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「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

 

 かつて、明治体制下の日本には、「大正デモクラシー」と呼ばれた時代があった。
 1918年(大正7年)に長州藩閥出身の寺内正毅総理大臣の内閣が、米騒動の責任をとって辞任すると、後任の内閣総理大臣に就任したのが議会政治家であり政友会総裁である原敬だった。これをきっかけに政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明や若槻礼次郎といった議会政治家による政党内閣が成立し、議会政治が行われた。そして加藤高明の護憲三派内閣は、男子の普通選挙制を成立させるといった成果を一応残した。また、この時期には労働運動や社会主義運動も盛んになり、1919年(大正8年)には労働組合の全国組織である大日本労働総同盟友愛会が成立し、翌年の1920年(大正9年)には日本初のメーデーが行われた。更に、吉野作造は民本主義を唱え、知識人や学生などに大きな影響を与えた。
 この「大正デモクラシー」の時代の日本の政治や社会の状況を見ると、あたかも当時の日本が欧米的な民主主義国家に近づいていたようにも見える。しかし、議会政治は、疑獄事件や経済政策の失敗などもあって、国民の全面的な支持を得られなかった。そして、五・一五事件で犬養毅総理大臣が暗殺されたのをきっかけに議会政治は終わってしまった。
 議会政党が政治の主導権を握ったという意味では、この時期の政治は議会政治と言えるかも知れないが、「デモクラシー」や民主主義などと呼べるような代物ではなかったのである。それを示すよい例が、田中義一総理大臣が辞任した経緯である。
 1927年(昭和2年)4月、若槻礼次郎総理大臣の退陣の後、衆議院第二党である政友会の田中義一総裁が内閣総理大臣に就任した。そして1928年(昭和3年)2月に衆議院の総選挙が行われた結果、田中義一総理大臣の与党の政友会は、衆議院第一党となった。
 1928年(昭和3年)6月、中国北方の満州を拠点とする軍閥の指導者である張作霖が、乗っていた列車ごと爆破されて死亡するという事件が起きた。やがて河本大作関東軍高級参謀らが、この事件の首謀者とされた。しかし、陸軍と与党の政友会の幹部が、事件の真相究明にも、事件の首謀者とされた河本大作らの処分にも反対したため、田中総理大臣は、河本大作に対する処分を停職という軽いものにとどめてしまった。この田中総理大臣の事件に対する処置に対して、昭和天皇は田中総理大臣を厳しく叱責し、辞任を迫った。その結果、田中総理大臣は辞任する羽目になってしまったのである。
 もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、明治体制下の日本は、イギリス型の立憲君主制国家だったことになる。そしてイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在である。更に「デモクラシー」が存在する国家の理念では、主権は国民にあり、議会は主権者である国民の代表である。田中義一が衆議院第一党の政友会の総裁であるということは、「デモクラシー」の理念からすれば、主権者である国民が選挙によって田中義一を国民の代表に選んだということであり、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持ということになる。ところが、田中総理大臣は、昭和天皇に叱責され辞任を迫られたことによって、昭和天皇の支持を失ったことが明らかになった結果、辞任せざるを得なくなったのである。もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持なのだから、天皇にいくら辞任を迫られたところで辞任する必要など無いはずである。そもそも「デモクラシー」が存在するイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在なのだから、天皇は内閣総理大臣の決定に対して意見を言ったり辞任を迫ったりする立場には無いはずである。田中総理大臣が昭和天皇から辞任を迫られた結果、辞任せざるを得なくなったのは、明治体制下の日本の政党内閣を支えていたのは国民や議会の支持ではなく、天皇の支持だったことを意味するのである。従って、原敬や田中義一のような議会政治家出身の内閣総理大臣といえども、天皇に支持され内閣総理大臣に任命されることによって国家・国民の指導者としての立場を正当化していたのである。これは、明治体制下の政党内閣が、国民や議会の代表ではなく、天皇の政界における代理人だったことを意味するのである。つまり、国民に支持され選挙で選ばれた政友会や民政党といった議会政党の代表者といえども、内閣総理大臣や閣僚に就任した途端に、天皇の代理人になってしまうのである。これが「大正デモクラシー」なるものの実体だった。明治体制下の日本の議会政治は、「デモクラシー」の化けの皮をかぶった似非デモクラシーに過ぎなかったのである。
 明治体制下の「デモクラシー」の化けの皮が剥がれたのが、統帥権干犯問題である。
 1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて開かれたワシントン会議の中で海軍軍縮条約が調印された。これによって各国の主力艦を制限することになったが、補助艦については制限が無かったため、各国は争って補助艦の建造をするようになった。そこで補助艦の建造を制限するため、1930年(昭和5年)1月21日からロンドン軍縮会議が開かれた。日本の浜口内閣は、このロンドン軍縮会議に若槻礼次郎を全権代表とする代表団を送った。そして4月22日に調印された軍縮条約によって、日本は補助艦の量を対アメリカ比で69.75%に制限されることが決定した。浜口雄幸総理大臣は、国際協調と財政の逼迫を理由に、これを受け入れることを主張した。
 ところが海軍や野党勢力などが、これに猛反対した。海軍は、大型巡洋艦で最低でも対アメリカ比70%は無ければ国防上安心できないと主張した。そして、議会内の野党勢力では、1930年(昭和5年)4月25日に政友会の鳩山一郎が「政府が海軍軍令部の国防計画を無視して軍縮条約を結んだのは、天皇の統帥権を干犯するものである。」と発言し、浜口内閣を攻撃した。これをきっかけに統帥権干犯論争が起きる。そして6月には、統帥権干犯を批判して加藤寛治海軍軍令部長が辞意を表明する。そして浜口総理大臣は、11月14日、統帥権干犯反対を唱える右翼結社の青年によって狙撃されて重傷を負ってしまう。
 「デモクラシー」の理念は、国民の自由な意志による政治の運営である。従って、明治体制下の日本に「デモクラシー」を実現させようと言うのなら、天皇や官僚や軍人といった、国民の意志では動かし難い者の政治的権限は、なるべく制限し、国民の代表である議会政党による政党内閣が政治の実権を掌握しなければならない。特に、最高指導者として強大な権限を持つ天皇は、可能な限り無力化しなければならない。ところが、海軍や政友会の鳩山一郎などの議会政治家は、天皇の強大な権限の一つである統帥権を理由にして、政党内閣の権限を制限しようとしたのである。これが統帥権干犯問題なのである。これは明らかに「デモクラシー」に逆行する行為である。統帥権干犯問題なるものが明治体制下の日本で起きた根本的な原因は、日本の社会には主権在民という理念が定着していなかったことである。主権在民という理念が定着している国では、政党内閣は国民の代表である。従って、政党内閣をないがしろにするのは、国民の主権を踏みにじる行為であり、国民の反発を招くことになる。しかし、明治体制下の日本のように主権在民という理念が定着していない国では、いくら政党内閣が軍部などにないがしろにされても、国民は一向に平気なのである。なぜなら主権在民という理念が無い国では、選挙で国民から選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国家・国民の代表とは言えないからである。明治体制下の日本人や議会政治家に主権在民という理念があったなら、国民の代表であるはずの政党内閣の権限が、軍の統帥権に及ばないなどという考えが出て来るはずが無いし、出て来ても誰も支持しないはずである。つまり、統帥権干犯問題が意味するのは、明治体制下の日本人の多数が、主権在民という理念を支持していなかったどころか、理解もしていなかったということである。


マッカーサーの失策

      マッカーサーの失策

 

