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日本国憲法は「占領基本法」だ

    日本国憲法は「占領基本法」だ

 

 戦後体制や戦後民主主義と呼ばれている太平洋戦争後の日本の国家体制は、日本政府による安全保障や国家の非常事態への対処といったものを全く無視して作られたものである。マッカーサーの日本に対する占領政策の最大の目的は、日本をアメリカの軍事的な脅威にならない国にすることだった。そのためマッカーサーは、非軍事化の名の下に帝国陸海軍の廃止、日本国憲法の制定など、日本を軍事的に無力化する政策を次々と実行していった。
 マッカーサーによる日本を軍事的に無力化する政策の中でも、とりわけ重大なものが日本国憲法の制定である。日本国憲法制定の本来の目的は、日本の非武装化である。
 日本国憲法の中でも、戦争放棄を定めた憲法九条には様々な解釈がある。
 たとえば日本政府の解釈によれば、憲法九条は、いわゆる侵略戦争のみを禁じたものであって、自衛権の行使と、自衛のために防衛力を保持することまで禁じたものではないと言うことになっている。従って、自衛の範囲ならば、防衛力の保持と武力行使は認められると言うのである。日本政府は、この憲法解釈に基づいて自衛隊の保持を正当化している。日本政府の憲法解釈の根拠は、「自衛権は国際法上あらゆる独立国家に認められている権利である。従って、日本が独立国家である以上、日本国憲法は、自衛のために必要最小限度の実力組織を保持することを否定してはいない。」という考えである。しかし、もし日本国憲法が日本政府の言うように、自衛隊のような戦力の保持と交戦権を認めているとすれば、日本国憲法九条二項の、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」という条文を一体どう解釈するのか。九条二項は、明らかに戦力の保持と自衛権の行使を含めたあらゆる武力行使を否定するものである。実際、1946年(昭和21年)6月、日本国憲法の改正草案を審議する衆議院本会議の中で吉田茂総理大臣は、「憲法九条二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した。」と述べている。つまり、日本国憲法は、本来、日本の非武装化を目的にして作られたものであり、日本政府による国家の防衛は否定されていると考えざるを得ないのである。自衛権や自衛隊は、あくまで解釈改憲によって認められているものである。つまり、日本国憲法九条二項は、解釈改憲によって事実上削除されているのである。
 また、平和主義者の中には、日本国憲法九条を、武力を使わない安全保障を目指すものと解釈する人たちがいる。この解釈では、マッカーサーは、武力を使わない安全保障が可能だと考えていたことになる。しかし、朝鮮戦争当時のマッカーサーの行動を見れば、マッカーサーは、武力を使わない安全保障なるものが可能だとは全く考えていなかったことがわかるのである。1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮が韓国に対して武力攻撃を開始して朝鮮戦争が勃発した。これに対して、アメリカのトルーマン大統領は、極東アメリカ軍に対して出動を命令し、朝鮮半島におけるアメリカ軍の軍事行動の指揮権をマッカーサーに与えた。更に、国連の安全保障理事会の決議に基づきアメリカを主力とする国連軍が組織されたことを受け、トルーマン大統領はマッカーサーを国連軍総司令官に任命した。こうして朝鮮戦争におけるアメリカ軍と国連軍の最高責任者となったマッカーサーは、北朝鮮軍を韓国から撃退するため、アメリカを主力とする国連軍を朝鮮半島に派遣したのである。このマッカーサーの行動は、マッカーサーに、武力を使わなくても安全保障が可能だなどという考えは微塵も無かったことを示しているのである。マッカーサーは、朝鮮戦争の最中、中国の満州に対する核兵器の使用を含めた攻撃の必要性を主張したため、戦争の拡大を危惧したトルーマン大統領によって解任された人物である。つまり、マッカーサーは、自分の地位を失うような結果になっても上官たる大統領に対して自分の考えを主張できる人物であり、大統領の命令に唯々諾々として従うような人物ではなかったのである。従って、もし、マッカーサーが、本気で武力を使わない安全保障なるものが可能だと考えていたなら、トルーマン大統領に対して、武力を使わないで朝鮮戦争を収拾すべきだと主張したはずである。つまり、マッカーサーが北朝鮮軍を韓国から撃退するためにアメリカ軍を朝鮮半島に派遣したのは、アメリカ政府の決定であると同時にマッカーサー自身の意志でもあったのである。このことから、マッカーサーが、武力には武力で対抗するしかないという考えの持ち主であったことは明らかである。従ってマッカーサーが、日本国憲法に武力を使わない安全保障なるものを記したとは到底考えられないのである。もし、マッカーサーが武力を使わない安全保障なるものを日本国憲法に記したのなら、日本国憲法制定の中心人物であったマッカーサー自身が、その手本を日本政府や国民に見せなければ筋が通らない。しかし、実際は、マッカーサーが武力を使わないで朝鮮戦争を収拾しようとした形跡など全く無いのである。これでは、武力を使わない安全保障と言われても、日本政府も国民も何をしてよいのか全くわからない。また、一部の平和主義者は、武力を使わない安全保障の具体的な方法は、日本政府や国民が自分たちで考えて見つけるしかないと言っているが、それは無理なことである。なぜなら、武力を使わない安全保障の方法が見つかるまでの間の安全保障をどうするのかという問題があるからである。この問題ついて日本国憲法には何も記されていないのである。従って、日本国憲法九条は、あくまで日本の非武装化を目指したものであり、武力を使わない安全保障なるものを目指したものではないと言えるのである。
 日本の非武装化を目指し、日本政府による国家の防衛を否定する憲法が制定された背景には、当時の日本が置かれていた状況や国際政治もあったと考えられる。
 日本国憲法に戦争の放棄が記された背景には、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)当時の日本がアメリカの軍事占領下にあったということも考えられる。日本国憲法九条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。この日本国憲法九条に記された内容は、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)当時の日本が置かれていた状況そのものであるとも言える。当時の日本は、アメリカによる占領政策によって帝国陸海軍が解体され武力を全く持っていなかったため、事実上戦争を放棄していた。また、アメリカ軍によって占領され、国家の独立を失っているため、交戦権も無かった。結局、日本の防衛は、日本を軍事占領しているアメリカ軍が責任を負うしかなかった。従って、日本国憲法が作られた当時の日本では、日本の防衛は日本政府の役割ではなかったのである。
 また、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)は、米ソ冷戦が激化する前であり、まだ共産主義勢力の脅威が深刻な問題にはなっていなかったため、ほとんど誰も共産主義勢力が日本の安全保障の脅威だという認識をしていなかった。そのため、当時の日本では、国家の安全を脅かすようなものが存在するという認識が無かったのである。
 これらの理由によって、マッカーサーが日本国憲法を作るにあたり、日本政府による国家の防衛を考える必要が無かったのである。
 つまり、日本国憲法は、日本がアメリカの軍事占領下にあり、日本の防衛は日本を軍事占領しているアメリカが行うという前提で作られているのである。しかし、本来、憲法は、国家が独立していることを前提に作られるものであり、外国軍によって軍事占領され、国家の独立を失っていることを前提に作られる憲法などありえない。従って、日本国憲法は、「占領基本法」とでも呼ぶべきものであり、憲法と呼べるような代物ではないのである。
 日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)の時点では、日本がアメリカの軍事占領下にあったため、日本政府が武力を持たなくても安全保障上の問題は無かった。しかし、アメリカ軍による軍事占領が終わった後の日本の防衛をマッカーサーは一体どうするつもりだったのか。一説には、マッカーサーは、日本の安全保障を国連に委ねるつもりだったとも言われている。確かに、国連の力によって国際秩序の維持や国際紛争の解決ができるのならば、日本が武力を行使することも保持することも必要は無い。しかし、国連の中枢である安全保障理事会では、アメリカやソビエトなど五ヶ国の常任理事国に安全保障理事会の決定に対する拒否権があるため、常任理事国五ヶ国が一致団結しなければ、国連は安全保障上の権限を行使できないのである。そのため、アメリカとソビエトの間の冷戦が激化した結果、国連の安全保障理事会がアメリカとソビエトの対立の場となってしまったため、国連は国際秩序の維持や国際紛争の解決をすることができなくなってしまった。その結果、日本の防衛は、アメリカの武力に委ねるしかなくなってしまったのである。


