリヒキ
だからシンヨウのあるツウカでおこなわれる。キュウリョウはかならずしもそうではない。)
おおきいとおもう。キュウリョウをはらってくれるだれかもイチマンエンのあかじだから、
さきざきキュウリョウはへるだろう。
 もしそれでも「チュウリュウ」なんてことばをつかうとしたら それは「ビンボウ」のこと
だ。ネンリョウのセツヤクもそうだが ほかのムダもはぶいていかなければならない。わたし
はみずのセツヤクもしているが(●『むしのツゴウ ニンゲンのツゴウ』[イカ む] ヒャクニ
ジュウロク)、もっとムダをはぶいていかなければならないとおもう。いまは「フケイキ」で
はなくて「ビンボウ」なのだとニンシキをあらたにしなければならない。

 

キュウ
16
 ふゆになるとよくみるとりがいる。タブンきたのホウからやってくるのだろう。わざわざ
さむいところにいく とりがいるというはなしはきいたことがない。そのとりをよくコンビニ
でみかける。チュウシャジョウによくいるのだ。たかいところではないからキケンだろうに、
しかしよくいる。なぜ「コンビニ」なのか。かんがえてみると、このニジュウネンで、コン
ビニはゼンコクテキにひろがった。いまではショウガッコウとチュウガッコウのかずよりお
おくのコンビニがゼンコクへひろがった。
 そこでこうかんがえるのである。あるひとがとおくへリョコウにいったとする。そこでキ
ュウにひげそりがヒツヨウになったらどうするか。そのひとがジタクちかくのコンビニでい
つもかっていたとするなら そのひとはリョコウさきでもコンビニでかうだろう。コンビニに
あるショウヒンはゼンコクでほぼドウヨウだからである。つまりそのレイとおなじように、
きたからやってきたとりもコンビニがいいのではないか。タブンチュウシャジョウでひなた
ぼっこしているから なつもきたのホウでそうしているのだろう。

 

ジュウ
17
 よくニホンでは、おとのなるケンバンガッキのことを「ピアノ」という。イタリアゴで「ピ
アノ」というと、「よわく」ということらしい。じゃあ「つよく」はひけないのかとなるが、
ジツは「ツヨク」もひけるらしい。だから「ピアノ フォルテ」というのがセイカクなヒョウ
ゲンのようだ。「フォルテ」はイタリアゴで「つよく」だ。つまり、おとがでるケンバンは、
「よわく」も「つよく」もひけると。でもニホンでは、あまりつよくひかないのだろう。「ピ
アノ」としかいわない。タブン、キンジョメイワクはやめようということだろう。

 

ジュウイチ

 

 わたしのオヤジがしんでイチネンになる。イチネンまえのキョウはビョウインにいき、コ
キュウがあらくなっていることをカクニンしてわたしはいえにかえった。いきているホウは
ショクジをとらなくてはいけない。ずっとみていることもできたが、ナンニチかつづき、お
ふくろもたおれてしまうというのをさけたかった。コウタイでみればいいとかんがえた。か
えってしばらくすると、おふくろかデンワがあった。それからしばらくでリンジュウだった
ようだ。かけつけても、まにあわなかっただろう。すぐにいえにむかえるジュンビをととの
18
えた。
 なにしろうちは、ゲンカンからいままでチョクセンでははいれない。つまりかんおけがは
いらないのだ。うらにわからはこんでもらうジュンビをととのえた。タンカみたいなものに
オヤジはのせられてトウチャクした。うらにユウドウしてうちにいれた。サイダンをつくっ
てもらってソウシキのはなし。そのゴはジュンチョウにすすんで、サイゴにみたのがカソウ
ばでの「どくろ」だ。はがジョウブだったからちゃんとととのっていた。なるほど、カハン
シンのほねからつぼにいれるのだとカンシンした。オヤジもジュジョをおもんじていたから
マンゾクだろう(「マンゾク」というのはどうかとおもうが。)。
 イッカゲツちょっとたってノウコツした。それっきりだ。ただ、オヤジは「いきること」
とはどういうことかをおしえてくれた。しにそうになると、イドウができるキセイしていた
ちいさなむしなどはにげるのだろう。しかしイドウのできないサイボウなどはヒッシになっ
ていきながらえさせようとする。セントウにまけたヘイとおなじだ。にげられなきゃ、ボタ
イをおもんじ、うちじにするかコウフクするまでたたかうだろう。「いきる」とはそんなもの
だと。
19

 

ジュウニ

 

 もしレキシをサンゼンネンくらいやりなおしたら「カレー(あのカレーである。)」はもう
イッカイハツメイされるのであろうか。それほどむずかしいリョウリである。もっというと、
あとサンゼンネンくらいたつと「カレー」なみにすごいリョウリができているはずである。
できてなかったら、「できそこない」で、ジンルイがタイカしたというべきではないか。ジカ
ンがあったら「カレー」をイチからつくってみたいものだ。

 

ジュウサン

 

 ニホンで「サイダー」というと、ムカジュウのタンサンいりの においつきサトウみずがで
てくるが、ホンライテキにはカジュウいりのようだ。みなみのくにでは「リンゴ」のカジュ
ウ(かおりだけではないとおもう。)がはいったものがでてきた。そういえばサイキンはタン
サンいりのカジュウがはいった のみものがふえてきた。それこそが「サイダー」なのだろう。
ただ、ニホンでうられている「サイダー」ふうインリョウもおいしいとはおもうが。
20

 

ジュウヨン

 

 「ジョセイのシャカイシンシュツ」ということばをきく。ジョセイのノウリョクをいろい
ろなところで ハッキできるようにしましょうということらしい。バスのウンテンシュなんか
もジョセイがヤクにつくようになってきた。テレビなんかをみていてもキョウミぶかい。む
かしはジョセイのせりふがすくなかったが(タイガドラマなど)、わきヤクだとしても「カッ
パツな」ジョセイをえんじているのをよくみる。むかしは「おしとやか」にというジョセイ
のビョウシャがおおかったとおもうが、かわってきたとおもう。シャカイガクテキにいえば、
「ジェンダー」のありかたがかわってきたということだ。そのイッポウ、「エレベーターガー
ル」がへっているようだが。

 

ジュウゴ

 

 「ジカン」とはなにかというといには、あるブッタイがあるキョリをイドウするのにかか
る ま だとこたえられる(●ア ヒャクジュウゴ、●む サンジュウヨン)。それで、テンタイ
21
のイドウをカンサツして、「ネン」、「ゲツ」、「ニチ」、「ジ」、「フン」、「ビョウ」とはかれるよ
うにしている。あまりテンタイをみないひとは、とけいのうごきのホウがわかりやすいかも
しれない。「フンシン」がうごいたら、それがうごくまえより「ジカン」がおおきくなってい
ると。
 「もの」がイドウするばあいには「ジカン」というガイネンでかぞえることはカノウだと
いうのにタイテイ イギはないだろう。しかし、それが「ジョウホウ」だったらどうか。ある
デンシブンショがベツなところにおくられるのに、それを「ジカン」がかかるといえるのか。
いまのジョウホウギジュツではチキュウナイであれば、ほぼすぐさまおくられるのである。
むしろサイキンは「ラグ」などという。そういえばむかしはチキュウのうらからのジョウホ
ウが、キタイされているよりおくれることがあった。なぜおくれるか、デンキのながれにム
ダがあったり、ほそいケーブルでつないでいたりしたために、「ジュウタイ」のようになって
いたのだろう。それをおもいだすと、「ジョウホウ(もっというとデンキになってしまうが)」
のイドウもやはり「ジカン」がかかるといえそうである。
 もし、イドウにカンしてまったく「ジカン」がかからないでカンリョウするなら、もうイ
ドウするジュンジョで(もっともはかりづらいだろうが)ケイソクするしかない。トシにい
22
るひとのコウドウをジュンジョづけてハアクするのににている。そんなかんじではほとんど
「とき」というガイネンがむずかしくなる。それでも「とき」をセイリツさせようとすれば、
なにかのブッタイやジョウホウをどこかにイドウさせて(ゼンテイではすぐというか「ドウ
ジ」についてしまうのだが)わずかなずれをさがして、「ジカン」や「とき」にするんだろう
か。もっというなら、ドウジにつかないジョウケンをさがすだろう(たとえば、かがみをタ
イリョウにつかって、あたかもチョウキョリをイドウさせたかのようなやりかたで。)。そう
しないと「とき」だとか「ジュンジョ」がむずかしくなるのである。
 かりにそういう「とき」のない(すべてイッシュンですんでしまう)カンキョウができた
ら、ニンゲンはブッシツのイドウがイッキにすすみ、あっというまにしんでしまうかもしれ
ないし、ブッシツのイドウをいつでもできるからと、うごかすことをせず、いつまでもいき
るかもしれない(いまのところ「シ」はコクフクされていないので、ゼンシャかとはおもう
が[ヨダンだが、ひとりのニンゲンがしぬまえに、そのひとのサイボウをセッシュしバイヨ
ウしてそだてれば、とりあえずまだいきていることにもなる。モンダイはジョウホウのイテ
ンだ【ジョウホウをイテンしないとなまえすらわからない。】。]。)。
 ニンゲンのジュミョウはハチジュッサイがセンシンコクではヘイキンテキだが、ブッシツ
23
のイドウがはやくなると、あっというまにしんでしまうということだ。「シ」までのショリが
シュンジにおこなわれるからだ。タンジュンにいえば、ジカンリョコウをするのは、なまけ
ものじゃないと(すぐにしんでしまうから)たえられないのではないかということ。そうい
うわたしもよくねるなまけものである。タブンねなかったらしんでしまう。ドウジにイドウ
できるなにかは「ある」が、それはしんでしまっていると、またなまけものは「うごかない」。
「デッド」か「セキゾウ(モノ)」がジソウはできないものの、かつてジソウしていたかもし
れないなにかだろうか。ソクドがサイコウの「ドウジにトウタツする「ブッタイ」はあるか
もしれないが、「あった」のホウがテキセツかもしれない。そのブッタイは「しんでしまう」
ゆえにみつからない(「シタイ」はあるだろうが。)。たとえば、なにかのおきものがそうかも
しれない。おきものになるまえはイドウしていたと。
 「シタイ」や「セキゾウ」からもういちど、サイコウのソクドをもブッタイにすることは
むずかしいであろう。ただジンルイは「ひかる」ワクセイをつくりだしているからフシギだ。
ニンゲンがつくる「セキゾウ」もキョウミぶかい。ゲンリョウからジンコウテキにつくられ
たものだが、それにもソクドをつけたりする。バイクやロケットである。しかし、「シタイ」
にソクドをつけているようなきがする。
24

 

ジュウロク

 

 サイキンわたしは「セキハン」をたべなくなった。イゼンはなんかのときにおふくろがた
いてくれた。しかしサイキンはである。ていねいなことに「セキハン」をたくセットがうっ
ているので、それをつかってたくことはできる。「おこわ」というのも、まぜごはんのイッシ
ュだとおもっていたら、「つよい」「めし」のことのようだ。「つよい」というカンジを「こわ
い」とよむのはあまりきいたことがなかった。そういえば「おこわ」はかたかった。

 

ジュウシチ

 

 よくいう「すし」というのは、ジツはそうふるいものではないらしい。えどキからメイジ
のころに「す」をくわえてつくりはじめたのがフキュウしたらしい。それイゼンにも「すし」
はあったが、それはシゼンテキにハッコウさせてつくるようだ。いまものこっている「ます
ずし」なんかがそうなのだろう(ジッサイにセイホウをカクニンしたわけではない)。つくる
のにジカンがかかるからゲンダイジンにはむかないのだろうが。「パン」をハッコウさせてつ
25
くるくらいなら、そういう「すし」もできそうだが。