 一般的には、太平洋戦争に敗れた軍国主義国家の日本が、マッカーサーによる改革の結果、民主主義国家として生まれ変わったのが戦後体制であると言われ、戦後民主主義とも呼ばれている。しかし、私は、戦後体制下の日本が民主主義国家であるということに対して大いに疑問を持っているのである。そもそも、マッカーサーが作った戦後体制とは一体何なのか。更に、日本人にとってのマッカーサーとは、いかなる存在なのか。そして、マッカーサーによって作られた日本国憲法が、なぜ改正できないのか。考えてみる必要がある。
 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送によって、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏する決断をしたことが明らかになった。そして8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、コーンパイプをくわえて厚木基地に降り立った。9月2日に日本政府の代表者たちは、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に署名する。ここに太平洋戦争は、日本の降伏によって停戦が成立した。そして、マッカーサーとGHQ(連合国最高司令官総司令部)による日本の占領統治が始まった。
 1945年(昭和20年)10月11日、マッカーサーは、婦人の解放、労働組合の保証、学校教育の民主化、司法制度改革、経済機構の民主化といったことを名目とした、いわゆる五大改革指令を出し、日本の政治・社会の改革に着手した。そして財閥解体、旧帝国陸海軍の廃止、政治犯とされた人たちの釈放、戦争責任者の逮捕、神道指令などを次々に実行した。
 翌年の1946年(昭和21年)2月になると、戦争にかかわった者に対する公職追放が行われ、5月からは、A級戦犯容疑者とされた者に対する極東国際軍事裁判が始まった。更に11月3日には日本国憲法が公布される。1946年(昭和21年)2月から第一次農地改革、1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月にかけて第二次農地改革が行われ、日本のほとんどの小作人が自作農になった。このようにマッカーサーは、矢継ぎ早に改革を押し進めていった。
 しかし、不思議なのは、このようなマッカーサーによる急進的な改革に対して、ほとんど反対の声が起きなかったことである。公職追放による弾圧を受けている指導者層は別にして、一般国民やジャーナリズムから何の反対の声も起きなかったのは実に不思議である。なぜなら、このような急進的な改革に対しては、批判や不満の声が起きるのが普通だからである。明治維新の時は、明治政府の急進的な改革に対する不満から、佐賀の乱、神風連の乱、そして西南戦争といった反乱が起きた。戦後体制下でも、中曽根内閣による行政改革に対して「総論賛成・各論反対」の抵抗があり、小泉内閣の構造改革に対しても「抵抗勢力」による抵抗が起きた。ところがどういうわけか、マッカーサーの急進的な改革に対しては、不満の声も抵抗も起きなかったのである。
 更に不思議なことがある。マッカーサーは「民主的な」改革を押し進める一方で、1945年(昭和20年)9月19日には「日本に与える新聞紙規定」いわゆるプレス・コードを示し、占領軍に対する批判を制限し、更に9月22日にはラジオ・コードも出された。そして10月からは、あらゆる出版物に対する検閲を始めた。これは明確な言論統制であり、民主化に反するものである。マッカーサーの改革が日本を民主化するための改革だとしたら、明らかに矛盾している。ところが、これに対して日本のジャーナリズムは何の抵抗も反対もしていないのである。
 それどころか、多くの日本国民やジャーナリズムが、マッカーサーのことを日本に民主主義をもたらした解放者だの恩人だのと手放しで賛美したのである。そして国会は、1951年(昭和26年)4月16日に「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行った。そしてマッカーサーがトルーマン大統領に解任され帰国する時には、二十万人もの日本人が見送った。
 日本人がマッカーサーの改革や政策に反対しなかったのは、マッカーサーの改革や政策が理想的なものだったからだと言う人たちが居る。しかし、マッカーサーの改革や政策をよく検討してみると、農地改革のように、ある程度成功したものもあったが、その一方で、失策や中途半端な結果に終わっているものも多いのである。
 マッカーサーは、軍国主義の廃止・非軍事化の名の下に旧帝国陸海軍を廃止し、戦争放棄を定めた日本国憲法を制定した。ところが1948年(昭和23年)にソビエトによって始められたベルリン封鎖や、1949年(昭和24年)10月に中国に共産党政権が成立したことなどによる共産主義の脅威の増大を受けて、マッカーサーは1950年(昭和25年)1月1日の年頭の辞で、「日本国憲法は自衛権を否定していない。」と発言するに至る。これは、事実上、戦争放棄を定めた日本国憲法九条を撤回するものであり、日本国憲法に戦争放棄を定めた条項を記したことが誤りであったと認めるものである。やがて朝鮮戦争が勃発すると、韓国を守るため、日本に駐留しているアメリカ軍を朝鮮半島へ出動させざるを得なくなり、その結果、日本の防衛に生じる空白を埋めるため、マッカーサーは1950年(昭和25年)7月8日に日本政府に対して警察予備隊を創設する命令を出さざるを得なくなった。こうして、一度日本の軍隊を廃止したマッカーサーが、自らの命令で日本の再軍備をする羽目になったのである。
 マッカーサーは、政治犯を釈放すると言って1945年(昭和20年)10月に獄中の日本共産党員を釈放した。これによって共産党は合法的に活動できるようになった。釈放された共産党員は、マッカーサーを解放者と称えた。しかし、日本国内の労働運動における共産党の活動が活発になると、労働運動が激化してしまった。更に、1948年(昭和23年)に始まったベルリン封鎖により米ソの冷戦が激しさを増し、1949年(昭和24年)に中国で共産主義政権が成立すると、共産主義勢力の拡大に対する脅威が増大した。するとマッカーサーは、一転して共産党と、その支持者に対する弾圧を開始したのである。1950年(昭和25年)6月6日には、日本共産党中央委員会全員と機関紙「アカハタ」の幹部の追放、そして共産党による集会やデモを禁止する指令が出された。更に、6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、新聞などのジャーナリズムや民間企業の労働者の共産党支持者に対する追放を始めた。そして、9月1日からは、行政機関や公共事業の労働者に対しても同様のことを始めた。これに対して、共産党も労働組合も、何の抵抗もできなかった。
 労働組合運動を育てる目的で、1945年(昭和20年)12月にマッカーサーの指示で労働組合法が制定され、1946年(昭和21年)3月から施行された。マッカーサーは、日本に民主主義を定着させるためには、労働運動を確立することが必要だと考え、労働組合運動の拡大を容認していた。その結果、様々な職場で労働組合が結成された。ところが、労働組合運動は、マッカーサーの予想を超えて過激化していった。多くの職場で賃上げを要求してストライキが頻発し、経済と国民生活に打撃を与えるようになってしまった。しかも、労働組合には、日本共産党の影響を強く受けているものが多かった。1946年(昭和21年)11月、官公庁の労働組合が、全官公庁労働組合共同闘争委員会(全官公庁共闘)を結成した。こうした労働組合運動の指導者を吉田茂総理大臣は、「不逞の輩」と言って批判した。この発言に反発した全官公庁共闘は、1947年(昭和22年)2月1日からのゼネストの決行を目指して行動を始めた。そして1月29日、全官公庁共闘は共産党の指導によって、「吉田内閣打倒・民主人民政府樹立」の声明を出した。全官公庁共闘も共産党も、マッカーサーを解放者と考え、ゼネストを支持してくれると考えていたのである。しかし、1月31日にマッカーサーが発表した声明で「現在のように貧しく衰弱した状況下の日本で、危険な社会的武器の使用は許されない。従って、ゼネストの決行を思いとどまるよう私は労働組合の指導者に伝えた。」「私がこのような措置をとったのは、既に著しい脅威を受けている公共の福祉に対して致命的衝撃を与えることを未然に防止するためにほかならない。」と述べ、マッカーサーがゼネストに対して中止命令を出さざるを得なくなったことを明らかにした。その結果、全官公庁共闘も共産党も、ゼネストを中止せざるを得なくなり、全官公庁共闘は解散した。共産党や労働組合にとって、マッカーサーは決して解放者などではなかったのである。
 マッカーサーとGHQは、三井・三菱を始めとした財閥による独占的な経済支配が日本の軍国主義を招いたと考え、財閥解体を行った。財閥解体によって、財閥の創業者の一族と、その持ち株会社による財閥系企業の支配は解体され、財閥系企業は独立させられた。そして、1947年(昭和22年)4月に財閥の復活を阻止するため、独占禁止法を成立させた。更に、マッカーサーとGHQは、財閥系以外の大企業も解体しようとして、1947年(昭和22年)12月に過度経済力集中排除法を成立させた。ところが1948年(昭和23年)になって米ソの冷戦が激化し始めたため、アメリカ政府がマッカーサーとGHQに対して、日本を「反共の防壁」とするために、占領政策を、日本の産業を復興させる方向に変えるように迫った結果、過度経済力集中排除法に基づいて解体する大企業の数を大幅に減らさざるを得なくなった。また、もともと財閥解体には、アメリカ本国の財界や政界から反対の声があった。更に、独占禁止法も1949年(昭和24年)以降、企業による独占に対する規制を緩める方向に徐々に改正されていった。これらの理由によって、財閥や大企業の解体は中途半端なものになってしまった。その結果、やがて高度経済成長期になると、財閥は企業系列という形で復活するのである。
 このように、マッカーサーの改革や政策は、失策や一貫性を欠いたものが多く、とても理想的と言えるようなものではなかったのである。


なぜ憲法改正ができないのか

     なぜ憲法改正ができないのか

 

