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中国の崩壊

        中国の崩壊

 

 中国では辛亥革命以来、君主制は否定されている。そして中国は、法の手続きによる最高指導者のカリスマの継承ができないため、大統領制が成立しているとも言えないのである。つまり、現在の中国には、最高指導者のカリスマを継承する体制が確立されていないのである。
 1993年以降、中国の形式的な最高指導者の地位は、国家の最高指導者である国家主席、中国共産党の最高指導者である総書記、そして中国軍を統括する中国共産党中央軍事委員会主席の三つの役職で成り立っている。そのため、1993年以降の中国では、国家主席、中国共産党総書記、中国共産党中央軍事委員会主席という三つの役職と法的権限を継承することが権力の継承ということになっている。この三つの役職は、江沢民から胡錦濤へ、更に習近平へと継承された。
 しかし、最高指導者の役職と法的権限を継承しても、それだけでは権力が継承されたとは言えないのである。国家の非常事態において国民を団結させることが可能な強力なカリスマが無ければ、国家の最高指導者は務まらないのである。従って、役職や法的権限と共に、国民を団結させることが可能な強力なカリスマも継承しなければ、本当の意味での権力の継承とは言えないのである。毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマを持っていなければ、国家の非常事態に遭遇しても、中国国民を一つに団結させて非常事態に対処するのは困難である。従って、中国の指導者が党則や法の手続きに従って中国共産党総書記や国家主席に就任しても、それだけで中国共産党や国家の最高指導者になったとは言えないのである。
 更に、中国軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、それだけで中国軍を掌握したとは言えないのである。法治国家ではない中国では、法律上の指導者になっても、それだけでは実質的な指導者になったとは言えないが、このことは、軍に関しても同様である。かつて毛沢東や鄧小平は、その強力なカリスマと指導力によって軍人たちを「子分」と為すことによって軍を掌握していた。従って、軍を統括する役職である中国共産党中央軍事委員会主席に就任しても、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマと指導力を持っていなければ中国軍を掌握できないのである。中国は、軍を制する者が国家を制する国である。従って、軍を掌握できなければ中国の真の最高指導者になったとは言えないのである。かつて鄧小平は、実質的な中国の最高指導者ではあったが、法律上の最高指導者である首相や国家主席に就任したことは一度も無かった。その鄧小平が実質的な中国の最高指導者であった理由の一つが、軍の実権を握る実質的な最高指導者として中国に君臨していたことである。つまり、軍の実権を握ることは、中国の最高指導者になるための必要条件なのである。従って、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマや指導力を持たない指導者に、軍の実権を握ることができるのか大いに疑問がある。
 中国では、2018年3月に第十三期全国人民代表大会第一回会議が開かれ、3月11日に憲法改正案が可決された結果、二期十年と定められていた国家主席の再選限度が撤廃されることになった。国家主席の任期を二期十年と定めた憲法の規定は、最高権力者が強大な権力を握って暴走することを防ぐための制度であり、毛沢東が強大な権力を背景に文化大革命を起こして政治を混乱させ多くの人命を犠牲にしたことの反省から作られたものとされている。ジャーナリズムは、国家主席の再選限度が撤廃されたことによって習近平国家主席の任期が二期十年を超えて長期化する可能性が生じたため、習近平国家主席が毛沢東に匹敵するような強大な権力を持つ可能性があるような報道をしている。しかし、この報道については疑問がある。なぜなら、毛沢東が強大な権力を持つに至った理由は、毛沢東が長く政権にとどまっていたということだけではないからである。毛沢東の強大な権力の背景には、中華人民共和国を建国した功績によって強大なカリスマを確立したということがある。つまり、中華人民共和国を建国したことが、毛沢東の強力なカリスマの源となった「神話」なのである。これに対して習近平は、強力なカリスマの源となる「神話」と言えるような政治的な功績を挙げたわけではない。従って、今の所、習近平国家主席が毛沢東に匹敵するような強大な権力を握る可能性は低いのである。
 法・秩序に自ら従う慣習が確立されていない中国の民衆は、いつ何をきっかけに、どのような政治や社会の混乱を起こすかわからない。そこで秦の始皇帝以来、中国では、最高指導者たる皇帝の強力なカリスマの力と武力で民衆を押さえつけ、力ずくで法・秩序に従わせることによって政治や社会の安定を維持して来たのである。しかし、このような統治の方法には、毛沢東や鄧小平のような強力なカリスマを持った実質的な皇帝と言えるような最高指導者の存在が必要不可欠である。ところが現在の中国には、実質的な皇帝と言えるような指導者が存在しないため、始皇帝流の統治は困難になってしまった。鄧小平亡き後の中国の指導者が共産党体制を守るためには、経済成長を維持することによって、中国国民の不満が爆発しないように手なずけるしかないのが現実である。従って、経済成長が行き詰まって経済が失速して大量の失業者が出るような事態になったら、共産党体制は破綻する可能性が高いのである。1989年の天安門事件の危機や、その後の経済の停滞は、実質的な皇帝と言える鄧小平の力によって、どうにか乗り切ることができたのである。現在の中国は、経済の順調な発展によって一時的に政治や社会が安定しているに過ぎないのである。もし今後、中国に実質的な皇帝と言えるような最高指導者が存在しない状況の下で政治や経済の危機が起き、国家や社会が混乱するような事態になったら、民衆を法・秩序に従わせることが困難になり、その結果、中国の共産党体制は、ソビエトと同様に崩壊する可能性が高いのである。


近代国家とは何なのか

 第三章 日本の民主主義は虚構だ!