 

ジュウハチ

 

 ことしはわがやのゆずがよくなった。ひどくえだをきられてからサンネンたつ(●ア ハチ)。
きられたとしは、みがならず、ヨクネンもゴコテイドの みしかならなかった。そのヨクネン
はニジュッコテイドとれ、ことしはヒャッコほどになった。あとで みをとろうとしていたら、
またおふくろがえだをきってしまった。
 どういうフウにきったかというと、いわゆるきのかたちである。みきをロシュツさせたか
たちだ。それをわたしは「シホンシュギのかたち」とよぶ。それはこういうことだ。みのな
るきをショユウしているひとは、わるいひとに みをたべられないように、たかいところに み
をおいておこうとする。そのためにわざわざ はしごをかう。そうやって、はしごというドウ
グがうれ、「わるいひと(ビンボウニン)」に みをとらせないようなやりかたをするのである。
わたしは、ひくいところにみがなってもかまわないのだが、「シホンシュギ」をキバンにする
ひとはそうやって「シホンシュギのかたち」にするのだろう。
26

 

ジュウキュウ

 

 「はなしをきいてイライラした。」とかいう。この「イライラ」っていうのは、「いかりが
ある」ことをさす。これはジュンスイなニホンゴかというとそうでもなさそうだ。「イラ」と
いうゴがラテンゴにある。これも「いかり」をさす。だから、メイジのころにラテンゴがす
こしニホンにはいってきてできあがったヒョウゲンではないだろうか。

 

ニジュウ

 

 わたしはキホンテキにひらがなとカタカナでホンをかいている。いまのニホンのフツウの
ホンはカンジまじりのコウセイである。わたしはトウショほぼカタカナだけでホンをかいた
(『アルクカラ カンガエル』ショバン)。ニサクめの『むしのツゴウ ニンゲンのツゴウ』は
ひらがなとカタカナシュタイでかいた(このホンもそうなりそうだ。)。ニサクめをかいてい
て、これはいけるんじゃないかとおもった。ひらがなにくわえてカタカナをつかうことで、
カクダンによみやすくなった。
27
 カンコク(セイホクにあるくに)もドクジのモジでかき、カンジをあまりつかっていない
ようなので、それでつうじるのなら、ひらがなでもつうじるはずだ。それにカタカナもつか
っているんだから、よむのはラクなはずだ。このひらがな、カタカナのニコホウシキでかい
ていこうとおもう。

 

ニジュウイチ

 

 「タイムマシーン」というのはよくワダイにだされるはなしである。タブン「できない」
けどあったらおもしろいものとかんがえられているだろう。たしかに「ジカンリョコウ」は
むずかしい。しかし、のぞくことならできそうである。タンジュンにいうと、チキュウから
イチコウネンはなれたところにかがみをおく。そうするとチキュウのあるイチニチのえ(え
というよりドウガだろう)がイチネンかけてそのかがみにトウタツし、そこで はねかえった
「え」がイチネンかけてチキュウにもどる。つまりどういうことかというと、ニネンまえの
「え」がみられるのである。
 くわしくみるにはクフウがヒツヨウだろうが、まぁかがみをおくイチをかえれば、もっと
28
ちかいカコやとおいカコもみられるようになる。もっともすでにかがみがセッチされていれ
ば、そのキョリかけるニのブンのカコがみられる。そういう「え」をだれかがみているとす
ると、ものごとのカイゼンがすぐにすすむのだろう。もっともその「え」のみかたによって
は「カコ」でセイカツすることもカノウかもしれない。ただしくいうとスウネンおくれの「カ
コ」である。

 

ニジュウニ

 

 「わらっている」からおもしろいのか、「おもしろい」からわらっているのかはどちらがさ
きかはそのときシダイのようなきがする。ひとのコウドウ(このばあい「わらい」)をみてと
いうソクメンもあるからだ。いかりのばあいもそうかもしれない。「どなりちらしている」か
ら「はらがたっている」のか「はらがたっている」から「どなりちらしている」のかだ。
ひとりでカンケツするばあい、ゼンシャがおおいひとは、カンジョウハとでもよぶべきか、
あまりカンゲイされないようなきがする。しかし、「わらおう」とおもったばあい、とりあえ
ず「わらえ」ば、「おもしろく」なるかもしれない。「わらい」でも「いかり」でもそうだが、
29
そういうコウドウはだれかとキョウユウされることがある。それがないと「おわらいゲイニ
ン」のゲイは、どこのブブンがイチバンおもしろかったのかわからない。

 ダイタイひとはおなじカショでわらう。「おわらいゲイニン」のホウは、おキャクがわらう
カショがダイタイわかっている。そして「わらい」をねらってブタイにのぞむ。セイリガク
テキにいえば、サイボウがコウフンするシゲキをわかっているということだ。もし、あなた
がウチュウジンをさがしたかったら、そうおもわれるひとにわらいばなしをするといい。わ
らえるだけのしくみをもっていなかったらわらえない。つまり、「べつもの」かどうかわかる
のだ。
 「いかり」がキョウユウされると「ボウドウとかになったりする。でも、ひとのカンジョ
ウがながつづきするのはケッコウむずかしいことだろう。ベツのことをやればすぐわすれて
しまう。とすると、「ボウドウ」もそうながつづきしないはずである。「ヘヤのデンキをけし
わすれてきた。」そんなことをおもいだすと、やっぱり「かえる。」となってしまう。
カンジョウもニンゲンのタイナイのヘンカだろうが、そういう「いかり」についてのカガ
クブッシツがカッパツになるから、そのカンジョウが、ながくつづき「ボウドウ」がカノウ
になるのではないか。だから、まもるほうも「サイルイダン」とか「チンセイザイ」とかを
30
つかったりする。「サイルイダン」は なみだをださせるキタイがこめられたたまだ。このキ
タイをあびることによって、ひとは「なみだ」をだすハンノウをする。その「なみだ」と「な
みだ」をだしたときのキオク(つまり「かなしい」)がそのひとにイシキされ、「いかり」が
ソウタイテキにおさまっていく。「チンセイザイ」はもっとてっとりばやく「いかり」をカガ
クテキにおさえてしまう。だから、シンジダイのボウドウには「いかりザイ」がヒツヨウな
ようにもおもう。タンジュンにいえば「ドーピング」だ。モチロン「オリンピック」ではつ
かえないが。

 

ニジュウサン

 

 「ダイベン」のことを「ウンコ」とかいったりする。なぜそういうようになったのか。お
そらくシテキなひとが、「そらにうく くものようだ。」といったのではないだろうか。それだ
けでは、ただの「ウン」になってしまって(セキランウンとかの「ウン」である。)クベツが
つかないから「くものこ(ども)」で「ウンコ」になったのではないか。ジツにシテキなはな
しである。
31

 

ニジュウヨン

 

 ニシンスウとかジュウロクシンスウとか よくつかわれるジュッシンスウでないスウジの
かぞえかたがある。わたしなんかはジュッシンスウでなれてしまっているから、ジュウロク
シンスウでいわれてもわからない。ガッコウのセイセキもゴダンカイとかジュウダンカイだ。
タブンわかりやすいからであろう。シンリガクのケンキュウでは、ゴダンカイとか ななダン
カイをよくつかっているみたいだ。タブンそれよりもおおくてもわかりづらいし、すくなく
ても サがいまひとつわからないのであろう。

 オンガクをつくるソフトウェアではジュウロクビットとかニジュウヨンビットとかがある。
これはたとえばオンリョウをジュウロクダンカイにくぎるわけだ。サイキンはパソコンがロ
クジュウヨンビットになったというからロクジュウヨンダンカイもつかわれるのだろう。
ジュウダンカイとか ななダンカイではかるニンゲンより コンピュータのホウがジュウロ
クだ、サンジュウニだ、ロクジュウヨンだ、よっぽどこまかくなっているわけだ。だから、
パソコンに キブンをたずねると、ゼンブのカイトウは ジュウロクとかサンジュウニとかロ
クジュウヨンとおりになる。それをヤクすと、「やや ジャッカン おおげさではなく かなし
32
い」とか セイリをしないとわからないヘントウがかえってくる。ま、おそらく ななダンカ
イぐらいにチョウセイしてヘントウさせるのだろうが。

 

ニジュウゴ

 

 なにかをハツメイしたひとは「えらい」という。とくに「えらい」とおもわなくても、そ
のハツメイをリヨウしたものをつかっていたりする。そんなものがタクサンあって セイカツ
がなりたっていたりする。だから「えらい」だろう。
 そういうハツメイがとくにおおかったところを「ブンメイ」という。ガッコウでもおそわ
るが、メソポタミアとかむかしのチュウゴクとかがそうである。なぜ、チュウトウにテロリ
ストとよばれるひとがおおくて、チュウゴクセイフはイキがたかいか。それはイスラムシソ
ウでもチュウカシソウがそうさせるのでもなく、これはおそらくブンメイをもつくにだから
であろう。ブンメイをうみだせば、それなりにもうかるだろうし、ジフがでてくる。それを
くじこうとすれば、ハンパツするわけである。もうちょっというと、タブン、チュウトウや
チュウゴクがおこるあいては、「メソポタミアブンメイ」とか「チュウカブンメイ」をソンケ
33
イしていないのである。
 ちなみにニホンセイフも「メソポタミアブンメイ」はソンチョウしても、「チュウカブンメ
イ」をソンケイしていないのだろう。オウシュウのブンメイをシジするのはジユウだが、ブ
ンメイにタイするソンケイはわすれないようにしたいものだ。

 

ニジュウロク

 

 「ウチュウ」はウンドウタイであろう。チキュウもまわっているし(カクニンしたわけで
はないが)いろいろうごいている。しかし、「ウチュウ」のそとはどうか(わたしはかつて「か」
となづけた。)。「ウチュウ」がウンドウタイだとすると、「ウチュウ」のそとはセイシタイで
はないか。アンガイ、「ウチュウ」のそとのむこうに、またウンドウタイがあるかもしれない。
そうかんがえると、「ウチュウ」なんてキョジンのいえのセンタクキみたいなものかもしれな
い。

 

ニジュウハチ
34
 「ジカン」を「ジカン」たらしめているのはなにか。「ジカン」をロコモーティブ(エル)
ではかるとまえにかいた(●む サンジュウヨン、●ホンショ[イカ ムヒョウキ] ジュウゴ)。
ではなにがロコモート(イドウ)させるのか。
 ニンゲンやドウブツはチキュウジョウではそれなりにうまくあるけるが、ウチュウではう
まくあるけない。あるくというよりおよぐだろうが、それはおそろしくクツウなようにおも
う。なんらかのスイシンソウチがあったホウがカイテキだろう。
 そのスイシンソウチについてかんがえると、「おもさ」でうごけるキョリがかわってくる。
ネンリョウはイッテイとする。つまり「ジカン」とは「おもさ」によってきめられるメンが
あるということだ。わたしはイゼンに「ジカン」のシツリョウのことをタイミックとなづけ
た。ここでのギロンもコウギのタイミックについてだ。おもさをロコモートさせるにはネン
リョウ(エネルギー)がヒツヨウである。おもさブンのエネルギー(ここではマサツなどの
こまかいジョウケンははぶく。)がすすむことのできるキョリになる。つまりジカンである(チ
キュウのコウテンでイチネンをはかっている。)。
 ただし、エネルギーがあっても、かならずしもすすむことにハツドウしているわけではな
いとおもわれる。つまり、すすめるのにすすまないということだ。それがセイタイのむずか
35
しさだとおもう。おなじエネルギーリョウなら、シツリョウのちいさいホウがよりジカンを
もつ。ジカンとシツリョウをかけるとエネルギー(そのキョリをロコモートするのにヒツヨ
ウなエネルギー)がでる。それをタイミックというかはベツとして。