 一体、日本人にとってマッカーサーとは、いかなる存在なのか。それは、日本の憲法改正問題について考えてみれば理解できるのである。
 日本国憲法は、1947年(昭和22年)5月3日に施行されて以来、一度も改正されたことが無かった。そして日本国憲法の施行以来、自由な議論の場であるはずの国会で、憲法改正の議論をすることが長い間できなかった。大臣が憲法改正について発言しただけで辞任させられたこともあった。また、護憲論者と呼ばれる人たちは、憲法改正どころか、憲法改正の議論すらタブー視して認めようとはしなかった。そして、2000年(平成12年)1月に、国会内に憲法についての議論をするための憲法調査会が設置されたが、これを作ろうとした時も、一部の国会議員から「憲法改正の恐れがある。」などと言われて危険視された。一体どうして憲法改正を「恐れ」なければいけないのか。日本人の憲法改正に対する態度は、実に奇妙なものであると言わざるを得ない。
 このように、日本人の憲法改正に対する態度は、どう考えても普通の国とは違う。世界中どこの国でも憲法改正は通常の法律の改正と同様に議論され、何度も改正が行われている。これはアメリカやドイツのような法治国家のみならず、中国やロシアのような法の支配が確立されていない国さえ同じことである。
 日本で憲法改正ができない理由は、日本国憲法の改正条項(九十六条)にあると言う意見がある。日本国憲法の改正条項では、憲法改正原案が衆参両院の三分の二以上の賛成を得ることによって憲法改正が発議され、国民投票の過半数の賛成で憲法改正が承認されることになっているが、これでは改正の障壁が高すぎるため、憲法改正は事実上不可能だと言うのである。しかし、世界には憲法改正に高い障壁を設けている国は数多く存在する。そして、日本と同様に憲法によって国会の三分の二以上の賛成が無ければ憲法改正ができないと定められている国も、アメリカやドイツを始めとして、いくつも存在するのである。しかし、そういった国々でも憲法改正は何度も行われているのが現実である。従って、日本国憲法の改正条項が、憲法改正ができない理由だという意見は明らかに見当違いである。
 また、日本で憲法改正ができない理由が日本国憲法の改正条項にあるという意見は、日本の国会の状況から考えても見当違いである。たとえば、もし、日本の国会議員たちによって自由闊達な憲法改正の議論が行われ、憲法改正原案が作られ、国会で憲法改正を発議するための決議が何回行われても、決議に賛成する議員の数が、なかなか三分の二に達しないために憲法改正に至らないとでも言うのなら、日本国憲法が改正できない原因は改正条項であると言える。しかし現実は、日本国憲法が施行されて以来、日本の国会では、憲法改正を発議するための決議どころか、憲法改正原案を作るための議論さえ行われたことが無かったのである。2007年(平成19年)5月14日に参議院本会議で、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。この国民投票法では、衆参両院に憲法改正原案を審査するための憲法審査会が設置されることになっているが、実際に最初の憲法審査会が開かれたのは、2011年(平成23年)10月21日であり、議論が始まったのは翌月の11月18日であった。つまり、国会議員たちが憲法審査会の議論を始めるまで、国民投票法の成立から実に四年以上もの年月がかかってしまったのである。しかも、憲法審査会の議論が始まったと言っても、憲法改正原案を作るための議論は、いまだに始まっていないのである。このような国会の状況では、たとえ日本国憲法が通常の法律と同じ手続きで改正できるものであっても改正は困難である。
 そもそも、日本で憲法改正ができない理由が日本国憲法の改正条項にあると言う意見は、憲法改正に賛成する国会議員の数が衆参両院の三分の二以上になることは困難であるということを前提にしている。ところが、2016年(平成28年)7月10日に行われた参議院選挙の結果、衆参両院で、憲法改正に前向きと言われている政党の議席数が、憲法改正の発議に必要な三分の二を超えることになったのである。従って、日本で憲法改正ができない理由が、日本国憲法の改正条項にあるという意見からすると、この参議院選挙以降は、憲法改正が可能になったことになる。ところが実際は、国会における憲法改正への動きが活発になったわけではない。憲法審査会では、依然として憲法改正原案を作るための自由闊達な議論など行われてはいないのである。従って、憲法改正ができない理由が、日本国憲法の改正条項ではないことは明らかである。
 日本で憲法改正ができない直接の理由は、国会議員が憲法改正原案を作るための議論を、いつまでたっても始めようとしないことである。一体、なぜ日本の国会議員は憲法改正原案を作るための議論を始めようとしないのか。マッカーサーによる日本国憲法の制定以来、憲法改正ができなかった真の原因は何なのか。この点について考えてみたい。
 最初の日本の憲法である大日本帝国憲法は、伊藤博文や井上毅らがドイツの憲法を参考に草案を作り、1889年(明治22年)2月11日に明治天皇の名で発布された。大日本帝国憲法は、施行されてから太平洋戦争に敗れた1945年(昭和20年)までの間、一度も改正されたことが無かった。しかし、改正されたことが無かったと言っても、大日本帝国憲法を運営する上で何の問題も無かったため、改正する必要が無かったということではない。
 明治体制下の日本では、統帥権干犯問題が起きてから、軍部は大日本帝国憲法に定められた天皇の統帥権を盾にとり、内閣や議会が軍の行動に対して介入することを拒否するようになった。これが当時の日本の議会が政治の主導権を失った一因であることは言うまでも無い。しかし、これに対して、誰一人として、天皇の統帥権を定めた憲法の条項を改正しようとは考えなかった。一部の学者や言論人の中には、明治体制下の日本で統帥権干犯問題が起きたのは、大日本帝国憲法に欠陥があったからだという意見がある。その欠陥とは、大日本帝国憲法は、軍に関しては「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明確に記しているのに、内閣総理大臣と、その権限に関しては何も記していないことだと言うのである。しかし、仮に大日本帝国憲法に欠陥があり、それが原因で統帥権干犯問題が起きたのだとしても、憲法に欠陥があったこと自体が問題だったと考えるべきではない。なぜなら、憲法に何らかの欠陥があったなら、改正すればよかったからである。つまり、仮に憲法に欠陥があったとしても、欠陥のある個所を改正できなかったことこそ問題にすべきなのである。なぜなら、憲法を含めた、あらゆる法律や制度は、政治や社会の情勢の変化にともない実状に合わないものになってしまうのは、やむを得ないからである。いかに先見の明がある人間や天才でも、五十年も百年もの将来を予測し、いかなる事態が生じても適切に対処できる法律や制度を作ることは不可能である。従って、憲法を含めた、いかなる法律や制度も、時代や社会の変化と共に常に見直しを続け、問題が生じたら、その度に作り替えていくしかないのである。法律や制度とは、こういうものである。
 また、憲法学者の美濃部達吉は、いわゆる天皇機関説を唱え、憲法解釈によって議会政治を正当化した。美濃部達吉は、大日本帝国憲法に記された天皇の統治権に関する条文を「統治権は法人たる国家に属し、天皇は法人たる国家の最高機関として、内閣などの機関から輔弼を受けながら国家人民のために統治権を行使する。」と解釈した。これがいわゆる天皇機関説である。この美濃部達吉の憲法解釈は、「大正デモクラシー」の時期には学界や官界での憲法解釈の主流となり、議会政治を正当化していた。しかし、1934年(昭和9年)に天皇機関説は、これに反対する国会議員や軍人によって排撃され、翌年の1935年(昭和10年)に、美濃部達吉は不敬罪で告訴され、貴族院議員を辞職させられてしまった。そして、時の岡田内閣は国体明徴声明を出し、統治権は天皇にあることを明確にして美濃部達吉の憲法解釈を否定した。しかし、一体なぜ、美濃部達吉を始めとした当時の憲法学者たちは、憲法解釈ではなく、憲法改正による議会政治の正当化を考えようとしなかったのか。
 明治体制下の日本で大日本帝国憲法が改正されなかった直接の理由は、明治体制下の日本人の多くが、憲法改正の権限は天皇のみにあり、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはならないと考えていたからである。
 明治体制下の日本人が、このように考えた理由は、大日本帝国憲法の内容にあると言う意見がある。
 大日本帝国憲法の改正手続きを定めた第七十三条には次の文が記されている。
 「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」
 そして大日本帝国憲法の前文に該当する部分には次の文が記されている。
 「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」