 

 

           近代国家とは何なのか

 

 私は、日本は民主主義国家でも近代国家でもないと考えている。その理由は、憲法改正ができないからである。
 日本の憲法改正を巡る政治状況は、明らかに異常である。
 日本国憲法が施行されて以来、今日に至るまで、一度も憲法改正が行われたことが無かった。それは一体なぜなのか。
 また、日本には、護憲論者と呼ばれる人たちが存在する。護憲論者は、日本国憲法を一字一句変えただけで平和主義と民主主義が崩壊するなどと言って憲法改正に反対している。しかし、憲法を一字一句変えただけで崩壊するような民主主義があるわけがない。もし、そのような民主主義があるとすれば、明らかに近代国家の民主主義とは異質なものである。
 まず、近代国家とは何なのか。
 一般的に、近代国家が成立する条件とされているのは、法の支配の確立、政教分離、国民の自由や基本的人権の保障、個人主義の尊重などといったものである。このように近代国家が成立する条件とされているものはいくつもあるが、最も重要なのが十七世紀から十八世紀頃のヨーロッパに出現した社会契約説や啓蒙主義と呼ばれる思想である。
 社会契約説とは、おおよそ次のような思想である。国家、社会、法律、制度といったものは、本来、人間の自由な意志に基づく社会契約によって成立したものであるから、既存の国家、社会、法律、制度が人間の自由や権利を侵すような、人間にとって不利益なものなら、これを人間の自由な意志に基づく社会契約をやり直すことによって変更することができる。
 そして啓蒙主義とは、人間の理性を絶対的に信用し、人間の理性に基づき、伝統や習慣や迷信と言ったものにとらわれず、合理的に国家や人間社会などを見直そうという思想である。
 近代国家が成立する以前のヨーロッパの社会では、合理的な社会や国家の改革は不可能だった。その最大の理由が宗教の存在である。
 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教といった一神教は、次のような思想の上に成り立っている。この世に存在する全てのものは創造主たる神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、国家、社会、慣習、伝統といったものも神の意志によって作られた神聖不可侵な創造物である。ゆえに、人間が、これらを神の許可も無く勝手に変更しようと考えるのは神を冒涜する行為である。そして一神教では、神の意志は預言者を通じて語られることになっている。預言者とは、神の言葉を民衆に伝える役割を神から託された人間である。旧約聖書に登場するモーゼ、エレミヤ、イザヤ、あるいはイスラム教の創始者のムハンマドと言った人たちが預言者である。ただしイスラム教では、ムハンマドは最後の預言者ということになっているため、神がムハンマドを通じて語った言葉は神の最終的な意志であって、以後一切の変更は無いということになる。その、神の言葉を記した聖典がコーランである。従って、イスラム教徒は、永久にコーランに記された教えに従わなければならないのである。そのため、イスラム教徒がコーランの教えと矛盾すると見なされるような法律や制度を制定することは困難なのである。そのため、イスラム教徒が多数を占める国の多くは、近代的な改革が停滞しているのである。言い換えれば、イスラム教の神は、近代的な改革を拒否しているである。こういったことは、近代以前の中世ヨーロッパの社会も同様だった。
 中世ヨーロッパの社会には、ローマ・カトリック教会が君臨していた。中世ヨーロッパのローマ・カトリック教会にとっての神も、イスラム教の神と同様に近代的な改革を拒否する神である。そして、ローマ・カトリック教会の長であるローマ法王は、地上における神の代理人を称し、ヨーロッパの社会や政治に対して絶大な影響力を及ぼしていた。そのため中世のヨーロッパ諸国は、近代的な改革など不可能だったのである。
 ところが1517年にマルチン・ルターによって開始された宗教改革をきっかけに、ローマ・カトリック教会の影響力は低下し始める。ルターは、ローマ・カトリック教会の権威を否定し、聖書のみが信仰のよりどころであると主張した。このルターの主張を支持する人たちは、プロテスタントと呼ばれることになった。このプロテスタントの主張は、ローマ・カトリックを信仰する勢力との間に激しい宗教対立を引き起こし、フランスのユグノー戦争やドイツを主戦場にして戦われた三十年戦争などの宗教戦争を引き起こす結果となった。これらの紛争を収拾するため、結果としてヨーロッパ諸国はプロテスタントを容認せざるを得なくなり、ローマ・カトリック教会の権威と影響力は低下していった。
 これらの宗教改革を発端として起きた一連の出来事の結果として、宗教がかかわるのは人間の内面に限るという考えが確立され、プロテスタントやローマ・カトリックに浸透していった。これを信仰の内面化と言う。この信仰の内面化をきっかけに、信仰の自由、内面の自由、思想の自由、そして個人主義といった考えが確立され、ヨーロッパの社会は近代に向かっていったのである。
 そして、十七世紀から十八世紀にかけて、ロックやルソーなどの思想家が登場し、社会契約説や啓蒙主義が成立する。こうしてヨーロッパ人は、宗教や伝統的思考とは関係なく、人間の自由な意志で国家、社会、法律、制度、習慣といったものを改革できると考えられるようになったのである。これが近代国家と呼ばれる国家の理念である。やがて社会契約説や啓蒙主義は、アメリカの独立革命やフランス革命などの市民革命を推進する理論となる。
 更に、社会契約説や啓蒙主義から主権在民という理念が生まれた。主権とは国家を統治する権限のことである。そして国家を統治する権限を持つ者を主権者と言う。主権在民とは、国家を統治する権限が国民にあるため、国家体制や政府の政策は、主権者である国民の自由な意志によって決定されなければならないという理念である。そして、主権在民は、民主主義国家の基本理念ということになっている。
 ただし、社会契約説や啓蒙主義の成立によって国家や法律などが国民の自由な意志によって改革できると考えられるようになったと言っても、これはあくまで理念の上のことであって、必ずしも現実とは言えない。ヨーロッパの貴族制度のように、社会に定着した結果、いかなる手段によっても変更できなくなった制度もある。従って、近代国家が成立しても、国家、社会、法律、制度、習慣といったものの全てが人間の思い通りになるわけではない。
 また、主権在民も、あくまで理念の上のものである。国家を統治する権限が国民にあると言っても、実際に国家を統治しているのは政治家や国家官僚である。そして、国家を統治する都合によっては、増税のような、主権者ということになっている国民の反発を買うようなことを決定せざるを得ないこともある。更に、イラク戦争を始めた時のイギリスのように、主権者ということになっている国民の猛反発を無視して戦争を始めた例もある。
 更に、アメリカの独立革命やフランス革命のような市民革命によって民主主義体制が成立しても、それだけで民主主義国家が完成するわけではない。既に述べたように、アメリカやイギリスのように非常独裁制が成立しなければ、民主主義国家が完成したとは言えないのである。
