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近代国家とは何なのか

 第三章 日本の民主主義は虚構だ!

 

 

           近代国家とは何なのか

 

 私は、日本は民主主義国家でも近代国家でもないと考えている。その理由は、憲法改正ができないからである。
 日本の憲法改正を巡る政治状況は、明らかに異常である。
 日本国憲法が施行されて以来、今日に至るまで、一度も憲法改正が行われたことが無かった。それは一体なぜなのか。
 また、日本には、護憲論者と呼ばれる人たちが存在する。護憲論者は、日本国憲法を一字一句変えただけで平和主義と民主主義が崩壊するなどと言って憲法改正に反対している。しかし、憲法を一字一句変えただけで崩壊するような民主主義があるわけがない。もし、そのような民主主義があるとすれば、明らかに近代国家の民主主義とは異質なものである。
 まず、近代国家とは何なのか。
 一般的に、近代国家が成立する条件とされているのは、法の支配の確立、政教分離、国民の自由や基本的人権の保障、個人主義の尊重などといったものである。このように近代国家が成立する条件とされているものはいくつもあるが、最も重要なのが十七世紀から十八世紀頃のヨーロッパに出現した社会契約説や啓蒙主義と呼ばれる思想である。
 社会契約説とは、おおよそ次のような思想である。国家、社会、法律、制度といったものは、本来、人間の自由な意志に基づく社会契約によって成立したものであるから、既存の国家、社会、法律、制度が人間の自由や権利を侵すような、人間にとって不利益なものなら、これを人間の自由な意志に基づく社会契約をやり直すことによって変更することができる。
 そして啓蒙主義とは、人間の理性を絶対的に信用し、人間の理性に基づき、伝統や習慣や迷信と言ったものにとらわれず、合理的に国家や人間社会などを見直そうという思想である。
 近代国家が成立する以前のヨーロッパの社会では、合理的な社会や国家の改革は不可能だった。その最大の理由が宗教の存在である。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は、次のような思想の上に成り立っている。この世に存在する全てのものは創造主たる神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、国家、社会、慣習、伝統といったものも神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、人間が、これらを神の許可も無く勝手に変更しようと考えるのは神を冒涜する行為である。そして一神教では、神の意志は預言者を通じて語られることになっている。預言者とは、神の言葉を民衆に伝える役割を神から託された人間である。旧約聖書に登場するモーゼ、エレミヤ、イザヤ、あるいはイスラム教の創始者のムハンマドと言った人たちが預言者である。ただしイスラム教では、ムハンマドは最後の預言者ということになっているため、神がムハンマドを通じて語った言葉は神の最終的な意志であって、以後一切の変更は無いということになる。その、神の言葉を記した聖典がコーランである。従って、イスラム教徒は、永久にコーランに記された教えに従わなければならないのである。そのため、イスラム教徒がコーランの教えと矛盾すると見なされるような法律や制度を制定することは困難なのである。そのため、イスラム教徒が多数を占める国の多くは、近代的な改革が停滞しているのである。言い換えれば、イスラム教の神は、近代的な改革を拒否しているである。こういったことは、近代以前の中世ヨーロッパの社会も同様だった。
 中世ヨーロッパの社会には、ローマ・カトリック教会が君臨していた。中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会にとっての神も、イスラム教の神と同様に近代的な改革を拒否する神である。そして、ローマ・カトリック教会の長であるローマ法王は、地上における神の代理人を称し、ヨーロッパの社会や政治に対して絶大な影響力を及ぼしていた。そのため中世のヨーロッパ諸国は、近代的な改革など不可能だったのである。
 ところが1517年にマルチン・ルターによって開始された宗教改革をきっかけに、ローマ・カトリック教会の影響力は低下し始める。ルターは、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書のみが信仰のよりどころであると主張した。このルターの主張を支持する人たちは、プロテスタントと呼ばれることになった。このプロテスタントの主張は、ローマ・カトリックを信仰する勢力との間に激しい宗教対立を引き起こし、フランスのユグノー戦争やドイツを主戦場にして戦われた三十年戦争などの宗教戦争を引き起こす結果となった。これらの紛争を収拾するため、結果としてヨーロッパ諸国はプロテスタントを容認せざるを得なくなり、ローマ・カトリック教会の権威と影響力は低下していった。
 これらの宗教改革を発端として起きた一連の出来事の結果として、宗教がかかわるのは人間の内面に限るという考えが確立され、プロテスタントやローマ・カトリックに浸透していった。これを信仰の内面化と言う。この信仰の内面化をきっかけに、信仰の自由、内面の自由、思想の自由、そして個人主義といった考えが確立され、ヨーロッパの社会は近代に向かっていったのである。
 そして、十七世紀から十八世紀にかけて、ロックやルソーなどの思想家が登場し、社会契約説や啓蒙主義が成立する。こうしてヨーロッパ人は、宗教や伝統的思考とは関係なく、人間の自由な意志で国家、社会、法律、制度、習慣といったものを改革できると考えられるようになったのである。これが近代国家と呼ばれる国家の理念である。やがて社会契約説や啓蒙主義は、アメリカの独立革命やフランス革命などの市民革命を推進する理論となる。
 更に、社会契約説や啓蒙主義から主権在民という理念が生まれた。主権とは国家を統治する権限のことである。そして国家を統治する権限を持つ者を主権者と言う。主権在民とは、国家を統治する権限が国民にあるため、国家体制や政府の政策は、主権者である国民の自由な意志によって決定されなければならないという理念である。そして、主権在民は、民主主義国家の基本理念ということになっている。
 ただし、社会契約説や啓蒙主義の成立によって国家や法律などが国民の自由な意志によって改革できると考えられるようになったと言っても、これはあくまで理念の上のことであって、必ずしも現実とは言えない。ヨーロッパの貴族制度のように、社会に定着した結果、いかなる手段によっても変更できなくなった制度もある。従って、近代国家が成立しても、国家、社会、法律、制度、習慣といったものの全てが人間の思い通りになるわけではない。
 また、主権在民も、あくまで理念の上のものである。国家を統治する権限が国民にあると言っても、実際に国家を統治しているのは政治家や国家官僚である。そして、国家を統治する都合によっては、増税のような、主権者ということになっている国民の反発を買うようなことを決定せざるを得ないこともある。更に、イラク戦争を始めた時のイギリスのように、主権者ということになっている国民の猛反発を無視して戦争を始めた例もある。
 更に、アメリカの独立革命やフランス革命のような市民革命によって民主主義体制が成立しても、それだけで民主主義国家が完成するわけではない。既に述べたように、アメリカやイギリスのように非常独裁制が成立しなければ、民主主義国家が完成したとは言えないのである。