 これらの文は、大日本帝国憲法の改正を発議する権限は天皇のみにあると解釈されていた。そのため、多くの日本人が、天皇以外の者は憲法改正を主張できないと信じていたと言うのである。しかし、よく考えてみれば、大日本帝国憲法の改正を発議する権限が天皇のみにあることと、天皇以外の者が憲法改正を主張できないことは全くの別問題である。たとえば、戦後体制下の日本国憲法の改正条項では、憲法改正の発議は衆参両院の決議によって行われることになっている。つまり、憲法改正の発議をする権限は、国会議員のみにあることになる。だからと言って、国会議員以外の者が憲法改正を主張できないわけではない。従って、大日本帝国憲法の改正を発議する権限が天皇のみにあったため、天皇以外の者が憲法改正を主張できなかったという意見は、全く理屈になっていないのである。従って、大日本帝国憲法の改正を発議する権限が天皇のみにあるという憲法解釈が、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはならないと考えられていた理由ではないことは明らかである。
 また、大日本帝国憲法の「憲法発布勅語」の中には次の文が記されている。
 「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」
 この文の中の「不磨ノ大典」と言う言葉は、「永久に不滅の完璧な大典」と言う意味である。この「不磨ノ大典」という言葉が、憲法改正を否定する意味に解釈されたため、憲法改正ができなかったという意見がある。
 もし、明治体制下の日本が近代国家だったなら、当時の日本人は近代国家の原点である社会契約説を受け入れていたことになる。そして、社会契約説では、あらゆる法律や制度は人間が自由に改正できることになっており、これに関しては憲法も例外ではない。従って、もし、明治体制下の日本が近代国家であり、「不磨ノ大典」という言葉が大日本帝国憲法の改正を否定するものと解釈されていたとすれば、人間が自由に憲法を改正することを否定する言葉に対して、多くの日本人が反発していたはずである。しかし、実際は、そのようなことは無かったのである。従って、「不磨ノ大典」という言葉が原因で明治体制下の日本人に憲法改正ができなかったとすれば、明治体制下の日本が近代国家ではなかったことになるのである。
 既に述べたように、明治体制下の日本では、現人神たる明治天皇の名において軍人勅諭や教育勅語が発布された結果、神聖不可侵な天皇教の聖典となり、改正も、改正のための議論もできなかったのである。このことから、明治体制下の日本が近代国家ではなかったことは明らかである。
 明治体制下の日本で、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはならないと考えられていた真の理由は、大日本帝国憲法が、現人神たる明治天皇の名において発布された結果、軍人勅諭や教育勅語と同様の神聖不可侵な天皇教の聖典になってしまったからである。つまり、明治体制下の日本人にとっての天皇は、キリストやアッラーと同様に規範を作る権限を持った神であったため、大日本帝国憲法は、聖書やコーランと同様の聖典になってしまったのである。そして、宗教の聖典に書かれた内容を変更できるのは、規範を作る権限を持った神のみであるため、明治体制下の日本で天皇教の聖典と化した大日本帝国憲法を改正する権限を持つのは、現人神たる天皇のみということになったのである。つまり、本来は人間が作った法律であるはずの憲法が、神が造った聖典に化けてしまっていたのである。これは、言わば「憲法の聖典化」とでも言うべき現象である。
 明治体制下の日本人にとって、「聖典化」した大日本帝国憲法を人間の意志によって改正する行為は、現人神たる天皇を冒涜する行為に他ならなかった。従って、明治体制下の日本では、ほとんどの者が、憲法改正など恐ろしくて口にも出せなかった。そのため、現人神たる天皇が自ら改正を口にしない限り、憲法改正はできなくなってしまったのである。その結果、キリスト教徒やイスラム教徒に聖書やコーランの改正が不可能であるのと同様に、明治体制下の日本人にとって大日本帝国憲法の改正は不可能になってしまったのである。「憲法の聖典化」なる現象が起きたことが意味するのは、明治体制下の日本が近代国家ではなかったということである。
 明治体制下の日本人にとって、現人神たる天皇以外は手を触れることが許されなかった神聖不可侵な聖典である大日本帝国憲法は、アメリカ軍の占領下でマッカーサーによって改正され、日本国憲法が制定された。ところが、マッカーサーが去った後は、誰にも日本国憲法を改正することができなくなってしまったのである。もし、アメリカ軍の占領下で憲法改正が可能だった理由が、日本が近代国家になった結果だとしたら、アメリカ軍の占領が形式的に終わった後の日本でも憲法改正が可能だったはずである。しかし、戦後体制下の日本で憲法改正の必要性を主張した政権はいくつもあったが、実際に憲法改正に着手できた政権は一つも無かった。戦後体制下の日本が近代国家になっているのなら、憲法といえども国民が自由な意志によって改正できる法・制度の一つに過ぎないことになる。従って、たとえ改正にまで至らなくても、国会内で憲法改正の議論ぐらいは為されて当然である。
 戦後体制下の日本で日本国憲法が改正できなかった理由の一つに、護憲論者の存在がある。護憲論者は、日本国憲法を一字一句変えただけで平和主義と民主主義が崩壊すると言って憲法改正に反対している。更に、護憲論者は、憲法改正どころか、憲法改正を議論することさえタブー視して反対している。護憲論者が認めるのは、憲法解釈に関する議論のみである。戦後体制下の日本の社会では、護憲論者が大きな発言力を持ち、国民や政治に大きな影響を与えていた。しかし、護憲論者の発言を聞いていると、国家や憲法といった制度は、人間の自由な意志によって作られるものだという近代的な感覚が欠如していることが分かるのである。
 護憲論者は、自分たちが憲法改正に反対するのは平和主義の理念を守るためだと言っている。ところが現実は、自衛隊や日米安保条約といった護憲論者にとっては平和主義の理念に反する憲法違反のものが、戦後体制下の政権によって長い間維持されて来たのである。これらは、いわゆる解釈改憲によって正当化されているものである。解釈改憲とは、憲法解釈を変更したり拡大解釈をしたりするなどして憲法を運営する方法を変えることによって、実質的に憲法を変更することである。この現状に対して、平和主義者の一部には、平和主義の理念を実現するためには自衛隊や日米安保条約といった平和主義の理念に反するものを持てないようにする必要があり、そのためには日本国憲法を解釈改憲ができないような、より厳しい内容に改正すべきだという意見がある。ところが、この意見に対して、護憲論者は邪道だと言って反対しているのである。つまり護憲論者には、日本国憲法が自分たちの言う平和主義の理念を守る手段として最適なものだと言えるのか否かを検討して見ようという考えが無いのである。なぜなら護憲論者にとっては、日本国憲法は史上最高の憲法であり、完全無欠なものだということになっているからである。しかし、そもそも人間が作ったものは、法律にしろ、制度にしろ、技術にしろ、工業製品にしろ、完全無欠なものなどあり得ない。たとえ一見して完全無欠なものに見えたとしても、どこかに誤りや欠陥があるかもしれないのである。また、それが最初に作られた時には問題が無くても、時代や状況が変われば問題が生じるかもしれないのである。だから人間が作ったあらゆるものは、常に見直しを続け、問題や欠陥が見つかり次第、直ちに作り直したり修正したりすることを繰り返さなければならないのである。もし、人間が作ったものであるにもかかわらず、誤りも欠陥も全く無く、作り直したり修正したりする必要が永久に無いと考えられているものがあるとすれば、それは全知全能の神が作った神聖不可侵なものだと考えられているのと同じである。つまり、護憲論者は、日本国憲法を神聖視しているのである。
 また、護憲論者が、平和主義の理念を守るために憲法改正に反対すると言うのなら、平和主義の理念を記した前文と九条以外の条項の改正には反対する理由が無いはずである。ところが護憲論者は、前文と九条以外の条項の改正にも反対しているのである。その理由として護憲論者が言っていることは、前文と九条以外の条項といえども、一度改正されてしまえば、それが憲法改正の前例となり、その前例に基づいて前文と九条も改正されてしまう可能性があるからだということである。つまり護憲論者が言っていることは、憲法改正の前例を作らせないことによって、日本国憲法は改正できないものだという考えを国民に植え付けて、日本国憲法を国民の自由な意志で改正できないものにしようということなのである。これは明らかに、国家や憲法といった制度は人間の自由な意志によって作られるものだという近代国家の理念を否定する考えである。
 要するに、護憲論者は、憲法がどのような内容に改正されるのかを問題にしているのではなく、改正するという行為そのものを問題にしているのである。憲法九条を軍隊が持てるような内容に改正するのも、より厳しく軍隊が持てないような内容に改正するのも、改正することには変わりが無いのである。だから、護憲論者は、いかなる内容の憲法改正であっても反対するのである。
 このように、護憲論者には、憲法は人間の自由な意志によって作られた制度であり、人間の自由な意志によって作り変えることができるという近代的な感覚が無いことは明らかである。そして、日本国憲法を神聖視し、憲法改正論議をタブー視し、憲法解釈を巡る論争のみを認めるということは、護憲論者は、日本国憲法を法律ではなく、聖書やコーランのような宗教の聖典と同じ感覚で扱っているとしか考えようがないのである。日本国憲法を宗教の聖典と同じ感覚で扱っている護憲論者は、たとえ憲法の条文を一字一句改正するだけでも、或いは改正を考えるだけでも、「平和憲法」や戦後体制の否定だと考え、憲法改正に反対しているのである。つまり、護憲論者にとっての日本国憲法は、明治体制下の大日本帝国憲法と同じく、神聖不可侵な聖典と化しているのである。つまり、戦後体制下の日本でも「憲法の聖典化」が起きているのである。