 

ニジュウキュウ

 

 ニジュッセイキはアメリカガッシュウコクがコウギョウセイサンのメンでつよかったとい
われる。ニジュッセイキコウハンになって、ニホンがそれにつづくようなハッテンをした。
ニジュウイッセイキにはいるとチュウゴクである。ニホンでもチュウゴクセイヒンがあふれ
ることになっている。しかし、チュウゴクのコウギョウハッテンは、これイジョウカノウな
のだろうか。わたしはむずかしいとおもう。
 ニホンのジンコウはイチオクニセンマンテイドで、かりにコクミンすべてがコウギョウセ
イサンをしても ななジュウオクのチキュウのジンコウすべてにセイヒンをうっても ひとり
ロクジュッコつくってうることができる。しかし、チュウゴクでそれをやると、ジンコウが
ジュウサンオクだからゴコしかつくらなくてよい。つくりすぎてもかいてがいないし、カカ
36
クもさがる。それではさすがにたべていくのにクロウするだろう。だから、チュウゴクでも
サービスギョウのヒリツがあがるのではないだろうか。

 

サンジュウ

 

 あるときから、シジョウにチュウゴクセイヒンがでまわるようになった。チュウゴクセイ
フが「カイホウ」ケイザイをうちだして、キュウジュウネンダイに、センシンコクのキギョ
ウが、チュウゴクホンドにコウジョウをつくったことによる。ジンケンヒがやすいからチュ
ウゴクにコウジョウをつくるが、ジッサイにつくるのはニンゲンでなくキカイをいれてやっ
ているとオヤジからきいたことがある。たしかにそれならどこでつくってもヒヨウはそうか
わらないだろう。むしろチュウゴクのケイザイがうわむいたときのシジョウ キギョウはねら
っていたのだろうといまではおもう。
 レイネンダイから、ニホンのシジョウにでまわるチュウゴクセイヒンがふえてきた。それ
までガッシュウコクセイや トウナンアジアセイだったヨウフクが、チュウゴクセイだらけに
なった。ジュウネンダイになると、やすくうられているものはみんなチュウゴクセイだとい
37
うニンシキができるようになった。デンキセイヒンもそうだ。ダイタイやすくうられている
ものはチュウゴクセイだ。ザッカもそう。
 ニホンセイフはブッカをあげたいとおもっているようだが、やすいチュウゴクセイがはい
ってきては、そうカンタンにあがるわけはない。ツウカキョウキュウリョウをふやせばブッ
カはあがるというのは、とじられたケイザイユニットのなかでというジョウケンつきだろう。
しかし、いまはエンやすがすすんでいるから、ユニュウヒンがたかくなったといえなくもな
い。だが、チュウゴクゲンとのヒカクでエンがさげなければ、やっぱりブッカはあがらない
だろう。チュウゴクがケイザイハッテンして、ジンケンヒがあがったからキギョウはほかの
くににコウジョウをうつしそうなものだが、やっぱりチュウゴクシジョウがねらいだったの
だろう。あまりニホンシジョウでのチュウゴクセイヒンがへっていないのがゲンジョウだ。

 

サンジュウイチ

 

 フロイドセンセイ(セイシンブンセキのソ)はファルスをといたといわれる。それはただ
しいかもしれない。なにかをカンケツさせようとするわけだ。くるまのいきさきも、フロイ
38
ドセンセイはヨキしていたかもしれない。
 くるまはエイゴで「カー」という。ただそれだけではフジュウブンなようだ。サイゴのト
ウタツ、いってみれば、トウゲンキョウのようななにかがヒツヨウなのだ。そのキタイをし
てナンニンのひとがくるまをかっただろう。あるひとはそのトウタツテンをみつけてしまっ
た。ユウメイなハンバーガーやである。タブンそのカンバンをみて、はいることをきめたん
だろう。そういうフウにゴをつづけると「カーム」となる。ただザンネンながらホンライテ
キなモクヒョウとつづりはちがうようだ。
 エイゴがコクサイゲンゴになったといわれるゲンザイだからもっと「カー」がうれるかも
しれないが、エイゴのキョウカショはこたえてくれない。フロイドセンセイフウにいえば、
いまのニホンのわかものはキョウヨウがなさすぎるか、タシャにカンシンをもっていないか、
キンヨクシュギテキなのだろう。
 よのなかの(みぢかなでもいい)おとことおんなのなかが わるくなるほど「カー」はうれ
るかもしれない。トウタツをさがしてだ。いってみれば「カー」がうれることはセイリゲン
ショウなのだ。そしてそのなかのナンニンかはユウメイハンバーガーテンにはいっていく。
それはセイメイのシュクメイかもしれない。そのかわりはあなたがみつけるべきだ。コンペ
39
ンゼーションといわれないような。

 

サンジュウニ

 

 さきにエル(ロコモーティブ[ウンドウリョク]) イコール ダブリュ(おもさ)ブンのイ
ー(エネルギー)のはなしをした(●ニジュウハチ)。これはわたしのばあい、エルをジカン
ともかんがえるから、ジカン イコール ダブリュブンのイーともいえる(なぜティ[タイム]
にしないかというと、かならずしもながれるわけではないからだ。テイシしたら、タイムと
いうのかわからないので。)。しかし、どうやってそれがうごくかまではセツメイできない。
うごかなかったらエルとはいえない。だから、「ジカン」についていうときはただしいかもし
れないが、うごくをネントウにおくとジャッカンテイセイがヒツヨウである。
 うごくとはなにか。それはニンゲンのばあい、あるシツリョウをへらしてドウリョクにか
えることである。グタイテキにはタンスイカブツやサンソをサイボウがドウリョクにかえる
ことだ。かえたあとのものをコキュウやベンによりハイシュツする。サンソをとりいれ、ニ
サンカタンソをだす。タンジュンなブンシキゴウのヒカクではだすホウがシー(カーボン)
40
のブンおおい。つまりそうやってドウリョク(サイボウタンタイをふくみ)をえるためにシ
ツリョウ(シー)をへらしている。モチロンたべることをするのでシツリョウはまたゾウカ
する。しかし、ウンドウメンにかぎっていえば、シツリョウはゲンショウする。ロケットの
ばあいはうごくたびにネンリョウをショウヒする。だからつかったネンリョウのブン、シツ
リョウはへる。そうやってウンドウをカイシするにはシツリョウがイチジテキにせよへるの
である。

 

サンジュウサン

 

 ニンゲンはどのくらいエネルギーをもっているのだろうか。タイジュウではかれるといわ
れたこともある。それならためしにもちあげてみればよい。ロクジュッキロのタイジュウひ
とならロクジュッキロのものをもちあげられるであろうか。タブンあるテイドきたえていれ
ば、タンジカンもちあげられるのではないだろうか。
 とぶこともできる。それもロクジュッキロのひとがロクジュッキロのからだをもちあげら
れるであろう。しかし、タンジカンである。これはどういうことか。ニンゲンはジブンのタ
41
イジュウイジョウのちからをハッキできるのだ。つまり、ニンゲンはタンジカンながらそら
をとべるのである。しかし、キンニクがたりなかったり、ちからのつかいかたがよくなかっ
たりで、チョウジカンとぶことはできない。いいドウグがカイハツされれば、あしこぎプロ
ペラみたいなのができれば、ながいジカンとべるようになるかもしれない。

 

サンジュウゴ

 

 ときとともにかわっていくものがある。いや「とき」とともにではないかもしれない。サ
イキンはえきのベンジョをつかったときに かみがないということはほとんどないとおもう。
しかしすこしまえは、ベンジョのいりぐちに かみをうるジハンキがおいてあった。つまりダ
イベンをするとしたら、それをかうか、ベツにヨウイせねば、あとがこまることになってし
まう。だから、ゴジュウエンかヒャクエンだしてそのかみをかった。でもサイキンはそうい
うことはなくなってきた。ひとことでいえば、サービスがよくなったのである。どうしてか。
コクテツがミンエイカして、キャクをダイジにするようになったのであろう。それをシテツ
もツイズイしたと、そんなところだろう。まぁありがたい。
42

 

サンジュウロク

 

 あきにうえたキャベツやブロッコリーがそだっている。むしもすくないようでそだつのに
モンダイとなるショウガイもすくないようにおもわれた。しかし、とりがかじりはじめた。
タブンふゆは、えさがすくないのだろう。えさもしばらくあげなかったからかもしれない(●
ア ゴジュウハチ)。ブロッコリーにくいつきはじめた。そのつぎはキャベツである。やっぱ
りえさをやらないとだめなのであろうか。またえさをやるようにした。

 

サンジュウシチ

 

 むかしは、はえたたきをつかっていたがサイキンはみなくなった。タブン、ブツリテキに
たたくより、「カガクテキ」にたたくようになったのだろう。かについてもそうだ。むかしは
かやをつかっていた。しかし あみどがフキュウしたからか、レイボウがフキュウしたからか、
つかわなくなった。ナンゴクのいちばとかはおもしろい。はえよけにちいさなファンでひも
をカイテンさせる。それで はえがよってこないというやりかたである。あみどのおかげで、
43
はえたたきはヒツヨウなくなったのかもしれない。イダイなハツメイだ。

 

サンジュウハチ

 

 セカイのとみのハンブンを なんパーセント(ひとけた)のかねもちが にぎっているとい
われることがある。それにタイしてけしからんということはできるが、それだけそのかねも
ちがいいしごとをしたのだから しょうがないともいえる。なにもしないでおかねをかせげる
わけではないのである。そういうジョウキョウがあるから、そういうとみをショミンにこぼ
しあたえるみたいなはなしをしたりする。でも、やっぱりゲームセンターのコインゲームの
ように(●む ヒャクニジュウニ) そうカンタンにはこぼれおちるわけではない。どうすれ
ばこぼれおちるだろう。どこかにおかねをおとせば、ナンニンかがひろっておわりである。
それなら、こぜにをタクサンおとせば、ケッコウなかずのひとがひろえるかもしれない。し
かし、そのばにいるひとしかひろえない。

 あるキセイをカンワすれば、そのカンワされたギョウシュにひとびとがサンニュウする。
それでセイコウすれば、それにカンレンするギョウシュもうるおうのである。これはあらた
44
な かねもちのつくりかただが、そういうチャンスをあたえるのもいいかもしれない。ビョウ
ドウにケッカをあたえると、あまりはたらかないひとが、はばをきかせて、やるきのあるひ
ともやるきをなくしてしまう。かねもちのやるきをうばえば、とみはいきわたるかもしれな
いが、それはどうなのか。ゴルフのハンディキャップのようなものをあたえたとしても、や
っぱりまたおかねをかせいでしまうようにもおもえるのである。しかし、ゼイのルイシンカ
ゼイとはそういうことある。

 

サンジュウキュウ

 