冷戦によって守られていた国際秩序

第四章 超大国の破綻が戦後体制を消滅させる

 

 

       冷戦によって守られていた国際秩序

 

 ある言論人が、ソビエトの崩壊によってアメリカが唯一の超大国になったことを、「アメリカは、冷戦という天下分け目の戦いに勝利して天下を取った。」などと言ったことがあった。しかし、「天下分け目の戦い」に勝利しただけで、直ちに「天下を取る」ことができるのだろうか。
 たとえば日本の歴史上、天下分け目の戦いと言えば、関ヶ原の合戦である。一般的には徳川家康は、関ヶ原の合戦に勝利して徳川幕藩体制の基礎を固めたとされている。確かに結果としてそうなったのは事実である。しかし、1600年(慶長5年)に徳川家康が関ヶ原で勝利してから、完全な覇権を確立した大坂夏の陣まで、実に十五年の年月を要したという事実を忘れるべきではない。徳川家康が関ヶ原の勝者となった時点では、依然として天下の情勢は流動的だった。諸大名は、次の戦争に備えて城の改築など防衛力の整備に躍起になっていた。そして加藤清正や福島正則のような、大坂城の豊臣秀頼を主君と慕う豊臣家恩顧の大名も存在していた。家康は1603年(慶長8年)に征夷大将軍に就任してから、たったの二年余りで将軍職を息子の秀忠に譲ってしまう。これは、征夷大将軍の職が徳川家だけのものであり、徳川家が天下の覇者であるということを諸大名に知らしめるための措置であるが、これは裏を返せば、当時の諸大名は、必ずしも徳川家が天下の覇者になったとは思っていなかったということである。関ヶ原の合戦という「天下分け目の戦い」に勝利した徳川家康にとっても、完全に「天下を取る」ことは容易なことではなかったのである。
 このように、「天下分け目の戦い」に勝利すれば、それだけで直ちに覇権が確立されるわけではない。このことは一国の秩序のみならず、世界の秩序についても同じことが言えるのである。確かに第二次世界大戦という「天下分け目の戦い」に勝利した後のアメリカは、世界の覇者となり、超大国として国際秩序を維持することになった。しかしアメリカは、第一次世界大戦という「天下分け目の戦い」の戦勝国でもあったが、この時は世界の覇者になることに失敗してしまったのである。
 第一次世界大戦を連合国側の勝利に導いたアメリカのウィルソン大統領は、新たな国際秩序を作り、アメリカの覇権体制を打ち立てようとした。そこでウィルソン大統領は、第一次世界大戦中の1918年1月に国際連盟の設立を提言した。ウィルソン大統領が考えた戦略は、国際機関を設立し、その主導権をアメリカが握ることによって国際政治の主導権を確立するというものだった。やがて1919年に成立したヴェルサイユ条約によって国際連盟の設立が決定され、1920年1月に発足した。ところがアメリカは、議会や国民世論の反対によって国際連盟に加盟できなくなってしまった。つまり、ウィルソン大統領は、第一次世界大戦という「天下分け目の戦い」に勝利しながら「天下を取る」ことができなかったのである。このような事態になったのは、第二次世界大戦以前のアメリカ大統領が、第二次世界大戦後の大統領のような議会や世論を圧倒するような強力なカリスマを持っていなかったため、軍事・外交政策を議会や世論に認めさせることが困難だったからである。ウィルソン大統領は、第一次世界大戦をアメリカの勝利に導くことには成功したが、強力な指導力やカリスマには欠けていたため、第二次世界大戦を勝利に導いたフランクリン・ルーズベルト大統領のように大統領の役職が持つカリスマの力を強化することができなかったのである。
 アメリカが国際連盟に加盟できなくなったため、アメリカ抜きで国際秩序を維持することになった結果、第一次世界大戦後の国際秩序は極めて脆弱なものになってしまった。これが結果として、第二次世界大戦勃発の一因になってしまったのである。このように、世界大戦に勝利しただけでは、必ずしも覇権国家になれるとは限らないのである。
 第二次世界大戦後は、世界的な規模の戦争は起きていない。それは言うまでもなく、アメリカ主導の国際秩序が維持されて来たからである。つまりアメリカは、第二次世界大戦という「天下分け目の戦い」に勝利しただけではなく、「天下を取る」ことにも成功したのである。
 国際秩序を維持するためには、そのための仕組みが必要である。第二次世界大戦後の国際秩序を守ってきたのは、NATO(北大西洋条約機構)と日米安全保障体制という二つのアメリカ主導の軍事同盟である。しかし、この二つの軍事同盟が成立するためには、超大国ソビエトの脅威が必要だった。
 ソビエトの超大国の地位が確立されたのがヤルタ会談である。
 1945年2月にアメリカの大統領ルーズベルト、イギリスの首相チャーチル、そしてソビエトの独裁者スターリンが、ソビエト領内のヤルタで第二次世界大戦後の国際秩序について話し合った。一般的には、ヤルタ会談では、ドイツの分割占領、ポーランドの国境線の変更、国際機関としての国際連合の設立、そしてソビエトの対日参戦などが決定されたと言われている。しかし、それ以上に重要なことは、この会談でスターリンがルーズベルト大統領と全く対等に渉り合った結果、ソビエトがアメリカと対等な政治的地位を確立したということである。
 本来、ソビエトという国は、アメリカと並ぶような超大国になる力を持った国ではなかった。ソビエトは、アメリカに次ぐ世界第二位の経済力を持つ国になったこともある。しかし、アメリカに次ぐ経済力と言っても、ヤルタ会談が行われた頃のソビエトの経済力は、アメリカの二割程度だった。しかもソビエトは、第二次世界大戦中、主要な工業地帯がナチスドイツに占領されたり破壊されたりしたため、兵器や軍事物資を十分に生産することができなかった。ソビエトがナチスドイツと戦えたのは、アメリカやイギリスから兵器や軍事物資の援助を受けていたからである。このような国が超大国の地位を獲得できた理由の一つには、ソビエトがナチスドイツとの戦いで功績を挙げたということもある。しかし、ソビエトが超大国の地位を獲得できた最大の理由は、ヤルタ会談でスターリンがアメリカのルーズベルト大統領と対等に渉り合うことができたからである。
 ルーズベルト大統領にとってヤルタ会談の最大の目的は、スターリンからソビエトの対日参戦の約束を取り付けることだった。ヤルタ会談が行われた頃は、第二次世界大戦が終わりに近づいていたとは言え、アメリカは依然として日本との戦いに大きな犠牲を強いられて苦戦していた。この時、まだソビエトと日本の間では、戦闘が始まってはいなかった。そこで、アメリカの犠牲を減らすためには、どうしてもソビエトの対日参戦が必要だった。一方、スターリンは、このアメリカの苦境を見抜いていた。しかもルーズベルト大統領は、ソビエトをナチスドイツに代わる新たな脅威と考えていたチャーチル首相とは違い、スターリンと共産主義体制を甘く見ていたため、スターリンやソビエトと協調していけると信じていた。これらの理由からルーズベルト大統領はソビエトとの友好関係を考え、スターリンとの交渉で譲歩を重ねたのである。このためスターリンは、ルーズベルト大統領と対等に渉り合うことができたのである。つまりルーズベルト大統領は、スターリンに手玉に取られていたのである。その結果、東ヨーロッパなどの多くの地域がソビエトの支配下に入ることになったのである。