 日本の国会では、護憲論者は少数派であり、改憲論者が多数派である。従って、「憲法の聖典化」が護憲論者に限った現象なら、多数派である改憲論者の国会議員によって憲法改正が行われていたはずである。ところが、護憲論者は、国会議員の数では少数派であっても、発言力では改憲論者を圧倒しているのである。そのため、日本の国会議員たちは、護憲論者の言いなりになって憲法改正に二の足を踏んでいるのである。2016年(平成28年)7月10日に行われた参議院選挙の結果、改憲勢力とされる政党が、衆参両院で憲法改正の発議に必要な三分の二の議席数を超えることになったにもかかわらず、護憲勢力とされる政党の抵抗によって、憲法改正どころか憲法審査会で憲法改正論議を始めることさえできないのが現実である。たとえば、護憲勢力とされている立憲民主党は、国民投票におけるテレビCMなどの規制を強化することを主張し、国民投票法改正案の採択に応じようとしていないが、これは明らかに憲法審査会で憲法改正論議を始めることを阻止することが目的の行為である。こういった行為に対して、自由民主党を始めとした改憲勢力とされる政党は、全く対抗することができず、立憲民主党の言いなりになり、いつまでたっても改憲論議が始められないのが現実である。
 一体、なぜ、改憲論者が護憲論者の言いなりになるのか。その理由は、意識の上では自分のことを護憲論者だとは思っていない日本人も、無意識の中では「憲法の聖典化」が起きているからである。既に述べたように、人間は、意識の上で考えていることと無意識の中で考えていることが矛盾していることがある。そして、意識の上で考えていることと無意識の中で考えていることが矛盾している場合、人間は、無意識の方に従ってしまうのである。そのため、意識の上で考えていることと実際に行われていることが異なるようなことが起きる場合もあるのである。つまり、意識の上では自分のことを護憲論者だとは思っていない日本人も、無意識の中の「憲法の聖典化」によって、実質的な護憲論者になってしまっているのである。その結果、改憲論者を含めた大多数の日本国民も、そして国会議員たちも、無意識の内に憲法改正に対して抵抗してしまうのである。そのため、国会議員たちは、いつまでたっても様々な理由を述べては憲法審査会での改憲論議を始めようとしないのである。この「憲法の聖典化」と言う現象のために、戦前も戦後も日本人には憲法改正ができなかったのである。
 このように、戦後体制下の日本では、現人神が作った聖典という明治体制下の大日本帝国憲法のあり方が、そのまま日本国憲法に受け継がれてしまったのである。しかし、そうすると、太平洋戦争後も現人神たる天皇以外には憲法改正の権限が無いことになってしまう。ところが現実は、マッカーサーによって大日本帝国憲法は改正されてしまったのである。一体どうして現人神たる天皇にしかできないはずの憲法改正がマッカーサーに可能だったのか。
 このことを考えるためには、日本国憲法制定の過程を見てみる必要がある。
 マッカーサーの日本に対する占領政策の目的は、日本を二度とアメリカの軍事的な脅威にならない国にすることだった。マッカーサーは、この目的を達成するためには大日本帝国憲法を改正する必要があると考えた。そこでマッカーサーは、当時の幣原内閣に対して憲法改正を要求した。これに対して幣原内閣は、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法改正のための調査会である憲法問題調査委員会(松本委員会)を1945年(昭和20年)10月25日に発足させた。やがて、憲法問題調査委員会は憲法改正草案をとりまとめ、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱」としてGHQに提出した。しかし、この「憲法改正要綱」は、大日本帝国憲法の内容を根本的に変更するものではなかった。つまり、当時の日本の指導者には、大日本帝国憲法の下の天皇制国家とは異なる国家体制など全く考えられなかったのである。この「憲法改正要綱」のおおよその内容は、1946年(昭和21年)2月1日に毎日新聞が憲法問題調査委員会の試案を報じたことによって明らかになった。マッカーサーは、この憲法問題調査委員会の試案を否定し、GHQ独自の憲法改正草案を作ることを決定した。そこでマッカーサーは、「天皇制存続」「戦争放棄・戦力不保持」「封建的制度の廃止」という、いわゆる「マッカーサー三原則」を盛り込んだ憲法改正草案を作ることをGHQの民政局に命じた。GHQの民政局は、1946年(昭和21年)2月4日から極秘の内に憲法改正草案を作る作業を開始し、2月12日に完成させた。そして2月13日に、GHQ独自の憲法改正草案が日本政府の首脳に示された。このマッカーサーの命令によって作られたGHQ独自の憲法改正草案に対して、日本政府の首脳は全く抵抗することができなかった。GHQの憲法改正草案は、衆議院による審議の結果、多少の修正は為されたが、ほとんどGHQの民政局が作った草案通りの憲法ができあがってしまったのである。
 日本の指導者たちには、大日本帝国憲法の下の天皇制国家とは異なる国家体制など全く考えられなかった。従って、マッカーサーが日本国憲法を成立させるためには、日本の指導者たちに対して何らかの強制力を行使する必要があった。その強制力の一つが、超大国アメリカの政治力と武力を背景にしたマッカーサーの強大な権力であったことは言うまでも無い。しかし、日本国憲法が、強大な権力による強制によってのみ成立したのなら、そのような一方的な権力の行使に対して、日本の指導者や国民の反発が起きていたはずである。しかし、日本の指導者や国民が、日本国憲法の制定に対して反発するような行動を起こしたことなど一度も無かったのが現実である。つまり、マッカーサーに日本国憲法の制定ができたのは、マッカーサーの強力なカリスマの力によって日本の指導者たちを含めた多くの日本人の意識が変えられた結果でもあったのである。
 ただし、議会制民主主義の理念からすれば、日本国憲法制定の過程は、民主主義国家の根幹と言うべき主権在民を否定するものである。民主主義国家の理念からすれば主権者ということになっている国民のみならず、政府や議会さえも知らない所で、しかも国民の代表とは言えないGHQの民政局によって国家の基本法である憲法の草案が作られたのである。しかも、憲法改正草案が衆議院によって審査され、多少の修正が為されたと言っても、これにかかわっている国会議員たちは、マッカーサーの強大な権力を背景にしたGHQの監視下にあり、新憲法がマッカーサーとGHQの意向に反するものにならないように常に配慮していなければならなかったのである。つまり、日本国憲法の制定の過程には、日本の国会議員や国民の意志が反映される余地は、ほとんど無かったのである。
 ところが日本国民は、議会制民主主義の理念からすれば国民不在としか言いようがない日本国憲法制定の過程を知っても、自分たちの主権者としての立場が無視されていたことに怒りを表明したり、国民自身の手による新たな憲法の制定を政府に要求したりするといったことは全く行わなかったのである。つまり日本国民は、占領軍の司令官に過ぎないマッカーサーの主導によって、それも一般国民どころか日本政府の首脳さえ全く知らない内に憲法改正草案が作られたことを知っても、誰も日本国憲法の正当性に疑問を持たなかったのである。しかもマッカーサーによる憲法制定以降、長い間、日本国憲法の内容に異議を唱えたり、改正の必要を主張したりする勢力が、国政の場においても一般国民の間でも、大きな発言力を持つことは無かったのである。つまり日本国憲法の制定は、マッカーサーによって決定された結果、日本政府も日本国民も、マッカーサーの決定を、そのまま自分たちの意志として受け入れてしまったということである。それどころか戦後体制下の日本では、マッカーサーによって制定された日本国憲法を神聖不可侵な聖典として崇める護憲論者が大きな発言力を持つようになり、憲法改正は事実上不可能になってしまったのである。つまり、マッカーサーによって作られた日本国憲法は、戦後体制の下で「聖典化」したのである。これらの出来事は、明治体制下の大日本帝国憲法が、現人神たる明治天皇の名において制定されたことによって「聖典化」した結果、太平洋戦争に敗れるまでの間、一切の改正ができなくなってしまった状況と全く同じである。従って、マッカーサーが大日本帝国憲法を改正して聖典たる日本国憲法を制定できたのは、マッカーサーが明治天皇と同等の力を持っていたからだと考えざるを得ないのである。
 日本国憲法は、マッカーサーによって作られた聖典である。そして、日本において聖典を作る力を持った指導者は現人神である。明治天皇は、軍人勅諭、教育勅語、大日本帝国憲法と言う聖典を作ることができたゆえに現人神と言える。これと同じく、マッカーサーは、日本国憲法と言う聖典を作ることができたゆえに現人神と言えるのである。つまり、現人神と化したマッカーサーが戦後体制下の日本に「憲法の聖典化」を引き起こしたのである。これが憲法改正ができない理由である。