 ニホンのガッコウではカンジをならう。よむだけでなく、かきかたもおぼえさせる。そう
するとカンジをよみかきできるこがそだつ。しかしである。ホンシツテキにそれはダイジな
のだろうか。たしかにいまどきのホンはカンジまじりブンでかかれるので、それをよみたけ
ればカンジをよむノウリョクはヒツヨウだろう。たしかにそのノウリョクがあればメイジジ
ダイのホンもよめる(だがカンジがおおい。)。しかし、えどイゼンのショモツはふででかか
れている。それはクンレンしないとよめない。それでもそういうショモツをよみたければベ
45
ンキョウするのだろう。
 メイジイコウのホンもいまは てがきでフクセイするひともいないだろうから、よめればい
いのだとおもう。それなら、カンジのガクシュウはよみだけでよいのではないか。デンシキ
キのフキュウにより、かくわりあいはすくないはずだ。センタクセイにしてしまってもよい
ようにもおもえる。そのあいたジカンになにをやるかはいろいろギロンがあるだろうが。い
まはエイゴもジュギョウがあるので、そうするとエイゴまじりブンになってしまうんだろう。
もっともニホンジンのエイゴノウリョクは、コクサイテキなスイジュンとヒカクしてひくい
というから、エイゴをよみかきさせるのもいいかもしれない。

 

ヨンジュウ

 

 シャカイシュギはシッパイといったり、サイキンではきかないが、シャカイシュギはいい
といったりする。だがホントウにシャカイシュギはシッパイなのだろうか。シャカイシュギ
はシホンシュギとヒカクされたりするが、コンカイは、シホンシュギはダイサンのかんがえ
かたとしておく。
46
 センシンコクではイッパンテキにシジョウケイザイである。シジョウにはキホンテキにジ
ユウにたちいれる。そしてジユウにバイバイできる。それはニンゲンがものをヒツヨウとす
るからそのジュヨウをみたすためである。ものがなかったらニンゲンのセイカツがなりたた
ない。シャカイシュギのばあい、ハイキュウなどがあったりする。そうするとセイカツがで
きるわけだ。ただハイキュウにあるイガイのものは てにはいらない。そもそもつくっていな
いかもしれない。ハイキュウするシュタイが、なにかをユシュツして、ハイキュウしてほし
いとキボウのあったものをユニュウできれば、ハイキュウをうけるようなやりかたでも ゆた
かにくらせるだろう。しかし、そういうことをつづけたタイコクは、ハイキュウセイドをや
めたときく。そしてシジョウケイザイをドウニュウしたのだ。そのタイコクがシャカイシュ
ギのキシュであったため、そのタイコクがやめてしまうと、ほかのちいさいくにもそれにつ
づくだろう。そういうわけでシャカイシュギをとるくにはすくなくなったはずだ。
 そういうジョウキョウからシャカイシュギはシッパイといえるか。そうではない。ジユウ
シジョウシュギはモチロンつよいが、シャカイシュギもまたつよいのである。そのシャカイ
シュギとはなにか。カイシャである。カイシャのジュウギョウインは、しごとをしてキュウ
リョウをうけとる。それはハイキュウをうけとるシャカイシュギのセイドににている。にて
47
いるというのは、ハイキュウをうけるリョウがまちまちであるからだ。
 さてそのシャカイシュギにちかいカイシャはかわるだろうか。チンギンなどがかわった(ノ
ウリョクキュウ)カイシャもできたが、そうはかわっていないかもしれない。また、ヒセイ
キコヨウなどロウドウシャのありかたもかわったメンもある。しかしながら、カイシャがジ
ユウシュギにかわったというはなしはきかない。
 ロウドウシャのジユウシュギはふえたかもしれないが、ホウシュウをうけとるのにクロウ
するブン、シャカイシュギをもとめるひともあろう。だからジユウシュギとシャカイシュギ
はタイリツするかはともかく、まだまだジュウヨウなロンテンであろう。シホンシュギとい
うかシホンは、それぞれのセイサンカツドウのおおきさであろうか。

 

ヨンジュウイチ

 

 すしのレキシはこめでジュクセイさせたさかなのすしから(ますずしなど)、はやずしとよ
ばれるジョウゾウすをつかって タンジカンでしあげるすしがふえてきているゲンジョウに
つづく(●ジュウなな)。そのはやずしをブンカイすると、さしみとすめしになるのがゲンジ
48
ョウだ。そうやって、ホンライはなまでたべなかったさかな(うみのちかくではたべていた
だろうが。)をたべるようになったともおもえる。むかしはひものやホンライテキなすしにカ
コウしてチホウにはこんだ。しかし、レイゾウコができるようになり、なまのさかなをはこ
べるようになった。だから、すくなくとも うみからとおいチホウでさしみがたべられるよう
になったのはメイジイコウだろう。ニホンはエネルギーをユニュウしているわけだから、さ
しみはぜいたくかもしれない。ただでレイゾウコがうごくわけではないのだ。

 

ヨンジュウニ

 

 ガクギョウセイセキよりもダイジなことがある。とオヤジがいっていた。セイセキのツウ
チヒョウのうらにあった ひとがらにカンするようなメンを オヤジはジュウシしたようだ。
どちらかというと、わたしはとびまわっていたことがおおかったようにおもう。チュウガク
セイになって、シケンのセイセキがジュンジョとしてでても、わたしはベンガクにはげむこ
とはなかった。シンロだなんだきかされたが、ダイタイこんなかんじとかにおもって、ヘン
サチをあげようとか そういうドリョクはできなかった。そんなわたしをみていったのかもし
49
れない。
 そういうドリョクをしなかったわたしではあるが、たしかにセイセキより、ひとがらがダ
イジかもしれないとおもうようになった。セイセキはキオクリョクシケンみたいなところが
あるが、ひとがらというのはイチニチキオクしてどうなるものでもない。まぁガクセイだか
らそれでいいのだともおもうが、しごとだったらともおもう。いずれにせよドリョクなんだ
ろう。あとでドリョクしなかったらそうおもえなかったかもしれない。

 

ヨンジュウサン

 

 さけをナンネンかねかせてシュッカしたりしているようだ。わたしはウィスキーからはい
ったが、ブランデーもそうだし、ショウチュウもねかせたものがあることをしった。ウィス
キーを、それがセイサンされたとしのころはなにをしていたかとか、かんがえながらのむよ
うにしていた。そのエンチョウで、ジブンがうまれたとしのさけはどうだとおもい、みつけ
てかった。ショウチュウに ネンスウがたったものがあることをしったのはそのときだ。のん
でみるとうまかった。オヤジにものませたら いいかおをしていた。ゼンブのまずにゆっくり
50
のもうとおもっていたのだが、あるときみてみるとショブンされていた。またさがすのはカ
ンタンではないだろう。

 

ヨンジュウヨン

 

 ナンポウのくにでいろのついたパンをみた。かぼちゃとかほうれんそうをねりこんだのだ
ろう。でもニホンではというか、うちのちかくではみかけない。ひさしぶりにいいかとおも
うが。まぁ、ちゃそばや よもぎもちをつくるのだからできなくはないんだろうけど。

 

ヨンジュウゴ

 

 ひとりあたりジーディーピーはトシコッカのホウがたかくでる(●ア ニヒャクサンジュウ
イチ )とシテキした。ジンコウがミッシュウしているし、とりひきのキョリがみじかければ
ヒンドもあがるだろうからだ。だからフツウのくにのスウジとくらべるのは テキしていない
かもしれない。そこでジーディーピーをヒカクするために、ミツドわりジーディーピーをか
51
んがえた。
 これはくにのなかのヘイキンテキなひとりあたりリョウイキ(トシでもノウチでもない)
(ジンコウわるメンセキ)でひとりあたりどれだけセイサンされているかをしめす。いいか
えれば、くにのひろさをイチヘイホウキロメートルとしたときに、そのひろさのなかでのひ
とりあたりどのくらいセイサンするかのシヒョウだ。つぎのスウシキでケイサンする。
ひとりあたりジーディーピーわるジンコウミツドだ。これでトチをふくめてひとりがどの
テイドセイサンしているかがわかる。このあたいがひくいばあいのひとつのリユウはトシカ
がすすんでいることであろう。このあたいがたかいとヒコウリツかもしれないが、それもゆ
たかさではある。かならずしもひとはトシにすみたいとはかぎらないのである。

 

ヨンジュウロク

 

 オヤジがショウユのことをむらさきといっていた。ジショにものっている。しかし、なぜ
「むらさき」なのか。ショウユはむらさきいろかというと、そういうわけでもなさそうだ。
ならば、コウカなものとしてそういうのだろうか。
52
 むらさきいろは、むかしのコウキュウカンリョウがみにつけたいろといわれる。わたしは
かつてそんなイシキがなかったから、むらさきいろのふくをかったことがある。しかし、そ
ういうレキシがあってか、むらさきいろのふくをきているひとには メッタにであわない。そ
ういうコウキュウなものというイミなんだろうか。

 

ヨンジュウシチ

 

 セイショには、かみさまがむいかカンはたらいたあとに、イチニチやすんだとかかれてい
る。だからタブンオウシュウのひとはまねをして、シュウにイチニチやすむようになったの
だろう。ニホンではメイジのころにタイヨウレキをドウニュウして、そのかんがえかたをと
りいれたのだとおもう。しかし、サイキンはふつかやすみなさいという。なぜかみさまがむ
いかはたらいて、ニンゲンがイチニチおおくやすむのだろう。たしかにそうすることでハッ
テントジョウコクにも ケイザイセイチョウのチャンスがまわっていく。しかし、それをいっ
ておいてまだまだ「ケイザイセイチョウ」などといっている。ドヨウビ、ニチヨウビにやす
んでしまうと、ケイザイセイチョウはにぶるだろう。ジーディーピーがあがらないからだ。
53
だからあそびにいきなさいというかもしれないが、そんなことをいうのは、フキンシンなよ
うなきがする。

 

ヨンジュウハチ

 

 ドラというのはチュウゴクでカイハツされたガッキでないか。たたかいのときなんかにな
らすようなきがする。しかし、ニホンのミュージシャンなんかがつかうドラはオウベイセイ
かニホンセイだろう。ゴングというヤクもある。それをかたどって「ドラやき」がつくられ
たのだろう。わたしもすきだ。しかし、チュウカケンのあるくにでは、ドラをかたどったア
イスクリームがある。わたしなんかは「ドラやきアイス」といっていたが、おいしい。だが、
そのドラやきだ、ドラやきアイスのルーツは、パンケーキにあるのかもしれない。ホットケ
ーキというやつである。

 

ヨンジュウキュウ
54
 ジンセイがすんなりすすむひとがいるし、スムースにすすまないひともいる。わたしはコ
ウシャのホウだった。チュウガッコウにかよっていたぐらいから、スムースにいかなくなっ
た。タンにベンキョウがきらいだっただけといえばそうだが、ベンキョウイガイにオンガク
をみいだした。それはそのゴもつづいた。そうしていると、おややそのほかがそれをやめろ
というかもしれない。しかし、オヤジやおふくろはハンタイしなかった。ユイイツいやがっ
ていたのが、わたしがコウコウにいかなかったときだ。ダイガクにいってシュウショクして
ほしいとおもっていたのかもしれない。しかし、キホンテキには、やってみろだった。わた
しがブツブツキカクしたことをセツメイすると、「やってみろ。」とオヤジはいっていた。た
しかにブツブツいっていてもすすまない。

 

ゴジュウ

 

 いろいろシッパイをしながら わたしはセイカツしている。それでかんがえるようになった。
サイキンになって、さきのことをかんがえるようになった。といってもタニンのことやシャ
カイのことは、わたしがどうおもっても、ベツにツゴウがあるから みぢかなことをかんがえ
55
る。しごとのヨテイをきめたり、ショウライになにがあったらいいかという ブッピンのコウ
ニュウのことをかんがえたりなど。また、としをとるにつれて、わかること、セツメイがで
きることがふえてきている。それをふまえてというわけである。あたらしいなにかというの
もカノウだが、やっぱりなれたものがいいとおもう。しかし、なかなかえられづらかったり、
ダイジにできなかったりしたこともあるとおもう。まぁジブンのツゴウをダイジにいきてき
たのだからしょうがない。
56