 近代以前のヨーロッパでは、何が正しく何が間違いなのかといった判断は、宗教に委ねられていたが、それを政治や国家のあり方に関しては人間の自由な意志や理性に委ねるという理念が成立したのが近代の始まりである。
 もし、宗教が政治に介入するようになったら、中世ヨーロッパのように宗教が政治に大きな影響を与えるようになってしまう。そして、キリスト教やイスラム教のような一神教は、神の教えに反するという理由で、あらゆる変革を拒否したがる傾向がある。更に、一神教の考えでは、この世の全ては神の意志によって成り立っていることになっているが、この考えは、民主主義国家の基本理念である主権在民と矛盾する。そのため、中世ヨーロッパのように、一神教が政治に介入するようになったら、近代的な改革も民主化も困難になってしまう可能性が高いのである。従って、近代的な改革や民主化のためには、一神教の影響は政治から排除されなければならないのである。そこで、近代国家や民主主義国家を守るためには、政治と宗教が互いの領域に介入しないという原則が必要になる。これが政教分離である。
 政教分離の原則が存在せず、一神教が政治に介入する国家に何が起きるのか。その一例として、イランを見てみよう。
 イランでは1979年に、イスラム教シーア派のイスラム法学者であるホメイニ師の指導によってイスラム革命が起きた。イランは、この革命によって王政を廃止し、イスラム教シーア派のイスラム法学者が政治を主導する宗教国家となった。
 1997年5月、イランの大統領選挙に、政治の民主化や経済の改革・開放政策を主張するハタミ師が出馬した。当初ハタミ候補は劣勢と言われていたが、変革を望む都市住民などの圧倒的な支持を得て、保守派の候補を破ってイランの大統領に当選した。そして、2000年2月に行われた国会の総選挙で、ハタミ大統領の改革路線を支持する勢力が国会の議席の約70%を獲得して圧勝した。これを受けて、ホメイニ師のイスラム革命以来、イランと敵対関係にあったアメリカ政府は、イランが民主化することに期待する意志を表明した。しかし、イランの民主化は容易なことではない。なぜなら、イランはイスラム法学者が政治を主導する宗教国家であり、欧米諸国とは違い、政治と宗教が分離されていないからである。
 民主主義国家は、社会契約説に由来する主権在民という理念に基づいて成り立っていることになっている。民主主義国家の理念では、国民に主権があり、政治家は主権者である国民から選挙で選ばれることによって、主権を代行する権限を国民から与えられたことになっている。つまり、理念の上では、民主主義国家の指導者は、主権者である国民から選挙で選ばれることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化していることになっているのである。
 ところがイランのような宗教国家では、そうはいかないのである。宗教国家は、宗教の理論によって国家体制が成り立っている。イスラム教では、この世の全ては創造主たる神の意志に従って成り立っていることになっている。この理論からすると、国家や政治も神の意志に従わなければならないことになる。そうすると、国家や政治のあり方を最終的に決定するのも神ということになる。従って、理念の上では、イランのような宗教国家の主権者は神ということになるのである。主権在民ならぬ「主権在神」である。しかし現実には、神がこの世に現れて国家や国民を指導するということはあり得ない。そこで、主権者である神の意志を政治に反映させるためには、聖典であるコーランの解釈に基づいて作られたイスラム法に従って国家を統治しなければならないことになる。そして、イスラム法に従って国家を統治するということは、イスラム法の専門家であるイスラム法学者が国家を統治するということなのである。これがイスラム教の宗教国家であるイランの理念である。従って、イランにおける国家・国民の指導者はイスラム法学者なのである。つまり、イランのイスラム法学者たちは、イスラム法に基づいた政治をすることによって、国家・国民の指導者としての地位を正当化しているのである。そして、ホメイニ師の死後、イランの最高指導者となったのが、イスラム法学者のハメネイ師である。このように、イランには、民主主義国家の基本理念である主権在民が存在しないのである。
 ハタミ大統領は、2001年6月の大統領選挙で78%という高い得票率で再選された。しかし、ハタミ大統領は、その大統領選挙の最中、演説の中で「イスラム体制は堅持し、強化しなければならない。」と発言し、急進的な改革を否定せざるを得なかった。ハタミ大統領を始めとした改革派も、それを支持する国民も、イスラム法学者が政治を支配するイスラム体制までは否定できなかった。そのため、もし、ハメネイ師を始めとしたイスラム法学者たちによって民主化や改革・開放政策が拒否されたら断念するしかないのである。国民から選挙で選ばれた政治家が国家・国民の指導者というのは、主権在民という理念が確立された国のことであって、イランのような「主権在神」の宗教国家では、政治家がいくら選挙で国民の高い支持を得たとしても、決して国家・国民の指導者ではないのである。イラン国民がハタミ大統領の民主化や改革・開放政策を支持したのは、15%を超える高い失業率など、経済の停滞に対する国民の不満を反映したものである。ハタミ大統領も改革派の国会議員も、国民の不満の代弁者であっても、決して国家・国民の指導者ではないのである。主権在民という理念の無い宗教国家では、国民に支持されて選挙で選ばれたことなど、国家・国民を指導することを正当化する根拠とはなり得ないのである。
 イランには護憲評議会という機関がある。護憲評議会はイランの国会を監督する機関であり、国会が可決した法律を差し戻したり、大統領選挙や国会議員選挙の立候補者を事前に審査したりする権限を持っている。国会が可決した法律が護憲評議会によって差し戻されたら法律は成立しない。そして、護憲評議会が大統領選挙や国会議員選挙の立候補希望者を審査した結果、「イスラム体制にふさわしくない」と判断すれば、大統領選挙や国会議員選挙に立候補できないのである。しかも、この護憲評議会を構成するのは、改革に反対する保守派のイスラム法学者である。つまり護憲評議会とは、保守派のイスラム法学者たちが意のままにイランの政治を動かす、保守派の牙城なのである。2000年の国会議員選挙で改革派が国民の支持を得て圧勝した結果、イランの国会は改革派が主導することになった。ところが、護憲評議会の抵抗によって改革のための法律がなかなか成立せず、改革は停滞し、経済は低迷したままだった。これが、かつて熱狂的に改革を支持したイラン国民を失望させることになり、改革派は国民の支持を失ってしまった。その結果、2004年2月の国会議員選挙では、護憲評議会が多くの改革派の候補を審査によって排除したこともあって、改革派は惨敗して国会内の少数派に転じてしまった。更に2005年6月の大統領選挙では、保守強硬派と言われているアフマディネジャド氏が当選し、ハタミ大統領の改革路線の継承を訴えた候補は惨敗してしまった。これによってハタミ大統領の改革路線は、挫折することになってしまったのである。護憲評議会なるものが存在することが意味するのは、イランには主権在民という理念が無いということであり、国会は単なるお飾りに過ぎないということである。神の名において政治が行われる宗教国家のイランに、近代的な改革や民主主義国家の成立などあり得ないのである。