 こうしてスターリンは、ソビエトの超大国の地位を獲得したのである。その結果、政治力はあっても経済力の欠ける奇怪な超大国ソビエトができあがってしまったのである。そして、第二次世界大戦以降、ソビエトは、超大国としての政治力を背景に、世界中に共産主義を拡大していくことになるのである。
 ところが、ルーズベルト大統領の亡き後、アメリカ大統領に就任したトルーマンはルーズベルトとは違い、スターリンと共産主義体制を甘く見てはいなかった。そのためトルーマン大統領は、ソビエトに対して常に強硬な外交政策を行った。1948年に起きたソビエトによるベルリン封鎖に対して空輸で対抗して、ソビエトに一歩も譲らなかったのがよい例である。トルーマン大統領は、このソビエトという奇怪な超大国を利用することによって、アメリカが世界を支配する体制を作り上げたのである。
 トルーマン大統領は、1947年3月12日にアメリカの議会で行った演説の中で、ソビエト封じ込めのための外交方針であるトルーマン・ドクトリンを発表した。この中でトルーマン大統領は、共産主義体制は全体主義体制であるとして、次のように述べた。「圧政に縛られない諸国民の平和的発展を保障する」ことが、アメリカ外交の目的であると述べた上で、「全体主義体制を強制しようとする侵略行動に抵抗して自由な諸制度と国家の独立を保持しようとする自由国民を我々が進んで助けねば、我々の目的は実現できまい。」と述べ、共産主義の脅威にさらされているギリシャとトルコに対する経済支援の必要性を議会に訴えた。このトルーマン・ドクトリンは、その後のアメリカのソビエトに対する封じ込め政策の基本理念となった。
 トルーマン・ドクトリンが表明される以前のアメリカ国民は、ソビエトや共産主義に対抗するために経済的な負担をしたり海外へアメリカ兵を送ったりすることには消極的だった。ところがトルーマン大統領がトルーマン・ドクトリンによって国家としての明確な外交理念をアメリカ国民に示した結果、アメリカ国民の意識は一変した。湾岸戦争の時、ブッシュ大統領の決断がアメリカの世論をイラク攻撃への全面的な支持に変えたのと同じように、トルーマン大統領の断固たる意志表明がアメリカ国民のソビエトや共産主義に対する対抗意識を盛り上げることになり、対ソビエト封じ込め戦略に対する支持を得ることができたのである。その結果、「共産主義との戦い」が、アメリカの外交政策の基本理念となったのである。
 こうしてアメリカ国民のソビエト封じ込め政策への支持を得ることに成功したトルーマン大統領は、ソビエトの脅威に直面する自由主義国家を経済的・軍事的に支援することによってソビエトの膨張主義を封じ込める戦略を世界中で推進していった。トルーマン政権の世界戦略は、ソビエトの脅威から同盟国の安全を守ることを理由に、自由主義諸国をアメリカの経済体制や軍事的支配下に組み込んでしまうことである。この戦略に基づき、西ヨーロッパに対しては、経済的には経済復興を名目にマーシャル・プランを実行し、軍事的にはアメリカ主導の軍事同盟であるNATO(北大西洋条約機構)の結成が行われた。これによってアメリカの西ヨーロッパに対する支配体制が確立された。またアメリカは、日本に対しても経済復興のための援助を行い、日米安全保障条約を締結した。こうして、「共産主義との戦い」を理念としたアメリカ主導の国際秩序が確立されたのである。
 一方のソビエトは、アメリカに対抗してCOMECON(経済相互援助会議)とソビエト主導の軍事同盟であるワルシャワ条約機構を設立した。こうしてソビエトも東ヨーロッパの共産圏における支配体制を確立したのである。
 ソビエトは、見せかけの上では恐ろしい軍事超大国である。アメリカは、この見せかけの軍事超大国ソビエトを利用することによって、世界にアメリカの覇権を確立したのである。一方のソビエトは、自国の力がアメリカに劣ることを知っていたため、うかつに、アメリカと、その同盟国に手出しができなかった。ソビエトは、たまにアメリカに挑戦するような行動を起こしても、ベルリン封鎖やキューバ危機の時のように、アメリカが強い態度に出れば引っ込んでしまう。このようして第二次世界大戦後の国際秩序は維持されて来たのである。
 ルーズベルト大統領は、ヤルタ会談でソビエトに超大国の地位を与えてしまうという失敗を犯したが、トルーマン大統領は、その超大国となったソビエトを利用することによってアメリカ主導の国際秩序を確立したのである。これは、トルーマン大統領の優れた外交能力の賜物と言える。
 こうしてアメリカとソビエトを盟主とした二つの勢力が世界を舞台に睨み合う国際秩序が成立したのである。この国際秩序を維持するためには、米ソ両超大国間の対立と緊張が必要だった。それが冷戦である。つまり、米ソ両超大国にとっての冷戦とは、自国の超大国の地位を守るための手段だったと言えるのである。米ソ両超大国は、冷戦という手段を使って第二次世界大戦後の世界を共同統治していたとも言えるのである。このようにしてアメリカとソビエトの「天下」は維持されていたのである。つまり、アメリカとソビエトは、冷戦のライバル同士だったのと同時に、共に第二次世界大戦後の国際秩序を主導する仲間同士でもあったと言えるである。
 ソビエトの崩壊の結果、冷戦は終わったが、ロシアや中国や北朝鮮と言った新たな軍事的脅威が登場したため、NATOと日米安全保障体制は、今の所、存続している。しかし、今のロシアは崩壊前のソビエトのような超大国ではないため、その脅威の程度はソビエトと比べると大幅に低い。そのため、アメリカは、軍事的脅威から同盟国を守ることを理由にして西ヨーロッパ諸国をアメリカの主導する国際秩序に組み込むことが困難になってしまった。その結果、西ヨーロッパ諸国におけるアメリカの超大国としての政治力が低下することになってしまったのである。つまり、ソビエトの崩壊は、アメリカの「天下」を維持するためには不都合なことだったのである。
 アメリカと西ヨーロッパ諸国と日本にとって共通の軍事的脅威であったソビエトが崩壊してもNATOと日米安全保障体制が無くならない理由は、ロシアや中国や北朝鮮と言った新たな軍事的脅威が登場したということだけではない。NATOと日米安全保障体制には、軍事同盟以外の存在理由があるからである。それは、第二次世界大戦の戦勝五ヶ国であるアメリカ、イギリス、フランス、中国、ロシアにとって共通の敵国であるドイツと日本を軍事的に封じ込めることである。戦勝五ヶ国にとっては、ドイツと日本は今でも潜在的な軍事的脅威である。そのため、たとえNATOと日米安全保障体制の軍事同盟としての意味が無くなることがあっても、ドイツと日本を軍事的に封じ込める手段としては、依然として意味を持ち続けているのである。