 


ゴジュウイチ-ヒャク

ゴジュウイチ


 なにかが「かぞえられる。」というときは、ジッサイに「ある」ものをかぞえているだろう。
キョリなどをはかるときは まきじゃくなどをつかってはかる。あしをつかってはかると「フ
ィート」というタンイになる。「フット」ということばからだ。
 しかし、ホントウにそうなのかというケイリョウもある。「あなたはおこっていますか。」
というシツモンをななダンカイでたずねるようなばあいだ。なながもっともおこっていて、
イチがまったくおこっていないなどのシツモンだ。サンとかは、ややおこっているとかにセ
ッテイされるだろうが、まぁそれでわかることがあっても、ややウサンくささがのこる。こ
れはシンリガクなどでつかわれている。こころが「ある」とされているからこうなんだろう。
しかし、カンサツしづらい。シツモンにこたえるひとしかわからないであろう。だからうそ
があるとなりたたないケンキュウだ(シンリガクだから「うそ」をふくめてケンキュウして
もいいのかもしれない。)それをもっとつきつめると、「こころ」ではなくて「コウドウ」を
しらべる(これもシンリガクケンキュウだ。コウドウシュギとよばれる。)。コウドウはカン
サツカノウだからだ。こういったシンリガクのケンキュウにくらべると、ジーディーピーの
57
ホウがわかりやすいかもしれない。もっとも もとデータなんかみせてくれないだろうけど。
ショミンがカンサツできるのはブブンテキなものである。

 

ゴジュウニ

 

 わたしがガクセイのころウチュウのモシキズをみたことがある。それにはウチュウがまる
くえがかれていなかったが、わたしはまるいのではないかとおもう(キュウがた)。コロッケ
のようなかたちだとしたら、ジョウゲからなにかちからがかかっていないとそうはならない。
しかし、そのアツリョクとはなにかともおもう。かべでもあるのだろうか。すくなくともケ
ンキュウシャのあたまのなかにはある。

 

ゴジュウサン

 

 わたしがショウガッコウにいっていたころは、ウンドウができるセンパイがいいとおもっ
ていた。いわゆるモデルというものである。だからわたしもウンドウをがんばっていた。モ
58
チロン、ベンキョウができるセンパイもいたのだろうが、ベンキョウができるかは なかなか
みえない。ウンドウができるのはみえるのにである。だからそのセンパイがテンコウしてし
まってからはモデルをみいだせずにいた。わたしイジョウにウンドウができるセンパイがい
なくなってしまったからだ。
 それからは、ケッコウテレビゲームをするようになったかもしれない。シミュレーション
ゲームというのがではじめていた。それからオンガクもはじめた。そのきっかけはバンドブ
ームであった。そういうリュウコウにモデルをみつけて、ベンキョウするわけでもなくオン
ガクをやりつづけた。いまでもモデルがありますかときかるとこたえづらいが、ケッキョク
オヤジなんかがなっているのだとおもう。

 

ゴジュウヨン

 

 ハチジュウネンダイおわりから キュウジュウネンダイはじめに ディスコがはやったとき
く。わたしもチュウガクセイながら、まねておどったことがある(ディスコにいったという
イミではない。)。なぜなのかはセツメイできないが、そういうフウチョウだったのかもしれ
59
ない。それからおどるようになったかというとそうではないのだが、ミュージシャンのショ
ウでひとのうえにのっかったり、とんだりしていたことはあるし、そういうクラブでちょっ
とおどるとはいいにくいが、からだをうごかしていたことはある。わたしはおどるというよ
りは、オンガクのホウにいった。いまはディスコはしたびなんだろうか。そういえばしばら
く ぼんおどりにサンカしていない。

 

ゴジュウゴ

 

 ガッシュウコクでセイサクホウシンへのハンタイウンドウがおこっているときく。ジブン
のところをダイジにするか、ほかとなかよくするかというタイリツだ。それは「ふるいノウ」
と「あたらしいノウ」のカットウなんだろう(●ア ヒャクキュウジュウハチ)。たとえば な
なジュウハチネンまえからのセンソウでは、オウベイやひがしアジアのくにのひともクロウ
しただろう。ヘイワがいいにきまっている。

 しかし、それはあたらしめのかんがえかもしれない。ジンルイはほかのドウブツとセイゾ
ンキョウソウしただろうし、またゼンインがヘイワをえらぶかといったらそうではないだろ
60
うからだ。まだたたかっているチイキもある。だからそういうひとたちとむきあうとしたら、
ふるいかんがえもダイジになってくる。そうニンゲンが「あたらしい」ノウばっかりつかっ
ていきるわけではないだろうともおもう。タブンほかのくにでおこっているセンソウなどが
おわってはじめて「あたらしいノウ」のホウにかじをきれるのではないだろうか。

 

ゴジュウロク

 

 わたしが「モデル」をみうしなっていたかもしれないというはなしをした(●ゴジュウサ
ン)。イシキはしなかったが、ニジュッサイのころから なにがモデルになっていたかという
と、ガッシュウコクジンだ。セイカクにいうと、みたわけでないのでモデルではない。しか
し、ダイガクのガクヒもジブンではらってとおもっていたし(ジッサイにはらっていた。)、
サンジュウのころには、みえないミライというか あれちをカイタクしようとしていた。もっ
ともガクセイとしてうまくやれていたときに、ほかのメンでうまくいかなかったことがあっ
た。ソツギョウすれば、そのままシュウショクすることができたかもしれないが、ガクヒが
はらいにくくなったことと、まだまなびたいというチシキヨク(わたしはこれを「コウガク
61
レキビョウ[●ア ニヒャクニジュウサン]」といったりするが)のためにキュウガクして、お
かねをためてもうイチネンガッコウにいくセンタクをした。
 このジテンで、ふつうのフツウのシュウショクはむずかしくなったのだろう。シャカイガ
クなどでいう「ヒセイキシャイン」とか「ワーキングプア」のみちである。それでジッサイ
にヒセイキのしごとをつとめさせてもらった。しかし、しごとのカゲンがへただったために
(バリバリやればいいというわけでもなかった。)あまりうまくいかなかった。それからジブ
ンのところにあるしごとをするようになった。それならキンムタイドやシュッキンジカンで
モンクをいわれることもない。それをいまでもつづけている。
 ダイタイのひとはジョウシキテキなしごとを、ジョウシキテキにしているとおもうが、わ
たしのばあい、あれちをたがやすわけだから、ジョウシキテキではなく(ジョウシキテキに
たがやしても、ノウサンブツができるまでながいジカンがかかるだろう。)、ジョウシキはず
れたようなドリョクをしているかもしれない。ただ、いわゆる「コンプライアンス」とかが
あるのでムチャはしていない。さきほどシテキした「ノウ」のはなし(●ゴジュウゴ)でい
えば、あたらしい「あたらしいノウ」でショウブしている。それがホントウにシャカイにと
って、まただれかにとってやくだつかはわからないが、シジョウがハンダンすればいいこと
62
だとおもっている。あまりにヒツヨウとされなければ、そのほかのなにかでショウブするだ
ろう。ただ、ドウシツセイがたかいというニホンではむずかしいかもしれない。それでもも
うジュウネンブンイジョウのしごとをもっているので、あとはジッサイにやるだけだ。その
なかからキンがでれば、まぁモクヒョウはタッセイといったところかもしれない。

 

ゴジュウシチ

 

 ニセンネンダイのうたをひさしぶりにきいてみた。アンガイあかるいキョクがあったので
おどろいた。そのころわたしはクロウしていた。だからトウジのうたもくらいのがすきだ。
そのころのダイガクセイなんかが、そのカシュのドウセダイだから、そういうガクセイはあ
んまりクロウしていなかったのだろうとおもう。まぁカシュはあかるいのをうたえば、まる
でむしがあかりによるように、ひとがよるだろうからいいのだが。でもわたしはアプローブ
(サンセイ)しかねる。わたしがエンカもすきなせいもあるが、おもえば、ニジュウダイ、
サンジュウダイとくらいあゆみだった。いまはすこしわらえるようになった。ジブンがあか
りになってというひとはすごいとおもうけど。
63

 

ゴジュウハチ

 

 ふゆのあいだは、ゴジになるとひがくれてしまったが、としがあけてダンダンながくなっ
てきた。こうなるともうはるである。はるになると くさがはえてくる。まだそこまではいか
ないようであるが。キョネンのあきにうえキャベツとハクサイはまだシュウカクできるよう
ではない。いくらかとりがたべてしまった。ズイブンそだつにはジカンがかかるんだとおも
う。

 

ゴジュウキュウ

 

 アラビアスウジのロクというのはみていておもしろい。もっともパソコンのあるショタイ
のそれをみていてそうおもったのだが。ロクがタクサンならんでいると、まるでひとがタク
サンならんでいるようである。だから「キュウ」はエンギがわるいのかともおもう。ギャク
に「ロク」をいやがるひともいるようだが。
64

 

ロクジュウ

 

 いぬをかっていたときに、よくサンポにつれていった。「サンポにいくぞ。」とこえをかけ
たからかもしれないが、フダンのときに「サンポ」というと、めをかがやかすようになった。
タンジュンなシゲキとハンノウだが、それはツウじたようだ。えさをたべるのをいっときま
つ「まて」ということばもおぼえた。「まて」といってまたせて「よし」でたべていいことに
していた。「まて」をさせたあとに「よしこさん」といってもたべなかったから、クベツはつ
いたようだ。ただ、おいるとそれどころではなくなった。ニンゲンだってそうだろう。サイ
ゴはおだやかにしんでいった。

 

ロクジュウイチ

 

 ちかごろはミンシュシュギがいいというはなしをよくきく。たしかにそうかもしれないが、
それでできることといえば、トウヒョウでギインをえらべるだけだろう。そんなのでセイジ
がかわるかは うたがわしい。それよりもセイジがかわるのは、セイフがサイケンをうりあび
65
させられるようなときではないだろうか。つまり、シジョウのホウが「ミンシュシュギ」の
セイドよりつよいのではと。ニホンでも、セイジのサイケンイゾンはおおきいから、そうい
うセイヘンがおこるカノウセイはある。

 

ロクジュウニ

 

 おいしいものをたべるとしあわせだったりする。しかし、そういうしあわせをじかにえら
れるひとはすくない。ノウカとか、リョウシとかだ。それイガイのおおぜいは、そういうし
あわせを だれかにわけてもらうことになる。だからおおぜいのひとにとって、「しあわせ」
とはニンゲンカンケイがコウチョウかどうかになる。だから、しあわせになろうといったら、
ノウカやリョウシになるか、ひととうまくつきあうことをしなければならない。
 ひとのしあわせをいのるひともいる。しかし、ひとのしあわせとは、ひとづきあいによる
から、シャカイにきらわれたひとをてだすけしたり、ショクリョウのメンドウをみたりする
ことが タイセツなようにおもう。これだとひとだすけになってしまうが、チュウガッコウの
エイゴでいわされる「アイ プレイ ギター。」のように、おダイモクをとなえるのではなく、
66
いうのならやればいい。

 

ロクジュウサン

 