現人神が近代国家を否定する

     現人神が近代国家を否定する

 

 明治体制下の日本の天皇は、現人神と言われていたが、そもそも、現人神とは何なのか。
 一般的に、神と言われているものには二つの種類がある。
 一つは、多神教の神である。日本の神話に登場する八百万の神々、古代ギリシャの神話に登場する神々、そしてインドのヒンドゥー教の神々などである。
 そして、もう一つが一神教の神である。ユダヤ教徒がヤハウェと呼び、キリスト教徒がイエス・キリストと呼び、イスラム教徒がアッラーと呼んでいる神である。一神教の考えでは、この世に存在する全てのものは、創造主たる神の意志によって作られたことになっている。そのため、人間も、人間の社会も、更には社会の規範も、創造主たる神の意志によって作られたことになっている。
 社会の規範とは、たとえば、他人の物を盗んではいけない、人を殺してはいけないと言ったような、人間が社会生活をする上で最低限度守らなければならない原則であり、善悪の基準である。もし社会の規範が失われるようなことになったら、多くの人間は、何が正しく何が間違いなのか判断できない無規範状態に陥り、社会が混乱してしまう。そして一神教を信じる人間にとっての社会の規範は、宗教の聖典という形で存在している。それがキリスト教の聖書やイスラム教のコーランといった書物である。一神教を信じる人間は、創造主たる神によって記された聖典に従って生きなければならないことになっている。
 一神教の理論では、社会の規範を作る権限は、創造主たる神のみにあり、人間には作る権限が無い。モーゼの十戒で知られるモーゼにしろ、イスラム教の創始者のムハンマドにしろ、神が作った社会の規範を民衆に伝えるだけの預言者であって、彼ら自身が社会の規範を作ったわけではない。そして、社会の規範を記した聖典は、神のみが書き記すことができるものである。従って、聖典に書かれている内容が、人間にとっていかに不都合なものであっても、いかに不合理なものであっても、決して人間が神の許可もなく勝手に書き換えることはできないことになっている。つまり、聖典の内容の変更は事実上不可能なのである。人間の意志による聖典の内容の変更は、考えること自体が神を冒涜する行為である。要するに、一神教の神とは、この世に存在する全てのものを作った創造主であると同時に、社会の規範である聖典を作る権限を持った神のことである。ユダヤ教、キリスト教、そしてイスラム教も、このような理論の上に成り立っているのである。
 社会の規範は、人間が社会生活をする上で必要不可欠なものであるため、あらゆる国や民族に存在する。ただし、あらゆる国や民族の社会の規範が、宗教の聖典という形で存在しているわけではない。たとえば、日本人の日常生活における社会の規範は、伝統や慣習という形で存在しているため、宗教の聖典のような目に見える存在ではない。そのため、一神教を信じる人間から見ると、日本は、あたかも社会の規範が存在しない国のように見える場合もあり、誤解や偏見を招くこともある。日本にも、神道や仏教と言った宗教が存在するが、日本の神道や仏教には社会の規範という役割は無い。日本人が神道や仏教に求めている役割は、人間が不幸や苦境に陥った時の癒やしや救い、あるいは祭りや葬式のような行事である。日本には古くから、神道と仏教を一緒にして信仰する神仏習合という慣習が存在するが、このような慣習が存在する背景には、日本人が神道や仏教に対して社会の規範という役割を求めていないことがある。なぜなら、もし日本の神道や仏教が社会の規範であったら、一人の人間が同時に二つの異なった社会の規範に従わなければならなくなって混乱してしまうからである。日本の神道や仏教に社会の規範という役割が無いがゆえに、同じ人間が、神社で初詣をしたり仏教形式の葬式をしたりするようなことが可能なのである。
 日本は、古代より八百万の神々が存在する多神教の国である。更に、神仏習合という慣習が示すように、日本には一つの神や宗教だけを絶対的に信仰するような伝統は無い。従って、日本は一神教の国ではない。しかし、明治体制下の天皇には一神教の神との共通点もあったのである。それはキリストやアッラーと同様に、聖典を作る権限を持っていたということである。明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた聖典が、軍人勅諭(正式には「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」)と教育勅語(正式には「教育ニ関スル勅語」)である。
 1878年(明治11年)、軍と政府の実力者である山県有朋は、軍の統制を計る目的で、自らの名で軍人訓誡という文書を軍人の守るべき規範として発布したが、軍人たちは、なかなかこれを受け入れようとはしなかった。そこで1882年(明治15年)に、今度は軍人勅諭が、軍人の守るべき規範を記した聖典として明治天皇の名で発布された。軍人勅諭は、現人神たる天皇によって作られた聖典であるという点が、山県有朋という人間によって作られた文書に過ぎない軍人訓誡とは根本的に違うのである。軍人勅諭は、前文で「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ」と述べ、天皇が軍の最高司令官であること示し、本文では軍人の守るべき徳目として、忠節、礼儀、武勇、信義、質素を説いている。軍人勅諭の背景には現人神たる天皇の強大な権威があったため、日本の軍人たちは軍人の守るべき聖典として受け入れざるを得なかった。そのため帝国陸海軍の将兵は、軍人勅諭を覚えることが求められ、特に陸軍では全ての将兵が軍人勅諭の全文を暗誦できることが求められていた。こうして軍人勅諭は、日本の軍人の神聖な聖典となったのである。