日本の民主主義は虚構だ!

     日本の民主主義は虚構だ!

 

 戦後体制下の日本の一般的な歴史観によれば、マッカーサーの改革によって戦後体制下の日本に議会制民主主義が成立したことになっている。しかし、議会制民主主義の理念では、主権者である国民によって選挙で選ばれた政治家のみが国民の代表である。そして、選挙で選ばれた国民の代表である政治家によって、国民の目に見える公開の場で、議会制民主主義の原則に従った意志決定が行われて、初めて民主的な手続きと言えるのである。たとえ公正な選挙で選ばれた政治家といえども、国民には見えない密室で意志決定をするのは議会制民主主義の原則に反するのである。2000年(平成12年)4月2日に小渕総理大臣が脳梗塞で倒れた後、森喜郎が内閣総理大臣に決定された時、あるアメリカのジャーナリストが、内閣総理大臣を決定する過程が不透明であることを理由に、日本に民主主義は存在しないと断言したのがよい例である。
 日本国憲法の草案は、日本国民から選挙で選ばれてはいないマッカーサーとGHQが、日本国民が全く知らない内に密室で作ったものである。そして、その草案が、ほとんどそのまま日本国憲法になってしまったのである。従って、事実上日本国憲法は、マッカーサーとGHQが密室で作ったものと言えるである。つまり、議会制民主主義の理念からすれば、マッカーサーとGHQが作った憲法に正当性など無いことになる。言い換えれば、マッカーサーとGHQが作った憲法を正統な憲法と認めるのは、選挙で選ばれていないマッカーサーとGHQを正統な国民の代表と認めるのと同じである。これは明らかに、議会制民主主義と主権在民を否定するものである。戦後体制下の日本に議会制民主主義が成立し、日本国民に主権在民と言う理念があるなら、日本国民は、このような主権在民を否定する行為は絶対に認めないはずである。
 2007年(平成19年)5月14日に憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。そして2010年(平成22年)5月18日には、国民投票法によって三年間凍結されていた憲法改正原案の国会への提出が可能になった。これによって、ようやく日本国憲法の改正が法的に可能になったのである。しかし本来、憲法改正は、憲法によって定められた国民の権利である。日本国憲法の施行から2007年(平成19年)に至るまで、憲法改正の法的な手続きを定めた法律が制定されていなかったということは、その間、国民が憲法を改正する権利が否定されていたことになるのである。憲法とは、国家のあり方を定めた基本法である。従って、国民が憲法を改正する権利とは、国民が国家のあり方を決定する権利なのである。
 主権在民と言う理念の始まりである社会契約説によれば、政治は国民の自由な意志によって行われ、国家は国民の自由な意志によって作られることになっている。つまり主権在民とは、国民が政治に参加するだけではなく、国家のあり方まで自由に決定する権利なのである。従って、国民が議会を通じて政治に参加するだけではなく、自由な意志によって憲法改正ができなければ主権在民とは言えないのである。つまり、日本の国会が日本国憲法の施行以来、2007年(平成19年)に至るまで憲法改正の法的な手続きを定めた法律を制定せず、憲法改正が法的に不可能だったということは、その間、日本国民が国会によって主権在民を否定されていたことになるのである。ところが、このような行為に対して、国民や言論人から国会に対する批判の声が起きることは全く無かったのである。これはまさに、戦後体制下の日本人が主権在民という理念を理解していない証拠なのである。
 つまり、戦後体制や戦後民主主義と呼ばれる国家体制の下の日本人には、主権在民という理念が無いのである。
 多くの日本人は、民主主義とは議会制度や選挙制度のことだと思い込んでいる。そして、言論人の中には、民主主義は制度であると言っている者までいる。つまり、議会制度や選挙制度のことを民主主義と言っているのである。その者たちは、議会制度や選挙制度が成立しただけで、民主主義が成立するものだと思い込んでいるのである。確かに、議会制度や選挙制度は、民主主義が成立するために必要な制度ではあるが、主権在民という理念こそ民主主義の根幹である以上、これを受け入れなければ民主主義が成立したとは言えないのである。従って、戦後民主主義とも呼ばれる戦後体制は、欧米人の言う民主主義体制とは全く異なる奇怪なものであると言わざるを得ないのである。
 何度も言うように、人間は、意識の上で考えていることと無意識の中で考えていることが矛盾した場合、無意識の方に従ってしまうため、意識の上で考えていることと実際に行われていることが異なるようなことが起きる場合もある。その典型的な例が、日本人にとっての国家のあり方であり、更に、日本の国会議員に憲法改正ができないことなのである。
 日本人の意識の上では、マッカーサーの改革によって明治体制が消滅して戦後体制が成立した結果、日本が民主主義国家に生まれ変わったことになっている。ところが、明治体制から戦後体制に変わっても、日本人の無意識の中に存在する国家のあり方は全く変わっていないのである。
 それは、「日本国民は、現人神によって指導され、現人神によって作られた聖典に基づいて統治される。」というものである。
 明治体制下の日本における現人神は天皇であり、現人神たる天皇によって作られた聖典が、軍人勅諭であり、教育勅語であり、大日本帝国憲法である。そして、戦後体制下の日本における現人神はマッカーサーであり、現人神たるマッカーサーによって作られた聖典が日本国憲法なのである。つまり、日本人の無意識の中には現人神を信仰する伝統が定着していて、今でも日本人の考え方や行動、更には国家のあり方にまで決定的な影響を与え続けているのである。
 護憲論者たちの言う民主主義とは、現人神たるマッカーサーが作った聖典である日本国憲法に基づいて日本を統治することである。そして、護憲論者たちが憲法改正に反対する理由は、聖典としての日本国憲法を守るためである。聖典を書き換えることができるのは、規範を作る権限を持つ神のみであり、人間には規範を書き換える権限は無い。そのため、聖典が一字一句といえども人間の手によって書き換えられてしまったら、それはもはや聖典ではない。従って、もし、一字一句といえども日本国憲法が人間の手によって改正されたら、日本国憲法は聖典ではなくなってしまうのである。その結果、聖典に基づいて日本を統治することができなくなってしまうのである。護憲論者たちにとって、それは民主主義の崩壊である。護憲論者たちは、無意識の中でこのように考えているのである。そこで護憲論者たちは、一字一句といえども日本国憲法が改正されたら民主主義が崩壊すると言って憲法改正に反対しているのである。
 また、護憲論者は、日本国憲法が二十一世紀の世界にも通用すると主張している。しかし、これは言い換えれば、マッカーサーは二十一世紀の世界がどのような状況になるのかを的確に予見し、二十一世紀の世界で起き得るあらゆる状況に対応できる完璧な憲法を作ったということになるのである。しかし、普通の人間には五年先や十年先を予見することさえ困難である。更に、二十年も三十年も先のことを予見できる者がいるとすれば、よほどの天才である。ましてや日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)の時点で、百年以上先の世界の状況をマッカーサーが的確に予見していたとすれば、それはまさに神の為せる業である。つまり、マッカーサーが二十一世紀の世界に通用する憲法を作ったとすれば、それはマッカーサーが全知全能の神にも匹敵するような能力を持っていたことになるのである。しかし現実は、1950年(昭和25年)6月に朝鮮戦争が勃発した結果、マッカーサーは、7月には日本政府に対して憲法九条を棚に上げて自衛隊の前身である警察予備隊の創設を命じざるを得なくなった。つまり、1946年(昭和21年)2月にGHQが憲法改正草案を出してから五年もたたないうちに、日本国憲法の内容に誤りのあることが明らかになったのである。これはマッカーサーが、将来を予見する能力が普通の人間と全く同じ程度のものだったことを意味するのである。それにもかかわらず、護憲論者はマッカーサーの作った憲法が二十一世紀の世界に通用すると信じているのである。これは、護憲論者が無意識の中で、日本国憲法を、全知全能の神たるマッカーサーが作った宗教の聖典として信仰しているとしか考えようが無いのである。要するに、マッカーサーが作った日本国憲法が二十一世紀の世界にも通用するという護憲論者の主張は、マッカーサーの神格化に他ならないのである。ただし、護憲論者自身にはマッカーサーを神格化しているという認識は無い。護憲論者は無意識の中でマッカーサーを現人神として信仰しているのである。つまり、日本国憲法を宗教の聖典として信仰すれば、日本国憲法を作ったマッカーサーを明治体制下の天皇と同様の現人神に祭り上げることになるのである。
 そして、日本の国会議員が憲法改正の議論を始めようとしない原因も、日本人の無意識の中に定着した現人神を信仰する伝統なのである。現人神を信仰する伝統において、憲法は現人神が作った神聖な聖典であり、これを人間の手によって改正するのは現人神を冒涜する野蛮な行為であり、否定すべきことである。日本の国会議員の多数が日本国憲法の改正が必要であると考える改憲論者である。ところが、意識の上で憲法改正が必要であると考えていても、無意識の中では、憲法改正は神聖な聖典である日本国憲法を冒涜する野蛮な行為であると考えているため、無意識に従って憲法改正を拒絶してしまうのである。そのため、改憲論者の国会議員が護憲論者の国会議員の言いなりになり、いつまでたっても憲法審査会における改憲論議が始められないのである。言わば、改憲論者とは、改憲論者になったつもりでいる護憲論者なのである。