なぜ日本の戦争が侵略と言われるのか

   なぜ日本の戦争が侵略と言われるのか

 

 ヤルタ会談に参加したアメリカ、ソビエト、イギリスの三国は、第二次世界大戦に勝利して国際秩序を確立した結果、国際秩序を維持する強力な政治力を持つことになった。政治力とは、国家権力や武力などの力の行使を正当化する力のことである。そして、国際社会において国際秩序を維持できるよう強力な政治力を持った国のことを大国や超大国と言うのである。
 ただし、第二次世界大戦の戦勝国は、アメリカ、ソビエト、イギリスにフランスと中国を加えて五ヶ国ということになっているが、フランスと中国は、第二次世界大戦の勝利に対する貢献度が低かったため、国際秩序を維持できるよう強力な政治力を持つことはできなかった。従って、フランスと中国は、本来の意味での大国とは言えないのである。
 また、第二次世界大戦が終わった時点では、アメリカ、ソビエト、イギリスの三国が大国であったが、イギリスは、第二次世界大戦が終わった直後からインド、パキスタン、ビルマといった植民地が次々と独立したため、大英帝国が崩壊して大国としての政治力を失ってしまった。更に、1991年にソビエトが崩壊したため、ロシアも大国としての政治力を失ってしまった。その結果、国際社会における大国と言えるような国は、アメリカ一国だけになってしまったのである。
 武力衝突や領土紛争などの、国際社会で起きた紛争を解決するためには、アメリカのような大国と呼ばれる国の政治力が必要である。国内で起きた紛争なら、法の手続きに従い権力が行使されれば問題は解決するが、国際社会で起きた紛争の場合は、そうはいかないのである。なぜなら、国際社会で起きた紛争を解決しようにも、国際社会には国内法のような法律が無いからである。国際法というものが存在するが、これは紳士協定のようなもので、これを破ったからと言って逮捕されるわけでも罰が与えられるわけでもない。しかし、これでは国際社会の秩序は成り立たない。そこで国際社会では、大国と呼ばれる強力な政治力を持った国によって、国際紛争の解決がなされることになる。
 領土の併合や戦争などをする場合も、たとえそれが、その国にとって、いかに正当な行為であっても、大国が主導する国際社会が正当と認めなければ、国際社会から孤立したり侵略行為のレッテルを貼られたりする場合がある。そうならないためには、大国の承認が必要になるのである。
 たとえば、1990年に勃発した湾岸危機の時、イラクはクウェートを軍事占領して併合してしまったが、これはイラクの立場からすれば、本来クウェートはイラクの領土なのだから、併合は正当な行為ということになる。ところが、イラクのサダム・フセイン大統領は、大国アメリカの承認を経ないでクウェートの併合をしてしまったため、アメリカを頂点とする国際社会から侵略行為と決めつけられ、世界から孤立して、湾岸戦争でアメリカを始めとした多国籍軍の攻撃を受けるはめになってしまったのである。
 更に、大国の承認が無ければ、実効支配している自国の領土すら、保有することを正当化できなくなることもある。本来なら自国の領土であるはずの地域が、大国の合意によって他国の領土にされてしまったことも実際にあったのである。たとえばドイツは、第二次世界大戦に敗れた時、東部の東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンという三つの地域をアメリカ、イギリス、ソビエトの合意に従ってソビエトやポーランドに割譲させられてしまった。東プロイセン、ポンメルン、シュレジエンは、十八世紀の後半までには、後にドイツを統一するプロイセン王国の領土となっており、日本人の感覚からすればドイツ固有の領土である。これをドイツが他国へ割譲させられたということは、日本が北海道を他国へ割譲させられたようなものである。また日本も、ヤルタ会談でのルーズベルトとスターリンの合意によって、千島列島や南樺太を放棄させられてしまった。一度、大国の合意によって領土を所有する国が変更され、国際社会が他国の領土と認めてしまったら、その国の国民にとっては自国の固有の領土であっても、大国の主導する国際社会にとっては、他国の領土ということになってしまうのである。そして、大国の合意によって奪われた領土を大国の承認も無く武力によって奪い返そうとすると、自国民にとっては自衛戦争であっても、大国の主導する国際社会からは侵略行為と見なされてしまうのである。その結果、その国は世界から孤立してしまうのである。従って、今の日本も、うかうかしていると、千島列島どころか北海道や日本そのものまでが日本人や日本政府の知らぬ間に、どこかの国の領土にされてしまう可能性もあるのである。こういったことを防ぐためには、普段から、北は北方四島や北海道から南は沖縄に至る領土が日本のものであることをアメリカのような大国に認知させておかなければならない。それと同時に、万が一どこかの国が日本の領土を大国の合意を得て奪い取ろうとする行動を起こそうとしたら、アメリカのような大国に阻止してもらわなければならない。このような、大国による政治的な保護があって、初めて自国の領土の保有が正当化できるのである。
 現在でも、チベット人やウイグル人のように一民族がまるごと他国の支配下に組み入れられてしまっているにもかかわらず、国際社会から容認されている例はいくらでもある。従って、日本といえども北方四島や北海道から沖縄に至る全ての領土が、永遠に日本人のものであり続けるという保証はどこにも無いのである。現在の日本の領土は、アメリカの政治力によって一時的に保障されているに過ぎないのである。
 このように、大国が戦争の是非を判定したり、各国の領土を保障したりすることによって国際秩序は成り立っているのである。従って、もし大国が、大国としての政治力を失い、戦争の是非の判定や、各国の領土の保障ができなくなったら、戦争や領土の保有の是非は、各国が自国の都合の良いように好き勝手に決めることになってしまう。そのようなことになったら、各国が戦国時代の戦国大名のように武力によって勝手に領土の奪い合いを始めるような事態も起き得るのである。つまり、大国が、その力を失うようなことになったら、国際秩序が失われ、国際社会は崩壊してしまうのである。
 たとえて言うなら、大国とは国際政治における審判である。しかし、スポーツの審判とは違い、「選手」である大国自身が「審判」を兼ねているのである。そのため、大国は、自国が関係する国際紛争や戦争に関しては、自国に有利な判定をしてしまうのが現実である。
 そして、大国が国際社会で起きた紛争等に対して判定を下す場合、その根拠となる客観的な基準や定義といったものは存在しないのである。従って、国際法なるものも関係ないのである。たとえば、国際法では戦時において一般市民に対して攻撃を加えることは禁じられている。従って、太平洋戦争中のアメリカによる広島と長崎への原爆投下は、明らかに一般市民に対する攻撃であり、国際法違反である。しかし、それにもかかわらず侵略行為だとはされていない。つまり、大国の判断のみが国際政治における判定の根拠なのである。
 第二次世界大戦が日本やドイツの侵略行為だとされているのは、あくまで、戦勝国となったアメリカなどの大国が、そのように判定したからであって、日本やドイツによる戦争中の行為とは関係ないのである。一般的には、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略行為だとされている理由は、太平洋戦争が日本による先制攻撃によって始まったことや、ナチスドイツによるユダヤ人大量虐殺などの残虐行為によるものだと思われている。しかし、よく考えてみれば、たとえば残虐行為は戦勝国も行っているのである。その典型的な例は、何と言ってもアメリカ軍による広島と長崎に対する原爆投下であろう。二発の原爆によって二十万人以上の人間が殺戮されたのである。原爆投下についてアメリカは、太平洋戦争を早期に終わらせて百万人のアメリカ兵の命を救うために必要だったなどと言っているが、それは言い換えれば、アメリカは、理由さえあれば大量殺戮が許されると言っていることになるのである。そして、同じく戦勝国だったソビエトも、降伏したポーランドの将校を虐殺したカチンの森の事件や、日本兵捕虜をシベリアに連行して、過酷な労働によって五万人以上も死なせてしまった日本兵のシベリア抑留問題を起こしている。