 教育勅語は、国民にとっての一般的な道徳観を天皇の名において記した日本の教育における規範である。教育勅語は、1890年(明治23年)に明治天皇の名で発布された後、文部省令によって学校で式典が行われる時に朗読されることになった。その後、教育勅語は神聖視されるようになり、ほとんどの学校で奉安殿や奉安庫と呼ばれる施設で神聖な聖典として保管されていた。
 ただし、教育勅語が明治体制下の日本の学校教育にとって重要だったのは、教育勅語に記されている内容よりも、「勅語」という語句が示すように、教育勅語が現人神たる天皇の言葉であるという点にある。明治体制下の日本の教育現場における教師は、教育勅語に記された現人神たる天皇の言葉を、天皇に代わって生徒に教えるという立場にあった。つまり、明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人なのである。従って、明治体制下の日本の生徒にとって、教師の言葉は現人神たる天皇の言葉であり、教師に逆らうのは現人神たる天皇に逆らうのと同じことだった。明治体制下の日本の教師は、現人神たる天皇の代理人という特別な立場にあったからこそ、生徒から恐れ敬われ、教育者が務まったのである。こういうことを教師に権威があると言うのである。このように、明治体制下の教師の権威は、現人神たる天皇の権威の下に成り立っていたのである。ところが、この現人神たる天皇の権威と教育勅語によって教師に権威を与える仕組みは、太平洋戦争の敗戦と共に失われてしまった。そして戦後体制下の日本の学校教育は、教師に権威を与える仕組みが失われたままの状態で現在に至っているのである。つまり、戦後体制の成立によって、日本の教師は、明治体制下の教師のような権威を失った結果、普通のおじさんやおばさんになってしまったのである。これが戦後体制下の日本の教師が生徒から恐れ敬われることがなくなってしまった理由である。こういうことを教師の権威が失われたと言うのである。戦後体制下の日本の教育現場では学級崩壊などの様々な問題が起きているが、教師の権威が失われたことも問題の原因の一つである。
 このように、現人神とは、政治的な権限に加えて、聖典を作るという宗教的な権限も兼ね備えた指導者のことである。
 ただし、日本人の日常生活における社会の規範は、軍人勅諭や教育勅語が成立する以前から伝統や慣習といった形で存在していたため、軍人勅諭と教育勅語は、軍隊や教育現場のような限られた場所でのみ通用する聖典となった。
 明治体制下の日本では、軍人勅諭や教育勅語の内容を公然と批判したり、内容の変更を主張したりすることはできなかった。それは、現人神たる天皇の名において発布された軍人勅諭や教育勅語の内容を批判するのは、現人神たる天皇を冒涜する行為だったからである。このように、軍人勅諭と教育勅語は明治体制下の日本で、現人神たる天皇によって作られた聖典として神聖視されていたのである。つまり、明治体制下の日本には、天皇を神とする宗教によって軍隊や教育における規範が作られた天皇教国家という側面もあったのである。
 明治体制下の天皇は、国家の最高指導者としての政治的な権限に加えて、宗教的な権限も兼ね備えていたのである。しかし、このような、政治的な権限と宗教的な権限が一体化した国家体制を持つ国は、一種の宗教国家であり、近代国家ではない。
 日本は明治維新以降、欧米から近代的な法・制度や科学・技術を学び、導入して来た。その結果として富国強兵政策に成功し、日清戦争ではアジア最大の清帝国を打ち破り、日露戦争では、帝国主義の大国であるロシア帝国を打ち破った。また、零戦や戦艦大和といった兵器は、当時としては世界の一流品だった。こうして見ると日本は、あたかも近代化に成功したように見える。しかし、日本は決して近代国家になったわけではない。日本が近代化に成功したと言っても、それはあくまで法・制度や科学・技術といったものに限られ、日本人の思考や国家のあり方までが近代化されたわけではない。
 では、一体なぜ、近代国家ではない日本が近代的な改革に成功したのか。明治維新以降、日本では様々な近代的な改革が行われたが、それは欧米諸国のような社会契約説や啓蒙主義に基づく近代的な改革ではなかった。明治政府の改革は、現人神たる天皇の命令による近代的な改革であった。イスラム国家や中世のヨーロッパ諸国に近代的な改革が困難なのは、神がそれを許可しないからであるのに対して、明治維新以降の日本で近代的な改革が可能だったのは、現人神たる天皇が近代的な改革を許可したからである。天皇という神が許可する限り、どんな大胆な改革も神を冒涜することにはならない。それどころか日本人にとっては、現人神たる天皇が推進する近代的な改革に反対することこそ、神を冒涜する行為なのである。現人神たる天皇の力によって日本人の意識が変化したことが、明治維新という大改革を推進する原動力となったのである。