 近代以前のヨーロッパでは、何が正しく何が間違いなのかといった判断は、宗教に委ねられていたが、それを政治や国家のあり方に関しては人間の自由な意志や理性に委ねるという理念が成立したのが近代の始まりである。
 もし、宗教が政治に介入するようになったら、中世ヨーロッパのように宗教が政治に大きな影響を与えるようになってしまう。そして、キリスト教やイスラム教のような一神教は、神の教えに反するという理由で、あらゆる変革を拒否したがる傾向がある。更に、一神教の考えでは、この世の全ては神の意志によって成り立っていることになっているが、この考えは、民主主義国家の基本理念である主権在民と矛盾する。そのため、中世ヨーロッパのように、一神教が政治に介入するようになったら、近代的な改革も民主化も困難になってしまう可能性が高いのである。従って、近代的な改革や民主化のためには、一神教の影響は政治から排除されなければならないのである。そこで、近代国家や民主主義国家を守るためには、政治と宗教が互いの領域に介入しないという原則が必要になる。これが政教分離である。
 政教分離の原則が存在せず、一神教が政治に介入する国家に何が起きるのか。その一例として、イランを見てみよう。
 イランでは1979年に、イスラム教シーア派のイスラム法学者であるホメイニ師の指導によってイスラム革命が起きた。イランは、この革命によって王政を廃止し、イスラム教シーア派のイスラム法学者が政治を主導する宗教国家となった。
 1997年5月、イランの大統領選挙に、政治の民主化や経済の改革・開放政策を主張するハタミ師が出馬した。当初ハタミ候補は劣勢と言われていたが、変革を望む都市住民などの圧倒的な支持を得て、保守派の候補を破ってイランの大統領に当選した。そして、2000年2月に行われた国会の総選挙で、ハタミ大統領の改革路線を支持する勢力が国会の議席の約70%を獲得して圧勝した。これを受けて、ホメイニ師のイスラム革命以来、イランと敵対関係にあったアメリカ政府は、イランが民主化することに期待する意志を表明した。しかし、イランの民主化は容易なことではない。なぜなら、イランはイスラム法学者が政治を主導する宗教国家であり、欧米諸国とは違い、政治と宗教が分離されていないからである。
 民主主義国家は、社会契約説に由来する主権在民という理念に基づいて成り立っていることになっている。民主主義国家の理念では、国民に主権があり、政治家は主権者である国民から選挙で選ばれることによって、主権を代行する権限を国民から与えられたことになっている。つまり、理念の上では、民主主義国家の指導者は、主権者である国民から選挙で選ばれることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化していることになっているのである。
 ところがイランのような宗教国家では、そうはいかないのである。宗教国家は、宗教の理論によって国家体制が成り立っている。イスラム教では、この世の全ては創造主たる神の意志に従って成り立っていることになっている。この理論からすると、国家や政治も神の意志に従わなければならないことになる。そうすると、国家や政治のあり方を最終的に決定するのも神ということになる。従って、理念の上では、イランのような宗教国家の主権者は神ということになるのである。主権在民ならぬ「主権在神」である。しかし現実には、神がこの世に現れて国家や国民を指導するということはあり得ない。そこで、主権者である神の意志を政治に反映させるためには、聖典であるコーランの解釈に基づいて作られたイスラム法に従って国家を統治しなければならないことになる。そして、イスラム法に従って国家を統治するということは、イスラム法の専門家であるイスラム法学者が国家を統治するということなのである。これがイスラム教の宗教国家であるイランの理念である。従って、イランにおける国家・国民の指導者はイスラム法学者なのである。つまり、イランのイスラム法学者たちは、イスラム法に基づいた政治をすることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。そして、ホメイニ師の死後、イランの最高指導者となったのが、イスラム法学者のハメネイ師である。このように、イランには、民主主義国家の基本理念である主権在民が存在しないのである。
 ハタミ大統領は、2001年6月の大統領選挙で78%という高い得票率で再選された。しかし、ハタミ大統領は、その大統領選挙の最中、演説の中で「イスラム体制は堅持し、強化しなければならない。」と発言し、急進的な改革を否定せざるを得なかった。ハタミ大統領を始めとした改革派も、それを支持する国民も、イスラム法学者が政治を支配するイスラム体制までは否定できなかった。そのため、もし、ハメネイ師を始めとしたイスラム法学者たちによって民主化や改革・開放政策が拒否されたら断念するしかないのである。国民から選挙で選ばれた政治家が国家・国民の指導者というのは、主権在民という理念が確立された国のことであって、イランのような「主権在神」の宗教国家では、政治家がいくら選挙で国民の高い支持を得たとしても、決して国家・国民の指導者ではないのである。イラン国民がハタミ大統領の民主化や改革・開放政策を支持したのは、15%を超える高い失業率など、経済の停滞に対する国民の不満を反映したものである。ハタミ大統領も改革派の国会議員も、国民の不満の代弁者であっても、決して国家・国民の指導者ではないのである。主権在民という理念の無い宗教国家では、国民に支持されて選挙で選ばれたことなど、国家・国民を指導することを正当化する根拠とはなり得ないのである。
 イランには護憲評議会という機関がある。護憲評議会はイランの国会を監督する機関であり、国会が可決した法律を差し戻したり、大統領選挙や国会議員選挙の立候補者を事前に審査したりする権限を持っている。国会が可決した法律が護憲評議会によって差し戻されたら法律は成立しない。そして、護憲評議会が大統領選挙や国会議員選挙の立候補希望者を審査した結果、「イスラム体制にふさわしくない」と判断すれば、大統領選挙や国会議員選挙に立候補できないのである。しかも、この護憲評議会を構成するのは、改革に反対する保守派のイスラム法学者である。つまり護憲評議会とは、保守派のイスラム法学者たちが意のままにイランの政治を動かす、保守派の牙城なのである。2000年の国会議員選挙で改革派が国民の支持を得て圧勝した結果、イランの国会は改革派が主導することになった。ところが、護憲評議会の抵抗によって改革のための法律がなかなか成立せず、改革は停滞し、経済は低迷したままだった。これが、かつて熱狂的に改革を支持したイラン国民を失望させることになり、改革派は国民の支持を失ってしまった。その結果、2004年2月の国会議員選挙では、護憲評議会が多くの改革派の候補を審査によって排除したこともあって、改革派は惨敗して国会内の少数派に転じてしまった。更に2005年6月の大統領選挙では、保守強硬派と言われているアフマディネジャド氏が当選し、ハタミ大統領の改革路線の継承を訴えた候補は惨敗してしまった。これによってハタミ大統領の改革路線は、挫折することになってしまったのである。護憲評議会なるものが存在することが意味するのは、イランには主権在民という理念が無いということであり、国会は単なるお飾りに過ぎないということである。神の名において政治が行われる宗教国家のイランに、近代的な改革や民主主義国家の成立などあり得ないのである。