 戦後体制下の日本には、侵略行為という言葉の定義は「自国の領土の防衛を超えた軍事行動」であると主張する人たちが存在する。しかし、そのような定義をしたら、第二次世界大戦後のアメリカの軍事行動は、ほとんどが侵略行為ということになってしまう。なぜなら、第二次世界大戦後にアメリカが関与した戦争は、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争など、いずれもアメリカの領土を遙かに超えた地域で行われているからである。更に、アメリカが日本に軍隊を駐留させていることそのものが、日本に対する侵略行為ということになってしまう。もし、侵略行為という言葉を「自国の領土の防衛を超えた軍事行動」と定義したら、日本の同盟国であるアメリカの軍事行動のみならず、日米安保体制まで否定することになってしまう。結局、現実的に考えれば、侵略行為という言葉の定義をすることは不可能なのである。
 国際政治のルールは、基本的には、第二次世界大戦後も、それ以前と変わっていないのである。領土の獲得や戦争といった行為それ自体は、決して国際政治のルールに反するものではない。要するに、大国の承認という手続きを経ればよいのである。事実、現在もロシアや中国のように、多くの少数民族を支配下に置くことが認められている国は世界中にいくらでもある。第二次世界大戦後の国際政治は、ルールが変わったのではなく、戦争や新たな領土の獲得などを大国に認めさせることが難しくなったというだけのことである。帝国主義時代なら、国際政治を牛耳る欧米の大国も世界中で植民地の獲得競争をしていたため、1905年(明治38年)に日米の間で交わされた「桂・タフト協定」のように、欧米の大国と取り引きをすることによって、比較的容易に、新たな領土の獲得や支配権などを欧米の大国に認めさせることができたのである。ところが第二次世界大戦後は、欧米の大国が植民地の獲得競争をやめて、ほとんどの植民地を独立国家として認めてしまった結果、新たな領土の獲得などを欧米の大国に認めさせることが困難になってしまったのである。
 ある領土がどこの国に属するか、あるいは、軍隊を外国に送り込み、戦争をしたり軍隊を駐留させたりする行為が侵略行為にあたるか否かという判定は、その時代の大国の政治力よって決定される。侵略行為という言葉には定義は無いが、もし定義するとすれば、「国際社会の意志を決定する大国の承認を得ていない武力行使、または領土の所有」ということになる。しかし、ある時点で大国だった国も、政治状況の変化によっては大国の地位を失うこともある。従って、特定の大国によって正当と認められた領土の獲得や戦争が、その大国の地位が失われた結果、無効になってしまうこともあり得るのである。つまり、正当な武力行使、正当な領土の所有とされている行為も、政治状況の変化によっては侵略行為とされるようになってしまう可能性もあるということである。
 その一例が、日韓併合である。日本は、1905年(明治38年)に日露戦争に勝利して朝鮮半島に対する支配権を確立した。そして、国際社会の承認の下、1910年(明治43年)に日韓併合が実現した。日韓併合が当時の国際社会から承認された理由としては、当時の世界は帝国主義時代であり、国際政治を牛耳る欧米諸国自体が、日本と同様の領土獲得に奔走していたため、反対する理由が無かったということもあったが、それに加えて、日本が日露戦争に勝利した結果、政治力が強大化して欧米列強と並ぶ政治大国となり、自らの政治力によって領土の獲得や戦争を正当化できるだけの強力な政治力を確立した結果でもあったのである。ところが第二次世界大戦の結果、日本は敗戦国となり、それまで獲得した植民地や利権を全て失い、同時に政治力も失ってしまった。すると、今まで日本の政治力によって正当化されていた過去の領土の獲得や戦争を正当化することができなくなってしまった。その結果、日韓併合は侵略行為と言われるようになってしまったのである。
 更に、ベトナム戦争後の南北ベトナムの統一と、湾岸危機の時のイラクによるクウェートの併合を比べてみよう。1973年1月にパリで調印されたベトナム和平協定に基づき、アメリカ軍がベトナムから撤退した。その後、1975年に北ベトナム軍が南ベトナムに侵攻し、武力によって南ベトナムが北ベトナムに併合された結果、ベトナム戦争は終結した。当時、世界の多くの国は、同じベトナム人同士なのだから、南北ベトナムが一つの国になるのは当然だと考えた。そして、結果としてアメリカもこれを容認してしまった。しかし、同じ民族同士の国ならば武力によって併合してもよいと言うのなら、1990年の湾岸危機の時、同じアラブ人の国であるイラクによるクウェートの併合も容認しなければならなかったはずである。ところが、北ベトナムによる南ベトナムの併合が世界から容認されたのに対して、イラクによるクウェート併合は侵略行為とされてしまったのである。つまり、ベトナム戦争終了当時のアメリカは、ベトナム戦争の敗戦の結果、世界の大国としての政治力が一時的に低下していたのである。そのため、仮にアメリカが、北ベトナムによる南ベトナムに対する武力行使や国家の併合を侵略行為であると主張したとしても、世界に認めさせることができなかったのである。これに対して湾岸危機の時のアメリカは、世界の大国としての政治力を回復していたため、イラクによるクウェートに対する武力行使を侵略行為と決めつけ、イラクに対して武力制裁をすることを世界に認めさせることができたのである。
 ベトナム戦争の前例から考えれば、現在のアメリカといえども、いつまでも大国でいられるという保証は無い。ベトナム戦争で失態を演じたように、国際紛争の解決に失敗するなどして国際社会の信用や政治力を失い、大国の地位を失う可能性もある。もし、そのようなことが起きたら、アメリカの軍事行動を正当化できなくなり、その結果として日本にアメリカ軍が駐留していることを日本国民の多くが疑問視するようなことも起き得るのである。そのような事態になったら、日本政府は日米安保体制を擁護することが困難になり、アメリカの保護によって成り立っている戦後体制は動揺することになってしまう。つまり、アメリカがいくら強力な武力を持っていても、それを行使することを正当化できる強力な政治力が失われてしまったら、武力行使を正当化することが困難になり、その結果として武力行使ができなくなってしまう可能性もあるのである。要するに、強力な武力を持っているだけでは軍事大国とは言えないのである。軍事大国とは、強力な武力を持っているのと同時に、武力行使を正当化できる強力な政治力を持った国のことである。
 更に、もし、アメリカの政治力が低下するようなことになれば、その強力な武力を持つことさえ困難になる可能性もある。たとえば、現在の日本の経済力や技術力からすれば、世界でも有数の規模の武力や核兵器を保有することも可能である。しかし、現在の日本が実際にそのようなことをしようとしたら、世界中から非難を浴びて孤立してしまうのは間違いない。なぜなら、戦後体制下の日本には、強力な武力の保有を国際社会に認めさせることができるような強力な政治力が無いからである。つまり、戦後体制下の日本は、自国の防衛ができるような強力な武力を持つことが経済的・技術的に可能であっても、それを正当化して国際社会に認めさせることができるような強力な政治力が無いため、強力な武力や核兵器を持つことができないのである。そのため、アメリカの政治力や軍事力の保護を受けざるを得ないのである。これも、戦後体制下の日本の安全保障に日米安保体制が不可欠な理由である。従って、アメリカが強力な経済力や技術力を維持できたとしても、大国としての強力な政治力を失ったら、戦後体制下の日本のように軍事力が大幅に低下してしまう可能性もあるのである。
 ところで、日本には、国連のような国際機関に国際秩序を維持する役割を期待している人たちが居るが、それは国連に対する過大な期待である。なぜなら、国連は、大国であるアメリカの存在を前提に成り立っているからである。そもそも国際紛争が起きても、それが侵略行為であるか否かを判定するのは大国であるアメリカである。更に、国連が国際紛争を解決するための武力行使を決定しても、それを実行するのは、やはり大国であるアメリカである。湾岸戦争の時のように、いくら国連決議という正当性を与えられても、アメリカのような強力な武力と政治力を持った国が中心にならなければ武力行使は不可能である。つまり、アメリカが大国としての強力な政治力を失うようなことになったら、国連も機能しなくなってしまうのである。