「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

「大正デモクラシー」は似非(えせ)デモクラシーだ

 

 かつて、明治体制下の日本には、「大正デモクラシー」と呼ばれた時代があった。
 1918年(大正7年)に長州藩閥出身の寺内正毅総理大臣の内閣が、米騒動の責任をとって辞任すると、後任の内閣総理大臣に就任したのが議会政治家であり政友会総裁である原敬だった。これをきっかけに政友会の高橋是清、憲政会の加藤高明や若槻礼次郎といった議会政治家による政党内閣が成立し、議会政治が行われた。そして加藤高明の護憲三派内閣は、男子の普通選挙制を成立させるといった成果を一応残した。また、この時期には労働運動や社会主義運動も盛んになり、1919年(大正8年)には労働組合の全国組織である大日本労働総同盟友愛会が成立し、翌年の1920年(大正9年)には日本初のメーデーが行われた。更に、吉野作造は民本主義を唱え、知識人や学生などに大きな影響を与えた。
 この「大正デモクラシー」の時代の日本の政治や社会の状況を見ると、あたかも当時の日本が欧米的な民主主義国家に近づいていたようにも見える。しかし、議会政治は、疑獄事件や経済政策の失敗などもあって、国民の全面的な支持を得られなかった。そして、五・一五事件で犬養毅総理大臣が暗殺されたのをきっかけに議会政治は終わってしまった。
 議会政党が政治の主導権を握ったという意味では、この時期の政治は議会政治と言えるかも知れないが、「デモクラシー」や民主主義などと呼べるような代物ではなかったのである。それを示すよい例が、田中義一総理大臣が辞任した経緯である。
 1927年(昭和2年)4月、若槻礼次郎総理大臣の退陣の後、衆議院第二党である政友会の田中義一総裁が内閣総理大臣に就任した。そして1928年(昭和3年)2月に衆議院の総選挙が行われた結果、田中義一総理大臣の与党の政友会は、衆議院第一党となった。
 1928年(昭和3年)6月、中国北方の満州を拠点とする軍閥の指導者である張作霖が、乗っていた列車ごと爆破されて死亡するという事件が起きた。やがて河本大作関東軍高級参謀らが、この事件の首謀者とされた。しかし、陸軍と与党の政友会の幹部が、事件の真相究明にも、事件の首謀者とされた河本大作らの処分にも反対したため、田中総理大臣は、河本大作に対する処分を停職という軽いものにとどめてしまった。この田中総理大臣の事件に対する処置に対して、昭和天皇は田中総理大臣を厳しく叱責し、辞任を迫った。その結果、田中総理大臣は辞任する羽目になってしまったのである。
 もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、明治体制下の日本は、イギリス型の立憲君主制国家だったことになる。そしてイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在である。更に「デモクラシー」が存在する国家の理念では、主権は国民にあり、議会は主権者である国民の代表である。田中義一が衆議院第一党の政友会の総裁であるということは、「デモクラシー」の理念からすれば、主権者である国民が選挙によって田中義一を国民の代表に選んだということであり、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持ということになる。ところが、田中総理大臣は、昭和天皇に叱責され辞任を迫られたことによって、昭和天皇の支持を失ったことが明らかになった結果、辞任せざるを得なくなったのである。もし、明治体制下の日本に「デモクラシー」が存在したとすれば、田中内閣を支えているのは議会と国民の支持なのだから、天皇にいくら辞任を迫られたところで辞任する必要など無いはずである。そもそも「デモクラシー」が存在するイギリス型の立憲君主制国家では、君主は形式上の存在なのだから、天皇は内閣総理大臣の決定に対して意見を言ったり辞任を迫ったりする立場には無いはずである。田中総理大臣が昭和天皇から辞任を迫られた結果、辞任せざるを得なくなったのは、明治体制下の日本の政党内閣を支えていたのは国民や議会の支持ではなく、天皇の支持だったことを意味するのである。従って、原敬や田中義一のような議会政治家出身の内閣総理大臣といえども、天皇に支持され内閣総理大臣に任命されることによって国家・国民の指導者としての立場を正当化していたのである。これは、明治体制下の政党内閣は、国民や議会の代表ではなく、天皇の政界における代理人だったことを意味するのである。つまり、国民に支持され選挙で選ばれた政友会や民政党といった議会政党の代表者といえども、内閣総理大臣や閣僚に就任した途端に、天皇の代理人になってしまうのである。これが「大正デモクラシー」なるものの実体だった。明治体制下の日本の議会政治は、「デモクラシー」の化けの皮をかぶった似非デモクラシーに過ぎなかったのである。
 明治体制下の「デモクラシー」の化けの皮が剥がれたのが、統帥権干犯問題である。
 1921年(大正10年)から1922年(大正11年)にかけて開かれたワシントン会議の中で海軍軍縮条約が調印された。これによって各国の主力艦を制限することになったが、補助艦については制限が無かったため、各国は争って補助艦の建造をするようになった。そこで補助艦の建造を制限するため、1930年(昭和5年)1月21日からロンドン軍縮会議が開かれた。日本の浜口内閣は、このロンドン軍縮会議に若槻礼次郎を全権代表とする代表団を送った。そして4月22日に調印された軍縮条約によって、日本は補助艦の量を対アメリカ比で69.75%に制限されることが決定した。浜口雄幸総理大臣は、国際協調と財政の逼迫を理由に、これを受け入れることを主張した。
 ところが海軍や野党勢力などが、これに猛反対した。海軍は、大型巡洋艦で最低でも対アメリカ比70%は無ければ国防上安心できないと主張した。そして、議会内の野党勢力では、1930年(昭和5年)4月25日に政友会の鳩山一郎が「政府が海軍軍令部の国防計画を無視して軍縮条約を結んだのは、天皇の統帥権を干犯するものである。」と発言し、浜口内閣を攻撃した。これをきっかけに統帥権干犯論争が起きる。そして6月には、統帥権干犯を批判して加藤寛治海軍軍令部長が辞意を表明する。そして浜口総理大臣は、11月14日、統帥権干犯反対を唱える右翼結社の青年によって狙撃されて重傷を負ってしまう。
 「デモクラシー」の理念は、国民の自由な意志による政治の運営である。従って、明治体制下の日本に「デモクラシー」を実現させようと言うのなら、天皇や官僚や軍人といった、国民の意志では動かし難い者の政治的権限は、なるべく制限し、国民の代表である議会政党による政党内閣が政治の実権を掌握しなければならない。特に、最高指導者として強大な権限を持つ天皇は、可能な限り無力化しなければならない。ところが、海軍や政友会の鳩山一郎などの議会政治家は、天皇の強大な権限の一つである統帥権を理由にして、政党内閣の権限を制限しようとしたのである。これが統帥権干犯問題なのである。これは明らかに「デモクラシー」に逆行する行為である。統帥権干犯問題なるものが明治体制下の日本で起きた根本的な原因は、日本の社会には主権在民という理念が定着していなかったことである。主権在民という理念が定着している国では、政党内閣は国民の代表である。従って、政党内閣をないがしろにするのは、国民の主権を踏みにじる行為であり、国民の反発を招くことになる。しかし、明治体制下の日本のように主権在民という理念が定着していない国では、いくら政党内閣が軍部などにないがしろにされても、国民は一向に平気なのである。なぜなら主権在民という理念が無い国では、選挙で国民から選ばれた議会政治家といえども、必ずしも国家・国民の代表とは言えないからである。明治体制下の日本人や議会政治家に主権在民という理念があったなら、国民の代表であるはずの政党内閣の権限が、軍の統帥権に及ばないなどという考えが出て来るはずが無いし、出て来ても誰も支持しないはずである。つまり、統帥権干犯問題が意味するのは、明治体制下の日本人の多数が、主権在民という理念を支持していなかったどころか、理解もしていなかったということである。