現人神が近代国家を否定する

     現人神が近代国家を否定する

 

 明治体制下の日本の天皇は、現人神と言われていたが、そもそも、現人神とは何なのか。
 一般的に、神と言われているものには二つの種類がある。
 一つは、多神教の神である。日本の神話に登場する八百万の神々、古代ギリシャの神話に登場する神々、そしてインドのヒンドゥー教の神々などである。
 そして、もう一つが一神教の神である。ユダヤ教徒がヤハウェと呼び、キリスト教徒がイエス・キリストと呼び、イスラム教徒がアッラーと呼んでいる神である。一神教の考えでは、この世に存在する全てのものは、創造主たる神の意志によって作られたことになっている。そのため、人間も、人間の社会も、更には社会の規範も、創造主たる神の意志によって作られたことになっている。
 社会の規範とは、たとえば、他人の物を盗んではいけない、人を殺してはいけないと言ったような、人間が社会生活をする上で最低限度守らなければならない原則であり、善悪の基準である。もし社会の規範が失われるようなことになったら、多くの人間は、何が正しく何が間違いなのか判断できない無規範状態に陥り、社会が混乱してしまう。そして一神教を信じる人間にとっての社会の規範は、宗教の聖典という形で存在している。それがキリスト教の聖書やイスラム教のコーランといった書物である。一神教を信じる人間は、創造主たる神によって記された聖典に従って生きなければならないことになっている。
 一神教の理論では、社会の規範を作る権限は、創造主たる神のみにあり、人間には作る権限が無い。モーゼの十戒で知られるモーゼにしろ、イスラム教の創始者のムハンマドにしろ、神が作った社会の規範を民衆に伝えるだけの預言者であって、彼ら自身が社会の規範を作ったわけではない。そして、社会の規範を記した聖典は、神のみが書き記すことができるものである。従って、聖典に書かれている内容が、人間にとっていかに不都合なものであっても、いかに不合理なものであっても、決して人間が神の許可もなく勝手に書き換えることはできないことになっている。つまり、聖典の内容の変更は事実上不可能なのである。人間の意志による聖典の内容の変更は、考えること自体が神を冒涜する行為である。要するに、一神教の神とは、この世に存在する全てのものを作った創造主であると同時に、社会の規範である聖典を作る権限を持った神のことである。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教も、このような理論の上に成り立っているのである。
 社会の規範は、人間が社会生活をする上で必要不可欠なものであるため、あらゆる国や民族に存在する。ただし、あらゆる国や民族の社会の規範が、宗教の聖典という形で存在しているわけではない。たとえば、日本人の日常生活における社会の規範は、伝統や慣習という形で存在しているため、宗教の聖典のような目に見える存在ではない。そのため、一神教を信じる人間から見ると、日本は、あたかも社会の規範が存在しない国のように見える場合もあり、誤解や偏見を招くこともある。日本にも、神道や仏教と言った宗教が存在するが、日本の神道や仏教には社会の規範という役割は無い。日本人が神道や仏教に求めている役割は、人間が不幸や苦境に陥った時の癒やしや救い、あるいは祭りや葬式のような行事である。日本には古くから、神道と仏教を一緒にして信仰する神仏習合という慣習が存在するが、このような慣習が存在する背景には、日本人が神道や仏教に対して社会の規範という役割を求めていないことがある。なぜなら、もし日本の神道や仏教が社会の規範であったら、一人の人間が同時に二つの異なった社会の規範に従わなければならなくなって混乱してしまうからである。日本の神道や仏教に社会の規範という役割が無いがゆえに、同じ人間が、神社で初詣をしたり仏教形式の葬式をしたりするようなことが可能なのである。
 日本は、古代より八百万の神々が存在する多神教の国である。更に、神仏習合という慣習が示すように、日本には一つの神や宗教だけを絶対的に信仰するような伝統は無い。従って、日本は一神教の国ではない。しかし、明治体制下の天皇には一神教の神との共通点もあったのである。それはキリストやアッラーと同様に、聖典を作る権限を持っていたということである。明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた聖典が、軍人勅諭(正式には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)と教育勅語(正式には「教育ニ関スル勅語」)である。
 1878年(明治11年)、軍と政府の実力者である山県有朋は、軍の統制を計る目的で、自らの名で軍人訓誡という文書を軍人の守るべき規範として発布したが、軍人たちは、なかなかこれを受け入れようとはしなかった。そこで1882年(明治15年)に、今度は軍人勅諭が、軍人の守るべき規範を記した聖典として明治天皇の名で発布された。軍人勅諭は、現人神たる天皇によって作られた聖典であるという点が、山県有朋という人間によって作られた文書に過ぎない軍人訓誡とは根本的に違うのである。軍人勅諭は、前文で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と述べ、天皇が軍の最高司令官であること示し、本文では軍人の守るべき徳目として、忠節、礼儀、武勇、信義、質素を説いている。軍人勅諭の背景には現人神たる天皇の強大な権威があったため、日本の軍人たちは軍人の守るべき聖典として受け入れざるを得なかった。そのため帝国陸海軍の将兵は、軍人勅諭を覚えることが求められ、特に陸軍では全ての将兵が軍人勅諭の全文を暗誦できることが求められていた。こうして軍人勅諭は、日本の軍人の神聖な聖典となったのである。
 教育勅語は、国民にとっての一般的な道徳観を天皇の名において記した日本の教育における規範である。教育勅語は、1890年(明治23年)に明治天皇の名で発布された後、文部省令によって学校で式典が行われる時に朗読されることになった。その後、教育勅語は神聖視されるようになり、ほとんどの学校で奉安殿や奉安庫と呼ばれる施設で神聖な聖典として保管されていた。
 ただし、教育勅語が明治体制下の日本の学校教育にとって重要だったのは、教育勅語に記されている内容よりも、「勅語」という語句が示すように、教育勅語が現人神たる天皇の言葉であるという点にある。明治体制下の日本の教育現場における教師は、教育勅語に記された現人神たる天皇の言葉を、天皇に代わって生徒に教えるという立場にあった。つまり、明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人なのである。従って、明治体制下の日本の生徒にとって、教師の言葉は現人神たる天皇の言葉であり、教師に逆らうのは現人神たる天皇に逆らうのと同じことだった。明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人という特別な立場にあったからこそ、生徒から恐れ敬われ、教育者が務まったのである。こういうことを教師に権威があると言うのである。このように、明治体制下の教師の権威は、現人神たる天皇の権威の下に成り立っていたのである。ところが、この現人神たる天皇の権威と教育勅語によって教師に権威を与える仕組みは、太平洋戦争の敗戦と共に失われてしまった。そして戦後体制下の日本の学校教育は、教師に権威を与える仕組みが失われたままの状態で現在に至っているのである。つまり、戦後体制の成立によって、日本の教師は、明治体制下の教師のような権威を失った結果、普通のおじさんやおばさんになってしまったのである。これが戦後体制下の日本の教師が生徒から恐れ敬われることがなくなってしまった理由である。こういうことを教師の権威が失われたと言うのである。戦後体制下の日本の教育現場では学級崩壊などの様々な問題が起きているが、教師の権威が失われたことも問題の原因の一つである。
 このように、現人神とは、政治的な権限に加えて、聖典を作るという宗教的な権限も兼ね備えた指導者のことである。
 ただし、日本人の日常生活における社会の規範は、軍人勅諭や教育勅語が成立する以前から伝統や慣習といった形で存在していたため、軍人勅諭と教育勅語は、軍隊や教育現場のような限られた場所でのみ通用する聖典となった。
 明治体制下の日本では、軍人勅諭や教育勅語の内容を公然と批判したり、内容の変更を主張したりすることはできなかった。それは、現人神たる天皇の名において発布された軍人勅諭や教育勅語の内容を批判するのは、現人神たる天皇を冒涜する行為だったからである。このように、軍人勅諭と教育勅語は明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた聖典として神聖視されていたのである。つまり、明治体制下の日本には、天皇を神とする宗教によって軍隊や教育における規範が作られた天皇教国家という側面もあったのである。
 明治体制下の天皇は、国家の最高指導者としての政治的な権限に加えて、宗教的な権限も兼ね備えていたのである。しかし、このような、政治的な権限と宗教的な権限が一体化した国家体制を持つ国は、一種の宗教国家であり、近代国家ではない。
 日本は明治維新以降、欧米から近代的な法・制度や科学・技術を学び、導入して来た。その結果として富国強兵政策に成功し、日清戦争ではアジア最大の清帝国を打ち破り、日露戦争では、帝国主義の大国であるロシア帝国を打ち破った。また、零戦や戦艦大和といった兵器は、当時としては世界の一流品だった。こうして見ると日本は、あたかも近代化に成功したように見える。しかし、日本は決して近代国家になったわけではない。日本が近代化に成功したと言っても、それはあくまで法・制度や科学・技術といったものに限られ、日本人の思考や国家のあり方までが近代化されたわけではない。
 では、一体なぜ、近代国家ではない日本が近代的な改革に成功したのか。明治維新以降、日本では様々な近代的な改革が行われたが、それは欧米諸国のような社会契約説や啓蒙主義に基づく近代的な改革ではなかった。明治政府の改革は、現人神たる天皇の命令による近代的な改革であった。イスラム国家や中世のヨーロッパ諸国に近代的な改革が困難なのは、神がそれを許可しないからであるのに対して、明治維新以降の日本で近代的な改革が可能だったのは、現人神たる天皇が近代的な改革を許可したからである。天皇という神が許可する限り、どんな大胆な改革も神を冒涜することにはならない。それどころか日本人にとっては、現人神たる天皇が推進する近代的な改革に反対することこそ、神を冒涜する行為なのである。現人神たる天皇の力によって日本人の意識が変化したことが、明治維新という大改革を推進する原動力となったのである。


「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

 