超大国の迷走

        超大国の迷走

 

 大国や超大国と呼ばれる国の最大の役割は、国際秩序を維持することであり、そのためには積極的に国際紛争にかかわり、必要に応じては武力行使もしなければならない。ところが、息子の方のブッシュが大統領になった頃からアメリカの軍事・外交政策が迷走し始めたのである。
 息子の方のブッシュ大統領は、イラクのサダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有などを理由に、2003年3月にイギリスと共にサダム・フセイン政権を打倒するためにイラク戦争を開始した。米英軍は3月20日にイラクに対して開戦を宣言し、4月9日にイラクの首都バグダッドが陥落したため、サダム・フセイン政権は崩壊し、イラクは米英軍などによる占領下に置かれた。ところが、ブッシュ政権がイラク戦争の理由としていた大量破壊兵器は、アメリカによる必死の捜索にもかかわらず遂に発見されなかった。そして2004年10月6日、CIA(中央情報局)主導のイラク大量破壊兵器調査団は、イラク戦争開戦の2003年3月の時点で、イラクには、いかなる大量破壊兵器も存在しなかったという結論をアメリカ議会に提出した。これによってイラク戦争の大義名分だったサダム・フセイン政権による大量破壊兵器の開発や保有は、ブッシュ政権によるでっち上げだったことが明らかになったのである。また、アメリカとイギリスなどによるイラクの占領統治において大きな問題だったのが、テロリストによる攻撃である。ブッシュ大統領が2003年5月1日にイラクにおける大規模な戦闘の終結を宣言した後も、アメリカ兵やイギリス兵などに対するテロ攻撃が毎日のように起き、一向に収まる様子が無いどころか、ますます激化し、死傷者は増える一方だった。そのため、開戦当初、ブッシュ大統領を熱烈に支持していたアメリカ国民も、一向に減らないアメリカ兵の死傷者や安定しないイラクの治安状況のため、次第にイラク戦争に対して懐疑的になり始めた。イラク戦争の開戦から三年たった2006年頃には、アメリカ兵の死者は二千数百人という数になり、アメリカ国内に厭戦気分が蔓延し始めた。そして2006年11月、イラク戦争が最大の争点となった中間選挙の結果、ブッシュ大統領の与党の共和党が上下両院で議席数が過半数割れをしたことによって、イラク戦争がブッシュ政権の失策と見なされて国民の支持を失っていることが明らかになった。この選挙結果を受け、ブッシュ大統領は、イラク戦争推進の中心人物であったラムズフェルド国防長官を解任した。これは事実上、イラク戦争が失敗だったことをブッシュ大統領が認めたものである。そして、ブッシュ大統領が始めたアフガニスタンとイラクの二つの戦争を終結させると公約して当選したオバマ大統領は、2011年12月14日にイラク戦争の終結を宣言し、12月18日にはイラクに駐留するアメリカ軍の撤収が完了した。ところが、「イラクとシリアのイスラム国」と称するイスラム教スンニ派の武装集団がシリアの内戦に乗じてシリア国内で勢力を拡大し、更に2014年になるとイラク国内にも勢力を拡大した。つまり、オバマ大統領は、イラク政府に統治能力が十分に備わっていないにもかかわらずアメリカ軍を撤収させてしまったのである。オバマ政権は、「イスラム国」と名を変えた武装集団を壊滅させるべく「有志連合」の国々と共に「イスラム国」に対する空爆を行ったが、「イスラム国」を壊滅させるには至らなかった。オバマ大統領には、本格的に戦闘部隊を派遣してまで「イスラム国」を壊滅させようという意志は無かったのである。これでは、超大国の役割を果たしていたとは言えない。2017年10月17日に「イスラム国」が首都と主張していたシリアの都市ラッカが陥落したことによって、「イスラム国」は壊滅的な打撃を受け弱体化したが、アメリカの存在感は低く、中東地域の政治状況は混沌としている。
 2001年9月11日に起きた同時多発テロをきっかけに、息子の方のブッシュ大統領は、同時多発テロを実行した国際テロ組織アルカーイダを擁護しているアフガニスタンのタリバン政権を壊滅させるため、戦争を開始した。その結果、アメリカはタリバン政権を打倒することには成功したが、その後もタリバンはアフガニスタン各地で戦闘行動を続けている。そして、ブッシュ大統領が始めたアフガニスタンとイラクの二つの戦争を終結させると公約して当選したオバマ大統領は、2016年の末までに、アフガニスタンに駐留するアメリカ軍を完全撤収させる計画を実行しようとした。しかし、タリバンは依然としてアフガニスタン南部を中心に戦闘行動を継続し、勢力を拡大していた。そしてアメリカ軍がアフガニスタンから撤収した後にタリバンとの戦闘や治安維持を引き継ぐアフガニスタン政府の治安部隊は、訓練不足や武器不足が指摘され、戦闘や治安維持の能力に疑問が持たれていた。更に、2015年9月にアフガニスタン北部の都市クンドゥズがタリバンの攻撃を受けて一時陥落するという事態になり、アフガニスタン政府の治安部隊の能力に対する更なる疑問が生じた。これらの問題のため、もし、アメリカ軍がアフガニスタンから完全に撤退したら、2011年にアメリカ軍が撤退した後のイラクで「イスラム国」の台頭を招いたように、タリバンなどの反政府勢力が勢力を拡大する懸念が生じた。そこでオバマ政権は、2016年の末までにアメリカ軍を完全に撤収させる計画を見直さざるを得なくなってしまった。そのため、2015年10月15日、オバマ政権は、2017年以降も、5500人のアメリカ兵をアフガニスタンに駐留させる計画を発表したのである。この措置は、オバマ政権の対テロ戦略の行き詰まりと見なされている。こうして、オバマ大統領が公約していたアフガニスタンにおける戦争の終結は、断念することになったのである。これはまさにオバマ政権の迷走である。
 2011年に始まったアラブの春と呼ばれるアラブ諸国の政変の影響を受けて、シリアではアサド政権の打倒を目指す反アサド勢力が武装蜂起して内戦状態になった。そして2013年8月21日に反アサド勢力が、アサド政権が化学兵器を使用して多くの死傷者を出したと発表した。これに対して8月26日、オバマ政権は、アサド政権が化学兵器を使用した可能性が高いとの見解を示し、シリアに対して武力制裁を加える方針を示した。ところがオバマ大統領は、8月31日になると「武力行使について議会の承認を求める。」と述べ、アメリカ議会上下両院に、シリアへの武力行使に対する承認を求める意志を表明した。これは、事実上、シリアに対する武力行使の先送りである。更に、9月9日にアメリカのケリー国務長官が、「シリアが化学兵器をすべて国際管理に委ねたら、アメリカの攻撃回避は可能。」と述べたことに対して、ロシアのラブロフ外相がシリアの化学兵器を廃棄する案を表明すると、オバマ政権はこれを支持し、シリアへの武力行使は行わない可能性を示した。このようにオバマ政権のシリア対策は二転三転したのである。オバマ政権のシリア対策が、このような迷走をしたのは、イラク戦争の失敗に懲りてアメリカ国民に厭戦気分が蔓延していたことに加えて、オバマ大統領がもともと武力行使には消極的だったからである。
 ウクライナでは2014年2月にEU(ヨーロッパ連合)との連合協定を締結するか否かを巡り与野党の対立が激化した結果、ヤヌコビッチ政権が崩壊し、政治が混乱状態に陥った。ロシアのプーチン大統領は、このウクライナの混乱に乗じて、独立の気運が高まっているクリミア半島にロシア軍を徐々に派遣し、3月の始め頃、クリミア半島をロシア軍の実効支配下に置いた。これに対して、オバマ大統領は、プーチン大統領に対してロシア軍の撤収を求めたが、プーチン大統領は、これを拒否した。そして2014年3月16日にクリミア自治共和国がウクライナから独立することに賛成するか否かを問う住民投票が行われた結果、圧倒的多数の支持を得てクリミア自治共和国の独立が承認された。これを受けてプーチン大統領は、3月17日にクリミア自治共和国を独立国家と認める大統領令に署名した。更に、プーチン大統領は、3月18日、ロシアの国会議員を前にした演説の中でクリミア半島のクリミア自治共和国とセバストポリ特別市をロシアに編入する意志を表明し、編入条約の署名式を行った。これに対してアメリカ政府は、既に行われていたロシアの政財界関係者への資産凍結やアメリカへの渡航禁止と言った制裁措置を更に強化する意志を表明した。ただし、オバマ大統領は、3月19日に「ウクライナで軍事行動に関わるつもりはない。」と発言し、ロシアに対する軍事的な行動には消極的な姿勢を示した。一方、ロシアでは、3月20日には下院が、3月21日には上院が、クリミア自治共和国とセバストポリ特別市のロシアへの編入条約を批准し、クリミア半島はロシアに併合されてしまった。ロシアのプーチン政権によるクリミア半島のロシアへの併合は、国際秩序を否定する重大な事態である。イラクのサダム・フセイン政権が、クウェートを武力によってイラクに併合しようとしたのと同じことである。ところがオバマ政権は、このような国際秩序を否定する行為に対して、これを阻止するための有効な手段を何も実行できなかったのである。
 これらの出来事は、明らかにアメリカの超大国としての政治力が低下したことの現れであり、迷走以外の何でもない。しかもオバマ大統領は、2013年9月10日に行われた演説の中で「アメリカは世界の警察官ではない。」「すべての悪を正すのは、われわれの手に余る。」などと述べたのである。これでは、アメリカが超大国としての政治力を失い、国際秩序が崩壊して、世界が混乱に陥る可能性も否定できない。
 ソビエトという共通の敵の消滅によって、同盟国を団結させることが難しくなったことも、アメリカの超大国としての政治力が低下した理由である。しかしアメリカは、かつてのソビエトとは違い、依然として武力、経済力、技術力といった面では圧倒的な国力を持っている。その国力を国際政治の場で十分に発揮できないのは、同盟国共通の敵が消滅したという理由だけではない。息子の方のブッシュやオバマのような、超大国の指導者にふさわしくない大統領の存在も、アメリカの国力を十分に発揮できない理由である。