 いまのジュウタクにはガラスサッシと あまどがある(すくなくなったかもしれないが。)。
フダンはガラスサッシをしめておいて、よるやあめのときにあまどをしめる。しかし、メイ
ジジダイのまえは、ガラスサッシはなかったようだ(やなぎだくにお「メイジタイショウシ」)。
だから、あめのときに あまどをしめると、へやのなかは くらくなってしまう。デントウも
そのころはなかったから、そういうときは くらいいえのなかで ねてしまったらしい。たし
かに くらければできることはかぎられている。それを「ガラスサッシ」がかえたといえる。
ニンゲンのセイサンセイをあげた イダイなハツメイである。

 

ロクジュウヨン

 

 チュウゴクのシンテイコクのおわりに コウウとリュウホウというショウグンがいた。シン
67
をたおしたあと このふたりはあらそうようになるが、コウウのサンボウであったハンゾウが
たびたびキカイをみつけては リュウホウをころしてしまえとコウウにいっていた。しかし、
コウウはそのキカイをムシしてしまう。たしかにつよかったコウウにとっては、いつでもた
おせるあいてだったのだろう。
 しかし、それをきかなかったゆえに、コウウのグンや くには すこしずつよわめられ、や
がてはシメンソカのジョウタイにおちいってしまう。これは、コウウのくにのソのヘイがリ
ュウホウのグンにくだり、そのトウコウしたヘイがコウウをホウイしてしまったからそうな
った。そのかこみをやぶってにげたコウウは、かわをわたるふねにであった。そのふねのも
ちぬしは、コウウをのせてにがそうとするが、サイゴをカクゴしたコウウはことわって、ジ
ブンがのっていたメイバをあたえてしまう。そのゴコウウはうちとられた。
 このレキシからかんがえることは、なにかにつよいものは テキがあらわれても いつでも
たおせるとかんがえてしまう。そしてユウシュウがゆえに ほかのひとのいうことをきかない。
コウウもサンボウのいうことをきいていたら、チュウゴクのオウとなれただろう。しかしそ
れができなかった。ニホンでも「ワンマン」シャチョウがいるとよくいうが、サンボウのい
うことをきかないのでは、ダイセイコウはむずかしいであろう。しかし、サンボウのいうこ
68
とをききにくいというのもわかる。それなら、シャチョウ(オウ)、サンボウのふたつのイケ
ンのほかにダイサンのイケンをきいたらどうか。それが、コウオウ(コウウ)のキョウクン
のようにおもう。

 

ロクジュウゴ

 

 むかしのニホンジンはよくはたらいたのだろう。もっともセンゴのものブソクのなかで、
よくはたらかないとなると、「なまけもの」ともいうだろう。よくはたらいたゆえにセンゴフ
ッコウがなされた。それはわかるはなしである。しかし、いまは、はたらきすぎというか、
はたらかせすぎは、わるくいわれるようになった。これではケイザイセイチョウなどむずか
しいであろう。ヒンコンのはなしもきくようになった。わたしもそんなはたらきものでない
から、はたらきにでていたときは、ジカンどおりにしかはたらかなかった。だからイチニチ ジ
ュウハチジカンはたらくというのは、どうもいやけがさしてしまうホウだった。しかし、む
かしのひとはそうやってセンゴフッコウをなしとげたのだろう。そういうブンカもダイジに
しなければならない。サイキンわたしはそういうのにすこしなれたメンがある。
69

 

ロクジュウロク

 

 「やすい」ものはミリョクテキである。そういうものをかえば、おなじシキンでもよりた
のしめる。おおきなやすうりテンにまけたから、ジエイギョウのちいさなショウテンがつぶ
れたともいわれる。たしかにジエイギョウのそういうみせは、おおきなみせほどやすくない。
おなじようなショウヒンをあつかっているなら、おおきなやすうりテンにいってかおうとす
る。それはわかる。
 しかしながら「やすい」ことはそんなにトクなのか。「やすものがいの ぜにうしない」と
もいう。ひとつのみせでショウヒンがやすくなると、ほかのみせもやすくしようとするかも
しれない。そうしないとうれなくなるからだ。そうすると、そのショウヒンジタイのねだん
もやすくなる。やすうりテンがやすくしたブンのフリエキをかかえれば、それはそのみせだ
けのモンダイだが、ほかのみせもやすくして、そのショウヒンをうろうとすれば、メーカー
からのしいれねをやすくしようとするだろう。そうするとメーカーもねびきしてフリエキを
こうむることになる。それがテイドをこえると、メーカーやショウテンはあかじのブン、ジ
ンインサクゲンしたり、ジュウギョウインのキュウリョウをさげたりすることになる。
70
 それはショウヒンをかうホウにはカンケイないだろというかもしれないが、メーカーもシ
ョウヒンのヒンシツをさげるかもしれない。そうしないとたちいかないからだ。そうすると、
やすいショウヒンをかおうとしていたひとも、ヒンシツがさがったとおもうだろう。この「シ
ョウヒン」がショクリョウヒンだとしたら、やすくかおうとすると「めし」がまずくなると
いうケッカになる。だから、うまいめしをたべたきゃ、やすいものをさがさないホウがいい
となる。

 

ロクジュウシチ

 

 やすうりアツリョクがシャカイゼンタイにかかっていると、ヒサンなジタイになる。それ
を「レッカシャカイ」とよぼう。「デフレ」がとまらないとかいうが、そういうジョウタイの
ことである。さきにのべたように、ショクリョウがそういうジョウタイになるとヒサンだ。
マイニチ「まずい」めしをたべなければならないからだ。コウギョウセイヒンならタショウ
ヒンシツがわるくても(ジコがおこるのはロンガイだが。)、それほどこまらないが、ショク
リョウだとこたえる。そうすると、「まずい」めしはいやだからと、ショクリョウヒンのねだ
71
んだけはあがるかもしれない。

 ことわざには「やすかろう わるかろう。」ともある。シャカイゼンタイが「レッカ」する
のでなく、「やすい」ものも「たかい」ものもかえるセンタクのジユウをのこしてほしいとお
もう。あるひとは「まずい」ものばっかりたべるかもしれないが、それはそれぞれのジユウ
だといえるようにすればとおもう。

 

ロクジュウハチ

 

 ニンゲンはあることをおもいださないと やがてそのことをわすれてしまう。いやなことだ
とトクにわすれたいだろう。そうやって「わすれる」からニンゲンはほかのことをできると
もいえる。もし「わすれない」ことがあるとしたら、それはニッカのようにおもいだしてい
るかそのことにとりくんでいるかだ。そういうことはわすれないが、そのことにジカンをと
られるので、そのほかにできることがソウタイテキにすくなくなる。だから、それをやって
いるかぎりは、キュウゲキなシンテンはないかもしれない。まるで「わすれる」ことがネン
リョウとなってすすんでいるように。しかし、なんでもわすれればいいってもんじゃない。
72
ちゃんと「コツ」や「キョウクン」はおぼえておかなければならない。そうじゃないと、ナ
ンカイやってもおなじシッパイをするひとになってしまう。

 

ロクジュウキュウ

 

 わたしはオンガクをニジュウゴネンイジョウやっている。バンドブームにエイキョウされ
てガッキをもつようになった。あまりにショウゲキテキなバンドがあったので、それにまけ
じといきなりジサクキョクからはじめた。トチュウチュウダンはあったが、まだジサクキョ
クをつくっている。ながくやっているので、うれるキョク、うれないキョクがあるテイドわ
かるようになってきた。ジブンでつくってピンとこないキョクはまずうれない。それならピ
ンとくるキョクばかりつくればいいのだが、わたしのツゴウでそうもいかない。だからうれ
ないキョクばかりになる。それはしょうがない。

 

ななジュウ
73
 おとといパソコンをいじっていたら、キュウにかぜがつよくなった。まだふゆのさむさだ
が、「はるイチバン」というやつである。ただキショウチョウのケンカイとわたしのケンカイ
にサがあるかもしれないので、ただしがきつきの「はるイチバン」である。もうそろそろは
たけしごとのジキである。

 

ななジュウイチ

 

 きたチョウセン(チョウセンミンシュシュギジンミンキョウワコク)はケイザイセイサイ
をうけているという。そういえば、このはなしとはカンケイないが、きたチョウセンセイの
スーツをうっていたことがあった。だれかがしいれたのだろう。セキユのユシュツをセンシ
ンコクなどはキンシしているようだ。むかしのニホンはそういうケイザイフウサをうけて、
セキユがでるナンゴクへのシンシュツにふみきった。しかし、ブリョクでたたかれた。きた
チョウセンのばあいどうだろう。にしのチュウゴクはタショウセキユがでるようだ。しかし、
きたにすすめばホウフにある。このどちらのばあいもタイコクあいてである。きたチョウセ
ンがかてるとはおもわない。でもグンはセキユがないとそのしごとをつづけられないので、
74
どちらかにうってでるカノウセイはある。

 

ななジュウニ

 

 ひとのタイケンはすべてトゥルー(ほんもの)である。それをいうと、ゆめをみるタイケ
ンも トゥルーなのかといわれることもあるだろう。しかし、そのタイケンはほんものである。
タンにノウのはたらきだとしても、「タイケン」ジタイはトゥルーだ。そのタイケンするタイ
ショウが、どんなにありえないこととしても、それをタイケンしているということは「トゥ
ルー」なのだ。それをわたしはトゥルーゲンソクという。タイケンするタイショウはまった
くイッパンテキでないとしても、そのタイケンジタイをあるものとしてみとめなかったら、
そのひとにとって、いきていないジカンができてしまう。
 あるタイケンは、あるジョウケンからはなれると、それっきりになってしまうことがある。
たとえば、だれかがいっているつまらないはなしだ。そのタイケンは、あるひとのこえのと
どくハンイからたちさればシュウリョウとなる。だからタイケンはあるテイド、トウセイカ
ノウである。しかし、はなれにくいタイケンというのもある。それをどうにかして、ジブン
75
のジンセイのイチブにするというのが、できたおとなではないだろうか。かんがえてみれば、
テレビドラマなんかをニホンジンはタイケンしたりするのだから、そういうのはトクイなは
ずである。

 

ななジュウサン

 

 わたしは、コウコウセイのときにガッショウをすこしやったことがあるが、サイキンいわ
ゆる「ハモり(「ハーモニー」と らギョウゴダンカツヨウのレンヨウケイ)」をするのがすき
になった。セイヨウのうたいてのハモりはうまい。ニホンジンも、うたをタニンズウでうた
うキカイをつくるようになったため、そういうことをするようになった(でもシュリュウは
カラオケだろう。)。
 わたしのすきなハモりは、キュウジュウネンダイによくうれたサッキョクカのひとがする
ようなハモりでいわゆるジャドウである。フツウはサンドかよんドでハモるが、ワオンをも
っとカクダイカイシャクして、そういうおとでハモるのだ。タブン、「すごい」というひとも
いるだろうが、タイテイのひとは「へたくそ」と、そのハモりのことをいうだろう。しかし、
76
うたっているホウはきもちいいのである。ひとりでうたっているブンにはメイワクをかけな
い。そういうわけでシーディプレイヤーさまさまである。

 

ななジュウヨン

 

 ありと きりぎりすのはなしがある。たしかイソップだとおもうが、きまぐれにしごとをせ
ずにコツコツとしごとをしましょう というキョウクンがあったとおもう。でもそれはしごと
だけに いえるのではないとおもうようになってきた。かねづかいもコツコツやったホウがい
いということである。きまぐれにたかいものをかってしまうと、あとでクロウする。そうで
なくてショウライをみすえて、コツコツとかいそろえていったホウがよさそうなのである。
チョキンのうまいひとがいるから、そういうひとはモンダイないだろうが、チョキンがへた
なひとはやはりコツコツだろう。そうおもいつつ、シュミのガッキをみてしまう。そんなで
はいけない。