 かつて、明治体制下の日本には、「大正デモクラシー」と呼ばれた時代があった。
 1918年(大正7年)に長州藩閥出身の寺内正毅総理大臣の内閣が、米騒動の責任をとって辞任すると、後任の内閣総理大臣に就任したのが議会政治家であり政友会総裁である原敬だった。これをきっかけに政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明や若槻礼次郎といった議会政治家による政党内閣が成立し、議会政治が行われた。そして加藤高明の護憲三派内閣は、男子の普通選挙制を成立させるといった成果を一応残した。また、この時期には労働運動や社会主義運動も盛んになり、1919年(大正8年)には労働組合の全国組織である大日本労働総同盟友愛会が成立し、翌年の1920年(大正9年)には日本初のメーデーが行われた。更に、吉野作造は民本主義を唱え、知識人や学生などに大きな影響を与えた。
 この「大正デモクラシー」の時代の日本の政治や社会の状況を見ると、あたかも当時の日本が欧米的な民主主義国家に近づいていたようにも見える。しかし、議会政治は、疑獄事件や経済政策の失敗などもあって、国民の全面的な支持を得られなかった。そして、五・一五事件で犬養毅総理大臣が暗殺されたのをきっかけに議会政治は終わってしまった。
 議会政党が政治の主導権を握ったという意味では、この時期の政治は議会政治と言えるかも知れないが、「デモクラシー」や民主主義などと呼べるような代物ではなかったのである。それを示すよい例が、田中義一総理大臣が辞任した経緯である。
 1927年(昭和2年)4月、若槻礼次郎総理大臣の退陣の後、衆議院第二党である政友会の田中義一総裁が内閣総理大臣に就任した。そして1928年(昭和3年)2月に衆議院の総選挙が行われた結果、田中義一総理大臣の与党の政友会は、衆議院第一党となった。
 1928年(昭和3年)6月、中国北方の満州を拠点とする軍閥の指導者である張作霖が、乗っていた列車ごと爆破されて死亡するという事件が起きた。やがて河本大作関東軍高級参謀らが、この事件の首謀者とされた。しかし、陸軍と与党の政友会の幹部が、事件の真相究明にも、事件の首謀者とされた河本大作らの処分にも反対したため、田中総理大臣は、河本大作に対する処分を停職という軽いものにとどめてしまった。この田中総理大臣の事件に対する処置に対して、昭和天皇は田中総理大臣を厳しく叱責し、辞任を迫った。その結果、田中総理大臣は辞任する羽目になってしまったのである。
 もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、明治体制下の日本は、イギリス型の立憲君主制国家だったことになる。そしてイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在である。更に「デモクラシー」が存在する国家の理念では、主権は国民にあり、議会は主権者である国民の代表である。田中義一が衆議院第一党の政友会の総裁であるということは、「デモクラシー」の理念からすれば、主権者である国民が選挙によって田中義一を国民の代表に選んだということであり、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持ということになる。ところが、田中総理大臣は、昭和天皇に叱責され辞任を迫られたことによって、昭和天皇の支持を失ったことが明らかになった結果、辞任せざるを得なくなったのである。もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持なのだから、天皇にいくら辞任を迫られたところで辞任する必要など無いはずである。そもそも「デモクラシー」が存在するイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在なのだから、天皇は内閣総理大臣の決定に対して意見を言ったり辞任を迫ったりする立場には無いはずである。田中総理大臣が昭和天皇から辞任を迫られた結果、辞任せざるを得なくなったのは、明治体制下の日本の政党内閣を支えていたのは国民や議会の支持ではなく、天皇の支持だったことを意味するのである。従って、原敬や田中義一のような議会政治家出身の内閣総理大臣といえども、天皇に支持され内閣総理大臣に任命されることによって国家・国民の指導者としての立場を正当化していたのである。これは、明治体制下の政党内閣が、国民や議会の代表ではなく、天皇の政界における代理人だったことを意味するのである。つまり、国民に支持され選挙で選ばれた政友会や民政党といった議会政党の代表者といえども、内閣総理大臣や閣僚に就任した途端に、天皇の代理人になってしまうのである。これが「大正デモクラシー」なるものの実体だった。明治体制下の日本の議会政治は、「デモクラシー」の化けの皮をかぶった似非デモクラシーに過ぎなかったのである。
 明治体制下の「デモクラシー」の化けの皮が剥がれたのが、統帥権干犯問題である。
 1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて開かれたワシントン会議の中で海軍軍縮条約が調印された。これによって各国の主力艦を制限することになったが、補助艦については制限が無かったため、各国は争って補助艦の建造をするようになった。そこで補助艦の建造を制限するため、1930年(昭和5年)1月21日からロンドン軍縮会議が開かれた。日本の浜口内閣は、このロンドン軍縮会議に若槻礼次郎を全権代表とする代表団を送った。そして4月22日に調印された軍縮条約によって、日本は補助艦の量を対アメリカ比で69.75%に制限されることが決定した。浜口雄幸総理大臣は、国際協調と財政の逼迫を理由に、これを受け入れることを主張した。
 ところが海軍や野党勢力などが、これに猛反対した。海軍は、大型巡洋艦で最低でも対アメリカ比70%は無ければ国防上安心できないと主張した。そして、議会内の野党勢力では、1930年(昭和5年)4月25日に政友会の鳩山一郎が「政府が海軍軍令部の国防計画を無視して軍縮条約を結んだのは、天皇の統帥権を干犯するものである。」と発言し、浜口内閣を攻撃した。これをきっかけに統帥権干犯論争が起きる。そして6月には、統帥権干犯を批判して加藤寛治海軍軍令部長が辞意を表明する。そして浜口総理大臣は、11月14日、統帥権干犯反対を唱える右翼結社の青年によって狙撃されて重傷を負ってしまう。
 「デモクラシー」の理念は、国民の自由な意志による政治の運営である。従って、明治体制下の日本に「デモクラシー」を実現させようと言うのなら、天皇や官僚や軍人といった、国民の意志では動かし難い者の政治的権限は、なるべく制限し、国民の代表である議会政党による政党内閣が政治の実権を掌握しなければならない。特に、最高指導者として強大な権限を持つ天皇は、可能な限り無力化しなければならない。ところが、海軍や政友会の鳩山一郎などの議会政治家は、天皇の強大な権限の一つである統帥権を理由にして、政党内閣の権限を制限しようとしたのである。これが統帥権干犯問題なのである。これは明らかに「デモクラシー」に逆行する行為である。統帥権干犯問題なるものが明治体制下の日本で起きた根本的な原因は、日本の社会には主権在民という理念が定着していなかったことである。主権在民という理念が定着している国では、政党内閣は国民の代表である。従って、政党内閣をないがしろにするのは、国民の主権を踏みにじる行為であり、国民の反発を招くことになる。しかし、明治体制下の日本のように主権在民という理念が定着していない国では、いくら政党内閣が軍部などにないがしろにされても、国民は一向に平気なのである。なぜなら主権在民という理念が無い国では、選挙で国民から選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国家・国民の代表とは言えないからである。明治体制下の日本人や議会政治家に主権在民という理念があったなら、国民の代表であるはずの政党内閣の権限が、軍の統帥権に及ばないなどという考えが出て来るはずが無いし、出て来ても誰も支持しないはずである。つまり、統帥権干犯問題が意味するのは、明治体制下の日本人の多数が、主権在民という理念を支持していなかったどころか、理解もしていなかったということである。


マッカーサーの失策

      マッカーサーの失策

 