 一般的に国力と言うと、経済力や武力のような物理的な力だけを指して言われることが多いが、それは大きな誤りである。なぜなら、国力というものは単に経済力や武力のような物理的な力だけで決まるものではなく、国家の指導者の政治や軍事の才能といったものも国力を決定する上で重要な要素であることが、歴史を見れば明らかだからである。本来なら辺境の弱小勢力に過ぎなかった国や民族が、政治や軍事に天才的な才能を持った指導者が登場した結果、巨大な帝国に発展した例が歴史上いくらでもある。その典型的な例が、マケドニアとモンゴルである。
 ギリシャ世界の辺境国家に過ぎなかったマケドニアは、紀元前四世紀の後半にフィリッポス二世の才能によってギリシャ世界の覇者となった。そして、フィリッポス二世の後継者となった息子のアレクサンドロスの才能によってペルシャ帝国を武力で征服して巨大な帝国となった。また、抗争を繰り返していたモンゴル高原の諸部族は、十三世紀の初め、モンゴル部族を率いるチンギス・ハーンの才能によって統一され、モンゴル帝国が成立した。そしてチンギス・ハーンの率いるモンゴル帝国は、金帝国やホラズムなどの強国を武力で次々と撃破して世界帝国へと発展していった。アレクサンドロスによって征服されたペルシャ帝国にしろ、チンギス・ハーンによって撃破された金帝国やホラズムにしろ、軍事的にも経済的にもマケドニアやモンゴルに勝るとも劣らぬ強国だった。そのような国を武力で打ち破ったり征服したりすることを可能にしたのが、アレクサンドロスやチンギス・ハーンの政治と軍事の才能だったのである。
 ただし、イギリスに始まった産業革命以降は、マケドニアやモンゴルのように、弱小勢力が天才的な指導者の才能によって強大な帝国に発展することは不可能になった。それは、資本主義経済と産業革命によって生み出される膨大な物量や優れた技術が、戦争の勝敗や国力を決定する大きな要因になってしまったからである。資本主義経済と産業革命によって強大な経済力や武力を持つに至った強国を、天才的な指導者の才能で一時的に打ち破ることができても、征服するのは不可能である。しかし、だからと言って、国力を決定する上で、指導者の政治や軍事の才能が全く無用になったわけではない。なぜなら、アメリカやソビエトが超大国の地位を確立する過程で、フランクリン・ルーズベルトやトルーマン、そしてスターリンといった指導者の政治能力が必要不可欠だったからである。しかし、有能な指導者の力によって超大国となった国も、無能な指導者が登場して政治や軍事で大きな失敗をした結果、政治力が低下してしまう可能性はある。従って、現在、唯一の超大国と言われているアメリカが、経済力や武力といった物理的な力を維持することができても、無能な指導者が政治や軍事で何か大きな失敗をして政治力が低下してしまったら、超大国の地位を失う可能性もあるのである。
 第二次世界大戦の時、アメリカがナチスドイツと日本を同時に戦争で打ち破るほどの超大国になったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領の政治能力の賜物であったと言える。なぜなら、同じアメリカでも、ベトナム戦争の時は、ジョンソン大統領の無能のために小国北ベトナムに戦争で敗れるような弱小国になってしまったからである。つまり、アメリカの国力の強弱は、大統領の政治能力によって大きく左右されるのである。
 現在のアメリカ大統領の強大な力は、フランクリン・ルーズベルト大統領によって確立され、その後の大統領に継承されている。しかし、大統領に就任した者が前任者から継承するのは、あくまで大統領のカリスマや国家の権威といった、最高指導者の役割を果たすために最低限度必要な力であって、政治手腕や判断力といった政治家としての能力は、大統領個人の能力に頼らざるを得ないのである。いくら強大なカリスマや権威を持っていても、政治的な判断を誤り、ベトナム戦争やイラク戦争のような失敗をするようでは、超大国の最高指導者は務まらないのである。そのため、超大国アメリカの大統領は、高度な判断力や政治手腕といった超大国の最高指導者にふさわしい能力を持った政治家でなければならない。従って、前任者から大統領のカリスマや国家の権威を引き継いだだけでは、アメリカ一国の防衛のような最低限度のことができる大統領にはなれても、フランクリン・ルーズベルトのような偉大な大統領や超大国にふさわしい大統領になれるわけではない。つまり、アメリカが第二次世界大戦に勝利して超大国の地位を確立できたのは、ルーズベルト大統領やトルーマン大統領といった傑出した最高指導者の政治手腕や判断力によってもたらされた奇跡なのである。従って、傑出した大統領の存在しないアメリカには超大国と言えるほどの実力は無いのである。つまり、ジョンソンや息子の方のブッシュ、そしてオバマのような無能な大統領が指導するアメリカは、経済力や技術力と言った力に限れば圧倒的な力を持っていても、指導者の政治的な能力を含めた総合的な力では、超大国とは言えないのである。
 かつてアメリカは、ベトナム戦争の敗北とニクソン大統領がウォーターゲート事件の責任をとって辞任したことによる政治の混乱と国家の権威の低下によって、超大国としての政治力が低下してしまった。この時期のアメリカは、国家の権威も大統領のカリスマの力も低下し、国民は自信を失い、政治も経済も混迷を続けていた。軍事・外交上の意志決定には最高指導者の強力なカリスマの力が必要である。ところが、ニクソン大統領が辞任した後のアメリカは、政治の混乱によって大統領のカリスマの力が低下した結果、軍事・外交上の意志決定をする能力が低下したため、軍事面では、ほとんど何もできない状態が続いていた。それを象徴する出来事が、ベトナム戦争が終わった時の南ベトナムの崩壊である。
 アメリカはベトナム和平協定に基づき、ベトナムから全ての軍を撤退させたが、その後も南北ベトナム間の戦闘がやむことは無かった。そして1975年になると北ベトナムは攻勢を強め、1975年4月30日には南ベトナムの首都サイゴンを陥落させる。こうして南ベトナムは崩壊してしまった。これに対して、アメリカのフォード政権も議会も、同盟国だった南ベトナムを助けようとはせず、見殺しにしてしまったのである。その理由の一つには、当時のアメリカはベトナム戦争の敗戦と反戦運動の影響によって厭戦気分が蔓延し、もはや戦争をする気力を失っていたということもある。しかし、それ以上に大きな理由は、ベトナム戦争の敗戦とウォーターゲート事件によって引き起こされた政治の混乱によって国家の権威と大統領のカリスマの力が低下した結果、非常独裁権が行使できなくなってしまったことである。
 この時期のアメリカが、かろうじて超大国の地位を守ることができたのは、超大国ソビエトが存在したためだった。西ヨーロッパなどの自由主義諸国には、ソビエトの軍事的脅威から自由主義諸国の安全を守ってくれる盟主が必要だった。そして、自由主義諸国の盟主が務まるような力を持った国は、アメリカしか存在しなかった。そのため自由主義諸国は、ソビエトの軍事的脅威に対してアメリカを中心に団結せざるを得なかったため、アメリカの超大国の地位は守られたのである。
 アメリカの政治力とアメリカ大統領のカリスマの力が低下して軍事・外交政策が停滞した状況は、レーガン大統領の登場によって打破された。レーガン大統領の自信に満ちた態度が、アメリカ国民の自信を取り戻し、アメリカの政治力や大統領のカリスマの力も復活する。そして軍事的にも、グレナダ侵攻やリビア爆撃をやってのける。このようにして、ベトナム戦争の敗北とウォーターゲート事件以来、低下していたアメリカの政治力と大統領のカリスマの力をレーガン大統領が復活させたのである。そして、レーガン大統領が復活させた大統領の強大な力は、そのまま父親の方のブッシュ大統領に継承されたのである。ブッシュ大統領が湾岸戦争の時に非常独裁権を行使できたのは、低下していた大統領の力をレーガン大統領が復活させておいたからに他ならない。従って、レーガン大統領は、湾岸戦争勝利の陰の功労者と言えるのである。
 一方でレーガン大統領は、ソビエトを「悪の帝国」とののしり軍拡競争を挑んだ。これに対して、経済が破綻状態にあったソビエトは耐えられなくなってしまった。そして1991年、遂にソビエトは崩壊してしまった。その結果、アメリカは、唯一の超大国になったが、同時に、超大国ソビエトというアメリカの超大国の地位を守る手段を失ってしまったのである。ソビエトが崩壊した後、ロシアや中国といった新たな脅威が出現したが、これらの国はソビエトのような超大国ではないため、アメリカの超大国の地位を守る手段としては不十分である。
 息子の方のブッシュ大統領やオバマ大統領の時代のアメリカは、超大国ソビエトというアメリカの超大国の地位を守る手段が失われたことに加え、ブッシュ大統領やオバマ大統領の凡庸な政治能力のため、イラク戦争、シリア問題、そしてクリミア問題などの迷走をすることになり、超大国としての政治力を低下させてしまったのである。
 また、アメリカが唯一の超大国になってしまったことそれ自体も、アメリカの超大国としての力を低下させた一因である。当初、第二次世界大戦後の国際秩序は、ヤルタ会談に参加したアメリカ、イギリス、ソビエトの三つの超大国によって維持されることになっていた。ところが大英帝国やソビエトの崩壊によってイギリスもロシアも超大国としての政治力を失い、国際秩序を維持する役割から脱落してしまったため、国際秩序の維持は、唯一の超大国となったアメリカだけの役割になってしまった。その結果、国際秩序を維持する重責がアメリカ一国にのしかかることになったため、アメリカに無理を強いることになり、力の低下に拍車をかけることになったのである。
 アメリカの指導者が、今後も息子の方のブッシュ大統領やオバマ大統領のような迷走を繰り返すようなら、遠からずアメリカは超大国の地位を失うだろう。そして、一度、超大国の地位を失ってしまったら、取り戻すのは極めて困難である。なぜなら、再び超大国の地位に就くためには、フランクリン・ルーズベルトのように強力なカリスマや指導力があり、トルーマンのように優れた外交能力のある指導者が登場する必要があるからである。しかし、歴史を見ればわかるように、そのような指導者が登場するのは極めて稀なことなのである。