マッカーサーの失策

      マッカーサーの失策

 

 一般的には、太平洋戦争に敗れた軍国主義国家の日本が、マッカーサーによる改革の結果、民主主義国家として生まれ変わったのが戦後体制であると言われ、戦後民主主義とも呼ばれている。しかし、私は、戦後体制下の日本が民主主義国家であるということに対して大いに疑問を持っているのである。そもそも、マッカーサーが作った戦後体制とは一体何なのか。更に、日本人にとってのマッカーサーとは、いかなる存在なのか。そして、マッカーサーによって作られた日本国憲法が、なぜ改正できないのか。考えてみる必要がある。
 1945年(昭和20年)8月15日、玉音放送によって、日本がポツダム宣言を受諾して連合国に降伏する決断をしたことが明らかになった。そして8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は、コーンパイプをくわえて厚木基地に降り立った。9月2日に日本政府の代表者たちは、戦艦ミズーリの艦上で降伏文書に署名する。ここに太平洋戦争は、日本の降伏によって停戦が成立した。そして、マッカーサーとGHQ(連合国最高司令官総司令部)による日本の占領統治が始まった。
 1945年(昭和20年)10月11日、マッカーサーは、婦人の解放、労働組合の保証、学校教育の民主化、司法制度改革、経済機構の民主化といったことを名目とした、いわゆる五大改革指令を出し、日本の政治・社会の改革に着手した。そして財閥解体、旧帝国陸海軍の廃止、政治犯とされた人たちの釈放、戦争責任者の逮捕、神道指令などを次々に実行した。
 翌年の1946年(昭和21年)2月になると、戦争にかかわった者に対する公職追放が行われ、5月からは、A級戦犯容疑者とされた者に対する極東国際軍事裁判が始まった。更に11月3日には日本国憲法が公布される。1946年(昭和21年)2月から第一次農地改革、1947年(昭和22年)3月から1950年(昭和25年)7月にかけて第二次農地改革が行われ、日本のほとんどの小作人が自作農になった。このようにマッカーサーは、矢継ぎ早に改革を押し進めていった。
 しかし、不思議なのは、このようなマッカーサーによる急進的な改革に対して、ほとんど反対の声が起きなかったことである。公職追放による弾圧を受けている指導者層は別にして、一般国民やジャーナリズムから何の反対の声も起きなかったのは実に不思議である。なぜなら、このような急進的な改革に対しては、批判や不満の声が起きるのが普通だからである。明治維新の時は、明治政府の急進的な改革に対する不満から、佐賀の乱、神風連の乱、そして西南戦争といった反乱が起きた。戦後体制下でも、中曽根内閣による行政改革に対して「総論賛成・各論反対」の抵抗があり、小泉内閣の構造改革に対しても「抵抗勢力」による抵抗が起きた。ところがどういうわけか、マッカーサーの急進的な改革に対しては、不満の声も抵抗も起きなかったのである。
 更に不思議なことがある。マッカーサーは「民主的な」改革を押し進める一方で、1945年(昭和20年)9月19日には「日本に与える新聞紙規定」いわゆるプレス・コードを示し、占領軍に対する批判を制限し、更に9月22日にはラジオ・コードも出された。そして10月からは、あらゆる出版物に対する検閲を始めた。これは明確な言論統制であり、民主化に反するものである。マッカーサーの改革が日本を民主化するための改革だとしたら、明らかに矛盾している。ところが、これに対して日本のジャーナリズムは何の抵抗も反対もしていないのである。
 それどころか、多くの日本国民やジャーナリズムが、マッカーサーのことを日本に民主主義をもたらした解放者だの恩人だのと手放しで賛美したのである。そして国会は、1951年(昭和26年)4月16日に「マッカーサー元帥に対する感謝決議」を行った。そしてマッカーサーがトルーマン大統領に解任され帰国する時には、二十万人もの日本人が見送った。
 日本人がマッカーサーの改革や政策に反対しなかったのは、マッカーサーの改革や政策が理想的なものだったからだと言う人たちが居る。しかし、マッカーサーの改革や政策をよく検討してみると、農地改革のように、ある程度成功したものもあったが、その一方で、失策や中途半端な結果に終わっているものも多いのである。
 マッカーサーは、軍国主義の廃止・非軍事化の名の下に旧帝国陸海軍を廃止し、戦争放棄を定めた日本国憲法を制定した。ところが1948年(昭和23年)にソビエトによって始められたベルリン封鎖や、1949年(昭和24年)10月に中国に共産党政権が成立したことなどによる共産主義の脅威の増大を受けて、マッカーサーは1950年(昭和25年)1月1日の年頭の辞で、「日本国憲法は自衛権を否定していない。」と発言するに至る。これは、事実上、戦争放棄を定めた日本国憲法九条を撤回するものであり、日本国憲法に戦争放棄を定めた条項を記したことが誤りであったと認めるものである。やがて朝鮮戦争が勃発すると、韓国を守るため、日本に駐留しているアメリカ軍を朝鮮半島へ出動させざるを得なくなり、その結果、日本の防衛に生じる空白を埋めるため、マッカーサーは1950年(昭和25年)7月8日に日本政府に対して警察予備隊を創設する命令を出さざるを得なくなった。こうして、一度日本の軍隊を廃止したマッカーサーが、自らの命令で日本の再軍備をする羽目になったのである。