 一般的には、太平洋戦争に敗れた軍国主義国家の日本が、マッカーサーによる改革の結果、民主主義国家として生まれ変わったのが戦後体制であると言われ、戦後民主主義とも呼ばれている。しかし、私は、戦後体制下の日本が民主主義国家であるということに対して大いに疑問を持っているのである。そもそも、マッカーサーが作った戦後体制とは一体何なのか。更に、日本人にとってのマッカーサーとは、いかなる存在なのか。そして、マッカーサーによって作られた日本国憲法が、なぜ改正できないのか。考えてみる必要がある。
 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送によって、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏する決断をしたことが明らかになった。そして8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、コーンパイプをくわえて厚木基地に降り立った。9月2日に日本政府の代表者たちは、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に署名する。ここに太平洋戦争は、日本の降伏によって停戦が成立した。そして、マッカーサーとGHQ(連合国最高司令官総司令部)による日本の占領統治が始まった。
 1945年(昭和20年)10月11日、マッカーサーは、婦人の解放、労働組合の保証、学校教育の民主化、司法制度改革、経済機構の民主化といったことを名目とした、いわゆる五大改革指令を出し、日本の政治・社会の改革に着手した。そして財閥解体、旧帝国陸海軍の廃止、政治犯とされた人たちの釈放、戦争責任者の逮捕、神道指令などを次々に実行した。
 翌年の1946年(昭和21年)2月になると、戦争にかかわった者に対する公職追放が行われ、5月からは、A級戦犯容疑者とされた者に対する極東国際軍事裁判が始まった。更に11月3日には日本国憲法が公布される。1946年(昭和21年)2月から第一次農地改革、1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月にかけて第二次農地改革が行われ、日本のほとんどの小作人が自作農になった。このようにマッカーサーは、矢継ぎ早に改革を押し進めていった。
 しかし、不思議なのは、このようなマッカーサーによる急進的な改革に対して、ほとんど反対の声が起きなかったことである。公職追放による弾圧を受けている指導者層は別にして、一般国民やジャーナリズムから何の反対の声も起きなかったのは実に不思議である。なぜなら、このような急進的な改革に対しては、批判や不満の声が起きるのが普通だからである。明治維新の時は、明治政府の急進的な改革に対する不満から、佐賀の乱、神風連の乱、そして西南戦争といった反乱が起きた。戦後体制下でも、中曽根内閣による行政改革に対して「総論賛成・各論反対」の抵抗があり、小泉内閣の構造改革に対しても「抵抗勢力」による抵抗が起きた。ところがどういうわけか、マッカーサーの急進的な改革に対しては、不満の声も抵抗も起きなかったのである。
 更に不思議なことがある。マッカーサーは「民主的な」改革を押し進める一方で、1945年(昭和20年)9月19日には「日本に与える新聞紙規定」いわゆるプレス・コードを示し、占領軍に対する批判を制限し、更に9月22日にはラジオ・コードも出された。そして10月からは、あらゆる出版物に対する検閲を始めた。これは明確な言論統制であり、民主化に反するものである。マッカーサーの改革が日本を民主化するための改革だとしたら、明らかに矛盾している。ところが、これに対して日本のジャーナリズムは何の抵抗も反対もしていないのである。
 それどころか、多くの日本国民やジャーナリズムが、マッカーサーのことを日本に民主主義をもたらした解放者だの恩人だのと手放しで賛美したのである。そして国会は、1951年(昭和26年)4月16日に「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行った。そしてマッカーサーがトルーマン大統領に解任され帰国する時には、二十万人もの日本人が見送った。
 日本人がマッカーサーの改革や政策に反対しなかったのは、マッカーサーの改革や政策が理想的なものだったからだと言う人たちが居る。しかし、マッカーサーの改革や政策をよく検討してみると、農地改革のように、ある程度成功したものもあったが、その一方で、失策や中途半端な結果に終わっているものも多いのである。
 マッカーサーは、軍国主義の廃止・非軍事化の名の下に旧帝国陸海軍を廃止し、戦争放棄を定めた日本国憲法を制定した。ところが1948年(昭和23年)にソビエトによって始められたベルリン封鎖や、1949年(昭和24年)10月に中国に共産党政権が成立したことなどによる共産主義の脅威の増大を受けて、マッカーサーは1950年(昭和25年)1月1日の年頭の辞で、「日本国憲法は自衛権を否定していない。」と発言するに至る。これは、事実上、戦争放棄を定めた日本国憲法九条を撤回するものであり、日本国憲法に戦争放棄を定めた条項を記したことが誤りであったと認めるものである。やがて朝鮮戦争が勃発すると、韓国を守るため、日本に駐留しているアメリカ軍を朝鮮半島へ出動させざるを得なくなり、その結果、日本の防衛に生じる空白を埋めるため、マッカーサーは1950年(昭和25年)7月8日に日本政府に対して警察予備隊を創設する命令を出さざるを得なくなった。こうして、一度日本の軍隊を廃止したマッカーサーが、自らの命令で日本の再軍備をする羽目になったのである。
 マッカーサーは、政治犯を釈放すると言って1945年(昭和20年)10月に獄中の日本共産党員を釈放した。これによって共産党は合法的に活動できるようになった。釈放された共産党員は、マッカーサーを解放者と称えた。しかし、日本国内の労働運動における共産党の活動が活発になると、労働運動が激化してしまった。更に、1948年(昭和23年)に始まったベルリン封鎖により米ソの冷戦が激しさを増し、1949年(昭和24年)に中国で共産主義政権が成立すると、共産主義勢力の拡大に対する脅威が増大した。するとマッカーサーは、一転して共産党と、その支持者に対する弾圧を開始したのである。1950年(昭和25年)6月6日には、日本共産党中央委員会全員と機関紙「アカハタ」の幹部の追放、そして共産党による集会やデモを禁止する指令が出された。更に、6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、新聞などのジャーナリズムや民間企業の労働者の共産党支持者に対する追放を始めた。そして、9月1日からは、行政機関や公共事業の労働者に対しても同様のことを始めた。これに対して、共産党も労働組合も、何の抵抗もできなかった。
 労働組合運動を育てる目的で、1945年(昭和20年)12月にマッカーサーの指示で労働組合法が制定され、1946年(昭和21年)3月から施行された。マッカーサーは、日本に民主主義を定着させるためには、労働運動を確立することが必要だと考え、労働組合運動の拡大を容認していた。その結果、様々な職場で労働組合が結成された。ところが、労働組合運動は、マッカーサーの予想を超えて過激化していった。多くの職場で賃上げを要求してストライキが頻発し、経済と国民生活に打撃を与えるようになってしまった。しかも、労働組合には、日本共産党の影響を強く受けているものが多かった。1946年(昭和21年)11月、官公庁の労働組合が、全官公庁労働組合共同闘争委員会(全官公庁共闘)を結成した。こうした労働組合運動の指導者を吉田茂総理大臣は、「不逞の輩」と言って批判した。この発言に反発した全官公庁共闘は、1947年(昭和22年)2月1日からのゼネストの決行を目指して行動を始めた。そして1月29日、全官公庁共闘は共産党の指導によって、「吉田内閣打倒・民主人民政府樹立」の声明を出した。全官公庁共闘も共産党も、マッカーサーを解放者と考え、ゼネストを支持してくれると考えていたのである。しかし、1月31日にマッカーサーが発表した声明で「現在のように貧しく衰弱した状況下の日本で、危険な社会的武器の使用は許されない。従って、ゼネストの決行を思いとどまるよう私は労働組合の指導者に伝えた。」「私がこのような措置をとったのは、既に著しい脅威を受けている公共の福祉に対して致命的衝撃を与えることを未然に防止するためにほかならない。」と述べ、マッカーサーがゼネストに対して中止命令を出さざるを得なくなったことを明らかにした。その結果、全官公庁共闘も共産党も、ゼネストを中止せざるを得なくなり、全官公庁共闘は解散した。共産党や労働組合にとって、マッカーサーは決して解放者などではなかったのである。
 マッカーサーとGHQは、三井・三菱を始めとした財閥による独占的な経済支配が日本の軍国主義を招いたと考え、財閥解体を行った。財閥解体によって、財閥の創業者の一族と、その持ち株会社による財閥系企業の支配は解体され、財閥系企業は独立させられた。そして、1947年(昭和22年)4月に財閥の復活を阻止するため、独占禁止法を成立させた。更に、マッカーサーとGHQは、財閥系以外の大企業も解体しようとして、1947年(昭和22年)12月に過度経済力集中排除法を成立させた。ところが1948年(昭和23年)になって米ソの冷戦が激化し始めたため、アメリカ政府がマッカーサーとGHQに対して、日本を「反共の防壁」とするために、占領政策を、日本の産業を復興させる方向に変えるように迫った結果、過度経済力集中排除法に基づいて解体する大企業の数を大幅に減らさざるを得なくなった。また、もともと財閥解体には、アメリカ本国の財界や政界から反対の声があった。更に、独占禁止法も1949年(昭和24年)以降、企業による独占に対する規制を緩める方向に徐々に改正されていった。これらの理由によって、財閥や大企業の解体は中途半端なものになってしまった。その結果、やがて高度経済成長期になると、財閥は企業系列という形で復活するのである。
 このように、マッカーサーの改革や政策は、失策や一貫性を欠いたものが多く、とても理想的と言えるようなものではなかったのである。


なぜ憲法改正ができないのか

     なぜ憲法改正ができないのか

 