超大国の破綻が戦後体制を消滅させる

   超大国の破綻が戦後体制を消滅させる

 

 戦後体制下の多くの日本人が信じている平和主義のイデオロギーを要約すれば、「第二次世界大戦は日本やドイツなどの枢軸国による残虐にして非道な侵略戦争であり、戦後の日本は侵略戦争を反省し、戦争を放棄して平和国家にならなければいけない。」ということになる。そして、日本の戦後体制は、このイデオロギーによって正当化されて維持されているのである。
 しかし、そもそも侵略戦争という言葉には客観的な基準や定義は無い。現在、第二次世界大戦が日本やドイツの侵略戦争だったと考えられている理由は、アメリカやソビエトが第二次世界大戦に勝利して強力な政治力を確立して超大国となった上で、第二次世界大戦は日本やドイツなどの枢軸国による侵略戦争だったと判定し、その判定結果を強力な政治力を背景にして日本人を含めた世界中の人間に受け入れさせているからである。従って、もし、ソビエトの崩壊によって唯一の超大国となったアメリカが、超大国としての政治力を失うようなことになれば、ある国の戦争が侵略であるか否かといった判定をする権限を持つ国は失われてしまう。そうなると、第二次世界大戦を含めたあらゆる戦争行為の是非は、各国が自国の都合の良いように好き勝手に決定することになる。その場合、中国や韓国のような日本を敵視する国々は、第二次世界大戦を日本の侵略戦争だと言い続けるだろうが、日本人自身が第二次世界大戦のことを日本の侵略戦争だと考える理由は無くなってしまうのである。そうなれば、日本が、「侵略戦争を反省して平和国家にならなければいけない」理由が無くなってしまうことになる。つまり、戦後体制下の平和主義のイデオロギーは、アメリカやソビエトなどの超大国の政治力を背景に成立し、正当化されているのである。従って、アメリカが超大国としての政治力を失うようなことになれば、平和主義のイデオロギーは正当性を失い消滅してしまうのである。そうなれば、戦後体制や戦後民主主義と呼ばれる日本の国家体制も正当性を失い消滅してしまうことになる。
 そもそも日本の戦後体制は、第二次世界大戦後にアメリカの軍事占領下で行われた占領政策によって作られた国家体制である。軍事占領は、国際法によって認められている正当な戦争行為ということになっているが、実際は、軍事占領をした国が敗戦国となったような場合、軍事占領が侵略行為というレッテルを貼られて否定されることが多い。つまり、戦争に敗れることによって政治力を失い、自らの戦争行為を正当化できなくなった結果、軍事占領を含めた戦争行為の正当性が失われ、その結果として侵略行為というレッテルを貼られて否定されてしまうのである。第二次世界大戦の敗戦国となった日本とドイツによる戦争中の軍事占領が侵略行為というレッテルを貼られて否定されているのが典型的な例である。逆に、戦勝国は、戦争に勝利することによって政治力が増大し、自らの戦争行為を正当化できるようになる。従って、アメリカによる第二次世界大戦後の日本に対する軍事占領が正当化されているのは、軍事占領が国際法によって認められている正当な戦争行為だからではなく、第二次世界大戦の戦勝国となり強力な政治力を確立したアメリカやソビエトの合意によって日本に対する軍事占領が正当化されているからなのである。
 軍事占領は、国際法によって認められている正当な戦争行為ではあるが、正式に講和条約が結ばれて法的に戦争が終結すれば、占領をやめて軍隊を撤退させなければならないことになっている。日本は、1951年(昭和26年)9月に自由主義諸国との講和条約であるサンフランシスコ平和条約に調印し、翌年の4月に発効した。その結果、日本は法的には独立国家となった。ところがアメリカ軍は、サンフランシスコ平和条約と同時に調印された日米安全保障条約に基づいて、その後も日本に駐留し続けることになったのである。戦後体制は、アメリカによる軍事占領を前提に作られたものである。従って、戦後体制を維持するためには、アメリカによる軍事占領を続けざるを得ないのである。そして、アメリカによる軍事占領の継続を法的に正当化する手段が日米安全保障条約なのである。つまりアメリカは、戦後体制と日米安全保障条約を作ることによって、日本を永久に軍事占領することが法的に可能になったのである。しかし、軍事占領が戦争行為である以上、日本とアメリカの間では、実質的には今でも戦争状態が続いていることになるのである。
 つまり、第二次世界大戦に勝利して強力な政治超大国となったアメリカやソビエトなどの強力な政治力によって日本に対する軍事占領が正当化されているのである。そしてアメリカは、その強力な政治力によって正当化された軍事占領を背景にして占領政策を行い、明治体制を否定して戦後体制を作ったのである。つまり、第二次世界大戦後のアメリカ軍による占領政策も、その占領政策の延長である戦後体制も、そして日米安保条約に基づくアメリカ軍の日本への駐留も、全て、超大国たるアメリカの強力な政治力によって正当化され、維持されているのである。
 第二次世界大戦後のアメリカ軍による日本に対する軍事占領や、日米安保条約に基づくアメリカ軍の日本への駐留を合法的で正当な行為と見るか、それともアメリカによる侵略行為と見るかは、各個人の主観の問題である。しかし、個人の主観には政治情勢の変化が決定的な影響を与えるという事実を忘れてはならない。たとえば、第二次世界大戦中は、ほとんどの日本国民が国家や天皇のために戦争に協力していたが、敗戦とそれに続くアメリカ軍による占領という政治情勢の変化によって、日本国民は、平和ぼけと言われるほどの平和主義者に変身してしまった。また、第二次世界大戦後の日本の政界や言論界で大きな影響力を持っていた社会主義のイデオロギーも、ソビエトの崩壊という政治情勢の変化によって影響力を失ってしまった。その結果、誰も社会主義国家を理想だとは思わなくなってしまった。これと同様に、もし将来、アメリカが超大国としての政治力を失うようなことが起きれば、日本人のアメリカに対する意識が激変し、アメリカ軍による日本の軍事占領が正当化できなくなり、アメリカの軍事占領下で行われた占領政策も、占領政策によって戦後体制を作ったことも、そして日米安保条約に基づくアメリカ軍の日本への駐留も、全て正当性が失われ、違法な行為と見なす人間が増え、侵略行為というレッテルを貼られて否定されてしまう可能性があるのである。このようなことになったら、日本政府も、アメリカ軍を日本に駐留させることを正当化できなくなり、日米安保体制も戦後体制も破綻するしか無くなってしまうのである。



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