 

ななジュウゴ
77
 でるくいはうたれるという。たしかにちょっとなにかにたけていると、うたれることがあ
るようだ。しかし、ですぎていたらどうだろう。ニバイ、サンバイ、ジュウバイとですぎて
いたら、もはやそのくいはたたけない。だから、ですぎたくいはうたれないのである。レイ
ネンダイにチュウモクをあびたアイティーチョウジャぐらいじゃ「ですぎ」とはいえないの
であろう。

 

ななジュウロク

 

 「てらからさと」なんてことばがある。メイジジダイのことわざジテンにのっているから、
あるテイドしられていたことばなのだろう。さとからやまにあるてらに キフをするというの
がフツウだが、ギャクにてらからさとに なにかをおくることをさしていうらしい。もっとも
いまのジダイには、てらにキフをするというひとはすくないだろうから、このことわざのイ
ミがわからないかもしれない。むかしはそれだけひとはシンジンぶかかった ということであ
る。ヨーロッパなんかも、ジュウキュウセイキおわりからのキョムシュギで、シンジンぶか
78
さがすくなくなったかもしれない。シンジンぶかいシャカイだと、くうにこまったときにシ
ュッケすればなんとかなったのだろうが、いまはミンカンダンタイが、コンキュウしている
ひとにショクリョウをくばっているらしい。かみとかほとけとかいわずにくばるようだ。よ
のなかはかわるものだ。どういうかんがえにもとづいているのか、ケンキュウしてみたいか
もしれない。アンガイ、シュウキョウとかキョウダンがみえなくなっているのかもしれない。

 

ななジュウシチ

 

 エイゴのオルターとは、なにかをかえる(ヘンカさせる)というイミがあるが、ベツにキ
トウでつかうサイダンというイミがある。どちらがさきにイミづけられたかわからないが、
ラテンゴではうたうというイミがあるようだ。キョウカイでうたったりするとき、サイダン
などがあったかもしれないから、「サイダン」のイミがさきかもしれない。ニホンでも、ジチ
ンサイなどをするときにサイダンをもうけたりする。セイヨウのブンカなのかわからないが、
マホウをかけるときもそういうのをつかうというインショウがある。ニホンではつつがない
というのがジュウシされるが、セイヨウではもしくはエイコクでは、サイダンをもうけると
79
きは なにかをかえるときなのかもしれない。まぁ、ニンゲンはドウブツだから、なにかがか
わらないとドウブツらしいといえないかもしれない。だからサイダンをおくヒツヨウがある
のかもしれない。

 

ななジュウハチ

 

 ものごとをシンチョウにすすめるひとのことを いしのはしをたたいてわたるひとだとい
う。いしのはしはガンジョウにできているが、マンイチにそなえて たたいてみるさまをいう。
しかしセイヨウでは、ロバ(のチリョク)のはし(アセスズ ブリッジ)ということばがある。
これは、ギリシャのスウガクシャ、ユークリッドのセツのショウメイを コウガクシンのない
ひとがなかなかやりたがらないさまをいう。つまり、タイダなひとは はしをわたらないとい
うことだ。たしかにはしをわたらなければ ジコのシンパイもないかもしれない。

 

ななジュウキュウ
80
 かなしみのことをエイゴでレイメントという。エイゴではアルファベットのエーをエーと
ハツオンする。イッポウ、ヘボンシキローマジでは、エーのことをアとハツオンする。そう
いうひとたちだと「レイメント」でなくて「ラーメント」とハツオンするかもしれない。サ
イゴのおとをはしょるフランスゴフウにいえば「ラーメン」になる。わたしはあかるいオン
ガクより、くらいオンガクがすきだったりする。つまり、ややかなしいホウがこのみだ。そ
れとおなじリユウで、かなしみをあじわいたいひとがいるかもしれない。そういうひとが「ラ
ーメン」(かなしみ)をたべる。ちょっとラーメンのリュウコウのセツメイにはよわかったか。

 

ハチジュウ

 

 エイゴでチーズというが あまりニホンゴにホンヤクしているのをみない。ガイライゴとし
てチーズといっている。それはどうなのかと まえにかんがえてフニュウとヤクした。くさっ
た(ジュクした)ニュウというようにである。しかし、サイキンむかしのひとがヤクしたケ
ッカをめにした。カンラクというのがそうである。かわいた、ラクノウセイヒンというカン
ジである。サイキンはエイゴでそのままいうのがはやりなのか(エイゴとはかぎらないが)。
81
マニフェストなどとヘイキでいっている。ちゃんと、セイケンコウヤクとヤクしているひと
もいる。もっとも、「マニフェスト」じゃ「フナニモクロク」なのだが。タブンいいたいのは
「マニフェストー」で「コウジ」であろう。

 

ハチジュウイチ

 

 「キリストキョウ」っていうのもヤクしていないことばである。そういわなくても ヤソキ
ョウといういいかたがある。わたしは、ちいさいころガッコウのともだちのエンでワイエム
シーエー(ヤング メンズ クリスチャン アソシエーション)にいったことがある。あまりお
ぼえていないが、そのカンレンで、エイゴをならうことになった。イチネンくらいならった
ろうか。テキストをめくったおぼえがある。そのときおぼえたエイゴはそのページをめくる
ドウサをさすことばだけである。こどものうちになれさせれば、エイゴをおぼえるといった
ってそのテイドである。こんなようだから、センキョウシもクロウしたことだろう。

 

ハチジュウニ
82
 あるショによると、「サンミイッタイ」とは、ゴッドザファザー、ゴッドザソン、ゴッドザ
ホーリーゴーストをさすらしい。わたしはよくわからないが、ながいレキシのなかでかんが
えられたのだろう。ひとつシテキができそうなのが、シンリガクでそういうかんがえかたが
うけつがれているようなきがする。
 フロイドセンセイ(セイシンブンセキのソ)はチョウジガ(キンシなどシドウテキなキノ
ウをはたすとされるこころのイチメン)やジガ(いわゆる そのひとのツウジョウのこころの
キノウ)やイド(もしくはムイシキ)があるといった。これはさきのサンミイッタイとにて
いる。また、コウリュウブンセキでは、ひとのこころをサンカテゴリーにわけ、おやのよう
なやくわりをはたすメン、いわゆるおとなのやくわりをはたすメン、こどものようなやくわ
りをはたすメンがあるとしている。これもやはりにているようにおもえる。やっぱりそうい
うことをかんがえたレキシがながいのだろう。

 

ハチジュウサン

 

 ニンゲンがそらをとべるようになるひがくるであろうか。わたしはむずかしいとおもう。
83
なぜなら、ニンゲンはチジョウむけにシンカしたからだ。タンジュンにいえばあしをハッタ
ツさせたということだ。そのあしがおもいから、そらをとぶようになることはむずかしい。
だからペダルシキのドウグをつかってとぶというのがただしいだろう。もっているつよみを
いかすということだ。もっといえば、てもそらをとべるドウグをもったホウがいいかもしれ
ない。なれればそこそことべるようなきがする。

 

ハチジュウヨン

 

 まえにうちでかっていたいぬは、ほねがすきだった。マンガでそういうえがあるが、あた
えるとよくくわえてかじっていた。ほねだけでなく、にくもすきであった。ただ、マンプク
のときだとたべずに、どこかにかくすようだった。よくつちをほっていた。そういうチエが
あったらしい。つちのあじがついてしまうだろうが、あなをほったりうめたりしていた。そ
こらへんにおいておくと、ねこなんかにとられてしまうのだろうか。やっぱりそれなりのリ
ユウがあるのだろう。
84

 

ハチジュウゴ

 

 ジュウキュウセイキに、アメリカガッシュウコクでつくられたホンをかった。そのなかに
は、カッコクのコッキをショウカイしているブブンがあった。しかし、そうタクサンはショ
ウカイされていない。ショウカイされているのはおもにオウシュウである。アジアではふる
くからブンメイがハッタツしていたチュウゴクとインド、それとつよいくにをつくったトル
コである。ニホンはショウカイされていない。つまり、そのころのガッシュウコクジンのあ
たまには、「ニホン」というのはなかったということだ。だから、ニチロセンソウでニホンが
かったというのは、ソウトウショウゲキだったろう。キロクジタイはうそをつかないである。
そういうアジアをどうにかしたかったのなら、ニホンはさきのサンカコクとなかよくすべき
だったんだろう。いまどきのホンもそういうゲンジツをみせてくれるかもしれない。

 

ハチジュウロク

 

 ほんだなのセイリをしていたら、わたしがコウコウセイのときにつかっていたキョウカシ
85
ョとシリョウがでてきた。わたしは、コウコウセイのとき、ショドウをセンタクしたので シ
ョドウのキョウカショとシリョウがでてきた。それをみておどろいた。くずしジについての
シリョウがでてきたからだ。それがみつからなくても いずれくずしジのベンキョウをしよう
とおもっていたからだ(●む ゴジュウハチ)。シュヒツのホンをよむにはかかせないギジュ
ツだからだ。それで、でてきたシリョウをみて、いいキョウイクをしていたとおもう。スウ
ガクのジュギョウは、わたしが、ヨウリョウがわるいのできらいだったが。そういうジュギ
ョウもあったのだとカクニンできた。

 

ハチジュウシチ

 

 あのひとはヤンキーよ。とわかいひとがいうと、ちょっとつっぱった、フリョウショウネ
ンをさしたりする。これはニホンゴでないが、どうもそういうイミがあるようだ。もとは、
アメリカガッシュウコクのひとをさすことばだ。フリョウショウネンが、そのかみをダッシ
ョクとかちゃいろにそめるさまが、ガッシュウコクのひとににていたから、そういういいか
たになったのかもしれない。しかし、かみをそめても、かおをみればトウヨウジンだ。だか
86
ら、ヤンキーとはじめのおとにアクセントをつけるのでなく、ヤンキーとあとのおとにアク
セントをつけるのかもしれない。

 

ハチジュウハチ

 

 このふゆになってゆずがまだのこっている。ことしはあまりゆずすい(ゆずのはいったみ
ず[●ア ニジュウハチ])をのまなかったからだが。またおふくろがきってしまったために、
とげがふえた。ヨネンまえにきられてとげができて、すこしはよくなってきたのにである。
もうそろそろシュウカクしないといけないが、なかなかつかいきれないのでゆっくりかんが
えている。グレープフルーツにサトウをかけてたべたりするが、そうやってたべたりしよう
とおもう。グレープフルーツにはサトウだけでなく、ウイスキーやブランデーをかけるのが
わたしのオヤジフウだった。

 