 一体、日本人にとってマッカーサーとは、いかなる存在なのか。それは、日本の憲法改正問題について考えてみれば理解できるのである。
 日本国憲法は、1947年(昭和22年)5月3日に施行されて以来、一度も改正されたことが無かった。そして日本国憲法の施行以来、自由な議論の場であるはずの国会で、憲法改正の議論をすることが長い間できなかった。大臣が憲法改正について発言しただけで辞任させられたこともあった。また、護憲論者と呼ばれる人たちは、憲法改正どころか、憲法改正の議論すらタブー視して認めようとはしなかった。そして、2000年(平成12年)1月に、国会内に憲法についての議論をするための憲法調査会が設置されたが、これを作ろうとした時も、一部の国会議員から「憲法改正の恐れがある。」などと言われて危険視された。一体どうして憲法改正を「恐れ」なければいけないのか。日本人の憲法改正に対する態度は、実に奇妙なものであると言わざるを得ない。
 このように、日本人の憲法改正に対する態度は、どう考えても普通の国とは違う。世界中どこの国でも憲法改正は通常の法律の改正と同様に議論され、何度も改正が行われている。これはアメリカやドイツのような法治国家のみならず、中国やロシアのような法の支配が確立されていない国さえ同じことである。
 日本で憲法改正ができない理由は、日本国憲法の改正条項(九十六条)にあると言う意見がある。日本国憲法の改正条項では、憲法改正原案が衆参両院の三分の二以上の賛成を得ることによって憲法改正が発議され、国民投票の過半数の賛成で憲法改正が承認されることになっているが、これでは改正の障壁が高すぎるため、憲法改正は事実上不可能だと言うのである。しかし、世界には憲法改正に高い障壁を設けている国は数多く存在する。そして、日本と同様に憲法によって国会の三分の二以上の賛成が無ければ憲法改正ができないと定められている国も、アメリカやドイツを始めとして、いくつも存在するのである。しかし、そういった国々でも憲法改正は何度も行われているのが現実である。従って、日本国憲法の改正条項が、憲法改正ができない理由だという意見は明らかに見当違いである。
 また、日本で憲法改正ができない理由が日本国憲法の改正条項にあるという意見は、日本の国会の状況から考えても見当違いである。たとえば、もし、日本の国会議員たちによって自由闊達な憲法改正の議論が行われ、憲法改正原案が作られ、国会で憲法改正を発議するための決議が何回行われても、決議に賛成する議員の数が、なかなか三分の二に達しないために憲法改正に至らないとでも言うのなら、日本国憲法が改正できない原因は改正条項であると言える。しかし現実は、日本国憲法が施行されて以来、日本の国会では、憲法改正を発議するための決議どころか、憲法改正原案を作るための議論さえ行われたことが無かったのである。2007年(平成19年)5月14日に参議院本会議で、憲法改正の手続きを定めた国民投票法が成立した。この国民投票法では、衆参両院に憲法改正原案を審査するための憲法審査会が設置されることになっているが、実際に最初の憲法審査会が開かれたのは、2011年(平成23年)10月21日であり、議論が始まったのは翌月の11月18日であった。つまり、国会議員たちが憲法審査会の議論を始めるまで、国民投票法の成立から実に四年以上もの年月がかかってしまったのである。しかも、憲法審査会の議論が始まったと言っても、憲法改正原案を作るための議論は、いまだに始まっていないのである。このような国会の状況では、たとえ日本国憲法が通常の法律と同じ手続きで改正できるものであっても改正は困難である。
 そもそも、日本で憲法改正ができない理由が日本国憲法の改正条項にあると言う意見は、憲法改正に賛成する国会議員の数が衆参両院の三分の二以上になることは困難であるということを前提にしている。ところが、2016年(平成28年)7月10日に行われた参議院選挙の結果、衆参両院で、憲法改正に前向きと言われている政党の議席数が、憲法改正の発議に必要な三分の二を超えることになったのである。従って、日本で憲法改正ができない理由が、日本国憲法の改正条項にあるという意見からすると、この参議院選挙以降は、憲法改正が可能になったことになる。ところが実際は、国会における憲法改正への動きが活発になったわけではない。憲法審査会では、依然として憲法改正原案を作るための自由闊達な議論など行われてはいないのである。従って、憲法改正ができない理由が、日本国憲法の改正条項ではないことは明らかである。
 日本で憲法改正ができない直接の理由は、国会議員が憲法改正原案を作るための議論を、いつまでたっても始めようとしないことである。一体、なぜ日本の国会議員は憲法改正原案を作るための議論を始めようとしないのか。マッカーサーによる日本国憲法の制定以来、憲法改正ができなかった真の原因は何なのか。この点について考えてみたい。
 最初の日本の憲法である大日本帝国憲法は、伊藤博文や井上毅らがドイツの憲法を参考に草案を作り、1889年(明治22年)2月11日に明治天皇の名で発布された。大日本帝国憲法は、施行されてから太平洋戦争に敗れた1945年(昭和20年)までの間、一度も改正されたことが無かった。しかし、改正されたことが無かったと言っても、大日本帝国憲法を運営する上で何の問題も無かったため、改正する必要が無かったということではない。
 明治体制下の日本では、統帥権干犯問題が起きてから、軍部は大日本帝国憲法に定められた天皇の統帥権を盾にとり、内閣や議会が軍の行動に対して介入することを拒否するようになった。これが当時の日本の議会が政治の主導権を失った一因であることは言うまでも無い。しかし、これに対して、誰一人として、天皇の統帥権を定めた憲法の条項を改正しようとは考えなかった。一部の学者や言論人の中には、明治体制下の日本で統帥権干犯問題が起きたのは、大日本帝国憲法に欠陥があったからだという意見がある。その欠陥とは、大日本帝国憲法は、軍に関しては「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と明確に記しているのに、内閣総理大臣と、その権限に関しては何も記していないことだと言うのである。しかし、仮に大日本帝国憲法に欠陥があり、それが原因で統帥権干犯問題が起きたのだとしても、憲法に欠陥があったこと自体が問題だったと考えるべきではない。なぜなら、憲法に何らかの欠陥があったなら、改正すればよかったからである。つまり、仮に憲法に欠陥があったとしても、欠陥のある個所を改正できなかったことこそ問題にすべきなのである。なぜなら、憲法を含めた、あらゆる法律や制度は、政治や社会の情勢の変化にともない実状に合わないものになってしまうのは、やむを得ないからである。いかに先見の明がある人間や天才でも、五十年も百年もの将来を予測し、いかなる事態が生じても適切に対処できる法律や制度を作ることは不可能である。従って、憲法を含めた、いかなる法律や制度も、時代や社会の変化と共に常に見直しを続け、問題が生じたら、その度に作り替えていくしかないのである。法律や制度とは、こういうものである。
 また、憲法学者の美濃部達吉は、いわゆる天皇機関説を唱え、憲法解釈によって議会政治を正当化した。美濃部達吉は、大日本帝国憲法に記された天皇の統治権に関する条文を「統治権は法人たる国家に属し、天皇は法人たる国家の最高機関として、内閣などの機関から輔弼を受けながら国家人民のために統治権を行使する。」と解釈した。これがいわゆる天皇機関説である。この美濃部達吉の憲法解釈は、「大正デモクラシー」の時期には学界や官界での憲法解釈の主流となり、議会政治を正当化していた。しかし、1934年(昭和9年)に天皇機関説は、これに反対する国会議員や軍人によって排撃され、翌年の1935年(昭和10年)に、美濃部達吉は不敬罪で告訴され、貴族院議員を辞職させられてしまった。そして、時の岡田内閣は国体明徴声明を出し、統治権は天皇にあることを明確にして美濃部達吉の憲法解釈を否定した。しかし、一体なぜ、美濃部達吉を始めとした当時の憲法学者たちは、憲法解釈ではなく、憲法改正による議会政治の正当化を考えようとしなかったのか。
 明治体制下の日本で大日本帝国憲法が改正されなかった直接の理由は、明治体制下の日本人の多くが、憲法改正の権限は天皇のみにあり、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはならないと考えていたからである。
 明治体制下の日本人が、このように考えた理由は、大日本帝国憲法の内容にあると言う意見がある。
 大日本帝国憲法の改正手続きを定めた第七十三条には次の文が記されている。
 「将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ」
 そして大日本帝国憲法の前文に該当する部分には次の文が記されている。
 「将来若此ノ憲法ノ或ル条章ヲ改定スルノ必要ナル時宜ヲ見ルニ至ラハ朕及朕カ継統ノ子孫ハ発議ノ権ヲ執リ之ヲ議会ニ付シ議会ハ此ノ憲法ニ定メタル要件ニ依リ之ヲ議決スルノ外朕カ子孫及臣民ハ敢テ之カ紛更ヲ試ミルコトヲ得サルヘシ」