 イスラム教徒にとってコーランを信仰することとアッラーを信仰することが一体であるのと同様に、日本人が憲法を神の作った宗教の聖典として信仰することと現人神を信仰することは一体の関係にあるのである。従って、戦後体制下の日本人は、依然として無意識の中では現人神を信仰する伝統を失ってはいないと言えるのである。日本人の無意識の中に存在する現人神を信仰する伝統が、護憲論者を生み出し、憲法改正を不可能にしているのである。
 1946年(昭和21年)1月1日、昭和天皇は、いわゆる人間宣言を行い、自ら、天皇が現人神であることを否定した。その結果、建前では、日本は現人神たる天皇が統治する国家ではなくなり、欧米流の議会制民主主義の国家に生まれ変わったことになっている。そして国民が天皇に代わって主権者となり、天皇は国家の象徴になったことになっている。ところが日本人は、昭和天皇の人間宣言以降も、無意識の中では現人神が最高指導者であるという考えに変化がなかったのである。つまり、昭和天皇は人間宣言によって天皇が現人神であることは否定したが、日本が現人神の統治する国家であることまでは否定できなかったのである。一方、マッカーサーは、超大国となったアメリカの政治力と武力を背景に実質的な支配者として日本に君臨し、占領統治を行っていた。しかもマッカーサーは、強力なカリスマと、多くの日本人に強烈な存在感を与える個性を持っていた。そのため、日本人は無意識の内に、アメリカの一軍人に過ぎないマッカーサーを、天皇に代わる新たな現人神として受け入れてしまったのである。そしてマッカーサーは、現人神としての権限によって日本国憲法という聖典を作ったのである。このようにして戦後体制や戦後民主主義と呼ばれる国家体制が成立したのである。
 明治維新から太平洋戦争の敗戦まで七十年以上の間、現人神たる天皇が国家に君臨した結果、日本人の無意識の中に、現人神という宗教的な力を持った者が国家を統治する伝統が定着してしまったのである。そして、この伝統は、太平洋戦争の敗戦と、それに続くアメリカによる占領統治という衝撃を受けても変わることは無かったのである。つまり、天皇以外の者は正統な最高指導者になれない天皇制の伝統と同様に、現人神を信仰する伝統も、ヨーロッパの貴族制度やインドのカースト制度のように日本の社会に定着し、いかなる手段によっても変更できなくなっているのである。その結果、日本人は無意識のうちに、現人神でなければ最高指導者ではないと思い込むようになってしまったのである。そのため、日本人は、現人神となったマッカーサーを実質的な最高指導者として受け入れてしまったのである。そして、日本の国会議員が憲法に定められた民主的な手続きに従って内閣総理大臣に就任しても、現人神ではない以上、日本国民は最高指導者とは認めないのである。つまり、現人神を信仰する伝統は、日本国民や国会が民主的な手続きによって国家の最高指導者を選ぶ権利を否定しているのである。このように、現人神を信仰する伝統が存在することも、内閣総理大臣が日本の最高指導者になれない理由なのである。
 現人神が作った聖典である日本国憲法は人間の意志では変更できないため、国民も国会議員も憲法改正ができない。そして、国民から選ばれた国会議員の代表である内閣総理大臣といえども、現人神ではないため、国家の最高指導者ではない。このように、日本人の無意識の中に定着した現人神を信仰する伝統は、国民や国会が自らの意志で自由に憲法改正を行ったり最高指導者を選んだりする権利を否定しているのである。つまり、現人神を信仰する伝統は、明治体制下の日本人から戦後体制下の日本人に受け継がれ、主権在民を否定し続けているのである。戦後体制や戦後民主主義と呼ばれる国家体制は、現人神を信仰する伝統という、主権在民を否定する伝統の上に成り立っているのである。しかし、主権在民を否定する民主主義などあり得ない。従って、戦後体制下の日本が民主主義国家であるという考えは虚構に過ぎないのである。このように、戦後体制下の日本は、明治体制下の日本と同様、民主主義国家でも近代国家でもないのである。
 アメリカの占領中にマッカーサーによって行われた改革や政策に対して日本人が全く抵抗できなかったのは、天皇に代わって現人神となったマッカーサーの権威に日本人が完全に屈服していたからである。更に、日本人がマッカーサーを解放者として賛美したのは、現人神たるマッカーサーを崇拝するお祭り騒ぎに国民を挙げて興じていたということである。
 1951年(昭和26年)4月、マッカーサーはトルーマン大統領によって連合国最高司令官の役職を解任された。そしてマッカーサーの後任の連合国最高司令官に就任したのがリッジウェイ中将である。しかし、このリッジウェイなる人物は、日本人に対してマッカーサーのような強烈な印象を残すことは無かった。そして日本国民はリッジウェイに対して、マッカーサーに対して行ったような、お祭り騒ぎに興じることも無かった。つまりリッジウェイは、マッカーサーのような強力なカリスマや強烈な個性を持っていなかったため、現人神になることは無かったのである。マッカーサーが現人神になった理由が、超大国アメリカの強大な政治力と武力を背景に日本に対して占領統治を行うことにより、実質的な日本の支配者になったというだけのことだったなら、リッジウェイもマッカーサーのような現人神になっていたはずである。つまり、マッカーサーが現人神になったのは、マッカーサーが超大国アメリカの政治力と武力を背景に日本の支配者になった上で、日本人の現人神を信仰する伝統とマッカーサーの強力なカリスマや強烈な個性が噛み合った結果、偶然に起きた現象なのである。そして、マッカーサーが現人神となったことによって日本国憲法の制定が可能になったのである。従って、もし、最初からリッジウェイが連合国最高司令官だったら、日本国憲法は制定できず、その結果、戦後体制は成立しなかったと考えざるを得ないのである。戦後体制の成立は、マッカーサーという特異な人物の存在抜きには、あり得なかったのである。
 現人神と化したマッカーサーが作った聖典である日本国憲法を崇め、絶対服従するのが戦後体制と呼ばれる国家体制の本質なのである。つまり、明治体制下の日本が天皇教国家だったのに対して、戦後体制下の日本はマッカーサー教国家なのである。要するに、戦後体制の成立とは、天皇教からマッカーサー教への改宗なのである。かつて森喜郎総理大臣は、「日本は天皇を中心としている神の国」と言ったが、私に言わせれば、戦後体制下の日本は、「マッカーサーを中心としている神の国」なのである。
 そして、平和主義者や護憲論者にとってマッカーサー教の教えの主たるものは平和主義である。従って、平和主義者や護憲論者にとっての日本国憲法は、「平和教」の聖典なのである。平和主義者や護憲論者が憲法改正を恐れるのは、日本国憲法が、現人神と化したマッカーサーが作った「平和教」の聖典だからである。日本国憲法を聖典という感覚で理解している平和主義者や護憲論者にとっての憲法改正は、キリスト教徒やイスラム教徒が聖書やコーランを人間の意志によって書き換えるのと同じことである。宗教の聖典は、それに記された一字一句に至るまで神聖不可侵な神の言葉であり、神の創造物に過ぎない人間の手を加えることは許されない。従って、人間の意志による聖典の改正とは、聖典の権威の否定であり、宗教を全面的に否定することを意味するのである。これと同様に、日本国憲法を「平和教」の聖典という感覚で受け入れている平和主義者や護憲論者にとっては、一字一句といえども日本国憲法に人間の手を加えることは、「平和教」の聖典たる日本国憲法の全面否定であり、平和主義や戦後体制を消滅させることを意味するのである。平和主義者や護憲論者は、理屈ではこのことがわからなくても、感覚的にはわかっているのである。そこで彼らは憲法改正を恐れるのである。要するに、平和主義者や護憲論者の言う憲法擁護とは、日本国憲法が持つ宗教的な権威を守ることなのである。
 つまり、一字一句といえども日本国憲法が改正されたら、それは、「平和教」の聖典としての日本国憲法が宗教的な権威を失い、平和主義や戦後体制が消滅したことを意味するのである。つまり、日本人にとって憲法改正とは一種の革命なのである。安倍総理大臣は、日本国憲法の改正に執念を燃やしているが、私に言わせれば、彼は、無意識の内に平和主義や戦後体制を消滅させようとしていることになるのである。そして、護憲論者は、無意識の内に平和主義や戦後体制を守ろうとしていることになるのである。
 日本の平和主義者たちは、日本が戦争を放棄して「平和国家」になった理由は、第二次世界大戦の悲惨な戦争体験だと言っている。確かに第二次世界大戦が悲惨な戦争だったことは事実であるが、第二次世界大戦で悲惨な戦争体験をしたのは何も日本人だけではない。日本と同様に敗戦国となったドイツやイタリア、そして戦勝国であるイギリス、フランス、旧ソビエト、中国といった国々も日本人に劣らない悲惨な戦争体験をしている。しかし、これらの国々が、日本のように戦争を放棄して「平和国家」になったわけではない。従って、日本人の悲惨な戦争体験が「平和国家」を生み出したとは言えないのである。
 日本の戦後民主主義者たちは、日本の民主主義が目指すのは、日本国憲法の理念に従い、日本を平和国家、すなわち戦争をしない国にすることだと主張している。しかし、民主主義をこのように考えている人間が存在する国は、第二次世界大戦後の日本だけである。このように、日本の戦後民主主義の理念は、欧米人の言う民主主義の理念とは全く異なるのである。マッカーサーの占領政策によって、民主主義とは名ばかりの似非民主主義国家が日本に誕生したのである。