 マッカーサーは、政治犯を釈放すると言って1945年(昭和20年)10月に獄中の日本共産党員を釈放した。これによって共産党は合法的に活動できるようになった。釈放された共産党員は、マッカーサーを解放者と称えた。しかし、日本国内の労働運動における共産党の活動が活発になると、労働運動が激化してしまった。更に、1948年(昭和23年)に始まったベルリン封鎖により米ソの冷戦が激しさを増し、1949年(昭和24年)に中国で共産主義政権が成立すると、共産主義勢力の拡大に対する脅威が増大した。するとマッカーサーは、一転して共産党と、その支持者に対する弾圧を開始したのである。1950年(昭和25年)6月6日には、日本共産党中央委員会全員と機関紙「アカハタ」の幹部の追放、そして共産党による集会やデモを禁止する指令が出された。更に、6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、新聞などのジャーナリズムや民間企業の労働者の共産党支持者に対する追放を始めた。そして、9月1日からは、行政機関や公共事業の労働者に対しても同様のことを始めた。これに対して、共産党も労働組合も、何の抵抗もできなかった。
 労働組合運動を育てる目的で、1945年(昭和20年)12月にマッカーサーの指示で労働組合法が制定され、1946年(昭和21年)3月から施行された。マッカーサーは、日本に民主主義を定着させるためには、労働運動を確立することが必要だと考え、労働組合運動の拡大を容認していた。その結果、様々な職場で労働組合が結成された。ところが、労働組合運動は、マッカーサーの予想を超えて過激化していった。多くの職場で賃上げを要求してストライキが頻発し、経済と国民生活に打撃を与えるようになってしまった。しかも、労働組合には、日本共産党の影響を強く受けているものが多かった。1946年(昭和21年)11月、官公庁の労働組合が、全官公庁労働組合共同闘争委員会(全官公庁共闘)を結成した。こうした労働組合運動の指導者を吉田茂総理大臣は、「不逞の輩」と言って批判した。この発言に反発した全官公庁共闘は、1947年(昭和22年)2月1日からのゼネストの決行を目指して行動を始めた。そして1月29日、全官公庁共闘は共産党の指導によって、「吉田内閣打倒・民主人民政府樹立」の声明を出した。全官公庁共闘も共産党も、マッカーサーを解放者と考え、ゼネストを支持してくれると考えていたのである。しかし、1月31日にマッカーサーが発表した声明で「現在のように貧しく衰弱した状況下の日本で、危険な社会的武器の使用は許されない。従って、ゼネストの決行を思いとどまるよう私は労働組合の指導者に伝えた。」「私がこのような措置をとったのは、既に著しい脅威を受けている公共の福祉に対して致命的衝撃を与えることを未然に防止するためにほかならない。」と述べ、マッカーサーがゼネストに対して中止命令を出さざるを得なくなったことを明らかにした。その結果、全官公庁共闘も共産党も、ゼネストを中止せざるを得なくなり、全官公庁共闘は解散した。共産党や労働組合にとって、マッカーサーは決して解放者などではなかったのである。
 マッカーサーとGHQは、三井・三菱を始めとした財閥による独占的な経済支配が日本の軍国主義を招いたと考え、財閥解体を行った。財閥解体によって、財閥の創業者の一族と、その持ち株会社による財閥系企業の支配は解体され、財閥系企業は独立させられた。そして、1947年(昭和22年)4月に財閥の復活を阻止するため、独占禁止法を成立させた。更に、マッカーサーとGHQは、財閥系以外の大企業も解体しようとして、1947年(昭和22年)12月に過度経済力集中排除法を成立させた。ところが1948年(昭和23年)になって米ソの冷戦が激化し始めたため、アメリカ政府がマッカーサーとGHQに対して、日本を「反共の防壁」とするために、占領政策を、日本の産業を復興させる方向に変えるように迫った結果、過度経済力集中排除法に基づいて解体する大企業の数を大幅に減らさざるを得なくなった。また、もともと財閥解体には、アメリカ本国の財界や政界から反対の声があった。更に、独占禁止法も1949年(昭和24年)以降、企業による独占に対する規制を緩める方向に徐々に改正されていった。これらの理由によって、財閥や大企業の解体は中途半端なものになってしまった。その結果、やがて高度経済成長期になると、財閥は企業系列という形で復活するのである。
 このように、マッカーサーの改革や政策は、失策や一貫性を欠いたものが多く、とても理想的と言えるようなものではなかったのである。



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