 これらの文は、大日本帝国憲法の改正を発議する権限は天皇のみにあると解釈されていた。そのため、多くの日本人が、天皇以外の者は憲法改正を主張できないと信じていたと言うのである。しかし、よく考えてみれば、大日本帝国憲法の改正を発議する権限が天皇のみにあることと、天皇以外の者が憲法改正を主張できないことは全くの別問題である。たとえば、戦後体制下の日本国憲法の改正条項では、憲法改正の発議は衆参両院の決議によって行われることになっている。つまり、憲法改正の発議をする権限は、国会議員のみにあることになる。だからと言って、国会議員以外の者が憲法改正を主張できないわけではない。従って、大日本帝国憲法の改正を発議する権限が天皇のみにあったため、天皇以外の者が憲法改正を主張できなかったという意見は、全く理屈になっていないのである。従って、大日本帝国憲法の改正を発議する権限が天皇のみにあるという憲法解釈が、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはならないと考えられていた理由ではないことは明らかである。
 また、大日本帝国憲法の「憲法発布勅語」の中には次の文が記されている。
 「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」
 この文の中の「不磨ノ大典」と言う言葉は、「永久に不滅の完璧な大典」と言う意味である。この「不磨ノ大典」という言葉が、憲法改正を否定する意味に解釈されたため、憲法改正ができなかったという意見がある。
 もし、明治体制下の日本が近代国家だったなら、当時の日本人は近代国家の原点である社会契約説を受け入れていたことになる。そして、社会契約説では、あらゆる法律や制度は人間が自由に改正できることになっており、これに関しては憲法も例外ではない。従って、もし、明治体制下の日本が近代国家であり、「不磨ノ大典」という言葉が大日本帝国憲法の改正を否定するものと解釈されていたとすれば、人間が自由に憲法を改正することを否定する言葉に対して、多くの日本人が反発していたはずである。しかし、実際は、そのようなことは無かったのである。従って、「不磨ノ大典」という言葉が原因で明治体制下の日本人に憲法改正ができなかったとすれば、明治体制下の日本が近代国家ではなかったことになるのである。
 既に述べたように、明治体制下の日本では、現人神たる明治天皇の名において軍人勅諭や教育勅語が発布された結果、神聖不可侵な天皇教の聖典となり、改正も、改正のための議論もできなかったのである。このことから、明治体制下の日本が近代国家ではなかったことは明らかである。
 明治体制下の日本で、天皇以外の者が憲法改正を口に出してはならないと考えられていた真の理由は、大日本帝国憲法が、現人神たる明治天皇の名において発布された結果、軍人勅諭や教育勅語と同様の神聖不可侵な天皇教の聖典になってしまったからである。つまり、明治体制下の日本人にとっての天皇は、キリストやアッラーと同様に規範を作る権限を持った神であったため、大日本帝国憲法は、聖書やコーランと同様の聖典になってしまったのである。そして、宗教の聖典に書かれた内容を変更できるのは、規範を作る権限を持った神のみであるため、明治体制下の日本で天皇教の聖典と化した大日本帝国憲法を改正する権限を持つのは、現人神たる天皇のみということになったのである。つまり、本来は人間が作った法律であるはずの憲法が、神が造った聖典に化けてしまっていたのである。これは、言わば「憲法の聖典化」とでも言うべき現象である。
 明治体制下の日本人にとって、「聖典化」した大日本帝国憲法を人間の意志によって改正する行為は、現人神たる天皇を冒涜する行為に他ならなかった。従って、明治体制下の日本では、ほとんどの者が、憲法改正など恐ろしくて口にも出せなかった。そのため、現人神たる天皇が自ら改正を口にしない限り、憲法改正はできなくなってしまったのである。その結果、キリスト教徒やイスラム教徒に聖書やコーランの改正が不可能であるのと同様に、明治体制下の日本人にとって大日本帝国憲法の改正は不可能になってしまったのである。「憲法の聖典化」なる現象が起きたことが意味するのは、明治体制下の日本が近代国家ではなかったということである。
 明治体制下の日本人にとって、現人神たる天皇以外は手を触れることが許されなかった神聖不可侵な聖典である大日本帝国憲法は、アメリカ軍の占領下でマッカーサーによって改正され、日本国憲法が制定された。ところが、マッカーサーが去った後は、誰にも日本国憲法を改正することができなくなってしまったのである。もし、アメリカ軍の占領下で憲法改正が可能だった理由が、日本が近代国家になった結果だとしたら、アメリカ軍の占領が形式的に終わった後の日本でも憲法改正が可能だったはずである。しかし、戦後体制下の日本で憲法改正の必要性を主張した政権はいくつもあったが、実際に憲法改正に着手できた政権は一つも無かった。戦後体制下の日本が近代国家になっているのなら、憲法といえども国民が自由な意志によって改正できる法・制度の一つに過ぎないことになる。従って、たとえ改正にまで至らなくても、国会内で憲法改正の議論ぐらいは為されて当然である。
 戦後体制下の日本で日本国憲法が改正できなかった理由の一つに、護憲論者の存在がある。護憲論者は、日本国憲法を一字一句変えただけで平和主義と民主主義が崩壊すると言って憲法改正に反対している。更に、護憲論者は、憲法改正どころか、憲法改正を議論することさえタブー視して反対している。護憲論者が認めるのは、憲法解釈に関する議論のみである。戦後体制下の日本の社会では、護憲論者が大きな発言力を持ち、国民や政治に大きな影響を与えていた。しかし、護憲論者の発言を聞いていると、国家や憲法といった制度は、人間の自由な意志によって作られるものだという近代的な感覚が欠如していることが分かるのである。
 護憲論者は、自分たちが憲法改正に反対するのは平和主義の理念を守るためだと言っている。ところが現実は、自衛隊や日米安保条約といった護憲論者にとっては平和主義の理念に反する憲法違反のものが、戦後体制下の政権によって長い間維持されて来たのである。これらは、いわゆる解釈改憲によって正当化されているものである。解釈改憲とは、憲法解釈を変更したり拡大解釈をしたりするなどして憲法を運営する方法を変えることによって、実質的に憲法を変更することである。この現状に対して、平和主義者の一部には、平和主義の理念を実現するためには自衛隊や日米安保条約といった平和主義の理念に反するものを持てないようにする必要があり、そのためには日本国憲法を解釈改憲ができないような、より厳しい内容に改正すべきだという意見がある。ところが、この意見に対して、護憲論者は邪道だと言って反対しているのである。つまり護憲論者には、日本国憲法が自分たちの言う平和主義の理念を守る手段として最適なものだと言えるのか否かを検討して見ようという考えが無いのである。なぜなら護憲論者にとっては、日本国憲法は史上最高の憲法であり、完全無欠なものだということになっているからである。しかし、そもそも人間が作ったものは、法律にしろ、制度にしろ、技術にしろ、工業製品にしろ、完全無欠なものなどあり得ない。たとえ一見して完全無欠なものに見えたとしても、どこかに誤りや欠陥があるかもしれないのである。また、それが最初に作られた時には問題が無くても、時代や状況が変われば問題が生じるかもしれないのである。だから人間が作ったあらゆるものは、常に見直しを続け、問題や欠陥が見つかり次第、直ちに作り直したり修正したりすることを繰り返さなければならないのである。もし、人間が作ったものであるにもかかわらず、誤りも欠陥も全く無く、作り直したり修正したりする必要が永久に無いと考えられているものがあるとすれば、それは全知全能の神が作った神聖不可侵なものだと考えられているのと同じである。つまり、護憲論者は、日本国憲法を神聖視しているのである。
 また、護憲論者が、平和主義の理念を守るために憲法改正に反対すると言うのなら、平和主義の理念を記した前文と九条以外の条項の改正には反対する理由が無いはずである。ところが護憲論者は、前文と九条以外の条項の改正にも反対しているのである。その理由として護憲論者が言っていることは、前文と九条以外の条項といえども、一度改正されてしまえば、それが憲法改正の前例となり、その前例に基づいて前文と九条も改正されてしまう可能性があるからだということである。つまり護憲論者が言っていることは、憲法改正の前例を作らせないことによって、日本国憲法は改正できないものだという考えを国民に植え付けて、日本国憲法を国民の自由な意志で改正できないものにしようということなのである。これは明らかに、国家や憲法といった制度は人間の自由な意志によって作られるものだという近代国家の理念を否定する考えである。
 要するに、護憲論者は、憲法がどのような内容に改正されるのかを問題にしているのではなく、改正するという行為そのものを問題にしているのである。憲法九条を軍隊が持てるような内容に改正するのも、より厳しく軍隊が持てないような内容に改正するのも、改正することには変わりが無いのである。だから、護憲論者は、いかなる内容の憲法改正であっても反対するのである。
 このように、護憲論者には、憲法は人間の自由な意志によって作られた制度であり、人間の自由な意志によって作り変えることができるという近代的な感覚が無いことは明らかである。そして、日本国憲法を神聖視し、憲法改正論議をタブー視し、憲法解釈を巡る論争のみを認めるということは、護憲論者は、日本国憲法を法律ではなく、聖書やコーランのような宗教の聖典と同じ感覚で扱っているとしか考えようがないのである。日本国憲法を宗教の聖典と同じ感覚で扱っている護憲論者は、たとえ憲法の条文を一字一句改正するだけでも、或いは改正を考えるだけでも、「平和憲法」や戦後体制の否定だと考え、憲法改正に反対しているのである。つまり、護憲論者にとっての日本国憲法は、明治体制下の大日本帝国憲法と同じく、神聖不可侵な聖典と化しているのである。つまり、戦後体制下の日本でも「憲法の聖典化」が起きているのである。