日本国憲法は「占領基本法」だ

    日本国憲法は「占領基本法」だ

 

 戦後体制や戦後民主主義と呼ばれている太平洋戦争後の日本の国家体制は、日本政府による安全保障や国家の非常事態への対処といったものを全く無視して作られたものである。マッカーサーの日本に対する占領政策の最大の目的は、日本をアメリカの軍事的な脅威にならない国にすることだった。そのためマッカーサーは、非軍事化の名の下に帝国陸海軍の廃止、日本国憲法の制定など、日本を軍事的に無力化する政策を次々と実行していった。
 マッカーサーによる日本を軍事的に無力化する政策の中でも、とりわけ重大なものが日本国憲法の制定である。日本国憲法制定の本来の目的は、日本の非武装化である。
 日本国憲法の中でも、戦争放棄を定めた憲法九条には様々な解釈がある。
 たとえば日本政府の解釈によれば、憲法九条は、いわゆる侵略戦争のみを禁じたものであって、自衛権の行使と、自衛のために防衛力を保持することまで禁じたものではないと言うことになっている。従って、自衛の範囲ならば、防衛力の保持と武力行使は認められると言うのである。日本政府は、この憲法解釈に基づいて自衛隊の保持を正当化している。日本政府の憲法解釈の根拠は、「自衛権は国際法上あらゆる独立国家に認められている権利である。従って、日本が独立国家である以上、日本国憲法は、自衛のために必要最小限度の実力組織を保持することを否定してはいない。」という考えである。しかし、もし日本国憲法が日本政府の言うように、自衛隊のような戦力の保持と交戦権を認めているとすれば、日本国憲法九条二項の、「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」という条文を一体どう解釈するのか。九条二項は、明らかに戦力の保持と自衛権の行使を含めたあらゆる武力行使を否定するものである。実際、1946年(昭和21年)6月、日本国憲法の改正草案を審議する衆議院本会議の中で吉田茂総理大臣は、「憲法九条二項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄した。」と述べている。つまり、日本国憲法は、本来、日本の非武装化を目的にして作られたものであり、日本政府による国家の防衛は否定されていると考えざるを得ないのである。自衛権や自衛隊は、あくまで解釈改憲によって認められているものである。つまり、日本国憲法九条二項は、解釈改憲によって事実上削除されているのである。
 また、平和主義者の中には、日本国憲法九条を、武力を使わない安全保障を目指すものと解釈する人たちがいる。この解釈では、マッカーサーは、武力を使わない安全保障が可能だと考えていたことになる。しかし、朝鮮戦争当時のマッカーサーの行動を見れば、マッカーサーは、武力を使わない安全保障なるものが可能だとは全く考えていなかったことがわかるのである。1950年(昭和25年)6月25日、北朝鮮が韓国に対して武力攻撃を開始して朝鮮戦争が勃発した。これに対して、アメリカのトルーマン大統領は、極東アメリカ軍に対して出動を命令し、朝鮮半島におけるアメリカ軍の軍事行動の指揮権をマッカーサーに与えた。更に、国連の安全保障理事会の決議に基づきアメリカを主力とする国連軍が組織されたことを受け、トルーマン大統領はマッカーサーを国連軍総司令官に任命した。こうして朝鮮戦争におけるアメリカ軍と国連軍の最高責任者となったマッカーサーは、北朝鮮軍を韓国から撃退するため、アメリカを主力とする国連軍を朝鮮半島に派遣したのである。このマッカーサーの行動は、マッカーサーに、武力を使わなくても安全保障が可能だなどという考えは微塵も無かったことを示しているのである。マッカーサーは、朝鮮戦争の最中、中国の満州に対する核兵器の使用を含めた攻撃の必要性を主張したため、戦争の拡大を危惧したトルーマン大統領によって解任された人物である。つまり、マッカーサーは、自分の地位を失うような結果になっても上官たる大統領に対して自分の考えを主張できる人物であり、大統領の命令に唯々諾々として従うような人物ではなかったのである。従って、もし、マッカーサーが、本気で武力を使わない安全保障なるものが可能だと考えていたなら、トルーマン大統領に対して、武力を使わないで朝鮮戦争を収拾すべきだと主張したはずである。つまり、マッカーサーが北朝鮮軍を韓国から撃退するためにアメリカ軍を朝鮮半島に派遣したのは、アメリカ政府の決定であると同時にマッカーサー自身の意志でもあったのである。このことから、マッカーサーが、武力には武力で対抗するしかないという考えの持ち主であったことは明らかである。従ってマッカーサーが、日本国憲法に武力を使わない安全保障なるものを記したとは到底考えられないのである。もし、マッカーサーが武力を使わない安全保障なるものを日本国憲法に記したのなら、日本国憲法制定の中心人物であったマッカーサー自身が、その手本を日本政府や国民に見せなければ筋が通らない。しかし、実際は、マッカーサーが武力を使わないで朝鮮戦争を収拾しようとした形跡など全く無いのである。これでは、武力を使わない安全保障と言われても、日本政府も国民も何をしてよいのか全くわからない。また、一部の平和主義者は、武力を使わない安全保障の具体的な方法は、日本政府や国民が自分たちで考えて見つけるしかないと言っているが、それは無理なことである。なぜなら、武力を使わない安全保障の方法が見つかるまでの間の安全保障をどうするのかという問題があるからである。この問題ついて日本国憲法には何も記されていないのである。従って、日本国憲法九条は、あくまで日本の非武装化を目指したものであり、武力を使わない安全保障なるものを目指したものではないと言えるのである。
 日本の非武装化を目指し、日本政府による国家の防衛を否定する憲法が制定された背景には、当時の日本が置かれていた状況や国際政治もあったと考えられる。
 日本国憲法に戦争の放棄が記された背景には、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)当時の日本がアメリカの軍事占領下にあったということも考えられる。日本国憲法九条には、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」「陸海軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」と記されている。この日本国憲法九条に記された内容は、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)当時の日本が置かれていた状況そのものであるとも言える。当時の日本は、アメリカによる占領政策によって帝国陸海軍が解体され武力を全く持っていなかったため、事実上戦争を放棄していた。また、アメリカ軍によって占領され、国家の独立を失っているため、交戦権も無かった。結局、日本の防衛は、日本を軍事占領しているアメリカ軍が責任を負うしかなかった。従って、日本国憲法が作られた当時の日本では、日本の防衛は日本政府の役割ではなかったのである。
 また、日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)は、米ソ冷戦が激化する前であり、まだ共産主義勢力の脅威が深刻な問題にはなっていなかったため、ほとんど誰も共産主義勢力が日本の安全保障の脅威だという認識をしていなかった。そのため、当時の日本では、国家の安全を脅かすようなものが存在するという認識が無かったのである。
 これらの理由によって、マッカーサーが日本国憲法を作るにあたり、日本政府による国家の防衛を考える必要が無かったのである。
 つまり、日本国憲法は、日本がアメリカの軍事占領下にあり、日本の防衛は日本を軍事占領しているアメリカが行うという前提で作られているのである。しかし、本来、憲法は、国家が独立していることを前提に作られるものであり、外国軍によって軍事占領され、国家の独立を失っていることを前提に作られる憲法などありえない。従って、日本国憲法は、「占領基本法」とでも呼ぶべきものであり、憲法と呼べるような代物ではないのである。
 日本国憲法が作られた1946年(昭和21年)の時点では、日本がアメリカの軍事占領下にあったため、日本政府が武力を持たなくても安全保障上の問題は無かった。しかし、アメリカ軍による軍事占領が終わった後の日本の防衛をマッカーサーは一体どうするつもりだったのか。一説には、マッカーサーは、日本の安全保障を国連に委ねるつもりだったとも言われている。確かに、国連の力によって国際秩序の維持や国際紛争の解決ができるのならば、日本が武力を行使することも保持することも必要は無い。しかし、国連の中枢である安全保障理事会では、アメリカやソビエトなど五ヶ国の常任理事国に安全保障理事会の決定に対する拒否権があるため、常任理事国五ヶ国が一致団結しなければ、国連は安全保障上の権限を行使できないのである。そのため、アメリカとソビエトの間の冷戦が激化した結果、国連の安全保障理事会がアメリカとソビエトの対立の場となってしまったため、国連は国際秩序の維持や国際紛争の解決をすることができなくなってしまった。その結果、日本の防衛は、アメリカの武力に委ねるしかなくなってしまったのである。



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