ハチジュウキュウ
87
 わたしはオンガクをつくったりする。もうガッキやサッキョクをはじめてニジュウゴネン
イジョウになる。バンドブームにショクハツされてはじめた。ただそれでセイコウすること
はむずかしいこともわかっていた。だからほどほどにやっていたカンがある。
ただ、いいキョクをつくればうれるのだろうともおもっていた。だからプロのシィディの
ハンブンのねだんで、いいキョクをテイキョウすれば、あるテイドうれるんだろうとおもっ
ていた。ただそれはあまいかんがえだときづいた。それはシィディのジッセイカカク(テイ
カではない。)をケイサンしたからわかった。
 イチニチにイッカイきくシィディがあるとする。それはネンカンでサンビャクロクジュウ
ゴカイきかれるケイサンになる。イッポウ、イチネンでイッカイきかれるシィディもあるだ
ろう(ゴネンにイッカイきくようなシィディはケイサンからはぶく。)。それはネンカンでイ
ッカイきかれる。そのイチニチイッカイきかれるシィディをジュウマイもっていたとする。
そうするとイチマイでサンビャクロクジュウゴカイきくから、ジュウマイでサンゼンロッピ
ャクゴジュッカイきくことになる。イッポウイッカイきくシィディをヒャクヨンジュウマイ
もっていたら、イチかけるヒャクヨンジュウでヒャクヨンジュッカイきくことになる。
 ここでシィディのねだんをイチマイサンゼンエンとカテイする。イチニチにイッカイきく
88
シィディはネンカンサンビャクロクジュウゴカイで、これをサンゼンエンとすると、それが
ジュウマイあるからサンマンエンとなる。イッポウイチネンでイッカイきくシィディはヒャ
クヨンジュウマイあつめてもサンビャクロクジュウゴカイにタッしない。それをイチマイブ
ンケイサンするとサンビャクロクジュウゴがサンゼンだから、イチマイはハッテンニイチエ
ンになる。これがヒャクヨンジュウマイだからセンヒャクヨンジュウキュウエン。
 これをヘイキンすると、サンマンたすセンヒャクヨンジュウキュウわるヒャクゴジュウで
イチマイあたりニヒャクナナテンロクロクエンとなる。つまり、シィディのあるソウテイで
のジッセイカカクはヘイキンテキなものでイチマイニヒャクジュウエンとなる。だから、プ
ロのハンガク(センゴヒャクエン)にカカクをセッテイすれば うれるかというとそういうわ
けではないということがわかる。なにしろプロ(シィディをだしているのがプロばかりとし
て)のヘイキンテキなシィディのねだんがニヒャクジュウエンなのだ。
 だからまぁまぁのかんじだとニヒャクジュウエンでうりだすのがただしいだろう。そのニ
ヒャクジュウエンでシィディをうってリエキをだせるのが「プロ」ということになる。フツ
ウそうはできないだろう。でもそれができないのだったら、シュミでオンガクをやるにとど
めておいたホウがいい。そういうことだ。
89

 

キュウジュウ

 

 もうはるだ。はるイチバンがふいたころに、ショクブツのめがではじめたようだ。なえな
どをかってくるキセツになったということだ。ことしはなにをうえるかとかんがえる。いま、
ハクサイとキャベツとブロッコリーとダイコンをそだてているので、あまりはたけにあきが
ない。じゃがいもにしようかとおもう。ハクサイなどはキョネンのあきうえたが、まだシュ
ウカクにいたっていない。ヒリョウをやってソクセイサイバイすれば、はやくとれるのかも
しれないが、そのままにするのではジカンがかかるのかもしれない。

 

キュウジュウイチ

 

 レンタルビデオやがある。イゼンはコジンシホンのレンタルビデオやがあったが、おおて
のビデオやがどうやらそういうみせをクチクしたようである。うちのちかくにもイッケンお
おてのみせがある。コジンケイエイのみせにはない しなぞろえをしているかもしれない。た
だサイキンはあまりもうかっているようにはおもえない。イッカイかりてサンビャクエンほ
90
どだ。それでケッコウなしなぞろえだと どうしてもイッカイしか かりてのつかないものも
でてくる。ビデオについてはあまりくわしくないが、シィディなんかをみても、イッカイも
かりてがつかないようなものがあったりする。それでどうやってかせぐのだろうとおもう。
しかし、そのイッポウでシィディやビデオのうりばもあったりする。なるほど。タブンイ
チづけテキには、「レンタル」はキャクをよぶためのもので、そういううりばでシュウエキを
だすのだとおもう。だから、「レンタル」ばかりをリヨウするキャクだけだと やがてそのみ
せはきびしいことにおいこまれる。サイアクつぶれてしまうだろう。そうすると、ディブイ
ディやシィディのレンタルはできなくなってしまう。それでこまるというのなら、みせにか
せがせてエイギョウをつづけてもらわなければならない。カカクがやすくなってあるケイエ
イタイがレッカしてしまうとこまるのはユーザーなのだ。

 

キュウジュウニ

 

 わたしがこどものころはゲームセンターによくいった。いえにゲームキもあったが、それ
でもよくそういうところにいってゲームをやっていた。ところがサイキンそういうみせがす
91
くなくなった。うちのちかくにあったニケンがヘイテンした。なぜかというとキャクがいな
かったのだろう。サイキンのこどもは、そういうところであそばないらしい。まぁかならず
しもこどもは そういうところであそぶわけでないが、そういうこどもやおとながすくなくな
ったのだろう。つまり、むかしのこどもより、いまのこどものホウがまじめだといえるかも
しれない。ただほかになににおかねをつかうのだともおもう。ホンやマンガがうれていると
もきかないし。やっぱりゲームキなのだろうか。

 

キュウジュウサン

 

 わたしがショウガッコウにいたころに、ピアノがひけるドウキュウセイがいた。ちいさい
ころからならっていたのだろう。タブンいえにピアノがあったのだろう。そこそこのかねが
ないとむずかしいだろう。そういうわたしのいえには、オルガンがあった。シンセキからも
らったのだろう。ひきたいとはおもったが、あるうたをひこうとしてザセツした。どのケン
が「ド」だかわからなかった。かといってでたらめにひくわけにいかないので、それからそ
のオルガンは、おおきなおきものにかわってしまった。
92
 やがてそれはバンドエンソウでつかうようになるのだが、そのあととりまわしのラクな う
すがたのキーボードが そのやくをうばってしまった。いまかんがえると おとはよかったと
おもう。あたらしくかったキーボードは いろいろなガッキのおとを テイオンシツでロクオ
ンしてサイセイするしくみだから、ほんもののおとにはかなわない。キロクブヒンのシンポ
で、いまそういうものをつくると、よりほんものにちかいおとがだせるようにもできるとお
もうが、まだまだであろう。

 

キュウジュウヨン

 

 ゆずをサトウにつけてたべてみた。おおきさがグレープフルーツよりちいさいので、グレ
ープフルーツのようなたべごたえはない。ゴコぐらいたべれば まぁたべたきはするかもしれ
ない。コンカイはハチジュッコちかくできたので、まぁまぁたべられるだろう。ゆずすい(●
ア ニジュウハチ、●ハチジュウハチ)にしただけでは つぎのふゆまでにたべきれるかわか
らない。いいカゲンにシュウカクしないとなのだが、たべるメドがつかなかったので そのま
まにしておいた。でもそうやってたべることができるので、いただこうかとおもっている。
93

 

キュウジュウゴ

 

 「ヤンキー(●ハチジュウなな)」というのはニューヨークで、オランダケイジュウミンが、
エイコクケイジュウミンをよんだゴといわれる。そういうゴがニホンにもはいってきたのだ
ろう。さらにチュウゴクジンが ニホンジンのことを「トンヤンキー(トウヨウのおに)」と
よんだともいわれる。ひがしの「ヤンキー」ともとれるかもしれない。いまなんかもニホン
ジンは、ガッシュウコクのひとと まぁまぁうまくやっているから ひがしのヤンキーという
のもつうじるきがする。

 

キュウジュウロク

 

 サイキンは「ワコンヨウサイ」という。そのことばもあまりきかれなくなったかもしれな
い。ニホンのセイシンと セイヨウのガクモンというイミである。たしかにセイヨウのガクモ
ンにエイキョウされていたりする。しかし、そのまえは「ワコンカンサイ」といっていた。
ニホンのセイシンと チュウゴクのガクモンというイミである。ときがかわるとそうかわった
94
りもするのだろう。それでもまだカンジのガクシュウをするから 「ワコンカンサイ」なのだ
ろう。わかいひとなら「ワコンカンギ(ギジュツ)」がいいかもしれない。チュウゴクではし
ばらくセイゾウギョウがカッパツだったから、チュウゴクジンにまなべるギジュツがあるだ
ろうとおもうのである。

 

キュウジュウシチ

 

 はたらいていてにするおかねをなんというか。キュウリョウとかいったりする。ケイエイ
がわからいえば、チンギンである。それをサイキンはチンキンとかく。「キン」はあのこがね
いろの「キン」である。しかし、むかしは「チンギン」と「ギン」とかいていた。だからは
たらいても「キン」はもらえないわけである。なぜ「ギン」だったのが、「キン」になったの
か。それだけタイグウがよくなっただろうということだ。もしくは、タイグウがよくなった
とおもわせられているということだ。ロウドウシャにとって、「チンキン」とは あかるいカ
イゼンだったろうか。それともただのレトリックだったろうか。
95

 

キュウジュウハチ

 

 えどバクフがサイガイのときなどに リンジにシシュツするこめを「とりこしマイ」といっ
た。「とりこしグロウ」といえば、あらぬであろうことをいろいろとシンパイすることである。
つまり「とりこし」はないにこしたことはないが、そういうクロウをしていると。そりゃそ
うだ。サイガイはこまるというわけである。

 

キュウジュウキュウ

 

 サンガツは、トウキョウダイクウシュウがあったひがあったようだ。もうななジュウネン
はたつ。おふくろもトウジこどもだったようで、そういうはなしもする。しかし、ソカイし
ていたようで、チョクセツクウバクはうけなかったという。たんぼにおおきなあながあいて
いたことをはなしてくれた。また、いえもやけなかったらしい。オヤジもソカイしていたと
いう。しかし、いえがやけたのだろうか、センゴ、シンセキをたよってホッカイドウにいっ
たようだ。オヤジは、やけのはらのはなしをしてくれた。なんでもクウバクでトウキョウは
96
やけ、えらくとおくまでみえたらしい。ななジュウネンまえはソカイすることもできたろう
が、いまでは、いなかにエンのあるひとはへってきているのではないか。いまそういうめに
あったら、おとなもいなかににげるんじゃないかとおもう。やっぱりノウサンブツがないと
きびしい。それはとにかく、クウバクされるようになったらほぼまけである。おふくろがい
えのわきにあったボウクウゴウのはなしをしてくれた。なんでもチョクゲキされたらもたな
いとか。そんなテイだったらしい。

 

ヒャク

 

 ゆずがホウサクだったのでジュースをつくってみた。ニホンゴではカジュウだ。シチ、ハ
ッコをしぼってヨウキにためた。ジュッシーシーくらいになったろうか。ショウシンショウ
メイのゆずカジュウだ。すっぱいが、グレープフルーツジュースもそうだからのめなくはな
い。サトウをちょっとまぜたがまぁおいしい。
 しかしである。イッポンのきになったゆずをゼンブしぼったとしてもイチリットルになら
ないだろう。シチ、ハッコでジュッシーシーだから、ななジュウ、ハチジュッコでようやく
97
ヒャクシーシーだ。それをかんがえると、オレンジジュースなんていうのは、えらくゼイタ
クだ。ゆずとはおおきさがちがうが、イッポンのきでイチリットルとかとれるのだろう。そ
れをニヒャクエンくらいでかわれるじゃとてもかなわないとおもう。イチネンでイッポンの
オレンジのきごとにニヒャクエンというわけである。セイサンシャはタイヘンだとおもう。
わたしがこどものころに よくオヤジにノウカのひとにカンシャしてたべなさいといわれた。
まったくそのとおりだとおもう。
98

 

つづきは、

https://note.mu/ryusaku/n/n4f3f2d9bf4ca

でご参照下さい。

 

全文読めます(pdf、有料)。

https://note.mu/ryusaku/m/m6f0e0ce56b85


この本の内容は以上です。


読者登録

eizo1さんの更新情報・新作情報をメールで受取りますか?(読者登録について