 日本の国会では、護憲論者は少数派であり、改憲論者が多数派である。従って、「憲法の聖典化」が護憲論者に限った現象なら、多数派である改憲論者の国会議員によって憲法改正が行われていたはずである。ところが、護憲論者は、国会議員の数では少数派であっても、発言力では改憲論者を圧倒しているのである。そのため、日本の国会議員たちは、護憲論者の言いなりになって憲法改正に二の足を踏んでいるのである。2016年(平成28年)7月10日に行われた参議院選挙の結果、改憲勢力とされる政党が、衆参両院で憲法改正の発議に必要な三分の二の議席数を超えることになったにもかかわらず、護憲勢力とされる政党の抵抗によって、憲法改正どころか憲法審査会で憲法改正論議を始めることさえできないのが現実である。たとえば、護憲勢力とされている立憲民主党は、国民投票におけるテレビCMなどの規制を強化することを主張し、国民投票法改正案の採択に応じようとしていないが、これは明らかに憲法審査会で憲法改正論議を始めることを阻止することが目的の行為である。こういった行為に対して、自由民主党を始めとした改憲勢力とされる政党は、全く対抗することができず、立憲民主党の言いなりになり、いつまでたっても改憲論議が始められないのが現実である。
 一体、なぜ、改憲論者が護憲論者の言いなりになるのか。その理由は、意識の上では自分のことを護憲論者だとは思っていない日本人も、無意識の中では「憲法の聖典化」が起きているからである。既に述べたように、人間は、意識の上で考えていることと無意識の中で考えていることが矛盾していることがある。そして、意識の上で考えていることと無意識の中で考えていることが矛盾している場合、人間は、無意識の方に従ってしまうのである。そのため、意識の上で考えていることと実際に行われていることが異なるようなことが起きる場合もあるのである。つまり、意識の上では自分のことを護憲論者だとは思っていない日本人も、無意識の中の「憲法の聖典化」によって、実質的な護憲論者になってしまっているのである。その結果、改憲論者を含めた大多数の日本国民も、そして国会議員たちも、無意識の内に憲法改正に対して抵抗してしまうのである。そのため、国会議員たちは、いつまでたっても様々な理由を述べては憲法審査会での改憲論議を始めようとしないのである。この「憲法の聖典化」と言う現象のために、戦前も戦後も日本人には憲法改正ができなかったのである。
 このように、戦後体制下の日本では、現人神が作った聖典という明治体制下の大日本帝国憲法のあり方が、そのまま日本国憲法に受け継がれてしまったのである。しかし、そうすると、太平洋戦争後も現人神たる天皇以外には憲法改正の権限が無いことになってしまう。ところが現実は、マッカーサーによって大日本帝国憲法は改正されてしまったのである。一体どうして現人神たる天皇にしかできないはずの憲法改正がマッカーサーに可能だったのか。
 このことを考えるためには、日本国憲法制定の過程を見てみる必要がある。
 マッカーサーの日本に対する占領政策の目的は、日本を二度とアメリカの軍事的な脅威にならない国にすることだった。マッカーサーは、この目的を達成するためには大日本帝国憲法を改正する必要があると考えた。そこでマッカーサーは、当時の幣原内閣に対して憲法改正を要求した。これに対して幣原内閣は、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法改正のための調査会である憲法問題調査委員会(松本委員会)を1945年(昭和20年)10月25日に発足させた。やがて、憲法問題調査委員会は憲法改正草案をとりまとめ、1946年(昭和21年)2月8日に「憲法改正要綱」としてGHQに提出した。しかし、この「憲法改正要綱」は、大日本帝国憲法の内容を根本的に変更するものではなかった。つまり、当時の日本の指導者には、大日本帝国憲法の下の天皇制国家とは異なる国家体制など全く考えられなかったのである。この「憲法改正要綱」のおおよその内容は、1946年(昭和21年)2月1日に毎日新聞が憲法問題調査委員会の試案を報じたことによって明らかになった。マッカーサーは、この憲法問題調査委員会の試案を否定し、GHQ独自の憲法改正草案を作ることを決定した。そこでマッカーサーは、「天皇制存続」「戦争放棄・戦力不保持」「封建的制度の廃止」という、いわゆる「マッカーサー三原則」を盛り込んだ憲法改正草案を作ることをGHQの民政局に命じた。GHQの民政局は、1946年(昭和21年)2月4日から極秘の内に憲法改正草案を作る作業を開始し、2月12日に完成させた。そして2月13日に、GHQ独自の憲法改正草案が日本政府の首脳に示された。このマッカーサーの命令によって作られたGHQ独自の憲法改正草案に対して、日本政府の首脳は全く抵抗することができなかった。GHQの憲法改正草案は、衆議院による審議の結果、多少の修正は為されたが、ほとんどGHQの民政局が作った草案通りの憲法ができあがってしまったのである。
 日本の指導者たちには、大日本帝国憲法の下の天皇制国家とは異なる国家体制など全く考えられなかった。従って、マッカーサーが日本国憲法を成立させるためには、日本の指導者たちに対して何らかの強制力を行使する必要があった。その強制力の一つが、超大国アメリカの政治力と武力を背景にしたマッカーサーの強大な権力であったことは言うまでも無い。しかし、日本国憲法が、強大な権力による強制によってのみ成立したのなら、そのような一方的な権力の行使に対して、日本の指導者や国民の反発が起きていたはずである。しかし、日本の指導者や国民が、日本国憲法の制定に対して反発するような行動を起こしたことなど一度も無かったのが現実である。つまり、マッカーサーに日本国憲法の制定ができたのは、マッカーサーの強力なカリスマの力によって日本の指導者たちを含めた多くの日本人の意識が変えられた結果でもあったのである。
 ただし、議会制民主主義の理念からすれば、日本国憲法制定の過程は、民主主義国家の根幹と言うべき主権在民を否定するものである。民主主義国家の理念からすれば主権者ということになっている国民のみならず、政府や議会さえも知らない所で、しかも国民の代表とは言えないGHQの民政局によって国家の基本法である憲法の草案が作られたのである。しかも、憲法改正草案が衆議院によって審査され、多少の修正が為されたと言っても、これにかかわっている国会議員たちは、マッカーサーの強大な権力を背景にしたGHQの監視下にあり、新憲法がマッカーサーとGHQの意向に反するものにならないように常に配慮していなければならなかったのである。つまり、日本国憲法の制定の過程には、日本の国会議員や国民の意志が反映される余地は、ほとんど無かったのである。
 ところが日本国民は、議会制民主主義の理念からすれば国民不在としか言いようがない日本国憲法制定の過程を知っても、自分たちの主権者としての立場が無視されていたことに怒りを表明したり、国民自身の手による新たな憲法の制定を政府に要求したりするといったことは全く行わなかったのである。つまり日本国民は、占領軍の司令官に過ぎないマッカーサーの主導によって、それも一般国民どころか日本政府の首脳さえ全く知らない内に憲法改正草案が作られたことを知っても、誰も日本国憲法の正当性に疑問を持たなかったのである。しかもマッカーサーによる憲法制定以降、長い間、日本国憲法の内容に異議を唱えたり、改正の必要を主張したりする勢力が、国政の場においても一般国民の間でも、大きな発言力を持つことは無かったのである。つまり日本国憲法の制定は、マッカーサーによって決定された結果、日本政府も日本国民も、マッカーサーの決定を、そのまま自分たちの意志として受け入れてしまったということである。それどころか戦後体制下の日本では、マッカーサーによって制定された日本国憲法を神聖不可侵な聖典として崇める護憲論者が大きな発言力を持つようになり、憲法改正は事実上不可能になってしまったのである。つまり、マッカーサーによって作られた日本国憲法は、戦後体制の下で「聖典化」したのである。これらの出来事は、明治体制下の大日本帝国憲法が、現人神たる明治天皇の名において制定されたことによって「聖典化」した結果、太平洋戦争に敗れるまでの間、一切の改正ができなくなってしまった状況と全く同じである。従って、マッカーサーが大日本帝国憲法を改正して聖典たる日本国憲法を制定できたのは、マッカーサーが明治天皇と同等の力を持っていたからだと考えざるを得ないのである。
 日本国憲法は、マッカーサーによって作られた聖典である。そして、日本において聖典を作る力を持った指導者は現人神である。明治天皇は、軍人勅諭、教育勅語、大日本帝国憲法と言う聖典を作ることができたゆえに現人神と言える。これと同じく、マッカーサーは、日本国憲法と言う聖典を作ることができたゆえに現人神と言えるのである。つまり、現人神と化したマッカーサーが戦後体制下の日本に「憲法の聖典化」を引き起こしたのである。これが憲法改正ができない理由である。



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